7C 8C 9C 10C 11C 12C 13C 14C 15C 雑載
天平3年(731) | 1 越前国、史生阿刀造佐美麻呂に付して正税帳を上る。(正倉院文書) | 天平3年2月26日 | 1 |
天平5年(733) | 2 越前国、史生阿刀造佐美麻呂に付して郡稲帳を上る。(正倉院文書) | 天平5年閏3月6日 | 3 |
天平12年(740) | 3 越前国江沼郡山背郷の計帳を注す。(正倉院文書) | 天平12年是歳 | 6 |
天平勝宝7年(755) | 4 越前国、その雑物収納帳を注す。(正倉院文書) | 天平勝宝7年9月26日 | 9 |
天平神護2年(766) | 5 大和東大寺領越前江沼郡幡生荘司、江川溝並びに荒廃田に関し解状を上る。(正倉院文書) | 天平神護2年10月7日 | 9 |
延暦11年(792) | 6 太政官符を下して、辺要の地以外の兵士を停廃し、能登国等に健児を置く。(類聚三代格) | 延暦11年6月14日 | 10 |
弘仁14年(823) | 7 太政官、越前江沼・加賀二郡を割きて加賀国を置かんことを論奏す。(類聚三代格) | 弘仁14年2月3日 | 10 |
弘仁14年(823) | 8 太政官符を下して、加賀国が正税を以て破損の官舎を修理せんとの請を允す。(類聚三代格) | 弘仁14年5月3日 | 11 |
天長2年(825) | 9 太政官符を下して、中国たる加賀を改めて上国に列せしむ。(類聚三代格) | 天長2年41649 | 11 |
貞観7年(865) | 10 太政官、中国たる能登に介を新置せんことと奏請す。(類聚三代格) | 貞観7年3月9日 | 12 |
貞観8年(865) | 11 太政官符を下して、能登等の中国に新置せる介の公廨・公廨田・事力の分法を定めしむ。(類聚三代格) | 貞観8年3月7日 | 12 |
寛平6年(894) | 12 太政官符を下して、加賀・能登等の諸国をして諸院宮使等が往還の船車人馬を強雇するを禁ぜしむ。(類聚三代格) | 寛平6年7月16日 | 13 |
寛平6年(894) | 13 太政官符を下して、能登国の史生一員を停めて弩師を置かしむ。(類聚三代格) | 寛平6年8月21日 | 14 |
寛平9年(897) | 14 太政官符を下して、諸国采女貢進の数を定め、能登国を一人と為す。(類聚三代格) | 寛平9年41664 | 14 |
延喜2年(902) | 15 太政官符を下して、加賀国等に田租の頴を徴するを禁止せしむ。(類聚三代格) | 延喜2年3月13日 | 14 |
延喜3年(903) | 16 太政官符を下して、加賀国及び能登国に読師を置かしむ。(類聚三代格) | 延喜3年6月20日 | 15 |
延喜10年(910) | 17 加賀国の新司、在庁の官人雑任に庁宣を下す。(朝野群載) | 延喜10年是歳 | 16 |
長徳4年(998) | 18 大和東大寺、加賀国等に於ける諸荘田地等の注文を作る。(東大寺要録) | 長徳4年是歳 | 16 |
天喜3年(1055) | 19 右衛門権少尉源文頼、着ダ囚加賀国人高橋金犬丸役満つるを以て放免すべきことを勘申す。(朝野群載) | 天喜3年12月25日 | 17 |
康平3年(1060) | 20 内大臣藤原頼宗、加賀国等の封戸を割きて女御藤原延子に譲与するを允されんことを請ふ。(本朝続文粋) | 康平3年4月20日 | 17 |
康平7年(1064) | 21 仮掲(石瀬比古神社棟札) | 康平7年6月 | 18 |
応徳2年(1085) | 22 入道性信親王、能登国等に於ける封戸を喜多院に寄進するを允されんことを請ふ。(朝野群載) | 応徳2年9月15日 | 18 |
寛治3年(1089) | 23 加賀守藤原家道、その留守所をして山代醍醐寺領加賀郡大野郷得蔵保に徴課を免除せしむ。(醍醐雑事記) | 寛治3年10月 | 19 |
寛治3年(1089) | 24 加賀守藤原家道、その留守所をして山代醍醐寺領加賀郡大野郷得蔵保に徴課を免除せしむ。(醍醐雑事記) | 寛治3年10月 | 19 |
康和3年(1101) | 25 山城東寺、能登国にその封戸の去々年の祖穀を検納したるを以て返抄を与ふ。(東寺文書) | 康和3年9月10日 | 20 |
| 26 山城東寺、能登国にその封戸の去々年の調庸を検納したるを以て返抄を与ふ。(東寺文書) | 康和3年9月10日 | 20 |
| 27 能登国前雑掌調成安、山城東寺に去年の御封代所済勘文を注進す。(根岸文書) | 康和3年9月10日 | 21 |
長治2年(1107) | 28 加賀国雑掌江沼成安、四度の公文帳を太政官に進上す。(朝野群載) | 長治2年3月 | 21 |
嘉承2年(1109) | 29 山城東寺、宣旨に依り能登国等に於ける封戸の所当未済を注進す。(東寺文書) | 嘉承2年4月 | 22 |
天仁2年(1110) | 30 加賀国雑掌江沼成安、四度の公文帳を太政官に進上す。(朝野群載) | 天仁2年8月 | 22 |
| 31 能登守藤原基頼、羽咋郡菅原保を山城北野社に寄進す。(菅原天神社文書) | 天仁2年、天永元年10月 | 23 |
天永4年、永久元年(1113) | 32 鳥羽天皇、能登守高階時章の当任返抄を用ひて公文を勘済せんと請ひたるに依り之を聴し給ふ。(朝野群載) | 天永4年、永久元年1月26日 | 24 |
| 33 民部省仕丁所、能登国にその年料として進めたる仕丁に関し返抄を与ふ。(朝野群載) | 天永4年、永久元年1月 | 24 |
| 34 左衛士少志紀某、能登国の年料として進めたる衛士の請文を主計寮に出す。(朝野群載) | 天永4年、永久元年5月 | 25 |
大治5年(1131) | 35 大和東大寺、能美郡幡生荘等寺領の目録を注す。(東大寺文書) | 大治5年3月13日 | 25 |
大治6年、天承元年(1141) | 36 加賀守高階宗章、その留守所をして山城醍醐寺領加賀郡得蔵荘に大神宮役夫工作料を免除せしむ。(醍醐雑事記) | 大治6年、天承元年6月12日 | 26 |
保延7年、永治元年(1141) | 37 加賀守藤原雅教、その留守所をして山城醍醐寺領加賀郡得蔵荘に白山宮修造の課役を免除せしむ。(醍醐雑事記) | 保延7年、永治元年8月4日 | 26 |
| 38 加賀守藤原雅教、その留守所をして山城醍醐寺領加賀郡得蔵荘に白山宮修造の課役を免除せしむ。(醍醐雑事記) | 保延7年、永治元年8月4日 | 27 |
久安6年(1150) | 39 能登守藤原基家、女御藤原多子の御封庸米を進上す。(婚記) | 久安6年1月19日 | 27 |
| 40 能登守藤原基家、女御藤原多子の御封庸米を進上す。(婚記) | 久安6年1月19日 | 27 |
| 41 女御藤原多子の侍所、能登国衙にチョウして垂布十五段を進上せしむ。(婚記) | 久安6年1月19日 | 27 |
保元2年(1157) | 42 太政官符を後院司に下して、故藤原頼長の所領能登郡一青荘等を院領と為さしむ。(兵範記) | 保元2年3月25日 | 28 |
保元3年(1158) | 43 官宣旨を山城石清水八幡宮に下して、その荘園能登郡恵曽飯川保・一青荘等に於ける預所以下の押領を停止せしむ。(石清水文書) | 保元3年12月3日 | 28 |
嘉応3年、承安元年(1171) | 44 仲原頼貞、介次郎に能美郡重友村の所領を譲渡す。(菊大路文書) | 嘉応3年、承安元年2月 | 30 |
承安5年、安元元年(1175) | 45 能登国衙、珠洲郡高座宮別当高勝寺の妙成就院仏聖料として方上保の荒田壱町を寄進す。(須須神社文書) | 承安5年、安元元年2月28日 | 30 |
| 46 蔵人所、加賀国衙にチョウして精好絹五疋を進上せしむ。(山槐記) | 承安5年、安元元年8月16日 | 30 |
安元3年、治承元年(1177) | 47 後白河法皇、天台座主明雲に、加賀守近藤師高の目代近藤師経が白山宮末寺に放火したるに因り師高を流罪に処すべきを告げしめ給ふ。(玉葉) | 安元3年、治承元年4月16日 | 31 |
寿永2年(1183) | 48 仮掲(多太神社文書) | 寿永2年5月21日 | 32 |
寿永3年、元暦元年(1184) | 49 源頼朝、平頼盛の没官領江沼郡熊坂荘その他を本所の沙汰に任せて旧に依り知行せしむ。(吾妻鏡) | 寿永3年、元暦元年4月6日 | 33 |
| 50 源頼朝、後白河法皇の院宣を奉じて、山城賀茂別雷社加賀郡金津荘・羽咋郡土田庄桃浦等に武士の狼藉するを停止せしむ。(賀茂別当神社文書) | 寿永3年、元暦元年6月23日 | 33 |
文治2年(1186) | 51 仮掲(長家文書) | 文治2年6月23日 | 34 |
| 52 珠洲郡高座宮別当高勝寺の結衆等、その経講田を保司某の違乱するに依り国司に訴ふ。(須須神社文書) | 文治2年8月 | 34 |
| 53 源頼朝、板津成景等の江沼郡加納八田・額田両郷を乱妨するを停め、領家源通親をして進止せしむ。(中院文書) | 文治2年9月5日 | 35 |
文治6年、建久元年(1190) | 54 鎌倉問注所の奉行人平盛時、加賀郡井上荘地頭都幡隆家の押妨を停む。(吾妻鏡) | 文治6年、建久元年5月12日 | 35 |
建久6年(1195) | 55 後鳥羽上皇、刑部卿内侍を江沼郡額田荘の預所職と為さしめ給ふ。(平松文書) | 建久6年5月27日 | 36 |
建久7年(1196) | 56 仮掲(手向神社文書) | 建久7年10月19日 | 37 |
建久8年(1197) | 57 領家日野資実、珠洲郡法住寺を祈祷寺とし、その殺生伐木を停止せしむ。(法住寺文書) | 建久8年3月 | 37 |
| 58 地頭兵衛尉、鳳至郡西光寺に於いて殺生伐木を禁断す。(西光寺文書) | 建久8年6月9日 | 38 |
建久10年、正治元年(1199) | 59 後鳥羽上皇、源通方に江沼郡額田荘を安堵せしめ給ふ。(平松文書) | 建久10年、正治元年12月 | 38 |
正治3年、建仁元年(1201) | 60 介次郎、その次男江沼三郎に能美郡能美荘重友保を譲渡す。(菊大路文書) | 正治3年、建仁元年7月20日 | 39 |
| 61 地頭長谷部某、鳳至郡西光寺を再建するを以て南志見村の沙汰人以下に煩を為さざらしむ。(西光寺文書) | 正治3年、建仁元年8月 | 39 |
元久2年(1205) | 62 幕府、江沼郡額田荘の地頭職を停む。(中院文書) | 元久2年5月28日 | 40 |
| 63 幕府、加賀郡井家荘地頭代官の自由の狼藉を停止せしむ。(勧修寺家文書) | 元久2年6月5日 | 40 |
建永2年、承元元年(1207) | 64 仮掲(イチ原北代比古神社棟札) | 建永2年、承元元年3月 | 40 |
承元2年(1208) | 65 権大僧都承信、大納言僧都に羽咋郡土田庄等の私領を譲渡す。(曼殊院文書) | 承元2年11月 | 41 |
| 66 羽咋郡大福寺の薬師如来座像成る。(大福寺薬師如来造像銘) | 承元3年2月 | 42 |
建暦2年(1212) | 67 越前気比大神宮政所、石川郡椋部保等の神領総目録を注進す。(気比神社文書) | 建暦2年9月 | 42 |
| 68 地頭某、僧慶心を鳳至郡西光寺院主職を補任す。(西光寺文書) | 建保2年8月 | 42 |
健保4年(1216) | 69 石川郡白山宮荘厳講衆等、四度の大業勤仕の衆に准ぜられんことを貫首に請ふ。(白山宮荘厳講中記録) | 健保4年11月25日 | 43 |
承久3年(1221) | 70 能登国衙、幕府に国中四郡荘郷保公田数目録を注進す。(森田文書) | 承久3年9月6日 | 44 |
承久4年、貞応元年(1222) | 71 藤原知基、子息一王に珠洲郡若山荘等の所領を譲渡す。(茂木文書) | 承久4年、貞応元年2月21日 | 47 |
貞応2年(1223) | 72 太政官、加賀等六ヶ国に於ける去年の不堪佃田坪付を奏す。(禰家抄) | 貞応2年10月28日 | 48 |
貞応3年、元仁元年(1224) | 73 鹿島郡熊来荘官等、宣旨に依りて立券状を上る。(久麻加夫都阿良加志比古神社文書) | 貞応3年、元仁元年10月1日 | 48 |
嘉禄2年(1226) | 74 長野景高、嫡孫盛景に能美郡長野保及び能美荘重友村相伝の証文を譲渡す。(菊大路文書) | 嘉禄2年2月18日 | 50 |
安貞2年(1228) | 75 地頭長谷部某、鳳至郡西光寺に南南志見村院内の田地を寄進す。(西光寺文書) | 安貞2年2月19日 | 51 |
| 76 幕府、江沼景能の長野盛景領能美郡能美荘重友村を違乱するを停め、盛景をして之を安堵せしむ。(菊大路文書) | 安貞2年8月17日 | 51 |
寛喜4年、貞永元年(1232) | 77 山城北野宮寺政所、僧有禅に羽咋郡菅原荘の本常燈を相伝せしむ。(北野神社古文書) | 寛喜4年、貞永元年4月25日 | 51 |
暦仁2年、延応元年(1239) | 78 地頭某、鳳至郡西光寺に諸事を奉免す。(西光寺文書) | 暦仁2年、延応元年12月 | 53 |
建長4年(1252) | 79 領家日野資宣、珠洲郡若山荘に旧に依り法住寺馬上免九段二を免除せしむ。(法住寺文書) | 建長4年2月4日 | 54 |
建長7年(1255) | 80 幕府、得田章家を羽咋郡得田保地頭職に補す。(得田文書) | 建長7年8月22日 | 54 |
建長8年、康元元年(1256) | 81 藤原知宣、その子知盛に珠洲郡若山荘等の所領を譲渡す。(茂木文書) | 建長8年、康元元年3月15日 | 54 |
| 82 珠洲郡若山荘領家日野資宣、田所宗光上洛の費用をその荘内に沙汰せしむ。(法住寺文書) | 建長8年、康元元年10月10日 | 55 |
正嘉2年(1258) | 83 石川郡白山宮住明徳丸、同郡笠間東保大般若田壱町の奉免を請ふ。(南禅寺文書) | 正嘉2年3月 | 55 |
| 84 幕府、藤原知盛をして珠洲郡若山荘等の地頭職を安堵せしむ。(茂木文書) | 正嘉2年12月2日 | 56 |
文応2年、弘長元年(1261) | 85 石川郡白山宮住明徳丸、同郡笠間東保大般若田壱町の奉免を請ふ。(南禅寺文書) | 文応2年、弘長元年5月22日 | 56 |
| 86 鳳至郡諸橋六郷田数目録を作る。(諸橋稲荷神社文書) | 文応2年、弘長元年6月13日 | 56 |
| 87 仮掲(諸橋稲荷神社文書) | 文応2年、弘長元年7月 | 59 |
弘長2年(1262) | 88 天台座主尊助法親王、石川郡白山宮別当宗鎮をして、中宮別院長寛寺領主尊賀の訴に依り尊光の狼藉を停めしむ。(称名寺文書) | 弘長2年9月4日 | 60 |
| 89 天台座主尊助法親王、石川郡白山宮別当宗鎮をして、中宮別院長寛寺領主尊賀の訴に依り尊光の狼藉を停めしむ。(称名寺文書) | 弘長2年9月4日 | 61 |
| 90 天台座主尊助法親王、石川郡白山宮別当宗鎮をして、中宮別院長寛寺領主尊賀の訴に依り尊光の狼藉を停めしむ。(称名寺文書) | 弘長2年9月4日 | 61 |
| 91 石川郡白山中宮別院長寛寺領主尊賀、同寺別院を菊法師丸に譲与す。(称名寺文書) | 弘長2年11月25日 | 62 |
文永3年(1266) | 92 石川郡白山宮住明徳丸、同郡笠間東保大般若田壱町の奉免を請ふ。(南禅寺文書) | 文永3年4月 | 62 |
文永4年(1267) | 93 領家日野資宣、珠洲郡法住寺薬師堂に灯油馬上免二段を貴信す。(法住寺文書) | 文永4年5月21日 | 62 |
| 94 石川郡白山宮惣長吏寛澄、同宮荘厳講結衆参会に関する条々を定む。(白山比咩神社文書) | 文永4年5月 | 63 |
| 95 天台座主尊助法親王、山城北野社領羽咋郡菅原荘新常灯を先例によりて同社執行に奉行せしむ。(北野神社古文書) | 文永4年7月26日 | 63 |
| 96 天台座主尊助法親王、重ねて山城北野社領羽咋郡菅原荘新常灯を先例に依り同社執行に成敗せしむ。(北野神社古文書) | 文永4年11月12日 | 63 |
| 97 天台座主尊助法親王、重ねて山城北野社領羽咋郡菅原荘新常灯を先例に依り同社執行に成敗せしむ。(北野神社古文書) | 文永4年11月12日 | 64 |
文永5年(1268) | 98 石川郡白山宮荘厳講の結衆等、一味同心を誓ふ。(白山比咩神社文書) | 文永5年7月 | 64 |
文永6年(1269) | 99 山城石清水八幡宮政所、暹覚の後家平氏女を同宮領能美郡能美荘の惣公文職に補す。(菊大路文書) | 文永6年3月 | 65 |
| 100 酒井章長、その嫡孫利忠に鹿島郡酒井保地頭職を譲渡す。(永光寺文書) | 文永6年9月10日 | 65 |
文永7年(1270) | 101 平氏女、山城石清水八幡別宮領能美郡能美荘惣公文職を弥里に沽却す。(菊大路文書) | 文永7年5月20日 | 66 |
| 102 平氏女、山城石清水八幡別宮領能美郡能美荘惣公文職を弥里に沽却す。(菊大路文書) | 文永7年5月20日 | 66 |
| 103 平氏女、山城石清水八幡別宮領能美郡能美荘惣公文職を弥里に沽却す。(菊大路文書) | 文永7年5月20日 | 66 |
| 104 石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) | 文永7年7月23日 | 67 |
| 105 石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) | 文永7年7月23日 | 67 |
| 106 石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) | 文永7年7月23日 | 67 |
| 107 石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) | 文永7年7月23日 | 68 |
| 108 石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) | 文永7年7月23日 | 68 |
文永10年(1272) | 109 幕府、近江日吉社領羽咋郡堀松荘預所定盛と地頭浄信との争論を裁決す。(又続宝簡集) | 文永10年11月14日 | 69 |
文永11年(1273) | 110 領家日野資宣、珠洲郡若山荘に命じて、旧に依り樫原神宮寺馬上免三段等を僧守清に領掌せしむ。(法住寺文書) | 文永11年11月21日 | 69 |
建治元年(1275) | 111 羽咋郡大福寺六所明神の御正体成る。(大福寺六所明神御正体裏書) | 建治元年9月9日 | 69 |
建治3年(1277) | 112 天台座主道玄、山城北野社領羽咋郡菅原荘新常灯を承賀法眼の遺弟等に奉行せしむ。(北野神社古文書) | 建治3年2月17日 | 70 |
建治4年、弘安元年(1278) | 113 山城石清水八幡宮別当政所、橘成清を同宮領能美郡能美荘の惣公文職に補す。(菊大路文書) | 建治4年、弘安元年8月 | 70 |
| 114 仮掲(来迎寺文書) | 建治4年、弘安元年10月27日 | 70 |
弘安2年(1279) | 115 長野盛景、その子盛能に能美郡能美荘重友保の地頭職を譲渡す。(菊大路文書) | 弘安2年9月24日 | 71 |
弘安3年(1280) | 116 幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) | 弘安3年9月5日 | 71 |
| 117 幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) | 弘安3年9月5日 | 72 |
| 118 幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) | 弘安3年9月5日 | 72 |
| 119 幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) | 弘安3年9月5日 | 72 |
| 120 幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) | 弘安3年9月5日 | 72 |
| 121 幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) | 弘安3年9月5日 | 72 |
弘安6年(1283) | 122 鳳至郡櫛比荘二ヶ村に在る諸寺の仏供田を注進す。(総持寺文書) | 弘安6年5月12日 | 73 |
| 123 鹿島郡久麻加夫都阿良加志比古社の神殿を修営す。(久麻加夫都阿良加志比古神社蔵棟札) | 弘安6年5月27日 | 73 |
弘安7年(1284) | 124 地頭政所代、珠洲郡法住寺白山宮に所々の堀田を寄進す。(法住寺文書) | 弘安7年11月 | 74 |
弘安10年(1287) | 125 山城東福寺領江沼郡熊坂荘一方雑掌と江尻泰俊との争論を裁決す。(東福寺文書) | 弘安10年10月11日 | 74 |
正応6年、永仁元年(1293) | 126 得田章家、その孫章仲に羽咋郡得田荘地頭職を譲る。(得田文書) | 正応6年、永仁元年6月28日 | 76 |
永仁3年(1295) | 127 預所平某、鳳至郡諸岡寺に護摩供料田を寄進す。(総持寺文書) | 永仁3年11月3日 | 76 |
永仁4年(1296) | 128 仮掲(重蔵神社蔵棟札) | 永仁4年10月4日 | 77 |
| 129 預所桜井某、鳳至郡宝幢院にその護摩堂料所として櫛比庄二ヶ村の内を寄進す。(総持寺文書) | 永仁4年11月21日 | 78 |
永仁5年(1297) | 130 幕府、橘成政に能美郡八幡宮神主職等を安堵せしむ。(菊大路文書) | 永仁5年2月22日 | 78 |
| 131 沙弥某、加賀郡佐那武社の社務職に関する訴訟を裁決す。(佐那武社古文類纂) | 永仁5年1月20日 | 78 |
| 132 預所某、珠洲郡法住寺に同寺領白山田を安堵せしむ。(法住寺文書) | 永仁5年11月22日 | 79 |
永仁7年、正安元年(1299) | 133 亀山法皇、山城南禅寺に加賀郡小坂荘を寄進し給ふ。(南禅寺文書) | 永仁7年、正安元年3月5日 | 79 |
正安2年(1300) | 134 幕府、山城賀茂別雷社領かが郡金津荘と北英田保との境界に関する争論を裁決す。(温故古文抄) | 正安2年3月23日 | 80 |
| 135 幕府、山城賀茂別雷社領かが郡金津荘と北英田保との境界に関する争論を裁決す。(温故古文抄) | 正安2年3月23日 | 82 |
| 136 伏見条項、山城南禅寺に同寺領加賀郡小坂荘の替として播磨矢野別名・大塩荘等を寄進し給ふ。(南禅寺文書) | 正安2年7月25日 | 83 |
| 137 幕府、酒井利忠に鹿島郡酒井保の地頭職を安堵せしむ。(永光寺文書) | 正安2年12月22日 | 83 |
正安4年、乾元元年(1302) | 138 幕府、山城南禅寺に筑前宗像社の替として能美郡得橋郷及び石川郡笠間東保等を寄進す。(南禅寺文書) | 正安4年、乾元元年11月22日 | 83 |
| 139 後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷及び石川郡笠間東保を寄進し給ふ。(南禅寺文書) | 正安4年、乾元元年12月21日 | 84 |
乾元2年、嘉元元年(1303) | 140 幕府の使者、僧法仏に石川郡白山宮神田壱町を安堵せしむ。(南禅寺文書) | 乾元2年、嘉元元年閏4月8日 | 84 |
嘉元2年(1304) | 141 酒井利忠、その弟章兼に鹿島郡酒井保内の屋敷名田等を譲渡す。(永光寺文書) | 嘉元2年9月6日 | 85 |
嘉元3年(1305) | 142 石川郡白山宮荘厳講承仕等、その勤務に就いて制約す。(白山比咩神社文書) | 嘉元3年3月 | 85 |
| 143 鹿島郡万行保東方地頭職斉藤胤成、鎌倉に着到を告ぐ。(天野文書) | 嘉元3年5月7日 | 86 |
徳治2年(1307) | 144 某、鳳至郡諸岡寺に護摩田を寄進す。(総持寺文書) | 徳治2年9月21日 | 86 |
徳治3年、延慶元年(1308) | 145 六波羅探題、山城南禅寺領能美郡得橋郷地頭代興範が佐羅別宮雑掌貞清に同郷内佐羅村を押領せられたりとの訴を裁決す。(南禅寺文書) | 徳治3年、延慶元年5月2日 | 87 |
| 146 後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を寄進し給ふ。(南禅寺文書) | 徳治3年、延慶元年7月19日 | 89 |
徳治3年、延慶元年(1308) | 147 後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を寄進し給ふ。(南禅寺文書) | 徳治3年、延慶元年7月19日 | 90 |
延慶2年(1309) | 148 伏見上皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を安堵せしむ。(南禅寺文書) | 延慶2年6月10日 | 90 |
| 149 伏見上皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を安堵せしむ。(南禅寺文書) | 延慶2年6月10日 | 90 |
| 150 近江延暦寺、山城仁和寺と争はんとし、石川郡白山宮衆徒の発向を促す。(白山宮荘厳講中記録) | 延慶2年7月24日 | 90 |
| 151 近江延暦寺、山城仁和寺と争はんとし、石川郡白山宮衆徒の発向を促す。(白山宮荘厳講中記録) | 延慶2年7月24日 | 90 |
延慶3年(1310) | 152 酒井利保、その弟章兼が所領鹿島郡酒井保内の山野を沽却し得ることを証明す。(永光寺文書) | 延慶3年7月28日 | 91 |
| 153 酒井利保、その弟章兼が所領鹿島郡酒井保内の山野を沽却し得ることを証明す。(永光寺文書) | 延慶3年7月28日 | 92 |
| 154 酒井章兼、その所領鹿島郡酒井保内の山野を海野信直の妻に沽却す。(永光寺文書) | 延慶3年8月3日 | 92 |
| 155 酒井章兼、その所領鹿島郡酒井保内の山野を海野信直の妻に沽却す。(永光寺文書) | 延慶3年8月3日 | 92 |
| 156 石川郡白山宮荘厳講衆、衆議に服すべきことを誓ふ。(白山比咩神社文書) | 延慶3年8月12日 | 93 |
| 157 酒井利忠、その所領鹿島郡酒井保内の山野を海野信直の妻に沽却す。(永光寺文書) | 延慶3年8月28日 | 93 |
| 158 酒井利忠、その所領鹿島郡酒井保内の山野を海野信直の妻に沽却す。(永光寺文書) | 延慶3年8月28日 | 94 |
延慶4年、応長元年(1311) | 159 藤原宗信、珠洲郡法住寺内の林木伐採を禁ず。(法住寺文書) | 延慶4年、応長元年12月 | 94 |
| 160 藤原宗信、珠洲郡法住寺内の林木伐採を禁ず。(法住寺文書) | 延慶4年、応長元年1月 | 94 |
応長2年、正和元年(1312) | 161 尼心称、さきの大ゆきに、羽咋郡得田保志良田村の地頭職の内を譲る。(得田文書) | 応長2年、正和元年8月25日 | 95 |
| 162 伏見上皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) | 応長2年、正和元年11月29日 | 95 |
正和3年(1313) | 163 珠洲郡長橋神明宮の神主吉秀、同社に鰐口を献る。(長橋神明宮鰐口銘) | 正和3年9月16日 | 96 |
正和4年(1314) | 164 長幸連、その子季連に羽咋郡土田荘上村半分等を譲る。(得田文書) | 正和4年12月20日 | 96 |
正和6年、文保元年(1317) | 165 幕府、海野信直の妻に酒井利忠が沽却したる鹿島郡酒井保内の山野を安堵せしむ。(永光寺文書) | 正和6年、文保元年3月23日 | 97 |
| 166 幕府、海野信直の妻に酒井章兼が沽却したる鹿島郡酒井保内の山野を安堵せしむ。(永光寺文書) | 正和6年、文保元年3月23日 | 97 |
文保2年(1318) | 167 石川郡白山宮末社荒御前等の遷宮を行ふ。(白山比咩神社文書) | 文保2年6月20日 | 97 |
| 168 石川郡惣長吏豪澄等、講衆及び堂僧を戒者より採用するには挙状の前後に依るべきことを定む。(白山宮荘厳講中記録) | 文保2年10月15日 | 98 |
| 169 海野信直の妻、鹿島郡酒井保内の山野を瑩山紹瑾に寄進す。(永光寺文書) | 文保2年10月25日 | 98 |
文保3年、元応元年(1319) | 170 近江日吉社、加賀能美荘・大桑荘・永富荘等の社領注進状を作る。(日吉神社領注進状) | 文保3年、元応元年10月 | 99 |
| 171 瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺の置文を作る。(永光寺文書) | 文保3年、元応元年12月8日 | 99 |
元応3年、元亨元年(1321) | 172 仮掲(永光寺中興雑記) | 元応3年、元亨元年3月28日 | 100 |
| 173 六波羅探題、能美郡山内荘地頭吉谷五郎の子息虎犬丸が得橋郷佐羅村に狼藉するを以て之を召喚す。(南禅寺文書) | 元応3年、元亨元年4月10日 | 100 |
| 174 六波羅探題、能美郡山内荘地頭吉谷五郎の子息虎犬丸が得橋郷佐羅村に狼藉するを以て之を召喚す。(南禅寺文書) | 元応3年、元亨元年4月10日 | 101 |
| 175 六波羅探題、能美郡山内荘地頭吉谷五郎の子息虎犬丸が得橋郷佐羅村に狼藉するを以て之を召喚す。(南禅寺文書) | 元応3年、元亨元年4月10日 | 101 |
| 176 後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷内府南社神主職を寄進し給ふ。(南禅寺文書) | 元応3年、元亨元年5月23日 | 101 |
| 177 後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) | 元応3年、元亨元年6月15日 | 102 |
| 178 僧定賢、鳳至郡諸岡寺観音堂に寺領敷地を寄進す。(総持寺文書) | 元応3年、元亨元年7月22日 | 102 |
| 179 仮掲(総持寺文書) | 元応3年、元亨元年9月14日 | 102 |
元亨2年(1322) | 180 沙弥某、長康連とその弟季連との羽咋郡土田荘等伝領に関する争論を裁決す。(天野文書) | 元亨2年5月23日 | 103 |
| 181 沙弥某、長康連とその弟季連との羽咋郡土田荘等伝領に関する争論を裁決す。(天野文書) | 元亨2年5月23日 | 104 |
| 182 近江延暦寺、石川郡白山宮惣長吏をして本宮住侶隆政の所帯免田等を還付せしむ。(白山比咩神社文書) | 元亨2年6月9日 | 182 |
| 183 近江延暦寺、石川郡白山宮惣長吏をして本宮住侶隆政の所帯免田等を還付せしむ。(白山比咩神社文書) | 元亨2年6月9日 | 183 |
| 184 仮掲(総持寺文書) | 元亨2年8月28日 | 105 |
| 185 景久、能美郡粟津上保津波倉八幡宮に獅子頭を施入す。(津波倉八幡宮獅子頭銘) | 元亨2年8月 | 106 |
| 186 しめのゝいよの局、加賀郡大野荘示野村に就いて下知す。(天龍寺文書) | 元亨2年11月11日 | 106 |
元亨3年(1323) | 187 幕府、羽咋郡得田保志良田村の地頭尼心称と得田章真との総論を和与せしむ。(得田文書) | 元亨3年2月23日 | 106 |
| 188 瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺の四至堺・田畠注文を作る。(永光寺文書) | 元亨3年3月7日 | 107 |
| 189 仮掲(総持寺文書) | 元亨3年6月 | 107 |
| 190 瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺所蔵の文書注文を作る。(永光寺文書) | 元亨3年10月9日 | 108 |
| 191 瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺の寄田注文を作る。(永光寺文書) | 元亨3年10月9日 | 109 |
| 192 瑩山紹瑾、その修練せる遺跡八ヶ寺の置文を作る。(永光寺文書) | 元亨3年10月9日 | 109 |
| 193 地頭代光茂、鳳至郡如意寺に田地を寄進す。(宝泉寺文書) | 元亨3年12月 | 110 |
元亨4年、正中元年(1324) | 194 仮掲(総持寺文書) | 元亨4年、正中元年3月16日 | 111 |
| 195 瑩山紹瑾、鳳至郡総持寺の住持職を峨山紹碩に譲与す。(総持寺文書) | 元亨4年、正中元年7月7日 | 112 |
| 196 武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷河内新開田数を同寺に注進す。(称名寺文書) | 元亨4年、正中元年9月10日 | 112 |
| 197 加賀郡佐那武社の忍西、その神主職を襲がんことを愁訴す。(大野湊神社文書) | 元亨4年、正中元年9月 | 114 |
正中2年(1325) | 198 瑩山紹瑾自賛の偈を作る。(総持寺文書) | 正中2年3月21日 | 116 |
| 199 瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺の松樹護惜の偈を作る。(総持寺文書) | 正中2年5月1日 | 116 |
| 200 瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺に寄進を行ひたる檀越の逝去後諷誦回向すべきことを定む。(永光寺文書) | 正中2年7月18日 | 117 |
正中3年、嘉暦元年(1326) | 201 幕府、八幡尚成に能美郡能美荘の所領を還付す。(菊大路文書) | 正中3年、嘉暦元年9月7日 | 117 |
嘉暦2年(1327) | 202 親信、その女子ちよこに羽咋郡得田保志良田村の所領を譲る。(得田文書) | 嘉暦2年3月13日 | 118 |
| 203 六波羅探題、能美郡長野惣領地頭が山城南禅寺領得橋郷佐羅村の用水を阻止したるを以て之を召喚す。(南禅寺文書) | 嘉暦2年6月9日 | 118 |
| 204 幕府、地頭海老名忠国と領家雑掌信智等との加賀郡興・浅野両保下地に関する争論を裁決す。(海老名文書) | 嘉暦2年8月25日 | 118 |
| 205 預所鴨某、鳳至郡諸岡寺に田地を寄進す。(総持寺文書) | 嘉暦2年11月16日 | 121 |
嘉暦3年(1328) | 206 藤原光国、石川郡白山宮に副益村の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) | 嘉暦3年3月10日 | 121 |
| 207 領家日野資名、その祈祷所珠洲郡法住寺内の検断等を院主の沙汰たらしむ。(法住寺文書) | 嘉暦3年5月24日 | 122 |
嘉暦4年、元徳元年(1329) | 208 仮掲(総持寺文書) | 嘉暦4年、元徳元年2月13日 | 122 |
| 209 吉見円忠、その妻伴氏女に羽咋郡志々見保の田畠を譲渡す。(永光寺文書) | 嘉暦4年、元徳元年3月15日 | 123 |
| 210 武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷公文・百姓等、盗人・強盗等のことに就き同寺に誓状を出す。(称名寺文書) | 嘉暦4年、元徳元年6月14日 | 123 |
| 211 武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷公文・百姓等、盗人・強盗等のことに就き同寺に誓状を出す。(称名寺文書) | 嘉暦4年、元徳元年6月14日 | 124 |
| 212 幕府、八幡尚成に能美郡能美荘の所領を安堵せしむ。(菊大路文書) | 嘉暦4年、元徳元年12月17日 | 124 |
| 213 幕府、八幡尚成に能美郡能美荘の所領を安堵せしむ。(菊大路文書) | 嘉暦4年、元徳元年12月17日 | 125 |
元徳2年(1330) | 214 能美郡中院八院の衆徒等、武蔵金沢称名寺代官僧堯観と地境を争ひ勅裁を請ふ。(称名寺文書) | 元徳2年閏6月 | 125 |
| 215 後醍醐天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷内府南社神主職を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) | 元徳2年7月17日 | 126 |
| 216 後醍醐天皇、故太宰帥世良親王追善の為、その遺領加賀郡富永御厨等を山城臨川寺に管領せしめ給ふ。(天龍寺文書) | 元徳2年10月25日 | 127 |
元徳3年、元弘元年(1331) | 217 幕府、羽咋郡志々見保の田畠に関する訴訟により吉見円忠を召喚す。(永光寺文書) | 元徳3年、元弘元年4月29日 | 127 |
| 218 後醍醐天皇、山城南禅寺の訴に依り、加賀国司をして同寺領能美郡得橋郷内益延・長恒両名に国衙の糸寄を停めしめ給ふ。(南禅寺文書) | 元徳3年、元弘元年10月21日 | 127 |
| 219 後醍醐天皇、山城南禅寺の訴に依り、加賀国司をして同寺領能美郡得橋郷内益延・長恒両名に国衙の糸寄を停めしめ給ふ。(南禅寺文書) | 元徳3年、元弘元年10月21日 | 127 |
| 220 後醍醐天皇、山城曼珠院慈嚴をして、同国南禅寺領能美郡得橋郷及び石川郡笠間東保等に白山宮等神人の乱入を停めしめ給ふ。(南禅寺文書) | 元徳3年、元弘元年10月21日 | 128 |
元弘2年、正慶元年(1332) | 221 幕府、村井又次郎入道知性の女伴氏に羽咋郡志々見保内の知行を安堵せしむ。(永光寺文書) | 元弘2年、正慶元年5月27日 | 128 |
| 222 山城臨川寺、故太宰帥世良親王家遺領加賀郡富永御厨以下の寺領を注進す。(天龍寺文書) | 元弘2年、正慶元年6月 | 129 |
| 223 僧成知、鹿島郡永光寺に、羽咋郡志々見保内の地を寄進す。(永光寺文書) | 元弘2年、正慶元年6月 | 129 |
| 224 大法師定員、鳳至郡諸岡寺の院主職に補任せらる。(総持寺文書) | 元弘3年、正慶2年3月6日 | 129 |
元弘3年、正慶2年(1333) | 225 仮掲(永光寺文書) | 元弘3年、正慶2年4月1日 | 130 |
| 226 江沼郡福田荘・菅浪郷総領地頭兼菅生社神主狩野頼広、軍忠を致さんが為に上洛せしことを足利高氏に告ぐ。(狩野文書) | 元弘3年、正慶2年6月25日 | 130 |
| 227 能美郡府南御供田地頭建部頼春、軍忠を致さんが為上洛せしことを足利高氏に告ぐ。(南禅寺文書) | 元弘3年、正慶2年6月 | 131 |
| 228 能美郡八幡一分地頭八幡尚成、軍忠を致さんが為上洛したることを足利高氏に告ぐ。(菊大路文書) | 元弘3年、正慶2年6月 | 131 |
| 229 仮掲(大野湊神社文書) | 元弘3年、正慶2年7月15日 | 131 |
| 230 仮掲(大野湊神社文書) | 元弘3年、正慶2年7月15日 | 131 |
| 231 領家日野資名、珠洲郡法住寺に於ける検断等を先例に拠り院主の沙汰たらしむ。(法住寺文書) | 元弘3年、正慶2年7月20日 | 132 |
| 232 後醍醐天皇、山城臨川寺に加賀郡富永御厨等の地を管領せしめ給ふ。(臨川寺文書) | 元弘3年、正慶2年7月23日 | 132 |
| 233 官宣旨を能登に下して、士庶の業を捨てゝ上洛するを停め、北条氏の余党にあらざる限り当時知行の地を安堵せしむ。(総持寺文書) | 元弘3年、正慶2年7月25日 | 132 |
| 234 仮掲(永光寺文書) | 元弘3年、正慶2年8月13日 | 133 |
| 235 国宣により、鳳至郡総持寺の管領する田畠を安堵せしむ。(総持寺文書) | 元弘3年、正慶2年10月15日 | 133 |
| 236 後醍醐天皇、山城臨川寺に同寺領加賀郡富永御厨中分の下地を賜ふ。(臨川寺文書) | 元弘3年、正慶2年11月10日 | 134 |
| 237 恒盛・真盛、その預りたる石川郡白山宮神事料田所当来納の本証文を紛失したるを以て誓状を同宮に納る。(白山比咩神社文書) | 元弘3年、正慶2年12月25日 | 134 |
| 238 領家某、鳳至郡諸岡寺に大般若田を寄進す。(総持寺文書) | 元弘3年、正慶2年12月 | 134 |
元弘4年、建武元年(1334) | 239 領家日野資名、珠洲郡法住寺をしてその造営料を若山荘内に勧進せしむ。(法住寺文書) | 元弘4年、建武元年7月11日 | 135 |
| 240 領家日野資名、珠洲郡法住寺をしてその造営料を若山荘内に勧進せしむ。(法住寺文書) | 元弘4年、建武元年7月11日 | 135 |
| 241 後醍醐天皇、山城南禅寺に同寺領石川郡笠間東保及び能美郡得橋郷佐羅・佐野二村の地を還付せしめ給ふ。(南禅寺文書) | 元弘4年、建武元年8月29日 | 135 |
| 242 雑訴決断所、山城伏見稲荷社に同社領石川郡味智郷内の田地を安堵せしむ。(伏見稲荷神社文書) | 元弘4年、建武元年9月4日 | 135 |
| 243 地頭沙弥幸蓮、鳳至郡総持寺聖天社に御供田として櫛比荘二ヶ村の智を寄進す。(総持寺文書) | 元弘4年、建武元年11月20日 | 136 |
建武2年(1335) | 244 雑訴決断所、加賀国衙をして八院長吏源光等の能美郡能美荘地頭職を濫妨するを停め、吉良省観に之を交付せしむ。(菊大路文書) | 建武2年3月5日 | 136 |
| 245 雑訴決断所、加賀国衙をして八院長吏源光等の能美郡能美荘地頭職を濫妨するを停め、吉良省観に之を交付せしむ。(菊大路文書) | 建武2年3月5日 | 137 |
| 246 地頭政所、鳳至郡総持寺聖天社新寄進御供田の坪付を定む。(総持寺文書) | 建武2年3月10日 | 137 |
| 247 斎藤胤成、その次子真将に鹿島郡万行保東方地頭職を譲渡す。(天野文書) | 建武2年3月17日 | 138 |
| 248 後醍醐天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷今村を領せしめ給ふ。(南禅寺文書) | 建武2年3月20日 | 138 |
| 249 後醍醐天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷佐野村を寄進し給ふ。(南禅寺文書) | 建武2年4月7日 | 138 |
| 250 能登国衙、綸旨により、その目代をして鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保を交付せしむ。(永光寺文書) | 建武2年4月21日 | 139 |
| 251 能登国衙、綸旨により、その目代をして鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保を交付せしむ。(永光寺文書) | 建武2年4月21日 | 139 |
| 252 太政官符を山城南禅寺に下して、同寺領能美郡得橋郷・石川郡笠間東保等を一円不輸の地となさしむ。(南禅寺文書) | 建武2年4月22日 | 139 |
| 253 後醍醐天皇、山城南禅寺をして能美郡得橋郷牛島村地頭職を知行せしめ給ふ。(南禅寺文書) | 建武2年5月25日 | 140 |
| 254 僧貞意、石川郡白山宮阿仏坊の赤糸の甲紛失したるに就き起請文を納る。(白山比咩神社文書) | 建武2年6月3日 | 140 |
| 255 親高、石川郡白山宮に加賀郡倉月荘内の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) | 建武2年6月18日 | 140 |
| 256 能美郡能美荘地頭吉良省観、惣公文八幡尚成にその職を安堵せしむ。(菊大路文書) | 建武2年6月19日 | 141 |
| 257 斎藤胤成、曩に次子真将に与へたる鹿島郡万行保東方地頭職を改めて嫡子茂成と真将に分譲す。(得江文書) | 建武2年7月14日 | 141 |
| 258 斎藤胤成、その妻に羽咋郡得田保及び鹿島郡万行保内の田屋敷を譲渡す。(得田文書) | 建武2年7月14日 | 142 |
| 259 太政官符を加賀国に下して、仲原師利に所領加賀郡倉月荘の領家・地頭両職を安堵せしむ。(色々証文) | 建武2年10月4日 | 142 |
建武3年、延元元年(1336) | 260 武部頼春、足利尊氏に能美郡府南社神主職・加賀郡千木保地頭職等の本領を安堵せんことを求む。(南禅寺文書) | 建武3年、延元元年2月7日 | 143 |
| 261 吉良省観、山城石清水八幡宮に能美郡能美荘地頭職を寄進す。(菊大路文書) | 建武3年、延元元年6月6日 | 144 |
| 262 足利尊氏、新田義貞を討伐する為能登の士得田章真の上洛を促す。(金沢市中古文書) | 建武3年、延元元年6月18日 | 144 |
| 263 宗寂、鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保地頭職を安堵せしむ。(中興雑記) | 建武3年、延元元年7月28日 | 144 |
| 264 足利尊氏、課が守護富樫高家に令して山城臨川寺領加賀郡大野庄に兵士の濫妨するを停止せしむ。(天龍寺文書) | 建武3年、延元元年8月2日 | 144 |
| 265 能登守護吉見頼顕、鹿島郡気多本宮の免田に士庶の狼藉することを停止す。(能登生国玉比古神社文書) | 建武3年、延元元年8月27日 | 145 |
建武3年、延元元年(1336) | 266 能登守護吉見頼顕、鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保地頭職を安堵せしむ。(永光寺文書) | 建武3年、延元元年8月28日 | 145 |
| 267 足利尊氏、山城臨川寺に加が軍大野荘地頭職を寄進す。(天龍寺文書) | 建武3年、延元元年8月30日 | 145 |
| 268 足利尊氏、能美郡府南御供田地頭建部頼春に感状を与ふ。(南禅寺文書) | 建武3年、延元元年9月6日 | 145 |
| 269 光厳院、山城勧修寺領江沼郡郡家荘等を安堵せしめ給ふ。(勧修寺文書) | 建武3年、延元元年9月17日 | 146 |
| 270 光厳院、山城勧修寺領江沼郡郡家荘等を安堵せしめ給ふ。(勧修寺文書) | 建武3年、延元元年9月17日 | 146 |
| 271 足利尊氏、山城臨川寺領加賀郡大野荘に国司・守護使の入部及び白山・金劔宮神人等の乱入を停む。(臨川寺重書案文) | 建武3年、延元元年9月18日 | 146 |
| 272 光厳院、山城臨川寺に加賀郡大野荘領家職等を領知せしめ給ふ。(天龍寺文書) | 建武3年、延元元年9月27日 | 146 |
| 273 足利尊氏、鹿島郡永光寺に元弘以来収公せられたる同寺領を安堵せしむ。(永光寺文書) | 建武3年、延元元年9月28日 | 147 |
| 274 光厳院、山城南禅寺に同寺領能美郡得橋郷・石川郡笠間東保等を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) | 建武3年、延元元年11月27日 | 147 |
| 275 足利直義、武蔵金沢称名寺剣阿に同寺領能美郡軽海郷を知行せしむ。(称名寺文書) | 建武3年、延元元年12月1日 | 147 |
| 276 光厳院、壬生匡遠に加賀橘島保等の所領を安堵せしめ給ふ。(壬生文書) | 建武3年、延元元年12月27日 | 148 |
延元2年、建武4年(1337) | 277 能登守護吉見頼隆、鳳至郡諸岡寺領に士庶の乱入狼藉を停止せしむ。(総持寺文書) | 延元2年、建武4年1月14日 | 148 |
| 278 右衛門尉、某の旨を奉じて、鹿島郡永光寺に同寺領羽咋若部保を安堵せしむ。(永光寺文書) | 延元2年、建武4年1月18日 | 149 |
| 279 足利尊氏、仁木義有の勲功を賞して加賀郡小坂荘大志目村の地頭職を与ふ。(仁木文書) | 延元2年、建武4年4月21日 | 149 |
| 280 足利尊氏、山城真如寺正脈庵に加賀郡大野荘藤江村・松村をその造営料所として寄進す。(臨川寺重書案文) | 延元2年、建武4年4月28日 | 149 |
| 281 足利尊氏、加賀守護富樫高家をして加賀郡笠野南方地頭職を田村教俊に交付せしむ。(保坂文書) | 延元2年、建武4年5月18日 | 149 |
| 282 能登守護吉見頼隆、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保に士庶の乱入狼藉を停止す。(永光寺文書) | 延元2年、建武4年11月 | 150 |
延元3年、建武5年、暦応元年(1338) | 283 平行兼、鳳至郡宝泉寺に羽咋郡湊保南方兵庫村の内を寄進す。(宝泉寺文書) | 延元3年、建武5年、暦応元年2月13日 | 150 |
延元4年、暦応2年(1339) | 284 光厳院、鹿島郡永光寺に利生塔を修造せしめ給ふ。(永光寺文書) | 延元4年、暦応2年12月13日 | 150 |
| 285 光厳院、鹿島郡永光寺に利生塔を修造せしめ給ふ。(永光寺文書) | 延元4年、暦応2年12月13日 | 151 |
| 286 能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して斯波高経の証判を求む。(得江文書) | 延元4年、暦応2年12月 | 151 |
延元5年、興国元年、暦応3年(1340) | 287 足利直義、鹿島郡永光寺利生塔に仏舎利二粒を寄進す。(永光寺文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年1月1日 | 152 |
| 288 足利尊氏、鹿島郡永光寺に利生塔塔婆料として羽咋郡若部保地頭職を寄進す。(永光寺文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年3月6日 | 152 |
| 289 足利尊氏、鹿島郡永光寺に利生塔塔婆料として羽咋郡若部保地頭職を寄進す。(永光寺文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年3月6日 | 152 |
| 290 足利尊氏、鹿島郡永光寺に利生塔塔婆料として羽咋郡若部保地頭職を寄進す。(永光寺文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年3月6日 | 153 |
| 291 能登守護吉見頼隆、鹿島郡永光寺の利生塔に塔婆を納む。(永光寺文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年6月17日 | 153 |
| 292 能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年7月 | 153 |
| 293 武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷代官僧全玄、その年貢等の進未進を同寺に注進す。(称名寺文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年8月28日 | 154 |
| 294 幕府、斯波氏頼をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢若狭小浜に到着せるものを京都に転送せしむ。(臨川寺文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年9月11日 | 155 |
| 295 能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年9月 | 155 |
| 296 鹿島郡能登島東方地頭職天野遠政代石河頼景、越前に於ける軍忠を具申して斯波高経の証判を求む。(天野文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年9月 | 156 |
| 297 仮掲(イチ原北代比古神社棟札) | 延元5年、興国元年、暦応3年10月5日 | 156 |
| 298 仮掲(向田神明社文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年11月6日 | 156 |
| 299 斯波高経、能登の士得江頼員に感状を与ふ。(得江文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年11月8日 | 157 |
| 300 能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年11月 | 158 |
