*
カレンダー
*
館の一覧

市史年表 金沢の百年 大正編

  • はじめに

     この年表は、一昨昭和40年5月に刊行した『金沢の百年(明治編)』の続編である。前編にも述べたように、別途編さん中の『金沢市史』の副本的性格を持つものであるが、同時に独立した年表でもありたいと心がけた。既刊の明治編とあわせて、これで金沢市のおおよそ百年間の推移が概観されると思う。
     前編編さんの終わると同時に取りかかった本編は、当初は、早ければ昨年中に、遅くも今年の一月中には刊行の目算であったが、当然のことながら年次の接近するにつれ取り上げる事項もふえ、これに伴う調査にも手間がかかる一方、印刷進行の事情なども加わって予定よりもだいぶ刊行が遅れたことは遺憾であるが、それだけに地方史年表としては今後様々な方面に利用いただけるだけの内容を集録し得たと思う。
     ひろく活用願えればしあわせである。
     資料は既刊の新聞、雑誌、官公庁公刊物、各種記録、先覚の著述などをつとめてひろく渉猟参考にさせていただいた。また北国新聞社、県立図書館、市立図書館をはじめ多数の方々のご協力や貴重なアドバイスを得た。あわせてお礼申しあげる。


     昭和42年5月

     金沢市史編さん審議委員会 
    <凡例>
    • 事項の分類は、大まかに『政治・経済』と『社会・文化』の二つとし、常識的判断に従って振り分けた。開巻偶数ページが『政治・経済』、奇数ページが『社会・文化』である。人の死亡は社会事象として扱った。

    • 配列は年・月・日の順に従い、日不明のものはその月のおわりに、月不明のものはその年のおわりに記載した。ただし月日明確を欠くがおよその見当のつくものはできるだけ推定の月日付近に入れるようにした。

    • 金沢市の区域は現在の区域とした。ただし、地名(町村字名など)は当時のまま用いた。

    • 中央、県内、他地方など市域外の事項でも、市に関係、あるいは強い影響があったと思われるものは( )でつつみ記載した。

    • 前記とは別に、日本および世界の歩みとの対比に資するため当該年中の日本および世界の目立った出来事を奇数ページ脇欄に摘記した。記事上の○の数字は月を示す。数字のないものは「その年中」を示す。


  • 市史年表 金沢の百年(大正編)

    和暦
     (西暦) 
    月日 分類 事項 出典
    大正元年(1912) 7月30日 政治・経済 (午前0時43分明治天皇崩御、30日以後大正と改元された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 7月31日 政治・経済 (大喪につき本日から5日間廃朝仰せ出され、歌舞音曲の停止も発令された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 8月1日 政治・経済 北陸線野々市駅(後の西金沢駅)が営業開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 8月9日 政治・経済 由雄元太郎が貴族院の石川県多額納税議員に当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 8月15日 政治・経済 片町有志者らが発起して認可を得た乗合自動車事業は本日開催の発起人協議会の結果、資本金3万円で北陸自動車株式会社をつくることに決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 8月21日 政治・経済 金沢、鶴来間の電気鉄道敷設を発起人総代木尾久雄、才賀藤吉、堀喜幸が連名で認可申請した。会社の資本金は50万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月5日 政治・経済 金沢鉄道工場は中部鉄道管理局から離れて独立した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月6日 政治・経済 (米券倉庫の制定後はじめて松任の吉田茂平と美川の永井正三郎の倉庫が、米券倉庫に指定された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月21日 政治・経済 金沢から河北郡深谷温泉に至る道路は県から特別補助を受け工事を始めた。また小立野端から湯涌温泉に至る道路改修は本月末完成の予定である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月30日 政治・経済 日本硬質陶器会社は宮野直道社長が不正事件で退任、専務取締役原知信が大株主早川千吉郎の意を体して経営の大刷新を断行し、京都松風嘉定を社長に迎えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月30日 政治・経済 五宝町から木ノ新保に至る貫通新道路工事(別院通)が完成して開通式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 10月2日 政治・経済 金沢市選出県会議員補欠選挙が1日おこなわれ、乾亮が当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 10月10日 政治・経済 野々市郵便局区内の電話が開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 10月16日 政治・経済 (大聖寺出身の瓜生外吉が海軍大将になった。陸海軍を通じ県人最初の大将である。