明治元年(1868) | 1月15日 | 政治・経済 | (明治天皇元服、王政復古を各国公使に布告した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 3月14日 | 政治・経済 | (五個条の御誓文が発布された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 4月11日 | 政治・経済 | (江戸城開城。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 4月15日 | 政治・経済 | 朝廷から加賀藩に北越へ出兵を命じてきた。(越後戦争)加賀藩からの出兵数は士卒1,744 監察軍吏953 従僕役夫4,600余等で総計7,600余人に及んだ。戦死者は106人。太政官発行の紙幣がまだ流通しなかったので約半歳の間、藩から弾薬銃砲類はもちろん米、塩、みそ、わらじ類まで現地へ送り届けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 4月19日 | 政治・経済 | 肥前長崎浦上のキリシタン宗徒のうち若干を加賀藩に預けると政府から通知があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 5月15日 | 政治・経済 | (彰義隊が上野寛永寺に拠って反抗した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 5月 | 政治・経済 | 加賀藩は銀札を廃止し銭札をもってこれに代えた。以後両替商の銀仲(ギンズワイ)を銭仲といった。(銭札100文が銀札1匁に相当) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 5月 | 政治・経済 | (軍螺=ホラ貝=を廃し、ラッパを使用することになった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 6月12日 | 政治・経済 | 博労町(樫田吉蔵)と袋町(中町住の中田庄三郎)の二カ所にあった銀座を金封座と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 7月17日 | 政治・経済 | (江戸を東京と改称。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 8月29日 | 政治・経済 | (諸藩の貨幣私鋳が禁止された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 9月8日 | 政治・経済 | (明治と改元し一世一元の制が定まった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 9月14日 | 政治・経済 | 衆議を徴するために金沢城内二の丸殿内に会議所が設けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 9月15日 | 政治・経済 | 明治改元のことが通知されて来た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 9月 | 政治・経済 | 加賀藩が長崎で、英人から蒸気船猶龍丸(原名ユンディン)を購入した。船長に河内山昌保を任命した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 10月13日 | 政治・経済 | (東京遷都。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 10月27日 | 政治・経済 | 津田玄蕃が隊兵を率いて越後戦争から金沢に凱旋した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 11月22日 | 政治・経済 | 目安箱を金沢枯木橋に設けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 12月15日 | 政治・経済 | 定火消役を廃し、金沢町奉行に消防事務をとらせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 月日未詳 | 政治・経済 | 仙人町、蛤坂新道、西御影町、東御影町(卯辰山)、常磐町(卯辰山)が新たにできた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 月日未詳 | 政治・経済 | 公事場(現在の裁判所)を刑法寮と改称した。(その後数回名称を変更し7年6月には囚獄所となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 2月 | 社会・文化 | 金沢では毎年2月の最初の「ひのと」の日に藩の明倫堂で孔子祭(釈菜)がおこなわれていたが、本年を最後にやんだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 3月23日 | 社会・文化 | 家臣の角入(すみいれ・元服前の男子が額ぎわの両すみを剃り込むこと)、剃髪、改名に関する手続きが簡易になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 3月 | 社会・文化 | 能登の旧幕府領(土方氏領)が前田家の管轄になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 4月9日 | 社会・文化 | 長家の第10代当主連恭死去。27歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 4月10日 | 社会・文化 | 在京の加賀藩士は願い出により総髪、摘髪を許されることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 4月17日 | 社会・文化 | 江戸本郷の前田邸類焼。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 4月 | 社会・文化 | 笠舞村にあった撫育所を卯辰山に移した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 4月 | 社会・文化 | 三角風蔵死去。85歳。本多利明に就いて測量術の皆伝を得、文政5年金沢分間地図の作成にあずかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 閏4月 | 社会・文化 | 英仏学塾として道済館が南町90番地狂言師畳屋九郎兵衛の家に設けられた。その後高岡町94番地(今枝民部邸跡)に移る。吉木順吉(津和野藩士)を招き十数人の教師を置いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 閏4月 | 社会・文化 | 神仏混淆を禁ぜられ神社所属の別当社僧は還俗することを命ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 5月1日 | 社会・文化 | 第13代加賀藩主前田斉泰夫人偕子死去。56歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 5月18日 | 社会・文化 | 藩の定番御徒、西坂丙四郎が越後長岡で戦死した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 5月21日 | 社会・文化 | 前田斉泰夫人偕子の葬儀が天徳院で執行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 5月 | 社会・文化 | (漢方の医者の開業は試験を受けることとなった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 6月19日 | 社会・文化 | 前田慶寧が卯辰山に天満宮を造営することを重臣にはかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 8月9日 | 社会・文化 | 宝生流家元15世宝生紫雪の妻フサ金沢で死去。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 8月 | 社会・文化 | 4,5月が気候不順で出水あり、作柄は不作であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 9月13日 | 社会・文化 | 藩の壮猶館ではこのころから、操練が蘭式から英式に変った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 9月13日 | 社会・文化 | 藩の経武館と壮猶館が合体した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 10月10日 | 社会・文化 | 前田慶寧が越後戦争の加賀藩戦死者のため卯辰山に招魂祠を造営した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 10月27日 | 社会・文化 | 明治天皇が東京本郷の前田邸に行幸になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 10月 | 社会・文化 | 黒川良安が藩命でその子誠一郎と横井三柳を伴い長崎に至り医学校および病院の制度を調査した。(翌2年5月20日人体模型、医療機械薬品、医書を求め帰藩、医学館設立の準備をした) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 10月 | 社会・文化 | 横山蘭畹「静好閣遺草」を編集。蘭畹は藩の老臣横山政孝の継室で所居を静好閣という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 10月 | 社会・文化 | 服部弥五郎が宝生分家(服部姓)を継いだ。弥五郎は能楽師直江権三郎の子、宝生紫雪の女婿である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 11月2日 | 社会・文化 | 卯辰山で越後戦争戦死者の招魂祭がおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 11月23日 | 社会・文化 | 前田斉泰は越後戦争凱旋士卒のため慶寧と共に金谷殿で能を舞った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 12月15日 | 社会・文化 | 歌俳人碓井梅嶺死去。69歳。石川県鶴来で米屋を営み勤王にも尽した。大正13年従5位追贈。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 12月 | 社会・文化 | 明倫堂の句読師を廃し、新たに済々館(大手町元御普請会所跡、現大手町病院)と雍々館(元御細工所跡、現総合庁舎付近)を設けて素読生をこれに移した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 12月 | 社会・文化 | 藩校が四民教導のために講解席を設けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 12月 | 社会・文化 | 慶応3年春から着手の卯辰山開拓が大体完成した。天神橋の架設も終了した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 年月未詳 | 社会・文化 | 西新地で本年中に数回芝居が興行された。(その一枚刷が残っている) | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 年月未詳 | 社会・文化 | 加賀藩は学術研究と兵器購入のため馬島健吉、黒川誠一郎、不破與四郎、稲葉助五郎、神戸清右衛門を欧州各国へ派遣した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治元年(1868) | 年月未詳 | 社会・文化 | 従来茶屋町と称せられていたところを東廓および西廓と改称し、入口に大門が建てられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 2月19日 | 政治・経済 | 太政官の命によって藩内の関所を撤去した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 3月26日 | 政治・経済 | 加賀藩は職制を改め算用場を民政寮と会計寮に区分、また町会所を市政局と改称した。また金沢奉行を金沢市宰と改め民政寮の所属とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 3月 | 政治・経済 | 藩士宅地と家中の門前町に新しく町名をつけた。(30カ町名) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 3月 | 政治・経済 | 藩士阿部甚十郎敬忠(碧海)が古寺町の自邸に九谷焼絵付工場を興した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 5月24日 | 政治・経済 | (東京為替会社創立。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 6月17日 | 政治・経済 | 前田慶寧の版籍奉還の請願がいれられ慶寧は金沢藩知事に任ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 6月28日 | 政治・経済 | 藩吏の職禄が廃され金俸月給となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 6月 | 政治・経済 | 江戸の加賀藩抱えの火消のうち30人余を金沢へ召し寄せこれに従来の定火消20人余と新たに町方から採用した消防夫240人余を加えたものを3組に分け、犀川大橋、浅野川大橋および下堤町の3カ所に火の見やぐらを建ててここに詰めさせた。このときから出火の合図は太鼓をやめて半鐘を打つことになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 6月 | 政治・経済 | (公卿諸大名に華族の呼称を用いることになった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 7月 | 政治・経済 | 藩の消防器具を市政局の市政係に移管した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 8月28日 | 政治・経済 | 太政官は金沢藩に北海道北見国3郡の支配と開拓を託したが藩は、力及ばずとして免除を願い出た。(3年6月解除された) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 9月4日 | 政治・経済 | 藩士安達幸之助が京都木屋町旅宿で大村益次郎と共に殺された。46歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 9月7日 | 政治・経済 | 金沢藩は執政、参政を廃し、大参事、権大参事を置いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 9月23日 | 政治・経済 | 政事堂を藩庁と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 9月 | 政治・経済 | 前田慶寧は藩知事として帰藩後、前田直信、横山蔵人、岡田雄次郎を大参事に任命、前田内蔵太、安井和助を権大参事に任命した。また長九郎右衛門、篠原助六を少参事に任命、成瀬主税、赤座甚七郎を権少参事に任命した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 10月7日 | 政治・経済 | 金沢藩庁は金融機関の必要を痛感し、木谷藤右衛門、嶋崎德平、宮林彦九郎らを説き金沢為替会社(資本金2万円)を創立させた。前田家も藩資を入れて発展をはかり、営業を監督することにしたが、明治4年藩制の廃止と同時に監督の制は解かれた。(為替会社は明治2年から明治16年まで博労町に存置した) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 10月14日 | 政治・経済 | 藩庁を長成連の旧邸に移し民政寮、市政局をここに置いた。藩知事は毎日出勤した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 10月17日 | 政治・経済 | 民政、兵政、学校、刑法の諸掛に各少参事を置いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 10月 | 政治・経済 | 金沢藩は従来の草高による知行を廃し、実給与高による知行制に改め同時に高禄者の禄を大幅に削った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 12月 | 政治・経済 | (武士の呼称が士族と卒(足軽)の2階級に改められた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 月日未詳 | 政治・経済 | 本年は気候不順で穀物の作柄不良、そのため物価は騰貴、近村の百姓の騒ぎが続発し、貢租も納まらなかった。(石10円余になる) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 1月 | 社会・文化 | 壮猶館内に英学所を設置した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 1月 | 社会・文化 | 道済館は入学者多数のため英学生を分けて城内会所跡に移した。挹注館という。挹注館には長野桂二郎(旧幕臣でしばしば改名した)を招き十数人の教師を置いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 2月6日 | 社会・文化 | 金沢鈴見鋳造場が焼失した。(旋条銃砲を製造していた) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 2月9日 | 社会・文化 | 前田慶寧が八丈島流人宇喜多孫九郎らを引取り扶助するよう命ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 2月18日 | 社会・文化 | 金谷御殿、七十間長屋、鼠田門、土橋門等が焼失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 2月 | 社会・文化 | 壮猶館内に鉤深館を設置して航海測海学を教えた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 2月 | 社会・文化 | 卯辰山開拓録(餐霞山人内藤誠斎編)が刊行された。慶応3年開拓されたときの記録で跋は集雅堂児遊(石川文三)。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 2月 | 社会・文化 | 道済館の生徒の大部分を旧壮猶館内英学所に入学させ道済館を廃止した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 4月27日 | 社会・文化 | 加賀藩老臣奥村氏支族14代の篤輝死去。18歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 4月28日 | 社会・文化 | 十三間町の町医嵯峨寿安が金沢藩留学生として、ロシア行きを許可され日本人で最初にシベリアを横断した。寿安はまず長崎で露語を学び3年1月凾館から露鑑でウラジオストクに上陸、シベリアを横断してノブゴロドから汽車で首都ペトロブルグに4年1月7日到着。廃藩で学資送金中絶の後は苦学を続け、7年帰国した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 4月 | 社会・文化 | 藩主慶寧は新知識を得て藩治に資するため岡島喜太郎、佐野鼎、関沢明清、吉田伝次郎、伍堂卓爾を欧州各国に派遣した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 5月8日 | 社会・文化 | 城中権現堂の時鐘が西洋の時辰法に従って、昼夜24時に改められた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 5月15日 | 社会・文化 | 歌人大友久米満死去。53歳。門人すこぶる多く歌集蓬壺集がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 8月7日 | 社会・文化 | 本多政均が二の丸殿中で山辺沖太郎、井口義平に刺殺された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 8月 | 社会・文化 | 壮猶館内英学所は生徒が増加して収容不能になったので城内御細工所跡に移り致遠館と号した。間もなく松原町神護寺を改造してここに移した。米人オースボンを招いた。(明治3年8月任期満了) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 8月 | 社会・文化 | 壮猶館の分校として七尾に七尾語学所が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 9月 | 社会・文化 | 今様能の林寿三郎が西新地小屋で興行した。(はじめて女役者を加えて演能) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 10月2日 | 社会・文化 | 前田斉泰は金谷殿表住居を廃し、御広式に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 10月13日 | 社会・文化 | 俳人浅野屋林坡死去。60歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 10月20日 | 社会・文化 | 前田慶寧の私邸を広坂台地の本多資松の屋敷に移した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 11月8日 | 社会・文化 | 加賀藩以来の武具の合印であるかぶとの「猪目」と刀の鞘の「三つ巻」が廃された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 11月 | 社会・文化 | 丹羽初三郎が新竪町ではじめて牛肉を売った。(店は翌年南町道済館跡に移った) | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 12月25日 | 社会・文化 | 金沢藩に預けられる肥前長崎浦上のキリシタンのうち第1次分124人は藩から出張した藩士3人に大阪で引取られ金沢に到着、すぐに卯辰山織屋に収容された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 月日未詳 | 社会・文化 | 鋳物師として精妙な腕をうたわれた11代横河九左衛門正久死去。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 月日未詳 | 社会・文化 | 2年末まで、神仏混淆の寺社が金沢にあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二年(1869) | 月日未詳 | 社会・文化 | 大手町2番地に私立慶応義塾修学所が設けられた。のちに梅本町小学所となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 1月8日 | 政治・経済 | 三度町飛脚(藩の委託を受けた民営の飛脚で、江戸と京都へ月に三度行った)は商法局廻漕方に併合された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 2月8日 | 政治・経済 | 旧人持組(加賀藩では八家に次ぐ高禄の士に属する組)の下屋敷は家士の居住しているものを除き租税局に返納させた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 3月 | 政治・経済 | 重臣奥村、横山、村井、今枝の4旧邸を兵隊屯所、同病院、練兵場等にあてることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 4月 | 政治・経済 | 天神橋の釜谷鋳物工場が創立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 5月 | 政治・経済 | 七尾軍艦所(文久2年創設)の造船所は、造船に不適当な事が判明したので、旧加賀藩の関沢孝三郎(明清)遠藤友次郎(直方)および旧大聖寺藩の石川璋の3人は藩の了解を得て、機械の大部分を兵庫に移して加州製鉄所をつくり、小汽船や船舶機具を製造して阪神地方の需要に応じた。(川崎造船所の前身) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 6月 | 政治・経済 | (民部省が氏子改仮規則を制定した。神社の手により氏子の家調べをして戸口名簿を作らせるもの。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 10月 | 政治・経済 | 金石港に北海道物産を取扱いのため、開拓使の会所が置かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 10月 | 政治・経済 | 前年の凶作で各倉庫の貯蔵米が少なく「南京」と称する外国米が市場に売りさばかれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 10月 | 政治・経済 | 旧藩時代からの諸商売と問屋の株立(組合組織)を廃止するよう布令が出て、仲買肝煎と組合頭は消滅した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 10月 | 政治・経済 | 民政上の事務一切を藩庁直轄に改め、民政寮を聴訟係と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 閏10月2日 | 政治・経済 | 金沢の町年寄を市長、惣肝煎を市長列、散算と用聞を会計係と改称した。それにより市長4人市長列4人が任用された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 閏10月10日 | 政治・経済 | 金沢全町を東西南北の4郷に分け7ヵ所に会所が置かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 閏10月 | 政治・経済 | 金封座(銀座)が廃止された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 11月 | 政治・経済 | 金沢藩庁は加州小松、能州所口、輪島、越中高岡、杉木、魚津に出張所を設け地方の諸事務を処理することにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 12月24日 | 政治・経済 | (庶民の帯刀を禁止した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 月日未詳 | 政治・経済 | 長谷川準也が広坂の上に自宅を構えて宅地内に各種の桑苗を植え桑園を研究、また宇治から茶実を取りよせて栽培した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 月日未詳 | 政治・経済 | 金沢藩は兵部省令によって租入1万石につき常備兵60人を置きその兵式をフランス式として、城中二ノ丸に学塾兵営を設置して士官を養成し、兵卒の訓練をした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 1月5日 | 社会・文化 | 金沢藩預けになった長崎浦上のキリシタンの第2次分400余人が長崎から改造汽船加賀丸に乗せられ直接七尾に到着した。これは第1次の者の家族その他で、七尾からは降雪のため途中3泊して金沢に着き第1次分と同じ卯辰山の湯ざやに収容された。金沢藩は石川舜台、松本白華、金川順覚、西野慶応らに命じこれらキリシタンに対して極力改宗を迫ったがあまり多くの効果は得られなかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 1月 | 社会・文化 | (朝廷は一般人の神式による葬式を許可した。これに対し神葬を許すのは仏教をつぶすためだという浮説が流布されて人心が動揺したので、浮説を流布する者は逮捕して糾問するという布令が出た。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 2月 | 社会・文化 | 大手町旧津田玄藩邸に金沢医学館と病院が開設された。卯辰山の養生所は貧病院と称して貧窮患者の治療を開始した。(医学館は12年1月金沢医学所となった) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 3月 | 社会・文化 | 兼六園内の時雨亭跡に鉱山学所を建て独人デッケンを講師に招いた。その居宅を山崎山のふもとに建てた。(鉱山学所は明治4年11月廃止された。デッケンの雇用期間は21ヵ月) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 3月 | 社会・文化 | 金石町字越前町に金石集学所が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 3月 | 社会・文化 | 金沢藩学政所は「こんど開く医学館には百姓町人の希望者はだれでも入学を許す」との布告を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 5月13日 | 社会・文化 | (鶴来町大火、200戸焼失した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 5月19日 | 社会・文化 | 大野町の中村屋弁吉死去。70歳。大野の弁吉として知られ、ぜんまい仕掛けによって動く人や動物を作り、また写真、電気、爆薬を使用し、彫刻にもすぐれていた。遺著(筆記)に一東視篆録がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 6月7日 | 社会・文化 | 鱗町、泉屋源三郎の養女が義父母に孝養を尽したかどで政府から表彰された。(明治孝節録) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 6月8日 | 社会・文化 | 第12代藩主前田斉広夫人真龍院死去。86歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 9月10日 | 社会・文化 | (平民に苗字を許した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 9月 | 社会・文化 | 金沢藩は従来の身分による家作や衣服の制約をすべて解除した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 10月3日 | 社会・文化 | 画家狩野宗益死去。85歳。景信と称し号は真流斎、金沢に住み狩野派の画をよくした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 10月27日 | 社会・文化 | 百間堀髙通、尾坂口、西町口、甚右衛門坂、不明門の通行が自由になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 10月 | 社会・文化 | 藩校明倫堂が廃止された。(寛政4年開校以来79年である) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 10月 | 社会・文化 | 慎憲塾の機関誌ともいうべき「慎憲塾叢説」第1号が刊行された。(慎憲塾は文久元年ごろ石川舜台の創設で、民衆に対する啓もう的役割をつとめた) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 閏10月29日 | 社会・文化 | 明治天皇が東京本郷の前田邸に行幸になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 11月10日 | 社会・文化 | 金沢藩の権少参事篠島久大死去。59歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 11月 | 社会・文化 | 金沢藩庁は初めて次の六ヵ所に小学所を創設、12月2日に開校した。卯辰山小学所(卯辰山)小橋小学所(小橋の詰)梅本小学所(大手町)高岡町小学所(高岡町)河原町小学所(河原町、のち茜屋小路に移る)小立野小学所(飛梅町、のち出羽町に移る)。謝儀(授業料)は7月と12月に2貫文ずつ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 12月7日 | 社会・文化 | 英国代理公使アダムスが金沢、大聖寺、富山藩預けの浦上キリシタンが残酷な扱いを受けていると右大臣三条実美に待遇改善の申入れをした。政府は関一郎を派遣し実情調査をさせた。関は金沢藩参事世良太一を伴って帰京した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 12月12日 | 社会・文化 | 中学西校が仙石町の元明倫堂と経武館を校舎に開校した。皇漢両学を教えた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 12月17日 | 社会・文化 | 中学東校が出羽町旧巽御殿(公園内成巽閣)を校舎に開校した。東校は挹注館と致遠館を合併したもので両館の生徒を収容し、洋学を教えた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 12月28日 | 社会・文化 | 戌辰役戦死者のため明治元年に卯辰山庚申塚の地に仮招魂殿を建てたが、前田慶寧の意志により同山鳶ヶ峰に招魂社を建立した。(立柱式は13日) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 12月 | 社会・文化 | 外務省は金沢藩に医学教師として和蘭人一等軍医(少佐相当官)ペ・イア・スロイスを雇用することを許可した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 月日未詳 | 社会・文化 | (前年、和泉要助が人力車を発明したが、本年になって東京で人力車が一般に使われるようになった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 月日未詳 | 社会・文化 | 金沢の洋学者大屋愷アツ(おうやよしあつ)が長崎に行き、時計その他を買入れて帰った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 月日未詳 | 社会・文化 | 西御影町大国座で芝居が興行された。大国座の場所は旧藩時代にしばしば芝居が興行された宝久寺(犀川神社)河原の近くと考えられる。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 月日未詳 | 社会・文化 | 藩庁は瓦ぶきの家屋には雪止を設けることを命じた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三年(1870) | 月日未詳 | 社会・文化 | 卯辰乗竜寺が廃却、妙義社と共に隣接の西養寺と合併された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 2月14日 | 政治・経済 | 本多政均を殺害した山辺沖太郎と井口義平が処刑された。(刑獄寮で自刃を命ぜられる) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 2月 | 政治・経済 | 金沢藩庁は次の土地を入札で払下げた。末吉町角場680坪、下桜畠角場1,330坪、堀川角場695坪。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 2月 | 政治・経済 | 旧藩時代からの本町の自身番と地子町の夜番が廃止された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 2月 | 政治・経済 | 金沢藩は米市を管内一ヵ所に定めた。従来の十間町の市場を博労町1番地の御算用場跡に移して仮市場を開き、のち新築した。米穀取引所の前身である。なお仲買人1人につき義定銭として2千貫文ずつを為替会社に預けさせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 4月 | 政治・経済 | 金沢町4郷の町名の大改正があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 5月24日 | 政治・経済 | 一般農民の米販売を許した。また金1両(1円)につき銭札19貫700目の相場を決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 4月 | 政治・経済 | (戸籍法が公布せれた。実施は5年2月1日。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月14日 | 政治・経済 | 藩を廃し県を置く(廃藩置県)。金沢藩を廃し金沢、大聖寺、富山の3県を置いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月 | 政治・経済 | 廃藩の詔勅が発布になるや、藩士の中には植桑養蚕を志す者が多く金沢藩では森静一、葛葉善七郎、御園嘉三郎らが著名である。下安藤町葛葉は小規模ながら、明治30年ごろまで植桑養蚕製茶を継続し、明治19年共進会に出品して受賞した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月 | 政治・経済 | 廃藩置県のとき金沢城内に旧藩士の歩騎砲兵が計7個大隊あったのを解隊し、その中から将校下士卒1個小隊を選抜して県下隊と名づけ、神護寺(甚右衛門坂の下)にとん営して今の巡査の職務をおこなわせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月 | 政治・経済 | 廃藩の結果、明治2年江戸から来たいわゆる加賀とび30余人の大部分は東京に帰った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月 | 政治・経済 | 廃藩の時の金沢の人口は123,453人だった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月 | 政治・経済 | 七尾軍艦所が廃止された。廃止後は円中孫平と宮田吉良右衛門が機械の払下げを受けて経営、生徒を募集し造船技術を習得させた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 8月9日 | 政治・経済 | (士族の無刀を許した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 8月9日 | 政治・経済 | 浅野川小橋の修理が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 8月11日 | 政治・経済 | 元藩知事前田慶寧が東京移住のため供揃をして東海道まわりで金沢を出発した。(9月4日東京着) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 8月14日 | 政治・経済 | 犀川大橋の架替え(維新以後第1回目)が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 8月15日 | 政治・経済 | 内田政風(鹿児島県人文政13年12月生)が金沢県大参事に任ぜられた。内田の任命は陸吉猶、杉村寛正、板垣退助の推挙による。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 8月28日 | 政治・経済 | (太政官達しで非人の称を廃した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 8月 | 政治・経済 | 金沢の4郷を廃し、第1区から第7区に分けて金沢町第何区ととなえ、また郷会所を区会所と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 9月 | 政治・経済 | 金沢県庁が兵隊志願者を募集した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 10月9日 | 政治・経済 | 旧藩時代から禁じられていた戸室山の採石が解禁になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 10月19日 | 政治・経済 | 金沢県で初めて駅係を置き大蔵省に陸運会社の創業を申請した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 10月 | 政治・経済 | 旧金沢藩藩札の加越能における流通高は10月調べで3,703万1,250貫950文(187万4,730円68銭7厘)であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 10月 | 政治・経済 | 金沢人吉村又三、米村俵作ら27人が陸海運輸の会社を設立し、これと元飛脚関係者との間に紛争がおきた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 10月 | 政治・経済 | 金沢県に聴訟掛を置いた。(11月聴訟課と改めた) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 11月20日 | 政治・経済 | 大聖寺県を廃し、加賀国一円(白山山ろくを除く)を金沢県と改めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 11月23日 | 政治・経済 | 本多政均暗殺事件に関係した一堂の残存者岡野悌五郎、菅野輔吉が本多彌一と同志の者たちに殺された。また多賀賢三郎も翌24日近江長浜で殺された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 12月27日 | 政治・経済 | (新紙幣発行と旧紙幣回収の布告が出た。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 12月 | 政治・経済 | 金沢県庁内に郵便主附が設けられ通常郵便物の取扱いを開始した。(郵便事務の最初) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 12月 | 政治・経済 | 七尾県と新川県(越中)が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 1月6日 | 社会・文化 | 洋学者鹿田文平死去。57歳。号は謹斎、壮猶館教師も勤め、明治2年藩の権少属、3年文学三等教師となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 1月 | 社会・文化 | 兼六園山崎山下に独人デッケンのため建てた居宅完成。はじめての洋風建物である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 2月25日 | 社会・文化 | 卯辰山の招魂社の祭典を春は2月25日、秋は8月25日におこなうことになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 2月 | 社会・文化 | 金沢藩庁は殿町稲荷橋詰の普請会所を「接賢館」と名づけ館内で新聞会を開いた。これは士農工商の見聞をひろめ商工子弟に内外の新発明や各地の物価の高低等に通じさせるのが目的であって、毎月6の日午前8時から午後4時まで集会を開いた。当時庶民の知見啓発の一方法であったが半歳たらずでやめになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 2月 | 社会・文化 | 小立野小学所が出羽町3番丁に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 3月4日 | 社会・文化 | 和蘭軍医ペ・イア・スロイスが医学館に着任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 3月6日 | 社会・文化 | 致遠館の語学教師として招かれた英人リッテル・ウォードが金沢へ赴任の途中、大聖寺で天然痘にかかり死去した。30歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 3月17日 | 社会・文化 | 太政管は大藩に対して士族2人を推薦させて海外視察を命じた。金沢藩から岡田雄次郎と吉井立吉が派遣された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 3月23日 | 社会・文化 | 沼田町の安立寺から出火、六斗林の付近271戸焼失した。のち安立寺は本光寺と合併し立正寺となった。この火事で泉野菅原神社も焼失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 3月 | 社会・文化 | 鉱山学所教師の独人フォンテル・デッケンに能美郡金平山で試掘をさせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 4月 | 社会・文化 | 金沢柳町に柳町小学所が開校した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 4月 | 社会・文化 | これまで堂形前(どうがたまえ)といった通りを「広坂通」と改称した。現在の広坂通である。従来の堂形前という町名の由来は、町内に京都の三十三間堂型の米倉があり、三十三間堂型の建物を堂形と改称したので、堂形の前通りという意味で堂形前といったものである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 5月 | 社会・文化 | 上百々女木の献珠寺を購入して百々女木小学所を創設し、出羽町小学所生徒の一部を転校させた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 5月 | 社会・文化 | 卯辰山の芝居小屋を東馬場町に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 5月 | 社会・文化 | 上堤町44番地金襴商城森文次が大阪から人力車一両を買い、金沢市中を乗りまわした。これが金沢での人力車のはじめである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 6月 | 社会・文化 | 川上新町に新たに芝居小屋ができ舞台開きがあった。これは末吉座の復旧したもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 6月 | 社会・文化 | 金沢藩は英人エドウイン・サイモンソンを雇用して中学東校の正則の学生に数学、英語を教授させた。英人雇用は浅津渉(後の南郷茂光)が交渉にあたった。サイモンソンの月俸はメキシコ銀200ドルに相当する邦貨だった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月10日 | 社会・文化 | 旧村井邸でフランス学と航海学の学校が開設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月27日 | 社会・文化 | 兼六園内の時雨亭跡に舎密方という一局を設けて製薬をした。同時に金沢理化学校が開設され医学館生徒の理化学はここで教授した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月 | 社会・文化 | 上柿木畠の壮猶館が廃止された。安政元年以来藩士に西洋学術を教え火薬も製造した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 7月 | 社会・文化 | 太政官の命令で大小神社が氏子を調査し、氏子に木製の守札を渡す事になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 8月 | 社会・文化 | 政府は人民に散髪を命じた。金沢では大屋愷アツ、岡田雄巣が卒先して散髪し、結髪者を驚かせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 9月22日 | 社会・文化 | 金沢営所の各隊は午前10時卯辰山に整列し鉄砲を放って天長節を拝賀した。これは金沢の祝砲のはじめである。(明治6年以後天長節は太陽暦により11月3日になった) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 9月 | 社会・文化 | 医師高峰精一(文政10年6月生)が金沢で初めて洋服を着用した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 9月 | 社会・文化 | 元壮猶館教師佐野鼎が東京神田に共立学校(開成中学校の前身)を開いた。同校は初め前田家の助力で金沢に創設しようとしたものである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 11月 | 社会・文化 | 中学東校と中学西校を合せて金沢中学校とし、西校を校舎に用いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 12月12日 | 社会・文化 | 本多家臣諏訪八郎自殺。原因は本多政均暗殺者の一党石黒圭三郎(後の桂正直)の所在探索を同志から託されたが、不成功に終ったことを恥じたものとみられる。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 12月 | 社会・文化 | 金沢最初の新聞「開化新聞」を吉本次郎兵衛が発行した。(月に3回発行、木版)。次郎兵衛は料理仕出しを業としていた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 12月 | 社会・文化 | 本年末までに金沢で11の小学所が設立された。生徒数合計は2,304人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 12月 | 社会・文化 | 金沢県は金沢中学校の生徒3人を選抜して東京に留学させた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 12月 | 社会・文化 | 泉新町の奥泉伊兵衛(多葉粉屋)が隣保50戸に白米2升ずつを施した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 月日未詳 | 社会・文化 | 河原町小学所を茜屋小路(里見町)に移した。(5年5月区学校規則の発布により竪町区学校と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 月日未詳 | 社会・文化 | 安江町近田書店から「広集字書」「新撰画引字書大全」「広益玉篇」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 月日未詳 | 社会・文化 | 元壮猶館主附小幡和平(文政元年1月生)が「洋貨図録」を刊行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 月日未詳 | 社会・文化 | 旧藩士前田肇と久田宗兵衛が卯辰山の鶯谷に陶窯を築いて雅品を出した。陶工横萩一光(富山県人、京都で製陶を習得)が来て従事した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四年(1871) | 月日未詳 | 社会・文化 | 大屋愷アツが「星学初歩」を刊行した。また芝木昌平が「星学初歩附録」を刊行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 1月28日 | 政治・経済 | 金沢県は捕亡卒を邏卒と改称し、各区会所に配置して警備に当らせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 1月 | 政治・経済 | (身分制度が改変されて族籍は華族、士族、平民の3種になった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 2月 | 政治・経済 | 金沢県を石川県と改め県庁を金沢から美川町(本吉村)に移すことにした。金沢には出張所を置く旨布告された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 4月1日 | 政治・経済 | 石川郡金石郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 4月1日 | 政治・経済 | 県庁内の郵便取扱所が橋場町の吉村又三方に移され郵便役所と改称された。(これは後年の三党局のように委託経営させたものと思われる)また市中には郵便凾場(ポスト)が元県庁前、区会所内、野町3丁目、河南町(片町の一部)宝船寺町広見、新竪町2丁目、専光寺辻(英町の一部)中石引町、高道町、笠市町、橋場町に設けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 4月20日 | 政治・経済 | 石川県庁が美川町に移った。(執務は22日開始)本庁直管=能美郡全区、石川郡全区。金沢出張所=金沢全区、河北郡全区。大聖寺出張所=江沼郡全区、能美郡内の元大聖寺県管下。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 5月 | 政治・経済 | 横安江町極楽橋詰の茶商林屋某が付近川端の土手続きを請地して茶園とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 5月 | 政治・経済 | 河北潟沿岸洲崎から内日角に至る間に人力車と通船が置かれ便利になった。市内でも人力車の利用が次第にふえて来た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 6月 | 政治・経済 | (従来名前は通称と名乗の両種を使用したが、今後は一つの名称だけにするよう布告された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 7月7日 | 政治・経済 | 石川県参事内田政風の私宅を襲撃しようと計る者があったが、警戒厳重で実行されなかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 7月 | 政治・経済 | 石川県内が区制となり金沢は第8区より第14区までの7区制に改められた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 8月27日 | 政治・経済 | 内田政風が石川県権令となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 9月25日 | 政治・経済 | 七尾県が廃止となり能登国全部が石川県管轄となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 9月 | 政治・経済 | 長町の元金沢県庁は金沢区会所となった。(明治6年12月区会所は他に移り明治9年まで小学校として使用された) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 9月 | 政治・経済 | 江戸定飛脚仲間で設立計画中の陸運元会社(金沢新竪町の朝尾康太郎によって立案)が認可された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 10月 | 政治・経済 | 金沢区会所は柿木畠元壮猶館を県から借受け、ここへ卯辰山産物集会所の旧建物を移して無職者に授産教育をはじめた。区方開拓所と称し材料を与え、ぞうり、わらじ、むしろなどを作らせて賃金を払った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 10月 | 政治・経済 | 金沢区内の消防組が36組に組織され、犀川、浅野川の両大橋詰および下堤町に火見櫓が建設された。これを三櫓という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 11月4日 | 政治・経済 | 本多政均暗殺事件に関係した一党の残存者岡野悌五郎、菅野輔吉、多賀賢三郎を殺害した本多彌一、矢野策平、西村熊、鏑木勝嘉知、富田総、舟喜鉄外、浅井弘五郎、吉見玄三郎、芝木喜内、広田嘉三郎、浅口藤九郎、藤江松三郎の12人が自刃を命ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 11月17日 | 政治・経済 | 太政官は白山山ろく18ヵ村を全部石川県の管轄とした。(これらの一部は元幕府直轄領だった) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 11月 | 政治・経済 | 県庶務課はせん議のうえ県内の1郷ごとに1の郷社を置き残りは全部村社または無格社とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 12月3日 | 政治・経済 | (太陽暦を採用、本日を明治6年1月1日とした。なお時刻の呼称も改まった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 月日未詳 | 政治・経済 | (政府は群馬県富岡に蒸気機械を用いて繰糸工場を創設し、工場の経営にはフランス人5人が指導にあたった。各地から旧武士の娘たちが見習いに来た。後年金沢からも修業生を送った。) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 月日未詳 | 政治・経済 | 兼六園内成巽閣および付属建物を利用して勧業博物館を設置した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 月日未詳 | 政治・経済 | 長谷川準也が本年ごろより毎年、広坂上の居宅の階上全部(幅6間、長さ20間余)を養蚕飼育の伝習に開放した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 1月11日 | 社会・文化 | 野田寺町松月寺の本堂屋根が雪のため抜けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 1月14日 | 社会・文化 | 金石の浜に鯨がうち上げられた。長さ7,8間、幅1間半。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 1月16日 | 社会・文化 | 長町川岸1番地(富永邸跡)に永山平太らにより明治義塾という私塾が創設され漢洋学を教授した。8月に至り廃止、区学校と合併した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 1月 | 社会・文化 | 西洋数学者関口開が「点竄問題集」を刊行。関口は金沢地方における西洋数学の鼻祖で著書訳書多く、大正5年従5位追贈。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 1月 | 社会・文化 | 大屋子郎著「金沢名数」が刊行された。大屋子郎は大屋愷アツと同一人物とみられる。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 2月7日 | 社会・文化 | 長町4番丁に弘義塾を営む橋健堂が石浦町で女子教育のための塾を開いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 2月25日 | 社会・文化 | 卯辰山で招魂祭を執行、相撲の奉納があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 2月 | 社会・文化 | 本多政以が本多町2番丁1番地に維新舎を設置し子弟を教えた。明治6年5月7日本多町小学校に改められた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 3月3日 | 社会・文化 | 兼六園の遊歩が3日より4月15日まで許された。(朝8時から夕5時まで、雨天の時は中止) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 3月 | 社会・文化 | (一向宗を真宗ととなえることに改められた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 3月 | 社会・文化 | 「英語通」が金沢学校から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 4月12日 | 社会・文化 | 2月金沢県を改めて石川県となったとき旧金沢藩の諸学校は一応ことごとく閉鎖され、金沢中学校も閉鎖になった。学校閉鎖で洋学を修める道がなくなったので、閉鎖学校の教職員が結束して、英学義塾を中学東校の跡につくった。(一時盛大だったが、翌6年1月英仏学校の新設で閉鎖) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 4月 | 社会・文化 | 制度改変で廃止された医学館と病院の離職役員、生徒、患者は途方に迷ったため、太田、田中、津田の諸医師は私財を投じ、建物諸器械を借用して私立病院を開きその維持をはかった。しかしなお困難なため、県費よりの補助(月300円)や金沢戸長連の授助でようやく医療、教育を継続することができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 5月15日 | 社会・文化 | 河北郡柳橋村の大橋某が私宅を教場とし学校を創設した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 5月18日 | 社会・文化 | 明治義塾の分校が松ヶ枝町中川邸跡に開設された。また梅本町の小学所も明治義塾の分校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 5月 | 社会・文化 | 兼六園に住居または出店を望む者は絵図面をもって申出よと公示された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 6月 | 社会・文化 | 市中の用水に水車を設けるものが増加した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 7月 | 社会・文化 | 犀川大橋詰の池屋某が西洋風3階の家を建て料理店を開業、屋内からの川や海のながめがよかったという。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 8月5日 | 社会・文化 | 加賀の国学者石黒千尋死去。69歳。嘉永6年米露の軍艦が来て世論紛々として起こったとき、開国通商の必要を著書によって説いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 8月 | 社会・文化 | 石川県区学校規則が制定され、金沢には7区学校が置かれた。(明治6年3月区学校を小学校と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 8月 | 社会・文化 | 小橋小学所が馬場1番丁に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 8月 | 社会・文化 | 卯辰山に収容中の長崎浦上のキリシタン中、改宗したもの32人を長崎に送り返した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 9月12日 | 社会・文化 | 県庁が美川に移り市内がさびれたので、中屋彦十郎らが金沢の振興をはかるため兼六園巽御殿(成巽閣)で個人所蔵の書画、銅陶漆器約700点を出品して本日から30日間展覧会を開いた。各学校からも蒸気雛形、陸蒸気雛形、伝信機、千里鏡や諸器械が出品され、会場で金沢で初めての有線電信(テレガラフ)の実験をして見せた。当時この種の展覧会は東京、京都でもまだ開かれたことがなかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 9月 | 社会・文化 | 石川舜台、松本白華らが東本願寺法主に従って欧米に行った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 10月1日 | 社会・文化 | 小坂村の民家を借用して、小坂小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 10月 | 社会・文化 | 県権令内田政風の主唱で金谷殿の地に藩祖前田利家を祭る神社を建設しようと主務省に出願した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 10月 | 社会・文化 | 金沢で神職26人が士族に編入された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 11月23日 | 社会・文化 | 両新地の家主、抱女、娼妓、年期雇女を区会所に召喚して、10月2日に太政官から発令された人身売買禁止令の趣旨を説明し、29日限りで娼妓一同を本籍地へ戻すことを約束させた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 11月 | 社会・文化 | 金石集学所を金石区学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 11月 | 社会・文化 | 粟崎18番屋敷の民家を借受け粟崎小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 月日未詳 | 社会・文化 | 高山一之が上堤町餝師小間某の2階で写真業をはじめた。金沢における写真営業のはじめ。一之は元本多氏の家臣、長崎で写真術を習得して帰り、藩知事前田慶寧と世子利嗣の写真を初めて撮影した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 月日未詳 | 社会・文化 | 戸籍が編成されるのを機に金沢で町名の改廃分合されたものが多数あった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 月日未詳 | 社会・文化 | 地誌提要(加賀國・能登國)が刊行された。木製活字版の和本。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 月日未詳 | 社会・文化 | 鋳物師4代木越三右衛門正次(玄濤)死去。 | 金沢の百年 明治編 |
明治五年(1872) | 月日未詳 | 社会・文化 | 玉泉寺横の地に泉野菅原神社が再建された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 1月10日 | 政治・経済 | (徴兵令が公布された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 1月14日 | 政治・経済 | 美川町にあった石川県庁を金沢区に復帰すると発表された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 1月30日 | 政治・経済 | 美川から金沢に復帰した石川県庁の開庁式を挙行。庁舎は広坂通旧藩営修局をあてた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 1月 | 政治・経済 | 政府は兵備を次の通り決定した。(鎮台6ヵ所)東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本、(営所14ヵ所)東京、佐倉、新潟、仙台、青森、名古屋、金沢、大阪、大津、姫路、広島、丸亀、熊本、小倉。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 2月 | 政治・経済 | 区方開拓所を勧業試験所と改称。(明治7年建物をひろげて石川県勧業場と改称し、陶銅漆器、織物、ござ、染物等当地方特有の工芸品製作場となった) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 2月 | 政治・経済 | 名古屋鎮台分営所が旧金沢城内に置かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月25日 | 政治・経済 | 旧金沢藩および大聖寺藩発行の紙幣と交換する新紙幣の第1回分25万両が紙幣寮から交付された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月 | 政治・経済 | ウィーン博覧会に金沢から納富介次郎、円中孫平が渡欧した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 4月25日 | 政治・経済 | 陸軍大尉藤堂高矩が歩兵1小隊を率いて金沢城に来駐した。金沢兵営に到着した最初の軍隊である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 5月 | 政治・経済 | 石川県は権大属河崎曾平と元戸長林顕三、宮崎豊次に命じ、県人発展の適地を求めるため北海道樺太を視察させた。(林顕三に北海紀行の著がある) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 6月1日 | 政治・経済 | (金子受取、金銀貸借の証書には印紙をはらねばならぬことになった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 7月5日 | 政治・経済 | 安政3年架替えた浅野川大橋が腐朽して危険になったので、架替え方を内田権令から大蔵省事務総裁大隈重信あて上申した。(8月31日に官林伐採76本および1,132円余をもって工事施行の指令があった) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 7月15日 | 政治・経済 | 石川県は士族平民問わず北海道に移住希望者は8月31日までに申出るよう管内戸長へ通達した。(資金貸与と返済方法については開拓使と詳細な取決めができた) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 7月26日 | 政治・経済 | (地租改正条例が公布された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 7月 | 政治・経済 | (火葬が禁止になった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 8月 | 政治・経済 | 高岡人金森宗七が彦三1番丁64番地に工場を設け銅器の製作をはじめた。工人40人余、旧藩の工人が多く勤務した。(明治10年にできた長町川岸の銅器会社はこの後身である) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 8月 | 政治・経済 | 香林坊橋が修理され石橋となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 8月 | 政治・経済 | 辰巳用水の堤防修理のため費用94円30銭が官給された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 8月 | 政治・経済 | 金沢に総区長を置くことになり、長谷川準也が任用された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 9月15日 | 政治・経済 | 受取、貸借書類にはる印紙の金沢の元売所は彦三1番丁藤谷外茂吉となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 11月1日 | 政治・経済 | 歩兵21番大隊が金沢城内に創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 12月1日 | 政治・経済 | 北陸陸運元会社が十間町44番地に創立された。(明治8年7月内国通運会社と合併、その金沢支店となった。初代支店長支配人は宮野直道) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 12月27日 | 政治・経済 | 石川県権令内田政風が石川県令に任命された。石川県初代の県令である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 政治・経済 | 長谷川準也金沢総区長は、殖産興業に専念するため総区長を辞職した。時に32歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 政治・経済 | 新竪町1丁目の元士族金子清作が河北郡杉ノ瀬で、葉が大きくて厚い一本の野生の桑を発見し、つぎ木で数百本を仕立て仮にこれを唐桑といった。内田県令はそれを賞して「金子桑」と名付け明治8,9年ごろより大いに普及した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 1月14日 | 社会・文化 | 水戸浪士事件のとき加賀藩の監軍として処理に当った元作事奉行永原甚七郎孝知死去。61歳。元治元年武田耕雲斎ら約800の勤王派水戸浪士が京師の一橋慶喜に訴えようと西下したとき、藩命により孝知は京師にあった加賀藩兵約600を率いて越前に出て浪士隊の降状を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 1月16日 | 社会・文化 | 金沢長町で叢書堂が開設された。各種書物や日誌、新聞等を集め、ひろく市民に閲覧の便を与えた。当時の新聞報道によると「毎日利用者が群集。有志の拠金により設けたもので次第に完備させる」とある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 1月 | 社会・文化 | 変則中学校が藩庁の跡(現専売公社の地)に設立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 1月 | 社会・文化 | 吉本次郎兵衛の発行した開化新聞はこの月の30号をもって終刊となり、後に石川新聞と改題された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 2月24日 | 社会・文化 | (太政官布告をもって、キリシタン禁制の高札の撤去を命じた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 2月25日 | 社会・文化 | 松原町元神護寺内に石川県女子小学校が創設された。5月に松原町女子小学校と改称、当時県下唯一の女子校である。本校取締に旧藩士洋学者安達幸之助未亡人安が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 2月 | 社会・文化 | 男女混浴が禁止され、浴室を別にするか、隔日に男女の日を別にするようにせよと県から指示した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 2月 | 社会・文化 | 仙石町旧明倫堂の地に寄宿小学校が創設された。(7年8月育英小学校と改め、12年いったん廃止、14年3月22日小学高等科を仙石町の中学校内に設け金沢区高等小学校と称した。明治15年7月精練小学校と改名) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 2月 | 社会・文化 | 石川県は管内小学校教則を編成指示した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 2月 | 社会・文化 | 観音堂に小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月5日 | 社会・文化 | 関口開編「新撰数学」が刊行された。(明治19年9月の第6版までに12万余部刊行、偽版1万8,000部も判明している) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月14日 | 社会・文化 | 前田利家をまつる尾山神社が旧金谷殿の位置に地主松本栄作らの寄進で造営されることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月14日 | 社会・文化 | 長崎浦上のキリシタン宗徒の石川県(卯辰山)抑留者釈放が太政官から命令された。宗徒は4,50人ずつの組にわかれ、徒歩で4月25日ごろ神戸に着き8月7日までに全員長崎に帰った。石川県抑留者の内訳次の通り。不改宗帰還419人、改宗帰還36人、逃亡1人、死亡105人、抑留中の出生児44人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月 | 社会・文化 | "小学校の創立に伴い従来の家塾で廃されたものが多いが、なお次のものが残っていた。