| 301 能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して証判を求む。(得田文書) | 延元5年、興国元年、暦応3年11月 | 158 |
興国2年、暦応4年(1341) | 302 幕府、斯波高経をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢の越前敦賀・若狭小浜に到着せるものを警護せしむ。(臨川寺文書) | 興国2年、暦応4年2月26日 | 159 |
| 303 中院良定、武家方を討たんとして能登の士得江頼員の従軍を促す。(得江文書) | 興国2年、暦応4年3月2日 | 159 |
| 304 鳳至郡櫛比荘領家中院某、諸岡寺に田地を寄進す。(総持寺文書) | 興国2年、暦応4年閏4月16日 | 160 |
| 305 能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) | 興国2年、暦応4年7月 | 160 |
| 306 足利直義、摂津親秀の加賀郡倉月荘等の所領をその子女等に分与するを許す。(美吉文書) | 興国2年、暦応4年8月12日 | 161 |
| 307 能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) | 興国2年、暦応4年9月 | 161 |
| 308 能登守護吉見頼隆、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保に禁制を掲ぐ。(永光寺中興雑記) | 興国2年、暦応4年12月5日 | 163 |
興国4年、康永2年(1343) | 309 園基冬、江沼郡山城荘南郷を借銭返弁の質に当つ。(文永元年外記日記紙背文書) | 興国4年、康永2年2月晦日 | 164 |
| 310 園基冬、江沼郡山城荘南郷を借銭返弁の質に当つ。(温故古文抄) | 興国4年、康永2年2月晦日 | 164 |
| 311 珠洲郡若山荘領家日野時光、二郡居住の者をして法住寺供養料に奉加せしむ。(法住寺文書) | 興国4年、康永2年6月9日 | 164 |
| 312 大使幸若丸代僧円心、造外宮料鹿島郡能登島御厨野崎村の日食米を進納す。(天野文書) | 興国4年、康永2年6月21日 | 165 |
興国5年、康永3年(1344) | 313 石川郡白山宮政所、国中の知識助成を以て節会を再興せんことを牒す。(三宮記) | 興国5年、康永3年3月 | 165 |
| 314 浄韶、鹿島郡永光寺に羽咋郡湊北方の田地を寄進す。(永光寺文書) | 興国5年、康永3年7月6日 | 166 |
| 315 妙法院門跡亮性法親王、その管領する石川郡押野荘・能美郡南北白江荘等の文券紛失したるを以て、官符を下して証明せられんことを奏請せしめ給ふ。(妙法院文書) | 興国5年、康永3年7月 | 166 |
| 316 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て極楽坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講講中記録紙背文書) | 興国5年、康永3年9月12日 | 167 |
| 317 梶井門跡尊胤法親王、山城祇園社に、旧に依りその祈祷料所として加賀郡英田保萱野を知行せしめ給ふ。(祇園社記) | 興国5年、康永3年10月10日 | 168 |
| 318 能登守護吉見頼隆、越中の宮方を伐たんとし得江頼員の従軍を促す。(得江文書) | 興国5年、康永3年11月16日 | 168 |
興国6年、康永4年、貞和元年(1345) | 319 光明院吉書奏を行ひ、能登国司等が不動倉開検を請ふ申文を用ひ給ふ。(中院一品記) | 興国6年、康永4年、貞和元年2月23日 | 168 |
| 320 光明院吉書奏を行ひ、能登国司等が不動倉開検を請ふ申文を用ひ給ふ。(中院一品記) | 興国6年、康永4年、貞和元年2月23日 | 169 |
| 321 山城感神院長吏春喜、孫晴賀に、加賀郡萱野保等の地を譲与す。(祇園社記) | 興国6年、康永4年、貞和元年8月1日 | 169 |
| 322 能登の士得江頼員、越中に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) | 興国6年、康永4年、貞和元年8月 | 169 |
| 323 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て曼荼羅堂に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 興国6年、康永4年、貞和元年9月12日 | 170 |
| 324 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て曼荼羅堂に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 興国6年、康永4年、貞和元年9月12日 | 170 |
| 325 明峰素哲、石川郡大乗寺の重宝一夜碧巌集並びにシュロ払子を帰入せしむ。(大乗寺文書) | 興国6年、康永4年、貞和元年10月18日 | 170 |
興国7年、正平元年、貞和2年(1346) | 326 富樫家善、明峰素哲に、石川郡大乗寺の田地・敷地を寄進す。(大乗寺文書) | 興国7年、正平元年、貞和2年4月16日 | 171 |
| 327 中院良定、能登の士得江頼員の宮方に党するを賞す。(得江文書) | 興国7年、正平元年、貞和2年4月20日 | 171 |
| 328 能登の士得江頼員、同国に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得江文書) | 興国7年、正平元年、貞和2年5月 | 172 |
| 329 足利尊氏、鹿島郡永光寺をして敵徒退治の祈禱を行はしむ。(永光寺中興雑記) | 興国7年、正平元年、貞和2年8月2日 | 172 |
| 330 能登守護吉見頼隆、同国の士得田素章に感状を与へられrんことを幕府に請ふ。(得田文書) | 興国7年、正平元年、貞和2年8月6日 | 172 |
| 331 足利直義、山城臨川寺領加賀郡大野荘雑掌と倉月荘地頭との湖海の境界に関する争議を裁決す。(天龍寺文書) | 興国7年、正平元年、貞和2年閏9月19日 | 173 |
| 332 足利直義、山城臨川寺領加賀郡大野荘雑掌と倉月荘地頭との湖海の境界に関する争議を裁決す。(天龍寺文書) | 興国7年、正平元年、貞和2年閏9月19日 | 174 |
| 333 足利直義、山城臨川寺領加賀郡大野荘雑掌と倉月荘地頭との湖海の境界に関する争議を裁決す。(天龍寺文書) | 興国7年、正平元年、貞和2年閏9月19日 | 174 |
| 334 能登の士得田素章代子息章名、越中に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得田文書) | 興国7年、正平元年、貞和2年閏9月 | 174 |
正平2年、貞和3年(1347) | 335 無底良韶、鹿島郡永光寺に羽咋郡湊保の田地を寄進す。(永光寺文書) | 正平2年、貞和3年1月15日 | 175 |
| 336 無底良韶、鹿島郡永光寺に羽咋郡湊保の田地を寄進す。(永光寺文書) | 正平2年、貞和3年1月15日 | 175 |
| 337 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て十如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平2年、貞和3年2月24日 | 176 |
| 338 幕府、佐々木氏頼に、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を近江湖上に横領する勿らしむ。(臨川寺文書) | 正平2年、貞和3年3月15日 | 176 |
| 339 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平2年、貞和3年4月24日 | 176 |
| 340 藤原重宗、石川郡祇陀寺に能美郡河内荘内椙森野の地を売渡す。(祇陀寺文書) | 正平2年、貞和3年5月2日 | 177 |
| 341 山城祇園社の僧晴賀、顕詮に、加賀郡萱野保等の地を譲る。(祇園社記) | 正平2年、貞和3年7月2日 | 177 |
| 342 足利尊氏、近江日吉社に加賀郡田上郷及び金浦内の地頭職を寄進す。(桂林集) | 正平2年、貞和3年7月21日 | 178 |
| 343 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て東光坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平2年、貞和3年7月24日 | 178 |
| 344 藤原重宗、石川郡祇陀寺に能美郡河内荘広瀬村の地を寄進す。(祇陀寺文書) | 正平2年、貞和3年7月25日 | 178 |
| 345 藤原重宗、石川郡祇陀寺に能美郡河内荘広瀬村の地を売渡す。(祇陀寺文書) | 正平2年、貞和3年7月25日 | 178 |
| 346 山城東福寺、同寺領江沼郡熊坂荘等の文書目録を注す。(東福寺文書) | 正平2年、貞和3年7月 | 180 |
| 347 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平2年、貞和3年9月12日 | 180 |
| 348 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平2年、貞和3年9月24日 | 181 |
| 349 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て談義所に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平2年、貞和3年10月24日 | 181 |
| 350 足利尊氏、能登の士得田素章をして越中守護桃井直常に属し、井上俊清を誅伐せしむ。(得田文書) | 正平2年、貞和3年11月28日 | 182 |
| 351 石川郡白山宮荘厳講所新に講衆を挙達す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平2年、貞和3年12月3日 | 182 |
正平3年、貞和4年(1348) | 352 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て極楽坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年1月24日 | 182 |
| 353 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年3月24日 | 183 |
| 354 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て十如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年7月24日 | 183 |
| 355 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て十如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年7月24日 | 183 |
| 356 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て東光坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年8月24日 | 184 |
| 357 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て東光坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年8月24日 | 184 |
| 358 光厳院、先に冷泉頼定が石川郡白山宮に寄進したる長講堂領越前坂北庄内の地を召返し給ふ。(水無瀬宮文書) | 正平3年、貞和4年9月2日 | 184 |
| 359 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年9月12日 | 185 |
| 360 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年9月12日 | 185 |
| 361 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て阿仏坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年9月24日 | 186 |
| 362 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年10月24日 | 186 |
| 363 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年10月24日 | 186 |
| 364 能登の士得田素章、越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) | 正平3年、貞和4年10月 | 187 |
| 365 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て仏如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年11月24日 | 187 |
| 366 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て仏如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年11月24日 | 187 |
| 367 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平3年、貞和4年12月24日 | 188 |
| 368 武蔵金沢称名寺領能美郡軽美郷、その年貢結解を注進す。(称名寺文書) | 正平3年、貞和4年是歳 | 188 |
正平4年、貞和5年(1349) | 369 後村上天皇、瀧口等に羽咋郡湊郷南北地頭職を知行せしめ給ふ。(渡辺文書) | 正平4年、貞和5年3月15日 | 189 |
| 370 能登国衙、上裁を奉じ、鹿島郡気多本宮の社領に国衙の干渉せざる旨を同社僧に告ぐ。(能登生国玉比古神社文書) | 正平4年、貞和5年4月8日 | 189 |
| 371 珠洲郡若山荘の領家日野時光、秦左近を同郡馬繋浦恒利名の名主職に補す。(本光寺文書) | 正平4年、貞和5年4月11日 | 189 |
| 372 崇光院、山城臨川寺領加賀郡大野荘等に勅役・院役以下を停めしめ給ふ。(臨川寺文書) | 正平4年、貞和5年4月28日 | 189 |
| 373 崇光院、山城臨川寺領加賀郡大野荘等に勅役・院役以下を停めしめ給ふ。(臨川寺文書) | 正平4年、貞和5年4月28日 | 190 |
| 374 花開院の上使観恵、得田章香に、羽咋郡得田荘志良田村の地を和与す。(得田文書) | 正平4年、貞和5年4月28日 | 190 |
| 375 花開院の上使観恵、得田章香に、羽咋郡得田荘志良田村の地を和与す。(得田文書) | 正平4年、貞和5年4月28日 | 191 |
| 376 能登の士得田素章代大津章広、守護桃井義綱の大和討伐に従ひ、その着到を報ず。(得田文書) | 正平4年、貞和5年7月 | 191 |
| 377 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て禅林坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平4年、貞和5年9月12日 | 192 |
| 378 山城石清水八幡宮入江匡清、某に、同宮領遠江国向笠郷年貢の替として能美郡能美荘地頭職を譲る。(菊大路文書) | 正平4年、貞和5年12月18日 | 192 |
| 379 山城石清水八幡宮入江匡清、同宮領能美郡能美荘地頭代職に能美菊若丸を補す。(菊大路文書) | 正平4年、貞和5年12月18日 | 192 |
正平5年、貞和6年、観応元年(1350) | 380 足利基氏、石川郡白山寺長老をして天下静謐を祈らしむ。(称名寺文書) | 正平5年、貞和6年、観応元年2月21日 | 193 |
| 381 明峰素哲、石川郡大乗寺・鹿島郡永光寺以下の住持職に関する置文を作る。(永光寺中興雑記) | 正平5年、貞和6年、観応元年3月23日 | 193 |
正平6年、観応2年(1351) | 382 能登守護桃井義綱、得江石王丸に感状を与ふ。(得江文書) | 正平6年、観応2年1月11日 | 193 |
| 383 能登の士得江丸代長野季光、同国に於ける軍忠を具申して桃井義綱の証判を求む。(得江文書) | 正平6年、観応2年1月 | 194 |
| 384 某、鹿島郡能登島東方地頭天野遠政の所領に禁制を掲ぐ。(天野文書) | 正平6年、観応2年1月 | 195 |
| 385 前加賀大介橘成秀、介二郎に、その所領能美郡多田八幡宮領乃身荘の地を譲渡す。(両足院文書) | 正平6年、観応2年6月1日 | 195 |
| 386 足利直義、能登の士得江石王丸にその本領を安堵せしむ。(得江文書) | 正平6年、観応2年7月17日 | 195 |
| 387 藤原朝房等、幕府の命を受け、天野遠政の所領鹿島郡能登島東方に治田家政代の濫妨を停め、下地を遠政代に付す。(天野文書) | 正平6年、観応2年7月24日 | 196 |
| 388 足利尊氏、能登の士得江石王丸をして、北國に潜入せる足利直義を討伐せしむ。(得江文書) | 正平6年、観応2年8月12日 | 196 |
| 389 足利尊氏、同直義を討たんとして近江に至り、能登の士得田素章をして忠節を致さしむ。(得田文書) | 正平6年、観応2年8月29日 | 196 |
| 390 能登の士得江石王丸代長野光信、足利義詮及び尊氏の発向に従ひ、その着到を報ず。(得江文書) | 正平6年、観応2年8月 | 196 |
| 391 足利尊氏、石川郡大乗寺に敵徒退散を祈祷せしむ。(大乗寺文書) | 正平6年、観応2年9月22日 | 197 |
| 392 能登の士得江石王丸代長野家光、同国に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得江文書) | 正平6年、観応2年9月 | 197 |
| 393 足利直義、加賀郡佐那武両社に倉部橘三の旧領を寄進す。(天龍寺文書) | 正平6年、観応2年12月20日 | 197 |
| 394 能登の士得江石王丸代長野光信、近江に於ける軍忠を具申して桃井義綱の証判を求む。(得江文書) | 正平6年、観応2年10月 | 198 |
正平7年、観応3年、文和元年(1352) | 395 前右兵衛督、鳳至郡総持寺に、その敷地を安堵せしむ。(総持寺文書) | 正平7年、観応3年、文和元年1月11日 | 198 |
| 396 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て東光坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年1月24日 | 198 |
| 397 足利尊氏、能登の士得田素章に、見方に党せば本領を安堵せしめんことを告ぐ。(得田文書) | 正平7年、観応3年、文和元年2月7日 | 198 |
| 398 形部権少輔、山城東福寺領江沼郡熊坂荘に并蝋米等の濫妨を停む。(東福寺文書) | 正平7年、観応3年、文和元年2月13日 | 199 |
| 399 後村上天皇、山城臨川寺領加賀郡大野荘地頭職を他所へ替へしめ給ふ。(臨川寺文書) | 正平7年、観応3年、文和元年2月16日 | 199 |
| 400 後村上天皇、山城臨川寺に加賀郡大野荘領家職を安堵せしめ給ふ。(臨川寺文書) | 正平7年、観応3年、文和元年2月16日 | 199 |
| 401 後村上天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷及び石川郡笠間東保等を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) | 正平7年、観応3年、文和元年2月17日 | 199 |
| 402 足利義詮、吉見氏頼に、能登の地頭御家人の味方に党する者に安堵の下文を与ふべきことを告ぐ。(得田文書) | 正平7年、観応3年、文和元年閏2月18日 | 200 |
| 403 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て中観坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年閏2月24日 | 200 |
| 404 足利義詮近江に在りて、能登の士得田素章に従軍を促す。(得田文書) | 正平7年、観応3年、文和元年3月6日 | 200 |
| 405 珠洲郡高座宮別当高勝寺院主快善、同寺領正院郷内本経田目録を注す。(須須神社文書) | 正平7年、観応3年、文和元年3月11日 | 201 |
| 406 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て勝重坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年3月24日 | 201 |
| 407 足利義詮、山城男山八幡を攻めんとし、能登の士得江石王丸の従軍を促す。(得江文書) | 正平7年、観応3年、文和元年4月10日 | 201 |
| 408 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て談義所に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年4月24日 | 202 |
| 409 能登守護吉見氏頼、同国の士得田素章の足利尊氏に属したるを以て所領安堵を幕府に請ふ。(得田文書) | 正平7年、観応3年、文和元年5月10日 | 202 |
| 410 足利尊氏、加賀の士狩野義茂の来属せるを賞し、且越中の宮方を討たしむ。(狩野文書) | 正平7年、観応3年、文和元年5月22日 | 202 |
| 411 足利尊氏、能登の士得田素章に、その本領を安堵せしむ。(得田文書) | 正平7年、観応3年、文和元年6月3日 | 203 |
| 412 某、富弥四郎をして、山城東福寺領江沼郡熊坂荘年貢の勘過を下知せしむ。(東福寺文書) | 正平7年、観応3年、文和元年6月5日 | 203 |
| 413 足利義詮、鹿島郡能登島東方地頭天野遠政に感状を与ふ。(天野文書) | 正平7年、観応3年、文和元年7月21日 | 203 |
| 414 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て曼荼羅堂に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年7月24日 | 203 |
| 415 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年8月24日 | 204 |
| 416 足利義詮、能登の士得田素章に、越中討伐の為従軍を促す。(得田文書) | 正平7年、観応3年、文和元年8月28日 | 204 |
| 417 能登の士得田素章代子息章房、越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) | 正平7年、観応3年、文和元年9月 | 204 |
| 418 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て泉坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年10月12日 | 205 |
| 419 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て一乗坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年10月24日 | 205 |
| 420 能登守守護吉見氏頼、同国の士得田素章にその軍忠を賞し、幕府に注進すべきことを告ぐ。(得田文書) | 正平7年、観応3年、文和元年10月29日 | 206 |
| 421 僧実有、武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷の文書を保管す。(称名寺文書) | 正平7年、観応3年、文和元年11月13日 | 206 |
| 422 僧実有、武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷の文書を保管す。(称名寺文書) | 正平7年、観応3年、文和元年11月13日 | 206 |
| 423 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年11月24日 | 207 |
| 424 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平7年、観応3年、文和元年11月24日 | 207 |
| 425 足利義詮、吉見氏頼に、能登の地御家人にして去年直義に属したるものの所領安堵を慎重にせしむ。(得田文書) | 正平7年、観応3年、文和元年12月15日 | 207 |
正平8年、文和2年(1353) | 426 武蔵金沢称名寺領能美郡軽美郷代官僧杲照、去年の年貢米代銭を同寺に送進す。(称名寺文書) | 正平8年、文和2年2月21日 | 208 |
| 427 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て禅林坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平8年、文和2年3月24日 | 208 |
| 428 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て円乗坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平8年、文和2年4月24日 | 208 |
| 429 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て行眼坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平8年、文和2年5月24日 | 209 |
| 430 長木工左衛門入道珠阿、その妻法信に、羽咋郡土田荘上村地頭職を譲与す。(長伝書) | 正平8年、文和2年6月2日 | 209 |
| 431 鹿島郡能登島東方地頭天野遠政代堀籠宗重、越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(天野文書) | 正平8年、文和2年6月 | 210 |
| 432 足利義詮、石川郡大乗寺をして天下静謐を祈祷せしむ。(大乗寺文書) | 正平8年、文和2年7月2日 | 210 |
| 433 得田素章、養子章名に、破棄郡得田荘地頭職を譲る。(得田文書) | 正平8年、文和2年7月10日 | 210 |
| 434 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て実蔵坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平8年、文和2年7月24日 | 211 |
| 435 足利尊氏、能登の士得田素章に感状を与ふ。(得田文書) | 正平8年、文和2年8月7日 | 211 |
| 436 後光厳院、三位局に、羽咋郡土田荘等を知行せしめ給ふ。(伏見宮記録) | 正平8年、文和2年8月11日 | 211 |
| 437 大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) | 正平8年、文和2年8月11日 | 212 |
| 438 吉見修理亮、鹿島郡能登島東方地頭天野遠政代の軍忠を幕府に注進せんことを告ぐ。(天野文書) | 正平8年、文和2年9月5日 | 212 |
| 439 吉見修理亮、能登の士得田素章代子息章房の軍忠を幕府に注進せんことを告ぐ。(得田文書) | 正平8年、文和2年9月15日 | 212 |
| 440 能登の士得田素章代子息章房、鹿島郡能登島に於ける軍忠を具申して吉見修理亮の証判を求む。(得田文書) | 正平8年、文和2年9月 | 213 |
| 441 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て中観坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平8年、文和2年10月24日 | 213 |
| 442 後村上天皇、鹿島郡永光寺開山瑩山紹瑾に仏慈禅師の号を贈り給ふ。(永光寺文書) | 正平8年、文和2年12月8日 | 214 |
正平9年、文和3年(1354) | 443 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て曼荼羅堂に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平9年、文和3年2月24日 | 214 |
| 444 仮掲(総持寺文書) | 正平9年、文和3年3月2日 | 214 |
| 445 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て阿仏坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平9年、文和3年5月24日 | 215 |
| 446 石川郡白山宮並びに金劔宮の紺掻と、野市の紺掻と、水引神人所役に就いて協定す。(三宮記) | 正平9年、文和3年7月18日 | 215 |
| 447 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て一乗坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平9年、文和3年7月24日 | 216 |
| 448 藤原よりたゞ、羽咋郡富来院鮎上村地頭職の内の田地をたうとう寺に寄進す。(総持寺文書) | 正平9年、文和3年8月25日 | 216 |
| 449 幕府、石川郡祇陀寺の巻数を送りたるに答ふ。(祇陀寺文書) | 正平9年、文和3年9月24日 | 217 |
| 450 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て理観坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平9年、文和3年9月24日 | 217 |
| 451 仮掲(総持寺文書) | 正平9年、文和3年10月3日 | 217 |
| 452 後村上天皇、水無瀬具兼をして摂津水無瀬殿址に社壇を建立せしめ、加賀郡南縣荘地頭職等をその料に充てしめ給ふ。(水無瀬宮文書) | 正平9年、文和3年11月22日 | 218 |
| 453 幕府、石川郡祇陀寺の巻数を送りたるに答ふ。(祇陀寺文書) | 正平9年、文和3年11月22日 | 218 |
| 454 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て行眼坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平9年、文和3年11月24日 | 218 |
| 455 足利尊氏、能登の士得田章名に、加賀に侵入せる桃井直常討伐の為従軍を促す。(得田文書) | 正平9年、文和3年12月8日 | 219 |
| 456 足利尊氏、加賀の士狩野義茂に加賀郡若松荘地頭職を安堵せしむ。(狩野文書) | 正平9年、文和3年12月9日 | 219 |
| 457 石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て阿仏坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) | 正平9年、文和3年12月24日 | 219 |
正平10年、文和4年(1355) | 458 佐竹義篤、その子義香に、石川郡中林村等の所領を譲る。(佐竹文書) | 正平10年、文和4年2月11日 | 220 |
| 459 能登の士天野遠経、同国に於ける軍忠を具申して吉見民部少輔の証判を求む。(天野文書) | 正平10年、文和4年3月26日 | 220 |
| 460 能登の士得田章名、越前に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) | 正平10年、文和4年3月 | 221 |
| 461 足利尊氏、加賀守護富樫氏春等をして同国地頭御家人の忠節を賞することを伝へしむ。(菊大路文書) | 正平10年、文和4年4月19日 | 221 |
| 462 足利尊氏、加賀の士八幡介三郎に感状を与ふ。(菊大路文書) | 正平10年、文和4年5月10日 | 221 |
| 463 足利尊氏、山城勧修寺の祈禱巻数を贈れるを謝し、同寺領江沼郡郡家荘に守護の兵糧を課するを停止すべきを告ぐ。(勧修寺文書) | 正平10年、文和4年7月18日 | 222 |
| 464 鹿島郡能登島東方地頭天野遠政代堀籠宗重、能登に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(天野文書) | 正平10年、文和4年7月 | 222 |
| 465 足利義詮、能登守護吉見氏頼をして北国の敵徒退治を謀らしむ。(吉見文書) | 正平10年、文和4年12月3日 | 222 |
| 466 幕府、石川郡祗陀寺の巻数を送れるに答ふ。(祇陀寺文書) | 正平10年、文和4年12月27日 | 222 |
正平11年、文和5年、延文元年(1356) | 467 友宗、秦左近に珠洲郡馬繋村恒利名の林を譲与す。(本光寺文書) | 正平11年、文和5年、延文元年2月5日 | 223 |
| 468 梶井門跡尊胤法親王、山城祗園社執行顕詮に加賀郡萱野保を管領せしめ給ふ。(祗園社記) | 正平11年、文和5年、延文元年4月10日 | 223 |
| 469 大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地屋敷を寄進す。(白山比咩神社文書) | 正平11年、文和5年、延文元年6月5日 | 223 |
| 470 大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地屋敷を寄進す。(白山比咩神社文書) | 正平11年、文和5年、延文元年6月16日 | 224 |
| 471 大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地屋敷を寄進す。(白山比咩神社文書) | 正平11年、文和5年、延文元年6月16日 | 224 |
| 472 大桑玄猷、石川郡金劔宮に上林郷内の田地屋敷を寄進す。(金劔神社文書) | 正平11年、文和5年、延文元年6月16日 | 224 |
| 473 後光厳院、山城臨川寺に寺領加賀郡大野荘内黒田・無量寺領村を安堵せしめ給ふ。(天龍寺文書) | 正平11年、文和5年、延文元年7月26日 | 225 |
| 474 後光厳院、山城臨川寺に寺領加賀郡大野荘内黒田・無量寺領村を安堵せしめ給ふ。(天龍寺文書) | 正平11年、文和5年、延文元年7月26日 | 225 |
| 475 某、石川郡白山宮長吏にその免田上林郷の下地を交付す。(白山比咩神社文書) | 正平11年、文和5年、延文元年7月26日 | 225 |
| 476 大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地を売渡す。(白山比咩神社文書) | 正平11年、文和5年、延文元年8月5日 | 226 |
| 477 後光厳院、石川郡白山宮及び金劔宮神人の山城臨川寺領加賀郡大野荘段米・升米を濫妨するを停めしめ給ふ。(臨川寺文書) | 正平11年、文和5年、延文元年8月16日 | 226 |
| 478 大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) | 正平11年、文和5年、延文元年8月25日 | 226 |
| 479 幕府、加賀守富樫氏春をして、石川郡白山宮及び金劔宮神人の山城臨川寺領加賀郡大野荘段米・升米を濫妨するを停めしむ。(臨川寺重書案文) | 正平11年、文和5年、延文元年8月28日 | 227 |
正平12年、延文2年(1357) | 480 幕府、加賀守富樫氏春をして、江沼郡額田・八田両荘の料所たるを停め、その領主に安堵せしむ。(森文書) | 正平12年、延文2年2月13日 | 227 |
| 481 妙成、石川郡上林郷内の田地を白山宮阿仏坊に質とす。(白山比咩神社文書) | 正平12年、延文2年3月28日 | 228 |
| 482 惟宗経光、能登守護吉見氏頼の命により、天野遠政に鹿島郡能登島野崎・飯浦二村を交付す。(天野文書) | 正平12年、延文2年7月2日 | 228 |
| 483 石川郡白山宮、本社及び荒御前社の遷宮を行ふ。(白山比咩神社文書) | 正平12年、延文2年11月16日 | 228 |
正平13年、延文3年(1358) | 484 長谷部信氏、鳳至郡総持寺に櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平13年、延文3年11月4日 | 229 |
正平14年、延文4年(1359) | 485 得田章名、猶子乙王丸に、羽咋郡得田庄の地頭職を譲る。(得田文書) | 正平14年、延文4年3月25日 | 229 |
| 486 富樫用家、石川郡祇陀寺に禁制を掲ぐ。(祇陀寺文書) | 正平14年、延文4年6月 | 230 |
| 487 能登守護吉見氏頼、同国の士得江石王丸の従軍を促す。(得江文書) | 正平14年、延文4年7月6日 | 230 |
| 488 能登の士得田乙王丸代大隅貞章、越中に於ける軍忠を具申して証判を求む。(得田文書) | 正平14年、延文4年11月 | 230 |
| 489 後光厳院、中院通冬に江沼郡額田荘及び加納八田荘等を安堵せしめ給ふ。(中院文書) | 正平14年、延文4年12月19日 | 231 |
正平15年、延文5年(1360) | 490 吉見右馬助、鹿島郡永光寺に禁制を掲ぐ。(永光寺旧記) | 正平15年、延文5年2月22日 | 231 |
| 491 武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷、その年貢済物結解を同寺に送進す。(称名寺文書) | 正平15年、延文5年閏4月25日 | 231 |
| 492 石川郡白山宮衆徒承儀、大師講法筵に於いて無礼あるに依り過失に処せらる。(白山比咩神社文書) | 正平15年、延文5年11月24日 | 233 |
正平16年、延文6年、康安元年(1361) | 493 富樫用家、富樫氏春の遺命に従ひて、勘解由小路の女房に加賀郡北英田保内気屋村の田畠を譲与す。(美吉文書) | 正平16年、延文6年、康安元年8月25日 | 233 |
| 494 足利義詮、加賀の士狩野義茂に、加賀郡若松荘を安堵せしむ。(狩野文書) | 正平16年、延文6年、康安元年12月15日 | 234 |
| 495 長谷部秀連、総持寺ゑんせう首座に田地を譲与す。(総持寺文書) | 正平16年、延文6年、康安元年12月25日 | 234 |
正平17年、康安2年、貞治元年(1362) | 496 足利義詮、能登守護吉見氏頼をして、地頭御家人を督して共に桃井直和を越中に討たしむ。(吉見文書) | 正平17年、康安2年、貞治元年1月23日 | 234 |
| 497 峨山紹碩、鳳至郡総持寺未来住持職のことを定む。(総持寺文書) | 正平17年、康安2年、貞治元年2月9日 | 235 |
| 498 仮掲(天野文書) | 正平17年、康安2年、貞治元年4月25日 | 235 |
| 499 足利義詮、能登守護吉見氏頼の鹿島郡石動山合戦の報を得、援兵を遣はすべきを告ぐ。(古蹟文徴) | 正平17年、康安2年、貞治元年5月22日 | 235 |
| 500 足利義詮、能登守護吉見氏頼の羽咋郡富来院木尾城に於ける合戦の報を得、之を激励す。(古蹟文徴) | 正平17年、康安2年、貞治元年5月28日 | 236 |
| 501 足利義詮、能登守護吉見氏頼の鹿島郡石動山合戦に於ける勲功を賞してこれに感状を与ふ。(温故古文抄) | 正平17年、康安2年、貞治元年6月8日 | 236 |
| 502 足利義詮、能登守護吉見氏頼の羽咋郡富来院尾崎城を攻落したるを賞してこれに感状を与ふ。(吉見文書) | 正平17年、康安2年、貞治元年8月1日 | 236 |
| 503 足利義詮、能登守護吉見氏頼の敵将桃井直広等を降参せしめたるを賞しその処分を令す。(吉見文書) | 正平17年、康安2年、貞治元年8月3日 | 236 |
| 504 足利義詮、能登守護吉見氏頼の羽咋郡富来院木尾城を攻落したるを賞してこれに感状を与ふ。(吉見文書) | 正平17年、康安2年、貞治元年8月3日 | 237 |
| 505 能登守護吉見氏頼、諏訪神左衛門尉の鹿島郡能登島御厨東方地頭職を掠むるを停め、天野遠政に安堵せしめられんことを幕府に請ふ。(天野文書) | 正平17年、康安2年、貞治元年8月5日 | 237 |
| 506 能登守護吉見氏頼、諏訪神左衛門尉の鹿島郡能登島御厨東方地頭職を掠むるを停め、天野遠政に安堵せしめられんことを幕府に請ふ。(天野文書) | 正平17年、康安2年、貞治元年8月5日 | 237 |
正平18年、貞治2年(1363) | 507 後光厳院、中院通氏に、江沼郡額田荘及び加納八田荘等を安堵せしめ給ふ。(中院文書) | 正平18年、貞治2年1月19日 | 238 |
| 508 嶋田光次、珠洲郡本光寺に若山郷下包正名の田地を寄進す。(本光寺文書) | 正平18年、貞治2年5月20日 | 238 |
| 509 幕府、長木工左衛門入道珠阿の後家法信に、先に闕所としたる羽咋郡土田上村の内の地頭職を還付す。(長家伝書) | 正平18年、貞治2年7月29日 | 238 |
| 510 のりのぶ、甥十郎ひでつらに、鳳至郡櫛比荘の内の田地を譲与す。(総持寺文書) | 正平18年、貞治2年11月15日 | 238 |
正平19年、貞治3年(1364) | 511 鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) | 正平19年、貞治3年8月22日 | 239 |
| 512 鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) | 正平19年、貞治3年8月22日 | 239 |
| 513 鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) | 正平19年、貞治3年8月22日 | 239 |
| 514 鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) | 正平19年、貞治3年8月22日 | 239 |
| 515 鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) | 正平19年、貞治3年8月22日 | 239 |
| 516 鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) | 正平19年、貞治3年8月22日 | 239 |
| 517 鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) | 正平19年、貞治3年8月22日 | 239 |
| 518 足利義詮、加賀守護富樫昌家をして、白山衆徒の山城臨川寺領加賀郡大野荘に諸公事を停めしむ。(臨川寺重書案文) | 正平19年、貞治3年10月22日 | 240 |
| 519 兵庫允惟清、鳳至郡内保村尼空勝知行分の河成を認む。(総持寺文書) | 正平19年、貞治3年12月11日 | 241 |
| 520 峨山紹碩、再び鳳至郡総持寺住持職のことに就いて垂示す。(総持寺文書) | 正平19年、貞治3年12月13日 | 241 |
| 521 足利義詮、山城南禅寺領能美郡得橋郷等に旧の如く国司・諸司等の入部を停め、諸役を免除す。(南禅寺文書) | 正平19年、貞治3年12月26日 | 241 |
正平20年、貞治4年(1365) | 522 足利義詮、加賀守護富樫昌家に命じて、大和春日社造替料棟別銭をその国内に徴せしむ。(春日神社文書) | 正平20年、貞治4年2月5日 | 242 |
| 523 足利義詮、能登守護吉見氏頼に命じて、大和春日社造替料棟別銭をその国内に徴せしむ。(春日神社文書) | 正平20年、貞治4年2月5日 | 242 |
| 524 尼しゆ一、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平20年、貞治4年3月8日 | 242 |
| 525 尼りやうご、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平20年、貞治4年5月15日 | 243 |
| 526 後光厳院、山城北野社領羽咋郡菅原荘を社家に付し、神用を全うせしめ給ふ。(北野神社古文書) | 正平20年、貞治4年7月30日 | 243 |
| 527 後光厳院、山城北野社領羽咋郡菅原荘を社家に付し、神用を全うせしめ給ふ。(北野神社古文書) | 正平20年、貞治4年7月30日 | 243 |
正平21年、貞治5年(1366) | 528 長木工左衛門入道珠阿、その孫女に、羽咋郡土田荘上村地頭職を譲与す。(天野文書) | 正平21年、貞治5年2月4日 | 244 |
| 529 鳳至郡来迎時の僧有海、虎法師丸に寺田一段を譲与す。(来迎寺文書) | 正平21年、貞治5年6月25日 | 244 |
| 530 後光厳院、天台座主入道尊道親王をして、近江延暦寺中堂闕所に山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしめ給ふ。(臨川寺重書案文) | 正平21年、貞治5年8月11日 | 245 |
| 531 後光厳院、天台座主入道尊道親王をして、近江延暦寺中堂闕所に山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしめ給ふ。(臨川寺重書案文) | 正平21年、貞治5年8月11日 | 245 |
| 532 幕府、加賀守護富樫昌家をして、進士為行に、能美郡山下郷比楽村の地頭職を交付せしむ。(猪熊文書) | 正平21年、貞治5年9月24日 | 245 |
| 533 鳳至郡総持寺、峨山紹碩の遺物を門下に頒つ。(総持寺文書) | 正平21年、貞治5年10月28日 | 245 |
| 534 大源宗真等、鳳至郡総持寺常住文書の目録を注す。(総持寺文書) | 正平21年、貞治5年12月5日 | 246 |
| 535 吉見右馬頭、長木工左衛門後家法信の孫女に、羽咋郡土田上村を安堵せしめ軍勢衆庶の乱入を禁ず。(長伝書) | 正平21年、貞治5年12月15日 | 247 |
正平22年、貞治6年(1367) | 536 長谷部氏の女瑠璃若、鳳至郡総持寺塔頭法光院に櫛比庄内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平22年、貞治6年2月9日 | 248 |
| 537 せんしん、ちやうとく寺に、珠洲郡正院郷蔵見村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平22年、貞治6年3月14日 | 248 |
| 538 珠洲郡高座宮別当高勝寺院主快成、本経田の配分を定む。(須須神社文書) | 正平22年、貞治6年7月 | 249 |
| 539 足利義詮、山城石清水八幡宮別当善法寺了清に、同宮領能美郡能美荘地頭職を安堵せしむ。(菊大路文書) | 正平22年、貞治6年8月11日 | 249 |
| 540 足利義詮、近江延暦寺造講堂関所をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしむ。(臨川寺重書案文) | 正平22年、貞治6年8月21日 | 249 |
| 541 長谷部義勝、鳳至郡総持寺塔頭法光院に櫛比荘の田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平22年、貞治6年9月14日 | 250 |
| 542 足利義詮、進士為行の領能美郡比楽村を他所と交換せしむ。(古券書) | 正平22年、貞治6年9月15日 | 250 |
| 543 後光厳院、山城南禅寺領能美郡得橋郷勅役・院役以下を免除せしめ給ふ。(南禅寺文書) | 正平22年、貞治6年10月2日 | 251 |
| 544 尼見祐、鳳至郡総持寺塔頭法光院に櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平22年、貞治6年11月1日 | 251 |
| 545 石川郡白山宮惣長吏澄全、千代鶴に、横江中荘の田地を譲与す。(白山比咩神社文書) | 正平22年、貞治6年12月13日 | 252 |
正平23年、貞治7年、応安元年(1368) | 546 沙弥宗悟、鳳至郡総持寺延寿堂に田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平23年、貞治7年、応安元年3月20日 | 252 |
| 547 沙弥宗悟、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平23年、貞治7年、応安元年4月20日 | 253 |
| 548 能登守護吉見氏頼、得江季員に本知行を還付せしむ。(得江文書) | 正平23年、貞治7年、応安元年7月2日 | 253 |
| 549 能登守護吉見氏頼、得江季員に本知行を還付せしむ。(得江文書) | 正平23年、貞治7年、応安元年7月2日 | 253 |
| 550 能登守護吉見氏頼、得江季員の当知行に軍勢衆庶の乱入を禁ず。(得江文書) | 正平23年、貞治7年、応安元年7月2日 | 254 |
| 551 左衛門尉宗成、珠洲郡本光寺に馬繋村吉弘名の地を寄進す。(本光寺文書) | 正平23年、貞治7年、応安元年8月7日 | 254 |
正平24年、応安2年(1369) | 552 吉見右馬頭、鹿島郡永光寺に禁制を掲ぐ。(永光寺文書) | 正平24年、応安2年5月1日 | 254 |
| 553 沙弥宗悟、鳳至郡総持寺に櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平24年、応安2年10月3日 | 254 |
| 554 沙弥宗悟、鳳至郡総持寺に法堂造営料として櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 正平24年、応安2年11月20日 | 254 |
| 555 能登の士得江季員、能登・加賀・越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得江文書) | 正平24年、応安2年12月 | 255 |
| 556 能登の士得田章房、能登・加賀・越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) | 正平24年、応安2年12月 | 256 |
正平25年、建徳元年、応安3年(1370) | 557 能登守吉見氏頼、鹿島郡永光寺領羽咋郡湊保北方の寄進地に軍勢衆庶の乱入狼藉を停む。(永光寺文書) | 正平25年、建徳元年、応安3年2月18日 | 257 |
| 558 能登の士得田章親、加賀・越中・能登に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) | 正平25年、建徳元年、応安3年3月 | 257 |