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 10月22日 政治・経済 金沢商工協会は物産を信越地方に出張紹介することになり汽車で発送した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 11月1日 政治・経済 金沢市内電話の本年度増設電話66個が本日開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 11月4日 政治・経済 金沢商工協会が長野県で実施した県物産紹介は引続き10月30、31両日新潟県高田で、11月3日長岡で開催していずれも好成績をおさめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 11月14日 政治・経済 広坂通に新築中の金沢警察署が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月2日 政治・経済 市役所に隣接する外人所有地買収の内談が成立、明年度において実現することになった。外人には代地として尻垂坂通の税務署跡を買収して提供する。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月20日 政治・経済 北陸自動車会社の営業が許可された。(10人乗り10台) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 11月5日 政治・経済 江沼郡動橋村乗合馬車営業人広崎寅吉が申請中の市内乗合馬車営業が許可された。馬車は8人乗り3台を使用し、路線は金沢駅前から大樋、小立野、野村兵営に至るもの。営業開始期は未定。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月21日 政治・経済 本市出身陸軍中将男爵木越安綱が第3次桂内閣の陸軍大臣になった。石川県人として最初の大臣である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月25日 政治・経済 尻垂坂金沢地方裁判所跡地(後の北鉄車庫)の払下げ入札がおこなわれ谷口吉次郎(片町の九谷焼商)が8,880円で落札した。(1坪3円70銭) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月26日 政治・経済 第9師団長神尾光臣中将が第18師団長に転じ、後任は第9旅団長川村宗五郎少将(鹿児島県人)が中将に昇任のうえ補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月30日 政治・経済 知事李家隆介が長崎県知事に転じ、後任に茨城県知事坂仲輔が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月31日 政治・経済 市調査による本年末現在の金沢市公簿人口は36,342世帯、123,893人(男61,212人、女62,681人)である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 7月30日 社会・文化 明治天皇崩御に県庁、市役所ならびに各学校は遥拝式をおこない市民は弔旗を掲げて奉悼の意を表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 8月10日 社会・文化 書家前田黙鳳が来沢した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月1日 社会・文化 金沢市では鍔甚楼と並んで古くからの料理屋として知られた里見町大野屋が没落閉店した。石川郡林村荒屋の小倉周六が同家を1万1,000円で買取った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月9日 社会・文化 泉、久安両小学校が合併し、三馬小学校となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月13日 社会・文化 明治天皇の大葬。市民の遥拝式が兼六園でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月23日 社会・文化 暴風雨で犀川菊橋の一部と浅野川の応化橋仮橋が流失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月24日 社会・文化 卯辰山公園建設のため市は山内の墓20余を無縁として適当な場所に移転することに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月29日 社会・文化 金沢医専薬学科在学生と卒業生の団体、金沢薬学会が創立された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月 社会・文化 富樫南校と富樫北校が合併し、富樫小学校ができた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 9月 社会・文化 横安江町茶商林家新造の長男仲太郎が満州湯崗子で温泉を開発した。その弟友次郎も営口で旅館を経営している。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 10月1日 社会・文化 教育家沼田悟郎死去。62歳。旧津田家家臣、書店益智館館長、石川県専門学校長等をつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 10月10日 社会・文化 5代目中村歌右衛門一座が第一福助座で6日から5日間興業、大入りを続けた。(二の替りで日延べ)観覧料、桟敷鶉出(4人)4円80銭、平坪3円80銭。なお歌右衛門は卯辰真成寺で初代加賀屋歌右衛門の追善法要を営んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 10月8日 社会・文化 ジゴマという悪漢の活動写真や小説が流行して子どもに悪影響を与えているから、年少のものに活動写真を閲覧させたり図書館でその本を閲覧させることを制限すべきであるとの説が高い、と金沢の新聞が報道した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 10月23日 社会・文化 日蓮上人賛仰の人たちにより天晴会の金沢支部ができ、市会議事堂で発会式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 10月25日 社会・文化 県は県立高等女学校を増設に決定し、大谷派の経営する金沢高等女学校を将来無条件で県立に移すことをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 11月21日 社会・文化 午前11時45分ごろ片町商店街の谷口陶器店から出火、げた店、楽器店等5戸を半焼、納屋1むねを全焼した。