加能古文書


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天平3年(731) 1   越前国、史生阿刀造佐美麻呂に付して正税帳を上る。(正倉院文書) 天平3年2月26日 1
天平5年(733) 2   越前国、史生阿刀造佐美麻呂に付して郡稲帳を上る。(正倉院文書) 天平5年閏3月6日 3
天平12年(740) 3   越前国江沼郡山背郷の計帳を注す。(正倉院文書) 天平12年是歳 6
天平勝宝7年(755) 4   越前国、その雑物収納帳を注す。(正倉院文書) 天平勝宝7年9月26日 9
天平神護2年(766) 5   大和東大寺領越前江沼郡幡生荘司、江川溝並びに荒廃田に関し解状を上る。(正倉院文書) 天平神護2年10月7日 9
延暦11年(792) 6   太政官符を下して、辺要の地以外の兵士を停廃し、能登国等に健児を置く。(類聚三代格) 延暦11年6月14日 10
弘仁14年(823) 7   太政官、越前江沼・加賀二郡を割きて加賀国を置かんことを論奏す。(類聚三代格) 弘仁14年2月3日 10
弘仁14年(823) 8   太政官符を下して、加賀国が正税を以て破損の官舎を修理せんとの請を允す。(類聚三代格) 弘仁14年5月3日 11
天長2年(825) 9   太政官符を下して、中国たる加賀を改めて上国に列せしむ。(類聚三代格) 天長2年41649 11
貞観7年(865) 10   太政官、中国たる能登に介を新置せんことと奏請す。(類聚三代格) 貞観7年3月9日 12
貞観8年(865) 11   太政官符を下して、能登等の中国に新置せる介の公廨・公廨田・事力の分法を定めしむ。(類聚三代格) 貞観8年3月7日 12
寛平6年(894) 12   太政官符を下して、加賀・能登等の諸国をして諸院宮使等が往還の船車人馬を強雇するを禁ぜしむ。(類聚三代格) 寛平6年7月16日 13
寛平6年(894) 13   太政官符を下して、能登国の史生一員を停めて弩師を置かしむ。(類聚三代格) 寛平6年8月21日 14
寛平9年(897) 14   太政官符を下して、諸国采女貢進の数を定め、能登国を一人と為す。(類聚三代格) 寛平9年41664 14
延喜2年(902) 15   太政官符を下して、加賀国等に田租の頴を徴するを禁止せしむ。(類聚三代格) 延喜2年3月13日 14
延喜3年(903) 16   太政官符を下して、加賀国及び能登国に読師を置かしむ。(類聚三代格) 延喜3年6月20日 15
延喜10年(910) 17   加賀国の新司、在庁の官人雑任に庁宣を下す。(朝野群載) 延喜10年是歳 16
長徳4年(998) 18   大和東大寺、加賀国等に於ける諸荘田地等の注文を作る。(東大寺要録) 長徳4年是歳 16
天喜3年(1055) 19   右衛門権少尉源文頼、着ダ囚加賀国人高橋金犬丸役満つるを以て放免すべきことを勘申す。(朝野群載) 天喜3年12月25日 17
康平3年(1060) 20   内大臣藤原頼宗、加賀国等の封戸を割きて女御藤原延子に譲与するを允されんことを請ふ。(本朝続文粋) 康平3年4月20日 17
康平7年(1064) 21   仮掲(石瀬比古神社棟札) 康平7年6月 18
応徳2年(1085) 22   入道性信親王、能登国等に於ける封戸を喜多院に寄進するを允されんことを請ふ。(朝野群載) 応徳2年9月15日 18
寛治3年(1089) 23   加賀守藤原家道、その留守所をして山代醍醐寺領加賀郡大野郷得蔵保に徴課を免除せしむ。(醍醐雑事記) 寛治3年10月 19
寛治3年(1089) 24   加賀守藤原家道、その留守所をして山代醍醐寺領加賀郡大野郷得蔵保に徴課を免除せしむ。(醍醐雑事記) 寛治3年10月 19
康和3年(1101) 25   山城東寺、能登国にその封戸の去々年の祖穀を検納したるを以て返抄を与ふ。(東寺文書) 康和3年9月10日 20
26   山城東寺、能登国にその封戸の去々年の調庸を検納したるを以て返抄を与ふ。(東寺文書) 康和3年9月10日 20
27   能登国前雑掌調成安、山城東寺に去年の御封代所済勘文を注進す。(根岸文書) 康和3年9月10日 21
長治2年(1107) 28   加賀国雑掌江沼成安、四度の公文帳を太政官に進上す。(朝野群載) 長治2年3月 21
嘉承2年(1109) 29   山城東寺、宣旨に依り能登国等に於ける封戸の所当未済を注進す。(東寺文書) 嘉承2年4月 22
天仁2年(1110) 30   加賀国雑掌江沼成安、四度の公文帳を太政官に進上す。(朝野群載) 天仁2年8月 22
31   能登守藤原基頼、羽咋郡菅原保を山城北野社に寄進す。(菅原天神社文書) 天仁2年、天永元年10月 23
天永4年、永久元年(1113) 32   鳥羽天皇、能登守高階時章の当任返抄を用ひて公文を勘済せんと請ひたるに依り之を聴し給ふ。(朝野群載) 天永4年、永久元年1月26日 24
33   民部省仕丁所、能登国にその年料として進めたる仕丁に関し返抄を与ふ。(朝野群載) 天永4年、永久元年1月 24
34   左衛士少志紀某、能登国の年料として進めたる衛士の請文を主計寮に出す。(朝野群載) 天永4年、永久元年5月 25
大治5年(1131) 35   大和東大寺、能美郡幡生荘等寺領の目録を注す。(東大寺文書) 大治5年3月13日 25
大治6年、天承元年(1141) 36   加賀守高階宗章、その留守所をして山城醍醐寺領加賀郡得蔵荘に大神宮役夫工作料を免除せしむ。(醍醐雑事記) 大治6年、天承元年6月12日 26
保延7年、永治元年(1141) 37   加賀守藤原雅教、その留守所をして山城醍醐寺領加賀郡得蔵荘に白山宮修造の課役を免除せしむ。(醍醐雑事記) 保延7年、永治元年8月4日 26
38   加賀守藤原雅教、その留守所をして山城醍醐寺領加賀郡得蔵荘に白山宮修造の課役を免除せしむ。(醍醐雑事記) 保延7年、永治元年8月4日 27
久安6年(1150) 39   能登守藤原基家、女御藤原多子の御封庸米を進上す。(婚記) 久安6年1月19日 27
40   能登守藤原基家、女御藤原多子の御封庸米を進上す。(婚記) 久安6年1月19日 27
41   女御藤原多子の侍所、能登国衙にチョウして垂布十五段を進上せしむ。(婚記) 久安6年1月19日 27
保元2年(1157) 42   太政官符を後院司に下して、故藤原頼長の所領能登郡一青荘等を院領と為さしむ。(兵範記) 保元2年3月25日 28
保元3年(1158) 43   官宣旨を山城石清水八幡宮に下して、その荘園能登郡恵曽飯川保・一青荘等に於ける預所以下の押領を停止せしむ。(石清水文書) 保元3年12月3日 28
嘉応3年、承安元年(1171) 44   仲原頼貞、介次郎に能美郡重友村の所領を譲渡す。(菊大路文書) 嘉応3年、承安元年2月 30
承安5年、安元元年(1175) 45   能登国衙、珠洲郡高座宮別当高勝寺の妙成就院仏聖料として方上保の荒田壱町を寄進す。(須須神社文書) 承安5年、安元元年2月28日 30
46   蔵人所、加賀国衙にチョウして精好絹五疋を進上せしむ。(山槐記) 承安5年、安元元年8月16日 30
安元3年、治承元年(1177) 47   後白河法皇、天台座主明雲に、加賀守近藤師高の目代近藤師経が白山宮末寺に放火したるに因り師高を流罪に処すべきを告げしめ給ふ。(玉葉) 安元3年、治承元年4月16日 31
寿永2年(1183) 48   仮掲(多太神社文書) 寿永2年5月21日 32
寿永3年、元暦元年(1184) 49   源頼朝、平頼盛の没官領江沼郡熊坂荘その他を本所の沙汰に任せて旧に依り知行せしむ。(吾妻鏡) 寿永3年、元暦元年4月6日 33
50   源頼朝、後白河法皇の院宣を奉じて、山城賀茂別雷社加賀郡金津荘・羽咋郡土田庄桃浦等に武士の狼藉するを停止せしむ。(賀茂別当神社文書) 寿永3年、元暦元年6月23日 33
文治2年(1186) 51   仮掲(長家文書) 文治2年6月23日 34
52   珠洲郡高座宮別当高勝寺の結衆等、その経講田を保司某の違乱するに依り国司に訴ふ。(須須神社文書) 文治2年8月 34
53   源頼朝、板津成景等の江沼郡加納八田・額田両郷を乱妨するを停め、領家源通親をして進止せしむ。(中院文書) 文治2年9月5日 35
文治6年、建久元年(1190) 54   鎌倉問注所の奉行人平盛時、加賀郡井上荘地頭都幡隆家の押妨を停む。(吾妻鏡) 文治6年、建久元年5月12日 35
建久6年(1195) 55   後鳥羽上皇、刑部卿内侍を江沼郡額田荘の預所職と為さしめ給ふ。(平松文書) 建久6年5月27日 36
建久7年(1196) 56   仮掲(手向神社文書) 建久7年10月19日 37
建久8年(1197) 57   領家日野資実、珠洲郡法住寺を祈祷寺とし、その殺生伐木を停止せしむ。(法住寺文書) 建久8年3月 37
58   地頭兵衛尉、鳳至郡西光寺に於いて殺生伐木を禁断す。(西光寺文書) 建久8年6月9日 38
建久10年、正治元年(1199) 59   後鳥羽上皇、源通方に江沼郡額田荘を安堵せしめ給ふ。(平松文書) 建久10年、正治元年12月 38
正治3年、建仁元年(1201) 60   介次郎、その次男江沼三郎に能美郡能美荘重友保を譲渡す。(菊大路文書) 正治3年、建仁元年7月20日 39
61   地頭長谷部某、鳳至郡西光寺を再建するを以て南志見村の沙汰人以下に煩を為さざらしむ。(西光寺文書) 正治3年、建仁元年8月 39
元久2年(1205) 62   幕府、江沼郡額田荘の地頭職を停む。(中院文書) 元久2年5月28日 40
63   幕府、加賀郡井家荘地頭代官の自由の狼藉を停止せしむ。(勧修寺家文書) 元久2年6月5日 40
建永2年、承元元年(1207) 64   仮掲(イチ原北代比古神社棟札) 建永2年、承元元年3月 40
承元2年(1208) 65   権大僧都承信、大納言僧都に羽咋郡土田庄等の私領を譲渡す。(曼殊院文書) 承元2年11月 41
66   羽咋郡大福寺の薬師如来座像成る。(大福寺薬師如来造像銘) 承元3年2月 42
建暦2年(1212) 67   越前気比大神宮政所、石川郡椋部保等の神領総目録を注進す。(気比神社文書) 建暦2年9月 42
68   地頭某、僧慶心を鳳至郡西光寺院主職を補任す。(西光寺文書) 建保2年8月 42
健保4年(1216) 69   石川郡白山宮荘厳講衆等、四度の大業勤仕の衆に准ぜられんことを貫首に請ふ。(白山宮荘厳講中記録) 健保4年11月25日 43
承久3年(1221) 70   能登国衙、幕府に国中四郡荘郷保公田数目録を注進す。(森田文書) 承久3年9月6日 44
承久4年、貞応元年(1222) 71   藤原知基、子息一王に珠洲郡若山荘等の所領を譲渡す。(茂木文書) 承久4年、貞応元年2月21日 47
貞応2年(1223) 72   太政官、加賀等六ヶ国に於ける去年の不堪佃田坪付を奏す。(禰家抄) 貞応2年10月28日 48
貞応3年、元仁元年(1224) 73   鹿島郡熊来荘官等、宣旨に依りて立券状を上る。(久麻加夫都阿良加志比古神社文書) 貞応3年、元仁元年10月1日 48
嘉禄2年(1226) 74   長野景高、嫡孫盛景に能美郡長野保及び能美荘重友村相伝の証文を譲渡す。(菊大路文書) 嘉禄2年2月18日 50
安貞2年(1228) 75   地頭長谷部某、鳳至郡西光寺に南南志見村院内の田地を寄進す。(西光寺文書) 安貞2年2月19日 51
76   幕府、江沼景能の長野盛景領能美郡能美荘重友村を違乱するを停め、盛景をして之を安堵せしむ。(菊大路文書) 安貞2年8月17日 51
寛喜4年、貞永元年(1232) 77   山城北野宮寺政所、僧有禅に羽咋郡菅原荘の本常燈を相伝せしむ。(北野神社古文書) 寛喜4年、貞永元年4月25日 51
暦仁2年、延応元年(1239) 78   地頭某、鳳至郡西光寺に諸事を奉免す。(西光寺文書) 暦仁2年、延応元年12月 53
建長4年(1252) 79   領家日野資宣、珠洲郡若山荘に旧に依り法住寺馬上免九段二を免除せしむ。(法住寺文書) 建長4年2月4日 54
建長7年(1255) 80   幕府、得田章家を羽咋郡得田保地頭職に補す。(得田文書) 建長7年8月22日 54
建長8年、康元元年(1256) 81   藤原知宣、その子知盛に珠洲郡若山荘等の所領を譲渡す。(茂木文書) 建長8年、康元元年3月15日 54
82   珠洲郡若山荘領家日野資宣、田所宗光上洛の費用をその荘内に沙汰せしむ。(法住寺文書) 建長8年、康元元年10月10日 55
正嘉2年(1258) 83   石川郡白山宮住明徳丸、同郡笠間東保大般若田壱町の奉免を請ふ。(南禅寺文書) 正嘉2年3月 55
84   幕府、藤原知盛をして珠洲郡若山荘等の地頭職を安堵せしむ。(茂木文書) 正嘉2年12月2日 56
文応2年、弘長元年(1261) 85   石川郡白山宮住明徳丸、同郡笠間東保大般若田壱町の奉免を請ふ。(南禅寺文書) 文応2年、弘長元年5月22日 56
86   鳳至郡諸橋六郷田数目録を作る。(諸橋稲荷神社文書) 文応2年、弘長元年6月13日 56
87   仮掲(諸橋稲荷神社文書) 文応2年、弘長元年7月 59
弘長2年(1262) 88   天台座主尊助法親王、石川郡白山宮別当宗鎮をして、中宮別院長寛寺領主尊賀の訴に依り尊光の狼藉を停めしむ。(称名寺文書) 弘長2年9月4日 60
89   天台座主尊助法親王、石川郡白山宮別当宗鎮をして、中宮別院長寛寺領主尊賀の訴に依り尊光の狼藉を停めしむ。(称名寺文書) 弘長2年9月4日 61
90   天台座主尊助法親王、石川郡白山宮別当宗鎮をして、中宮別院長寛寺領主尊賀の訴に依り尊光の狼藉を停めしむ。(称名寺文書) 弘長2年9月4日 61
91   石川郡白山中宮別院長寛寺領主尊賀、同寺別院を菊法師丸に譲与す。(称名寺文書) 弘長2年11月25日 62
文永3年(1266) 92   石川郡白山宮住明徳丸、同郡笠間東保大般若田壱町の奉免を請ふ。(南禅寺文書) 文永3年4月 62
文永4年(1267) 93   領家日野資宣、珠洲郡法住寺薬師堂に灯油馬上免二段を貴信す。(法住寺文書) 文永4年5月21日 62
94   石川郡白山宮惣長吏寛澄、同宮荘厳講結衆参会に関する条々を定む。(白山比咩神社文書) 文永4年5月 63
95   天台座主尊助法親王、山城北野社領羽咋郡菅原荘新常灯を先例によりて同社執行に奉行せしむ。(北野神社古文書) 文永4年7月26日 63
96   天台座主尊助法親王、重ねて山城北野社領羽咋郡菅原荘新常灯を先例に依り同社執行に成敗せしむ。(北野神社古文書) 文永4年11月12日 63
97   天台座主尊助法親王、重ねて山城北野社領羽咋郡菅原荘新常灯を先例に依り同社執行に成敗せしむ。(北野神社古文書) 文永4年11月12日 64
文永5年(1268) 98   石川郡白山宮荘厳講の結衆等、一味同心を誓ふ。(白山比咩神社文書) 文永5年7月 64
文永6年(1269) 99   山城石清水八幡宮政所、暹覚の後家平氏女を同宮領能美郡能美荘の惣公文職に補す。(菊大路文書) 文永6年3月 65
100   酒井章長、その嫡孫利忠に鹿島郡酒井保地頭職を譲渡す。(永光寺文書) 文永6年9月10日 65
文永7年(1270) 101   平氏女、山城石清水八幡別宮領能美郡能美荘惣公文職を弥里に沽却す。(菊大路文書) 文永7年5月20日 66
102   平氏女、山城石清水八幡別宮領能美郡能美荘惣公文職を弥里に沽却す。(菊大路文書) 文永7年5月20日 66
103   平氏女、山城石清水八幡別宮領能美郡能美荘惣公文職を弥里に沽却す。(菊大路文書) 文永7年5月20日 66
104   石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) 文永7年7月23日 67
105   石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) 文永7年7月23日 67
106   石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) 文永7年7月23日 67
107   石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) 文永7年7月23日 68
108   石川郡白山宮の堂僧等、僧長吏に入衆の不足を訴ふ。(白山宮荘厳講中記録) 文永7年7月23日 68
文永10年(1272) 109   幕府、近江日吉社領羽咋郡堀松荘預所定盛と地頭浄信との争論を裁決す。(又続宝簡集) 文永10年11月14日 69
文永11年(1273) 110   領家日野資宣、珠洲郡若山荘に命じて、旧に依り樫原神宮寺馬上免三段等を僧守清に領掌せしむ。(法住寺文書) 文永11年11月21日 69
建治元年(1275) 111   羽咋郡大福寺六所明神の御正体成る。(大福寺六所明神御正体裏書) 建治元年9月9日 69
建治3年(1277) 112   天台座主道玄、山城北野社領羽咋郡菅原荘新常灯を承賀法眼の遺弟等に奉行せしむ。(北野神社古文書) 建治3年2月17日 70
建治4年、弘安元年(1278) 113   山城石清水八幡宮別当政所、橘成清を同宮領能美郡能美荘の惣公文職に補す。(菊大路文書) 建治4年、弘安元年8月 70
114   仮掲(来迎寺文書) 建治4年、弘安元年10月27日 70
弘安2年(1279) 115   長野盛景、その子盛能に能美郡能美荘重友保の地頭職を譲渡す。(菊大路文書) 弘安2年9月24日 71
弘安3年(1280) 116   幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) 弘安3年9月5日 71
117   幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) 弘安3年9月5日 72
118   幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) 弘安3年9月5日 72
119   幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) 弘安3年9月5日 72
120   幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) 弘安3年9月5日 72
121   幕府、江沼郡熊坂荘一方を山城東福寺領と為さしむ。(東福寺文書) 弘安3年9月5日 72
弘安6年(1283) 122   鳳至郡櫛比荘二ヶ村に在る諸寺の仏供田を注進す。(総持寺文書) 弘安6年5月12日 73
123   鹿島郡久麻加夫都阿良加志比古社の神殿を修営す。(久麻加夫都阿良加志比古神社蔵棟札) 弘安6年5月27日 73
弘安7年(1284) 124   地頭政所代、珠洲郡法住寺白山宮に所々の堀田を寄進す。(法住寺文書) 弘安7年11月 74
弘安10年(1287) 125   山城東福寺領江沼郡熊坂荘一方雑掌と江尻泰俊との争論を裁決す。(東福寺文書) 弘安10年10月11日 74
正応6年、永仁元年(1293) 126   得田章家、その孫章仲に羽咋郡得田荘地頭職を譲る。(得田文書) 正応6年、永仁元年6月28日 76
永仁3年(1295) 127   預所平某、鳳至郡諸岡寺に護摩供料田を寄進す。(総持寺文書) 永仁3年11月3日 76
永仁4年(1296) 128   仮掲(重蔵神社蔵棟札) 永仁4年10月4日 77
129   預所桜井某、鳳至郡宝幢院にその護摩堂料所として櫛比庄二ヶ村の内を寄進す。(総持寺文書) 永仁4年11月21日 78
永仁5年(1297) 130   幕府、橘成政に能美郡八幡宮神主職等を安堵せしむ。(菊大路文書) 永仁5年2月22日 78
131   沙弥某、加賀郡佐那武社の社務職に関する訴訟を裁決す。(佐那武社古文類纂) 永仁5年1月20日 78
132   預所某、珠洲郡法住寺に同寺領白山田を安堵せしむ。(法住寺文書) 永仁5年11月22日 79
永仁7年、正安元年(1299) 133   亀山法皇、山城南禅寺に加賀郡小坂荘を寄進し給ふ。(南禅寺文書) 永仁7年、正安元年3月5日 79
正安2年(1300) 134   幕府、山城賀茂別雷社領かが郡金津荘と北英田保との境界に関する争論を裁決す。(温故古文抄) 正安2年3月23日 80
135   幕府、山城賀茂別雷社領かが郡金津荘と北英田保との境界に関する争論を裁決す。(温故古文抄) 正安2年3月23日 82
136   伏見条項、山城南禅寺に同寺領加賀郡小坂荘の替として播磨矢野別名・大塩荘等を寄進し給ふ。(南禅寺文書) 正安2年7月25日 83
137   幕府、酒井利忠に鹿島郡酒井保の地頭職を安堵せしむ。(永光寺文書) 正安2年12月22日 83
正安4年、乾元元年(1302) 138   幕府、山城南禅寺に筑前宗像社の替として能美郡得橋郷及び石川郡笠間東保等を寄進す。(南禅寺文書) 正安4年、乾元元年11月22日 83
139   後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷及び石川郡笠間東保を寄進し給ふ。(南禅寺文書) 正安4年、乾元元年12月21日 84
乾元2年、嘉元元年(1303) 140   幕府の使者、僧法仏に石川郡白山宮神田壱町を安堵せしむ。(南禅寺文書) 乾元2年、嘉元元年閏4月8日 84
嘉元2年(1304) 141   酒井利忠、その弟章兼に鹿島郡酒井保内の屋敷名田等を譲渡す。(永光寺文書) 嘉元2年9月6日 85
嘉元3年(1305) 142   石川郡白山宮荘厳講承仕等、その勤務に就いて制約す。(白山比咩神社文書) 嘉元3年3月 85
143   鹿島郡万行保東方地頭職斉藤胤成、鎌倉に着到を告ぐ。(天野文書) 嘉元3年5月7日 86
徳治2年(1307) 144   某、鳳至郡諸岡寺に護摩田を寄進す。(総持寺文書) 徳治2年9月21日 86
徳治3年、延慶元年(1308) 145   六波羅探題、山城南禅寺領能美郡得橋郷地頭代興範が佐羅別宮雑掌貞清に同郷内佐羅村を押領せられたりとの訴を裁決す。(南禅寺文書) 徳治3年、延慶元年5月2日 87
146   後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を寄進し給ふ。(南禅寺文書) 徳治3年、延慶元年7月19日 89
徳治3年、延慶元年(1308) 147   後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を寄進し給ふ。(南禅寺文書) 徳治3年、延慶元年7月19日 90
延慶2年(1309) 148   伏見上皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を安堵せしむ。(南禅寺文書) 延慶2年6月10日 90
149   伏見上皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を安堵せしむ。(南禅寺文書) 延慶2年6月10日 90
150   近江延暦寺、山城仁和寺と争はんとし、石川郡白山宮衆徒の発向を促す。(白山宮荘厳講中記録) 延慶2年7月24日 90
151   近江延暦寺、山城仁和寺と争はんとし、石川郡白山宮衆徒の発向を促す。(白山宮荘厳講中記録) 延慶2年7月24日 90
延慶3年(1310) 152   酒井利保、その弟章兼が所領鹿島郡酒井保内の山野を沽却し得ることを証明す。(永光寺文書) 延慶3年7月28日 91
153   酒井利保、その弟章兼が所領鹿島郡酒井保内の山野を沽却し得ることを証明す。(永光寺文書) 延慶3年7月28日 92
154   酒井章兼、その所領鹿島郡酒井保内の山野を海野信直の妻に沽却す。(永光寺文書) 延慶3年8月3日 92
155   酒井章兼、その所領鹿島郡酒井保内の山野を海野信直の妻に沽却す。(永光寺文書) 延慶3年8月3日 92
156   石川郡白山宮荘厳講衆、衆議に服すべきことを誓ふ。(白山比咩神社文書) 延慶3年8月12日 93
157   酒井利忠、その所領鹿島郡酒井保内の山野を海野信直の妻に沽却す。(永光寺文書) 延慶3年8月28日 93
158   酒井利忠、その所領鹿島郡酒井保内の山野を海野信直の妻に沽却す。(永光寺文書) 延慶3年8月28日 94
延慶4年、応長元年(1311) 159   藤原宗信、珠洲郡法住寺内の林木伐採を禁ず。(法住寺文書) 延慶4年、応長元年12月 94
160   藤原宗信、珠洲郡法住寺内の林木伐採を禁ず。(法住寺文書) 延慶4年、応長元年1月 94
応長2年、正和元年(1312) 161   尼心称、さきの大ゆきに、羽咋郡得田保志良田村の地頭職の内を譲る。(得田文書) 応長2年、正和元年8月25日 95
162   伏見上皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) 応長2年、正和元年11月29日 95
正和3年(1313) 163   珠洲郡長橋神明宮の神主吉秀、同社に鰐口を献る。(長橋神明宮鰐口銘) 正和3年9月16日 96
正和4年(1314) 164   長幸連、その子季連に羽咋郡土田荘上村半分等を譲る。(得田文書) 正和4年12月20日 96
正和6年、文保元年(1317) 165   幕府、海野信直の妻に酒井利忠が沽却したる鹿島郡酒井保内の山野を安堵せしむ。(永光寺文書) 正和6年、文保元年3月23日 97
166   幕府、海野信直の妻に酒井章兼が沽却したる鹿島郡酒井保内の山野を安堵せしむ。(永光寺文書) 正和6年、文保元年3月23日 97
文保2年(1318) 167   石川郡白山宮末社荒御前等の遷宮を行ふ。(白山比咩神社文書) 文保2年6月20日 97
168   石川郡惣長吏豪澄等、講衆及び堂僧を戒者より採用するには挙状の前後に依るべきことを定む。(白山宮荘厳講中記録) 文保2年10月15日 98
169   海野信直の妻、鹿島郡酒井保内の山野を瑩山紹瑾に寄進す。(永光寺文書) 文保2年10月25日 98
文保3年、元応元年(1319) 170   近江日吉社、加賀能美荘・大桑荘・永富荘等の社領注進状を作る。(日吉神社領注進状) 文保3年、元応元年10月 99
171   瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺の置文を作る。(永光寺文書) 文保3年、元応元年12月8日 99
元応3年、元亨元年(1321) 172   仮掲(永光寺中興雑記) 元応3年、元亨元年3月28日 100
173   六波羅探題、能美郡山内荘地頭吉谷五郎の子息虎犬丸が得橋郷佐羅村に狼藉するを以て之を召喚す。(南禅寺文書) 元応3年、元亨元年4月10日 100
174   六波羅探題、能美郡山内荘地頭吉谷五郎の子息虎犬丸が得橋郷佐羅村に狼藉するを以て之を召喚す。(南禅寺文書) 元応3年、元亨元年4月10日 101
175   六波羅探題、能美郡山内荘地頭吉谷五郎の子息虎犬丸が得橋郷佐羅村に狼藉するを以て之を召喚す。(南禅寺文書) 元応3年、元亨元年4月10日 101
176   後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷内府南社神主職を寄進し給ふ。(南禅寺文書) 元応3年、元亨元年5月23日 101
177   後宇多天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷加納得南・益延・長恒三名を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) 元応3年、元亨元年6月15日 102
178   僧定賢、鳳至郡諸岡寺観音堂に寺領敷地を寄進す。(総持寺文書) 元応3年、元亨元年7月22日 102
179   仮掲(総持寺文書) 元応3年、元亨元年9月14日 102
元亨2年(1322) 180   沙弥某、長康連とその弟季連との羽咋郡土田荘等伝領に関する争論を裁決す。(天野文書) 元亨2年5月23日 103
181   沙弥某、長康連とその弟季連との羽咋郡土田荘等伝領に関する争論を裁決す。(天野文書) 元亨2年5月23日 104
182   近江延暦寺、石川郡白山宮惣長吏をして本宮住侶隆政の所帯免田等を還付せしむ。(白山比咩神社文書) 元亨2年6月9日 182
183   近江延暦寺、石川郡白山宮惣長吏をして本宮住侶隆政の所帯免田等を還付せしむ。(白山比咩神社文書) 元亨2年6月9日 183
184   仮掲(総持寺文書) 元亨2年8月28日 105
185   景久、能美郡粟津上保津波倉八幡宮に獅子頭を施入す。(津波倉八幡宮獅子頭銘) 元亨2年8月 106
186   しめのゝいよの局、加賀郡大野荘示野村に就いて下知す。(天龍寺文書) 元亨2年11月11日 106
元亨3年(1323) 187   幕府、羽咋郡得田保志良田村の地頭尼心称と得田章真との総論を和与せしむ。(得田文書) 元亨3年2月23日 106
188   瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺の四至堺・田畠注文を作る。(永光寺文書) 元亨3年3月7日 107
189   仮掲(総持寺文書) 元亨3年6月 107
190   瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺所蔵の文書注文を作る。(永光寺文書) 元亨3年10月9日 108
191   瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺の寄田注文を作る。(永光寺文書) 元亨3年10月9日 109
192   瑩山紹瑾、その修練せる遺跡八ヶ寺の置文を作る。(永光寺文書) 元亨3年10月9日 109
193   地頭代光茂、鳳至郡如意寺に田地を寄進す。(宝泉寺文書) 元亨3年12月 110
元亨4年、正中元年(1324) 194   仮掲(総持寺文書) 元亨4年、正中元年3月16日 111
195   瑩山紹瑾、鳳至郡総持寺の住持職を峨山紹碩に譲与す。(総持寺文書) 元亨4年、正中元年7月7日 112
196   武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷河内新開田数を同寺に注進す。(称名寺文書) 元亨4年、正中元年9月10日 112
197   加賀郡佐那武社の忍西、その神主職を襲がんことを愁訴す。(大野湊神社文書) 元亨4年、正中元年9月 114
正中2年(1325) 198   瑩山紹瑾自賛の偈を作る。(総持寺文書) 正中2年3月21日 116
199   瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺の松樹護惜の偈を作る。(総持寺文書) 正中2年5月1日 116
200   瑩山紹瑾、鹿島郡永光寺に寄進を行ひたる檀越の逝去後諷誦回向すべきことを定む。(永光寺文書) 正中2年7月18日 117
正中3年、嘉暦元年(1326) 201   幕府、八幡尚成に能美郡能美荘の所領を還付す。(菊大路文書) 正中3年、嘉暦元年9月7日 117
嘉暦2年(1327) 202   親信、その女子ちよこに羽咋郡得田保志良田村の所領を譲る。(得田文書) 嘉暦2年3月13日 118
203   六波羅探題、能美郡長野惣領地頭が山城南禅寺領得橋郷佐羅村の用水を阻止したるを以て之を召喚す。(南禅寺文書) 嘉暦2年6月9日 118
204   幕府、地頭海老名忠国と領家雑掌信智等との加賀郡興・浅野両保下地に関する争論を裁決す。(海老名文書) 嘉暦2年8月25日 118
205   預所鴨某、鳳至郡諸岡寺に田地を寄進す。(総持寺文書) 嘉暦2年11月16日 121
嘉暦3年(1328) 206   藤原光国、石川郡白山宮に副益村の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) 嘉暦3年3月10日 121
207   領家日野資名、その祈祷所珠洲郡法住寺内の検断等を院主の沙汰たらしむ。(法住寺文書) 嘉暦3年5月24日 122
嘉暦4年、元徳元年(1329) 208   仮掲(総持寺文書) 嘉暦4年、元徳元年2月13日 122
209   吉見円忠、その妻伴氏女に羽咋郡志々見保の田畠を譲渡す。(永光寺文書) 嘉暦4年、元徳元年3月15日 123
210   武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷公文・百姓等、盗人・強盗等のことに就き同寺に誓状を出す。(称名寺文書) 嘉暦4年、元徳元年6月14日 123
211   武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷公文・百姓等、盗人・強盗等のことに就き同寺に誓状を出す。(称名寺文書) 嘉暦4年、元徳元年6月14日 124
212   幕府、八幡尚成に能美郡能美荘の所領を安堵せしむ。(菊大路文書) 嘉暦4年、元徳元年12月17日 124
213   幕府、八幡尚成に能美郡能美荘の所領を安堵せしむ。(菊大路文書) 嘉暦4年、元徳元年12月17日 125
元徳2年(1330) 214   能美郡中院八院の衆徒等、武蔵金沢称名寺代官僧堯観と地境を争ひ勅裁を請ふ。(称名寺文書) 元徳2年閏6月 125
215   後醍醐天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷内府南社神主職を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) 元徳2年7月17日 126
216   後醍醐天皇、故太宰帥世良親王追善の為、その遺領加賀郡富永御厨等を山城臨川寺に管領せしめ給ふ。(天龍寺文書) 元徳2年10月25日 127
元徳3年、元弘元年(1331) 217   幕府、羽咋郡志々見保の田畠に関する訴訟により吉見円忠を召喚す。(永光寺文書) 元徳3年、元弘元年4月29日 127
218   後醍醐天皇、山城南禅寺の訴に依り、加賀国司をして同寺領能美郡得橋郷内益延・長恒両名に国衙の糸寄を停めしめ給ふ。(南禅寺文書) 元徳3年、元弘元年10月21日 127
219   後醍醐天皇、山城南禅寺の訴に依り、加賀国司をして同寺領能美郡得橋郷内益延・長恒両名に国衙の糸寄を停めしめ給ふ。(南禅寺文書) 元徳3年、元弘元年10月21日 127
220   後醍醐天皇、山城曼珠院慈嚴をして、同国南禅寺領能美郡得橋郷及び石川郡笠間東保等に白山宮等神人の乱入を停めしめ給ふ。(南禅寺文書) 元徳3年、元弘元年10月21日 128
元弘2年、正慶元年(1332) 221   幕府、村井又次郎入道知性の女伴氏に羽咋郡志々見保内の知行を安堵せしむ。(永光寺文書) 元弘2年、正慶元年5月27日 128
222   山城臨川寺、故太宰帥世良親王家遺領加賀郡富永御厨以下の寺領を注進す。(天龍寺文書) 元弘2年、正慶元年6月 129
223   僧成知、鹿島郡永光寺に、羽咋郡志々見保内の地を寄進す。(永光寺文書) 元弘2年、正慶元年6月 129
224   大法師定員、鳳至郡諸岡寺の院主職に補任せらる。(総持寺文書) 元弘3年、正慶2年3月6日 129
元弘3年、正慶2年(1333) 225   仮掲(永光寺文書) 元弘3年、正慶2年4月1日 130
226   江沼郡福田荘・菅浪郷総領地頭兼菅生社神主狩野頼広、軍忠を致さんが為に上洛せしことを足利高氏に告ぐ。(狩野文書) 元弘3年、正慶2年6月25日 130
227   能美郡府南御供田地頭建部頼春、軍忠を致さんが為上洛せしことを足利高氏に告ぐ。(南禅寺文書) 元弘3年、正慶2年6月 131
228   能美郡八幡一分地頭八幡尚成、軍忠を致さんが為上洛したることを足利高氏に告ぐ。(菊大路文書) 元弘3年、正慶2年6月 131
229   仮掲(大野湊神社文書) 元弘3年、正慶2年7月15日 131
230   仮掲(大野湊神社文書) 元弘3年、正慶2年7月15日 131
231   領家日野資名、珠洲郡法住寺に於ける検断等を先例に拠り院主の沙汰たらしむ。(法住寺文書) 元弘3年、正慶2年7月20日 132
232   後醍醐天皇、山城臨川寺に加賀郡富永御厨等の地を管領せしめ給ふ。(臨川寺文書) 元弘3年、正慶2年7月23日 132
233   官宣旨を能登に下して、士庶の業を捨てゝ上洛するを停め、北条氏の余党にあらざる限り当時知行の地を安堵せしむ。(総持寺文書) 元弘3年、正慶2年7月25日 132
234   仮掲(永光寺文書) 元弘3年、正慶2年8月13日 133
235   国宣により、鳳至郡総持寺の管領する田畠を安堵せしむ。(総持寺文書) 元弘3年、正慶2年10月15日 133
236   後醍醐天皇、山城臨川寺に同寺領加賀郡富永御厨中分の下地を賜ふ。(臨川寺文書) 元弘3年、正慶2年11月10日 134
237   恒盛・真盛、その預りたる石川郡白山宮神事料田所当来納の本証文を紛失したるを以て誓状を同宮に納る。(白山比咩神社文書) 元弘3年、正慶2年12月25日 134
238   領家某、鳳至郡諸岡寺に大般若田を寄進す。(総持寺文書) 元弘3年、正慶2年12月 134
元弘4年、建武元年(1334) 239   領家日野資名、珠洲郡法住寺をしてその造営料を若山荘内に勧進せしむ。(法住寺文書) 元弘4年、建武元年7月11日 135
240   領家日野資名、珠洲郡法住寺をしてその造営料を若山荘内に勧進せしむ。(法住寺文書) 元弘4年、建武元年7月11日 135
241   後醍醐天皇、山城南禅寺に同寺領石川郡笠間東保及び能美郡得橋郷佐羅・佐野二村の地を還付せしめ給ふ。(南禅寺文書) 元弘4年、建武元年8月29日 135
242   雑訴決断所、山城伏見稲荷社に同社領石川郡味智郷内の田地を安堵せしむ。(伏見稲荷神社文書) 元弘4年、建武元年9月4日 135
243   地頭沙弥幸蓮、鳳至郡総持寺聖天社に御供田として櫛比荘二ヶ村の智を寄進す。(総持寺文書) 元弘4年、建武元年11月20日 136
建武2年(1335) 244   雑訴決断所、加賀国衙をして八院長吏源光等の能美郡能美荘地頭職を濫妨するを停め、吉良省観に之を交付せしむ。(菊大路文書) 建武2年3月5日 136
245   雑訴決断所、加賀国衙をして八院長吏源光等の能美郡能美荘地頭職を濫妨するを停め、吉良省観に之を交付せしむ。(菊大路文書) 建武2年3月5日 137
246   地頭政所、鳳至郡総持寺聖天社新寄進御供田の坪付を定む。(総持寺文書) 建武2年3月10日 137
247   斎藤胤成、その次子真将に鹿島郡万行保東方地頭職を譲渡す。(天野文書) 建武2年3月17日 138
248   後醍醐天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷今村を領せしめ給ふ。(南禅寺文書) 建武2年3月20日 138
249   後醍醐天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷佐野村を寄進し給ふ。(南禅寺文書) 建武2年4月7日 138
250   能登国衙、綸旨により、その目代をして鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保を交付せしむ。(永光寺文書) 建武2年4月21日 139
251   能登国衙、綸旨により、その目代をして鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保を交付せしむ。(永光寺文書) 建武2年4月21日 139
252   太政官符を山城南禅寺に下して、同寺領能美郡得橋郷・石川郡笠間東保等を一円不輸の地となさしむ。(南禅寺文書) 建武2年4月22日 139
253   後醍醐天皇、山城南禅寺をして能美郡得橋郷牛島村地頭職を知行せしめ給ふ。(南禅寺文書) 建武2年5月25日 140
254   僧貞意、石川郡白山宮阿仏坊の赤糸の甲紛失したるに就き起請文を納る。(白山比咩神社文書) 建武2年6月3日 140
255   親高、石川郡白山宮に加賀郡倉月荘内の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) 建武2年6月18日 140
256   能美郡能美荘地頭吉良省観、惣公文八幡尚成にその職を安堵せしむ。(菊大路文書) 建武2年6月19日 141
257   斎藤胤成、曩に次子真将に与へたる鹿島郡万行保東方地頭職を改めて嫡子茂成と真将に分譲す。(得江文書) 建武2年7月14日 141
258   斎藤胤成、その妻に羽咋郡得田保及び鹿島郡万行保内の田屋敷を譲渡す。(得田文書) 建武2年7月14日 142
259   太政官符を加賀国に下して、仲原師利に所領加賀郡倉月荘の領家・地頭両職を安堵せしむ。(色々証文) 建武2年10月4日 142
建武3年、延元元年(1336) 260   武部頼春、足利尊氏に能美郡府南社神主職・加賀郡千木保地頭職等の本領を安堵せんことを求む。(南禅寺文書) 建武3年、延元元年2月7日 143
261   吉良省観、山城石清水八幡宮に能美郡能美荘地頭職を寄進す。(菊大路文書) 建武3年、延元元年6月6日 144
262   足利尊氏、新田義貞を討伐する為能登の士得田章真の上洛を促す。(金沢市中古文書) 建武3年、延元元年6月18日 144
263   宗寂、鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保地頭職を安堵せしむ。(中興雑記) 建武3年、延元元年7月28日 144
264   足利尊氏、課が守護富樫高家に令して山城臨川寺領加賀郡大野庄に兵士の濫妨するを停止せしむ。(天龍寺文書) 建武3年、延元元年8月2日 144
265   能登守護吉見頼顕、鹿島郡気多本宮の免田に士庶の狼藉することを停止す。(能登生国玉比古神社文書) 建武3年、延元元年8月27日 145
建武3年、延元元年(1336) 266   能登守護吉見頼顕、鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保地頭職を安堵せしむ。(永光寺文書) 建武3年、延元元年8月28日 145
267   足利尊氏、山城臨川寺に加が軍大野荘地頭職を寄進す。(天龍寺文書) 建武3年、延元元年8月30日 145
268   足利尊氏、能美郡府南御供田地頭建部頼春に感状を与ふ。(南禅寺文書) 建武3年、延元元年9月6日 145
269   光厳院、山城勧修寺領江沼郡郡家荘等を安堵せしめ給ふ。(勧修寺文書) 建武3年、延元元年9月17日 146
270   光厳院、山城勧修寺領江沼郡郡家荘等を安堵せしめ給ふ。(勧修寺文書) 建武3年、延元元年9月17日 146
271   足利尊氏、山城臨川寺領加賀郡大野荘に国司・守護使の入部及び白山・金劔宮神人等の乱入を停む。(臨川寺重書案文) 建武3年、延元元年9月18日 146
272   光厳院、山城臨川寺に加賀郡大野荘領家職等を領知せしめ給ふ。(天龍寺文書) 建武3年、延元元年9月27日 146
273   足利尊氏、鹿島郡永光寺に元弘以来収公せられたる同寺領を安堵せしむ。(永光寺文書) 建武3年、延元元年9月28日 147
274   光厳院、山城南禅寺に同寺領能美郡得橋郷・石川郡笠間東保等を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) 建武3年、延元元年11月27日 147
275   足利直義、武蔵金沢称名寺剣阿に同寺領能美郡軽海郷を知行せしむ。(称名寺文書) 建武3年、延元元年12月1日 147
276   光厳院、壬生匡遠に加賀橘島保等の所領を安堵せしめ給ふ。(壬生文書) 建武3年、延元元年12月27日 148
延元2年、建武4年(1337) 277   能登守護吉見頼隆、鳳至郡諸岡寺領に士庶の乱入狼藉を停止せしむ。(総持寺文書) 延元2年、建武4年1月14日 148
278   右衛門尉、某の旨を奉じて、鹿島郡永光寺に同寺領羽咋若部保を安堵せしむ。(永光寺文書) 延元2年、建武4年1月18日 149
279   足利尊氏、仁木義有の勲功を賞して加賀郡小坂荘大志目村の地頭職を与ふ。(仁木文書) 延元2年、建武4年4月21日 149
280   足利尊氏、山城真如寺正脈庵に加賀郡大野荘藤江村・松村をその造営料所として寄進す。(臨川寺重書案文) 延元2年、建武4年4月28日 149
281   足利尊氏、加賀守護富樫高家をして加賀郡笠野南方地頭職を田村教俊に交付せしむ。(保坂文書) 延元2年、建武4年5月18日 149
282   能登守護吉見頼隆、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保に士庶の乱入狼藉を停止す。(永光寺文書) 延元2年、建武4年11月 150
延元3年、建武5年、暦応元年(1338) 283   平行兼、鳳至郡宝泉寺に羽咋郡湊保南方兵庫村の内を寄進す。(宝泉寺文書) 延元3年、建武5年、暦応元年2月13日 150
延元4年、暦応2年(1339) 284   光厳院、鹿島郡永光寺に利生塔を修造せしめ給ふ。(永光寺文書) 延元4年、暦応2年12月13日 150
285   光厳院、鹿島郡永光寺に利生塔を修造せしめ給ふ。(永光寺文書) 延元4年、暦応2年12月13日 151
286   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して斯波高経の証判を求む。(得江文書) 延元4年、暦応2年12月 151
延元5年、興国元年、暦応3年(1340) 287   足利直義、鹿島郡永光寺利生塔に仏舎利二粒を寄進す。(永光寺文書) 延元5年、興国元年、暦応3年1月1日 152
288   足利尊氏、鹿島郡永光寺に利生塔塔婆料として羽咋郡若部保地頭職を寄進す。(永光寺文書) 延元5年、興国元年、暦応3年3月6日 152
289   足利尊氏、鹿島郡永光寺に利生塔塔婆料として羽咋郡若部保地頭職を寄進す。(永光寺文書) 延元5年、興国元年、暦応3年3月6日 152
290   足利尊氏、鹿島郡永光寺に利生塔塔婆料として羽咋郡若部保地頭職を寄進す。(永光寺文書) 延元5年、興国元年、暦応3年3月6日 153
291   能登守護吉見頼隆、鹿島郡永光寺の利生塔に塔婆を納む。(永光寺文書) 延元5年、興国元年、暦応3年6月17日 153
292   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 延元5年、興国元年、暦応3年7月 153
293   武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷代官僧全玄、その年貢等の進未進を同寺に注進す。(称名寺文書) 延元5年、興国元年、暦応3年8月28日 154
294   幕府、斯波氏頼をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢若狭小浜に到着せるものを京都に転送せしむ。(臨川寺文書) 延元5年、興国元年、暦応3年9月11日 155
295   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 延元5年、興国元年、暦応3年9月 155
296   鹿島郡能登島東方地頭職天野遠政代石河頼景、越前に於ける軍忠を具申して斯波高経の証判を求む。(天野文書) 延元5年、興国元年、暦応3年9月 156
297   仮掲(イチ原北代比古神社棟札) 延元5年、興国元年、暦応3年10月5日 156
298   仮掲(向田神明社文書) 延元5年、興国元年、暦応3年11月6日 156
299   斯波高経、能登の士得江頼員に感状を与ふ。(得江文書) 延元5年、興国元年、暦応3年11月8日 157
300   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 延元5年、興国元年、暦応3年11月 158
301   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して証判を求む。(得田文書) 延元5年、興国元年、暦応3年11月 158