| 559 後光厳院、山城北野社の社家に、同社領羽咋郡菅原荘を旧の如く交付せしめ給ふ。(北野神社古文書) | 正平25年、建徳元年、応安3年9月18日 | 257 |
建徳2年、応安4年(1371) | 560 後円融院、範恵に、山城新熊野社領鳳至郡櫛比御厨三分一下地を安堵せしめ給ふ。(新熊野神社文書) | 建徳2年、応安4年3月25日 | 258 |
| 561 幕府、吉見右馬頭入道の注進に依り、能登の士得江季員の去々年北国に於ける軍忠を賞す。(得江文書) | 建徳2年、応安4年4月25日 | 258 |
| 562 能登守護吉見氏頼、得江季員の軍忠に対して幕府に恩賞を請ふ。(得江文書) | 建徳2年、応安4年8月28日 | 258 |
| 563 大源宗真、鹿島郡永光寺の置銭注文を作る。(永光寺文書) | 建徳2年、応安4年9月 | 258 |
| 564 尼祖一、鳳至郡総持寺塔頭大雄庵に、羽咋郡湊保北方の田地を寄進す。(総持寺文書) | 建徳2年、応安4年10月26日 | 259 |
| 565 能登の士得田章房、伊勢に於ける軍忠を具申して吉見兵部大輔の証判を求む。(得田文書) | 建徳2年、応安4年10月 | 259 |
| 566 能登の士得田章親、伊勢に於ける軍忠を具申して吉見兵部大輔の証判を求む。(得田文書) | 建徳2年、応安4年10月 | 260 |
建徳3年、文中元年、応安5年(1372) | 567 幕府、吉見右馬頭入道をして、山城南禅寺領鳳至郡櫛比保地頭職を同寺雑掌に交付せしむ。(南禅寺文書) | 建徳3年、文中元年、応安5年3月12日 | 260 |
| 568 珠洲郡春日野白山社の獅子頭成る。(春日野白山社獅子頭銘) | 建徳3年、文中元年、応安5年5月 | 261 |
| 569 幕府、加賀守護富樫昌家をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘湊着岸の商舟に公事課役を停めしむ。(臨川寺重書案文) | 建徳3年、文中元年、応安5年6月2日 | 261 |
| 570 幕府、五井頼持に、珠洲郡正院郷伏見等の地を知行せしむ。(吉見文書) | 建徳3年、文中元年、応安5年6月23日 | 261 |
| 571 幕府、五井頼持に、珠洲郡正院郷伏見等の地を知行せしむ。(吉見文書) | 建徳3年、文中元年、応安5年7月18日 | 261 |
| 572 幕府、五井頼持に、珠洲郡正院郷伏見等の地を知行せしむ。(吉見文書) | 建徳3年、文中元年、応安5年7月23日 | 262 |
文中2年、応安6年(1373) | 573 尼妙貞、鹿島郡永光寺に、羽咋郡湊保北方の内の田地を寄進す。(永光寺文書) | 文中2年、応安6年3月15日 | 262 |
| 574 後円融院、若狭東口御服所関をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘等の年貢を勘過せしめ給ふ。(天龍寺文書) | 文中2年、応安6年閏10月10日 | 263 |
| 575 後円融院、若狭東口御服所関をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘等の年貢を勘過せしめ給ふ。(臨川寺文書) | 文中2年、応安6年閏10月11日 | 263 |
| 576 上道氏平、石川郡白山宮に、久武保の内の田地を売渡す。(白山比咩神社文書) | 文中2年、応安6年11月28日 | 263 |
文中3年、応安7年(1374) | 577 加賀守護富樫昌家、英田次郎四郎をして、能美郡長野・一針を山城石清水八幡宮の雑掌に交付せしむ。(石清水文書) | 文中3年、応安7年5月18日 | 264 |
| 578 僧長秀、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、春秋時正勤行の料足を施入す。(須須神社文書) | 文中3年、応安7年12月 | 264 |
文中4年、天授元年、応安8年、永和元年(1375) | 579 左衛門尉氏信、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年2月9日 | 264 |
| 580 仮掲(伝灯余光) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年2月24日 | 265 |
| 581 長谷部正連、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を沽却す。(総持寺文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年7月25日 | 266 |
| 582 長谷部正連、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年7月25日 | 266 |
| 583 長谷部正連、鳳至郡総持寺に田地を寄進す。(総持寺文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年8月22日 | 266 |
| 584 足利義満、加賀の士狩野義茂に、江沼郡福田本郷の一分地頭職を安堵せしむ。(狩野文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年8月27日 | 267 |
| 585 長谷部正連、沙弥宗悟が鳳至郡総持寺に田地を寄進せるに承認の添状を与ふ。(総持寺文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年8月28日 | 267 |
| 586 預所越前守光盛、領家日野資数の命により、珠洲郡満福寺に木郎郷松波の地を安堵せしむ。(満福寺文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年12月2日 | 267 |
| 587 預所越前守光盛、領家日野資数の命により、珠洲郡法住寺に祈祷の精誠を致さしむ。(法住寺文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年12月5日 | 268 |
| 588 預所越前守光盛、領家日野資数の命により、珠洲郡満福寺に木郎郷の内を寄進す。(満福寺文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年12月7日 | 268 |
| 589 武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷、その年貢済物を注進す。(称名寺文書) | 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年是歳 | 268 |
天授2年、永和2年(1376) | 590 沙弥某、僧賢海に、鳳至郡宝泉寺護摩堂田を管領せしむ。(宝泉寺文書) | 天授2年、永和2年4月19日 | 269 |
| 591 長谷部玄幸、鳳至郡総持寺に、定賢の寄進せる田畠敷地を安堵せしむ。(総持寺文書) | 天授2年、永和2年9月4日 | 269 |
| 592 鹿島郡永光寺布薩廻向人数の注文を伝写す。(永光寺文書) | 天授2年、永和2年9月29日 | 270 |
| 593 左衛門尉宗成、珠洲郡本光寺に、馬繋村恒利名の田地を寄進す。(本光寺文書) | 天授2年、永和2年11月9日 | 270 |
天授3年、永和3年(1377) | 594 武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷代官僧霊康、政所屋放火・郷内検注のこと等を同寺に注進す。(称名寺文書) | 天授3年、永和3年2月 | 271 |
| 595 僧仏心、日課六万遍念仏の碑を羽咋郡町居に建設す。(町居名号碑) | 天授3年、永和3年5月15日 | 271 |
| 596 荘主彦寿、鳳至郡宝泉寺に、櫛比荘内の田畠を寄進す。(宝泉寺文書) | 天授3年、永和3年8月25日 | 271 |
| 597 沙弥立阿、得江季員に、羽咋郡志雄保の地を交付す。(天野文書) | 天授3年、永和3年11月19日 | 272 |
天授4年、永和4年(1378) | 598 長谷部芝叟、鳳至郡総持寺に、櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 天授4年、永和4年4月27日 | 272 |
| 599 珠洲郡若山荘領家日野資数、二郎兵衛某を同郡馬繋村恒俊名の名主職に補す。(本光寺文書) | 天授4年、永和4年6月26日 | 272 |
| 600 長谷部正連、鳳至郡総持寺に、その寺領おのや谷を寄進す。(総持寺文書) | 天授4年、永和4年9月24日 | 273 |
| 601 長谷部正連、鳳至郡総持寺に、その寺領おのや谷を寄進す。(総持寺文書) | 天授4年、永和4年9月24日 | 273 |
| 602 鳳至郡総持寺五院の住持等、互に本寺の維持を喜ぶ。(総持寺文書) | 天授4年、永和4年10月23日 | 273 |
| 603 通幻寂霊等、鹿島郡永光寺の住持は鳳至郡総持寺の東堂位にありたる者より選ぶべきことを定む。(総持寺文書) | 天授4年、永和4年10月23日 | 274 |
| 604 善法寺了清、山城石清水八幡宮領能美郡能美本荘・長野・一針三ヶ村三分一の下地を同荘保善院に管領せしむ。(両足院文書) | 天授4年、永和4年11月20日 | 274 |
天授5年、永和5年、康暦元年(1379) | 605 弥郡時具、養子若正丸に、鳳至郡大澤村の地頭職を譲る。(筒井文書) | 天授5年、永和5年、康暦元年1月11日 | 275 |
| 606 仮掲(総持寺文書) | 天授5年、永和5年、康暦元年2月3日 | 275 |
| 607 仮掲(総持寺文書) | 天授5年、永和5年、康暦元年2月3日 | 276 |
| 608 沙弥宗悟、鳳至郡総持塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) | 天授5年、永和5年、康暦元年2月8日 | 276 |
| 609 鳳至郡総持寺侍者、寺領小野谷田畠の目録を注す。(総持寺文書) | 天授5年、永和5年、康暦元年2月28日 | 277 |
| 610 吉見氏頼、弥郡若正丸に、その所領鳳至郡大澤村五分二を安堵せしむ。(筒井文書) | 天授5年、永和5年、康暦元年4月13日 | 277 |
| 611 幕府、加賀守護富樫昌家をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の米運上舟を抑留するを停めしむ。(臨川寺重書案文) | 天授5年、永和5年、康暦元年閏4月8日 | 278 |
| 612 足利義満、摂津能直の領加賀郡倉月荘を守護不入の地と為す。(美吉文書) | 天授5年、永和5年、康暦元年6月19日 | 278 |
| 613 幕府、加賀守護富樫昌家をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘に臨時役を課するを停めしむ。(臨川寺重書案文) | 天授5年、永和5年、康暦元年7月28日 | 278 |
| 614 幕府、加賀守護富樫昌家をして、山城臨川寺領加賀郡大野庄より掠奪せる米銭を寺家に返付せしむ。(臨川寺重書案文) | 天授5年、永和5年、康暦元年9月21日 | 278 |
天授6年、康暦2年(1380) | 615 僧宗義、鳳至郡総持寺塔頭法光院に諸岡村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 天授6年、康暦2年3月2日 | 279 |
| 616 幕府、足利義満が山城宝幢寺に寄進したる加賀郡倉月荘松寺村・赤浜村等を同寺雑掌に交付せしむ。(鹿王院文書) | 天授6年、康暦2年6月2日 | 279 |
| 617 幕府、武蔵金沢称名寺が刑部少輔長康の所領と交換したる同寺領能美郡軽海郷を安堵せしむ。(称名寺文書) | 天授6年、康暦2年8月3日 | 280 |
| 618 鳳至郡総持寺門下の僧衆、その開山忌並びに二代忌出仕に就きて連署状を作る。(総持寺文書) | 天授6年、康暦2年10月20日 | 280 |
| 619 光景、鳳至郡総持寺に、その寺領聖天供田を交付す。(総持寺文書) | 天授6年、康暦2年11月11日 | 280 |
天授7年、弘和元年、康暦3年、永徳元年(1381) | 620 弥郡時具、その女房に、鳳至郡大澤村の内の田地を譲る。(筒井文書) | 天授7年、弘和元年、康暦3年、永徳元年7月12日 | 281 |
| 621 足利義満、武蔵金沢称名寺が刑部少輔長康の所領と交換したる同寺領能美郡軽海郷を安堵せしむ。(称名寺文書) | 天授7年、弘和元年、康暦3年、永徳元年8月3日 | 281 |
| 622 某、鳳至郡総持寺延寿堂に、櫛比荘浦上村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 天授7年、弘和元年、康暦3年、永徳元年11月13日 | 282 |
弘和2年、永徳2年(1382) | 623 志津浦時長等、鳳至郡大澤村黒杉分の文書紛失に就いて置文を作る。(筒井文書) | 弘和2年、永徳2年2月18日 | 282 |
| 624 幕府、近江守護六角満高をして、同国船木関所に山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしむ。(臨川寺重書案文) | 弘和2年、永徳2年2月21日 | 282 |
| 625 幕府、近江守護六角満高をして、同国船木関所に山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしむ。(臨川寺重書案文) | 弘和2年、永徳2年4月27日 | 283 |
| 626 左衛門大尉藤原某、鳳至郡総持寺に、櫛比庄内保村の田地を安堵せしむ。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年2月22日 | 283 |
| 627 長谷部正連、鳳至郡林丘庵に田地を寄進す。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年3月2日 | 283 |
| 628 長谷部正連、鳳至郡総持寺に田地を寄進す。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年3月6日 | 284 |
| 629 長谷部正連、鳳至郡総持寺に仏餉田を寄進す。(臨川寺重書案文) | 弘和2年、永徳2年3月晦日 | 284 |
| 630 幕府、近江延暦寺に命じ、同国船木関所をして山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を勘過せしむ。(臨川寺重書案文) | 弘和2年、永徳2年6月21日 | 285 |
| 631 通幻寂霊、鳳至郡総持寺塔頭大雄庵領の田地目録を注す。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年6月 | 285 |
| 632 通幻寂霊、鳳至郡総持寺塔頭大雄庵領の田地目録を注す。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年6月 | 285 |
| 633 足利義満、狩野忠家に、江沼郡菅浪郷地頭公文両職及び菅生社神主職を安堵せしむ。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年8月10日 | 286 |
| 634 通幻寂霊、鳳至郡総持寺仏殿の造立目録を注す。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年8月 | 287 |
| 635 了宗、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を交付す。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年10月13日 | 287 |
| 636 通幻寂霊、鳳至郡総持寺の住持職は集会評定によるべき置文を定む。() | 弘和2年、永徳2年10月20日 | 288 |
| 637 通幻寂霊、鳳至郡総持寺常住文書の目録を注す。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年10月 | 288 |
| 638 鳳至郡総持寺侍者、新寄進田地目録を注す。(総持寺文書) | 弘和2年、永徳2年10月 | 289 |
| 639 足利義満、山城宝幢寺に、同寺領加賀郡倉月荘松寺村・赤浜村を安堵せしむ。(鹿王院文書) | 弘和2年、永徳2年12月17日 | 290 |
弘和3年、永徳3年(1383) | 640 高間義勝、鳳至郡総持寺に田地を交付す。(総持寺文書) | 弘和3年、永徳3年3月26日 | 291 |
| 641 高間義勝、鳳至郡総持寺に田地を交付す。(菊大路文書) | 弘和3年、永徳3年4月27日 | 291 |
| 642 吉見氏頼、同伊予入道をして、治田筑後入道の羽咋郡得田荘内を違乱するを停めて、得田章房に交付せしむ。(得田文書) | 弘和3年、永徳3年7月10日 | 291 |
| 643 吉見氏頼、同伊予入道をして、治田筑後入道の羽咋郡得田荘内を違乱するを停めて、得田章房に交付せしむ。(得田文書) | 弘和3年、永徳3年11月15日 | 291 |
| 644 宗頼、鳳至郡総持寺に、櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 弘和3年、永徳3年10月20日 | 292 |
弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年(1384) | 645 長谷部正連、僧宗義の鳳至郡諸岡村の内を総持寺に寄進したることを承認す。(総持寺文書) | 弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年7月16日 | 293 |
| 646 幕府、近江延暦寺諸関所をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を勘過せしむ。(臨川寺重書案文) | 弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年9月20日 | 293 |
| 647 後小松院、山城宝幢寺領加賀郡倉月荘内松寺村・赤浜村の諸役を免除し給ふ。(鹿王院文書) | 弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年11月3日 | 293 |
| 648 石川郡白山宮正殿及び大拝殿の上棟式を行ふ。(白山比咩神社文書) | 弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年11月19日 | 294 |
元中2年、至徳2年(1385) | 649 幕府、近江延暦寺の七ヶ所関務衆徒をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を勘過せしむ。(臨川寺重書案文) | 元中2年、至徳2年3月2日 | 294 |
| 650 加賀守護富樫昌家、山城東寺をして、江沼郡金屋鋳物師の請により同郡菅生社造営棟別役の催促を停めしむ。(東寺文書) | 元中2年、至徳2年4月3日 | 295 |
元中2年、至徳2年(1385) | 651 幕府、山城東寺鎮守八幡宮をして、同宮料所石川郡相河村西方及び長屋村を安堵せしむ。(東寺文書) | 元中2年、至徳2年4月27日 | 295 |
| 652 幕府、加賀守護富樫昌家をして、その被官人の山城祗園社領加賀郡萱野保を押領するを停めしむ。(祗園社記) | 元中2年、至徳2年7月24日 | 295 |
| 653 足利義満、山城南禅寺領石川郡笠間東保内黒瀬猿平五郎名の地頭笠間用盛を罷め、之を寺家に知行せしむ。(南禅寺文書) | 元中2年、至徳2年10月7日 | 296 |
| 654 左衛門尉宗成、鳳至郡総持寺に同寺領を安堵せしむ。(総持寺文書) | 元中2年、至徳2年11月 | 296 |
元中3年、至徳3年(1386) | 655 足利義満、石見法眼禅厳に、山城北野社領羽咋郡菅原荘半分を知行せしむ。(北野神社古文書) | 元中3年、至徳3年1月28日 | 296 |
| 656 造営所、加賀造営大使をして、江沼郡熊坂荘領家方役夫工米のことにつき就き地下の譴責を停めしむ。(東福寺文書) | 元中3年、至徳3年9月25日 | 296 |
| 657 大徹宗令、鳳至郡総持寺常住文書の新目録を注す。(総持寺文書) | 元中3年、至徳3年9月29日 | 297 |
| 658 大徹宗令、鳳至郡総持寺法堂造立目録を注す。(総持寺文書) | 元中3年、至徳3年9月29日 | 297 |
| 659 沙弥智円、山城祗園社領加賀郡萱野村の代官請文を出す。(祗園社記) | 元中3年、至徳3年11月10日 | 299 |
元中4年、至徳4年、嘉慶元年(1387) | 660 山城天龍寺、石川郡横江荘等の寺領を注し、足利義満の証判を求む。(天龍寺文書) | 元中4年、至徳4年、嘉慶元年閏5月1日 | 300 |
| 661 幕府、加賀守護斯波義種をして、加賀郡倉月荘を摂津能秀代に交付せしむ。(美吉文書) | 元中4年、至徳4年、嘉慶元年6月15日 | 301 |
元中3年、至徳3年(1386) | 662 幕府、加賀守護斯波義種をして、加賀郡倉月荘を摂津能秀代に交付せしむ。(美吉文書) | 元中3年、至徳3年12月8日 | 301 |
元中5年、嘉慶2年(1388) | 663 上使某、鳳至郡総持寺に同寺田地を安堵せしむ。(総持寺文書) | 元中5年、嘉慶2年4月20日 | 301 |
| 664 後小松院、山城東福寺領江沼郡熊坂荘の諸役を免除せしめ給ふ。(東福寺文書) | 元中5年、嘉慶2年5月25日 | 301 |
| 665 幕府、加賀守護斯波義種をして、山城祇園社領加賀郡萱野保を濫妨するを停めしむ。(祗園社記) | 元中5年、嘉慶2年12月14日 | 302 |
元中6年、嘉慶3年、康応元年(1389) | 666 仮掲(来迎寺文書) | 元中6年、嘉慶3年、康応元年2月15日 | 303 |
| 667 三阿等、鳳至郡総持寺に用途請取状を出す。(総持寺文書) | 元中6年、嘉慶3年、康応元年3月12日 | 303 |
| 668 貞慶、珠洲郡高座宮高勝寺に懇志を有する輩の高座宮に寄進する神馬は、同寺をして受理せしむ。(須須神社文書) | 元中6年、嘉慶3年、康応元年10月 | 303 |
元中7年、康応2年、明徳元年(1390) | 669 仮掲(須須神社文書) | 元中7年、康応2年、明徳元年1月25日 | 304 |
| 670 足利義満、山城北野社領石川郡笠間の地頭職を同社家に付せしむ。(北野神社目安以下色々事) | 元中7年、康応2年、明徳元年閏3月18日 | 304 |
| 671 足利義満、山城北野社領石川郡笠間の地頭職を同社家に付せしむ。(北野神社目安以下色々事) | 元中7年、康応2年、明徳元年閏3月25日 | 304 |
| 672 幕府、加賀守護斯波義種をして、山城北野社領石川郡笠間の下地をその雑掌に沙汰付せしむ。(北野神社目安以下色々事) | 元中7年、康応2年、明徳元年4月19日 | 305 |
| 673 足利義満、石川郡笠間保の下地に対する山城石清水八幡宮雑掌と北野雑掌との争論を裁決す。(北野神社目安以下色々事) | 元中7年、康応2年、明徳元年6月21日 | 305 |
| 674 政所某、鳳至郡総持寺に、山城賀茂社の造営用途を納む。(総持寺文書) | 元中7年、康応2年、明徳元年10月8日 | 306 |
| 675 通幻寂霊等、鳳至郡総持寺住持職以下のことに関する置文を注す。(総持寺文書) | 元中7年、康応2年、明徳元年10月20日 | 306 |
| 676 足利義満、小早川実忠に、石川郡有松村の地頭職を知行せしむ。(室町家御内書案) | 元中7年、康応2年、明徳元年12月24日 | 306 |
元中8年、明徳2年(1391) | 677 幕府、斯波義重をして、石川郡有松村地頭職を小早川実忠に交付せしむ。(室町家御内書案) | 元中8年、明徳2年5月9日 | 307 |
| 678 幕府、斯波義重をして、石川郡有松村地頭職を小早川実忠に交付せしむ。(室町家御内書案) | 元中8年、明徳2年6月19日 | 307 |
| 679 幕府、斯波義重をして、石川郡有松村地頭職を小早川実忠に交付せしむ。(室町家御内書案) | 元中8年、明徳2年6月23日 | 307 |
| 680 政所某、鳳至郡総持寺に、山城賀茂社の段銭増分用途を納む。(総持寺文書) | 元中8年、明徳2年6月7日 | 308 |
| 681 得田章長、甥小法師丸に、羽咋郡得田保代田村の名田を譲る。(得田文書) | 元中8年、明徳2年8月11日 | 308 |
| 682 鹿島郡永光寺住持祖空等、寺内円通院の行事に就いて置文を注す。(永光寺文書) | 元中8年、明徳2年8月13日 | 308 |
| 683 僧禅署、鹿島郡永光寺に、羽咋郡荻嶋の田地を寄進す。(永光寺文書) | 元中8年、明徳2年11月10日 | 308 |
元中9年、明徳3年、明徳3年(1392) | 684 能登の士得田章長、京内野合戦に於ける軍忠を具申して畠山基国の証判を求む。(得田文書) | 元中9年、明徳3年、明徳3年1月 | 309 |
明徳4年(1393) | 685 江安、鳳至郡総持寺の仏事銭の内を借用す。(総持寺文書) | 明徳4年3月29日 | 309 |
| 686 足利義満、石川郡大乗寺をして、押野荘内の寺領を安堵せしむ。(大乗寺文書) | 明徳4年7月10日 | 310 |
明徳5年、応永元年(1394) | 687 足利義満、山城臨川寺領加賀郡大野荘に、守護使の入部及び白山宮・金剣宮神人の乱入するを停む。(天龍寺文書) | 明徳5年、応永元年3月22日 | 310 |
| 688 政所某、鳳至郡総持寺に十分一用途を納入す。(総持寺文書) | 明徳5年、応永元年12月3日 | 310 |
応永2年(1395) | 689 加賀守護斯波義種、石川郡祇陀寺に、久武保内の地頭職を安堵せしむ。(祇陀寺文書) | 応永2年3月21日 | 310 |
| 690 長谷部玄幸、鳳至郡総持寺々領五段五の国役を停む。(総持寺文書) | 応永2年5月15日 | 311 |
| 691 権少僧都明王坊祐賢、羽咋郡矢駄貴布禰社に御正体を懸く。(矢駄加茂社懸仏裏書) | 応永2年8月12日 | 311 |
応永3年(1396) | 692 能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) | 応永3年3月22日 | 311 |
| 693 能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) | 応永3年3月29日 | 312 |
| 694 能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) | 応永3年3月29日 | 312 |
| 695 能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) | 応永3年3月29日 | 312 |
| 696 能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) | 応永3年4月4日 | 312 |
| 697 能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) | 応永3年11月10日 | 312 |
| 698 足利義満、鹿島郡永光寺に、同寺領羽咋郡若部保等を安堵せしむ。(永光寺文書) | 応永3年7月6日 | 313 |
| 699 造営所、加賀造宮大使をして、造外宮料所加賀郡萱野保に役夫工米の催促を停めしむ。(八坂神社文書) | 応永3年11月5日 | 313 |
応永4年(1397) | 700 僧快尊、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、五部大乗経等を施入す。(須須神社文書) | 応永4年2月 | 313 |
| 701 清原光吉、領家の命により、珠洲郡高座別当高勝寺に大般若田を寄進す。(須須神社文書) | 応永4年4月 | 314 |
| 702 沙弥成覚、養子某首座に、その所領能美郡多田八幡別宮領一分庶子分の田地を譲渡す。(両足院文書) | 応永4年11月18日 | 314 |
| 703 僧栄俊、鳳至郡大川の浜田薬師像を新造す。(浜田薬師像背銘) | 応永4年12月13日 | 314 |
応永5年(1398) | 704 能登守護畠山基国、幕府の命に依り、鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保等を交付せしむ。(永光寺文書) | 応永5年3月23日 | 315 |
| 705 足利義満、加賀守護斯波義種をして、同国の士狩野茂重に加賀郡若松荘地頭職を交付せしむ。(狩野文書) | 応永5年6月8日 | 315 |
| 706 鹿島郡永光寺の十二門派現住等、同寺領の内に塔婆並びに諸堂修理田を定む。(永光寺文書) | 応永5年8月15日 | 315 |
| 707 鹿島郡永光寺の十二門派現住等、同寺領の内に塔婆並びに諸堂修理田を定む。(永光寺中興雑記) | 応永5年8月15日 | 316 |
応永6年(1399) | 708 足利義満、鳳至郡総持寺を祈願寺とし、その敷地山林田畠等を安堵せしむ。(総持寺文書) | 応永6年6月17日 | 317 |
| 709 足利義満、鳳至郡総持寺を祈願寺とし、その敷地山林田畠等を安堵せしむ。(総持寺文書) | 応永6年6月 | 317 |
| 710 足利義満、鳳至郡総持寺を祈願寺とし、その敷地山林田畠等を安堵せしむ。(総持寺文書) | 応永6年7月23日 | 318 |
| 711 足利義満、鳳至郡総持寺を祈願寺とし、その敷地山林田畠等を安堵せしむ。(総持寺文書) | 応永6年7月23日 | 318 |
| 712 山城相国寺、鳳至郡総持寺に、相国寺領櫛比荘内総持寺免田畠を安堵せしむ。(総持寺文書) | 応永6年6月27日 | 318 |
| 713 足利義満、石川郡笠間保の領家年貢に関する山城石清水八幡宮雑掌と北野社雑掌との争論を裁決す。(北野神社目安以下色々事) | 応永6年7月25日 | 319 |
| 714 能登の士得田章光、和泉に於ける軍忠を具申して畠山基国の証判を求む。(得田文書) | 応永6年12月 | 319 |
応永7年(1400) | 715 足利義満、加賀の士狩野茂重に、江沼郡福田荘内狩野彦四郎の旧領を知行せしむ。(狩野文書) | 応永7年7月11日 | 320 |
| 716 幕府、加賀守護斯波義種をして、摂津幸夜叉丸代に加賀郡倉月荘等を交付せしむ。(美吉文書) | 応永7年11月13日 | 320 |
応永9年(1402) | 717 足利義満、山城臨川寺領加賀郡大野荘の諸公事・臨時課役等を免除し、守護使不入の地と為す。(天龍寺文書) | 応永9年2月23日 | 320 |
| 718 足利義満、山城臨川寺領加賀郡大野荘の諸公事・臨時課役等を免除し、守護使不入の地と為す。(天龍寺文書) | 応永10年5月2日 | 321 |
| 719 能登守護畠山基国、鹿島郡永光寺領に、諸公事及び守護役等の催促を停止せしむ。(永光寺文書) | 応永9年6月23日 | 321 |
| 720 天庵禅曙等、鳳至郡総持寺塔頭法光院の入牌その他の寺規を定む。(総持寺文書) | 応永9年8月15日 | 321 |
応永10年(1403) | 721 沙弥惣阿等、珠洲郡正院郷内の下地を往古の例に任せて同郡高座宮の神田となす。(須須神社文書) | 応永10年2月9日 | 322 |
| 722 足利義満、山城南禅寺領能美郡得橋郷等の諸公事以下を免除し、守護使の入部を停む。(南禅寺文書) | 応永10年閏10月28日 | 322 |
| 723 足利義満、山城南禅寺領能美郡得橋郷等の諸公事以下を免除し、守護使の入部を停む。(南禅寺文書) | 応永10年閏10月 | 323 |
| 724 幕府、加賀守護斯波義種をして、山城南禅寺領能美郡得橋郷等に諸公事以下を停止せしむ。(南禅寺文書) | 応永10年11月12日 | 323 |
応永11年(1404) | 725 幕府、近江延暦寺七ヶ所関務衆徒をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を勘過せしむ。(天龍寺文書) | 応永11年9月26日 | 324 |
| 726 鳳至郡重蔵宮の大般若経を書写す。(重蔵神社大般若経奥書) | 応永11年2月22日 | 324 |
| 727 鳳至郡重蔵宮の大般若経を書写す。(重蔵神社大般若経奥書) | 応永11年7月20日 | 324 |
応永12年(1405) | 728 山城相国寺、同寺領鳳至郡櫛比御厨内総持寺領に段銭を免除す。(総持寺文書) | 応永12年5月22日 | 324 |
| 729 山城醍醐寺理性院宗助、宗観僧都に、その管領する院領加賀郡得蔵等を譲与す。(三宝院文書) | 応永12年9月24日 | 324 |
応永13年(1406) | 730 幕府、山城祇園社宝寿院玉寿丸代に、同社領加賀郡萱野保の所領を全うせしむ。(祗園社記) | 応永13年閏6月17日 | 325 |
| 731 幕府、山城祇園社宝寿院玉寿丸代に、同社領加賀郡萱野保の所領を全うせしむ。(祗園社記) | 応永13年閏6月25日 | 325 |
応永14年(1407) | 732 高田中務入道道教、鹿島郡永光寺に、酒井保の山を寄進す。(永光寺文書) | 応永14年11月15日 | 325 |
| 733 高田中務入道道教、鹿島郡永光寺に、酒井保の山を寄進す。(永光寺文書) | 応永14年11月15日 | 326 |
応永15年(1408) | 734 幕府、加賀守護斯波満種をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の諸公事以下を免除し、守護不入の地と為さしむ。(臨川寺重書案文) | 応永15年10月10日 | 326 |
| 735 幕府、加賀守護斯波満種をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の諸公事以下を免除し、守護不入の地と為さしむ。(天龍寺文書) | 応永15年11月20日 | 326 |
| 736 足利義持、狩野茂重に、加賀郡若松荘の地頭職を還付す。(狩野文書) | 応永15年10月19日 | 327 |
| 737 鳳至郡総持寺五院の住持等、同寺内延寿堂領櫛比荘浦上の年貢の使途を定む。(総持寺文書) | 応永15年10月25日 | 327 |
応永16年(1409) | 738 青蓮院門跡義円、若寿丸に、同門跡領能登国衙職を知行せしむ。(明王院文書) | 応永16年3月11日 | 328 |
| 739 足利義持、山城等持院に、同義満の仏事料所として能美郡粟津上下保半分を寄進す。(等持院文書) | 応永16年9月4日 | 328 |
| 740 足利義持、山城等持院に、同義満の仏事料所として能美郡粟津上下保半分を寄進す。(等持院文書) | 応永16年9月10日 | 328 |
| 741 足利義持、山城等持院に、同義満の仏事料所として能美郡粟津上下保半分を寄進す。(等持院文書) | 応永16年9月12日 | 328 |
応永17年(1410) | 742 青蓮院門跡義円、安賀丸に、同門跡領能登国衙を知行せしむ。(明王院文書) | 応永17年5月7日 | 328 |
| 743 加賀守護斯波満種、二宮信濃入道をして、山城勧修寺領江沼郡郡家荘内沽却の地に干渉すること勿らしむ。(尾張文書通覧) | 応永17年7月20日 | 329 |
| 744 沙弥祐信、鹿島郡永光寺に制札を与ふ。(永光寺文書) | 応永17年8月30日 | 329 |
| 745 足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘に役夫工米を免除す。(天龍寺文書) | 応永17年9月10日 | 329 |
| 746 足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘に白山社の段米を免除す。(天龍寺文書) | 応永17年12月26日 | 329 |
| 747 足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘に白山社の段米を免除す。(天龍寺文書) | 応永17年12月26日 | 330 |
応永18年(1411) | 748 足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘に白山社の段米を免除す。(天龍寺文書) | 応永18年2月17日 | 330 |
| 749 足利義持、山城宝幢寺に、同寺領加賀郡倉月荘松寺村・赤浜村等を安堵せしむ。(鹿王院文書) | 応永18年3月17日 | 330 |
応永18年(1411) | 750 能登守護畠山満慶、鳳至郡鵜河保のことに就いて幕府に答申す。(吉見文書) | 応永18年4月3日 | 331 |
| 751 石川郡金剣宮住侶超衡、同宮に、大般若経を寄進す。(金剣宮旧蔵大般若経奥書) | 応永18年6月1日 | 331 |
| 752 足利義持、山城伏見稲荷社に、社領石川郡針道荘を直務せしむ。(伏見稲荷神社文書) | 応永18年8月28日 | 331 |
| 753 尼めうほん、天野慶景に、羽咋郡土田上村半分の地頭職を譲与す。(天野文書) | 応永18年10月1日 | 331 |
| 754 幕府、山城勧修寺に、同寺領江沼郡郡家荘を安堵せしむ。(勧修寺文書) | 応永18年10月27日 | 332 |
| 755 足利義持、山城石清水八幡宮別当宋清に命じて、その末社能美郡多太社知行乃美・長野・一針荘に別人を補任せしむ。(菊大路文書) | 応永18年閏10月14日 | 332 |
応永19年(1412) | 756 足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘を守護使不入の地を為し、庄内居住人の守護被官たるを禁ず。(天龍寺文書) | 応永19年5月4日 | 333 |
| 757 足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘を守護使不入の地を為し、庄内居住人の守護被官たるを禁ず。(臨川寺文書) | 応永19年5月12日 | 333 |
| 758 足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘を守護使不入の地を為し、庄内居住人の守護被官たるを禁ず。(臨川寺文書) | 応永19年5月3日 | 333 |
| 759 光林寺賢□、慈尊院に、山城勧修寺領江沼郡郡家荘上郷内増覚名年貢銭のことに就き請文を出す。(勧修寺文書) | 応永19年6月15日 | 334 |
| 760 足利義持、吉見家貞に、珠洲郡正院郷伏見等の地を安堵せしむ。(吉見文書) | 応永19年7月2日 | 334 |
| 761 能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡北浦一分地頭職を安堵せしむ。(天野文書) | 応永19年8月11日 | 334 |
応永20年(1413) | 762 能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡北浦一分地頭職を安堵せしむ。(天野文書) | 応永20年3月23日 | 335 |
| 763 足利義持、石川郡大乗寺に、同寺領の田畠屋敷等を安堵せしむ。(大乗寺文書) | 応永19年11月10日 | 335 |
| 764 足利義持、天野慶景に、羽咋郡北浦一分地頭職を安堵せしむ。(天野文書) | 応永20年5月4日 | 335 |
| 765 預所筑前守知職、江沼郡菅生社に、片山津等の田畠を寄進す。(菅生石部神社文書) | 応永20年11月2日 | 335 |
応永21年(1414) | 766 足利義持、山城南禅寺領能美郡得橋郷等に諸公事以下を免除し、守護不入の地たらしむ。(南禅寺文書) | 応永21年3月29日 | 336 |
| 767 足利義持、山城南禅寺領能美郡得橋郷等に諸公事以下を免除し、守護不入の地たらしむ。(南禅寺文書) | 応永21年3月 | 336 |
| 768 足利義持、倉光藤増丸に、石川郡倉光開発及び玉鉾郷内の地等を安堵せしむ。(金沢市中文書) | 応永21年4月19日 | 337 |
| 769 加賀守護富樫満成、富樫伯耆入道に、加賀千木保内の地頭職を知行せしむ。(南禅寺文書) | 応永21年10月7日 | 337 |
| 770 仮掲(三井大幡社) | 応永21年11月15日 | 337 |
応永22年(1415) | 771 足利義持、石川郡白山宮惣長吏をして、加賀国中に同宮造営料の段銭を課せしむ。(室町家成敗寺社御教書) | 応永22年8月16日 | 338 |
| 772 梅山聞本、加賀金剛院に大源宗真の法衣を納めてその置文を作る。(龍門寺文書) | 応永22年11月1日 | 338 |
永禄9年(1566) | 773 梅山聞本、加賀金剛院に大源宗真の法衣を納めてその置文を作る。(龍門寺文書) | 永禄9年2月上旬 | 338 |
応永23年(1416) | 774 能登守護畑山満慶、山城祗園社に、神馬を寄進す。(祗園社記) | 応永23年1月29日 | 339 |
| 775 藤原有利、珠洲郡馬つなぎ大明神に、馬つなぎ村恒利名の内の下地を寄進す。(本光寺文書) | 応永23年8月 | 339 |
応永24年(1417) | 776 二階堂山城、羽咋郡直海保熊野方の下地を売渡す。(天野文書) | 応永24年10月2日 | 340 |
| 777 羽咋郡気多社政所、同社領千路村の宣持職田を楊田宮司に安堵せしむ。(気多神社文書) | 応永24年10月8日 | 340 |
応永25年(1418) | 778 藤原満宗、石川郡祇陀寺に、能美郡河内荘椙森野を売渡す。(祇陀寺文書) | 応永25年12月6日 | 341 |
| 779 加賀守護富樫満春、山城石清水八幡宮に、百貫の地を寄進す。(菊大路文書) | 応永25年12月18日 | 341 |
応永26年(1419) | 780 鳳至郡如意寺行心、祐心に、その住坊田畠を譲渡す。(宝泉寺文書) | 応永26年3月6日 | 341 |
| 781 左近将監範親、領家の命により、珠洲郡本光寺に若山荘西海浦恒利名の内を寄進す。(本光寺文書) | 応永26年4月8日 | 342 |
| 782 加賀守護富樫満春、二宮信濃入道をして、山城勧修寺領江沼郡郡家荘に同郡菅生社造営段米の催促を停めしむ(勧修寺文書) | 応永26年7月4日 | 342 |
| 783 江沼郡願成寺仏乗、画工民部法眼隆光をして親鸞上人絵伝を作らしむ。(願成寺蔵親鸞聖人絵伝初幅裏書) | 応永26年7月22日 | 342 |
| 784 妙徹、山城南禅寺雑掌に、能美郡府南社神主職を交付せしむ。(南禅寺文書) | 応永26年9月16日 | 342 |
| 785 妙徹、山城南禅寺雑掌に、能美郡府南社神主職を交付せしむ。(南禅寺文書) | 応永26年9月26日 | 343 |
応永27年(1420) | 786 幕府、加賀守護富樫満春をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘に諸公事以下の催促を停めしむ。(臨川寺文書) | 応永27年4月19日 | 343 |
応永28年(1421) | 787 長谷部藤連、鳳至郡重蔵宮に香炉を寄進す。(北徴遺文) | 応永28年2月 | 343 |
| 788 足利義持、山城南禅寺に、能美郡府南社御供田等を安堵せしむ。(南禅寺文書) | 応永28年5月26日 | 344 |
| 789 加賀守護富樫満春、幕府祈願所石川郡祇陀寺の諸役を免除す。(祇陀寺文書) | 応永28年6月11日 | 344 |
| 790 池田掃部入道善性、鳳至郡来迎寺の多門坊に、穴水郷宇留地の下地を交付す。(来迎寺文書) | 応永28年9月3日 | 344 |
| 791 能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡邑智荘中山を知行せしむ。(天野文書) | 応永28年12月29日 | 344 |
| 792 能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡邑智荘中山を知行せしむ。(天野文書) | 応永28年12月29日 | 345 |
| 793 能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡邑智荘中山を知行せしむ。(天野文書) | 応永28年12月29日 | 345 |
応永29年(1422) | 794 貞盛、石川郡白山宮に、上林郷内の田地を売渡す。(白山比咩神社文書) | 応永29年3月16日 | 345 |
応永30年(1423) | 795 某、珠洲郡馬つなぎ本光寺に、田地三段七を宛行ふ。(本光寺文書) | 応永30年3月15日 | 345 |
| 796 松田基秀、鳳至郡総持寺に、同寺前住月泉和尚の粥料として町野荘和住村の田地を売渡す。(総持寺文書) | 応永30年8月10日 | 346 |
| 797 松田基秀、鳳至郡総持寺に、同寺前住月泉和尚の粥料として町野荘和住村の田地を売渡す。(総持寺文書) | 応永30年8月10日 | 346 |
| 798 足利義持、山城北野宮寺に、江沼郡富墓荘の地を寄進す。(集古文書) | 応永30年8月12日 | 347 |
| 799 瑞巖韶麟、峨山紹碩の書せる鳳至郡総持寺開山瑩山紹瑾の野位牌を同寺の庫下に納む。(総持寺文書) | 応永30年8月 | 347 |
応永31年(1424) | 800 得田章全、羽咋郡得田保代田の内を譲渡す。(得田文書) | 応永31年6月12日 | 347 |
| 801 鳳至郡総持寺五院の住持等、開山瑩山紹瑾の仏事中僧衆の接客を停止す。(総持寺文書) | 応永31年8月 | 347 |
| 802 俊慶、山城臨川寺領加賀郡大野荘示野村一王丸名名主職を売渡す。(天龍寺文書) | 応永31年12月23日 | 348 |
応永33年(1426) | 803 有尊、その弟子鈴若丸に、鳳至郡来迎寺別当職を譲渡す。(来迎寺文書) | 応永33年4月5日 | 348 |
| 804 有尊、その弟子鈴若丸に、鳳至郡穴水阿弥陀堂の田地を譲渡す。(来迎寺文書) | 応永33年5月3日 | 349 |
| 805 山城臨川寺、先に十ヶ年を限り三会院円楽寺に沽却せる加賀郡大野荘示野村一王丸名を請返す。(天龍寺文書) | 応永33年6月2日 | 349 |
| 806 山城臨川寺、先に十ヶ年を限り三会院円楽寺に沽却せる加賀郡大野荘示野村一王丸名を請返す。(天龍寺文書) | 応永33年6月13日 | 350 |
| 807 山城臨川寺、先に十ヶ年を限り三会院円楽寺に沽却せる加賀郡大野荘示野村一王丸名を請返す。(天龍寺文書) | 応永33年6月20日 | 350 |
| 808 仮掲(来迎寺文書) | 応永33年7月3日 | 350 |
| 809 能登守護畠山満慶、鳳至郡総持寺に、松田基秀の寄進したる町野荘和住村の地を安堵せしむ。(総持寺文書) | 応永33年11月14日 | 351 |
| 810 能登守護畠山満慶、鳳至郡総持寺に、松田基秀の寄進したる町野荘和住村の地を安堵せしむ。(総持寺文書) | 応永33年11月14日 | 351 |
応永35年、正長元年(1428) | 811 羽咋郡気多社の神官供僧、赤倉の山林伐採権に関して地頭飯尾重清代の幕府に訴へたるに応ず。(気多神社文書) | 応永35年、正長元年6月 | 351 |
| 812 幕府、山城石清水八幡宮に、能美郡山上郷を寄進す。(菊大路文書) | 応永35年、正長元年8月16日 | 353 |
正長2年、永享元年(1429) | 813 真化玄淳、鳳至郡総持寺の寺領目録を注す。(総持寺文書) | 正長2年、永享元年1月11日 | 354 |
| 814 八木盛実、治部卿某に、江沼郡額田荘内徳丸名を譲渡す。(中院文書) | 正長2年、永享元年8月22日 | 357 |
永享2年(1430) | 815 鳳至郡総持寺五院の住持等、本寺輪番のことに就いて契約す。(総持寺文書) | 永享2年8月15日 | 357 |
| 816 足利義教、石川郡益富保に坊城益長の押妨を停め、鷹司房平に之を還付す。(御前落居記録) | 永享2年11月12日 | 358 |
| 817 足利義教、加賀守護富樫持春等をして、山城南禅寺領石川郡宮保に乱入せる白山若衆徒を退治せしむ。(御前落居記録) | 永享2年閏11月19日 | 358 |
| 818 足利義教、加賀守護富樫持春等をして、山城南禅寺領石川郡宮保に乱入せる白山若衆徒を退治せしむ。(御前落居記録) | 永享2年閏11月19日 | 358 |
| 819 足利義教、加賀守護富樫持春等をして、山城南禅寺領石川郡宮保に乱入せる白山若衆徒を退治せしむ。(御前落居記録) | 永享2年閏11月19日 | 359 |
| 820 足利義教、石川郡大乗寺に、同寺領を安堵せしむ。(大乗寺文書) | 永享2年12月12日 | 359 |
| 821 能登守護畠山義忠、鹿島郡永光寺領若部保に国衙役以下の催促を停止せしむ。(永光寺文書) | 永享2年12月27日 | 359 |
永享3年(1431) | 822 足利義教、鷹司房平の雑掌と中嶋隆信との石川郡益富保領家職の相論を裁決し、その下地を房平の雑掌に交付す。(御前落居記録) | 永享3年6月19日 | 359 |
| 823 足利義教、飯尾貞連に、加賀国若林村を知行せしむ。(飯尾文書) | 永享3年6月27日 | 360 |
| 824 足利義教、飯尾貞連に、加賀国若林村を知行せしむ。(飯尾文書) | 永享3年6月29日 | 361 |
| 825 足利義教、飯尾貞連に、加賀国若林村を知行せしむ。(飯尾文書) | 永享3年7月4日 | 361 |
| 826 足利義教、飯尾貞連に、加賀国若林村を知行せしむ。(飯尾文書) | 永享3年7月5日 | 361 |
| 827 足利義教、土倉方衆中をして、北野社松梅院禅能の質地江沼郡富墓・福田両荘の下地を光聚院雑掌に交付せしむ。(御前落居記録) | 永享3年10月8日 | 361 |
永享4年(1432) | 828 右衛門尉宗貫、領家の命により、珠洲郡本光寺に若山荘西海浦恒利名の下地を寄進す。(本光寺文書) | 永享4年8月30日 | 362 |
| 829 幕府、加賀守護富樫持春をして、白山若衆徒の年貢を納めて注進せしむ。(御前落居記録) | 永享4年10月11日 | 362 |
| 830 幕府、高辻長郷に、山城北野社領江沼郡富墓荘預所職を安堵せしむ。(御前落居記録) | 永享4年12月2日 | 362 |
永享5年(1433) | 831 右衛門少尉宗有、珠洲郡本光寺に、同寺領馬繋浦恒利名の山崩を認め免状を与ふ。(本光寺文書) | 永享5年2月9日 | 363 |
永享6年(1434) | 832 足利義教、山城臨川寺領加賀郡大野荘に諸公事以下を免除し、守護不入の地と為す。(天龍寺文書) | 永享6年4月16日 | 363 |
| 833 足利義教、山城臨川寺領加賀郡大野荘に諸公事以下を免除し、守護不入の地と為す。(臨川寺文書) | 永享6年5月12日 | 363 |
永享7年(1435) | 834 足利義教、山城宝幢寺に、同寺領加賀郡倉月荘松寺村東西・赤浜村を安堵せしむ。(本光寺文書) | 永享7年5月16日 | 364 |
| 835 右衛門少尉宗有、領家の命により、珠洲郡本光寺に同寺領若山荘西海浦恒利名の下地を安堵せしむ。(本光寺文書) | 永享7年7月13日 | 364 |
| 836 恵源、常願に、山城臨川寺領加賀郡大野荘示野村一王丸名の名主職を売渡す。(天龍寺文書) | 永享7年10月11日 | 364 |
| 837 恵源、常願に、山城臨川寺領加賀郡大野荘示野村一王名の名主職を売渡す。(天龍寺文書) | 永享7年10月13日 | 365 |
| 838 足利義教、狩野家澄に、江沼郡福田荘菅浪郷地頭・公文両職及び菅生社神主職を安堵せしむ。(狩野文書) | 永享7年12月26日 | 365 |
永享8年(1436) | 839 右衛門少尉宗有、珠洲郡本光寺に、同寺領若山荘西海馬緤浦恒利名の山崩を認め免状を与ふ。(本光寺文書) | 永享8年4月7日 | 366 |
永享9年(1437) | 840 古室、鳳至郡総持寺に、宗祖道元の書せる仏遺教経を寄進す。(総持寺文書) | 永享9年2月 | 366 |