市内目ぬき通りの火事のため、蒸気ポンプ3台と歩兵7連隊からも1台が出動した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月1日 社会・文化 小立野の県立金沢第二中学校で、夜9時すぎ寄宿舎へ5年生1人が忍びこみ、日本刀で舎監を切り、さらに1生徒を傷つけたうえ自殺をはかった事件があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月2日 社会・文化 金沢医学専門学校教授に石坂伸吉、須藤憲三が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月3日 社会・文化 元石川県令(知事)千阪高雅死去。72歳。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月5日 社会・文化 金沢医学専門学校教授に医学博士土肥章司が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月9日 社会・文化 漢学者桂正直(石黒圭三郎)小野慈善院で死去。74歳。維新に加賀藩で勤王運動をして終身禁固に処せられた。明治元年大赦で許されたが2年本多政均暗殺事件と交渉があったため姓名を桂正直と変えた。17年金沢学校の教員となり廃校後隠せい38年。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月10日 社会・文化 私立金沢盲啞学校はかねて維持困難のうえに、校舎に使用中の公会堂も老朽がひどいので、市営として存続させよとの意見が有力となってきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月10日 社会・文化 金沢の川柳作家の結社六華会では機関紙「六華」を発行することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月12日 社会・文化 北国新聞社の新社屋が南町に完成、本日から15日にかけ移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月20日 社会・文化 金沢警察署は十間町の取引所付近に散在する空米師、俗に円太張と称する者を急襲して32人を検挙した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 12月27日 社会・文化 金沢医学専門学校教授下平用彩に医学博士号が授与された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 年月未詳 社会・文化 加越能子弟の奨学機関育英社(総裁前田利為)の明治45年度における現況は社員数5,071人、基本金48,493円、既往貸費生517人、現在貸費生131人、この貸費金総額118,925円、また特別貸費は既往貸費生150人、現在貸費生16人、この貸費金額34,411円となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正元年(1912) 年月未詳 社会・文化 少女小説・母のおもかげ(河崎哲雄著)世界植物奇談(同著)などが刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 1月9日 政治・経済 政友会石川支部は尾崎行雄らを迎えて香林坊福助座で憲政擁護県民大会を開催した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 1月10日 政治・経済 金沢市調査による昨年末の市内家屋数は2万34戸で、前年末より209戸増加した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 1月26日 政治・経済 県物産陳列館は産業参考品として英、独、仏から購入した陶磁器39点、絹製品など34点、手工芸品30点など計200点を業者に公開した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 2月5日 政治・経済 金沢市会は知事から出された金沢瓦斯株式会社発起人(東京松方五郎ら7人)のガス管理設に関する諮問に対し、条件を付して承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 2月10日 政治・経済 小立野の亀坂改修工事が完成し開通式をあげた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 2月13日 政治・経済 (金沢地方裁判所管内の小松、大聖寺、高浜、飯田の4区裁判所は廃止と決定した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 2月28日 政治・経済 金沢箔業界は製品の販路打開のため京都に支店を設け、西陣の織物業者と直接取引をすることになった。