興国2年、暦応4年(1341) 302   幕府、斯波高経をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢の越前敦賀・若狭小浜に到着せるものを警護せしむ。(臨川寺文書) 興国2年、暦応4年2月26日 159
303   中院良定、武家方を討たんとして能登の士得江頼員の従軍を促す。(得江文書) 興国2年、暦応4年3月2日 159
304   鳳至郡櫛比荘領家中院某、諸岡寺に田地を寄進す。(総持寺文書) 興国2年、暦応4年閏4月16日 160
305   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 興国2年、暦応4年7月 160
306   足利直義、摂津親秀の加賀郡倉月荘等の所領をその子女等に分与するを許す。(美吉文書) 興国2年、暦応4年8月12日 161
307   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 興国2年、暦応4年9月 161
308   能登守護吉見頼隆、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保に禁制を掲ぐ。(永光寺中興雑記) 興国2年、暦応4年12月5日 163
興国4年、康永2年(1343) 309   園基冬、江沼郡山城荘南郷を借銭返弁の質に当つ。(文永元年外記日記紙背文書) 興国4年、康永2年2月晦日 164
310   園基冬、江沼郡山城荘南郷を借銭返弁の質に当つ。(温故古文抄) 興国4年、康永2年2月晦日 164
311   珠洲郡若山荘領家日野時光、二郡居住の者をして法住寺供養料に奉加せしむ。(法住寺文書) 興国4年、康永2年6月9日 164
312   大使幸若丸代僧円心、造外宮料鹿島郡能登島御厨野崎村の日食米を進納す。(天野文書) 興国4年、康永2年6月21日 165
興国5年、康永3年(1344) 313   石川郡白山宮政所、国中の知識助成を以て節会を再興せんことを牒す。(三宮記) 興国5年、康永3年3月 165
314   浄韶、鹿島郡永光寺に羽咋郡湊北方の田地を寄進す。(永光寺文書) 興国5年、康永3年7月6日 166
315   妙法院門跡亮性法親王、その管領する石川郡押野荘・能美郡南北白江荘等の文券紛失したるを以て、官符を下して証明せられんことを奏請せしめ給ふ。(妙法院文書) 興国5年、康永3年7月 166
316   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て極楽坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講講中記録紙背文書) 興国5年、康永3年9月12日 167
317   梶井門跡尊胤法親王、山城祇園社に、旧に依りその祈祷料所として加賀郡英田保萱野を知行せしめ給ふ。(祇園社記) 興国5年、康永3年10月10日 168
318   能登守護吉見頼隆、越中の宮方を伐たんとし得江頼員の従軍を促す。(得江文書) 興国5年、康永3年11月16日 168
興国6年、康永4年、貞和元年(1345) 319   光明院吉書奏を行ひ、能登国司等が不動倉開検を請ふ申文を用ひ給ふ。(中院一品記) 興国6年、康永4年、貞和元年2月23日 168
320   光明院吉書奏を行ひ、能登国司等が不動倉開検を請ふ申文を用ひ給ふ。(中院一品記) 興国6年、康永4年、貞和元年2月23日 169
321   山城感神院長吏春喜、孫晴賀に、加賀郡萱野保等の地を譲与す。(祇園社記) 興国6年、康永4年、貞和元年8月1日 169
322   能登の士得江頼員、越中に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 興国6年、康永4年、貞和元年8月 169
323   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て曼荼羅堂に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 興国6年、康永4年、貞和元年9月12日 170
324   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て曼荼羅堂に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 興国6年、康永4年、貞和元年9月12日 170
325   明峰素哲、石川郡大乗寺の重宝一夜碧巌集並びにシュロ払子を帰入せしむ。(大乗寺文書) 興国6年、康永4年、貞和元年10月18日 170
興国7年、正平元年、貞和2年(1346) 326   富樫家善、明峰素哲に、石川郡大乗寺の田地・敷地を寄進す。(大乗寺文書) 興国7年、正平元年、貞和2年4月16日 171
327   中院良定、能登の士得江頼員の宮方に党するを賞す。(得江文書) 興国7年、正平元年、貞和2年4月20日 171
328   能登の士得江頼員、同国に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得江文書) 興国7年、正平元年、貞和2年5月 172
329   足利尊氏、鹿島郡永光寺をして敵徒退治の祈禱を行はしむ。(永光寺中興雑記) 興国7年、正平元年、貞和2年8月2日 172
330   能登守護吉見頼隆、同国の士得田素章に感状を与へられrんことを幕府に請ふ。(得田文書) 興国7年、正平元年、貞和2年8月6日 172
331   足利直義、山城臨川寺領加賀郡大野荘雑掌と倉月荘地頭との湖海の境界に関する争議を裁決す。(天龍寺文書) 興国7年、正平元年、貞和2年閏9月19日 173
332   足利直義、山城臨川寺領加賀郡大野荘雑掌と倉月荘地頭との湖海の境界に関する争議を裁決す。(天龍寺文書) 興国7年、正平元年、貞和2年閏9月19日 174
333   足利直義、山城臨川寺領加賀郡大野荘雑掌と倉月荘地頭との湖海の境界に関する争議を裁決す。(天龍寺文書) 興国7年、正平元年、貞和2年閏9月19日 174
334   能登の士得田素章代子息章名、越中に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得田文書) 興国7年、正平元年、貞和2年閏9月 174
正平2年、貞和3年(1347) 335   無底良韶、鹿島郡永光寺に羽咋郡湊保の田地を寄進す。(永光寺文書) 正平2年、貞和3年1月15日 175
336   無底良韶、鹿島郡永光寺に羽咋郡湊保の田地を寄進す。(永光寺文書) 正平2年、貞和3年1月15日 175
337   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て十如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平2年、貞和3年2月24日 176
338   幕府、佐々木氏頼に、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を近江湖上に横領する勿らしむ。(臨川寺文書) 正平2年、貞和3年3月15日 176
339   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平2年、貞和3年4月24日 176
340   藤原重宗、石川郡祇陀寺に能美郡河内荘内椙森野の地を売渡す。(祇陀寺文書) 正平2年、貞和3年5月2日 177
341   山城祇園社の僧晴賀、顕詮に、加賀郡萱野保等の地を譲る。(祇園社記) 正平2年、貞和3年7月2日 177
342   足利尊氏、近江日吉社に加賀郡田上郷及び金浦内の地頭職を寄進す。(桂林集) 正平2年、貞和3年7月21日 178
343   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て東光坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平2年、貞和3年7月24日 178
344   藤原重宗、石川郡祇陀寺に能美郡河内荘広瀬村の地を寄進す。(祇陀寺文書) 正平2年、貞和3年7月25日 178
345   藤原重宗、石川郡祇陀寺に能美郡河内荘広瀬村の地を売渡す。(祇陀寺文書) 正平2年、貞和3年7月25日 178
346   山城東福寺、同寺領江沼郡熊坂荘等の文書目録を注す。(東福寺文書) 正平2年、貞和3年7月 180
347   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平2年、貞和3年9月12日 180
348   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平2年、貞和3年9月24日 181
349   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て談義所に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平2年、貞和3年10月24日 181
350   足利尊氏、能登の士得田素章をして越中守護桃井直常に属し、井上俊清を誅伐せしむ。(得田文書) 正平2年、貞和3年11月28日 182
351   石川郡白山宮荘厳講所新に講衆を挙達す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平2年、貞和3年12月3日 182
正平3年、貞和4年(1348) 352   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て極楽坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年1月24日 182
353   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年3月24日 183
354   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て十如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年7月24日 183
355   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て十如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年7月24日 183
356   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て東光坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年8月24日 184
357   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て東光坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年8月24日 184
358   光厳院、先に冷泉頼定が石川郡白山宮に寄進したる長講堂領越前坂北庄内の地を召返し給ふ。(水無瀬宮文書) 正平3年、貞和4年9月2日 184
359   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年9月12日 185
360   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年9月12日 185
361   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て阿仏坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年9月24日 186
362   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年10月24日 186
363   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年10月24日 186
364   能登の士得田素章、越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) 正平3年、貞和4年10月 187
365   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て仏如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年11月24日 187
366   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て仏如坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年11月24日 187
367   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平3年、貞和4年12月24日 188
368   武蔵金沢称名寺領能美郡軽美郷、その年貢結解を注進す。(称名寺文書) 正平3年、貞和4年是歳 188
正平4年、貞和5年(1349) 369   後村上天皇、瀧口等に羽咋郡湊郷南北地頭職を知行せしめ給ふ。(渡辺文書) 正平4年、貞和5年3月15日 189
370   能登国衙、上裁を奉じ、鹿島郡気多本宮の社領に国衙の干渉せざる旨を同社僧に告ぐ。(能登生国玉比古神社文書) 正平4年、貞和5年4月8日 189
371   珠洲郡若山荘の領家日野時光、秦左近を同郡馬繋浦恒利名の名主職に補す。(本光寺文書) 正平4年、貞和5年4月11日 189
372   崇光院、山城臨川寺領加賀郡大野荘等に勅役・院役以下を停めしめ給ふ。(臨川寺文書) 正平4年、貞和5年4月28日 189
373   崇光院、山城臨川寺領加賀郡大野荘等に勅役・院役以下を停めしめ給ふ。(臨川寺文書) 正平4年、貞和5年4月28日 190
374   花開院の上使観恵、得田章香に、羽咋郡得田荘志良田村の地を和与す。(得田文書) 正平4年、貞和5年4月28日 190
375   花開院の上使観恵、得田章香に、羽咋郡得田荘志良田村の地を和与す。(得田文書) 正平4年、貞和5年4月28日 191
376   能登の士得田素章代大津章広、守護桃井義綱の大和討伐に従ひ、その着到を報ず。(得田文書) 正平4年、貞和5年7月 191
377   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て禅林坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平4年、貞和5年9月12日 192
378   山城石清水八幡宮入江匡清、某に、同宮領遠江国向笠郷年貢の替として能美郡能美荘地頭職を譲る。(菊大路文書) 正平4年、貞和5年12月18日 192
379   山城石清水八幡宮入江匡清、同宮領能美郡能美荘地頭代職に能美菊若丸を補す。(菊大路文書) 正平4年、貞和5年12月18日 192
正平5年、貞和6年、観応元年(1350) 380   足利基氏、石川郡白山寺長老をして天下静謐を祈らしむ。(称名寺文書) 正平5年、貞和6年、観応元年2月21日 193
381   明峰素哲、石川郡大乗寺・鹿島郡永光寺以下の住持職に関する置文を作る。(永光寺中興雑記) 正平5年、貞和6年、観応元年3月23日 193
正平6年、観応2年(1351) 382   能登守護桃井義綱、得江石王丸に感状を与ふ。(得江文書) 正平6年、観応2年1月11日 193
383   能登の士得江丸代長野季光、同国に於ける軍忠を具申して桃井義綱の証判を求む。(得江文書) 正平6年、観応2年1月 194
384   某、鹿島郡能登島東方地頭天野遠政の所領に禁制を掲ぐ。(天野文書) 正平6年、観応2年1月 195
385   前加賀大介橘成秀、介二郎に、その所領能美郡多田八幡宮領乃身荘の地を譲渡す。(両足院文書) 正平6年、観応2年6月1日 195
386   足利直義、能登の士得江石王丸にその本領を安堵せしむ。(得江文書) 正平6年、観応2年7月17日 195
387   藤原朝房等、幕府の命を受け、天野遠政の所領鹿島郡能登島東方に治田家政代の濫妨を停め、下地を遠政代に付す。(天野文書) 正平6年、観応2年7月24日 196
388   足利尊氏、能登の士得江石王丸をして、北國に潜入せる足利直義を討伐せしむ。(得江文書) 正平6年、観応2年8月12日 196
389   足利尊氏、同直義を討たんとして近江に至り、能登の士得田素章をして忠節を致さしむ。(得田文書) 正平6年、観応2年8月29日 196
390   能登の士得江石王丸代長野光信、足利義詮及び尊氏の発向に従ひ、その着到を報ず。(得江文書) 正平6年、観応2年8月 196
391   足利尊氏、石川郡大乗寺に敵徒退散を祈祷せしむ。(大乗寺文書) 正平6年、観応2年9月22日 197
392   能登の士得江石王丸代長野家光、同国に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得江文書) 正平6年、観応2年9月 197
393   足利直義、加賀郡佐那武両社に倉部橘三の旧領を寄進す。(天龍寺文書) 正平6年、観応2年12月20日 197
394   能登の士得江石王丸代長野光信、近江に於ける軍忠を具申して桃井義綱の証判を求む。(得江文書) 正平6年、観応2年10月 198
正平7年、観応3年、文和元年(1352) 395   前右兵衛督、鳳至郡総持寺に、その敷地を安堵せしむ。(総持寺文書) 正平7年、観応3年、文和元年1月11日 198
396   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て東光坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年1月24日 198
397   足利尊氏、能登の士得田素章に、見方に党せば本領を安堵せしめんことを告ぐ。(得田文書) 正平7年、観応3年、文和元年2月7日 198
398   形部権少輔、山城東福寺領江沼郡熊坂荘に并蝋米等の濫妨を停む。(東福寺文書) 正平7年、観応3年、文和元年2月13日 199
399   後村上天皇、山城臨川寺領加賀郡大野荘地頭職を他所へ替へしめ給ふ。(臨川寺文書) 正平7年、観応3年、文和元年2月16日 199
400   後村上天皇、山城臨川寺に加賀郡大野荘領家職を安堵せしめ給ふ。(臨川寺文書) 正平7年、観応3年、文和元年2月16日 199
401   後村上天皇、山城南禅寺に能美郡得橋郷及び石川郡笠間東保等を安堵せしめ給ふ。(南禅寺文書) 正平7年、観応3年、文和元年2月17日 199
402   足利義詮、吉見氏頼に、能登の地頭御家人の味方に党する者に安堵の下文を与ふべきことを告ぐ。(得田文書) 正平7年、観応3年、文和元年閏2月18日 200
403   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て中観坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年閏2月24日 200
404   足利義詮近江に在りて、能登の士得田素章に従軍を促す。(得田文書) 正平7年、観応3年、文和元年3月6日 200
405   珠洲郡高座宮別当高勝寺院主快善、同寺領正院郷内本経田目録を注す。(須須神社文書) 正平7年、観応3年、文和元年3月11日 201
406   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て勝重坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年3月24日 201
407   足利義詮、山城男山八幡を攻めんとし、能登の士得江石王丸の従軍を促す。(得江文書) 正平7年、観応3年、文和元年4月10日 201
408   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て談義所に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年4月24日 202
409   能登守護吉見氏頼、同国の士得田素章の足利尊氏に属したるを以て所領安堵を幕府に請ふ。(得田文書) 正平7年、観応3年、文和元年5月10日 202
410   足利尊氏、加賀の士狩野義茂の来属せるを賞し、且越中の宮方を討たしむ。(狩野文書) 正平7年、観応3年、文和元年5月22日 202
411   足利尊氏、能登の士得田素章に、その本領を安堵せしむ。(得田文書) 正平7年、観応3年、文和元年6月3日 203
412   某、富弥四郎をして、山城東福寺領江沼郡熊坂荘年貢の勘過を下知せしむ。(東福寺文書) 正平7年、観応3年、文和元年6月5日 203
413   足利義詮、鹿島郡能登島東方地頭天野遠政に感状を与ふ。(天野文書) 正平7年、観応3年、文和元年7月21日 203
414   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て曼荼羅堂に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年7月24日 203
415   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て南岳院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年8月24日 204
416   足利義詮、能登の士得田素章に、越中討伐の為従軍を促す。(得田文書) 正平7年、観応3年、文和元年8月28日 204
417   能登の士得田素章代子息章房、越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) 正平7年、観応3年、文和元年9月 204
418   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て泉坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年10月12日 205
419   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て一乗坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年10月24日 205
420   能登守守護吉見氏頼、同国の士得田素章にその軍忠を賞し、幕府に注進すべきことを告ぐ。(得田文書) 正平7年、観応3年、文和元年10月29日 206
421   僧実有、武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷の文書を保管す。(称名寺文書) 正平7年、観応3年、文和元年11月13日 206
422   僧実有、武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷の文書を保管す。(称名寺文書) 正平7年、観応3年、文和元年11月13日 206
423   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年11月24日 207
424   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て地蔵院に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平7年、観応3年、文和元年11月24日 207
425   足利義詮、吉見氏頼に、能登の地御家人にして去年直義に属したるものの所領安堵を慎重にせしむ。(得田文書) 正平7年、観応3年、文和元年12月15日 207
正平8年、文和2年(1353) 426   武蔵金沢称名寺領能美郡軽美郷代官僧杲照、去年の年貢米代銭を同寺に送進す。(称名寺文書) 正平8年、文和2年2月21日 208
427   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て禅林坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平8年、文和2年3月24日 208
428   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て円乗坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平8年、文和2年4月24日 208
429   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て行眼坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平8年、文和2年5月24日 209
430   長木工左衛門入道珠阿、その妻法信に、羽咋郡土田荘上村地頭職を譲与す。(長伝書) 正平8年、文和2年6月2日 209
431   鹿島郡能登島東方地頭天野遠政代堀籠宗重、越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(天野文書) 正平8年、文和2年6月 210
432   足利義詮、石川郡大乗寺をして天下静謐を祈祷せしむ。(大乗寺文書) 正平8年、文和2年7月2日 210
433   得田素章、養子章名に、破棄郡得田荘地頭職を譲る。(得田文書) 正平8年、文和2年7月10日 210
434   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て実蔵坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平8年、文和2年7月24日 211
435   足利尊氏、能登の士得田素章に感状を与ふ。(得田文書) 正平8年、文和2年8月7日 211
436   後光厳院、三位局に、羽咋郡土田荘等を知行せしめ給ふ。(伏見宮記録) 正平8年、文和2年8月11日 211
437   大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) 正平8年、文和2年8月11日 212
438   吉見修理亮、鹿島郡能登島東方地頭天野遠政代の軍忠を幕府に注進せんことを告ぐ。(天野文書) 正平8年、文和2年9月5日 212
439   吉見修理亮、能登の士得田素章代子息章房の軍忠を幕府に注進せんことを告ぐ。(得田文書) 正平8年、文和2年9月15日 212
440   能登の士得田素章代子息章房、鹿島郡能登島に於ける軍忠を具申して吉見修理亮の証判を求む。(得田文書) 正平8年、文和2年9月 213
441   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て中観坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平8年、文和2年10月24日 213
442   後村上天皇、鹿島郡永光寺開山瑩山紹瑾に仏慈禅師の号を贈り給ふ。(永光寺文書) 正平8年、文和2年12月8日 214
正平9年、文和3年(1354) 443   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て曼荼羅堂に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平9年、文和3年2月24日 214
444   仮掲(総持寺文書) 正平9年、文和3年3月2日 214
445   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て阿仏坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平9年、文和3年5月24日 215
446   石川郡白山宮並びに金劔宮の紺掻と、野市の紺掻と、水引神人所役に就いて協定す。(三宮記) 正平9年、文和3年7月18日 215
447   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て一乗坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平9年、文和3年7月24日 216
448   藤原よりたゞ、羽咋郡富来院鮎上村地頭職の内の田地をたうとう寺に寄進す。(総持寺文書) 正平9年、文和3年8月25日 216
449   幕府、石川郡祇陀寺の巻数を送りたるに答ふ。(祇陀寺文書) 正平9年、文和3年9月24日 217
450   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て理観坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平9年、文和3年9月24日 217
451   仮掲(総持寺文書) 正平9年、文和3年10月3日 217
452   後村上天皇、水無瀬具兼をして摂津水無瀬殿址に社壇を建立せしめ、加賀郡南縣荘地頭職等をその料に充てしめ給ふ。(水無瀬宮文書) 正平9年、文和3年11月22日 218
453   幕府、石川郡祇陀寺の巻数を送りたるに答ふ。(祇陀寺文書) 正平9年、文和3年11月22日 218
454   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て行眼坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平9年、文和3年11月24日 218
455   足利尊氏、能登の士得田章名に、加賀に侵入せる桃井直常討伐の為従軍を促す。(得田文書) 正平9年、文和3年12月8日 219
456   足利尊氏、加賀の士狩野義茂に加賀郡若松荘地頭職を安堵せしむ。(狩野文書) 正平9年、文和3年12月9日 219
457   石川郡白山宮荘厳講勧進、明日を以て阿仏坊に講衆を招集す。(白山宮荘厳講中記録紙背文書) 正平9年、文和3年12月24日 219
正平10年、文和4年(1355) 458   佐竹義篤、その子義香に、石川郡中林村等の所領を譲る。(佐竹文書) 正平10年、文和4年2月11日 220
459   能登の士天野遠経、同国に於ける軍忠を具申して吉見民部少輔の証判を求む。(天野文書) 正平10年、文和4年3月26日 220
460   能登の士得田章名、越前に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) 正平10年、文和4年3月 221
461   足利尊氏、加賀守護富樫氏春等をして同国地頭御家人の忠節を賞することを伝へしむ。(菊大路文書) 正平10年、文和4年4月19日 221
462   足利尊氏、加賀の士八幡介三郎に感状を与ふ。(菊大路文書) 正平10年、文和4年5月10日 221
463   足利尊氏、山城勧修寺の祈禱巻数を贈れるを謝し、同寺領江沼郡郡家荘に守護の兵糧を課するを停止すべきを告ぐ。(勧修寺文書) 正平10年、文和4年7月18日 222
464   鹿島郡能登島東方地頭天野遠政代堀籠宗重、能登に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(天野文書) 正平10年、文和4年7月 222
465   足利義詮、能登守護吉見氏頼をして北国の敵徒退治を謀らしむ。(吉見文書) 正平10年、文和4年12月3日 222
466   幕府、石川郡祗陀寺の巻数を送れるに答ふ。(祇陀寺文書) 正平10年、文和4年12月27日 222
正平11年、文和5年、延文元年(1356) 467   友宗、秦左近に珠洲郡馬繋村恒利名の林を譲与す。(本光寺文書) 正平11年、文和5年、延文元年2月5日 223
468   梶井門跡尊胤法親王、山城祗園社執行顕詮に加賀郡萱野保を管領せしめ給ふ。(祗園社記) 正平11年、文和5年、延文元年4月10日 223
469   大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地屋敷を寄進す。(白山比咩神社文書) 正平11年、文和5年、延文元年6月5日 223
470   大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地屋敷を寄進す。(白山比咩神社文書) 正平11年、文和5年、延文元年6月16日 224
471   大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地屋敷を寄進す。(白山比咩神社文書) 正平11年、文和5年、延文元年6月16日 224
472   大桑玄猷、石川郡金劔宮に上林郷内の田地屋敷を寄進す。(金劔神社文書) 正平11年、文和5年、延文元年6月16日 224
473   後光厳院、山城臨川寺に寺領加賀郡大野荘内黒田・無量寺領村を安堵せしめ給ふ。(天龍寺文書) 正平11年、文和5年、延文元年7月26日 225
474   後光厳院、山城臨川寺に寺領加賀郡大野荘内黒田・無量寺領村を安堵せしめ給ふ。(天龍寺文書) 正平11年、文和5年、延文元年7月26日 225
475   某、石川郡白山宮長吏にその免田上林郷の下地を交付す。(白山比咩神社文書) 正平11年、文和5年、延文元年7月26日 225
476   大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地を売渡す。(白山比咩神社文書) 正平11年、文和5年、延文元年8月5日 226
477   後光厳院、石川郡白山宮及び金劔宮神人の山城臨川寺領加賀郡大野荘段米・升米を濫妨するを停めしめ給ふ。(臨川寺文書) 正平11年、文和5年、延文元年8月16日 226
478   大桑玄猷、石川郡白山宮に上林郷内の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) 正平11年、文和5年、延文元年8月25日 226
479   幕府、加賀守富樫氏春をして、石川郡白山宮及び金劔宮神人の山城臨川寺領加賀郡大野荘段米・升米を濫妨するを停めしむ。(臨川寺重書案文) 正平11年、文和5年、延文元年8月28日 227
正平12年、延文2年(1357) 480   幕府、加賀守富樫氏春をして、江沼郡額田・八田両荘の料所たるを停め、その領主に安堵せしむ。(森文書) 正平12年、延文2年2月13日 227
481   妙成、石川郡上林郷内の田地を白山宮阿仏坊に質とす。(白山比咩神社文書) 正平12年、延文2年3月28日 228
482   惟宗経光、能登守護吉見氏頼の命により、天野遠政に鹿島郡能登島野崎・飯浦二村を交付す。(天野文書) 正平12年、延文2年7月2日 228
483   石川郡白山宮、本社及び荒御前社の遷宮を行ふ。(白山比咩神社文書) 正平12年、延文2年11月16日 228
正平13年、延文3年(1358) 484   長谷部信氏、鳳至郡総持寺に櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) 正平13年、延文3年11月4日 229
正平14年、延文4年(1359) 485   得田章名、猶子乙王丸に、羽咋郡得田庄の地頭職を譲る。(得田文書) 正平14年、延文4年3月25日 229
486   富樫用家、石川郡祇陀寺に禁制を掲ぐ。(祇陀寺文書) 正平14年、延文4年6月 230
487   能登守護吉見氏頼、同国の士得江石王丸の従軍を促す。(得江文書) 正平14年、延文4年7月6日 230
488   能登の士得田乙王丸代大隅貞章、越中に於ける軍忠を具申して証判を求む。(得田文書) 正平14年、延文4年11月 230
489   後光厳院、中院通冬に江沼郡額田荘及び加納八田荘等を安堵せしめ給ふ。(中院文書) 正平14年、延文4年12月19日 231
正平15年、延文5年(1360) 490   吉見右馬助、鹿島郡永光寺に禁制を掲ぐ。(永光寺旧記) 正平15年、延文5年2月22日 231
491   武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷、その年貢済物結解を同寺に送進す。(称名寺文書) 正平15年、延文5年閏4月25日 231
492   石川郡白山宮衆徒承儀、大師講法筵に於いて無礼あるに依り過失に処せらる。(白山比咩神社文書) 正平15年、延文5年11月24日 233
正平16年、延文6年、康安元年(1361) 493   富樫用家、富樫氏春の遺命に従ひて、勘解由小路の女房に加賀郡北英田保内気屋村の田畠を譲与す。(美吉文書) 正平16年、延文6年、康安元年8月25日 233
494   足利義詮、加賀の士狩野義茂に、加賀郡若松荘を安堵せしむ。(狩野文書) 正平16年、延文6年、康安元年12月15日 234
495   長谷部秀連、総持寺ゑんせう首座に田地を譲与す。(総持寺文書) 正平16年、延文6年、康安元年12月25日 234
正平17年、康安2年、貞治元年(1362) 496   足利義詮、能登守護吉見氏頼をして、地頭御家人を督して共に桃井直和を越中に討たしむ。(吉見文書) 正平17年、康安2年、貞治元年1月23日 234
497   峨山紹碩、鳳至郡総持寺未来住持職のことを定む。(総持寺文書) 正平17年、康安2年、貞治元年2月9日 235
498   仮掲(天野文書) 正平17年、康安2年、貞治元年4月25日 235
499   足利義詮、能登守護吉見氏頼の鹿島郡石動山合戦の報を得、援兵を遣はすべきを告ぐ。(古蹟文徴) 正平17年、康安2年、貞治元年5月22日 235
500   足利義詮、能登守護吉見氏頼の羽咋郡富来院木尾城に於ける合戦の報を得、之を激励す。(古蹟文徴) 正平17年、康安2年、貞治元年5月28日 236
501   足利義詮、能登守護吉見氏頼の鹿島郡石動山合戦に於ける勲功を賞してこれに感状を与ふ。(温故古文抄) 正平17年、康安2年、貞治元年6月8日 236
502   足利義詮、能登守護吉見氏頼の羽咋郡富来院尾崎城を攻落したるを賞してこれに感状を与ふ。(吉見文書) 正平17年、康安2年、貞治元年8月1日 236
503   足利義詮、能登守護吉見氏頼の敵将桃井直広等を降参せしめたるを賞しその処分を令す。(吉見文書) 正平17年、康安2年、貞治元年8月3日 236
504   足利義詮、能登守護吉見氏頼の羽咋郡富来院木尾城を攻落したるを賞してこれに感状を与ふ。(吉見文書) 正平17年、康安2年、貞治元年8月3日 237
505   能登守護吉見氏頼、諏訪神左衛門尉の鹿島郡能登島御厨東方地頭職を掠むるを停め、天野遠政に安堵せしめられんことを幕府に請ふ。(天野文書) 正平17年、康安2年、貞治元年8月5日 237
506   能登守護吉見氏頼、諏訪神左衛門尉の鹿島郡能登島御厨東方地頭職を掠むるを停め、天野遠政に安堵せしめられんことを幕府に請ふ。(天野文書) 正平17年、康安2年、貞治元年8月5日 237
正平18年、貞治2年(1363) 507   後光厳院、中院通氏に、江沼郡額田荘及び加納八田荘等を安堵せしめ給ふ。(中院文書) 正平18年、貞治2年1月19日 238
508   嶋田光次、珠洲郡本光寺に若山郷下包正名の田地を寄進す。(本光寺文書) 正平18年、貞治2年5月20日 238
509   幕府、長木工左衛門入道珠阿の後家法信に、先に闕所としたる羽咋郡土田上村の内の地頭職を還付す。(長家伝書) 正平18年、貞治2年7月29日 238
510   のりのぶ、甥十郎ひでつらに、鳳至郡櫛比荘の内の田地を譲与す。(総持寺文書) 正平18年、貞治2年11月15日 238
正平19年、貞治3年(1364) 511   鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) 正平19年、貞治3年8月22日 239
512   鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) 正平19年、貞治3年8月22日 239
513   鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) 正平19年、貞治3年8月22日 239
514   鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) 正平19年、貞治3年8月22日 239
515   鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) 正平19年、貞治3年8月22日 239
516   鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) 正平19年、貞治3年8月22日 239
517   鳳至郡八幡寺大般若経第六百巻書写成る。(八幡寺大般若経奥書) 正平19年、貞治3年8月22日 239
518   足利義詮、加賀守護富樫昌家をして、白山衆徒の山城臨川寺領加賀郡大野荘に諸公事を停めしむ。(臨川寺重書案文) 正平19年、貞治3年10月22日 240
519   兵庫允惟清、鳳至郡内保村尼空勝知行分の河成を認む。(総持寺文書) 正平19年、貞治3年12月11日 241
520   峨山紹碩、再び鳳至郡総持寺住持職のことに就いて垂示す。(総持寺文書) 正平19年、貞治3年12月13日 241
521   足利義詮、山城南禅寺領能美郡得橋郷等に旧の如く国司・諸司等の入部を停め、諸役を免除す。(南禅寺文書) 正平19年、貞治3年12月26日 241
正平20年、貞治4年(1365) 522   足利義詮、加賀守護富樫昌家に命じて、大和春日社造替料棟別銭をその国内に徴せしむ。(春日神社文書) 正平20年、貞治4年2月5日 242
523   足利義詮、能登守護吉見氏頼に命じて、大和春日社造替料棟別銭をその国内に徴せしむ。(春日神社文書) 正平20年、貞治4年2月5日 242
524   尼しゆ一、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) 正平20年、貞治4年3月8日 242
525   尼りやうご、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) 正平20年、貞治4年5月15日 243
526   後光厳院、山城北野社領羽咋郡菅原荘を社家に付し、神用を全うせしめ給ふ。(北野神社古文書) 正平20年、貞治4年7月30日 243
527   後光厳院、山城北野社領羽咋郡菅原荘を社家に付し、神用を全うせしめ給ふ。(北野神社古文書) 正平20年、貞治4年7月30日 243
正平21年、貞治5年(1366) 528   長木工左衛門入道珠阿、その孫女に、羽咋郡土田荘上村地頭職を譲与す。(天野文書) 正平21年、貞治5年2月4日 244
529   鳳至郡来迎時の僧有海、虎法師丸に寺田一段を譲与す。(来迎寺文書) 正平21年、貞治5年6月25日 244
530   後光厳院、天台座主入道尊道親王をして、近江延暦寺中堂闕所に山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしめ給ふ。(臨川寺重書案文) 正平21年、貞治5年8月11日 245
531   後光厳院、天台座主入道尊道親王をして、近江延暦寺中堂闕所に山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしめ給ふ。(臨川寺重書案文) 正平21年、貞治5年8月11日 245
532   幕府、加賀守護富樫昌家をして、進士為行に、能美郡山下郷比楽村の地頭職を交付せしむ。(猪熊文書) 正平21年、貞治5年9月24日 245
533   鳳至郡総持寺、峨山紹碩の遺物を門下に頒つ。(総持寺文書) 正平21年、貞治5年10月28日 245
534   大源宗真等、鳳至郡総持寺常住文書の目録を注す。(総持寺文書) 正平21年、貞治5年12月5日 246
535   吉見右馬頭、長木工左衛門後家法信の孫女に、羽咋郡土田上村を安堵せしめ軍勢衆庶の乱入を禁ず。(長伝書) 正平21年、貞治5年12月15日 247
正平22年、貞治6年(1367) 536   長谷部氏の女瑠璃若、鳳至郡総持寺塔頭法光院に櫛比庄内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) 正平22年、貞治6年2月9日 248
537   せんしん、ちやうとく寺に、珠洲郡正院郷蔵見村の田地を寄進す。(総持寺文書) 正平22年、貞治6年3月14日 248
538   珠洲郡高座宮別当高勝寺院主快成、本経田の配分を定む。(須須神社文書) 正平22年、貞治6年7月 249
539   足利義詮、山城石清水八幡宮別当善法寺了清に、同宮領能美郡能美荘地頭職を安堵せしむ。(菊大路文書) 正平22年、貞治6年8月11日 249
540   足利義詮、近江延暦寺造講堂関所をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしむ。(臨川寺重書案文) 正平22年、貞治6年8月21日 249
541   長谷部義勝、鳳至郡総持寺塔頭法光院に櫛比荘の田地を寄進す。(総持寺文書) 正平22年、貞治6年9月14日 250
542   足利義詮、進士為行の領能美郡比楽村を他所と交換せしむ。(古券書) 正平22年、貞治6年9月15日 250
543   後光厳院、山城南禅寺領能美郡得橋郷勅役・院役以下を免除せしめ給ふ。(南禅寺文書) 正平22年、貞治6年10月2日 251
544   尼見祐、鳳至郡総持寺塔頭法光院に櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) 正平22年、貞治6年11月1日 251
545   石川郡白山宮惣長吏澄全、千代鶴に、横江中荘の田地を譲与す。(白山比咩神社文書) 正平22年、貞治6年12月13日 252
正平23年、貞治7年、応安元年(1368) 546   沙弥宗悟、鳳至郡総持寺延寿堂に田地を寄進す。(総持寺文書) 正平23年、貞治7年、応安元年3月20日 252
547   沙弥宗悟、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) 正平23年、貞治7年、応安元年4月20日 253
548   能登守護吉見氏頼、得江季員に本知行を還付せしむ。(得江文書) 正平23年、貞治7年、応安元年7月2日 253
549   能登守護吉見氏頼、得江季員に本知行を還付せしむ。(得江文書) 正平23年、貞治7年、応安元年7月2日 253
550   能登守護吉見氏頼、得江季員の当知行に軍勢衆庶の乱入を禁ず。(得江文書) 正平23年、貞治7年、応安元年7月2日 254
551   左衛門尉宗成、珠洲郡本光寺に馬繋村吉弘名の地を寄進す。(本光寺文書) 正平23年、貞治7年、応安元年8月7日 254
正平24年、応安2年(1369) 552   吉見右馬頭、鹿島郡永光寺に禁制を掲ぐ。(永光寺文書) 正平24年、応安2年5月1日 254
553   沙弥宗悟、鳳至郡総持寺に櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) 正平24年、応安2年10月3日 254
554   沙弥宗悟、鳳至郡総持寺に法堂造営料として櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) 正平24年、応安2年11月20日 254
555   能登の士得江季員、能登・加賀・越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得江文書) 正平24年、応安2年12月 255
556   能登の士得田章房、能登・加賀・越中に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) 正平24年、応安2年12月 256