| 841 茂重、山城臨川寺に、加賀郡大野荘示野村一王丸名及び石川郡赤土村中九郎名之散畠を寄進す。(天龍寺文書) | 永享9年5月7日 | 366 |
| 842 茂重、山城臨川寺に、加賀郡大野荘示野村一王丸名及び石川郡赤土村中九郎名之散畠を寄進す。(天龍寺文書) | 永享9年5月7日 | 367 |
| 843 源備前守、珠洲郡海会寺に、その寺領を安堵せしむ。(本光寺文書) | 永享9年8月6日 | 367 |
| 844 源備前守、珠洲郡海会寺に、その寺領を安堵せしむ。(本光寺文書) | 永享9年8月6日 | 367 |
| 845 本願寺存如、石川郡専光寺に、三帖和讃を書して与ふ。(専光寺蔵三帖和讃奥書) | 永享9年9月25日 | 368 |
| 846 能登守護畠山義忠の奉行光貞、弥郡時春に、鳳至郡大澤村内黒杉分を給分として交付せしむ。(筒井文書) | 永禄9年11月11日 | 368 |
永禄10年(1438) | 847 藤原満宗、石川郡祇陀寺に、能美郡河内荘の畠地を寄進す。(祇陀寺文書) | 永禄10年1月11日 | 368 |
| 848 能登守護畠山義忠、弥郡時春に、その給分鳳至郡大澤村内黒杉分を安堵せしむ。(筒井文書) | 永禄10年2月9日 | 369 |
永禄11年(1439) | 849 本願寺存如、石川郡専光寺に、持名鈔及び教化集を与ふ。(専光寺蔵持名鈔奥書) | 永禄11年6月23日 | 369 |
| 850 本願寺存如、石川郡専光寺に、持名鈔及び教化集を与ふ。(専光寺蔵教化集奥書) | 永禄11年6月23日 | 369 |
| 851 有坂清村、鳳至郡総持寺に、月泉和尚粥料所の下地預状を差出す。(総持寺文書) | 永禄11年6月25日 | 370 |
永禄13年、嘉吉元年(1441) | 852 和田信章、鹿島郡永光寺に、同寺仏殿の修理田を寄進す。(永光寺文書) | 永禄13年、嘉吉元年2月27日 | 370 |
| 853 沙弥某、珠洲郡高座宮別当高勝寺に方上保の下地を寄進す。(須須神社文書) | 永禄13年、嘉吉元年6月1日 | 370 |
| 854 幕府、摂津満親の所領加賀郡倉月荘に制札を与ふ。(美吉文書) | 永禄13年、嘉吉元年9月29日 | 371 |
| 855 幕府、摂津満親をして、富樫泰高の被官山川家之に合力せしむ。(美吉文書) | 永禄13年、嘉吉元年12月24日 | 371 |
嘉吉2年(1442) | 856 家好、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、下地を寄進す。(須須神社文書) | 嘉吉2年8月13日 | 371 |
嘉吉3年(1443) | 857 幕府、中院通淳に、江沼郡額田荘を還付す。(建内記) | 嘉吉3年6月9日 | 372 |
| 858 幕府、山城宝鏡寺妙喜庵に、羽咋郡気多社社務職を安堵せしむ。(宝鏡寺文書) | 嘉吉3年6月9日 | 372 |
| 859 幕府、狩野家澄に、江沼郡福田荘内菅浪郷地頭・公文両職及び菅生神主職を還付す。(狩野文書) | 嘉吉3年12月27日 | 372 |
嘉吉4年、文安元年(1444) | 860 二松備前入道永薫、山城勧修寺領江沼郡郡家荘預所職を返付せられんことを幕府に請ふ。(勧修寺文書) | 嘉吉4年、文安元年6月 | 372 |
文安2年(1445) | 861 能登守護畠山義忠、鹿島郡永光寺に、同寺領の諸公事を免除す。(永光寺文書) | 文安2年7月19日 | 373 |
| 862 能登守護畠山義忠の奉行人忠光、泊弥次郎が出仕せざるを以てその知行分を収めて料所となさしむ。(筒井文書) | 文安2年7月19日 | 373 |
| 863 能登守護畠山義忠の奉行人忠光、鹿島郡永光寺に制札を与ふ。(永光寺文書) | 文安2年8月4日 | 373 |
| 864 幕府、摂津満親をして、富樫泰高代山川近江守の加賀入国を援けしむ。(臨川寺文書) | 文安2年8月28日 | 374 |
| 865 幕府、加賀守護富樫泰高をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘に白山宮段米の催促を停めしむ。(臨川寺文書) | 文安2年9月22日 | 374 |
| 866 幕府、狩野家澄をして、富樫泰高代に合力せしむ。(慶元諸大名直判集) | 文安2年12月27日 | 374 |
文安3年(1446) | 867 幕府、佐々木弥五郎をして富樫泰高代の加賀入国を援けしむ。(朽木文書) | 文安3年3月27日 | 374 |
| 868 幕府、狩野家澄をして、富樫泰高に合力せしむ。(秘府所蔵文書) | 文安3年7月10日 | 375 |
| 869 幕府、摂津満親をして、富樫泰高に合力せしむ。(美吉文書) | 文安3年7月10日 | 375 |
| 870 能登守護畠山義忠、弥郡時賀に鳳至郡大澤村黒杉分を安堵せしむ。(筒井文書) | 文安3年10月2日 | 375 |
| 871 能登守護畠山義忠の奉行人忠光、永室兵庫入道をして、筒井佐渡入道に料所鳳至郡山田村内上村分下地を交付せしむ。(筒井文書) | 文安3年10月2日 | 375 |
文安4年(1447) | 872 深井弾正忠、珠洲郡高座宮別当高勝寺の薬師堂に、方上保の下地を寄進す。(須須神社文書) | 文安4年12月27日 | 375 |
文安5年(1448) | 873 幕府、加賀守護富樫成春をして、山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、守護使の入部を停めしむ。(臨川寺文書) | 文安5年8月28日 | 376 |
| 874 幕府、加賀守護富樫成春をして、山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、守護使の入部を停めしむ。(臨川寺文書) | 文安6年3月22日 | 376 |
| 875 珠洲郡若山荘馬緤本光寺住持瑞渓、同寺領の指出を注す。(本光寺文書) | 文安5年12月 | 376 |
文安6年、宝徳元年(1449) | 876 本願寺蓮如、河北郡木越光徳寺に、三帖和讃を書写して之を与ふ。(本派本願寺蔵三帖和讃奥書) | 文安6年、宝徳元年5月28日 | 377 |
| 877 正実房行運、山城北野社より質物としたる石川郡笠間保を、同社の徳政と称して押取せることに就き幕府に訴ふ。(北野神社古文書) | 文安6年、宝徳元年10月 | 377 |
| 878 本願寺存如、江沼専称寺の四幅親鸞聖人絵伝に裏書を与ふ。(専称寺蔵親鸞聖人絵伝初幅裏書) | 文安6年、宝徳元年11月18日 | 378 |
宝徳2年(1450) | 879 羽咋郡気多社雑掌等、向瀬の山林伐採権に関して地頭飯尾新四郎代の幕府に訴へたるに応ず。(気多神社文書) | 宝徳2年8月 | 378 |
宝徳4年、享徳元年(1452) | 880 幕府、摂津之親に、河北郡倉月荘等を安堵せしむ。(美吉文書) | 宝徳4年、享徳元年2月6日 | 380 |
享徳2年(1453) | 881 宗彦、鹿島郡永光寺傳燈院に、羽咋郡大坂の田地を寄進す。(永光寺文書) | 享徳2年3月28日 | 380 |
| 882 尾長秀吉、鹿島郡永光寺に、羽咋郡尾長保を沽却す。(永光寺文書) | 享徳2年4月21日 | 380 |
| 883 能登守護畠山義忠、氷室兵庫入道をして鳳至郡総持寺住持礼物の事を沙汰せしむ。(総持寺文書) | 享徳2年8月22日 | 381 |
享徳3年(1454) | 884 鳳至郡総持寺、檀方の年齢及び引物等の注文を作る。(総持寺文書) | 享徳3年1月 | 381 |
| 885 鳳至郡総持寺の納所、同寺領田地の江河成を注す。(総持寺文書) | 享徳3年3月29日 | 382 |
| 886 幕府、能登守護代をして、珠洲郡正院郷伏見等の地を吉見家仲代に交付せしむ。(吉見文書) | 享徳3年12月29日 | 383 |
享徳4年、康正元年(1455) | 887 鳳至郡総持寺、同寺蔵一切経箱数の注文を造る。(総持寺文書) | 享徳4年、康正元年1月28日 | 383 |
| 888 仮掲(輪島崎天神社文書) | 享徳4年、康正元年2月11日 | 384 |
| 889 幕府、飯尾元連に、加賀若林郷及び羽咋郡土田荘等を安堵せしむ。(古蹟文徴) | 享徳4年、康正元年2月22日 | 384 |
| 890 山城北野社雑掌、同社領羽咋郡菅原荘の代官坊城兵衛佐の年貢違乱を停め、之を直務せんことを幕府に請ふ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) | 享徳4年、康正元年4月 | 384 |
| 891 山城北野社雑掌、同社領羽咋郡菅原荘の代官坊城兵衛佐の年貢違乱を停め、之を直務せんことを幕府に請ふ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) | 享徳4年、康正元年7月 | 385 |
| 892 山城北野社雑掌、同社領羽咋郡菅原荘の代官坊城兵衛佐の年貢違乱を停め、之を直務せんことを幕府に請ふ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) | 享徳4年、康正元年7月18日 | 386 |
| 893 山城祗園社執行顕宥、河北郡萱野保等の社領目録を注す。(祗園社記) | 享徳4年、康正元年7月11日 | 386 |
| 894 幕府、山城北野社松梅院に、同社領羽咋郡菅原庄を旧に依り直務せしむ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) | 享徳4年、康正元年8月16日 | 386 |
| 895 幕府、山城北野社松梅院に、同社領羽咋郡菅原庄を旧に依り直務せしむ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) | 享徳4年、康正元年8月17日 | 386 |
| 896 幕府、石川郡白山宮長吏に、その越中放生津城に対して計略を廻らせるを賞す。(御内書引付) | 享徳4年、康正元年8月19日 | 387 |
| 897 幕府、山城勧修寺に、同寺領江沼郡郡家荘内の地を安堵せしむ。(勧修寺文書) | 享徳4年、康正元年9月14日 | 387 |
| 898 平光知、山城北野社に、同社領羽咋郡菅原荘の代官職を預りたる請文を出す。(北野神社当宮三年一請会停止記録) | 享徳4年、康正元年10月25日 | 387 |
| 899 足利義政、摂津之親に、その所領河北郡倉月荘地頭・領家両職内不知行の地を還付す。(美吉文書) | 享徳4年、康正元年12月21日 | 388 |
康正2年(1456) | 900 足利義政、大館教氏に、江沼郡富墓荘・石川郡倉部村等を&せしむ。(八坂神社文書) | 康正2年5月22日 | 388 |
| 901 足利義政、山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、荘内居住人の守護被官と為り及び守護使の入部することを停む。(天龍寺文書) | 康正2年10月9日 | 388 |
| 902 足利義政、山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、荘内居住人の守護被官と為り及び守護使の入部することを停む。(臨川寺文書) | 康正3年、長禄元年3月6日 | 389 |
| 903 足利義政、狩野頼忠に、江沼郡福田荘内菅波郷地頭・公文両職及び菅生社神主職を安堵せしむ。(狩野文書) | 康正2年11月3日 | 389 |
| 904 幕府、造内裏段銭并びに国役引付を注す。(群書類従) | 康正2年是歳 | 389 |
康正3年、長禄元年(1457) | 905 仮掲(洞雲寺文書) | 康正3年、長禄元年8月6日 | 390 |
長禄2年(1458) | 906 国永道本、珠洲郡本光寺に、若山荘西海浦国永名の下地を寄進す。(本光寺文書) | 長禄2年2月5日 | 391 |
| 907 和田光章、鹿島郡永光寺に、下地を寄進す。(永光寺文書) | 長禄2年2月22日 | 391 |
長禄2年(1458) | 908 足利義政、山城天龍寺に、同寺領石川郡横江荘を還付す。(天龍寺文書) | 長禄2年3月15日 | 391 |
| 909 幕府、山城勧修寺に、鎮守八幡宮造営料として加賀の段銭を寄進す。(勧修寺文書) | 長禄2年3月29日 | 391 |
| 910 幕府、山城勧修寺に、鎮守八幡宮造営料として加賀の段銭を寄進す。(古蹟文徴) | 長禄2年3月29日 | 392 |
| 911 足利義政、山城北野社に、江沼郡福田荘領家・山代本郷半分等を還付す。(北野神社古文書) | 長禄2年4月16日 | 392 |
| 912 能登守護畠山義忠、幕府の命に依り、遊佐美作守をして珠洲郡若山庄下地を三条実雅の雑掌に交付せしむ。(足水文書) | 長禄2年4月27日 | 392 |
| 913 足利義政、石川郡大乗寺領押野荘内散在田畠屋敷等に段銭・臨時課役等を免除す。(大乗寺文書) | 長禄2年8月23日 | 393 |
| 914 足利義政、鹿島郡永光寺に、同寺領羽咋郡若部保及び散在分を安堵せしむ。(永光寺文書) | 長禄2年8月23日 | 393 |
| 915 幕府、石川郡大乗寺に制札を与ふ。(大乗寺文書) | 長禄2年12月24日 | 393 |
| 916 足利義政、鳳至郡総持寺に、山林・田畠・敷地等を安堵せしむ。(総持寺文書) | 長禄2年12月24日 | 393 |
| 917 足利義政、鳳至郡総持寺に、山林・田畠・敷地等を安堵せしむ。(総持寺文書) | 長禄3年1月11日 | 394 |
| 918 足利義政、鳳至郡総持寺に、山林・田畠・敷地等を安堵せしむ。(総持寺文書) | 長禄2年12月26日 | 394 |
| 919 足利義政、山代伏見稲荷社に、同社領石川郡針道荘を還付す。(伏見稲荷社文書) | 長禄2年12月26日 | 395 |
長禄3年(1459) | 920 仮掲(府中山王社懸絵裏書) | 長禄3年1月 | 395 |
| 921 足利義政、倉光光利に、石川郡倉光開発及び玉鉾郷内の地等を還付す。(温故古文抄) | 長禄3年2月17日 | 395 |
長禄3年(1459) | 922 足利義政、山代宝鏡寺尊永に、羽咋郡気多社社務職を安堵せしむ。(宝鏡寺文書) | 長禄3年3月16日 | 395 |
| 923 足利義政、狩野茂豊に、河北郡若松荘地頭職を安堵せしむ。(狩野文書) | 長禄3年4月27日 | 395 |
| 924 長十郎信連、珠洲郡琴江院に、田地を寄進す。(琴江院文書) | 長禄3年6月 | 396 |
| 925 幕府、珠洲郡正院郷伏見等の地を吉見家仲代に交付せしむ。(吉見文書) | 長禄3年8月29日 | 396 |
長禄4年、寛正元年(1460) | 926 柳町中務入道永音、大和東大寺に、大仏常灯料として能美郡山上郷清水惣社神主職の内を寄進す。(東大寺文書) | 長禄4年、寛正元年7月24日 | 396 |
| 927 柳町中務入道永音、大和東大寺に、大仏常灯料として能美郡山上郷清水惣社神主職の内を寄進す。(東大寺文書) | 長禄4年、寛正元年7月24日 | 396 |
| 928 後花園天皇、中院通秀に、江沼郡額田荘・加納八田荘等を安堵せしめ給ふ。(中院文書) | 長禄4年、寛正元年7月30日 | 396 |
| 929 幕府、山城神護寺に、石川郡豊田保・中興保を安堵せしむ。(伺事記録紙背文書) | 長禄4年、寛正元年閏9月11日 | 397 |
| 930 石川郡河内荘惣領藤原政宗、祇陀寺に、その寺領を直務せしむ。(祇陀寺文書) | 長禄4年、寛正元年閏9月 | 397 |
寛正2年(1461) | 931 幕府、善法寺享清をして、山城石清水八幡宮領能美郡山上郷を直務せしむ。(菊大路文書) | 寛正2年6月17日 | 398 |
| 932 重国・春宣、山城祗園社に、同社領河北郡英田保内萱野村を直務せしむ。(祗園社記) | 寛正2年9月5日 | 398 |
寛正3年(1462) | 933 山城東福寺雑掌、同寺領江沼郡熊坂荘百姓の逐電せるを召還し年貢を納めしめんことを幕府に請ふ。(東福寺文書) | 寛正3年3月 | 398 |
| 934 能登守護畠山義統、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保に国衙役・正税・検注役の催促を停む。(永光寺文書) | 寛正3年11月9日 | 399 |
寛正4年(1463) | 935 能登守護畠山義統、鹿島郡永光寺に、和田信章等の寄進地を安堵せしむ。(永光寺文書) | 寛正4年5月2日 | 399 |
| 936 直頼、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、下地を寄進す。(須須神社文書) | 寛正4年10月 | 400 |
| 937 幕府、中院通秀領江沼郡額田荘・加納八田荘半分代官朝日教貞の不法を停め、通秀をして直務せしむ。(中院文書) | 寛正4年12月27日 | 400 |
寛正5年(1464) | 938 幕府、中院通秀領江沼郡額田荘・加納八田荘半分代官朝日教貞の不法を停め、通秀をして直務せしむ。(中院文書) | 寛正5年12月21日 | 400 |
| 939 幕府、赤松政則をして山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、守護使の入部を停めしむ。(臨川寺文書) | 寛正5年12月25日 | 401 |
寛正6年(1465) | 940 良憲、珠洲郡高座宮別当高勝寺十二房供免田の用途を注す。(須須神社文書) | 寛正6年2月28日 | 401 |
| 941 幕府、石川郡白山宮長吏をして、同社東神主の杉原賢盛所領水島保末正名を違乱するを停めしむ。(遺編類纂) | 寛正6年9月2日 | 401 |
| 942 能登の安国寺、鳳至郡総持寺より祖忌御斎料を領収す。(総持寺文書) | 寛正6年9月17日 | 402 |
寛正7年、文正元年(1466) | 943 足利義政、中院通秀に、江沼郡額田荘・加納八田荘を安堵せしむ。(中院文書) | 寛正7年、文正元年5月19日 | 402 |
文正2年、応仁元年(1467) | 944 権大僧都快運、鳳至郡大町来迎寺に、勅定山の扁額を寄進す。(来迎寺扁額) | 文正2年、応仁元年7月1日 | 402 |
応仁2年(1468) | 945 加賀守護富樫政親、石川郡祇陀寺に、同寺領中村荘・久武保等の地を還付す。(祇陀寺文書) | 応仁2年10月1日 | 403 |
応仁3年、文明元年(1469) | 946 仮掲(洞雲寺文書) | 応仁3年、文明元年2月 | 403 |
文明2年(1470) | 947 吉見統頼、鳳至郡総持寺に、羽咋郡富来院の田地を寄進す。(総持寺文書) | 文明2年4月23日 | 403 |
| 948 吉見統範、鳳至郡総持寺に、櫛比荘二ヶ村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 文明2年4月23日 | 404 |
| 949 山城勧修寺門跡、同寺衆徒に、江沼郡郡家荘の年貢の内を与ふ。(勧修寺文書) | 文明2年4月27日 | 404 |
| 950 山城勧修寺門跡、同寺衆徒に、江沼郡郡家荘の年貢の内を与ふ。(勧修寺文書) | 文明2年4月27日 | 404 |
| 951 石川郡白山宮長吏澄栄、同宮荘厳講灯油料の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) | 文明2年9月25日 | 405 |
| 952 能登守護畠山義統の奉行人統秀、鹿島郡永光寺に制札を与ふ。(永光寺文書) | 文明2年9月 | 405 |
| 953 櫛比某、鳳至郡総持寺領櫛比荘諸岳村の指出を注す。(総持寺文書) | 文明2年10月16日 | 405 |
文明3年(1471) | 954 幕府、山城祗園社に、同社領河北郡苅野保の収納を督促せしむ。(祗園社記) | 文明3年4月3日 | 406 |
| 955 智栄、石川郡白山宮に無量義経一巻を寄進す。(白山比咩神社文書) | 文明3年4月16日 | 406 |
| 956 本願寺蓮如、河北郡光徳寺の四幅親鸞聖人絵伝に裏書を与ふ。(西光寺蔵親鸞聖人絵伝終幅裏書) | 文明3年6月25日 | 407 |
| 957 本願寺蓮如、石川郡専光寺の四幅親鸞聖人絵伝に裏書を与ふ。(専光寺蔵親鸞聖人絵伝裏書) | 文明3年9月4日 | 407 |
文明4年(1472) | 958 全尊、江沼郡那谷寺本泉坊領額田荘内得丸名の重書紛失状を作り、之を同坊住持に与ふ。(中院文書) | 文明4年5月3日 | 408 |
| 959 鹿島郡永光寺伝灯院の喚鐘成る。(永光寺喚鐘銘) | 文明4年7月1日 | 408 |
| 960 本願寺蓮如、能美郡慶恩坊に消息を与ふ。(本光寺文書) | 文明4年12月28日 | 408 |
文明5年(1473) | 961 鳳至郡阿岸の彦四郎等、同郡本誓寺に、田地を寄進す。(本誓寺文書) | 文明5年3月25日 | 409 |
| 962 本願寺蓮如、蓮崇の書せるその消息集に奥書を与ふ。(西光寺蔵瓶子屋御書奥書) | 文明5年9月27日 | 409 |
文明6年(1474) | 963 鳳至郡総持寺、その寺領諸岳村・二ヶ村の年貢定納額を定む。(総持寺文書) | 文明6年閏5月13日 | 410 |
| 964 鳳至郡鑓川の百姓等、総持寺に、年貢銭を増納すべきことを約す。(総持寺文書) | 文明6年7月18日 | 410 |
| 965 幕府、山城臨川寺に、同寺領石川郡大野及び宮腰を還付す。(臨川寺重書案文) | 文明6年11月7日 | 411 |
| 966 加賀守護富樫政親、槻橋兵庫允に、能美郡守土室・河北郡指江等を安堵せしむ。(北村文書) | 文明6年12月24日 | 411 |
文明7年(1475) | 967 幕府、朝日時長と中院通秀との江沼郡額田荘及び加納八田荘に関する相論を裁決し、通秀をして之を直務せしむ。(中院文書) | 文明7年6月15日 | 411 |
| 968 幕府、朝日時長と中院通秀との江沼郡額田荘及び加納八田荘に関する相論を裁決し、通秀をして之を直務せしむ。(中院文書) | 年不詳2月6日 | 412 |
| 969 渋河鏡種、高野山寂静院に、河北郡樫久目の領家方を寄進す。(高野山文書) | 文明7年6月27日 | 412 |
| 970 珠洲郡高座宮別当高勝寺清透、同社神主に、宮山の樹を伐採したる罪を謝す。(須須神社文書) | 文明7年10月28日 | 412 |
文明8年(1476) | 971 仮掲(重蔵神社蔵棟札) | 文明8年6月6日 | 413 |
| 972 仮掲(重蔵神社文書) | 文明8年9月 | 414 |
| 973 幕府、一揆等に、摂津之親所領河北郡倉月荘南新保に濫妨するを禁ず。(温故雑帖) | 文明8年11月4日 | 416 |
文明9年(1477) | 974 山科勧修寺領江沼郡郡家荘の代官職二松竹夜叉代、同寺に請文を出す。(勧修寺文書) | 文明9年1月22日 | 416 |
| 975 後土御門天皇、甘露寺親長に、石川郡大桑・豊田を安堵せしめ給ふ。(実隆公記) | 文明9年2月20日 | 417 |
| 976 僧良清、珠洲郡高座宮別当高勝寺の免田指出を注す。(須須神社文書) | 文明9年6月14日 | 417 |
| 977 神宮庁、鳳至郡櫛比御厨の上分を徴す。(内宮引付) | 文明9年6月 | 418 |
| 978 後土御門天皇、法勝寺に、同寺領能美郡長崎保を還付せしめ給ふ。(親長卿記) | 文明9年9月20日 | 418 |
| 979 足利義政、高辻長直の山城北野宮寺領江沼郡富墓荘を違乱するを停め、之を社家に安堵せしむ。(集古文書) | 文明9年9月27日 | 418 |
| 980 幕府、摂津之親所領河北郡倉月荘の地を近江延暦寺の違乱するを停む。(美吉文書) | 文明9年10月15日 | 419 |
| 981 幕府、山城臨川寺に、同寺領石川郡大野荘等を還付す。(臨川寺重書案文) | 文明9年12月29日 | 419 |
文明10年(1478) | 982 吉見統範、鳳至郡総持寺に、櫛比荘二ヶ村の地を寄進す。(総持寺文書) | 文明10年3月9日 | 419 |
| 983 温井俊宗、鳳至郡輪島崎天神社を再建す。(輪島天神社文書) | 文明10年4月21日 | 420 |
| 984 足利義政、山城建仁寺両足院に、同院領能美郡島田等の地を還付す。(両足院文書) | 文明10年5月8日 | 420 |
| 985 足利義政、山城建仁寺両足院に、同院領能美郡島田等の地を還付す。(両足院文書) | 文明10年2月 | 421 |
| 986 足利義政、山城建仁寺両足院に、同院領能美郡島田等の地を還付す。(両足院文書) | 文明10年6月14日 | 421 |
| 987 足利義政、山城宝幢寺に、同寺領河北郡松寺等を還付す。(鹿王院文書) | 文明10年5月28日 | 421 |
| 988 足利義政、山城宝幢寺に、同寺領河北郡松寺等を還付す。(鹿王院文書) | 年不詳2月14日 | 422 |
| 989 幕府、山城臨川寺領石川郡大野荘の段銭以下諸公事を免除し、守護使不入の地と為す。(臨川寺重書案文) | 文明10年6月5日 | 422 |
| 990 能登守護畠山義統、鹿島郡永光寺に、同寺領の諸公事を免除す。(永光寺文書) | 文明10年8月11日 | 422 |
| 991 幕府、一色政熙に、加賀国倉光弥次郎跡を料所として預く。(一色家文書) | 文明10年8月27日 | 422 |
| 992 珠洲郡高座宮の神主友永、代官五井兵庫の神領を違乱して冥罰を蒙りたる次第を注す。(須須神社文書) | 文明10年8月28日 | 423 |
| 993 幕府、鹿島郡永光寺をして、諸国に勧進して同寺及び末寺越中信光寺を修造せしむ。(永光寺文書) | 文明10年12月21日 | 425 |
文明11年(1479) | 994 幕府、鹿島郡永光寺をして、諸国に勧進して同寺及び末寺越中信光寺を修造せしむ。(永光寺文書) | 文明11年1月11日 | 426 |
| 995 後土御門天皇、鹿島郡永光寺を御祈願所と為し給ふ。(永光寺文書) | 文明11年2月13日 | 426 |
| 996 江沼郡那谷寺本泉坊団応、渡部四郎兄弟が同郡額田荘内得丸名の知行を競望するを幕府に訴う。(中院文書) | 文明11年2月 | 426 |
| 997 山城清水寺成就院願阿、清水寺を再建せんとしてその資を諸国に募縁す。尋いで能登守護畠山義統等之に応ず。(成就院文書) | 文明11年3月 | 427 |
| 998 山城清水寺成就院願阿、清水寺を再建せんとしてその資を諸国に募縁す。尋いで能登守護畠山義統等之に応ず。(成就院文書) | 文明11年月日不詳 | 427 |
| 999 幕府、山城勧修寺に、同寺領江沼郡郡家荘代官職を直務せしむ。(勧修寺文書) | 文明11年12月26日 | 428 |
文明12年(1480) | 1000 天野章慶、天野安千代丸に、羽咋郡土田荘上村地頭職半分を譲与す。(天野文書) | 文明12年2月5日 | 429 |
| 1001 天野章慶、天野安千代丸に、羽咋郡土田荘上村地頭職半分を譲与す。(天野文書) | 文明12年5月10日 | 429 |
| 1002 僧快運、珠洲郡高座宮別当高勝寺の釈迦堂に、灯明油並びに仏供料を寄進す。(須須神社文書) | 文明12年9月5日 | 429 |
| 1003 統秀、珠洲郡法住寺に、井田の下地を寄進す。(法住寺文書) | 文明12年9月8日 | 430 |
| 1004 幕府、一色政熙に、料所石川郡倉光保の年貢を沙汰し、守護違乱の所々を成敗せしむ。(一色家文書) | 文明12年10月2日 | 430 |
文明13年(1481) | 1005 鹿島郡向田の代官三階家吉、島八ヶより神納する一宮二斗米に就いて注す。(向田神明社文書) | 文明13年1月11日 | 430 |
| 1006 鹿島郡向田の代官三階家吉、島八ヶより神納する一宮二斗米に就いて注す。(向田神明社文書) | 年不詳月日不詳 | 430 |
| 1007 幕府、山城建仁寺両足院に、能美郡保善院及び同寺領を還付してその年貢諸公事を収めしむ。(両足院文書) | 文明13年6月16日 | 432 |
| 1008 幕府、本覚寺及び大坊主中に、山城祇園社領河北郡刈野村の年貢を違乱せざらしむ。(祗園社記) | 文明13年11月9日 | 432 |
| 1009 幕府、本覚寺及び大坊主中に、山城祇園社領河北郡刈野村の年貢を違乱せざらしむ。(八坂神社文書) | 文明13年11月9日 | 432 |
文明14年(1482) | 1010 鹿島郡永光寺領羽咋郡志指見の床主慶伝等、その作人に卸状を与ふ。(永光寺文書) | 文明14年6月20日 | 433 |
| 1011 幕府、江沼郡那谷寺をして、同寺本泉坊団応の中院通秀所領額田荘得丸名作職を違乱するを停めしむ。(中院文書) | 文明14年閏7月24日 | 433 |
| 1012 幕府、朝日政清・同時長等の越訴を停め、中院通秀に江沼郡額田荘・加納八田荘を直務せしむ。(中院文書) | 文明14年9月16日 | 433 |
| 1013 幕府、加賀守護富樫政親等をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保の押妨人を退け、社家雑掌に之を交附せしむ。(祗園社記) | 文明14年9月24日 | 434 |
| 1014 幕府、加賀守護富樫政親等をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保の押妨人を退け、社家雑掌に之を交附せしむ。(祇園社記) | 文明14年9月24日 | 434 |
| 1015 幕府、加賀守護富樫政親等をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保の押妨人を退け、社家雑掌に之を交附せしむ。(八坂神社文書) | 文明14年月日不詳 | 434 |
文明15年(1483) | 1016 真浄寺了康、鳳至郡総持寺の造営料を借用す。(総持寺文書) | 文明15年10月晦日 | 435 |
文明16年(1484) | 1017 伊勢貞宗、畠山義統の被官遊佐美作守をして、観世大夫下校するを以て為に周旋せしむ。(諸状案文) | 文明16年4月23日 | 435 |
| 1018 伊勢貞宗、遊佐美作守をして、その所領鳳至郡町野荘の還付に尽力せしむ。(諸状案文) | 文明16年6月19日 | 435 |
文明17年(1485) | 1019 東頼数、石川郡白山宮に古今集を施入す。(伊達家蔵古今集奥書) | 文明17年6月17日 | 436 |
| 1020 幕府、能美郡松岡寺をして、富樫政親の摂津政親領河北郡倉月荘の内を押妨するを停め、摂津氏代官に強力してその所務を全うせしむ。(美吉文書) | 文明17年9月21日 | 436 |
| 1021 足利義尚、石川郡白山宮惣長吏澄賢をして、天下安全の祈禱を行わしむ。(親元日記) | 文明17年9月28日 | 436 |
| 1022 足利義尚、毘沙門堂忠承に、能美郡能美荘等の地を安堵せしむ。(三千院文書) | 文明17年11月23日 | 437 |
文明18年(1486) | 1023 本願寺蓮如、能美郡四講中に消息を与ふ。(帖外御文) | 文明18年1月 | 437 |
| 1024 幕府、小野三郎左衛門尉をして、山城建仁寺両足院末寺能美郡保善院にその寺領を還付せしむ。(両足院文書) | 文明18年10月19日 | 438 |
文明19年、長享元年(1487) | 1025 青蓮院門跡尊応、越中守護畠山政長の請に依り、本願寺蓮如をして加賀・越中の門徒に制止をを加へしむ。(華頂要略) | 文明19年、長享元年3月6日 | 438 |
| 1026 幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) | 文明19年、長享元年10月2日 | 438 |
| 1027 幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) | 文明19年、長享元年10月18日 | 439 |
| 1028 幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) | 文明19年、長享元年11月2日 | 439 |
| 1029 幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) | 文明19年、長享元年11月6日 | 440 |
| 1030 幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) | 文明19年、長享元年11月6日 | 440 |
| 1031 幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) | 文明19年、長享元年12月2日 | 440 |
| 1032 後土御門天皇、加賀国等に、例に依り国役采女養料を進めしめ給ふ。(宣秀御教書案) | 文明19年、長享元年閏11月7日 | 441 |
| 1033 能登守護畠山義統、山城祇園社に、その巻数を贈れるを謝す。(八坂神社文書) | 文明19年、長享元年閏11月8日 | 441 |
| 1034 足利義尚、中院通秀に、江沼郡額田荘及び加納八田荘を安堵せしむ。(中院文書) | 文明19年、長享元年閏11月26日 | 441 |
長享2年(1488) | 1035 幕府、山城北野宮寺領羽咋郡菅原荘及び鹿島郡湯河・四柳等を社家の直務と為さしむ。(北野社家引付) | 長享2年4月14日 | 441 |
| 1036 幕府、山城北野宮寺領羽咋郡菅原荘及び鹿島郡湯河・四柳等を社家の直務と為さしむ。(北野社家引付) | 長享2年4月14日 | 442 |
| 1037 幕府、山城北野宮寺領羽咋郡菅原荘及び鹿島郡湯河・四柳等を社家の直務と為さしむ。(北野社家引付) | 長享2年4月14日 | 442 |
| 1038 山城相国寺鹿苑院瑞智、安楽光院が一向宗徒と謀り、林光院領江沼郡横北郷を違乱するを蔭涼軒に訴ふ。(蔭涼軒日録) | 長享2年4月19日 | 442 |
| 1039 山城相国寺鹿苑院瑞智、安楽光院が一向宗徒と謀り、林光院領江沼郡横北郷を違乱するを蔭涼軒に訴ふ。(蔭涼軒日録) | 長享2年6月5日 | 442 |
| 1040 山城相国寺鹿苑院瑞智、安楽光院が一向宗徒と謀り、林光院領江沼郡横北郷を違乱するを蔭涼軒に訴ふ。(蔭涼軒日録) | 長享2年6月5日 | 443 |
| 1041 山城相国寺鹿苑院瑞智、安楽光院が一向宗徒と謀り、林光院領江沼郡横北郷を違乱するを蔭涼軒に訴ふ。(蔭涼軒日録) | 長享2年7月2日 | 443 |
| 1042 本願寺蓮如、石川郡専光寺に、諸門徒の悪行を誡む。(蔭涼軒日録) | 長享2年7月4日 | 443 |
| 1043 本願寺蓮如、河北郡広徳寺門徒に、諸門徒の悪行を誡む。(蔭涼軒日録) | 長享2年7月4日 | 444 |
| 1044 本願寺蓮如、河北郡広徳寺門徒に、諸門徒の悪行を誡む。(蔭涼軒日録) | 長享2年7月4日 | 444 |
| 1045 足利義尚、山城常在光寺に、石川郡中興保を寄進す。(蔭涼軒日録) | 長享2年8月27日 | 444 |
| 1046 石川郡白山宮惣長吏澄賢、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) | 長享2年9月2日 | 444 |
| 1047 本願寺蓮如、河北郡広徳寺に、諸門徒の乱妨を誡む。(真念寺文書) | 長享2年10月24日 | 445 |
長享3年、延徳元年(1489) | 1048 仮掲(府中山王社懸絵裏書) | 長享3年、延徳元年4月 | 445 |
| 1049 石川郡白山宮惣長吏澄賢、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) | 長享3年、延徳元年7月26日 | 445 |
| 1050 畠山政近代、江沼郡福田荘并びに山代の下地を還付せられんことを幕府に訴ふ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年7月 | 446 |
| 1051 幕府、近江延暦寺学頭代に、摂津政親領河北郡倉月荘の地を押妨するを停む。(美吉文書) | 長享3年、延徳元年8月5日 | 446 |
| 1052 山城北野宮寺雑掌、江沼郡福田荘并びに山代の知行に就いて畠山政近代に応訴す。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年9月 | 446 |
| 1053 山城北野宮寺雑掌、江沼郡福田荘并びに山代の知行に就いて畠山政近代に応訴す。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月11日 | 447 |
| 1054 山城北野宮寺雑掌、江沼郡福田荘并びに山代の知行に就いて畠山政近代に応訴す。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月27日 | 447 |
| 1055 幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 447 |
| 1056 幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 448 |
| 1057 幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 448 |
| 1058 幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 448 |
| 1059 幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 448 |
| 1060 幕府、柴山九郎左衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡富墓荘を押領するを停め、松梅院禅予代をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 449 |
| 1061 幕府、柴山九郎左衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡富墓荘を押領するを停め、松梅院禅予代をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 449 |
| 1062 幕府、山城北野宮寺領江沼郡山城荘の名主沙汰人をして、年貢諸公事等を松梅院禅予代に交付せしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 449 |
| 1063 幕府、山城北野宮寺領能美郡長崎保の名主沙汰人をして、年貢等を松梅院禅予代に交付せしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 450 |
| 1064 幕府、山城北野宮寺領石川郡西笠間保の名主沙汰人をして、年貢等を松梅院禅予代に交付せしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 450 |
| 1065 幕府、山城北野宮寺領石川郡豊田保の名主沙汰人をして、年貢等を松梅院禅予代に交付せしむ。(北野神社長享三年引付) | 長享3年、延徳元年10月2日 | 450 |
| 1066 後土御門天皇、山城勧修寺に、同寺領江沼郡郡家荘を直務せしめ給ふ。(宣秀御教書案) | 長享3年、延徳元年10月21日 | 451 |
延徳2年(1490) | 1067 幕府、神戸某をして、摂津住吉社領加賀有富荘の検注を行はしむ。(延徳二年将軍宣下記) | 延徳2年7月5日 | 451 |
| 1068 足利義材、中院通世に、江沼郡額田荘及び加納八田荘を安堵せしむ。(中院文書) | 延徳2年閏8月5日 | 451 |
| 1069 山城東福寺江沼郡熊坂荘に於ける同寺領目録を注す。(東福寺文書) | 延徳2年9月3日 | 452 |
| 1070 蔭涼軒集証、山城南禅寺雲門庵に、同庵領江沼郡忌浪荘の年貢を放棄すること勿らしむ。(蔭涼軒日録) | 延徳2年11月3日 | 452 |
| 1071 石川郡白山宮惣長吏澄賢、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) | 延徳2年12月23日 | 452 |
| 1072 後土御門天皇、武田定盛に、日蝕料所石川郡米光村内西方の下地を領知せしめ給ふ。(宣秀御教書案) | 延徳2年12月28日 | 453 |
延徳3年(1491) | 1073 仮掲(気屋大王社文書) | 延徳3年3月9日 | 453 |
| 1074 蔭涼軒集証、一向宗徒の江沼郡横北郷内宝幢院を押領するを幕府に訴ふ。(蔭涼軒日録) | 延徳3年6月3日 | 454 |
| 1075 幕府、山城賀茂別雷社領河北郡金津荘に有松四郎の乱妨を停む。(賀茂別雷神社文書) | 延徳3年8月11日 | 454 |
| 1076 後土御門天皇、加賀国等、例に依り国役采女養料を進めしめ給ふ。(宣秀御教書案) | 延徳3年11月2日 | 454 |
延徳4年、明応元年(1492) | 1077 幕府、加賀守護富樫泰高をして、定永都聞の山城南禅寺領能美郡得橋郷を違乱するを停めしむ。(南禅寺文書) | 延徳4年、明応元年9月5日 | 455 |
| 1078 仮掲(本誓寺蔵蓮如上人寿像賛) | 延徳4年、明応元年是歳 | 455 |
明応2年(1493) | 1079 僧快紹、珠洲郡能美郡高座宮別当高勝寺に、その例時堂上葺の為料足を寄進す。(須須神社文書) | 明応2年3月2日 | 456 |
| 1080 珠洲郡高座宮の神主、能登守護畠山義統に年中の神事を注進す。(須須神社文書) | 明応2年5月14日 | 456 |
| 1081 珠洲郡高座宮の神主、能登守護畠山義統に年中の神事を注進す。(須須神社文書) | 明応2年月日不詳 | 457 |
| 1082 温井俊宗、鳳至郡別所谷八幡宮に、田地を寄進す。(別所谷八幡宮掲札) | 明応2年9月 | 458 |
| 1083 幕府、西郡四郎に、摂津政親所領河北郡倉月荘内の地を押妨するを停め、之を政親代に交付せしむ。(美吉文書) | 明応2年12月29日 | 459 |
明応5年(1496) | 1084 幕府奉行人等、朝日貞長・同近江三郎と中院通世との江沼郡額田荘及び加納八田荘地頭職の訴訟を勘進す。(中院文書) | 明応5年4月7日 | 459 |
| 1085 幕府、朝日貞長・同近江三郎の江沼郡額田荘及び加納八田荘代官職押領を停め、中院通世をして直務せしむ。(中院文書) | 明応5年5月7日 | 460 |
| 1086 後土御門天皇、朝日貞長・同近江三郎の江沼郡額田荘及び加納八田荘押領を停め、中院通世をして直務せしめ給ふ。(中院文書) | 明応5年7月4日 | 461 |
明応6年(1497) | 1087 足利義高、山城北野宮寺に、江沼郡富墓荘の翻訳を還付す。(北野神社文書) | 明応6年3月10日 | 461 |
| 1088 山城勧修寺門跡雑掌、安富盛憲の同寺領江沼郡郡家荘預所職を横領するを停め、之を直務せんことを幕府に訴ふ。(勧修寺文書) | 明応6年8月 | 461 |
| 1089 吉見統範、鳳至郡総持寺に、櫛比荘二ヶ村の地を寄進す。(総持寺文書) | 明応6年10月22日 | 462 |
| 1090 本願寺蓮如、能美郡四講衆中に消息を与ふ。(興善寺文書) | 明応6年是歳 | 463 |
明応7年(1498) | 1091 河北郡伝灯寺、在越中の足利義材により紀州興国寺の列に陞せらる。(伝灯寺文書) | 明応7年3月4日 | 464 |
| 1092 道祐等、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、菩提の為鳥目を寄進す。(須須神社文書) | 明応7年閏10月6日 | 464 |
明応8年(1499) | 1093 加賀守護富樫泰高、法慶道場に、石川郡富樫荘四十万村の内を寄進す。(善性寺文書) | 明応8年9月29日 | 465 |
| 1094 栃平良玄、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、大澤等の地を寄進す。(須須神社文書) | 明応8年12月12日 | 465 |
| 1095 畠山統武、鹿島郡永光寺に、後山・白石山両所を寄進す。((出典なし)) | 明応8年12月21日 | 465 |
| 1096 能登守護畠山義元、羽咋郡気多社薬師院に、同院坊職及び寄進・買得の地を安堵せしむ。(気多神社文書) | 明応8年12月24日 | 466 |
| 1097 能登守護畠山義元、羽咋郡気多社薬師院に、同院坊職及び寄進・買得の地を安堵せしむ。(気多神社文書) | 明応8年12月24日 | 466 |
明応9年(1500) | 1098 幕府、摂津元親に、その所領河北郡倉月荘中大浦村を加賀守護富樫泰高の押領するを停め之を安堵せしむ。(美吉文書) | 明応9年11月13日 | 467 |
明応10年、文亀元年(1501) | 1099 仮掲(長橋神明宮棟札) | 明応10年、文亀元年2月16日 | 468 |
| 1100 本願寺実如、能美郡山内荘丸山の了承に方便法身尊像の裏書を与ふ。(丸山村久保氏蔵) | 明応10年、文亀元年5月2日 | 468 |
| 1101 太田範本、鳳至郡宝泉寺賢覚に、櫛比荘二ヶ村の田役銭を寄進す。(宝泉寺文書) | 明応10年、文亀元年5月28日 | 468 |
| 1102 仮掲(広済寺画像裏書) | 明応10年、文亀元年閏6月28日 | 469 |
| 1103 山城南禅寺、能美郡得橋郷の寺領目録を注す。(南禅寺文書) | 明応10年、文亀元年8月15日 | 469 |
| 1104 長信清、鳳至郡穴水来迎寺に、田地の徳銭を寄進す。(来迎寺文書) | 明応10年、文亀元年10月27日 | 469 |
文亀2年(1502) | 1105 後柏原天皇、甘露寺元長に、石川郡大桑荘等を安堵せしめ給ふ。(守光公記) | 文亀2年1月14日 | 470 |
| 1106 幕府、山城東福寺に、同寺領江沼郡熊坂荘の御即位段銭を免除す。(東福寺文書) | 文亀2年7月10日 | 470 |
| 1107 足利義澄、山城神護寺に、石川郡豊田保・中興保を安堵せしむ。(伺事記録裏書文書) | 文亀2年8月3日 | 470 |
文亀3年(1503) | 1108 幕府、山城祇園社領河北郡軽賀野保に守護被官人の押妨を停む。(祇園社記) | 文亀3年9月23日 | 471 |
文亀4年、永正元年(1504) | 1109 幕府、山城石清水八幡宮善法寺に、同宮領能美郡三ヶ荘及び山上郷を安堵せしむ。(菊大路文書) | 文亀4年、永正元年2月18日 | 471 |
| 1110 加賀守護富樫植泰、法慶道場に、石川郡富樫荘四十万村の内を安堵せしむ。(善性寺文書) | 文亀4年、永正元年3月5日 | 471 |
| 1111 加賀守護富樫植泰、法慶道場に、石川郡富樫荘四十万村の内を安堵せしむ。(善性寺文書) | 永正2年5月25日 | 472 |
| 1112 足利義澄、安富盛憲の山城勧修寺門跡領江沼郡郡家荘代官職を競望するを停め、同寺に直務せしむ。(勧修寺文書) | 文亀4年、永正元年5月3日 | 472 |
| 1113 珠洲郡高座宮別当高勝寺、同寺領下地の指出を注す。(須須神社文書) | 文亀4年、永正元年12月28日 | 472 |
永正2年(1505) | 1114 幕府、加賀守護富樫植泰をして、安富盛憲の山城勧修寺門跡領江沼郡郡家荘に狼藉するを停め、同門跡雑掌に之を交付せしむ。(勧修寺文書) | 永正2年4月23日 | 473 |
| 1115 長次、赤尾藤次郎に、山城北野社領江沼郡福田荘領家方年貢米の内を交付せしむ。(北野神社社家条々引付) | 永正2年7月12日 | 473 |
| 1116 足利義澄、伊勢貞亮に、幕府料所加賀五箇荘を宛行ふ。(御内書案) | 永正2年10月9日 | 474 |
| 1117 幕府、摂津元親に、同所領河北郡倉月荘中大浦村を加賀守護富樫植泰の押領するを停め、之を安堵せしむ。(美吉文書) | 永正2年10月18日 | 474 |
| 1118 羽咋郡一宮西町の四位、気多社に、田三十苅を寄進す。(桜井文書) | 永正2年12月5日 | 474 |
永正3年(1506) | 1119 鳳至郡徳成谷内五社大権現の拝殿再建成る。(徳成谷内伊須流岐神社棟札) | 永正3年3月10日 | 475 |
| 1120 山城仁和寺真光院尊海、能登の相応院門跡領を復せんとして勅裁を請ふ。(実隆公記) | 永正3年6月21日 | 475 |
永正4年(1507) | 1121 足利義澄、越前明王院に、加賀の一向一揆が侵入せし際豊原寺に於ける戦功を賞す。(室町家御内書案) | 永正4年2月 | 476 |
| 1122 温井統永等、鳳至郡岩蔵寺を再建す。(岩蔵寺蔵棟札) | 永正4年4月4日 | 476 |
永正6年(1509) | 1123 統忠、鹿島郡永光寺に、羽咋郡若部保御給米並びに雑年貢銭を寄進す。(永光寺文書) | 永正6年7月14日 | 476 |
| 1124 白山再興勧進道珍、禅頂朝戸開之参詣井家道者入目之日記を書写して与へらる。(白山比咩神社文書) | 永正6年8月5日 | 477 |
| 1125 幕府、山城北野社領江沼郡福田荘名主百姓をして、同社に領家職本役を収めしむ。(北野神社社家条々引付) | 永正6年8月15日 | 478 |
| 1126 五井頼慶、山城相国寺周寅監寺に、幕府料所石川郡倉光荘下代官職の所務を預く。(温故古文抄) | 永正6年閏8月1日 | 478 |
| 1127 能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に制札を与ふ。(総持寺文書) | 永正6年10月19日 | 478 |
| 1128 能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に、同寺領町野之内を安堵せしむ。(総持寺文書) | 永正6年10月19日 | 478 |
| 1129 能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に、その公文檀那銭を先規の如くたらしむ。(総持寺文書) | 永正6年10月19日 | 479 |
永正7年(1510) | 1130 佐脇秀隆、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) | 永正7年1月11日 | 479 |
| 1131 能登守護畠山義元、山城賀茂別雷社に、同社領羽咋郡加茂荘の貢納を約す。(賀茂別雷神社文書) | 永正7年3月14日 | 480 |
| 1132 能登守護畠山義元、山城賀茂別雷社に、同社領羽咋郡加茂荘の貢納を約す。(賀茂別雷神社文書) | 年不詳11月15日 | 480 |
| 1133 足利義尹、朝倉定景に、その加賀・越前に於ける一揆を平定したる功を賞す。(御内書案) | 永正7年4月14日 | 480 |
| 1134 温井孝宗、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) | 永正7年5月16日 | 480 |
| 1135 幕府、本折式部少輔をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保を押領する輩を退け、社家代官を置かしむ。(建内文書) | 永正7年6月5日 | 481 |
| 1136 幕府、本折式部少輔をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保を押領する輩を退け、社家代官を置かしむ。(生源寺文書) | 年不詳9月7日 | 481 |
| 1137 石川郡白山宮惣長吏澄賢、同宮荘厳講所新入秀を挙達す。(白山比咩神社文書) | 永正7年7月28日 | 481 |
| 1138 幕府、下津屋宗信の中院通世所領江沼郡額田荘及び加納八田荘代官職たるを停め、通世に之を直務せしむ。(中院文書) | 永正7年9月2日 | 482 |
| 1139 幕府、下津屋宗信の中院通世所領江沼郡額田荘及び加納八田荘代官職たるを停め、通世に之を直務せしむ。(温故古文抄) | 永正7年9月11日 | 482 |
| 1140 幕府、烏丸冬光に、河北郡若松荘領家職を安堵せしむ。(烏丸家文書) | 永正7年11月9日 | 482 |
| 1141 幕府、山城北野社松梅院禅光に、江沼郡富墓荘上分を安堵せしむ。(曼殊院文書) | 永正7年12月14日 | 482 |
| 1142 幕府、山城北野社松梅院に、江沼郡福田荘並びに山代・能美郡長崎・石川郡豊田の代官職を直務せしむ。(北野神社文書) | 永正7年12月17日 | 483 |