上石伐町(米林有秋)五宝町(安達道喜)柿木畠(豊島毅)七宝町(杏敏次郎)宗叔町(野口之布)本多町(河波有道)松ヶ枝町(高橋富兄)森町(高橋義盛)三間道(越田善七)" | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月 | 社会・文化 | 押野村八日市新保の本福寺で八日市新保小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月 | 社会・文化 | 明治はじめ藩校で十八史略刊行のとき使用した木製活字を石川新聞(元開化新聞)の吉本次郎兵衛が30円で払下げを受け、新聞印刷に使いはじめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月 | 社会・文化 | 金沢の俳人直山蕉窓死去。49歳。直山大夢の子で槐庵7代を継席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 3月 | 社会・文化 | 区長中山守成らの主唱で金沢市内各所に共同便所が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 4月1日 | 社会・文化 | 間明地内に高畠村落小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 4月3日 | 社会・文化 | 旧城内にあった報時鐘を金沢区会所(後の公会堂の場所)に移し、25日から従来通り報時することにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 5月 | 社会・文化 | 野町1丁目の一番小学校が寺町小学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 5月 | 社会・文化 | 梅本町小学校から分離して、高岡町小学校ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 5月 | 社会・文化 | 小坂小学校校舎が新築され移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 5月 | 社会・文化 | 小橋小学所を東馬場小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 7月2日 | 社会・文化 | 柿木町62番地旧千羽邸に私立小学校が創設された。(7年2月椿原小学校となり18年柿木町男児小学校、20年尋常科柿木町小学校と改称された) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 7月 | 社会・文化 | 明治元年以来全国で発刊された新聞紙は77種に達し、その中には金沢の石川新聞もはいっている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 7月 | 社会・文化 | 私立並木町小学校創設、また金沢第11区内の有志が相はかり貧困子弟のため、仁恵夜学校をはじめた。学費を自弁できないものには筆紙を給して小学校教育をさずけた。これは金沢市における最初の夜学校である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 7月 | 社会・文化 | 牛肉商丹羽初三郎が南町から香林坊に移り、営業を続けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 8月 | 社会・文化 | 柳町小学校を田丸小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 8月 | 社会・文化 | 卯辰山上の2万坪を墓地に制定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 8月 | 社会・文化 | 金沢地方は150日間降雨なく干ばつ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 9月4日 | 社会・文化 | 河北郡二俣村小松市右衛門の住宅の一部に二俣村落小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 9月4日 | 社会・文化 | 田井小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 9月25日 | 社会・文化 | 袋小学校が私人の家屋に創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 9月30日 | 社会・文化 | 二口小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 9月 | 社会・文化 | 北袋村誓入寺に北袋小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 10月5日 | 社会・文化 | 金沢区会所は鉄製印刷機械と鉛製活字4万本を東京から購入し、石川新聞(元開化新聞)の吉本次郎兵衛に680円余で払下げた。吉本はこれで新聞と区会所の印刷物を印刷した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 10月5日 | 社会・文化 | 賢坂辻旧青地邸に賢坂辻女児学校が創設された。女子の入学希望がふえ、これが金沢で2番目の女子校である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 10月11日 | 社会・文化 | 和算家近藤直行死去。77歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 11月16日 | 社会・文化 | 金谷殿の跡に造営中の尾山神社が完成し、卯辰神社から利家の神霊を移して遷宮式がおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 11月18日 | 社会・文化 | 大野町蓮池町323番地に11町連合の蓮池村落小学校が創設された。(12月蓮池小学校と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 11月 | 社会・文化 | 粟崎35番屋敷に新築中の粟崎小学校の校舎が完成、移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 12月6日 | 社会・文化 | 陶工任田屋徳右衛門死去。82歳。採雲堂梅閑ともいう。陶法を青木木米に、画を高井二白に学んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 12月28日 | 社会・文化 | 宝船寺町、法船寺内に私立宝船寺町小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 12月 | 社会・文化 | 北笹塚に私宅を借り、北笹塚小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 12月 | 社会・文化 | 私家塾で13歳以下の男児を教授することが禁止された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | 本年より金沢地方で洋紙の使用が見受けられるようになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | (明治天皇が断髪された。皇后も黒歯をやめられた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | 小野太三郎が木ノ新保に家屋1むねを買入れ、盲人20余人を収容した。(のちの小野慈善院である) | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | 旧金沢藩の報時鐘が金沢区の所有物となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | 諸江町小学校の前身となる学校が七ツ屋円休寺を借受け授業を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | 長屋小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | 下田上村落小学校が個人宅に創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | 尾山神社を建てるとき玉がきにれんがを積んだ。これは金沢でれんがを使用した最初である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | 三小牛村の黒壁山に社祠があり、山脚にどうくつを作って九万坊権現と称し祈とうをおこなっていたが、淫祠として破却を命ぜられた。35年に蛤坂天台宗の薬王寺(この跡に料亭望月建つ)がその傍に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治六年(1873) | 月日未詳 | 社会・文化 | 元加賀藩の侍読西坂成一著「小学必読訓蒙軌範」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 1月17日 | 政治・経済 | 金石区長に不破光重が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 1月 | 政治・経済 | 金沢橋場の枯木橋を修理して石橋にした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 2月8日 | 政治・経済 | 1月の高波による金石海浜の被害復旧につき地元は藩政時代の例を述べて官費による修築を県へ懇請した。(のちに県は周囲の状況より全額官費は聴き届けられぬと指示した) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 2月17日 | 政治・経済 | 士族小川忠富ほか1人が金沢で製糸場を開設するため許可を申請した。(3月8日許可)また女工150人募集の許可も申請した。(4月6日許可)工場は長町川岸村井邸跡に新築した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 2月27日 | 政治・経済 | 太政官通達にもとづき石川県は兼六園を公園とすることになり、上申中のところ、本日付で認可された。さっそく公園への出入口として出羽町に山崎通、尻垂坂に上坂口、紺屋坂には下坂口などの新道をひらく工事を始めた。(5月7日から兼六公園として正式に開放した) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 2月28日 | 政治・経済 | 金沢の7区の区長総代に吉田温一郎がなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 3月28日 | 政治・経済 | (秩禄公債発行条令が制定された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 3月 | 政治・経済 | 金融業の要用会社が十間町に設立された。資本金10万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 4月19日 | 政治・経済 | 県令をもって1年に8日の国家祝祭日には各戸に日の丸の国旗を掲揚し、夜は表に日の丸ちょうちんをつり点灯するよう命じた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 4月 | 政治・経済 | 小川忠富らの製糸会社は不なれのため経営難に陥ったので長谷川準也、大塚志良、円中孫平らが経営を引受け同志151人を得て資本金1万円で改組再建した。(7月女工15人を群馬県富岡製糸場へ見習いに派遣して機械100座を据えつけ、10年さらに500座にふやした) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 5月2日 | 政治・経済 | 金沢辰巳用水の修理が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 7月24日 | 政治・経済 | 7日の出水でこわれた犀川大橋の仮舟橋が完成、また浅野川大橋、天神橋の修理工事も完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 7月31日 | 政治・経済 | 勧業博物館が創設された。西館は旧竹沢殿の建物、東館はドイツ人デッケンのために建設したものを充てた。開館に木戸孝允が「仰観俯察」の額を贈った。(9年4月から常設博物館となった) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 9月1日 | 政治・経済 | 石川郡粟崎郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 11月11日 | 政治・経済 | 7月7日の出水でこわれた犀川大橋の修理が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 12月 | 政治・経済 | 旧藩士杉村寛正らが忠告社という政治結社を組織し大谷派別院で結成式をあげた。加盟者約1,000人、これが県下で最初の政治結社である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 1月17日 | 社会・文化 | 17、18両日あらしのため、金石町海浜に高波が押寄せて海岸が崩れ、人家7戸納屋6むねが破損した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 1月19日 | 社会・文化 | 医学館の和蘭人スロイスが任期満了で離任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 1月 | 社会・文化 | 長町小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 1月 | 社会・文化 | 南新保村に村落小学校が創設された。のちに鞍月小学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 2月14日 | 社会・文化 | 前田慶寧が10万1,000円を学校資金として太政官に献金した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 2月17日 | 社会・文化 | 俳人直山大夢死去。81歳。槐庵6代を継席、句画集「能登めぐり」の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 2月 | 社会・文化 | 尾山神社が県社となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 2月 | 社会・文化 | 荒町の集学所が東本願寺別院内に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 3月 | 社会・文化 | 寺町小学校を野町小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 5月15日 | 社会・文化 | 俵小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 5月16日 | 社会・文化 | 勤王の旧藩士高木有制死去。52歳。幕末國事を議し入獄、のち白山比咩神社祠官に補せられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 5月18日 | 社会・文化 | 旧加賀藩第14代藩主前田慶寧(恭敏公)死去。45歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 5月29日 | 社会・文化 | 順徳天皇神霊が佐渡から京都に遷送の途中、博労町越中屋喜左衛門方に一泊。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 5月 | 社会・文化 | 梅本町小学校を大手町小学校と改称した。(18年4月17日大手町男児小学校、20年4月1日尋常科大手町小学校となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 5月 | 社会・文化 | 三馬村字泉念西院に泉小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 5月 | 社会・文化 | 押野に押野小学校が創設された。(のちに英と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 6月1日 | 社会・文化 | 本日から30日間、木谷藤十郎ら33人の共同主催により成巽閣で金沢博覧会を開いた。さきに名古屋の展覧会に金鯱鉾を旧城よりおろして陳列してあったので、内務省へ願出て、金鯱鉾など80点を政府から貸与してもらい展観したため人気がわいた。出品点数62,050点、入場者72,635人(一日平均2,421人)で5年の展覧会に比べすこぶる好成績であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 6月 | 社会・文化 | 従来野町神明宮と称した神社を泉野神社と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 6月 | 社会・文化 | 「広益英倭字典」(大屋愷アツ、田中正義、中宮誠之共著)が金沢上堤町中村喜平書肆から発売された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 6月 | 社会・文化 | 「北海紀行」(林顕三編)6冊が金沢如蘭堂から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 7月7日 | 社会・文化 | 午前中より暴風雨となり、犀川浅野川ともに急に出水して、橋と堤防、人家が決壊、大豆田村方面が特に被害多く水死も出た。(6月29日から降雨つづきであった) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 7月 | 社会・文化 | 算数家米山専造(初名、吉崎宣徳)死去。59歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 8月15日 | 社会・文化 | 小学教員養成のため石引町石川県英学校内に集成学校が創設され開校式を挙行した。(10月仙石町に移り石川県変則中学校となり、英学校と分離した) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 8月 | 社会・文化 | 出羽町龍峰山瑞雲寺内(大乗寺坂上)の私立龍峰小学校は百々女木小学校と合併した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 8月 | 社会・文化 | 浅野村(後の浅野本町)に小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 9月1日 | 社会・文化 | 俳人宇野柳壺死去。60歳。森下町に住み圃辛亭5代を継席、「何だわら」の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 10月23日 | 社会・文化 | 京都裏千家玄々斎が来沢し月心寺で仙叟の法要を営んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 月日未詳 | 社会・文化 | 千日町光明寺内に中村小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 月日未詳 | 社会・文化 | 川上新町1丁目10番地徳善院を借受け、私立夜学校の仁恵小学校が創設された。付近の有志70余人が協力して設立したもので昼間の学校に行けぬ貧困家庭の子弟を収容した。(14年2月餘力小学校と改称し、22年4月簡易科下富山町小学校となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治七年(1874) | 月日未詳 | 社会・文化 | "本年中に(月日不詳)金沢で刊行されたおもな書物。
図画入門(大屋愷アツ著)官許・文化問答(石田真吾著、土田南皐書)童蒙数学(高橋義盛著)算法窮理問答(関口開著)幾何初学(関口開著)答氏弧三角術抄訳、答氏微分術上、同付録の3冊(関口開著)小学代学書(ロスコウ著市川盛五郎訳)" | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 1月 | 政治・経済 | 本年から徴集兵を金沢城内の金沢営所に召集した。しかし士族は忌避して応召せず、町人は身代りを雇って応召させたものが多かった。新兵で自己の氏名を書けるものは1,2割にすぎなかったという。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 1月 | 政治・経済 | 郵便役所が郵便局と改称して博労町富田邸跡に移り為替送金の取扱いを始めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 3月1日 | 政治・経済 | 歩兵第21番大隊は歩兵第7連隊となり名古屋鎮台の管下にはいった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 3月31日 | 政治・経済 | 初代石川県令内田政風が官を辞し鹿児島に帰った。のち政風は島津忠義の家令となり、さらに第十五国立華族銀行の世話役にもなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 4月4日 | 政治・経済 | (郵便貯金規則が公布された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 4月27日 | 政治・経済 | 桐山純孝が、石川県権参事から石川県権令に昇進した。(岐阜県士族、天保3年10月生) | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 4月 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊の連隊本部、第1、第2大隊が編成された。連隊本部と第1大隊は旧城二の丸に、第2大隊は横山邸をとん営とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 5月23日 | 政治・経済 | (明治6年7月の火葬禁止布告が廃止になった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 6月5日 | 政治・経済 | 政府は石川県に対し皇国地誌編さん方を命じてきた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 7月 | 政治・経済 | 政治結社忠告社と内田政風の後任桐山純孝権令および熊野九郎権参事とは政見を異にして事ごとに反目し、ために忠告社員の県吏は稲垣義方を除き全部野にくだり、また県と社員たる区長との間も円満を欠き県政の執行が渋滞した。このため桐山権令は忠告社の言動を遺憾として「民権を論ずる精神と外形と二類ある説」と題する告論を発して県民をさとした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 7月 | 政治・経済 | 北陸陸運元会社(十間町)と東京元会社との合併が成立した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 8月 | 政治・経済 | 区会所を合併して尾山神社の隣接地丹後邸跡に庁舎を新設した。のちの公会堂である。また総区長に石川昌三郎(士族、文政11年1月生)を任命した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 9月9日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊に軍旗が授与された。連隊長は歩兵少佐津田正芳、連隊旗手は千田登文少尉。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 10月 | 政治・経済 | 一般警察事務は石川県庁内で取扱ったが、こんど警察出張所を博労町宮喜三郎方に設置し諸願届を取扱った。警察掛官員を警部、また邏卒を巡査と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 10月 | 政治・経済 | 金沢住民で隣接村落より借地している者の地子米の代金支払いにつき各地で苦情がおこった。これを町方苦情事件という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 政治・経済 | 金沢を石川郡と河北郡に2分し11区に区画を改めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 政治・経済 | 犀川大橋の架替えが完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 1月7日 | 社会・文化 | 俳人菅谷真澄死去。江戸三度を業とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 1月8日 | 社会・文化 | 尾山神社神門の起工式がおこなわれた。設計者については蘭人ホルトルマン(医学館教師)説、馬島健吉(医師、通弁)説等があるが根拠なく、国宝指定のとき調査した関口工学博士は日本人工匠の設計と判定した。設計は西洋文化移入時代の洋風を加味した三層楼門で、最上層の屋根を銅板ぶき四注造とし避雷針を立て窓に五彩のガラスを用いた。匠工長は津田吉之助。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 1月 | 社会・文化 | 金石で女子のため長浜小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 2月26日 | 社会・文化 | 東京本郷の旧前田邸に東京医学校の建設がはじまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 3月10日 | 社会・文化 | 関口開著「増補新撰数学」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 3月 | 社会・文化 | 宇野富有(通称直作)東京で死去。57歳。代々加賀藩の鷹匠で、37歳のとき江戸で砲術を専攻、帰国して大砲製造弾薬調理方専務となった。その妻は造兵学者佐野鼎の妹である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 3月 | 社会・文化 | 戸水村に独立した村落小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 3月 | 社会・文化 | 太政官布達によって金沢娼妓梅毒検査所が置かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 5月1日 | 社会・文化 | 石川郡北間村50番地に小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 5月5日 | 社会・文化 | 湯涌小学校が創設された。二階建校舎で3間に4間の大きさ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 5月28日 | 社会・文化 | 倉知新吉らが片町56番地に資本金5,000円をもって書店益智館を創立し図書の出版もした。のちに広坂通42番屋敷に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 6月7日 | 社会・文化 | 画家榊原拙處死去。85歳。旧藩士、南宗の画をよくしまた書に巧みであった。金城風藻、廬城風藻の著もある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 8月 | 社会・文化 | スロイスの後任として和蘭人ドクトル・ホルトルマンが医学館に招かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 9月5日 | 社会・文化 | 前田家で菅公千年祭が執行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 9月16日 | 社会・文化 | 河北郡荒山村土田太郎右衛門の住宅に村落学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 10月18日 | 社会・文化 | 宝船寺町小学校が公立校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 10月 | 社会・文化 | 上安原小学家塾が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 11月25日 | 社会・文化 | 尾山神社三重の神門が落成し開門式が挙行された。門の三層楼上に点灯して御神灯とし、あわせて日本海航行船舶の目標にしたともいわれる。総経費1万9,190余円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 12月22日 | 社会・文化 | 漢学者金子松洞死去。43歳。金子鶴村の孫、盤蝸の子で藩の人持組今枝氏の家臣、藩校の教官、のち県官となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 社会・文化 | 金沢の漢詩人狩谷芳斎死去。76歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 社会・文化 | 元加賀藩の刀手入方の本阿彌喜三次長識(ながつね)が東京から単身来沢、大工町16番地に居住した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 社会・文化 | 別所小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 社会・文化 | 小原に俵小学校の分校が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 社会・文化 | 石川郡駒帰小学校が民家に創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 社会・文化 | 加藤恒が金沢品川町で私塾を開き、永山近彰らがこれを助けた。明治12年閉鎖までに600余人の就学生を出し、河村善益、遠藤秀景らはこの出身である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 社会・文化 | 尾山新聞(不定期刊)が刊行された。関係者は浦山春清、沓木政勝。 | 金沢の百年 明治編 |
明治八年(1875) | 月日未詳 | 社会・文化 | "本年中に(月日不詳)金沢で刊行されたおもな書物。
律例類纂(井口無加之著)本迹帰宗論(優陀邦院日輝著)妙経常不軽品宗義抄(優陀邦院日輝著)祠堂金協成舎規則(曾根莫道著)" | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 3月 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊に第3大隊が増設され、連隊の編成を完了した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 3月 | 政治・経済 | (軍人、警察官等の制服着用の場合以外は一般に帯刀を禁じた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 4月18日 | 政治・経済 | 新川県を廃し加賀能登越中三国をもって石川県とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 4月18日 | 政治・経済 | "金沢区を石川県第4区とし、これを小区23に分けた。第4区の戸数は次の通り。
戸数23,995戸、人口108,758人、区長1人、副区長1人、戸長23人。" | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 8月5日 | 政治・経済 | (金禄公債証書発行条令が公布された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 8月 | 政治・経済 | (国立銀行条令が改正され、紙幣発行の担保に金禄公債をあてることを許した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 9月13日 | 政治・経済 | 新たに地方裁判所が設定されて石川県には金沢裁判所が置かれ大阪上等裁判所所属となった。従来は裁判所は聴訟所と称し石川県庁内にあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 9月13日 | 政治・経済 | 尻垂坂下の新堂形米倉が取払いになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 9月21日 | 政治・経済 | 府県区画の改定が発表された。石川県は加賀、能登、越中のほか新たに越前の7郡(坂井、南条、丹生、足羽、大野、今立、吉田各郡)が加わった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 10月16日 | 政治・経済 | 金沢裁判所庁舎が新堂形米倉跡(後の北鉄車庫付近)にできた。庁舎は木造平屋建。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 10月 | 政治・経済 | 金沢を石川県第10大区とし、10小区に区画することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 11月28日 | 政治・経済 | 博労町の第1警察出張所を県庁内に移した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 12月4日 | 政治・経済 | 金沢区方勧業場(旧壮猶館)を石川県勧業試験場と改めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 政治・経済 | 金沢製糸会社は長沢益三を京都府立織殿に派遣し、羽二重製織を研究させた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 政治・経済 | 円中孫平がフィラデルフィア博覧会に出品のため渡米、出品の県産物はいずれも一等賞牌を得た。またニューヨークでローム商会より生糸の注文を多量に受けた。これは日本生糸が米国へ輸出された最初であるという。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 2月15日 | 社会・文化 | 石川敬義著「開化要文」が顕才堂から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 2月 | 社会・文化 | 仙石町に啓明学校が開校した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 2月 | 社会・文化 | 小立野百々女木町18番地一閑院を借りあげ、賢坂辻女児小学校の分校が創設された。(10年8月は廉化小学校と改称し、同時に分校が上石引町民家2階で開かれた) | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 4月 | 社会・文化 | 集学所は3月東別院火災のため五宝町西源寺に移ったが、付近有志の奔走により瓢筆町に校舎をつくって4月ここに移り立正小学校と命名、開校式を挙げた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 4月 | 社会・文化 | 久安ろ132番地に校舎を新築して、暁解小学校が創設された。(18年4月久安小学校と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 5月 | 社会・文化 | 久保市乙剣神社が卯辰山からの旧地に復した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 6月25日 | 社会・文化 | 田中正義著「訓蒙大日本史」が刊行された。正義は石川県士族(文化13年生)で漢洋学者、英和辞書も著わし晩年石川県租税史を編した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 6月 | 社会・文化 | 田中重信著、師範学校編「地理初歩」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 6月 | 社会・文化 | 大浦小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 8月8日 | 社会・文化 | 浅野川が出水はんらん、家屋を倒し土地を崩し水死多数が出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 8月 | 社会・文化 | 大手町医学館は医療と教育部門を分離して、教育部門は金沢医学所となり、医療部門は金沢病院となった。津田淳三(文政6年生)は老齢のため引退し、太田美濃里が院長となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 8月 | 社会・文化 | 四十万小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 9月5日 | 社会・文化 | 河北郡田島村、村落小学校が小坂長右衛門の住宅の一部に創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 9月29日 | 社会・文化 | 刀工12代清光死去。56歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 9月 | 社会・文化 | 野町に清貞小学校を創設し、女児を収容した。(18年4月野町女児小学校と改称された) | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 10月31日 | 社会・文化 | 高岡町小学校は観成小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 10月 | 社会・文化 | 宝船寺町小学校校舎は長町5番丁に移り勤成小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 11月24日 | 社会・文化 | 金沢の書店主田中善兵衛著「小学単語字突」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 11月27日 | 社会・文化 | 東京本郷前田家跡に新築中の東京医学校と病院が完成、移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 11月 | 社会・文化 | 東馬場町137番地に合資組織の芝居小屋ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 11月 | 社会・文化 | 小原に地黄煎小学校の巡回教授所が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 11月 | 社会・文化 | 教育家で書家の直江菱舟が「保家用文書」を刊行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 12月4日 | 社会・文化 | 旧壮猶館内に石川県農事講習所(農学校の前身)が創設された。(明治18年4月羽咋郡火打谷に移り石川県農学校と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 社会・文化 | 石川県は権令布達をもって売淫罰則を発令した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 社会・文化 | 石川県は兼六園山崎山の前に独人教師デッケンの住宅として建てた2階建西洋館と旧巽御殿とあわせて金沢勧業博物館とした。常設博物館は全国初めてという。(明治13年石川県勧業博物館と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 社会・文化 | 高畠村ヨ52番地に新校舎をつくり高明小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 社会・文化 | 上野町開教坊(寺)に高陵小学校が創設された。(19年12月百々女木男児小学校に合併された) | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 社会・文化 | 割出村高桑宅に割出小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 社会・文化 | 俵小学校校舎が新築された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 社会・文化 | 石川郡長坂新村(後の長坂町)に在明小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治九年(1876) | 月日未詳 | 社会・文化 | 関口開著「数学問題」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 1月2日 | 政治・経済 | 野町神明宮の改築に際し天徳院にある前田光高の廟を移して拝殿に用いようとの計画があり、桐山権令は許したが県官森田平次はこれを不可として大いに争った。結局教部省は移築案を却下した。(後、二塚村佐奇神社に移築) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 1月23日 | 政治・経済 | 浅野川大橋(文禄3年創設)の架替えが完成した。明治に入って第2回の架替えである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 1月26日 | 政治・経済 | 各区町村ごとに総代人を選出することが決まった。(2月25日選出) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 2月13日 | 政治・経済 | 石川県の忠告社が鹿児島の西郷と連絡をしているとの報道が東京の新聞にのった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 2月13日 | 政治・経済 | 石川県は蚕種の改善普及のため渋沢栄一らから購入した蚕種紙1,000枚を県下6カ所に売りさばき所を設けて配布した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 2月15日 | 政治・経済 | 金沢今町の林太四郎が長土塀に錦糸製造場を建築、開業式を挙行し権令以下出席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 2月15日 | 政治・経済 | (西南の役起る。終了9月24日。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 2月25日 | 政治・経済 | 金沢市中に巡査立番所を設置した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 2月29日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊が西南の役に出動を命ぜられ、連隊本部が出発した。第2大隊は3月2日に出発、また第3大隊は高知県の警備に派遣された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 2月 | 政治・経済 | 内務卿から千秋組(旧米仲買人等で組織されていた組合)に金沢米商会設立の許可があった。商会は5月から金沢最初の株式会社として開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 3月 | 政治・経済 | 長谷川準也が銅器会社を創設した。従業員50余人、資本金1万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 4月5日 | 政治・経済 | 政府は西南の役に従軍志願の巡査を募ったが、石川県からは1,010人をもって新撰旅団を編成して出発させた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 4月6日 | 政治・経済 | 長谷川準也、大塚志良、円中孫兵らが長町川岸52番地(製糸会社隣接地)に金沢撚糸会社を新設し撚操および再製を開始した。従業員は男女工85人、資本金1万3,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 4月11日 | 政治・経済 | 陸軍教導団へ石川県から入団者が5人あった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 8月21日 | 政治・経済 | 第1回内国勧業博覧会が東京で開催され、石川県からの出品者多数が賞牌を受けた。金沢蛤坂の加波右衛門の製造した加波扇も賞牌を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 8月26日 | 政治・経済 | 金沢市下堤町51番地に金沢第十二国立銀行が開業した。頭取小幡和平、支配人米山道生。資本金20万円うち前田家出資10数万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 9月22日 | 政治・経済 | 西南の役に出動した軍隊は22、23日にわたり、全部金沢に帰還した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 9月 | 政治・経済 | 金沢で第一警察署が下小川町に、第二警察署が野町1丁目に設置された。第一警察署は後の玉川警察署、第二警察署は後の広坂警察署の前身である。また現在の巡査派出所のことを巡査箱番所といった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 11月26日 | 政治・経済 | (手取川大橋の架設起工式が粟生でおこなわれた。60日間に完成の予定。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 11月 | 政治・経済 | 石川県から大津までの民営による電信線架設計画を木谷藤右衛門が総代となり出願した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 12月31日 | 政治・経済 | (西南の役の軍費等のため政府発行紙幣は1億2,000万円に達した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 月日未詳 | 政治・経済 | 長谷川準也、河崎曾平らが第四十四国立銀行を金沢石浦町に創設した。資本金20万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 3月4日 | 社会・文化 | 鱗町59番地に女児の静化小学校が創立された。(18年2月鱗町女児小学校と改称され20年4月尋常科小学校となった) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 3月30日 | 社会・文化 | 野島守真、野島信吉、城森文次共同編さんの「新撰画引字書」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 4月 | 社会・文化 | 小島致将編さんの「加賀、能登、越中市村区分一覧表」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 5月 | 社会・文化 | 桜井保市著「明治改正消息往来」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 6月20日 | 社会・文化 | 歌人高畠米積死去。75歳。金沢で蔵宿を業とし、国学者田中躬之の高弟。明治以降多太神社、小坂神社の神宮となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 6月 | 社会・文化 | 松原町女児小学校の校舎が高岡町99番地に完成し婉静小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 7月 | 社会・文化 | 関口開校閲の「対数表」が刊行された。(出版人備中町20番地小島致将) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 8月20日 | 社会・文化 | 啓明学校を石川県中学師範学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 9月 | 社会・文化 | 木ノ新保常福寺住職北方蒙(心泉)が東本願寺から上海別院に派遣され留学生30人を率いて渡航した。在清中布教のかたわら六朝体の書を研究した。(16年帰国) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 9月 | 社会・文化 | 田丸町小学校の校舎新築、改良小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 9月 | 社会・文化 | 東馬場小学校は養成小学校(男児)と浅汀小学校(女児)の2校に分かれた。(養成小学校は18年4月東馬場男児小学校と改称された) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 10月20日 | 社会・文化 | 宮部昌平(大聖寺弓町住)編さん「大日本帝国地図」2枚が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 10月24日 | 社会・文化 | 造兵学者佐野鼎、東京でコレラにかかり死去。47歳。墓碑は東京青山にある。安政元年金沢に壮猶館の設立されたとき藩から禄150石で招かれ西洋砲術師範方棟取役を命ぜられ、廃藩後は東京に帰り兵部省で造兵の事に当った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 10月 | 社会・文化 | 三輪照寛死去。63歳。国学者田中躬之の門人で明倫堂に国学を講じ明治元年神仏混淆取調役を務めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 11月 | 社会・文化 | 三宅少太郎、藤井準夫共著「小学課程書字引」が広坂通益智館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 11月 | 社会・文化 | 高橋富兄編「石川歌集」2冊が上堤町中村喜平から発売された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 12月12日 | 社会・文化 | 専光寺村に土地を借りて校舎を新築、小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 12月14日 | 社会・文化 | 剣術家鈴木行死去。72歳。黙斎と号し鹿島神伝流の剣法に達し門弟が多かった。近藤忠之丞のあだ討ちのときひそかに忠之丞を助けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 月日未詳 | 社会・文化 | 浅野小学校を増築、前田斉泰の命名になる勉致小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 月日未詳 | 社会・文化 | 下安江地内に観光小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 月日未詳 | 社会・文化 | 御供田村に御供田小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 月日未詳 | 社会・文化 | 卯辰山鶯谷で製陶に従事した前田肇、久田宗兵衛のあとを松屋庄平(のちに鶯谷を姓とした。天保元年2月3日生)が引受け、文化年間来沢した青木木米の作風を伝承し庄米と署した。(明治18年窯を野崎佐吉に譲ったあと小川町の自宅にこもり作品は鶯谷窯で焼いた) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 月日未詳 | 社会・文化 | 兼六園内に料亭酔紅館が開業した。(金沢で洋食屋のはじめ) | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 月日未詳 | 社会・文化 | 尾張町七日堂(羽田伝右衛門)が西洋菓子をはじめて売出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十年(1877) | 月日未詳 | 社会・文化 | "本年中に(月日不詳)金沢で刊行されたおもな書物。
改正点竄問題集(関口開著)代数学第二編上・下(関口開著)答氏円錐形截断術(関口開著)" | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 1月27日 | 政治・経済 | 円中孫平らの菅笠(すげがさ)商たちが菅清会社の設立を計画して許可になった。本社は笠市町55番地。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 3月 | 政治・経済 | (前田家は能登島野崎村で製塩事業をはじめ長谷川準也、杉村寛正らが直後この衝にあたった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 4月16日 | 政治・経済 | 加賀、越中境の倶利伽羅峠に新道を開くことに決定、着工した。(7月に完成、天田峠という)この費用は富山、石川両県下有力者の寄付によった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 4月 | 政治・経済 | 円中孫平が横浜に輸出用店舗を設けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 4月 | 政治・経済 | 金沢米商会創設の際の組織成規に不備があったため、売買上紛議が起り肝煎一同が辞職した。(6月後任者により再開された) | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 5月14日 | 政治・経済 | 石川県士族島田一良ら6人が東京赤坂紀尾井町で参議大久保利通を刺殺した。6人は島田一良のほか石川県士族長連豪、脇田功一、杉本乙菊、杉本文一および島根県士族浅井寿篤。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 5月15日 | 政治・経済 | 石川県権令桐山純孝が県令に昇任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 7月27日 | 政治・経済 | 大久保利通を暗殺した島田一良らが市ヶ谷監獄で斬刑に処せられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 7月30日 | 政治・経済 | 旧藩士清水誠の新燧社(東京本所区柳原町)の早付木(マッチ)が国内でよく売れるだけでなく上海へも輸出し好調。清水誠は金沢藩から仏国留学生となり、工芸大学で学び7年帰朝後マッチ製造をはじめた人。大正4年従5位を追贈された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 7月 | 政治・経済 | 郡区町村編成法の制定によりまた区画が改められ、金沢は町全体が金沢区となって、西町の区会所は区役所と改称された。また金沢区を7連区に区分し、区に戸長を置き戸長役所を設けた。(12年に戸長役場と改称された) | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 8月14日 | 政治・経済 | (富山市に第百二十三国立銀行が設立された。これは後に金沢の第十二国立銀行と合併した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 8月30日 | 政治・経済 | 明治天皇が北陸東海巡幸のため東京を出発された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 8月31日 | 政治・経済 | 金沢勧業博物館概則ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 8月 | 政治・経済 | 石川郡金石亀齢町に灯台が設けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 9月 | 政治・経済 | 明治天皇巡幸の前に県庁は玄関と正門だけを修繕した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 9月5日 | 政治・経済 | 前田大炊邸跡の博労町角に電信分局が設置され電信事務の取扱いを開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 9月28日 | 政治・経済 | 旧城内の尾崎神社(郷社)を現在地の西町に移転、遷座式を執行した。(陸軍省から移転料600円出る)西町のこの地は一向一揆時代の武佐広済寺跡で旧藩時代は御主殿屋敷といって長屋が数むねあった。維新後は一時西町軍艦所があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 9月 | 政治・経済 | 大阪興農会社支店(金融業)が博労町に設置された。代表者大野木克征。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 10月2日 | 政治・経済 | 明治天皇は石動を立たれ途中河北郡竹橋で小休の後、午後3時15分馬車で金沢に入られた。行在所は南町中屋彦十郎宅。供奉員は岩倉具視以下635人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 10月3日 | 政治・経済 | 金沢ご到着2日目の明治天皇は県庁、裁判所、師範学校、公園、博物館、上野練兵場、医学所などをご覧になった。博物館では東本館、集産館、西本館のほか特別陳列室、機械室を巡覧になった。随従の岩倉右大臣を通じ木谷藤十郎に産業奨励のため100円をたまわった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 10月4日 | 政治・経済 | 金沢3日目の明治天皇は兵営、中学師範学校および銅器、製糸、撚糸の3会社を巡覧された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 10月5日 | 政治・経済 | 金沢で3泊された明治天皇は金沢における巡幸を終え、午前7時小松に向け出発された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 11月 | 政治・経済 | 金融業観光社が中町に設立された。代表者真田信静、資本金5万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 12月17日 | 政治・経済 | 大野木克正が金沢区長代理となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 12月 | 政治・経済 | (郡区制の施行に伴い郡役所が置かれた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 月日未詳 | 政治・経済 | 本年調査の著名都市の人口は次の通りで金沢は全国で第5位を占めている。なお全国で人口10万以上の市はこの5市だけである。東京67万人、大阪29万人、京都23万人、名古屋11万人、金沢10万7,000人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 1月29日 | 社会・文化 | 鈴木安茂、堀叢太郎、上山小太郎共著「新々数学」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 2月 | 社会・文化 | 大場村の篤農家西川吉平死去。72歳。嘉永6年水稲の新品種大場坊主を培成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 5月20日 | 社会・文化 | 旧藩士久徳伝兵衞尚則死去。52歳。大小将組となり元治の変に藩のあって時勢を議すること再三であったため能登島に流されたが、慶応4年3月大赦令で士籍に復した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 6月9日 | 社会・文化 | 朝野新聞が「島田一良の素性」という記事をのせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 6月28日 | 社会・文化 | 関口開が明治8年の「新撰数学」を改訂増補して再刊した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 6月30日 | 社会・文化 | 歌人狩谷竹鞆死去。57歳。明倫堂で国学を教え、明治5年から白山比咩神社宮司をつとめていた。馭戒類制、白山新百集等著書が10冊以上ある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 6月 | 社会・文化 | 三宅小太郎著「加賀地誌略」が益智館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 6月 | 社会・文化 | 大屋愷アツ著「加越能地誌略」3巻が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 7月7日 | 社会・文化 | 豪雨で浅野川が大出水した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 7月30日 | 社会・文化 | 越田善七(三間道)著の「和算階梯」が増山平助(片町65番地)により刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 9月20日 | 社会・文化 | 金沢に初めて街灯が立った。明治天皇を迎える日が近づいたので、南町と石浦町に10数本建てたもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 9月 | 社会・文化 | 尾山神社境内に西南の役で戦死した県人390余人の功績をたたえる戦士尽忠を崇忠会が建設した。撰文と文字は前田斉泰である。(明治13年明治紀念の標が兼六園に建設されると同所に移された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 10月13日 | 社会・文化 | 石川郡山科、窪、円光寺、寺町および河北郡の吉原村蚊爪の村落で疫病が流行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 10月25日 | 社会・文化 | 尾張町菓子舗11代森下八左衛門死去。38歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 10月 | 社会・文化 | 石川県勧業博物館内に能舞台が新築された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 10月 | 社会・文化 | 地方子弟の教育のため育英社が組織された。旧藩主前田斉泰、利嗣が資を投じまた同郷の文武官も寄金した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 10月 | 社会・文化 | 平木保景(石川県士族)編さん「雅俗必読日用作文大成」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 11月10日 | 社会・文化 | 金沢兵営内に疫病が流行し患者は180余人に及んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 月日未詳 | 社会・文化 | 石屋小路で石川郡三馬村寺地出身の寺地盛政夫婦が飲食店を開業した。これが栄町遊廓(北廓)のはじまりである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 月日未詳 | 社会・文化 | 後谷に地黄煎小学校の巡回教授所が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十一年(1878) | 月日未詳 | 社会・文化 | "本年中に(月日不詳)金沢で刊行されたおもな書物。
改正教女軌範(西坂成一著)石川県改正違式図解(西尾慶治著)" | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 1月 | 政治・経済 | 石川県の総人口は182万6,929人、総戸数は37万3,555戸と調査結果がまとまった。(石川県の区域は加賀、能登、越中、越前) | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 1月26日 | 政治・経済 | 下堤町に第七十五国立銀行が開業した。資本金5万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 1月 | 政治・経済 | 金沢郵便局は郵便貯金の取扱いを開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 1月 | 政治・経済 | 南町に金融業真成社(資本金5万円)が開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 3月3日 | 政治・経済 | 県令桐山純孝は依願免官(2月24日付)、後任に内務少書記官千坂高雅(山形県士族、天保12年1月29日生)が県令として就任した。(千坂は山田屋小路に居住した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 4月30日 | 政治・経済 | "第1回県会議員選挙で金沢区から選出された者は次の通り。
高岡町士族草薙尚志、山科村士族楠正、水溜町士族清水兼之、長町7番丁士族河瀬貫一郎、又吾郎町士族安田冓車、菊川町士族松原小四郎、浅野町士族遠藤秀景、品川町士族加藤恒" | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 4月 | 政治・経済 | 町方苦情事件の和解が成立した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 5月26日 | 政治・経済 | 県会がはじめて開かれた。(コレラ流行のため7月29日に休会した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 6月 | 政治・経済 | 大鋸谷太三郎が小立野で手操製糸をはじめた。(越中福光から女工10人を招いた) | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 7月7日 | 政治・経済 | 金沢区長心得大野木克正が県吏に転じて石川県八等出仕となり、石川昌三郎が区長心得となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 8月25日 | 政治・経済 | 金沢区各町調査委員が連名で連合町会の開設を金沢区長心得石川昌三郎に申出て、承認された。連合町会の議員選出の手続きは各町がまず一町一人の委議員(総数533人)を選びこれが互選で連合町会議員24人を選ぶことになっている。また連合町会の協議事項は会議費の事、小学校の事、報時鐘の事、種痘の事、消防器械の事、火の見やぐらの事、救恤の事ときめられた。(連合町会は9月に開かれた。これは後の区会の前駆をなすものである) | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 9月4日 | 政治・経済 | "区が常備すべき消防器具の数量を次の通り決定した。
雲竜水18、水桶12、手桶101、指俣9、楷梯16、釣瓶5、鳶口24" | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 9月6日 | 政治・経済 | 金沢区連合町会議長岡田雄巣に対し区長から戸数割賦課方法の諮問があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 9月17日 | 政治・経済 | 壮猶館跡で石川県農事講習所の開所式がおこなわれた。(明治10年創立) | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 10月25日 | 政治・経済 | 朝日新聞は「金沢の士族長谷川、大塚両氏の創立せる製糸会社、女工378人就業し、日々多量の生糸を製出す」と報じた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 10月 | 政治・経済 | 第1代県会議長加藤恒が能美郡長に転じ、第2代県会議長には米山道生が就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 11月11日 | 政治・経済 | 金沢区長心得石川昌三郎が辞職して、後任に一等属相場朔郎(旧小浜藩士族)が就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 11月29日 | 政治・経済 | 誠行社が水溜町2番地に設立された。有価証券および地所家屋商品類を抵当にして貸金を営業とした。資本金1万円で、代表者清水兼之。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 11月 | 政治・経済 | "上記のほか11月中(日不祥)に次の3金融業者が開業した。
北雄社(西町)資本金5万7,000円、代表者広田伍一
苟完社(八坂)資本金3万円、代表者横山隆平
融信社(南町)資本金5,000円、代表者原規矩郎" | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 11月 | 政治・経済 | 長町5番丁56番地で、士族矢田半が磨研布製造会社を設立した。(資本金2,500円)製品は金剛砂または硝子粉を麻布もしくは紙面に付着させたもの。明治7年ごろから研究して改良を加えてきたが、需要も増大したので会社にして拡張したものである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 11月 | 政治・経済 | 野菜物の住吉市場が設立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 12月1日 | 政治・経済 | (大阪手形交換所が開業した。日本最初の手形交換所である。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 12月 | 政治・経済 | (国立銀行が全国で150行に達した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 月日未詳 | 政治・経済 | 有松町、上野町、石浦新町が金沢区に編入された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 月日未詳 | 政治・経済 | 森本村にあった河北郡役所がコレラ流行のため津幡に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 4月10日 | 社会・文化 | 明治天皇が東京本郷の前田邸へ行幸になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 4月30日 | 社会・文化 | 関口開閲、岩田順三著の「改正新撰数学解式」が中外堂(玄蕃町三巡21番屋敷中吉忠平)から刊行された。中吉忠平は県における洋製本の元祖である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 5月 | 社会・文化 | 石川県第一師範学校編さんの「書牘文例」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 6月17日 | 社会・文化 | 市姫神社が卯辰観音院境内から現在地に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 6月 | 社会・文化 | 医学所の隣接地殿町の松平大弐邸跡に金沢病院を新築して旧建物を全部医学所にあてた。新築経費は主として前田家、学校病院職員、開業医、富豪の寄付で太田美濃里院長が最も尽力した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 6月 | 社会・文化 | 湯涌谷小学校七曲分校の前身の学校が開かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 6月 | 社会・文化 | 画家佐々木泉玄死去。75歳。加賀藩の画家泉景の子、家法を継いで画をよくし天保5年法橋に任じ嘉永5年法眼に進んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 7月9日 | 社会・文化 | 石川県第一女子師範学校編さんの「女の志つけ」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 7月10日 | 社会・文化 | コレラ大流行のため小、中学校は休校し、祭礼興行も停止された。県内のコレラ死亡者は2万1,144人に達した。(石川県の区域は加賀、能登、越中、越前) | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 7月30日 | 社会・文化 | 書家篆刻家の橋往来死去。62歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 8月4日 | 社会・文化 | コレラの大流行で各地に種々紛争が起こったが、浅野川川除町一文橋付近でコレラ送りといって尻垂坂の若者数十人が中央にわら人形をかつぎ笛、太鼓、法螺を鳴らし油かんをひきずって押し出したところ、川除町の者が「けがらわしい」と町内通過を阻止したのでけんかとなり、双方にけが人が出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 8月15日 | 社会・文化 | 儒家亥軒永山平太死去。65歳。明倫堂の教職に列し、前田斉泰に学殖を嘉奨され、置県以後は中学、師範両校に教えた。著に亥軒文稿附詩稿がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 8月24日 | 社会・文化 | 旃崖奕堂(せんがいえきどう)が羽前巡錫中死去。75歳。安政4年天德院住持となり、のち総持寺に入り管長となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 9月 | 社会・文化 | 岡本起泉著「島田一郎梅雨日記」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 9月 | 社会・文化 | 永島新太郎著「金沢珍聞」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 9月 | 社会・文化 | 瓦版はやり唄虎刺ものが近八板行で売出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 10月4日 | 社会・文化 | 小学校学区の区域割が決定発表された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 10月4日 | 社会・文化 | 石川県中学師範学校で教授のかたわらキリスト教の伝道をする目的で、トマス・ウインが金沢に到着した。その町案内に沼田悟郎(同校長)があたった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 10月10日 | 社会・文化 | 春田篤次(観音町1丁目8番地)編集ならびに出版の「大日本地図明治道中記」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 10月18日 | 社会・文化 | 医家津田淳三(正秋)死去。56歳。国老横山の臣で大阪の緒方洪庵に学んだのち材木町に住み医術につくし黒川良安の妹をめとった。卯辰山の養成所の所長をし、戊辰の役には藩命で従軍した。著者に脈論がある。晩年は味噌蔵町片原丁に住んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 10月 | 社会・文化 | 県人桜井錠二が英国の大学から奨励金を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 11月8日 | 社会・文化 | 工部大学第1回卒業式を挙行。卒業生に高峰譲吉の名がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 11月 | 社会・文化 | 金沢医学所を金沢医学校と改称した。田中信吾がその校長となり金沢病院御用係を兼ねた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 12月 | 社会・文化 | 金石に薫陶(男)清紫(女)の2小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 12月 | 社会・文化 | 風琴楼(東御影町)編さんの「金沢区市街図附録」を石田真吾が刊行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 月日未詳 | 社会・文化 | 小野太三郎が彦三2番丁に家屋6むねを買収して孤児、不遇者の収容施設を拡張、木ノ新保から移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 月日未詳 | 社会・文化 | 仁恵小学校が公立に移管された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 月日未詳 | 社会・文化 | 「加賀俗謡やんれぶし」(近八板行)が出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十二年(1879) | 月日未詳 | 社会・文化 | 鋳物師10代宮崎寒雉死去。名は彦九郎尚義、文久3年京師名越氏に就いて業を習った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 1月24日 | 政治・経済 | 金沢区長相馬朔郎の勧めによって、米山道生らが金沢商法会議所の設立発起人会を開いた。(2月28日県令千坂高雅に設立願を提出した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 1月 | 政治・経済 | 長町川岸24番地の金沢藩庁跡は前田家の所有になり別邸となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 2月 | 政治・経済 | 金融業本立社が本多町に開業した。資本金3万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月15日 | 政治・経済 | 金沢裁判所は増改築のため完成まで金沢市八坂26番地松山寺を仮庁舎とすることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月22日 | 政治・経済 | 千坂県令から金沢商法会議所設立の許可指令があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月 | 政治・経済 | 昨夏の石川県内各地のコレラ大流行に対し内帑金1,000円を下賜された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 4月 | 政治・経済 | 遠藤秀景らが盈進社を結成した。その趣意書には国権、国益、民福の拡張増進をはかるのが結社の目的と述べている。(盈進社の字源は孟子の盈科而後進) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 5月1日 | 政治・経済 | 金沢商法会議所の開所式が金沢区役所で挙行された。会頭米山道生。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 5月10日 | 政治・経済 | 第2回県会が開かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 5月16日 | 政治・経済 | 河北郡連合村会が組織された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 7月 | 政治・経済 | 金沢勧業博物館が県立となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 7月 | 政治・経済 | 陶器製造の岩花堂(藤岡外次郎)が上柿木畠で創業した。(資本金150円) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 8月18日 | 政治・経済 | 金沢の政治結社精義社が玉井町で演説堂の建築に着工、上棟式をあげた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 8月 | 政治・経済 | 前田家では旧士族に対する授産のため、家扶に告論書をもたせて金沢へ派し、起業会という機関を結成するとにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 9月5日 | 政治・経済 | 活版会社が高岡町34番地に創業した。業務担当社員は浅津一成、生沼信男。資本金6,650円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 9月 | 政治・経済 | 九谷陶器商収成社が石浦町に創業した。資本金5,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 10月15日 | 政治・経済 | 金沢商法会議所および県下各地の商工業者により石川県商法連合会が結成された。結成会場は仙石町の元育英小学校。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 10月25日 | 政治・経済 | 金子清作が蚕桑改良で表彰された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 10月 | 政治・経済 | 前田家の企画した起業会が成立し、総代40人を選定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 11月23日 | 政治・経済 | 疋田直一、杉村寛正が金沢で盈進社員に殴打された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 11月 | 政治・経済 | 金沢裁判所新庁舎が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 11月 | 政治・経済 | 士族授産金および資金7万円をもって高岡町に興産社が創設された。(はじめは木綿を製織し19年から輸出用羽二重、紋羽二重を製織して好調だったが、のち不振となり閉社した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 12月27日 | 政治・経済 | 初めて金沢区会が開かれた。区会は議事細則を議決した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 月日未詳 | 政治・経済 | 前年陶器製造を廃棄した阿部碧海の元使用人内海吉蔵が金沢で独立して為詢社を起し、陶画工を養成して着画窯を改良した。(為詢社からは友田安清のような釉薬についての第一人者も出た) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 月日未詳 | 政治・経済 | 藩政時代から積立てられた義倉は廃藩の際県庁に移して保管されたが、県は本年これを群区町に引渡した。(後年紛争を生じ、裁判事件となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 月日未詳 | 政治・経済 | 広坂通の石川県庁舎の改築が完成した。県庁玄関に菊の紋章をつけた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 月日未詳 | 政治・経済 | 金沢の製箔業は明治6,7年ごろから産額を増し、本年の就業者は1,500人に達している。極薄のものも製産され品質も向上した。(金沢の製箔業は文政年間幕府の禁制にあったが取締りをのがれて製品が細々と市場に出ていた。維新後、製造は自由になった) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 月日未詳 | 政治・経済 | "会沢区の本年の面積、戸数、人口は次の通り。
反別699町8反9畝13歩余 戸数24,778戸 人口107,624人" | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 1月11日 | 社会・文化 | 山ノ上町善導寺を借用して養成小学校(馬場1番丁、男児校)と浅汀小学校(東馬場、女児校)の分校を設け養成浅汀分校と名付けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 2月8日 | 社会・文化 | 大島拓軒東京で死去。54歳。儒家大島桃年の子、190石を受け明倫堂教師から藩侯の侍読となり、のち金沢中学、啓明両校教師を経て明治9年以来東京で前田家の侍読をつとめ兼ねて家記を続修していた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月1日 | 社会・文化 | 元金沢区長大野木克正死去。54歳。人持組大野木克誠の3子で慶寧の側小姓から大小将組頭となったが、元治元年上洛中の国事についての行動がわざわいし能登島に流刑、明治元年大赦され藩吏となった。大正6年従5位追贈。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月1日 | 社会・文化 | 俳人金浦鷺橋死去。66歳。俳諧を黄年に学んで園亭5代を称し、明治の後泉野菅原神社の社掌となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月24日 | 社会・文化 | 俳人杉浦立芳死去。金沢竪町で金襴商を営み小春庵5代、二夜庵4代を継席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月 | 社会・文化 | 吉本次郎兵衛が北溟社を創立、石川新聞を加越能新聞と改題した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月 | 社会・文化 | 仁恵小学校は余力小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月 | 社会・文化 | 御経塚に時習小学校と創設された。(のちに明誠と改称された) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 3月 | 社会・文化 | 竪町小学校を淳正小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 4月11日 | 社会・文化 | 金沢区内ではじめてキリスト教の洗礼を受け信者になったものが7人出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 4月14日 | 社会・文化 | 石坂町から出火、315戸を焼失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 4月 | 社会・文化 | 田中重信(尾張町50番地)著「小学修身訓」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 5月 | 社会・文化 | 柿木畠19番地に私立商法講習所が開設され一般商業に志ある者を入所させた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 6月 | 社会・文化 | 福光の松村精一郎(聾啞者)が長町川岸に私立金沢盲啞院を創設した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 7月8日 | 社会・文化 | 北陸日報が発刊された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 7月31日 | 社会・文化 | 石川児遊死去。61歳。通称文二、金沢で木版出版を営んだ。住居を集雅堂と称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 8月23日 | 社会・文化 | 北海道で開拓に従っていた旧加賀藩士6人が船の転覆で水死した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 9月21日 | 社会・文化 | 刀工7代勝国死去。通称松戸栄七郎。刀の銘は勝国作、加州住勝国、加州住陀羅尼橘勝国などと彫った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 9月 | 社会・文化 | 金沢医学校にはじめて医学士外山林介、伴野秀堅が招かれた。福沢諭吉の紹介による。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 10月26日 | 社会・文化 | 金沢の軍官民有志が共同で西南の役の第7師管戦死者のため日本武尊の銅像を兼六園内に建てた。銅像は富山県高岡で製作、台石は玉泉丸および藩老奥村邸滝つぼから運び庭師大田小兵衛が積んだ。題字「明治記念之標」は有栖川宮熾仁親王の筆である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 10月31日 | 社会・文化 | 能楽脇師野村蘭作死去。65歳。上堤町に住んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 10月 | 社会・文化 | 金沢教育社が設立された。県内教育の普及発展をはかるのが目的で、事務所を東本願寺別院に置き雑誌を発刊し演説会を開くなど大いに活動した。14年2月社長に内山行貫、副社長に沼田悟郎を選出した。(15年金沢教育社は解散、金沢教育会が設立された) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 12月11日 | 社会・文化 | 前田慶寧の女、慰(ヤス)が有栖川宮家に嫁し威仁親王妃となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 12月 | 社会・文化 | 今月から1月にかけて市内の井戸水の分析試験が行われた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 月日未詳 | 社会・文化 | 三ツ口小学校が創設された。(のち上野新小学校となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治十三年(1880) | 月日未詳 | 社会・文化 | "金沢で本年中(月日不詳)に刊行されたおもな書物。