正平25年、建徳元年、応安3年(1370) 557   能登守吉見氏頼、鹿島郡永光寺領羽咋郡湊保北方の寄進地に軍勢衆庶の乱入狼藉を停む。(永光寺文書) 正平25年、建徳元年、応安3年2月18日 257
558   能登の士得田章親、加賀・越中・能登に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得田文書) 正平25年、建徳元年、応安3年3月 257
559   後光厳院、山城北野社の社家に、同社領羽咋郡菅原荘を旧の如く交付せしめ給ふ。(北野神社古文書) 正平25年、建徳元年、応安3年9月18日 257
建徳2年、応安4年(1371) 560   後円融院、範恵に、山城新熊野社領鳳至郡櫛比御厨三分一下地を安堵せしめ給ふ。(新熊野神社文書) 建徳2年、応安4年3月25日 258
561   幕府、吉見右馬頭入道の注進に依り、能登の士得江季員の去々年北国に於ける軍忠を賞す。(得江文書) 建徳2年、応安4年4月25日 258
562   能登守護吉見氏頼、得江季員の軍忠に対して幕府に恩賞を請ふ。(得江文書) 建徳2年、応安4年8月28日 258
563   大源宗真、鹿島郡永光寺の置銭注文を作る。(永光寺文書) 建徳2年、応安4年9月 258
564   尼祖一、鳳至郡総持寺塔頭大雄庵に、羽咋郡湊保北方の田地を寄進す。(総持寺文書) 建徳2年、応安4年10月26日 259
565   能登の士得田章房、伊勢に於ける軍忠を具申して吉見兵部大輔の証判を求む。(得田文書) 建徳2年、応安4年10月 259
566   能登の士得田章親、伊勢に於ける軍忠を具申して吉見兵部大輔の証判を求む。(得田文書) 建徳2年、応安4年10月 260
建徳3年、文中元年、応安5年(1372) 567   幕府、吉見右馬頭入道をして、山城南禅寺領鳳至郡櫛比保地頭職を同寺雑掌に交付せしむ。(南禅寺文書) 建徳3年、文中元年、応安5年3月12日 260
568   珠洲郡春日野白山社の獅子頭成る。(春日野白山社獅子頭銘) 建徳3年、文中元年、応安5年5月 261
569   幕府、加賀守護富樫昌家をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘湊着岸の商舟に公事課役を停めしむ。(臨川寺重書案文) 建徳3年、文中元年、応安5年6月2日 261
570   幕府、五井頼持に、珠洲郡正院郷伏見等の地を知行せしむ。(吉見文書) 建徳3年、文中元年、応安5年6月23日 261
571   幕府、五井頼持に、珠洲郡正院郷伏見等の地を知行せしむ。(吉見文書) 建徳3年、文中元年、応安5年7月18日 261
572   幕府、五井頼持に、珠洲郡正院郷伏見等の地を知行せしむ。(吉見文書) 建徳3年、文中元年、応安5年7月23日 262
文中2年、応安6年(1373) 573   尼妙貞、鹿島郡永光寺に、羽咋郡湊保北方の内の田地を寄進す。(永光寺文書) 文中2年、応安6年3月15日 262
574   後円融院、若狭東口御服所関をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘等の年貢を勘過せしめ給ふ。(天龍寺文書) 文中2年、応安6年閏10月10日 263
575   後円融院、若狭東口御服所関をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘等の年貢を勘過せしめ給ふ。(臨川寺文書) 文中2年、応安6年閏10月11日 263
576   上道氏平、石川郡白山宮に、久武保の内の田地を売渡す。(白山比咩神社文書) 文中2年、応安6年11月28日 263
文中3年、応安7年(1374) 577   加賀守護富樫昌家、英田次郎四郎をして、能美郡長野・一針を山城石清水八幡宮の雑掌に交付せしむ。(石清水文書) 文中3年、応安7年5月18日 264
578   僧長秀、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、春秋時正勤行の料足を施入す。(須須神社文書) 文中3年、応安7年12月 264
文中4年、天授元年、応安8年、永和元年(1375) 579   左衛門尉氏信、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年2月9日 264
580   仮掲(伝灯余光) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年2月24日 265
581   長谷部正連、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を沽却す。(総持寺文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年7月25日 266
582   長谷部正連、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年7月25日 266
583   長谷部正連、鳳至郡総持寺に田地を寄進す。(総持寺文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年8月22日 266
584   足利義満、加賀の士狩野義茂に、江沼郡福田本郷の一分地頭職を安堵せしむ。(狩野文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年8月27日 267
585   長谷部正連、沙弥宗悟が鳳至郡総持寺に田地を寄進せるに承認の添状を与ふ。(総持寺文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年8月28日 267
586   預所越前守光盛、領家日野資数の命により、珠洲郡満福寺に木郎郷松波の地を安堵せしむ。(満福寺文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年12月2日 267
587   預所越前守光盛、領家日野資数の命により、珠洲郡法住寺に祈祷の精誠を致さしむ。(法住寺文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年12月5日 268
588   預所越前守光盛、領家日野資数の命により、珠洲郡満福寺に木郎郷の内を寄進す。(満福寺文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年12月7日 268
589   武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷、その年貢済物を注進す。(称名寺文書) 文中4年、天授元年、応安8年、永和元年是歳 268
天授2年、永和2年(1376) 590   沙弥某、僧賢海に、鳳至郡宝泉寺護摩堂田を管領せしむ。(宝泉寺文書) 天授2年、永和2年4月19日 269
591   長谷部玄幸、鳳至郡総持寺に、定賢の寄進せる田畠敷地を安堵せしむ。(総持寺文書) 天授2年、永和2年9月4日 269
592   鹿島郡永光寺布薩廻向人数の注文を伝写す。(永光寺文書) 天授2年、永和2年9月29日 270
593   左衛門尉宗成、珠洲郡本光寺に、馬繋村恒利名の田地を寄進す。(本光寺文書) 天授2年、永和2年11月9日 270
天授3年、永和3年(1377) 594   武蔵金沢称名寺領能美郡軽海郷代官僧霊康、政所屋放火・郷内検注のこと等を同寺に注進す。(称名寺文書) 天授3年、永和3年2月 271
595   僧仏心、日課六万遍念仏の碑を羽咋郡町居に建設す。(町居名号碑) 天授3年、永和3年5月15日 271
596   荘主彦寿、鳳至郡宝泉寺に、櫛比荘内の田畠を寄進す。(宝泉寺文書) 天授3年、永和3年8月25日 271
597   沙弥立阿、得江季員に、羽咋郡志雄保の地を交付す。(天野文書) 天授3年、永和3年11月19日 272
天授4年、永和4年(1378) 598   長谷部芝叟、鳳至郡総持寺に、櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) 天授4年、永和4年4月27日 272
599   珠洲郡若山荘領家日野資数、二郎兵衛某を同郡馬繋村恒俊名の名主職に補す。(本光寺文書) 天授4年、永和4年6月26日 272
600   長谷部正連、鳳至郡総持寺に、その寺領おのや谷を寄進す。(総持寺文書) 天授4年、永和4年9月24日 273
601   長谷部正連、鳳至郡総持寺に、その寺領おのや谷を寄進す。(総持寺文書) 天授4年、永和4年9月24日 273
602   鳳至郡総持寺五院の住持等、互に本寺の維持を喜ぶ。(総持寺文書) 天授4年、永和4年10月23日 273
603   通幻寂霊等、鹿島郡永光寺の住持は鳳至郡総持寺の東堂位にありたる者より選ぶべきことを定む。(総持寺文書) 天授4年、永和4年10月23日 274
604   善法寺了清、山城石清水八幡宮領能美郡能美本荘・長野・一針三ヶ村三分一の下地を同荘保善院に管領せしむ。(両足院文書) 天授4年、永和4年11月20日 274
天授5年、永和5年、康暦元年(1379) 605   弥郡時具、養子若正丸に、鳳至郡大澤村の地頭職を譲る。(筒井文書) 天授5年、永和5年、康暦元年1月11日 275
606   仮掲(総持寺文書) 天授5年、永和5年、康暦元年2月3日 275
607   仮掲(総持寺文書) 天授5年、永和5年、康暦元年2月3日 276
608   沙弥宗悟、鳳至郡総持塔頭法光院に田地を寄進す。(総持寺文書) 天授5年、永和5年、康暦元年2月8日 276
609   鳳至郡総持寺侍者、寺領小野谷田畠の目録を注す。(総持寺文書) 天授5年、永和5年、康暦元年2月28日 277
610   吉見氏頼、弥郡若正丸に、その所領鳳至郡大澤村五分二を安堵せしむ。(筒井文書) 天授5年、永和5年、康暦元年4月13日 277
611   幕府、加賀守護富樫昌家をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の米運上舟を抑留するを停めしむ。(臨川寺重書案文) 天授5年、永和5年、康暦元年閏4月8日 278
612   足利義満、摂津能直の領加賀郡倉月荘を守護不入の地と為す。(美吉文書) 天授5年、永和5年、康暦元年6月19日 278
613   幕府、加賀守護富樫昌家をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘に臨時役を課するを停めしむ。(臨川寺重書案文) 天授5年、永和5年、康暦元年7月28日 278
614   幕府、加賀守護富樫昌家をして、山城臨川寺領加賀郡大野庄より掠奪せる米銭を寺家に返付せしむ。(臨川寺重書案文) 天授5年、永和5年、康暦元年9月21日 278
天授6年、康暦2年(1380) 615   僧宗義、鳳至郡総持寺塔頭法光院に諸岡村の田地を寄進す。(総持寺文書) 天授6年、康暦2年3月2日 279
616   幕府、足利義満が山城宝幢寺に寄進したる加賀郡倉月荘松寺村・赤浜村等を同寺雑掌に交付せしむ。(鹿王院文書) 天授6年、康暦2年6月2日 279
617   幕府、武蔵金沢称名寺が刑部少輔長康の所領と交換したる同寺領能美郡軽海郷を安堵せしむ。(称名寺文書) 天授6年、康暦2年8月3日 280
618   鳳至郡総持寺門下の僧衆、その開山忌並びに二代忌出仕に就きて連署状を作る。(総持寺文書) 天授6年、康暦2年10月20日 280
619   光景、鳳至郡総持寺に、その寺領聖天供田を交付す。(総持寺文書) 天授6年、康暦2年11月11日 280
天授7年、弘和元年、康暦3年、永徳元年(1381) 620   弥郡時具、その女房に、鳳至郡大澤村の内の田地を譲る。(筒井文書) 天授7年、弘和元年、康暦3年、永徳元年7月12日 281
621   足利義満、武蔵金沢称名寺が刑部少輔長康の所領と交換したる同寺領能美郡軽海郷を安堵せしむ。(称名寺文書) 天授7年、弘和元年、康暦3年、永徳元年8月3日 281
622   某、鳳至郡総持寺延寿堂に、櫛比荘浦上村の田地を寄進す。(総持寺文書) 天授7年、弘和元年、康暦3年、永徳元年11月13日 282
弘和2年、永徳2年(1382) 623   志津浦時長等、鳳至郡大澤村黒杉分の文書紛失に就いて置文を作る。(筒井文書) 弘和2年、永徳2年2月18日 282
624   幕府、近江守護六角満高をして、同国船木関所に山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしむ。(臨川寺重書案文) 弘和2年、永徳2年2月21日 282
625   幕府、近江守護六角満高をして、同国船木関所に山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢抑留を停めしむ。(臨川寺重書案文) 弘和2年、永徳2年4月27日 283
626   左衛門大尉藤原某、鳳至郡総持寺に、櫛比庄内保村の田地を安堵せしむ。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年2月22日 283
627   長谷部正連、鳳至郡林丘庵に田地を寄進す。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年3月2日 283
628   長谷部正連、鳳至郡総持寺に田地を寄進す。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年3月6日 284
629   長谷部正連、鳳至郡総持寺に仏餉田を寄進す。(臨川寺重書案文) 弘和2年、永徳2年3月晦日 284
630   幕府、近江延暦寺に命じ、同国船木関所をして山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を勘過せしむ。(臨川寺重書案文) 弘和2年、永徳2年6月21日 285
631   通幻寂霊、鳳至郡総持寺塔頭大雄庵領の田地目録を注す。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年6月 285
632   通幻寂霊、鳳至郡総持寺塔頭大雄庵領の田地目録を注す。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年6月 285
633   足利義満、狩野忠家に、江沼郡菅浪郷地頭公文両職及び菅生社神主職を安堵せしむ。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年8月10日 286
634   通幻寂霊、鳳至郡総持寺仏殿の造立目録を注す。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年8月 287
635   了宗、鳳至郡総持寺塔頭法光院に田地を交付す。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年10月13日 287
636   通幻寂霊、鳳至郡総持寺の住持職は集会評定によるべき置文を定む。() 弘和2年、永徳2年10月20日 288
637   通幻寂霊、鳳至郡総持寺常住文書の目録を注す。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年10月 288
638   鳳至郡総持寺侍者、新寄進田地目録を注す。(総持寺文書) 弘和2年、永徳2年10月 289
639   足利義満、山城宝幢寺に、同寺領加賀郡倉月荘松寺村・赤浜村を安堵せしむ。(鹿王院文書) 弘和2年、永徳2年12月17日 290
弘和3年、永徳3年(1383) 640   高間義勝、鳳至郡総持寺に田地を交付す。(総持寺文書) 弘和3年、永徳3年3月26日 291
641   高間義勝、鳳至郡総持寺に田地を交付す。(菊大路文書) 弘和3年、永徳3年4月27日 291
642   吉見氏頼、同伊予入道をして、治田筑後入道の羽咋郡得田荘内を違乱するを停めて、得田章房に交付せしむ。(得田文書) 弘和3年、永徳3年7月10日 291
643   吉見氏頼、同伊予入道をして、治田筑後入道の羽咋郡得田荘内を違乱するを停めて、得田章房に交付せしむ。(得田文書) 弘和3年、永徳3年11月15日 291
644   宗頼、鳳至郡総持寺に、櫛比荘内保村の田地を寄進す。(総持寺文書) 弘和3年、永徳3年10月20日 292
弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年(1384) 645   長谷部正連、僧宗義の鳳至郡諸岡村の内を総持寺に寄進したることを承認す。(総持寺文書) 弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年7月16日 293
646   幕府、近江延暦寺諸関所をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を勘過せしむ。(臨川寺重書案文) 弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年9月20日 293
647   後小松院、山城宝幢寺領加賀郡倉月荘内松寺村・赤浜村の諸役を免除し給ふ。(鹿王院文書) 弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年11月3日 293
648   石川郡白山宮正殿及び大拝殿の上棟式を行ふ。(白山比咩神社文書) 弘和4年、元中元年、永徳4年、至徳元年11月19日 294
元中2年、至徳2年(1385) 649   幕府、近江延暦寺の七ヶ所関務衆徒をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を勘過せしむ。(臨川寺重書案文) 元中2年、至徳2年3月2日 294
650   加賀守護富樫昌家、山城東寺をして、江沼郡金屋鋳物師の請により同郡菅生社造営棟別役の催促を停めしむ。(東寺文書) 元中2年、至徳2年4月3日 295
元中2年、至徳2年(1385) 651   幕府、山城東寺鎮守八幡宮をして、同宮料所石川郡相河村西方及び長屋村を安堵せしむ。(東寺文書) 元中2年、至徳2年4月27日 295
652   幕府、加賀守護富樫昌家をして、その被官人の山城祗園社領加賀郡萱野保を押領するを停めしむ。(祗園社記) 元中2年、至徳2年7月24日 295
653   足利義満、山城南禅寺領石川郡笠間東保内黒瀬猿平五郎名の地頭笠間用盛を罷め、之を寺家に知行せしむ。(南禅寺文書) 元中2年、至徳2年10月7日 296
654   左衛門尉宗成、鳳至郡総持寺に同寺領を安堵せしむ。(総持寺文書) 元中2年、至徳2年11月 296
元中3年、至徳3年(1386) 655   足利義満、石見法眼禅厳に、山城北野社領羽咋郡菅原荘半分を知行せしむ。(北野神社古文書) 元中3年、至徳3年1月28日 296
656   造営所、加賀造営大使をして、江沼郡熊坂荘領家方役夫工米のことにつき就き地下の譴責を停めしむ。(東福寺文書) 元中3年、至徳3年9月25日 296
657   大徹宗令、鳳至郡総持寺常住文書の新目録を注す。(総持寺文書) 元中3年、至徳3年9月29日 297
658   大徹宗令、鳳至郡総持寺法堂造立目録を注す。(総持寺文書) 元中3年、至徳3年9月29日 297
659   沙弥智円、山城祗園社領加賀郡萱野村の代官請文を出す。(祗園社記) 元中3年、至徳3年11月10日 299
元中4年、至徳4年、嘉慶元年(1387) 660   山城天龍寺、石川郡横江荘等の寺領を注し、足利義満の証判を求む。(天龍寺文書) 元中4年、至徳4年、嘉慶元年閏5月1日 300
661   幕府、加賀守護斯波義種をして、加賀郡倉月荘を摂津能秀代に交付せしむ。(美吉文書) 元中4年、至徳4年、嘉慶元年6月15日 301
元中3年、至徳3年(1386) 662   幕府、加賀守護斯波義種をして、加賀郡倉月荘を摂津能秀代に交付せしむ。(美吉文書) 元中3年、至徳3年12月8日 301
元中5年、嘉慶2年(1388) 663   上使某、鳳至郡総持寺に同寺田地を安堵せしむ。(総持寺文書) 元中5年、嘉慶2年4月20日 301
664   後小松院、山城東福寺領江沼郡熊坂荘の諸役を免除せしめ給ふ。(東福寺文書) 元中5年、嘉慶2年5月25日 301
665   幕府、加賀守護斯波義種をして、山城祇園社領加賀郡萱野保を濫妨するを停めしむ。(祗園社記) 元中5年、嘉慶2年12月14日 302
元中6年、嘉慶3年、康応元年(1389) 666   仮掲(来迎寺文書) 元中6年、嘉慶3年、康応元年2月15日 303
667   三阿等、鳳至郡総持寺に用途請取状を出す。(総持寺文書) 元中6年、嘉慶3年、康応元年3月12日 303
668   貞慶、珠洲郡高座宮高勝寺に懇志を有する輩の高座宮に寄進する神馬は、同寺をして受理せしむ。(須須神社文書) 元中6年、嘉慶3年、康応元年10月 303
元中7年、康応2年、明徳元年(1390) 669   仮掲(須須神社文書) 元中7年、康応2年、明徳元年1月25日 304
670   足利義満、山城北野社領石川郡笠間の地頭職を同社家に付せしむ。(北野神社目安以下色々事) 元中7年、康応2年、明徳元年閏3月18日 304
671   足利義満、山城北野社領石川郡笠間の地頭職を同社家に付せしむ。(北野神社目安以下色々事) 元中7年、康応2年、明徳元年閏3月25日 304
672   幕府、加賀守護斯波義種をして、山城北野社領石川郡笠間の下地をその雑掌に沙汰付せしむ。(北野神社目安以下色々事) 元中7年、康応2年、明徳元年4月19日 305
673   足利義満、石川郡笠間保の下地に対する山城石清水八幡宮雑掌と北野雑掌との争論を裁決す。(北野神社目安以下色々事) 元中7年、康応2年、明徳元年6月21日 305
674   政所某、鳳至郡総持寺に、山城賀茂社の造営用途を納む。(総持寺文書) 元中7年、康応2年、明徳元年10月8日 306
675   通幻寂霊等、鳳至郡総持寺住持職以下のことに関する置文を注す。(総持寺文書) 元中7年、康応2年、明徳元年10月20日 306
676   足利義満、小早川実忠に、石川郡有松村の地頭職を知行せしむ。(室町家御内書案) 元中7年、康応2年、明徳元年12月24日 306
元中8年、明徳2年(1391) 677   幕府、斯波義重をして、石川郡有松村地頭職を小早川実忠に交付せしむ。(室町家御内書案) 元中8年、明徳2年5月9日 307
678   幕府、斯波義重をして、石川郡有松村地頭職を小早川実忠に交付せしむ。(室町家御内書案) 元中8年、明徳2年6月19日 307
679   幕府、斯波義重をして、石川郡有松村地頭職を小早川実忠に交付せしむ。(室町家御内書案) 元中8年、明徳2年6月23日 307
680   政所某、鳳至郡総持寺に、山城賀茂社の段銭増分用途を納む。(総持寺文書) 元中8年、明徳2年6月7日 308
681   得田章長、甥小法師丸に、羽咋郡得田保代田村の名田を譲る。(得田文書) 元中8年、明徳2年8月11日 308
682   鹿島郡永光寺住持祖空等、寺内円通院の行事に就いて置文を注す。(永光寺文書) 元中8年、明徳2年8月13日 308
683   僧禅署、鹿島郡永光寺に、羽咋郡荻嶋の田地を寄進す。(永光寺文書) 元中8年、明徳2年11月10日 308
元中9年、明徳3年、明徳3年(1392) 684   能登の士得田章長、京内野合戦に於ける軍忠を具申して畠山基国の証判を求む。(得田文書) 元中9年、明徳3年、明徳3年1月 309
明徳4年(1393) 685   江安、鳳至郡総持寺の仏事銭の内を借用す。(総持寺文書) 明徳4年3月29日 309
686   足利義満、石川郡大乗寺をして、押野荘内の寺領を安堵せしむ。(大乗寺文書) 明徳4年7月10日 310
明徳5年、応永元年(1394) 687   足利義満、山城臨川寺領加賀郡大野荘に、守護使の入部及び白山宮・金剣宮神人の乱入するを停む。(天龍寺文書) 明徳5年、応永元年3月22日 310
688   政所某、鳳至郡総持寺に十分一用途を納入す。(総持寺文書) 明徳5年、応永元年12月3日 310
応永2年(1395) 689   加賀守護斯波義種、石川郡祇陀寺に、久武保内の地頭職を安堵せしむ。(祇陀寺文書) 応永2年3月21日 310
690   長谷部玄幸、鳳至郡総持寺々領五段五の国役を停む。(総持寺文書) 応永2年5月15日 311
691   権少僧都明王坊祐賢、羽咋郡矢駄貴布禰社に御正体を懸く。(矢駄加茂社懸仏裏書) 応永2年8月12日 311
応永3年(1396) 692   能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) 応永3年3月22日 311
693   能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) 応永3年3月29日 312
694   能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) 応永3年3月29日 312
695   能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) 応永3年3月29日 312
696   能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) 応永3年4月4日 312
697   能登守護畠山基国、神保肥前入道をして、得田章光にその本知行分を還付せしむ。(得田文書) 応永3年11月10日 312
698   足利義満、鹿島郡永光寺に、同寺領羽咋郡若部保等を安堵せしむ。(永光寺文書) 応永3年7月6日 313
699   造営所、加賀造宮大使をして、造外宮料所加賀郡萱野保に役夫工米の催促を停めしむ。(八坂神社文書) 応永3年11月5日 313
応永4年(1397) 700   僧快尊、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、五部大乗経等を施入す。(須須神社文書) 応永4年2月 313
701   清原光吉、領家の命により、珠洲郡高座別当高勝寺に大般若田を寄進す。(須須神社文書) 応永4年4月 314
702   沙弥成覚、養子某首座に、その所領能美郡多田八幡別宮領一分庶子分の田地を譲渡す。(両足院文書) 応永4年11月18日 314
703   僧栄俊、鳳至郡大川の浜田薬師像を新造す。(浜田薬師像背銘) 応永4年12月13日 314
応永5年(1398) 704   能登守護畠山基国、幕府の命に依り、鹿島郡永光寺に羽咋郡若部保等を交付せしむ。(永光寺文書) 応永5年3月23日 315
705   足利義満、加賀守護斯波義種をして、同国の士狩野茂重に加賀郡若松荘地頭職を交付せしむ。(狩野文書) 応永5年6月8日 315
706   鹿島郡永光寺の十二門派現住等、同寺領の内に塔婆並びに諸堂修理田を定む。(永光寺文書) 応永5年8月15日 315
707   鹿島郡永光寺の十二門派現住等、同寺領の内に塔婆並びに諸堂修理田を定む。(永光寺中興雑記) 応永5年8月15日 316
応永6年(1399) 708   足利義満、鳳至郡総持寺を祈願寺とし、その敷地山林田畠等を安堵せしむ。(総持寺文書) 応永6年6月17日 317
709   足利義満、鳳至郡総持寺を祈願寺とし、その敷地山林田畠等を安堵せしむ。(総持寺文書) 応永6年6月 317
710   足利義満、鳳至郡総持寺を祈願寺とし、その敷地山林田畠等を安堵せしむ。(総持寺文書) 応永6年7月23日 318
711   足利義満、鳳至郡総持寺を祈願寺とし、その敷地山林田畠等を安堵せしむ。(総持寺文書) 応永6年7月23日 318
712   山城相国寺、鳳至郡総持寺に、相国寺領櫛比荘内総持寺免田畠を安堵せしむ。(総持寺文書) 応永6年6月27日 318
713   足利義満、石川郡笠間保の領家年貢に関する山城石清水八幡宮雑掌と北野社雑掌との争論を裁決す。(北野神社目安以下色々事) 応永6年7月25日 319
714   能登の士得田章光、和泉に於ける軍忠を具申して畠山基国の証判を求む。(得田文書) 応永6年12月 319
応永7年(1400) 715   足利義満、加賀の士狩野茂重に、江沼郡福田荘内狩野彦四郎の旧領を知行せしむ。(狩野文書) 応永7年7月11日 320
716   幕府、加賀守護斯波義種をして、摂津幸夜叉丸代に加賀郡倉月荘等を交付せしむ。(美吉文書) 応永7年11月13日 320
応永9年(1402) 717   足利義満、山城臨川寺領加賀郡大野荘の諸公事・臨時課役等を免除し、守護使不入の地と為す。(天龍寺文書) 応永9年2月23日 320
718   足利義満、山城臨川寺領加賀郡大野荘の諸公事・臨時課役等を免除し、守護使不入の地と為す。(天龍寺文書) 応永10年5月2日 321
719   能登守護畠山基国、鹿島郡永光寺領に、諸公事及び守護役等の催促を停止せしむ。(永光寺文書) 応永9年6月23日 321
720   天庵禅曙等、鳳至郡総持寺塔頭法光院の入牌その他の寺規を定む。(総持寺文書) 応永9年8月15日 321
応永10年(1403) 721   沙弥惣阿等、珠洲郡正院郷内の下地を往古の例に任せて同郡高座宮の神田となす。(須須神社文書) 応永10年2月9日 322
722   足利義満、山城南禅寺領能美郡得橋郷等の諸公事以下を免除し、守護使の入部を停む。(南禅寺文書) 応永10年閏10月28日 322
723   足利義満、山城南禅寺領能美郡得橋郷等の諸公事以下を免除し、守護使の入部を停む。(南禅寺文書) 応永10年閏10月 323
724   幕府、加賀守護斯波義種をして、山城南禅寺領能美郡得橋郷等に諸公事以下を停止せしむ。(南禅寺文書) 応永10年11月12日 323
応永11年(1404) 725   幕府、近江延暦寺七ヶ所関務衆徒をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の年貢を勘過せしむ。(天龍寺文書) 応永11年9月26日 324
726   鳳至郡重蔵宮の大般若経を書写す。(重蔵神社大般若経奥書) 応永11年2月22日 324
727   鳳至郡重蔵宮の大般若経を書写す。(重蔵神社大般若経奥書) 応永11年7月20日 324
応永12年(1405) 728   山城相国寺、同寺領鳳至郡櫛比御厨内総持寺領に段銭を免除す。(総持寺文書) 応永12年5月22日 324
729   山城醍醐寺理性院宗助、宗観僧都に、その管領する院領加賀郡得蔵等を譲与す。(三宝院文書) 応永12年9月24日 324
応永13年(1406) 730   幕府、山城祇園社宝寿院玉寿丸代に、同社領加賀郡萱野保の所領を全うせしむ。(祗園社記) 応永13年閏6月17日 325
731   幕府、山城祇園社宝寿院玉寿丸代に、同社領加賀郡萱野保の所領を全うせしむ。(祗園社記) 応永13年閏6月25日 325
応永14年(1407) 732   高田中務入道道教、鹿島郡永光寺に、酒井保の山を寄進す。(永光寺文書) 応永14年11月15日 325
733   高田中務入道道教、鹿島郡永光寺に、酒井保の山を寄進す。(永光寺文書) 応永14年11月15日 326
応永15年(1408) 734   幕府、加賀守護斯波満種をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の諸公事以下を免除し、守護不入の地と為さしむ。(臨川寺重書案文) 応永15年10月10日 326
735   幕府、加賀守護斯波満種をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘の諸公事以下を免除し、守護不入の地と為さしむ。(天龍寺文書) 応永15年11月20日 326
736   足利義持、狩野茂重に、加賀郡若松荘の地頭職を還付す。(狩野文書) 応永15年10月19日 327
737   鳳至郡総持寺五院の住持等、同寺内延寿堂領櫛比荘浦上の年貢の使途を定む。(総持寺文書) 応永15年10月25日 327
応永16年(1409) 738   青蓮院門跡義円、若寿丸に、同門跡領能登国衙職を知行せしむ。(明王院文書) 応永16年3月11日 328
739   足利義持、山城等持院に、同義満の仏事料所として能美郡粟津上下保半分を寄進す。(等持院文書) 応永16年9月4日 328
740   足利義持、山城等持院に、同義満の仏事料所として能美郡粟津上下保半分を寄進す。(等持院文書) 応永16年9月10日 328
741   足利義持、山城等持院に、同義満の仏事料所として能美郡粟津上下保半分を寄進す。(等持院文書) 応永16年9月12日 328
応永17年(1410) 742   青蓮院門跡義円、安賀丸に、同門跡領能登国衙を知行せしむ。(明王院文書) 応永17年5月7日 328
743   加賀守護斯波満種、二宮信濃入道をして、山城勧修寺領江沼郡郡家荘内沽却の地に干渉すること勿らしむ。(尾張文書通覧) 応永17年7月20日 329
744   沙弥祐信、鹿島郡永光寺に制札を与ふ。(永光寺文書) 応永17年8月30日 329
745   足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘に役夫工米を免除す。(天龍寺文書) 応永17年9月10日 329
746   足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘に白山社の段米を免除す。(天龍寺文書) 応永17年12月26日 329
747   足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘に白山社の段米を免除す。(天龍寺文書) 応永17年12月26日 330
応永18年(1411) 748   足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘に白山社の段米を免除す。(天龍寺文書) 応永18年2月17日 330
749   足利義持、山城宝幢寺に、同寺領加賀郡倉月荘松寺村・赤浜村等を安堵せしむ。(鹿王院文書) 応永18年3月17日 330
応永18年(1411) 750   能登守護畠山満慶、鳳至郡鵜河保のことに就いて幕府に答申す。(吉見文書) 応永18年4月3日 331
751   石川郡金剣宮住侶超衡、同宮に、大般若経を寄進す。(金剣宮旧蔵大般若経奥書) 応永18年6月1日 331
752   足利義持、山城伏見稲荷社に、社領石川郡針道荘を直務せしむ。(伏見稲荷神社文書) 応永18年8月28日 331
753   尼めうほん、天野慶景に、羽咋郡土田上村半分の地頭職を譲与す。(天野文書) 応永18年10月1日 331
754   幕府、山城勧修寺に、同寺領江沼郡郡家荘を安堵せしむ。(勧修寺文書) 応永18年10月27日 332
755   足利義持、山城石清水八幡宮別当宋清に命じて、その末社能美郡多太社知行乃美・長野・一針荘に別人を補任せしむ。(菊大路文書) 応永18年閏10月14日 332
応永19年(1412) 756   足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘を守護使不入の地を為し、庄内居住人の守護被官たるを禁ず。(天龍寺文書) 応永19年5月4日 333
757   足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘を守護使不入の地を為し、庄内居住人の守護被官たるを禁ず。(臨川寺文書) 応永19年5月12日 333
758   足利義持、山城臨川寺領加賀郡大野荘を守護使不入の地を為し、庄内居住人の守護被官たるを禁ず。(臨川寺文書) 応永19年5月3日 333
759   光林寺賢□、慈尊院に、山城勧修寺領江沼郡郡家荘上郷内増覚名年貢銭のことに就き請文を出す。(勧修寺文書) 応永19年6月15日 334
760   足利義持、吉見家貞に、珠洲郡正院郷伏見等の地を安堵せしむ。(吉見文書) 応永19年7月2日 334
761   能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡北浦一分地頭職を安堵せしむ。(天野文書) 応永19年8月11日 334
応永20年(1413) 762   能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡北浦一分地頭職を安堵せしむ。(天野文書) 応永20年3月23日 335
763   足利義持、石川郡大乗寺に、同寺領の田畠屋敷等を安堵せしむ。(大乗寺文書) 応永19年11月10日 335
764   足利義持、天野慶景に、羽咋郡北浦一分地頭職を安堵せしむ。(天野文書) 応永20年5月4日 335
765   預所筑前守知職、江沼郡菅生社に、片山津等の田畠を寄進す。(菅生石部神社文書) 応永20年11月2日 335
応永21年(1414) 766   足利義持、山城南禅寺領能美郡得橋郷等に諸公事以下を免除し、守護不入の地たらしむ。(南禅寺文書) 応永21年3月29日 336
767   足利義持、山城南禅寺領能美郡得橋郷等に諸公事以下を免除し、守護不入の地たらしむ。(南禅寺文書) 応永21年3月 336
768   足利義持、倉光藤増丸に、石川郡倉光開発及び玉鉾郷内の地等を安堵せしむ。(金沢市中文書) 応永21年4月19日 337
769   加賀守護富樫満成、富樫伯耆入道に、加賀千木保内の地頭職を知行せしむ。(南禅寺文書) 応永21年10月7日 337
770   仮掲(三井大幡社) 応永21年11月15日 337
応永22年(1415) 771   足利義持、石川郡白山宮惣長吏をして、加賀国中に同宮造営料の段銭を課せしむ。(室町家成敗寺社御教書) 応永22年8月16日 338
772   梅山聞本、加賀金剛院に大源宗真の法衣を納めてその置文を作る。(龍門寺文書) 応永22年11月1日 338
永禄9年(1566) 773   梅山聞本、加賀金剛院に大源宗真の法衣を納めてその置文を作る。(龍門寺文書) 永禄9年2月上旬 338
応永23年(1416) 774   能登守護畑山満慶、山城祗園社に、神馬を寄進す。(祗園社記) 応永23年1月29日 339
775   藤原有利、珠洲郡馬つなぎ大明神に、馬つなぎ村恒利名の内の下地を寄進す。(本光寺文書) 応永23年8月 339
応永24年(1417) 776   二階堂山城、羽咋郡直海保熊野方の下地を売渡す。(天野文書) 応永24年10月2日 340
777   羽咋郡気多社政所、同社領千路村の宣持職田を楊田宮司に安堵せしむ。(気多神社文書) 応永24年10月8日 340
応永25年(1418) 778   藤原満宗、石川郡祇陀寺に、能美郡河内荘椙森野を売渡す。(祇陀寺文書) 応永25年12月6日 341
779   加賀守護富樫満春、山城石清水八幡宮に、百貫の地を寄進す。(菊大路文書) 応永25年12月18日 341
応永26年(1419) 780   鳳至郡如意寺行心、祐心に、その住坊田畠を譲渡す。(宝泉寺文書) 応永26年3月6日 341
781   左近将監範親、領家の命により、珠洲郡本光寺に若山荘西海浦恒利名の内を寄進す。(本光寺文書) 応永26年4月8日 342
782   加賀守護富樫満春、二宮信濃入道をして、山城勧修寺領江沼郡郡家荘に同郡菅生社造営段米の催促を停めしむ(勧修寺文書) 応永26年7月4日 342
783   江沼郡願成寺仏乗、画工民部法眼隆光をして親鸞上人絵伝を作らしむ。(願成寺蔵親鸞聖人絵伝初幅裏書) 応永26年7月22日 342
784   妙徹、山城南禅寺雑掌に、能美郡府南社神主職を交付せしむ。(南禅寺文書) 応永26年9月16日 342
785   妙徹、山城南禅寺雑掌に、能美郡府南社神主職を交付せしむ。(南禅寺文書) 応永26年9月26日 343
応永27年(1420) 786   幕府、加賀守護富樫満春をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘に諸公事以下の催促を停めしむ。(臨川寺文書) 応永27年4月19日 343
応永28年(1421) 787   長谷部藤連、鳳至郡重蔵宮に香炉を寄進す。(北徴遺文) 応永28年2月 343
788   足利義持、山城南禅寺に、能美郡府南社御供田等を安堵せしむ。(南禅寺文書) 応永28年5月26日 344
789   加賀守護富樫満春、幕府祈願所石川郡祇陀寺の諸役を免除す。(祇陀寺文書) 応永28年6月11日 344
790   池田掃部入道善性、鳳至郡来迎寺の多門坊に、穴水郷宇留地の下地を交付す。(来迎寺文書) 応永28年9月3日 344
791   能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡邑智荘中山を知行せしむ。(天野文書) 応永28年12月29日 344
792   能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡邑智荘中山を知行せしむ。(天野文書) 応永28年12月29日 345
793   能登守護畠山満慶、天野慶景に、羽咋郡邑智荘中山を知行せしむ。(天野文書) 応永28年12月29日 345
応永29年(1422) 794   貞盛、石川郡白山宮に、上林郷内の田地を売渡す。(白山比咩神社文書) 応永29年3月16日 345
応永30年(1423) 795   某、珠洲郡馬つなぎ本光寺に、田地三段七を宛行ふ。(本光寺文書) 応永30年3月15日 345
796   松田基秀、鳳至郡総持寺に、同寺前住月泉和尚の粥料として町野荘和住村の田地を売渡す。(総持寺文書) 応永30年8月10日 346
797   松田基秀、鳳至郡総持寺に、同寺前住月泉和尚の粥料として町野荘和住村の田地を売渡す。(総持寺文書) 応永30年8月10日 346
798   足利義持、山城北野宮寺に、江沼郡富墓荘の地を寄進す。(集古文書) 応永30年8月12日 347
799   瑞巖韶麟、峨山紹碩の書せる鳳至郡総持寺開山瑩山紹瑾の野位牌を同寺の庫下に納む。(総持寺文書) 応永30年8月 347
応永31年(1424) 800   得田章全、羽咋郡得田保代田の内を譲渡す。(得田文書) 応永31年6月12日 347
801   鳳至郡総持寺五院の住持等、開山瑩山紹瑾の仏事中僧衆の接客を停止す。(総持寺文書) 応永31年8月 347
802   俊慶、山城臨川寺領加賀郡大野荘示野村一王丸名名主職を売渡す。(天龍寺文書) 応永31年12月23日 348
応永33年(1426) 803   有尊、その弟子鈴若丸に、鳳至郡来迎寺別当職を譲渡す。(来迎寺文書) 応永33年4月5日 348
804   有尊、その弟子鈴若丸に、鳳至郡穴水阿弥陀堂の田地を譲渡す。(来迎寺文書) 応永33年5月3日 349
805   山城臨川寺、先に十ヶ年を限り三会院円楽寺に沽却せる加賀郡大野荘示野村一王丸名を請返す。(天龍寺文書) 応永33年6月2日 349
806   山城臨川寺、先に十ヶ年を限り三会院円楽寺に沽却せる加賀郡大野荘示野村一王丸名を請返す。(天龍寺文書) 応永33年6月13日 350
807   山城臨川寺、先に十ヶ年を限り三会院円楽寺に沽却せる加賀郡大野荘示野村一王丸名を請返す。(天龍寺文書) 応永33年6月20日 350
808   仮掲(来迎寺文書) 応永33年7月3日 350
809   能登守護畠山満慶、鳳至郡総持寺に、松田基秀の寄進したる町野荘和住村の地を安堵せしむ。(総持寺文書) 応永33年11月14日 351
810   能登守護畠山満慶、鳳至郡総持寺に、松田基秀の寄進したる町野荘和住村の地を安堵せしむ。(総持寺文書) 応永33年11月14日 351
応永35年、正長元年(1428) 811   羽咋郡気多社の神官供僧、赤倉の山林伐採権に関して地頭飯尾重清代の幕府に訴へたるに応ず。(気多神社文書) 応永35年、正長元年6月 351
812   幕府、山城石清水八幡宮に、能美郡山上郷を寄進す。(菊大路文書) 応永35年、正長元年8月16日 353
正長2年、永享元年(1429) 813   真化玄淳、鳳至郡総持寺の寺領目録を注す。(総持寺文書) 正長2年、永享元年1月11日 354
814   八木盛実、治部卿某に、江沼郡額田荘内徳丸名を譲渡す。(中院文書) 正長2年、永享元年8月22日 357
永享2年(1430) 815   鳳至郡総持寺五院の住持等、本寺輪番のことに就いて契約す。(総持寺文書) 永享2年8月15日 357
816   足利義教、石川郡益富保に坊城益長の押妨を停め、鷹司房平に之を還付す。(御前落居記録) 永享2年11月12日 358
817   足利義教、加賀守護富樫持春等をして、山城南禅寺領石川郡宮保に乱入せる白山若衆徒を退治せしむ。(御前落居記録) 永享2年閏11月19日 358
818   足利義教、加賀守護富樫持春等をして、山城南禅寺領石川郡宮保に乱入せる白山若衆徒を退治せしむ。(御前落居記録) 永享2年閏11月19日 358
819   足利義教、加賀守護富樫持春等をして、山城南禅寺領石川郡宮保に乱入せる白山若衆徒を退治せしむ。(御前落居記録) 永享2年閏11月19日 359
820   足利義教、石川郡大乗寺に、同寺領を安堵せしむ。(大乗寺文書) 永享2年12月12日 359
821   能登守護畠山義忠、鹿島郡永光寺領若部保に国衙役以下の催促を停止せしむ。(永光寺文書) 永享2年12月27日 359
永享3年(1431) 822   足利義教、鷹司房平の雑掌と中嶋隆信との石川郡益富保領家職の相論を裁決し、その下地を房平の雑掌に交付す。(御前落居記録) 永享3年6月19日 359
823   足利義教、飯尾貞連に、加賀国若林村を知行せしむ。(飯尾文書) 永享3年6月27日 360
824   足利義教、飯尾貞連に、加賀国若林村を知行せしむ。(飯尾文書) 永享3年6月29日 361
825   足利義教、飯尾貞連に、加賀国若林村を知行せしむ。(飯尾文書) 永享3年7月4日 361
826   足利義教、飯尾貞連に、加賀国若林村を知行せしむ。(飯尾文書) 永享3年7月5日 361
827   足利義教、土倉方衆中をして、北野社松梅院禅能の質地江沼郡富墓・福田両荘の下地を光聚院雑掌に交付せしむ。(御前落居記録) 永享3年10月8日 361
永享4年(1432) 828   右衛門尉宗貫、領家の命により、珠洲郡本光寺に若山荘西海浦恒利名の下地を寄進す。(本光寺文書) 永享4年8月30日 362
829   幕府、加賀守護富樫持春をして、白山若衆徒の年貢を納めて注進せしむ。(御前落居記録) 永享4年10月11日 362
830   幕府、高辻長郷に、山城北野社領江沼郡富墓荘預所職を安堵せしむ。(御前落居記録) 永享4年12月2日 362
永享5年(1433) 831   右衛門少尉宗有、珠洲郡本光寺に、同寺領馬繋浦恒利名の山崩を認め免状を与ふ。(本光寺文書) 永享5年2月9日 363
永享6年(1434) 832   足利義教、山城臨川寺領加賀郡大野荘に諸公事以下を免除し、守護不入の地と為す。(天龍寺文書) 永享6年4月16日 363
833   足利義教、山城臨川寺領加賀郡大野荘に諸公事以下を免除し、守護不入の地と為す。(臨川寺文書) 永享6年5月12日 363
永享7年(1435) 834   足利義教、山城宝幢寺に、同寺領加賀郡倉月荘松寺村東西・赤浜村を安堵せしむ。(本光寺文書) 永享7年5月16日 364
835   右衛門少尉宗有、領家の命により、珠洲郡本光寺に同寺領若山荘西海浦恒利名の下地を安堵せしむ。(本光寺文書) 永享7年7月13日 364
836   恵源、常願に、山城臨川寺領加賀郡大野荘示野村一王丸名の名主職を売渡す。(天龍寺文書) 永享7年10月11日 364
837   恵源、常願に、山城臨川寺領加賀郡大野荘示野村一王名の名主職を売渡す。(天龍寺文書) 永享7年10月13日 365
838   足利義教、狩野家澄に、江沼郡福田荘菅浪郷地頭・公文両職及び菅生社神主職を安堵せしむ。(狩野文書) 永享7年12月26日 365