永正8年(1511) | 1143 信館、鳳至郡穴水来迎寺熊千代丸に馬上免を譲渡す。(来迎寺文書) | 永正8年3月29日 | 483 |
永正9年(1512) | 1144 鳳至郡阿岸の新九郎等、同郡本誓寺に御堂屋敷を寄進す。(本誓寺文書) | 永正9年2月28日 | 484 |
| 1145 某、鳳至郡穴水来迎寺に藤内屋敷を寄進す。(来迎寺文書) | 永正9年4月4日 | 484 |
| 1146 石川郡白山宮に鰐口を寄進す。(白山宮鰐口銘) | 永正9年閏4月23日 | 484 |
| 1147 僧定栄、鳳至郡河井の馬庭観音堂に五十苅の地を寄進す。(重蔵神社文書) | 永正9年5月18日 | 484 |
| 1148 山城立本寺日俊、加賀に下り、河北郡本興寺成敗の条々を定む。(本興寺文書) | 永正9年5月26日 | 485 |
| 1149 主殿寮、山城南禅寺領能美郡佐野村の年貢銭を領収す。(主殿寮々雑々) | 永正9年7月5日 | 485 |
| 1150 畠山徳宗、羽咋郡気多社に社務職の田地作職を還付す。(永光寺文書) | 永正9年7月6日 | 486 |
| 1151 足利義植、加賀守護富樫植泰の年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) | 永正9年7月29日 | 486 |
| 1152 珠洲郡方上保柚木橋爪の某、高座宮別当高勝寺に塩釜一枚を寄進す。(須須神社文書) | 永正9年11月28日 | 486 |
永正10年(1513) | 1153 神保元康、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、諸役皆免等の証状を与ふ。(須須神社文書) | 永正10年4月2日 | 487 |
| 1154 能登守護畠山義元、下国して幕府奉行人飯尾貞連の音信に答ふ。(飯尾文書) | 永正10年10月23日 | 487 |
| 1155 能登守護畠山義元、下国して幕府奉行人飯尾貞連の音信に答ふ。(飯尾文書) | 永正10年10月23日 | 487 |
| 1156 能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺住持の入寺に当り、その大檀那として祝香を立てらるるを謝す。(総持寺文書) | 永正10年11月10日 | 487 |
| 1157 能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺住持の入寺に当り、その大檀那として祝香を立てらるるを謝す。(総持寺文書) | 永正10年11月10日 | 487 |
| 1158 能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に、櫛比荘諸岡村の田地を寄進す。(総持寺文書) | 永正10年12月17日 | 488 |
永正11年(1514) | 1159 幕府、松岡寺をして、近江日吉社領加賀田上郷金浦を押領するものを停めしむ。(生源寺文書) | 永正11年7月5日 | 488 |
| 1160 能登守護畠山義元、領国の錯乱に就いて幕府の奉行人飯尾貞運の来書に報ず。(飯尾文書) | 永正11年12月5日 | 489 |
| 1161 能登守護畠山義元、領国の錯乱に就いて幕府の奉行人飯尾貞運の来書に報ず。(飯尾文書) | 永正11年12月5日 | 489 |
| 1162 能登守護畠山義元、領国の錯乱に就いて幕府の奉行人飯尾貞運の来書に報ず。(飯尾文書) | 永正11年12月8日 | 489 |
| 1163 能登守護畠山義元、領国の錯乱に就いて幕府の奉行人飯尾貞運の来書に報ず。(飯尾文書) | 永正11年12月18日 | 489 |
| 1164 能登守護畠山義元、大呑北庄百姓に、鹿島郡七尾に出張したる際忠節を尽くしたるを賞す。(温故足徴) | 永正11年12月26日 | 490 |
永正12年(1515) | 1165 能登守護畠山義元の被官温井孝宗、幕府奉行人飯尾貞運に、錯乱の未だ鎮静せざることを報ず。(飯尾文書) | 永正12年閏2月8日 | 491 |
| 1166 能登守護畠山義元、鳳至郡興徳寺に、三井中村の田地を寄進す。(龍門寺文書) | 永正12年3月16日 | 491 |
| 1167 能登守護畠山義元等の奉加に依り、越後能生白山社宝殿の造立成る。(能生白山神社増棟札) | 永正12年3月16日 | 491 |
| 1168 能登守護畠山義元、隠岐統朝をして、山城祇園社宝寿院にその巻数等を遅れるを謝せしむ。(八坂神社文書) | 永正12年5月1日 | 492 |
| 1169 後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) | 永正12年5月2日 | 492 |
| 1170 後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) | 永正12年5月2日 | 492 |
| 1171 後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) | 永正12年5月2日 | 493 |
| 1172 後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) | 永正12年5月7日 | 493 |
| 1173 後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) | 永正12年8月12日 | 493 |
| 1174 本願寺綸旨を奉じて、山城泉涌寺安楽光院がその院領江沼郡横北郷を直務することを黒人に沙汰す。(守光公記) | 永正12年2月2日 | 493 |
| 1175 本願寺綸旨を奉じて、山城泉涌寺安楽光院がその院領江沼郡横北郷を直務することを黒人に沙汰す。(守光公記) | 永正12年5月20日 | 493 |
| 1176 能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に、同寺領を安堵せしむ。(総持寺文書) | 永正12年7月21日 | 494 |
| 1177 能登守護畠山義元、鳳至郡興徳寺に、同寺領三井中村の諸役を免除す。(龍門寺文書) | 永正12年7月21日 | 494 |
| 1178 畠山義総、遊佐秀盛をして、鳳至郡興徳寺に、畠山義元が同寺建立の為三井中村の地を寄進したることを告げしむ。(龍門寺文書) | 永正12年8月28日 | 494 |
| 1179 畠山義総、遊佐秀盛をして、鳳至郡総持寺に、畠山義元が櫛比荘諸岡村を十参ヶ年間寄進したることを告げしむ。(総持寺文書) | 永正12年8月28日 | 494 |
| 1180 能登守護畠山義元の奉行人隠岐統朝、山城祇園社宝寿院に、その巻数等を贈れるを謝す。(八坂神社文書) | 永正12年8月28日 | 495 |
| 1181 能登守護畠山義元の奉行人隠岐統朝等、鳳至郡総持寺領諸岡村の年貢銭を定む。(総持寺文書) | 永正12年9月11日 | 495 |
| 1182 能登守護畠山義元の奉行人隠岐統朝、山城祇園社宝寿院に、その巻数を贈れるを謝す。(建内文書) | 永正12年9月12日 | 496 |
| 1183 幕府、能登守護畠山義総に、禁裏御料所鹿島郡一青荘の公用を進済すべき命ず。(東山御文庫記録) | 永正12年12月26日 | 496 |
永正13年(1516) | 1184 能登守護畠山義総、鳳至郡興徳寺に制札を与ふ。(龍門寺文書) | 永正13年1月26日 | 497 |
| 1185 蓬莱国近、鹿島郡府中山王社の鈴を作る。(府中山王社蔵鈴銘) | 永正13年5月 | 497 |
| 1186 幕府、山城毘沙門堂門跡がその所領能美郡能美荘湯谷村の年貢未進のことにより妙音寺領を押へたるを停む。(古文書集) | 永正13年7月11日 | 497 |
| 1187 山城祇園社、能登守護畠山義総に、その代替の為に巻数を贈る。(八坂神社文書) | 永正13年8月2日 | 498 |
| 1188 山代天龍寺、同寺領石川郡大野荘より納めたる年貢の支途に就いて注す。(天龍寺文書) | 永正13年12月 | 498 |
永正14年(1517) | 1189 能登守護畠山義総、三条西家司豊筑後守に、その詠歌を実隆に披露せられたるを謝す。(三条西家文書) | 永正14年4月5日 | 498 |
| 1190 足利義植、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(室町家御内書案) | 永正14年4月16日 | 499 |
| 1191 珠洲郡高座宮別当高勝寺の衆徒、寄進田地上役を守護に納入したることなき起請文を草す。(須須神社文書) | 永正14年5月19日 | 499 |
| 1192 足利義植、石川郡大乗寺に、同寺領押野荘の地を安堵せしむ。(大乗寺文書) | 永正14年6月2日 | 500 |
| 1193 後柏原天皇、石川郡大乗寺を勅願寺とし給ふ。(大乗寺文書) | 永正14年6月3日 | 500 |
永正15年(1518) | 1194 河内畠山義英の子勝王加賀に在り、越中守護畠山尚順代神保慶宗を討たんとして援を越後長尾為景に求む。(和田中条文書) | 永正15年7月10日 | 500 |
永正16年(1519) | 1195 河内畠山義英の子勝王加賀に在り、越中守護畠山尚順代神保慶宗を討たんとして援を越後長尾為景に求む。(上杉家文書) | 永正16年2月2日 | 500 |
| 1196 河内畠山義英の子勝王加賀に在り、越中守護畠山尚順代神保慶宗を討たんとして援を越後長尾為景に求む。(上杉家文書) | 永正16年4月2日 | 501 |
| 1197 足利義植、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(室町家御内書案) | 永正16年2月18日 | 502 |
| 1198 幕府、加賀万福寺が禁裏日月蝕料所石川郡米光村の年貢を無沙汰するを以て之を直務とす。(守光公記) | 永正16年3月3日 | 502 |
| 1199 河内畠山義英の子勝王、越後長尾為景等に、能登口不慮の事に依りその退却したるを労し、来春の再挙を嘱す。(上杉家文書) | 永正16年10月19日 | 502 |
| 1200 河内畠山義英の子勝王、越後長尾為景等に、能登口不慮の事に依りその退却したるを労し、来春の再挙を嘱す。(上杉家文書) | 永正16年10月19日 | 503 |
永正17年(1520) | 1201 河内畠山義英の子勝王、越後長尾為景等に、能登口不慮の事に依りその退却したるを労し、来春の再挙を嘱す。(上杉家文書) | 永正17年1月27日 | 503 |
| 1202 能登守護畠山義総の被官遊佐秀盛、鹿島郡永光寺に制札を与ふ。(永光寺文書) | 永正17年3月 | 503 |
| 1203 能登守護畠山義総、長尾為景に、その越中に出馬せるを労す。(上杉家文書) | 永正17年7月2日 | 504 |
| 1204 能登守護畠山義総、長尾為景に、その越中に出馬せるを労す。(上杉家文書) | 永正17年7月2日 | 504 |
永正18年、大永元年(1521) | 1205 能登守護畠山義総、長尾為景に、その越中を平定したるを祝す。(上杉家文書) | 永正18年、大永元年2月13日 | 504 |
| 1206 能登守護畠山義総、長尾為景に、その越中を平定したるを祝す。(上杉家文書) | 永正18年、大永元年2月13日 | 505 |
| 1207 幕府、本願寺をして、山城北野社社家に同社領江沼郡福田荘代官職を直務せしめたることを同荘門徒中に触れしむ。(北野松梅院文書) | 永正18年、大永元年11月16日 | 505 |
大永2年(1522) | 1208 幕府、山城妙音寺景繕の弟子等が同寺領能美郡湯谷村の内を沽却するを停め、景繕に之を還付す。(南禅寺文書) | 大永2年6月11日 | 506 |
| 1209 石川郡白山宮惣長吏澄明、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) | 大永2年7月25日 | 506 |
大永3年(1523) | 1210 本願寺実如、江沼・能美2郡の門徒に、一味同心すべきことを勧む。(興善寺文書) | 大永3年3月8日 | 507 |
| 1211 小倉吉信、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、仏具を寄進す。(須須神社文書) | 大永3年5月16日 | 507 |
大永4年(1524) | 1212 温井孝宗、鳳至郡重蔵宮の拝殿を造立す。(重蔵神社文書) | 大永4年5月18日 | 508 |
大永5年(1525) | 1213 仮掲(五十里八幡宮棟札) | 大永5年1月23日 | 508 |
大永6年(1526) | 1214 能登守護畠山義総、三条西実隆に、後柏原天皇の崩御を弔し奉る。(三条西家文書) | 大永6年5月7日 | 509 |
大永7年(1527) | 1215 足利義晴近江より、能登守護畠山義総に、その料足を贈りたるを謝す。(室町家御内書案) | 大永7年3月15日 | 509 |
| 1216 足利義晴、能登守護畠山義総に、その尽力を謝して太刀等を贈る。(室町家御内書案) | 大永7年6月2日 | 509 |
| 1217 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 大永7年6月 | 509 |
| 1218 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 大永7年6月 | 510 |
| 1219 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 大永7年月日不詳 | 510 |
| 1220 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 大永7年月日不詳 | 510 |
| 1221 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を売却す。(名主職補任状案) | 大永7年7月5日 | 510 |
| 1222 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を売却す。(名主職補任状案) | 大永7年8月4日 | 511 |
享禄2年(1529) | 1223 大口雅善、河北郡木越村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄2年2月4日 | 511 |
享禄3年(1530) | 1224 山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) | 享禄3年1月27日 | 512 |
| 1225 山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) | 年不詳9月13日 | 513 |
| 1226 山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) | 年不詳12月26日 | 513 |
| 1227 山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) | 年不詳11月11日 | 513 |
| 1228 山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) | 年不詳12月8日 | 513 |
| 1229 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を改易す。(名主職補任状案) | 享禄3年5月10日 | 514 |
| 1230 大口雅善、河北郡木越村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄3年5月13日 | 515 |
| 1231 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主補任状案) | 享禄3年7月21日 | 515 |
| 1232 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主補任状案) | 享禄3年9月28日 | 515 |
| 1233 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主補任状案) | 享禄3年10月11日 | 515 |
| 1234 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄3年10月11日 | 516 |
| 1235 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄3年12月8日 | 516 |
享禄4年(1531) | 1236 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄4年5月19日 | 516 |
| 1237 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄4年5月19日 | 517 |
| 1238 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄4年5月25日 | 517 |
| 1239 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄4年閏5月4日 | 517 |
| 1240 総光、珠洲郡金峰寺の田地目録に証判を加ふ。(金峰寺文書) | 享禄4年閏5月5日 | 517 |
| 1241 総光、珠洲郡金峰寺に、田地を寄進す。(金峰寺文書) | 享禄4年閏5月19日 | 518 |
| 1242 総光、珠洲郡法住寺に、田地を寄進す。(法住寺文書) | 享禄4年閏5月19日 | 518 |
| 1243 総光、珠洲郡法住寺に、同寺領の臨時課役を免除す。(法住寺文書) | 享禄4年閏5月19日 | 519 |
| 1244 幕府、舟橋宣賢の能登に下校するに依り過書を与ふ。(集古文書) | 享禄4年閏5月 | 519 |
| 1245 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄4年6月13日 | 519 |
| 1246 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主補任状案) | 享禄4年7月17日 | 519 |
| 1247 大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) | 享禄4年7月20日 | 520 |
| 1248 本願寺証如、三河坊主等に、その能美郡波佐谷に於ける戦功を賞す。(諦聴寺文書) | 享禄4年10月5日 | 520 |
| 1249 朝倉孝景、佐藤源五郎に、その石川郡に於ける戦功を賞す。(佐藤文書) | 享禄4年11月3日 | 520 |
| 1250 能登守護畠山義総の被官飯川宗春、笠松平四郎に、その父新介の加賀に戦死したるを弔す。(笠松文書) | 享禄4年11月7日 | 520 |
享禄5年、天文元年(1532) | 1251 仮掲(諸橋稲荷社文書) | 享禄5年、天文元年7月 | 521 |
| 1252 本願寺証如、加賀の門徒に、山科御坊が法華宗徒の為に焚かれたることを報ず。(善徳寺文書) | 享禄5年、天文元年10月9日 | 523 |
| 1253 遊佐秀頼、鹿島郡永光寺に、羽咋郡若部保の御給米銭を安堵せしむ。(永光寺文書) | 享禄5年、天文元年10月13日 | 523 |
| 1254 幕府、本願寺をして、石川郡所々散在の知行を福松代に所務せしむ。(室町家御内書案) | 享禄5年、天文元年12月3日 | 524 |
天文2年(1533) | 1255 富樫泰俊、石川郡富樫荘四十万村散田の百姓をして、年貢をその代官に直納せしむ。(善性寺文書) | 天文2年6月3日 | 524 |
天文3年(1534) | 1256 温井総貞、鳳至郡鵜河天神社の本殿を造営す。(鵜川天神社蔵棟札) | 天文3年8月16日 | 525 |
天文4年(1535) | 1257 前南禅寺住持龍崇、温井孝宗の肖像賛を作る。(栗棘庵蔵温井孝宗画像) | 天文4年3月 | 525 |
| 1258 国沢徳長、羽咋郡直海白山社の社殿を造替す。(直海白山神社増棟札) | 天文4年4月 | 526 |
| 1259 国沢徳長、羽咋郡直海白山社の社殿を造替す。(直海白山神社増棟札) | 天文6年4月16日 | 526 |
| 1260 幕府、山城南禅寺に、同寺領能美郡得橋郷等を安堵せしむ。(南禅寺文書) | 天文4年11月18日 | 526 |
| 1261 山代賀茂別当社政所、同社領河北郡金津荘の神貢を検納す。(鳥居大路文書) | 天文4年11月20日 | 527 |
天文5年(1536) | 1262 足利義晴、能登守護畠山義総に、その四位に叙せられて礼物を贈れるを謝す。(御内書案) | 天文5年3月18日 | 527 |
| 1263 足利義晴、能登守護畠山義総に、その落髪の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) | 天文5年3月18日 | 527 |
| 1264 後奈良天皇、山城曼珠院門跡に、北野社松梅院の同門跡領江沼郡富墓荘本役を押領するを停め、之を安堵せしめ給ふ。(曼殊院文書) | 天文5年4月6日 | 528 |
| 1265 足利義晴、能登守護畠山義総に、幕府料所鳳至郡町野荘の年貢進納を督促せしむ。(御内書案) | 天文5年5月24日 | 528 |
| 1266 足利義晴、能登守護畠山義総に、義晴の子菊幢丸誕生の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) | 天文5年6月10日 | 528 |
| 1267 足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) | 天文5年6月18日 | 528 |
| 1268 幕府、山城北野社密乗院禅養の曼珠院門跡領江沼郡富墓荘八講料を競望するを停め、その名主百姓に年貢を同門跡雑掌に交付せしむ。(曼殊院文書) | 天文5年閏10月10日 | 529 |
| 1269 幕府奉行人等、中院通為と朝日晴長との江沼郡額田荘并に加納八田荘の訴訟を勘進す。(中院文書) | 天文5年12月24日 | 529 |
天文6年(1537) | 1270 幕府、朝日晴長の江沼郡額田荘并に加納八田荘押領を停め、中院通為をして直務せしむ。(中院文書) | 天文6年3月8日 | 530 |
| 1271 足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) | 天文6年5月2日 | 531 |
| 1272 本願寺証如、山城曼珠院門跡領江沼郡富墓荘を押妨する輩を停め、その名主百姓をして年貢諸公事者等を同門跡上使に交付せしむ。(曼殊院文書) | 天文6年8月5日 | 531 |
| 1273 本願寺証如、石川郡中に、その河北郡若松本泉寺の反抗を鎮撫したるを賞す。(明厳寺文書) | 天文6年8月23日 | 531 |
| 1274 鳳至郡総持寺領諸岡村常友名・国時名の百姓等、同寺に、納租の額に就いて契約す。(総持寺文書) | 天文6年11月 | 532 |
天文7年(1538) | 1275 伊勢貞孝、山城天龍寺瑞林院に、石川郡興津屋村を安堵せしむ。(親俊日記) | 天文7年3月29日 | 533 |
| 1276 伊勢貞孝、山城天龍寺瑞林院に、石川郡興津屋村を安堵せしむ。(親俊日記) | 天文7年3月29日 | 533 |
| 1277 元真、鳳至郡総持寺に、大屋荘三井上村の地を寄進す。(総持寺文書) | 天文7年4月5日 | 533 |
| 1278 元真、鳳至郡総持寺に、大屋荘三井上村の地を寄進す。(総持寺文書) | 天文7年4月5日 | 534 |
| 1279 本願寺証如、飛騨照蓮寺に、加賀の一揆洲崎兵庫等の通過を許したるを詰問す。(照蓮寺文書) | 天文7年6月8日 | 534 |
| 1280 足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) | 天文7年6月25日 | 534 |
| 1281 能登守護畠山義総、足利義晴に背膓及び鯖子を贈る。(古簡雑纂) | 天文7年9月23日 | 535 |
| 1282 本願寺、幕府料所能美郡徳久村をして、伊勢貞孝代相国寺興禅軒使僧にその年貢諸公事を交付せしむ。(古文書案) | 天文7年9月28日 | 535 |
| 1283 本願寺、幕府料所能美郡徳久村をして、伊勢貞孝代相国寺興禅軒使僧にその年貢諸公事を交付せしむ。(古文書案) | 天文7年9月 | 535 |
天文8年(1539) | 1284 了覚坊行家、石川郡白山宮荘厳講所に、田地を寄進す。(白山比咩神社文書) | 天文8年1月 | 536 |
| 1285 足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(室町家御内書案) | 天文8年6月16日 | 536 |
| 1286 能登守護畠山義総、足利義晴に、八朔の礼物を贈る。(木村文書) | 天文8年7月27日 | 536 |
天文9年(1540) | 1287 後奈良天皇、越前永平寺に、鳳至郡総持寺の門下を出世せしむるを停め給ふ。(総持寺文書) | 天文9年2月27日 | 536 |
| 1288 足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(室町家御内書案) | 天文9年6月14日 | 537 |
| 1289 幕府、本願寺をして、山城曼珠院門跡領江沼郡富墓荘を百姓等の違乱するを停めしむ。(曼殊院文書) | 天文9年8月22日 | 537 |
| 1290 幕府、本願寺坊官下間光頼をして、その料所石川郡森島等の代官職たらしむ。(古文書集) | 天文9年11月2日 | 537 |
天文10年(1541) | 1291 幕府、本願寺坊官下間光頼をして、その料所石川郡森島等の代官職たらしむ。(古文書集) | 天文10年3月 | 538 |
| 1292 石川郡白山宮一和尚、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) | 天文10年8月23日 | 538 |
| 1293 足利義晴、大館常興をして、能登守護畠山義総にその八朔の礼物を贈れるを謝せしむ。(大館常興日記) | 天文10年8月28日 | 538 |
| 1294 内蔵寮、中奥信久・宮本安清に、石川・河北二郡の絹屋座を安堵せしむ。(言継卿記) | 天文10年12月26日 | 538 |
天文11年(1542) | 1295 大館常興、足利義晴に、能登守護畠山義総の道服着用を許容すべきことを答申す。(大館常興日記) | 天文11年5月22日 | 539 |
| 1296 幕府、その料所能美郡長瀧の名主沙汰人をして、年貢・諸公事物を伊勢貞孝代に交付せしむ。(親俊日記) | 天文11年10月10日 | 539 |
天文12年(1543) | 1297 幕府、本願寺をして超勝寺の山城曼珠院門跡領江沼郡富墓荘を違乱するを停めしめたることを告ぐ。(曼殊院文書) | 天文12年9月22日 | 540 |
| 1298 幕府奉行人等、富樫晴泰と安威光脩との能美郡南白江荘の訴訟に就いて勘進す。(伺事記録) | 天文12年11月27日 | 540 |
| 1299 仮掲(笠松文書) | 天文12年12月3日 | 540 |
| 1300 仮掲(山本文書) | 天文12年12月5日 | 541 |
| 1301 仮掲(笠松文書) | 天文12年12月21日 | 541 |
天文13年(1544) | 1302 後奈良天皇、石川郡白山宮惣長吏澄辰をして、山内荘尾副村に禅頂諸堂の杣取を安堵せしめ給ふ。(白山比咩神社文書) | 天文13年6月5日 | 541 |
| 1303 幕府奉行人等、順遍と実印との河北郡倶利伽羅長楽寺住持職并に同寺領の訴訟を勘進す。(伺事記録) | 天文13年6月15日 | 542 |
| 1304 石川郡白山宮惣長吏澄辰、禁裏御料所能美郡軽海郷の代官職に補せらる。(白山比咩神社文書) | 天文13年11月3日 | 543 |
天文14年(1545) | 1305 幕府、山城曼珠院門跡の北野社松梅院禅興を同門跡領江沼郡富墓荘代官職に補任するを承認す。(曼殊院文書) | 天文14年4月28日 | 543 |
| 1306 温井総貞、山城東福寺栗棘庵に、河内畠山植長の卒去を弔する畠山義総の使者としてその僧を下向せしめんことを求む。(栗棘庵文書) | 天文14年6月8日 | 543 |
| 1307 温井総貞、山城東福寺栗棘庵に、河内畠山植長の卒去を弔する畠山義総の使者としてその僧を下向せしめんことを求む。(栗棘庵文書) | 天文14年6月5日 | 544 |
| 1308 幕府奉行人等、石川郡白山宮惣長吏澄辰と結城宗俊との禅頂社殿造立杣取に関する訴訟を勘進す。(伺事記録) | 天文14年6月24日 | 544 |
| 1309 幕府奉行人等、重ねて結城宗俊と石川郡白山宮惣長吏澄辰との禅頂社殿造立杣取に関する訴訟を勘進す。(伺事記録) | 天文14年7月19日 | 545 |
| 1310 吉田兼右、大内義興に、畠山義続が河内畠山植長の遺跡を相続すべき風聞あるを報ず。(天文十四年日記) | 天文14年8月19日 | 546 |
| 1311 幕府奉行人等、富樫晴泰と安威光脩との能美郡南白江荘領知に関する訴訟を勘進す。(伺事記録) | 天文14年9月1日 | 546 |
| 1312 後奈良天皇、河北郡伝灯寺二世綱存に禅師号を諡り給ふ。(国泰寺文書) | 天文14年9月12日 | 547 |
| 1313 結城宗俊、石川郡尾添村に、その白山禅頂杣取の争議に関係せざるべきことを誓ふ。(白山比咩神社文書) | 天文14年9月20日 | 547 |
| 1314 能登守護畠山義統、温井総貞をして、山城東福寺栗棘庵にその代替の礼物を贈れるを謝せしむ。(栗棘庵文書) | 天文14年12月13日 | 547 |
| 1315 鳳至郡新町地下中屋衛門等、本誓寺に、衛門太郎分の田畠を預く。(本誓寺文書) | 天文14年12月13日 | 548 |
| 1316 鳳至郡新町地下中屋衛門等、本誓寺に、衛門太郎分の田畠を預く。(本誓寺文書) | 天文14年12月13日 | 548 |
天文15年(1546) | 1317 幕府、山城南禅寺に、同寺領能美郡得橋郷代官職周璉を止め、景珠を之に代ふるを承認す。(南禅寺文書) | 天文15年3月1日 | 549 |
| 1318 温井総貞、大内義興が畠山義総の卒去を弔する為下したる山城東禅寺栗棘庵の長老に答書を与ふ。(栗棘庵文書) | 天文15年5月15日 | 549 |
| 1319 温井総貞、大内義興が畠山義総の卒去を弔する為下したる山城東禅寺栗棘庵の長老に答書を与ふ。(栗棘庵文書) | 天文15年5月15日 | 550 |
| 1320 幕府、松山龍花院の中院通為領江沼郡額田荘内の年貢を押領するを停め、通為に之を還付す。(中院文書) | 天文15年5月16日 | 550 |
| 1321 幕府、松山龍花院の中院通為領江沼郡額田荘内の年貢を押領するを停め、通為に之を還付す。(狩野氏蒐集文書) | 天文15年5月16日 | 550 |
| 1322 幕府、山城南禅寺領能美郡得橋郷代官景珠と先代官周璉との訴訟を裁決し、周璉を追放に処す。(南禅寺文書) | 天文15年5月16日 | 551 |
| 1323 神右衛門尉、山城石清水八幡宮領能美郡山上郷・三ヶ庄及び石川郡西泉の勘定状を注す。(菊大路文書) | 天文15年6月18日 | 551 |
| 1324 鳳至郡櫛比荘二ヶ村の太田能清、宝泉寺に袈裟法服を寄進す。(宝泉寺蔵袈裟裏書) | 天文15年10月18日 | 553 |
| 1325 鳳至郡中居川崎吉久の鋳造せる飛騨千光寺の鐘銘成る。(千光寺鐘銘) | 天文15年10月 | 553 |
| 1326 珠洲郡不動寺山王社の上葺成る。(不動寺蔵棟札) | 天文15年12月13日 | 554 |
天文16年(1547) | 1327 能登守護畠山義続、山城東福寺栗棘庵が足利義藤の動座せることを奉じたるに答ふ。(栗棘庵文書) | 天文16年7月28日 | 554 |
| 1328 能登守護畠山義続の被官飯川光誠、笠松新介の羽咋郡押水に於ける戦功を賞す。(笠松文書) | 天文16年閏7月7日 | 554 |
| 1329 能登守護畠山義続の被官飯川光誠、笠松新介の羽咋郡押水に於ける戦功を賞す。(笠松文書) | 年不詳10月29日 | 555 |
| 1330 能登守護畠山義続の被官温井総貞等、山城東福寺栗棘庵に、畠山駿河の侵入を撃退したることを報ず。(栗棘庵文書) | 天文16年閏7月24日 | 555 |
| 1331 能登守護畠山義続の被官温井総貞等、山城東福寺栗棘庵に、畠山駿河の侵入を撃退したることを報ず。(栗棘庵文書) | 天文16年閏7月24日 | 556 |
| 1332 幕府、山城賀茂別雷社氏人福石大夫の訴に依り、同社神主が河北郡金津荘内に於けるその知行分を押領するを停む。(鳥居大路文書) | 天文16年12月29日 | 556 |
| 1333 後奈良天皇、上乗院道喜に、羽咋郡一宮の御料所年貢上納に就いて女房奉書を給ふ。(気多神社文書) | 天文16年12月 | 556 |
天文17年(1548) | 1334 能登守護畠山義続、鳳至郡総持寺に寄進田畠并に祠堂米銭を安堵せしむ。(総持寺文書) | 天文17年8月2日 | 557 |
| 1335 能登守護畠山義続、鳳至郡総持寺に寄進田畠并に祠堂米銭を安堵せしむ。(総持寺文書) | 天文17年8月2日 | 557 |
| 1336 能登守護畠山義続、鳳至郡総持寺に寄進田畠并に祠堂米銭を安堵せしむ。(総持寺文書) | 天文17年8月2日 | 557 |
| 1337 羽咋郡気多社公文日宗、神職の宿直番帳を定む。(気多神社文書) | 天文17年11月 | 557 |
| 1338 羽咋郡気多社公文日宗、神職の宿直番帳を定む。(気多神社文書) | 天文17年11月 | 558 |
天文18年(1549) | 1339 山城曼珠院門跡領江沼郡富墓荘代官名代小畠遠隆、同門跡に、その未進公役算用を誓ふ。(曼殊院文書) | 天文18年3月3日 | 559 |
| 1340 磯部重秀、山城北野社領江沼福田荘領家の代官職請所となる。(北野神社文書) | 天文18年7月 | 559 |
天文19年(1550) | 1341 本願寺証如、能登守護畠山義続に、加賀の門徒をして同国内の争議に関係せしめざるべきを報ず。(証如上人書札案) | 天文19年11月8日 | 560 |
| 1342 本願寺証如、能登守護畠山義続に、加賀の門徒をして同国内の争議に関係せしめざるべきを報ず。(証如上人書札案) | 天文19年11月13日 | 560 |
| 1343 本願寺証如、能登守護畠山義続に、加賀の門徒をして同国内の争議に関係せしめざるべきを報ず。(証如上人書札案) | 天文19年12月22日 | 560 |
天文20年(1551) | 1344 畠山義続、山城大徳寺興臨院に、父義総塔頭の料所として鳳至郡諸岳村を寄進す。(東京帝国大学所蔵文書) | 天文20年5月23日 | 561 |
| 1345 畠山氏の被官遊佐続光等、山城東福寺栗棘庵に、同庵領鳳至郡志津良荘の公用を還付す。(栗棘庵文書) | 天文20年7月25日 | 561 |
| 1346 光重、鳳至郡諸橋稲荷社に斎日銭を納む。(諸橋稲荷社文書) | 天文20年12月12日 | 562 |
| 1347 本願寺証如、畠山義続及び遊佐続光に、能登の静諡を祝す。(証如上人書札案) | 天文20年12月17日 | 562 |
| 1348 本願寺証如、畠山義続及び遊佐続光に、能登の静諡を祝す。(証如上人書札案) | 天文20年12月17日 | 562 |
| 1349 本願寺証如、温井紹春及び能登安国寺に、その物を贈れるを謝す。(証如上人書札案) | 天文20年12月17日 | 563 |
| 1350 本願寺証如、温井紹春及び能登安国寺に、その物を贈れるを謝す。(証如上人書札案) | 天文20年12月17日 | 563 |
天文21年(1552) | 1351 山城大徳寺興臨院納所等、同院領鳳至郡諸岳村年貢銭・仏事料納下目録(東京帝国大学所蔵文書) | 天文21年2月19日 | 563 |
| 1352 長尾景虎、織田五郎左衛門をして、先に上洛の途を開かしむる為加賀に遣はしたる信濃笠原本誓寺超賢の労を謝せしむ。(本誓寺文書) | 天文21年4月4日 | 564 |
天文23年(1554) | 1353 本願寺証如、畠山義続に、旧冬浪人乱入の際之を討ちて勝利を獲たるを祝す。(証如上人書札案) | 天文23年2月5日 | 564 |
| 1354 能登守護畠山義綱の被官温井紹春・同続宗、山城東福寺栗棘庵に、旧冬遊佐続光等の進入せし状を報ず。(栗棘庵文書) | 天文23年2月14日 | 565 |
| 1355 能登守護畠山義綱の被官温井紹春・同続宗、山城東福寺栗棘庵に、旧冬遊佐続光等の進入せし状を報ず。(栗棘庵文書) | 天文23年2月14日 | 565 |
| 1356 長尾景虎、加賀御山に至りてその上洛の途を開かしむるに尽力せる信濃笠原本誓寺超賢の功を賞して越後に移住を勧。(本誓寺文書) | 天文23年3月13日 | 566 |
| 1357 能登守護畠山義綱の被官平堯知、山城東福寺栗棘庵が去年の錯乱に就き書を与へたるに答ふ。(栗棘庵文書) | 天文23年6月30日 | 567 |
天文24年、弘治元年(1555) | 1358 朝倉義景、鳥居與一左衛門に、その江沼郡に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) | 天文24年、弘治元年8月14日 | 567 |
| 1359 朝倉義景、鳥居與一左衛門に、その江沼郡に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) | 天文24年、弘治元年8月14日 | 567 |
| 1360 朝倉義景、諸士の江沼郡敷地口に於ける戦功を賞す。(斎藤文書) | 天文24年、弘治元年8月16日 | 568 |
| 1361 朝倉義景、諸士の江沼郡敷地口に於ける戦功を賞す。(水屋文書) | 天文24年、弘治元年8月16日 | 568 |
| 1362 朝倉義景、諸士の江沼郡敷地口に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) | 天文24年、弘治元年8月16日 | 568 |
| 1363 朝倉義景、諸士の江沼郡敷地口に於ける戦功を賞す。(桑原文書) | 天文24年、弘治元年8月16日 | 568 |
| 1364 朝倉宗滴、長尾景虎の被官直江景綱に、江沼郡に於ける戦況を報ず。(武家事紀) | 天文24年、弘治元年8月20日 | 568 |
| 1365 遊佐続光、珠洲郡妙厳寺定欽に、越前に脱走中その斡旋したるを賞し、直之郷の内西方寺分を扶持す。(妙厳寺文書) | 天文24年、弘治元年閏10月21日 | 569 |
| 1366 遊佐続光、珠洲郡妙厳寺定欽に、越前に脱走中その斡旋したるを賞し、直之郷の内西方寺分を扶持す。(妙厳寺文書) | 年不詳8月3日 | 570 |
弘治2年(1556) | 1367 能登守護畠山義綱の奉行人等、鳳至郡諸橋六郷より柵に用ふる木材を徴す。(諸橋文書) | 弘治2年1月29日 | 570 |
| 1368 能登守護畠山義綱の被官飯川光誠、笠松新介に、義綱の七尾城に入りし際功ありしを賞し扶持を与ふ。(笠松文書) | 弘治2年2月28日 | 571 |
| 1369 能登守護畠山義綱の被官飯川光誠、笠松新介に、義綱の七尾城に入りし際功ありしを賞し扶持を与ふ。(道興寺文書) | 弘治2年9月5日 | 571 |
| 1370 能登守護畠山義綱、飯川光誠に、義綱の先に敗戦の際笠松新介の功ありしを以て、之に知行を与ふべきことを命ず。(笠松文書) | 弘治2年10月10日 | 571 |
| 1371 能登守護畠山義綱、王子孫七郎に、その戦功を賞して当知行を安堵せしむ。(気多神社文書) | 弘治2年12月1日 | 571 |
| 1372 能登守護畠山義綱、長又次郎に、先年籠城したる知行米を還付す。(長文書) | 弘治3年1月23日 | 572 |
弘治3年(1557) | 1373 能登守護畠山義綱等、長尾景虎に援軍の派遣を求む。(上杉家文書) | 弘治3年2月18日 | 572 |
| 1374 能登守護畠山義綱等、長尾景虎に援軍の派遣を求む。(杉本文書) | 弘治3年2月18日 | 572 |
| 1375 能登守護畠山義綱等、長尾景虎に援軍の派遣を求む。(上杉家文書) | 弘治3年2月23日 | 573 |
| 1376 能登守護畠山義綱、笠松新介に、その戦功を賞して鳳至郡山中一円を知行せしむ。(笠松文書) | 弘治3年2月27日 | 573 |
| 1377 能登守護畠山義綱、笠松新介に、その戦功を賞して鳳至郡山中一円を知行せしむ。(笠松文書) | 弘治3年6月24日 | 573 |
| 1378 能登守護畠山義綱、笠松新介に、その戦功を賞して鳳至郡山中一円を知行せしむ。(笠松文書) | 弘治3年6月4日 | 574 |
| 1379 能登守護畠山義綱、桜井宗次郎に、鹿島郡気多本宮社務職を安堵せしむ。(能登生国玉比古神社文書) | 弘治3年3月13日 | 574 |
| 1380 長続連、小杉彦右衛門尉に、その籠城の功を賞す。(北徴遺文) | 弘治3年4月5日 | 574 |
| 1381 能登守護畠山義綱、笠松新介に、鳳至郡櫛比之内を知行せしむ。(笠松文書) | 弘治3年6月3日 | 574 |
| 1382 能登守護畠山義綱、笠松新介に、鳳至郡櫛比之内を知行せしむ。(笠松文書) | 弘治3年9月1日 | 575 |
| 1383 能登守護畠山義綱、笠松新介に、鳳至郡櫛比之内を知行せしむ。(笠松文書) | 弘治3年7月20日 | 575 |
| 1384 能登守護畠山義綱等、越中の椎名宮千代に、その被官八代俊盛を援軍として派遣したるを謝す。(歴代古案) | 弘治3年7月27日 | 575 |
| 1385 能登守護畠山義綱、鳳至郡龍門寺に、その籠城の功を賞し田地を寄進す。(龍門寺文書) | 弘治3年7月28日 | 576 |
| 1386 仮掲(石瀬比古神社棟札) | 弘治3年8月10日 | 576 |
| 1387 石川郡白山宮惣長吏澄勝、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) | 弘治3年8月22日 | 576 |
| 1388 能登守護畠山義綱、玉蔵坊に、その戦功を賞して所領を安堵せしむ。(重蔵神社文書) | 弘治3年9月28日 | 577 |
| 1389 加賀守護富樫晴泰、石川郡善性寺に、四十万村の地を寄進す。(善性寺文書) | 弘治3年10月23日 | 577 |
| 1390 加賀守護富樫晴泰、石川郡善性寺に、四十万村の地を寄進す。(善性寺文書) | 年不詳5月5日 | 577 |
| 1391 八代俊盛、山城東福寺栗棘庵に、その能登の錯乱に就いて書を与へたるに答ふ。(栗棘庵文書) | 弘治3年11月16日 | 578 |
| 1392 珠洲郡不動寺山王社の上葺成る。(不動寺蔵棟札) | 弘治3年12月8日 | 578 |
弘治4年、永禄元年(1558) | 1393 仮掲(徳田八幡神社文書) | 弘治4年、永禄元年3月2日 | 579 |
| 1394 山崎実正、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) | 弘治4年、永禄元年閏6月8日 | 579 |
| 1395 西方三郎、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) | 弘治4年、永禄元年閏6月8日 | 579 |
| 1396 温井綱貞等、羽咋郡光専寺に、能登に入国せんとする際その馳走を約したるを謝す。(光専寺文書) | 弘治4年、永禄元年7月5日 | 580 |
| 1397 温井綱貞等、鳳至郡本誓寺に、桑屋分の内千疋の地を与ふ。(本誓寺文書) | 弘治4年、永禄元年7月7日 | 580 |
| 1398 温井綱貞等、鳳至郡本誓寺に、同寺領阿岸村の内の諸役を免除す。(本誓寺文書) | 弘治4年、永禄元年7月12日 | 581 |
| 1399 温井綱貞等、鳳至郡本誓寺に、同寺領阿岸村の内の諸役を免除す。(本誓寺文書) | 年不詳9月24日 | 581 |
| 1400 遊佐熊石丸、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) | 弘治4年、永禄元年10月 | 581 |
| 1401 誉田泰俊、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) | 弘治4年、永禄元年10月 | 582 |
| 1402 加賀守護富樫晴泰、駒井與三郎に、石川郡四十万善性寺の沽却したる知行を安堵せしむ。(重輯雑談) | 弘治4年、永禄元年11月3日 | 582 |
永禄2年(1559) | 1403 羽咋郡藤瀬熊野社の再建成る。(藤瀬熊野社蔵棟札) | 永禄2年2月25日 | 582 |
| 1404 三宅慶甫、羽咋郡気多社に、押水免田村年貢の内を以て神供米を寄進す。(気多神社文書) | 永禄2年5月15日 | 584 |
| 1405 権大僧正快尊、羽咋郡町居松尾寺に、薬師如来御正体を寄進す。() | 永禄2年8月29日 | 584 |
| 1406 石川郡白山宮惣長吏澄勝、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) | 永禄2年11月21日 | 584 |
| 1407 足利義輝、本願寺をして、諏方信濃守の所領加賀金浦村の押妨を停めしむ。(御内書符案) | 永禄2年11月 | 585 |
| 1408 足利義輝、本願寺をして、諏方信濃守の所領加賀金浦村の押妨を停めしむ。(御内書符案) | 永禄2年11月 | 585 |
永禄3年(1560) | 1409 鳳至郡鉄川寺衆徒、七尾の庁に、門中諸寺の寺役を復旧せんことを訴ふ。(宝泉寺文書) | 永禄3年2月2日 | 585 |
| 1410 足利義輝、本願寺に、能美郡広瀬代官職を菊阿に安堵せしめたるを謝し、重ねて尽力を求む。(温故古文抄) | 永禄3年3月4日 | 586 |
| 1411 鹿島郡石動山松本坊、太郎兵衛に、同郡能登部江尻の山を沽却す。(乗念寺文書) | 永禄3年3月10日 | 586 |
| 1412 足利義輝、畠山義綱をして、伊勢皇太神宮に、同宮領鳳至郡櫛比荘の神役以下を旧の如く納付せしむ。(温故古文抄) | 永禄3年3月22日 | 587 |
| 1413 大町清詮、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、灯明田並びに陣僧を寄進す。(須須神社文書) | 永禄3年5月13日 | 587 |
永禄4年(1561) | 1414 能登守護畠山義綱、長続連の邸に臨みて饗を受く。(長伝書) | 永禄4年1月 | 587 |
| 1415 石川郡宮永の百姓、白山宮荘厳講に、その免田の貢納を訳す。(白山比咩神社文書) | 永禄4年2月4日 | 589 |
| 1416 石川郡宮永の百姓、白山宮荘厳講に、その免田の貢納を訳す。(白山比咩神社文書) | 永禄4年2月4日 | 590 |
| 1417 三好義長、春日局に、西郡某の依頼に依り、その知行分能美郡北白江荘の幕府料所たるべきを停められんことを請ふ。(室町殿日記) | 永禄4年3月 | 590 |
| 1418 鳳至郡中居北の鋳物師等、正親町天皇御即位の祝儀を進納す。(中居鋳物師伝書) | 永禄4年3月 | 591 |
| 1419 鳳至郡中居北の鋳物師等、正親町天皇御即位の祝儀を進納す。(中居鋳物師伝書) | 永禄4年3月 | 591 |
| 1420 能登守護畠山義綱、珠洲郡高座宮別当高勝寺をして、本願寺が越後に策応せんとするを以て軍資を進納せしむ。(須須神社文書) | 永禄4年4月23日 | 591 |
| 1421 足利義輝、本願寺をして、清水某の二宮某知行分能美郡広瀬代官職を濫妨するを退けしむ。(温故古文抄) | 永禄4年6月18日 | 592 |
| 1422 足利義輝、畠山義綱に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) | 永禄4年6月29日 | 592 |
| 1423 足利義氏、北条氏康の命に依り、石川郡本誓寺に越後を擾乱することを勧む。(本誓寺文書) | 永禄4年8月3日 | 592 |
| 1424 能登守護畠山義綱、鹿島郡永光寺領の竹木伐採及び狼藉を停む。(永光寺文書) | 永禄4年8月28日 | 592 |
| 1425 幕府、春日局より沽却せる石川郡相河・竹松等に関して公験を与ふ。(古文書集) | 永禄4年9月18日 | 593 |
| 1426 正親町天皇、羽咋郡気多社に、その遷宮を勅許し給ふ。(気多神社文書) | 永禄4年9月28日 | 593 |
| 1427 正親町天皇、羽咋郡気多社に、その遷宮を勅許し給ふ。(気多神社文書) | 年不詳2月2日 | 593 |
| 1428 誉田泰俊、鳳至郡岩蔵寺に、大野村の年貢の内を寄進す。() | 永禄4年11月3日 | 593 |
| 1429 能登守護畠山義綱の奉行人等、鹿島郡永光寺に、同寺領羽咋郡志指見村年貢直納のことを報ず。(永光寺文書) | 永禄4年12月7日 | 594 |
| 1430 能登守護畠山義綱の奉行人等、鹿島郡永光寺に、同寺領羽咋郡志指見村年貢直納のことを報ず。(永光寺文書) | 永禄4年12月11日 | 594 |
| 1431 鳳至郡粟蔵村の吉次、岩蔵寺に田地を寄進す。(岩蔵寺文書) | 永禄4年12月23日 | 595 |
永禄5年(1562) | 1432 幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) | 永禄5年2月28日 | 595 |
| 1433 幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) | 永禄5年2月28日 | 596 |
| 1434 幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) | 永禄5年2月28日 | 596 |
| 1435 幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) | 永禄5年7月13日 | 596 |
| 1436 幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) | 永禄5年7月15日 | 597 |
| 1437 幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(古文書集) | 年不詳月日不詳 | 597 |
| 1438 能登守護畠山義綱、笠松但馬守をして、鹿島郡石動山妙日坊に月宛の寄進銭を復せしむ。(笠松文書) | 永禄5年3月2日 | 597 |
| 1439 能登守護畠山義綱、鹿島郡永光寺に、同寺領を安堵せしむ。(永光寺文書) | 永禄5年4月9日 | 597 |
| 1440 能登守護畠山義綱、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保の国衙役以下の催促を停む。(永光寺文書) | 永禄5年4月9日 | 598 |
| 1441 能登守護畠山義綱、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保の国衙役以下の催促を停む。(永光寺文書) | 永禄5年4月9日 | 598 |
| 1442 遊佐続光、鹿島郡永光寺に、羽咋郡若部保の給米等を寄進す。(永光寺文書) | 永禄5年4月9日 | 598 |
| 1443 遊佐続光、鹿島郡永光寺をして、同寺領羽咋郡若部・本郷領百姓の被官に属する者を成敗せしむ。(永光寺文書) | 永禄5年4月9日 | 599 |
| 1444 遊佐続光、鹿島郡永光寺をして、同寺領羽咋郡若部・本郷領百姓の被官に属する者を成敗せしむ。(永光寺文書) | 永禄5年4月9日 | 599 |
| 1445 幕府、本願寺に、西郡某知行分能美郡南北白江荘をその料所とし内田出羽守を代官職に当てたることを告ぐ。(後鑑引古文書) | 永禄5年4月17日 | 599 |