幾何初学例題(関口開著)陸路逎記(近藤芳樹著)厨の心得(石川県師範学校編)" | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 1月 | 政治・経済 | 金融業生用社(資本金5,000円)が上堤町に、また同じく改進社(資本金1万円)が五宝町に開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 2月7日 | 政治・経済 | 石川県から越前を分割し越前、若狭をもって福井県とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 2月25日 | 政治・経済 | 石川県書記官熊野九郎が大蔵少書記官に転じ大越亨がその後任となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 2月 | 政治・経済 | 板金製造の光業社が彦三2番丁に創設された。資本金は主として不破彦三の出費による1万円。機械の一部は七尾軍艦所から流用したもので工場は古道2番丁7番地。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 3月23日 | 政治・経済 | 金沢区は戸長を廃し区長が戸長事務を統轄することにした。(しかし公衆の不便と事務混雑のため、8月15日戸長役場を復活した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 3月 | 政治・経済 | 小坂村表与兵衛と出島啓は桑苗金子苗を接穂し、桑の品種改良に成功した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 3月 | 政治・経済 | 小坂村の本岡三千治が河北郡農会と山林会を結成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 4月9日 | 政治・経済 | 福井県管内の裁判事件は金沢裁判所の管轄に属することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 4月 | 政治・経済 | 金融業任伸社(資本金3,600円)が中町に開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 5月28日 | 政治・経済 | 石川県庁内に監獄本署を置き、金沢囚獄署、小松懲役署、飯田囚獄署などは各監獄署と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 5月28日 | 政治・経済 | 公園内の勧業博物館で商法講習会が開催され、210余人が出席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 5月 | 政治・経済 | 第3回県会が開かれた。物価騰貴で予算が膨張し、石川県財政の危機が呼ばれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 6月22日 | 政治・経済 | 金沢裁判所に検事局を置いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 6月25日 | 政治・経済 | 金沢区長相場朔郎が射水郡長に転じ、後任区長に能美郡長加藤恒が就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 7月1日 | 政治・経済 | 津幡、魚津、輪島に監獄支署が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 7月29日 | 政治・経済 | 金沢裁判所管内から越前国敦賀郡と若狭国全部が京都裁判所の管轄となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 8月 | 政治・経済 | 盛燧社が横山町に創業され摺付木(マッチ)製造を始めた。資本金800円、代表者三原理助で商標は二つ馬印だった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 8月 | 政治・経済 | 前田家は旧藩地振興策として東北鉄道の敷設を計画し敷設願を提出した。資本金は450万円で前田家のほか東西本願寺と越前の旧藩主も出資を約束した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 9月2日 | 政治・経済 | 前田家は東北鉄道の計画とともに起業会の解散を通告した。そのため盈進社員など一部に憤激するものが現れ、前田利嗣、前田利鬯(としか)が来沢して東北鉄道についての説明をした。東北鉄道計画発表により旧藩士は鉄道派と開墾派に分れて抗争を続けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 9月 | 政治・経済 | 繰綿業の豊明社が南町に創業した。資本金3,550円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 10月8日 | 政治・経済 | 金沢区長加藤恒は前田家に入り、県吏梅原可也(天保14年閏9月生)が区長になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 10月10日 | 政治・経済 | 金沢牛乳合資会社が蛤坂新道22番地に資本金1万5,000円で設立、営業を開始した。代表者水登勇太郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 10月12日 | 政治・経済 | (明治23年に国会を開設する旨の詔勅が発布された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 11月23日 | 政治・経済 | 殿町殿待楼での鉄道派懇親会合の席へ、開墾派の盈進社連が襲撃した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 11月 | 政治・経済 | 石川県は旧藩士の懇請で士族授産のため興産社を創設した。(明治34年4月15日解散) | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 11月 | 政治・経済 | 書籍商知新堂が上堤町に創業した。資本金2,500円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 12月7日 | 政治・経済 | 金子桑の金子清作(新竪町1丁目住)に藍綬褒章が授けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1882) | 12月7日 | 政治・経済 | 野々市村の水毛生伊余門が、自費をもって農事改良をおこなった功により藍綬褒章を授けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 12月 | 政治・経済 | 捕鯨業の鯨漁社が尾張町に創業した。資本金2,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 12月 | 政治・経済 | 葬具貸付便益社が広坂通に創業した。資本金1,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 1月10日 | 社会・文化 | 夜明けに金沢城内分営から出火、石川門を除く全部を焼失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 1月13日 | 社会・文化 | 大降雪で県下各地に被害があり、犀川川上の芝居小屋も崩壊した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 1月25日 | 社会・文化 | 金沢区内4ヶ所に塵芥焼却ガマを設置し、掃除夫にゴミをもよりへ集めさせ焼却することにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 2月11日 | 社会・文化 | 教育家山田文祥死去。37歳。江戸昌平黌に学び帰国後斉勇館教師となり中学東校幹事、金沢輪島師範学校教員を歴任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 2月16日 | 社会・文化 | 「七十五法名目略解」(編さん人石川県平民宮地寿夫)が大谷派本山教育課から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 3月22日 | 社会・文化 | 仙石町金沢中学校に金沢区高等小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 3月26日 | 社会・文化 | 「啓蒙雑誌」発刊。発行所は片町51番地、社長向誠道、雑誌の内容は教育に重点をおいた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 4月12日 | 社会・文化 | 石浦神社は明治12年に本多町広坂通角の地(現在地)に移り、13年4月から神殿建築中のところ本日完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 5月1日 | 社会・文化 | 大手町2番地にキリスト協会ができ献堂式をあげた。(旧藩臣長尾八之門の持ち家を借受けたもの) | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 5月14日 | 社会・文化 | 金沢小学師範画学教師笠井喜佐吉(旧姓仙台)が願いにより職を免ぜられた。笠井は石川県最初の洋画教師である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 6月 | 社会・文化 | 増上寺版謡本の小本全21冊を近八が出版した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 7月1日 | 社会・文化 | 中学師範学校が石川県専門学校になった。(石川県専門学校は21年3月に廃止され第四高等中学校になった) | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 8月5日 | 社会・文化 | 三宅少太郎編さんの「改訂加賀地誌略」が益智館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 9月25日 | 社会・文化 | 画家医家池田九華死去。河北郡能瀬の人、京で四条画を学び、のちに金沢に住み医業に従った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 10月30日 | 社会・文化 | 山ノ上町の寺院を借りた養成浅汀分校は春日町3丁目に移り練長小学校と命名された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 10月 | 社会・文化 | 漢学者井口無何之死去。漢学者井口犀川の子で工学博士井口在屋の兄。文章にも長じ石川新聞等の主筆記者となり、多く漢文をもって論説を草した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 12月2日 | 社会・文化 | 教育家橋健堂死去。59歳。筆翰句読で家塾を開き明治以後金沢藩の文学訓導、筆翰教師となり置県の後小学校に出仕した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 12月31日 | 社会・文化 | 俳人庄田晴江死去。武蔵ヶ辻に住み茶、売薬を業とし俳句は花之本を称し能楽をもよくした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 月日未詳 | 社会・文化 | 吉本次郎兵衛の北溟社が発行していた加越能新聞を河瀬貫一郎が譲受け北陸新報と改題した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 月日未詳 | 社会・文化 | 石井一蛙(俊郎)が京都から来て北陸新報に小説など執筆した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 月日未詳 | 社会・文化 | (津幡に牛肉のすき焼を食べさせる家ができた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 月日未詳 | 社会・文化 | 小池兵治(大聖寺出身)が福井から来て、金沢市中町で写真業をはじめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 月日未詳 | 社会・文化 | 歌人高林景寛死去。74歳。旧藩時代御作業奉行兼能美郡代官などをつとめた。歌を田中射之に学んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十四年(1881) | 月日未詳 | 社会・文化 | "金沢で本年中(月日不詳)に刊行されたおもな書物。
小説復咲後日の梅(武田交来著)石川県勧業博物館書目(三宅少太郎著)衛生布達全書(鶴見武三郎著)違式註違図解(西尾慶治著)" | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 1月1日 | 政治・経済 | 石川県庁地理課測量係の中に測候部を付設し、その観測場を県庁内に設けて1日3回観測をはじめた。6月から暴風警報を県下一般に通報した。(20年3月19日石川県金沢測候所となった) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 1月13日 | 政治・経済 | 金沢区会は臨時会を開き金沢区留学生規則を議決した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 1月18日 | 政治・経済 | 金沢区の県会議員改選で野村精一、石橋萬里、河瀬貫一郎の3人が選出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 2月1日 | 政治・経済 | 長町川岸24番地前田別邸(旧長邸)が出火焼失した。(焼け残った表門は松任本誓寺に移した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 2月 | 政治・経済 | 小倉信近警部長(山形県人)が中川除町で襲撃された。犯人は盈進社員4人と判明、逮捕された。(小倉は4月25日依頼免官) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 3月 | 政治・経済 | 第4回県会が開かれ、千坂県令と自由党を中心勢力とする派との間に争いがおきた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 4月22日 | 政治・経済 | 金沢区内は土木工事の負担区域および支出方法を決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 4月 | 政治・経済 | 消防器械ポンプ置き場の設置に関する願書が消防組頭および小頭の連名で金沢区長梅原可也に提出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 4月 | 政治・経済 | 金融業積立社が下堤町に開業した。資本金2,100円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 4月 | 政治・経済 | 小坂村、表与兵衛は柳橋区の田区改正に着手した。高多久兵衛の石川式に対し川北式と称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 5月16日 | 政治・経済 | 県会は千坂県令の解任を建議して内務省から解散を命ぜられた。石川県会はじめての解散である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 5月16日 | 政治・経済 | 千坂県令は政府に要求して東京の警視庁巡査150人を石川県に招致することになり、これを引卒帰任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 5月 | 政治・経済 | 石川県勧業博物館は開館十周年記念博覧会を開催した。出品点数116,000点、観覧車は1日平均3,900人であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 5月 | 政治・経済 | 前田家は能登島野崎村の製塩業を廃止した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 6月25日 | 政治・経済 | 石川県書記官大越亨は内務省に転じ、園田安賢が警部長から書記官になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 8月6日 | 政治・経済 | 橋場郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 9月 | 政治・経済 | 初めて石川県消防組規則が公布された。(12月新式手押しポンプが備えられた) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 10月14日 | 政治・経済 | 長町川岸の銅器会社は宮内省より数回御用を命ぜられたが、こんど御紋章入り春秋草摸様の花びんほか2点の用命を受け社長野村精一が持参納入した。たいへん好評だったという。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 10月 | 政治・経済 | (日本銀行が開業した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 11月25日 | 政治・経済 | 南町郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 11月 | 政治・経済 | 金沢米商会社の株券を買占め、米商会社の高岡移転を画策するものがあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 12月22日 | 政治・経済 | 県会は4度の会期延長でようやく閉会した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 月日未詳 | 政治・経済 | 勧業博物館はさる10年から次の各地で巡回陳列をして好評を博した。10年福井、11年七尾、12年大聖寺と越前三国、13年小松、15年富山。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 月日未詳 | 政治・経済 | 本年中に改修された金沢の坂道は右衛門坂、蛤坂、吹屋坂、嫁坂、新坂、馬坂、帰厚坂。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 4月 | 社会・文化 | 大手町2番地のキリスト協会に私立愛真学校が開かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 4月 | 社会・文化 | 13年に福光の松村精一郎が長町川岸に設立した金沢盲啞院は、入学者が少なく維持困難になったので、金沢教育社(社主内山行貫)が経営を引き継ぐことになった。(その後、教育社解散とともに盲啞院も閉鎖した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 4月 | 社会・文化 | 藤田維正著「修身指要」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 5月15日 | 社会・文化 | 歌人田中猛之死去。躬之の養子、明倫堂国学講師代理をつとめ明治以降皇学訓導、文学訓導となる。遺詠は躬之のものと共に園の菊に収められている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 5月 | 社会・文化 | 月刊「自由新誌」第1号が発刊された。本誌は自由党系の出版物で発行元は尾張町83番地共詢社。(社主稲垣示) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 7月 | 社会・文化 | 金沢区高等小学校を精練小学校と改称した。(18年5月にまた金沢小学校と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 7月21日 | 社会・文化 | 儒家中村菜窩死去。明倫堂助教をつとめ廃藩の後、明治8年から前田利嗣の漢学教師として在京した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 8月1日 | 社会・文化 | 宗紹編「袖珍無門関」が近八から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 8月 | 社会・文化 | 来朝中の中国詩人王治本が来沢し上今町森下屋に投宿、しばらく滞在した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 9月10月 | 社会・文化 | 法学士三宅恒徳が専門学校教師を辞職して私学校の弘猷館を袋町集成病院跡に創設した。設立の趣旨は権利自由を高揚し政治、法律、理財を講習するという。(10月25日開館) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 9月24日 | 社会・文化 | 尾山神社境内の尽忠碑前で招魂祭をおこなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 9月28日 | 社会・文化 | 北陸日報が第590号で発行を禁止された。(北陸日報は明治13年7月8日に発刊されたもの) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 10月1日 | 社会・文化 | 在京加越能出身学生が寄宿の市ヶ谷長泰寺で久徴館という交友団体をつくった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 11月 | 社会・文化 | 金沢で盆栽が流行し、万年青や蘭が高価に売買された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 12月 | 社会・文化 | 正水流書家高田蘭堂死去。67歳。弘化嘉永のころから寺子屋を開いて子弟に教授し、明治の後は小学教育に従事した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 12月 | 社会・文化 | 白銀師初代山川孝次死去。天保のころ柳川春茂に宗珉風の彫法を学び加賀宗珉と称せられた。文久2年藩の白銀職となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 月日未詳 | 社会・文化 | 泉野町(六斗林広見付近)にあった木村塾が廃止され塾生は地黄煎致芳小学校に収容された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 月日未詳 | 社会・文化 | 余力小学校は台所町2番丁12番地に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1882) | 月日未詳 | 社会・文化 | 旧藩時代重臣の邸地であった栄町と松ヶ枝町は維新後数本の通路ができ商家が並んで繁華地となったが、青楼酒店もその間に建ち並び昨今は一方の狭斜地となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1883) | 1月17日 | 政治・経済 | (富山住民の間に石川県を分割して越中に新川県を再置しようとの動きがあり、代表が上京請願して帰郷した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十五年(1883) | 1月19日 | 政治・経済 | 県令千坂高雅は内務大書記官に転出して石川県を去り内務大書記官 岩村高俊(高知県士族)が後任となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 3月 | 政治・経済 | (巡査の警棒を廃し帯剣とした。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 3月 | 政治・経済 | 東北鉄道発起者のうち旧福井藩主松平以下7人が連べい脱退した。それを機に東北鉄道計画はつぶれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 4月2日 | 政治・経済 | (金融恐慌の激化で第百八国立銀行が閉店した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 4月16日 | 政治・経済 | 犀川中川除町と石伐町の間にかかる一文橋の個所に、新橋の架設方が金沢区会議長杉山延郡あて建議された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 4月 | 政治・経済 | 土木請負いの土木会社が長町に創業した。資本金4万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 5月5日 | 政治・経済 | (国立銀行条例の改正で各国立銀行に発行紙幣の回収が命令された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 5月9日 | 政治・経済 | 富山県を創設して越中一円が石川県から分離した。石川県は以前のように加賀能登の二国となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 6月26日 | 政治・経済 | 相信合資会社という煙草製造会社が野町4丁目24番地に創業した。資本金1,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 7月2日 | 政治・経済 | (太政官文書局から官報第1号が発行された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 7月 | 政治・経済 | 夏に入って40日も降雨なく、かんばつ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 9月13日 | 政治・経済 | 石川県から富山県が分離したので県会が改選された。金沢からの当選者は長町7番丁河瀬貫一郎、木町1番丁籠田信次、長土塀1番丁吉田時良、殿町石橋萬里、殿町宮岡文右衛門。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 9月20日 | 政治・経済 | 金沢電信分局から七尾まで電線が架設され10月1日から電報を受付けることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 9月26日 | 政治・経済 | 石川県書記官園田安賢が内務少書記官に転じ後任に内務省御用係徳久恒範が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 9月 | 政治・経済 | 骨董市場稲荷組が上近江町に創業した。資本金1万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 10月 | 政治・経済 | 金沢為替会社(博労町御算用場跡)は組織を改め資本金35万円で北陸銀行となり日本銀行の代理事務を取扱った。預金総額は70余万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 10月13日 | 政治・経済 | 金沢および七尾の大蔵省為替方は本月末限りで廃止し11月から業務は日本銀行代理店の北陸銀行で取扱うことになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 11月9日 | 政治・経済 | 明年1月からの医師免許規則施行について、本県では明治10年9月布達によって免状を受けた者は12月20日までに履歴書を添え願出ることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 12月25日 | 政治・経済 | 金沢第十二、富山第百二十三の両国立銀行の合併談が進み、名称は第十二を使い富山に本店を置くという条件で、まとまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 12月31日 | 政治・経済 | "本年末の金沢の戸数と人口は次の通りである。
戸数22,802戸 人口106,659人" | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 12月 | 政治・経済 | (明治8年発行の秩禄公債は本年末をもって全部償還された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 月日未詳 | 政治・経済 | 石川新聞記者龍田信次、岡田敦那らは区民の会議および演説に使用する公会堂の設置方を金沢区会に建議した。そのため松原町通の区役所の建物を公会堂とした。(市制実施後はこれを市会議事堂に使用した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 月日未詳 | 政治・経済 | 区役所の建物を公会堂にしたため広坂通の旧藩士庄田邸跡に区役所庁舎を新築、17年1月移転した。(現在の市庁舎敷地の一部) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 月日未詳 | 政治・経済 | 県令岩村高俊が大阪から池田某を招き桑苗接木法を教えさせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 1月6日 | 社会・文化 | 陶画工任田屋徳次死去。徳右衛門の子、旭山ともいう。民山風の赤絵をよくした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 1月13日 | 社会・文化 | 旧北陸日報の関係者と三宅恒徳が発起して、北陸自由新報の発刊計画がなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 1月 | 社会・文化 | 三宅少太郎(蛤坂103番地)編さんの「文章梯航」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 2月 | 社会・文化 | 金沢在住のキリスト教信者と外人の寄付金によって殿町56番地の土地家屋を購入し、初めてキリスト教の学校校舎と仮教会が設けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 2月 | 社会・文化 | 卯辰末吉座で芝居が興行された。(末吉座は14年ごろまで犀川川上新町にあったもの) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 3月 | 社会・文化 | 八日市に栄盛小学校が創設された。(後に心寧と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 4月2日 | 社会・文化 | 郵便報知新聞が「金沢昨今茶の湯大流行し、茶器の売買盛んにてその名にそむかず金が沢山あるものと見ゆ」と報じた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 4月28日 | 社会・文化 | 薬種商亀田是庵死去。68歳。通称宮竹屋伊右衛門、片町に住みすこぶる数寄を好み名器を所蔵した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 4月 | 社会・文化 | 焼失した椿原小学校の新築がなり柿木町小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 4月 | 社会・文化 | 植物毒品便覧(倉知精三著)秋山詩文稿(深町景知著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 5月 | 社会・文化 | 石川県勧業博物館が創立10周記念に初めて軽気球を兼六園からあげて市民の目を奪った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 6月 | 社会・文化 | 金沢医学校一等教諭医学士木村孝蔵は金沢病院用掛兼務となった。(木村医学士は15年末田中信吾の招きに応じ来校した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 7月22日 | 社会・文化 | 今様能の林寿三郎が金沢興行中金沢病院で死去。寿三郎は大阪の人で、泉祐三郎の師。女能役者と三味線を入れた能狂言を初めて演じ明治2年以来数回金沢で興行し金沢人に親しまれていた。墓は極楽寺にある。泉鏡花の「照葉狂言」はこの今様能から取材したものである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 11月13日 | 社会・文化 | 輪島師範学校および金沢女子師範学校を金沢師範学校に合併し、石川県師範学校とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 11月24日 | 社会・文化 | 歌人五宝町西勝寺住職西野慶応死去。70歳余。神道にくわしく和歌よくし明治2年浦上のキリシタンが金沢に到着するや石川舜台、松本白華らと共に改宗させるための訓戒に当った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十六年(1883) | 12月 | 社会・文化 | 俣田完三郎編田中重信板「室生流祝言小謡」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 1月 | 政治・経済 | (全国的に不況はなはだしく金融機関続々破産、士族の窮状は深刻化した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 1月 | 政治・経済 | 金沢第十二国立銀行と富山第百二十三国立銀行の合併が実現した。銀行名は富山第十二国立銀行として本店は富山市、金沢を支店とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 2月18日 | 政治・経済 | 金沢区長梅原可也が県吏に転じ、後任に富山県下新川郡長稲垣義方(旧加賀藩士)が就任した。(稲垣は22年4月市制施行まで区長をつとめた) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 4月16日 | 政治・経済 | (滋賀県長浜と敦賀の金ヶ崎間に汽車が開通した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 5月 | 政治・経済 | 戸長の民選が官選に改められ、区民から選ばれた3人ないし5人の候補者の中から県令が戸長を任命した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 7月1日 | 政治・経済 | "新戸長が任命された。新しい戸長役場の位置と戸長名は次の通り。(金沢は7ヵ所となる)
諸江村神保小太郎、粟崎村中島庄五郎、北村耕納喜平次、二口村松田仁三郎、高畠村堀義順、八田村守田余門、野々市村尾瀬庄平、地黄煎村永矢之孚、押野村後藤於莬吉、末村島田新吉郎、笠舞村笠間保太郎、金石本町神尾直養、野町2丁目畠山義比、竪町和角富業、中石引町杉山延群、殿町上坂千景、高岡町武部生、新道三田村定形、森下町西村政規、袋村西村庄兵衛、下田上村白川治、小坂村表与兵衛、御所村浅川甚太郎、浅野村浅井石右衛門、吉原村出島啓、薬師村八木実、南森下村中橋長兵衛。" | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 7月 | 政治・経済 | 華族令が制定され旧加賀藩の15代当主前田利嗣は侯爵に列せられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 8月 | 政治・経済 | 物価暴落で倒産者が続出して不況のどん底に陥ったため政治熱も冷却、区会のごときは議員の定数24人を10人に減らした。会議日数も10日間に減らしたが異議者がなかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 10月1日 | 政治・経済 | (商標登録条令が施行された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 10月 | 政治・経済 | 金融恐慌で北陸銀行が支払いを停止、休業した。(整理再開後19年に至り再び休業、閉鎖した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 10月25日 | 政治・経済 | 国庫金取扱いは従来北陸銀行であったが本月末で解約し11月1日から第十二国立銀行金沢支店(金沢区尾張町4番地)に委嘱した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 10月 | 政治・経済 | 石川県第1回物産品評会が開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 12月27日 | 政治・経済 | (郵便往復はがきがはじめて発売された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 12月 | 政治・経済 | 氷雪貯蔵販売取締規則が県会で可決された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 月日未詳 | 政治・経済 | 陸軍金沢偕行社が創設された。(大手町) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 1月16日 | 社会・文化 | 第13代加賀藩主前田斉泰(温敬公)死去。74歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 1月 | 社会・文化 | 丘村隆桑著「養蚕弁論」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 3月12日 | 社会・文化 | 金沢医学校は医術開業試験を要せずして医師になれる甲種医学校に昇格した。同時に校内に革新の風が起った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 4月12日 | 社会・文化 | 数学者関口開死去。43歳。安政3年初めて算法を学び、以後独学で英語の数学書を渉猟して微積分まできわめ、著書訳書20数冊、死ぬまで教べんをとった。石川県地方における西洋数学の鼻祖であった。大正4年従5位追贈。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 4月25日 | 社会・文化 | 上荒屋町(石川郡徳丸村)に「竹川りん解剖の碑」が建った。生前に自分の死後の解剖を申出たのは県ではりんが最初の人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 5月15日 | 社会・文化 | 儒家井口犀川死去。73歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 5月 | 社会・文化 | 北袋小学校の新校舎が北袋村モ23番地に落成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 5月 | 社会・文化 | 林陸夫(長野県士族)著「兵員要語帖」が金沢偕行社から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 5月 | 社会・文化 | 余力小学校は下富山町5番地へ再び移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 5月 | 社会・文化 | 中西信定著「小学数理階梯」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 6月 | 社会・文化 | 画家佐々木泉龍死去。73歳。泉景の子、京の鶴沢探泉に学び、一家をなして法橋に任ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 7月23日 | 社会・文化 | 野町小学校を成始小学校と改称した。(18年4月16日野町男児小学校と改められた) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 7月 | 社会・文化 | 湯涌小学校河内分校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 8月16日 | 社会・文化 | 高峰譲吉が酒の新火入れ法を発明した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 8月20日 | 社会・文化 | 陸海軍将校志願の県人子弟養成のため堀尾義晴らが主唱して私立金沢学校を広坂通益智館の建物を用いて設立した。(益智館は旧藩時代城中鼠田門内にあった雇い西洋人の居館を移築したもの)しかし間もなく校舎を兼六園内旧長谷川邸の一部に建てられた新築建物に移した。(この建物は疋田佐吉の新築したものを育英社が買入れたもの) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 10月 | 社会・文化 | アメリカ婦人ヘッセルと東京師範卒業生里見鉞子の2人が広坂通93番地に私塾を開き女子の教育を始めた。後の北陸女学校、現在の北陸学院の前身である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 11月16日 | 社会・文化 | 石浦町教会堂が落成、献堂式がおこなわれた。(18年4月日本基監教金沢教会第1代牧師として青木仲英を迎えた) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 11月 | 社会・文化 | 石川県は維新の際、前田家から移管を受けた古書希籍160余部を前田家に返還した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 12月 | 社会・文化 | 石川県甲種医学校の田中信吾校長は校長および病院長をともに辞任し、後任に医学士中浜東一郎(明治14年東京帝国大学医学部卒業)が来沢した。中浜は中浜(ジョン)萬次郎の長男である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 12月 | 社会・文化 | 田中信吾が主となり博労町80番地(算用場跡)に私立尾山病院を設立することにした。県内初めての私立病院である。(18年2月開院) | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 12月 | 社会・文化 | 河合良温著「三州良民言行録」が益智館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 月日未詳 | 社会・文化 | 前田家では加越能3ヵ国史の編さんに着手することになり、野口之布、石崎謙ら10余人に委嘱した。完成は15年後とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十七年(1884) | 月日未詳 | 社会・文化 | 元金沢藩士里見亥三郎死去。70歳。銃隊馬廻頭(900石)をつとめ明治元年太政官から徴士、柏崎県判事を命ぜられたが、のち病気辞職した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 5月2日 | 政治・経済 | 本日付で金沢魚鳥四十物(塩干物)商組合の設立が岩村高俊県令から許可された。組合員308人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 5月10日 | 政治・経済 | 日の出新聞(京都)は北越より帰来人の談として「石川県の疲弊困窮は実に名状すべからざるものあり、輪島の漆器、九谷陶器などの工芸品は全然さばけず金沢の人口九万五千の十分の一は其の日の暮しにもさしつかえる貧民なり、近来乞食の数を増し毎朝群をなし横行、その惨状見るに忍びず」と報じている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 6月 | 政治・経済 | 米商会所は金沢博労町(旧算用場一部)から旧藩時代に米仲買集所のあった十間町21番地に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 6月 | 政治・経済 | 歩兵第6旅団司令部が金沢に置かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 8月20日 | 政治・経済 | 福光、金沢間を通ずる車馬道路の高窪越え新道が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 8月29日 | 政治・経済 | 制度取調局が破産法取調委員の参考のために調査したところによると、石川県士族の破産者数は1,090人との数字が出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 10月 | 政治・経済 | 金沢郵便局は電信為替、小為替の取扱いを開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 12月22日 | 政治・経済 | (太政官を廃し内閣制度がしかれて第1次伊藤内閣が成立した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 12月31日 | 政治・経済 | 現在金沢区内の金貸し営業会社は11社で資本金合計額は29万1,600円となっている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 12月 | 政治・経済 | 金沢区内における郵便関係施設の数は、郵便局3、受取所3、凾(ポスト)49、切手売下所46である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 政治・経済 | 金沢区会で野田山、卯辰山の両共同墓地取扱い規則が議決された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 1月20日 | 社会・文化 | 剣術師範南保虎之助死去。76歳。禄180石、異風組兼鉄砲薬合奉行、銃隊馬廻組等をつとめたが明治2年病気でやめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 1月 | 社会・文化 | 私立北陸英和学校の校舎が広坂通(県庁と旧四高の間)に新築された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 1月 | 社会・文化 | 金沢病院は院長に医学校長中浜東一郎を迎えて内科中浜東一郎、外科木村孝蔵、眼科山崎兵四郎、婦人科産科菅沼貞吉の分科診療制を採用した。以前は専門科の区別が明らかでなく患者はすべて院長の診察を経た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 3月1日 | 社会・文化 | 勤成小学校は長町男児小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 3月21日 | 社会・文化 | 私立金沢女学校(北陸女学校の前身)の設立が県令岩村高俊より認可された。(9月9日上柿木畠12番地に新校舎が完成し開校式を挙行した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 3月31日 | 社会・文化 | 北村勝三著(川御亭主)の「観光余影」が刊行された。郷土先人の伝記である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 3月 | 社会・文化 | 婉静小学校を高岡町女児小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 4月17日 | 社会・文化 | 観成小学校は大手町男児小学校および松ヶ枝町男児小学校の2校に分割された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 4月20日 | 社会・文化 | 俳人杉野超翠死去。57歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 4月 | 社会・文化 | 立正小学校は瓢箪町男児小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 4月 | 社会・文化 | 改良小学校は再び田丸町男児小学校と改称された。(20年4月に尋常科田丸町小学校と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 4月 | 社会・文化 | 進徳小学校が中島小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 4月 | 社会・文化 | 平栗に地黄煎小学校の巡回授業所が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 5月7日 | 社会・文化 | 廉化小学校を上石引町女児小学校と改称した。(19年4月尋常科上石引町小学校となった) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 5月12日 | 社会・文化 | 百々女木小学校を百々女木男児小学校と改称した。(20年4月尋常科中石引小学校と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 5月19日 | 社会・文化 | 漢学者杏敏次郎死去。68歳。号は凡山、昌平黌に学び明倫堂教授となり、また家塾を開いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 5月 | 社会・文化 | 総合雑誌「金城新誌」第1号が尾張町雲根堂から刊行された。(毎土曜日発行) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 6月 | 社会・文化 | チャンブル著宮野東洋訳の「洋画初歩」が池善から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 6月 | 社会・文化 | 殿町の民家に金沢区娼妓仮駆梅院を置き診療にあたった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 7月1日 | 社会・文化 | 額乙丸小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 7月8日 | 社会・文化 | 前田家蔵の享禄本「類聚三代格」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 7月 | 社会・文化 | 金石では金石、長浜、薫陶、清紫の4校を廃止、御塩蔵、下本町の2校にした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 7月 | 社会・文化 | 心寧、英、養生、明誠の4校が廃止され、八日市小学校が開校した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 9月12日 | 社会・文化 | 練長小学校は上田町に新築移転、上田町小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 9月 | 社会・文化 | 百坂に新小学校が完成し柳橋、福久、遂成(吉原)の3校は廃止された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 10月5日 | 社会・文化 | 能楽家波吉紅雪死去。75歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 10月9日 | 社会・文化 | 能楽家下掛宝生流川全作(勝弥)死去。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 10月15日 | 社会・文化 | 県令岩村高俊の妻音瀬3男2女を残して死去。この葬儀には葬列の先頭に竹筒にさした生花を両手に持った人が徒歩で数百人続き、その後に花車、花かご、造花、放鳥盛菓子の列がつき、これに位牌堂をささげる人、香堂を持つ者が続いた。この葬儀様式は、金沢で大正年間まで続いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 10月16日 | 社会・文化 | 淳正小学校(里見町)と徳香小学校(中本多町)が合併し、新竪町男児小学校となった。(20年4月尋常科新竪町小学校と改称し、簡易科が併置された) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 12月 | 社会・文化 | 数学者故関口開の石碑が尾山神社境内に建った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 社会・文化 | 旧金沢藩士族の失業対策として明治16年に北海道岩内郡で150万坪の払下げをうけ、本年から旧藩士79人が3回にわたり入植した。耕地は岩内港から約1里奥地の梨野舞納(リヤムナイ)で、前田家から13万円が出資された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 社会・文化 | 内山行貫らが私立金沢幼稚園を広坂通に創設した。石川県で初めての幼稚園である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 社会・文化 | 県は栄町、松ヶ枝町一帯の狭斜地を貸座敷免許地とした。北廓と称した。(明治20年3月との説もある) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 社会・文化 | 横萩一光、松屋庄米の卯辰山鶯谷窯を野崎佐吉が譲り受けた。(明治42年富田忠男が譲り受けるまで野崎が使用した) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 社会・文化 | 石川県甲種医学校長および病院長浜東一郎は内務省に転任し、外科部長木村孝蔵(福井県人)が後任となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 社会・文化 | 北間村の小学校と大河端修斉学校が合併して北間小学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 社会・文化 | 森田柿園の「加能越書籍一覧」の著述が完成した。(未刊) | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 社会・文化 | 井波他次郎著「新撰英和字典」が雲根堂から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十八年(1885) | 月日未詳 | 社会・文化 | 金沢箔業の功労者越野左助(能登屋左助)死去。78歳。弘化2年から明治まで箔の取締方をつとめ金沢箔業を指導、発展に尽した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 5月 | 政治・経済 | 出羽町の篠原邸はじめ大小の武士家屋および瑞雲寺を陸軍省が買上げ練兵場とした。広さ5万323坪、出羽町練兵場と呼んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 5月 | 政治・経済 | (政府は七尾軍艦所の後身、兵庫造船所を鹿児島県人川崎正蔵に貸与し経営をゆだねた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 5月 | 政治・経済 | 加能汽船会社(本社金石町字達摩町)が創立した。資本金10万円、社長林直。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 5月 | 政治・経済 | 金沢九谷陶磁器同業組合の前身となる同業者の寄合いが創立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 7月19日 | 政治・経済 | (官制改正により県令は県知事と官名が変った。) | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 7月 | 政治・経済 | 金沢第七十五国立銀行が東京第四十五国立銀行と合併した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 9月 | 政治・経済 | 県会の半数が改選された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 11月29日 | 政治・経済 | 大阪堂島米商会所から石川県農商課に加賀、能登米の品質につき警告して来た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 11月 | 政治・経済 | 17年の休業後、整理成り再開業した北陸銀行はまたも休業、ついに閉鎖した。預金100円につき20円の割で払戻しをした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 12月19日 | 政治・経済 | 金沢の銅器会社が東京京橋萬松楼で製品見本市を開いた。吉田農商務次官、大山工務局次長が臨場して技術の精巧を称賛した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 12月 | 政治・経済 | 例年に比し収繭の成績よく、しかも相場騰貴したため桑苗を植付ける者が多く、1本1銭5厘ないし2銭の高値となり品切れになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 月日未詳 | 政治・経済 | 36組からなる金沢の消防組織は本年になって9組に改変された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 月日未詳 | 政治・経済 | 渡瀬政礼(前名政太郎、旧藩士)が石川県から加能汽船会社社長を申し付けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 2月7日 | 社会・文化 | 華道古流5代家元松盛斎(近藤理清)死去。70歳。1,400石の旧藩士、古流生花家元関本理恩について学び5代家元職を継承した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 2月14日 | 社会・文化 | 文学者藤田容斎(維正)の還暦宴が殿町此花亭で催され門弟など二百数十人が参会した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 2月15日 | 社会・文化 | 各小学校で鉛筆画を毛筆画に改めた。金沢から区費で京都画学校に入学し、昨年末卒業した水野治三郎、内海周太郎の二人が巡回教師を命ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 2月 | 社会・文化 | 河北郡大根布村の潟岸が陥没して潟の一部が隆起し島状となった。浅野宇左松(下堤町5番地)編さんの「新板改正阿弥陀経」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 3月 | 社会・文化 | 石井一蛙(俊郎)著「小説紅児奇縁火花栄」が北溟社(廣坂通38番地)から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 3月 | 社会・文化 | 金沢の近八から次の3書が刊行された。「越前万歳」「宝生流謡本美濃版」「宝生小謡諸祝言」(中本) | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 4月5日 | 社会・文化 | 茶谷伊三郎(下堤町13番地)編さんの「俳諧新誌第38号」と豊島毅著「東遊日録」(東海道紀行)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 4月10日 | 社会・文化 | 金沢の俳人後藤雪袋死去。69歳。淇亭の句空庵を継席、「かやつり草」「秋風集」などの句集がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 4月23日 | 社会・文化 | 勧業博物館で当地初めての幻灯会が催され大変な評判だった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 4月 | 社会・文化 | 石井一蛙著「小説金城美譚如月雪」が北溟社から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 4月 | 社会・文化 | 石川県師範学校を石川尋常師範学校と改称、また農事講習所は石川県農学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 5月10日 | 社会・文化 | 池善平(南町35番地)編の「小謡本」「諷曲四流」が同人の手で刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 5月 | 社会・文化 | 「宝生小謡諸祝言」(中本)を横野清七が刊行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 6月 | 社会・文化 | 県下にコレラが大流行、8月政府からコレラ流行地と指定された。10月になって終息したが県内の患者4,490人、死亡者3,552人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 7月5日 | 社会・文化 | 師範学校付属中学校以上に英語を教授することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 7月 | 社会・文化 | 石井一蛙著「小説復讎名誉高岡街」が北溟社から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 9月 | 社会・文化 | 私立夜間仁恵小学校の後身の余力小学校はこんど下富山町45番地に新校舎ができ移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 10月2日 | 社会・文化 | 国学者歌人臼井憲成死去。旧藩士、金沢白髭神社献詠会の宗匠となり門人多く、雅言略解の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 10月18日 | 社会・文化 | 卯辰山の豊国神社の神拝殿が殿町に建造され遷座した。豊国神社は卯辰山に鎮座のもと山王社で、明治2年神仏混淆禁止の際、社号を豊国神社と改めたもので殿町付近に氏子約2,000戸があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 10月 | 社会・文化 | 画家佐々木泉山死去。53歳。旧藩の画家佐々木泉玄の子。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 10月 | 社会・文化 | 石井一蛙著「小説加賀鍛錬心清光」が北溟社から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 11月19日 | 社会・文化 | 田上小学校の校舎が下田上地内に新築され移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 11月 | 社会・文化 | 米人ミス・ポートが広坂通に英和幼稚園を創設した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 12月2日 | 社会・文化 | 高陵小学校が百々女木小学校に合併された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 12月24日 | 社会・文化 | 石川県人が熱望していた第四高等中学校の設置がきまり位置が確定したので、前田侯は8万円を寄付、県知事以下郡区長属官も1ヵ月から2ヵ月間俸給をさいて寄付し、民間有志の分も加えこれまた8万円に達した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 12月 | 社会・文化 | 中島小学校を馬場小学校に合併した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 月日未詳 | 社会・文化 | 上野新小学校の校舎が新築落成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 月日未詳 | 社会・文化 | 中国画人胡鉄梅が北方心泉の援助で日本に帰化し、木ノ新保5番丁85に一時居住した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 月日未詳 | 社会・文化 | 書家佐藤衡平死去。62歳。門人多く維新後、男女師範教諭はじめ学校教育に従事した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 月日未詳 | 社会・文化 | 算学家小池余楽死去。76歳。関流の算学を西尾次郎右衛門一起に学び門下から俊英を輩出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治十九年(1886) | 月日未詳 | 社会・文化 | "金沢で本年中(月日不詳)に刊行されたおもな書物。
修身提綱(弓波梵竜著)金沢芸妓風俗(鶴見兵太郎著)孝経纂註校本(田中正義著)小説今古実録北雪美談金沢実記(栄泉社版)宝生流丁稚本(近八刊半紙)" | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 2月23日 | 政治・経済 | 富山第十二国立銀行金沢支店が南町54番地に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 3月22日 | 政治・経済 | 金沢商工会が県の認可を得て結成された。十間町34番地内国通運金沢支店内に事務所を置いた。会頭中屋彦十郎、副会頭森下森八、会員36人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 4月1日 | 政治・経済 | 前年北陸銀行の解散後、公金の取扱いに不便をきたしたので岩村知事は第一国立銀行の渋沢栄一に懇請した結果、本月から金沢に第一国立銀行支店が創設された。(南町45番地支配人青山利恭) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 4月9日 | 政治・経済 | 朝野新聞が「加賀の尾小屋鉱山、月産一万五、六千貫目銅を出産し今後益々盛大なるべし」と報じた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 4月10日 | 政治・経済 | 元市合名会社が青草町37番地に創業した。野菜、干物類のせり売を営業とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 5月 | 政治・経済 | 本多家が士族授産のため養蚕業をおこした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 10月11日 | 政治・経済 | 数枝鉄吉(河瀬派県会議員宮岡文二を援護した壮士)が盈進社員数人に襲われ重傷を負った。警察は盈進社員7人を逮捕した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 10月20日 | 政治・経済 | 縫織商会が上松原町34番地に創業した。絹刺しゅうハンカチーフの製造を営み資本金5,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 12月 | 政治・経済 | (伊藤内閣が保安条例を公布。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 月日未詳 | 政治・経済 | 電信分局を電子局と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 月日未詳 | 政治・経済 | 小立野地内で桑園10町歩余がつくられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 月日未詳 | 政治・経済 | 石川郡立模範農場の付属地2町5反歩を郡費で耕地整理した。耕地整理のはじまりで当時は田区改正と称した。費用は1反歩1円30銭。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 1月 | 社会・文化 | 余力小学校に初めて女子生徒が入学した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 2月22日 | 社会・文化 | 書画家土田南皐死去。66歳。金沢の人、清の胡兆新の書を学び明治の後、芦城小、師範等で教師をした。南宗文人画もよくした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 3月5日 | 社会・文化 | 農商務省分析課長高峰譲吉が視察のため自費で渡欧した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 4月1日 | 社会・文化 | 瓢箪町男児小学校を尋常科瓢箪町小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 4月1日 | 社会・文化 | 下田上地内に移った田上小学校を下田上小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 4月18日 | 社会・文化 | 石川県甲種医学校は第四高等中学校の医学部となった。(甲種医学校は翌年3月廃止) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 4月 | 社会・文化 | "本月次の通り学校の改称、合併等がおこなわれた。
高岡町女児学校を高等科高岡町小学校と改称、野町男児小学校を尋常科野町南小学校と改称、松ヶ枝町男児小学校を尋常科松ヶ枝町小学校と改称、百々女木男児小学校を尋常科中石引町小学校と改称、東馬場男児小学校を尋常科馬場小学校と改称、横安江町女児小学校を尋常科横安江町小学校と改称、野町女児小学校を尋常科野町北小学校と改称(24年4月南校に合併)、金沢小学校を高等科金沢小学校と改称、長土塀女児小学校を長町男児小学校に合併し尋常科長町小学校と改称、平栗小学校が創設された。" | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 5月1日 | 社会・文化 | 千羽伝三(彦三1番丁15番地)著「加賀金沢細見図」が山田信景(橋場町24番地)の手で刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 7月4日 | 社会・文化 | 旧藩士北川亥之作在京中死去。49歳。加賀藩の権大参事から欧米を巡遊、前田家家令となり華族銀行、日本銀行に参与した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 7月 | 社会・文化 | 金沢区立工業学校が勧業博物館の一部を校舎として創設された。この種の中等学校としては全国でさきがけをなすものである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 7月 | 社会・文化 | 仏師松井乗運死去。73歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 8月10日 | 社会・文化 | 高峰譲吉がニューオルレアンスで米国婦人と結婚した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 8月 | 社会・文化 | 反河瀬派が連合して北陸新聞を創刊した。(翌21年雲根堂牧野一平に譲渡したが間もなく廃刊した) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 9月8日 | 社会・文化 | 国学者三輪照道死去。50歳。照寛の子で明治の後、白山比咩神社禰宜兼小講義などをした。死因は胃ガン、遺嘱により遺体を解剖に付した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 9月 | 社会・文化 | 将校志望子弟を養成の私立金沢学校は東京に成城学校や金沢に第四高等中学校などが設立されたので閉鎖した。(3年余に数百の生徒を教育した) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 9月 | 社会・文化 | 湯涌小学校の増築が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 10月3日 | 社会・文化 | 医家三宅立軒死去。62歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 10月26日 | 社会・文化 | 金沢工業学校の開校式がおこなわれ、来沢中の文部大臣森有礼が臨席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 10月28日 | 社会・文化 | 石川県庁内に日本赤十字社石川県委員部が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 10月31日 | 社会・文化 | 元大学寮長西坂成一死去。57歳。明倫堂助教(禄150石)から廃藩後は大学寮長、文部少助教、東京府訓導を歴任。教女軌範等の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 11月1日 | 社会・文化 | 共潤会雑誌(哲学宗教)第1号が発刊された。発行所は尾張町5番地共潤会事務所。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 11月11日 | 社会・文化 | 吉岡久一(賢坂辻通36番地)編兼出版の「新版東海道五十三次雙六」が発売された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 11月 | 社会・文化 | 勧業博物館内の金沢工業学校が私立金沢学校跡に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 12月 | 社会・文化 | 賀古保五郎(金沢市上伝馬町)著の政治小説「梅花薫」が東京日出豊次郎の手で刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 月日未詳 | 社会・文化 | 諸江小学校が創設された。また小坂小学校を尋常科小坂小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 月日未詳 | 社会・文化 | 貧困子弟のため、簡易科小学校を設立した。(成果を得ず明治25年廃止) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 月日未詳 | 社会・文化 | 金沢工業学校彫刻科教師に諏訪好武(蘇山)が就任した。(離任明治30年) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 月日未詳 | 社会・文化 | 石川県専門学校の教授ベントンが金沢の町中を自転車で乗回って珍しがられた。(学校名と人名に異説もある) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十年(1887) | 月日未詳 | 社会・文化 | "金沢で本年中(年月不詳)に刊行されたおもな書物。
女のさとし(藤田維正著)小説いろは大尽(石井一蛙著)" | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 4月25日 | 政治・経済 | (市制、町村制が公布された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 6月1日 | 政治・経済 | 能美郡阿手で採鉱のため、真宝館が設立された。資本金10万円、社長真館貞造ほか重役は浅野順平、加納八平、中村格太郎。本社は金沢西町3番丁9番地。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 7月28日 | 政治・経済 | 北陸鉄道の敷設許可を出願のため、北陸3県から書記官等3人ずつ上京したが、閣議の結果「大体に不可なきも目下の国内経済状況から許可は当分延期」に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 7月 | 政治・経済 | 県会の半数改選で、立憲改進党議員が惨敗した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 9月27日 | 政治・経済 | 広坂郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 11月21日 | 政治・経済 | 一時隆盛だったマッチ製造の新燧社(県人清水誠経営)が破産した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 11月 | 政治・経済 | 津田米次郎が近江醒ヶ井に新設された住友の製糸場に仏国製機械を据付けのため招かれた。完成後24年まで技手として勤務、その間に軽便製糸機を考案した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 12月25日 | 政治・経済 | 県会が羽咋郡における無効投票問題に端を発する紛乱のため、内務大臣の命によって解散された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 12月 | 政治・経済 | 後藤象二郎が金沢に来た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 月日未詳 | 政治・経済 | 鎮台の名称が廃され、歩兵第7連隊は第3師団第6旅団にれい属することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 月日未詳 | 政治・経済 | 小立野大鋸谷太三郎が東京から汽罐を購入し、従来の座繰に加え織機41台を増設した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 1月4日 | 社会・文化 | 医家徳田寛所死去。65歳。詩、書画をよくし篆刻に長じ維新後小松芦城校で教職にもついた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 2月21日 | 社会・文化 | 北条時敬が石川県専門学校長心得を命ぜられた。(専門学校は3月限りで廃止され敷地校舎資産を第四高等中学校に引き継いだ) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 4月1日 | 社会・文化 | 松ヶ枝町校と大手町校が合併して、西町4番丁に校舎を新築、西町小学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 4月20日 | 社会・文化 | 金沢在勤の陸軍高等官夫人たちが金沢婦人慈善会をつくり、毎月1回大手町陸軍将校集会所に集合して軍医からほう帯使用法などの講習を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 4月23日 | 社会・文化 | 男爵前田利武死去。27歳。第13代藩主前田斉泰の第12子。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 4月 | 社会・文化 | 高等科金沢小学校は、仙台町の校地に第四高等中学校設立のため長町川岸57番地旧長家邸地に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 4月 | 社会・文化 | 赤羽万次郎(長野県人)が東京から来沢して、北陸新報主筆となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 4月 | 社会・文化 | 天主公教講義所が南町に設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 7月 | 社会・文化 | 久徴館同窓会雑誌第1号が加越能出身在京学生の編集で刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 7月 | 社会・文化 | 瓢箪町小学校は横安江町女子小学校と合併した。 | 0 |
明治二十一年(1888) | 8月15日 | 社会・文化 | 天徳院で山岡鉄舟の追悼会が催された。参会者250余人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 10月29日 | 社会・文化 | 大谷光瑩が来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 10月 | 社会・文化 | 白銀町新道の大谷派加賀教校で共立尋常中学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 11月25日 | 社会・文化 | 休刊中の金城新誌(毎月3回)が復刊した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 11月 | 社会・文化 | 石川舜台が高岡町9番地に移転し同所で毎朝説教をした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 12月2日 | 社会・文化 | 石引町小学校の新校舎が上石引町に完成し開校式をあげた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 月日未詳 | 社会・文化 | 岩村知事が主唱して会員組織の金谷館が完成した。東京の鹿鳴館にならったものである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 月日未詳 | 社会・文化 | 米人ウイン経営の私立北陸英和学校は次第に発展し小立野飛梅町に校舎を建築、移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 月日未詳 | 社会・文化 | "金沢で本年中(月日不詳)に刊行されたおもな書物。