(京都の岩坪五平、加児彦太郎と特約していたが契約通り実行されないため) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 2月28日 政治・経済 県物産陳列館は4月1日から1年間、県物産品を金沢駅構内に陳列することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 2月 政治・経済 県調査の昨年末現在における県下の力織機械数は6,898台(一昨年末より998台増加)工場数は471工場、職工数は9,029人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 3月8日 政治・経済 金沢商工会議所は毎月5日を勘定日とする慣習を月末勘定に改正することをきめ、郡部の商工会などにも呼びかけることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 3月18日 政治・経済 (大聖寺、山中間の山中温泉電車が開通した。5マイル44チェーン。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 3月24日 政治・経済 松金馬車鉄道会社は総会を開き、金沢-松任間の馬車鉄道を廃止し電車につけかえることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 3月27日 政治・経済 金沢商業会議所の2級議員改選は25日、1級議員改選は27日おこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月1日 政治・経済 県立工業学校の付属図案所が県物産陳列館に移管された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月1日 政治・経済 富山、直江津間(76里)の汽車が開通した。1,200万円の工費で7年かかった。これで北陸線は全通した。金沢市内の商店街は模造桜樹で満街飾をして、開通祝いの福引づき共同売出しをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月15日 政治・経済 県物産陳列館主催の重要物産展覧会がはじまった。(5月10日まで。1日平均5,000人以上の入場者があった) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月22日 政治・経済 3社競願になっていた金沢、鶴来間の電鉄敷設は総理大臣から石川軽便鉄道会社(発起人木尾久雄ら)に許可がおりた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月 政治・経済 富山、直江津間汽車開通による北陸線の全通は金沢市勢発展に一転機を画すものと期待されているが、早くも直江津商業会議所議員視察団18人、京都商業会議所主催視察団30余人、横浜実業団500余人、長野商業会議所主催視察団50余人などが来沢した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月5日 政治・経済 鉄道院行政整理で北陸線米原、直江津間は大阪鉄道管理局(神戸から大阪に移され改称)の所轄となり、金沢運輸、保線両事務所をはじめ金沢鉄道工場等の官署も同局の管下になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月6日 政治・経済 監獄官制の改正で福井、富山両監獄は廃止されて金沢監獄の分監となり、また七尾分監も廃止されて高岡と共に金沢監獄出張所となった。なお金沢監獄では看守等22人を整理し、定員を典獄1人、看守長6人、看守部長8人、看守66人、女監取締5人と改正した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月13日 政治・経済 金沢商工協会は舞鶴を皮切りに鳥取、松江など山陰各地で県物産の巡回展示会をひらき好評だった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月22日 政治・経済 金沢市会は街鉄会社発起人との間にかわす電車敷設条件の仮契約書安を承認した(市長提案)。契約書は「乗車賃の変更をするときは市の同意を要すること」等31ヵ条から成っている。(23日市長と発起人総代が仮契約書を取りかわした) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月 政治・経済 羽二重の引合不振で廃業者が続出しだした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 6月18日 政治・経済 犬養毅、尾崎行雄らが来沢、兼六園で聴衆約1万人を集めて憲政擁護演説会を開いた。(梅本町塚本旅館に宿泊) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 6月 政治・経済 羽二重の売れ行きはこの月にはいって持ち直した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月1日 政治・経済 米穀取引所は高岡と金沢のどちらかが廃止を伝えられていたが金沢取引所の存続許可指令があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月1日 政治・経済 県物産陳列館主催の第2回輸出品展覧会がひらかれた(19日まで)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月4日 政治・経済 市助役堀俊明は金福鉄道の創立委員長に就任のため助役を辞任した。(市会は16日慰労金5,000円を贈った) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月5日 政治・経済 市は市街電鉄の敷設に伴う道路拡張に備えて従来の市区改正調査機関を廃止し、新たに臨時市区改正調査委員会(委員は市会5人、市民3人)を設けた。委員会は今後、県高等官、商業会議所会頭等の関係者を特別委員に委嘱して意見を徴することができるようにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月5日 政治・経済 市内および付近の牛乳業者が金沢牛乳販売組合を結成し、従来1合2銭5厘~3銭のものを一挙4銭に値上げしたので同組合や県当局に対し批判がおきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月10日 政治・経済 昨年7月の出水で流失した中島橋の架けかえが完成、渡橋式がおこなわれた。