| 1446 幕府、本願寺に、西郡某知行分能美郡南北白江荘をその料所とし内田出羽守を代官職に当てたることを告ぐ。(古蹟文徴) | 永禄5年4月17日 | 599 |
| 1447 鳳至郡大野村の百姓等、岩蔵寺に田地を寄進す。(岩蔵寺文書) | 永禄5年4月28日 | 600 |
| 1448 石川郡白山宮惣長吏澄勝、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) | 永禄5年8月22日 | 600 |
| 1449 羽咋郡気多社遷宮を行ふ。(気多神社蔵棟札) | 永禄5年8月23日 | 600 |
| 1450 鳳至郡鵜川天神社の拝殿の修理成る。(鵜川天神社棟札) | 永禄5年8月 | 601 |
| 1451 鳳至郡鵜川天神社の拝殿の修理成る。(鵜川天神社文書) | 永禄5年仲秋下浣 | 602 |
永禄6年(1563) | 1452 能登守護畠山義綱、三宅宗隆をして、鳳至郡諸橋村の舟子に出羽より馬匹到来したる以て鳥目を進納せしむ。(諸橋村文書) | 永禄6年5月21日 | 602 |
| 1453 僧等喜、鳳至郡総持寺に、月印瑞珠入牌の為に不尽灯の鳥目を寄進す。(総持寺文書) | 永禄6年8月9日 | 602 |
永禄7年(1564) | 1454 吉富吉久、鳳至郡岩蔵寺に、畠を寄進す。(岩蔵寺文書) | 永禄7年7月26日 | 603 |
| 1455 朝倉義景、野村七郎五郎に、その江沼郡横北口に於ける戦功を賞す。(野村文書) | 永禄7年10月9日 | 603 |
| 1456 朝倉義景、野村七郎五郎に、その江沼郡横北口に於ける戦功を賞す。(野村文書) | 永禄7年11月28日 | 603 |
| 1457 朝倉義景、岸田甚助に、その能美郡木場口に於ける戦功を賞す。(本朝武家高名記) | 永禄7年10月13日 | 604 |
| 1458 朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) | 永禄7年10月13日 | 604 |
| 1459 朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(廣瀬文書) | 永禄7年10月13日 | 604 |
| 1460 朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(飯田文書) | 永禄7年10月13日 | 604 |
| 1461 朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(保阪文書) | 永禄7年10月13日 | 605 |
| 1462 朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) | 年不詳4月11日 | 605 |
| 1463 朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(徴古文書) | 年不詳4月11日 | 605 |
| 1464 朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(徴古文書) | 年不詳4月11日 | 605 |
| 1465 朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(有賀文書) | 年不詳8月15日 | 605 |
永禄8年(1565) | 1466 上杉輝虎、下野小山高朝に、自ら朝倉義景を援けん為加賀に出馬を約せしも、関東に事あるを以て意を翻したることを報ず。(歴代古案) | 永禄8年2月28日 | 606 |
| 1467 能登守護畠山氏の奉行人佐脇綱盛、鳳至郡諸橋に法令を頒つ。(諸橋村文書) | 永禄8年3月11日 | 606 |
| 1468 越前の朝倉景連等、上杉輝虎の臣直江景綱に、来月を期して輝虎の加賀に出陣せんことを求む。(上杉家文書) | 永禄8年6月16日 | 607 |
| 1469 鳳至郡本誓寺宗現等、同郡の一向宗門徒を分かちて四組を定む。(本誓寺文書) | 永禄8年12月16日 | 608 |
永禄9年(1566) | 1470 能登守護畠山氏、隠岐賢広をして、山城祗園社宝寿院にその守札・牛王等を贈れるを謝せしむ。(八坂神社文書) | 永禄9年1月11日 | 608 |
| 1471 鳳至郡青龍寺の鐘鋳成る。(本念寺鐘銘) | 永禄9年2月27日 | 609 |
| 1472 松崎光忠、鹿島郡永光寺に、羽咋郡志指見保の畠を寄進す。(永光寺文書) | 永禄9年8月15日 | 610 |
| 1473 本願寺顕如、武田信玄に、その上杉輝虎の加賀に出馬せんとするを聞きて信越国境に向かひたるを謝す。(顕如上人書札案留) | 永禄9年8月26日 | 610 |
| 1474 本願寺顕如、三淵宗薫に、その主足利義秋の斡旋する加賀・越前の和談が尚その時期にあらざることを報ず。(顕如上人書札案留) | 永禄9年10月20日 | 610 |
| 1475 本願寺顕如、三淵宗薫に、その主足利義秋の斡旋する加賀・越前の和談が尚その時期にあらざることを報ず。(顕如上人書札案留) | 永禄9年10月20日 | 611 |
| 1476 浅見恵有、鳳至郡岩蔵寺に、下町野荘小橋村の田地を寄進す。(石倉比古神社文書) | 永禄9年12月7日 | 611 |
永禄10年(1567) | 1477 畠山徳祐、上杉輝虎に、その能登入国の近きにあるべきを報ず。(伊佐早文書) | 永禄10年2月10日 | 611 |
| 1478 本願寺顕如、畠山義綱に、その能登入国に際し加賀の門徒の助力を求めたるを謝絶す。(顕如上人書札案留) | 永禄10年2月28日 | 611 |
| 1479 本願寺顕如、佐々木義弼等に、畠山義綱の能登入国に際し加賀の門徒の助力を求めたるを謝絶す。(顕如上人書札案留) | 永禄10年2月28日 | 612 |
| 1480 本願寺顕如、佐々木義弼等に、畠山義綱の能登入国に際し加賀の門徒の助力を求めたるを謝絶す。(顕如上人書札案留) | 永禄10年2月28日 | 612 |
| 1481 熊来続兼、山城東福寺栗棘庵に、畠山義綱が能登入国の期に将に近きにあるべきを報ず。(栗棘庵文書) | 永禄10年4月24日 | 612 |
| 1482 本願寺顕如、越前北荘堀江景忠に、その加賀一揆に党して朝倉氏に対し善戦退城せるを賞す。(顕如上人書札案留) | 永禄10年6月5日 | 613 |
| 1483 能登守護畠山義隆の被官遊佐続光等、笠松但馬守に、当知行等を安堵せしめてその来仕を求む。(笠松文書) | 永禄10年9月11日 | 613 |
| 1484 金沢後町山崎屋新四郎、金沢御坊に、麹室の座を寄進す。(本願寺文書) | 永禄10年9月25日 | 614 |
| 1485 金沢木之新保の住人へぎ彦左衛門、その麹室の座を売渡す。(本願寺文書) | 永禄10年10月2日 | 614 |
| 1486 本願寺顕如、三淵宗薫に、その主足利義秋が加賀・越前和談のことに斡旋したるを謝す。() | 永禄10年11月3日 | 614 |
| 1487 金沢南町広岡屋与三、金沢御坊に、麹室の座を寄進す。(本願寺文書) | 永禄10年11月5日 | 615 |
永禄11年(1568) | 1488 畠山義綱、笠松但馬守に、その来附を求む。(笠松文書) | 永禄11年1月21日 | 615 |
| 1489 畠山義綱、笠松但馬守に、その来附を求む。(笠松文書) | 永禄11年1月21日 | 615 |
| 1490 羽咋郡法輪寺の梵鐘成る。(免田常楽寺鐘銘) | 永禄11年2月 | 616 |
| 1491 越中勝興寺顕栄、金沢御坊の坪坂伯耆に、上杉輝虎の中郡に出馬したることを報ず。(坪坂文書) | 永禄11年3月16日 | 616 |
| 1492 足利義昭、本願寺顕如に、越前・加賀の講和に関して朝倉義景の使僧の到着せること等を報ず。(北徴遺文) | 永禄11年3月20日 | 617 |
| 1493 足利義昭、本願寺顕如に、越前・加賀の講和に関して朝倉義景の使僧の到着せること等を報ず。(顕如上人書札案留) | 永禄11年4月5日 | 617 |
| 1494 温井景隆、金沢御坊の坪坂伯耆等に、上杉輝虎の越中放生津より退陣したることを報ず。(坪坂文書) | 永禄11年3月26日 | 617 |
| 1495 畠山義綱、幕府の医曲直瀬道三に能登に入国したることを報ず。(自養録裏文書) | 永禄11年5月6日 | 618 |
| 1496 畠山義綱、林平三郎に、その来帰を賞して本領を安堵せしむ、(林文書) | 永禄11年6月19日 | 618 |
| 1497 畠山義綱、幕府の医曲直瀬道三に、鹿島郡神明の地を奪取せられたることを報ず。(自養録裏文書) | 永禄11年7月6日 | 618 |
| 1498 畠山義胤、林源右衛門尉に、鳳至郡合鹿の地を領知せしむ。(林文書) | 永禄11年12月5日 | 619 |
永禄12年(1569) | 1499 福島連景、鳳至郡穴水来迎寺の天神に田地を寄進す。(来迎寺文書) | 永禄12年3月8日 | 619 |
| 1500 幕府、山城石清水八幡宮に、能美郡山上郷・能美三ヶ荘及び石川郡西泉を安堵せしむ。(菊大路文書) | 永禄12年5月13日 | 619 |
| 1501 幕府、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) | 永禄12年7月3日 | 620 |
| 1502 幕府、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) | 永禄12年7月3日 | 620 |
| 1503 幕府、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) | 永禄12年10月10日 | 620 |
| 1504 幕府、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) | 永禄12年10月10日 | 620 |
| 1505 中西二位、鹿島郡永光寺に、羽咋郡菅原の地を寄進す。(永光寺文書) | 永禄12年8月15日 | 621 |
| 1506 鹿島郡天平寺、上杉輝虎の為に大般若経を転読す。(伊佐早文書) | 永禄12年9月 | 621 |
| 1507 幕府、山城勧修寺門跡に、同門跡領江沼郡郡家荘を安堵せしむ。(勧修寺文書) | 永禄12年10月7日 | 621 |
永禄13年、元亀元年(1570) | 1508 正親町天皇、足利義昭をして、二条晴良が勧修寺晴右家河北郡井家荘を押領するに依り、之を晴右に還付せしめ給ふ。(言継卿記) | 永禄13年、元亀元年3月20日 | 622 |
| 1509 正親町天皇、足利義昭をして、二条晴良が勧修寺晴右家河北郡井家荘を押領するに依り、之を晴右に還付せしめ給ふ。(言継卿記) | 年不詳月日不詳 | 622 |
| 1510 畠山義胤、僧中将に、羽咋郡堀松吉田の内を扶持す。(石動山福智院文書) | 永禄13年、元亀元年6月12日 | 623 |
| 1511 織田信長、前田利家に、その近江小谷に浅井長政と戦へる際に於ける功を賞す。(村井重頼覚書) | 永禄13年、元亀元年6月17日 | 623 |
| 1512 大塚連家、鳳至郡岩蔵寺に灯明銭を寄進す。(石倉比古神社文書) | 永禄13年、元亀元年9月27日 | 623 |
| 1513 幕府、勧修寺門跡雑掌をして、同門跡領江沼郡郡家荘を直務せしむ。(勧修寺文書) | 永禄13年、元亀元年10月15日 | 624 |
| 1514 幕府、勧修寺門跡雑掌をして、同門跡領江沼郡郡家荘を直務せしむ。(勧修寺文書) | 永禄13年、元亀元年10月15日 | 624 |
| 1515 左近某、田所源二郎に、鹿島郡能登部江尻の田地を譲渡す。(乗念寺文書) | 永禄13年、元亀元年11月16日 | 624 |
| 1516 山城賀茂別雷社、同社領河北郡金津荘御帳の紙数を注す。(賀茂別雷神社文書) | 永禄13年、元亀元年12月18日 | 625 |
元亀2年(1571) | 1517 上杉謙信、能登守護畠山義隆の被官等に、その越中に於ける戦況を報ず。(歴代古案) | 元亀2年3月20日 | 626 |
| 1518 畠山義胤、鳳至郡大澤村に定夫を徴す。(筒井文書) | 元亀2年5月17日 | 626 |
| 1519 本願寺顕如、坊官七里頼周を加賀に派遣し、国中門徒をして馳走せしむ。(本誓寺文書) | 元亀2年11月5日 | 626 |
| 1520 竹村宗良、鹿島郡府中山王社に懸絵を奉納す。(府中山王社懸絵裏書) | 元亀2年11月 | 627 |
| 1521 幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興の訴に依り、同門跡雑掌をして年貢過上分を還付せしむ。(曼殊院文書) | 元亀2年12月9日 | 627 |
元亀3年(1572) | 1522 松葉吉久、羽咋郡富来八幡宮に大鐘を寄進す。(富来八幡宮鐘銘) | 元亀3年3月 | 628 |
| 1523 河田長親、遊佐続光に、上杉謙信が越中出馬の遷延せる事情を報ず。(古文雑纂) | 元亀3年4月21日 | 628 |
| 1524 越中新庄城の鰺坂長実等、上杉謙信の臣山吉富守に、加賀の一揆の河上・五位両荘に侵入したることを報ず。(上杉家文書) | 元亀3年5月24日 | 628 |
| 1525 上杉謙信、能化衆をして、加賀・越中の一揆退散を祈らしむ。(上杉家文書) | 元亀3年6月15日 | 629 |
| 1526 正親町天皇、鹿島郡西光寺聖誉に、香衣を著して参内するを聴し給ふ。(大雲院文書) | 元亀3年7月25日 | 629 |
| 1527 正親町天皇、鹿島郡西光寺聖誉に、香衣を著して参内するを聴し給ふ。(大雲院文書) | 元亀3年7月25日 | 629 |
| 1528 山城智積院日悟等、河北郡本興寺成敗の条々追加を定む。(本興寺文書) | 元亀3年8月3日 | 630 |
| 1529 山城智積院日悟等、河北郡本興寺成敗の条々追加を定む。(本興寺文書) | 元亀3年8月3日 | 630 |
| 1530 西方某、鳳至郡岩蔵寺に灯明田を寄進す。(石倉比古神社文書) | 元亀3年8月19日 | 631 |
| 1531 杉浦壱岐越中より、上杉謙信の出兵を金沢御坊の坪坂伯耆に報じ、加賀南両郡一揆の急援を求む。(坪坂文書) | 元亀3年8月20日 | 631 |
| 1532 杉浦壱岐越中より、上杉謙信の出兵を金沢御坊の坪坂伯耆に報じ、加賀南両郡一揆の急援を求む。(坪坂文書) | 元亀3年8月20日 | 632 |
| 1533 越中瑞泉寺顕秀、金沢御坊の坪坂伯耆に、その国の戦況を報ず。(坪坂文書) | 元亀3年8月29日 | 632 |
| 1534 温井景隆、金沢御坊の坪坂伯耆に、上杉謙信の越中より納馬せんとすとの風聞を報ず。(坪坂文書) | 元亀3年9月4日 | 633 |
| 1535 遊佐盛光、上杉謙信の臣河田長親に、その馬を贈りたるを謝す。(歴代古案) | 元亀3年9月5日 | 633 |
| 1536 長福寺教円、坪坂新五郎に、越中に於ける戦況の利運を祝す。(坪坂文書) | 元亀3年9月6日 | 634 |
| 1537 杉浦壱岐越中より、金沢御坊の坪坂伯耆等に、重ねて加賀南両郡の来援を求む。(坪坂文書) | 元亀3年9月8日 | 634 |
| 1538 高桑吉政、坪坂新五郎に、越中にて大利を得たることを報ず。(坪坂文書) | 元亀3年9月9日 | 635 |
| 1539 江沼郡・能美郡の一向一揆、金沢御坊の坪坂伯耆等に杉浦壱岐の書状を受領したることを報ず。(坪坂文書) | 元亀3年9月10日 | 635 |
| 1540 江沼郡・能美郡の一向一揆、金沢御坊の坪坂伯耆等に杉浦壱岐の書状を受領したることを報ず。(坪坂文書) | 年不詳6月10日 | 635 |
| 1541 江沼郡・能美郡の一向一揆、金沢御坊の坪坂伯耆等に杉浦壱岐の書状を受領したることを報ず。(坪坂文書) | 年不詳3月5日 | 636 |
| 1542 杉浦壱岐越中より、金沢御坊の坪坂伯耆に、上杉謙信退散の風聞を報ず。(坪坂文書) | 元亀3年9月17日 | 636 |
| 1543 山崎実信、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) | 元亀3年9月20日 | 637 |
| 1544 願成寺連寿、金沢御坊の坪坂伯耆に、上杉謙信退散の風聞を祝す。(坪坂文書) | 元亀3年9月21日 | 637 |
| 1545 武田信玄、在越中の杉浦壱岐に、富山を固守すべきことを勧む。(前田家文書) | 元亀3年9月26日 | 637 |
| 1546 武田信玄、朝倉義景に、越中に於いて加賀の一向一揆と上杉謙信と対陣することを報ず。(南行雑録) | 元亀3年10月1日 | 638 |
| 1547 越中瑞泉寺顕秀、上杉謙信の軍に対抗せんとして江沼・能美二郡の一揆の来援を求む。(坪坂文書) | 元亀3年11月17日 | 638 |
元亀4年、天正元年(1573) | 1548 畠山義胤、木田左京亮に、その逆意を翻すべきことを求む。(寸錦雑録) | 元亀4年、天正元年1月28日 | 639 |
| 1549 畠山義胤、木田左京亮に、被官飯川肥前守を味方に復せしめたる功を賞す。(寸錦雑録) | 元亀4年、天正元年3月8日 | 639 |
| 1550 畠山義胤、上杉謙信の臣直江景綱に、今尚越後に滞在する被官飯川肥前守等の処置を依頼す。(伊佐早文書) | 元亀4年、天正元年7月10日 | 639 |
| 1551 上杉謙信、その臣吉江景資に、河北郡朝日山城攻撃を報ず。(中条文書) | 元亀4年、天正元年8月10日 | 640 |
| 1552 織田信長、上杉謙信に、江沼・能美二郡の一向一揆と和したることを報じ、速やかに越中を平定すべきを勧む。(本願寺文書) | 元亀4年、天正元年8月20日 | 640 |
| 1553 上杉謙信、その臣木戸忠朝等に、昨日を以て加賀より春日山城に納馬せるを報ず。(上杉古文書) | 元亀4年、天正元年8月22日 | 641 |
| 1554 神保伯耆守、珠洲郡金峰寺に、田崎村道場の田地居屋敷を寄進す。(金峰寺文書) | 元亀4年、天正元年11月4日 | 641 |
天正2年(1574) | 1555 正親町天皇、山城伏見稲荷社をして、同社領石川郡針道荘の貢納を全うせしめ給ふ。(御府文書) | 天正2年2月5日 | 642 |
| 1556 本願寺顕如、石川郡の門徒に、その志納を謝す。(照円寺文書) | 天正2年7月6日 | 642 |
| 1557 畠山義綱、越中瑞泉寺坊官上田石見守に、被官飯川肥前守帰順以後の疎遠を謝す。(仏厳寺文書) | 天正2年8月11日 | 643 |
天正3年(1575) | 1558 武田勝頼、金沢御坊の杉浦壱岐に、上杉謙信に抵抗せんことを勧む。(越賀雑記) | 天正3年4月26日 | 643 |
| 1559 織田信長、前田利家・佐々成政・不破光治を越前府中に封ず。(遺編類纂) | 天正3年9月 | 644 |
| 1560 織田信長、前田利家・佐々成政・不破光治を越前府中に封ず。(遺編類纂) | 天正3年9月23日 | 644 |
| 1561 織田信長、前田利家・佐々成政・不破光治を越前府中に封ず。(所蔵者未詳文書) | 年不詳1月16日 | 644 |
| 1562 前田利家等、越前南条郡高瀬宝円寺をして、その堂舎を復興せしむ。(宝円寺文書) | 天正3年10月2日 | 645 |
| 1563 前田利家等、越前今立郡大瀧神郷の紙座に、諸役を免除す。(大瀧神社文書) | 天正3年10月12日 | 645 |
| 1564 前田利家等、越前南条郡宅良慈眼寺に、堂寺供米を安堵せしむ。(慈眼寺文書) | 天正3年12月2日 | 645 |
| 1565 畠山氏の臣遊佐盛光等、上杉謙信の臣河田長親に、その先に返書を送れるを謝す。(歴代古案) | 天正3年12月15日 | 646 |
天正4年(1576) | 1566 畠山氏の臣長綱連等、上杉謙信の臣色部長真等に、謙信の出馬を促さしむ。(歴代古案) | 天正4年2月20日 | 646 |
| 1567 加賀の一向一揆奥政尭、上杉謙信の臣吉江資堅等に、謙信の本願寺と和したるを祝す。(河田文書) | 天正4年5月18日 | 647 |
| 1568 加賀の一向一揆洲崎景勝等、金沢御坊の七里頼周等に、上杉謙信が本願寺救援の為出馬するの真偽を質す。(笹生文書) | 天正4年5月28日 | 647 |
| 1569 上杉謙信、小早川隆景に、毛利輝元の所領備後に憑る足利義昭を入洛せしむる為、加賀・越前と和して出馬すべきことを報ず。(福山志料) | 天正4年6月11日 | 648 |
| 1570 畠山義綱、羽咋郡光専寺に、能登入国の本意を達したる後先規の如く太師田を宛行ふべきことを約す。(光専寺文書) | 天正4年6月22日 | 649 |
| 1571 足利義昭、上杉謙信に、本願寺をして加賀の一向一揆の妨害を停めしめたるを以て、速かに越前に出陣すべきことを求む。(歴代古案) | 天正4年8月13日 | 649 |
| 1572 足利義昭、上杉謙信に、本願寺をして加賀の一向一揆の妨害を停めしめたるを以て、速かに越前に出陣すべきことを求む。(上杉家文書) | 天正4年8月13日 | 649 |
| 1573 石川・河北の一向一揆首領等、本願寺坊官下間頼廉に金沢御坊の七里頼周を弾劾す。(北徴遺文) | 天正4年8月21日 | 650 |
| 1574 金沢御坊の七里頼周、上杉謙信の臣吉江資堅に、謙信の上口出馬を促さしむ。(吉江文書) | 天正4年9月9日 | 652 |
| 1575 金沢御坊の七里頼周、上杉謙信の臣河田長親に、鏑木頼信を除かんとするの趣旨を報ず。(河田文書) | 天正4年9月13日 | 652 |
| 1576 本願寺坊官某、鳳至郡本誓寺に、大坂の近況を報ず。(本誓寺文書) | 天正4年11月4日 | 653 |
| 1577 加賀の一向一揆、上杉謙信の臣鰺坂長実に、謙信の周旋に依り本願寺顕如の鏑木頼信・奥政尭を赦免せんとする命に服すべきを報ず。(歴代古案) | 天正4年11月16日 | 653 |
| 1578 上杉謙信、越中勝興寺に、七尾城攻撃の形勢を報ず。(北徴遺文) | 天正4年12月19日 | 654 |
| 1579 鹿島郡石動山城の直江景綱等、上杉謙信に、軍事に関し忠誠をを尽くすべき誓書を納る。(歴代古案) | 天正4年12月24日 | 654 |
天正5年(1577) | 1580 越中の神保氏張、上杉謙信の臣吉江資堅に、謙信の加賀出馬に当り協力すべきことを報ず。(直海文書) | 天正5年2月10日 | 655 |
| 1581 仮掲(中居山王社文書) | 天正5年3月7日 | 655 |
| 1582 仮掲(中居山王社文書) | 天正8年5月18日 | 656 |
| 1583 上杉謙信、飯田與三右衛門に、珠洲郡の知行所附を与ふ。(飯田文書) | 天正5年3月15日 | 657 |
| 1584 越中の小島職鎮、上杉謙信の臣吉江資堅に、謙信の加賀出馬に当り協力すべきことを報ず。(歴代古案) | 天正5年5月13日 | 657 |
| 1585 鰺坂長実等、上杉謙信に、その鹿島郡大呑口に出張放火したるを賞せられたるを謝す。(吉江文書) | 天正5年6月8日 | 658 |
| 1586 上杉謙信、飛騨江馬輝盛の臣河上定次に、その能登を征せんとして越中魚津に至り、織田信長北向の風聞を得たることを報ず。(河上文書) | 天正5年閏7月8日 | 658 |
| 1587 上杉謙信、飛騨江馬輝盛の臣河上定次に、その能登を征せんとして越中魚津に至り、織田信長北向の風聞を得たることを報ず。(歴代古案) | 天正5年閏5月16日 | 659 |
| 1588 上杉謙信能登に在り、織田氏の軍北進の報を得て、七里頼周に能美郡御幸塚を固守せしむ。(水野文書) | 天正5年8月9日 | 659 |
| 1589 金沢御坊の下間頼純、堀才介に、その能美郡粟津口に於いて織田氏の軍と戦ひたる功を賞す。(北徴遺文) | 天正5年9月14日 | 659 |
| 1590 金沢御坊の下間頼純、堀才介に、その能美郡粟津口に於いて織田氏の軍と戦ひたる功を賞す。(加賀記) | 年不詳4月1日 | 660 |
| 1591 本願寺坊官下間頼廉、堀才介に、その織田氏の軍を夜討せる功を賞す。(北徴遺文) | 天正5年9月25日 | 660 |
| 1592 珠洲郡松波城主松波義親、同城に於いて戦死す。(満福寺蔵松波義親肖像賛) | 天正5年9月25日 | 660 |
| 1593 上杉謙信、某に、七尾城攻落以後の事情を報ず。(歴代古案) | 天正5年9月29日 | 661 |
| 1594 上杉謙信の臣遊佐続光・鰺坂長実、能登に制札を与ふ。(上杉家文書) | 天正5年10月25日 | 662 |
| 1595 上杉謙信の臣遊佐続光・鰺坂長実、能登に制札を与ふ。(本誓寺文書) | 年不詳11月27日 | 663 |
| 1596 上杉謙信の臣吉江信景等、能登に置かれたる上條政繁に、七尾城の鰺坂長実と協力すべきこと等を諭す。(石坂文書) | 天正5年11月16日 | 663 |
| 1597 上杉謙信、羽咋郡気多社の寺家・社家に、その知行分を安堵せしむ。(気多神社文書) | 天正5年11月16日 | 664 |
| 1598 上杉謙信、嶋倉泰明に、能登の知行所附を与ふ。(志賀文書) | 天正5年11月16日 | 664 |
| 1599 上杉謙信、飯田與三右衛門の珠洲郡の知行所を変更せしむ。(歴代古案) | 天正5年11月16日 | 665 |
| 1600 上杉謙信、羽咋郡気多社の社務領を三宅長盛に預け、明年社家に返付せしむ。(気多神社文書) | 天正5年11月24日 | 665 |
| 1601 珠洲郡高座宮別当高勝寺の衆徒等、前々の如く寺領を寄付せられんことを求む。(須須神社文書) | 天正5年11月 | 665 |
| 1602 本願寺坊官下間頼廉、堀五兵衛に、その江沼郡塩浜及び能美郡串村に於ける戦功を賞す。(北徴遺文) | 天正5年12月8日 | 666 |
| 1603 本願寺坊官下間頼廉、堀五兵衛に、その江沼郡塩浜及び能美郡串村に於ける戦功を賞す。(北徴遺文) | 天正5年12月8日 | 666 |
| 1604 上杉謙信、その臣北条高広に、故畠山義隆の寡婦を高広の子景広の室たらしめんことを議す。(歴代古案) | 天正5年12月18日 | 667 |
天正6年(1578) | 1605 岩代の芦名盛氏、上杉謙信の臣新発田長敦に、謙信の能登・加賀を平定して凱旋せるを祝す。(浜崎文書) | 天正6年1月9日 | 667 |
| 1606 鹿島郡府中山王社の社殿造営成る。(府中山王社蔵棟札) | 天正6年2月2日 | 668 |
| 1607 鹿島郡府中山王社の社殿造営成る。(府中山王社蔵棟札) | 天正6年6月29日 | 668 |
| 1608 上杉謙信、某に、去秋を以て能登を平定したることを報ず。(仁科文書) | 天正6年2月10日 | 668 |
| 1609 鹿島郡七尾城主鰺坂長実、上杉謙信逝去の報を得、諸将をして誓文を納れしめ之を吉江信景に送る。(渡辺文書) | 天正6年3月19日 | 668 |
| 1610 本願寺顕如、上杉謙信の逝去を伝聞し、能美郡の鈴木出羽守等に戒心せしむ。(林西寺文書) | 天正6年4月12日 | 669 |
| 1611 吉川元春等、加賀の一向一揆に、上杉謙信と和して織田信長に抵抗せんことを勧む。(光明文書) | 天正6年4月23日 | 669 |
| 1612 柴田勝家、伊達輝宗の臣遠藤基信に、その去年加賀・能登・越中平定に着手せることを報ず。(建勲神社文書) | 天正6年5月3日 | 670 |
| 1613 織田信忠、柴田勝豊に、その加賀に出陣せんと企てたるを賞す。(長文書) | 天正6年8月16日 | 670 |
| 1614 珠洲郡正院城の長景連、上杉景勝の臣吉江信景に、その景勝に対して忠誠を尽くすべきことを誓ふ。(竹田文書) | 天正6年8月16日 | 671 |
| 1615 上杉景勝の臣長澤光国、鳳至郡中居村の真清田三右衛門に、その降を容るべきを告ぐ。(中居三右衛門伝書) | 天正6年8月17日 | 671 |
| 1616 上杉景勝、珠洲郡塩津の四郎右衛門尉に、その正院出港船一艘の分国内諸役を免除す。(刀禰文書) | 天正6年8月22日 | 672 |
| 1617 柴田勝家、長連龍に、明春を以て助成せんとすることを報ず。(長文書) | 天正6年9月22日 | 672 |
| 1618 長連龍、鳳至郡平野村の兵衛に、その穴水に籠城馳走したる功を賞す。(北徴遺文) | 天正6年9月23日 | 673 |
| 1619 太郎丸さこ、田所太郎兵衛に、田地を返却す。(乗念寺文書) | 天正6年10月20日 | 673 |
| 1620 織田信長、越中の佐々長秋に、守山に退きたる長連龍を扶助せしむ。(長文書) | 天正6年11月11日 | 673 |
| 1621 織田信長、越中の佐々長秋に、守山に退きたる長連龍を扶助せしむ。(長文書) | 天正6年11月11日 | 673 |
| 1622 羽咋郡気多社惣中、善根新左衛門尉に、同社領諸免田の貢納を全くせしめられんことを請ふ。(桜井文書) | 天正6年12月 | 674 |
天正7年(1579) | 1623 上杉景勝、五十公野重家等をして、鹿島郡七尾城主鰺坂長実にその参陣を促さしむ。(歴代古案) | 天正7年2月3日 | 675 |
| 1624 一宮光基、田所源次郎に、鹿島郡能登部免田一町を耕作せしむ。(乗念寺文書) | 天正7年3月13日 | 676 |
| 1625 上杉景勝、鏑木頼信に、当年初秋越中に出馬すべきことを報ず。(北徴遺文) | 天正7年4月25日 | 677 |
| 1626 織田信長、長連龍に、今秋自ら出馬すべきことを報じ、併せて温井景隆・三宅長盛に対し遺恨を懐くべからざることを告ぐ。(長文書) | 天正7年5月12日 | 677 |
| 1627 上條政繁、珠洲郡の飯田與三右衛門尉に、その上杉家景勝の越後平定を賀したるに答謝す。(歴代古案) | 天正7年5月24日 | 677 |
| 1628 徳田秀章、鹿島郡龍門寺に、羽咋郡徳田之内百苅の地を寄進す。(龍門寺文書) | 天正7年5月27日 | 678 |
| 1629 織田信長、長連龍に、重ねて今秋出馬すべきことを報じ、併せて温井景隆・三宅長盛等と妥協すべきことを告ぐ。(長文書) | 天正7年6月23日 | 678 |
| 1630 織田信長、長連龍に、自らの出勢の準備を怠らざることを報ず。(長文書) | 天正7年7月11日 | 678 |
| 1631 上杉景勝、羽咋郡末森城主土肥親真に、金沢御坊の下間来純と協力すべきことを告ぐ。(温故足徴) | 天正7年7月17日 | 679 |
| 1632 鳳至郡鉄川寺の衆徒等、松阿に、阿岸村より毎年拾貫文の湯洗銭を納入することを告ぐ。(宝泉寺文書) | 天正7年7月 | 679 |
| 1633 三宅長盛等、羽咋郡気多社に、その社務領を還附す。(気多神社文書) | 天正7年8月13日 | 679 |
| 1634 上杉景勝、珠洲郡の飯田與三右衛門に、長景連の指揮に従はしむ。(歴代古案) | 天正7年8月23日 | 680 |
| 1635 上杉景勝、加賀の一向一揆等に、当月中その出馬すべきことを報ず。(別本歴代古案) | 天正7年9月4日 | 680 |
| 1636 織田信長、長連龍に、その越中松倉の事情を報じたるに答ふ。(長文書) | 天正7年10月20日 | 681 |
| 1637 上杉景勝、その臣河田長親に、先に鳳至郡甲山に在りし島倉泰明が越中魚津に自尽せるを以て善後の計を命ず。(山田文書) | 天正7年12月18日 | 681 |
| 1638 上杉景勝、その臣河田長親に、先に鳳至郡甲山に在りし島倉泰明が越中魚津に自尽せるを以て善後の計を命ず。(河田文書) | 天正7年12月26日 | 681 |
| 1639 金沢御坊の坊官等、上杉景勝より越中に出陣を求められたるを謝絶す。(読史堂古文書) | 天正7年是歳 | 682 |
天正8年(1580) | 1640 長連龍、小林図書助に、その戦功を賞して珠洲郡九里・立壁二万疋の地を扶持す。(小林文書) | 天正8年1月11日 | 682 |
| 1641 長連龍、小林図書助に、重ねてその戦功を賞し鹿島郡大呑北庄を扶持す。(小林文書) | 天正8年1月18日 | 683 |
| 1642 織田信長、長連龍に、重ねて今秋出勢すべきことを報ず。(長文書) | 天正8年1月19日 | 683 |
| 1643 本願寺坊官下間頼廉、能登の門徒に軍資の寄進を求む。(本誓寺文書) | 天正8年1月25日 | 683 |
| 1644 仮掲(本誓寺文書) | 天正8年2月19日 | 684 |
| 1645 織田信長、廷臣庭田重保等に、加賀二郡返付等の条件を以て本願寺と和睦すべきことを報ず。(本願寺文書) | 天正8年3月17日 | 684 |
| 1646 仮掲(本誓寺文書) | 天正8年3月 | 685 |
| 1647 本願寺坊官下間頼廉、鳳至郡本誓寺に、その米穀を志納せるを謝す。(本誓寺文書) | 天正8年閏3月5日 | 685 |
| 1648 織田信長、本願寺に、講和の後加賀の返付を約す。(本願寺文書) | 天正8年閏3月11日 | 686 |
| 1649 織田信長、柴田勝家に、加賀に於いて停戦すべきことを命ず。(本願寺文書) | 天正8年閏3月11日 | 686 |
| 1650 上杉景勝、珠洲郡の飯田與三右衛門尉に、その新年の祝儀を贈りたるを謝す。(別本歴代古案) | 天正8年閏3月12日 | 686 |
| 1651 上杉景勝、珠洲郡の飯田與三右衛門尉に、その新年の祝儀を贈りたるを謝す。(歴代古案) | 天正8年5月24日 | 687 |
| 1652 柴田勝家、越中河田長親の家士山田長秀等に、金沢城以外の加賀を平定したることを報じ、長親の来属を求む。(読史堂古文書) | 天正8年閏3月24日 | 687 |
| 1653 柴田勝家、越中河田長親の家士山田長秀等に、金沢城以外の加賀を平定したることを報じ、長親の来属を求む。(読史堂古文書) | 天正8年閏3月26日 | 687 |
| 1654 織田信長、長連龍に、その河北郡木越及び羽咋郡飯山に戦捷を得たるを賞す。(長文書) | 天正8年閏3月30日 | 688 |
| 1655 本願寺顕如、能美郡の一揆鈴木出羽守に、その織田信長と和睦したることを報ず。(林西寺文書) | 天正8年4月1日 | 688 |
| 1656 本願寺教如、加賀四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(本願寺文書) | 天正8年4月2日 | 689 |
| 1657 本願寺教如、能登四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(本念寺文書) | 天正8年4月3日 | 689 |
| 1658 本願寺教如、能登四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(本誓寺文書) | 天正8年4月3日 | 690 |
| 1659 本願寺教如、能登四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(本誓寺文書) | 天正8年4月4日 | 690 |
| 1660 本願寺教如、能登四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(妙厳寺文書) | 天正8年4月3日 | 691 |
| 1661 長連龍、鹿島郡笠師村に制札を与ふ。(万治以前之抜書旧記) | 天正8年4月8日 | 691 |
| 1662 本願寺顕如、能登の門徒に、その織田信長と講和したる次第を報ず。(法融寺文書) | 天正8年4月15日 | 691 |
| 1663 本願寺顕如、能登の門徒に、その織田信長と講和したる次第を報ず。(法融寺文書) | 天正8年4月16日 | 692 |
| 1664 羽柴秀吉羽咋郡福水より、織田信長に、温井景隆等の和を請ひたることを報ず。(楠文書) | 天正8年4月23日 | 693 |
| 1665 温井景隆等、鳳至郡諸橋六郷の坊主及び百姓に、その馳走を求む。(諸橋文書) | 天正8年4月26日 | 694 |
| 1666 温井景隆等、鳳至郡諸橋六郷の百姓及び坊主に、その馳走を約したるを賞す。(諸橋文書) | 天正8年4月29日 | 694 |
| 1667 織田信長、長連龍に、その温井景隆等と講和する際過失なきを期せしむ。(長文書) | 天正8年5月10日 | 694 |
| 1668 本願寺教如、鹿島郡崎山十八日講中に、大坂籠城の決意を告げてその馳走を求む。(法広寺文書) | 天正8年5月14日 | 695 |
| 1669 本願寺教如、能美郡門徒に、大坂籠城の決意を告げてその馳走を求む。(波佐谷文書) | 天正8年5月25日 | 695 |
| 1670 温井景隆等、羽咋郡四町村の永三に、弐拾俵の地を扶持す。(四町村文書) | 天正8年6月1日 | 696 |
| 1671 温井景隆等、鳳至郡諸橋村次郎兵衛をして、諸橋六郷の百姓に馳走を命ぜしむ。(諸橋文書) | 天正8年6月5日 | 696 |
| 1672 本願寺教如、加越の実情視察の為に寺内織部佑等を派遣したることを報ず。(勝興寺文書) | 天正8年6月9日 | 696 |
| 1673 越中の波々伯部秀次、上杉景勝の臣黒金景信に、景勝の加賀出馬を慫慂せしむ。(別本歴代古案) | 天正8年7月6日 | 697 |
| 1674 織田信長、本願寺教如に、その大坂開城の後加賀を返付すべきこと等を約す。(本願寺文書) | 天正8年7月17日 | 697 |
| 1675 本願寺顕如、加州四郡等に、教如の大坂を開城したる次第を報ず。(本願寺文書) | 天正8年8月3日 | 698 |
| 1676 菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) | 天正8年8月23日 | 699 |
| 1677 柴田勝家、江沼郡山中湯に制札を与ふ。(遺編類纂) | 天正8年8月 | 699 |
| 1678 織田信長、長連龍に、鹿島半郡を領知せしむ。(長文書) | 天正8年9月1日 | 699 |
| 1679 温井景隆、鳳至郡西光寺に、同寺看坊職の田地を安堵せしむ。(西光寺文書) | 天正8年10月4日 | 699 |
| 1680 仮掲(穴水白山社棟札) | 天正8年10月12日 | 700 |
| 1681 菅屋長頼、羽咋郡末森城主土肥親真をして、気多社にその社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) | 天正8年10月13日 | 700 |
| 1682 菅屋長頼、羽咋郡末森城主土肥親真をして、気多社にその社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) | 天正8年10月13日 | 701 |
| 1683 菅屋長頼、羽咋郡末森城主土肥親真をして、気多社にその社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) | 天正8年10月28日 | 701 |
| 1684 長連龍、鹿島郡悦叟寺を創建し、同郡能登部村の内を寄進す。(悦叟寺文書) | 天正8年11月16日 | 701 |
| 1685 長連龍、小林小左衛門尉に、羽咋郡伊田村之内白石の地を扶持す。(小田文書) | 天正8年11月18日 | 701 |
| 1686 長連龍、荻野孫平兵衛尉に、鹿島郡小田中の地を扶持す。(荻野文書) | 天正8年11月22日 | 702 |
| 1687 長連龍、関吉右衛門をして、鹿島郡黒氏村の代官職たらしむ。(長文書) | 天正8年11月27日 | 702 |
| 1688 織田信長、温井景隆等に、その歳末の礼物を贈れるを謝す。(中谷文書) | 天正8年12月25日 | 702 |
天正9年(1581) | 1689 織田信長、温井景隆等に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(酒井文書) | 天正9年1月1日 | 703 |
| 1690 織田信長、温井景隆等に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(筒井文書) | 天正9年1月2日 | 703 |
| 1691 織田信長、温井景隆等に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(酒井文書) | 天正9年1月1日 | 703 |
| 1692 柴田勝家、温井景隆に、上国の事情を報ず。(酒井文書) | 天正9年2月29日 | 703 |
| 1693 柴田勝家、温井景隆に、上国の事情を報ず。(酒井文書) | 天正9年2月24日 | 704 |
| 1694 織田信長、長連龍に、不日菅屋長頼を能登に下さんとすることを報ず。(長文書) | 天正9年3月27日 | 704 |
| 1695 菅屋長頼鹿島郡七尾より、上杉景勝の臣須田満親に、景勝が越中出馬の非違を詰問す。(伊佐早文書) | 天正9年4月28日 | 704 |
| 1696 上杉景勝の臣田中尚賢等、直江兼続に、越中願海寺城の寺崎盛永が能登の菅屋長頼に誘殺せられたることを報ず。(上杉家文書) | 天正9年5月6日 | 705 |
| 1697 織田信長、長連龍に、その遊佐続光等を誅せるを報じたるに答ふ。(長文書) | 天正9年7月18日 | 706 |
| 1698 織田信長、長連龍に、その遊佐続光等を誅せるを報じたるに答ふ。(長文書) | 天正9年7月23日 | 706 |
| 1699 菅屋長頼、長連龍に、織田信長が鹿島半郡の内の旧石動山新神領を知行せしめられたることを報ず。(長文書) | 天正9年7月23日 | 706 |
| 1700 菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) | 天正9年7月27日 | 707 |
| 1701 菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) | 天正9年8月17日 | 707 |
| 1702 菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) | 天正9年8月21日 | 707 |
| 1703 菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) | 天正9年8月23日 | 708 |
| 1704 織田信長、長連龍に、重ねてその遊佐続光等を誅せるを報じたるに答ふ。(長文書) | 天正9年8月13日 | 708 |
| 1705 長連龍、笠松但馬守に、鹿島郡井田中村の地を宛行ふ。(笠松文書) | 天正9年8月17日 | 708 |
| 1706 羽咋郡末森城主土肥親真、気多社に、その社務領を寄進す。(気多神社文書) | 天正9年9月3日 | 708 |
| 1707 前田利家、能登に留守せる三和吉宗等に、上杉景勝出馬の風聞あることを報じ警戒する所あらしむ。(三輪文書) | 天正9年9月5日 | 709 |
| 1708 前田利家、鳳至・珠洲二郡の百姓に、海岸の警戒を厳にすべきことを命ず。(粟蔵村彦丞文書) | 天正9年9月5日 | 709 |
| 1709 加賀の一向一揆藤丸勝俊越中に在り、上杉景勝の臣上條宜順に、急に景勝の出馬せんことを求む。(上杉家文書) | 天正9年9月6日 | 710 |
| 1710 前田利家、鳳至郡道下村の逃散の百姓に、帰りてその業に就くべきを命ず。(能登国古文書) | 天正9年9月8日 | 710 |
| 1711 佐久間盛政、後藤弥右衛門尉に、石川・河北両郡の内三百石の地を扶持す。(後藤文書) | 天正9年9月12日 | 711 |
| 1712 織田信長、前田利家に、越前府中に於ける所領を返上すべきを命ず。(寸錦雑編) | 天正9年10月2日 | 711 |
| 1713 前田利家、珠洲郡正院の百姓に、代官等の非分を訴へしむ。(能登国古文書) | 天正9年10月9日 | 711 |
| 1714 織田信長、岩代芦名盛隆の臣富田左近将監に、その能登・越中を平定したることを報ず。(所蔵不詳文書) | 天正9年10月15日 | 712 |
天正10年(1582) | 1715 前田利家、片山宗秀等に、鹿島郡七尾所口城の塹壕を掘削せしむ。(拾遺温故雑帖) | 天正10年1月11日 | 712 |
| 1716 前田利家、鳳至郡中居の十兵衛に、鹿島郡七尾所口築城の用に供する鋳物を徴す。(中居鋳物師伝書) | 天正10年1月20日 | 713 |
| 1717 前田利家、先に鳳至郡鳳至町鍛冶の税を除きたりといへども、自今旧に仍りて之を徴すべきを令す。(能登国古文書) | 天正10年1月21日 | 713 |
| 1718 柳原淳光、織田信長の右筆楠長諳に、前田利家をして禁裏御料所鳳至郡中居釜屋村の貢納を督促せしむ。(中居三右衛門伝書) | 天正10年2月21日 | 713 |
| 1719 柳原淳光、前田利家に、禁裏御料所鳳至郡中居釜屋村の貢納を督促せしむ。(中居三右衛門伝書) | 天正10年3月8日 | 714 |
| 1720 織田信長、前田利家等に、その武田勝頼を討滅したることを報ず。(遺編類纂) | 天正10年3月13日 | 714 |
| 1721 前田利家、三和吉宗に、耕作に妨なければ鹿島郡七尾所口塹壕の掘削に従はしむべきを命ず。(三輪文書) | 天正10年3月15日 | 714 |
| 1722 前田利家越中富山より、能登に留守する前田安勝に、夫丸・船舶の徴発を指揮す。(能登国古文書) | 天正10年3月24日 | 715 |
| 1723 前田利家越中より、能登奥郡の竹村源三等に、警戒を怠ること勿らしむ。(中谷文書) | 天正10年4月2日 | 716 |
| 1724 上杉景勝、越中善徳寺に、柴田勝家軍の加賀山内に敗れたりとの風聞あるを祝し、その越中に侵入するを防戦せしむ。(善徳寺文書) | 天正10年4月8日 | 716 |
| 1725 上杉景勝、柴田勝家軍に包囲せらるる中條景泰の越中魚津城に赴援すべきを報ず。(石母田文書) | 天正10年4月13日 | 717 |
| 1726 上杉景勝、柴田勝家軍に包囲せらるる中條景泰の越中魚津城に赴援すべきを報ず。(景勝年譜) | 天正10年4月23日 | 718 |
| 1727 織田信長、前田利家に、その陣中より進献したるを謝す。(遺編類纂) | 天正10年4月17日 | 719 |
| 1728 高畠定吉越中より、羽咋郡菅原社の社僧等に、その巻数等を贈れるを謝す。(遺編類纂) | 天正10年5月3日 | 720 |
| 1729 前田利家陣中より、羽咋郡気多社大宮司に、その守札等を贈れるを謝す。(気多神社文書) | 天正10年5月5日 | 720 |
| 1730 上杉景勝、温井景隆に、その能登侵入の挙あるを賞して本領安堵等を約す。(景勝年譜) | 天正10年5月9日 | 720 |
| 1731 上杉景勝、平尭知に、その能登侵入の挙あるを賞して本領安堵を約す。(竹田文書) | 天正10年5月9日 | 721 |
| 1732 上杉景勝、江口式部丞に、その能登侵入の挙あるを賞して本領安堵を約す。(江口文書) | 天正10年5月9日 | 721 |
| 1733 前田利家越中魚津より、真柄助三郎等に、牢人の鳳至郡宇出津を侵したるを以て警戒を厳にせしむ。(中谷文書) | 天正10年5月15日 | 721 |
| 1734 上杉景勝の臣長景連、太田小尉等に、寡勢を率ゐて能登に侵入せる心事を報ず。(北徴遺文) | 天正10年5月19日 | 722 |
| 1735 羽柴秀吉備中より、溝江大炊允に、その越中魚津城攻撃に与れるを労す。(溝江文書) | 天正10年5月19日 | 722 |
| 1736 織田信長、長連龍に、その武田勝頼を討滅帰陣したるを祝したるに答謝す。(長文書) | 天正10年5月20日 | 723 |
| 1737 前田利家、長連龍に、その長景連を滅したるを報ぜるに答ふ。(長文書) | 天正10年5月23日 | 723 |
| 1738 前田利家、長連龍に、長景連の首級を領収したるを以てこれを安土に送附せんとすることを報ず。(長文書) | 天正10年5月24日 | 724 |
| 1739 織田信長、長連龍に、その鳳至郡棚木城に長景連を滅したることを賞す。(長文書) | 天正10年5月27日 | 724 |
| 1740 織田信長、長連龍に、その鳳至郡棚木城に長景連を滅したることを賞す。(長文書) | 天正10年5月27日 | 725 |
| 1741 前田利家、鳳至郡粟蔵村の彦丞に、敵意を挟む者あらば之を注進せしむ。(遺編類纂) | 天正10年5月 | 725 |
| 1742 上杉景勝、その臣色部長真に、織田信長の横死に依り越前・加賀・能登諸軍の退却せるを以て、仕置の為越中に出馬すべきを報ず。(別本歴代古案) | 天正10年6月8日 | 725 |
| 1743 上杉景勝、佐渡の本間高季等に、織田信長の横死に依り越中・能登の要害その守を失ひたるを以て、仕置の為出馬せんとするを報ず。(本間文書) | 天正10年6月12日 | 726 |
| 1744 上杉景勝、畠山左近将監に、能登の内希望の地を知行せしめんことを約す。() | 天正10年6月14日 | 726 |
| 1745 前田利家、柴田勝家に、能登の不穏なるが為上洛軍に従ふ能はざることを答報す。(薫墨集) | 天正10年6月17日 | 726 |
| 1746 仮掲(薫墨集) | 天正10年6月19日 | 727 |
| 1747 仮掲(薫墨集) | 天正10年6月24日 | 727 |
| 1748 前田利家、鳳至郡穴水の百姓に、舟を出して鹿島郡所口城の用に供する木材を運送せしむ。(川島村文書) | 天正10年6月27日 | 728 |
| 1749 前田利家、鳳至郡穴水の百姓に、鍬を携へて七尾に来着せしむ。(川島村文書) | 天正10年7月3日 | 728 |
| 1750 上杉景勝、島倉泰忠に、亡父泰明の能登に於ける所領を安堵せしむべきを約す。(志賀文書) | 天正10年7月7日 | 728 |
| 1751 前田利家、桜井甚五に、四百俵の地を扶持す。(北徴遺文) | 天正10年7月8日 | 729 |
| 1752 前田利家陣中より、羽咋郡菅原社の社僧に、その守札等を贈れるを謝す。(菅原神社文書) | 天正10年7月28日 | 729 |
| 1753 前田利家、羽咋郡菅原村の百姓行長に、十五俵の地を扶持す。(国田文書) | 天正10年8月5日 | 729 |
| 1754 前田利家、鹿島郡庵村の百姓等の白鳥岸網に関する争議を処断す。(越中古文書) | 天正10年8月13日 | 730 |
| 1755 前田利家、羽咋郡中川村の百姓太郎右衛門に、十五俵の地を扶持す。(能登国古文書) | 天正10年8月15日 | 730 |
| 1756 佐久間盛政、某に、鹿島郡荒山城を攻落したる状を報ず。(温故足徴) | 天正10年8月16日 | 730 |
| 1757 前田利家、羽咋郡菅原社に五十俵、同社僧に四十俵の地を寄進す。(菅原神社文書) | 天正10年8月20日 | 731 |
| 1758 前田利家、羽咋郡妙成寺に、土田荘拾参俵の地を寄進す。(妙成寺文書) | 天正10年8月21日 | 731 |
| 1759 前田利家、羽咋郡気多社に、四百俵の地を寄進す。(気多神社文書) | 天正10年8月24日 | 731 |
| 1760 前田利家、羽咋郡気多社に、参百俵の修理田を寄進す。(気多神社文書) | 天正10年8月25日 | 732 |
| 1761 前田利家、羽咋郡藤懸村役人に、潜匿せる盗賊を逮捕せしむ。(北徴遺文) | 天正10年8月27日 | 732 |
| 1762 前田利家、長連龍に、石動山天平寺の寺領を没収してその鹿島半郡内に散在するものを与ふ。(長文書) | 天正10年8月29日 | 732 |
| 1763 前田利家、羽咋郡気多社に制札を与ふ。(気多神社文書) | 天正10年8月29日 | 733 |
| 1764 前田利家、鳳至郡穴水・南北の百姓に、木材を諸橋より輸送する為舟を出さしむ。(川島村文書) | 天正10年9月1日 | 733 |
| 1765 前田利家、鹿島郡熊木村の百姓與一に、米拾俵を扶持す。(能登国古文書) | 天正10年9月1日 | 733 |
| 1766 上杉景勝、加賀の一向一揆蛭川重親等に、その越中国境に拠り来援を請へるを以て、当月中出馬すべきを報ず。(別本歴代古案) | 天正10年9月4日 | 734 |
| 1767 前田利家、長連龍に、互に和親すべき起請文を与ふ。(長文書) | 天正10年9月5日 | 734 |