日本の美術(雲根堂刊)小説加賀怪談雨夜の灯(石井一蛙著)金渓遊草(山田新川著)石川県下商工便覧=絵入り(川崎源太郎著)" | 金沢の百年 明治編 |
明治二十一年(1888) | 月日未詳 | 社会・文化 | 歌人高林桜顚死去。78歳。名は延子、御馬廻宮崎弥左衛門の次女で歌人高林景寛の妻、数千首の詠がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 1月25日 | 政治・経済 | 県会議員選挙がおこなわれ自由党議員が多数となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 2月11日 | 政治・経済 | (大日本帝国憲法発布。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 3月11日 | 政治・経済 | 市制施行にともない、従来戸長管掌事務で将来市に属するものはすべて市長へ引継ぐ事を金沢区長稲垣義方より指示した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 3月14日 | 政治・経済 | 北海道の屯田兵募集の訓令が県から出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月1日 | 政治・経済 | 金沢に市制施行。金沢区が金沢市となる。面積9.89平方キロ、人口94,209人(年末推計)、市予算額3万4,201円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月1日 | 政治・経済 | 市会議員選挙人名簿を公示した。誤りがあれば1週間内に申請を受け、4月11日に確定することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月11日 | 政治・経済 | 市会議員選挙人数は、3級5,335人、2級2,213人、1級707人、計8,255人と確定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月21日 | 政治・経済 | 市会議員3級選挙(市税1円47銭以下の納税者を有権者とす)がおこなわれた。当選者12人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月23日 | 政治・経済 | 市会議員2級選挙(市税1円47銭5厘以上の納税者を有権者とす)がおこなわれた。当選者12人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月25日 | 政治・経済 | 市会議員1級選挙(市税3円73銭以上の納税者を有権者とす)がおこなわれた。当選者12人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月 | 政治・経済 | 金沢郵便局通信生養成所が博労町角電信分局の跡に創設された。入居者は4人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 5月6日 | 政治・経済 | 第1回金沢市会が開かれた。議長亀田伊右衛門。市長候補者選挙の結果1位稲垣義方、2位横山隆平、3位奥村栄滋となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 6月1日 | 政治・経済 | 稲垣義方が初代金沢市長に正式就任した。(裁可は5月31日付) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 6月8日 | 政治・経済 | 市制施行にともない県知事から市長に委任事項が訓令された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 6月17日 | 政治・経済 | 金沢区時代の書記大森孝次郎が助役に就任した。市参事会員も決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 6月18日 | 政治・経済 | 稲垣市長は元金沢区第7連合戸長西村政規を収入役に推薦、市会はこれを承認した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 6月28日 | 政治・経済 | 金沢市庁舎は広坂通の元区役所が狭いので西町の公会堂でも事務を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 6月 | 政治・経済 | 小坂村表与兵衞が主唱して田区改正(耕地整理)に着手した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 7月1日 | 政治・経済 | (大津、米原、長浜間に汽車が開通した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 7月9日 | 政治・経済 | 全市を13区に分けて各区に事務所を設け、市会で区長およびその代表者を選び任命した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 8月20日 | 政治・経済 | 浅野川およびその支流八幡川、金腐川の水利管理を明治23年度は河北郡長に、また犀川および辰巳用水の水利管理を明治23年度は石川郡長に当たらせる旨市が告示した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 8月 | 政治・経済 | 荒尾精が井深仲郷を伴って来沢し、大陸進出のため日清貿易研究所へ研究生を送るよう要請した。岩村知事はこれに賛成し県費留学生の派遣を県会に提案、その承認を得た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 9月25日 | 政治・経済 | 魚市会社(資本金1万円)が近江町で営業を開始した。取締役は深谷鉄二、柿谷多吉郎、一山吉平の3人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 9月 | 政治・経済 | 高岡町の織物会社興産社が閉鎖した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 月日未詳 | 政治・経済 | 内国通運会社の支店が十間町44番地で営業を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 月日未詳 | 政治・経済 | 電信局は郵便局と併合し、郵便電話局と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 月日未詳 | 政治・経済 | 出羽町2番丁、同3番丁、下鷹匠町、宗叔町1番丁、下塩屋町が廃町となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 1月30日 | 社会・文化 | 戸水寛人が帝大から法律研究のため英国へ留学した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 2月16日 | 社会・文化 | 前田利嗣が欧米旅行に出発した。(23年2月5日神戸帰着) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 3月5日 | 社会・文化 | 卯辰山観音院の三重塔がたき火から焼失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 3月8日 | 社会・文化 | 午前5時20分ごろ中石引町44番地大鋸谷太三郎経営の製糸場汽罐が破裂し女8人男1人が即死した。官民多数が弔慰金を贈った。(天徳院に墓碑あり) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 3月13日 | 社会・文化 | 旧横安江町小学校舎と敷地を入札で売却した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 3月 | 社会・文化 | 漢学者宮北直方死去。58歳。済々館、雍々館で漢籍を教授、のち普通教育に従事した。追慕録の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月1日 | 社会・文化 | 又五郎町小学校と柿木町小学校が合併して尋常科材木町小学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月3日 | 社会・文化 | 倉知新吉著「石川県地誌」が益智館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月24日 | 社会・文化 | 休塾中の慎憲塾が再興され長町川岸超雲寺で開塾した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月 | 社会・文化 | 小坂村表与兵衛が浅根蓮根種を移植して小坂村付近の蓮根品種改良の先べんをつけた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 4月 | 社会・文化 | 教育家旧藩士浅野政周死去。86歳。小松馬廻番頭、藩校の督学を勤め、明治の後、金沢藩権少属に任ぜられ老後は家で教授した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 5月1日 | 社会・文化 | 私立犀川病院が野町2丁目に創立開業した。経営者は院長疋田準吉と才紀甚太郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 5月5日 | 社会・文化 | 富樫氏先業碑が野々市村に建った。(大乗寺住職堀麟童撰文) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 6月 | 社会・文化 | 材木町小学校の新校舎が材木町3丁目に完成、移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 7月 | 社会・文化 | 金沢工業学校が県立に移管され石川県工業学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 8月6日 | 社会・文化 | 和田文次郎著「小野君慈善録」が共潤会から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 8月11日 | 社会・文化 | 俳人鶴屋常丸死去。79歳。百姓町で小間物商を営み、曾魚の後をうけて子母川亭を継席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 8月18日 | 社会・文化 | 長町川岸に高等科金沢小学校が創設された。(のち西町公会堂に分教場を設けた) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 11月4日 | 社会・文化 | 卯辰山の日蓮宗少玄寺付近30間余が地滑りで陥没した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 11月23日 | 社会・文化 | "殿待楼で新聞雑誌社員懇親会が催された。出席者次の通り。
北陸新報(赤羽万次郎、森川清五郎、石井俊郎、中村中、直江三吉郎)北陸新聞(大塩広太、直野竜、松村儀之、能登秀信)北陸実業新聞(木村博捷、石崎駒太郎、加藤真、清水政樹)物価報(水口猪之吉)共潤会雑誌(相川久太郎、高森次吉、能崎長太郎、野村喜一郎、和田文次郎)" | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 11月 | 社会・文化 | 飯尾次郎三郎著「帝国憲法附帯法」三好保弘著「謡曲安宅考」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 12月14日 | 社会・文化 | 殿待楼で北陸新報第4,000号の祝賀会が開かれ、官民200余人が出席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 月日未詳 | 社会・文化 | 金沢区立工業学校に鈴木惣太郎(華邨)が来任、絵画図案科で教べんをとった。(5年後に離任帰京した) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 月日未詳 | 社会・文化 | 私立英和幼稚園(広坂通)が下本多町6番丁に新園舎を建て移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十二年(1889) | 月日未詳 | 社会・文化 | 勉致小学校が中口村立勉致小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 3月26日 | 政治・経済 | 成巽閣で開催の北陸鉄道施設第2次発起人会の帰途を反対派の盈進社員10数人が襲い神野良、大橋十右衛門が負傷した。盈進社は内務大臣から結社を禁止され解散を命ぜられた。逮捕された社員の中に市議横地正果があり辞職した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 4月6日 | 政治・経済 | 明治19年11月閉店した北陸銀行残務整理人中に不正ありとして臨時株主総会が開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 4月23日 | 政治・経済 | 22年7月屯田兵として北海道に移住した石川県士族の定着状態は次の通り。札幌郡篠路村32人(開墾歩数44,361歩)室蘭郡輪西村20人(開墾歩数172,465歩)根室郡和田村32人(開墾歩数45,288歩) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 4月26日 | 政治・経済 | (民法、商法公布。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 4月 | 政治・経済 | 金沢市は県から野田山の払下げを受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 5月16日 | 政治・経済 | 日本襤褸会社が材木町5丁目に創業した。資本金1,500円。ボロの集荷販売をした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 5月17日 | 政治・経済 | (府県制、郡制公布。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 5月21日 | 政治・経済 | 知事岩村高俊が愛知県知事に転じ後任は元老院議官船越衛(広島県人)ときまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 6月2日 | 政治・経済 | 米価騰貴で生活に窮する市民のため市は共有金および義倉引継金を投じ、外国米を買入れて1升6銭で売った。(9月16日まで続けた) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 6月25日 | 政治・経済 | 津田吉之助死去。54歳。尾山神社山門建築の工匠長をし、製塩装置、製糸、織機等に多くの考案設計がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 7月1日 | 政治・経済 | 第1回衆議院議員選挙がおこなわれた。金沢市と石川郡が第1区で候補者は自由党松田吉三郎、大同団結遠藤秀景、改進党河瀬貫一郎、同大垣兵次の4人、当選者は松田吉三郎と遠藤秀景であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 8月10日 | 政治・経済 | 県令の半数改選がおこなわれ金沢市からは横地正果、高田九八郎(いずれも愛国公党)が当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 9月11日 | 政治・経済 | (商業会議所条例公布。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 9月11日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所設置のため谷与三右衛門、渡瀬政礼、森下森八、神保三、円中孫平、水登勇太郎、亀田伊右衛門の7人が創立委員となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 10月28日 | 政治・経済 | 市会は米価騰貴に基因する物価高から市民の生活が苦しくなっているので、市費節減をはかるよう市に建議した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 11月2日 | 政治・経済 | 石川大林区署の庁舎が大手町に新築され移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 11月25日 | 政治・経済 | (第1回帝国議会召集。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 12月5日 | 政治・経済 | 市制施行後、情実人事で市吏員の数が膨張するなど弊害が多いとの市会の建議で、書記25人雇員23人が解職された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 12月31日 | 政治・経済 | 本年末の金沢市の戸数人口は次の通り。戸数18,964戸、人口99,954人(男49,450人女50,504人) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 月日未詳 | 政治・経済 | 市会は東御影町、末広町の5町歩を桑園にする事を決議した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 月日未詳 | 政治・経済 | 石川県工業学校の納富校長と書記川越政勝が京都から刺繍教師を招いて、女子高等授産所を設けた。これは金沢における刺繍のはじめである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 1月 | 社会・文化 | カナダ・メソジスト伝道会社の経営で正則英語学会が創立された。(24年9月私立金沢英学院と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 1月 | 社会・文化 | 私立石川県教育会が設立された。学芸講談会の開催をおもな事業とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 2月1日 | 社会・文化 | 旧藩士教育家杉村青渓死去。47歳。青渓3子あり長男寛正は能美郡長、2男虎一はイタリア公使、3男文一は大久保利通暗殺事件に連座し刑死した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 2月23日 | 社会・文化 | 卯辰山の一本松がたき火のため焼失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 4月2日 | 社会・文化 | 国学者石黒魚淵死去。74歳。藩政末期に大阪留守居役、明治の後、高崎県少参事等に任ぜられ晩年伊勢神宮教本院に奉職した。詞の山比古等の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 6月15日 | 社会・文化 | 篤農家野々市村の水毛生伊余門死去。76歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 9月14日 | 社会・文化 | 教育家発明家河波有道(棕園)死去。80歳。元本多家臣、明倫堂助教ほか各種学校の教師をし、書を著わして徳育体育の必要を説いた。また捕鯨器械、新型かまど等発明改良も多い。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 9月28日 | 社会・文化 | 医家黒川良安死去。74歳。長崎でシーボルトに学び佐久間象山に蘭語を教えた。前田斉泰の侍医となり、明治3年金沢医学館に教師に任ぜられたが4年廃藩とともに辞した。明治42年正5位追贈。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 9月 | 社会・文化 | カトリック教会が西町藪ノ内に設立された。金沢で旧教初めての教会である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 11月1日 | 社会・文化 | 関沢明清が水産功労者として藍綬褒賞を授与された。明清は慶應2年英国に留学し、致遠館教師の後、農商務省水産局長、水産講習所長等の官職につき大日本水産会を創立するなど水産界の恩人といわれていた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 11月20日 | 社会・文化 | 遠藤秀景が中心となり日刊新聞「自由の警鐘」が発行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 11月28日 | 社会・文化 | 泉鏡花が金沢から初めて上京した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 月日未詳 | 社会・文化 | 共立尋常中学校が文部省の認可学校となり大谷尋常中学校と改称した。今川覚神、内山行貫らが順次校長となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 月日未詳 | 社会・文化 | 石川県は金島文四郎を清国留学生として上海の元海軍大尉荒尾精経営の日清研究所に入学させた。(金島は大阪商船会社大連支店長を最後に明治40年死去) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十三年(1890) | 月日未詳 | 社会・文化 | (村井商会=村井吉兵衛、鶴来の人=が京都で煙草「サンライズ」を売出した。国産紙巻煙草のはじめである。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 1月14日 | 政治・経済 | 川岸町から下石伐町にかかる浴に一文橋を架替えて本日渡橋式を挙げ、犀川新橋と命名した(後に桜橋と改名)。橋付近の住民が約140円を寄付した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 2月16日 | 政治・経済 | 石川県水産振興会の発会式が勧業博物館で挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 3月1日 | 政治・経済 | 個人経営の平野銀行が尾張町78番地に創設された。資本金5万円、業務担当者平野小兵衞。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 3月7日 | 政治・経済 | 金沢市章は前田家の紋章梅花の輪郭内に、小篆の「金」の文字を配したものにきまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 3月10日 | 政治・経済 | 県知事船越衞が宮城県知事に転任、後任は宮城県知事岩山敬義(広島県人)が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 3月14日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所の設立認可指令があった。(会議所の位置は殿町62番地) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 3月29日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所の第1回議員選挙が金沢公会堂で行われた。議員の定数30人、有権者261人でこの日投票者は210人であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 3月 | 政治・経済 | 現在上海在住の石川県人は郵便局長吉田宗太郎(金沢)領事館書記二口美久(金沢)写真師渡辺八郎(大聖寺)その他日清貿易研究所留学生9人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 4月1日 | 政治・経済 | (府県制実施。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 4月13日 | 政治・経済 | 石川県書記官郷田兼徳が内務書記官に転じ、後任は熊本県書記官森岡貞が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 4月 | 政治・経済 | (安宅の米谷半平が個人経営の米谷銀行を小松町に創設した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 5月11日 | 政治・経済 | 来遊中のロシア皇太子が警護の巡査に切られた大津事件発生。金沢市会は稲垣市長、久保田市参事会員を16日神戸に派し伺候させた。なお、この時皇太子乗用の人力車車夫石川県江沼郡の北ヶ谷市太郎が皇太子の難を救い、日露両政府から年金を支給された。(明治天皇は12日お見舞い西下) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 6月1日 | 政治・経済 | (七尾町の金融業日要社が資本金5万円の七尾銀行に改組した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 8月1日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所の開所式が勧業博物館で挙行された。会議所その後殿町から西町3番丁石川薬館に移転した。初代会頭は亀田伊右衛門、副会頭は谷余三右衛門。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 8月31日 | 政治・経済 | 財界の不況で金融会社の倒産も多いため、市会議員は県有財産の放出を県に要請するため臨時市会開催を市長に要求した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 9月10日 | 政治・経済 | 繰綿業の豊明合資会社が南町63番地に創設された。資本金5,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 10月1日 | 政治・経済 | 県制実施により従来の公選県会議員は資格を失い、新たに市会で県会議員の選挙をした(複選)。久保田全、清水兼之、平野在直、上森捨次郎が当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 10月24日 | 政治・経済 | 市に初めて学務委員4人が置かれた。神田正中、藤田真一、森川清五郎(以上市会)梅田九栄(教員)。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 11月 | 政治・経済 | 北陸鉄道会社設立の計画がつぶれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 1月20日 | 社会・文化 | 石浦町の金沢教会が大雪のため倒壊した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 1月27日 | 社会・文化 | 中滝昇(上百々女木町21番地)編「宝生小謡語祝言」が安江町10番地近田太三郎から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 2月9日 | 社会・文化 | 市会議員辰巳啓死去。(元尾小屋鉱山経営者) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 3月19日 | 社会・文化 | 石川県は貸座敷および娼妓取締規則を制定した。同時に県下の遊廓全部を正式指定した。(県下の遊廓は明治16,7年ごろからすでに営業をしていた) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 3月27日 | 社会・文化 | 前大乗寺住職道海仏心死去。86歳。能登劔地出身で久しく長州にあって伊藤俊輔、井上聞多、山田市之丞らを薫育した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 4月1日 | 社会・文化 | 金沢公園地内貸下げ規則が改正された。(従来の貸与分もこの新規則による) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 5月3日 | 社会・文化 | 読売新聞に「5,6年以前に我国軽業師、濠州の南部タスマニアに至りし時、数個の石碑あり、その蒼苔をはぎ去れば(かしうぜにやごへいりようち)の13字露れたり」との記事がのった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 5月7日 | 社会・文化 | アメリカのパーシバル・ローエルが能登旅行のため来県した。(のちローエルは能登と題した本をボストンで出版した) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 5月12日 | 社会・文化 | 松田吉三郎らの機関新聞と伝えられる北陸新聞は本日限り廃刊した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 6月 | 社会・文化 | 馬場小学校は馬場1番丁26番地に校舎を新築、落成式を挙げた。(男女総合となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 6月 | 社会・文化 | (羽咋郡東土田村火打谷石川県農学校から石川殖産会会報第1号が刊行された。内容は農業についての論説、問答、経験談など) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 6月 | 社会・文化 | 久保田米僊著「小学校教科書小学図画帖」が安江町近田太三郎から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 7月10日 | 社会・文化 | 雑誌「斯文」(賀古保五郎編集)が南町32番地廣文堂から発行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 7月19日 | 社会・文化 | 雪でこわれた石浦町教会の再建なり、献堂式が挙行された。以前に比べ2倍の広さとなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 7月20日 | 社会・文化 | 金沢出身の帝国大学工学部助教授井口在屋が吸上圧榨ポンプを発明した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 8月27日 | 社会・文化 | 四條派画家垣内右嶙死去。67歳。飛騨人で明治初年金沢に来住した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 8月 | 社会・文化 | 森田柿園が「金沢古蹟志」の稿本34冊を脱稿した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 9月 | 社会・文化 | カナダ・メソジスト伝道会社監督のもとにある私立金沢英学院院長に楠正道(元本多家臣)が就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 9月 | 社会・文化 | 国事に奔走したため加賀藩で処刑された浅野屋佐平(獄死)青木秀枝(切腹)大野木克敏(切腹)が靖国神社に合祀された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 10月3日 | 社会・文化 | 田中真吉著「金沢開始300年祭行列明細図」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 10月11日 | 社会・文化 | 金沢開始300年祭が5日間執行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 10月19日 | 社会・文化 | "市は市立小学校の位置と数を次の通り定めた。
野町5丁目、新竪町(男子)、鱗町(女子)、下富山町、上石引町、西町4番丁、材木町3丁目、長町5番丁、田丸町、瓢箪町、馬場1番丁、上田町。" | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 10月26日 | 社会・文化 | (濃尾大地震。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 12月17日 | 社会・文化 | "次の旧藩士7人が正5位を追贈された。
不破富太郎、千秋順之助、小川幸三、福岡惣助、大野木仲三郎、青木新三郎、柴田躋庵" | 金沢の百年 明治編 |
明治二十四年(1891) | 月日未詳 | 社会・文化 | 博労町の菓子老舗樫田吉造が閉店移転した。旧藩時代からつづいたもので銀座も勤めた家柄であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 1月17日 | 政治・経済 | 第一国立銀行金沢支店の廃止が決定した。商業上の取引少なく交通不便というのが理由。(2月20日閉鎖) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 1月22日 | 政治・経済 | 貴族院議員武井守正(兵庫県人)が石川県知事に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 2月2日 | 政治・経済 | 知事に任命された武井守正は来任せず辞表を出し依願免官となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 2月12日 | 政治・経済 | 加州銀行の創立準備会が開かれた。岩村前知事以来懸案であったが、第一銀行支店閉鎖によって早急設立の要を生じたものである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 2月15日 | 政治・経済 | 衆議院議員の総選挙が施行され松方内閣の選挙大干渉がおこなわれた。本県1区は政府党の吏党から大垣兵次、神保小太郎、政府反対党の民党から河瀬貫一郎、松田吉三郎が立ち激烈な選挙戦の後、吏党の2人が当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 2月 | 政治・経済 | 浅野川中島橋が地元の寄付で完工し市に渡された。同橋はこれまで仮橋であったが、有志34人の手で昨年7月起工され完成したもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 3月8日 | 政治・経済 | 鈴木大亮(秋田県知事、宮城県人)が石川県知事に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 4月1日 | 政治・経済 | 加州銀行が上堤町18番地で開業した。資本金20万円、頭取は村彦左衛門、取締役は谷与三右衛門、奥泉伊六、松岡忠輔、監査役は今村勇次郎、その他の株主は村彦兵衞、山川庄太郎、奥泉彦次郎、村宅次郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 4月20日 | 政治・経済 | 金沢市会の半数改選が次のようにおこなわれた。20日3級選挙、22日2級選挙、24日1級選挙。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 4月23日 | 政治・経済 | 市会半数改選に民党吏党両派の抗争が激しく、1級選挙前夜の23日東京から帰沢した盈進社首領遠藤秀景らが公会堂近隣の民家を借受け、社員の壮士数百人にこん棒刀剣を持たせて反対派(民党)の投票阻止を命じた。壮士たちは階上からピストルを威かく発射したり、こん棒で選挙民を殴打したので、ついに検事が出動して検挙を始めた。このため吏党は検挙を恐れて動けず、この間一市吏員が短刀で選挙民を刺すなどのことがあり、人心は吏党を離れ民党の勝利となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 4月 | 政治・経済 | 桜畠9番丁から下石伐町に至る桜坂の工事が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 6月18日 | 政治・経済 | 鉱山業白鐐館が野町1丁目3番地で創業した。資本金1万2,000円、取締役は河南与右衛門ほか4人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 6月25日 | 政治・経済 | 第十二国立銀行金沢支店が南町45番地の第一国立銀行金沢支店跡に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 6月 | 政治・経済 | 加州銀行6月末の決算は預金69,610円、貸出19,194円、純益1,237円の成績である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 7月19日 | 政治・経済 | 13区長の任期(2年)切れに伴う改選が市会でおこなわれ、新区長と代理者を選んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 7月25日 | 政治・経済 | 学務委員が改選された。規定が改められ市会議員から2人、学校職員から1人となった。当選者は田井載、野崎一兵と梅田九月。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 8月6日 | 政治・経済 | 市の行政区画を7区に改めた。区長と代理者を改めて任命した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 11月29日 | 政治・経済 | 市会が市長稲垣義方の弾刻書を鈴木知事に提出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 月日未詳 | 政治・経済 | 堀内深が旧金沢製糸場の跡を輸出用羽二重機業場にあて、一本経羽二重を製織して横浜との直取引を開き、また軽目羽二重も製織した。輸出用羽二重の製織は金沢でこれが初めて。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 1月13日 | 社会・文化 | 知事岩山敬義出羽町の自宅で死去。(17日郷里に遺体を護送した) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 1月 | 社会・文化 | ケージ著東野小治郎訳「平面三角法教科書」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 3月15日 | 社会・文化 | 尋常科野町南小学校を野町尋常小学校に、尋常科西町小学校を西町尋常小学校に、尋常科上田町小学校を上田尋常小学校に改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 3月 | 社会・文化 | 徳田秋声がこの月末はじめて上京した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 4月1日 | 社会・文化 | 本日付で、長町男児小学校を長町尋常小学校と改称したほか金沢市と周辺で小学校12校の改称、2校の創設(河北郡金川小学校、石川郡野小学校)があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 4月2日 | 社会・文化 | 第四高等中学校が本日から広坂通の新築校舎で授業をした。(落成式は26年10月挙行) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 5月 | 社会・文化 | 高岡町女児校を高岡町高等小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 6月23日 | 社会・文化 | 川越崇孝の遺稿「淡斎遺稿」を同窓の西田幾太郎、藤岡作太郎らが刊行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 6月30日 | 社会・文化 | 今川以昌(小学教師)著「白山遊記」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 8月18日 | 社会・文化 | 文学者容斎藤田維正死去。68歳。金沢藩文学教師から置県の後、中学、師範学校に教べんをとり文章梯航等10数冊の著書がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 8月 | 社会・文化 | 河崎村大浦(大浦町)に徳川初期の開拓者池田元助を記念する池田氏追遠碑が建った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 11月10日 | 社会・文化 | 午前、橋場町(味噌蔵町入口)から出火、尾張町、下今町、下新町、味噌蔵町で全焼76戸、半焼40戸余、死者2人を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 月日未詳 | 社会・文化 | 共立中学校を私立大谷尋常中学校と改称した。(26年6月いったん廃止されたが後県立となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十五年(1892) | 月日未詳 | 社会・文化 | 「金沢新聞」「石川日々新聞」がこの年刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 2月23日 | 政治・経済 | 市会は、市会軽視と市政上の独断専横を理由に稲垣市長の不信任を決議し、代表が内務省に市長の解散を要請した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 2月24日 | 政治・経済 | 加賀物産会社が尾張町45番地に設立された。資本金1万円、取締役は森下森八、藤谷外茂吉、金丸宅次郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 3月1日 | 政治・経済 | (特定都市間の小包郵便の取扱いが本日から実施された。小包郵便のはじまり。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 3月22日 | 政治・経済 | 知事鈴木大亮が逓信次官に転任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 3月25日 | 政治・経済 | 市の大森助役が辞職、羽昨郡長に転じた。助役在職3年9ヵ月。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 4月5日 | 政治・経済 | 元憲兵司令官憲兵大佐三間正弘(新潟県人)が石川県知事に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 4月10日 | 政治・経済 | 市長不信任を決議した市会と稲垣市長の対立紛争に三間知事が調停に立ち、その結果辞意を表明した子参事会員が辞意を飜えした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 4月11日 | 政治・経済 | 稲垣市長が辞職を市会に通告した。(在職3年11ヵ月) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 4月20日 | 政治・経済 | 市議佐野鍵吉が助役に当選した。佐野は23歳で、佐野に投票した議員自体が内心「まさか…」と思っていたのでその当選に驚いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 4月 | 政治・経済 | 本多政以が百姓町に工場を新築、8馬力の汽罐を備え座繰機械、手引機械各6台を据付け、50人の女工を使って操業を始めた。葵機業場という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 5月1日 | 政治・経済 | 魚市会社(資本金1万円)が上近江町50番地で営業開始した。専務取締役村喜一郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 5月26日 | 政治・経済 | 市会は市長候補を長谷川準也、中屋彦十郎、高橋九思郎の順に選出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 6月20日 | 政治・経済 | 土木請負会社が長町4番丁54番地に創立された。資本金1万4,500円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 6月26日 | 政治・経済 | 吏党から提起した7区の市議選挙取消し要求訴訟について行政裁判所は全市の1級、2級選挙の無効を判決した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 6月28日 | 政治・経済 | 金沢貯蓄銀行が尾張町4番地(第百二十三国立銀行金沢支店の跡)に創立、営業を開始した。資本金3万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 7月1日 | 政治・経済 | 笠市郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 7月1日 | 政治・経済 | 採鉱冶金を業とする加宝館が彦三5番丁78番地に創立した。資本金2万5,000円、取締役は木越惣助、西川嘉兵衛、大酢又次郎、小森伊三郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 7月4日 | 政治・経済 | 長谷川準也が第2代市長に就任した。(6月24日裁可) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 8月4日 | 政治・経済 | 金沢市議1、2級の再選挙がおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 8月5日 | 政治・経済 | 民党の島田三郎、高田早苗が来沢し9日まで滞在した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月1日 | 政治・経済 | 改選後の新市会は伊東愛敬(弁護士)を議長に選んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月2日 | 政治・経済 | 合資会社金沢繭糸絹市場が創立された。事務担当者水登勇太郎、取締役越村清次。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月8日 | 政治・経済 | 金沢電灯会社の設立承認指令があった。(発起人森下森八、谷与三右衞門ら) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月15日 | 政治・経済 | 金沢米商会所は取引所法により株式会社金沢米穀取引所(資本金4万円)に改組することになり、定款と営業細則が許可された。新役員は理事長今村勇次郎、理事谷与三右衛門、越野半平。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月15日 | 政治・経済 | 石川郡粟崎村で醤油を1,000石以上造り込みするのは中島太左衛門、木谷孫六、辻七兵衞の3人である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月6日 | 政治・経済 | 市長長谷川準也が前田候爵に金沢帰住を嘆願した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月14日 | 政治・経済 | 野町1丁目坂路から犀川大橋詰まで道路拡張のため土地収用法を申請した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月20日 | 政治・経済 | 切代石川県令内田政風鹿児島で死去。79歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月25日 | 政治・経済 | 長町川岸旧製糸場の跡に日本釉薬会社が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月12日 | 政治・経済 | 金沢市における九谷陶磁画工の現在数は131人である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月13日 | 政治・経済 | 架替え中の香林坊橋が完工し車の通行止めが解かれた。(木橋より石橋になる) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月17日 | 政治・経済 | 肥料製造の金沢肥料会社が六斗林2丁目9番地に創立した。資本金4,200円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月20日 | 政治・経済 | 藤棚町端から崎浦村土清水(元煙硝蔵)への道路工事に着手した。(大道割までで中止になる) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月26日 | 政治・経済 | 大島久直が金沢の第6旅団長に任ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 12月1日 | 政治・経済 | 金沢警察署が二分され管轄区域がきまった。東警察署(大手通以北)西警察署(大手通以南) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 12月9日 | 政治・経済 | 新設の東警察署庁舎は下新町(中町見付)の芝居小屋跡空地に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 12月9日 | 政治・経済 | 金沢郵便電信局は官制改正により、1等局に昇格し局員約10人が増員された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 12月26日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所会頭亀田伊右衛門が病気のため辞表を提出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 月日未詳 | 政治・経済 | 前田家の出資による北海道の起業会は経営成功せず、入植した石川県士族53戸の耕作地は耕作者に無償譲渡し、他の資産は債権者に引渡して起業会は事実上消滅した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 2月3日 | 社会・文化 | 第四高等中学校学友会誌第1号が発刊された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 2月15日 | 社会・文化 | 下新町29番地に新富座という寄席ができ、初興行をした。定員310人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 2月15日 | 社会・文化 | 金沢屈指の有力米商仲買人松岡忠平死去。57歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 3月10日 | 社会・文化 | 飯尾次郎三郎(一風)(金沢市枝町)著「明治25年俳句五百題」が金沢北溟社から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 4月19日 | 社会・文化 | 金沢の俳人小島文器死去。77歳。直山大夢の後を継いで南無庵4世と称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 4月25日 | 社会・文化 | 臨済派献珠寺の元住職金谷善応死去。旧藩士、廣瀬淡窓に学び献珠寺在職40年、気骨の僧とされた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 5月15日 | 社会・文化 | 儒家内藤誠斎福井で死去。70歳。藩士時代卯辰山開拓にあたり、開拓山人または夢香と号した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 5月19日 | 社会・文化 | 市会が尋常中学校設置を石川県知事に要望した。当時尋常中学校は一県一校制で、石川県は私立大谷尋常中学校をもって代用したが、同校は6月限り廃止を決定したためこの意見上申となったもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 5月 | 社会・文化 | 政教新聞が金沢で発行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 6月20日 | 社会・文化 | 教育家島田定静死去。62歳。金沢藩文学訓蒙、石川県師範教諭などを勤め、のち私塾を開いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 7月5日 | 社会・文化 | 石川県尋常中学校が新道町の私立大谷尋常中学校校舎を借受け創設された。大谷尋常中学校の生徒も引継いだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 7月26日 | 社会・文化 | 北陸新報主筆赤羽万次郎が退社した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 8月5日 | 社会・文化 | 北国新聞の第1号が発刊された。社主赤羽万次郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 8月10日 | 社会・文化 | 23年県が上海の日清貿易研究所に送った県費留学生9人中7人が本年6月卒業、うち4人が金沢に帰り、3人は清国にとどまった。2人は中途退学。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 8月11日 | 社会・文化 | 金沢の相馬勝之、小竹才六、竹田与八郎、藤田多賀蔵、飯島佐之六、大桑十左衛門の諸氏が石川県能楽会を組織した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 8月15日 | 社会・文化 | 下新町新富座で清玉一座のじょうるり興行があり、連日大入りだった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 8月21日 | 社会・文化 | 英学者芝木昌平死去。59歳。壮猶館等で洋学を教授、のち金沢で私塾英文学館を開いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 8月24日 | 社会・文化 | (能登汽船会社の和合丸が穴水の手前で沈没した。乗船者83人中死者5人、行方不明11人。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 8月25日 | 社会・文化 | 白山比咩神社宮司横山政和(蔵人)死去。59歳。元加賀藩家老(1万石)。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月2日 | 社会・文化 | 新町中町の見付に新築の朝日座は菊川猪三郎一座で舞台開きをした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月4日 | 社会・文化 | 前田慶寧贈位慶賀式(7月14日従2位追贈)がおこなわれ、各町からの催し物が3日間続いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月7日 | 社会・文化 | 安井顕比(綿山)東京で死去。64歳。維新のとき加賀藩選出の徴士となり、越後府権判事、金沢藩権大参事を勤め前田家で藩史編さんにあずかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月8日 | 社会・文化 | 小立野北陸英和学校が私立北陸学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月14日 | 社会・文化 | 夜、森下町67番地から出火、全焼41戸、半焼4戸を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月15日 | 社会・文化 | 国学者歌人高橋富兄が第四高等学校教授に任官した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月17日 | 社会・文化 | 重野安繹、大倉雨村が来沢、数日滞在した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月20日 | 社会・文化 | 金沢警察署の調査による市内の人力車数は800余両。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月20日 | 社会・文化 | 石井盈、松本文太郎共編の「石川県史談」が刊行された。小学校用に編集されたもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月27日 | 社会・文化 | 夜9時、香林坊の一部が突然崩れ香林坊橋は往来止めとなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 9月28日 | 社会・文化 | 雑誌「金沢の実業」第1号が発刊された。編集人松本文太郎(材木町)。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月1日 | 社会・文化 | 倉谷鉱山鉱毒事件で清水兼之ら7,8人が逮捕された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月4日 | 社会・文化 | 倉谷鉱山の鉱毒について関係者100余人が県庁に龍岡書記官をたずね、保護を嘆願した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月10月 | 社会・文化 | 人情講談の神田小伯円が十三間町の客席に来演した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月12日 | 社会・文化 | 白山比咩神社宮司に石川昌三郎が就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月15日 | 社会・文化 | 今様能狂言の泉祐三郎一座が香林坊福助座で興行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月18日 | 社会・文化 | 「ト一亭」が梅本町から橋場町中村楼跡に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月30日 | 社会・文化 | 第四高等学校の新築落成式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 10月31日 | 社会・文化 | 鈴木華邨(工業学校絵画教師)が辞任帰京した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月1日 | 社会・文化 | 香林坊の寄席寿座が新築落成し、披露に睦太夫、村太夫、春玉らのじょうるりが興行された。座主池田円平。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月6日 | 社会・文化 | 法学士忍月石橋友吉が北国新聞に入社した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月10日 | 社会・文化 | 石川県工業学校教授嘱託納富介次郎(初代同校長)が辞表を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月13日 | 社会・文化 | 西本願寺別院の大門上棟式が雨中挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 11月13日 | 社会・文化 | 石川県尋常中学校の独逸語教師米人スナット・グラスがこの日から出勤した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 12月13日 | 社会・文化 | 刀剣鑑定家本阿弥長識(芍楽亭長根)死去。維新前後加賀藩に仕え、宮内省に奉職中であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 12月21日 | 社会・文化 | 小松町の書店宇都宮源平が金沢石浦町に支店を設け、弟を支配人とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 12月24日 | 社会・文化 | (午前4時能美郡寺井町で大火、144戸焼失。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 12月28日 | 社会・文化 | 西警察署は市中をうろつく乞食21人を捕え市役所へ引渡した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 12月29日 | 社会・文化 | 市内で貸本屋が次第に増加している。おもな店はテカナス(下新町)松栄(尾張町)菁々堂(竪町)石井(片町)棚田(石浦町)森井(尾張町)金原堂(尾張町)など。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十六年(1893) | 月日未詳 | 社会・文化 | 小川昌子(のち直子)が高輪御所の御用育係になった。旧藩士小川幸三の妻である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 1月19日 | 政治・経済 | 市は末廣町に貧民救恤所を設けて入居者に開墾の仕事をさせ、後にこれを与えることにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 2月14日 | 政治・経済 | 市立消防組設置のため市会に調査委員会を設けた。(当時私立消防は11組あったが現場での規律統制に遺憾な点があった) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 2月19日 | 政治・経済 | 市助役佐野鍵吉の軽挙に非難百出し、佐野は病気と称して辞職した。(在職9ヵ月) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 2月23日 | 政治・経済 | 助役佐野鍵吉の後任に市議高島伸二郎を選出した。(24日県知事認可) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 3月16日 | 政治・経済 | 新設予定の金沢停車場の位置につき市会は意見上申のための市会開会を要求した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 3月24日 | 政治・経済 | 平野太吉から設立認可申請中の金沢倉庫会社が認可になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 3月26日 | 政治・経済 | 市は土木の小修理復旧工事のため常雇工夫6人を置くことにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 3月 | 政治・経済 | 安江町と白銀町の境の升形橋が架替えられた。(升形橋は枯木橋、香林坊橋と共に旧時は要所であった) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 4月5日 | 政治・経済 | 能作合資会社が安江町67番地に創立した。漆器製造と貸金を営業、資本金1万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 4月14日 | 政治・経済 | 加能汽船株式会社(資本金3万3,000円)が創立、本社は上金石字達摩町14番地。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 4月28日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所の新役員がきまった。会頭水登勇太郎、副会頭森下森八、谷与三右衛門。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月1日 | 政治・経済 | 金沢市役所の処務規程が改正された。第一課(庶務、兵事、戸籍)第二課(勧業、土木、学務)第三課(国税、県税、市税、調度、会計、課戸) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月6日 | 政治・経済 | 有栖川宮熾仁親王揮毫の「勧業博物館」の額文字を三間知事が携え帰県した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月8日 | 政治・経済 | 倉谷鉱山の鉱毒流出につき、市内の漁業者が三間知事に対して適当な保護策を嘆願した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月11日 | 政治・経済 | 金沢駅の設置個所につき、三社の宮(豊田白山神社)の付近、醒ヶ井町、木ノ新保等に誘致しようと種々運動するものがあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月15日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所の地所が郵便電信局増築のため買上げとなり、その代地は西町に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月25日 | 政治・経済 | 私設七尾鉄道の建築案が衆議院を通過した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月3日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所は本日から西町2番丁1番地藤岡方を仮事務所とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月3日 | 政治・経済 | 市役所は中央廊下の板敷をはずし、市民が足駄のまま出入して直接各係に面談出来るように改造した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月7日 | 政治・経済 | 市会は金沢駅の位置につき意見書を県経由鉄道当局へ提出した。意見書に記載の位置は木ノ新保の現在の金沢駅の場所。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月10日 | 政治・経済 | 兼六園の勧業博物館と金沢神社との間から出羽町へでる通路開設の工事が開始された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月10日 | 政治・経済 | 市の主要物産の陶銅漆器に新案創意の意匠を生み出し販路を拡張するため、市は県立工業教師山本光一に嘱し図案数十種を描かせることにした(謝金200円)。図案は市が保存し業者に貸与する。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月14日 | 政治・経済 | 旧消防組は全部市立消防組に組入れることになり、その引継ぎを完了した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月21日 | 政治・経済 | 浅野川大橋詰の牛肉屋長谷川支店が材木町入口右角へ移転して扇五楼と改名開店した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月22日 | 政治・経済 | 長谷川市長は市民に電灯を見せるため、共進会の会場入口と尾山神社境内に1基ずつを建設することにし、経費257円が市会の承認を得た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月25日 | 政治・経済 | 石川県警察部は勅令による消防組規則の細則に基づき、金沢東西消防組(東9部西5部)の組頭および各部の小頭を任用し、同時に各部消防夫43人ずつを採用した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月30日 | 政治・経済 | 浅野川大橋詰を拡張するため拡張地域の家を7月5日までに取払うことになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 7月10日 | 政治・経済 | 第5回関西連合共進会の開場式が午後1時から勧業博物館で挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 7月13日 | 政治・経済 | 渡辺孫三郎(二十人町1番丁)が湯涌谷村上荒屋地内高尾山で、ペンキ用白紛と金その他陶土用の鉱土を発見し、試堀願を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 7月15日 | 政治・経済 | 阿部碧海(甚十郎敬忠)が公益をはかった功により褒章を授けられた。碧海は明治2年から古寺町の自宅で窯業を始め多数の陶工を育成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 7月17日 | 政治・経済 | 石川県第五課長加藤鏆二が石川県工業学校長に任ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 8月1日 | 政治・経済 | (清国に対し宣戦布告。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 8月29日 | 政治・経済 | 日清戦争で動員を下令された金沢の部隊は本日出発した。市は市内出征者(230余人)中の生活困窮家庭に対する扶助をきめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 9月13日 | 政治・経済 | (歩兵第7連隊仁川に上陸。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 10月17日 | 政治・経済 | 市は出征軍人の市税徴収を猶予することにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 11月29日 | 政治・経済 | 長谷川市長が市営発電所設置のための資金を公募する案を市会に提出した。市会は事重大なりとして全員委員となり調査することにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 12月11日 | 政治・経済 | 県勧業課長宮崎豊次が京都府へ転出した。石川県工業学校の創立をはじめ県の経済産業面の行政指導に活躍した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 12月21日 | 政治・経済 | 東警察署が殿町61番地の仮庁舎から下新町62番地の新庁舎に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 月日未詳 | 政治・経済 | 横浜の輸出商が羽二重生糸買入れのため、はじめて出張所を金沢に設けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 2月4日 | 社会・文化 | 下新町の新富座で女子供の身振浄瑠璃が興行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 2月23日 | 社会・文化 | (今様能狂言の泉祐三郎がこの日から3日間東京歌舞伎座で興行した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 3月18日 | 社会・文化 | 夜10時ごろ壮士金戸伊太郎、吉田鉾三郎ら3,4人が小立野の宣教師米人ハオルス方に赴き示威運動をした。ハオルスは威かくのため発砲し、壮士も腕力をふるったがすぐ巡査に取押えられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 3月23日 | 社会・文化 | 卯辰末吉座で嵐冠十郎が東京下りの俳優を加え、茶屋梅本の追善興行をした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 3月30日 | 社会・文化 | 朝、片町木倉谷長与門付近から出火、両側に延焼した。出火原因は不明に終った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 3月 | 社会・文化 | 薬種商石見谷伊兵衛死去。83歳。小野蘭山の塾に学んだ。津田淳三、高峰精一、田中信吾らを助けたといわれる。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 3月 | 社会・文化 | 「俳諧新誌」が南町同社から、雑誌「百万石」が西町一粒社から、相場誌「金城宵報」が十間町同社からそれぞれ発行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 4月8日 | 社会・文化 | 香林坊大神宮境内の戎座が宮比座(みやび)と改名した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 4月14日 | 社会・文化 | 北国新聞が「兼六園保存論」をのせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 4月16日 | 社会・文化 | 旧藩士赤井直喜東京小石川で死去。水戸の武田耕雲斉ら浪士隊が北陸に下ったとき、藩命によりその処置に当った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 4月29日 | 社会・文化 | 旧藩士が尾山旧誼会を設置しようと趣意書を配布した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 4月 | 社会・文化 | かねて不和だった能楽家宝生九郎と波吉甚次郎(金沢人)の和解がなり、前田家は祝いの能楽会を東京邸で催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月2日 | 社会・文化 | 俳人朝見大素死去。60歳。桶町に住み足袋商も営んだ。槐庵9世を継席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月11日 | 社会・文化 | 山口富造著「養蜂実験門答」が竪町菁々堂から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月14日 | 社会・文化 | 市内の米価が各地に比し高く庶民生活を圧迫するので、大手の買占め筋と話合いしようとする動きが市民の間に起きた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月14日 | 社会・文化 | 書家直江菱舟(塩屋町120番地住)死去。63歳。旧藩時代家塾で漢学習字を教授、のち小学校訓導となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 5月28日 | 社会・文化 | 午後10時ごろ高道町から出火、妙正寺妙玄寺と人家3戸が焼失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月28日 | 社会・文化 | 漢詩人木蘇岐山が来沢、池田町立丁18番地に居を定め吟社を設立した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月30日 | 社会・文化 | 尾張町羽田伝右衛門(七日堂)発起の街灯会社(石油点灯)に申込みが早くも200口に達した。7月10日ごろから点灯の予定。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月 | 社会・文化 | 尾山神社庭園にある辰巳用水の石筒樋が第四高等中学校建設工事でこわれたが修理復旧が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 6月 | 社会・文化 | 倉谷鉱山が休業したので犀川に鉱毒が流れなくなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 7月4日 | 社会・文化 | 明治戊辰越後戦争戦死者の27年忌追悼会が当時の隊長小川清太の主唱で野田町桃雲寺で催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 7月5日 | 社会・文化 | 小川孜成著「兼六公園誌」2冊が近田太三郎(安江町)により刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 7月22日 | 社会・文化 | 雲田平太郎(油車12番地)著「金沢市街独案内」が棚田岩次郎(石浦町67番地)により刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 7月 | 社会・文化 | 鉄砲鍛冶師富木伊助死去。60歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 8月5日 | 社会・文化 | 平岩雪湖(河原町)著「金城勝覧図誌」が南町池善から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 9月4日 | 社会・文化 | 俳人薄井梅下死去。もと神職、浅野屋北州の後を継席して梅雪庵2世と称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 9月7日 | 社会・文化 | 日本赤十字社石川県委員部が石川支部と改められた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 9月11日 | 社会・文化 | 第四高等中学校を第四高等学校と改めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 10月1日 | 社会・文化 | 「白山遊記」の著者今川以昌死去。50歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 10月12日 | 社会・文化 | 石川県工業学校に製陶科を新設した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 10月13日 | 社会・文化 | 俳人賀古文架死去。55歳。旧藩士、のち新竪町で醤油商を営んだ。嘉会露朗の後をうけ柿丸舎6世を継席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 10月31日 | 社会・文化 | 第三高等学校生徒31人が勅令第75号によって第四高等学校に転入学した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 12月1日 | 社会・文化 | 兼六園で旅順陥落官民合同祝賀会が催された。参集者1万人の盛会だった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 12月6日 | 社会・文化 | 倉谷鉱毒事件は疑獄事件を起し所有主が変り、採鉱法も改められたので害を及ぼす事なしと当局が言明した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 12月 | 社会・文化 | 紺谷末吉(竪町)が「日本勝戦雙六」を編集出版した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十七年(1894) | 月日未詳 | 社会・文化 | 私立真宗中学校が横安江町別院内に創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 2月1日 | 政治・経済 | 下今町46番地に丸阿合資会社が呉服太物の問屋を開業。資本金1万5,000円、担当社員八谷五郎兵衛。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 2月9日 | 政治・経済 | 市会は長谷川市長の要請で市営発電所設立の調査を工学士林頼次郎と電気技手得永文雄に委嘱し、289円25銭の支出を議決した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 3月2日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊は昨年9月仁川上陸以来進撃を続けこの日鞍山店を占領した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 3月30日 | 政治・経済 | (日清戦争の休戦協定成立。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 4月17日 | 政治・経済 | (日清講和条約=下関条約=締結。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 4月20日 | 政治・経済 | 金沢市会は昨年12月解散された県会の議員選挙を3月12日執行したが、市会の両派の勢力伯仲のため紛争が続き、一人で2票を投じた者があったため知事が無効を宣した。本20日再選挙を執行したところ、非市役所派の市議が出席しないままに投票をおこない市役所派の県議のみ当選した。非市役所派は直ちに選挙無効を県参事会に訴願したが却下されたので行政訴訟を提起した。(翌年6月3日選挙無効の判決下る) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 4月21日 | 政治・経済 | 市会議員半数改選の3級選挙は本日、2級は23日、1級は25日おこなわれた。市会は市役所派(軟派)と非市役所派(硬派)のニ派にわかれていたので選挙も激しい様相を呈した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 4月 | 政治・経済 | 金沢商業会議所会頭に亀田伊右衛門が再選された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 6月7日 | 政治・経済 | 県令をもって金沢市栄町、松ヶ枝町の貸座敷業は現在の家屋建坪数に限り営業を免許し、廃業転居死亡の場合は営業免許を失効することにきめられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 6月15日 | 政治・経済 | 任期満了の市収入役西村政規の後任に市会は山原成太郎を選出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 7月1日 | 政治・経済 | 凱旋途上の歩兵第7連隊第1大隊に70人のコレラ患者が発生したため部隊は宇品で抑留されているとの連絡がはいった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 7月5日 | 政治・経済 | 凱旋部隊を歓迎のため市は病臥中の市長代理として由比書記を県境まで出迎えさせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 7月9日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊が金沢に凱旋した。