永享8年(1436) 839   右衛門少尉宗有、珠洲郡本光寺に、同寺領若山荘西海馬緤浦恒利名の山崩を認め免状を与ふ。(本光寺文書) 永享8年4月7日 366
永享9年(1437) 840   古室、鳳至郡総持寺に、宗祖道元の書せる仏遺教経を寄進す。(総持寺文書) 永享9年2月 366
841   茂重、山城臨川寺に、加賀郡大野荘示野村一王丸名及び石川郡赤土村中九郎名之散畠を寄進す。(天龍寺文書) 永享9年5月7日 366
842   茂重、山城臨川寺に、加賀郡大野荘示野村一王丸名及び石川郡赤土村中九郎名之散畠を寄進す。(天龍寺文書) 永享9年5月7日 367
843   源備前守、珠洲郡海会寺に、その寺領を安堵せしむ。(本光寺文書) 永享9年8月6日 367
844   源備前守、珠洲郡海会寺に、その寺領を安堵せしむ。(本光寺文書) 永享9年8月6日 367
845   本願寺存如、石川郡専光寺に、三帖和讃を書して与ふ。(専光寺蔵三帖和讃奥書) 永享9年9月25日 368
846   能登守護畠山義忠の奉行光貞、弥郡時春に、鳳至郡大澤村内黒杉分を給分として交付せしむ。(筒井文書) 永禄9年11月11日 368
永禄10年(1438) 847   藤原満宗、石川郡祇陀寺に、能美郡河内荘の畠地を寄進す。(祇陀寺文書) 永禄10年1月11日 368
848   能登守護畠山義忠、弥郡時春に、その給分鳳至郡大澤村内黒杉分を安堵せしむ。(筒井文書) 永禄10年2月9日 369
永禄11年(1439) 849   本願寺存如、石川郡専光寺に、持名鈔及び教化集を与ふ。(専光寺蔵持名鈔奥書) 永禄11年6月23日 369
850   本願寺存如、石川郡専光寺に、持名鈔及び教化集を与ふ。(専光寺蔵教化集奥書) 永禄11年6月23日 369
851   有坂清村、鳳至郡総持寺に、月泉和尚粥料所の下地預状を差出す。(総持寺文書) 永禄11年6月25日 370
永禄13年、嘉吉元年(1441) 852   和田信章、鹿島郡永光寺に、同寺仏殿の修理田を寄進す。(永光寺文書) 永禄13年、嘉吉元年2月27日 370
853   沙弥某、珠洲郡高座宮別当高勝寺に方上保の下地を寄進す。(須須神社文書) 永禄13年、嘉吉元年6月1日 370
854   幕府、摂津満親の所領加賀郡倉月荘に制札を与ふ。(美吉文書) 永禄13年、嘉吉元年9月29日 371
855   幕府、摂津満親をして、富樫泰高の被官山川家之に合力せしむ。(美吉文書) 永禄13年、嘉吉元年12月24日 371
嘉吉2年(1442) 856   家好、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、下地を寄進す。(須須神社文書) 嘉吉2年8月13日 371
嘉吉3年(1443) 857   幕府、中院通淳に、江沼郡額田荘を還付す。(建内記) 嘉吉3年6月9日 372
858   幕府、山城宝鏡寺妙喜庵に、羽咋郡気多社社務職を安堵せしむ。(宝鏡寺文書) 嘉吉3年6月9日 372
859   幕府、狩野家澄に、江沼郡福田荘内菅浪郷地頭・公文両職及び菅生神主職を還付す。(狩野文書) 嘉吉3年12月27日 372
嘉吉4年、文安元年(1444) 860   二松備前入道永薫、山城勧修寺領江沼郡郡家荘預所職を返付せられんことを幕府に請ふ。(勧修寺文書) 嘉吉4年、文安元年6月 372
文安2年(1445) 861   能登守護畠山義忠、鹿島郡永光寺に、同寺領の諸公事を免除す。(永光寺文書) 文安2年7月19日 373
862   能登守護畠山義忠の奉行人忠光、泊弥次郎が出仕せざるを以てその知行分を収めて料所となさしむ。(筒井文書) 文安2年7月19日 373
863   能登守護畠山義忠の奉行人忠光、鹿島郡永光寺に制札を与ふ。(永光寺文書) 文安2年8月4日 373
864   幕府、摂津満親をして、富樫泰高代山川近江守の加賀入国を援けしむ。(臨川寺文書) 文安2年8月28日 374
865   幕府、加賀守護富樫泰高をして、山城臨川寺領加賀郡大野荘に白山宮段米の催促を停めしむ。(臨川寺文書) 文安2年9月22日 374
866   幕府、狩野家澄をして、富樫泰高代に合力せしむ。(慶元諸大名直判集) 文安2年12月27日 374
文安3年(1446) 867   幕府、佐々木弥五郎をして富樫泰高代の加賀入国を援けしむ。(朽木文書) 文安3年3月27日 374
868   幕府、狩野家澄をして、富樫泰高に合力せしむ。(秘府所蔵文書) 文安3年7月10日 375
869   幕府、摂津満親をして、富樫泰高に合力せしむ。(美吉文書) 文安3年7月10日 375
870   能登守護畠山義忠、弥郡時賀に鳳至郡大澤村黒杉分を安堵せしむ。(筒井文書) 文安3年10月2日 375
871   能登守護畠山義忠の奉行人忠光、永室兵庫入道をして、筒井佐渡入道に料所鳳至郡山田村内上村分下地を交付せしむ。(筒井文書) 文安3年10月2日 375
文安4年(1447) 872   深井弾正忠、珠洲郡高座宮別当高勝寺の薬師堂に、方上保の下地を寄進す。(須須神社文書) 文安4年12月27日 375
文安5年(1448) 873   幕府、加賀守護富樫成春をして、山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、守護使の入部を停めしむ。(臨川寺文書) 文安5年8月28日 376
874   幕府、加賀守護富樫成春をして、山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、守護使の入部を停めしむ。(臨川寺文書) 文安6年3月22日 376
875   珠洲郡若山荘馬緤本光寺住持瑞渓、同寺領の指出を注す。(本光寺文書) 文安5年12月 376
文安6年、宝徳元年(1449) 876   本願寺蓮如、河北郡木越光徳寺に、三帖和讃を書写して之を与ふ。(本派本願寺蔵三帖和讃奥書) 文安6年、宝徳元年5月28日 377
877   正実房行運、山城北野社より質物としたる石川郡笠間保を、同社の徳政と称して押取せることに就き幕府に訴ふ。(北野神社古文書) 文安6年、宝徳元年10月 377
878   本願寺存如、江沼専称寺の四幅親鸞聖人絵伝に裏書を与ふ。(専称寺蔵親鸞聖人絵伝初幅裏書) 文安6年、宝徳元年11月18日 378
宝徳2年(1450) 879   羽咋郡気多社雑掌等、向瀬の山林伐採権に関して地頭飯尾新四郎代の幕府に訴へたるに応ず。(気多神社文書) 宝徳2年8月 378
宝徳4年、享徳元年(1452) 880   幕府、摂津之親に、河北郡倉月荘等を安堵せしむ。(美吉文書) 宝徳4年、享徳元年2月6日 380
享徳2年(1453) 881   宗彦、鹿島郡永光寺傳燈院に、羽咋郡大坂の田地を寄進す。(永光寺文書) 享徳2年3月28日 380
882   尾長秀吉、鹿島郡永光寺に、羽咋郡尾長保を沽却す。(永光寺文書) 享徳2年4月21日 380
883   能登守護畠山義忠、氷室兵庫入道をして鳳至郡総持寺住持礼物の事を沙汰せしむ。(総持寺文書) 享徳2年8月22日 381
享徳3年(1454) 884   鳳至郡総持寺、檀方の年齢及び引物等の注文を作る。(総持寺文書) 享徳3年1月 381
885   鳳至郡総持寺の納所、同寺領田地の江河成を注す。(総持寺文書) 享徳3年3月29日 382
886   幕府、能登守護代をして、珠洲郡正院郷伏見等の地を吉見家仲代に交付せしむ。(吉見文書) 享徳3年12月29日 383
享徳4年、康正元年(1455) 887   鳳至郡総持寺、同寺蔵一切経箱数の注文を造る。(総持寺文書) 享徳4年、康正元年1月28日 383
888   仮掲(輪島崎天神社文書) 享徳4年、康正元年2月11日 384
889   幕府、飯尾元連に、加賀若林郷及び羽咋郡土田荘等を安堵せしむ。(古蹟文徴) 享徳4年、康正元年2月22日 384
890   山城北野社雑掌、同社領羽咋郡菅原荘の代官坊城兵衛佐の年貢違乱を停め、之を直務せんことを幕府に請ふ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) 享徳4年、康正元年4月 384
891   山城北野社雑掌、同社領羽咋郡菅原荘の代官坊城兵衛佐の年貢違乱を停め、之を直務せんことを幕府に請ふ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) 享徳4年、康正元年7月 385
892   山城北野社雑掌、同社領羽咋郡菅原荘の代官坊城兵衛佐の年貢違乱を停め、之を直務せんことを幕府に請ふ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) 享徳4年、康正元年7月18日 386
893   山城祗園社執行顕宥、河北郡萱野保等の社領目録を注す。(祗園社記) 享徳4年、康正元年7月11日 386
894   幕府、山城北野社松梅院に、同社領羽咋郡菅原庄を旧に依り直務せしむ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) 享徳4年、康正元年8月16日 386
895   幕府、山城北野社松梅院に、同社領羽咋郡菅原庄を旧に依り直務せしむ。(北野神社当宮三年一請会停止記録) 享徳4年、康正元年8月17日 386
896   幕府、石川郡白山宮長吏に、その越中放生津城に対して計略を廻らせるを賞す。(御内書引付) 享徳4年、康正元年8月19日 387
897   幕府、山城勧修寺に、同寺領江沼郡郡家荘内の地を安堵せしむ。(勧修寺文書) 享徳4年、康正元年9月14日 387
898   平光知、山城北野社に、同社領羽咋郡菅原荘の代官職を預りたる請文を出す。(北野神社当宮三年一請会停止記録) 享徳4年、康正元年10月25日 387
899   足利義政、摂津之親に、その所領河北郡倉月荘地頭・領家両職内不知行の地を還付す。(美吉文書) 享徳4年、康正元年12月21日 388
康正2年(1456) 900   足利義政、大館教氏に、江沼郡富墓荘・石川郡倉部村等を&せしむ。(八坂神社文書) 康正2年5月22日 388
901   足利義政、山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、荘内居住人の守護被官と為り及び守護使の入部することを停む。(天龍寺文書) 康正2年10月9日 388
902   足利義政、山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、荘内居住人の守護被官と為り及び守護使の入部することを停む。(臨川寺文書) 康正3年、長禄元年3月6日 389
903   足利義政、狩野頼忠に、江沼郡福田荘内菅波郷地頭・公文両職及び菅生社神主職を安堵せしむ。(狩野文書) 康正2年11月3日 389
904   幕府、造内裏段銭并びに国役引付を注す。(群書類従) 康正2年是歳 389
康正3年、長禄元年(1457) 905   仮掲(洞雲寺文書) 康正3年、長禄元年8月6日 390
長禄2年(1458) 906   国永道本、珠洲郡本光寺に、若山荘西海浦国永名の下地を寄進す。(本光寺文書) 長禄2年2月5日 391
907   和田光章、鹿島郡永光寺に、下地を寄進す。(永光寺文書) 長禄2年2月22日 391
長禄2年(1458) 908   足利義政、山城天龍寺に、同寺領石川郡横江荘を還付す。(天龍寺文書) 長禄2年3月15日 391
909   幕府、山城勧修寺に、鎮守八幡宮造営料として加賀の段銭を寄進す。(勧修寺文書) 長禄2年3月29日 391
910   幕府、山城勧修寺に、鎮守八幡宮造営料として加賀の段銭を寄進す。(古蹟文徴) 長禄2年3月29日 392
911   足利義政、山城北野社に、江沼郡福田荘領家・山代本郷半分等を還付す。(北野神社古文書) 長禄2年4月16日 392
912   能登守護畠山義忠、幕府の命に依り、遊佐美作守をして珠洲郡若山庄下地を三条実雅の雑掌に交付せしむ。(足水文書) 長禄2年4月27日 392
913   足利義政、石川郡大乗寺領押野荘内散在田畠屋敷等に段銭・臨時課役等を免除す。(大乗寺文書) 長禄2年8月23日 393
914   足利義政、鹿島郡永光寺に、同寺領羽咋郡若部保及び散在分を安堵せしむ。(永光寺文書) 長禄2年8月23日 393
915   幕府、石川郡大乗寺に制札を与ふ。(大乗寺文書) 長禄2年12月24日 393
916   足利義政、鳳至郡総持寺に、山林・田畠・敷地等を安堵せしむ。(総持寺文書) 長禄2年12月24日 393
917   足利義政、鳳至郡総持寺に、山林・田畠・敷地等を安堵せしむ。(総持寺文書) 長禄3年1月11日 394
918   足利義政、鳳至郡総持寺に、山林・田畠・敷地等を安堵せしむ。(総持寺文書) 長禄2年12月26日 394
919   足利義政、山代伏見稲荷社に、同社領石川郡針道荘を還付す。(伏見稲荷社文書) 長禄2年12月26日 395
長禄3年(1459) 920   仮掲(府中山王社懸絵裏書) 長禄3年1月 395
921   足利義政、倉光光利に、石川郡倉光開発及び玉鉾郷内の地等を還付す。(温故古文抄) 長禄3年2月17日 395
長禄3年(1459) 922   足利義政、山代宝鏡寺尊永に、羽咋郡気多社社務職を安堵せしむ。(宝鏡寺文書) 長禄3年3月16日 395
923   足利義政、狩野茂豊に、河北郡若松荘地頭職を安堵せしむ。(狩野文書) 長禄3年4月27日 395
924   長十郎信連、珠洲郡琴江院に、田地を寄進す。(琴江院文書) 長禄3年6月 396
925   幕府、珠洲郡正院郷伏見等の地を吉見家仲代に交付せしむ。(吉見文書) 長禄3年8月29日 396
長禄4年、寛正元年(1460) 926   柳町中務入道永音、大和東大寺に、大仏常灯料として能美郡山上郷清水惣社神主職の内を寄進す。(東大寺文書) 長禄4年、寛正元年7月24日 396
927   柳町中務入道永音、大和東大寺に、大仏常灯料として能美郡山上郷清水惣社神主職の内を寄進す。(東大寺文書) 長禄4年、寛正元年7月24日 396
928   後花園天皇、中院通秀に、江沼郡額田荘・加納八田荘等を安堵せしめ給ふ。(中院文書) 長禄4年、寛正元年7月30日 396
929   幕府、山城神護寺に、石川郡豊田保・中興保を安堵せしむ。(伺事記録紙背文書) 長禄4年、寛正元年閏9月11日 397
930   石川郡河内荘惣領藤原政宗、祇陀寺に、その寺領を直務せしむ。(祇陀寺文書) 長禄4年、寛正元年閏9月 397
寛正2年(1461) 931   幕府、善法寺享清をして、山城石清水八幡宮領能美郡山上郷を直務せしむ。(菊大路文書) 寛正2年6月17日 398
932   重国・春宣、山城祗園社に、同社領河北郡英田保内萱野村を直務せしむ。(祗園社記) 寛正2年9月5日 398
寛正3年(1462) 933   山城東福寺雑掌、同寺領江沼郡熊坂荘百姓の逐電せるを召還し年貢を納めしめんことを幕府に請ふ。(東福寺文書) 寛正3年3月 398
934   能登守護畠山義統、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保に国衙役・正税・検注役の催促を停む。(永光寺文書) 寛正3年11月9日 399
寛正4年(1463) 935   能登守護畠山義統、鹿島郡永光寺に、和田信章等の寄進地を安堵せしむ。(永光寺文書) 寛正4年5月2日 399
936   直頼、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、下地を寄進す。(須須神社文書) 寛正4年10月 400
937   幕府、中院通秀領江沼郡額田荘・加納八田荘半分代官朝日教貞の不法を停め、通秀をして直務せしむ。(中院文書) 寛正4年12月27日 400
寛正5年(1464) 938   幕府、中院通秀領江沼郡額田荘・加納八田荘半分代官朝日教貞の不法を停め、通秀をして直務せしむ。(中院文書) 寛正5年12月21日 400
939   幕府、赤松政則をして山城臨川寺領石川郡大野荘に諸公事を免除し、守護使の入部を停めしむ。(臨川寺文書) 寛正5年12月25日 401
寛正6年(1465) 940   良憲、珠洲郡高座宮別当高勝寺十二房供免田の用途を注す。(須須神社文書) 寛正6年2月28日 401
941   幕府、石川郡白山宮長吏をして、同社東神主の杉原賢盛所領水島保末正名を違乱するを停めしむ。(遺編類纂) 寛正6年9月2日 401
942   能登の安国寺、鳳至郡総持寺より祖忌御斎料を領収す。(総持寺文書) 寛正6年9月17日 402
寛正7年、文正元年(1466) 943   足利義政、中院通秀に、江沼郡額田荘・加納八田荘を安堵せしむ。(中院文書) 寛正7年、文正元年5月19日 402
文正2年、応仁元年(1467) 944   権大僧都快運、鳳至郡大町来迎寺に、勅定山の扁額を寄進す。(来迎寺扁額) 文正2年、応仁元年7月1日 402
応仁2年(1468) 945   加賀守護富樫政親、石川郡祇陀寺に、同寺領中村荘・久武保等の地を還付す。(祇陀寺文書) 応仁2年10月1日 403
応仁3年、文明元年(1469) 946   仮掲(洞雲寺文書) 応仁3年、文明元年2月 403
文明2年(1470) 947   吉見統頼、鳳至郡総持寺に、羽咋郡富来院の田地を寄進す。(総持寺文書) 文明2年4月23日 403
948   吉見統範、鳳至郡総持寺に、櫛比荘二ヶ村の田地を寄進す。(総持寺文書) 文明2年4月23日 404
949   山城勧修寺門跡、同寺衆徒に、江沼郡郡家荘の年貢の内を与ふ。(勧修寺文書) 文明2年4月27日 404
950   山城勧修寺門跡、同寺衆徒に、江沼郡郡家荘の年貢の内を与ふ。(勧修寺文書) 文明2年4月27日 404
951   石川郡白山宮長吏澄栄、同宮荘厳講灯油料の田地を寄進す。(白山比咩神社文書) 文明2年9月25日 405
952   能登守護畠山義統の奉行人統秀、鹿島郡永光寺に制札を与ふ。(永光寺文書) 文明2年9月 405
953   櫛比某、鳳至郡総持寺領櫛比荘諸岳村の指出を注す。(総持寺文書) 文明2年10月16日 405
文明3年(1471) 954   幕府、山城祗園社に、同社領河北郡苅野保の収納を督促せしむ。(祗園社記) 文明3年4月3日 406
955   智栄、石川郡白山宮に無量義経一巻を寄進す。(白山比咩神社文書) 文明3年4月16日 406
956   本願寺蓮如、河北郡光徳寺の四幅親鸞聖人絵伝に裏書を与ふ。(西光寺蔵親鸞聖人絵伝終幅裏書) 文明3年6月25日 407
957   本願寺蓮如、石川郡専光寺の四幅親鸞聖人絵伝に裏書を与ふ。(専光寺蔵親鸞聖人絵伝裏書) 文明3年9月4日 407
文明4年(1472) 958   全尊、江沼郡那谷寺本泉坊領額田荘内得丸名の重書紛失状を作り、之を同坊住持に与ふ。(中院文書) 文明4年5月3日 408
959   鹿島郡永光寺伝灯院の喚鐘成る。(永光寺喚鐘銘) 文明4年7月1日 408
960   本願寺蓮如、能美郡慶恩坊に消息を与ふ。(本光寺文書) 文明4年12月28日 408
文明5年(1473) 961   鳳至郡阿岸の彦四郎等、同郡本誓寺に、田地を寄進す。(本誓寺文書) 文明5年3月25日 409
962   本願寺蓮如、蓮崇の書せるその消息集に奥書を与ふ。(西光寺蔵瓶子屋御書奥書) 文明5年9月27日 409
文明6年(1474) 963   鳳至郡総持寺、その寺領諸岳村・二ヶ村の年貢定納額を定む。(総持寺文書) 文明6年閏5月13日 410
964   鳳至郡鑓川の百姓等、総持寺に、年貢銭を増納すべきことを約す。(総持寺文書) 文明6年7月18日 410
965   幕府、山城臨川寺に、同寺領石川郡大野及び宮腰を還付す。(臨川寺重書案文) 文明6年11月7日 411
966   加賀守護富樫政親、槻橋兵庫允に、能美郡守土室・河北郡指江等を安堵せしむ。(北村文書) 文明6年12月24日 411
文明7年(1475) 967   幕府、朝日時長と中院通秀との江沼郡額田荘及び加納八田荘に関する相論を裁決し、通秀をして之を直務せしむ。(中院文書) 文明7年6月15日 411
968   幕府、朝日時長と中院通秀との江沼郡額田荘及び加納八田荘に関する相論を裁決し、通秀をして之を直務せしむ。(中院文書) 年不詳2月6日 412
969   渋河鏡種、高野山寂静院に、河北郡樫久目の領家方を寄進す。(高野山文書) 文明7年6月27日 412
970   珠洲郡高座宮別当高勝寺清透、同社神主に、宮山の樹を伐採したる罪を謝す。(須須神社文書) 文明7年10月28日 412
文明8年(1476) 971   仮掲(重蔵神社蔵棟札) 文明8年6月6日 413
972   仮掲(重蔵神社文書) 文明8年9月 414
973   幕府、一揆等に、摂津之親所領河北郡倉月荘南新保に濫妨するを禁ず。(温故雑帖) 文明8年11月4日 416
文明9年(1477) 974   山科勧修寺領江沼郡郡家荘の代官職二松竹夜叉代、同寺に請文を出す。(勧修寺文書) 文明9年1月22日 416
975   後土御門天皇、甘露寺親長に、石川郡大桑・豊田を安堵せしめ給ふ。(実隆公記) 文明9年2月20日 417
976   僧良清、珠洲郡高座宮別当高勝寺の免田指出を注す。(須須神社文書) 文明9年6月14日 417
977   神宮庁、鳳至郡櫛比御厨の上分を徴す。(内宮引付) 文明9年6月 418
978   後土御門天皇、法勝寺に、同寺領能美郡長崎保を還付せしめ給ふ。(親長卿記) 文明9年9月20日 418
979   足利義政、高辻長直の山城北野宮寺領江沼郡富墓荘を違乱するを停め、之を社家に安堵せしむ。(集古文書) 文明9年9月27日 418
980   幕府、摂津之親所領河北郡倉月荘の地を近江延暦寺の違乱するを停む。(美吉文書) 文明9年10月15日 419
981   幕府、山城臨川寺に、同寺領石川郡大野荘等を還付す。(臨川寺重書案文) 文明9年12月29日 419
文明10年(1478) 982   吉見統範、鳳至郡総持寺に、櫛比荘二ヶ村の地を寄進す。(総持寺文書) 文明10年3月9日 419
983   温井俊宗、鳳至郡輪島崎天神社を再建す。(輪島天神社文書) 文明10年4月21日 420
984   足利義政、山城建仁寺両足院に、同院領能美郡島田等の地を還付す。(両足院文書) 文明10年5月8日 420
985   足利義政、山城建仁寺両足院に、同院領能美郡島田等の地を還付す。(両足院文書) 文明10年2月 421
986   足利義政、山城建仁寺両足院に、同院領能美郡島田等の地を還付す。(両足院文書) 文明10年6月14日 421
987   足利義政、山城宝幢寺に、同寺領河北郡松寺等を還付す。(鹿王院文書) 文明10年5月28日 421
988   足利義政、山城宝幢寺に、同寺領河北郡松寺等を還付す。(鹿王院文書) 年不詳2月14日 422
989   幕府、山城臨川寺領石川郡大野荘の段銭以下諸公事を免除し、守護使不入の地と為す。(臨川寺重書案文) 文明10年6月5日 422
990   能登守護畠山義統、鹿島郡永光寺に、同寺領の諸公事を免除す。(永光寺文書) 文明10年8月11日 422
991   幕府、一色政熙に、加賀国倉光弥次郎跡を料所として預く。(一色家文書) 文明10年8月27日 422
992   珠洲郡高座宮の神主友永、代官五井兵庫の神領を違乱して冥罰を蒙りたる次第を注す。(須須神社文書) 文明10年8月28日 423
993   幕府、鹿島郡永光寺をして、諸国に勧進して同寺及び末寺越中信光寺を修造せしむ。(永光寺文書) 文明10年12月21日 425
文明11年(1479) 994   幕府、鹿島郡永光寺をして、諸国に勧進して同寺及び末寺越中信光寺を修造せしむ。(永光寺文書) 文明11年1月11日 426
995   後土御門天皇、鹿島郡永光寺を御祈願所と為し給ふ。(永光寺文書) 文明11年2月13日 426
996   江沼郡那谷寺本泉坊団応、渡部四郎兄弟が同郡額田荘内得丸名の知行を競望するを幕府に訴う。(中院文書) 文明11年2月 426
997   山城清水寺成就院願阿、清水寺を再建せんとしてその資を諸国に募縁す。尋いで能登守護畠山義統等之に応ず。(成就院文書) 文明11年3月 427
998   山城清水寺成就院願阿、清水寺を再建せんとしてその資を諸国に募縁す。尋いで能登守護畠山義統等之に応ず。(成就院文書) 文明11年月日不詳 427
999   幕府、山城勧修寺に、同寺領江沼郡郡家荘代官職を直務せしむ。(勧修寺文書) 文明11年12月26日 428
文明12年(1480) 1000   天野章慶、天野安千代丸に、羽咋郡土田荘上村地頭職半分を譲与す。(天野文書) 文明12年2月5日 429
1001   天野章慶、天野安千代丸に、羽咋郡土田荘上村地頭職半分を譲与す。(天野文書) 文明12年5月10日 429
1002   僧快運、珠洲郡高座宮別当高勝寺の釈迦堂に、灯明油並びに仏供料を寄進す。(須須神社文書) 文明12年9月5日 429
1003   統秀、珠洲郡法住寺に、井田の下地を寄進す。(法住寺文書) 文明12年9月8日 430
1004   幕府、一色政熙に、料所石川郡倉光保の年貢を沙汰し、守護違乱の所々を成敗せしむ。(一色家文書) 文明12年10月2日 430
文明13年(1481) 1005   鹿島郡向田の代官三階家吉、島八ヶより神納する一宮二斗米に就いて注す。(向田神明社文書) 文明13年1月11日 430
1006   鹿島郡向田の代官三階家吉、島八ヶより神納する一宮二斗米に就いて注す。(向田神明社文書) 年不詳月日不詳 430
1007   幕府、山城建仁寺両足院に、能美郡保善院及び同寺領を還付してその年貢諸公事を収めしむ。(両足院文書) 文明13年6月16日 432
1008   幕府、本覚寺及び大坊主中に、山城祇園社領河北郡刈野村の年貢を違乱せざらしむ。(祗園社記) 文明13年11月9日 432
1009   幕府、本覚寺及び大坊主中に、山城祇園社領河北郡刈野村の年貢を違乱せざらしむ。(八坂神社文書) 文明13年11月9日 432
文明14年(1482) 1010   鹿島郡永光寺領羽咋郡志指見の床主慶伝等、その作人に卸状を与ふ。(永光寺文書) 文明14年6月20日 433
1011   幕府、江沼郡那谷寺をして、同寺本泉坊団応の中院通秀所領額田荘得丸名作職を違乱するを停めしむ。(中院文書) 文明14年閏7月24日 433
1012   幕府、朝日政清・同時長等の越訴を停め、中院通秀に江沼郡額田荘・加納八田荘を直務せしむ。(中院文書) 文明14年9月16日 433
1013   幕府、加賀守護富樫政親等をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保の押妨人を退け、社家雑掌に之を交附せしむ。(祗園社記) 文明14年9月24日 434
1014   幕府、加賀守護富樫政親等をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保の押妨人を退け、社家雑掌に之を交附せしむ。(祇園社記) 文明14年9月24日 434
1015   幕府、加賀守護富樫政親等をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保の押妨人を退け、社家雑掌に之を交附せしむ。(八坂神社文書) 文明14年月日不詳 434
文明15年(1483) 1016   真浄寺了康、鳳至郡総持寺の造営料を借用す。(総持寺文書) 文明15年10月晦日 435
文明16年(1484) 1017   伊勢貞宗、畠山義統の被官遊佐美作守をして、観世大夫下校するを以て為に周旋せしむ。(諸状案文) 文明16年4月23日 435
1018   伊勢貞宗、遊佐美作守をして、その所領鳳至郡町野荘の還付に尽力せしむ。(諸状案文) 文明16年6月19日 435
文明17年(1485) 1019   東頼数、石川郡白山宮に古今集を施入す。(伊達家蔵古今集奥書) 文明17年6月17日 436
1020   幕府、能美郡松岡寺をして、富樫政親の摂津政親領河北郡倉月荘の内を押妨するを停め、摂津氏代官に強力してその所務を全うせしむ。(美吉文書) 文明17年9月21日 436
1021   足利義尚、石川郡白山宮惣長吏澄賢をして、天下安全の祈禱を行わしむ。(親元日記) 文明17年9月28日 436
1022   足利義尚、毘沙門堂忠承に、能美郡能美荘等の地を安堵せしむ。(三千院文書) 文明17年11月23日 437
文明18年(1486) 1023   本願寺蓮如、能美郡四講中に消息を与ふ。(帖外御文) 文明18年1月 437
1024   幕府、小野三郎左衛門尉をして、山城建仁寺両足院末寺能美郡保善院にその寺領を還付せしむ。(両足院文書) 文明18年10月19日 438
文明19年、長享元年(1487) 1025   青蓮院門跡尊応、越中守護畠山政長の請に依り、本願寺蓮如をして加賀・越中の門徒に制止をを加へしむ。(華頂要略) 文明19年、長享元年3月6日 438
1026   幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) 文明19年、長享元年10月2日 438
1027   幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) 文明19年、長享元年10月18日 439
1028   幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) 文明19年、長享元年11月2日 439
1029   幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) 文明19年、長享元年11月6日 440
1030   幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) 文明19年、長享元年11月6日 440
1031   幕府、山城建仁寺両足院領能美郡鍋谷・打越及び末寺保善院領の年貢以下を寺家代官に致さしむ。(両足院文書) 文明19年、長享元年12月2日 440
1032   後土御門天皇、加賀国等に、例に依り国役采女養料を進めしめ給ふ。(宣秀御教書案) 文明19年、長享元年閏11月7日 441
1033   能登守護畠山義統、山城祇園社に、その巻数を贈れるを謝す。(八坂神社文書) 文明19年、長享元年閏11月8日 441
1034   足利義尚、中院通秀に、江沼郡額田荘及び加納八田荘を安堵せしむ。(中院文書) 文明19年、長享元年閏11月26日 441
長享2年(1488) 1035   幕府、山城北野宮寺領羽咋郡菅原荘及び鹿島郡湯河・四柳等を社家の直務と為さしむ。(北野社家引付) 長享2年4月14日 441
1036   幕府、山城北野宮寺領羽咋郡菅原荘及び鹿島郡湯河・四柳等を社家の直務と為さしむ。(北野社家引付) 長享2年4月14日 442
1037   幕府、山城北野宮寺領羽咋郡菅原荘及び鹿島郡湯河・四柳等を社家の直務と為さしむ。(北野社家引付) 長享2年4月14日 442
1038   山城相国寺鹿苑院瑞智、安楽光院が一向宗徒と謀り、林光院領江沼郡横北郷を違乱するを蔭涼軒に訴ふ。(蔭涼軒日録) 長享2年4月19日 442
1039   山城相国寺鹿苑院瑞智、安楽光院が一向宗徒と謀り、林光院領江沼郡横北郷を違乱するを蔭涼軒に訴ふ。(蔭涼軒日録) 長享2年6月5日 442
1040   山城相国寺鹿苑院瑞智、安楽光院が一向宗徒と謀り、林光院領江沼郡横北郷を違乱するを蔭涼軒に訴ふ。(蔭涼軒日録) 長享2年6月5日 443
1041   山城相国寺鹿苑院瑞智、安楽光院が一向宗徒と謀り、林光院領江沼郡横北郷を違乱するを蔭涼軒に訴ふ。(蔭涼軒日録) 長享2年7月2日 443
1042   本願寺蓮如、石川郡専光寺に、諸門徒の悪行を誡む。(蔭涼軒日録) 長享2年7月4日 443
1043   本願寺蓮如、河北郡広徳寺門徒に、諸門徒の悪行を誡む。(蔭涼軒日録) 長享2年7月4日 444
1044   本願寺蓮如、河北郡広徳寺門徒に、諸門徒の悪行を誡む。(蔭涼軒日録) 長享2年7月4日 444
1045   足利義尚、山城常在光寺に、石川郡中興保を寄進す。(蔭涼軒日録) 長享2年8月27日 444
1046   石川郡白山宮惣長吏澄賢、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) 長享2年9月2日 444
1047   本願寺蓮如、河北郡広徳寺に、諸門徒の乱妨を誡む。(真念寺文書) 長享2年10月24日 445
長享3年、延徳元年(1489) 1048   仮掲(府中山王社懸絵裏書) 長享3年、延徳元年4月 445
1049   石川郡白山宮惣長吏澄賢、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) 長享3年、延徳元年7月26日 445
1050   畠山政近代、江沼郡福田荘并びに山代の下地を還付せられんことを幕府に訴ふ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年7月 446
1051   幕府、近江延暦寺学頭代に、摂津政親領河北郡倉月荘の地を押妨するを停む。(美吉文書) 長享3年、延徳元年8月5日 446
1052   山城北野宮寺雑掌、江沼郡福田荘并びに山代の知行に就いて畠山政近代に応訴す。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年9月 446
1053   山城北野宮寺雑掌、江沼郡福田荘并びに山代の知行に就いて畠山政近代に応訴す。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月11日 447
1054   山城北野宮寺雑掌、江沼郡福田荘并びに山代の知行に就いて畠山政近代に応訴す。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月27日 447
1055   幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 447
1056   幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 448
1057   幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 448
1058   幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 448
1059   幕府、敷地彦右衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡福田荘領家職を押領せるを停め、社家代官をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 448
1060   幕府、柴山九郎左衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡富墓荘を押領するを停め、松梅院禅予代をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 449
1061   幕府、柴山九郎左衛門尉の山城北野宮寺領江沼郡富墓荘を押領するを停め、松梅院禅予代をして所務を全うせしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 449
1062   幕府、山城北野宮寺領江沼郡山城荘の名主沙汰人をして、年貢諸公事等を松梅院禅予代に交付せしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 449
1063   幕府、山城北野宮寺領能美郡長崎保の名主沙汰人をして、年貢等を松梅院禅予代に交付せしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 450
1064   幕府、山城北野宮寺領石川郡西笠間保の名主沙汰人をして、年貢等を松梅院禅予代に交付せしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 450
1065   幕府、山城北野宮寺領石川郡豊田保の名主沙汰人をして、年貢等を松梅院禅予代に交付せしむ。(北野神社長享三年引付) 長享3年、延徳元年10月2日 450
1066   後土御門天皇、山城勧修寺に、同寺領江沼郡郡家荘を直務せしめ給ふ。(宣秀御教書案) 長享3年、延徳元年10月21日 451
延徳2年(1490) 1067   幕府、神戸某をして、摂津住吉社領加賀有富荘の検注を行はしむ。(延徳二年将軍宣下記) 延徳2年7月5日 451
1068   足利義材、中院通世に、江沼郡額田荘及び加納八田荘を安堵せしむ。(中院文書) 延徳2年閏8月5日 451
1069   山城東福寺江沼郡熊坂荘に於ける同寺領目録を注す。(東福寺文書) 延徳2年9月3日 452
1070   蔭涼軒集証、山城南禅寺雲門庵に、同庵領江沼郡忌浪荘の年貢を放棄すること勿らしむ。(蔭涼軒日録) 延徳2年11月3日 452
1071   石川郡白山宮惣長吏澄賢、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) 延徳2年12月23日 452
1072   後土御門天皇、武田定盛に、日蝕料所石川郡米光村内西方の下地を領知せしめ給ふ。(宣秀御教書案) 延徳2年12月28日 453
延徳3年(1491) 1073   仮掲(気屋大王社文書) 延徳3年3月9日 453
1074   蔭涼軒集証、一向宗徒の江沼郡横北郷内宝幢院を押領するを幕府に訴ふ。(蔭涼軒日録) 延徳3年6月3日 454
1075   幕府、山城賀茂別雷社領河北郡金津荘に有松四郎の乱妨を停む。(賀茂別雷神社文書) 延徳3年8月11日 454
1076   後土御門天皇、加賀国等、例に依り国役采女養料を進めしめ給ふ。(宣秀御教書案) 延徳3年11月2日 454
延徳4年、明応元年(1492) 1077   幕府、加賀守護富樫泰高をして、定永都聞の山城南禅寺領能美郡得橋郷を違乱するを停めしむ。(南禅寺文書) 延徳4年、明応元年9月5日 455
1078   仮掲(本誓寺蔵蓮如上人寿像賛) 延徳4年、明応元年是歳 455
明応2年(1493) 1079   僧快紹、珠洲郡能美郡高座宮別当高勝寺に、その例時堂上葺の為料足を寄進す。(須須神社文書) 明応2年3月2日 456
1080   珠洲郡高座宮の神主、能登守護畠山義統に年中の神事を注進す。(須須神社文書) 明応2年5月14日 456
1081   珠洲郡高座宮の神主、能登守護畠山義統に年中の神事を注進す。(須須神社文書) 明応2年月日不詳 457
1082   温井俊宗、鳳至郡別所谷八幡宮に、田地を寄進す。(別所谷八幡宮掲札) 明応2年9月 458
1083   幕府、西郡四郎に、摂津政親所領河北郡倉月荘内の地を押妨するを停め、之を政親代に交付せしむ。(美吉文書) 明応2年12月29日 459
明応5年(1496) 1084   幕府奉行人等、朝日貞長・同近江三郎と中院通世との江沼郡額田荘及び加納八田荘地頭職の訴訟を勘進す。(中院文書) 明応5年4月7日 459
1085   幕府、朝日貞長・同近江三郎の江沼郡額田荘及び加納八田荘代官職押領を停め、中院通世をして直務せしむ。(中院文書) 明応5年5月7日 460
1086   後土御門天皇、朝日貞長・同近江三郎の江沼郡額田荘及び加納八田荘押領を停め、中院通世をして直務せしめ給ふ。(中院文書) 明応5年7月4日 461
明応6年(1497) 1087   足利義高、山城北野宮寺に、江沼郡富墓荘の翻訳を還付す。(北野神社文書) 明応6年3月10日 461
1088   山城勧修寺門跡雑掌、安富盛憲の同寺領江沼郡郡家荘預所職を横領するを停め、之を直務せんことを幕府に訴ふ。(勧修寺文書) 明応6年8月 461
1089   吉見統範、鳳至郡総持寺に、櫛比荘二ヶ村の地を寄進す。(総持寺文書) 明応6年10月22日 462
1090   本願寺蓮如、能美郡四講衆中に消息を与ふ。(興善寺文書) 明応6年是歳 463
明応7年(1498) 1091   河北郡伝灯寺、在越中の足利義材により紀州興国寺の列に陞せらる。(伝灯寺文書) 明応7年3月4日 464
1092   道祐等、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、菩提の為鳥目を寄進す。(須須神社文書) 明応7年閏10月6日 464
明応8年(1499) 1093   加賀守護富樫泰高、法慶道場に、石川郡富樫荘四十万村の内を寄進す。(善性寺文書) 明応8年9月29日 465
1094   栃平良玄、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、大澤等の地を寄進す。(須須神社文書) 明応8年12月12日 465
1095   畠山統武、鹿島郡永光寺に、後山・白石山両所を寄進す。((出典なし)) 明応8年12月21日 465
1096   能登守護畠山義元、羽咋郡気多社薬師院に、同院坊職及び寄進・買得の地を安堵せしむ。(気多神社文書) 明応8年12月24日 466
1097   能登守護畠山義元、羽咋郡気多社薬師院に、同院坊職及び寄進・買得の地を安堵せしむ。(気多神社文書) 明応8年12月24日 466
明応9年(1500) 1098   幕府、摂津元親に、その所領河北郡倉月荘中大浦村を加賀守護富樫泰高の押領するを停め之を安堵せしむ。(美吉文書) 明応9年11月13日 467
明応10年、文亀元年(1501) 1099   仮掲(長橋神明宮棟札) 明応10年、文亀元年2月16日 468
1100   本願寺実如、能美郡山内荘丸山の了承に方便法身尊像の裏書を与ふ。(丸山村久保氏蔵) 明応10年、文亀元年5月2日 468
1101   太田範本、鳳至郡宝泉寺賢覚に、櫛比荘二ヶ村の田役銭を寄進す。(宝泉寺文書) 明応10年、文亀元年5月28日 468
1102   仮掲(広済寺画像裏書) 明応10年、文亀元年閏6月28日 469
1103   山城南禅寺、能美郡得橋郷の寺領目録を注す。(南禅寺文書) 明応10年、文亀元年8月15日 469
1104   長信清、鳳至郡穴水来迎寺に、田地の徳銭を寄進す。(来迎寺文書) 明応10年、文亀元年10月27日 469
文亀2年(1502) 1105   後柏原天皇、甘露寺元長に、石川郡大桑荘等を安堵せしめ給ふ。(守光公記) 文亀2年1月14日 470
1106   幕府、山城東福寺に、同寺領江沼郡熊坂荘の御即位段銭を免除す。(東福寺文書) 文亀2年7月10日 470
1107   足利義澄、山城神護寺に、石川郡豊田保・中興保を安堵せしむ。(伺事記録裏書文書) 文亀2年8月3日 470
文亀3年(1503) 1108   幕府、山城祇園社領河北郡軽賀野保に守護被官人の押妨を停む。(祇園社記) 文亀3年9月23日 471
文亀4年、永正元年(1504) 1109   幕府、山城石清水八幡宮善法寺に、同宮領能美郡三ヶ荘及び山上郷を安堵せしむ。(菊大路文書) 文亀4年、永正元年2月18日 471
1110   加賀守護富樫植泰、法慶道場に、石川郡富樫荘四十万村の内を安堵せしむ。(善性寺文書) 文亀4年、永正元年3月5日 471
1111   加賀守護富樫植泰、法慶道場に、石川郡富樫荘四十万村の内を安堵せしむ。(善性寺文書) 永正2年5月25日 472
1112   足利義澄、安富盛憲の山城勧修寺門跡領江沼郡郡家荘代官職を競望するを停め、同寺に直務せしむ。(勧修寺文書) 文亀4年、永正元年5月3日 472
1113   珠洲郡高座宮別当高勝寺、同寺領下地の指出を注す。(須須神社文書) 文亀4年、永正元年12月28日 472
永正2年(1505) 1114   幕府、加賀守護富樫植泰をして、安富盛憲の山城勧修寺門跡領江沼郡郡家荘に狼藉するを停め、同門跡雑掌に之を交付せしむ。(勧修寺文書) 永正2年4月23日 473
1115   長次、赤尾藤次郎に、山城北野社領江沼郡福田荘領家方年貢米の内を交付せしむ。(北野神社社家条々引付) 永正2年7月12日 473
1116   足利義澄、伊勢貞亮に、幕府料所加賀五箇荘を宛行ふ。(御内書案) 永正2年10月9日 474
1117   幕府、摂津元親に、同所領河北郡倉月荘中大浦村を加賀守護富樫植泰の押領するを停め、之を安堵せしむ。(美吉文書) 永正2年10月18日 474
1118   羽咋郡一宮西町の四位、気多社に、田三十苅を寄進す。(桜井文書) 永正2年12月5日 474
永正3年(1506) 1119   鳳至郡徳成谷内五社大権現の拝殿再建成る。(徳成谷内伊須流岐神社棟札) 永正3年3月10日 475
1120   山城仁和寺真光院尊海、能登の相応院門跡領を復せんとして勅裁を請ふ。(実隆公記) 永正3年6月21日 475
永正4年(1507) 1121   足利義澄、越前明王院に、加賀の一向一揆が侵入せし際豊原寺に於ける戦功を賞す。(室町家御内書案) 永正4年2月 476
1122   温井統永等、鳳至郡岩蔵寺を再建す。(岩蔵寺蔵棟札) 永正4年4月4日 476
永正6年(1509) 1123   統忠、鹿島郡永光寺に、羽咋郡若部保御給米並びに雑年貢銭を寄進す。(永光寺文書) 永正6年7月14日 476
1124   白山再興勧進道珍、禅頂朝戸開之参詣井家道者入目之日記を書写して与へらる。(白山比咩神社文書) 永正6年8月5日 477
1125   幕府、山城北野社領江沼郡福田荘名主百姓をして、同社に領家職本役を収めしむ。(北野神社社家条々引付) 永正6年8月15日 478
1126   五井頼慶、山城相国寺周寅監寺に、幕府料所石川郡倉光荘下代官職の所務を預く。(温故古文抄) 永正6年閏8月1日 478
1127   能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に制札を与ふ。(総持寺文書) 永正6年10月19日 478
1128   能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に、同寺領町野之内を安堵せしむ。(総持寺文書) 永正6年10月19日 478
1129   能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に、その公文檀那銭を先規の如くたらしむ。(総持寺文書) 永正6年10月19日 479
永正7年(1510) 1130   佐脇秀隆、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) 永正7年1月11日 479
1131   能登守護畠山義元、山城賀茂別雷社に、同社領羽咋郡加茂荘の貢納を約す。(賀茂別雷神社文書) 永正7年3月14日 480
1132   能登守護畠山義元、山城賀茂別雷社に、同社領羽咋郡加茂荘の貢納を約す。(賀茂別雷神社文書) 年不詳11月15日 480
1133   足利義尹、朝倉定景に、その加賀・越前に於ける一揆を平定したる功を賞す。(御内書案) 永正7年4月14日 480
1134   温井孝宗、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) 永正7年5月16日 480
1135   幕府、本折式部少輔をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保を押領する輩を退け、社家代官を置かしむ。(建内文書) 永正7年6月5日 481
1136   幕府、本折式部少輔をして、山城祇園社領河北郡軽賀野保を押領する輩を退け、社家代官を置かしむ。(生源寺文書) 年不詳9月7日 481
1137   石川郡白山宮惣長吏澄賢、同宮荘厳講所新入秀を挙達す。(白山比咩神社文書) 永正7年7月28日 481
1138   幕府、下津屋宗信の中院通世所領江沼郡額田荘及び加納八田荘代官職たるを停め、通世に之を直務せしむ。(中院文書) 永正7年9月2日 482
1139   幕府、下津屋宗信の中院通世所領江沼郡額田荘及び加納八田荘代官職たるを停め、通世に之を直務せしむ。(温故古文抄) 永正7年9月11日 482
1140   幕府、烏丸冬光に、河北郡若松荘領家職を安堵せしむ。(烏丸家文書) 永正7年11月9日 482