| 1768 前田利家、羽咋郡中川村の太郎右衛門に、在々百姓の潜匿せる者を帰住せしむ。(中川村文書) | 天正10年9月5日 | 735 |
| 1769 前田利家、山城石清水八幡宮に、鹿島郡新庄村七拾俵の地を寄進す。(石清水文書) | 天正10年9月6日 | 735 |
| 1770 前田利家、鹿島郡七尾の町人氷見屋に、宅地及び田地を与へて、その子性寂坊の功に報ゆ。(氷見屋文書) | 天正10年9月6日 | 735 |
| 1771 前田利家、鳳至郡宝泉寺に、道下村拾俵の地を寄進す。(宝泉寺文書) | 天正10年10月10日 | 736 |
| 1772 前田利家、鳳至郡道下村の百姓三郎左衛門に、十五俵の地を扶持す。(能登国古文書) | 天正10年10月10日 | 736 |
| 1773 前田利家、鳳至郡阿岸中村の百姓高右近に、十俵の地を寄進す。(能登国古文書) | 天正10年10月10日 | 736 |
| 1774 前田利家、鳳至郡荒屋村の百姓三郎左衛門に、十五俵の地を寄進す。(能登国古文書) | 天正10年10月10日 | 737 |
| 1775 前田利家、鳳至郡川島村の百姓七兵衛に、十俵の地を扶持す。(高橋文書) | 天正10年10月10日 | 737 |
| 1776 前田利家、鳳至郡中居村の鋳物師三右衛門に、二十俵の地を扶持す。(中居三右衛門伝書) | 天正10年10月10日 | 737 |
| 1777 前田利家、羽咋郡相神の上島弥五郎に、百四十俵の地を扶持す。(能登国古文書) | 天正10年10月11日 | 737 |
| 1778 前田利家、鳳至郡長井村の百姓番頭に、十俵の地を扶持す。(能登国古文書) | 天正10年10月16日 | 738 |
| 1779 前田利家、三輪吉宗に、その鹿島郡七尾所口の築城に尽力せるを賞す。(三輪文書) | 天正10年10月18日 | 738 |
| 1780 前田利家、羽咋郡妙成寺に、制札を与ふ。(妙成寺文書) | 天正10年10月18日 | 738 |
| 1781 前田利家、鳳至郡穴水の百姓に、田租の外一切の雑税を給人に納付すること勿らしむ。(川島村文書) | 天正10年10月19日 | 739 |
| 1782 前田利家、鹿島郡海門寺に、堪忍文として佐美村三十俵の地を寄進す。(海門寺文書) | 天正10年10月21日 | 739 |
| 1783 前田利家、鹿島郡石動山番手の次第を定む。(前田家年譜) | 天正10年11月11日 | 739 |
| 1784 前田利家、鳳至・珠洲二郡の炭焼に、山林伐採を許し、課役として炭を上納せしむ。(能登国古文書) | 天正10年11月29日 | 740 |
| 1785 前田利家、鳳至郡山田郷の百姓に、炭等の上納を催促す。(能登国古文書) | 天正10年12月15日 | 740 |
天正11年(1583) | 1786 前田利家、羽咋郡中川村・藪野村の百姓に、気多社神幸の駕輿丁を命ず。(気多神社文書) | 天正11年閏1月29日 | 741 |
| 1787 佐久間盛政、徳山秀現、命を下して近江加田村に放火狼藉を禁ず。(小川文書) | 天正11年3月11日 | 741 |
| 1788 遊佐景光越後に在りて、芝原五郎左衛門に鹿島郡大呑北庄の内を扶助せんと約す。(温故足徴) | 天正11年3月15日 | 741 |
| 1789 前田利家近江より、富田景政に、戦況を報ず。(越登賀三州志) | 天正11年3月16日 | 741 |
| 1790 羽柴秀吉、上杉景勝の臣満親に、景勝が柴田勝家の背後を襲ひて越中・能登に出陣せんことを求む。(木村文書) | 天正11年3月17日 | 742 |
| 1791 前田利家、その留守に、近江の戦況を報ず。(座主文書) | 天正11年3月25日 | 743 |
| 1792 羽柴秀吉、本願寺坊官下間頼廉に、加賀の一揆をして策動せしむべきことを求む。(本願寺文書) | 天正11年4月8日 | 743 |
| 1793 前田利家、鳳至郡道下村の大工にして傍ら耕作する者に夫役に服せしむ。(能登国古文書) | 天正11年4月9日 | 744 |
| 1794 前田利家、珠洲郡上戸の百姓に命じ、寺社領を耕作する者といへども課役に服せしむ。(能登国古文書) | 天正11年4月16日 | 744 |
| 1795 羽柴秀吉、宇喜多秀家に、明日加賀かなざわに着すべきことを報ず。(小早川家文書) | 天正11年4月25日 | 744 |
| 1796 羽柴秀吉、小早川隆景に、その北国平定の事情を報ず。(小早川家文書) | 天正11年4月26日 | 745 |
| 1797 前田利家石川郡宮腰より、富田景政に、今日金沢城を陥落せしむべきことを報ず。(越登賀三州志) | 天正11年4月27日 | 745 |
| 1798 羽柴秀吉、溝口秀勝に、丹羽長秀がその所領のうち江沼郡を分かちたるを承認す。(溝口家文書) | 天正11年4月27日 | 746 |
| 1799 羽柴秀吉、毛利輝元に、その北国平定の事情を報ず。(毛利家文書) | 天正11年4月28日 | 746 |
| 1800 羽柴秀吉、毛利輝元の臣国司元武に、今日金沢城に入りたることを報ず。(西村文書) | 天正11年4月28日 | 747 |
| 1801 羽柴秀吉、金沢より寺内織部を上杉景勝の臣直江兼続等に遣はして、景勝の去就を決せしむ。(上杉年譜) | 天正11年4月29日 | 747 |
| 1802 羽柴秀吉、金沢より寺内織部を上杉景勝の臣直江兼続等に遣はして、景勝の去就を決せしむ。(佐々木文書) | 天正11年4月28日 | 747 |
| 1803 羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(前田家文書) | 天正11年4月 | 748 |
| 1804 羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(森田文書) | 天正11年4月 | 748 |
| 1805 羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(北徴遺文) | 天正11年4月 | 749 |
| 1806 羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(北徴遺文) | 天正11年4月 | 749 |
| 1807 羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(小浜神社文書) | 天正11年4月 | 749 |
| 1808 奥村家延、浅井藤次に、前田利家父子の加賀に入国したることを報ず。(浅井文書) | 天正11年5月1日 | 750 |
| 1809 前田安勝、前田利家に、鳳至郡中居の真清田三右衛門と小百姓との争議に就いて報告す。(中居三右衛門伝書) | 天正11年5月11日 | 750 |
| 1810 羽柴秀吉、再び小早川隆景に、その加賀に進撃したるまでの事情を告ぐ。(毛利家文書) | 天正11年5月15日 | 751 |
| 1811 前田利家、前田安勝に、鳳至郡中居の真清田三右衛門と争議を醸したる小百姓の処分に就いて告ぐ。(中居三右衛門伝書) | 天正11年5月20日 | 753 |
| 1812 羽柴秀吉近江坂本より、書を在京の前田利家女麻阿姫に与ふ。(前田家文書) | 天正11年5月 | 753 |
| 1813 前田利家、能登の前田安勝に、戦局終決したるを以て将に七尾に帰陣すべきを報ず。(高徳公書翰) | 天正11年6月4日 | 754 |
| 1814 前田利家、鳳至郡穴水・南北百姓に、垣用の梢を徴す。(川島村文書) | 天正11年6月6日 | 754 |
| 1815 前田利家、鳳至郡穴水に、夫丸を徴す。(川島村文書) | 天正11年6月25日 | 754 |
| 1816 前田利家、珠洲郡飯田等四ヶ村の堂宇を毀ち、穴水・南北の百姓に命じて之を鹿島郡府中に漕運せしむ。(川島村文書) | 天正11年7月8日 | 755 |
| 1817 前田利家、珠洲郡直郷の百姓に命じ、触使等に食料を給すること勿らしむ。(能登国古文書) | 天正11年7月12日 | 755 |
| 1818 片山宗秀、三輪吉宗をして、前田利家が鳳至郡中居の真清田三右衛門を召喚するの意を伝へしむ。(中居三右衛門伝書) | 天正11年7月13日 | 755 |
| 1819 上杉景勝、飯田與三右衛門に、その珠洲郡の所領に代へて越後新堀の地を付与す。(上杉年譜) | 天正11年7月25日 | 756 |
| 1820 奥村家福、羽咋郡宿村西照寺の鎮守鳥毛社に制札を与ふ。(西照寺文書) | 天正11年8月2日 | 756 |
| 1821 前田利家、奥野弥一郎に、石川郡内七百俵の地を扶持す。(北徴遺文) | 天正11年8月15日 | 757 |
| 1822 前田利家、奥野弥一郎に、河北郡の内百俵の地を加増扶持す。(北徴遺文) | 天正11年8月15日 | 757 |
| 1823 前田利家、種村三郎四郎に、石川郡所々の知行所附を与ふ。(拾遺温故雑帖) | 天正11年8月17日 | 757 |
| 1824 前田利勝、稲垣與右衛門に、石川郡縄打の内四百二十俵の地を扶持す。(本誓寺文書) | 天正11年8月24日 | 758 |
| 1825 前田利家、鳳至郡諸橋郷六郷の百姓に、穴水白普請の為鍬を携へて出役せしむ。(諸橋文書) | 天正11年8月29日 | 758 |
| 1826 前田利家、羽咋郡気多社に、その資を漁する為船一艘の諸役を免除す。(気多神社文書) | 天正11年9月1日 | 758 |
| 1827 羽柴秀吉、結城晴朝に、その加賀に侵入せし次第を報ず。(遺編類纂) | 天正11年9月4日 | 759 |
| 1828 佐々成政、前田利勝に、書を与へて久闊を叙す。(岩田文書) | 天正11年9月晦日 | 760 |
| 1829 徳川家康、不破直光に、その佐々成政に通牒したるを賞す。(温故足徴) | 天正11年10月16日 | 760 |
| 1830 正親町天皇、羽柴秀吉の臣蒲生氏郷をして石動山天平寺を復興せしめ給ふ。(石動山文書) | 天正11年10月17日 | 761 |
| 1831 前田利家、山城賀茂別雷社に、羽柴秀吉の命により同社領を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) | 天正11年11月22日 | 761 |
| 1832 前田利家、鳳至郡諸橋村百姓次郎兵衛に、百俵の地を扶持す。(諸橋文書) | 天正11年12月1日 | 761 |
| 1833 前田利家、三輪吉宗に、珠洲郡金峰寺より幟用の竹を徴して七尾に輸せしむ。(金峰寺文書) | 天正11年12月5日 | 762 |
| 1834 前田利家、三輪吉宗に、珠洲郡金峰寺より幟用の竹を徴して七尾に輸せしむ。(金峰寺文書) | 年不詳2月12日 | 762 |
| 1835 前田利家、三輪吉宗に、珠洲郡金峰寺より幟用の竹を徴して七尾に輸せしむ。(金峰寺文書) | 年不詳2月22日 | 762 |
天正12年(1584) | 1836 前田利家、珠洲郡高座宮別当高勝寺の増長坊に、三十俵の地を寄進す。(須須神社文書) | 天正12年3月6日 | 762 |
| 1837 仮掲(法住寺文書) | 天正12年3月7日 | 763 |
| 1838 羽柴秀吉、近江坂本より、丹羽長秀に、その前田利家に対する心得を諭す。(遺編類纂) | 天正12年3月13日 | 763 |
| 1839 徳川家康、本願寺顕如に、大坂及び加賀を交付せんことを約す。(大谷派本願寺文書) | 天正12年4月10日 | 764 |
| 1840 前田利家、羽咋郡気多社に、社僧の所務を没収して之を寄進す。(能登国古文書) | 天正12年6月1日 | 764 |
| 1841 前田利家、羽咋郡気多社に、社僧の所務を没収して之を寄進す。(能登国古文書) | 天正12年6月16日 | 764 |
| 1842 前田利家、羽咋郡気多社に、社僧の所務を没収して之を寄進す。(能登国古文書) | 天正12年6月19日 | 765 |
| 1843 羽柴秀吉、先に前田利家の秀吉を陣中に訪はんことを告げたるに答へ、且美濃竹鼻の戦況を報ず。(遺編類纂) | 天正12年6月7日 | 766 |
| 1844 前田利家、珠洲郡直郷西方寺村に、前年の算用状を与ふ。(妙厳寺文書) | 天正12年6月15日 | 766 |
| 1845 仮掲(法住寺文書) | 天正12年7月28日 | 767 |
| 1846 正親町天皇、白山宮惣長吏澄勝に、白山禅頂及び権現社頭の再興の功を励ましめ給ふ。(白山比咩神社文書) | 天正12年7月28日 | 767 |
| 1847 前田利家、能登国中に、羽咋郡気多社諸堂造営の為その資を奉加せしむ。(気多神社文書) | 天正12年7月 | 768 |
| 1848 前田利家、瓜生内記に、石川・河北郡二郡の中参百六拾俵を扶持す。(松井文書) | 天正12年7月 | 768 |
| 1849 前田利家、今村藤二郎に、鳳至郡穴水の地弐百俵の扶持を加増す。(北徴遺文) | 天正12年8月1日 | 768 |
| 1850 前田利家、吉村源太に、鳳至郡穴水の内五十俵及び町野の内九十俵を扶持す。(北徴遺文) | 天正12年8月1日 | 768 |
| 1851 前田利家、青木善四郎に、兵糧米として鹿島郡多根・ころさ両村の内を知行せしむ。(遺編類纂) | 天正12年8月28日 | 769 |
| 1852 前田利家、在京の越中瑞泉寺顕秀に、佐々成政の羽柴秀吉に逆意あるを告げ、速かに帰国せしむ。(瑞泉寺文書) | 天正12年9月5日 | 769 |
| 1853 羽柴秀吉尾張より、近況を前田利家及び利勝に報じ、自ら進みて佐々成政と事を構ふること勿らしむ。(温故足徴) | 天正12年9月8日 | 769 |
| 1854 羽柴秀吉尾張より、近況を前田利家及び利勝に報じ、自ら進みて佐々成政と事を構ふること勿らしむ。(温故足徴) | 天正12年9月8日 | 770 |
| 1855 前田利家、羽柴秀吉に、羽咋郡末森に於ける佐々成政との戦に勝利を得たることを報ず。(奥村記録) | 天正12年9月13日 | 770 |
| 1856 前田利家、羽柴秀吉に、羽咋郡末森に於ける佐々成政との戦に勝利を得たることを報ず。(奥村記録) | 天正12年9月14日 | 771 |
| 1857 前田利家、能登の青木善四郎等に、羽咋郡末森の戦勝を告げ自ら軽挙すること勿らしむ。(青木文書) | 天正12年9月14日 | 771 |
| 1858 前田利家、能登の青木善四郎等に、羽咋郡末森の戦勝を告げ自ら軽挙すること勿らしむ。(温故足徴) | 天正12年9月14日 | 772 |
| 1859 前田利勝、能登の青木善四郎に、羽咋郡末森の戦勝を報ず。(温故足徴) | 天正12年9月14日 | 772 |
| 1860 羽柴秀吉、前田利家に、その羽咋郡末森に於ける戦勝を功す。(遺編類纂) | 天正12年9月16日 | 772 |
| 1861 前田利家、奥村家福に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞して禄千俵を加増す。(遺編類纂) | 天正12年9月16日 | 773 |
| 1862 前田利家、奥村家福に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞して禄千俵を加増す。(加能越古文叢) | 天正12年9月16日 | 773 |
| 1863 前田利家、千秋範昌に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞し禄千俵を加増す。(遺編類纂) | 天正12年9月16日 | 773 |
| 1864 前田利勝、奥村家福に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞す。(前田家雑録) | 天正12年9月17日 | 774 |
| 1865 前田利勝、奥村家福に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞す。(加能越古文叢) | 天正12年9月17日 | 774 |
| 1866 前田利勝、千秋範昌に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞す。(遺編類纂) | 天正12年9月17日 | 774 |
| 1867 上杉景勝の臣須田満親、前田利家に、約に依り後詰として越中境の要害に出馬したることを報ず。(温故足徴) | 天正12年9月18日 | 775 |
| 1868 上杉景勝の臣土肥政繁等、能登の前田安勝に、前田利家の後詰として須田満親の出馬したることを報じ、その交誼を求む。(古蹟文徴) | 天正12年9月18日 | 775 |
| 1869 仮掲(甫庵太閤記) | 天正12年9月19日 | 776 |
| 1870 仮掲(遺編類纂) | 天正12年9月19日 | 776 |
| 1871 前田利家、上杉景決の臣直江兼続に、丹羽長秀の久しからずして来援せんとすることを告ぐ。(保阪文書) | 天正12年10月5日 | 777 |
| 1872 前田利家、奥村家福及び千秋範昌に加増知行の所付を与ふ。(遺編類纂) | 天正12年10月11日 | 777 |
| 1873 本願寺の坊官下間頼廉、鳳至郡の門徒に、前田氏に好意を表すべきも干戈に加ること勿らしむ。(本誓寺文書) | 天正12年10月25日 | 778 |
| 1874 前田利家、能登の青木善四郎等に、鹿島郡荒山の敵の退却を監視せしむ。(高畠文書) | 天正12年10月26日 | 778 |
| 1875 前田利家、鳳至郡中居村三右衛門に、同村の年貢米を催促す。(中居三右衛門伝書) | 天正12年10月27日 | 779 |
| 1876 前田利家、鳳至郡中居村三右衛門に、同村の年貢米を催促す。(田畑文書) | 天正12年11月6日 | 779 |
| 1877 前田利家、鳳至郡中居村三右衛門に、同村の年貢米を催促す。(田畑文書) | 年不詳9月3日 | 779 |
| 1878 前田利家、越中阿尾の城主菊池武勝に、講和を勧誘す。(菊池文書) | 天正12年11月8日 | 780 |
| 1879 前田利家、山城石清水八幡宮の社僧に、来春越中を討伐すべきことを報ず。(石清水文書) | 天正12年12月8日 | 780 |
天正13年(1585) | 1880 小松城主村上頼勝、本蓮寺に、田畠を寄進す。(北徴遺文) | 天正13年2月9日 | 780 |
| 1881 前田利家、羽咋郡大福寺村等に、大福寺の修葺を命ず。(大福寺文書) | 天正13年2月21日 | 781 |
| 1882 前田利家、羽咋郡大福寺村等に、大福寺の修葺を命ず。(大福寺文書) | 天正13年2月22日 | 781 |
| 1883 前田利家、能登の浦々に、越中征伐の際必要なるべきを以てその船舶の領外に赴くを禁ず。(三輪文書) | 天正13年2月24日 | 781 |
| 1884 仮掲(村井家記) | 天正13年2月28日 | 782 |
| 1885 仮掲(村井家記) | 天正13年2月29日 | 782 |
| 1886 前田利家、越中宇波村助右衛門に、その軍の進撃に際して尽力せしむ。(荻野文書) | 天正13年2月 | 783 |
| 1887 前田利家、越中宇波村助右衛門に、その軍の進撃に際して尽力せしむ。(荻野文書) | 天正13年4月21日 | 783 |
| 1888 仮掲(金沢藩源流記) | 天正13年3月2日 | 783 |
| 1889 鳳至郡総持寺に喚鐘を寄進す。(総持寺喚鐘銘) | 天正13年4月3日 | 783 |
| 1890 前田利家、奥村家福及び千秋範昌に、その越中おこめ市場・上野村を夜襲したる功を賞す。(温故足徴) | 天正13年4月20日 | 784 |
| 1891 前田利家、鹿島郡七尾の前田安勝に、羽柴秀吉の能登に動座することあるべきを告げ、為に座敷を造らしむ。(能登国古文書) | 天正13年5月7日 | 784 |
| 1892 前田利家、富田重政に、自ら上洛すべきを以て鹿島郡七尾城の守備を厳にせしむ。(勝田文書) | 天正13年5月18日 | 785 |
| 1893 前田利家、羽咋郡大福時の僧北之坊に、将に上洛せんとするを以て祈祷せしむ。(大福寺文書) | 天正13年5月20日 | 785 |
| 1894 溝口安勝、前田利家に、その上洛の途江沼郡大聖寺城に休憩せんことを請ふ。(中村文書) | 天正13年5月20日 | 785 |
| 1895 前田利家京より、能登の青木善四郎等に、羽柴秀吉の出馬するまで国境を厳守せしめ、且近日自ら下国すべきを報ず。(北徴遺文) | 天正13年6月6日 | 786 |
| 1896 前田利家、鹿島郡龍門寺に、居屋敷を寄進す。(龍門寺文書) | 天正13年6月22日 | 786 |
| 1897 前田利家、鹿島郡徳翁寺に、居屋敷を寄進す。(徳翁寺文書) | 天正13年6月22日 | 786 |
| 1898 前田利家、能登の百姓等に、荒蕪地の悔恨を怠ること勿らしむ。(能登国古文書) | 天正13年6月 | 787 |
| 1899 前田利家、能登の百姓等に、荒蕪地の悔恨を怠ること勿らしむ。(能登国古文書) | 天正13年6月 | 787 |
| 1900 前田利家、能登の百姓等に、荒蕪地の悔恨を怠ること勿らしむ。(能登国古文書) | 天正13年6月 | 787 |
| 1901 前田利家、能登の百姓等に、荒蕪地の悔恨を怠ること勿らしむ。(能登国古文書) | 天正13年6月 | 787 |
| 1902 前田利家、越中阿尾城主菊池武勝に、その講和条件を示す。(菊池文書) | 天正13年7月4日 | 788 |
| 1903 前田利家、能登の青木善四郎等に、越中の国境を警戒して羽柴秀吉の出馬を待たしむ。(青木文書) | 天正13年7月5日 | 789 |
| 1904 羽柴秀吉、前田利家に、来月四日を以て自ら出馬せんとするを告げ、且諸般の準備を為さしむ。(拾遺温故雑帖) | 天正13年7月14日 | 789 |
| 1905 前田利家、京大徳寺塔頭興臨院に、先考利春の為千石の地を寄進す。(国初遺文) | 天正13年7月24日 | 790 |
| 1906 前田利家、京大徳寺塔頭興臨院に、先考利春の為千石の地を寄進す。(国初遺文) | 天正13年7月24日 | 790 |
| 1907 前田利家、越中阿尾城主菊池武勝に、その和を請ひたるを容れて誓書を与ふ。(菊池文書) | 天正13年7月28日 | 790 |
| 1908 前田利家、鹿島郡大呑郷百姓に、羽柴秀吉の将に来着すべきを以て、その漁獲せし魚類を毎日金沢に送らしむ。(桑原文書) | 天正13年8月5日 | 791 |
| 1909 前田利家、能登の青木善四郎等に、前田利勝の河北郡鳥越に戦勝を獲、且羽柴秀吉の先鋒已に越前に入りたることを告ぐ。(温故足徴) | 天正13年8月7日 | 791 |
| 1910 前田利家、越中阿尾城主菊池武勝等に、羽柴秀吉の軍の加賀に入りたることを告ぐ。(菊池文書) | 天正13年8月10日 | 792 |
| 1911 前田利家、能登の長連龍等に、十八日を期して河北郡津幡に着到にすべきを命ず。(遺編類纂) | 天正13年8月17日 | 792 |
| 1912 羽柴秀吉、藤懸三蔵に、越中討伐の状況を告げ、且援軍として来るを要せざることを述ぶ。(北徴遺文) | 天正13年閏8月1日 | 793 |
| 1913 堀秀政北庄より、後藤才兵衛に、両三日中に越中に進軍すべきことを報ず。(北徴遺文) | 天正13年閏8月3日 | 793 |
| 1914 羽柴秀吉金沢より、大坂城中の女房こほに、越中討伐の事情を報ず。(北徴遺文) | 天正13年閏8月7日 | 794 |
| 1915 羽柴秀吉金沢より、本願寺顕如に、越中討伐の事情を報ず。(本願寺文書) | 天正13年閏8月11日 | 795 |
| 1916 前田利家、越中射水郡西田国泰寺に、その方丈を守山城に移すべきを告ぐ。(国泰寺文書) | 天正13年閏8月11日 | 795 |
| 1917 前田利家、越中射水郡西田国泰寺に、その方丈を守山城に移すべきを告ぐ。(考拠摘録) | 天正13年閏8月11日 | 795 |
| 1918 羽柴秀吉、越前北荘城主堀秀政に、江沼郡の溝口秀勝及び能美郡の村上頼勝をその与力たらしむ。(北徴遺文) | 天正13年閏8月13日 | 795 |
| 1919 前田利家、三輪吉宗等に、能登の納祖に関して告ぐ。(三輪文書) | 天正13年閏8月13日 | 796 |
| 1920 前田利勝、越中射水郡二上の渡守に、先規の如く渡舟に従はしむ。(門野文書) | 天正13年閏8月25日 | 796 |
| 1921 前田利勝、越中射水郡古国府勝興寺に、制札を与ふ。(勝興寺文書) | 天正13年閏8月 | 797 |
| 1922 羽柴秀吉、前田利家に羽柴筑前守の称を譲り、利勝を越中三郡に封ず。(袂草) | 天正13年9月11日 | 797 |
| 1923 前田利家、去年末森の役に於ける諸士に、その戦功を賞して禄を加ふ。(袂草) | 天正13年9月27日 | 798 |
| 1924 前田利家、去年末森の役に於ける諸士に、その戦功を賞して禄を加ふ。(袂草) | 天正13年9月27日 | 798 |
| 1925 前田利家、去年末森の役に於ける諸士に、その戦功を賞して禄を加ふ。(袂草) | 天正13年9月27日 | 798 |
| 1926 前田利家、宇野宗右衛門に、河北郡百弐拾俵の地を扶持す。(宇野文書) | 天正13年9月27日 | 799 |
| 1927 鹿島郡鵜浦村の衛門に、羽咋郡気多社鵜祭の神事に奉仕する為田地を扶助す。(鵜浦村文書) | 天正13年11月12日 | 799 |
天正14年(1586) | 1928 石川郡白山宮、再興の為に奉加帳を製す。(白山比咩神社文書) | 天正14年1月10日 | 799 |
| 1929 前田利家、石川郡佐那武社に、再興の為田二町を寄進す。(佐那武神社古文類聚) | 天正14年1月22日 | 799 |
| 1930 前田利家、石川郡宮腰以下十五村に、佐那武社再興の為に馳走せしむ。(佐那武神社古文類聚) | 天正14年1月22日 | 800 |
| 1931 前田利家、河北郡黒津舟社に、再興の為に田弐町を寄進す。(黒津舟神社文書) | 天正14年1月22日 | 800 |
| 1932 前田利家、河北郡根布七村以下に、黒津舟社再興の為に馳走せしむ。(黒津舟神社文書) | 天正14年1月22日 | 800 |
| 1933 前田利家、羽咋郡気多社に、例年の如く神幸を行はしむ。(気多神社文書) | 天正14年2月8日 | 801 |
| 1934 前田利家、珠洲郡高座・金文両宮に、田地五町を寄進す。(須須神社文書) | 天正14年2月13日 | 801 |
| 1935 珠洲郡馬緤の惣町、某に、米三十石を借用す。(馬緤村文書) | 天正14年2月15日 | 801 |
| 1936 前田利家、河北郡倶利伽羅の百姓に、定書を与ふ。(倶利伽羅村文書) | 天正14年4月2日 | 802 |
| 1937 前田利家、石川郡佐那武社に、制札を与ふ。(佐那武神社古文類聚) | 天正14年5月2日 | 802 |
| 1938 羽柴秀吉、前田利家等に、佐竹氏の使僧の要する伝馬を給せしむ。(佐竹家文書) | 天正14年5月24日 | 803 |
| 1939 羽柴秀吉、在京の前田利家の女麻阿姫に答書す。(保坂文書) | 天正14年5月27日 | 803 |
| 1940 前田利勝、伊勢大神宮に、越中砺波郡小坂の内百弐十俵の地を寄進す。(堤文書) | 天正14年6月15日 | 804 |
| 1941 前田利家、鹿島郡七尾魚町年寄に、同町以外に於いて魚類を売買するを禁ず。(七尾町文書) | 天正14年7月4日 | 804 |
| 1942 前田利家、鳳至郡諸橋村に、前年の皆済状を与ふ。(諸橋文書) | 天正14年7月5日 | 804 |
| 1943 前田利家、珠洲郡金峰寺に、前年の皆済状を与ふ。(金峰寺文書) | 天正14年7月8日 | 805 |
| 1944 前田利家、鹿島郡石崎の百姓に、赤浦に於いて餌取を行布を許す。(石崎村文書) | 天正14年7月11日 | 805 |
| 1945 前田利勝、越中砺波郡篠河村の市日を定む。(西照寺文書) | 天正14年8月13日 | 805 |
| 1946 前田利家、京に聚楽亭を造営せらるゝを以て、鹿島郡大呑郷より人夫を徴す。(温故足徴) | 天正14年8月16日 | 806 |
| 1947 鳳至郡阿岸村五郎左衛門等、本誓寺に、屋敷地を寄進す。(本誓寺文書) | 天正14年9月6日 | 806 |
| 1948 前田利勝、越中砺波郡埴生八幡宮に、六十俵の地を寄進す。(護国八幡宮文書) | 天正14年9月21日 | 807 |
| 1949 前田利勝、越中砺波郡埴生八幡宮に、制札を与ふ。(護国八幡宮文書) | 天正14年9月21日 | 807 |
| 1950 前田利家、山城石清水八幡宮に、鹿島郡飯川八幡村の内七十俵の地を安堵せしむ。(石清水文書) | 天正14年10月1日 | 807 |
| 1951 前田利次、越中砺波郡矢波村高徳寺に、壱町五段の地を寄進す。(永伝寺文書) | 天正14年10月12日 | 807 |
| 1952 前田利家、羽咋郡の百姓に、その産駒を隠匿するを戒む。(三輪文書) | 天正14年12月8日 | 807 |
| 1953 前田利家、羽咋郡の百姓に、その産駒を隠匿するを戒む。(三輪文書) | 天正14年12月13日 | 808 |
| 1954 京大徳寺玉仲宗シュウ、前田利春の画像に讃す。(旧興臨院蔵書幅) | 天正14年12月13日 | 808 |
天正15年(1587) | 1955 前田利家京より、羽咋郡気多社に、その年始の御祓等を贈れるを謝す。(気多神社文書) | 天正15年1月15日 | 809 |
| 1956 前田利家、能登の郡村に、その境界を正し田畠を荒廃せざらしむ。(三輪文書) | 天正15年2月13日 | 809 |
| 1957 前田利家、金沢宝円寺の大透圭徐に、鳳至郡総持寺を再建せしむ。(竹内文書) | 天正15年2月14日 | 810 |
| 1958 前田利家、将に九州に出征せんとするを以て、越中一向宗門徒の人質を徴す。(善徳寺文書) | 天正15年2月15日 | 810 |
| 1959 前田利家、能登に産する駒の税額を定む。(三輪文書) | 天正15年2月17日 | 810 |
| 1960 前田利家、能登に産する駒の税額を定む。(保坂氏文書) | 天正15年2月17日 | 810 |
| 1961 豊臣秀吉、前田利勝に、その憮然巖石城攻撃に於ける軍功を賞す。(菅君雑録) | 天正15年4月2日 | 811 |
| 1962 前田利家の奉行今井彦右衛門、鳳至郡山田郷院内村百姓に、山銭に相応する山地を分与すべきを告ぐ。(能登国古文書) | 天正15年5月28日 | 811 |
| 1963 前田利家、珠洲郡西方寺村に、年貢皆済状を与ふ。(妙厳寺文書) | 天正15年5月30日 | 811 |
| 1964 前田利家、珠洲郡西方寺村に、年貢皆済状を与ふ。(妙厳寺文書) | 年未詳12月26日 | 812 |
| 1965 前田利家、鳳至郡中居村に、前年の皆済状を与ふ。(中居村三右衛門伝書) | 天正15年6月3日 | 812 |
| 1966 前田利家、鳳至郡輪島鳳気至町・河井町に、索麺座の営業を自由ならしむ。(重蔵神社文書) | 天正15年6月29日 | 813 |
| 1967 前田利家、鳳至郡志津良庄に、前年の皆済状を与ふ。(刀禰文書) | 天正15年7月4日 | 813 |
| 1968 前田利次、越中砺波郡今石動永伝寺に、山地を寄進す。(永伝寺文書) | 天正15年7月6日 | 814 |
| 1969 前田利家、鹿島郡熊来村百姓の年貢米の定納を定む。(北徴遺文) | 天正15年7月10日 | 815 |
| 1970 前田利家、穴生源介に、百俵の地を扶持す。(穴生方伝書) | 天正15年7月16日 | 815 |
| 1971 前田利勝、諸士に、豊前巖石城に於ける戦功を賞す。(遺編類纂) | 天正15年8月7日 | 815 |
| 1972 前田利勝、諸士に、豊前巖石城に於ける戦功を賞す。(遺編類纂) | 天正15年8月7日 | 815 |
| 1973 四郎三郎等、田所に、田地を返却す。(乗念寺文書) | 天正15年10月14日 | 816 |
| 1974 前田利家、伊達政宗に、その豊臣秀吉と好を通ぜるを祝す。(伊達家文書) | 天正15年12月11日 | 816 |
| 1975 前田利家、羽咋郡押水の内四十ヶ村新開の祖額を定む。(赤池文書) | 天正15年12月 | 816 |
天正16年(1588) | 1976 前田利家、鳳至郡荒屋組に、百姓を有せざる林文右衛門尉知行所の地を開墾すべきを命ず。(能登国古文書) | 天正16年2月23日 | 817 |
| 1977 前田利家、伊達政宗に、鷹を豊臣秀吉に献すべきことを促す。(伊達家文書) | 天正16年4月5日 | 817 |
| 1978 前田利家・利勝等、聚楽亭に於いて廷臣に誓書を上る。(聚楽第行幸記) | 天正16年4月15日 | 818 |
| 1979 前田利家・利勝等、聚楽亭に於いて廷臣に誓書を上る。(聚楽第行幸記) | 天正16年4月15日 | 818 |
| 1980 前田利家、羽咋郡邑知郷の百姓に、菅原の蔵米を羽咋まで運輸せしむ。(菅原村行長文書) | 天正16年閏5月8日 | 819 |
| 1981 前田利家、羽咋郡邑知郷の百姓に、菅原の蔵米を羽咋まで運輸せしむ。(菅原村行長文書) | 天正16年6月22日 | 819 |
| 1982 前田利家、羽咋郡邑知郷の百姓に、菅原の蔵米を羽咋まで運輸せしむ。(菅原村行長文書) | 天正16年12月25日 | 819 |
| 1983 前田利家、伊達政宗に、その豊臣秀吉に献じたる鷹の嘉納せられたるを報ず。(伊達家文書) | 天正16年7月4日 | 820 |
| 1984 前田利家、奥野与兵衛に、羽咋郡の内四百俵の地を加増扶持す。(北徴遺文) | 天正16年8月4日 | 820 |
| 1985 前田利勝、越中勝興寺に、百俵の地を寄進す。(勝興寺文書) | 天正16年10月1日 | 820 |
| 1986 前田利家、羽咋郡気多社に、制札を与ふ。(気多神社文書) | 天正16年10月24日 | 821 |
| 1987 前田利家、領内百姓に、京大仏殿建築の資材として所有の刀・脇刺を提出せしむ。(古蹟文徴) | 天正16年11月6日 | 821 |
| 1988 前田利家、領内百姓に、京大仏殿建築の資材として所有の刀・脇刺を提出せしむ。(青木文書) | 天正16年11月6日 | 821 |
| 1989 前田利家、領内百姓に、京大仏殿建築の資材として所有の刀・脇刺を提出せしむ。(三輪文書) | 天正16年11月6日 | 822 |
| 1990 前田利家、越中新川郡岩峅立山寺及び足峅中宮寺に、各百俵の地を寄進す。(雄山神社文書) | 天正16年11月30日 | 822 |
| 1991 前田利家、越中新川郡岩峅立山寺及び足峅中宮寺に、各百俵の地を寄進す。(天正録) | 天正16年11月30日 | 822 |
| 1992 前田利家、羽咋郡各村に、産駒の税を調査納入せしむ。(国初遺文) | 天正16年12月5日 | 823 |
天正17年(1589) | 1993 前田利家、上杉景勝に、不日その上洛せんとするを報ず。(上杉家文書) | 天正17年6月25日 | 823 |
| 1994 前田利家の奉行等、鳳至郡山田郷院内村に、縄打目録を与ふ。(能登国古文書) | 天正17年6月26日 | 824 |
| 1995 後陽成天皇、鳳至郡総持寺に、出世道場たらしめ給ふ。(総持寺文書) | 天正17年6月27日 | 824 |
| 1996 後陽成天皇、鳳至郡総持寺に、出世道場たらしめ給ふ。(総持寺文書) | 天正17年6月27日 | 824 |
| 1997 後陽成天皇、鳳至郡総持寺に、出世道場たらしめ給ふ。(総持寺文書) | 天正17年6月27日 | 824 |
| 1998 前田利家、鳳至郡大澤村定納の祖額を定む。(能登国古文書) | 天正17年7月5日 | 825 |
| 1999 前田利家、伊達政宗に、その芦名義広を討ちたることに就き豊臣秀吉に釈明するを慫慂す。(伊達家文書) | 天正17年7月21日 | 825 |
| 2000 前田利家、鹿島郡能登島岩屋村に、去年の皆済状を与ふ。(能登国古文書) | 天正17年9月13日 | 825 |
| 2001 前田利家、鳳至郡諸橋村に、去年の皆済状を与ふ。(諸橋文書) | 天正17年9月13日 | 826 |
| 2002 前田利家、鳳至郡櫛比八ヶ並びに輪島のつづら藤売買に就きて徴税せしむ。(道下村文書) | 天正17年9月18日 | 827 |
| 2003 前田利家、鳳至郡櫛比八ヶ並びに輪島のつづら藤売買に就きて徴税せしむ。(道下村文書) | 年不詳11月13日 | 827 |
| 2004 前田利家、鹿島郡小島・所口の百姓に、所口屋敷の替地として明神野を与ふ。(所口村文書) | 天正17年9月22日 | 828 |
| 2005 前田利家、羽咋郡大島村の堺兵衛に、四斗三升四合の地を扶持す。(大島村文書) | 天正17年9月25日 | 828 |
| 2006 前田安継、岡田長右衛門に、鳳至郡二俣川の内二百俵の地を扶持す。(岡田文書) | 天正17年9月28日 | 828 |
| 2007 前田安継、岡田長右衛門に、鳳至郡二俣川の内二百俵の地を扶持す。(岡田文書) | 天正17年7月9日 | 828 |
| 2008 前田利家、羽咋郡気多社に、同社寄進地縄打出分の処置に関して告ぐ。(気多神社文書) | 天正17年10月4日 | 829 |
| 2009 前田利家、羽咋郡気多社に、同社寄進地縄打出分の処置に関して告ぐ。(気多神社文書) | 天正17年11月3日 | 829 |
| 2010 前田利家、羽咋郡気多社に、同社寄進地縄打出分の処置に関して告ぐ。(気多神社文書) | 天正17年12月11日 | 829 |
| 2011 前田利家、伊達政宗に、豊臣秀吉の来春を以て小田原を征すべきを報じ、速やかにその上洛を促す。(伊達家文書) | 天正17年12月5日 | 830 |
| 2012 前田利家、伊達政宗に、豊臣秀吉の来春を以て小田原を征すべきを報じ、速やかにその上洛を促す。(伊達家文書) | 天正17年12月5日 | 830 |
天正18年(1590) | 2013 小松城主村上頼勝の臣辻家政、能美郡湊村に、その地が諸役免除たるを以て、小田原陣の夫役を命ぜらるるも応ずべからざることを告ぐ。(湊村文書) | 天正18年1月20日 | 831 |
| 2014 前田利家の臣村井長頼、伊達政宗の片倉景綱に、関東の陣中にて相会せんことを告ぐ。(伊達家文書) | 天正18年1月23日 | 831 |
| 2015 前田利長、伊達政宗に、その上洛を促す。(伊達家文書) | 天正18年1月26日 | 832 |
| 2016 前田利家、伊達政宗に、下野に出馬して小田原征討の軍に従ふべきことを勧む。(伊達家文書) | 天正18年2月2日 | 832 |
| 2017 前田安勝、越中新川郡岩峅立山寺及び芦峅中宮寺の衆徒神主に、諸役を免除す。(雄山神社文書) | 天正18年2月10日 | 833 |
| 2018 前田安勝、越中新川郡岩峅立山寺及び芦峅中宮寺の衆徒神主に、諸役を免除す。(芦峅一山会文書) | 天正18年2月10日 | 833 |
| 2019 前田利家、信濃楢井の本陣原孫右衛門に、その加越能三州内にて商を営むとき諸役を免除せんことを約す。(能登国古文書) | 天正18年3月13日 | 834 |
| 2020 前田利家、在能登の三輪吉宗等に、米穀を信濃川中島に輸送せしむ。(三輪文書) | 天正18年3月25日 | 834 |
| 2021 前田利家、無足比企郡古寺村の岡本左門に、軍用米十二石を借用す。(遺編類纂) | 天正18年4月 | 834 |
| 2022 前田利家、在金沢の前田安勝に命じ、米穀を越前敦賀に輸送せしむ。(金沢文書) | 天正18年5月3日 | 835 |
| 2023 前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(八ツ島村文次文書) | 天正18年5月 | 835 |
| 2024 前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(伊草村百姓文書) | 天正18年5月 | 835 |
| 2025 前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(医王寺文書) | 天正18年5月 | 835 |
| 2026 前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(報恩寺文書) | 天正18年5月 | 836 |
| 2027 前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(正法寺文書) | 天正18年5月 | 836 |
| 2028 前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(光明寺文書) | 天正18年5月 | 837 |
| 2029 前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(赤石文書) | 天正18年5月 | 837 |
| 2030 前田利家、武蔵龍穏寺に、旧に依りて同寺領の百姓をして馳走せしむ。(龍穏寺文書) | 天正18年6月1日 | 837 |
| 2031 前田利家、長連龍等に、武蔵石橋村の陣所を守らしむ。(寸錦雑編) | 天正18年6月3日 | 838 |
| 2032 前田利長、有賀直政に、武蔵八王子の役にその子長治の勇戦せることを報ず。(有賀文書) | 天正18年6月24日 | 838 |
| 2033 前田利長等、武蔵宝生寺等に、制札を与ふ。(宝生寺文書) | 天正18年6月24日 | 838 |
| 2034 前田利長等、武蔵宝生寺等に、制札を与ふ。(宝生寺文書) | 天正18年6月24日 | 838 |
| 2035 前田利長等、武蔵二本木村百姓に、利長等の判形を所持せざる者に対して夫役・伝馬を供給せざらしむ。(二本木村兵衛文書) | 天正18年6月24日 | 839 |
| 2036 前田利家、三輪吉宗に、武蔵八王子の役にその子吉富の戦没せることを報ず。(三輪文書) | 天正18年6月27日 | 839 |
| 2037 前田利家、武蔵多摩郡高乗寺に、制札を与ふ。(高乗寺文書) | 天正18年6月 | 840 |
| 2038 前田利家等、武蔵鉢形に、制札を建つ。(小前田村町田文書) | 天正18年6月 | 840 |
| 2039 前田利家、武蔵入間郡北野村天神社に、祈祷を命ず。(北野村天神神主文書) | 天正18年7月5日 | 840 |
| 2040 前田利家、武蔵入間郡北野村天神社に、祈祷を命ず。(北野村天神神主文書) | 天正18年月日不詳 | 841 |
| 2041 前田利家、在京の夫人に、相模小田原城主北条氏直の降りたることを報ず。(三輪文書) | 天正18年7月10日 | 841 |
| 2042 前田利政、三輪吉宗に、その子吉富の戦没を弔す。(遺編類纂) | 天正18年7月16日 | 842 |
| 2043 前田利家下野鹿沼より、浅野長政に、鷹の贈遺を求む。(浅野家文書) | 天正18年7月18日 | 842 |
| 2044 前田利家、三輪吉宗に、その子吉富の武蔵八王子役に戦没せる状を報ず。(三輪文書) | 天正18年7月22日 | 842 |
| 2045 前田利家、浅野長政に、豊臣秀吉の布教を赦免せられたるを喜べる意を報ず。(浅野家文書) | 天正18年7月25日 | 842 |
| 2046 前田利家、在京の木村作右衛門等に、出羽仙北・庄内・由利の一揆の起れることを報ず。(温故足徴) | 天正18年10月18日 | 843 |
| 2047 前田利長、不破直光に、明日前田利家の出羽仁賀保に陣を移すべきことを報ず。(寸錦雑編) | 天正18年10月23日 | 843 |
| 2048 前田利家、在金沢の前田安勝に、将に帰陣せんとするを告ぐ。(寸錦雑編) | 天正18年10月 | 844 |
| 2049 豊臣秀吉、越前北庄城主堀秀政の子秀治に襲封せしめ、大聖寺の村上頼勝・小松の溝口秀勝をして旧の如くその与力たらしむ。(遺編類纂) | 天正18年11月4日 | 844 |
| 2050 前田利家、伊達政宗に、陸奥の仕置を終り加賀に帰りたる後更に上洛したることを報ず。(伊達家文書) | 天正18年42360 | 845 |
天正19年(1591) | 2051 伊達政宗遠江浜松より、前田利家に、その懇情を謝し且豊臣秀吉に斡旋を嘱す。(古蹟文徴) | 天正19年閏1月23日 | 845 |
| 2052 前田安勝、鳳至郡の諸村に、百姓を撫恤し敢へて逃走勿らしむ。(能登国古文書) | 天正19年2月17日 | 846 |
| 2053 前田安勝、鳳至郡の諸村に、百姓を撫恤し敢へて逃走勿らしむ。(三輪文書) | 年不詳4月1日 | 846 |
| 2054 豊臣秀吉、前田利家に、その関東の役に於ける戦功を賞す。(拾遺温故雑帖) | 天正19年3月19日 | 847 |
| 2055 豊臣秀吉、前田利家に、征明の軍を起すの決意を告ぐ。(前田家文書) | 天正19年4月8日 | 847 |
| 2056 前田利長、越前敦賀の高島屋伝右衛門に、米国売却の為尽力すべきを依頼す。(小宮山文書) | 天正19年4月27日 | 848 |
| 2057 前田利家、越前敦賀の高島屋伝右衛門に領内より漕運する米国の裁許を命ず。。(小宮山文書) | 天正19年5月24日 | 848 |
| 2058 前田利家、鳳至郡諸橋村に、前々年の皆済状を与ふ。(諸橋文書) | 天正19年7月20日 | 848 |
| 2059 前田利家、鹿島郡七尾古屋敷に、皆済状を与ふ。(能登国古文書) | 天正19年7月26日 | 849 |
| 2060 小松城主村上頼勝、能美郡長田村に、検地帳を与ふ。(事林明証) | 天正19年9月21日 | 849 |
| 2061 小松城主村上頼勝、能美郡長田村に、検地帳を与ふ。(熊田氏文書) | 年不詳1月25日 | 851 |
| 2062 前田利家・利長、豊臣秀吉の御話衆を命ぜらる。(千手院文書) | 天正19年9月23日 | 851 |
| 2063 前田利家、石黒善九郎等に、羽咋郡の知行所付を与ふ。(能登国古文書) | 天正19年10月26日 | 852 |
| 2064 前田利家、金沢・七尾間に於ける伝馬・人足徴発の法を定む。(国初遺文) | 天正19年11月3日 | 853 |
| 2065 前田利家、金沢・七尾間に於ける伝馬・人足徴発の法を定む。(七尾町伝書) | 天正19年11月 | 853 |
| 2066 前田利長、越中澤川の百姓田畑兵衛に、旧に依りてその持分の山を扶持す。(田畑文書) | 天正19年11月7日 | 853 |
| 2067 前田利家、鹿島郡石動山天平寺に、大呑荘澤野の内百俵を寄進す。(石動山文書) | 天正19年11月25日 | 854 |
天正20年、文禄元年(1592) | 2068 前田利長、配下の士に、征明の役に従ふ為九州に出陣を命ず。(近藤文書) | 天正20年、文禄元年1月7日 | 854 |
| 2069 前田利家、高畠定吉に、その録進したる軍役の定員より少きを難詰す。(高畠文書) | 天正20年、文禄元年2月15日 | 854 |
| 2070 前田安勝、越前敦賀の米穀を九州に輸する為加賀・能登の水手を徴す。(小宮山文書) | 天正20年、文禄元年2月18日 | 855 |
| 2071 前田利家、石見の津吏に、肥前名護屋に廻漕する兵糧米の船役を課すること勿らしむ。(寸錦雑編) | 天正20年、文禄元年3月16日 | 855 |
| 2072 鳳至郡明泉寺観音堂の建立成る。(明泉寺棟札) | 天正20年、文禄元年6月18日 | 855 |
| 2073 豊臣秀吉、在外の軍に、前田利家を名代として渡海せしむべきを告ぐ。(国祖遺言) | 天正20年、文禄元年9月7日 | 856 |
| 2074 豊臣秀次、前田利家に、勅命に依りて秀吉の肥前名護屋下向を一ヶ月延期したることを報ず。(温故集録) | 天正20年、文禄元年9月14日 | 856 |
| 2075 前田利家肥前名護屋より、在能登の今井彦右衛門に、厳に今年の祖を徴すべきことを命ず。(三輪文書) | 天正20年、文禄元年9月19日 | 856 |
| 2076 豊臣秀吉、明国和を請ふに依り、先に前田利家を名代として渡海すべき命を与へたるを撤回す。(拾遺温故雑帖) | 天正20年、文禄元年9月21日 | 857 |
| 2077 豊臣秀吉、明国和を請ふに依り、先に前田利家を名代として渡海すべき命を与へたるを撤回す。(遺編類纂) | 天正20年、文禄元年9月15日 | 857 |
| 2078 長連龍、その所領鹿島郡能登部上村に検地帳を与ふ。(能登部村文書) | 天正20年、文禄元年10月1日 | 858 |
| 2079 前田利長京より、在能登の三輪吉宗に、豊臣秀吉乗艦の用材を準備せしむ。(三輪伝書) | 天正20年、文禄元年10月14日 | 859 |
| 2080 豊臣秀吉肥前名護屋に於いて、前田利家に、昨日茗讌に招請せられたるを謝す。(国初遺文) | 天正20年、文禄元年11月6日 | 859 |
| 2081 豊臣秀吉、側室加賀殿に、明春高麗に渡海すべきことを告ぐ。(前田文書) | 天正20年、文禄元年12月6日 | 860 |
| 2082 豊臣秀吉、側室加賀殿に、明春高麗に渡海すべきことを告ぐ。(原文書) | 天正20年、文禄元年12月26日 | 860 |
| 2083 豊臣秀吉、側室加賀殿に、明春高麗に渡海すべきことを告ぐ。(石﨑文書) | 天正20年、文禄元年17日 | 861 |
文禄2年(1593) | 2084 前田利家名護屋より、在能登の三輪吉宗等に、豊臣秀吉渡海の期定まりたるを以て、急に準備の為大坂に上るべきを命ず。(三輪文書) | 文禄2年1月3日 | 861 |
| 2085 前田利長、在国の某に、豊臣秀吉の乗艦の用に供する銅・金箔を徴す。(温故足徴) | 文禄2年1月29日 | 862 |
| 2086 前田利家、小幡彦三郎に、その将に渡海せんとするを告ぐ。(貴田文書) | 文禄2年2月2日 | 863 |
| 2087 前田利長、越中砺波郡今石動永伝寺に、百俵の地を寄進す。(永伝寺文書) | 文禄2年3月20日 | 863 |
| 2088 前田利家、能登銀座に、上納金を精査して判を施さしむ。(七尾町伝書) | 文禄2年3月 | 863 |
| 2089 前田利家肥前名護屋より、在金沢の篠原一孝・能登の三輪吉宗等に、刀槍装飾の為の金銀箔調製を命ず。(三輪文書) | 文禄2年4月7日 | 863 |
| 2090 前田利家肥前名護屋より、在金沢の篠原一孝・能登の三輪吉宗等に、刀槍装飾の為の金銀箔調製を命ず。(三輪文書) | 文禄2年2月7日 | 864 |
| 2091 本願寺の坊官下間頼廉、珠洲郡鵜飼妙厳寺に、宗祖絵像安置の許可せられたることを報ず。(能登国古文書) | 文禄2年5月23日 | 865 |
| 2092 前田利家、越中新川郡宝福寺に、百俵の地を寄進す。(宝福寺文書) | 文禄2年5月24日 | 865 |
| 2093 前田利長、徳山秀現に、前田利家の帰陣すべき時期を質す。(能登国古文書) | 文禄2年6月3日 | 865 |
| 2094 前田利家、利光院に、明使謝用梓等の肥前名護屋に来着せることを報ず。(本願寺文書) | 文禄2年6月1日 | 866 |
| 2095 前田利家、利長に、その弟利政の能登に封ぜられたることを告ぐ。(前田家文書) | 文禄2年9月19日 | 866 |
| 2096 長連龍、徳田利兵衛に、鹿島郡内の地二百俵を扶持す。(徳田文書) | 文禄2年閏9月26日 | 866 |
| 2097 長連龍、石寺喜右衛門に、鹿島郡小田中三百俵の地を扶持す。(三引文書) | 文禄2年閏9月26日 | 867 |
文禄3年(1594) | 2098 前田安勝、前田利家の命により、能登一向宗寺院の諸税を免除す。(妙厳寺文書) | 文禄3年2月30日 | 867 |
| 2099 前田安勝、鹿島郡七尾町奉行に、檜物師二人を上洛せしむべきことを命ず。(七尾町伝書) | 文禄3年3月25日 | 867 |
| 2100 前田安勝、鹿島郡七尾町奉行に、檜物師二人を上洛せしむべきことを命ず。(七尾町伝書) | 年不詳11月4日 | 868 |
| 2101 前田利家摂津有馬温泉より、本願寺准如に、その使者を派し物を贈りたるを謝す。(本願寺文書) | 文禄3年5月4日 | 868 |
| 2102 前田利家、木村作右衛門外三人が伏見城築造の工事を怠りたるを以てその知行を没収す。(三輪文書) | 文禄3年6月15日 | 869 |