この戦役における連隊の戦死者は36人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 7月10日 | 政治・経済 | 金沢市から発電所設置について調査を依頼された林工学士らは「犀川の水力は優に600馬力の電力を得る」と報告した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 7月11日 | 政治・経済 | 金沢市会は凱旋の歩兵第7連隊に感謝状をおくった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 7月25日 | 政治・経済 | 南町の横小路尾山神社前の左右を1間ずつ取りひろめることに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 7月27日 | 政治・経済 | 午後5時から兼六園内博物館で官民合同の凱旋祝賀会を催し、軍人100人余人を招待した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 8月1日 | 政治・経済 | 小間物荒物販売の中小(なかこ)合名会社が青草町36番地に創業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 9月14日 | 政治・経済 | 長谷川市長は市会の決議に基づき市営水力電気の経営に要する資金15万円の起債許可を請うため上京した。(滞京9ヵ月に及んだ) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 10月5日 | 政治・経済 | 石川セメント会社が上今町48番地に設立された。資本金10万円、代表者南聰孝ほか。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 11月27日 | 政治・経済 | 県会は広坂上の長谷川準也の宅地を博物館付属地として買い上げることをきめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月25日 | 政治・経済 | 金沢運輸会社が博労町59番地に創立され片町74番地に支店を置いた。資本金5,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月26日 | 政治・経済 | 金子桑の発見者金子清作が家産を傾け病床に飢餓しようとしているので、石川県は米と薬餌料を支給することにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月27日 | 政治・経済 | 金沢米穀取引所に株式取引の営業が認可になった。実施は29年5月1日から。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月29日 | 政治・経済 | 県会は監獄署の位置を小立野、野田寺町、西馬場の3カ所の候補地の中から小立野に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月 | 政治・経済 | (七尾鉄道株式会社が設立された。社長野田益晴、資本金70万円。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 2月1日 | 社会・文化 | 第四高等学校医学部生徒が十全会を組織し妙慶寺で発会式を挙げた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 2月14日 | 社会・文化 | 金沢の能楽師相馬勝之(諸橋権之進)方に収蔵された翁の面が前田家に800円で買上げられた。(現在尾山神社所蔵) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 2月25日 | 社会・文化 | 能楽師相馬勝之(諸橋権之進)死去。78歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 2月28日 | 社会・文化 | 田中正義死去。80歳。加賀藩に洋学を輸入し、壮猶館兵学教師を勤め、美川県庁時代県少属となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 4月29日 | 社会・文化 | (鹿島郡七尾町で大火、919戸焼失。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 5月16日 | 社会・文化 | 尾張町菓子舗森下森八が改名して12代森下八左衛門となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 7月21日 | 社会・文化 | 木ノ新保1番丁で父子2人の真性コレラ患者が発生した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 7月 | 社会・文化 | 新井白蛾著「古易断時言附録」沢田向磨著「原因結果の説」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 8月10日 | 社会・文化 | 石川郡野村字十一屋に金沢避病院が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 8月14日 | 社会・文化 | 香林坊大神宮境内で日清戦争パノラマが興行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 9月18日 | 社会・文化 | 小立野飛梅町在住のウイン夫人が26年12月設立した孤児院の収容児は現在15人に達している。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 10月31日 | 社会・文化 | 金沢出身の法学士三宅恒徳が台湾台南でコレラにかかり死去。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 11月2日 | 社会・文化 | 大日本衛生会金沢支部が大手町医学堂に会合、金沢のコレラは鞍月用水と辰巳用水沿岸の家に多く発生しているので両用水を一時止めよとの意見も出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 11月3日 | 社会・文化 | 梅本町の一関亭が西洋料理と和料理との折衷料理をはじめ、評判になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 11月9日 | 社会・文化 | 金沢の本年初発以来昨日までの赤痢とコレラ患者数は、赤痢患者116(うち死亡33)コレラ患者111(うち死亡94)。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 11月17日 | 社会・文化 | 浄土宗寺院連合の主唱で、日清戦争戦死者のため卯辰山観音院上に建立した忠魂堂の落成式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 11月19日 | 社会・文化 | 藤岡作太郎著「日本風俗誌」が東京で刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 11月 | 社会・文化 | 書家山納賢吉(蘭山)死去。60余歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月10日 | 社会・文化 | 近来金沢市の地価が急騰している。これは金沢に師団設置説と鉄道開通が目前となったためである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月20日 | 社会・文化 | 日の出新聞は北陸新聞と名称を変え自由党機関紙として発行することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月26日 | 社会・文化 | 俳人上田松英死去。64歳。古寺町小橋菅原神社社掌を勤め、父の後をうけて十梅園2世となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月 | 社会・文化 | 「久徴館同窓会雑誌」が84号をもって終刊となり、次号から「加越能郷友会雑誌」と改題続刊された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月 | 社会・文化 | 並木町浅野川畔に桜と柳を児玉小路入口まで植えつけた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 12月 | 社会・文化 | 北陸新報(発行所北溟社)は本月末で廃刊した。明治4年開化新聞として発刊され、石川新聞さらに加越能新聞を経て北陸新報と改題され継続してきた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 月日未詳 | 社会・文化 | 「明治二十七八年征清紀要」が歩兵7連隊から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 月日未詳 | 社会・文化 | 藤岡作太郎が明治27年から28年にかけて北国新聞に「薄曇月橋物語」ほか3編を執筆した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十八年(1895) | 月日未詳 | 社会・文化 | 金沢の白銀師8代水野源六光春死去。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月2日 | 政治・経済 | 凱旋の後備第6連隊本部と第6中隊が午後1時ごろ有松町郊端に到着、知事以下が出迎えた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月5日 | 政治・経済 | 凱旋した後備連隊は午前8時解散式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月5日 | 政治・経済 | 市内消防の出ぞめ式が県庁構内でおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月9日 | 政治・経済 | 長谷川市長は金沢市内から電話加入希望者を募り、その筋に電話交換局の早急開設方を懇願した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月12日 | 政治・経済 | 上金石と下金石(大野)で灯台建設を競願中であったが、双方とも許可になった。(上金石は灯台、下金石は灯竿) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月14日 | 政治・経済 | 水力発電に関係ある用水関係者100余人が香林坊下金花楼に集り、協議会を開いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月16日 | 政治・経済 | 十間町の陶器輸出商綿野吉二(工場は寺井)が緑綬褒章を授けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月30日 | 政治・経済 | 最近の物価騰貴により市役所は29年度から吏員の最低日給10銭を12,3銭に引上げることにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 2月29日 | 政治・経済 | 市会1級議員の再選挙を執行した。県知事らの調停により市役所派と非市役所派の両派は同数の当選者を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 3月21日 | 政治・経済 | (旧銅貨天保通宝の引換え期限は本年末限りと大蔵省から告知された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 3月21日 | 政治・経済 | 金沢駅の設置位置は木ノ新保6番丁(白鬚神社付近)を中心にした地域に内定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 3月26日 | 政治・経済 | 金沢に連隊区司令部が置かれることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 5月1日 | 政治・経済 | 金沢米穀取引所が株式取引を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 5月4日 | 政治・経済 | 参謀総長小松宮来沢。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 5月21日 | 政治・経済 | 新設金沢師団の買収金が不足のため寄付金の募金がはじめられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 5月21日 | 政治・経済 | 師団特科隊の設置場所は野村に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 5月 | 政治・経済 | 金沢出身の日本銀行監理官早川千吉郎が英国へ渡航した。(清国からの償金管理のため) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月7日 | 政治・経済 | 市は野村の避病院敷地(1,560坪)を陸軍に献納した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月8日 | 政治・経済 | 市有野田墓地の松樹1,700本を入札で払下げた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月8日 | 政治・経済 | 金石の灯台完成。(下旬より点灯) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月9日 | 政治・経済 | 金沢に電話交換局の開設が決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月10日 | 政治・経済 | 金沢織物伝習所が小立野新町102番地に創設された。資本金3,000円、綿ネール織等を製織。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月26日 | 政治・経済 | 前年無効を判決された県会議員選挙の再選挙を執行した。市議選同様市会両派の妥協成り高田九八郎、横地正果、児島璋心、山原成太郎を選出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月27日 | 政治・経済 | 陸軍に献納した避病院の代地を市は桃畠に求めたが、移転建築完成後に土地購入に関連し疑獄が発生した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月5日 | 政治・経済 | 石川県農会組織の準備会が博物館で開かれ会則等を決定した。金沢市委員は小池和四郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月11日 | 政治・経済 | (七尾鉄道が土地買収に着手した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月15日 | 政治・経済 | (敦賀、福井間に汽車開通。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月17日 | 政治・経済 | 山ノ上町飴屋坂通の開通式がおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月24日 | 政治・経済 | 同業が合併して金沢精練合資会社が成立した。資本金3,700余円、場所は長町川岸44番地、代表社員は野口清右衛門。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月28日 | 政治・経済 | 市営電気事業が許可になった。計画者の長谷川市長は最も喜んだが、避病院疑獄事件や政党分裂等の事があり、ついに市営電気事業実行の機会を失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月29日 | 政治・経済 | 第9師団司令部は金沢城内二の丸跡に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月30日 | 政治・経済 | 第9師団新設兵営は野村、十一屋、長坂、野田にまたがる30万坪の敷地に年末から建築に着手の予定。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 8月11日 | 政治・経済 | 亀田伊右衛門が同志村彦兵衞、今村勇次郎、松岡忠輔らとはかり実業会を組織、会長に本多政以を推し初会合を古今亭で開いた。(創立当初は政治に関与しないことを決めていた) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 9月7日 | 政治・経済 | 市収入役山原成太郎が辞表を出した。(疑獄事件の波及をおそれたため) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 9月14日 | 政治・経済 | 避病院移転用地疑獄事件で市助役高島伸二郎と市会議長横地正果、市議村井与兵衛、野崎庸二、貞成栄多郎らが逮捕された。高島助役は同日停職となった。(横地、村井、貞成らは12月25日証拠不充分で免訴となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 9月14日 | 政治・経済 | 斉藤弥久ら9人から出願中の金城貯蓄銀行の設立が大蔵大臣から許可された。資本金10万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 10月17日 | 政治・経済 | 加能汽船会社の金石、敦賀間直通航路の新造船加能丸(300トン)が金石に着いた。(価格4万円) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 10月 | 政治・経済 | (代金引換小包郵便の取扱いが開始された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 11月1日 | 政治・経済 | 小立野上弓ノ町で金沢市蚕糸業組合立簡易養蚕学校が開校した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 11月14日 | 政治・経済 | 監獄署移転地の土取場撞木町および鶴間町、上鶴間町、与力町1番丁、下弓ノ町の買収契約が成立した。価格は1坪70銭。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 11月 | 政治・経済 | 明治商業銀行金沢支店が南町に設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 12月6日 | 政治・経済 | 三間正弘知事が非職となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 12月12日 | 政治・経済 | 市収入役山原成太郎が辞職した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 12月12日 | 政治・経済 | 市の学務委員は今朝から市会議員3人、小学校長2人、市公民1人の6人で組織することに改めた。改選の新委員は上森捨次郎、直江三吉郎、河内山唯次郎、朝日直政(留任)木村篤道(留任)(1人未定) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 12月26日 | 政治・経済 | 奈良県知事古沢滋(高知県人)が石川県知事に任ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 月日未詳 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊は第3師団から新設の第9師団管下に入った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月4日 | 社会・文化 | 明治24年10月の金沢開始三百年祭の状況を記録した「金沢開始三百年祭記事」が上森捨次郎の編集で刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月6日 | 社会・文化 | 人形浄瑠璃が材木町3丁目土谷方および高道新町本法寺で今明日興行される。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月10日 | 社会・文化 | 真宗大谷派第四中学寮が本願寺別院内から下本多町葵製糸場へ移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月12日 | 社会・文化 | 漢学者教育家大瀬直温東京で死去。明治以後、県下のほとんどの中等学校で教べんをとった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月21日 | 社会・文化 | 昨年末北陸新報を廃刊した北溟社が、妙慶寺で総会を開き解散を決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月26日 | 社会・文化 | 北溟社解散と同時に職工監督飯尾次郎三郎は部下30人と共に北国新聞に入社、職工部長となった。(飯尾は明治12年北溟社に入社) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 1月31日 | 社会・文化 | 休刊中の金城新誌が復刊された。(第3次) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 3月20日 | 社会・文化 | 写真業高山一之死去。68歳。旧本多家の家臣、中村屋弁吉に写真術を学び長崎にも留学、金沢で初めての写真屋を開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 4月6日 | 社会・文化 | 金子桑の金子清作(旧藩士)死去。80余歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 4月10日 | 社会・文化 | 金沢市会は県知事に北廓移転の意見書を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 4月12日 | 社会・文化 | 俳人朝見大素の句碑が卯辰山忠魂堂境内に建てられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 4月15日 | 社会・文化 | 忍び込み窃盗で長らく金沢市内を荒しまわっていた大賊二上平吉が、南町憲兵屯所の手で逮捕された。(二上は越中伏木町字港町の旧家で、回漕業を営んでいた) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 4月17日 | 社会・文化 | 尾山神社境内に幕末の加賀藩功臣関沢安左衛門(遯翁)の碑が建った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 4月 | 社会・文化 | (石川県農学校を羽咋郡火打谷から小松町に移した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 5月1日 | 社会・文化 | 県下の医学教育功労者医師太田美濃里が藍綬褒章を授けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 5月7日 | 社会・文化 | 北陸人類学会誌第1巻が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 5月 | 社会・文化 | 西田幾多郎が第四高等学校講師を嘱託され独逸語を担任した。(30年山口高等学校教授嘱託に転じた) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月5日 | 社会・文化 | 市は石川県尋常中学校分教場として西町公会堂を貸与した。以後市会は公園内博物館東本館で開いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月14日 | 社会・文化 | 帰省中の泉鏡花が家族を引きまとめ1両日中に上京することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月15日 | 社会・文化 | (奥羽地方に大つなみがあった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月20日 | 社会・文化 | 儒家鶴見逵死去。77歳。明倫堂教師、廃藩の後県の文学教師となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 6月26日 | 社会・文化 | 笹下町に真性コレラ患者が発生した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月1日 | 社会・文化 | 名火消し手下政五郎の記念碑が堀川の智覚寺境内に建った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月28日 | 社会・文化 | (河北郡八田村に大火、223戸焼失。) | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月30日 | 社会・文化 | 意匠考案家大森惟中が石川県巡回教師兼工業学校教授嘱託として招かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 7月31日 | 社会・文化 | 石川県尋常中学校用地は下本多町の2,000坪を買収したが、不足分に対して本多家が約1,000坪を寄付同様の価格で提供した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 8月12日 | 社会・文化 | 山本庸貞死去。明治初年から犀川川上に寺子屋を開いていた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 8月18日 | 社会・文化 | 午後8時25分ごろ上金石町松前町から出火、372戸を焼失した。金沢小学校も焼失。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 8月27日 | 社会・文化 | 日清戦争の徴発軍馬のため大樋町北端に軍馬記念碑の建立計画がきまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 8月 | 社会・文化 | 徳田秋声の処女作「藪柑子」が出版された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 9月25日 | 社会・文化 | 金沢医師会ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 11月16日 | 社会・文化 | 梅若が香林坊宮比座を買収し、小福座と改めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治二十九年(1896) | 月日未詳 | 社会・文化 | 別所小学校は内川小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 2月13日 | 政治・経済 | 金沢の銀行10行で北陸同盟会を組織することに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 3月26日 | 政治・経済 | 津田米次郎が織機を発明し専売特許を得た(津田式力織機)。水力を動力とし、すでに長町川岸堀内深の工場で使用していた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 3月26日 | 政治・経済 | 山原収入役の退職後、党派の対立で後任が決定しなかったが市長は市参事会員永井将治郎を推薦、市会もこれを承認し、本日就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 3月 | 政治・経済 | 浅野川の応化橋が地元有志の寄付で新しく架設された。(以後仮橋があった) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 3月 | 政治・経済 | 金沢商業会議所会頭に亀田伊右衛門が再選、副会頭に山田清三が選任された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 4月1日 | 政治・経済 | 市内4ヵ所に吏員派遣所を設置した。第1派出所(犀川以南)第2派出所(犀川北部)第3派出所(浅野川上流両岸)第4派出所(浅野川下流両岸) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 4月9日 | 政治・経済 | 県は元長谷川邸地を公園に編入手続きをしたので、整地工事を入札に付した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 5月2日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊が(1個大隊欠)威海衛守備のため1年間派遣されることに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 5月7日 | 政治・経済 | 従来の区長制度を廃止して全市を4区に分けた。各区にできた吏員派出所は主として徴税事務おこなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 5月10日 | 政治・経済 | 金沢駅の位置確定に伴い、島田町に鉄道局金沢派出所が新築されて博労町の仮舎から移転した。また鉄道工事および用品納入の請負者の飯田組、共栄組、北陸組、旭組など10余組が競争で事務所を設けるなど付近の状況が一変した。一方これらを相手とする怪しげな飲食店がたち並び市民を驚かせた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 5月17日 | 政治・経済 | 才明銀行が野町4丁目10番地に営業を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 5月31日 | 政治・経済 | 市役所増築のため市は後方の中村藤造(和泉流狂言師)の所有地500坪を1,000円で買収した。中村は樹木の一部を寄付した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 5月31日 | 政治・経済 | 市会は長谷川市長が全力を傾け計画した市営水力発電事業を民業に移すことを決議した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 6月5日 | 政治・経済 | 県会は2党の対立抗争が激化し知事不信任の動議を提出したため、3月9日解散され本日選挙がおこなわれた。選挙の結果は両派2人ずつが当選した。市役所(横地派)児島璋心、横地正果、非役所派(山森派)河瀬貫一郎、水登勇太郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 6月11日 | 政治・経済 | 金石、金沢間の馬車鉄道が内務大臣から許可された。(代表宮野直道、資本金3万円) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 7月2日 | 政治・経済 | 国立銀行処分法により富山第十二国立銀行は株式会社十二銀行に改組、金沢支店も改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 7月19日 | 政治・経済 | 新たに市吏員17人を採用した。従来市参事会員の更迭ごとに付随して吏員の任免もおこなわれ吏員はみな不安感を抱いていたので、この弊を一掃するため市長が特に採用したもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 7月25日 | 政治・経済 | (七尾港の開港式が七尾米穀取引所で挙行された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 8月1日 | 政治・経済 | 工事中の北陸線の天田峠トンネル(倶利伽羅トンネル)が貫通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 8月2日 | 政治・経済 | 避病院用地購入不正事件再調査のため市会に委員を設けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 8月16日 | 政治・経済 | 避病院用地購入不正事件に関し失格した2市議が復権の行政控訴を起して市会に出席し、同事件再調査の議事に加わろうとするなど紛糾したので、ついに市会の解散を命ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 8月29日 | 政治・経済 | 実業会の幹部25人は古今亭に集り市政刷新要望の立場から市会議員選挙に対する相談会をひらいた。(これは実業会が市政に関与するはじまり) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 9月14日 | 政治・経済 | 石川県農工銀行設立委員21人が決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 9月21日 | 政治・経済 | (汽車が福井から小松まで開通した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 10月2日 | 政治・経済 | 市は高岡町に女子高等小学校新築用地を購入したが、これに関して不正があると憲兵屯所に告発があり、議長横地正果、学務委員田井載、市書記野崎一兵、同芳野貞成、助役高島伸二郎が逮捕された。(高島助役は8日停職となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 11月13日 | 政治・経済 | 市会議員選挙は3級が5日、2級が10日、1級が13日におこなわれた。選挙の結果、市政刷新を旗じるしにした実業会派は定数の4分の3を占める当選者を得た。この選挙の結果は例によって訴願が続出した。なお市会解散の前後から、従来とは反対に横地一派は非市役所派となり、山森隆の一派は長谷川市長を助けて市役所派となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 11月14日 | 政治・経済 | 市営水力発電事業権は金沢電気株式会社(森下八左衛門らが発起人)に譲渡された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 11月17日 | 政治・経済 | 金沢駅建設工事のため、毎日土工の就業者は男女老若2,000人以上に達しているという。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 11月20日 | 政治・経済 | 五二石川運輸株式会社が設立された。(代表阿部太右衛門、資本金5万円) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 11月25日 | 政治・経済 | 金沢、金石間馬車鉄道の設立登記が終った。レール、まくら木などの資材はすでに金石に陸揚げを終り12月中に工事完成の予定という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 12月3日 | 政治・経済 | 市長長谷川準也は庭内の石や灯籠の二重売却で訴えられ、公判に付されて市長の地位を失った。のち免訴となったが、市長在職中2万余円の借財ができ、退任に際し広坂上の邸宅を処分して返済に当てた。(在職4年6ヵ月) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 12月11日 | 政治・経済 | 市選出の県会議員河瀬貫一郎が辞職したため、補欠選挙をおこない宮野直道を選出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 12月11日 | 政治・経済 | 高田九八郎参事会員が市長の職務を代行するや、いわゆる市山派(市役所派山森派)に属する市吏員が続々辞表を提出した。高田は市政革新と称して市書記11人雇46人を解職し自派の者で補い、書記4人と雇62人を増俸した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 12月23日 | 政治・経済 | 市会は後任市長候補者として奥村栄滋、磯村惟亮、前田直行の順位に3人を選挙した。なお助役に大森孝次郎を選出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 12月27日 | 政治・経済 | 金沢電気株式会社の創立が認可された。資本金25万円、代表中川長吉。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 12月28日 | 政治・経済 | 犀川の新橋は野村兵営の設置以来、交通が激しくなったため改良を加え、名を桜橋と改めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 月日未詳 | 政治・経済 | 経済界は次第に不況となり才明、平野、桜谷の3銀行は生糸羽二重惨落の打撃で支払いを停止した。また第十二国立銀行、明治商業の各支店も相当の痛手を受けた。加州銀行も直接関係は少なかったが、前記3行との取引関係上、打撃の分担をせざるを得なかった。折悪しく村頭取が病で辞職し、今村勇次郎が後任となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 1月3日 | 社会・文化 | 香林坊福助座で本日から今枝一座の壮士芝居が興行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 1月4日 | 社会・文化 | 加能汽船会社所有船の源丸が敦賀港内で失火、沈没した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 1月6日 | 社会・文化 | 近来絹の縫製やハンカチーフ製造業が閑散になったので、女工の中で街頭に出て醜業をするものもあるとの新聞報道がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 1月9日 | 社会・文化 | 水産界の先覚者関沢明清死去。55歳。旧藩士関沢安左衛門の次男、水産局長、水産講習所長を歴任、大日本水産会を創立し、また27年わが国で初めて抹香鯨を捕獲した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 2月19日 | 社会・文化 | 英照皇太后崩御の翌日(1月11日)工業学校の校長以下職員が兼六園内料亭で新年宴会をひらき、酔歌乱舞して警官の注意をうけてもやめなかったことが市民の非難を受けた。このため校長梅田五月は懲戒免、列席職員は譴責の処分をうけた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 2月25日 | 社会・文化 | 前田家編輯課主任野口之布がやめ世良太一が後任となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 2月28日 | 社会・文化 | 日置謙(紫電)著「前田世系」が雲根堂から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 2月 | 社会・文化 | 近藤乙吉(泥牛庵鬚男、金沢出身、第二高等学校図書係)が仙台で佐々醒雪、佐藤紅緑、島崎藤村らをあつめて子規調俳句を鼓吹した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 3月13日 | 社会・文化 | 岩越鉄道社長本多衞政養死去。54歳。本多政和の6男、本多主水の養子となり、内記と改め禄3,000石を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 3月27日 | 社会・文化 | 第二高等学校教授理学士市村塘が第四高等学校教授に来任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 4月1日 | 社会・文化 | 京都在住の加越能出身者が加越能協会を創立した。(事務所は卜部敬太郎方) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 4月5日 | 社会・文化 | 東京府参事官に清水澄、外務省参事官に倉知鉄吉が就任した。(両人とも金沢出身、大学卒業後内務省に入った) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 4月18日 | 社会・文化 | 第四高等学校が創立10周年記念式典を挙げ、校長代理木村孝蔵が高等中学校創立当時の事情を述べた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 4月27日 | 社会・文化 | 野田山陸軍墓地で日清役戦病死者合葬建碑式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 5月8日 | 社会・文化 | 北声会の第2回俳句会が開かれた。世話人は竹村秋竹(塩川町35番地)。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 5月25日 | 社会・文化 | 午後1時20分ごろ材木町3丁目から出火、21戸全焼した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 5月27日 | 社会・文化 | 新派俳人河東碧梧桐が来遊した。(北声会は6月5日その送別句会を金城楼で開き参加者30人余) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 6月5日 | 社会・文化 | 活動写真が福助座で初めて興行された。楽隊8人も東京から参加し評判になった。(稲畑勝太郎がフランスで買入れてきたエミール兄弟のシネマトグラフのフィルム「騎兵の行進」「佛国三美人の舞踊」「佛市街の景況」「海水浴の有様」と映写機をもって横田永之助が巡回興行したものと考えられる) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 6月7日 | 社会・文化 | 「最初の活動写真の興行状況を見るに、男8分女2分の割合にて昼中に突然闇黒の処に入るため種々珍劇が演ぜられたと聞く。観覧料は上等30銭、中等20銭、下等10銭という。これを高いという者あり、またフランス実写もの真に迫りて、面白いとて拍手喝采である。」(新聞報道) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 6月7日 | 社会・文化 | 画家中浜龍淵死去。山本梅逸の門下であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 6月16日 | 社会・文化 | 並木町に稲荷座が建ち舞台開きがおこなわれた。同座の創立発起人は松岡利平ら4人、運営は吉崎伊助ら4人が当った。戎茶屋と大黒茶屋があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 7月1日 | 社会・文化 | 師団の設置や鉄道敷設、犀川、浅野川両鉄橋の架設工事などで労働力が不足し、賃金は男1日1円、女67銭にもなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 7月1日 | 社会・文化 | 金沢市内には荷車が1,800余台あり、全部に検印をつけることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 7月15日 | 社会・文化 | 相場報道を主とする新聞「北陸商報」が発刊された。主筆は田村隆吉、事業所は十間町1番地。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 7月25日 | 社会・文化 | 大樋町端の柳茶屋が蓮飯の調理をはじめ大いに宣伝した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 9月13日 | 社会・文化 | 文学士藤岡作太郎(金沢早道町生れ)が第三高等学校教授に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 9月24日 | 社会・文化 | 県立工業学校長に久田督、また教諭に久保田米僊が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 9月 | 社会・文化 | 陶芸家原呉山(紺屋与三兵衛)死去。71歳。十間町居住。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 11月24日 | 社会・文化 | 市内の湯屋業者が湯賃を1銭2厘に値上げを決議した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 11月 | 社会・文化 | 北方心泉が東本願寺の布教監督として留学生をつれ2回目の渡清、南京を中心に詩人、書家と親交した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 12月25日 | 社会・文化 | 新道町の石川県尋常中学校(校舎は大谷派から借用中の仮校舎)は本多町の新校舎が出来たので移転した。新道町の校舎は加賀中学寮(大谷派経営)に引渡した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十年(1897) | 月日未詳 | 社会・文化 | "金沢で本年中(月日不詳)に刊行されたおもな書物。
銭屋五兵衛(国府種徳著)精神論(佐々木秀三郎著)倫理学史(山本良吉著)扶桑南書正統雲煙逸話(蕪城秋雪著)金沢明覧(和田文次郎著)他に大桑勇吉が化学教科書を3冊刊行。" | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 1月12日 | 政治・経済 | 小立野で監獄署建設工事が開始された(囚徒を使用)。外べいに200万個のれんがが必要という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 1月12日 | 政治・経済 | 新設師団建築の請負いは名古屋人に落札、金沢人はわずかに部分的な下請負いをするだけとなった。入札価格に相当の開きがあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 1月21日 | 政治・経済 | 奥村栄滋(45歳)が市長に就任した。奥村は旧家老奥村家の14代当主、廃藩後尾山神社祠官となり市長在職中の33年男爵になった。(大正12年死去) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 2月2日 | 政治・経済 | 小川長竪(市議)が助役に選挙された。(さる12月選出した大森孝次郎は本人が就任を不承諾) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 2月6日 | 政治・経済 | (紀元節、天長節には陸軍礼式により101発の礼砲を発射することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 2月15日 | 政治・経済 | 市会の横地高田派は山森派と共同して、さきに解職した市会派の吏員7人を市書記に、30人を雇に採用し、中立の書記9人と雇若干を解職した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 2月16日 | 政治・経済 | 県会は古沢知事の不信任を決議しまた解散された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 2月22日 | 政治・経済 | 金沢警察署新町分署が設置された。(元東警察署) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 3月1日 | 政治・経済 | 公園の勧業博物館は今後物産を陳列して販売もすることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 3月15日 | 政治・経済 | さきの衆議院解散による総選挙がおこなわれ第1区は(当選)松田吉三郎、赤土亮、(落選)田中喜太郎、織田助太郎となった。実業会員中に赤土を応援したものが多かった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 3月 | 政治・経済 | 上鷹匠町から上本多町に至る新坂が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月1日 | 政治・経済 | 市会で県議選挙がおこなわれた。多数派の実業会派が敗れた。当選者=山森隆、高田九八郎、児島璋心、能久治(実業会)、落選者=木倉谷長与門、三清武規、沓木政勝、餝谷与右衛門。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月1日 | 政治・経済 | 金石、金沢間の馬車鉄道が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月1日 | 政治・経済 | 小松、金沢間の汽車が開通した。暴風雨で開通祝賀の催し物がみな中止になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月4日 | 政治・経済 | 石川県農工銀行の創立総会が勧業博物館で開かれた。頭取本多政以、資本金50万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月15日 | 政治・経済 | 合資組織才明銀行は資本金15万円の株式組織に変更許可があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月20日 | 政治・経済 | 衛戌監獄と憲兵分隊建築のため鼠田堀を埋立て中であったがほぼ完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月21日 | 政治・経済 | また市吏員の解職がおこなわれた。市会が予算の議決にあたりその吏員数を限定したため、市参事会派は市書記4人と雇26人を解職し、自派に属する吏員110人の給与を増し自派勢力の扶植をはかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月24日 | 政治・経済 | (七尾、津幡間および貸物線七尾、矢田新間の汽車が開通した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 5月3日 | 政治・経済 | 市吏員の派出所4ヵ所を旧連区ごとに1ヵ所計7ヵ所とすることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 5月12日 | 政治・経済 | 石川郡下金石町は県告示をもって、旧称の大野町に変更された。下金石町小学校も大野町小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 5月14日 | 政治・経済 | 犀川大橋架替え工事の入札をおこなった。入札者31人、9,690円で富山県人吉田茂勝に落札した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 5月24日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊が威海衞守備から敦賀に帰還した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 6月18日 | 政治・経済 | 5月ごろから米価が騰貴したので(白米1升19銭)金沢市は外米販売を開始した。(1升12銭) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 7月1日 | 政治・経済 | 尻垂坂通の金沢連隊区司令部が金沢城甚右衛門坂上に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 7月4日 | 政治・経済 | 松平大弐が従4位を追贈された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 7月7日 | 政治・経済 | 知事古沢滋が依願免官となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 7月15日 | 政治・経済 | 南町旧水溜跡に勧工場の建設が始められた。(代表野村喜一郎、資本金5,000円) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 7月16日 | 政治・経済 | 元衆議院議員志波三九郎(肥前天草出身)が石川県知事に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 7月25日 | 政治・経済 | 憲政党石川支部が並木町稲荷座で発会式を挙げた。幹部は(金沢)山森隆、高田九八郎、(河北)本岡三千治、(羽咋)葛城忠寸計、(鹿島)神野良ら。参会者700余人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 8月1日 | 政治・経済 | 野田寺町郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 8月2日 | 政治・経済 | 用地疑獄事件を起した避病院が泉野に完成開通した。桃畠の避病院と称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 8月10日 | 政治・経済 | 旧盈進社員が八坂雲龍寺で集会し憲政党加盟を決めた。出席者108人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 8月10日 | 政治・経済 | 衆議院議員選挙がおこなわれ、第1区からは田中喜太郎、赤土亮が当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 9月 | 政治・経済 | 大衆免本岡三千治が政府から石川県に諮問のあった耕地整理の建議書をつくった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 10月22日 | 政治・経済 | 市参事会は山森、横地の二派に分裂し、選挙準備として山森派吏員39人を解散、横地派31人を代って採用した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 11月1日 | 政治・経済 | 金沢、高岡間に汽車が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 11月16日 | 政治・経済 | 南町と片町に勧工場ができた。また準備中の尾張町勝木進歩堂発起の商品陳列館も近く開業の予定。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 11月22日 | 政治・経済 | 金沢電気株式会社の創立総会が成立した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 11月 | 政治・経済 | 大和田銀行金沢支店(福井銀行の前身)が前田正名の尽力で十間町に開店した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 12月10日 | 政治・経済 | 市会議員3級選挙が4日、2級が7日、1級が10日におこなわれた。当選議員派別は実業会10人、旧市山派7人、旧非市役所派4人、医師団体派4人、中立派11人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 1月18日 | 社会・文化 | 宇都宮源平書店の石浦町支店は片町益智館跡を買収し移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 1月 | 社会・文化 | 加賀藩勤王紀事(桐生政治著)倫理学要義(山本良吉著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 2月5日 | 社会・文化 | 北条時敬が第四高等学校長に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 2月20日 | 社会・文化 | 和田文次郎著「金沢誌」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 2月20日 | 社会・文化 | 俳人松尾亀悦死去。52歳。尾張町の茶商松尾の家に住み翠台と称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 2月 | 社会・文化 | 兼六園明治紀念碑前の料亭米永亭が取払いになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 3月22日 | 社会・文化 | 野口之布死去。69歳。幕末加賀藩で勤王を唱え、一時獄に下ったが後前田家職員となった。加賀藩勤王始末、犀陽遺文の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月13日 | 社会・文化 | 「加能宝鑑」2冊が名古屋光彰館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月13日 | 社会・文化 | (午後9時すぎ門前総持寺が出火、焼失した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月14日 | 社会・文化 | 市有卯辰山墓地内の残存墓を末広町19番地へ移転することに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 4月 | 社会・文化 | 石川県尋常師範学校が再び石川県師範学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 5月4日 | 社会・文化 | 高岡町高等小学校内に金沢市高等女学校が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 5月13日 | 社会・文化 | 兼六園三芳庵前一帯の醜い家屋が借地期限満了を機に取払われた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 5月14日 | 社会・文化 | 蛤坂宝勝寺で新井白蛾の百年忌があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 5月15日 | 社会・文化 | 上金石町免許地に新築中の劇場東座が開場した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 6月18日 | 社会・文化 | 県は小立野に第二尋常中学校用地6,000坪余を1万2,000円で買収した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 6月25日 | 社会・文化 | 近田米著「金沢市郷土地理史談」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 7月8日 | 社会・文化 | 旧加賀藩士有沢家伝来の書籍は尾山神社に保存されていたが、こんど有沢貞吉の希望で全部前田家へ寄贈された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 7月17日 | 社会・文化 | 金沢米商界の有力者泉町の奥原伊兵衛(通称たばこや)が倒産した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 7月20日 | 社会・文化 | 内務事務官清水澄が学習院教授に任ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 8月7日 | 社会・文化 | 名物柳橋団子の金沢停車場内販売が許可になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 8月23日 | 社会・文化 | 藤井紫影(乙男)が第四高等学校教授として来任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 8月30日 | 社会・文化 | 加越能郷友会雑誌10周年号が発行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 9月10日 | 社会・文化 | 県が県内の方言調査をおこなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 9月20日 | 社会・文化 | 北國新聞社主赤羽万次郎死去。38歳。長野県人、明治21年来沢して北陸新報で活躍し、のち北国新聞を創設した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 9月27日 | 社会・文化 | 石川県尋常中学校を石川県第一尋常中学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 10月6日 | 社会・文化 | 公園内成巽閣で新古美術展覧会が開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 10月23日 | 社会・文化 | 卯辰山忠魂堂が落成し、遷霊式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 11月27日 | 社会・文化 | 9月10日長浜駅の鉄道事故で死去した2人の殉職碑が尾山神社に建った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 11月27日 | 社会・文化 | 金沢文学会の発会式が金谷館で開かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 11月30日 | 社会・文化 | 石川県工業学校の久保田米僊が辞任、山田敬中が後任に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 12月2日 | 社会・文化 | 日本武徳会石川県支部が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 12月15日 | 社会・文化 | 金沢の医家、嵯峨寿安広島で死去。59歳。明治3年金沢藩からロシアに留学し、日本人で最初にシベリアを横断した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十一年(1898) | 12月22日 | 社会・文化 | 米山道生が東京で人力車から転落負傷し破傷風で死去。56歳。旧藩士、第2次県会の議長、金沢商法会議所会頭、第十二国立銀行頭取等を勤めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 1月9日 | 政治・経済 | 第9師団最初の観兵式が小立野の練兵場で挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 1月28日 | 政治・経済 | 市会は内務大臣に対し、家屋税法案は市街地に酷であるから廃案にされたいとの意見書を出した。また都市の衆議院議員の選挙区は独立区にすべきであるとの意見書も同時に出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 1月 | 政治・経済 | 加州銀行は今村勇次郎が頭取に就任、渡瀬政礼が筆頭取締役となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 2月 | 政治・経済 | 森下町に吉田銀行が創立された。代表吉田次太郎(才田村出身)資本金1万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 3月3日 | 政治・経済 | 出羽町本多邸跡に兵器支廠設置のため整地工事が開始された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 3月15日 | 政治・経済 | 塩屋方圀が陸軍中将に昇進した。県人の中将は初めてである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 3月20日 | 政治・経済 | 北陸線富山、高岡間に汽車が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 3月 | 政治・経済 | 府県制が改正された。県会議員の選挙は従来の市会、郡会による複選を廃して選挙人の納税資格を定め単記公選とし、また2年ごとの半数改選を4年後ごとの総選挙に改めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月1日 | 政治・経済 | 県警察部に衛生課ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月4日 | 政治・経済 | 石川郡野村法島から市内菊川町に至る橋の架設は市会で否決されたが、地元関係者で費用を負担することになり市長は再提案した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月7日 | 政治・経済 | 市会は借家者、同居者および寄留者に市税を賦課する特別税条例を議した。(しかし監督官庁の許可を得られなかった) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月14日 | 政治・経済 | 辰村米吉が昨年来、片町に建築中だった三階建の歓工場の落成式があげられた。屋号は正札屋。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月 | 政治・経済 | 金沢商業会議所会頭に水登勇太郎、副会頭に山田清二が選ばれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月 | 政治・経済 | 安江町(横安江町入口)に杉本歓商場(場主杉本為次郎)が開店した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 5月6日 | 政治・経済 | 高岡町旧興産社(木綿織のち羽二重織場)の建物を小島、宮崎(以上金沢)荒木(大聖寺)らが買受け合資組織で製織を始めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 5月6日 | 政治・経済 | 金沢駅の陸橋の架設工事がはじまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 5月22日 | 政治・経済 | 日本銀行総裁山本達雄が来沢、日銀金沢支店設置につき関係者と協議した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 6月24日 | 政治・経済 | 星亨が北陸遊説のため金沢に来た。奥村栄滋、小川長堅、持地六三郎らが星を迎えて憲政党の党勢拡張を議した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 6月15日 | 政治・経済 | 市参事会員の半数改選がおこなわれ実業会、医師団体、旧非市役所派の各1人が当選した。(久保田全、才紀甚太郎、高田九八郎) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月27日 | 政治・経済 | 金沢三品取引所が県庁から営業停止を命ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月30日 | 政治・経済 | 市は伝染病予防委員会を組織した。(腸チフスが流行し県令で予防委員の設置が命ぜられた) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月 | 政治・経済 | (七尾港が開港場になった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 8月1日 | 政治・経済 | 栄町、松ヶ枝町の免許地(北廊)の免許失効期限が来たので、県は石坂新町石坂川岸の9,970坪の地を指定し移転させることにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 8月 | 政治・経済 | 犀川上菊橋が地元寄付で架設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 9月1日 | 政治・経済 | 石川県実業団体主催の重要物産共進会が勧業博物館で15日まで開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 9月3日 | 政治・経済 | 浅野川堀川間ノ町から中島町に至る中島橋(第2次)が架替えられ渡橋式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 9月24日 | 政治・経済 | 府県制の改正で単記公選となった県会議員選挙がおこなわれた。金沢市の有権者数は2,463人で当選者は高田九八郎、山森隆、山原成太郎。(次点)横地正果。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 10月18日 | 政治・経済 | 伊藤博文が政情視察のため来沢、実業界その他の有志が成巽閣で歓迎会をひらいた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 10月 | 政治・経済 | 博労町の金沢郵便局舎が改築された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 11月10日 | 政治・経済 | 市制および衆議院議員選挙法の改正促進のため東京に全国市長連合会が結成され、市から市長、久保田参事会員、市会から渡瀬、山成、石沢各議員が出席した。(同法は35年に至って改正され、全国市長会は以来毎年各地持回りで開催されるようになった) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 11月25日 | 政治・経済 | 汽車開通で、加能汽船会社は新船を売却してから解散することに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 12月12日 | 政治・経済 | 市は野田山墓地のうち、前田家累世の墳墓地を含む1万4,038坪を前田家に贈与した。さきに師団創設に際し前田家が市に代って三小牛演習場を購入、陸軍に寄付したのに報いたもので、前田家はこれに対し33年2,000円を市に寄付した。野田山は版籍奉還後官有となり明治17年金沢市の所有に移ったものである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 月日未詳 | 政治・経済 | 白銀町から停車場に通ずる道路が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 1月9日 | 社会・文化 | この日から正午に金沢城本丸で号砲(ドン)を発射した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 1月14日 | 社会・文化 | 志波知事が各県立学校に対し生徒の喫煙禁止を訓令した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 1月15日 | 社会・文化 | 卯辰山天神坂にある越中国泰寺の前住雪門禅師の居、洗心庵でこの日から1週間臘八接心の座禅修行が行われた。(西田幾多郎はこの年から11年余ここに参禅、34年3月禅師から寸心居士の号を受けている。洗心庵跡には現在標柱がある) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 2月18日 | 社会・文化 | 日本におけるマッチ製造の元祖新燧社社長清水誠(石川県士族)大阪で死去。54歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 3月6日 | 社会・文化 | 元県会議長、教育家加藤恒死去。57歳。明倫堂訓導から県の学務課長、県議、能美郡長、金沢区長、前田家家令等を歴任した。北藩事実文録はじめ著書数十巻がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 3月9日 | 社会・文化 | 石川県工業学校は中本多町に建設が確定した。(敷地6,800坪) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 3月27日 | 社会・文化 | 金沢市高等女学校と高岡町高等小学校の開校式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月1日 | 社会・文化 | 公園保勝委員会を開き、貸与地の更新期に際しての請願および樹木の増殖を検討した。その結果山崎山附近のへい囲いを撤去し、樹木の増殖は山田敬中の案による事に決めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月1日 | 社会・文化 | 大谷派本願寺が免囚保護のため、川上新町徳善寺内に金沢慈恵保護場をつくった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月11日 | 社会・文化 | 午前4時30分ごろ住吉市場から出火、安江町、下堤町一帯を焼失した。全焼118戸、半焼16戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月12日 | 社会・文化 | 西町公会堂の報時鐘は公会堂改築のため本月1日から時報を停止中であったが本日から再開した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月20日 | 社会・文化 | 桐生政治(悠々)著「銭屋五兵衛」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月27日 | 社会・文化 | この日から5月3日まで、前田利家300年祭が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月29日 | 社会・文化 | 県人の村井兄弟商会は煙草「ヒーロー」の大広告を卯辰山山上に建てた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月 | 社会・文化 | 石川県第一尋常中学校を石川県第一中学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月 | 社会・文化 | 石川県第二中学校が創設された。勧業博物館の一部を仮校舎にしたが、9月小立野の新築校舎に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 4月 | 社会・文化 | 和田文次郎著「前田利家公」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 5月13日 | 社会・文化 | (午後能登福浦で大火、全焼144戸。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 5月20日 | 社会・文化 | 卯辰招魂社の墓碑の朽廃したものを前田家が修築した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 5月21日 | 社会・文化 | 軍艦金剛が午後4時金石に入港した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 5月26日 | 社会・文化 | 小倉正恒(金沢出身)が官職を辞し住友別子鉱山に入社した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 6月3日 | 社会・文化 | 三間正弘東京で死去。もと石川県知事、60余歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 6月 | 社会・文化 | 北方心泉が南京に金陵東文学堂を開設した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月1日 | 社会・文化 | 北声会が午後1時から公園環翠亭で、会員四高生佐々木笹舟(惣一)志賀文猗の送別句会を催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月5日 | 社会・文化 | 市が野田山共同墓地の松樹を、小学校用材として伐採を申請したのに対し、県は4,5百本に限り許可した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月15日 | 社会・文化 | 俳諧宗匠塚田一景死去。75歳。石坂角場に住み、のち表具師となり立机して幾暁庵と称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月17日 | 社会・文化 | 市役所および商業会議所等の主催で官民合同条約改正祝賀会が金谷館で催された。出席300人余。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月21日 | 社会・文化 | 北国新聞第2代社長林政文、帆船布引丸でフィリピンに渡航の途中、遭難死去。37歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月23日 | 社会・文化 | 西田幾多郎が山口高等学校教授から第四高等学校教授に任ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 7月 | 社会・文化 | 捕鯨家、故関沢明清のために房州館山の法華堂に記念碑が建った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 9月8日 | 社会・文化 | 浅野川、犀川が出水した。浅野川大橋は無事、天神橋は半壊、他は全部流失した。犀川桜橋は橋脚3本流失、西御影町一文橋も流失した。北陸線は不通となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 10月1日 | 社会・文化 | 理学士木村栄は各国天文台を視察中だったがこんど岩手県水沢臨時緯度観測所の所長に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 10月8日 | 社会・文化 | 金沢商業会議所初代会頭亀田伊右衛門死去。47歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 11月3日 | 社会・文化 | 尻垂坂の料亭玉泉楼(旧藩士脇田家跡)が菊人形をつくり好評を博した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 11月25日 | 社会・文化 | 西町金谷館は岩村知事時代に官民の寄付で建築、会員組織で維持されているが、財団組織に変更して拡張しようとの意見が出ている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 月日未詳 | 社会・文化 | 私立英学校が廃校した。明治16年米人ウインが創設したものである。なお併設の女学校は存続した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 月日未詳 | 社会・文化 | 陶工6代大樋勘兵衛の弟道忠死去。大樋の正系が断絶した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 月日未詳 | 社会・文化 | 書家2代橘観斎死去。73歳。旧藩時代観斎の寺子屋は門生非常に多く、金沢の寺小屋中一方の雄であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十二年(1899) | 月日未詳 | 社会・文化 | "本年中に刊行された市関係者のおもな書物。