1141   幕府、山城北野社松梅院禅光に、江沼郡富墓荘上分を安堵せしむ。(曼殊院文書) 永正7年12月14日 482
1142   幕府、山城北野社松梅院に、江沼郡福田荘並びに山代・能美郡長崎・石川郡豊田の代官職を直務せしむ。(北野神社文書) 永正7年12月17日 483
永正8年(1511) 1143   信館、鳳至郡穴水来迎寺熊千代丸に馬上免を譲渡す。(来迎寺文書) 永正8年3月29日 483
永正9年(1512) 1144   鳳至郡阿岸の新九郎等、同郡本誓寺に御堂屋敷を寄進す。(本誓寺文書) 永正9年2月28日 484
1145   某、鳳至郡穴水来迎寺に藤内屋敷を寄進す。(来迎寺文書) 永正9年4月4日 484
1146   石川郡白山宮に鰐口を寄進す。(白山宮鰐口銘) 永正9年閏4月23日 484
1147   僧定栄、鳳至郡河井の馬庭観音堂に五十苅の地を寄進す。(重蔵神社文書) 永正9年5月18日 484
1148   山城立本寺日俊、加賀に下り、河北郡本興寺成敗の条々を定む。(本興寺文書) 永正9年5月26日 485
1149   主殿寮、山城南禅寺領能美郡佐野村の年貢銭を領収す。(主殿寮々雑々) 永正9年7月5日 485
1150   畠山徳宗、羽咋郡気多社に社務職の田地作職を還付す。(永光寺文書) 永正9年7月6日 486
1151   足利義植、加賀守護富樫植泰の年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) 永正9年7月29日 486
1152   珠洲郡方上保柚木橋爪の某、高座宮別当高勝寺に塩釜一枚を寄進す。(須須神社文書) 永正9年11月28日 486
永正10年(1513) 1153   神保元康、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、諸役皆免等の証状を与ふ。(須須神社文書) 永正10年4月2日 487
1154   能登守護畠山義元、下国して幕府奉行人飯尾貞連の音信に答ふ。(飯尾文書) 永正10年10月23日 487
1155   能登守護畠山義元、下国して幕府奉行人飯尾貞連の音信に答ふ。(飯尾文書) 永正10年10月23日 487
1156   能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺住持の入寺に当り、その大檀那として祝香を立てらるるを謝す。(総持寺文書) 永正10年11月10日 487
1157   能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺住持の入寺に当り、その大檀那として祝香を立てらるるを謝す。(総持寺文書) 永正10年11月10日 487
1158   能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に、櫛比荘諸岡村の田地を寄進す。(総持寺文書) 永正10年12月17日 488
永正11年(1514) 1159   幕府、松岡寺をして、近江日吉社領加賀田上郷金浦を押領するものを停めしむ。(生源寺文書) 永正11年7月5日 488
1160   能登守護畠山義元、領国の錯乱に就いて幕府の奉行人飯尾貞運の来書に報ず。(飯尾文書) 永正11年12月5日 489
1161   能登守護畠山義元、領国の錯乱に就いて幕府の奉行人飯尾貞運の来書に報ず。(飯尾文書) 永正11年12月5日 489
1162   能登守護畠山義元、領国の錯乱に就いて幕府の奉行人飯尾貞運の来書に報ず。(飯尾文書) 永正11年12月8日 489
1163   能登守護畠山義元、領国の錯乱に就いて幕府の奉行人飯尾貞運の来書に報ず。(飯尾文書) 永正11年12月18日 489
1164   能登守護畠山義元、大呑北庄百姓に、鹿島郡七尾に出張したる際忠節を尽くしたるを賞す。(温故足徴) 永正11年12月26日 490
永正12年(1515) 1165   能登守護畠山義元の被官温井孝宗、幕府奉行人飯尾貞運に、錯乱の未だ鎮静せざることを報ず。(飯尾文書) 永正12年閏2月8日 491
1166   能登守護畠山義元、鳳至郡興徳寺に、三井中村の田地を寄進す。(龍門寺文書) 永正12年3月16日 491
1167   能登守護畠山義元等の奉加に依り、越後能生白山社宝殿の造立成る。(能生白山神社増棟札) 永正12年3月16日 491
1168   能登守護畠山義元、隠岐統朝をして、山城祇園社宝寿院にその巻数等を遅れるを謝せしむ。(八坂神社文書) 永正12年5月1日 492
1169   後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) 永正12年5月2日 492
1170   後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) 永正12年5月2日 492
1171   後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) 永正12年5月2日 493
1172   後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) 永正12年5月7日 493
1173   後柏原天皇、河北郡伝灯寺を勅願寺とし給ふ。(伝灯寺文書) 永正12年8月12日 493
1174   本願寺綸旨を奉じて、山城泉涌寺安楽光院がその院領江沼郡横北郷を直務することを黒人に沙汰す。(守光公記) 永正12年2月2日 493
1175   本願寺綸旨を奉じて、山城泉涌寺安楽光院がその院領江沼郡横北郷を直務することを黒人に沙汰す。(守光公記) 永正12年5月20日 493
1176   能登守護畠山義元、鳳至郡総持寺に、同寺領を安堵せしむ。(総持寺文書) 永正12年7月21日 494
1177   能登守護畠山義元、鳳至郡興徳寺に、同寺領三井中村の諸役を免除す。(龍門寺文書) 永正12年7月21日 494
1178   畠山義総、遊佐秀盛をして、鳳至郡興徳寺に、畠山義元が同寺建立の為三井中村の地を寄進したることを告げしむ。(龍門寺文書) 永正12年8月28日 494
1179   畠山義総、遊佐秀盛をして、鳳至郡総持寺に、畠山義元が櫛比荘諸岡村を十参ヶ年間寄進したることを告げしむ。(総持寺文書) 永正12年8月28日 494
1180   能登守護畠山義元の奉行人隠岐統朝、山城祇園社宝寿院に、その巻数等を贈れるを謝す。(八坂神社文書) 永正12年8月28日 495
1181   能登守護畠山義元の奉行人隠岐統朝等、鳳至郡総持寺領諸岡村の年貢銭を定む。(総持寺文書) 永正12年9月11日 495
1182   能登守護畠山義元の奉行人隠岐統朝、山城祇園社宝寿院に、その巻数を贈れるを謝す。(建内文書) 永正12年9月12日 496
1183   幕府、能登守護畠山義総に、禁裏御料所鹿島郡一青荘の公用を進済すべき命ず。(東山御文庫記録) 永正12年12月26日 496
永正13年(1516) 1184   能登守護畠山義総、鳳至郡興徳寺に制札を与ふ。(龍門寺文書) 永正13年1月26日 497
1185   蓬莱国近、鹿島郡府中山王社の鈴を作る。(府中山王社蔵鈴銘) 永正13年5月 497
1186   幕府、山城毘沙門堂門跡がその所領能美郡能美荘湯谷村の年貢未進のことにより妙音寺領を押へたるを停む。(古文書集) 永正13年7月11日 497
1187   山城祇園社、能登守護畠山義総に、その代替の為に巻数を贈る。(八坂神社文書) 永正13年8月2日 498
1188   山代天龍寺、同寺領石川郡大野荘より納めたる年貢の支途に就いて注す。(天龍寺文書) 永正13年12月 498
永正14年(1517) 1189   能登守護畠山義総、三条西家司豊筑後守に、その詠歌を実隆に披露せられたるを謝す。(三条西家文書) 永正14年4月5日 498
1190   足利義植、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(室町家御内書案) 永正14年4月16日 499
1191   珠洲郡高座宮別当高勝寺の衆徒、寄進田地上役を守護に納入したることなき起請文を草す。(須須神社文書) 永正14年5月19日 499
1192   足利義植、石川郡大乗寺に、同寺領押野荘の地を安堵せしむ。(大乗寺文書) 永正14年6月2日 500
1193   後柏原天皇、石川郡大乗寺を勅願寺とし給ふ。(大乗寺文書) 永正14年6月3日 500
永正15年(1518) 1194   河内畠山義英の子勝王加賀に在り、越中守護畠山尚順代神保慶宗を討たんとして援を越後長尾為景に求む。(和田中条文書) 永正15年7月10日 500
永正16年(1519) 1195   河内畠山義英の子勝王加賀に在り、越中守護畠山尚順代神保慶宗を討たんとして援を越後長尾為景に求む。(上杉家文書) 永正16年2月2日 500
1196   河内畠山義英の子勝王加賀に在り、越中守護畠山尚順代神保慶宗を討たんとして援を越後長尾為景に求む。(上杉家文書) 永正16年4月2日 501
1197   足利義植、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(室町家御内書案) 永正16年2月18日 502
1198   幕府、加賀万福寺が禁裏日月蝕料所石川郡米光村の年貢を無沙汰するを以て之を直務とす。(守光公記) 永正16年3月3日 502
1199   河内畠山義英の子勝王、越後長尾為景等に、能登口不慮の事に依りその退却したるを労し、来春の再挙を嘱す。(上杉家文書) 永正16年10月19日 502
1200   河内畠山義英の子勝王、越後長尾為景等に、能登口不慮の事に依りその退却したるを労し、来春の再挙を嘱す。(上杉家文書) 永正16年10月19日 503
永正17年(1520) 1201   河内畠山義英の子勝王、越後長尾為景等に、能登口不慮の事に依りその退却したるを労し、来春の再挙を嘱す。(上杉家文書) 永正17年1月27日 503
1202   能登守護畠山義総の被官遊佐秀盛、鹿島郡永光寺に制札を与ふ。(永光寺文書) 永正17年3月 503
1203   能登守護畠山義総、長尾為景に、その越中に出馬せるを労す。(上杉家文書) 永正17年7月2日 504
1204   能登守護畠山義総、長尾為景に、その越中に出馬せるを労す。(上杉家文書) 永正17年7月2日 504
永正18年、大永元年(1521) 1205   能登守護畠山義総、長尾為景に、その越中を平定したるを祝す。(上杉家文書) 永正18年、大永元年2月13日 504
1206   能登守護畠山義総、長尾為景に、その越中を平定したるを祝す。(上杉家文書) 永正18年、大永元年2月13日 505
1207   幕府、本願寺をして、山城北野社社家に同社領江沼郡福田荘代官職を直務せしめたることを同荘門徒中に触れしむ。(北野松梅院文書) 永正18年、大永元年11月16日 505
大永2年(1522) 1208   幕府、山城妙音寺景繕の弟子等が同寺領能美郡湯谷村の内を沽却するを停め、景繕に之を還付す。(南禅寺文書) 大永2年6月11日 506
1209   石川郡白山宮惣長吏澄明、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) 大永2年7月25日 506
大永3年(1523) 1210   本願寺実如、江沼・能美2郡の門徒に、一味同心すべきことを勧む。(興善寺文書) 大永3年3月8日 507
1211   小倉吉信、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、仏具を寄進す。(須須神社文書) 大永3年5月16日 507
大永4年(1524) 1212   温井孝宗、鳳至郡重蔵宮の拝殿を造立す。(重蔵神社文書) 大永4年5月18日 508
大永5年(1525) 1213   仮掲(五十里八幡宮棟札) 大永5年1月23日 508
大永6年(1526) 1214   能登守護畠山義総、三条西実隆に、後柏原天皇の崩御を弔し奉る。(三条西家文書) 大永6年5月7日 509
大永7年(1527) 1215   足利義晴近江より、能登守護畠山義総に、その料足を贈りたるを謝す。(室町家御内書案) 大永7年3月15日 509
1216   足利義晴、能登守護畠山義総に、その尽力を謝して太刀等を贈る。(室町家御内書案) 大永7年6月2日 509
1217   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 大永7年6月 509
1218   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 大永7年6月 510
1219   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 大永7年月日不詳 510
1220   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 大永7年月日不詳 510
1221   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を売却す。(名主職補任状案) 大永7年7月5日 510
1222   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を売却す。(名主職補任状案) 大永7年8月4日 511
享禄2年(1529) 1223   大口雅善、河北郡木越村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄2年2月4日 511
享禄3年(1530) 1224   山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) 享禄3年1月27日 512
1225   山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) 年不詳9月13日 513
1226   山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) 年不詳12月26日 513
1227   山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) 年不詳11月11日 513
1228   山本氏茂、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘去年の公用算用状を注進す。(賀茂別雷神社文書) 年不詳12月8日 513
1229   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を改易す。(名主職補任状案) 享禄3年5月10日 514
1230   大口雅善、河北郡木越村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄3年5月13日 515
1231   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主補任状案) 享禄3年7月21日 515
1232   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主補任状案) 享禄3年9月28日 515
1233   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主補任状案) 享禄3年10月11日 515
1234   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄3年10月11日 516
1235   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄3年12月8日 516
享禄4年(1531) 1236   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄4年5月19日 516
1237   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄4年5月19日 517
1238   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄4年5月25日 517
1239   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄4年閏5月4日 517
1240   総光、珠洲郡金峰寺の田地目録に証判を加ふ。(金峰寺文書) 享禄4年閏5月5日 517
1241   総光、珠洲郡金峰寺に、田地を寄進す。(金峰寺文書) 享禄4年閏5月19日 518
1242   総光、珠洲郡法住寺に、田地を寄進す。(法住寺文書) 享禄4年閏5月19日 518
1243   総光、珠洲郡法住寺に、同寺領の臨時課役を免除す。(法住寺文書) 享禄4年閏5月19日 519
1244   幕府、舟橋宣賢の能登に下校するに依り過書を与ふ。(集古文書) 享禄4年閏5月 519
1245   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄4年6月13日 519
1246   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主補任状案) 享禄4年7月17日 519
1247   大口雅善、河北郡岩方村の名主職を補任す。(名主職補任状案) 享禄4年7月20日 520
1248   本願寺証如、三河坊主等に、その能美郡波佐谷に於ける戦功を賞す。(諦聴寺文書) 享禄4年10月5日 520
1249   朝倉孝景、佐藤源五郎に、その石川郡に於ける戦功を賞す。(佐藤文書) 享禄4年11月3日 520
1250   能登守護畠山義総の被官飯川宗春、笠松平四郎に、その父新介の加賀に戦死したるを弔す。(笠松文書) 享禄4年11月7日 520
享禄5年、天文元年(1532) 1251   仮掲(諸橋稲荷社文書) 享禄5年、天文元年7月 521
1252   本願寺証如、加賀の門徒に、山科御坊が法華宗徒の為に焚かれたることを報ず。(善徳寺文書) 享禄5年、天文元年10月9日 523
1253   遊佐秀頼、鹿島郡永光寺に、羽咋郡若部保の御給米銭を安堵せしむ。(永光寺文書) 享禄5年、天文元年10月13日 523
1254   幕府、本願寺をして、石川郡所々散在の知行を福松代に所務せしむ。(室町家御内書案) 享禄5年、天文元年12月3日 524
天文2年(1533) 1255   富樫泰俊、石川郡富樫荘四十万村散田の百姓をして、年貢をその代官に直納せしむ。(善性寺文書) 天文2年6月3日 524
天文3年(1534) 1256   温井総貞、鳳至郡鵜河天神社の本殿を造営す。(鵜川天神社蔵棟札) 天文3年8月16日 525
天文4年(1535) 1257   前南禅寺住持龍崇、温井孝宗の肖像賛を作る。(栗棘庵蔵温井孝宗画像) 天文4年3月 525
1258   国沢徳長、羽咋郡直海白山社の社殿を造替す。(直海白山神社増棟札) 天文4年4月 526
1259   国沢徳長、羽咋郡直海白山社の社殿を造替す。(直海白山神社増棟札) 天文6年4月16日 526
1260   幕府、山城南禅寺に、同寺領能美郡得橋郷等を安堵せしむ。(南禅寺文書) 天文4年11月18日 526
1261   山代賀茂別当社政所、同社領河北郡金津荘の神貢を検納す。(鳥居大路文書) 天文4年11月20日 527
天文5年(1536) 1262   足利義晴、能登守護畠山義総に、その四位に叙せられて礼物を贈れるを謝す。(御内書案) 天文5年3月18日 527
1263   足利義晴、能登守護畠山義総に、その落髪の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) 天文5年3月18日 527
1264   後奈良天皇、山城曼珠院門跡に、北野社松梅院の同門跡領江沼郡富墓荘本役を押領するを停め、之を安堵せしめ給ふ。(曼殊院文書) 天文5年4月6日 528
1265   足利義晴、能登守護畠山義総に、幕府料所鳳至郡町野荘の年貢進納を督促せしむ。(御内書案) 天文5年5月24日 528
1266   足利義晴、能登守護畠山義総に、義晴の子菊幢丸誕生の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) 天文5年6月10日 528
1267   足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) 天文5年6月18日 528
1268   幕府、山城北野社密乗院禅養の曼珠院門跡領江沼郡富墓荘八講料を競望するを停め、その名主百姓に年貢を同門跡雑掌に交付せしむ。(曼殊院文書) 天文5年閏10月10日 529
1269   幕府奉行人等、中院通為と朝日晴長との江沼郡額田荘并に加納八田荘の訴訟を勘進す。(中院文書) 天文5年12月24日 529
天文6年(1537) 1270   幕府、朝日晴長の江沼郡額田荘并に加納八田荘押領を停め、中院通為をして直務せしむ。(中院文書) 天文6年3月8日 530
1271   足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) 天文6年5月2日 531
1272   本願寺証如、山城曼珠院門跡領江沼郡富墓荘を押妨する輩を停め、その名主百姓をして年貢諸公事者等を同門跡上使に交付せしむ。(曼殊院文書) 天文6年8月5日 531
1273   本願寺証如、石川郡中に、その河北郡若松本泉寺の反抗を鎮撫したるを賞す。(明厳寺文書) 天文6年8月23日 531
1274   鳳至郡総持寺領諸岡村常友名・国時名の百姓等、同寺に、納租の額に就いて契約す。(総持寺文書) 天文6年11月 532
天文7年(1538) 1275   伊勢貞孝、山城天龍寺瑞林院に、石川郡興津屋村を安堵せしむ。(親俊日記) 天文7年3月29日 533
1276   伊勢貞孝、山城天龍寺瑞林院に、石川郡興津屋村を安堵せしむ。(親俊日記) 天文7年3月29日 533
1277   元真、鳳至郡総持寺に、大屋荘三井上村の地を寄進す。(総持寺文書) 天文7年4月5日 533
1278   元真、鳳至郡総持寺に、大屋荘三井上村の地を寄進す。(総持寺文書) 天文7年4月5日 534
1279   本願寺証如、飛騨照蓮寺に、加賀の一揆洲崎兵庫等の通過を許したるを詰問す。(照蓮寺文書) 天文7年6月8日 534
1280   足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) 天文7年6月25日 534
1281   能登守護畠山義総、足利義晴に背膓及び鯖子を贈る。(古簡雑纂) 天文7年9月23日 535
1282   本願寺、幕府料所能美郡徳久村をして、伊勢貞孝代相国寺興禅軒使僧にその年貢諸公事を交付せしむ。(古文書案) 天文7年9月28日 535
1283   本願寺、幕府料所能美郡徳久村をして、伊勢貞孝代相国寺興禅軒使僧にその年貢諸公事を交付せしむ。(古文書案) 天文7年9月 535
天文8年(1539) 1284   了覚坊行家、石川郡白山宮荘厳講所に、田地を寄進す。(白山比咩神社文書) 天文8年1月 536
1285   足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(室町家御内書案) 天文8年6月16日 536
1286   能登守護畠山義総、足利義晴に、八朔の礼物を贈る。(木村文書) 天文8年7月27日 536
天文9年(1540) 1287   後奈良天皇、越前永平寺に、鳳至郡総持寺の門下を出世せしむるを停め給ふ。(総持寺文書) 天文9年2月27日 536
1288   足利義晴、能登守護畠山義総に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(室町家御内書案) 天文9年6月14日 537
1289   幕府、本願寺をして、山城曼珠院門跡領江沼郡富墓荘を百姓等の違乱するを停めしむ。(曼殊院文書) 天文9年8月22日 537
1290   幕府、本願寺坊官下間光頼をして、その料所石川郡森島等の代官職たらしむ。(古文書集) 天文9年11月2日 537
天文10年(1541) 1291   幕府、本願寺坊官下間光頼をして、その料所石川郡森島等の代官職たらしむ。(古文書集) 天文10年3月 538
1292   石川郡白山宮一和尚、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) 天文10年8月23日 538
1293   足利義晴、大館常興をして、能登守護畠山義総にその八朔の礼物を贈れるを謝せしむ。(大館常興日記) 天文10年8月28日 538
1294   内蔵寮、中奥信久・宮本安清に、石川・河北二郡の絹屋座を安堵せしむ。(言継卿記) 天文10年12月26日 538
天文11年(1542) 1295   大館常興、足利義晴に、能登守護畠山義総の道服着用を許容すべきことを答申す。(大館常興日記) 天文11年5月22日 539
1296   幕府、その料所能美郡長瀧の名主沙汰人をして、年貢・諸公事物を伊勢貞孝代に交付せしむ。(親俊日記) 天文11年10月10日 539
天文12年(1543) 1297   幕府、本願寺をして超勝寺の山城曼珠院門跡領江沼郡富墓荘を違乱するを停めしめたることを告ぐ。(曼殊院文書) 天文12年9月22日 540
1298   幕府奉行人等、富樫晴泰と安威光脩との能美郡南白江荘の訴訟に就いて勘進す。(伺事記録) 天文12年11月27日 540
1299   仮掲(笠松文書) 天文12年12月3日 540
1300   仮掲(山本文書) 天文12年12月5日 541
1301   仮掲(笠松文書) 天文12年12月21日 541
天文13年(1544) 1302   後奈良天皇、石川郡白山宮惣長吏澄辰をして、山内荘尾副村に禅頂諸堂の杣取を安堵せしめ給ふ。(白山比咩神社文書) 天文13年6月5日 541
1303   幕府奉行人等、順遍と実印との河北郡倶利伽羅長楽寺住持職并に同寺領の訴訟を勘進す。(伺事記録) 天文13年6月15日 542
1304   石川郡白山宮惣長吏澄辰、禁裏御料所能美郡軽海郷の代官職に補せらる。(白山比咩神社文書) 天文13年11月3日 543
天文14年(1545) 1305   幕府、山城曼珠院門跡の北野社松梅院禅興を同門跡領江沼郡富墓荘代官職に補任するを承認す。(曼殊院文書) 天文14年4月28日 543
1306   温井総貞、山城東福寺栗棘庵に、河内畠山植長の卒去を弔する畠山義総の使者としてその僧を下向せしめんことを求む。(栗棘庵文書) 天文14年6月8日 543
1307   温井総貞、山城東福寺栗棘庵に、河内畠山植長の卒去を弔する畠山義総の使者としてその僧を下向せしめんことを求む。(栗棘庵文書) 天文14年6月5日 544
1308   幕府奉行人等、石川郡白山宮惣長吏澄辰と結城宗俊との禅頂社殿造立杣取に関する訴訟を勘進す。(伺事記録) 天文14年6月24日 544
1309   幕府奉行人等、重ねて結城宗俊と石川郡白山宮惣長吏澄辰との禅頂社殿造立杣取に関する訴訟を勘進す。(伺事記録) 天文14年7月19日 545
1310   吉田兼右、大内義興に、畠山義続が河内畠山植長の遺跡を相続すべき風聞あるを報ず。(天文十四年日記) 天文14年8月19日 546
1311   幕府奉行人等、富樫晴泰と安威光脩との能美郡南白江荘領知に関する訴訟を勘進す。(伺事記録) 天文14年9月1日 546
1312   後奈良天皇、河北郡伝灯寺二世綱存に禅師号を諡り給ふ。(国泰寺文書) 天文14年9月12日 547
1313   結城宗俊、石川郡尾添村に、その白山禅頂杣取の争議に関係せざるべきことを誓ふ。(白山比咩神社文書) 天文14年9月20日 547
1314   能登守護畠山義統、温井総貞をして、山城東福寺栗棘庵にその代替の礼物を贈れるを謝せしむ。(栗棘庵文書) 天文14年12月13日 547
1315   鳳至郡新町地下中屋衛門等、本誓寺に、衛門太郎分の田畠を預く。(本誓寺文書) 天文14年12月13日 548
1316   鳳至郡新町地下中屋衛門等、本誓寺に、衛門太郎分の田畠を預く。(本誓寺文書) 天文14年12月13日 548
天文15年(1546) 1317   幕府、山城南禅寺に、同寺領能美郡得橋郷代官職周璉を止め、景珠を之に代ふるを承認す。(南禅寺文書) 天文15年3月1日 549
1318   温井総貞、大内義興が畠山義総の卒去を弔する為下したる山城東禅寺栗棘庵の長老に答書を与ふ。(栗棘庵文書) 天文15年5月15日 549
1319   温井総貞、大内義興が畠山義総の卒去を弔する為下したる山城東禅寺栗棘庵の長老に答書を与ふ。(栗棘庵文書) 天文15年5月15日 550
1320   幕府、松山龍花院の中院通為領江沼郡額田荘内の年貢を押領するを停め、通為に之を還付す。(中院文書) 天文15年5月16日 550
1321   幕府、松山龍花院の中院通為領江沼郡額田荘内の年貢を押領するを停め、通為に之を還付す。(狩野氏蒐集文書) 天文15年5月16日 550
1322   幕府、山城南禅寺領能美郡得橋郷代官景珠と先代官周璉との訴訟を裁決し、周璉を追放に処す。(南禅寺文書) 天文15年5月16日 551
1323   神右衛門尉、山城石清水八幡宮領能美郡山上郷・三ヶ庄及び石川郡西泉の勘定状を注す。(菊大路文書) 天文15年6月18日 551
1324   鳳至郡櫛比荘二ヶ村の太田能清、宝泉寺に袈裟法服を寄進す。(宝泉寺蔵袈裟裏書) 天文15年10月18日 553
1325   鳳至郡中居川崎吉久の鋳造せる飛騨千光寺の鐘銘成る。(千光寺鐘銘) 天文15年10月 553
1326   珠洲郡不動寺山王社の上葺成る。(不動寺蔵棟札) 天文15年12月13日 554
天文16年(1547) 1327   能登守護畠山義続、山城東福寺栗棘庵が足利義藤の動座せることを奉じたるに答ふ。(栗棘庵文書) 天文16年7月28日 554
1328   能登守護畠山義続の被官飯川光誠、笠松新介の羽咋郡押水に於ける戦功を賞す。(笠松文書) 天文16年閏7月7日 554
1329   能登守護畠山義続の被官飯川光誠、笠松新介の羽咋郡押水に於ける戦功を賞す。(笠松文書) 年不詳10月29日 555
1330   能登守護畠山義続の被官温井総貞等、山城東福寺栗棘庵に、畠山駿河の侵入を撃退したることを報ず。(栗棘庵文書) 天文16年閏7月24日 555
1331   能登守護畠山義続の被官温井総貞等、山城東福寺栗棘庵に、畠山駿河の侵入を撃退したることを報ず。(栗棘庵文書) 天文16年閏7月24日 556
1332   幕府、山城賀茂別雷社氏人福石大夫の訴に依り、同社神主が河北郡金津荘内に於けるその知行分を押領するを停む。(鳥居大路文書) 天文16年12月29日 556
1333   後奈良天皇、上乗院道喜に、羽咋郡一宮の御料所年貢上納に就いて女房奉書を給ふ。(気多神社文書) 天文16年12月 556
天文17年(1548) 1334   能登守護畠山義続、鳳至郡総持寺に寄進田畠并に祠堂米銭を安堵せしむ。(総持寺文書) 天文17年8月2日 557
1335   能登守護畠山義続、鳳至郡総持寺に寄進田畠并に祠堂米銭を安堵せしむ。(総持寺文書) 天文17年8月2日 557
1336   能登守護畠山義続、鳳至郡総持寺に寄進田畠并に祠堂米銭を安堵せしむ。(総持寺文書) 天文17年8月2日 557
1337   羽咋郡気多社公文日宗、神職の宿直番帳を定む。(気多神社文書) 天文17年11月 557
1338   羽咋郡気多社公文日宗、神職の宿直番帳を定む。(気多神社文書) 天文17年11月 558
天文18年(1549) 1339   山城曼珠院門跡領江沼郡富墓荘代官名代小畠遠隆、同門跡に、その未進公役算用を誓ふ。(曼殊院文書) 天文18年3月3日 559
1340   磯部重秀、山城北野社領江沼福田荘領家の代官職請所となる。(北野神社文書) 天文18年7月 559
天文19年(1550) 1341   本願寺証如、能登守護畠山義続に、加賀の門徒をして同国内の争議に関係せしめざるべきを報ず。(証如上人書札案) 天文19年11月8日 560
1342   本願寺証如、能登守護畠山義続に、加賀の門徒をして同国内の争議に関係せしめざるべきを報ず。(証如上人書札案) 天文19年11月13日 560
1343   本願寺証如、能登守護畠山義続に、加賀の門徒をして同国内の争議に関係せしめざるべきを報ず。(証如上人書札案) 天文19年12月22日 560
天文20年(1551) 1344   畠山義続、山城大徳寺興臨院に、父義総塔頭の料所として鳳至郡諸岳村を寄進す。(東京帝国大学所蔵文書) 天文20年5月23日 561
1345   畠山氏の被官遊佐続光等、山城東福寺栗棘庵に、同庵領鳳至郡志津良荘の公用を還付す。(栗棘庵文書) 天文20年7月25日 561
1346   光重、鳳至郡諸橋稲荷社に斎日銭を納む。(諸橋稲荷社文書) 天文20年12月12日 562
1347   本願寺証如、畠山義続及び遊佐続光に、能登の静諡を祝す。(証如上人書札案) 天文20年12月17日 562
1348   本願寺証如、畠山義続及び遊佐続光に、能登の静諡を祝す。(証如上人書札案) 天文20年12月17日 562
1349   本願寺証如、温井紹春及び能登安国寺に、その物を贈れるを謝す。(証如上人書札案) 天文20年12月17日 563
1350   本願寺証如、温井紹春及び能登安国寺に、その物を贈れるを謝す。(証如上人書札案) 天文20年12月17日 563
天文21年(1552) 1351   山城大徳寺興臨院納所等、同院領鳳至郡諸岳村年貢銭・仏事料納下目録(東京帝国大学所蔵文書) 天文21年2月19日 563
1352   長尾景虎、織田五郎左衛門をして、先に上洛の途を開かしむる為加賀に遣はしたる信濃笠原本誓寺超賢の労を謝せしむ。(本誓寺文書) 天文21年4月4日 564
天文23年(1554) 1353   本願寺証如、畠山義続に、旧冬浪人乱入の際之を討ちて勝利を獲たるを祝す。(証如上人書札案) 天文23年2月5日 564
1354   能登守護畠山義綱の被官温井紹春・同続宗、山城東福寺栗棘庵に、旧冬遊佐続光等の進入せし状を報ず。(栗棘庵文書) 天文23年2月14日 565
1355   能登守護畠山義綱の被官温井紹春・同続宗、山城東福寺栗棘庵に、旧冬遊佐続光等の進入せし状を報ず。(栗棘庵文書) 天文23年2月14日 565
1356   長尾景虎、加賀御山に至りてその上洛の途を開かしむるに尽力せる信濃笠原本誓寺超賢の功を賞して越後に移住を勧。(本誓寺文書) 天文23年3月13日 566
1357   能登守護畠山義綱の被官平堯知、山城東福寺栗棘庵が去年の錯乱に就き書を与へたるに答ふ。(栗棘庵文書) 天文23年6月30日 567
天文24年、弘治元年(1555) 1358   朝倉義景、鳥居與一左衛門に、その江沼郡に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) 天文24年、弘治元年8月14日 567
1359   朝倉義景、鳥居與一左衛門に、その江沼郡に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) 天文24年、弘治元年8月14日 567
1360   朝倉義景、諸士の江沼郡敷地口に於ける戦功を賞す。(斎藤文書) 天文24年、弘治元年8月16日 568
1361   朝倉義景、諸士の江沼郡敷地口に於ける戦功を賞す。(水屋文書) 天文24年、弘治元年8月16日 568
1362   朝倉義景、諸士の江沼郡敷地口に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) 天文24年、弘治元年8月16日 568
1363   朝倉義景、諸士の江沼郡敷地口に於ける戦功を賞す。(桑原文書) 天文24年、弘治元年8月16日 568
1364   朝倉宗滴、長尾景虎の被官直江景綱に、江沼郡に於ける戦況を報ず。(武家事紀) 天文24年、弘治元年8月20日 568
1365   遊佐続光、珠洲郡妙厳寺定欽に、越前に脱走中その斡旋したるを賞し、直之郷の内西方寺分を扶持す。(妙厳寺文書) 天文24年、弘治元年閏10月21日 569
1366   遊佐続光、珠洲郡妙厳寺定欽に、越前に脱走中その斡旋したるを賞し、直之郷の内西方寺分を扶持す。(妙厳寺文書) 年不詳8月3日 570
弘治2年(1556) 1367   能登守護畠山義綱の奉行人等、鳳至郡諸橋六郷より柵に用ふる木材を徴す。(諸橋文書) 弘治2年1月29日 570
1368   能登守護畠山義綱の被官飯川光誠、笠松新介に、義綱の七尾城に入りし際功ありしを賞し扶持を与ふ。(笠松文書) 弘治2年2月28日 571
1369   能登守護畠山義綱の被官飯川光誠、笠松新介に、義綱の七尾城に入りし際功ありしを賞し扶持を与ふ。(道興寺文書) 弘治2年9月5日 571
1370   能登守護畠山義綱、飯川光誠に、義綱の先に敗戦の際笠松新介の功ありしを以て、之に知行を与ふべきことを命ず。(笠松文書) 弘治2年10月10日 571
1371   能登守護畠山義綱、王子孫七郎に、その戦功を賞して当知行を安堵せしむ。(気多神社文書) 弘治2年12月1日 571
1372   能登守護畠山義綱、長又次郎に、先年籠城したる知行米を還付す。(長文書) 弘治3年1月23日 572
弘治3年(1557) 1373   能登守護畠山義綱等、長尾景虎に援軍の派遣を求む。(上杉家文書) 弘治3年2月18日 572
1374   能登守護畠山義綱等、長尾景虎に援軍の派遣を求む。(杉本文書) 弘治3年2月18日 572
1375   能登守護畠山義綱等、長尾景虎に援軍の派遣を求む。(上杉家文書) 弘治3年2月23日 573
1376   能登守護畠山義綱、笠松新介に、その戦功を賞して鳳至郡山中一円を知行せしむ。(笠松文書) 弘治3年2月27日 573
1377   能登守護畠山義綱、笠松新介に、その戦功を賞して鳳至郡山中一円を知行せしむ。(笠松文書) 弘治3年6月24日 573
1378   能登守護畠山義綱、笠松新介に、その戦功を賞して鳳至郡山中一円を知行せしむ。(笠松文書) 弘治3年6月4日 574
1379   能登守護畠山義綱、桜井宗次郎に、鹿島郡気多本宮社務職を安堵せしむ。(能登生国玉比古神社文書) 弘治3年3月13日 574
1380   長続連、小杉彦右衛門尉に、その籠城の功を賞す。(北徴遺文) 弘治3年4月5日 574
1381   能登守護畠山義綱、笠松新介に、鳳至郡櫛比之内を知行せしむ。(笠松文書) 弘治3年6月3日 574
1382   能登守護畠山義綱、笠松新介に、鳳至郡櫛比之内を知行せしむ。(笠松文書) 弘治3年9月1日 575
1383   能登守護畠山義綱、笠松新介に、鳳至郡櫛比之内を知行せしむ。(笠松文書) 弘治3年7月20日 575
1384   能登守護畠山義綱等、越中の椎名宮千代に、その被官八代俊盛を援軍として派遣したるを謝す。(歴代古案) 弘治3年7月27日 575
1385   能登守護畠山義綱、鳳至郡龍門寺に、その籠城の功を賞し田地を寄進す。(龍門寺文書) 弘治3年7月28日 576
1386   仮掲(石瀬比古神社棟札) 弘治3年8月10日 576
1387   石川郡白山宮惣長吏澄勝、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) 弘治3年8月22日 576
1388   能登守護畠山義綱、玉蔵坊に、その戦功を賞して所領を安堵せしむ。(重蔵神社文書) 弘治3年9月28日 577
1389   加賀守護富樫晴泰、石川郡善性寺に、四十万村の地を寄進す。(善性寺文書) 弘治3年10月23日 577
1390   加賀守護富樫晴泰、石川郡善性寺に、四十万村の地を寄進す。(善性寺文書) 年不詳5月5日 577
1391   八代俊盛、山城東福寺栗棘庵に、その能登の錯乱に就いて書を与へたるに答ふ。(栗棘庵文書) 弘治3年11月16日 578
1392   珠洲郡不動寺山王社の上葺成る。(不動寺蔵棟札) 弘治3年12月8日 578
弘治4年、永禄元年(1558) 1393   仮掲(徳田八幡神社文書) 弘治4年、永禄元年3月2日 579
1394   山崎実正、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) 弘治4年、永禄元年閏6月8日 579
1395   西方三郎、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) 弘治4年、永禄元年閏6月8日 579
1396   温井綱貞等、羽咋郡光専寺に、能登に入国せんとする際その馳走を約したるを謝す。(光専寺文書) 弘治4年、永禄元年7月5日 580
1397   温井綱貞等、鳳至郡本誓寺に、桑屋分の内千疋の地を与ふ。(本誓寺文書) 弘治4年、永禄元年7月7日 580
1398   温井綱貞等、鳳至郡本誓寺に、同寺領阿岸村の内の諸役を免除す。(本誓寺文書) 弘治4年、永禄元年7月12日 581
1399   温井綱貞等、鳳至郡本誓寺に、同寺領阿岸村の内の諸役を免除す。(本誓寺文書) 年不詳9月24日 581
1400   遊佐熊石丸、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) 弘治4年、永禄元年10月 581
1401   誉田泰俊、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) 弘治4年、永禄元年10月 582
1402   加賀守護富樫晴泰、駒井與三郎に、石川郡四十万善性寺の沽却したる知行を安堵せしむ。(重輯雑談) 弘治4年、永禄元年11月3日 582
永禄2年(1559) 1403   羽咋郡藤瀬熊野社の再建成る。(藤瀬熊野社蔵棟札) 永禄2年2月25日 582
1404   三宅慶甫、羽咋郡気多社に、押水免田村年貢の内を以て神供米を寄進す。(気多神社文書) 永禄2年5月15日 584
1405   権大僧正快尊、羽咋郡町居松尾寺に、薬師如来御正体を寄進す。() 永禄2年8月29日 584
1406   石川郡白山宮惣長吏澄勝、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) 永禄2年11月21日 584
1407   足利義輝、本願寺をして、諏方信濃守の所領加賀金浦村の押妨を停めしむ。(御内書符案) 永禄2年11月 585
1408   足利義輝、本願寺をして、諏方信濃守の所領加賀金浦村の押妨を停めしむ。(御内書符案) 永禄2年11月 585
永禄3年(1560) 1409   鳳至郡鉄川寺衆徒、七尾の庁に、門中諸寺の寺役を復旧せんことを訴ふ。(宝泉寺文書) 永禄3年2月2日 585
1410   足利義輝、本願寺に、能美郡広瀬代官職を菊阿に安堵せしめたるを謝し、重ねて尽力を求む。(温故古文抄) 永禄3年3月4日 586
1411   鹿島郡石動山松本坊、太郎兵衛に、同郡能登部江尻の山を沽却す。(乗念寺文書) 永禄3年3月10日 586
1412   足利義輝、畠山義綱をして、伊勢皇太神宮に、同宮領鳳至郡櫛比荘の神役以下を旧の如く納付せしむ。(温故古文抄) 永禄3年3月22日 587
1413   大町清詮、珠洲郡高座宮別当高勝寺に、灯明田並びに陣僧を寄進す。(須須神社文書) 永禄3年5月13日 587
永禄4年(1561) 1414   能登守護畠山義綱、長続連の邸に臨みて饗を受く。(長伝書) 永禄4年1月 587
1415   石川郡宮永の百姓、白山宮荘厳講に、その免田の貢納を訳す。(白山比咩神社文書) 永禄4年2月4日 589
1416   石川郡宮永の百姓、白山宮荘厳講に、その免田の貢納を訳す。(白山比咩神社文書) 永禄4年2月4日 590
1417   三好義長、春日局に、西郡某の依頼に依り、その知行分能美郡北白江荘の幕府料所たるべきを停められんことを請ふ。(室町殿日記) 永禄4年3月 590
1418   鳳至郡中居北の鋳物師等、正親町天皇御即位の祝儀を進納す。(中居鋳物師伝書) 永禄4年3月 591
1419   鳳至郡中居北の鋳物師等、正親町天皇御即位の祝儀を進納す。(中居鋳物師伝書) 永禄4年3月 591
1420   能登守護畠山義綱、珠洲郡高座宮別当高勝寺をして、本願寺が越後に策応せんとするを以て軍資を進納せしむ。(須須神社文書) 永禄4年4月23日 591
1421   足利義輝、本願寺をして、清水某の二宮某知行分能美郡広瀬代官職を濫妨するを退けしむ。(温故古文抄) 永禄4年6月18日 592
1422   足利義輝、畠山義綱に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(御内書案) 永禄4年6月29日 592
1423   足利義氏、北条氏康の命に依り、石川郡本誓寺に越後を擾乱することを勧む。(本誓寺文書) 永禄4年8月3日 592
1424   能登守護畠山義綱、鹿島郡永光寺領の竹木伐採及び狼藉を停む。(永光寺文書) 永禄4年8月28日 592
1425   幕府、春日局より沽却せる石川郡相河・竹松等に関して公験を与ふ。(古文書集) 永禄4年9月18日 593
1426   正親町天皇、羽咋郡気多社に、その遷宮を勅許し給ふ。(気多神社文書) 永禄4年9月28日 593
1427   正親町天皇、羽咋郡気多社に、その遷宮を勅許し給ふ。(気多神社文書) 年不詳2月2日 593
1428   誉田泰俊、鳳至郡岩蔵寺に、大野村の年貢の内を寄進す。() 永禄4年11月3日 593
1429   能登守護畠山義綱の奉行人等、鹿島郡永光寺に、同寺領羽咋郡志指見村年貢直納のことを報ず。(永光寺文書) 永禄4年12月7日 594
1430   能登守護畠山義綱の奉行人等、鹿島郡永光寺に、同寺領羽咋郡志指見村年貢直納のことを報ず。(永光寺文書) 永禄4年12月11日 594
1431   鳳至郡粟蔵村の吉次、岩蔵寺に田地を寄進す。(岩蔵寺文書) 永禄4年12月23日 595
永禄5年(1562) 1432   幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) 永禄5年2月28日 595
1433   幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) 永禄5年2月28日 596
1434   幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) 永禄5年2月28日 596
1435   幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) 永禄5年7月13日 596
1436   幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(曼殊院文書) 永禄5年7月15日 597
1437   幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興をして、年貢未進分等を統門跡雑掌に納めしむ。(古文書集) 年不詳月日不詳 597
1438   能登守護畠山義綱、笠松但馬守をして、鹿島郡石動山妙日坊に月宛の寄進銭を復せしむ。(笠松文書) 永禄5年3月2日 597
1439   能登守護畠山義綱、鹿島郡永光寺に、同寺領を安堵せしむ。(永光寺文書) 永禄5年4月9日 597
1440   能登守護畠山義綱、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保の国衙役以下の催促を停む。(永光寺文書) 永禄5年4月9日 598
1441   能登守護畠山義綱、鹿島郡永光寺領羽咋郡若部保の国衙役以下の催促を停む。(永光寺文書) 永禄5年4月9日 598
1442   遊佐続光、鹿島郡永光寺に、羽咋郡若部保の給米等を寄進す。(永光寺文書) 永禄5年4月9日 598