| 2103 前田利家、鳳至郡大澤村の内記に、肥前名護屋に運漕したる米の勘定状を与ふ。(筒井文書) | 文禄3年7月19日 | 869 |
| 2104 前田利家、金沢本願寺末寺に制札を与ふ。(北徴遺文) | 文禄3年7月 | 869 |
| 2105 前田利家、金沢尾山町年寄に、犀川・浅野川両橋架設のことに就いて書を与ふ。(竹屋文書) | 文禄3年9月7日 | 870 |
| 2106 前田利家、金沢尾山町中に、その銀子を贈れるを謝す。(竹屋文書) | 文禄3年10月8日 | 870 |
| 2107 前田利家、鶴見彦介に、山城伏見邸の築造に関して告ぐ。(国初遺文) | 文禄3年11月17日 | 870 |
文禄4年(1595) | 2108 豊臣秀次、前田利家に、その入湯中の起居を問ひ且鷹の雁を贈る。(舟木文書) | 文禄4年1月29日 | 871 |
| 2109 豊臣秀吉、前田利家・徳川家康二人をして、会津城主蒲生氏郷卒後の租納を監せしむ。(妙覚寺文書) | 文禄4年2月9日 | 872 |
| 2110 豊臣秀吉、前田利家に、近江今津・弘川二邑を与ふ。(国初遺文) | 文禄4年3月6日 | 872 |
| 2111 前田利家、小林重昌に、飛騨白川への輸出米に関して告ぐ。(小林文書) | 文禄4年4月21日 | 872 |
| 2112 前田利家、小林重昌に、飛騨白川への輸出米に関して告ぐ。(小林文書) | 文禄4年6月29日 | 873 |
| 2113 前田利家、豊臣秀吉の子おひろひ秀頼に太刀・馬を贈る。(前田家文書) | 文禄4年5月5日 | 873 |
| 2114 前田利家、在能登の三輪吉宗に、浅野幸長がその地に移り住せんとすることを告ぐ。(三輪文書) | 文禄4年6月16日 | 873 |
| 2115 前田利政、在能登の三輪吉宗に、浅野幸長の将にその地に移らんとするを告ぐ。(三輪文書) | 文禄4年6月18日 | 874 |
| 2116 徳川家康、前田利家に、蒲生秀行等のことについて消息を与ふ。(北徴遺文) | 文禄4年6月21日 | 874 |
| 2117 前田利長、今枝重直を禄して家臣とす。(今枝家譜) | 文禄4年9月1日 | 875 |
| 2118 村井長頼等、伊勢の御師堤源介に、旧に依り越中射水郡小境村の神領を管せしむ。(堤文書) | 文禄4年10月12日 | 875 |
文禄5年、慶長元年(1596) | 2119 前田利家、在能登の三輪吉宗等に、鹿島郡七尾の市区経営等に就いて告ぐ。(三輪文書) | 文禄5年、慶長元年4月15日 | 875 |
| 2120 前田利家、鹿島郡能登部上村の兄宮に、制札を与ふ。(能登部神社文書) | 文禄5年、慶長元年6月29日 | 876 |
| 2121 前田利家伏見より、在能登の三輪吉宗等に、震災後の建築材料として縄及び竹釘を送付せしむ。(三輪文書) | 文禄5年、慶長元年閏7月15日 | 877 |
| 2122 前田利家、在能登の三輪吉宗に、その地に蟄居する浅野幸長の罪の赦免せられたることを報ず。(三輪文書) | 文禄5年、慶長元年閏7月22日 | 877 |
| 2123 前田利家、鹿島郡七尾所口府中町民の山城伏見の震災に就いて慰問したるを謝す。(能登国古文書) | 文禄5年、慶長元年8月3日 | 877 |
| 2124 前田利家、在能登の三輪吉宗に、浅野幸長の前住宅の処置等に就いて告ぐ。(三輪文書) | 文禄5年、慶長元年8月18日 | 878 |
| 2125 前田利家、越前敦賀の高島屋伝右衛門に、縄・炭以下の物資を輸送せしむ。(小宮山文書) | 文禄5年、慶長元年9月18日 | 878 |
| 2126 前田利家、在能登の三輪吉宗に、再び浅野幸長の前住宅の処分等に就いて告ぐ。(三輪文書) | 文禄5年、慶長元年10月1日 | 878 |
慶長2年(1597) | 2127 仮掲(東本願寺別院文書) | 慶長2年4月7日 | 879 |
| 2128 仮掲(東本願寺別院文書) | 慶長2年4月7日 | 879 |
| 2129 仮掲(長橋神明宮棟札) | 慶長2年6月15日 | 879 |
| 2130 前田利家、鹿島郡天平時の僧徒に、石動山の旧地に還住することを許す。(能登部神社文書) | 慶長2年7月9日 | 880 |
| 2131 前田利家、本願寺准如に、その使者下間法橋を派遣して不参の末寺を調査せんとするに答ふ。(本願寺文書) | 慶長2年7月9日 | 880 |
| 2132 仮掲(長福寺文書) | 慶長2年7月12日 | 880 |
| 2133 空照、前田利家の女加賀殿の石川郡白山宮に奉納する額面の裏書を作る。(白山比咩神社蔵額面) | 慶長2年7月28日 | 881 |
| 2134 空照、前田利家の女加賀殿の石川郡白山宮に奉納する額面の裏書を作る。(白山比咩神社額面裏書写) | 慶長2年7月28日 | 881 |
慶長3年(1598) | 2135 前田利家、河北郡森下の紺屋孫十郎に、自今専ら藩用の染色を掌らしむ。(館紺屋文書) | 慶長3年4月21日 | 882 |
| 2136 前田利家、上野草津温泉に在りて能登覚知より見舞を受く。(新編御系譜需備抄録) | 慶長3年5月7日 | 882 |
| 2137 前田利家、上野草津温泉に在りて能登覚知より見舞を受く。(新編御系譜需備抄録) | 慶長3年5月9日 | 882 |
| 2138 前田利家、上野草津温泉に在りて能登覚知より見舞を受く。(七尾町伝書) | 慶長3年5月25日 | 883 |
| 2139 前田利家上野草津より、上杉景勝に、その会津に国替せるを賀す。(上杉家文書) | 慶長3年5月25日 | 883 |
| 2140 前田利家越中富山より、羽咋郡気多社宮司に、湯治見舞を謝す。(気多神社文書) | 慶長3年6月20日 | 883 |
| 2141 前田利家、在能登の三輪吉宗に、所々の山税増徴を命ず。(三輪文書) | 慶長3年6月26日 | 884 |
| 2142 豊臣秀吉の奉行朽木元綱、越前北袋之内西山新保村に検地帳を与ふ。(新丸村文書) | 慶長3年6月28日 | 884 |
| 2143 前田利家、在能登の今井彦右衛門に、山税に関して令す。(三輪文書) | 慶長3年7月23日 | 886 |
| 2144 豊臣秀吉の奉行林伝右衛門尉、能美郡林村に検地帳を与ふ。(矢田野村文書) | 慶長3年7月 | 886 |
| 2145 豊臣秀吉、前田利家等に、子秀頼を託す。(毛利家文書) | 慶長3年8月5日 | 887 |
| 2146 前田利家、豊臣氏の五奉行に、秀吉の薨後秀頼に対する忠誠を誓ふ。(国初遺文) | 慶長3年8月5日 | 887 |
| 2147 江沼郡の領主小早川秀秋、国司土佐守に、富塚村等六百石の地を知行せしむ。(萩藩閥閲録) | 慶長3年8月5日 | 888 |
| 2148 江沼郡の領主小早川秀秋、龍野孫兵衛尉に、横北村等五百石の地を知行せしむ。(黄薇古簡集) | 慶長3年8月5日 | 889 |
| 2149 江沼郡の領主小早川秀秋、原田四郎左衛門に、水田丸村等四百石の地を知行せしむ。(土佐国蠧簡集残編) | 慶長3年8月5日 | 889 |
| 2150 前田利家、豊臣氏の五奉行に、再び秀頼に対する忠誠を誓ふ。(国初遺文) | 慶長3年8月8日 | 890 |
| 2151 前田利家、岡田長右衛門等に、検見に就いて令す。(菅原村行長文書) | 慶長3年8月9日 | 890 |
| 2152 前田利家等豊臣氏の諸大老、秀吉の病中は知行方その他仕置を改めざるべきことを契約す。(毛利家文書) | 慶長3年8月10日 | 891 |
| 2153 前田利家等豊臣氏の諸大老諸奉行、更に秀吉に忠誠を誓ふ。(浅野家文書) | 慶長3年9月3日 | 891 |
| 2154 前田利家、越後能生より桜樹を徴す。(能生駅文書) | 慶長3年9月7日 | 892 |
| 2155 前田利家、石川郡番田・上安田両村に、その諸税を免除す。(高徳公御印書写) | 慶長3年9月8日 | 893 |
| 2156 前田利長、その妹千代姫に、粧田五百石を与ふ。(村井文書) | 慶長3年9月23日 | 893 |
| 2157 丹羽長重、上坂権平に、能美郡一針村の内を知行せしむ。(上坂文書) | 慶長3年9月24日 | 893 |
| 2158 前田利政、馬廻の士をして山城伏見に勤番せしむ。(三輪文書) | 慶長3年9月25日 | 894 |
| 2159 前田利家、高畠定吉に、石川郡鞍ヶ嶽の金坑を試掘せしむ。(高畠文書) | 慶長3年10月15日 | 894 |
| 2160 山口宗永、江沼郡菅生石部社に、旧に依りその屋敷廻の地を知行せしむ。(菅生石部神社文書) | 慶長3年10月27日 | 895 |
| 2161 願主某等、鹿島郡気多本宮社殿を造営す。(能登生国玉比古神社蔵棟札) | 慶長3年12月13日 | 895 |
| 2162 前田利家等豊臣氏の諸大老、近江三井寺に寺領を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長3年12月26日 | 895 |
| 2163 前田利家等伏見より、在能登の三輪吉宗等に、豊臣秀頼に贈るべき矮馬を求めしむ。(三輪文書) | 慶長3年12月29日 | 896 |
慶長4年(1599) | 2164 前田利家、前田利政に、その侍頭の大坂上途を督促せしむ。(拾遺温故雑帖) | 慶長4年2月4日 | 896 |
| 2165 前田利家等豊臣氏の諸大老諸奉行、徳川家康と誓書を交換す。(遺編類纂) | 慶長4年2月5日 | 896 |
| 2166 前田利家等豊臣氏の諸大老、越前及び加賀江沼郡領主小早川秀秋を筑前・筑後に転封す。(毛利家文書) | 慶長4年2月5日 | 897 |
| 2167 前田利家等豊臣氏の諸大老、山口修弘に、その旧領越前の易地として江沼郡の内一万三千石を領知せしむ。(毛利家文書) | 慶長4年2月5日 | 898 |
| 2168 前田利家、在能登の三輪吉宗等に、百姓の坑夫として佐渡に赴くを禁ぜしむ。(三輪文書) | 慶長4年2月14日 | 898 |
| 2169 前田利政、不破又兵衛等に、鹿島郡大津に於いて扶持方を給す。(温故足徴) | 慶長4年2月15日 | 899 |
| 2170 徳川家康、藤堂高虎に、その前田利家と入魂なることを報ず。(藤堂家文書) | 慶長4年2月29日 | 899 |
| 2171 前田利家、斎藤勘平以下の諸士に、石川・河北郡に於ける領知を与ふ。(茨木文書) | 慶長4年2月 | 899 |
| 2172 前田利家、金沢宝円寺に、河北郡月影村百五拾四俵二斗五升の地を寄進す。(考拠摘録) | 慶長4年2月 | 900 |
| 2173 徳川家康、書を以て前田利家の病状を問ふ。(菅原村行長文書) | 慶長4年3月13日 | 900 |
| 2174 前田利家等、荒木三平等に、豊臣秀頼の命に依り竹島の巣鷹持参を命ず。(拾遺温故雑帖) | 慶長4年3月18日 | 901 |
| 2175 徳川家康、再び書を以て前田利家の病状を問ふ。(北徴遺文) | 慶長4年3月19日 | 901 |
| 2176 前田利家大坂に於いて、その夫人に筆を執らしめて子利長に遺訓す。(越登賀三州志) | 慶長4年3月21日 | 901 |
| 2177 前田利家、河北郡津幡の市日等に関する規定を令す。(津幡少右衛門文書) | 慶長4年3月 | 904 |
| 2178 前田利長等豊臣氏の諸大老、諸士に領地を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年閏3月3日 | 904 |
| 2179 前田利長等豊臣氏の諸大老、諸士に領地を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年閏3月3日 | 904 |
| 2180 前田利長等豊臣氏の諸大老、諸士に領地を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年閏3月3日 | 905 |
| 2181 前田利長、高畠定吉に、故利家の葬礼のことに関して告ぐ。(北徴遺文) | 慶長4年4月3日 | 905 |
| 2182 前田利長等豊臣氏の諸大老、禁制違犯者の処分に関して契約す。(毛利家文書) | 慶長4年5月11日 | 906 |
| 2183 前大徳寺住持先甫宗賢、前田利家の画像賛を作る。(蓮江寺蔵前田利家画像讃) | 慶長4年7月 | 907 |
| 2184 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 907 |
| 2185 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 907 |
| 2186 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 907 |
| 2187 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 908 |
| 2188 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 908 |
| 2189 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 908 |
| 2190 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 909 |
| 2191 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 909 |
| 2192 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 909 |
| 2193 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 910 |
| 2194 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 910 |
| 2195 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 910 |
| 2196 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 910 |
| 2197 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 911 |
| 2198 前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) | 慶長4年8月7日 | 911 |
| 2199 前田利政、桜井八左衛門尉に、四百俵の扶持を加増す。(前田文書) | 慶長4年10月6日 | 911 |
慶長5年(1600) | 2200 前田利長、金沢の本願寺末寺に制札を与ふ。(徴古文書) | 慶長5年3月17日 | 912 |
| 2201 三輪彦衛門等、鹿島郡久麻加夫都阿良加志比古社の上葺を行ふ。(久麻加夫都阿良加志比古神社棟札) | 慶長5年3月 | 912 |
| 2202 前田利家の後室芳春院、鳳至郡輪島蓮江寺に、高二十俵の地を寄進す。(蓮江寺文書) | 慶長5年4月10日 | 912 |
| 2203 前田利家の後室芳春院、鳳至郡輪島蓮江寺に、高二十俵の地を寄進す。(蓮江寺文書) | 年不詳4月26日 | 913 |
| 2204 豊臣氏の奉行等、浜松城主堀尾忠氏に、前田利長の母芳春院の江戸に下らんとしてその地に宿泊する際賄を交附せしむ。(拾遺温故雑帖) | 慶長5年5月13日 | 913 |
| 2205 前田利長、山崎長徳に、上国将に干戈の事あらんとするを以て諸士に指物を準備せしむ。(加賀国古文書) | 慶長5年5月16日 | 914 |
| 2206 前田利長、河北郡森下の館紺屋孫二郎に、金沢の染工を統べしむ。(館紺屋文書) | 慶長5年5月27日 | 914 |
| 2207 前田利長、河北郡森下の館紺屋孫二郎に、金沢の染工を統べしむ。(館紺屋文書) | 慶長5年5月27日 | 914 |
| 2208 前田利政、田清六に、その室を大坂より下国せしむる為尽力せんことを求む。(遺編類纂) | 慶長5年6月16日 | 915 |
| 2209 徳川家康、屋代勝永をして、前田利長が会津進撃の際に於ける先手等を命ぜしむ。(加賀国古文書) | 慶長5年7月7日 | 915 |
| 2210 前田利長、象山徐芸の隠居宝円寺に石川郡野田山の下刈を許さしむ。(国事雑抄) | 慶長5年7月13日 | 916 |
| 2211 前田利政、桜井八左衛門尉に、知行所付を与ふ。(前田文書) | 慶長5年7月13日 | 916 |
| 2212 前田利政、桜井八左衛門尉に、その知行を加増す。(前田文書) | 慶長5年7月17日 | 916 |
| 2213 前田利長、能美郡湊村に制札を建て、士庶の乱妨と放火・苅田とを禁ず。(湊村文書) | 慶長5年7月25日 | 917 |
| 2214 前田利長石川郡福留より、金沢の留守高畠定吉に、その進軍の状を報ず。(高畠文書) | 慶長5年7月26日 | 917 |
| 2215 毛利輝元等、前田利長に、豊臣氏の軍に従はんことを慫慂す。(北徴遺文) | 慶長5年7月27日 | 917 |
| 2216 豊臣氏の奉行等、真田昌幸に、前田利長の陽に東軍と絶つ能はざることを報ず。(真田家文書) | 慶長5年7月29日 | 918 |
| 2217 豊臣氏の奉行等、真田昌幸に、前田利長の陽に東軍と絶つ能はざることを報ず。(真田家文書) | 慶長5年7月30日 | 918 |
| 2218 前田利長、高畠定吉に、その送付したる鉄砲等を領収したることを告ぐ。(高畠文書) | 慶長5年7月30日 | 919 |
| 2219 前田利長、富田重政に、その知行を増加すべきことを約す。(拾遺温故雑帖) | 慶長5年7月 | 919 |
| 2220 前田利長、その馬廻組の遵守すべき置目を定む。(北徴遺文) | 慶長5年8月2日 | 919 |
| 2221 前田利長、高畠定吉に、江沼郡大聖寺攻城の勝利を報ず。(高畠文書) | 慶長5年8月3日 | 920 |
| 2222 前田利長、高畠定吉に、大聖寺城塀柵普請の為滞留することを報ず。(菅君雑録) | 慶長5年8月5日 | 920 |
| 2223 徳川秀忠、前田利長の臣等が、利長の北國筋仕置の為加賀・越前の境に出馬したるを報じたるに答ふ。(遺編類纂) | 慶長5年8月8日 | 921 |
| 2224 前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) | 慶長5年8月12日 | 921 |
| 2225 前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) | 慶長5年8月12日 | 921 |
| 2226 前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(水越文書) | 慶長5年8月12日 | 921 |
| 2227 前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) | 慶長5年8月12日 | 922 |
| 2228 前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) | 慶長5年8月12日 | 922 |
| 2229 前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) | 慶長5年8月12日 | 922 |
| 2230 前田利長再び出陣せんとし、前田利政に、能登勢を率ゐて速かに発途すべきを促す。(遺編類纂) | 慶長5年8月13日 | 922 |
| 2231 徳川家康、前田利家に、自ら軍を美濃口に進むべきことを告ぐ。(古案記) | 慶長5年8月13日 | 923 |
| 2232 高畠定吉、小寺弥三に、越中氷見早樫村の地を扶持す。(吉野村弥兵衛文書) | 慶長5年8月15日 | 923 |
| 2233 高畠定吉、小寺弥三に、越中氷見早樫村の地を扶持す。(遺編類纂) | 慶長5年8月24日 | 923 |
| 2234 徳川家康、在江戸の村井長頼に、前田利長の大聖寺攻略の功を褒賞することをその母芳春院に告げしむ。(村井家記) | 慶長5年8月26日 | 923 |
| 2235 前田利長、黒田長政等に、軍状を報ず。(黒田家文書) | 慶長5年9月3日 | 924 |
| 2236 前田利長、在江戸の村井長頼に、大聖寺の戦勝を報じ、且利政の能登の兵を出さざるが故に出征の遷延せることを述ぶ。(前田家文書) | 慶長5年9月5日 | 924 |
| 2237 徳川家康、前田利長に、その軍状を報じて出征を促す。(拾遺温故雑帖) | 慶長5年9月8日 | 925 |
| 2238 徳川家康岐阜より、丹羽長重に、速かに前田利長と和して越前に進むべきを命ず。(丹羽家年譜) | 慶長5年9月13日 | 926 |
| 2239 徳川家康岐阜より、土方雄久に、前田利長をして速かに南進せしむべきことを計らしむ。(温故遺文) | 慶長5年9月13日 | 926 |
| 2240 徳川家康の臣西尾隠岐守等、小松城主丹羽長重に、その前田利長と和せんとするを家康の賞したることを報ず。(丹羽家御年譜) | 慶長5年9月14日 | 926 |
| 2241 徳川秀忠、前田利長の臣横山長知に、大聖寺の戦勝を祝し且再び上口に出兵せんとするを嘉す。(横山文書) | 慶長5年9月15日 | 927 |
| 2242 前田利長、高畠定吉に、小松城主丹羽長重と和議の成りたることを告ぐ。(遺編類纂) | 慶長5年9月18日 | 927 |
| 2243 前田利長、在江戸の村井長頼に、丹羽長重との和既に成り、将に上国に赴きて徳川家康に閲せんとすることを報ず。(前田家文書) | 慶長5年9月18日 | 928 |
| 2244 前田利長、溝江彦三郎に、徳川家康に対して周旋すべきことを誓ふ。(溝江文書) | 慶長5年9月18日 | 928 |
| 2245 前田利長、秋田城主秋田実季に、加賀の形成を報じ、又速かに徳川家康の為に出兵せんことを勧む。(前田家文書) | 慶長5年9月18日 | 929 |
| 2246 前田利長、高畠定吉に、陣を大聖寺に転じたることを報ず。(菅君雑録) | 慶長5年9月19日 | 929 |
| 2247 徳川家康、前田利長に、美濃関ヶ原に於ける戦闘の勝利を報ず。(東老田田村忠兵衛文書) | 慶長5年9月22日 | 930 |
| 2248 前田利長、その臣高山南坊等に、徳川家康の命に依り明日山城西ノ岡附近に進軍せしむ。(加賀国古文書) | 慶長5年9月25日 | 930 |
| 2249 前田利長、在能登の三輪吉宗に、関ヶ原合戦の終末を報ず。(三輪文書) | 慶長5年9月26日 | 930 |
| 2250 前田利長、溝江彦三郎に、昨日山城西ノ岡に至り、明日大坂に進むべきを報ず。(溝江文書) | 慶長5年9月27日 | 931 |
| 2251 前田利長、能美郡小松大文字屋源兵衛に天秤職を命ず。(拾葉遺文) | 慶長5年11月5日 | 931 |
| 2252 前田利長、在江戸の村井長頼に、弟猿千代が徳川秀忠の女珠姫と婚を約するを以て結納の使者たらしむ。(前田家文書) | 慶長5年11月10日 | 931 |
| 2253 前田利長、羽咋郡気多社に、二百石の地を安堵せしむ。(気多神社文書) | 慶長5年12月10日 | 932 |
| 2254 前田利長、羽咋郡気多社に、二百石の地を安堵せしむ。(気多神社文書) | 慶長5年12月10日 | 932 |
年不詳(年不詳) | 2255 雑載1 本願寺関係文書(誠新年之嘉慶、蓮如→浄教坊)(善照坊文書) | 年不詳2月4日 | 933 |
| 2256 雑載1 本願寺関係文書(深雪ニ候処、蓮如→)(上宮寺文書) | 年不詳11月8日 | 933 |
| 2257 雑載1 本願寺関係文書(毎度志ども返々ありがたく候、蓮如→四講中)(帖外御文) | 年不詳11月28日 | 933 |
| 2258 雑載1 本願寺関係文書(四講毎年約束之分、蓮如→四講中)(帖外御文) | 年不詳11月25日 | 934 |
| 2259 雑載1 本願寺関係文書(四講中年貢之分、蓮如→加賀能美郡四講中)(興善寺文書) | 年不詳11月6日 | 934 |
| 2260 雑載1 本願寺関係文書(依其方望、蓮如→加州能美郡軽海之郷本光寺)(興善寺文書) | 年不詳5月8日 | 934 |
| 2261 雑載1 本願寺関係文書(七高僧御影之事誂置候、蓮如→四講中)(善性寺文書) | 年不詳2月28日 | 934 |
| 2262 雑載1 本願寺関係文書(其後何事候哉と、蓮如→)(善性寺文書) | 年不詳7月10日 | 934 |
| 2263 雑載1 本願寺関係文書(当年為祝儀之百疋満足候、実如→専光寺)(専光寺文書) | 年不詳5月28日 | 935 |
| 2264 雑載1 本願寺関係文書(為志銀子三枚到来、実如→加賀河北郡八田・大浦・千木・木越、光徳寺、廿八日講中)(光徳寺文書) | 年不詳4月1日 | 935 |
| 2265 雑載1 本願寺関係文書(久く法義被信長に迫、顕如→加州坊主衆・門徒中)(西本願寺別院文書) | 年不詳5月21日 | 936 |
| 2266 雑載1 本願寺関係文書(近年当国之儀及大乱、顕如→加州惣門徒中)(専光寺文書) | 年不詳8月17日 | 936 |
| 2267 雑載1 本願寺関係文書(為報恩講之志弐拾疋給候、顕如→梅原少将)(本龍寺文書) | 年不詳42337 | 937 |
| 2268 雑載1 本願寺関係文書(従講中黄金四匁三分、顕如→能州廿五日講中)(光徳寺文書) | 年不詳10月10日 | 937 |
| 2269 雑載1 本願寺関係文書(近年其元隣国之儀及大乱、顕如→能登惣門徒中)(本誓寺文書) | 年不詳8月17日 | 937 |
| 2270 雑載1 本願寺関係文書(為志銀子百疋到来候、教如→能州鳳至郡クロシマ村・太郎右衛門・兵右衛門・弥三・志衆中)(名願寺文書) | 年不詳7月28日 | 938 |
| 2271 雑載1 本願寺関係文書(為志銀子百疋到来候、教如→越前坂北郡吉崎志衆中・加州米(江沼)郡所々志衆中)(願慶寺文書) | 年不詳4月13日 | 938 |
| 2272 雑載2 畠山氏関係文書(巻数一枝令頂戴候、義統→祇園修行御坊)(祇園社記) | 年不詳8月5日 | 938 |
| 2273 雑載2 畠山氏関係文書(雁二到来候、義統→天野加賀入道)(古蹟文徴) | 年不詳12月27日 | 939 |
| 2274 雑載2 畠山氏関係文書(就作善之儀、義統→天野加賀入道)(天野文書) | 年不詳10月5日 | 939 |
| 2275 雑載2 畠山氏関係文書(加賀入道章慶跡之事、義統→天野彦次郎)(天野文書) | 年不詳5月10日 | 939 |
| 2276 雑載2 畠山氏関係文書(為年始御祈念、義元→宝寿院)(八坂神社文書) | 年不詳2月23日 | 939 |
| 2277 雑載2 畠山氏関係文書(誠祝儀万幸候、義元→宝寿院)(八坂神社文書) | 年不詳3月18日 | 939 |
| 2278 雑載2 畠山氏関係文書(祈念之巻数一合、義元→宝寿院)(八坂神社文書) | 年不詳5月7日 | 940 |
| 2279 雑載2 畠山氏関係文書(就祝儀預芳問候、義元→総持寺)(総持寺文書) | 年不詳12月19日 | 940 |
| 2280 雑載2 畠山氏関係文書(彼之寺中よりの被申事委曲承候、義元→興徳寺)(総持寺文書) | 年不詳6月20日 | 940 |
| 2281 雑載2 畠山氏関係文書(為年始祈祷、義元→永光寺)(永光寺文書) | 年不詳3月14日 | 940 |
| 2282 雑載2 畠山氏関係文書(六月廿六日書状、義元→天野二郎左衛門尉)(天野文書) | 年不詳7月13日 | 940 |
| 2283 雑載2 畠山氏関係文書(急度用之子細候、義元→天野次郎左衛門尉)(天野文書) | 年不詳7月18日 | 941 |
| 2284 雑載2 畠山氏関係文書(和田彦五郎申付出津、義元→天野次郎左衛門尉)(天野文書) | 年不詳9月22日 | 941 |
| 2285 雑載2 畠山氏関係文書(於其方無如在候由、義元→天野二郎左衛門)(天野文書) | 年不詳10月19日 | 942 |
| 2286 雑載2 畠山氏関係文書(就今度届并被官討死忠節、義元→天野次郎左衛門尉)(天野文書) | 年不詳12月26日 | 942 |
| 2287 雑載2 畠山氏関係文書(年甫之御慶珍重々々、義総→中務権少輔)(三条西家文書) | 年不詳1月11日 | 942 |
| 2288 雑載2 畠山氏関係文書(改年之御慶万幸々々、義総→中務権少輔)(三条西家文書) | 年不詳1月23日 | 942 |
| 2289 雑載2 畠山氏関係文書(永閑下国之時、義総→中務権少輔)(三条西家文書) | 年不詳10月20日 | 942 |
| 2290 雑載2 畠山氏関係文書(成身院下国之時、義総→中務権少輔)(三条西家文書) | 年不詳12月20日 | 943 |
| 2291 雑載2 畠山氏関係文書(先度者為祝儀御太刀一腰拝領、義総→中務権少輔)(三条西家文書) | 年不詳12月28日 | 943 |
| 2292 雑載2 畠山氏関係文書(十一月十八日尊札昨日臘四拝見、義総→中務権少輔)(古簡雑纂) | 年不詳12月5日 | 943 |
| 2293 雑載2 畠山氏関係文書(年甫之御慶万幸々々、義総→権大夫)(三条西家文書) | 年不詳1月11日 | 943 |
| 2294 雑載2 畠山氏関係文書(雖無差儀候、義総→権大夫)(三条西家文書) | 年不詳7月29日 | 944 |
| 2295 雑載2 畠山氏関係文書(就等持院公用之儀、義総→左京大夫)(等持院文書) | 年不詳11月17日 | 944 |
| 2296 雑載2 畠山氏関係文書(薫方之事内々言上候処、義総→山科殿人々御中)(保坂氏文書) | 年不詳5月23日 | 944 |
| 2297 雑載2 畠山氏関係文書(以毛付申登候馬之儀、義総→大館陸奥守)(古簡雑纂) | 年不詳6月2日 | 944 |
| 2298 雑載2 畠山氏関係文書(雖軽微至候、義総→尾張守)(尾崎文書) | 年不詳8月23日 | 944 |
| 2299 雑載2 畠山氏関係文書(歳暮御慶珍重候、義総→尾張守)(尾崎文書) | 年不詳12月15日 | 945 |
| 2300 雑載2 畠山氏関係文書(其後其方之儀如何、義総→伊勢守)(里見文書) | 年不詳11月26日 | 945 |
| 2301 雑載2 畠山氏関係文書(馬一疋鹿毛印雀目結被上由祝着候、義総→長尾弾正左衛門尉(為景))(上杉家文書) | 年不詳1月17日 | 945 |
| 2302 雑載2 畠山氏関係文書(雖比興候、義総→長尾弾正左衛門尉(為景))(上杉家文書) | 年不詳2月17日 | 945 |
| 2303 雑載2 畠山氏関係文書(摺茶壺老茄有子細、義総→長尾信濃守(為景))(上杉家文書) | 年不詳12月3日 | 945 |
| 2304 雑載2 畠山氏関係文書(就賀州之儀、義総→山村若狭守)(別本歴代古案) | 年不詳12月20日 | 946 |
| 2305 雑載2 畠山氏関係文書(尊札拝見本望候、義総→(遊行上人))(清浄光寺文書) | 年不詳5月10日 | 946 |
| 2306 雑載2 畠山氏関係文書(祈祷之札。巻数并扇三本・杉原十帖到来、義総→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳3月21日 | 946 |
| 2307 雑載2 畠山氏関係文書(就河州之儀、悳胤(義総)→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳6月4日 | 946 |
| 2308 雑載2 畠山氏関係文書(新春御慶千幸々々、悳胤(義総)→)(森田文書) | 年不詳1月28日 | 946 |
| 2309 雑載2 畠山氏関係文書(新年之御慶珍重々々、悳胤(義総)→)(森田文書) | 年不詳3月10日 | 947 |
| 2310 雑載2 畠山氏関係文書(去廿六日於搦手口之矢疵神妙候、義続→得田兵庫助)(北徴遺文) | 年不詳10月27日 | 947 |
| 2311 雑載2 畠山氏関係文書(為祝儀太刀一腰・絹壱疋進覧之候、義続→冷泉殿)(古今消息集) | 年不詳12月13日 | 947 |
| 2312 雑載2 畠山氏関係文書(雖遠路候、悳祐(義続)→上杉殿(輝虎))(上杉家文書) | 年不詳6月11日 | 947 |
| 2313 雑載2 畠山氏関係文書(為改年之祝儀扇子弐本到来、悳祐(義総)→栗棘庵(栗棘庵文書) | 年不詳12月28日 | 947 |
| 2314 雑載2 畠山氏関係文書(為音信青銅五拾疋到来、悳祐(義続)→永光寺)(永光寺文書) | 年不詳3月10日 | 948 |
| 2315 雑載2 畠山氏関係文書(受領之事、義綱→天野加賀守)(天野文書) | 年不詳6月2日 | 948 |
| 2316 雑載2 畠山氏関係文書(官途之事、義綱→大形澤右衛門)(温故足徴) | 年不詳6月17日 | 948 |
| 2317 雑載2 畠山氏関係文書(去四日澤野村百姓心替之処、義綱→笠松新介)(笠松文書) | 年不詳1月6日 | 948 |
| 2318 雑載2 畠山氏関係文書(今度相破候砌、義綱→飯川若狭守)(温故足徴) | 年不詳10月10日 | 948 |
| 2319 雑載2 畠山氏関係文書(為気多大神宮造営社務立用并禁裏様江進納分、義綱→)(気多神社文書) | 年不詳2月3日 | 948 |
| 2320 雑載2 畠山氏関係文書(急度以飛脚令申候、修理大夫義綱→上杉殿(輝虎))(上杉家文書) | 年不詳6月10日 | 949 |
| 2321 雑載2 畠山氏関係文書(為使僧聴江軒下国、(畠山修理大夫)義綱→平井加賀入道)(萩藩閥閲録) | 年不詳4月28日 | 949 |
| 2322 雑載2 畠山氏関係文書(為音信巻数并青銅弐百疋到来、義綱→永光寺)(永光寺文書) | 年不詳3月10日 | 949 |
| 2323 雑載2 畠山氏関係文書(為祈祷巻数并青銅弐百疋到来、義綱→一宮惣中)(気多神社文書) | 年不詳10月19日 | 949 |
| 2324 雑載2 畠山氏関係文書(為佳例巻数一合并椙原十帖・扇子一本到来、義綱→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳12月20日 | 950 |
| 2325 雑載2 畠山氏関係文書(就其依頼無音、義胤→上田石見守)(仏厳寺文書) | 年不詳2月11日 | 950 |
| 2326 雑載2 畠山氏関係文書(如例年為祈祷香水并ゆがけ一具到来、義胤→八幡山年行事)(菊大路文書) | 年不詳3月20日 | 950 |
| 2327 雑載2 畠山氏関係文書(為元服祝儀杉原十帖・扇子一本到来候、義慶→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳11月3日 | 950 |
| 2328 雑載2 畠山氏関係文書(為歳暮祈祷巻数并一荷三種到来候、義慶→)(常福寺文書) | 年不詳12月23日 | 951 |
| 2329 雑載3 畠山氏被官関係文書(道場為造営毎年千疋可寄進候、(遊佐)秀盛→教恩坊)(長福寺文書) | 年不詳9月28日 | 951 |
| 2330 雑載3 畠山氏被官関係文書(去月廿四日於菅原谷首一討取候、総栄・続好・(温井下総守)光宗・兼親・(遊佐豊後守)秀頼→永三弥四郎)(四町村文書) | 年不詳10月3日 | 951 |
| 2331 雑載3 畠山氏被官関係文書(就賀州之儀、(結城左馬允)季倫→山村若狭守)(別本歴代古案) | 年不詳12月20日 | 951 |
| 2332 雑載3 畠山氏被官関係文書(貴札拝見、続光→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳4月19日 | 952 |
| 2333 雑載3 畠山氏被官関係文書(貴札拝閲、綱光→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳12月17日 | 952 |
| 2334 雑載3 畠山氏被官関係文書(先度者御懇書祝着之至候、温井下総守光宗→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳11月23日 | 952 |
| 2335 雑載3 畠山氏被官関係文書(述首座令上途候条、孝宗→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳4月12日 | 953 |
| 2336 雑載3 畠山氏被官関係文書(御懇書過当之至候、温井若狭丸→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳4月28日 | 953 |
| 2337 雑載3 畠山氏被官関係文書(去二日於湯山無比類働神妙ニ候、温井兵庫助続宗・三宅筑前守総広・神保宗左衛門尉総誠→三引与八郎)(三引文書) | 年不詳6月7日 | 954 |
| 2338 雑載3 畠山氏被官関係文書(去二日於湯山無比類働神妙候、春俊→三引与八郎)(三引文書) | 年不詳6月7日 | 954 |
| 2339 雑載3 畠山氏被官関係文書(去八月尊札同旧冬到来、続盛→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳閏1月22日 | 954 |
| 2340 雑載3 畠山氏被官関係文書(尊翰拝誦、温井兵庫助景隆→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳4月26日 | 955 |
| 2341 雑載3 畠山氏被官関係文書(別紙之御札拝閲、温井備中守景高→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳2月11日 | 955 |
| 2342 雑載3 畠山氏被官関係文書(尊札之趣具拝閲、温井彦左衛門尉慶宗→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳12月16日 | 956 |
| 2343 雑載3 畠山氏被官関係文書(去年預御状候、温井七郎左衛門尉盛宗→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳閏1月24日 | 956 |
| 2344 雑載3 畠山氏被官関係文書(毎年為祝儀五明一本被懸御意候、温井藤八郎続広→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳6月25日 | 956 |
| 2345 雑載3 畠山氏被官関係文書(年内者芳札并扇子弐本令拝領候、温井五郎左衛門尉景続→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳3月7日 | 957 |
| 2346 雑載3 畠山氏被官関係文書(御状趣委曲令拝見候、温井彦五郎宗在→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳7月8日 | 957 |
| 2347 雑載3 畠山氏被官関係文書(当社別雷御神前続長謹而為立願、三宅小五郎続永→上賀茂御社家中)(賀茂別雷神社文書) | 年不詳9月27日 | 957 |
| 2348 雑載3 畠山氏被官関係文書(御折紙畏入存候、平加堯知→大宮司)(気多神社文書) | 年不詳6月27日 | 958 |
| 2349 雑載3 畠山氏被官関係文書(芳翰特扇子御本被懸御意候、平加賀守堯知→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳12月22日 | 958 |
| 2350 雑載3 畠山氏被官関係文書(芳翰快然之至候、平加賀守堯知→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳2月2日 | 958 |
| 2351 雑載3 畠山氏被官関係文書(志津良之儀、隠岐豊前守統朝・三宅伊賀守俊長→栗棘庵侍者衆中)(栗棘庵文書) | 年不詳4月13日 | 959 |
| 2352 雑載3 畠山氏被官関係文書(御折紙披見、三宅長盛→桜井監物丞)(栗棘庵文書) | 年不詳3月6日 | 959 |
| 2353 雑載3 畠山氏被官関係文書(新年之嘉慶幸甚々々、長九郎左衛門尉綱連→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳1月29日 | 959 |
| 2354 雑載3 畠山氏被官関係文書(去年者預御札、長九郎左衛門尉綱連→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳7月10日 | 960 |
| 2355 雑載3 畠山氏被官関係文書(御上洛以後者、続連→能登守)(遺編類纂) | 年不詳9月7日 | 960 |
| 2356 雑載3 畠山氏被官関係文書(去秋者預御札、長九郎左衛門尉綱連→栗棘庵)(北徴遺文) | 年不詳2月9日 | 961 |
| 2357 雑載3 畠山氏被官関係文書(如仰当春未申通候、長対馬守続連→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳4月20日 | 961 |
| 2358 雑載3 畠山氏被官関係文書(如仰其己後ハ不申通候、長対馬守続連→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳8月26日 | 961 |
| 2359 雑載3 畠山氏被官関係文書(就端郡七十五村三分一御免除之儀預御札候、長九三続連→永光寺)(永光寺文書) | 年不詳9月18日 | 962 |
| 2360 雑載3 畠山氏被官関係文書(去秋之時分者預芳札候、長対馬守続連→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳12月14日 | 962 |
| 2361 雑載3 畠山氏被官関係文書(為例年御祈祷御巻数并五明・ゆがけ送給候、長対馬守続連→森左京大夫)(北徴遺文) | 年不詳9月15日 | 962 |
| 2362 雑載3 畠山氏被官関係文書(村井かた江折紙令披見候、続連→四丁永参)(北徴遺文) | 年不詳5月29日 | 963 |
| 2363 雑載3 畠山氏被官関係文書(昨日之手紙無心元候、続連→山田十郎)(山田文書) | 年不詳11月19日 | 963 |
| 2364 雑載3 畠山氏被官関係文書(貴札殊扇子御本被懸御意候、長三河守連理→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳3月2日 | 963 |
| 2365 雑載3 畠山氏被官関係文書(就端郡七十五村三分一御免除之儀、(長三河守)連理・(井上下野守)英教→永光寺)(永光寺文書) | 年不詳9月18日 | 964 |
| 2366 雑載3 畠山氏被官関係文書(為春秋後祝儀御巻数・杉原・扇子・御茶廿袋、井上下野守栄教→栗棘庵侍者御中)(栗棘庵文書) | 年不詳12月23日 | 964 |
| 2367 雑載3 畠山氏被官関係文書(為改年之御祝儀尊書并五明日本令披露候、井上美濃守英安→栗棘庵侍者御中)(栗棘庵文書) | 年不詳12月28日 | 964 |
| 2368 雑載3 畠山氏被官関係文書(御屋形様江為御音信飛脚被差越候、(佐脇美濃守→一宮惣中)(気多神社文書) | 年不詳10月19日 | 965 |
| 2369 雑載3 畠山氏被官関係文書(就馳走可申上徳政之儀(本誓寺文書) | 年不詳7月1日 | 965 |
| 2370 雑載3 畠山氏被官関係文書(就被差御使候、飯川若狭守光誠→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳5月24日 | 965 |
| 2371 雑載3 畠山氏被官関係文書(為御音信御屋形様江青銅弐百疋御進上、飯川若狭守光誠→永光寺侍者禅師)(永光寺文書) | 年不詳3月10日 | 966 |
| 2372 雑載3 畠山氏被官関係文書(御屋形様江為御音信八木三袋、飯川若狭入道宗玄→永光寺侍者禅師)(永光寺文書) | 年不詳3月6日 | 966 |
| 2373 雑載3 畠山氏被官関係文書(為御音信鳥目五拾疋被為参候、詮正→永光寺御同宿中)(永光寺文書) | 年不詳5月23日 | 966 |
| 2374 雑載3 畠山氏被官関係文書(歳暮為御祈念御巻数并御樽代弐拾疋御進上候、富来小次郎綱盛→永光寺侍者御中)(永光寺文書) | 年不詳12月16日 | 967 |
| 2375 雑載3 畠山氏被官関係文書(新春之御慶漸雖事旧候珍重々々、伊藤新右衛門尉貞信→栗棘庵御納所)(栗棘庵文書) | 年不詳2月5日 | 967 |
| 2376 雑載3 畠山氏被官関係文書(御札委細拝見仕候、伊藤孫左衛門延家→栗棘庵御納所)(栗棘庵文書) | 年不詳8月14日 | 968 |
| 2377 雑載3 畠山氏被官関係文書(当年之吉凶雖事旧候、河野藤兵衛尉続秀→栗棘庵侍者御中)(栗棘庵文書) | 年不詳6月11日 | 968 |
| 2378 雑載3 畠山氏被官関係文書(就泉首座御下向、佐藤新左衛門尉宗信→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳11月10日 | 969 |
| 2379 雑載3 畠山氏被官関係文書(如仰当年未申入候、(飯川)半隠斎宗春→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳6月21日 | 969 |
| 2380 雑載3 畠山氏被官関係文書(当年之吉凶雖事旧候、廣瀬隼人佑貞成→栗棘庵御侍者禅師)(栗棘庵文書) | 年不詳4月18日 | 969 |
| 2381 雑載3 畠山氏被官関係文書(改年之御慶珍重々々、織田与三右衛門尉隆長→栗棘庵)(栗棘庵文書) | 年不詳2月23日 | 970 |
| 2382 雑載4 前田氏関係文書(制札、利家→寺中村神主)(大野湊神社文書) | 年不詳5月2日 | 970 |
| 2383 雑載4 前田氏関係文書(年頭之為祝儀御祈祷之御札・祓并鳥目三十疋到来、利家→気多大宮司桜井監物丞)(気多神社文書) | 年不詳1月19日 | 970 |
| 2384 雑載4 前田氏関係文書(年甫之為祝儀牛玉并石花二桶到来候、(気多神社文書) | 年不詳1月24日 | 971 |
| 2385 雑載4 前田氏関係文書(年甫之為祝儀書状并札・守・鳥目三十疋・桶二到来、利家→一宮大宮司)(気多神社文書) | 年不詳1月晦日 | 971 |
| 2386 雑載4 前田氏関係文書(当社御神幸之事、筑前守利家→気多大宮司桜井監物丞)(気多神社文書) | 年不詳2月8日 | 971 |
| 2387 雑載4 前田氏関係文書(当月御神幸十九日二相当之由、利家→気多大宮司)(気多神社文書) | 年不詳2月15日 | 971 |
| 2388 雑載4 前田氏関係文書(就上落巻数并鳥目三十疋到来、利家→正大宮司)(気多神社文書) | 年不詳3月2日 | 972 |
| 2389 雑載4 前田氏関係文書(鉄砲ニて青鷺うつ事、利家→一宮大宮司監物丞)(気多神社文書) | 年不詳3月23日 | 972 |
| 2390 雑載4 前田氏関係文書(此比生魚一切希候処ニ、利家→一宮大宮司監物丞)(気多神社文書「) | 年不詳7月25日 | 972 |
| 2391 雑載4 前田氏関係文書(急度申遣候、利家→一宮惣中)(気多神社文書) | 年不詳10月23日 | 972 |
| 2392 雑載4 前田氏関係文書(当月之御神事目出度被相勤、利家→正大宮司・桜井監物丞)(気多神社文書) | 年不詳11月29日 | 972 |
| 2393 雑載4 前田氏関係文書(鏑矢浜へよるの由ニて為持越、利家→一宮大宮司)(気多神社文書) | 年不詳12月29日 | 973 |
| 2394 雑載4 前田氏関係文書(わざと申入候、前又左利家→きたの坊御中)(大福寺文書) | 年不詳6月15日 | 973 |
| 2395 雑載4 前田氏関係文書(わざと人を、前ちくぜん利家→北之坊)(大福寺文書) | 年不詳6月17日 | 973 |
| 2396 雑載4 前田氏関係文書(大福寺しゆりの事、利家→藤右衛門方へ)(大福寺文書) | 年不詳9月19日 | 974 |
| 2397 雑載4 前田氏関係文書(為見廻御使僧、利家→浄儀(成喜)坊(菅原神社文書) | 年不詳4月10日 | 974 |
| 2398 雑載4 前田氏関係文書(為見廻御使僧、利家→遍照坊)(菅原神社文書) | 年不詳4月10日 | 974 |
| 2399 雑載4 前田氏関係文書(其以来久無音、利家→成喜坊御同宿中)(菅原神社文書) | 年不詳12月3日 | 974 |
| 2400 雑載4 前田氏関係文書(為年頭之祝儀銀子弐〆め到来、利家→永光寺)(永光寺文書) | 年不詳3月19日 | 975 |
| 2401 雑載4 前田氏関係文書(当月御神幸十九日ニ相当之由、利家→山王社神主江)(府中山王社文書) | 年不詳4月5日 | 975 |
| 2402 雑載4 前田氏関係文書(当社御神幸之事、筑前守利家→山王等三社神主江)(府中山王社文書) | 年不詳4月8日 | 975 |
| 2403 雑載4 前田氏関係文書(当月猿楽之御神事、利家→山王社伊右衛門尉江)(府中山王社文書) | 年不詳11月6日 | 975 |
| 2404 雑載4 前田氏関係文書(急度申遣候、利家→能州(宝円寺中)(長齢寺文書) | 年不詳9月8日 | 976 |
| 2405 雑載4 前田氏関係文書(急度申遣候、利家→能州道場)(長福寺文書) | 年不詳9月8日 | 976 |
| 2406 雑載4 前田氏関係文書(如尊書先日者御来臨、利家→興徳寺)(龍門寺文書) | 年不詳2月9日 | 976 |
| 2407 雑載4 前田氏関係文書(芳翰拝閲本望之至極存候、宰相利家→興徳寺)(龍門寺文書) | 年不詳7月24日 | 976 |
| 2408 雑載4 前田氏関係文書(五百把さうめん、利家→三輪藤兵へ)(三輪文書) | 年不詳4月17日 | 977 |
| 2409 雑載4 前田氏関係文書(下国見廻として早々飛脚、(前田利家)印→奥(奥野)与兵衛)(遺編類纂) | 年不詳6月23日 | 977 |
| 2410 雑載4 前田氏関係文書(急度申遣候、(前田利家)印→加州石川・河北)(波並屋三郎右衛門文書) | 年不詳9月3日 | 977 |
| 2411 雑載4 前田氏関係文書(当村之内年貢米余分四百俵可有之候、利家→四町村・尾長村・千田村)(四町村文書) | 年不詳10月15日 | 978 |
| 2412 雑載4 前田氏関係文書(嘉例八朔祝儀として年寄一人罷上候、(前田利家)印→能州所口惣町中)(七尾町伝記) | 年不詳8月6日 | 978 |
| 2413 雑載4 前田氏関係文書(態申遣候、(前田利家)印→たう下(道下)村三郎左衛門尉)(道下村文書) | 年不詳11月16日 | 978 |
| 2414 雑載4 前田氏関係文書(態申越候、三輪藤兵衛尉吉宗→道下三郎ざへもん・此他鮭川百姓中)(道下村文書) | 年不詳10月5日 | 978 |
| 2415 雑載4 前田氏関係文書(態申遣候、利家→敦賀高嶋屋(伝右衛門)(小宮山文書) | 年不詳6月16日 | 979 |
| 2416 雑載4 前田氏関係文書(態申越候、利家→海津松屋之道安)(松屋文書) | 年不詳5月6日 | 979 |
| 2417 雑載4 前田氏関係文書(態申越候、利家→かいづ松やの道安)(松屋文書) | 年不詳11月14日 | 980 |
| 2418 雑載4 前田氏関係文書(為新春之嘉祥御祓頂戴、利勝→気多大宮司桜井監物丞)(気多神社文書) | 年不詳1月18日 | 980 |
| 2419 雑載4 前田氏関係文書(為年頭之祝義巻数并青銅三十疋・鯛一折到来、孫四利政→一宮監物)(気多神社文書) | 年不詳1月28日 | 980 |
| 2420 雑載4 前田氏関係文書(為年頭之祝義銀子弐文め送給候、孫四郎利政→堺之寺永光寺侍者御中)(永光寺文書) | 年不詳2月8日 | 980 |
| 2421 雑載4 前田氏関係文書(此辺為見廻代物三十疋到来候、利政→三崎大宮)(猿女文書) | 年不詳8月5日 | 981 |
| 2422 雑載4 前田氏関係文書(歳暮之為祝義銀子五匁慥相達候、羽孫四利政→八田与六)(前田家文書) | 年不詳1月7日 | 981 |
| 2423 雑載4 前田氏関係文書(年甫之為祝義銀子三匁到来候事、孫四郎利政→八田与六)(前田家文書) | 年不詳1月12日 | 981 |
| 2424 雑載4 前田氏関係文書(為年甫之祝義鰤三尺到来、利政→丹羽右兵衛)(桜井文書) | 年不詳1月12日 | 981 |