加賀藩史稿(永山近彰著) 金沢誌(和田文次郎著) 梅能嘉遠理(高橋富兄著)" | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月9日 | 政治・経済 | 市は市内の道路ミゾなど街区の改良整備について調査するため市区改正調査委員を任命した。委員は市議から5、市参事会から3、市民から4、計12人で任期は1年。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月20日 | 政治・経済 | 名古屋の明治銀行金沢支店が下堤町で開店した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月 | 政治・経済 | 石坂に移転の北廓に通ずる従来の道路は不便のため、関係者は私費で北石坂新町から石坂川岸方向に直線の道路を設けた。ところが県は新道路ができても旧道路を廃止して宅地にすることを認めず、以後市会を通じて数回交渉のすえ、この年10月29日に至り県は旧道路と新道(816坪)との取替えをようやく認可した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 2月16日 | 政治・経済 | 金沢駅で一般公衆電報の取扱いを開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 3月9日 | 政治・経済 | 犀川下新橋が落成、新橋と命名し渡橋式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 3月25日 | 政治・経済 | 高岡共立銀行の支店が上堤町に開店した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 4月1日 | 政治・経済 | 市の吏員数を次の通り定めた。俸給も増額改正した。書記45人、書記補20人、雇員20人、使丁14人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 4月25日 | 政治・経済 | 絹糸織物組合が不況のため羽二重製造を休止した。製品の滞荷がはなはだしく金融ひっ迫して、金利日歩4銭7厘という状況だった。(10月に至り幾分回復に向った) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 5月10日 | 政治・経済 | 市会は皇太子の成婚に賀詞を奉呈し、水野源六作の象眼鴛鴦雙楼の置物を献上した。また市は被救恤者に酒肴料をおくってよろこびをわかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 5月25日 | 政治・経済 | 皇太子成婚にあたり華族に列せられた者は全国で59人、うち金沢関係者は次の10人である。(いずれも男爵)本多政以、長克連、横山隆平、奥村栄滋、村井長八郎、前田孝、今枝直規、奥村則英、前田直行、斯波(旧津田)蕃。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 6月25日 | 政治・経済 | 金沢電気株式会社が発送電を開始した。市内で電灯が2,200が点灯した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 6月 | 政治・経済 | 下堤町から安江町を経て白銀町に至る道路が改修された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 6月 | 政治・経済 | 新竪町から下本多町5番丁に至る道路が改修された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 7月1日 | 政治・経済 | 従来市内のゴミは警察署の指示区域に各戸が投棄することになっていたが、3月公布の汚物掃除法に従い市が処理することになり茶畠、下本多町、備中町、長町に汚物処理場ができた。ゴミの搬出は清潔舎と北陸農産肥料会社に年額2万6,000円で請負わせた(5年間契約)。監督吏員を別に任命した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 8月2日 | 政治・経済 | 津幡口(現在の本津幡駅)、津幡間に汽車が開通した。(七尾線全通) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 8月 | 政治・経済 | 高多久兵衛(安原村)が農商務省から千葉県の耕地整理の設計調査を嘱託された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 8月 | 政治・経済 | 浅野川昌永橋が架けられた。(以前は仮橋) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 9月5日 | 政治・経済 | 本多政以が実業会員と共に立憲政友会に入党して総務委員となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 9月16日 | 政治・経済 | 市会は再び特別税法(借家、同居、寄留者より市税を徴収するもの)を議決した。さきに監督官庁から金沢市の家屋税賦課はまだ限度に達していないとして却下されており、これが2回目の議決である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 10月3日 | 政治・経済 | 憲政党石川支部が解散した。県下でも伊藤博文の政友会に入党者が続出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 10月31日 | 政治・経済 | 知事志波三九郎が静岡県知事に転じ、宮城県知事野村政明が後任となった。志波は憲政党内閣のとき就任、県下の憲政党と結んだと非難するものがあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 10月 | 政治・経済 | 市内から搬出するゴミが大量になり処理不能になったので、市はかまをつくり焼却することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 11月7日 | 政治・経済 | 金沢三品取引所が解散を命ぜられた。本取引所は31年の創立、営業成績は常に良くなく、さきに石炭売買の紛議から信用棄損で営業停止を命ぜられていた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 11月11日 | 政治・経済 | 立憲政友会石川県支部が結成され金谷館で発会式がおこなわれた。創立委員には市長奥村栄滋、弁護士会長西永公平、実業家中屋彦十郎、山森隆、県会議長高田九八郎、商業会議所会頭水登勇太郎らが名をつらね、幹事には(金沢市)高田九八郎、西永公平、(河北郡)本岡三千治(石川郡)松田吉三郎が就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 12月19日 | 政治・経済 | 金沢市でも蒸気ポンプ備えつけの意見が強くなり、関係者に先進各地を視察させることにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 12月 | 政治・経済 | (年賀郵便の特別取扱いが開始された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 月日未詳 | 政治・経済 | 金沢郵便局で貯金事務を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月4日 | 社会・文化 | 勧業博物館内図書室を開放し、自由に閲覧を許すことにした。蔵書中に旧藩明倫堂蔵本を引継いだものも含まれている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月8日 | 社会・文化 | 在京の狂言師中村藤造(金沢出身)死去。74もしくは70歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月9日 | 社会・文化 | 金沢病院は31年度から内科を2部制としたが、木村孝蔵学士の帰朝により外科も2部制とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月9日 | 社会・文化 | 老朽した田丸町小学校の校舎を売却して芳斎町に再建することが市参事会で決定した。予算1万5,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月15日 | 社会・文化 | 昨年の藩祖300年祭に前田家から寄贈された「加賀藩史稿」には誤りがあると非難するものが多く、今月の史学雑誌もこれを指摘した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月20日 | 社会・文化 | 実業家谷与三右衛門死去。40歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月23日 | 社会・文化 | 医家田中信吾死去。64歳。緒方洪庵に学び金沢藩医学教師、明治に入って金沢医学館と金沢病院の維持経営に苦心したが、17年金沢病院長兼金沢医学校長を辞して本県最初の私立病院尾山病院を建てた。金沢医会の会長に推され、公共事業にも尽した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 1月 | 社会・文化 | 金沢市出身高橋順太郎医学博士が無臭肝油を創製、販売した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 2月7日 | 社会・文化 | 侯爵前田利嗣が前田利定の弟利照(のち利為)を養嗣子とするに内定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 2月 | 社会・文化 | 金沢慈恵保護場は備中町に432坪を買収して新築移転し、加能慈恵保護場と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 3月10日 | 社会・文化 | 来年度から金沢市内小学校の授業料引上げ方を県に申請中のところ、尋常科20銭、高等科35銭とし、市外居住者は15銭増すことに知事の許可があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 3月24日 | 社会・文化 | 私立金沢女学校は北陸女学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 3月 | 社会・文化 | 高等科金沢小学校分教場を廃し、生徒を2分し小将町高等小学校を創設した。高等科金沢小学校は長町高等小学校と改称した。(12月27日小将町高等小学校校舎一部落成し独立) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 6月7日 | 社会・文化 | 市が創設した金沢商業学校が兼六園内石川県勧業博物館の一部を仮校舎として開校した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 6月12日 | 社会・文化 | 俳人松本証専死去。44歳。森下町でゴザ商を営み、早苗庵第2世と称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 6月14日 | 社会・文化 | 侯爵前田利嗣(淳正公)死去。43歳。14代藩主慶寧の子で明治以後2回外遊、主猟官をつとめ貴族院議員であった。歌集数冊がある。なお金沢市会は横地正果を代表として上京葬儀に参列させた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 7月20日 | 社会・文化 | 日本勧業銀行副総裁片山遠平(金沢市出身)死去。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 8月1日 | 社会・文化 | 国府犀東の「龍吹鶴語」が博物館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 8月21日 | 社会・文化 | 医家高峰精一死去。71歳。譲吉の父、梅本町で開業。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 9月12日 | 社会・文化 | 瓢箪町尋常小学校の新築が完成し落成式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 9月15日 | 社会・文化 | 第三高等学校教授藤岡作太郎が東京帝国大学助教授に転任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 9月20日 | 社会・文化 | 東京吉原娼妓の自由廃業が刺激となって金沢市内にも2,3件自廃が出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 12月2日 | 社会・文化 | 建築中だった広坂通の佐野能舞台が完成し、舞台開きがおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 12月16日 | 社会・文化 | 富田景周著「三州志」の予約出版を宇都宮書店が発表した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 12月16日 | 社会・文化 | 午前1時上伝馬町から出火、全焼60戸、半焼5戸を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 12月23日 | 社会・文化 | 新築中の小将町高等学校が近日完工につき、学校移転をはじめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 12月31日 | 社会・文化 | 加賀万歳の乙松岩太夫死去。63歳。同人は元町奉行三浦八郎左衛門の家来高崎兵蔵の後身である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 12月 | 社会・文化 | 市内の要所21ヵ所に公共便所が設けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 月日未詳 | 社会・文化 | 北形与助ら95人発起の「天保義民之碑」が木ノ新保5番丁に完工した。(のち西念に移した) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十三年(1900) | 月日未詳 | 社会・文化 | "本年中に刊行された市関係者のおもな書物。
支那文明誌(国府種徳著) しなさだめ(金森熊太郎著) 実践倫理要義(山本良吉著) 化学辞彙(桜井錠二著) 新撰算術(梅沢儀三郎編) 農業入門(岡田九之吉著)" | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 1月3日 | 政治・経済 | 金沢火災保険株式会社が解散を決議した。(高岡市の大火以来社業が衰えた) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 1月10日 | 政治・経済 | 午後1時から金谷館で、立憲政友会石川支部金沢倶楽部の発表式が挙行された。出席者200人余。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 1月14日 | 政治・経済 | 金沢伝染病院を茶畠1の小路34番地に新築することになり着工した。桃畠避病院は土地が苗圃に適するので農林省に譲った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 1月27日 | 政治・経済 | 4月開校する石川県高等女学校の敷地として穴水町2番丁から3番丁の間の買収が終った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 2月1日 | 政治・経済 | 従来金沢税務管理局内にあった金沢税務署が尻垂坂3丁目14番地(石川県大林区署跡)に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 3月14日 | 政治・経済 | 笠市町から金沢駅に至る新道路の開通式がおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 3月24日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所議員の半数改選がおこなわれた。実業会は議員の再選を主張、水登派は新議員を選出することを主張し、結局15人中9人が再選派となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月4日 | 政治・経済 | 新小学校令では尋常小学校は授業料を徴収できないことにきめられたが、金沢市では徴収しても教育の普及に影響なく、また教育設備に巨費を要するとの理由から従来通り徴収する規定を告示した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月10日 | 政治・経済 | 杉村寛正が石川県勧業博物館長に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月10日 | 政治・経済 | 株式会社石川銀行の設立が許可された。代表南源兵衛、資本金10万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月14日 | 政治・経済 | (海軍省が珠洲群狼煙に海岸望楼を設置することになり、村民が敷地を寄付した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月1日 | 政治・経済 | 第9師団の野砲が山砲にかわり、野砲兵第9連隊でその交換式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月1日 | 政治・経済 | 大阪鴻池銀行金沢支店が香林坊に開店した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月3日 | 政治・経済 | 県令で金沢に蒸気ポンプ配置がきまり、消防手の配置変更が発表された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月22日 | 政治・経済 | 市は地租制限外賦課の許可を得た。地租に付加すべき賦率は10分の2以下と制限された。小学校令改正に伴う学校設備費が従来の歳入では不足するので、向う5年間賦課の許可を得たもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月 | 政治・経済 | 加州銀行が上堤町18番地から下堤町1番地に新築し移転、営業を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 6月10日 | 政治・経済 | 商況不振で休業していた金箔業者は、職人(市内約1,000人)からの生活窮迫の訴えに応じ16日から操業することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 6月15日 | 政治・経済 | 市参事会員の半数改選がおこなわれ、山森隆(再選)柿谷多吉郎、横地正果が当選した。市会は全部政友会だったが、この選挙で分裂して山森派は実業会と提携し、医師団体は高田派を助けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 6月28日 | 政治・経済 | 桜谷銀行が支払いを停止した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 7月8日 | 政治・経済 | 平野銀行が支払い猶予を求めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 7月21日 | 政治・経済 | 才明銀行の手形が不渡りになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 8月1日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所10周年記念式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 8月1日 | 政治・経済 | 7月ごろから市内に赤痢流行のため、市は県の指示により伝染病予防委員を任命、防疫に当ることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 8月15日 | 政治・経済 | 市は、市民の職業、身分などの証明には照明手数料をとることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 9月16日 | 政治・経済 | 片町電信受付所が開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 9月 | 政治・経済 | 赤痢大流行の折から、郡部の患者を完備した市立避病院に入院させようとするものが続出したので、市は県警察当局に受入れ拒否を交渉したが、警部長白上俊一は市の要請をはねつけた。(白上の在職中は県市間が円満を欠き、この種紛議がよく起きたという) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 10月17日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所の調査によれば、現在市内にある会社は株式会社41社、合資会社66社、資本金総額は291万5,847円である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 11月11日 | 政治・経済 | 市会議員半数退任の抽選をした。(選挙は次の通りおこなわれた。12月4日3級、7日2級、10日1級) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 12月 | 政治・経済 | 宮市合名会社(大和百貨店の前身)が片町に開業、洋雑貨洋酒類を販売した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 2月5日 | 社会・文化 | 在京狂言師野村与作死去。76歳。東京における和泉流家元格を勤めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 2月12日 | 社会・文化 | 市内電話が開通した。月末までは練習用通話を許した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 3月1日 | 社会・文化 | 市内電話が正式に開通した。加入者は183人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 3月27日 | 社会・文化 | (午後3時30分、江沼郡三谷村曾宇で大火、83戸焼失。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月1日 | 社会・文化 | 金沢市高等女学校は県立に移管、石川県高等女学校となった。(5月石川県立高等女学校となり、9月1日穴水町2番丁20番地の新校舎に移転した) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月18日 | 社会・文化 | 第四高等学校の医学部が独立して金沢医学専門学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月21日 | 社会・文化 | 新しくできた金沢能楽会が佐野舞台で第1回の演能を催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月25日 | 社会・文化 | 午前6時半、九人橋通から出火、全焼5戸、半焼2戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月25日 | 社会・文化 | 河北郡長村尾震三郎(長崎県人)が石川県農工銀行支配人になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月30日 | 社会・文化 | 南町に向かい合って設置されている旧藩時代からの2個の非常用水溜(通称二つ水溜)が埋められて一つは勧工場に変り、他の一つは宅地に変ることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月30日 | 社会・文化 | 森山町2番丁に新築中の寄席春日座が開席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 4月 | 社会・文化 | 金沢商業学校を市立金沢商業学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月2日 | 社会・文化 | 石川県第一、第二中学校をそれぞれ石川県立第一、第二中学校と改めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月5日 | 社会・文化 | 男爵長克連、歩行中発病し本多邸に至り死去。27歳。従弟の本多恭(政以の第2子)が基連と改名して襲爵。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月8日 | 社会・文化 | 在京能楽家波吉甚次郎が代々の通称宮門を襲名した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月11日 | 社会・文化 | 新築完成の小将町高等小学校が開校式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月12日 | 社会・文化 | 午後6時半、五宝町照円寺から出火、同寺を全焼した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月16日 | 社会・文化 | 歌人高畠米護死去。72歳。米積の子、田中躬之に歌道を学び、紀堂茶話の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月20日 | 社会・文化 | 村山四朗兵衛が石川郡山科でわき出ている鉱泉を発見した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月26日 | 社会・文化 | 楽斉早田三四郎が洋画研究のため渡米することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 5月 | 社会・文化 | 石川県工業学校を石川県立工業学校に、また石川県農学校を石川県立農学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 6月14日 | 社会・文化 | 大屋愷アツ死去。63歳。壮猶館翻訳方から置県後、諸職を歴任し地理歴史天文等の著作が非常に多い。また金沢における文明輸入の率先者で、初めて洋ガサやランプを使い、また衆に先んじて散髪もしたと伝えられる。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 6月24日 | 社会・文化 | 中本多町に新築中の石川県立工業学校が大半完成したので、部分的に移転を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 7月1日 | 社会・文化 | 福助座で北清事変の活動写真があり連日満員。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 7月25日 | 社会・文化 | 野口之布の遺稿「犀陽遺文」(永山近彰編)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 7月 | 社会・文化 | 第四高等学校教授高橋富兄が休職になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 8月15日 | 社会・文化 | 和田文次郎著「兼六公園案内」が宇都宮書店から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 8月16日 | 社会・文化 | 石屋小路の寄席住吉座が人形浄瑠璃で開席した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 8月24日 | 社会・文化 | 河北郡小金村の伝燈寺が新築なり遷佛式をおこなった。参拝者1,700余。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 8月24日 | 社会・文化 | 前年在米の高峰譲吉によって創製されたアドレナリンが専売特許になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 8月25日 | 社会・文化 | 桐生悠々(金沢出身、後の信濃毎日新聞主筆)が雑誌「太平洋」の主筆を辞し、大学院入学の手続きをとった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 9月5日 | 社会・文化 | (県下各地に赤痢病大流行。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 9月 | 社会・文化 | 金沢新繋昌記(和田文次郎著)加能紀行(木谷弓夫著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 10月5日 | 社会・文化 | 新築の市立伝染病院を桜木病院と命名した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 10月8日 | 社会・文化 | 高安右人が金沢医学専門学校長に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 10月15日 | 社会・文化 | 勧業博物館所蔵図書目録を三宅少太郎に依嘱作成することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 10月25日 | 社会・文化 | 長田火葬場の開場式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 11月18日 | 社会・文化 | (門前総持寺の関東方面移転を主張するものが出てきた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 11月28日 | 社会・文化 | 午前1時40分、上堤町八田金十郎持ち家から出火、全焼8戸、半焼2戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 11月 | 社会・文化 | 私立商業講習会が市公会堂内に創立された。(39年4月1日市立実業補習学校となり、41年市立商業補習学校と改められた) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 12月11日 | 社会・文化 | 勧業博物館の図案部は県立工業学校に移されることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 12月18日 | 社会・文化 | 「石川県方言彙集」が石川県教育会から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十四年(1901) | 月日未詳 | 社会・文化 | 小坂村夕日寺に小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 1月4日 | 政治・経済 | 市参事会員横地正果が刑事事件で失格した。横地はその経営する金沢新聞に長田火葬場用地売買の内情を暴露すると僧侶熊谷某をおどし、検挙されたもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 3月10日 | 政治・経済 | 金屋町郵便局と石川郡大野町郵便局が開設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 3月 | 政治・経済 | 石川県輸出織物同業組合が県下一円を区域として結成された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月10日 | 政治・経済 | 5万円事件というものが起きた。収入役永井将治郎が公金取扱銀行を任意に加州銀行から才明銀行に切替えたために問題となり、市会が収入役の身元保証金を5万円に引きあげた事件である。永井が数日間事務放棄をしたりして、もめたが仲裁が入り、公金取扱いも加州銀行にもどって落着した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月14日 | 政治・経済 | 奥村市長が辞職した。在任4年3ヵ月。市長は永井収入役の公金取扱銀行変更問題以来、収入役更迭を意図したが市会が反対、ために市長として執るべき方途を失い辞職に至ったもの。市会は慰労金1,000円を贈った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月27日 | 政治・経済 | 明治印刷株式会社が資本金5万円で設立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月 | 政治・経済 | 市が卯辰山造林に着手した。6ヵ年継続事業として23町6反1畝27歩に赤松、黒松、杉、いちょう、ひのき、かえで、くぬぎ等を植えるもので今年度は4万本を植える。(40年度までに16万3,000本を植えた) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 5月3日 | 政治・経済 | 衆議院議員選挙法が改正され市が一選挙区となった。市参事会員山森隆は次期衆議院に立候補のため参事会員を4月25日辞職した。後任参事会員には菅野銘が当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 5月12日 | 政治・経済 | 知事野村政明は愛知県知事に転じ、元台北県知事村上義雄が石川県知事に任ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 5月17日 | 政治・経済 | 金沢電気株式会社が水力発電機の増設工事を始めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 6月1日 | 政治・経済 | 市会が市長候補者を選挙し渡瀬政礼、久保田全、木倉谷長与門の順位に選んだ。6月15日渡瀬の就任裁可があり20日から就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 6月1日 | 政治・経済 | 石川郡松任町から市内泉町に達する馬車鉄道の敷設が許可された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 6月12日 | 政治・経済 | 市会議事堂が広坂通に新築落成した。(従来は西町公会堂を使用し、差しつかえあれば、博物館東本館または長町高等小学校講堂を議事堂に使った) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 6月12日 | 政治・経済 | 市会は富山、直江津間(30里)の鉄道敷設を促進するため委員3人を選出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 8月8日 | 政治・経済 | 軍艦富士が金石港に来た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 8月10日 | 政治・経済 | 選挙法改正後第1回の衆議院議員選挙がおこなわれ、金沢市の選挙区では山森隆が当選、水登勇太郎が次点。有権者は1,250人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 8月25日 | 政治・経済 | 山森隆は衆議院議員に当選して県議を辞任したので、県議の補欠選挙がおこなわれ辰村米吉が当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 9月30日 | 政治・経済 | 金沢米穀取引所が資本金10万円に増資を決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 11月2日 | 政治・経済 | 市書記藤田繁(第3課長)ほか5人が解職となった。藤田は会計主任であり、部下と共謀して市公印を盗用したとの容疑により予審を受け、罪とならなかったが解職されたもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 11月16日 | 政治・経済 | 宝船寺町郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 11月20日 | 政治・経済 | 県会議事堂の新築落成式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 11月21日 | 政治・経済 | 松金馬車鉄道の創立総会が松任で開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 11月 | 政治・経済 | 米谷銀行金沢支店が白銀町に開店した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 12月12日 | 政治・経済 | 大鋸谷機業場は生糸織物不況のため操業を休止した。負債7万円に対し不動産および動産3万円という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 12月28日 | 政治・経済 | (政府の地租増徴案否決され衆議院解散になる。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 12月 | 政治・経済 | 東馬場町の三浦彦太郎が初めて電力による製箔をはじめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 1月11日 | 社会・文化 | 山ノ上町の小坂神社摂社冨士権現の神主が「コノシロを供えるのは神慮にそむき不敬になるから堅く禁ずる、小豆の奉納は神慮に叶う」との奇妙な掲示をしてもの笑いになった。(新聞報道) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 1月19日 | 社会・文化 | (東亜同文書院の創立式が東京で挙行された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 1月20日 | 社会・文化 | 金沢出身桑木巌翼が文学博士を授与された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 1月31日 | 社会・文化 | 金沢病院にX光線据付け工事が完成し試運転をおこなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 1月 | 社会・文化 | 緯度観測所所長木村栄が地球の緯度変化の成分木村項すなわちZ項の存在を発見した。(学士院最初の恩賜賞を受けた) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 2月5日 | 社会・文化 | 和田文次郎著「石川郡誌」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 2月10日 | 社会・文化 | 金沢東廓と主計町の芸娼妓数は1月末現在218人である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 2月20日 | 社会・文化 | 「壬寅文学」第1号発刊、宇都宮書店から発売された。四高その他の文学愛好家の執筆になるもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 2月 | 社会・文化 | 哲学史論(桑木巌翼著)実践倫理礼法篇(山本良吉著)三州図籍奥書(遠藤高璟著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 3月2日 | 社会・文化 | 市会議事堂で日英同盟祝賀会が開かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 3月6日 | 社会・文化 | 工学博士高峰譲吉が13年ぶりにアメリカから帰国、金沢へ帰省した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 3月12日 | 社会・文化 | 宇多須神社が県社に昇格した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 3月 | 社会・文化 | (石川県立農学校を小松から石川郡松任町に移した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月1日 | 社会・文化 | 金沢電気株式会社が250燭光のアーク灯を犀川橋詰、橋場町、下堤町の3ヵ所に寄付、点灯した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月1日 | 社会・文化 | 戸板東校(二口校)と戸板西校(示野校)が合併して戸板小学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月3日 | 社会・文化 | 金沢兼六園唱歌(八波基月歌、新清次曲)ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月11日 | 社会・文化 | 笹下町居住の奇人「チョイトコサ」死去。ビンツケ売りの「栄マ」とともに当時金沢市中の名物男だった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月16日 | 社会・文化 | 三宅雪嶺がインド経由で欧州へ出発した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月29日 | 社会・文化 | 尾山神社が別格官幣社に昇格した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月 | 社会・文化 | 金沢商業学校は本年から露語科を設けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 4月 | 社会・文化 | 東校、西校を合併して大野村小学校ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 5月13日 | 社会・文化 | 四高校長北条時敬が新設の第二高師(広島)の校長に任命された。後任四高校長は吉村寅太郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 5月15日 | 社会・文化 | 金石の清水菓子店が銭屋五兵衛50年忌の記念に銭五せんべいを初めて売出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 5月17日 | 社会・文化 | 尾山神社宮司に前金沢市長奥村栄滋が就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 5月 | 社会・文化 | 石川郡大野湊神社の故文書と神社縁起その他を集録した「佐那武社故類聚」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 6月22日 | 社会・文化 | 下新町38番地に芝居小屋弁天座ができた。定員650人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 6月27日 | 社会・文化 | 書家日下部鳴鶴が来沢した。北方心泉、小池梅処らの主唱で鳴鶴をかこむ雅会をひらいた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 7月1日 | 社会・文化 | 尾山神社昇格慶賀祭が本日から3日間開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 7月15日 | 社会・文化 | 13日から降り出した雨で浅野川一文橋が流失、犀川堤防が決壊した。14日から汽車も不通。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 8月15日 | 社会・文化 | 県はコレラ流行地を経てきた者に対し、汽車検疫を施行することにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 9月1日 | 社会・文化 | 一昨年来芳斎町3番地に新築中の田丸町小学校が完成、芳斎町小学校と改称し開校式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 9月6日 | 社会・文化 | 中村雁治郎が初めて来沢、福助座で興行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 9月7日 | 社会・文化 | 来沢中の横山大観が同好者の横山男爵その他を殿待楼に招待した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 9月16日 | 社会・文化 | 野町にコレラ患者が発生した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 10月1日 | 社会・文化 | 前石川県知事野村政明(現愛知県知事)金沢病院で死去。49歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 10月2日 | 社会・文化 | 元壮猶館主宰成瀬正居死去。75歳。秩禄2,500石の旧人持組、明治7年以後石川県出仕として学務に関係し国語歌文を奨励した。白山神社穪宜にもなり献詠集を編集、「言霊伝」「歌題四季部類」等の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 10月20日 | 社会・文化 | 泉火葬場の改良がすみ、この日から使用を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 10月30日 | 社会・文化 | 下本多町の石川県立工業学校が新築落成式を挙行した。32年から4ヵ年継続事業であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 11月1日 | 社会・文化 | 蘭洲横山政和の「環翠楼詩鈔」が息横山隆起により刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 11月24日 | 社会・文化 | 本多、長両男爵の骨董書画1,700点の売立市が開かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 11月 | 社会・文化 | 宮井文次郎(島田町4番地)編集兼発行の文化雑誌「あけぼの」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十五年(1902) | 12月23日 | 社会・文化 | 金沢医専教授木村孝蔵博士が大阪府医学校へ転出、後任は宮田篤郎学士(宮城県人)に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月14日 | 政治・経済 | 県会は兼六園内の長谷川邸跡を前田家に譲渡することを承認した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 2月23日 | 政治・経済 | 渡瀬市長は就任の第一着手として、市税滞納の一掃と徴税強化のため市内の吏員派出所を廃止して市に徴税部を設けること、また従来伝染病院は伝染病流行時だけに開院していたのを常時開院制にすることの2件を市会に提案し、承認を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 2月28日 | 政治・経済 | 市会議員小鍛冶市左衛門と谷内宅三郎が衆議院議員選挙で山森派の選挙違反に連座失格した。(小鍛冶は控訴して無罪となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 3月1日 | 政治・経済 | 衆議院議員総選挙がおこなわれた。金沢は再び山森隆と水登勇太郎が立候補して争い、水登が山森を破って当選した。(選挙人1,138人、棄権者285人) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 3月3日 | 政治・経済 | 浅野川大橋架替えのため、仮橋が出来た。仮橋は100貫以上のもの通行止め。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 3月25日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所2級議員の選挙がおこなわれた。(27日に1級議員の選挙) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 3月27日 | 政治・経済 | 金沢電話局の電話が58本増設開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 3月28日 | 政治・経済 | 市会は任期満了の永井将治郎市収入役の後任に市参事会推薦の大久保鉄三郎を選んだ。(市会は永井将治郎に慰労金200円を贈った) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 4月1日 | 政治・経済 | 金沢鉄道郵便局が開設された。当分金沢郵便局建物内で事務をとることにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 4月13日 | 政治・経済 | 金沢市衛生組合は従来34区制だったが、本年度から60区制に改め、規約を改正した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 4月15日 | 政治・経済 | 市に金沢沿革史編纂部が設置され、職制が発令された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 4月 | 政治・経済 | 金沢商業会議所会頭に本多政正、副会頭に斉藤弥久が選出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 5月1日 | 政治・経済 | 政友会総務本多政以が政友会を脱党した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 6月3日 | 政治・経済 | 浅野川大橋架設工事は釣谷他吉と6,748円で契約成立した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 6月12日 | 政治・経済 | 市会議事堂が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 6月25日 | 政治・経済 | 市会は久保田全、本多政正、高田九八郎の任期満了と菅野銘の辞任にともなう市参事会員の選挙をおこない、久保田全、木倉谷長与門、谷内宅三郎、永井将治郎を選出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 7月5日 | 政治・経済 | 金石港に軍艦富士、八島、出雲がきた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 7月10日 | 政治・経済 | 馬場小学校ほか5校の校舎新築のため申請中の起債11万400円が許可されたので、市は教育公債募集の条例を制定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 7月16日 | 政治・経済 | 在任中(2年余)金沢市当局としばしば衝突した県警部長白上俊一が宮城県警部長に転出、後任は福島県警部長永田幸太郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 9月7日 | 政治・経済 | 2月工事に着手した尻垂坂の切下げ工事が完成し開通式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 9月24日 | 政治・経済 | 県会議員選挙がおこなわれた。当選者は宮野直道(市連合派)高田九八郎(自由派)、小鍛冶市左衛門(市連合派)。この選挙で市書記3人が県から懲戒され市長も譴責を受け、さらに山森隆ら18人が24時間拘留された。革新の市連合側は官権の干渉と攻撃した。なお県会の分野は革新22、自由20、中立8となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 11月12日 | 政治・経済 | 憲政党系の旧政友会支部員によって加能倶楽部が結成され発会式を挙げた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 12月1日 | 政治・経済 | 新築中の金沢監獄にまつわる疑獄事件が発覚した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 12月11日 | 政治・経済 | (衆議院解散となる。対露問題に関し河野広中が内閣を弾劾。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 12月 | 政治・経済 | 金沢市に初めて蒸気ポンプが置かれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月3日 | 社会・文化 | 元前田家編纂方石崎謙(小洲)大阪で死去。62歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月4日 | 社会・文化 | 元石川県知事男爵岩村高俊京都で死去。61歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月6日 | 社会・文化 | 石川県師範学校長鈴木直三郎が拘引された。(旧任地における教科書事件) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月6日 | 社会・文化 | 新年3ヵ日の金沢駅乗客は3,650人だったと発表された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月9日 | 社会・文化 | 大阪府医学校へ転任の木村孝蔵博士の送別会が市会議事堂で開かれた。出席者375人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月11日 | 社会・文化 | 高岡町高等小学校長片岡珺光(元愛媛県視学)が拘引された。(旧任地における教科書事件) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月12日 | 社会・文化 | (北陸線大聖寺、細呂木間は暴風雨のため8日から不通だったが本日開通した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月15日 | 社会・文化 | 石川県出身の岩手県視学官内山行貫が任地の北上川に投身自殺した。55歳。部下から教科書事件関係者を出した責任感からであった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月15日 | 社会・文化 | 小野慈善院院主小野太三郎が病気重体、在院者300余人餓死するのほかなしと救済を望む声が高くなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 1月 | 社会・文化 | 温故録(戸水寛人著)初学昆虫採集法(三宅恒方著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 2月11日 | 社会・文化 | 白銀町から出火、全焼3戸、半焼3戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 2月20日 | 社会・文化 | 渡瀬市長は金沢沿革史を編さんするため調査費を支出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 3月20日 | 社会・文化 | 四高寄宿舎2むねが完成した。4月から生徒を収容する。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 3月26日 | 社会・文化 | 本派本願寺金沢別院沿革史が刊行された。存如上人の廟(大谷廟所)の沿革についても記述されている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 3月 | 社会・文化 | 祖先崇拝の根源(戸水寛人著)実践倫理医術篇(山本良吉著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 4月1日 | 社会・文化 | 漢詩人の土居通豫(香国)が金沢郵便局長に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 4月5日 | 社会・文化 | 伝染病院を櫻木病院と改称して市長の方針通り常設とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 4月7日 | 社会・文化 | 富樫村山科に「とらや」という鉱泉宿が本日開店、付近を好適の散策地と宣伝した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 4月19日 | 社会・文化 | 金沢の俳人小島文器死去。77歳。藩主の奥向に仕え、鶴の包丁の式をもって紋服をたまわったことがある。南無庵4世を継席。(辞世)花の茎残りて梅の若葉かな。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 5月11日 | 社会・文化 | 市は谷内宅三郎に対し公共事業につくし、学校に数回金品を寄付したかどで金杯を贈り表彰した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 5月28日 | 社会・文化 | 国学者歌人狩谷竹鞆(百々女木住)の満25年霊祭が執行され、その「志賀の山越」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 5月 | 社会・文化 | 横川藤太郎著「真宗聖教大全」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 6月2日 | 社会・文化 | 午前零時ごろ下近江町から出火、全焼4戸、半焼4戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 6月19日 | 社会・文化 | 渡瀬市長は金沢で不振の赤十字事業振興のため、年金滞納社員に対し除名手続きをとり新社員募集の結果、社員が約300人増えて1,700余人となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 6月20日 | 社会・文化 | 藤岡作太郎著「近世絵画史」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 6月28日 | 社会・文化 | 眼科医江南軒石橋養元(石橋忍月の養父)が味噌蔵町下中丁の自宅に同好者を迎え和歌会を催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 6月29日 | 社会・文化 | 「尾山神社昇格紀念梅薫録」が佐久間龍太郎編さんで刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 6月 | 社会・文化 | 杉中利平次著「金沢及び其附近」が刊行された。(杉中は羽咋郡北荘村出身) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 7月4日 | 社会・文化 | 百間堀に巣をつくっている五位鷺を城内より発砲して追いはらった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 7月10日 | 社会・文化 | 和田尚軒著「北国人物志」が刊行された。当代人物伝である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 7月31日 | 社会・文化 | 男爵横山隆平死去。58歳。加賀藩の老臣横山家11代隆貴の長子で、廃藩後殖産に力をそそぎ尾小屋銅山を経営して富を積み、常に公共に財産を投じて市の発展に貢献した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 7月 | 社会・文化 | 福井市人真柄貞がかねて泉寺町に児童救育所を設け、初め11人を収容したが、こんど泉野に院舎を移して北国慈恵院と改称した。(後になって悪評が伝えられ社会の信用を失墜した) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 8月16日 | 社会・文化 | 浅野川大橋の渡橋式がおこなわれた。3夫婦は金野、松村両家等で、好天気のため近在からも人出があり混雑した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 9月1日 | 社会・文化 | 仙石町の私立石川県教育会事務所内に図書室を設置し、この日から一般に閲覧を許した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 9月2日 | 社会・文化 | 材木町小学校の移転開校式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 9月2日 | 社会・文化 | 午前10時ごろ英町から出火、全焼4戸、半焼1戸、半壊2戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 9月4日 | 社会・文化 | 夜11時ごろ長坂新から出火、全焼7戸、納屋5むね焼失。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 9月20日 | 社会・文化 | 大樋町郊端に軍馬記念碑が完成、除幕式を挙行した。(武村弥吉鋳造) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 10月3日 | 社会・文化 | 書家巌谷一六来沢、上松原町源円に滞在。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 10月6日 | 社会・文化 | 市立金沢商業学校の校舎が彦三6番丁に完成、移転式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 11月13日 | 社会・文化 | 奥村栄滋、前田孝、奥村則英の3男爵が財産差押えを受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 11月25日 | 社会・文化 | 市内小学校児童のあいだに新禿頭病が流行している。(新聞報道) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 11月25日 | 社会・文化 | 加能新聞が廃刊した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 11月26日 | 社会・文化 | 兼六園長谷川邸跡が前田侯爵家用地となった。同家から1万5,000円を公園維持費として寄付した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 12月6日 | 社会・文化 | 石川県農工銀行および小松銀行の重役、熊田源太郎死去。68歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 12月5日 | 社会・文化 | (照葉狂言の家元9代目堀井仙助が大阪市高津10番丁の自宅で死去。76歳。今様能の林寿三郎の師。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十六年(1903) | 12月8日 | 社会・文化 | 杉浦町33番地第八組消防組頭宮城枝五郎(66歳)は高齢のため辞職を申出た。同人は旧藩時代からの火消で、明治9年金沢に仏国式ポンプを置いたとき金沢警察署長から選抜され使用方練習を命ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 1月12日 | 政治・経済 | 金沢銀行会は手形交換所を加州銀行に置き、その主任を1ヵ月交代とし毎日3時から4時まで執務することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 1月21日 | 政治・経済 | 石川県農工銀行の頭取に本多政以が再選された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 2月2日 | 政治・経済 | 助役小川長堅の任期満了にともない市会で後任選挙の結果、市議佐久間竜太郎が当選した。(県に対し就任の認可を求めたが県はその任にあらずとして認可せず、以後3ヵ月間助役は空席)なお市会は小川(在職6年)に慰労金800円を贈った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 2月5日 | 政治・経済 | (日露の戦雲急迫、動員令下る。株式暴落。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 2月7日 | 政治・経済 | (政府は列国に対し、日露交渉決裂を通告した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 2月15日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所会頭に斉藤弥久、副会頭に武村弥吉が選出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 2月23日 | 政治・経済 | 横山家が軍資に1万円を献納し、軍事公債10万円を引受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 2月26日 | 政治・経済 | 金沢の箔業者組合は3月1日から同盟休業を決議した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 3月1日 | 政治・経済 | 衆議院議員の総選挙がおこなわれた。金沢は前回同様、水登、山森の両人が争い、山森が当選した。当選山森隆(471票)、次点水登勇太郎(418票)。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 3月8日 | 政治・経済 | 金沢市会は貧民救助所規程を可決した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 3月30日 | 政治・経済 | 市は徴税吏規程を改め督税の外勤2部を設け滞納市税の一掃をはかった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 3月 | 政治・経済 | 北國漁網撚糸合資会社が設立された。代表河井与吉、資本金4万9,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月3日 | 政治・経済 | 堀俊明が市助役に当選、渡瀬市長は早川千吉郎の了解を得るため上京した。(堀は三井銀行に関係していた) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月5日 | 政治・経済 | 松金馬車鉄道のレール敷設がはじまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月7日 | 政治・経済 | 堀俊明の助役就任が認可になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月9日 | 政治・経済 | 第9師団に動員令がおりた。市内家屋の7,8割が兵員宿舎にあてられ市民はみな歓待した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月20日 | 政治・経済 | 小立野で新築中の監獄がほぼできあがったので尻垂坂通の旧庁から移転がはじまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月29日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊が征途にのぼった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月31日 | 政治・経済 | (乃木希典大将が第3軍司令官に任命され、第9師団は第3軍管下に入る。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 6月7日 | 政治・経済 | 金沢、津幡間の馬車が開業した。1日5回運転、浅野川大橋より15銭、大樋より12銭、柳橋より9銭、森本より6銭、利屋町より3銭。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 6月8日 | 政治・経済 | 3日大火にあった近江町の通りは道路拡張に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 6月24日 | 政治・経済 | 金沢出征軍人家族救護義会が横山隆俊らの主唱でできた。会長は横山隆俊で、出征軍人家族の生計困難なものを救護するもの。市民の寄付金1万4,000円を基金にして毎月400人余を救護する計画。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 6月28日 | 政治・経済 | 大島久直第9師団長が金沢を出発した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 7月9日 | 政治・経済 | 煙草専売が実施された。煙草小売人の許可を得たものは石川県下2,107人うち金沢440人。また元売人は石川県下25人、うち金沢11人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 7月10日 | 政治・経済 | 本多政以が男爵の互選により貴族院議員に当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 7月14日 | 政治・経済 | 市姫通の新設が許可された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 7月24日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊は清国柳樹屯に上陸し戦線に急行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 8月21日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊は第1回旅順総攻撃で21日22日に盤竜山を攻撃し東西両砲台を占領したが、連隊長以下ほとんど全滅した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 8月 | 政治・経済 | 金沢青草市場は松本長右衛門ほか25人が中心となって改組した。丸二市場(青草町31番地)も同時にできた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 9月7日 | 政治・経済 | 上近江町から下堤町通に直線道路をつくることに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 9月25日 | 政治・経済 | 市は市営事業の開発を企画、調査委員会を設けて調査に着手した。上森捨次郎が事務に当った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 11月1日 | 政治・経済 | 松金馬車鉄道が開通した。30分間ごとに発車。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 11月26日 | 政治・経済 | 応召市吏員に手当と特別賞与を支給する市規定をきめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 12月4日 | 政治・経済 | 市会議員の半数改選で3級選挙を本日おこなった。7日に2級、10日に1級の各選挙をおこなう。戦時下につき連合派と加能倶楽部は争いをやめ、半数ずつ選出することに妥協した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 12月27日 | 政治・経済 | 市姫通の開通式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 12月31日 | 政治・経済 | 歩兵第7連隊は盤竜山第3砲台ならびに望台を占領した。連隊は軍司令官の感状を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 12月 | 政治・経済 | 久二貯蓄銀行(福井県)金沢支店が十間町に開店した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 月日未詳 | 政治・経済 | 林屋次三郎が金沢市長町川岸小島機業場を買収し、林屋組の名称で硬質陶器製造を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 月日未詳 | 政治・経済 | 大神宮下香林坊裏に青物市場が開設された。(しかし永続しなかった) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 1月2日 | 社会・文化 | (公爵近衛篤麿死去。42歳。夫人貞子は前田慶寧の女。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 1月5日 | 社会・文化 | 田中正義、大屋子郎、中宮誠之共著「六線表」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 1月16日 | 社会・文化 | 金沢郵便局長土居香国(漢詩人)は休職後も引続き金沢にあって吟社を設けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 1月25日 | 社会・文化 | 上柿木畠北光社から案内記「金沢明覧」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 1月29日 | 社会・文化 | 並木町の稲荷座を尾山座と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 2月25日 | 社会・文化 | 市内の各神社で日露宣戦奉告祭を執行、渡瀬市長以下それぞれ参列した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 2月26日 | 社会・文化 | 市内の乗合馬車は従来車両が2台だったが、こんどさらに2台をふやし野村の師団行線を運行することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 2月 | 社会・文化 | 大塊一塵(三宅雄二郎著)憲法篇・国法学第一編(清水澄著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 3月3日 | 社会・文化 | 儒家瀬尾健造(剣北)死去。66歳。幕末金沢にあって勤王の動きをし、明治以後は諸学校に教べんをとった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 3月31日 | 社会・文化 | 財産差押えをうけた奥村栄滋、奥村則英、前田孝3男爵が前田家に援助をこうた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 3月 | 社会・文化 | 教育家山岸弘(北州)死去。71歳。明倫堂教師、前田利嗣の侍読をつとめ、明治12年以降金沢連合町会の議長、私立金沢学校教師主座にも就いた。詩文鈔の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 4月5日 | 社会・文化 | 馬場小学校の新築校舎落成式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 4月16日 | 社会・文化 | 旅順港でロシア太平洋艦隊の旗艦ペトロパウロウスクが爆沈し提督マカロフ中将戦死の報に、連日金沢市民の堤灯行列がおこなわれ市中はわき返った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月6日 | 社会・文化 | (能美郡今江で62戸焼失。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月20日 | 社会・文化 | 木村栄が理学博士を授与された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 5月27日 | 社会・文化 | 長町川岸2番地屋敷跡に犀川市場および諸興行場ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 6月1日 | 社会・文化 | 卯辰山名物五本松(宇多須神社坂上の子来町)が落雷のため枯死したので伐採がはじまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 6月3日 | 社会・文化 | 午後10時55分ごろ下近江町から出火、上安江町、青草町、袋町、博労町にわたり250余戸を焼失した。市姫神社も焼失。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 6月12日 | 社会・文化 | 広坂通に新築中の日本赤十字社石川支部は一部を残し落成、社員に縦覧を許すことにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 7月23日 | 社会・文化 | 出羽町練兵場に戦傷者を収容する病院の建設がはじまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 7月24日 | 社会・文化 | 例年の橋場町夕涼みの軒行灯(あんどん)を本日から点灯した。絵は日露戦争の続き絵である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 8月7日 | 社会・文化 | 午前0時20分ごろ中堀川町から出火、全焼13戸、損壊6戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 9月19日 | 社会・文化 | 儒家晴潭木下傭(木下順庵の後系)死去。54歳。彦三1番丁に住。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 10月6日 | 社会・文化 | 彦三6番丁に新築中の市立金沢商業学校が移転式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 11月11日 | 社会・文化 | 日露戦争記念に石川門の旧城周囲に桜樹を植えるため資金募集がはじまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 11月14日 | 社会・文化 | 歩兵第7連隊の戦死者大内守静連隊長以下12人の合同葬儀が大乗寺で執行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 11月 | 社会・文化 | 加藤広吉(師範学校教論)が中主馬町に遊学館を創設した。(金城高等女学校の前身) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十七年(1904) | 月日未詳 | 社会・文化 | "本年中に刊行された市関係者のおもな書物。