1443   遊佐続光、鹿島郡永光寺をして、同寺領羽咋郡若部・本郷領百姓の被官に属する者を成敗せしむ。(永光寺文書) 永禄5年4月9日 599
1444   遊佐続光、鹿島郡永光寺をして、同寺領羽咋郡若部・本郷領百姓の被官に属する者を成敗せしむ。(永光寺文書) 永禄5年4月9日 599
1445   幕府、本願寺に、西郡某知行分能美郡南北白江荘をその料所とし内田出羽守を代官職に当てたることを告ぐ。(後鑑引古文書) 永禄5年4月17日 599
1446   幕府、本願寺に、西郡某知行分能美郡南北白江荘をその料所とし内田出羽守を代官職に当てたることを告ぐ。(古蹟文徴) 永禄5年4月17日 599
1447   鳳至郡大野村の百姓等、岩蔵寺に田地を寄進す。(岩蔵寺文書) 永禄5年4月28日 600
1448   石川郡白山宮惣長吏澄勝、同宮荘厳講所新入衆を挙達す。(白山比咩神社文書) 永禄5年8月22日 600
1449   羽咋郡気多社遷宮を行ふ。(気多神社蔵棟札) 永禄5年8月23日 600
1450   鳳至郡鵜川天神社の拝殿の修理成る。(鵜川天神社棟札) 永禄5年8月 601
1451   鳳至郡鵜川天神社の拝殿の修理成る。(鵜川天神社文書) 永禄5年仲秋下浣 602
永禄6年(1563) 1452   能登守護畠山義綱、三宅宗隆をして、鳳至郡諸橋村の舟子に出羽より馬匹到来したる以て鳥目を進納せしむ。(諸橋村文書) 永禄6年5月21日 602
1453   僧等喜、鳳至郡総持寺に、月印瑞珠入牌の為に不尽灯の鳥目を寄進す。(総持寺文書) 永禄6年8月9日 602
永禄7年(1564) 1454   吉富吉久、鳳至郡岩蔵寺に、畠を寄進す。(岩蔵寺文書) 永禄7年7月26日 603
1455   朝倉義景、野村七郎五郎に、その江沼郡横北口に於ける戦功を賞す。(野村文書) 永禄7年10月9日 603
1456   朝倉義景、野村七郎五郎に、その江沼郡横北口に於ける戦功を賞す。(野村文書) 永禄7年11月28日 603
1457   朝倉義景、岸田甚助に、その能美郡木場口に於ける戦功を賞す。(本朝武家高名記) 永禄7年10月13日 604
1458   朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) 永禄7年10月13日 604
1459   朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(廣瀬文書) 永禄7年10月13日 604
1460   朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(飯田文書) 永禄7年10月13日 604
1461   朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(保阪文書) 永禄7年10月13日 605
1462   朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(鳥居文書) 年不詳4月11日 605
1463   朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(徴古文書) 年不詳4月11日 605
1464   朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(徴古文書) 年不詳4月11日 605
1465   朝倉義景、諸士の能美郡小松口に於ける戦功を賞す。(有賀文書) 年不詳8月15日 605
永禄8年(1565) 1466   上杉輝虎、下野小山高朝に、自ら朝倉義景を援けん為加賀に出馬を約せしも、関東に事あるを以て意を翻したることを報ず。(歴代古案) 永禄8年2月28日 606
1467   能登守護畠山氏の奉行人佐脇綱盛、鳳至郡諸橋に法令を頒つ。(諸橋村文書) 永禄8年3月11日 606
1468   越前の朝倉景連等、上杉輝虎の臣直江景綱に、来月を期して輝虎の加賀に出陣せんことを求む。(上杉家文書) 永禄8年6月16日 607
1469   鳳至郡本誓寺宗現等、同郡の一向宗門徒を分かちて四組を定む。(本誓寺文書) 永禄8年12月16日 608
永禄9年(1566) 1470   能登守護畠山氏、隠岐賢広をして、山城祗園社宝寿院にその守札・牛王等を贈れるを謝せしむ。(八坂神社文書) 永禄9年1月11日 608
1471   鳳至郡青龍寺の鐘鋳成る。(本念寺鐘銘) 永禄9年2月27日 609
1472   松崎光忠、鹿島郡永光寺に、羽咋郡志指見保の畠を寄進す。(永光寺文書) 永禄9年8月15日 610
1473   本願寺顕如、武田信玄に、その上杉輝虎の加賀に出馬せんとするを聞きて信越国境に向かひたるを謝す。(顕如上人書札案留) 永禄9年8月26日 610
1474   本願寺顕如、三淵宗薫に、その主足利義秋の斡旋する加賀・越前の和談が尚その時期にあらざることを報ず。(顕如上人書札案留) 永禄9年10月20日 610
1475   本願寺顕如、三淵宗薫に、その主足利義秋の斡旋する加賀・越前の和談が尚その時期にあらざることを報ず。(顕如上人書札案留) 永禄9年10月20日 611
1476   浅見恵有、鳳至郡岩蔵寺に、下町野荘小橋村の田地を寄進す。(石倉比古神社文書) 永禄9年12月7日 611
永禄10年(1567) 1477   畠山徳祐、上杉輝虎に、その能登入国の近きにあるべきを報ず。(伊佐早文書) 永禄10年2月10日 611
1478   本願寺顕如、畠山義綱に、その能登入国に際し加賀の門徒の助力を求めたるを謝絶す。(顕如上人書札案留) 永禄10年2月28日 611
1479   本願寺顕如、佐々木義弼等に、畠山義綱の能登入国に際し加賀の門徒の助力を求めたるを謝絶す。(顕如上人書札案留) 永禄10年2月28日 612
1480   本願寺顕如、佐々木義弼等に、畠山義綱の能登入国に際し加賀の門徒の助力を求めたるを謝絶す。(顕如上人書札案留) 永禄10年2月28日 612
1481   熊来続兼、山城東福寺栗棘庵に、畠山義綱が能登入国の期に将に近きにあるべきを報ず。(栗棘庵文書) 永禄10年4月24日 612
1482   本願寺顕如、越前北荘堀江景忠に、その加賀一揆に党して朝倉氏に対し善戦退城せるを賞す。(顕如上人書札案留) 永禄10年6月5日 613
1483   能登守護畠山義隆の被官遊佐続光等、笠松但馬守に、当知行等を安堵せしめてその来仕を求む。(笠松文書) 永禄10年9月11日 613
1484   金沢後町山崎屋新四郎、金沢御坊に、麹室の座を寄進す。(本願寺文書) 永禄10年9月25日 614
1485   金沢木之新保の住人へぎ彦左衛門、その麹室の座を売渡す。(本願寺文書) 永禄10年10月2日 614
1486   本願寺顕如、三淵宗薫に、その主足利義秋が加賀・越前和談のことに斡旋したるを謝す。() 永禄10年11月3日 614
1487   金沢南町広岡屋与三、金沢御坊に、麹室の座を寄進す。(本願寺文書) 永禄10年11月5日 615
永禄11年(1568) 1488   畠山義綱、笠松但馬守に、その来附を求む。(笠松文書) 永禄11年1月21日 615
1489   畠山義綱、笠松但馬守に、その来附を求む。(笠松文書) 永禄11年1月21日 615
1490   羽咋郡法輪寺の梵鐘成る。(免田常楽寺鐘銘) 永禄11年2月 616
1491   越中勝興寺顕栄、金沢御坊の坪坂伯耆に、上杉輝虎の中郡に出馬したることを報ず。(坪坂文書) 永禄11年3月16日 616
1492   足利義昭、本願寺顕如に、越前・加賀の講和に関して朝倉義景の使僧の到着せること等を報ず。(北徴遺文) 永禄11年3月20日 617
1493   足利義昭、本願寺顕如に、越前・加賀の講和に関して朝倉義景の使僧の到着せること等を報ず。(顕如上人書札案留) 永禄11年4月5日 617
1494   温井景隆、金沢御坊の坪坂伯耆等に、上杉輝虎の越中放生津より退陣したることを報ず。(坪坂文書) 永禄11年3月26日 617
1495   畠山義綱、幕府の医曲直瀬道三に能登に入国したることを報ず。(自養録裏文書) 永禄11年5月6日 618
1496   畠山義綱、林平三郎に、その来帰を賞して本領を安堵せしむ、(林文書) 永禄11年6月19日 618
1497   畠山義綱、幕府の医曲直瀬道三に、鹿島郡神明の地を奪取せられたることを報ず。(自養録裏文書) 永禄11年7月6日 618
1498   畠山義胤、林源右衛門尉に、鳳至郡合鹿の地を領知せしむ。(林文書) 永禄11年12月5日 619
永禄12年(1569) 1499   福島連景、鳳至郡穴水来迎寺の天神に田地を寄進す。(来迎寺文書) 永禄12年3月8日 619
1500   幕府、山城石清水八幡宮に、能美郡山上郷・能美三ヶ荘及び石川郡西泉を安堵せしむ。(菊大路文書) 永禄12年5月13日 619
1501   幕府、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) 永禄12年7月3日 620
1502   幕府、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) 永禄12年7月3日 620
1503   幕府、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) 永禄12年10月10日 620
1504   幕府、山城賀茂別雷社に、同社領河北郡金津荘を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) 永禄12年10月10日 620
1505   中西二位、鹿島郡永光寺に、羽咋郡菅原の地を寄進す。(永光寺文書) 永禄12年8月15日 621
1506   鹿島郡天平寺、上杉輝虎の為に大般若経を転読す。(伊佐早文書) 永禄12年9月 621
1507   幕府、山城勧修寺門跡に、同門跡領江沼郡郡家荘を安堵せしむ。(勧修寺文書) 永禄12年10月7日 621
永禄13年、元亀元年(1570) 1508   正親町天皇、足利義昭をして、二条晴良が勧修寺晴右家河北郡井家荘を押領するに依り、之を晴右に還付せしめ給ふ。(言継卿記) 永禄13年、元亀元年3月20日 622
1509   正親町天皇、足利義昭をして、二条晴良が勧修寺晴右家河北郡井家荘を押領するに依り、之を晴右に還付せしめ給ふ。(言継卿記) 年不詳月日不詳 622
1510   畠山義胤、僧中将に、羽咋郡堀松吉田の内を扶持す。(石動山福智院文書) 永禄13年、元亀元年6月12日 623
1511   織田信長、前田利家に、その近江小谷に浅井長政と戦へる際に於ける功を賞す。(村井重頼覚書) 永禄13年、元亀元年6月17日 623
1512   大塚連家、鳳至郡岩蔵寺に灯明銭を寄進す。(石倉比古神社文書) 永禄13年、元亀元年9月27日 623
1513   幕府、勧修寺門跡雑掌をして、同門跡領江沼郡郡家荘を直務せしむ。(勧修寺文書) 永禄13年、元亀元年10月15日 624
1514   幕府、勧修寺門跡雑掌をして、同門跡領江沼郡郡家荘を直務せしむ。(勧修寺文書) 永禄13年、元亀元年10月15日 624
1515   左近某、田所源二郎に、鹿島郡能登部江尻の田地を譲渡す。(乗念寺文書) 永禄13年、元亀元年11月16日 624
1516   山城賀茂別雷社、同社領河北郡金津荘御帳の紙数を注す。(賀茂別雷神社文書) 永禄13年、元亀元年12月18日 625
元亀2年(1571) 1517   上杉謙信、能登守護畠山義隆の被官等に、その越中に於ける戦況を報ず。(歴代古案) 元亀2年3月20日 626
1518   畠山義胤、鳳至郡大澤村に定夫を徴す。(筒井文書) 元亀2年5月17日 626
1519   本願寺顕如、坊官七里頼周を加賀に派遣し、国中門徒をして馳走せしむ。(本誓寺文書) 元亀2年11月5日 626
1520   竹村宗良、鹿島郡府中山王社に懸絵を奉納す。(府中山王社懸絵裏書) 元亀2年11月 627
1521   幕府、山城曼殊院門跡領江沼郡富墓荘代官北野社松梅院禅興の訴に依り、同門跡雑掌をして年貢過上分を還付せしむ。(曼殊院文書) 元亀2年12月9日 627
元亀3年(1572) 1522   松葉吉久、羽咋郡富来八幡宮に大鐘を寄進す。(富来八幡宮鐘銘) 元亀3年3月 628
1523   河田長親、遊佐続光に、上杉謙信が越中出馬の遷延せる事情を報ず。(古文雑纂) 元亀3年4月21日 628
1524   越中新庄城の鰺坂長実等、上杉謙信の臣山吉富守に、加賀の一揆の河上・五位両荘に侵入したることを報ず。(上杉家文書) 元亀3年5月24日 628
1525   上杉謙信、能化衆をして、加賀・越中の一揆退散を祈らしむ。(上杉家文書) 元亀3年6月15日 629
1526   正親町天皇、鹿島郡西光寺聖誉に、香衣を著して参内するを聴し給ふ。(大雲院文書) 元亀3年7月25日 629
1527   正親町天皇、鹿島郡西光寺聖誉に、香衣を著して参内するを聴し給ふ。(大雲院文書) 元亀3年7月25日 629
1528   山城智積院日悟等、河北郡本興寺成敗の条々追加を定む。(本興寺文書) 元亀3年8月3日 630
1529   山城智積院日悟等、河北郡本興寺成敗の条々追加を定む。(本興寺文書) 元亀3年8月3日 630
1530   西方某、鳳至郡岩蔵寺に灯明田を寄進す。(石倉比古神社文書) 元亀3年8月19日 631
1531   杉浦壱岐越中より、上杉謙信の出兵を金沢御坊の坪坂伯耆に報じ、加賀南両郡一揆の急援を求む。(坪坂文書) 元亀3年8月20日 631
1532   杉浦壱岐越中より、上杉謙信の出兵を金沢御坊の坪坂伯耆に報じ、加賀南両郡一揆の急援を求む。(坪坂文書) 元亀3年8月20日 632
1533   越中瑞泉寺顕秀、金沢御坊の坪坂伯耆に、その国の戦況を報ず。(坪坂文書) 元亀3年8月29日 632
1534   温井景隆、金沢御坊の坪坂伯耆に、上杉謙信の越中より納馬せんとすとの風聞を報ず。(坪坂文書) 元亀3年9月4日 633
1535   遊佐盛光、上杉謙信の臣河田長親に、その馬を贈りたるを謝す。(歴代古案) 元亀3年9月5日 633
1536   長福寺教円、坪坂新五郎に、越中に於ける戦況の利運を祝す。(坪坂文書) 元亀3年9月6日 634
1537   杉浦壱岐越中より、金沢御坊の坪坂伯耆等に、重ねて加賀南両郡の来援を求む。(坪坂文書) 元亀3年9月8日 634
1538   高桑吉政、坪坂新五郎に、越中にて大利を得たることを報ず。(坪坂文書) 元亀3年9月9日 635
1539   江沼郡・能美郡の一向一揆、金沢御坊の坪坂伯耆等に杉浦壱岐の書状を受領したることを報ず。(坪坂文書) 元亀3年9月10日 635
1540   江沼郡・能美郡の一向一揆、金沢御坊の坪坂伯耆等に杉浦壱岐の書状を受領したることを報ず。(坪坂文書) 年不詳6月10日 635
1541   江沼郡・能美郡の一向一揆、金沢御坊の坪坂伯耆等に杉浦壱岐の書状を受領したることを報ず。(坪坂文書) 年不詳3月5日 636
1542   杉浦壱岐越中より、金沢御坊の坪坂伯耆に、上杉謙信退散の風聞を報ず。(坪坂文書) 元亀3年9月17日 636
1543   山崎実信、鳳至郡岩蔵寺に田地を寄進す。(石倉比古神社文書) 元亀3年9月20日 637
1544   願成寺連寿、金沢御坊の坪坂伯耆に、上杉謙信退散の風聞を祝す。(坪坂文書) 元亀3年9月21日 637
1545   武田信玄、在越中の杉浦壱岐に、富山を固守すべきことを勧む。(前田家文書) 元亀3年9月26日 637
1546   武田信玄、朝倉義景に、越中に於いて加賀の一向一揆と上杉謙信と対陣することを報ず。(南行雑録) 元亀3年10月1日 638
1547   越中瑞泉寺顕秀、上杉謙信の軍に対抗せんとして江沼・能美二郡の一揆の来援を求む。(坪坂文書) 元亀3年11月17日 638
元亀4年、天正元年(1573) 1548   畠山義胤、木田左京亮に、その逆意を翻すべきことを求む。(寸錦雑録) 元亀4年、天正元年1月28日 639
1549   畠山義胤、木田左京亮に、被官飯川肥前守を味方に復せしめたる功を賞す。(寸錦雑録) 元亀4年、天正元年3月8日 639
1550   畠山義胤、上杉謙信の臣直江景綱に、今尚越後に滞在する被官飯川肥前守等の処置を依頼す。(伊佐早文書) 元亀4年、天正元年7月10日 639
1551   上杉謙信、その臣吉江景資に、河北郡朝日山城攻撃を報ず。(中条文書) 元亀4年、天正元年8月10日 640
1552   織田信長、上杉謙信に、江沼・能美二郡の一向一揆と和したることを報じ、速やかに越中を平定すべきを勧む。(本願寺文書) 元亀4年、天正元年8月20日 640
1553   上杉謙信、その臣木戸忠朝等に、昨日を以て加賀より春日山城に納馬せるを報ず。(上杉古文書) 元亀4年、天正元年8月22日 641
1554   神保伯耆守、珠洲郡金峰寺に、田崎村道場の田地居屋敷を寄進す。(金峰寺文書) 元亀4年、天正元年11月4日 641
天正2年(1574) 1555   正親町天皇、山城伏見稲荷社をして、同社領石川郡針道荘の貢納を全うせしめ給ふ。(御府文書) 天正2年2月5日 642
1556   本願寺顕如、石川郡の門徒に、その志納を謝す。(照円寺文書) 天正2年7月6日 642
1557   畠山義綱、越中瑞泉寺坊官上田石見守に、被官飯川肥前守帰順以後の疎遠を謝す。(仏厳寺文書) 天正2年8月11日 643
天正3年(1575) 1558   武田勝頼、金沢御坊の杉浦壱岐に、上杉謙信に抵抗せんことを勧む。(越賀雑記) 天正3年4月26日 643
1559   織田信長、前田利家・佐々成政・不破光治を越前府中に封ず。(遺編類纂) 天正3年9月 644
1560   織田信長、前田利家・佐々成政・不破光治を越前府中に封ず。(遺編類纂) 天正3年9月23日 644
1561   織田信長、前田利家・佐々成政・不破光治を越前府中に封ず。(所蔵者未詳文書) 年不詳1月16日 644
1562   前田利家等、越前南条郡高瀬宝円寺をして、その堂舎を復興せしむ。(宝円寺文書) 天正3年10月2日 645
1563   前田利家等、越前今立郡大瀧神郷の紙座に、諸役を免除す。(大瀧神社文書) 天正3年10月12日 645
1564   前田利家等、越前南条郡宅良慈眼寺に、堂寺供米を安堵せしむ。(慈眼寺文書) 天正3年12月2日 645
1565   畠山氏の臣遊佐盛光等、上杉謙信の臣河田長親に、その先に返書を送れるを謝す。(歴代古案) 天正3年12月15日 646
天正4年(1576) 1566   畠山氏の臣長綱連等、上杉謙信の臣色部長真等に、謙信の出馬を促さしむ。(歴代古案) 天正4年2月20日 646
1567   加賀の一向一揆奥政尭、上杉謙信の臣吉江資堅等に、謙信の本願寺と和したるを祝す。(河田文書) 天正4年5月18日 647
1568   加賀の一向一揆洲崎景勝等、金沢御坊の七里頼周等に、上杉謙信が本願寺救援の為出馬するの真偽を質す。(笹生文書) 天正4年5月28日 647
1569   上杉謙信、小早川隆景に、毛利輝元の所領備後に憑る足利義昭を入洛せしむる為、加賀・越前と和して出馬すべきことを報ず。(福山志料) 天正4年6月11日 648
1570   畠山義綱、羽咋郡光専寺に、能登入国の本意を達したる後先規の如く太師田を宛行ふべきことを約す。(光専寺文書) 天正4年6月22日 649
1571   足利義昭、上杉謙信に、本願寺をして加賀の一向一揆の妨害を停めしめたるを以て、速かに越前に出陣すべきことを求む。(歴代古案) 天正4年8月13日 649
1572   足利義昭、上杉謙信に、本願寺をして加賀の一向一揆の妨害を停めしめたるを以て、速かに越前に出陣すべきことを求む。(上杉家文書) 天正4年8月13日 649
1573   石川・河北の一向一揆首領等、本願寺坊官下間頼廉に金沢御坊の七里頼周を弾劾す。(北徴遺文) 天正4年8月21日 650
1574   金沢御坊の七里頼周、上杉謙信の臣吉江資堅に、謙信の上口出馬を促さしむ。(吉江文書) 天正4年9月9日 652
1575   金沢御坊の七里頼周、上杉謙信の臣河田長親に、鏑木頼信を除かんとするの趣旨を報ず。(河田文書) 天正4年9月13日 652
1576   本願寺坊官某、鳳至郡本誓寺に、大坂の近況を報ず。(本誓寺文書) 天正4年11月4日 653
1577   加賀の一向一揆、上杉謙信の臣鰺坂長実に、謙信の周旋に依り本願寺顕如の鏑木頼信・奥政尭を赦免せんとする命に服すべきを報ず。(歴代古案) 天正4年11月16日 653
1578   上杉謙信、越中勝興寺に、七尾城攻撃の形勢を報ず。(北徴遺文) 天正4年12月19日 654
1579   鹿島郡石動山城の直江景綱等、上杉謙信に、軍事に関し忠誠をを尽くすべき誓書を納る。(歴代古案) 天正4年12月24日 654
天正5年(1577) 1580   越中の神保氏張、上杉謙信の臣吉江資堅に、謙信の加賀出馬に当り協力すべきことを報ず。(直海文書) 天正5年2月10日 655
1581   仮掲(中居山王社文書) 天正5年3月7日 655
1582   仮掲(中居山王社文書) 天正8年5月18日 656
1583   上杉謙信、飯田與三右衛門に、珠洲郡の知行所附を与ふ。(飯田文書) 天正5年3月15日 657
1584   越中の小島職鎮、上杉謙信の臣吉江資堅に、謙信の加賀出馬に当り協力すべきことを報ず。(歴代古案) 天正5年5月13日 657
1585   鰺坂長実等、上杉謙信に、その鹿島郡大呑口に出張放火したるを賞せられたるを謝す。(吉江文書) 天正5年6月8日 658
1586   上杉謙信、飛騨江馬輝盛の臣河上定次に、その能登を征せんとして越中魚津に至り、織田信長北向の風聞を得たることを報ず。(河上文書) 天正5年閏7月8日 658
1587   上杉謙信、飛騨江馬輝盛の臣河上定次に、その能登を征せんとして越中魚津に至り、織田信長北向の風聞を得たることを報ず。(歴代古案) 天正5年閏5月16日 659
1588   上杉謙信能登に在り、織田氏の軍北進の報を得て、七里頼周に能美郡御幸塚を固守せしむ。(水野文書) 天正5年8月9日 659
1589   金沢御坊の下間頼純、堀才介に、その能美郡粟津口に於いて織田氏の軍と戦ひたる功を賞す。(北徴遺文) 天正5年9月14日 659
1590   金沢御坊の下間頼純、堀才介に、その能美郡粟津口に於いて織田氏の軍と戦ひたる功を賞す。(加賀記) 年不詳4月1日 660
1591   本願寺坊官下間頼廉、堀才介に、その織田氏の軍を夜討せる功を賞す。(北徴遺文) 天正5年9月25日 660
1592   珠洲郡松波城主松波義親、同城に於いて戦死す。(満福寺蔵松波義親肖像賛) 天正5年9月25日 660
1593   上杉謙信、某に、七尾城攻落以後の事情を報ず。(歴代古案) 天正5年9月29日 661
1594   上杉謙信の臣遊佐続光・鰺坂長実、能登に制札を与ふ。(上杉家文書) 天正5年10月25日 662
1595   上杉謙信の臣遊佐続光・鰺坂長実、能登に制札を与ふ。(本誓寺文書) 年不詳11月27日 663
1596   上杉謙信の臣吉江信景等、能登に置かれたる上條政繁に、七尾城の鰺坂長実と協力すべきこと等を諭す。(石坂文書) 天正5年11月16日 663
1597   上杉謙信、羽咋郡気多社の寺家・社家に、その知行分を安堵せしむ。(気多神社文書) 天正5年11月16日 664
1598   上杉謙信、嶋倉泰明に、能登の知行所附を与ふ。(志賀文書) 天正5年11月16日 664
1599   上杉謙信、飯田與三右衛門の珠洲郡の知行所を変更せしむ。(歴代古案) 天正5年11月16日 665
1600   上杉謙信、羽咋郡気多社の社務領を三宅長盛に預け、明年社家に返付せしむ。(気多神社文書) 天正5年11月24日 665
1601   珠洲郡高座宮別当高勝寺の衆徒等、前々の如く寺領を寄付せられんことを求む。(須須神社文書) 天正5年11月 665
1602   本願寺坊官下間頼廉、堀五兵衛に、その江沼郡塩浜及び能美郡串村に於ける戦功を賞す。(北徴遺文) 天正5年12月8日 666
1603   本願寺坊官下間頼廉、堀五兵衛に、その江沼郡塩浜及び能美郡串村に於ける戦功を賞す。(北徴遺文) 天正5年12月8日 666
1604   上杉謙信、その臣北条高広に、故畠山義隆の寡婦を高広の子景広の室たらしめんことを議す。(歴代古案) 天正5年12月18日 667
天正6年(1578) 1605   岩代の芦名盛氏、上杉謙信の臣新発田長敦に、謙信の能登・加賀を平定して凱旋せるを祝す。(浜崎文書) 天正6年1月9日 667
1606   鹿島郡府中山王社の社殿造営成る。(府中山王社蔵棟札) 天正6年2月2日 668
1607   鹿島郡府中山王社の社殿造営成る。(府中山王社蔵棟札) 天正6年6月29日 668
1608   上杉謙信、某に、去秋を以て能登を平定したることを報ず。(仁科文書) 天正6年2月10日 668
1609   鹿島郡七尾城主鰺坂長実、上杉謙信逝去の報を得、諸将をして誓文を納れしめ之を吉江信景に送る。(渡辺文書) 天正6年3月19日 668
1610   本願寺顕如、上杉謙信の逝去を伝聞し、能美郡の鈴木出羽守等に戒心せしむ。(林西寺文書) 天正6年4月12日 669
1611   吉川元春等、加賀の一向一揆に、上杉謙信と和して織田信長に抵抗せんことを勧む。(光明文書) 天正6年4月23日 669
1612   柴田勝家、伊達輝宗の臣遠藤基信に、その去年加賀・能登・越中平定に着手せることを報ず。(建勲神社文書) 天正6年5月3日 670
1613   織田信忠、柴田勝豊に、その加賀に出陣せんと企てたるを賞す。(長文書) 天正6年8月16日 670
1614   珠洲郡正院城の長景連、上杉景勝の臣吉江信景に、その景勝に対して忠誠を尽くすべきことを誓ふ。(竹田文書) 天正6年8月16日 671
1615   上杉景勝の臣長澤光国、鳳至郡中居村の真清田三右衛門に、その降を容るべきを告ぐ。(中居三右衛門伝書) 天正6年8月17日 671
1616   上杉景勝、珠洲郡塩津の四郎右衛門尉に、その正院出港船一艘の分国内諸役を免除す。(刀禰文書) 天正6年8月22日 672
1617   柴田勝家、長連龍に、明春を以て助成せんとすることを報ず。(長文書) 天正6年9月22日 672
1618   長連龍、鳳至郡平野村の兵衛に、その穴水に籠城馳走したる功を賞す。(北徴遺文) 天正6年9月23日 673
1619   太郎丸さこ、田所太郎兵衛に、田地を返却す。(乗念寺文書) 天正6年10月20日 673
1620   織田信長、越中の佐々長秋に、守山に退きたる長連龍を扶助せしむ。(長文書) 天正6年11月11日 673
1621   織田信長、越中の佐々長秋に、守山に退きたる長連龍を扶助せしむ。(長文書) 天正6年11月11日 673
1622   羽咋郡気多社惣中、善根新左衛門尉に、同社領諸免田の貢納を全くせしめられんことを請ふ。(桜井文書) 天正6年12月 674
天正7年(1579) 1623   上杉景勝、五十公野重家等をして、鹿島郡七尾城主鰺坂長実にその参陣を促さしむ。(歴代古案) 天正7年2月3日 675
1624   一宮光基、田所源次郎に、鹿島郡能登部免田一町を耕作せしむ。(乗念寺文書) 天正7年3月13日 676
1625   上杉景勝、鏑木頼信に、当年初秋越中に出馬すべきことを報ず。(北徴遺文) 天正7年4月25日 677
1626   織田信長、長連龍に、今秋自ら出馬すべきことを報じ、併せて温井景隆・三宅長盛に対し遺恨を懐くべからざることを告ぐ。(長文書) 天正7年5月12日 677
1627   上條政繁、珠洲郡の飯田與三右衛門尉に、その上杉家景勝の越後平定を賀したるに答謝す。(歴代古案) 天正7年5月24日 677
1628   徳田秀章、鹿島郡龍門寺に、羽咋郡徳田之内百苅の地を寄進す。(龍門寺文書) 天正7年5月27日 678
1629   織田信長、長連龍に、重ねて今秋出馬すべきことを報じ、併せて温井景隆・三宅長盛等と妥協すべきことを告ぐ。(長文書) 天正7年6月23日 678
1630   織田信長、長連龍に、自らの出勢の準備を怠らざることを報ず。(長文書) 天正7年7月11日 678
1631   上杉景勝、羽咋郡末森城主土肥親真に、金沢御坊の下間来純と協力すべきことを告ぐ。(温故足徴) 天正7年7月17日 679
1632   鳳至郡鉄川寺の衆徒等、松阿に、阿岸村より毎年拾貫文の湯洗銭を納入することを告ぐ。(宝泉寺文書) 天正7年7月 679
1633   三宅長盛等、羽咋郡気多社に、その社務領を還附す。(気多神社文書) 天正7年8月13日 679
1634   上杉景勝、珠洲郡の飯田與三右衛門に、長景連の指揮に従はしむ。(歴代古案) 天正7年8月23日 680
1635   上杉景勝、加賀の一向一揆等に、当月中その出馬すべきことを報ず。(別本歴代古案) 天正7年9月4日 680
1636   織田信長、長連龍に、その越中松倉の事情を報じたるに答ふ。(長文書) 天正7年10月20日 681
1637   上杉景勝、その臣河田長親に、先に鳳至郡甲山に在りし島倉泰明が越中魚津に自尽せるを以て善後の計を命ず。(山田文書) 天正7年12月18日 681
1638   上杉景勝、その臣河田長親に、先に鳳至郡甲山に在りし島倉泰明が越中魚津に自尽せるを以て善後の計を命ず。(河田文書) 天正7年12月26日 681
1639   金沢御坊の坊官等、上杉景勝より越中に出陣を求められたるを謝絶す。(読史堂古文書) 天正7年是歳 682
天正8年(1580) 1640   長連龍、小林図書助に、その戦功を賞して珠洲郡九里・立壁二万疋の地を扶持す。(小林文書) 天正8年1月11日 682
1641   長連龍、小林図書助に、重ねてその戦功を賞し鹿島郡大呑北庄を扶持す。(小林文書) 天正8年1月18日 683
1642   織田信長、長連龍に、重ねて今秋出勢すべきことを報ず。(長文書) 天正8年1月19日 683
1643   本願寺坊官下間頼廉、能登の門徒に軍資の寄進を求む。(本誓寺文書) 天正8年1月25日 683
1644   仮掲(本誓寺文書) 天正8年2月19日 684
1645   織田信長、廷臣庭田重保等に、加賀二郡返付等の条件を以て本願寺と和睦すべきことを報ず。(本願寺文書) 天正8年3月17日 684
1646   仮掲(本誓寺文書) 天正8年3月 685
1647   本願寺坊官下間頼廉、鳳至郡本誓寺に、その米穀を志納せるを謝す。(本誓寺文書) 天正8年閏3月5日 685
1648   織田信長、本願寺に、講和の後加賀の返付を約す。(本願寺文書) 天正8年閏3月11日 686
1649   織田信長、柴田勝家に、加賀に於いて停戦すべきことを命ず。(本願寺文書) 天正8年閏3月11日 686
1650   上杉景勝、珠洲郡の飯田與三右衛門尉に、その新年の祝儀を贈りたるを謝す。(別本歴代古案) 天正8年閏3月12日 686
1651   上杉景勝、珠洲郡の飯田與三右衛門尉に、その新年の祝儀を贈りたるを謝す。(歴代古案) 天正8年5月24日 687
1652   柴田勝家、越中河田長親の家士山田長秀等に、金沢城以外の加賀を平定したることを報じ、長親の来属を求む。(読史堂古文書) 天正8年閏3月24日 687
1653   柴田勝家、越中河田長親の家士山田長秀等に、金沢城以外の加賀を平定したることを報じ、長親の来属を求む。(読史堂古文書) 天正8年閏3月26日 687
1654   織田信長、長連龍に、その河北郡木越及び羽咋郡飯山に戦捷を得たるを賞す。(長文書) 天正8年閏3月30日 688
1655   本願寺顕如、能美郡の一揆鈴木出羽守に、その織田信長と和睦したることを報ず。(林西寺文書) 天正8年4月1日 688
1656   本願寺教如、加賀四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(本願寺文書) 天正8年4月2日 689
1657   本願寺教如、能登四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(本念寺文書) 天正8年4月3日 689
1658   本願寺教如、能登四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(本誓寺文書) 天正8年4月3日 690
1659   本願寺教如、能登四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(本誓寺文書) 天正8年4月4日 690
1660   本願寺教如、能登四郡に、その織田信長と和せざることを報じて馳走を求む。(妙厳寺文書) 天正8年4月3日 691
1661   長連龍、鹿島郡笠師村に制札を与ふ。(万治以前之抜書旧記) 天正8年4月8日 691
1662   本願寺顕如、能登の門徒に、その織田信長と講和したる次第を報ず。(法融寺文書) 天正8年4月15日 691
1663   本願寺顕如、能登の門徒に、その織田信長と講和したる次第を報ず。(法融寺文書) 天正8年4月16日 692
1664   羽柴秀吉羽咋郡福水より、織田信長に、温井景隆等の和を請ひたることを報ず。(楠文書) 天正8年4月23日 693
1665   温井景隆等、鳳至郡諸橋六郷の坊主及び百姓に、その馳走を求む。(諸橋文書) 天正8年4月26日 694
1666   温井景隆等、鳳至郡諸橋六郷の百姓及び坊主に、その馳走を約したるを賞す。(諸橋文書) 天正8年4月29日 694
1667   織田信長、長連龍に、その温井景隆等と講和する際過失なきを期せしむ。(長文書) 天正8年5月10日 694
1668   本願寺教如、鹿島郡崎山十八日講中に、大坂籠城の決意を告げてその馳走を求む。(法広寺文書) 天正8年5月14日 695
1669   本願寺教如、能美郡門徒に、大坂籠城の決意を告げてその馳走を求む。(波佐谷文書) 天正8年5月25日 695
1670   温井景隆等、羽咋郡四町村の永三に、弐拾俵の地を扶持す。(四町村文書) 天正8年6月1日 696
1671   温井景隆等、鳳至郡諸橋村次郎兵衛をして、諸橋六郷の百姓に馳走を命ぜしむ。(諸橋文書) 天正8年6月5日 696
1672   本願寺教如、加越の実情視察の為に寺内織部佑等を派遣したることを報ず。(勝興寺文書) 天正8年6月9日 696
1673   越中の波々伯部秀次、上杉景勝の臣黒金景信に、景勝の加賀出馬を慫慂せしむ。(別本歴代古案) 天正8年7月6日 697
1674   織田信長、本願寺教如に、その大坂開城の後加賀を返付すべきこと等を約す。(本願寺文書) 天正8年7月17日 697
1675   本願寺顕如、加州四郡等に、教如の大坂を開城したる次第を報ず。(本願寺文書) 天正8年8月3日 698
1676   菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) 天正8年8月23日 699
1677   柴田勝家、江沼郡山中湯に制札を与ふ。(遺編類纂) 天正8年8月 699
1678   織田信長、長連龍に、鹿島半郡を領知せしむ。(長文書) 天正8年9月1日 699
1679   温井景隆、鳳至郡西光寺に、同寺看坊職の田地を安堵せしむ。(西光寺文書) 天正8年10月4日 699
1680   仮掲(穴水白山社棟札) 天正8年10月12日 700
1681   菅屋長頼、羽咋郡末森城主土肥親真をして、気多社にその社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) 天正8年10月13日 700
1682   菅屋長頼、羽咋郡末森城主土肥親真をして、気多社にその社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) 天正8年10月13日 701
1683   菅屋長頼、羽咋郡末森城主土肥親真をして、気多社にその社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) 天正8年10月28日 701
1684   長連龍、鹿島郡悦叟寺を創建し、同郡能登部村の内を寄進す。(悦叟寺文書) 天正8年11月16日 701
1685   長連龍、小林小左衛門尉に、羽咋郡伊田村之内白石の地を扶持す。(小田文書) 天正8年11月18日 701
1686   長連龍、荻野孫平兵衛尉に、鹿島郡小田中の地を扶持す。(荻野文書) 天正8年11月22日 702
1687   長連龍、関吉右衛門をして、鹿島郡黒氏村の代官職たらしむ。(長文書) 天正8年11月27日 702
1688   織田信長、温井景隆等に、その歳末の礼物を贈れるを謝す。(中谷文書) 天正8年12月25日 702
天正9年(1581) 1689   織田信長、温井景隆等に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(酒井文書) 天正9年1月1日 703
1690   織田信長、温井景隆等に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(筒井文書) 天正9年1月2日 703
1691   織田信長、温井景隆等に、その年始の礼物を贈れるを謝す。(酒井文書) 天正9年1月1日 703
1692   柴田勝家、温井景隆に、上国の事情を報ず。(酒井文書) 天正9年2月29日 703
1693   柴田勝家、温井景隆に、上国の事情を報ず。(酒井文書) 天正9年2月24日 704
1694   織田信長、長連龍に、不日菅屋長頼を能登に下さんとすることを報ず。(長文書) 天正9年3月27日 704
1695   菅屋長頼鹿島郡七尾より、上杉景勝の臣須田満親に、景勝が越中出馬の非違を詰問す。(伊佐早文書) 天正9年4月28日 704
1696   上杉景勝の臣田中尚賢等、直江兼続に、越中願海寺城の寺崎盛永が能登の菅屋長頼に誘殺せられたることを報ず。(上杉家文書) 天正9年5月6日 705
1697   織田信長、長連龍に、その遊佐続光等を誅せるを報じたるに答ふ。(長文書) 天正9年7月18日 706
1698   織田信長、長連龍に、その遊佐続光等を誅せるを報じたるに答ふ。(長文書) 天正9年7月23日 706
1699   菅屋長頼、長連龍に、織田信長が鹿島半郡の内の旧石動山新神領を知行せしめられたることを報ず。(長文書) 天正9年7月23日 706
1700   菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) 天正9年7月27日 707
1701   菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) 天正9年8月17日 707
1702   菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) 天正9年8月21日 707
1703   菅屋長頼、羽咋郡気多社に、その社務領を安堵せしむ。(気多神社文書) 天正9年8月23日 708
1704   織田信長、長連龍に、重ねてその遊佐続光等を誅せるを報じたるに答ふ。(長文書) 天正9年8月13日 708
1705   長連龍、笠松但馬守に、鹿島郡井田中村の地を宛行ふ。(笠松文書) 天正9年8月17日 708
1706   羽咋郡末森城主土肥親真、気多社に、その社務領を寄進す。(気多神社文書) 天正9年9月3日 708
1707   前田利家、能登に留守せる三和吉宗等に、上杉景勝出馬の風聞あることを報じ警戒する所あらしむ。(三輪文書) 天正9年9月5日 709
1708   前田利家、鳳至・珠洲二郡の百姓に、海岸の警戒を厳にすべきことを命ず。(粟蔵村彦丞文書) 天正9年9月5日 709
1709   加賀の一向一揆藤丸勝俊越中に在り、上杉景勝の臣上條宜順に、急に景勝の出馬せんことを求む。(上杉家文書) 天正9年9月6日 710
1710   前田利家、鳳至郡道下村の逃散の百姓に、帰りてその業に就くべきを命ず。(能登国古文書) 天正9年9月8日 710
1711   佐久間盛政、後藤弥右衛門尉に、石川・河北両郡の内三百石の地を扶持す。(後藤文書) 天正9年9月12日 711
1712   織田信長、前田利家に、越前府中に於ける所領を返上すべきを命ず。(寸錦雑編) 天正9年10月2日 711
1713   前田利家、珠洲郡正院の百姓に、代官等の非分を訴へしむ。(能登国古文書) 天正9年10月9日 711
1714   織田信長、岩代芦名盛隆の臣富田左近将監に、その能登・越中を平定したることを報ず。(所蔵不詳文書) 天正9年10月15日 712
天正10年(1582) 1715   前田利家、片山宗秀等に、鹿島郡七尾所口城の塹壕を掘削せしむ。(拾遺温故雑帖) 天正10年1月11日 712
1716   前田利家、鳳至郡中居の十兵衛に、鹿島郡七尾所口築城の用に供する鋳物を徴す。(中居鋳物師伝書) 天正10年1月20日 713
1717   前田利家、先に鳳至郡鳳至町鍛冶の税を除きたりといへども、自今旧に仍りて之を徴すべきを令す。(能登国古文書) 天正10年1月21日 713
1718   柳原淳光、織田信長の右筆楠長諳に、前田利家をして禁裏御料所鳳至郡中居釜屋村の貢納を督促せしむ。(中居三右衛門伝書) 天正10年2月21日 713
1719   柳原淳光、前田利家に、禁裏御料所鳳至郡中居釜屋村の貢納を督促せしむ。(中居三右衛門伝書) 天正10年3月8日 714
1720   織田信長、前田利家等に、その武田勝頼を討滅したることを報ず。(遺編類纂) 天正10年3月13日 714
1721   前田利家、三和吉宗に、耕作に妨なければ鹿島郡七尾所口塹壕の掘削に従はしむべきを命ず。(三輪文書) 天正10年3月15日 714
1722   前田利家越中富山より、能登に留守する前田安勝に、夫丸・船舶の徴発を指揮す。(能登国古文書) 天正10年3月24日 715
1723   前田利家越中より、能登奥郡の竹村源三等に、警戒を怠ること勿らしむ。(中谷文書) 天正10年4月2日 716
1724   上杉景勝、越中善徳寺に、柴田勝家軍の加賀山内に敗れたりとの風聞あるを祝し、その越中に侵入するを防戦せしむ。(善徳寺文書) 天正10年4月8日 716
1725   上杉景勝、柴田勝家軍に包囲せらるる中條景泰の越中魚津城に赴援すべきを報ず。(石母田文書) 天正10年4月13日 717
1726   上杉景勝、柴田勝家軍に包囲せらるる中條景泰の越中魚津城に赴援すべきを報ず。(景勝年譜) 天正10年4月23日 718
1727   織田信長、前田利家に、その陣中より進献したるを謝す。(遺編類纂) 天正10年4月17日 719
1728   高畠定吉越中より、羽咋郡菅原社の社僧等に、その巻数等を贈れるを謝す。(遺編類纂) 天正10年5月3日 720
1729   前田利家陣中より、羽咋郡気多社大宮司に、その守札等を贈れるを謝す。(気多神社文書) 天正10年5月5日 720
1730   上杉景勝、温井景隆に、その能登侵入の挙あるを賞して本領安堵等を約す。(景勝年譜) 天正10年5月9日 720
1731   上杉景勝、平尭知に、その能登侵入の挙あるを賞して本領安堵を約す。(竹田文書) 天正10年5月9日 721
1732   上杉景勝、江口式部丞に、その能登侵入の挙あるを賞して本領安堵を約す。(江口文書) 天正10年5月9日 721
1733   前田利家越中魚津より、真柄助三郎等に、牢人の鳳至郡宇出津を侵したるを以て警戒を厳にせしむ。(中谷文書) 天正10年5月15日 721
1734   上杉景勝の臣長景連、太田小尉等に、寡勢を率ゐて能登に侵入せる心事を報ず。(北徴遺文) 天正10年5月19日 722
1735   羽柴秀吉備中より、溝江大炊允に、その越中魚津城攻撃に与れるを労す。(溝江文書) 天正10年5月19日 722
1736   織田信長、長連龍に、その武田勝頼を討滅帰陣したるを祝したるに答謝す。(長文書) 天正10年5月20日 723
1737   前田利家、長連龍に、その長景連を滅したるを報ぜるに答ふ。(長文書) 天正10年5月23日 723
1738   前田利家、長連龍に、長景連の首級を領収したるを以てこれを安土に送附せんとすることを報ず。(長文書) 天正10年5月24日 724
1739   織田信長、長連龍に、その鳳至郡棚木城に長景連を滅したることを賞す。(長文書) 天正10年5月27日 724
1740   織田信長、長連龍に、その鳳至郡棚木城に長景連を滅したることを賞す。(長文書) 天正10年5月27日 725
1741   前田利家、鳳至郡粟蔵村の彦丞に、敵意を挟む者あらば之を注進せしむ。(遺編類纂) 天正10年5月 725
1742   上杉景勝、その臣色部長真に、織田信長の横死に依り越前・加賀・能登諸軍の退却せるを以て、仕置の為越中に出馬すべきを報ず。(別本歴代古案) 天正10年6月8日 725
1743   上杉景勝、佐渡の本間高季等に、織田信長の横死に依り越中・能登の要害その守を失ひたるを以て、仕置の為出馬せんとするを報ず。(本間文書) 天正10年6月12日 726
1744   上杉景勝、畠山左近将監に、能登の内希望の地を知行せしめんことを約す。() 天正10年6月14日 726
1745   前田利家、柴田勝家に、能登の不穏なるが為上洛軍に従ふ能はざることを答報す。(薫墨集) 天正10年6月17日 726
1746   仮掲(薫墨集) 天正10年6月19日 727
1747   仮掲(薫墨集) 天正10年6月24日 727
1748   前田利家、鳳至郡穴水の百姓に、舟を出して鹿島郡所口城の用に供する木材を運送せしむ。(川島村文書) 天正10年6月27日 728
1749   前田利家、鳳至郡穴水の百姓に、鍬を携へて七尾に来着せしむ。(川島村文書) 天正10年7月3日 728
1750   上杉景勝、島倉泰忠に、亡父泰明の能登に於ける所領を安堵せしむべきを約す。(志賀文書) 天正10年7月7日 728
1751   前田利家、桜井甚五に、四百俵の地を扶持す。(北徴遺文) 天正10年7月8日 729
1752   前田利家陣中より、羽咋郡菅原社の社僧に、その守札等を贈れるを謝す。(菅原神社文書) 天正10年7月28日 729
1753   前田利家、羽咋郡菅原村の百姓行長に、十五俵の地を扶持す。(国田文書) 天正10年8月5日 729
1754   前田利家、鹿島郡庵村の百姓等の白鳥岸網に関する争議を処断す。(越中古文書) 天正10年8月13日 730
1755   前田利家、羽咋郡中川村の百姓太郎右衛門に、十五俵の地を扶持す。(能登国古文書) 天正10年8月15日 730
1756   佐久間盛政、某に、鹿島郡荒山城を攻落したる状を報ず。(温故足徴) 天正10年8月16日 730
1757   前田利家、羽咋郡菅原社に五十俵、同社僧に四十俵の地を寄進す。(菅原神社文書) 天正10年8月20日 731
1758   前田利家、羽咋郡妙成寺に、土田荘拾参俵の地を寄進す。(妙成寺文書) 天正10年8月21日 731
1759   前田利家、羽咋郡気多社に、四百俵の地を寄進す。(気多神社文書) 天正10年8月24日 731
1760   前田利家、羽咋郡気多社に、参百俵の修理田を寄進す。(気多神社文書) 天正10年8月25日 732
1761   前田利家、羽咋郡藤懸村役人に、潜匿せる盗賊を逮捕せしむ。(北徴遺文) 天正10年8月27日 732
1762   前田利家、長連龍に、石動山天平寺の寺領を没収してその鹿島半郡内に散在するものを与ふ。(長文書) 天正10年8月29日 732
1763   前田利家、羽咋郡気多社に制札を与ふ。(気多神社文書) 天正10年8月29日 733
1764   前田利家、鳳至郡穴水・南北の百姓に、木材を諸橋より輸送する為舟を出さしむ。(川島村文書) 天正10年9月1日 733
1765   前田利家、鹿島郡熊木村の百姓與一に、米拾俵を扶持す。(能登国古文書) 天正10年9月1日 733
1766   上杉景勝、加賀の一向一揆蛭川重親等に、その越中国境に拠り来援を請へるを以て、当月中出馬すべきを報ず。(別本歴代古案) 天正10年9月4日 734
1767   前田利家、長連龍に、互に和親すべき起請文を与ふ。(長文書) 天正10年9月5日 734