長さ107尺、幅13尺8寸。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月21日 政治・経済 日本銀行金沢支店長大三輪奈良太郎の主唱で河北潟研究会が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月26日 政治・経済 金沢市会は市助役に飯尾次郎三郎を全員一致で決定した。(28日就任認可) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月6日 政治・経済 さきに認可を受けた金沢市内初めての自動車営業が、東京から車両3台が到着したので、2台を乗合用に1台を貸付け専用にして開業することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月12日 政治・経済 金石電車会社発起人会が商業会議所でひらかれた。資本金20万円(4,000株)は発起人(34人)で全部引受けることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月28日 政治・経済 白菊町、野々市間の金野馬車鉄道が許可された。(軌道は山中馬鉄のものを使用する) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月30日 政治・経済 西町1番丁の市公会堂改築の追加予算が市会で議決され、改築費は合計3万5,274円となった。現在の公会堂建物は売却する。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 9月10日 政治・経済 堀川から梅沢町に通ずる浅野川の応化橋(昨年7月流失)が完成、渡橋式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 9月19日 政治・経済 大隈重信(76歳)は夫人および浮田和民、永井柳太郎ら早稲田大学関係者らとともに来沢、古今亭に投宿した。明治11年明治天皇に随従して来県以来35年ぶりで、市民多数が大隈を見ようと路上に出た。大隈は21日出発までの間に、歩兵第7連隊営庭で下士卒約3,000人に、女子師範で全市女学生に、県会議事堂で一般市民に、四高で四高と医専生に、一中で全市中等生にそれぞれ得意の弁説をふるった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 9月26日 政治・経済 坂知事が生糸羽二重倉庫精練会社設立の腹案を発表し、業界にいろいろ意見が出てきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月3日 政治・経済 従来全市1区制だった市会議員の2級選挙に、選挙区(旧連区を1選挙区とする)を設ける2級選挙区条例が市会で可決された。2級有権者が増加したとの理由によるもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月3日 政治・経済 さきに結成された金沢牛乳販売組合に対する批判が高まり、乳価を従前の3銭に値下げする動きもでてきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 11月6日 政治・経済 温泉電軌株式会社の創立総会が金沢商業会議所でひらかれた。出席者300余人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 11月11日 政治・経済 鉄道が尾張町29番地に小荷物扱所を開業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 11月13日 政治・経済 長町に新築中の金沢煙草専売支局がほぼ出来あがって移転した。1階1,897坪、2階1,653坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 12月10日 政治・経済 金沢市会議員選挙の3級選挙(定員12人、7選挙区)が4日、2級(定員12人、7選挙区)が7日、1級(定員12人、全市1選挙区)が10日におこなわれた。党派別当選者は政友18人、実業協会8人、国民党4人、中立6人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 12月13日 政治・経済 犀川上菊橋の復旧工事が完成、渡橋式がおこなわれた。長さ81間、幅2間2尺。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 12月21日 政治・経済 金沢出身で朝鮮水産界の功労者竹中邦香の記念碑が釜山に建った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 12月31日 政治・経済 市調査による本年末現在の金沢市公簿人口は37,592世帯、127,267人(男63,295、女63,972人)である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 月日不詳 政治・経済 (石川県の漁船が山口県へ初めて出漁した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 1月1日 社会・文化 私立総合病院尾山病院が閉鎖、院長藤本純吉が味噌蔵町下中丁で開業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 1月10日 社会・文化 殿町豊国神社跡の能舞台は手入れして貸席になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 1月11日 社会・文化 小幡造次死去。77歳。