極楽浄土論(松本文三郎著)最近世界商業吏(上田柾雄著)" | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 1月2日 | 政治・経済 | 旅順陥落の公報が金沢に達した。(2日午前10時20分発) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 1月6日 | 政治・経済 | 長町川岸小島甚右衛門経営の精練部が辰村米吉の経営に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 1月12日 | 政治・経済 | 第9師団は旅順から北進の途についた。(奉天会戦に参加した) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 2月1日 | 政治・経済 | 金沢刻煙草製造所が田丸町77番地で製造を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月4日 | 政治・経済 | 白耳義博覧会出品のため、谷口吉次郎(片町九谷焼商)が神戸を立った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月23日 | 政治・経済 | ロシア兵捕虜収容のため勧業博物館を閉館した。ただし付属図書館および物産陳列所は従来通り。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月25日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所議員の半数改選が無競争で終了した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月26日 | 政治・経済 | 午前0時5分金沢着で第1回分捕虜700人到着、東別院に収容された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月31日 | 政治・経済 | 昨日までに捕虜の到着7回に及び収容数は将校37人下士卒3,885人になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 4月1日 | 政治・経済 | 金沢塩務局が開庁した。(塩専売法は6月1日実施) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 4月1日 | 政治・経済 | 金沢電話局は男子の電話交換手を廃止した。(従来夜間は男子) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 4月1日 | 政治・経済 | 市は全市60区の衛生組合に年15円ずつの補助金を交付することにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 4月3日 | 政治・経済 | 明治銀行金沢支店(下堤町)が新築落成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 4月16日 | 政治・経済 | 金沢駅から七尾線矢田新駅までの直通列車は1日3往復運転することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 5月28日 | 政治・経済 | 27日午後1時35分東京発電報によれば「敵艦隊対馬近海に発見、激烈なる砲声数時間続く」という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 6月1日 | 政治・経済 | 昨今羽二重市場不況のため各機業場はいずれも損失を招き、規模の大きい小島、斉藤両機業場は本日から休業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 6月14日 | 政治・経済 | 第7師団長塩屋方圀中将は退職となり帰沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 6月21日 | 政治・経済 | 市参事会員中柿谷多吉郎、中山清一、永井将治郎が任期満了し後任に宮野直道、山森隆、河合成一が選出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 7月2日 | 政治・経済 | 市営卯辰山教育所は新築中の小野慈善院と合併し、費用は補助金とし市が支出することにきまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 7月17日 | 政治・経済 | 精練株式会社組織発起人会が県輸出織物同業組合本部で開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 7月24日 | 政治・経済 | 野村捕虜収容所に礼拝堂を新築するため木材を取寄せ工事に着手した。大工作業は一切捕虜が当った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 8月1日 | 政治・経済 | 市吏員の退職給与金規定がきめられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 8月17日 | 政治・経済 | 大野銀行および才明銀行は債権者から破産申請を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 9月7日 | 政治・経済 | 1両年来の不況のため、片町千田勘右衛門および中堀川町柏野四郎兵衛の両呉服店は破たん状態になったと新聞が報道した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 9月22日 | 政治・経済 | 上下近江町の町幅取りひろめ工事が落成し、開通式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 9月25日 | 政治・経済 | 商業会議所会頭斉藤弥久が業者の要望により高岡町の自宅に金沢物産陳列場を開設した。(40年閉鎖) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 10月15日 | 政治・経済 | 金谷館で石川県精練会社創立総会を開催した。出席者90余人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 10月16日 | 政治・経済 | (平和克復の詔書が出て、日露講和条約公布。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 10月25日 | 政治・経済 | 市会は凱旋軍隊歓迎委員を設置し歓迎費1万円の支出をきめた。また野田山の市有松樹を伐採して金沢駅前に凱旋門をつくることもきめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 11月23日 | 政治・経済 | 金沢に収容中の捕虜の送還が本日から開始された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 11月 | 政治・経済 | 津田式力織機の製作が(三社五十人町)開始された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 12月1日 | 政治・経済 | 金沢の捕虜は重症患者5人を除き、全部の還送を完了した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 1月4日 | 社会・文化 | 旅順陥落を祝い正午を期して「全市鳴」をおこなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 1月5日 | 社会・文化 | 旅順陥落祝賀会が公園の明治紀念碑前で挙行された。参加者2万人に及び夜は大堤灯行列があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 1月13日 | 社会・文化 | 午前3時半ごろ高儀町から出火、全焼13戸、半焼1戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 1月15日 | 社会・文化 | 橋場町友田呉服店が偽装破産をなし、友田儀兵衛、父次郎兵衛、娘谷ひさ(下堤町谷与三右衛門未亡人)らは神戸に行ったと新聞が報道した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 1月21日 | 社会・文化 | 金沢の売薬商の多額納税の順位は亀田(紫雪)中屋(混元丹)ごり屋(練薬)の順である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 1月 | 社会・文化 | 金沢工業沿革誌料(金沢市役所編)北陸遊草(勝島仙著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 2月4日 | 社会・文化 | 金沢出身の陸軍中将松村務本が旅順で病死。53歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 2月9日 | 社会・文化 | 西村弥三郎著「金沢みやげ」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 2月16日 | 社会・文化 | 友田呉服店破産事件の訴訟は同業能久治の調停で取下げられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 2月21日 | 社会・文化 | 市立各小学校に手工科を、高等科に商業科を加える件が知事から認可になり、4月1日から実施と決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月14日 | 社会・文化 | 10日の奉天会戦大勝を祝い正午に「全市鳴」をおこなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月19日 | 社会・文化 | 午後2時から公園明治紀念碑前で、奉天会戦戦勝祝賀会が官民合同で催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月24日 | 社会・文化 | 両別院に捕虜収容のため東別院は専光寺へ、西別院は大谷廟所へ遷仏した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月25日 | 社会・文化 | 県立金沢病院は小立野に新築完成して移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 3月31日 | 社会・文化 | 下富山町尋常小学校を新竪町校に合併した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 4月19日 | 社会・文化 | ペスト流行の兆あり、ねずみ1匹2銭以内で買上げることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 4月20日 | 社会・文化 | 県は出征軍人家族に対する授産事業の一として経木真田製造を奨励し、金沢でもこれに従事する家族が次第にふえているが、このほど神戸から県庁を通して大量購入の申込みがあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 4月 | 社会・文化 | D.R.マッケンジー宣教師が百々女木町の一民家を借受け、金沢育成院を創設した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 4月 | 社会・文化 | 戦勝記念事業として桜の植栽がはやり、百間堀、停車場、尾山神社、浅野川の川岸などに植えつけられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 5月10日 | 社会・文化 | この日から捕虜将校の市内自由散歩が許された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 5月10日 | 社会・文化 | 和泉流狂言師中村藤造の高弟藤江又喜が東京に移住した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 5月11日 | 社会・文化 | 三重県人久松義典が金沢市西町3番丁の住宅を借受け、女子技芸教育を目的に私立金沢女学校を創設した。(6月藪ノ内に移転、創立者久松病死のため県人真館貞造が7月から経営者となる。私立金沢高等女学校の前身) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 5月16日 | 社会・文化 | 大谷派本山は事務総長石川舜台ほか1人を解任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 5月 | 社会・文化 | 算数家高橋義盛死去。68歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 6月1日 | 社会・文化 | 兼六園明治記念碑前で海戦大祝勝会を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 6月2日 | 社会・文化 | 正午の午砲を合図に「全市鳴」をおこない海戦大勝を祝った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 6月5日 | 社会・文化 | 俳人直野碧玲瓏死去。31歳。日本派の俳人、通称了之晋、金沢生れで北陸新報、若越新聞(福井)国民新聞(東京)北国新聞の記者を勤めた。(辞世)腹中無一物紙の真鯉かな。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 6月11日 | 社会・文化 | 故加藤恒の遺稿「松塢文集」が7周忌に当り出版された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 6月11日 | 社会・文化 | 長町5番丁に石川県仏教婦人会経営の木ノ花幼稚園が開園した。園長は長寛子。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 7月9日 | 社会・文化 | (最近、珠洲、凰至の海岸に露国軍人の死体がひんぴんと漂着している。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 7月10日 | 社会・文化 | 渡瀬市長が小立野にあるマッケンジー創立の保育場を巡視し設備の完全なのに感服した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 7月24日 | 社会・文化 | 市立金沢商業学校の校舎完工、落成式を挙行した。 | 0 |
明治三十八年(1905) | 7月29日 | 社会・文化 | 北方心泉金沢で死去。56歳。木ノ新保常福寺に生れ仏漢英の学を修め、明治7年本山から清国教務監督を命ぜられ在上海9年、清国各地の文人大家とまじわり留学生を薫陶した。30年再度渡航、各地に道場を設け清人を教導した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 8月1日 | 社会・文化 | 小野太三郎経営にかかる慈善院は官民の協力を得て常盤町に土地3,000余坪を購入し、平屋建500坪の院舎を建てて彦三2番丁より移転、小野慈善院と命名し本日開所式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 8月2日 | 社会・文化 | 午前10時ごろ浅野川が増水し上流の常盤橋、母衣町の一文橋および川中の涼み台などが流失した。(一文橋は主計町坂井信吉所有) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 8月9日 | 社会・文化 | 34年に着工した中石引町の県立金沢病院の落成式が挙行された。(総工費25万円) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 8月26日 | 社会・文化 | 笈ヶ岳頂上の俗に尾谷と称する個所で三角標建設中、地下から武器、経筒等を発掘した。発掘品は国立博物館保存。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 8月 | 社会・文化 | 鈴木文太郎著「解剖学名彙」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 10月10日 | 社会・文化 | 十間町浅田旅館から出火、全焼11戸、半焼3戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 10月15日 | 社会・文化 | 日本赤十字社石川支部の落成式が挙行された。総裁閑院宮も列席された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 10月29日 | 社会・文化 | 書家中林梧竹来沢、同郷の裁判所長平田小三郎方(味噌蔵町)に滞在した。篆刻家桑名鉄城が同行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 11月6日 | 社会・文化 | 元石川県師範学校教諭加藤広吉設立の遊学館(上本多町川御亭)が知事から認可され私立金城女学校となった。(39年5月加藤広吉死亡し、妻加藤せむが経営者となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 11月14日 | 社会・文化 | 俳人伊藤雪鴻(正秀)死去。59歳。宝船寺町に住み新聞社員にもなり、此君庵を継席した。(辞世)迷いなく咲きし紫苑を道しるべ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 11月23日 | 社会・文化 | 大乗寺前の俗称二子塚(私有地)から劔、曲玉、管玉、金具37個が堀出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 11月25日 | 社会・文化 | (午前3時七尾町大火、全焼891戸、半焼4戸。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 12月1日 | 社会・文化 | 私立金沢女学校が殿町4番地金沢病院跡に移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 12月7日 | 社会・文化 | 長町高等小学校内の旧長家伝来の石灯籠、庭石が尾山神社と成巽閣に寄贈された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 12月15日 | 社会・文化 | 捕虜収容所にあてられていた勧業博物館が陸軍省から返還された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 12月15日 | 社会・文化 | 佐藤巌英編「第九師団凱旋記念帳」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 12月20日 | 社会・文化 | 長町尋常小学校の新校舎が塩川町に完工、落成式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 12月23日 | 社会・文化 | 藤岡作太郎が文学博士を授与された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 12月31日 | 社会・文化 | 阪神地方にペスト流行の兆あるためねずみの買上げをきめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 月日未詳 | 社会・文化 | 北陸絵画協会が設立された。初代会長は医師中村順次(画人中村菜窩の子)。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十八年(1905) | 月日未詳 | 社会・文化 | 銭屋家関係の鉄悟尼が金石町に海月庵(いまの釈迦堂)を建てた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 1月4日 | 政治・経済 | 金沢で編成の後備第1師団後備歩兵第7連隊が金沢に凱旋した。(師団長坂井重季) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 1月13日 | 政治・経済 | 第9師団長大島久直が午前11時42分着汽車で師団司令部と共に凱旋した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 1月23日 | 政治・経済 | 正午ごろ歩兵第7連隊本部が凱旋した。(この戦役における連隊の損害は戦死=将校48、下士卒1,345、負傷=将校108、下士卒3,577) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 2月1日 | 政治・経済 | 市は37年に適市事業開発のための調査委員会を設け調査研究中だったが、用水利用、電鉄敷設、授産工場、盲啞学校、火葬場などの市営案を得たので、その創設経営のための勧業委員を市参事会員、市会議員の中から次の通り選任した。久保田全、宮野直道、中山清一、高田九八郎、小鍛冶市左衛門、辰村米吉、釣谷他吉、寺田弥、安藤伝次郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 3月 | 政治・経済 | (郵便振替貯金の取扱いが開始された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 5月5日 | 政治・経済 | 公衆の便利をはかるため香林坊大神宮入口に金沢で初めての自動電話が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 5月9日 | 政治・経済 | 才明銀行は整理の見込みたたず、財産差押えを受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 6月22日 | 政治・経済 | 県は名古屋市小栗富次郎出願のガス営業に関する件を市に諮問した。(市会は25日可決した) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 6月25日 | 政治・経済 | 陸軍偕行社の移転問題が起り移転先の検討がはじまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 6月26日 | 政治・経済 | 市は市区改正委員を更新した。電気、ガスの企業のほか各種事業の計画が多いのでこの機に市区改正計画の達成をはかるため更新したもの。委員は市会から5人、市参事会から3人、市民有力者から4人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 7月6日 | 政治・経済 | 第9師団長大島久直は東京に転任し、後任に塚本勝嘉中将(岐阜県人)が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 7月6日 | 政治・経済 | 小栗富次郎出願のガス営業が条件を付し認可された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 7月8日 | 政治・経済 | 金沢、福井間の長距離電話が開通した。(市外電話の最初) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 9月20日 | 政治・経済 | 十二銀行金沢支店が南町に改築落成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 9月21日 | 政治・経済 | 南満州鉄道会社が株式募集中であるが金沢市内の応募者はわずかに十数口という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 9月22日 | 政治・経済 | 百間堀を埋立て幅5間ないし7間の道路にしようとの意見がおこっている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 10月18日 | 政治・経済 | 石川県精練会社の開業披露式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 10月21日 | 政治・経済 | 金石との市外電話が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 11月5日 | 政治・経済 | 友田安清、吉村又男、林屋次三郎が共同で着工した鉄質陶器(硬質陶器)の窯は近く二つ完成する。来年3月までに7窯に増設の予定。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 11月11日 | 政治・経済 | 金沢市調査の市内における米作地は合計71町4反1歩(ほかに山林 原 野 23町余)である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 11月21日 | 政治・経済 | 出征軍人家族救護義会が解散した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 12月1日 | 政治・経済 | 金沢市会は家屋税賦課改正の意見書を内務大臣に提出した。市における家屋税の賦課査定は県がおこなうことになっているのを、市会はこれを市でおこなうよう改正意見を本期県会に提出したところ県会が否決したので、市会は「2万以上の市内各戸の貧富の内情を郡部選出議員が公平に査定できるはずがない」等の理由をつけて、内務大臣に上申したものである。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 12月1日 | 政治・経済 | 金沢から高岡、富山、岩瀬への電話が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 12月21日 | 政治・経済 | 師団は旧城側のいもり堀御花畑7,560坪の整地のうえ、戦用被服庫5むねを建築することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 12月25日 | 政治・経済 | 犀川菊橋下流に架設中の下菊橋が完成、渡橋式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 1月2日 | 社会・文化 | 元石川県知事男爵岩村高俊死去。62歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 1月8日 | 社会・文化 | 9師管下4県主催の後備第1師団凱旋歓迎会が公園内博物館で開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 2月5日 | 社会・文化 | 高等女学校令により、私立金沢女学校は修業年限を4年にし別に1年の補習科を設置した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 2月9日 | 社会・文化 | 市は順次凱旋してくる第9師団将校の歓迎会を開催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 2月10日 | 社会・文化 | 凱旋下士卒歓迎会を開催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 2月18日 | 社会・文化 | 歌人中条茂余死去。44歳。高道町に住み小坂神社の献詠会に尽力し、また家塾を起して子弟を教導した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 2月19日 | 社会・文化 | 侯爵前田利為、渼子の結婚式が東京で挙げられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 3月20日 | 社会・文化 | 午前1時ごろ第四高等学校寄宿舎が焼失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 3月31日 | 社会・文化 | 金沢市立実業補習学校が市立商業学校に付設開校した。校舎は西町公会堂、定員200人、夜間授業で修業年限は半年ないし2年とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 4月10日 | 社会・文化 | 侯爵前田利為、渼子夫妻は結婚報告のため来沢し尾山神社と祖霊社に参拝した。(市は14日侯爵一家を市会議事堂に招き歓迎宴を開いた。また侯爵夫妻は16日金沢の官民1,000人余を同議事堂に招き結婚披露の宴を催した) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 4月 | 社会・文化 | 松本文三郎著「宗教と哲学」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 5月2日 | 社会・文化 | 市は日露戦勝記念事業の一つして、女子の職業に必要な知識技芸を授ける目的で市立女子職業学校を創設した。校舎は旧長町尋常小学校を使用し、生徒の募集を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 5月3日 | 社会・文化 | 朝、石浦町政教新聞社から出火、隣家阿部酒造店など全焼2戸、半焼5戸。大建築のため火勢が強烈だった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 5月10日 | 社会・文化 | 前田侯爵は婚礼記念に市内小学生全部に梅の枝型の筆架を贈った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 5月19日 | 社会・文化 | 在京の画家久保田米僊死去。56歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 6月2日 | 社会・文化 | 松ヶ枝町小学校跡の寄席松ヶ枝館が開館した。経営者は島崎与太郎と平田常太郎。(のち近江町の綿谷作太郎の手に移り、大正時代は同人の経営) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 6月20日 | 社会・文化 | 金沢市立女子職業学校は生徒90人で授業を開始した。7月21日開校式挙行。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 6月28日 | 社会・文化 | 和田文次郎著「出征軍人戦忠録」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 7月2日 | 社会・文化 | 在京金沢人儒家豊島洞斉死去。85歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 7月18日 | 社会・文化 | (第1艦隊が穴水に入港した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 8月6日 | 社会・文化 | 味噌蔵町上中丁15番地に新築の味噌蔵町高等小学校女児校が開校した。(41年4月7日味噌蔵町尋常小学校に改組、男女児を収客) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 8月21日 | 社会・文化 | 明石吉太郎著「石川県地理詳説」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 9月10日 | 社会・文化 | (門前の曹洞宗総持寺の神奈川県鶴見移転問題が起った。) | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 9月10日 | 社会・文化 | 一昨年焼失した市姫神社が完成、遷座式を挙げた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 9月22日 | 社会・文化 | 俳人竹村一川死去。80歳。十三間町中町に居住、維新の後、上絵を業とし、立机して小薺の後をつぎ十丈園と称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 10月29日 | 社会・文化 | 財団法人小野慈善院が認可になり理事小野太三郎が初代院長に就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 11月14日 | 社会・文化 | 総持寺移転反対大会が金沢市会議事堂で開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 12月6日 | 社会・文化 | 市立金沢商業学校の県立移管案が県会を通過した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 12月25日 | 社会・文化 | 金沢東遊廊の創立30年まつりを挙行しようとの計画があったが反対多く無期延期となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 12月 | 社会・文化 | 元浅川村下田上に耕地整理溜池築造の功労者本多翁紀功碑が建立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 12月 | 社会・文化 | 三宅雄二郎著「小泡十種」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治三十九年(1906) | 月日未詳 | 社会・文化 | 書家江間萬里死去。71歳。旧藩時代から明治にかけ藩主慶寧、斉泰の侍医をつとめるかたわら書道詩作に名声が高かった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 1月8日 | 政治・経済 | 金沢倉庫株式会社が開業した。(代表中司文次郎、資本金3万7,500円) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 2月5日 | 政治・経済 | 市営屠場の設置が市会で可決された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 2月12日 | 政治・経済 | 広坂通の火事(この日早朝)跡はそのまま道路拡張用地に決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 3月2日 | 政治・経済 | 金沢市内で最近電動力の需要がふえているが需要量は現在111馬力である。(38年65馬力、39年95馬力) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 3月20日 | 政治・経済 | 羽二重が原料高で不引合のため業者は4月1日から同盟休業を決議した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 3月22日 | 政治・経済 | 辰巳用水の水路損傷がはなはだしく、管理者から石川県と金沢市に対して補助金交付を願出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 4月1日 | 政治・経済 | ゴミ処理を市の直営事業にした。戦時中から肥料価格が上がり市内のゴミ焼却の灰も肥料として需要が急増(100斤が30銭)、市営に移しても処理経費を充分まかなえる見通しがついた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 4月3日 | 政治・経済 | 金沢監獄署が本日をもって完工した。(起工明治32年) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 4月11日 | 政治・経済 | 金沢市長が百間掘払下げを出願した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 4月27日 | 政治・経済 | 市第一課長渡辺宣と書記掛飛寛信が公文書偽造詐欺取材のうたがいで拘引され、渡瀬市長が引責辞職願を出したが慰留された。事件は日露戦当時、野戦病院で使用した病衣などの払下げに当り、両人が他と共謀し市の公用品名義で約1万点をだまし取ったというものであった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 4月30日 | 政治・経済 | 市は、市立女子職業学校生徒の造花、刺しゅうなど製作品を一般に売却できることにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 5月11日 | 政治・経済 | (七尾鉄道が9月1日政府に買収されることに決定した。買収価格143万376円。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 6月25日 | 政治・経済 | 市参事会員の半数改選があり餝谷与右衛門、能沢長太郎、飯尾次郎三郎が選出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 5月 | 政治・経済 | 野村喜一郎が金沢市魚商組合長になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 5月 | 政治・経済 | 石川郡笠舞に北陸製乳会社ができた。練乳、バターを製造する。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 6月29日 | 政治・経済 | 金沢製紙株式会社が長土塀に創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 7月 | 政治・経済 | 加州銀行は32、33年の生糸羽二重崩落で30万円減資したが、こんど80万円を増資し資本100万円とするに決定した。頭取は横山隆俊にきまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 8月8日 | 政治・経済 | 工業試験場設立の嘆願書が実業界有志から村上知事に提出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 8月14日 | 政治・経済 | 市参事会員宮野直道、餝谷与右衛門が辞任した。県議選に政友会から立候補するため。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 8月 | 政治・経済 | 米永五平、久保栄次郎の発起で株式会社金沢住吉八百物市場(金沢市石屋小路)が資本金2万円で設立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 9月12日 | 政治・経済 | 育英社総会に出席のため総裁前田利為が来沢した。総会では出資する社員の募集をきめたが多数の新社員を得た。(育英社は明治11年の創立、西南役に出征した本市出身者が年金等を拠出して加能越出身学生に学資を給し助けたのが起り) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 9月24日 | 政治・経済 | 県会議員選挙がおこなわれた。金沢市の定員は人口増加のため4人となった。(当選)木倉谷長与門、餝谷与右衛門、宮野直道、高田九八郎(次点)松木仁太郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月1日 | 政治・経済 | 戸板村長田、三馬村泉、河北郡小金村談議所の3火葬場が市の直営となり使用料も同一になった。(民営の3火葬場買収費は計2万9,000円) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月1日 | 政治・経済 | 市は一時、市公金取扱銀行からはずしていた加州銀行を再び取扱銀行に指定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月1日 | 政治・経済 | 専売局収納所が田丸町に開設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月11日 | 政治・経済 | 学校増改築のための第2回教育市債12万円の起債が許可された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月22日 | 政治・経済 | 宮野直道が県会議長になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月30日 | 政治・経済 | 金沢箔業組合が発会式を挙げた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 11月1日 | 政治・経済 | 新設の富山歩兵第69連隊は、歩兵第7連隊本部で事務を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 11月8日 | 政治・経済 | 石川県警察部長力石雄一郎は関東都督府民政署長に転出し、大分県警察部長永田秀次郎が後任に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 12月4日 | 政治・経済 | 市会議員半数改選で3級選挙がおこなわれた。7日に2級、10日に1級の選挙。(選挙は連合派が独走し、市会は初めて一派に統一された) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 12月8日 | 政治・経済 | 金沢組合銀行は銀行集会所を設立して手形交換所を独立させることにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 12月12日 | 政治・経済 | 金沢から美川、敦賀、武生、三国、鯖江、水橋、滑川、魚津への市外電話が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 12月13日 | 政治・経済 | 朝鮮開発を目的とする石川県農業株式会社が金沢地方の有力者により設立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 12月31日 | 政治・経済 | 本年末における市の戸数人口は、戸数19,757戸、人口112,053人である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 月日未詳 | 政治・経済 | 従来第9師団管下であった歩兵第18旅団は新設の京都第16師団管下にはいることになったため、塚本9師団長は決別式を敦賀で挙行した。(歩兵第31旅団が富山に新設され第9師団管下にはいった) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 1月7日 | 社会・文化 | 篤農家安原村高多久兵衛死去。57歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 1月20日 | 社会・文化 | 三味線鶴沢清治の碑が西堀川町智覚寺境内に建った。(手下政五郎ら発起) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 2月12日 | 社会・文化 | 午前2時広坂通(旧四高向う側の香林坊寄り)から出火、全焼4戸、半焼2戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 2月12日 | 社会・文化 | 市は「金沢市日露戦争時記」の編さんが終了したので市制施行以後の市吏編さんに着手することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 3月7日 | 社会・文化 | (曹洞宗本山総持寺の能登門前から鶴見への移転が認可になった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 3月9日 | 社会・文化 | 在京の男爵斯波(旧津田)蕃死去。65歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 3月12日 | 社会・文化 | 石川県立第一中学校を石川県立金沢第一中学校と改めた。第二中学校も同様。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 3月23日 | 社会・文化 | 金沢城西側の石垣長さ約45間、高さ15間、厚さ2間半が崩壊した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 3月30日 | 社会・文化 | 石川県立工業学校の山田敬中教諭が辞任した。在任9年だった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 4月1日 | 社会・文化 | 市立金沢商業学校が県立に移管され石川県立金沢商業学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 4月1日 | 社会・文化 | 金沢商業学校に付設されていた市立実業補習学校は、商業学校の県立移管と同時に市立の独立学校となった。(41年4月商業補習学校と改称) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 4月1日 | 社会・文化 | 市はこの日から報時鐘を廃した。報時鐘は承應元年初めて甚右衛門坂上に置かれ、隣地に東照宮があるので世に「権現堂の鐘」といわれた。明治4年西町1番丁に移った。時計の普及と午砲があるため廃されたもの。(鐘は文化6年の鋳造) | 金沢の百年 明治編 |
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明治四十年(1907) | 4月14日 | 社会・文化 | 金沢医師会の発会式が市会議事堂で挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 4月26日 | 社会・文化 | 金島文四郎死去。40歳。明治23年市から選ばれて上海の日清貿易研究所に留学、のち大阪商船に入り、大連支店長在職中だった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 5月19日 | 社会・文化 | 俳人花の本聴秋が来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 5月25日 | 社会・文化 | 犀川上流倉谷から流出する鉱毒は昨年からまたひどくなり、関係村民は対策を協議中である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 5月27日 | 社会・文化 | 画家稲野年恒が大阪で死去。50歳。北野恒冨もその門に学んだことがある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 5月 | 社会・文化 | 憲法(清水澄著)行政法原論(上杉慎吉著)比較各国憲法論(同上)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 6月8日 | 社会・文化 | 午後4時ごろ金沢城の石垣がまた崩壊し、即死1人、重傷1人を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 6月21日 | 社会・文化 | 徳冨蘇峰が講演のため初めて来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 6月25日 | 社会・文化 | 石黒千尋遺稿「来舶神旨近世諸藩来舶集」が遺族の手で刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 7月1日 | 社会・文化 | 初代金沢市長稲垣義方死去。67歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 7月4日 | 社会・文化 | 市村瓚次郎が石川県勧業博物館の蔵書調査のため来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 7月10日 | 社会・文化 | 加賀の刀工兼豊死去。77歳。通称木下甚吉、慶應2年伊勢大掾を受領した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 7月23日 | 社会・文化 | 北陸鉄道敷設に尽力した横山家家臣疋田直一死去。65歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 7月28日 | 社会・文化 | 石川県医師会の発会式が市会議事堂でおこなわれた。初代会長に山田謙次が就任。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 7月 | 社会・文化 | 動物植物顕微鏡実習摘要(市村塘著)動物栄養論(山下脇人著)漢訳法律経済辞典(清水澄著)などが刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 8月3日 | 社会・文化 | 宝円寺新住職増田雪巌の晋山式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 8月26日 | 社会・文化 | 殿町の豊国神社の卯辰山移転復帰が氏子の承認で決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 8月27日 | 社会・文化 | 桃中軒雲右衛門が初めて来沢、尾山座で口演した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 9月1日 | 社会・文化 | 金沢歯科医師会の設立準備会が開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 9月12日 | 社会・文化 | コレラ病が福岡、山口から阪神地方に侵入し県内でも赤痢が流行しているので市長が厳重予防方法を励行するよう告示した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 9月13日 | 社会・文化 | (能登門前の総持寺別院新築起工式が挙げられた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 9月 | 社会・文化 | 中田敬義著「福瑩遺稿(陸奥宗光伯遺稿)」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月1日 | 社会・文化 | 金沢漆工協会が第1回の漆工品評会を博物館で開催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月2日 | 社会・文化 | 川越政勝死去。工業学校創立時の書記、のち金沢で率先刺しゅうを奨励しその輸出に尽した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月19日 | 社会・文化 | 長谷川準也東京麻布区宮下町の自宅で死去。66歳。明治前期における金沢の先覚者。金沢藩につかえ明治6年金沢町総区長となり、以後製糸、撚糸、銅器各会社を起して士民の困窮を救い、26年金沢市長に挙げられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月20日 | 社会・文化 | 能楽家松本金太郎が来沢、謡曲会を催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月22日 | 社会・文化 | 日本基督教会の植村正久らが石浦町教会の創立25年記念会に出席し、25日まで説教をした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 10月 | 社会・文化 | 北辰詩社が蛤坂月見亭で同人会を開き機関紙「寒潮」の刊行をきめた。社は桜畠9番丁尾山方におく。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 11月16日 | 社会・文化 | 味噌蔵町高等小学校が開校式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 11月 | 社会・文化 | 砲術家市河万庵死去。70歳。米庵の子。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 11月 | 社会・文化 | 加越能郷友会雑誌は204号から「加越能時報」と改題された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 12月3日 | 社会・文化 | 在京の能楽家波吉宮門還暦の祝賀会が東京で催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 12月9日 | 社会・文化 | 盲啞学校創立協議会が金谷館で開かれた。(上森捨次郎ら集合) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十年(1907) | 月日未詳 | 社会・文化 | 金沢育成院は上鷹匠町25番地に移転し定員を70人にふやした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 1月17日 | 政治・経済 | 金沢市は百間堀下付願の撤回を申出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 1月21日 | 政治・経済 | 日本銀行金沢出張所の用地は山中久次郎より買収、登記を終った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 2月7日 | 政治・経済 | 北陸線森本駅の開設がきまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 2月16日 | 政治・経済 | 市は、消防力強化のため金沢警察署と新町分署に蒸気ポンプ各1台を備えつけることにし、そのため新たに1台購入の予算を市会に提出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 3月2日 | 政治・経済 | 市内機業家が電力不足につき近く金沢電気会社に抗議する相談をおこなった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 3月20日 | 政治・経済 | 富山新兵営に移転するため歩兵第69連隊先発隊が金沢を出発した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 3月30日 | 政治・経済 | 横浜、金沢間直通電信が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月2日 | 政治・経済 | 東京の新聞が「早川千吉郎東京にて金沢政界を左右す」と報じた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月3日 | 政治・経済 | 渡瀬市長の6月14日満期退任をめぐり、後任に堀助役を推す動きと県属田辺耿介を推す動きがでてきた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月10日 | 政治・経済 | 市長渡瀬政礼は任期満了で引退の意志があるが、市会連合派は引退を許さないとしている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月12日 | 政治・経済 | 戸水寛人の金沢市から弁護士に立候補する意向が伝えられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月22日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所書記長箕浦恭五郎が辞職して硬質陶器会社(10月創立)の支配人となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月27日 | 政治・経済 | 戸水寛人が金沢から出馬確定し非政友派の安田俊午郎、横地正果、巻田伊三郎等が活動を開始した。山森隆を支持する連合派は戸水を郡部から立候補させようと画策した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月2日 | 政治・経済 | 渡瀬市長が衆議院議員選挙に当り部下吏員に対し厳正中立を訓示した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月4日 | 政治・経済 | 戸水寛人の屋外選挙演説会が兼六園で開かれた。中橋徳五郎、三宅雪嶺らの応援演説があり聴衆1万2,000人に達した。金沢で最初の屋外演説会である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月16日 | 政治・経済 | 衆議院議員選挙の結果は(当選)1,697票戸水寛人、(次点)699票山森隆。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月22日 | 政治・経済 | 出羽町陸軍病院分院の古材で粟崎に陸軍廠舎の建設をはじめた。(5月31日完成、演習部隊が使用した) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月24日 | 政治・経済 | 野村の砲兵第9連隊が山砲から野砲にかわることになり、三八式野砲を迎え交換式を挙げた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 6月4日 | 政治・経済 | 市会議長宮野直道が辞任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 6月14日 | 政治・経済 | 金石警察署を廃止し分署とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 6月14日 | 政治・経済 | 渡瀬市長は任期満了となり退任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 7月3日 | 政治・経済 | 渡瀬前市長の後任問題は山森派と宮野派の間に意見が合わず紛糾していたが、村上知事が関係者を県庁に集め調停の結果、渡瀬の再任を了承した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 7月10日 | 政治・経済 | 宮野直道辞任後空席だった市会議長に林直が選出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 7月28日 | 政治・経済 | 渡瀬政礼が第6代の市長に就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 7月31日 | 政治・経済 | 皇太子の北陸行啓(明年9月)がきまったので、宿舎は成巽閣をあてることにし、このため勧業博物館を長谷川邸跡に移築することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 8月28日 | 政治・経済 | 旧城の百間堀が金沢市に払下げられることに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 9月8日 | 政治・経済 | 実業会を解散して新しく実業協会を組織、北間楼で発会式を挙げた。入会者60人、会長に本多政以を推した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 9月22日 | 政治・経済 | 百姓町から下主馬町に通ずる道路の取りひろめ工事が完工、開通式をおこなった。この工事にともない同所鞍月用水の橋も架替えられ桂橋と命名された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 10月4日 | 政治・経済 | 資本金80万円の日本硬質陶器株式会社が創立され同時に前の合名会社林屋組は解散した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 10月9日 | 政治・経済 | 県警察部長永田秀次郎は熊本県警察部長に転出(在任11ヵ月)、後任は岩手県警察部長石原磊三が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 10月16日 | 政治・経済 | 石川県は屋上覆葺規則を公布した。建物新築の場合は不燃物質をもって屋根をふき、また既設の建物も10年以内に不燃物質にふき換えなければならぬことなどを規定してある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 10月17日 | 政治・経済 | 金沢市会は皇太子奉迎準備委員9人を選出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 11月3日 | 政治・経済 | 金沢電気瓦斯株式会社により金沢で初めてガス供給が開始された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 11月10日 | 政治・経済 | 日本箔株式会社が京都、大阪、金沢の業者の発起により京都で創立総会を開催した。発起の金沢人は三浦彦太郎、永井与平、横浜津右衛門、田村幸太郎の4人である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 11月15日 | 政治・経済 | (富山、魚津間の汽車が開通した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 11月17日 | 政治・経済 | 広坂の改修工事がはじまった。この工事で金沢神社と偕行社の角を削った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 12月16日 | 政治・経済 | 金沢電気瓦斯株式会社は手取川で発電増設工事を施工することになり内務大臣に認可を申請した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 12月21日 | 政治・経済 | 第9師団長に神尾光臣中将(長野県人)が就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 12月21日 | 政治・経済 | 新築中の金沢地方裁判所が北方隣接地200坪を買収拡張した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 12月26日 | 政治・経済 | (美川の手取川大橋=何竜橋=の渡橋式が挙行された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 12月26日 | 政治・経済 | 東京、金沢間の長距離電話が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 1月3日 | 社会・文化 | 新川除町に基督教青年会寄宿舎が建った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 1月11日 | 社会・文化 | 上森捨次郎ら発起の私立金沢盲啞学校が市公会堂に創設された。(生徒31人) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 1月18日 | 社会・文化 | 県立金沢商業学校長永野耕造は興信所に転職、後任に教頭の中野観象が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 1月31日 | 社会・文化 | 午後10時15分ごろ上伝馬町から出火、全焼2戸、半焼3戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 2月1日 | 社会・文化 | 金沢女学校長木村尚編「普通語と対照せる金沢方言集」が林有声館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 2月3日 | 社会・文化 | 天然痘が金沢市内に続発した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 2月21日 | 社会・文化 | 午前3時半ごろ石川県庁後方の倉庫から出火、同倉庫を半焼。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 2月28日 | 社会・文化 | 午後6時半ごろ兼六園内前田家別邸予定地に残存の清娯亭が出火焼失した。狂人の放火という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 2月 | 社会・文化 | 倫理学概論(桑木厳翼著)最新思潮講話(三宅雄二郎著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 3月25日 | 社会・文化 | 寺地山(大乗寺山)山ろくの二子塚を伏見寺住職その他立会いで発掘した。出土品あり。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 3月 | 社会・文化 | 県立工業学校に付設の石川県立工業補習学校が創立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月1日 | 社会・文化 | 石川県師範学校から女子を分離し石川県女子師範学校とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月1日 | 社会・文化 | 長町高等小学校を廃止してその生徒を小将町高等小学校に収容した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月1日 | 社会・文化 | 長町6番丁33番地に長土塀小学校が創設され、仮校舎に金沢市公会堂をあてた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月14日 | 社会・文化 | 二塚南、中、北の3校が統合して石川郡二塚小学校と改称した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月17日 | 社会・文化 | 金沢の弓道家楠正可死去。59歳。四高、医専その他で弓術の指導をした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月18日 | 社会・文化 | 富樫村清瀬から出火、人家12戸、教場1を焼き全部落を焼失した。残ったのは土蔵3、神社1だけ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月19日 | 社会・文化 | 午後9時40分着列車で井上馨が早川千吉郎の案内で来沢した。明治天皇に随行来沢以来のこと。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 4月 | 社会・文化 | 額乙丸、四十万両小学校が統合して額小学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月1日 | 社会・文化 | 県庁内にあった石川県金沢測候所は野村字泉野(後の弥生町)の新庁舎に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月2日 | 社会・文化 | 蛤坂の料亭望月が開業した。(天台宗薬王寺跡) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月8日 | 社会・文化 | 加賀藩最初の独逸医学の医家小川孜成死去。65歳。明倫堂医学講師から緒方惟準の門に入って塾頭となり明治8年帰郷後金沢堤町で開業した。南疇遺稿、兼六公園誌の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月13日 | 社会・文化 | 安政義民50年忌が観音町寿経寺で執行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月15日 | 社会・文化 | 横山隆興が還暦の祝いに、6日間にわたり600人を金谷館に招待して盛宴をはり、また成巽閣で能楽を催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月15日 | 社会・文化 | 上胡桃町の多賀直春(旧藩人持組)が青草町に移転し、家伝薬「密丸」の販売をはじめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月15日 | 社会・文化 | 金石松葉楼が海辺に支店を設け、旅館および貸席を開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月19日 | 社会・文化 | 俳人島林甫立死去。67歳。墓柳舎と号し石川県吏を25年勤めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 5月28日 | 社会・文化 | 曹洞宗覚心院が茨城県から西町旧維新館に移って来て、彦三1番丁に安置の不動尊をここに移した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 6月14日 | 社会・文化 | 偕行社は出羽町練兵場の一角(成巽閣向い)に移築拡大することに決定した。(完成42年4月) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 6月4日 | 社会・文化 | 歌人江戸さい子が夫江戸静川(北陸新聞記者)と福井から金沢に移ってきた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 6月18日 | 社会・文化 | 師範学校新築地として地黄煎町から六斗林に至る空地約8,000坪の買約がほぼまとまったが、一部に不服をとなえる地主もあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 6月 | 社会・文化 | 私立金城女学校は中本多町3番丁に新校舎が落成、移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 7月1日 | 社会・文化 | 南新保、戸水両校を統合して鞍月小学校ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 7月25日 | 社会・文化 | 石川県精練会社職工が午後突然同盟罷業に入った。原因は職工田川某に乱暴な行為があったため解雇したところ、これを機に他の職工たちが日ごろの不満を爆発させたもの。会社は罷業職工中の主謀者3人を解雇して他の職工に就業をすすめたところ、26日午後から就業して落着した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 7月28日 | 社会・文化 | 県立小松中学校長文学士駒井徳太郎が第四高等学校教授に転任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 8月12日 | 社会・文化 | 明治37、38年石川県戦時記(戦時中の県内の事項を記録したもの、1,000余ページ)が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 8月27日 | 社会・文化 | 四高教授藤井乙男が八高教授に転任、名古屋へ出発した。(金沢在住10年) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 8月 | 社会・文化 | 森田柿園の蔵書目録および柿園蔵書一覧ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 9月3日 | 社会・文化 | 第9師団法官部付理事試補に新任された俳人松下英男(紫人)が金沢に着任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 9月6日 | 社会・文化 | 夏目漱石門下の俳人大谷繞石(正信)が四高教授として金沢に来任、歓迎句会が金谷館で催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 9月18日 | 社会・文化 | 維新後県が管理していた成巽閣が付属図書館の敷地とともに前田家に移譲されることになった。その際貴重図書も同時に返還、前田家はこれに対し1万円を県に寄付した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 9月21日 | 社会・文化 | 藤井紫影(四高教授)選、大内白月(北国新聞記者)編の俳句集「蕪鮨」が刊行された。(北陸新聞は紙上で酷評した) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 9月23日 | 社会・文化 | 北国新聞は俳句の選を大谷繞石に委嘱した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 9月25日 | 社会・文化 | 裏古寺町養智院が出火全焼。(開基正保3年) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 9月26日 | 社会・文化 | かねて県が創設準備中の感化院はとりあえず本多町工業学校前の農業補習塾を借受け、10月16日から石川県育成院として開院することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 10月5日 | 社会・文化 | 和田文次郎著「石川県人名録」が刊行された。(202人の略歴) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 10月8日 | 社会・文化 | 儒家旧津田家家臣草薙尚志死去。68歳。金沢市議をつとめ能美郡で鉱山を経営したこともあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 10月12日 | 社会・文化 | 機業家新田甚左衛門上堤町自宅で死去。62歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 10月15日 | 社会・文化 | 上田町小学校は森山町に新築移転し、森山町小学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 10月28日 | 社会・文化 | 前田家へ返還にきまった博物館蔵書を受取りのため織田小覚、永山近彰が来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 11月1日 | 社会・文化 | 京都大学講師内藤湖南が博物館蔵書展観のため来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 11月6日 | 社会・文化 | 石川県育成院の仮舎が本多町に建ちひき移った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 11月15日 | 社会・文化 | 森山町小学校が開校式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 11月 | 社会・文化 | 示野小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 12月1日 | 社会・文化 | 歴史家森田柿園(平次)死去。86歳。加賀藩の治積579巻を著塾し、さらに明治に入って前田家の命により18年間で藩史1,300巻を編さんした。他に加賀藩貨幣録など著書も多い。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 12月7日 | 社会・文化 | 北陸新聞の俳句選者は紫人にかわって荻原井泉水が引受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 12月 | 社会・文化 | 内川小学校が新築落成、移転開校した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十一年(1908) | 12月 | 社会・文化 | 泉鏡花の「婦系図」と「草迷宮」が出版発売された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 1月4日 | 政治・経済 | 新任の第9師団長神尾光臣中将着任。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 1月21日 | 政治・経済 | 金沢の自宅電話加入者の東京、横浜および京阪への長距離通話が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 1月22日 | 政治・経済 | 市は皇太子行啓記念事業として観音町から卯辰山忠魂堂に至る道路の開さく認可を県へ申請した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 1月25日 | 政治・経済 | 犀川の西御影町から米丸村に至る御影橋が完成、渡橋式がおこなわれた。幅10尺、長さ64間、費用は高儀町有志の寄付。(従来は私設橋があった) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 2月12日 | 政治・経済 | 市が東京に注文中の第2蒸気ポンプが到着した。さっそく金沢警察署門内に備えつけ、従来同署内に備えつけのものは新町分署に移した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月1日 | 政治・経済 | 金沢地方裁判所と区裁判所は庁舎新築が大部分完成したので、新庁舎に移って執務を始めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月14日 | 政治・経済 | 41年12月末の金沢市の人口は110,122人と発表された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月15日 | 政治・経済 | 日本銀行金沢出張所が石浦町70番地に完成、本日から営業を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月20日 | 政治・経済 | 本月限りで石川県勧業博物館を廃し、これを公園に移転改築して石川県物産陳列館を設置することに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月21日 | 政治・経済 | 金沢駅前郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 4月2日 | 政治・経済 | 観音町から卯辰山への登山路工事がはじまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 4月 | 政治・経済 | 大衆免の本岡太吉が東京亀戸地方から蓮根の新種を移植した。(この新種蓮根は大正時代に隆盛を呈した) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 5月22日 | 政治・経済 | 石川県物産陳列館の開館式が大浦農相臨席のもとに挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 6月1日 | 政治・経済 | 歩兵第35連隊(野村)に在隊中の清国陸軍留学生胡学伸が、連隊の重要書類を盗んだといういわゆる35連隊重要書類紛失事件で連隊長以下4人が休職となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 6月13日 | 政治・経済 | 金沢地方裁判所の落成式が岡部法相臨席のもとに盛大に挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 6月 | 政治・経済 | 日本銀行金沢出張所開設により手形交換じり決済は、日本銀行当座勘定による振替制を採用することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月1日 | 政治・経済 | (メートル法実施。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月1日 | 政治・経済 | 横山町2番丁旧横山邸跡の練兵場が廃止された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月2日 | 政治・経済 | 北陸3県の4市長が金沢市役所で皇太子奉迎打合せ会を開いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月6日 | 政治・経済 | 北陸線の車両修理のため金沢鉄道工場が開所した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月11日 | 政治・経済 | 金沢の機業場主、北岩松がアメリカ各地の機業状況を視察して帰った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月13日 | 政治・経済 | 皇太子行啓記念事業の向山観音坂開さく工事が完工した。(25日開通式、観音坂の名称はこの時から) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月15日 | 政治・経済 | 旧城百間堀は陸軍省から石川県に交付され、知事はさらに金沢市に下付を指令した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月8日 | 政治・経済 | 河北郡小坂村字浅野、中島が金沢市に編入を県へ請願した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月31日 | 政治・経済 | 皇太子県下行啓の日程が確定し発表された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月8日 | 政治・経済 | かねて伝えられた通り戸水寛人、井上敏夫、米田穣が政友会に入党した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月9日 | 政治・経済 | 金沢出身木越安綱が第6師団長に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月11日 | 政治・経済 | 皇太子の北陸行啓にあたり加賀の功臣学者に次の通り位記の追贈が発表された。(従2位)前田利常、前田綱紀(正4位)木下順庵(従4位)本多政均、室鳩巣、稲生若水(正5位)黒川良安。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月12日 | 政治・経済 | 浅野川の母衣町から東馬場に通ずる中ノ橋が新設されるので(10月11日完成)従前の私設一文橋の持主酒井信吾は、収入を失い生活に困窮すると救済金の下付を市に願出た。一文橋は先代酒井平一が天保年間、町奉行半田左門、佐藤丈五郎に冥加銀を納めて架設許可を得、70余年間有料橋として経営していたもの。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月16日 | 政治・経済 | 皇太子が北陸行啓のため東京を出発された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月19日 | 政治・経済 | 皇太子は午後3時福井県庁に到着された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月23日 | 政治・経済 | 皇太子は午後4時37分福井から金沢駅に着かれた。28日まで各方面を視察。(視察個所のうち民間関係は硬質陶器、北機業場、石川県精練の3社) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月29日 | 政治・経済 | 皇太子は午前8時45分金沢発、富山県に向われた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月 | 政治・経済 | 本多政以が葵搾乳場を経営することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月10日 | 政治・経済 | 金沢鉄道工場を増築することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月13日 | 政治・経済 | 倉谷鉱山は本月一杯で廃止することに三井家で決定したという。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月23日 | 政治・経済 | 栄町から長町川岸に至る道路(図書橋通)直線化のため用地20間を買収した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月1日 | 政治・経済 | 昨年再任した渡瀬市長はかねて辞意固く、行啓の御礼言上から本日帰沢して辞表を堀助役に提出した。(11月6日付辞職、在職7年5ヵ月) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月5日 | 政治・経済 | 金沢税務監督局は京都税務監督局に合併され本日限り閉局した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月8日 | 政治・経済 | 市会は市長後任に政友会山森隆を推し、本人も承諾した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月12日 | 政治・経済 | 金沢税務署は大手町の元税務監督局舎に移転し、執務を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月21日 | 政治・経済 | 石川郡野村が村費で野村消防組を創設、結成式を挙げた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月23日 | 政治・経済 | 市会は市長選挙会を開き山森隆、清水兼之、餝谷与右衛門の順位に候補者を選出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月27日 | 政治・経済 | 市会は渡瀬前市長に対する慰労金5,000円を決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月1日 | 政治・経済 | 旧城百間堀道路工事の施工が認可された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月15日 | 政治・経済 | 金沢市所得調査委員選挙人選挙が執行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月17日 | 政治・経済 | 山森隆が市長に就任した。(15日裁可) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月22日 | 政治・経済 | 河北郡小坂村字浅野、中島の一部の金沢市編入が県参事会で可決された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月 | 政治・経済 | 富山銀行金沢支店が開店した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 月日未詳 | 政治・経済 | 加賀梨購買販売組合が設立された。(事務所金沢市深川町3番地) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 1月3日 | 社会・文化 | 金沢医専教授に内定の松原三郎が帰沢した。36年からアメリカに留学していた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 1月18日 | 社会・文化 | 市は昨年来市内貧困家庭の子弟で昼間の通学困難な者の夜学校入学を奨励した結果、入学者は150人に達した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 1月 | 社会・文化 | 時代と哲学(桑木厳翼著)宇宙(三宅雄二郎著)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 1月 | 社会・文化 | 泉鏡花の「春宵読本」「神鑿」「鏡花小品」などが相次いで発売された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 2月10日 | 社会・文化 | 俳人花の本聴秋が来沢、吉田鼠禅方に滞在した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 2月11日 | 社会・文化 | 政友会系の石川新聞が刊行された。(昨日金谷館で発刊祝賀会が催され350余人が出席した) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 2月13日 | 社会・文化 | 旧藩最後の銀座役中田庄三郎死去。71歳。家柄町人で上今町に住み、通称紙屋庄三郎といった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 2月19日 | 社会・文化 | 近藤磐雄著「加賀松雲公」3冊が前田家から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 2月21日 | 社会・文化 | 監獄署が尻垂坂から小立野に新築移転したため尻垂坂付近の地価が値上りした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 2月25日 | 社会・文化 | 法学士高木亥三郎が前田家家扶になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 2月27日 | 社会・文化 | 兼六園内橋亭の借受け人一丸が霞ヶ池に屋形船を浮かべることを県に願出ていたが許可された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月6日 | 社会・文化 | 北国新聞記者大内白月(俳号月仙、句集蕪鮨の編者)は郷里富山の北陸タイムス社に入社、帰郷した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月20日 | 社会・文化 | 皇太子の宿舎にあてる成巽閣は、前田家で正門の位置替えと各室の修繕中であるが4月末に完工の予定である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月20日 | 社会・文化 | 早朝裏古寺町養智院が出火、焼失した。昨年につづき2回目の焼失である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月21日 | 社会・文化 | この日から公園霞ヶ池に屋形船蓬萊丸が浮んだ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月22日 | 社会・文化 | 横山隆興の主唱で尾山旧誼会が生れた。