1768   前田利家、羽咋郡中川村の太郎右衛門に、在々百姓の潜匿せる者を帰住せしむ。(中川村文書) 天正10年9月5日 735
1769   前田利家、山城石清水八幡宮に、鹿島郡新庄村七拾俵の地を寄進す。(石清水文書) 天正10年9月6日 735
1770   前田利家、鹿島郡七尾の町人氷見屋に、宅地及び田地を与へて、その子性寂坊の功に報ゆ。(氷見屋文書) 天正10年9月6日 735
1771   前田利家、鳳至郡宝泉寺に、道下村拾俵の地を寄進す。(宝泉寺文書) 天正10年10月10日 736
1772   前田利家、鳳至郡道下村の百姓三郎左衛門に、十五俵の地を扶持す。(能登国古文書) 天正10年10月10日 736
1773   前田利家、鳳至郡阿岸中村の百姓高右近に、十俵の地を寄進す。(能登国古文書) 天正10年10月10日 736
1774   前田利家、鳳至郡荒屋村の百姓三郎左衛門に、十五俵の地を寄進す。(能登国古文書) 天正10年10月10日 737
1775   前田利家、鳳至郡川島村の百姓七兵衛に、十俵の地を扶持す。(高橋文書) 天正10年10月10日 737
1776   前田利家、鳳至郡中居村の鋳物師三右衛門に、二十俵の地を扶持す。(中居三右衛門伝書) 天正10年10月10日 737
1777   前田利家、羽咋郡相神の上島弥五郎に、百四十俵の地を扶持す。(能登国古文書) 天正10年10月11日 737
1778   前田利家、鳳至郡長井村の百姓番頭に、十俵の地を扶持す。(能登国古文書) 天正10年10月16日 738
1779   前田利家、三輪吉宗に、その鹿島郡七尾所口の築城に尽力せるを賞す。(三輪文書) 天正10年10月18日 738
1780   前田利家、羽咋郡妙成寺に、制札を与ふ。(妙成寺文書) 天正10年10月18日 738
1781   前田利家、鳳至郡穴水の百姓に、田租の外一切の雑税を給人に納付すること勿らしむ。(川島村文書) 天正10年10月19日 739
1782   前田利家、鹿島郡海門寺に、堪忍文として佐美村三十俵の地を寄進す。(海門寺文書) 天正10年10月21日 739
1783   前田利家、鹿島郡石動山番手の次第を定む。(前田家年譜) 天正10年11月11日 739
1784   前田利家、鳳至・珠洲二郡の炭焼に、山林伐採を許し、課役として炭を上納せしむ。(能登国古文書) 天正10年11月29日 740
1785   前田利家、鳳至郡山田郷の百姓に、炭等の上納を催促す。(能登国古文書) 天正10年12月15日 740
天正11年(1583) 1786   前田利家、羽咋郡中川村・藪野村の百姓に、気多社神幸の駕輿丁を命ず。(気多神社文書) 天正11年閏1月29日 741
1787   佐久間盛政、徳山秀現、命を下して近江加田村に放火狼藉を禁ず。(小川文書) 天正11年3月11日 741
1788   遊佐景光越後に在りて、芝原五郎左衛門に鹿島郡大呑北庄の内を扶助せんと約す。(温故足徴) 天正11年3月15日 741
1789   前田利家近江より、富田景政に、戦況を報ず。(越登賀三州志) 天正11年3月16日 741
1790   羽柴秀吉、上杉景勝の臣満親に、景勝が柴田勝家の背後を襲ひて越中・能登に出陣せんことを求む。(木村文書) 天正11年3月17日 742
1791   前田利家、その留守に、近江の戦況を報ず。(座主文書) 天正11年3月25日 743
1792   羽柴秀吉、本願寺坊官下間頼廉に、加賀の一揆をして策動せしむべきことを求む。(本願寺文書) 天正11年4月8日 743
1793   前田利家、鳳至郡道下村の大工にして傍ら耕作する者に夫役に服せしむ。(能登国古文書) 天正11年4月9日 744
1794   前田利家、珠洲郡上戸の百姓に命じ、寺社領を耕作する者といへども課役に服せしむ。(能登国古文書) 天正11年4月16日 744
1795   羽柴秀吉、宇喜多秀家に、明日加賀かなざわに着すべきことを報ず。(小早川家文書) 天正11年4月25日 744
1796   羽柴秀吉、小早川隆景に、その北国平定の事情を報ず。(小早川家文書) 天正11年4月26日 745
1797   前田利家石川郡宮腰より、富田景政に、今日金沢城を陥落せしむべきことを報ず。(越登賀三州志) 天正11年4月27日 745
1798   羽柴秀吉、溝口秀勝に、丹羽長秀がその所領のうち江沼郡を分かちたるを承認す。(溝口家文書) 天正11年4月27日 746
1799   羽柴秀吉、毛利輝元に、その北国平定の事情を報ず。(毛利家文書) 天正11年4月28日 746
1800   羽柴秀吉、毛利輝元の臣国司元武に、今日金沢城に入りたることを報ず。(西村文書) 天正11年4月28日 747
1801   羽柴秀吉、金沢より寺内織部を上杉景勝の臣直江兼続等に遣はして、景勝の去就を決せしむ。(上杉年譜) 天正11年4月29日 747
1802   羽柴秀吉、金沢より寺内織部を上杉景勝の臣直江兼続等に遣はして、景勝の去就を決せしむ。(佐々木文書) 天正11年4月28日 747
1803   羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(前田家文書) 天正11年4月 748
1804   羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(森田文書) 天正11年4月 748
1805   羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(北徴遺文) 天正11年4月 749
1806   羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(北徴遺文) 天正11年4月 749
1807   羽柴秀吉、加賀の諸村に制札を与ふ。(小浜神社文書) 天正11年4月 749
1808   奥村家延、浅井藤次に、前田利家父子の加賀に入国したることを報ず。(浅井文書) 天正11年5月1日 750
1809   前田安勝、前田利家に、鳳至郡中居の真清田三右衛門と小百姓との争議に就いて報告す。(中居三右衛門伝書) 天正11年5月11日 750
1810   羽柴秀吉、再び小早川隆景に、その加賀に進撃したるまでの事情を告ぐ。(毛利家文書) 天正11年5月15日 751
1811   前田利家、前田安勝に、鳳至郡中居の真清田三右衛門と争議を醸したる小百姓の処分に就いて告ぐ。(中居三右衛門伝書) 天正11年5月20日 753
1812   羽柴秀吉近江坂本より、書を在京の前田利家女麻阿姫に与ふ。(前田家文書) 天正11年5月 753
1813   前田利家、能登の前田安勝に、戦局終決したるを以て将に七尾に帰陣すべきを報ず。(高徳公書翰) 天正11年6月4日 754
1814   前田利家、鳳至郡穴水・南北百姓に、垣用の梢を徴す。(川島村文書) 天正11年6月6日 754
1815   前田利家、鳳至郡穴水に、夫丸を徴す。(川島村文書) 天正11年6月25日 754
1816   前田利家、珠洲郡飯田等四ヶ村の堂宇を毀ち、穴水・南北の百姓に命じて之を鹿島郡府中に漕運せしむ。(川島村文書) 天正11年7月8日 755
1817   前田利家、珠洲郡直郷の百姓に命じ、触使等に食料を給すること勿らしむ。(能登国古文書) 天正11年7月12日 755
1818   片山宗秀、三輪吉宗をして、前田利家が鳳至郡中居の真清田三右衛門を召喚するの意を伝へしむ。(中居三右衛門伝書) 天正11年7月13日 755
1819   上杉景勝、飯田與三右衛門に、その珠洲郡の所領に代へて越後新堀の地を付与す。(上杉年譜) 天正11年7月25日 756
1820   奥村家福、羽咋郡宿村西照寺の鎮守鳥毛社に制札を与ふ。(西照寺文書) 天正11年8月2日 756
1821   前田利家、奥野弥一郎に、石川郡内七百俵の地を扶持す。(北徴遺文) 天正11年8月15日 757
1822   前田利家、奥野弥一郎に、河北郡の内百俵の地を加増扶持す。(北徴遺文) 天正11年8月15日 757
1823   前田利家、種村三郎四郎に、石川郡所々の知行所附を与ふ。(拾遺温故雑帖) 天正11年8月17日 757
1824   前田利勝、稲垣與右衛門に、石川郡縄打の内四百二十俵の地を扶持す。(本誓寺文書) 天正11年8月24日 758
1825   前田利家、鳳至郡諸橋郷六郷の百姓に、穴水白普請の為鍬を携へて出役せしむ。(諸橋文書) 天正11年8月29日 758
1826   前田利家、羽咋郡気多社に、その資を漁する為船一艘の諸役を免除す。(気多神社文書) 天正11年9月1日 758
1827   羽柴秀吉、結城晴朝に、その加賀に侵入せし次第を報ず。(遺編類纂) 天正11年9月4日 759
1828   佐々成政、前田利勝に、書を与へて久闊を叙す。(岩田文書) 天正11年9月晦日 760
1829   徳川家康、不破直光に、その佐々成政に通牒したるを賞す。(温故足徴) 天正11年10月16日 760
1830   正親町天皇、羽柴秀吉の臣蒲生氏郷をして石動山天平寺を復興せしめ給ふ。(石動山文書) 天正11年10月17日 761
1831   前田利家、山城賀茂別雷社に、羽柴秀吉の命により同社領を安堵せしむ。(賀茂別雷神社文書) 天正11年11月22日 761
1832   前田利家、鳳至郡諸橋村百姓次郎兵衛に、百俵の地を扶持す。(諸橋文書) 天正11年12月1日 761
1833   前田利家、三輪吉宗に、珠洲郡金峰寺より幟用の竹を徴して七尾に輸せしむ。(金峰寺文書) 天正11年12月5日 762
1834   前田利家、三輪吉宗に、珠洲郡金峰寺より幟用の竹を徴して七尾に輸せしむ。(金峰寺文書) 年不詳2月12日 762
1835   前田利家、三輪吉宗に、珠洲郡金峰寺より幟用の竹を徴して七尾に輸せしむ。(金峰寺文書) 年不詳2月22日 762
天正12年(1584) 1836   前田利家、珠洲郡高座宮別当高勝寺の増長坊に、三十俵の地を寄進す。(須須神社文書) 天正12年3月6日 762
1837   仮掲(法住寺文書) 天正12年3月7日 763
1838   羽柴秀吉、近江坂本より、丹羽長秀に、その前田利家に対する心得を諭す。(遺編類纂) 天正12年3月13日 763
1839   徳川家康、本願寺顕如に、大坂及び加賀を交付せんことを約す。(大谷派本願寺文書) 天正12年4月10日 764
1840   前田利家、羽咋郡気多社に、社僧の所務を没収して之を寄進す。(能登国古文書) 天正12年6月1日 764
1841   前田利家、羽咋郡気多社に、社僧の所務を没収して之を寄進す。(能登国古文書) 天正12年6月16日 764
1842   前田利家、羽咋郡気多社に、社僧の所務を没収して之を寄進す。(能登国古文書) 天正12年6月19日 765
1843   羽柴秀吉、先に前田利家の秀吉を陣中に訪はんことを告げたるに答へ、且美濃竹鼻の戦況を報ず。(遺編類纂) 天正12年6月7日 766
1844   前田利家、珠洲郡直郷西方寺村に、前年の算用状を与ふ。(妙厳寺文書) 天正12年6月15日 766
1845   仮掲(法住寺文書) 天正12年7月28日 767
1846   正親町天皇、白山宮惣長吏澄勝に、白山禅頂及び権現社頭の再興の功を励ましめ給ふ。(白山比咩神社文書) 天正12年7月28日 767
1847   前田利家、能登国中に、羽咋郡気多社諸堂造営の為その資を奉加せしむ。(気多神社文書) 天正12年7月 768
1848   前田利家、瓜生内記に、石川・河北郡二郡の中参百六拾俵を扶持す。(松井文書) 天正12年7月 768
1849   前田利家、今村藤二郎に、鳳至郡穴水の地弐百俵の扶持を加増す。(北徴遺文) 天正12年8月1日 768
1850   前田利家、吉村源太に、鳳至郡穴水の内五十俵及び町野の内九十俵を扶持す。(北徴遺文) 天正12年8月1日 768
1851   前田利家、青木善四郎に、兵糧米として鹿島郡多根・ころさ両村の内を知行せしむ。(遺編類纂) 天正12年8月28日 769
1852   前田利家、在京の越中瑞泉寺顕秀に、佐々成政の羽柴秀吉に逆意あるを告げ、速かに帰国せしむ。(瑞泉寺文書) 天正12年9月5日 769
1853   羽柴秀吉尾張より、近況を前田利家及び利勝に報じ、自ら進みて佐々成政と事を構ふること勿らしむ。(温故足徴) 天正12年9月8日 769
1854   羽柴秀吉尾張より、近況を前田利家及び利勝に報じ、自ら進みて佐々成政と事を構ふること勿らしむ。(温故足徴) 天正12年9月8日 770
1855   前田利家、羽柴秀吉に、羽咋郡末森に於ける佐々成政との戦に勝利を得たることを報ず。(奥村記録) 天正12年9月13日 770
1856   前田利家、羽柴秀吉に、羽咋郡末森に於ける佐々成政との戦に勝利を得たることを報ず。(奥村記録) 天正12年9月14日 771
1857   前田利家、能登の青木善四郎等に、羽咋郡末森の戦勝を告げ自ら軽挙すること勿らしむ。(青木文書) 天正12年9月14日 771
1858   前田利家、能登の青木善四郎等に、羽咋郡末森の戦勝を告げ自ら軽挙すること勿らしむ。(温故足徴) 天正12年9月14日 772
1859   前田利勝、能登の青木善四郎に、羽咋郡末森の戦勝を報ず。(温故足徴) 天正12年9月14日 772
1860   羽柴秀吉、前田利家に、その羽咋郡末森に於ける戦勝を功す。(遺編類纂) 天正12年9月16日 772
1861   前田利家、奥村家福に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞して禄千俵を加増す。(遺編類纂) 天正12年9月16日 773
1862   前田利家、奥村家福に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞して禄千俵を加増す。(加能越古文叢) 天正12年9月16日 773
1863   前田利家、千秋範昌に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞し禄千俵を加増す。(遺編類纂) 天正12年9月16日 773
1864   前田利勝、奥村家福に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞す。(前田家雑録) 天正12年9月17日 774
1865   前田利勝、奥村家福に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞す。(加能越古文叢) 天正12年9月17日 774
1866   前田利勝、千秋範昌に、その羽咋郡末森に於ける戦功を賞す。(遺編類纂) 天正12年9月17日 774
1867   上杉景勝の臣須田満親、前田利家に、約に依り後詰として越中境の要害に出馬したることを報ず。(温故足徴) 天正12年9月18日 775
1868   上杉景勝の臣土肥政繁等、能登の前田安勝に、前田利家の後詰として須田満親の出馬したることを報じ、その交誼を求む。(古蹟文徴) 天正12年9月18日 775
1869   仮掲(甫庵太閤記) 天正12年9月19日 776
1870   仮掲(遺編類纂) 天正12年9月19日 776
1871   前田利家、上杉景決の臣直江兼続に、丹羽長秀の久しからずして来援せんとすることを告ぐ。(保阪文書) 天正12年10月5日 777
1872   前田利家、奥村家福及び千秋範昌に加増知行の所付を与ふ。(遺編類纂) 天正12年10月11日 777
1873   本願寺の坊官下間頼廉、鳳至郡の門徒に、前田氏に好意を表すべきも干戈に加ること勿らしむ。(本誓寺文書) 天正12年10月25日 778
1874   前田利家、能登の青木善四郎等に、鹿島郡荒山の敵の退却を監視せしむ。(高畠文書) 天正12年10月26日 778
1875   前田利家、鳳至郡中居村三右衛門に、同村の年貢米を催促す。(中居三右衛門伝書) 天正12年10月27日 779
1876   前田利家、鳳至郡中居村三右衛門に、同村の年貢米を催促す。(田畑文書) 天正12年11月6日 779
1877   前田利家、鳳至郡中居村三右衛門に、同村の年貢米を催促す。(田畑文書) 年不詳9月3日 779
1878   前田利家、越中阿尾の城主菊池武勝に、講和を勧誘す。(菊池文書) 天正12年11月8日 780
1879   前田利家、山城石清水八幡宮の社僧に、来春越中を討伐すべきことを報ず。(石清水文書) 天正12年12月8日 780
天正13年(1585) 1880   小松城主村上頼勝、本蓮寺に、田畠を寄進す。(北徴遺文) 天正13年2月9日 780
1881   前田利家、羽咋郡大福寺村等に、大福寺の修葺を命ず。(大福寺文書) 天正13年2月21日 781
1882   前田利家、羽咋郡大福寺村等に、大福寺の修葺を命ず。(大福寺文書) 天正13年2月22日 781
1883   前田利家、能登の浦々に、越中征伐の際必要なるべきを以てその船舶の領外に赴くを禁ず。(三輪文書) 天正13年2月24日 781
1884   仮掲(村井家記) 天正13年2月28日 782
1885   仮掲(村井家記) 天正13年2月29日 782
1886   前田利家、越中宇波村助右衛門に、その軍の進撃に際して尽力せしむ。(荻野文書) 天正13年2月 783
1887   前田利家、越中宇波村助右衛門に、その軍の進撃に際して尽力せしむ。(荻野文書) 天正13年4月21日 783
1888   仮掲(金沢藩源流記) 天正13年3月2日 783
1889   鳳至郡総持寺に喚鐘を寄進す。(総持寺喚鐘銘) 天正13年4月3日 783
1890   前田利家、奥村家福及び千秋範昌に、その越中おこめ市場・上野村を夜襲したる功を賞す。(温故足徴) 天正13年4月20日 784
1891   前田利家、鹿島郡七尾の前田安勝に、羽柴秀吉の能登に動座することあるべきを告げ、為に座敷を造らしむ。(能登国古文書) 天正13年5月7日 784
1892   前田利家、富田重政に、自ら上洛すべきを以て鹿島郡七尾城の守備を厳にせしむ。(勝田文書) 天正13年5月18日 785
1893   前田利家、羽咋郡大福時の僧北之坊に、将に上洛せんとするを以て祈祷せしむ。(大福寺文書) 天正13年5月20日 785
1894   溝口安勝、前田利家に、その上洛の途江沼郡大聖寺城に休憩せんことを請ふ。(中村文書) 天正13年5月20日 785
1895   前田利家京より、能登の青木善四郎等に、羽柴秀吉の出馬するまで国境を厳守せしめ、且近日自ら下国すべきを報ず。(北徴遺文) 天正13年6月6日 786
1896   前田利家、鹿島郡龍門寺に、居屋敷を寄進す。(龍門寺文書) 天正13年6月22日 786
1897   前田利家、鹿島郡徳翁寺に、居屋敷を寄進す。(徳翁寺文書) 天正13年6月22日 786
1898   前田利家、能登の百姓等に、荒蕪地の悔恨を怠ること勿らしむ。(能登国古文書) 天正13年6月 787
1899   前田利家、能登の百姓等に、荒蕪地の悔恨を怠ること勿らしむ。(能登国古文書) 天正13年6月 787
1900   前田利家、能登の百姓等に、荒蕪地の悔恨を怠ること勿らしむ。(能登国古文書) 天正13年6月 787
1901   前田利家、能登の百姓等に、荒蕪地の悔恨を怠ること勿らしむ。(能登国古文書) 天正13年6月 787
1902   前田利家、越中阿尾城主菊池武勝に、その講和条件を示す。(菊池文書) 天正13年7月4日 788
1903   前田利家、能登の青木善四郎等に、越中の国境を警戒して羽柴秀吉の出馬を待たしむ。(青木文書) 天正13年7月5日 789
1904   羽柴秀吉、前田利家に、来月四日を以て自ら出馬せんとするを告げ、且諸般の準備を為さしむ。(拾遺温故雑帖) 天正13年7月14日 789
1905   前田利家、京大徳寺塔頭興臨院に、先考利春の為千石の地を寄進す。(国初遺文) 天正13年7月24日 790
1906   前田利家、京大徳寺塔頭興臨院に、先考利春の為千石の地を寄進す。(国初遺文) 天正13年7月24日 790
1907   前田利家、越中阿尾城主菊池武勝に、その和を請ひたるを容れて誓書を与ふ。(菊池文書) 天正13年7月28日 790
1908   前田利家、鹿島郡大呑郷百姓に、羽柴秀吉の将に来着すべきを以て、その漁獲せし魚類を毎日金沢に送らしむ。(桑原文書) 天正13年8月5日 791
1909   前田利家、能登の青木善四郎等に、前田利勝の河北郡鳥越に戦勝を獲、且羽柴秀吉の先鋒已に越前に入りたることを告ぐ。(温故足徴) 天正13年8月7日 791
1910   前田利家、越中阿尾城主菊池武勝等に、羽柴秀吉の軍の加賀に入りたることを告ぐ。(菊池文書) 天正13年8月10日 792
1911   前田利家、能登の長連龍等に、十八日を期して河北郡津幡に着到にすべきを命ず。(遺編類纂) 天正13年8月17日 792
1912   羽柴秀吉、藤懸三蔵に、越中討伐の状況を告げ、且援軍として来るを要せざることを述ぶ。(北徴遺文) 天正13年閏8月1日 793
1913   堀秀政北庄より、後藤才兵衛に、両三日中に越中に進軍すべきことを報ず。(北徴遺文) 天正13年閏8月3日 793
1914   羽柴秀吉金沢より、大坂城中の女房こほに、越中討伐の事情を報ず。(北徴遺文) 天正13年閏8月7日 794
1915   羽柴秀吉金沢より、本願寺顕如に、越中討伐の事情を報ず。(本願寺文書) 天正13年閏8月11日 795
1916   前田利家、越中射水郡西田国泰寺に、その方丈を守山城に移すべきを告ぐ。(国泰寺文書) 天正13年閏8月11日 795
1917   前田利家、越中射水郡西田国泰寺に、その方丈を守山城に移すべきを告ぐ。(考拠摘録) 天正13年閏8月11日 795
1918   羽柴秀吉、越前北荘城主堀秀政に、江沼郡の溝口秀勝及び能美郡の村上頼勝をその与力たらしむ。(北徴遺文) 天正13年閏8月13日 795
1919   前田利家、三輪吉宗等に、能登の納祖に関して告ぐ。(三輪文書) 天正13年閏8月13日 796
1920   前田利勝、越中射水郡二上の渡守に、先規の如く渡舟に従はしむ。(門野文書) 天正13年閏8月25日 796
1921   前田利勝、越中射水郡古国府勝興寺に、制札を与ふ。(勝興寺文書) 天正13年閏8月 797
1922   羽柴秀吉、前田利家に羽柴筑前守の称を譲り、利勝を越中三郡に封ず。(袂草) 天正13年9月11日 797
1923   前田利家、去年末森の役に於ける諸士に、その戦功を賞して禄を加ふ。(袂草) 天正13年9月27日 798
1924   前田利家、去年末森の役に於ける諸士に、その戦功を賞して禄を加ふ。(袂草) 天正13年9月27日 798
1925   前田利家、去年末森の役に於ける諸士に、その戦功を賞して禄を加ふ。(袂草) 天正13年9月27日 798
1926   前田利家、宇野宗右衛門に、河北郡百弐拾俵の地を扶持す。(宇野文書) 天正13年9月27日 799
1927   鹿島郡鵜浦村の衛門に、羽咋郡気多社鵜祭の神事に奉仕する為田地を扶助す。(鵜浦村文書) 天正13年11月12日 799
天正14年(1586) 1928   石川郡白山宮、再興の為に奉加帳を製す。(白山比咩神社文書) 天正14年1月10日 799
1929   前田利家、石川郡佐那武社に、再興の為田二町を寄進す。(佐那武神社古文類聚) 天正14年1月22日 799
1930   前田利家、石川郡宮腰以下十五村に、佐那武社再興の為に馳走せしむ。(佐那武神社古文類聚) 天正14年1月22日 800
1931   前田利家、河北郡黒津舟社に、再興の為に田弐町を寄進す。(黒津舟神社文書) 天正14年1月22日 800
1932   前田利家、河北郡根布七村以下に、黒津舟社再興の為に馳走せしむ。(黒津舟神社文書) 天正14年1月22日 800
1933   前田利家、羽咋郡気多社に、例年の如く神幸を行はしむ。(気多神社文書) 天正14年2月8日 801
1934   前田利家、珠洲郡高座・金文両宮に、田地五町を寄進す。(須須神社文書) 天正14年2月13日 801
1935   珠洲郡馬緤の惣町、某に、米三十石を借用す。(馬緤村文書) 天正14年2月15日 801
1936   前田利家、河北郡倶利伽羅の百姓に、定書を与ふ。(倶利伽羅村文書) 天正14年4月2日 802
1937   前田利家、石川郡佐那武社に、制札を与ふ。(佐那武神社古文類聚) 天正14年5月2日 802
1938   羽柴秀吉、前田利家等に、佐竹氏の使僧の要する伝馬を給せしむ。(佐竹家文書) 天正14年5月24日 803
1939   羽柴秀吉、在京の前田利家の女麻阿姫に答書す。(保坂文書) 天正14年5月27日 803
1940   前田利勝、伊勢大神宮に、越中砺波郡小坂の内百弐十俵の地を寄進す。(堤文書) 天正14年6月15日 804
1941   前田利家、鹿島郡七尾魚町年寄に、同町以外に於いて魚類を売買するを禁ず。(七尾町文書) 天正14年7月4日 804
1942   前田利家、鳳至郡諸橋村に、前年の皆済状を与ふ。(諸橋文書) 天正14年7月5日 804
1943   前田利家、珠洲郡金峰寺に、前年の皆済状を与ふ。(金峰寺文書) 天正14年7月8日 805
1944   前田利家、鹿島郡石崎の百姓に、赤浦に於いて餌取を行布を許す。(石崎村文書) 天正14年7月11日 805
1945   前田利勝、越中砺波郡篠河村の市日を定む。(西照寺文書) 天正14年8月13日 805
1946   前田利家、京に聚楽亭を造営せらるゝを以て、鹿島郡大呑郷より人夫を徴す。(温故足徴) 天正14年8月16日 806
1947   鳳至郡阿岸村五郎左衛門等、本誓寺に、屋敷地を寄進す。(本誓寺文書) 天正14年9月6日 806
1948   前田利勝、越中砺波郡埴生八幡宮に、六十俵の地を寄進す。(護国八幡宮文書) 天正14年9月21日 807
1949   前田利勝、越中砺波郡埴生八幡宮に、制札を与ふ。(護国八幡宮文書) 天正14年9月21日 807
1950   前田利家、山城石清水八幡宮に、鹿島郡飯川八幡村の内七十俵の地を安堵せしむ。(石清水文書) 天正14年10月1日 807
1951   前田利次、越中砺波郡矢波村高徳寺に、壱町五段の地を寄進す。(永伝寺文書) 天正14年10月12日 807
1952   前田利家、羽咋郡の百姓に、その産駒を隠匿するを戒む。(三輪文書) 天正14年12月8日 807
1953   前田利家、羽咋郡の百姓に、その産駒を隠匿するを戒む。(三輪文書) 天正14年12月13日 808
1954   京大徳寺玉仲宗シュウ、前田利春の画像に讃す。(旧興臨院蔵書幅) 天正14年12月13日 808
天正15年(1587) 1955   前田利家京より、羽咋郡気多社に、その年始の御祓等を贈れるを謝す。(気多神社文書) 天正15年1月15日 809
1956   前田利家、能登の郡村に、その境界を正し田畠を荒廃せざらしむ。(三輪文書) 天正15年2月13日 809
1957   前田利家、金沢宝円寺の大透圭徐に、鳳至郡総持寺を再建せしむ。(竹内文書) 天正15年2月14日 810
1958   前田利家、将に九州に出征せんとするを以て、越中一向宗門徒の人質を徴す。(善徳寺文書) 天正15年2月15日 810
1959   前田利家、能登に産する駒の税額を定む。(三輪文書) 天正15年2月17日 810
1960   前田利家、能登に産する駒の税額を定む。(保坂氏文書) 天正15年2月17日 810
1961   豊臣秀吉、前田利勝に、その憮然巖石城攻撃に於ける軍功を賞す。(菅君雑録) 天正15年4月2日 811
1962   前田利家の奉行今井彦右衛門、鳳至郡山田郷院内村百姓に、山銭に相応する山地を分与すべきを告ぐ。(能登国古文書) 天正15年5月28日 811
1963   前田利家、珠洲郡西方寺村に、年貢皆済状を与ふ。(妙厳寺文書) 天正15年5月30日 811
1964   前田利家、珠洲郡西方寺村に、年貢皆済状を与ふ。(妙厳寺文書) 年未詳12月26日 812
1965   前田利家、鳳至郡中居村に、前年の皆済状を与ふ。(中居村三右衛門伝書) 天正15年6月3日 812
1966   前田利家、鳳至郡輪島鳳気至町・河井町に、索麺座の営業を自由ならしむ。(重蔵神社文書) 天正15年6月29日 813
1967   前田利家、鳳至郡志津良庄に、前年の皆済状を与ふ。(刀禰文書) 天正15年7月4日 813
1968   前田利次、越中砺波郡今石動永伝寺に、山地を寄進す。(永伝寺文書) 天正15年7月6日 814
1969   前田利家、鹿島郡熊来村百姓の年貢米の定納を定む。(北徴遺文) 天正15年7月10日 815
1970   前田利家、穴生源介に、百俵の地を扶持す。(穴生方伝書) 天正15年7月16日 815
1971   前田利勝、諸士に、豊前巖石城に於ける戦功を賞す。(遺編類纂) 天正15年8月7日 815
1972   前田利勝、諸士に、豊前巖石城に於ける戦功を賞す。(遺編類纂) 天正15年8月7日 815
1973   四郎三郎等、田所に、田地を返却す。(乗念寺文書) 天正15年10月14日 816
1974   前田利家、伊達政宗に、その豊臣秀吉と好を通ぜるを祝す。(伊達家文書) 天正15年12月11日 816
1975   前田利家、羽咋郡押水の内四十ヶ村新開の祖額を定む。(赤池文書) 天正15年12月 816
天正16年(1588) 1976   前田利家、鳳至郡荒屋組に、百姓を有せざる林文右衛門尉知行所の地を開墾すべきを命ず。(能登国古文書) 天正16年2月23日 817
1977   前田利家、伊達政宗に、鷹を豊臣秀吉に献すべきことを促す。(伊達家文書) 天正16年4月5日 817
1978   前田利家・利勝等、聚楽亭に於いて廷臣に誓書を上る。(聚楽第行幸記) 天正16年4月15日 818
1979   前田利家・利勝等、聚楽亭に於いて廷臣に誓書を上る。(聚楽第行幸記) 天正16年4月15日 818
1980   前田利家、羽咋郡邑知郷の百姓に、菅原の蔵米を羽咋まで運輸せしむ。(菅原村行長文書) 天正16年閏5月8日 819
1981   前田利家、羽咋郡邑知郷の百姓に、菅原の蔵米を羽咋まで運輸せしむ。(菅原村行長文書) 天正16年6月22日 819
1982   前田利家、羽咋郡邑知郷の百姓に、菅原の蔵米を羽咋まで運輸せしむ。(菅原村行長文書) 天正16年12月25日 819
1983   前田利家、伊達政宗に、その豊臣秀吉に献じたる鷹の嘉納せられたるを報ず。(伊達家文書) 天正16年7月4日 820
1984   前田利家、奥野与兵衛に、羽咋郡の内四百俵の地を加増扶持す。(北徴遺文) 天正16年8月4日 820
1985   前田利勝、越中勝興寺に、百俵の地を寄進す。(勝興寺文書) 天正16年10月1日 820
1986   前田利家、羽咋郡気多社に、制札を与ふ。(気多神社文書) 天正16年10月24日 821
1987   前田利家、領内百姓に、京大仏殿建築の資材として所有の刀・脇刺を提出せしむ。(古蹟文徴) 天正16年11月6日 821
1988   前田利家、領内百姓に、京大仏殿建築の資材として所有の刀・脇刺を提出せしむ。(青木文書) 天正16年11月6日 821
1989   前田利家、領内百姓に、京大仏殿建築の資材として所有の刀・脇刺を提出せしむ。(三輪文書) 天正16年11月6日 822
1990   前田利家、越中新川郡岩峅立山寺及び足峅中宮寺に、各百俵の地を寄進す。(雄山神社文書) 天正16年11月30日 822
1991   前田利家、越中新川郡岩峅立山寺及び足峅中宮寺に、各百俵の地を寄進す。(天正録) 天正16年11月30日 822
1992   前田利家、羽咋郡各村に、産駒の税を調査納入せしむ。(国初遺文) 天正16年12月5日 823
天正17年(1589) 1993   前田利家、上杉景勝に、不日その上洛せんとするを報ず。(上杉家文書) 天正17年6月25日 823
1994   前田利家の奉行等、鳳至郡山田郷院内村に、縄打目録を与ふ。(能登国古文書) 天正17年6月26日 824
1995   後陽成天皇、鳳至郡総持寺に、出世道場たらしめ給ふ。(総持寺文書) 天正17年6月27日 824
1996   後陽成天皇、鳳至郡総持寺に、出世道場たらしめ給ふ。(総持寺文書) 天正17年6月27日 824
1997   後陽成天皇、鳳至郡総持寺に、出世道場たらしめ給ふ。(総持寺文書) 天正17年6月27日 824
1998   前田利家、鳳至郡大澤村定納の祖額を定む。(能登国古文書) 天正17年7月5日 825
1999   前田利家、伊達政宗に、その芦名義広を討ちたることに就き豊臣秀吉に釈明するを慫慂す。(伊達家文書) 天正17年7月21日 825
2000   前田利家、鹿島郡能登島岩屋村に、去年の皆済状を与ふ。(能登国古文書) 天正17年9月13日 825
2001   前田利家、鳳至郡諸橋村に、去年の皆済状を与ふ。(諸橋文書) 天正17年9月13日 826
2002   前田利家、鳳至郡櫛比八ヶ並びに輪島のつづら藤売買に就きて徴税せしむ。(道下村文書) 天正17年9月18日 827
2003   前田利家、鳳至郡櫛比八ヶ並びに輪島のつづら藤売買に就きて徴税せしむ。(道下村文書) 年不詳11月13日 827
2004   前田利家、鹿島郡小島・所口の百姓に、所口屋敷の替地として明神野を与ふ。(所口村文書) 天正17年9月22日 828
2005   前田利家、羽咋郡大島村の堺兵衛に、四斗三升四合の地を扶持す。(大島村文書) 天正17年9月25日 828
2006   前田安継、岡田長右衛門に、鳳至郡二俣川の内二百俵の地を扶持す。(岡田文書) 天正17年9月28日 828
2007   前田安継、岡田長右衛門に、鳳至郡二俣川の内二百俵の地を扶持す。(岡田文書) 天正17年7月9日 828
2008   前田利家、羽咋郡気多社に、同社寄進地縄打出分の処置に関して告ぐ。(気多神社文書) 天正17年10月4日 829
2009   前田利家、羽咋郡気多社に、同社寄進地縄打出分の処置に関して告ぐ。(気多神社文書) 天正17年11月3日 829
2010   前田利家、羽咋郡気多社に、同社寄進地縄打出分の処置に関して告ぐ。(気多神社文書) 天正17年12月11日 829
2011   前田利家、伊達政宗に、豊臣秀吉の来春を以て小田原を征すべきを報じ、速やかにその上洛を促す。(伊達家文書) 天正17年12月5日 830
2012   前田利家、伊達政宗に、豊臣秀吉の来春を以て小田原を征すべきを報じ、速やかにその上洛を促す。(伊達家文書) 天正17年12月5日 830
天正18年(1590) 2013   小松城主村上頼勝の臣辻家政、能美郡湊村に、その地が諸役免除たるを以て、小田原陣の夫役を命ぜらるるも応ずべからざることを告ぐ。(湊村文書) 天正18年1月20日 831
2014   前田利家の臣村井長頼、伊達政宗の片倉景綱に、関東の陣中にて相会せんことを告ぐ。(伊達家文書) 天正18年1月23日 831
2015   前田利長、伊達政宗に、その上洛を促す。(伊達家文書) 天正18年1月26日 832
2016   前田利家、伊達政宗に、下野に出馬して小田原征討の軍に従ふべきことを勧む。(伊達家文書) 天正18年2月2日 832
2017   前田安勝、越中新川郡岩峅立山寺及び芦峅中宮寺の衆徒神主に、諸役を免除す。(雄山神社文書) 天正18年2月10日 833
2018   前田安勝、越中新川郡岩峅立山寺及び芦峅中宮寺の衆徒神主に、諸役を免除す。(芦峅一山会文書) 天正18年2月10日 833
2019   前田利家、信濃楢井の本陣原孫右衛門に、その加越能三州内にて商を営むとき諸役を免除せんことを約す。(能登国古文書) 天正18年3月13日 834
2020   前田利家、在能登の三輪吉宗等に、米穀を信濃川中島に輸送せしむ。(三輪文書) 天正18年3月25日 834
2021   前田利家、無足比企郡古寺村の岡本左門に、軍用米十二石を借用す。(遺編類纂) 天正18年4月 834
2022   前田利家、在金沢の前田安勝に命じ、米穀を越前敦賀に輸送せしむ。(金沢文書) 天正18年5月3日 835
2023   前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(八ツ島村文次文書) 天正18年5月 835
2024   前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(伊草村百姓文書) 天正18年5月 835
2025   前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(医王寺文書) 天正18年5月 835
2026   前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(報恩寺文書) 天正18年5月 836
2027   前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(正法寺文書) 天正18年5月 836
2028   前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(光明寺文書) 天正18年5月 837
2029   前田利家、武蔵・上野の社寺等に制札を与ふ。(赤石文書) 天正18年5月 837
2030   前田利家、武蔵龍穏寺に、旧に依りて同寺領の百姓をして馳走せしむ。(龍穏寺文書) 天正18年6月1日 837
2031   前田利家、長連龍等に、武蔵石橋村の陣所を守らしむ。(寸錦雑編) 天正18年6月3日 838
2032   前田利長、有賀直政に、武蔵八王子の役にその子長治の勇戦せることを報ず。(有賀文書) 天正18年6月24日 838
2033   前田利長等、武蔵宝生寺等に、制札を与ふ。(宝生寺文書) 天正18年6月24日 838
2034   前田利長等、武蔵宝生寺等に、制札を与ふ。(宝生寺文書) 天正18年6月24日 838
2035   前田利長等、武蔵二本木村百姓に、利長等の判形を所持せざる者に対して夫役・伝馬を供給せざらしむ。(二本木村兵衛文書) 天正18年6月24日 839
2036   前田利家、三輪吉宗に、武蔵八王子の役にその子吉富の戦没せることを報ず。(三輪文書) 天正18年6月27日 839
2037   前田利家、武蔵多摩郡高乗寺に、制札を与ふ。(高乗寺文書) 天正18年6月 840
2038   前田利家等、武蔵鉢形に、制札を建つ。(小前田村町田文書) 天正18年6月 840
2039   前田利家、武蔵入間郡北野村天神社に、祈祷を命ず。(北野村天神神主文書) 天正18年7月5日 840
2040   前田利家、武蔵入間郡北野村天神社に、祈祷を命ず。(北野村天神神主文書) 天正18年月日不詳 841
2041   前田利家、在京の夫人に、相模小田原城主北条氏直の降りたることを報ず。(三輪文書) 天正18年7月10日 841
2042   前田利政、三輪吉宗に、その子吉富の戦没を弔す。(遺編類纂) 天正18年7月16日 842
2043   前田利家下野鹿沼より、浅野長政に、鷹の贈遺を求む。(浅野家文書) 天正18年7月18日 842
2044   前田利家、三輪吉宗に、その子吉富の武蔵八王子役に戦没せる状を報ず。(三輪文書) 天正18年7月22日 842
2045   前田利家、浅野長政に、豊臣秀吉の布教を赦免せられたるを喜べる意を報ず。(浅野家文書) 天正18年7月25日 842
2046   前田利家、在京の木村作右衛門等に、出羽仙北・庄内・由利の一揆の起れることを報ず。(温故足徴) 天正18年10月18日 843
2047   前田利長、不破直光に、明日前田利家の出羽仁賀保に陣を移すべきことを報ず。(寸錦雑編) 天正18年10月23日 843
2048   前田利家、在金沢の前田安勝に、将に帰陣せんとするを告ぐ。(寸錦雑編) 天正18年10月 844
2049   豊臣秀吉、越前北庄城主堀秀政の子秀治に襲封せしめ、大聖寺の村上頼勝・小松の溝口秀勝をして旧の如くその与力たらしむ。(遺編類纂) 天正18年11月4日 844
2050   前田利家、伊達政宗に、陸奥の仕置を終り加賀に帰りたる後更に上洛したることを報ず。(伊達家文書) 天正18年42360 845
天正19年(1591) 2051   伊達政宗遠江浜松より、前田利家に、その懇情を謝し且豊臣秀吉に斡旋を嘱す。(古蹟文徴) 天正19年閏1月23日 845
2052   前田安勝、鳳至郡の諸村に、百姓を撫恤し敢へて逃走勿らしむ。(能登国古文書) 天正19年2月17日 846
2053   前田安勝、鳳至郡の諸村に、百姓を撫恤し敢へて逃走勿らしむ。(三輪文書) 年不詳4月1日 846
2054   豊臣秀吉、前田利家に、その関東の役に於ける戦功を賞す。(拾遺温故雑帖) 天正19年3月19日 847
2055   豊臣秀吉、前田利家に、征明の軍を起すの決意を告ぐ。(前田家文書) 天正19年4月8日 847
2056   前田利長、越前敦賀の高島屋伝右衛門に、米国売却の為尽力すべきを依頼す。(小宮山文書) 天正19年4月27日 848
2057   前田利家、越前敦賀の高島屋伝右衛門に領内より漕運する米国の裁許を命ず。。(小宮山文書) 天正19年5月24日 848
2058   前田利家、鳳至郡諸橋村に、前々年の皆済状を与ふ。(諸橋文書) 天正19年7月20日 848
2059   前田利家、鹿島郡七尾古屋敷に、皆済状を与ふ。(能登国古文書) 天正19年7月26日 849
2060   小松城主村上頼勝、能美郡長田村に、検地帳を与ふ。(事林明証) 天正19年9月21日 849
2061   小松城主村上頼勝、能美郡長田村に、検地帳を与ふ。(熊田氏文書) 年不詳1月25日 851
2062   前田利家・利長、豊臣秀吉の御話衆を命ぜらる。(千手院文書) 天正19年9月23日 851
2063   前田利家、石黒善九郎等に、羽咋郡の知行所付を与ふ。(能登国古文書) 天正19年10月26日 852
2064   前田利家、金沢・七尾間に於ける伝馬・人足徴発の法を定む。(国初遺文) 天正19年11月3日 853
2065   前田利家、金沢・七尾間に於ける伝馬・人足徴発の法を定む。(七尾町伝書) 天正19年11月 853
2066   前田利長、越中澤川の百姓田畑兵衛に、旧に依りてその持分の山を扶持す。(田畑文書) 天正19年11月7日 853
2067   前田利家、鹿島郡石動山天平寺に、大呑荘澤野の内百俵を寄進す。(石動山文書) 天正19年11月25日 854
天正20年、文禄元年(1592) 2068   前田利長、配下の士に、征明の役に従ふ為九州に出陣を命ず。(近藤文書) 天正20年、文禄元年1月7日 854
2069   前田利家、高畠定吉に、その録進したる軍役の定員より少きを難詰す。(高畠文書) 天正20年、文禄元年2月15日 854
2070   前田安勝、越前敦賀の米穀を九州に輸する為加賀・能登の水手を徴す。(小宮山文書) 天正20年、文禄元年2月18日 855
2071   前田利家、石見の津吏に、肥前名護屋に廻漕する兵糧米の船役を課すること勿らしむ。(寸錦雑編) 天正20年、文禄元年3月16日 855
2072   鳳至郡明泉寺観音堂の建立成る。(明泉寺棟札) 天正20年、文禄元年6月18日 855
2073   豊臣秀吉、在外の軍に、前田利家を名代として渡海せしむべきを告ぐ。(国祖遺言) 天正20年、文禄元年9月7日 856
2074   豊臣秀次、前田利家に、勅命に依りて秀吉の肥前名護屋下向を一ヶ月延期したることを報ず。(温故集録) 天正20年、文禄元年9月14日 856
2075   前田利家肥前名護屋より、在能登の今井彦右衛門に、厳に今年の祖を徴すべきことを命ず。(三輪文書) 天正20年、文禄元年9月19日 856
2076   豊臣秀吉、明国和を請ふに依り、先に前田利家を名代として渡海すべき命を与へたるを撤回す。(拾遺温故雑帖) 天正20年、文禄元年9月21日 857
2077   豊臣秀吉、明国和を請ふに依り、先に前田利家を名代として渡海すべき命を与へたるを撤回す。(遺編類纂) 天正20年、文禄元年9月15日 857
2078   長連龍、その所領鹿島郡能登部上村に検地帳を与ふ。(能登部村文書) 天正20年、文禄元年10月1日 858
2079   前田利長京より、在能登の三輪吉宗に、豊臣秀吉乗艦の用材を準備せしむ。(三輪伝書) 天正20年、文禄元年10月14日 859
2080   豊臣秀吉肥前名護屋に於いて、前田利家に、昨日茗讌に招請せられたるを謝す。(国初遺文) 天正20年、文禄元年11月6日 859
2081   豊臣秀吉、側室加賀殿に、明春高麗に渡海すべきことを告ぐ。(前田文書) 天正20年、文禄元年12月6日 860
2082   豊臣秀吉、側室加賀殿に、明春高麗に渡海すべきことを告ぐ。(原文書) 天正20年、文禄元年12月26日 860
2083   豊臣秀吉、側室加賀殿に、明春高麗に渡海すべきことを告ぐ。(石﨑文書) 天正20年、文禄元年17日 861
文禄2年(1593) 2084   前田利家名護屋より、在能登の三輪吉宗等に、豊臣秀吉渡海の期定まりたるを以て、急に準備の為大坂に上るべきを命ず。(三輪文書) 文禄2年1月3日 861
2085   前田利長、在国の某に、豊臣秀吉の乗艦の用に供する銅・金箔を徴す。(温故足徴) 文禄2年1月29日 862
2086   前田利家、小幡彦三郎に、その将に渡海せんとするを告ぐ。(貴田文書) 文禄2年2月2日 863
2087   前田利長、越中砺波郡今石動永伝寺に、百俵の地を寄進す。(永伝寺文書) 文禄2年3月20日 863
2088   前田利家、能登銀座に、上納金を精査して判を施さしむ。(七尾町伝書) 文禄2年3月 863
2089   前田利家肥前名護屋より、在金沢の篠原一孝・能登の三輪吉宗等に、刀槍装飾の為の金銀箔調製を命ず。(三輪文書) 文禄2年4月7日 863
2090   前田利家肥前名護屋より、在金沢の篠原一孝・能登の三輪吉宗等に、刀槍装飾の為の金銀箔調製を命ず。(三輪文書) 文禄2年2月7日 864
2091   本願寺の坊官下間頼廉、珠洲郡鵜飼妙厳寺に、宗祖絵像安置の許可せられたることを報ず。(能登国古文書) 文禄2年5月23日 865
2092   前田利家、越中新川郡宝福寺に、百俵の地を寄進す。(宝福寺文書) 文禄2年5月24日 865
2093   前田利長、徳山秀現に、前田利家の帰陣すべき時期を質す。(能登国古文書) 文禄2年6月3日 865
2094   前田利家、利光院に、明使謝用梓等の肥前名護屋に来着せることを報ず。(本願寺文書) 文禄2年6月1日 866
2095   前田利家、利長に、その弟利政の能登に封ぜられたることを告ぐ。(前田家文書) 文禄2年9月19日 866
2096   長連龍、徳田利兵衛に、鹿島郡内の地二百俵を扶持す。(徳田文書) 文禄2年閏9月26日 866
2097   長連龍、石寺喜右衛門に、鹿島郡小田中三百俵の地を扶持す。(三引文書) 文禄2年閏9月26日 867
文禄3年(1594) 2098   前田安勝、前田利家の命により、能登一向宗寺院の諸税を免除す。(妙厳寺文書) 文禄3年2月30日 867
2099   前田安勝、鹿島郡七尾町奉行に、檜物師二人を上洛せしむべきことを命ず。(七尾町伝書) 文禄3年3月25日 867
2100   前田安勝、鹿島郡七尾町奉行に、檜物師二人を上洛せしむべきことを命ず。(七尾町伝書) 年不詳11月4日 868
2101   前田利家摂津有馬温泉より、本願寺准如に、その使者を派し物を贈りたるを謝す。(本願寺文書) 文禄3年5月4日 868
2102   前田利家、木村作右衛門外三人が伏見城築造の工事を怠りたるを以てその知行を没収す。(三輪文書) 文禄3年6月15日 869
2103   前田利家、鳳至郡大澤村の内記に、肥前名護屋に運漕したる米の勘定状を与ふ。(筒井文書) 文禄3年7月19日 869
2104   前田利家、金沢本願寺末寺に制札を与ふ。(北徴遺文) 文禄3年7月 869
2105   前田利家、金沢尾山町年寄に、犀川・浅野川両橋架設のことに就いて書を与ふ。(竹屋文書) 文禄3年9月7日 870