旧藩士、藩政に精通し維新後藩政参与、のち富山藩大参事をつとめたこともある。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 1月13日 社会・文化 県立金沢病院に皮膚および花柳病科が設置された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 1月21日 社会・文化 石川郡二塚村の古墳琵琶塚は標札をかかげ保存することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 1月23日 社会・文化 春日町の三浦八郎兵衛が困窮者救済活動を呼びかけた。八郎兵衛は前年米価暴騰のおり、農家を歴訪して手持ち米売出しを墾請した.。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 2月1日 社会・文化 米林八十死去。南町ガラス商。大野弁吉の最後の門弟であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 2月19日 社会・文化 百坂尋常小学校の階上の一部が授業中落下した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 2月 社会・文化 金沢市内の撞球熱は最近非常に盛んで、上松原町、片町、駅前等の撞球場では球技会の催しが日曜ごとにおこなわれており、近く浅野川口にも撞球場が着工される。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 3月23日 社会・文化 上森舎次郎創立の私立金沢盲啞学校(校舎は公会堂内)維持困難となったので、4月1日から石川県教育会(会長知事)が経営することになった。校名は石川県教育会付属私立金沢盲啞学校。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 3月28日 社会・文化 (夜、珠洲郡飯田町で大火、99むね全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 3月29日 社会・文化 午前9時ごろ河北郡小坂村字三池から出火、4むね全焼、1むね半焼。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月1日 社会・文化 私立金沢高等女学校が石川県立第二高等女学校となり、また石川県立高等女学校は石川県立第一高等女学校と改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月1日 社会・文化 石川郡富樫尋常小学校に高等科を併置、富樫尋常小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月9日 社会・文化 尾山座で鴈治郎、梅玉、八百蔵の大一座が4日から6日間興行。金沢で初めてともいえる大芝居とあって連日満員の人気であった。料金は桟敷(4人詰)5円50銭、平坪(3人詰)3円80銭、1等70銭、2等40銭。鴈治郎の宿は下堤町の雨夜、梅玉、福助は殿町の山本屋、八百蔵は栄町の貴衆館。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月17日 社会・文化 午前4時ごろ河北郡浅川村字若松の鈴見尋常小学校から出火、校舎1むねを焼失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月25日 社会・文化 三宅雪嶺夫妻が来沢、幼時の住居を訪れて一本松の下で記念撮影した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月25日 社会・文化 県は石川県育成院の収容生定員25人を(現在は満員)5人増しの30人とした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 4月30日 社会・文化 在米25年の高峰譲吉博士が天墓のため5年ぶりに来沢し、四高で「日米問題の真相」と題して講演した。2日市公会堂で官民約400人が参会して盛んな歓迎会を催した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月15日 社会・文化 金沢市湯屋組合は燃料騰貴を理由に入浴料金を大人2銭5厘(湯札は10銭で5枚)小人1銭5厘に値上げした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月20日 社会・文化 県は金沢市の孤児収容施設北国慈恵院(経営者真柄 貞)を認可取消し処分に付した。内紛から収容児を栄養不良におとしいれるなど経営の欠陥が明らかになったため。収容児10余人は小野慈善院に引取られた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月22日 社会・文化 野町1丁目泉野神社境内に新築の寄席神明館が開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月23日 社会・文化 午後10時ごろ木ノ新保1番丁の民家から出火、木ノ新保1番丁、荒町1丁目、田丸町で全焼34戸、半焼8戸を出した。金沢では10年ぶりの大火で軍隊も出動した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 5月25日 社会・文化 婦人競力会の女相撲の一行40余人が下尾張町空地で本日から晴天5日間の興行をした。