はじめ旧藩士だけを会員にする案であったが、異論が出て資格を限らぬことになった。旧藩主に対する謝恩を主旨とし、毎月1回尾山神社に集った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 3月24日 | 社会・文化 | (小松町に大火、310戸焼失。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 4月9日 | 社会・文化 | (午前11時半ごろ能美郡粟生村で出火、全焼13戸、半焼1戸。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 4月15日 | 社会・文化 | 金沢病院の院長が高安右人から山崎幹に交代した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 4月25日 | 社会・文化 | 私立石川県教育会付属図書館が開館式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 4月 | 社会・文化 | 御経塚と八日市両小学校が合併して、八日市に押野小学校ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 4月 | 社会・文化 | 出羽町練兵場の一角に新偕行社が完成した。(大手町から旧偕行社建物を移し本館を増築したもの) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 4月 | 社会・文化 | 七五三亀吉著「皮膚病梅毒図譜」が刊行された。原色版によるもので、その一部は金沢の明治印刷で製版された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 5月3日 | 社会・文化 | 卯辰山を公園にする計画ができた。しかし市は墓地の処置に困却している。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 5月5日 | 社会・文化 | 皇太子の行啓を前に市内で大規模の大掃除を実施したところ、実施の方法や検査の不統一から各所でもめごとが起きた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 5月7日 | 社会・文化 | 林賢徳らが主唱して建設された東京の明倫学館は総裁に前田利為侯、副総裁に前田伯と前田子、監督に河村善益、寮長に駒井覚が就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 5月12日 | 社会・文化 | 金沢病院に精神科が新設され、松原三郎が部長に就任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 5月17日 | 社会・文化 | 井上友一が法学博士を授与された。(のち東京府知事) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 5月19日 | 社会・文化 | 和田文次郎著「義勇奉公美譚」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 5月28日 | 社会・文化 | 今様能狂言の泉祐三郎一座が来演した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 6月 | 社会・文化 | 県は今夏から天然氷の食用を禁止した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 6月 | 社会・文化 | 国府犀東(種徳)著「大日本現代史」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月10日 | 社会・文化 | 石川県庁は県下の特殊部落の人口調査をおこなうことになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月13日 | 社会・文化 | 橋場町ト一亭の次男小将町高等小学校生徒(13歳)は体重15貫500匁身長5尺3寸、横綱梅ヶ谷の懇望で弟子入りがきまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月13日 | 社会・文化 | 長町高等小学校の古材で新築中だった長土塀小学校が完成し、授業を開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月14日 | 社会・文化 | 旧藩士小川清太死去。82歳。第13代前田斉泰に近侍し、越後戦争に隊長の一人として転戦、小川清太見聞録(談話集録)がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月23日 | 社会・文化 | 卯辰山観音坂上の小島甚右衛門邸が料亭「千歳」となり開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月 | 社会・文化 | 四高教授西田幾多郎が学習院教授に転任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月 | 社会・文化 | 日本園芸会石川県支部が結成された。(事務所、石川県農会内) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 7月 | 社会・文化 | 東洋産有用醱酵菌(斉藤賢造著)帝国及び列国海軍(小栗孝三郎著)刊行。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月1日 | 社会・文化 | 俳人角田竹冷が来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月14日 | 社会・文化 | 義勇艦梅ヶ香丸が金石に入港した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月17日 | 社会・文化 | 市会は皇太子の行啓につき道筋の共同便所取除きを決議、全市30余ヵ所のうち13ヵ所を取除き17ヵ所を板囲いした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月19日 | 社会・文化 | 俳人河東碧梧桐が来沢した。広坂通沢谷旅館に投宿。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月22日 | 社会・文化 | 野町尋常小学校の新築落成式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月25日 | 社会・文化 | 北陸俳句大会が金沢で開かれ滞在中の河東碧梧桐が出席した。参加者50余人、碧梧桐は27日出発、白山に登った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月27日 | 社会・文化 | 画家山元春挙が七尾から来沢、雨夜旅館に投宿。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月29日 | 社会・文化 | 長土塀尋常小学校の新築落成式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 8月31日 | 社会・文化 | 皇太子行啓の際に成巽閣内でご覧に入れる前田家古器が金沢に到着した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月1日 | 社会・文化 | 皇太子行啓中の取締りのため、県下の狂人を調査したところ1,262人あり、うち上奏狂が1人ないし2人あるという。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月1日 | 社会・文化 | 堀田如夫著「金沢要覧」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月5日 | 社会・文化 | 藤岡作太郎著「松雲公小伝」が前田家から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月6日 | 社会・文化 | 片町の呉服商千田勘右衛門が突然閉店を発表した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月8日 | 社会・文化 | 総持寺、永光寺および大乗寺の開祖瑩山紹瑾に常済大師の号が皇室からおくられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月15日 | 社会・文化 | 「石川県教育要覧」を県が刊行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月30日 | 社会・文化 | 四高教授大谷正信(続石)は英国留学のため東京へ出発した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 9月 | 社会・文化 | 県は皇太子行啓記念の「石川県写真帳」を刊行した。和田尚軒編「河北志」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月1日 | 社会・文化 | 国府犀東の「犀東文集」が隆文館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月2日 | 社会・文化 | 金沢医学界の先覚太田美濃里死去。79歳。緒方洪庵の門に学び金沢医学館教師となり、置県後石川県病院長兼医学所学長をつとめ、病院新築のため奔走して資金を集めた。その後各種団体の会長となり藍綬褒章も受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月12日 | 社会・文化 | 木下順庵、稲生若水、室鳩巣の贈位祭が市会議事堂で挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月21日 | 社会・文化 | 今様能狂言の泉祐三郎が福助座で開演。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月24日 | 社会・文化 | 金沢出身の陸軍中将塩屋方圀が日糖事件に連座して位階返上のうえ軽懲役7年に処せられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月25日 | 社会・文化 | 四高生徒肥佐多甲、茂木霜松の2人は犀瀧から見越山、奈良岳に登山のため金沢を出発したまま消息を絶った。(不明のまま終る) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 10月 | 社会・文化 | 平栗小学校が野小学校の定期平栗分教場となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月16日 | 社会・文化 | 正午ごろ木町2番丁から出火、全焼6戸、半焼など6戸。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月16日 | 社会・文化 | 野小学校の新校舎が十一屋に完成し、開校式を挙げた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月25日 | 社会・文化 | 画家北川金嶙が帰省した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月30日 | 社会・文化 | 下新町のいろは座が香林坊福助座主の手に入り、第四福助座と改名のうえ舞台開きをした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 11月 | 社会・文化 | 和田文次郎著「金沢写真案内記」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月8日 | 社会・文化 | 西町小学校が松ヶ枝町に新築完成、松ヶ枝町小学校と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月10日 | 社会・文化 | 県はランプのガラス製石油壺を来年4月1日から使用禁止にした。(つりランプを落すと石油壺が割れて火事になる恐れがあるため) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月10日 | 社会・文化 | 南郷茂光大阪で死去。62歳。前名浅津渉。維新のとき活躍、藩から英国に留学し、帰国後は外国人雇用などにも関与して働いた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月22日 | 社会・文化 | 石川郡二塚村の南、中、北の3小学校が合併し二塚小学校となり、笹塚の新校舎にはいった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 12月24日 | 社会・文化 | 代議士戸水寛人が東京帝国大学法学部教授を退官した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 月日未詳 | 社会・文化 | 俳人金生禹谷(押野屋久平)死去。75歳。後藤雪袋の弟、安江町で旅宿を営み所居を雪袋堂と名づけた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十二年(1909) | 月日未詳 | 社会・文化 | 県が「石川県志要」を刊行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 1月2日 | 政治・経済 | 白銀町の米谷銀行金沢支店が下堤町に移転開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 1月7日 | 政治・経済 | (産業組合中央会設立。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 1月12日 | 政治・経済 | 上菊橋の架替えが市会で不承認になったので、警察は腐朽はなはだしく危険につき通行止めにすると市長に通告した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 2月3日 | 政治・経済 | 材木町6丁目から味噌蔵町裏丁(東丁)に至る新道が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 2月12日 | 政治・経済 | 明治31年解散した金沢市農会の再結成協議会が市勧業係のあっせんで開かれた。参加者百数十人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 2月16日 | 政治・経済 | 犀川以西にできる新駅の位置は押野村字太郎田地内(一部米泉)にきまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 3月17日 | 政治・経済 | 山森市長は就任以来初めて市吏員23人を参事会の承認を得て罷免した。一時金をそれぞれ規定によって支給した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 3月 | 政治・経済 | 尻垂坂郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月13日 | 政治・経済 | 石川県農事試験場が石川郡三馬村に移転し開所式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月16日 | 政治・経済 | (魚津、泊間に汽車が開通した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月28日 | 政治・経済 | 石川郡大野庄用水支流水門改造について鞍月村字戸水と大野村無量寺、畝田の間で紛議が起きていたが、調停者がはいってまとまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 5月4日 | 政治・経済 | 金沢製氷会社が設立された。資本金6万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 5月7日 | 政治・経済 | 市助役堀俊明は任期満了となり、再選された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 5月15日 | 政治・経済 | 宮野直道らの発起で福光、金沢間に軽便鉄道敷設が計画されている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月14日 | 政治・経済 | 知事村上義雄が休職となり、静岡県知事李家隆介が後任に任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月18日 | 政治・経済 | 両横山家経営の鉱山業を統合して合名会社横山鉱業部が設立された。当分事務所は南町。資本金100万円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月28日 | 政治・経済 | 地元有志の寄付で架設された浅野川梅ノ橋の渡橋式が挙行された。(のち市に寄付) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月28日 | 政治・経済 | 市は3台目の蒸気ポンプを購入し堤町第5消防組へ配置することにした。(現物は7月到着) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月29日 | 政治・経済 | 上金石町実業会が設立され発会式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月30日 | 政治・経済 | 犬養毅(国民党)が遊説のため、はじめて来沢、梅本町塚本旅館に投宿。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月10日 | 政治・経済 | 専売局は金沢煙草製造所長町分工場開設のため職工300余人募集を発表した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月15日 | 政治・経済 | 市は新制の宅地価賃貸価格調査委員選挙をおこなった。定員12人。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月16日 | 政治・経済 | 本年度になって金沢市で電話が88本増設開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月20日 | 政治・経済 | 金沢の一部米穀商人が開いている無許可の米市に対し県保安課長が警告を発した。この米市は島田町米谷倉庫で毎月1、6の日に開く米友会(鈴木幸太郎、浅井為次郎、伊藤鉄次郎ら)と野町1丁目泉野神社境内で毎月8の日に開く犀川米穀会(吉田次太郎、山田定吉、滝谷与三郎ら)で、県は明治29年農商務省令第1号に該当するとして代表を呼び警告したもので、代表らは解散を誓い引取った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月26日 | 政治・経済 | かねて紛議中の織物組合長に中崎与四右衛門が就任を承諾した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月30日 | 政治・経済 | 産業組合中央会石川支部発会式がおこなわれ、支部長李家知事はじめ有力者数十人が北間楼に招待された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月31日 | 政治・経済 | 逓信大臣後藤新平が来沢、古今亭に投宿した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 8月15日 | 政治・経済 | 市営の新屠場は仙人町に正式決定し許可を申請した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 8月26日 | 政治・経済 | 昨年末金沢市に編入された旧小坂村浅野、中島の一部は金沢市上中島町と改称された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 8月30日 | 政治・経済 | 市から卯辰山遊園地造成の設計を依頼された東京府技師長岡安平が来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 9月1日 | 政治・経済 | 石川郡大野町と金沢間の市外電話が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 9月17日 | 政治・経済 | 才明銀行の破産が決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 9月29日 | 政治・経済 | 絹糸共同会が精練業の県営につき反対決議をした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 10月1日 | 政治・経済 | 県内務部長依田銈次郎は休職、後任に川崎卓吉(長崎県警察部長)、また警察部長石原磊三は内務省へ転出、後任に山県治郎(静岡県事務官)が発令された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 10月1日 | 政治・経済 | 金沢市の県議補欠選挙がおこなわれ清水兼之が当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 10月2日 | 政治・経済 | 金沢市農会が成立して山森市長が会長となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 10月12日 | 政治・経済 | 政友会の原敬らが来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 10月24日 | 政治・経済 | 三井鉱山部経営の倉谷鉱山は経営難のため事業を中止した。鉱山の建物、採鉱製練設備一部を売却した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 11月1日 | 政治・経済 | 石浦町49番地に鉄道小荷物受付所が開業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 11月12日 | 政治・経済 | (手取川栗生大橋の架替えが完成し渡橋式が挙行された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 11月 | 政治・経済 | 市会議員半数改選が近づき、政友会の横暴を憤慨する者や市政革新をはかろうとする者が市民会を結成(篠原譲吉、山田定吉、角田他十郎、石見谷伊兵衛」、河瀬貫一郎ら)するなど政党の動きが活発になって来た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 11月 | 政治・経済 | 桜橋の2回目の架替えが完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 12月10日 | 政治・経済 | 金沢市会議員選挙がおこなわれた。3級4日、2級8日、1級10日。選挙結果は政友会が多数を占めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 12月20日 | 政治・経済 | 南町の横山鉱業部がこんど大手町元偕行社の地続地を買収して新築移転することになり着工した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 月日未詳 | 政治・経済 | 金沢機関区修車場が独立して金沢鉄道工場となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 1月17日 | 社会・文化 | 四高教頭中野嘉作死去。53歳。金沢市御歩町出身。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 1月18日 | 社会・文化 | 尾山旧誼会長横山隆興が隠居と同時に会長を辞任、本多政以が新会長になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 1月22日 | 社会・文化 | 石川郡押野村小学校の建設敷地は八日市に決定したが、区民のうちに村中央部建設を主張するものがありもめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 1月 | 社会・文化 | 「実地栽培松茸と椎茸」が石川県山林会から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 1月 | 社会・文化 | 泉鏡花の「鏡花集」が出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 2月3日 | 社会・文化 | 東京帝大助教授文学博士藤岡作太郎(早道町出身)東京の自宅でぜんそくに余病併発死去。41歳。葬儀は6日本郷区駒込蓬萊町真浄寺で執行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 2月20日 | 社会・文化 | 歌人残木牧野一平死去。(書籍出版、雲根堂主人) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 2月 | 社会・文化 | 三宅恒方著「フオルソム氏昆虫学」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 3月1日 | 社会・文化 | (小松電機会社が開業、点灯をはじめた。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 3月4日 | 社会・文化 | 薬種商石黒伝六脳出血で死去。74歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 3月23日 | 社会・文化 | 先日来、見切り販売中の安江町の勧商場(杉本経営)は建物を売却、本日限りで廃業した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月1日 | 社会・文化 | 味噌蔵町尋常小学校に高等科を併置し味噌蔵町尋常高等小学校と改称、同時に材木町校は男児校、味噌蔵町校は女児校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月1日 | 社会・文化 | 下田上小学校の校舎が落成、移転した。(現校舎) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月1日 | 社会・文化 | 金沢病院は医師会から薬価引上げに同調を求められていたが、1年半経過したので引上げを実施した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月1日 | 社会・文化 | 市は昨年から市内貧困家庭児童に9ヵ所で夜学教授所(小学校)を開いていたが、文部省の補助金(年額500円)が打切られたので廃止した。通学生徒数は男96人女148人であった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月6日 | 社会・文化 | 市立女子職業学校は旧西町尋常小学校跡に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月8日 | 社会・文化 | 八坂松山寺山腰天鏡師が2ヵ月の予定で山陰道巡錫に出発した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月12日 | 社会・文化 | 金沢の新派俳人河越風骨が渡韓につき三芳庵で送別句会を開催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月14日 | 社会・文化 | 宮城控訴院長前田孝階(旧加賀藩士)死去。51歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月15日 | 社会・文化 | 殿町の私立金沢女学校(経営者真館貞造)は大谷派婦人会法話会金沢支部(支部長吉藤悟子)の経営となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月16日 | 社会・文化 | (午後4時ごろ鳳至郡輪島町河井より出火、1,281戸焼失、被災者4,834人。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月27日 | 社会・文化 | 県立金沢商業学校が創立10周年記念祝賀式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月30日 | 社会・文化 | 実業家今村勇次郎死去。71歳。取引所理事長、農工、加州両銀行の重役を勤めた。(母は銭屋五兵衛の長女) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 4月 | 社会・文化 | 憲法及行政法講義(清水澄著)算術講義(吉田好九郎著)偉人の跡(三宅雄二郎著)などが刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 5月7日 | 社会・文化 | 帝室技芸員(京都住)川島甚兵衛死去。58歳。金沢出身、元東京府知事井上友一の弟。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 5月11日 | 社会・文化 | (ハレーすい星が最大光度を示した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 5月12日 | 社会・文化 | 竹久夢二が来沢、新川除町基督教青年会館に滞在した。(金沢での作品は夢二画集に採録されている) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 5月25日 | 社会・文化 | 岩村知事時代、官民倶楽部として会員組織で創立した金谷館が解散した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 5月 | 社会・文化 | 室生犀星がはじめて上京した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月18日 | 社会・文化 | 文部省斯波宗教局長から大乗寺所蔵の支那五山十刹之図を提出するよう依頼してきた。(国宝指定のため) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月18日 | 社会・文化 | 金沢出身神戸市選出代議士桜井一久死去。53歳。本多町中丁生れ。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月25日 | 社会・文化 | 新竪町尋常小学校が完成し落成式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月26日 | 社会・文化 | 九谷焼復興に尽した阿部碧海死去。73歳。本名甚十郎敬忠、加賀藩馬廻役(1,500石)をし長崎に留学、七尾町奉行もつとめた。明治2年古寺町の邸内に窯をつくり工人7,80人を育成し、九谷焼の改良と販路拡張に尽し九谷焼復興の緒を築いた。「七ツ伊呂波」など語学入門書も書いた。 | 金沢の百年 明治編 |
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明治四十三年(1910) | 6月28日 | 社会・文化 | 御歩町に東廓練習場ができ開場式がおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月29日 | 社会・文化 | 額小学校校舎が新築された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月 | 社会・文化 | 奥野他見男の「凸坊の日記」が刊行された。(奥野は金沢生れ、金沢二中から金沢医専薬学科を卒業した) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月 | 社会・文化 | 室内装飾法(杉本文太郎著)顕微鏡及鏡査術式(鈴木文太郎著)などが刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 6月30日 | 社会・文化 | 市営火葬場で人夫による死体損壊事件が発生、市は遺族から慰謝料要求の私訴を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月1日 | 社会・文化 | 在京小鼓の名家三須錦吾死去。79歳。加賀能役者平右衛門の長男。幼時より幸家の門に入った。孫の五郎は幸流の家元となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月5日 | 社会・文化 | 金沢実業界の先覚者円中孫平死去。81歳。維新前は五宝町40番地で笠商、明治に入り金沢で製糸、銅器はじめ各種企業にたずさわり海外貿易にも進出した。片町郵便局長もつとめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月8日 | 社会・文化 | 天皇が東京本郷の前田邸に行幸。(天覧能あり、金沢からも数人参加した) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月15日 | 社会・文化 | 元石川県会議長神野良死去。60歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月19日 | 社会・文化 | 県会義員木倉谷長与門死去。49歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 7月 | 社会・文化 | カナダ・メソジスト伝道会社が、経営する私立金沢英学院を楠正道に譲渡した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 8月26日 | 社会・文化 | 本県から大阪癩療養所に送った患者は8人で、うち1人退所、1人死亡現在在所者は6人である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 8月27日 | 社会・文化 | さる2月3日死去の藤岡作太郎の遺児3人のために、西田幾多郎、得能文、藤井乙男の3人が発起して遺児教育費の募金を計画、故人の友人、門下に呼びかけを始めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 8月27日 | 社会・文化 | 前田家は経王寺にある寿福院および善良院の墓を野田山に改葬することにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 8月27日 | 社会・文化 | 尾山秋人(篤二郎)の歌集「永き順礼の旅より」が刊行された。(近作50首をおさめた価8銭の小冊子) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 8月28日 | 社会・文化 | 佐川耕作著「贈従四位松平大弐君之最後」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 8月30日 | 社会・文化 | 俳句雑誌「初葉」第1号(長土塀1番丁28吉田升陰編)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 9月10日 | 社会・文化 | 森下町の茶商米沢喜六死去。79歳。旧藩時代肝煎役町会所に詰め帯刀を許されていた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 9月15日 | 社会・文化 | 李家知事は文部大臣の訓令によって、県立学校長に対し社会主義の予防とその方策を示した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 9月25日 | 社会・文化 | 県は新設の県立図書館建築費3万5,000円と図書費初年度分1万円を予算に計上にした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 10月17日 | 社会・文化 | 留学中の金沢医専教授医学士下平用彩が帰沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 11月 | 社会・文化 | 算数教育家越田善七死去。67歳。規矩流数学をきわめ卯辰山集学所の教員となり、明治以降は各学校の教員のかたわら私塾を開いた。和算楷梯、新式算法等の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 12月17日 | 社会・文化 | さる11月7日長町川岸専売局予定地で、金沢一中生徒同士が決闘のすえ一人が死んだ傷害致死事件の判決公判が金沢地方裁判所で開かれ、加害生徒5人のうち1人が懲役2年の実刑、4人が懲役2年執行猶予2年を言渡された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 12月24日 | 社会・文化 | 英人宣教師ハリエト・ジョースト女史が市内馬場6番丁5番地に私立馬場幼稚園を設立した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 12月26日 | 社会・文化 | 会員組織の経営を解散した金谷館を金沢市が1万3,000円余で買収した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 12月28日 | 社会・文化 | 県は兼六園紺屋坂上の覧勝亭およびその下の菊水茶屋を立ちのかせて入口の坂路を取りひろめることにした。また三芳庵の北隣の柳橋茶屋および県有の内橋亭の西隣の能久治の茶席と卯辰山に対面する環翠亭を立ちのかせることにした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十三年(1910) | 12月29日 | 社会・文化 | かねて旧藩時代の仲間小者を士族に編入してほしいと願出ていた旧藩士1,190人が皇太子行啓を機に士族編入を聞き届けられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 2月25日 | 政治・経済 | 市会議員辰村米吉の経営する土木業の工事担当者が人夫賃を詐取した事件が発生、辰村は責任上市議と商業会議所議員を辞任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 2月28日 | 政治・経済 | 河北郡森本駅の起工式がおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 3月27日 | 政治・経済 | 商業会議所議員の半数改選がおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 3月31日 | 政治・経済 | 金沢市安江町郵便局が設置された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 5月5日 | 政治・経済 | 野町1丁目から西廓(助九郎町)に通ずる道路取りひろめ工事が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 5月 | 政治・経済 | 金沢商業会議所会頭に横山章、副会長に久保田全が選出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 6月1日 | 政治・経済 | 日本銀行金沢出張所が金沢支店に昇格した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 6月1日 | 政治・経済 | 百間堀道路が完成し開通式を挙行した。延長317間、幅6間、総工費3万2,000円。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 6月10日 | 政治・経済 | 石川県多額納税議員に大家七平が当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 6月25日 | 政治・経済 | 小坂村に消防が設置され創立式をあげた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月1日 | 政治・経済 | (直江津、名立間に汽車が開通した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月5日 | 政治・経済 | 6月10日執行の多額納税議員選挙に金銭授受があったとして関係者の家宅捜査がおこなわれ拘引されるものもあった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月7日 | 政治・経済 | 米価暴騰で生活困窮者が多いため山森市長はその対策のため参事会を召集した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月8日 | 政治・経済 | 緊急市会は米価暴騰対策として外国米の購入を決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月10日 | 政治・経済 | 外国米購入のため餝谷、小鍛冶の両参事会員が神戸に出張した。(帰沢14日) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月12日 | 政治・経済 | (藩政末期に設立の七尾造船所敷地約1万坪=矢田新駅付近=の引渡しを海軍省より要求してきた。県属中村於兎吉が調査に出張した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月17日 | 政治・経済 | 外国米の販売所は旧区に1ヵ所ずつ計全市7ヵ所に置き、販売を開始した。1升の値段は甲15銭、乙14銭。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月26日 | 政治・経済 | 市が実施した外国米の販売は好評につき第2回分を購入した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 8月1日 | 政治・経済 | 横山一平その他から出願の金沢市街電気軌道敷設の件につき李家知事が金沢市会に諮問した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 8月4日 | 政治・経済 | 金沢市会は市視学を置くことに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 8月10日 | 政治・経済 | 市は第3回の外国米購入の手続きをした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 8月15日 | 政治・経済 | 市営屠場が仙人町に新築落成した。9月1日から開業。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 8月20日 | 政治・経済 | 久田済衆、石沢辰太郎、篠原譲吉らが出願中の市内乗合自動車営業は調査中のところ認可になった。(しかしこれは実現しなかったようだ) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 9月7日 | 政治・経済 | 市は一時中止していた外国米の売出しを再開した。1升17銭。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 9月9日 | 政治・経済 | 石川県立物産陳列館長に伊藤金吾(岐阜県人)が京都から来任した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 9月25日 | 政治・経済 | 県会議員選挙がおこなわれ、金沢から清水兼之、餝谷与右衛門、高田九八郎が当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 10月1日 | 政治・経済 | 金沢市と石川郡の製乳業者が合同して崎浦村笠舞に金沢製乳会社(資本金5万円)を設立した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 10月16日 | 政治・経済 | 浅野川小橋(延宝以後の地図に見えるが、創設年次不詳)の架替えが完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 10月 | 政治・経済 | 金沢、松任間に犀川駅(仮称、のち野々市駅、現西金沢駅)設置計画が具体化した。受益地区では敷地寄付ならびに市部2,000円、郡部1,500円の設置費負担などを決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 11月1日 | 政治・経済 | 森本駅が業務をはじめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 11月19日 | 政治・経済 | 大樋口の正米仲買人が出荷農民に1石につき2升の刺米を要求したので、大樋口の米の出荷量は半減した。米穀検査所は刺米を認めず全廃に努力した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 12月26日 | 政治・経済 | 精練業合同のため県は次の各業者代表の招き協議した。(石川精練)水登勇太郎、新田甚造(加能精練)飯尾次郎三郎、牧野常太郎(北国精練)亀田喜一郎、畝田乙吉(伊東精練)伊東寅太郎、大宮房次郎(能登精練)西橋与三兵衛、山岸峻雄。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 月日未詳 | 政治・経済 | 金沢市から富山県城端町の立野ヶ原演習場に通ずる二俣越え新道が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 1月18日 | 社会・文化 | 市は新竪町、芳斎町、馬場の3校で昼間通学できない児童のため夜学校を開始することになり、電灯の取付けを終った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 1月 | 社会・文化 | 西田幾多郎著「善の研究」が弘道館から出版された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 2月8日 | 社会・文化 | 卯辰山の公園計画に関連し、山上の墓を調査の結果1,020基あった。公園化の際は一ヵ所に移すことになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 2月11日 | 社会・文化 | 県出身の軍人と在郷将校が県人の陸海軍志望者をふやし、それに予備教育を施す目的で石川県将校同志会を設立した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 2月12日 | 社会・文化 | 歌人加藤里路死去。72歳。旧藩士(1,500石)、明治に入り神祗官教師から白山比咩神社、気多神社等の宮司を歴任し、京都師範などの教師もした。著書、歌集20余。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 2月16日 | 社会・文化 | 金沢地方裁判所長平田小三郎(佐賀県人)死去。58歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 2月23日 | 社会・文化 | 金沢一中校長久田督死去。54歳。金沢彦三の生れ、東京大学化学科卒業、福井県尋常中学、三重県尋常中学の各校長を経て石川県立工業学校長となり32年9月から一中校長をつとめ名校長とうたわれた。一中職員生徒らは功をたたえて銅像を同校門内に建て、福井中学校も久田記念事業を起した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 3月6日 | 社会・文化 | 版画家小林清親が来沢、画会を催した。(参会者130人) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 4月1日 | 社会・文化 | この日から10日間金谷館で新古美術展が開催され、市内の素封家が日割をきめて所蔵の茶器で茶の湯の接待をした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 4月3日 | 社会・文化 | (石川郡は郡誌編さんを決定し和田文次郎に委嘱した。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 4月3日 | 社会・文化 | 閑院宮夫妻が赤十字社関係で来沢された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 4月5日 | 社会・文化 | 和田文次郎著「金沢市案内記」が有声館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 4月8日 | 社会・文化 | 石川県山林誌が県山林会から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 4月17日 | 社会・文化 | 書家日下部鳴鶴が山中温泉に滞在、市内の文人とも交歓した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 4月17日 | 社会・文化 | 金沢で能楽時報が発刊された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 4月27日 | 社会・文化 | 小坂村字山ノ上(俗に油木山)に新築中の石川県育成院が完成した。(7月25日開院式を挙げた) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 4月 | 社会・文化 | 細胞及組織論(金子治郎著)枕草紙通釈(武藤元信著)新釈奥の細道(三宅邦吉著)などが刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 5月5日 | 社会・文化 | 10月1日開館予定の石川県立図書館の館長に並河直広が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 5月6日 | 社会・文化 | 県立図書館が藤岡作太郎の蔵書李花亭文庫を購入した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 5月16日 | 社会・文化 | 元盈進社社主遠藤秀景東京麴町区3番丁で死去。58歳。元不破家家臣。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 5月 | 社会・文化 | 兼六園覧勝亭と環翠亭が本月末に取払いになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 6月4日 | 社会・文化 | 石川県消防義会が創立され発会式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 6月12日 | 社会・文化 | 石川県立金沢商業学校長中野観象が辞職し(5日)、後任に松村吉則が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 6月30日 | 社会・文化 | 野村蘭作の33回忌追善能がその子宝生嘉内により佐野舞台で催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月5日 | 社会・文化 | 木村栄博士が最初の帝国学土院恩賜賞を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月24日 | 社会・文化 | 小坂村千木小学校の新校舎落成式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月 | 社会・文化 | 「石川県蚕業沿革史」が石川県立農事講習所から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 7月 | 社会・文化 | 徳田秋声の「秋声叢書」泉鏡花の「三味線堀」などが出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 8月10日 | 社会・文化 | 城丸章著「千代尼」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 8月19日 | 社会・文化 | 明治35年以来の四高校長吉村寅太郎は病気のため依頼免官となり、溝淵進馬が後任となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 8月 | 社会・文化 | 浅野川鮴屋付近の卯辰山に、宮崎某が今春来土木工事をして三条の滝をつくり常盤滝と命名して茶屋3むねを建てた。鶯滝とともに雅人のつえをひくものが多い。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 8月 | 社会・文化 | 加藤賢三著「白山」が有声館から刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 9月1日 | 社会・文化 | 石川郡押野小学校が村内八日市に新築落成し開校式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 9月2日 | 社会・文化 | 画家富田渓仙が白山踏破のために来沢、長町の俳人松下紫人宅に泊った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 9月7日 | 社会・文化 | 金沢市立女子職業学校校長に井上茂が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 9月14日 | 社会・文化 | 県立金沢病院の伝染病室が完成した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 9月15日 | 社会・文化 | 小川孜成著の「兼六公園誌」をその子小川恂蔵が刊行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 10月1日 | 社会・文化 | 今様能狂言の泉祐三郎が下新町第四福助座で興行をはじめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 10月3日 | 社会・文化 | 尾張町森八菓子舗(森下八左衛門経営)がこんど中宮茂吉に譲渡された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 10月10日 | 社会・文化 | 四高教授八波其月(則吉)が歌集「草花」を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 10月16日 | 社会・文化 | 国学者書家安木田頼方死去。79歳。明倫堂教師から神社の神官や第四高等中学校、石川県工業学校、第二中学校、北陸女学校などの教師をつとめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 10月 | 社会・文化 | 北海道前田農場(近藤磐雄著)加能紀要(石川県編)が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 11月5日 | 社会・文化 | (明治41年以来建築中の鶴見の総持寺本堂が完工、遷仏式を執行した。門前の総持寺は祖院と称することにした) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 11月15日 | 社会・文化 | 金沢医師会が建設の黒川良安の銅像ができた。(作者水野朗、現在は金沢医大玄関前にある) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 12月22日 | 社会・文化 | 元石川県知事古沢滋死去。65歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 12月30日 | 社会・文化 | 湯涌温泉は26日以来湯量が増加し温度も上昇した。原因調査中。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 12月 | 社会・文化 | 私立石川県教育会図書館が閉鎖された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 月日未詳 | 社会・文化 | 駒帰小学校は犀川小学校駒帰分教場となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十四年(1911) | 月日未詳 | 社会・文化 | 鶴駕奉迎録(金沢市役所編)孝子一坊三太兄弟仇討事蹟(寺尾寿保著)石黒信由事蹟一覧(石黒準太郎著)などが刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 1月8日 | 政治・経済 | 市会議長に林直、副議長に能沢長太郎が決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 1月15日 | 政治・経済 | 横山鉱業部が大手町9番地(偕行社跡)に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 1月17日 | 政治・経済 | 陸軍中将木越安綱が朝鮮駐劄軍司令官になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 2月11日 | 政治・経済 | 知事が提唱してようやくまとまった県下精練合同による帝国精練会社の創立総会が金谷館で開かれた。資本金は10万円、社長事務取扱に中崎与四右衛門、専務に飯尾次郎三郎の就任等を決めた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 2月12日 | 政治・経済 | 市は勧業委員規程を設け、委員を次の通り任命した。飯尾次郎三郎、小鍛冶市左衛門(以上参事会員)林直、餝谷与右衛門、高田九八郎(議員) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 3月22日 | 政治・経済 | 金沢、河北、石川産牛馬組合の設立がきまった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 3月 | 政治・経済 | 金沢青草市場の44年度の取扱い額は13万円にのぼった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 4月1日 | 政治・経済 | 山森市長以下全吏員の増俸があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 4月5日 | 政治・経済 | 金沢商工協会主催石川県産業共進会の開会式が挙行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 4月9日 | 政治・経済 | 元商業会議所会頭斉藤弥久が能美郡中海村で炭鉱採掘を開始した。(明治25年ごろ草薙尚志らが採炭の後中止したもの) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 4月9日 | 政治・経済 | 石川県菓子業連合組合の主催で第2回帝国菓子飴大品評会が兼六園内旧図書館建物内で開催された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 4月25日 | 政治・経済 | 蚕種製造所の新設案が県参事会に提出された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 5月8日 | 政治・経済 | 金沢市出身の外務省政務局長倉知鉄吉が外務次官になった。(前田丹波の家臣倉知行徳の長男、明治3年生) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 5月15日 | 政治・経済 | 大手町の横山鉱業部で建物と横山隆興銅像の落成式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 5月16日 | 政治・経済 | 衆議院議員総選挙がおこなわれ金沢市は戸水寛人が再選された。戸水は前回非政友から立候補し、当選後政友会に入党したので一部から反感を持たれていた。(当選)1,411票戸水寛人(次点)215票上森捨次郎。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月1日 | 政治・経済 | 金沢商業会議所内に手形交換所が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月30日 | 政治・経済 | 横浜の輸出商野沢組金沢支店が本月限りで閉鎖して引きあげた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月1日 | 政治・経済 | 金沢市街電気軌道敷設の認可指令があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月4日 | 政治・経済 | 連日騰貴を続けていた米価は本日初めて石5,60銭値下りした。当局の価格抑制策の効果である。(以後次第に下落した) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月7日 | 政治・経済 | 金沢市役所が市内7ヵ所で外国米の原価販売をはじめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月19日 | 政治・経済 | 市役所が販売している外国米を再度1銭値下げして1升15銭とした。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月20日 | 政治・経済 | 明治天皇ご不例。県知事、師団長、市長が宮内大臣あてお見舞電報を発した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月25日 | 政治・経済 | 金沢、松任間の新設中間駅の駅名は「野々市」に決定、このため犀川口住民は大いに憤慨した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月28日 | 政治・経済 | 山森市長が宮内省に出頭して奉伺書を提出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月30日 | 政治・経済 | 5月の衆議院議員総選挙で選挙違反に問われた高田九八郎は禁固2月の判決を受け県議、市議を辞職した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月30日 | 政治・経済 | (午前0時43分明治天皇崩御、30日以後大正と改元された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月31日 | 政治・経済 | (大喪につき本日から5日間廃朝仰せ出され、歌舞音曲の停止も発令された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 8月1日 | 政治・経済 | 北陸線野々市駅(現在西金沢駅)が営業開始した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 8月9日 | 政治・経済 | 由雄元太郎が貴族院の石川県多額納税議員に当選した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 8月15日 | 政治・経済 | 片町有志者らが発起して認可を得た乗合自動車事業は本日開催の発起人協議会の結果、資本金3万円で北陸自動車株式会社をつくることに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 8月21日 | 政治・経済 | 金沢、鶴来間の電気鉄道敷設を発起人総代木尾久雄、才賀藤吉、堀喜幸が連名で認可申請した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月5日 | 政治・経済 | 金沢鉄道工場は中部鉄道管理局から離れて独立した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月7日 | 政治・経済 | (米券倉庫の制定後はじめて松任の吉田茂平と美川の永井正三郎の倉庫が、米券倉庫に指定された。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月21日 | 政治・経済 | 金沢から河北郡深谷温泉に至る道路は県から特別補助を受け工事を始めた。また小立野端から湯涌温泉に至る道路改修は本月末完成の予定である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月25日 | 政治・経済 | 日本硬質陶器会社は宮野直道社長が不正事件で退任、専務取締役原知信が大株主早川千吉郎の意を体して経営の大刷新を断行し、京都松風嘉定を社長に迎えることになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 10月1日 | 政治・経済 | 五宝町から木ノ新保に至る貫通新道路工事(別院通)が完成して開通式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 10月10日 | 政治・経済 | 野々市郵便局区内の電話が開通した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 10月16日 | 政治・経済 | (瓜生外吉=大聖寺出身=が海軍大将になった。) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 10月22日 | 政治・経済 | 金沢商工協会は物産を信越地方に出張紹介することになり汽車で発送した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 10月25日 | 政治・経済 | 石川県主催の新意匠展覧会は昨日閉会。本日出品800点中から特に優秀な10点について入場者の投書による批評を発表し、その優等者6人に褒状賞品を授与した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 11月1日 | 政治・経済 | 金沢市内電話の本年度新設は66本である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 11月3日 | 政治・経済 | 金沢商工協会が長野県で実施した県物産紹介は成績良好だったので、引続き新潟県の高田、長岡でも開催することになった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 11月14日 | 政治・経済 | 新築中の金沢警察署が完成、移転式を挙行した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月2日 | 政治・経済 | 市役所に隣接する外人所有地買収の内談が成立、明年度において実現することになった。外人には代地として尻垂坂通の税務署跡を買収して提供した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月20日 | 政治・経済 | 北陸自動車会社の営業が許可された。(10人乗り10台) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月21日 | 政治・経済 | 本市出身陸軍中将男爵木越安綱が3次桂内閣の陸軍大臣になった。石川県人として最初の大臣である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月25日 | 政治・経済 | 尻垂坂金沢地方裁判所跡地(現在北鉄車庫)の払下げ入札がおこなわれ、谷口吉次郎(片町の九谷焼商)が8,880円で落札した。(1坪3円70銭) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月26日 | 政治・経済 | 第9師団長神尾光臣中将が第18師団長に転じ川村宗五郎中将(鹿児島県人)が後任となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月30日 | 政治・経済 | 知事李家隆介が長崎県知事に転じ後任に茨城県知事坂仲輔が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月31日 | 政治・経済 | 大正元年末における金沢市の世帯数と人口数は次の通りである。世帯数36,342人口123,893人(男61,212人女61,681人) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 1月1日 | 社会・文化 | 現在市内の豆腐屋は120軒、1日製造高200釜、(1釜12丁、1釜に大豆3升5合)1丁の売価8銭である。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 1月16日 | 社会・文化 | 元第9師団長塚本勝嘉死去。66歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 1月17日 | 社会・文化 | 石川県立図書館の開館式が挙行された。来賓170人。(18日から一般開放) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 1月 | 社会・文化 | 徳田秋声の「黴」が新潮社から出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 2月18日 | 社会・文化 | 和泉流狂言師高島弥五郎(金沢に帰住)死去。84歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 2月24日 | 社会・文化 | 三宅雪嶺の母堂滝井子(黒川良安の妹)死去。79歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 3月5日 | 社会・文化 | 金沢警察署新町分署管内の人力車を調査したところ、自分の車で就業している者260人、他人から車を借りて就業している者と雇われている者100人である。なお50歳以上の者には原則として営業鑑札は交付しないという。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 3月7日 | 社会・文化 | 此花町と菊川町に小学校2校の新設が決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 3月10日 | 社会・文化 | 旧藩士斉藤知一一族菩提のため備中町に慈船庵(曹洞宗)が建てられた。庵主斉藤祖海尼。(慈船庵は現存) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 3月10日 | 社会・文化 | 昨年石川県会で高等工業学校設置建議案提出を決議したが、李家知事は設立の必要を添記し文部、内務両大臣に進達した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 3月17日 | 社会・文化 | 小鼓名手金沢の湯浅勇三が家元から観世新三郎の名跡襲名を命ぜられた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 3月 | 社会・文化 | 私立金沢盲啞学校が第1回卒業生を出した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 4月1日 | 社会・文化 | 私立金沢女学校は私立金沢高等女学校となった。(大正2年4月1日県立第二高等女学校となる) | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 4月5日 | 社会・文化 | 小野慈善院長小野太三郎死去。73歳。渡瀬政礼が2代小野慈善院長になった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 4月 | 社会・文化 | 米里喜平著「株式会社金沢米殻取引所沿革史」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 5月12日 | 社会・文化 | 高峰譲吉がアドレナリンの創製に対して帝国学士院賞を受けた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 5月12日 | 社会・文化 | 国学者高橋冨兄が88歳に達したので門生一同望月楼で米寿の祝賀宴を催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 5月20日 | 社会・文化 | 井上馨が早川千吉郎同道で古美術鑑賞のため金沢へ再遊した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 5月23日 | 社会・文化 | 梅田五月死去。78歳。元県立工業学校長で産業功労者。大聖寺に居住。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月1日 | 社会・文化 | 尾山神社宮司奥村栄滋が辞職、後任は前田孝。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月1日 | 社会・文化 | 須崎に潟津小学校が創設された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月2日 | 社会・文化 | 金沢出身の画家森春岳(京都住)の喜寿記念の七十七幅頒布会が金城楼で催され抽選会がおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月5日 | 社会・文化 | 米価騰貴で困る市民から米穀仲買人らの買占めをうらむ声があがっているので金沢地検検事が警察56人を従え米穀取引所仲買店に行き帳簿を点検、不法買占めの店主店員合計70人を引致取調べた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月10日 | 社会・文化 | ちかごろ小学生中に弁当を持参しない者が多いと新聞が報道している。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月20日 | 社会・文化 | 文学博士藤岡作太郎の3周忌にあたり知友門人が書いた追憶記「藤岡東圃追憶録」が刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月24日 | 社会・文化 | 和算家梅沢儀三郎死去。50歳。大衆免に生れ初め畳職をしたが病弱のため珠算を習った。教習館を聞き商工業者の子弟を非常に多く教育した。新撰算術等の著がある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月24日 | 社会・文化 | 太鼓の中島勇吉死去。83歳。東京で観世元規の先代左吉に就き名手となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月29日 | 社会・文化 | 日蓮宗の信徒有志と寺院関係者が金谷館に集り、卯辰山に上人銅像建設の発起人会を催した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月29日 | 社会・文化 | 小鼓の橋喜兵衛死去。44歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 6月 | 社会・文化 | 徳田秋声の「足跡」が新潮社から出た。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月2日 | 社会・文化 | 午後7時40分ごろ市姫通から出火、3戸焼失。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月17日 | 社会・文化 | 医師会が医師会館にするため旧医学校校舎を譲り受けたいと知事に陳情した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月22日 | 社会・文化 | 風雨激しく夕方に至り浅野川昌永橋と中島橋が流失し、犀川大橋橋上のビールの広告塔が倒れた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月25日 | 社会・文化 | 金沢医学専門学校は小立野の新校舎に移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 7月30日 | 社会・文化 | 明治天皇崩御に県庁、市役所ならびに各学校は遙拝式をおこない、市民は弔旗を掲げて奉悼の意を表した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 8月10日 | 社会・文化 | 書家前田黙鳳が来沢した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月1日 | 社会・文化 | 鍔甚楼と並んで古くからの料理屋として知られた里見町大野屋が没落閉店した。石川郡林村荒屋の小倉周六が同家を1万1,000円で買取った。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月4日 | 社会・文化 | 日蓮上人賛仰の人たちにより天晴会の金沢支部ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月9日 | 社会・文化 | 泉、久安両小学校が合併し、三馬小学校となった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月13日 | 社会・文化 | 明治天皇の大葬に際し、市民の遙拝式が兼六園でおこなわれた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月20日 | 社会・文化 | 金沢人林屋仲太郎が満州湯崗子に進出して温泉を経営中。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月24日 | 社会・文化 | 暴風雨で犀川菊橋の一部と浅野川の応化橋仮橋が流失した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月24日 | 社会・文化 | 卯辰山の主不明の墓20余は無縁として適当な場所に移転することに決定した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月29日 | 社会・文化 | 金沢薬学会が創立された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 9月 | 社会・文化 | 富樫南校と富樫北校が合併し、富樫小学校ができた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 10月1日 | 社会・文化 | 教育家沼田悟郎死去。62歳。旧津田家家臣、益智館長、石川県専門学校長等をつとめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 10月18日 | 社会・文化 | ジゴマという悪漢の活動写真や小説が流行して子どもに悪影響を与えているから、年少のものに活動写真を観覧させたり、図書館でその本を閲覧させることを制限すべきだとの説が高いと、新聞が報道した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 10月25日 | 社会・文化 | 県は県立高等女学校を増設に決定したが、大谷派の経営する金沢高等女学校を将来無条件で県立に移すことに決した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 11月21日 | 社会・文化 | 午前11時45分ごろ片町から出火、家屋5むね半焼、1むね全焼。火元の陶器店では帝室技芸員宮川香山の作品200余点を陳列中であったので損害は約2万5,000円に達した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月1日 | 社会・文化 | 小立野の県立金沢第二中学校で、夜9時ごろ寄宿舎へ5年生が1人忍び込み、舎監を切りさらに1生徒を傷つけ自殺をはかった事件があった。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月3日 | 社会・文化 | 元石川県令(知事)千坂高雅死去。72歳。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月3日 | 社会・文化 | 金沢医学専門学校教授に石坂伸吉、須藤憲三が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月5日 | 社会・文化 | 金沢医学専門学校教授に土肥章司が任命された。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月9日 | 社会・文化 | 漢学者桂正直(石黒圭三郎)小野慈善院で死去。74歳。維新に加賀藩で勤王運動をして終身禁固に処せられた。明治元年大赦で許されたが2年本多政均暗殺事件と交渉があったため姓名を桂正直と変えた。17年金沢学校の教員となり廃校後幽居38年。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月10日 | 社会・文化 | 金沢盲啞学校はかねて維持困難のうえに、現在の校舎に使用中の公会堂も老朽がひどいので、市営として存続させよとの意見が有力となってきた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月10日 | 社会・文化 | 金沢の川柳作家の結社六華会では機関誌「六華」を発行することをきめた。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月11日 | 社会・文化 | 小幡造次死去。77歳。旧藩士、藩政に精通し富山藩大参事をつとめたこともある。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月12日 | 社会・文化 | 北国新聞社の新社屋が南町に完成、本日から15日にかけ移転した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月20日 | 社会・文化 | 金沢警察署は十間町の取引所付近に散在する空米師、俗に円太張と称する者を急襲して32人を検挙した。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 12月22日 | 社会・文化 | 白菊町47番地に北国劇場の建設が申請された。定員1,745人、明年6月末までに完成の予定という。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 月日未詳 | 社会・文化 | 加越能子弟の奨学機関育英社(総裁前田利為)の45年度における現況は社員数5,071人、基本金48,493円、既往貸費生517人、現在貸費生131人、この貸費金総額118,925円、また特別貸費は既往貸費生150人、現在貸費生16人、この貸費金額34,411円となっている。 | 金沢の百年 明治編 |
明治四十五年・大正元年(1912) | 月日未詳 | 社会・文化 | 少女小説・母のおもかげ(河崎哲雄著)世界植物奇談(同著)などが刊行された。 | 金沢の百年 明治編 |