2106   前田利家、金沢尾山町中に、その銀子を贈れるを謝す。(竹屋文書) 文禄3年10月8日 870
2107   前田利家、鶴見彦介に、山城伏見邸の築造に関して告ぐ。(国初遺文) 文禄3年11月17日 870
文禄4年(1595) 2108   豊臣秀次、前田利家に、その入湯中の起居を問ひ且鷹の雁を贈る。(舟木文書) 文禄4年1月29日 871
2109   豊臣秀吉、前田利家・徳川家康二人をして、会津城主蒲生氏郷卒後の租納を監せしむ。(妙覚寺文書) 文禄4年2月9日 872
2110   豊臣秀吉、前田利家に、近江今津・弘川二邑を与ふ。(国初遺文) 文禄4年3月6日 872
2111   前田利家、小林重昌に、飛騨白川への輸出米に関して告ぐ。(小林文書) 文禄4年4月21日 872
2112   前田利家、小林重昌に、飛騨白川への輸出米に関して告ぐ。(小林文書) 文禄4年6月29日 873
2113   前田利家、豊臣秀吉の子おひろひ秀頼に太刀・馬を贈る。(前田家文書) 文禄4年5月5日 873
2114   前田利家、在能登の三輪吉宗に、浅野幸長がその地に移り住せんとすることを告ぐ。(三輪文書) 文禄4年6月16日 873
2115   前田利政、在能登の三輪吉宗に、浅野幸長の将にその地に移らんとするを告ぐ。(三輪文書) 文禄4年6月18日 874
2116   徳川家康、前田利家に、蒲生秀行等のことについて消息を与ふ。(北徴遺文) 文禄4年6月21日 874
2117   前田利長、今枝重直を禄して家臣とす。(今枝家譜) 文禄4年9月1日 875
2118   村井長頼等、伊勢の御師堤源介に、旧に依り越中射水郡小境村の神領を管せしむ。(堤文書) 文禄4年10月12日 875
文禄5年、慶長元年(1596) 2119   前田利家、在能登の三輪吉宗等に、鹿島郡七尾の市区経営等に就いて告ぐ。(三輪文書) 文禄5年、慶長元年4月15日 875
2120   前田利家、鹿島郡能登部上村の兄宮に、制札を与ふ。(能登部神社文書) 文禄5年、慶長元年6月29日 876
2121   前田利家伏見より、在能登の三輪吉宗等に、震災後の建築材料として縄及び竹釘を送付せしむ。(三輪文書) 文禄5年、慶長元年閏7月15日 877
2122   前田利家、在能登の三輪吉宗に、その地に蟄居する浅野幸長の罪の赦免せられたることを報ず。(三輪文書) 文禄5年、慶長元年閏7月22日 877
2123   前田利家、鹿島郡七尾所口府中町民の山城伏見の震災に就いて慰問したるを謝す。(能登国古文書) 文禄5年、慶長元年8月3日 877
2124   前田利家、在能登の三輪吉宗に、浅野幸長の前住宅の処置等に就いて告ぐ。(三輪文書) 文禄5年、慶長元年8月18日 878
2125   前田利家、越前敦賀の高島屋伝右衛門に、縄・炭以下の物資を輸送せしむ。(小宮山文書) 文禄5年、慶長元年9月18日 878
2126   前田利家、在能登の三輪吉宗に、再び浅野幸長の前住宅の処分等に就いて告ぐ。(三輪文書) 文禄5年、慶長元年10月1日 878
慶長2年(1597) 2127   仮掲(東本願寺別院文書) 慶長2年4月7日 879
2128   仮掲(東本願寺別院文書) 慶長2年4月7日 879
2129   仮掲(長橋神明宮棟札) 慶長2年6月15日 879
2130   前田利家、鹿島郡天平時の僧徒に、石動山の旧地に還住することを許す。(能登部神社文書) 慶長2年7月9日 880
2131   前田利家、本願寺准如に、その使者下間法橋を派遣して不参の末寺を調査せんとするに答ふ。(本願寺文書) 慶長2年7月9日 880
2132   仮掲(長福寺文書) 慶長2年7月12日 880
2133   空照、前田利家の女加賀殿の石川郡白山宮に奉納する額面の裏書を作る。(白山比咩神社蔵額面) 慶長2年7月28日 881
2134   空照、前田利家の女加賀殿の石川郡白山宮に奉納する額面の裏書を作る。(白山比咩神社額面裏書写) 慶長2年7月28日 881
慶長3年(1598) 2135   前田利家、河北郡森下の紺屋孫十郎に、自今専ら藩用の染色を掌らしむ。(館紺屋文書) 慶長3年4月21日 882
2136   前田利家、上野草津温泉に在りて能登覚知より見舞を受く。(新編御系譜需備抄録) 慶長3年5月7日 882
2137   前田利家、上野草津温泉に在りて能登覚知より見舞を受く。(新編御系譜需備抄録) 慶長3年5月9日 882
2138   前田利家、上野草津温泉に在りて能登覚知より見舞を受く。(七尾町伝書) 慶長3年5月25日 883
2139   前田利家上野草津より、上杉景勝に、その会津に国替せるを賀す。(上杉家文書) 慶長3年5月25日 883
2140   前田利家越中富山より、羽咋郡気多社宮司に、湯治見舞を謝す。(気多神社文書) 慶長3年6月20日 883
2141   前田利家、在能登の三輪吉宗に、所々の山税増徴を命ず。(三輪文書) 慶長3年6月26日 884
2142   豊臣秀吉の奉行朽木元綱、越前北袋之内西山新保村に検地帳を与ふ。(新丸村文書) 慶長3年6月28日 884
2143   前田利家、在能登の今井彦右衛門に、山税に関して令す。(三輪文書) 慶長3年7月23日 886
2144   豊臣秀吉の奉行林伝右衛門尉、能美郡林村に検地帳を与ふ。(矢田野村文書) 慶長3年7月 886
2145   豊臣秀吉、前田利家等に、子秀頼を託す。(毛利家文書) 慶長3年8月5日 887
2146   前田利家、豊臣氏の五奉行に、秀吉の薨後秀頼に対する忠誠を誓ふ。(国初遺文) 慶長3年8月5日 887
2147   江沼郡の領主小早川秀秋、国司土佐守に、富塚村等六百石の地を知行せしむ。(萩藩閥閲録) 慶長3年8月5日 888
2148   江沼郡の領主小早川秀秋、龍野孫兵衛尉に、横北村等五百石の地を知行せしむ。(黄薇古簡集) 慶長3年8月5日 889
2149   江沼郡の領主小早川秀秋、原田四郎左衛門に、水田丸村等四百石の地を知行せしむ。(土佐国蠧簡集残編) 慶長3年8月5日 889
2150   前田利家、豊臣氏の五奉行に、再び秀頼に対する忠誠を誓ふ。(国初遺文) 慶長3年8月8日 890
2151   前田利家、岡田長右衛門等に、検見に就いて令す。(菅原村行長文書) 慶長3年8月9日 890
2152   前田利家等豊臣氏の諸大老、秀吉の病中は知行方その他仕置を改めざるべきことを契約す。(毛利家文書) 慶長3年8月10日 891
2153   前田利家等豊臣氏の諸大老諸奉行、更に秀吉に忠誠を誓ふ。(浅野家文書) 慶長3年9月3日 891
2154   前田利家、越後能生より桜樹を徴す。(能生駅文書) 慶長3年9月7日 892
2155   前田利家、石川郡番田・上安田両村に、その諸税を免除す。(高徳公御印書写) 慶長3年9月8日 893
2156   前田利長、その妹千代姫に、粧田五百石を与ふ。(村井文書) 慶長3年9月23日 893
2157   丹羽長重、上坂権平に、能美郡一針村の内を知行せしむ。(上坂文書) 慶長3年9月24日 893
2158   前田利政、馬廻の士をして山城伏見に勤番せしむ。(三輪文書) 慶長3年9月25日 894
2159   前田利家、高畠定吉に、石川郡鞍ヶ嶽の金坑を試掘せしむ。(高畠文書) 慶長3年10月15日 894
2160   山口宗永、江沼郡菅生石部社に、旧に依りその屋敷廻の地を知行せしむ。(菅生石部神社文書) 慶長3年10月27日 895
2161   願主某等、鹿島郡気多本宮社殿を造営す。(能登生国玉比古神社蔵棟札) 慶長3年12月13日 895
2162   前田利家等豊臣氏の諸大老、近江三井寺に寺領を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長3年12月26日 895
2163   前田利家等伏見より、在能登の三輪吉宗等に、豊臣秀頼に贈るべき矮馬を求めしむ。(三輪文書) 慶長3年12月29日 896
慶長4年(1599) 2164   前田利家、前田利政に、その侍頭の大坂上途を督促せしむ。(拾遺温故雑帖) 慶長4年2月4日 896
2165   前田利家等豊臣氏の諸大老諸奉行、徳川家康と誓書を交換す。(遺編類纂) 慶長4年2月5日 896
2166   前田利家等豊臣氏の諸大老、越前及び加賀江沼郡領主小早川秀秋を筑前・筑後に転封す。(毛利家文書) 慶長4年2月5日 897
2167   前田利家等豊臣氏の諸大老、山口修弘に、その旧領越前の易地として江沼郡の内一万三千石を領知せしむ。(毛利家文書) 慶長4年2月5日 898
2168   前田利家、在能登の三輪吉宗等に、百姓の坑夫として佐渡に赴くを禁ぜしむ。(三輪文書) 慶長4年2月14日 898
2169   前田利政、不破又兵衛等に、鹿島郡大津に於いて扶持方を給す。(温故足徴) 慶長4年2月15日 899
2170   徳川家康、藤堂高虎に、その前田利家と入魂なることを報ず。(藤堂家文書) 慶長4年2月29日 899
2171   前田利家、斎藤勘平以下の諸士に、石川・河北郡に於ける領知を与ふ。(茨木文書) 慶長4年2月 899
2172   前田利家、金沢宝円寺に、河北郡月影村百五拾四俵二斗五升の地を寄進す。(考拠摘録) 慶長4年2月 900
2173   徳川家康、書を以て前田利家の病状を問ふ。(菅原村行長文書) 慶長4年3月13日 900
2174   前田利家等、荒木三平等に、豊臣秀頼の命に依り竹島の巣鷹持参を命ず。(拾遺温故雑帖) 慶長4年3月18日 901
2175   徳川家康、再び書を以て前田利家の病状を問ふ。(北徴遺文) 慶長4年3月19日 901
2176   前田利家大坂に於いて、その夫人に筆を執らしめて子利長に遺訓す。(越登賀三州志) 慶長4年3月21日 901
2177   前田利家、河北郡津幡の市日等に関する規定を令す。(津幡少右衛門文書) 慶長4年3月 904
2178   前田利長等豊臣氏の諸大老、諸士に領地を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年閏3月3日 904
2179   前田利長等豊臣氏の諸大老、諸士に領地を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年閏3月3日 904
2180   前田利長等豊臣氏の諸大老、諸士に領地を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年閏3月3日 905
2181   前田利長、高畠定吉に、故利家の葬礼のことに関して告ぐ。(北徴遺文) 慶長4年4月3日 905
2182   前田利長等豊臣氏の諸大老、禁制違犯者の処分に関して契約す。(毛利家文書) 慶長4年5月11日 906
2183   前大徳寺住持先甫宗賢、前田利家の画像賛を作る。(蓮江寺蔵前田利家画像讃) 慶長4年7月 907
2184   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 907
2185   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 907
2186   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 907
2187   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 908
2188   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 908
2189   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 908
2190   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 909
2191   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 909
2192   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 909
2193   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 910
2194   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 910
2195   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 910
2196   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 910
2197   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 911
2198   前田利長等豊臣氏の諸大老、社寺及び諸士に領知を宛行ふ。(毛利家文書) 慶長4年8月7日 911
2199   前田利政、桜井八左衛門尉に、四百俵の扶持を加増す。(前田文書) 慶長4年10月6日 911
慶長5年(1600) 2200   前田利長、金沢の本願寺末寺に制札を与ふ。(徴古文書) 慶長5年3月17日 912
2201   三輪彦衛門等、鹿島郡久麻加夫都阿良加志比古社の上葺を行ふ。(久麻加夫都阿良加志比古神社棟札) 慶長5年3月 912
2202   前田利家の後室芳春院、鳳至郡輪島蓮江寺に、高二十俵の地を寄進す。(蓮江寺文書) 慶長5年4月10日 912
2203   前田利家の後室芳春院、鳳至郡輪島蓮江寺に、高二十俵の地を寄進す。(蓮江寺文書) 年不詳4月26日 913
2204   豊臣氏の奉行等、浜松城主堀尾忠氏に、前田利長の母芳春院の江戸に下らんとしてその地に宿泊する際賄を交附せしむ。(拾遺温故雑帖) 慶長5年5月13日 913
2205   前田利長、山崎長徳に、上国将に干戈の事あらんとするを以て諸士に指物を準備せしむ。(加賀国古文書) 慶長5年5月16日 914
2206   前田利長、河北郡森下の館紺屋孫二郎に、金沢の染工を統べしむ。(館紺屋文書) 慶長5年5月27日 914
2207   前田利長、河北郡森下の館紺屋孫二郎に、金沢の染工を統べしむ。(館紺屋文書) 慶長5年5月27日 914
2208   前田利政、田清六に、その室を大坂より下国せしむる為尽力せんことを求む。(遺編類纂) 慶長5年6月16日 915
2209   徳川家康、屋代勝永をして、前田利長が会津進撃の際に於ける先手等を命ぜしむ。(加賀国古文書) 慶長5年7月7日 915
2210   前田利長、象山徐芸の隠居宝円寺に石川郡野田山の下刈を許さしむ。(国事雑抄) 慶長5年7月13日 916
2211   前田利政、桜井八左衛門尉に、知行所付を与ふ。(前田文書) 慶長5年7月13日 916
2212   前田利政、桜井八左衛門尉に、その知行を加増す。(前田文書) 慶長5年7月17日 916
2213   前田利長、能美郡湊村に制札を建て、士庶の乱妨と放火・苅田とを禁ず。(湊村文書) 慶長5年7月25日 917
2214   前田利長石川郡福留より、金沢の留守高畠定吉に、その進軍の状を報ず。(高畠文書) 慶長5年7月26日 917
2215   毛利輝元等、前田利長に、豊臣氏の軍に従はんことを慫慂す。(北徴遺文) 慶長5年7月27日 917
2216   豊臣氏の奉行等、真田昌幸に、前田利長の陽に東軍と絶つ能はざることを報ず。(真田家文書) 慶長5年7月29日 918
2217   豊臣氏の奉行等、真田昌幸に、前田利長の陽に東軍と絶つ能はざることを報ず。(真田家文書) 慶長5年7月30日 918
2218   前田利長、高畠定吉に、その送付したる鉄砲等を領収したることを告ぐ。(高畠文書) 慶長5年7月30日 919
2219   前田利長、富田重政に、その知行を増加すべきことを約す。(拾遺温故雑帖) 慶長5年7月 919
2220   前田利長、その馬廻組の遵守すべき置目を定む。(北徴遺文) 慶長5年8月2日 919
2221   前田利長、高畠定吉に、江沼郡大聖寺攻城の勝利を報ず。(高畠文書) 慶長5年8月3日 920
2222   前田利長、高畠定吉に、大聖寺城塀柵普請の為滞留することを報ず。(菅君雑録) 慶長5年8月5日 920
2223   徳川秀忠、前田利長の臣等が、利長の北國筋仕置の為加賀・越前の境に出馬したるを報じたるに答ふ。(遺編類纂) 慶長5年8月8日 921
2224   前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) 慶長5年8月12日 921
2225   前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) 慶長5年8月12日 921
2226   前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(水越文書) 慶長5年8月12日 921
2227   前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) 慶長5年8月12日 922
2228   前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) 慶長5年8月12日 922
2229   前田利長、能美郡浅井の戦役に功を顕したる諸士に感状を与ふ。(拾遺温故雑帖) 慶長5年8月12日 922
2230   前田利長再び出陣せんとし、前田利政に、能登勢を率ゐて速かに発途すべきを促す。(遺編類纂) 慶長5年8月13日 922
2231   徳川家康、前田利家に、自ら軍を美濃口に進むべきことを告ぐ。(古案記) 慶長5年8月13日 923
2232   高畠定吉、小寺弥三に、越中氷見早樫村の地を扶持す。(吉野村弥兵衛文書) 慶長5年8月15日 923
2233   高畠定吉、小寺弥三に、越中氷見早樫村の地を扶持す。(遺編類纂) 慶長5年8月24日 923
2234   徳川家康、在江戸の村井長頼に、前田利長の大聖寺攻略の功を褒賞することをその母芳春院に告げしむ。(村井家記) 慶長5年8月26日 923
2235   前田利長、黒田長政等に、軍状を報ず。(黒田家文書) 慶長5年9月3日 924
2236   前田利長、在江戸の村井長頼に、大聖寺の戦勝を報じ、且利政の能登の兵を出さざるが故に出征の遷延せることを述ぶ。(前田家文書) 慶長5年9月5日 924
2237   徳川家康、前田利長に、その軍状を報じて出征を促す。(拾遺温故雑帖) 慶長5年9月8日 925
2238   徳川家康岐阜より、丹羽長重に、速かに前田利長と和して越前に進むべきを命ず。(丹羽家年譜) 慶長5年9月13日 926
2239   徳川家康岐阜より、土方雄久に、前田利長をして速かに南進せしむべきことを計らしむ。(温故遺文) 慶長5年9月13日 926
2240   徳川家康の臣西尾隠岐守等、小松城主丹羽長重に、その前田利長と和せんとするを家康の賞したることを報ず。(丹羽家御年譜) 慶長5年9月14日 926
2241   徳川秀忠、前田利長の臣横山長知に、大聖寺の戦勝を祝し且再び上口に出兵せんとするを嘉す。(横山文書) 慶長5年9月15日 927
2242   前田利長、高畠定吉に、小松城主丹羽長重と和議の成りたることを告ぐ。(遺編類纂) 慶長5年9月18日 927
2243   前田利長、在江戸の村井長頼に、丹羽長重との和既に成り、将に上国に赴きて徳川家康に閲せんとすることを報ず。(前田家文書) 慶長5年9月18日 928
2244   前田利長、溝江彦三郎に、徳川家康に対して周旋すべきことを誓ふ。(溝江文書) 慶長5年9月18日 928
2245   前田利長、秋田城主秋田実季に、加賀の形成を報じ、又速かに徳川家康の為に出兵せんことを勧む。(前田家文書) 慶長5年9月18日 929
2246   前田利長、高畠定吉に、陣を大聖寺に転じたることを報ず。(菅君雑録) 慶長5年9月19日 929
2247   徳川家康、前田利長に、美濃関ヶ原に於ける戦闘の勝利を報ず。(東老田田村忠兵衛文書) 慶長5年9月22日 930
2248   前田利長、その臣高山南坊等に、徳川家康の命に依り明日山城西ノ岡附近に進軍せしむ。(加賀国古文書) 慶長5年9月25日 930
2249   前田利長、在能登の三輪吉宗に、関ヶ原合戦の終末を報ず。(三輪文書) 慶長5年9月26日 930
2250   前田利長、溝江彦三郎に、昨日山城西ノ岡に至り、明日大坂に進むべきを報ず。(溝江文書) 慶長5年9月27日 931
2251   前田利長、能美郡小松大文字屋源兵衛に天秤職を命ず。(拾葉遺文) 慶長5年11月5日 931
2252   前田利長、在江戸の村井長頼に、弟猿千代が徳川秀忠の女珠姫と婚を約するを以て結納の使者たらしむ。(前田家文書) 慶長5年11月10日 931
2253   前田利長、羽咋郡気多社に、二百石の地を安堵せしむ。(気多神社文書) 慶長5年12月10日 932
2254   前田利長、羽咋郡気多社に、二百石の地を安堵せしむ。(気多神社文書) 慶長5年12月10日 932
年不詳(年不詳) 2255   雑載1 本願寺関係文書(誠新年之嘉慶、蓮如→浄教坊)(善照坊文書) 年不詳2月4日 933
2256   雑載1 本願寺関係文書(深雪ニ候処、蓮如→)(上宮寺文書) 年不詳11月8日 933
2257   雑載1 本願寺関係文書(毎度志ども返々ありがたく候、蓮如→四講中)(帖外御文) 年不詳11月28日 933
2258   雑載1 本願寺関係文書(四講毎年約束之分、蓮如→四講中)(帖外御文) 年不詳11月25日 934
2259   雑載1 本願寺関係文書(四講中年貢之分、蓮如→加賀能美郡四講中)(興善寺文書) 年不詳11月6日 934
2260   雑載1 本願寺関係文書(依其方望、蓮如→加州能美郡軽海之郷本光寺)(興善寺文書) 年不詳5月8日 934
2261   雑載1 本願寺関係文書(七高僧御影之事誂置候、蓮如→四講中)(善性寺文書) 年不詳2月28日 934
2262   雑載1 本願寺関係文書(其後何事候哉と、蓮如→)(善性寺文書) 年不詳7月10日 934
2263   雑載1 本願寺関係文書(当年為祝儀之百疋満足候、実如→専光寺)(専光寺文書) 年不詳5月28日 935
2264   雑載1 本願寺関係文書(為志銀子三枚到来、実如→加賀河北郡八田・大浦・千木・木越、光徳寺、廿八日講中)(光徳寺文書) 年不詳4月1日 935
2265   雑載1 本願寺関係文書(久く法義被信長に迫、顕如→加州坊主衆・門徒中)(西本願寺別院文書) 年不詳5月21日 936
2266   雑載1 本願寺関係文書(近年当国之儀及大乱、顕如→加州惣門徒中)(専光寺文書) 年不詳8月17日 936
2267   雑載1 本願寺関係文書(為報恩講之志弐拾疋給候、顕如→梅原少将)(本龍寺文書) 年不詳42337 937
2268   雑載1 本願寺関係文書(従講中黄金四匁三分、顕如→能州廿五日講中)(光徳寺文書) 年不詳10月10日 937
2269   雑載1 本願寺関係文書(近年其元隣国之儀及大乱、顕如→能登惣門徒中)(本誓寺文書) 年不詳8月17日 937
2270   雑載1 本願寺関係文書(為志銀子百疋到来候、教如→能州鳳至郡クロシマ村・太郎右衛門・兵右衛門・弥三・志衆中)(名願寺文書) 年不詳7月28日 938
2271   雑載1 本願寺関係文書(為志銀子百疋到来候、教如→越前坂北郡吉崎志衆中・加州米(江沼)郡所々志衆中)(願慶寺文書) 年不詳4月13日 938
2272   雑載2 畠山氏関係文書(巻数一枝令頂戴候、義統→祇園修行御坊)(祇園社記) 年不詳8月5日 938
2273   雑載2 畠山氏関係文書(雁二到来候、義統→天野加賀入道)(古蹟文徴) 年不詳12月27日 939
2274   雑載2 畠山氏関係文書(就作善之儀、義統→天野加賀入道)(天野文書) 年不詳10月5日 939
2275   雑載2 畠山氏関係文書(加賀入道章慶跡之事、義統→天野彦次郎)(天野文書) 年不詳5月10日 939
2276   雑載2 畠山氏関係文書(為年始御祈念、義元→宝寿院)(八坂神社文書) 年不詳2月23日 939
2277   雑載2 畠山氏関係文書(誠祝儀万幸候、義元→宝寿院)(八坂神社文書) 年不詳3月18日 939
2278   雑載2 畠山氏関係文書(祈念之巻数一合、義元→宝寿院)(八坂神社文書) 年不詳5月7日 940
2279   雑載2 畠山氏関係文書(就祝儀預芳問候、義元→総持寺)(総持寺文書) 年不詳12月19日 940
2280   雑載2 畠山氏関係文書(彼之寺中よりの被申事委曲承候、義元→興徳寺)(総持寺文書) 年不詳6月20日 940
2281   雑載2 畠山氏関係文書(為年始祈祷、義元→永光寺)(永光寺文書) 年不詳3月14日 940
2282   雑載2 畠山氏関係文書(六月廿六日書状、義元→天野二郎左衛門尉)(天野文書) 年不詳7月13日 940
2283   雑載2 畠山氏関係文書(急度用之子細候、義元→天野次郎左衛門尉)(天野文書) 年不詳7月18日 941
2284   雑載2 畠山氏関係文書(和田彦五郎申付出津、義元→天野次郎左衛門尉)(天野文書) 年不詳9月22日 941
2285   雑載2 畠山氏関係文書(於其方無如在候由、義元→天野二郎左衛門)(天野文書) 年不詳10月19日 942
2286   雑載2 畠山氏関係文書(就今度届并被官討死忠節、義元→天野次郎左衛門尉)(天野文書) 年不詳12月26日 942
2287   雑載2 畠山氏関係文書(年甫之御慶珍重々々、義総→中務権少輔)(三条西家文書) 年不詳1月11日 942
2288   雑載2 畠山氏関係文書(改年之御慶万幸々々、義総→中務権少輔)(三条西家文書) 年不詳1月23日 942
2289   雑載2 畠山氏関係文書(永閑下国之時、義総→中務権少輔)(三条西家文書) 年不詳10月20日 942
2290   雑載2 畠山氏関係文書(成身院下国之時、義総→中務権少輔)(三条西家文書) 年不詳12月20日 943
2291   雑載2 畠山氏関係文書(先度者為祝儀御太刀一腰拝領、義総→中務権少輔)(三条西家文書) 年不詳12月28日 943
2292   雑載2 畠山氏関係文書(十一月十八日尊札昨日臘四拝見、義総→中務権少輔)(古簡雑纂) 年不詳12月5日 943
2293   雑載2 畠山氏関係文書(年甫之御慶万幸々々、義総→権大夫)(三条西家文書) 年不詳1月11日 943
2294   雑載2 畠山氏関係文書(雖無差儀候、義総→権大夫)(三条西家文書) 年不詳7月29日 944
2295   雑載2 畠山氏関係文書(就等持院公用之儀、義総→左京大夫)(等持院文書) 年不詳11月17日 944
2296   雑載2 畠山氏関係文書(薫方之事内々言上候処、義総→山科殿人々御中)(保坂氏文書) 年不詳5月23日 944
2297   雑載2 畠山氏関係文書(以毛付申登候馬之儀、義総→大館陸奥守)(古簡雑纂) 年不詳6月2日 944
2298   雑載2 畠山氏関係文書(雖軽微至候、義総→尾張守)(尾崎文書) 年不詳8月23日 944
2299   雑載2 畠山氏関係文書(歳暮御慶珍重候、義総→尾張守)(尾崎文書) 年不詳12月15日 945
2300   雑載2 畠山氏関係文書(其後其方之儀如何、義総→伊勢守)(里見文書) 年不詳11月26日 945
2301   雑載2 畠山氏関係文書(馬一疋鹿毛印雀目結被上由祝着候、義総→長尾弾正左衛門尉(為景))(上杉家文書) 年不詳1月17日 945
2302   雑載2 畠山氏関係文書(雖比興候、義総→長尾弾正左衛門尉(為景))(上杉家文書) 年不詳2月17日 945
2303   雑載2 畠山氏関係文書(摺茶壺老茄有子細、義総→長尾信濃守(為景))(上杉家文書) 年不詳12月3日 945
2304   雑載2 畠山氏関係文書(就賀州之儀、義総→山村若狭守)(別本歴代古案) 年不詳12月20日 946
2305   雑載2 畠山氏関係文書(尊札拝見本望候、義総→(遊行上人))(清浄光寺文書) 年不詳5月10日 946
2306   雑載2 畠山氏関係文書(祈祷之札。巻数并扇三本・杉原十帖到来、義総→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳3月21日 946
2307   雑載2 畠山氏関係文書(就河州之儀、悳胤(義総)→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳6月4日 946
2308   雑載2 畠山氏関係文書(新春御慶千幸々々、悳胤(義総)→)(森田文書) 年不詳1月28日 946
2309   雑載2 畠山氏関係文書(新年之御慶珍重々々、悳胤(義総)→)(森田文書) 年不詳3月10日 947
2310   雑載2 畠山氏関係文書(去廿六日於搦手口之矢疵神妙候、義続→得田兵庫助)(北徴遺文) 年不詳10月27日 947
2311   雑載2 畠山氏関係文書(為祝儀太刀一腰・絹壱疋進覧之候、義続→冷泉殿)(古今消息集) 年不詳12月13日 947
2312   雑載2 畠山氏関係文書(雖遠路候、悳祐(義続)→上杉殿(輝虎))(上杉家文書) 年不詳6月11日 947
2313   雑載2 畠山氏関係文書(為改年之祝儀扇子弐本到来、悳祐(義総)→栗棘庵(栗棘庵文書) 年不詳12月28日 947
2314   雑載2 畠山氏関係文書(為音信青銅五拾疋到来、悳祐(義続)→永光寺)(永光寺文書) 年不詳3月10日 948
2315   雑載2 畠山氏関係文書(受領之事、義綱→天野加賀守)(天野文書) 年不詳6月2日 948
2316   雑載2 畠山氏関係文書(官途之事、義綱→大形澤右衛門)(温故足徴) 年不詳6月17日 948
2317   雑載2 畠山氏関係文書(去四日澤野村百姓心替之処、義綱→笠松新介)(笠松文書) 年不詳1月6日 948
2318   雑載2 畠山氏関係文書(今度相破候砌、義綱→飯川若狭守)(温故足徴) 年不詳10月10日 948
2319   雑載2 畠山氏関係文書(為気多大神宮造営社務立用并禁裏様江進納分、義綱→)(気多神社文書) 年不詳2月3日 948
2320   雑載2 畠山氏関係文書(急度以飛脚令申候、修理大夫義綱→上杉殿(輝虎))(上杉家文書) 年不詳6月10日 949
2321   雑載2 畠山氏関係文書(為使僧聴江軒下国、(畠山修理大夫)義綱→平井加賀入道)(萩藩閥閲録) 年不詳4月28日 949
2322   雑載2 畠山氏関係文書(為音信巻数并青銅弐百疋到来、義綱→永光寺)(永光寺文書) 年不詳3月10日 949
2323   雑載2 畠山氏関係文書(為祈祷巻数并青銅弐百疋到来、義綱→一宮惣中)(気多神社文書) 年不詳10月19日 949
2324   雑載2 畠山氏関係文書(為佳例巻数一合并椙原十帖・扇子一本到来、義綱→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳12月20日 950
2325   雑載2 畠山氏関係文書(就其依頼無音、義胤→上田石見守)(仏厳寺文書) 年不詳2月11日 950
2326   雑載2 畠山氏関係文書(如例年為祈祷香水并ゆがけ一具到来、義胤→八幡山年行事)(菊大路文書) 年不詳3月20日 950
2327   雑載2 畠山氏関係文書(為元服祝儀杉原十帖・扇子一本到来候、義慶→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳11月3日 950
2328   雑載2 畠山氏関係文書(為歳暮祈祷巻数并一荷三種到来候、義慶→)(常福寺文書) 年不詳12月23日 951
2329   雑載3 畠山氏被官関係文書(道場為造営毎年千疋可寄進候、(遊佐)秀盛→教恩坊)(長福寺文書) 年不詳9月28日 951
2330   雑載3 畠山氏被官関係文書(去月廿四日於菅原谷首一討取候、総栄・続好・(温井下総守)光宗・兼親・(遊佐豊後守)秀頼→永三弥四郎)(四町村文書) 年不詳10月3日 951
2331   雑載3 畠山氏被官関係文書(就賀州之儀、(結城左馬允)季倫→山村若狭守)(別本歴代古案) 年不詳12月20日 951
2332   雑載3 畠山氏被官関係文書(貴札拝見、続光→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳4月19日 952
2333   雑載3 畠山氏被官関係文書(貴札拝閲、綱光→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳12月17日 952
2334   雑載3 畠山氏被官関係文書(先度者御懇書祝着之至候、温井下総守光宗→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳11月23日 952
2335   雑載3 畠山氏被官関係文書(述首座令上途候条、孝宗→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳4月12日 953
2336   雑載3 畠山氏被官関係文書(御懇書過当之至候、温井若狭丸→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳4月28日 953
2337   雑載3 畠山氏被官関係文書(去二日於湯山無比類働神妙ニ候、温井兵庫助続宗・三宅筑前守総広・神保宗左衛門尉総誠→三引与八郎)(三引文書) 年不詳6月7日 954
2338   雑載3 畠山氏被官関係文書(去二日於湯山無比類働神妙候、春俊→三引与八郎)(三引文書) 年不詳6月7日 954
2339   雑載3 畠山氏被官関係文書(去八月尊札同旧冬到来、続盛→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳閏1月22日 954
2340   雑載3 畠山氏被官関係文書(尊翰拝誦、温井兵庫助景隆→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳4月26日 955
2341   雑載3 畠山氏被官関係文書(別紙之御札拝閲、温井備中守景高→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳2月11日 955
2342   雑載3 畠山氏被官関係文書(尊札之趣具拝閲、温井彦左衛門尉慶宗→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳12月16日 956
2343   雑載3 畠山氏被官関係文書(去年預御状候、温井七郎左衛門尉盛宗→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳閏1月24日 956
2344   雑載3 畠山氏被官関係文書(毎年為祝儀五明一本被懸御意候、温井藤八郎続広→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳6月25日 956
2345   雑載3 畠山氏被官関係文書(年内者芳札并扇子弐本令拝領候、温井五郎左衛門尉景続→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳3月7日 957
2346   雑載3 畠山氏被官関係文書(御状趣委曲令拝見候、温井彦五郎宗在→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳7月8日 957
2347   雑載3 畠山氏被官関係文書(当社別雷御神前続長謹而為立願、三宅小五郎続永→上賀茂御社家中)(賀茂別雷神社文書) 年不詳9月27日 957
2348   雑載3 畠山氏被官関係文書(御折紙畏入存候、平加堯知→大宮司)(気多神社文書) 年不詳6月27日 958
2349   雑載3 畠山氏被官関係文書(芳翰特扇子御本被懸御意候、平加賀守堯知→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳12月22日 958
2350   雑載3 畠山氏被官関係文書(芳翰快然之至候、平加賀守堯知→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳2月2日 958
2351   雑載3 畠山氏被官関係文書(志津良之儀、隠岐豊前守統朝・三宅伊賀守俊長→栗棘庵侍者衆中)(栗棘庵文書) 年不詳4月13日 959
2352   雑載3 畠山氏被官関係文書(御折紙披見、三宅長盛→桜井監物丞)(栗棘庵文書) 年不詳3月6日 959
2353   雑載3 畠山氏被官関係文書(新年之嘉慶幸甚々々、長九郎左衛門尉綱連→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳1月29日 959
2354   雑載3 畠山氏被官関係文書(去年者預御札、長九郎左衛門尉綱連→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳7月10日 960
2355   雑載3 畠山氏被官関係文書(御上洛以後者、続連→能登守)(遺編類纂) 年不詳9月7日 960
2356   雑載3 畠山氏被官関係文書(去秋者預御札、長九郎左衛門尉綱連→栗棘庵)(北徴遺文) 年不詳2月9日 961
2357   雑載3 畠山氏被官関係文書(如仰当春未申通候、長対馬守続連→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳4月20日 961
2358   雑載3 畠山氏被官関係文書(如仰其己後ハ不申通候、長対馬守続連→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳8月26日 961
2359   雑載3 畠山氏被官関係文書(就端郡七十五村三分一御免除之儀預御札候、長九三続連→永光寺)(永光寺文書) 年不詳9月18日 962
2360   雑載3 畠山氏被官関係文書(去秋之時分者預芳札候、長対馬守続連→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳12月14日 962
2361   雑載3 畠山氏被官関係文書(為例年御祈祷御巻数并五明・ゆがけ送給候、長対馬守続連→森左京大夫)(北徴遺文) 年不詳9月15日 962
2362   雑載3 畠山氏被官関係文書(村井かた江折紙令披見候、続連→四丁永参)(北徴遺文) 年不詳5月29日 963
2363   雑載3 畠山氏被官関係文書(昨日之手紙無心元候、続連→山田十郎)(山田文書) 年不詳11月19日 963
2364   雑載3 畠山氏被官関係文書(貴札殊扇子御本被懸御意候、長三河守連理→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳3月2日 963
2365   雑載3 畠山氏被官関係文書(就端郡七十五村三分一御免除之儀、(長三河守)連理・(井上下野守)英教→永光寺)(永光寺文書) 年不詳9月18日 964
2366   雑載3 畠山氏被官関係文書(為春秋後祝儀御巻数・杉原・扇子・御茶廿袋、井上下野守栄教→栗棘庵侍者御中)(栗棘庵文書) 年不詳12月23日 964
2367   雑載3 畠山氏被官関係文書(為改年之御祝儀尊書并五明日本令披露候、井上美濃守英安→栗棘庵侍者御中)(栗棘庵文書) 年不詳12月28日 964
2368   雑載3 畠山氏被官関係文書(御屋形様江為御音信飛脚被差越候、(佐脇美濃守→一宮惣中)(気多神社文書) 年不詳10月19日 965
2369   雑載3 畠山氏被官関係文書(就馳走可申上徳政之儀(本誓寺文書) 年不詳7月1日 965
2370   雑載3 畠山氏被官関係文書(就被差御使候、飯川若狭守光誠→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳5月24日 965
2371   雑載3 畠山氏被官関係文書(為御音信御屋形様江青銅弐百疋御進上、飯川若狭守光誠→永光寺侍者禅師)(永光寺文書) 年不詳3月10日 966
2372   雑載3 畠山氏被官関係文書(御屋形様江為御音信八木三袋、飯川若狭入道宗玄→永光寺侍者禅師)(永光寺文書) 年不詳3月6日 966
2373   雑載3 畠山氏被官関係文書(為御音信鳥目五拾疋被為参候、詮正→永光寺御同宿中)(永光寺文書) 年不詳5月23日 966
2374   雑載3 畠山氏被官関係文書(歳暮為御祈念御巻数并御樽代弐拾疋御進上候、富来小次郎綱盛→永光寺侍者御中)(永光寺文書) 年不詳12月16日 967
2375   雑載3 畠山氏被官関係文書(新春之御慶漸雖事旧候珍重々々、伊藤新右衛門尉貞信→栗棘庵御納所)(栗棘庵文書) 年不詳2月5日 967
2376   雑載3 畠山氏被官関係文書(御札委細拝見仕候、伊藤孫左衛門延家→栗棘庵御納所)(栗棘庵文書) 年不詳8月14日 968
2377   雑載3 畠山氏被官関係文書(当年之吉凶雖事旧候、河野藤兵衛尉続秀→栗棘庵侍者御中)(栗棘庵文書) 年不詳6月11日 968
2378   雑載3 畠山氏被官関係文書(就泉首座御下向、佐藤新左衛門尉宗信→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳11月10日 969
2379   雑載3 畠山氏被官関係文書(如仰当年未申入候、(飯川)半隠斎宗春→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳6月21日 969
2380   雑載3 畠山氏被官関係文書(当年之吉凶雖事旧候、廣瀬隼人佑貞成→栗棘庵御侍者禅師)(栗棘庵文書) 年不詳4月18日 969
2381   雑載3 畠山氏被官関係文書(改年之御慶珍重々々、織田与三右衛門尉隆長→栗棘庵)(栗棘庵文書) 年不詳2月23日 970
2382   雑載4 前田氏関係文書(制札、利家→寺中村神主)(大野湊神社文書) 年不詳5月2日 970
2383   雑載4 前田氏関係文書(年頭之為祝儀御祈祷之御札・祓并鳥目三十疋到来、利家→気多大宮司桜井監物丞)(気多神社文書) 年不詳1月19日 970
2384   雑載4 前田氏関係文書(年甫之為祝儀牛玉并石花二桶到来候、(気多神社文書) 年不詳1月24日 971
2385   雑載4 前田氏関係文書(年甫之為祝儀書状并札・守・鳥目三十疋・桶二到来、利家→一宮大宮司)(気多神社文書) 年不詳1月晦日 971
2386   雑載4 前田氏関係文書(当社御神幸之事、筑前守利家→気多大宮司桜井監物丞)(気多神社文書) 年不詳2月8日 971
2387   雑載4 前田氏関係文書(当月御神幸十九日二相当之由、利家→気多大宮司)(気多神社文書) 年不詳2月15日 971
2388   雑載4 前田氏関係文書(就上落巻数并鳥目三十疋到来、利家→正大宮司)(気多神社文書) 年不詳3月2日 972
2389   雑載4 前田氏関係文書(鉄砲ニて青鷺うつ事、利家→一宮大宮司監物丞)(気多神社文書) 年不詳3月23日 972
2390   雑載4 前田氏関係文書(此比生魚一切希候処ニ、利家→一宮大宮司監物丞)(気多神社文書「) 年不詳7月25日 972
2391   雑載4 前田氏関係文書(急度申遣候、利家→一宮惣中)(気多神社文書) 年不詳10月23日 972
2392   雑載4 前田氏関係文書(当月之御神事目出度被相勤、利家→正大宮司・桜井監物丞)(気多神社文書) 年不詳11月29日 972
2393   雑載4 前田氏関係文書(鏑矢浜へよるの由ニて為持越、利家→一宮大宮司)(気多神社文書) 年不詳12月29日 973
2394   雑載4 前田氏関係文書(わざと申入候、前又左利家→きたの坊御中)(大福寺文書) 年不詳6月15日 973
2395   雑載4 前田氏関係文書(わざと人を、前ちくぜん利家→北之坊)(大福寺文書) 年不詳6月17日 973
2396   雑載4 前田氏関係文書(大福寺しゆりの事、利家→藤右衛門方へ)(大福寺文書) 年不詳9月19日 974
2397   雑載4 前田氏関係文書(為見廻御使僧、利家→浄儀(成喜)坊(菅原神社文書) 年不詳4月10日 974
2398   雑載4 前田氏関係文書(為見廻御使僧、利家→遍照坊)(菅原神社文書) 年不詳4月10日 974
2399   雑載4 前田氏関係文書(其以来久無音、利家→成喜坊御同宿中)(菅原神社文書) 年不詳12月3日 974
2400   雑載4 前田氏関係文書(為年頭之祝儀銀子弐〆め到来、利家→永光寺)(永光寺文書) 年不詳3月19日 975
2401   雑載4 前田氏関係文書(当月御神幸十九日ニ相当之由、利家→山王社神主江)(府中山王社文書) 年不詳4月5日 975
2402   雑載4 前田氏関係文書(当社御神幸之事、筑前守利家→山王等三社神主江)(府中山王社文書) 年不詳4月8日 975
2403   雑載4 前田氏関係文書(当月猿楽之御神事、利家→山王社伊右衛門尉江)(府中山王社文書) 年不詳11月6日 975
2404   雑載4 前田氏関係文書(急度申遣候、利家→能州(宝円寺中)(長齢寺文書) 年不詳9月8日 976
2405   雑載4 前田氏関係文書(急度申遣候、利家→能州道場)(長福寺文書) 年不詳9月8日 976
2406   雑載4 前田氏関係文書(如尊書先日者御来臨、利家→興徳寺)(龍門寺文書) 年不詳2月9日 976
2407   雑載4 前田氏関係文書(芳翰拝閲本望之至極存候、宰相利家→興徳寺)(龍門寺文書) 年不詳7月24日 976
2408   雑載4 前田氏関係文書(五百把さうめん、利家→三輪藤兵へ)(三輪文書) 年不詳4月17日 977
2409   雑載4 前田氏関係文書(下国見廻として早々飛脚、(前田利家)印→奥(奥野)与兵衛)(遺編類纂) 年不詳6月23日 977
2410   雑載4 前田氏関係文書(急度申遣候、(前田利家)印→加州石川・河北)(波並屋三郎右衛門文書) 年不詳9月3日 977
2411   雑載4 前田氏関係文書(当村之内年貢米余分四百俵可有之候、利家→四町村・尾長村・千田村)(四町村文書) 年不詳10月15日 978
2412   雑載4 前田氏関係文書(嘉例八朔祝儀として年寄一人罷上候、(前田利家)印→能州所口惣町中)(七尾町伝記) 年不詳8月6日 978
2413   雑載4 前田氏関係文書(態申遣候、(前田利家)印→たう下(道下)村三郎左衛門尉)(道下村文書) 年不詳11月16日 978
2414   雑載4 前田氏関係文書(態申越候、三輪藤兵衛尉吉宗→道下三郎ざへもん・此他鮭川百姓中)(道下村文書) 年不詳10月5日 978
2415   雑載4 前田氏関係文書(態申遣候、利家→敦賀高嶋屋(伝右衛門)(小宮山文書) 年不詳6月16日 979
2416   雑載4 前田氏関係文書(態申越候、利家→海津松屋之道安)(松屋文書) 年不詳5月6日 979
2417   雑載4 前田氏関係文書(態申越候、利家→かいづ松やの道安)(松屋文書) 年不詳11月14日 980
2418   雑載4 前田氏関係文書(為新春之嘉祥御祓頂戴、利勝→気多大宮司桜井監物丞)(気多神社文書) 年不詳1月18日 980
2419   雑載4 前田氏関係文書(為年頭之祝義巻数并青銅三十疋・鯛一折到来、孫四利政→一宮監物)(気多神社文書) 年不詳1月28日 980
2420   雑載4 前田氏関係文書(為年頭之祝義銀子弐文め送給候、孫四郎利政→堺之寺永光寺侍者御中)(永光寺文書) 年不詳2月8日 980
2421   雑載4 前田氏関係文書(此辺為見廻代物三十疋到来候、利政→三崎大宮)(猿女文書) 年不詳8月5日 981
2422   雑載4 前田氏関係文書(歳暮之為祝義銀子五匁慥相達候、羽孫四利政→八田与六)(前田家文書) 年不詳1月7日 981
2423   雑載4 前田氏関係文書(年甫之為祝義銀子三匁到来候事、孫四郎利政→八田与六)(前田家文書) 年不詳1月12日 981
2424   雑載4 前田氏関係文書(為年甫之祝義鰤三尺到来、利政→丹羽右兵衛)(桜井文書) 年不詳1月12日 981

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