入場料は大人10銭小人6銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 6月1日 社会・文化 小野慈善院幼年部が新築落成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 6月1日 社会・文化 卯辰山観音坂の千歳が料理屋をやめ貸席になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 6月3日 社会・文化 (県人北条時敬が東北帝国大学総長に任命された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 6月10日 社会・文化 金沢市医師会所属の結核予防会は本日から市内7ヵ所(病院または医院)に結核早期診断所を開設し、多人数集合する場所に出入する職業のものに無料診断をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 6月11日 社会・文化 俳人荻原井泉水来沢、金城楼で歓迎句会が催された。出席者30人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 6月15日 社会・文化 軍艦三笠が金石海岸3マイル沖に停泊、3日間一般に観覧を許した。海岸から軍艦までのハシケ賃1人往復15銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 6月18日 社会・文化 石川郡戸板村字北で子どもの火遊びから出火、4むね全焼、1むね半焼。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月12日 社会・文化 南画家小池梅處御歩町で死去。大聖寺出身。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月12日 社会・文化 金沢湯屋組合が夏季54日間大人1銭5厘、小人1銭に入浴料金を値下げした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月15日 社会・文化 金沢市大工組合は物価値上りを理由に本日から大工作料を1日1円に値上げした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月26日 社会・文化 奈良原式飛行機鳳号(操縦者白戸栄之助)の飛揚大会が野村練兵場で開催された。金沢における初めての飛行機飛揚だけに観衆約2万5,000人。第1回は高度50メートル、飛行距離600メートル(30秒)、第2回は離陸すぐ着地、第3回は高度80メートル、飛行距離300メートル。観覧料は特等30銭、普通15銭、児童5銭だった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月27日 社会・文化 奈良原式飛行機鳳号飛揚大会第2日目(日曜)は3万数千人の観衆を集めて野村練兵場で開催されたが、第1回飛行で50メートルの高度を約1,500メートル飛んで場内に落下破損し飛揚大会は中止された。操縦者は無事、落下原因は発動機の馬力低下のため。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 7月 社会・文化 画家俵屋宗達の墓が百々女木町の宝円寺で発見された、と新聞が報じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月1日 社会・文化 和田尚軒が宗達の墓発見のてんまつを北国新聞に発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月11日 社会・文化 明治元年近江海津で自殺した加賀藩家老松平大弐の50回忌にあたるので蛤坂、妙慶寺でその法要が勤修された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月12日 社会・文化 本多政均贈位の記念事業計画が寄金2,000円をもとに進められることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月13日 社会・文化 白菊町に北国劇場(定員1,745人)が新築完成、片岡我童一座で舞台開きがおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月25日 社会・文化 四高主催の北陸関西中等学校連合野球大会(出場9校)に東海の強豪愛知一中が名物校長日比野寛に引率されて来沢参加、優勝した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 8月30日 社会・文化 前田利為が3年の予定でヨーロッパ留学のため神戸を出帆した。金沢から坂知事、横山章ら多数が見送った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 9月24日 社会・文化 上金石町ほか8ヵ町村伝染病予防組合経営の金石病院(大野村字寺中出)が新築落成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 9月28日 社会・文化 東京東大久保の前田候邸で元治甲子殉難者50年祭が催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月1日 社会・文化 俳人川口月華(栄次郎)富山で死去。33歳。金沢時代、句集「蕪ずし」を編む。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月3日 社会・文化 (北陸線大聖寺、細呂木間で豪雨による山くずれのため列車埋没、死傷10数人を出した。北陸線は6日開通。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月12日 社会・文化 金沢市神職会主催の元治甲子殉難者50年祭が市会議事堂で行なわれ、陸義猶の講演、勤王家遺墨展観などがあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月15日 社会・文化 金沢一中同窓会発起の元一中校長久田督の銅像が同校玄関横に完成、除幕式があげられた。制作は水野源六、同窓会員の寄金は2,100余円に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月15日 社会・文化 金沢市医師会が当地医学界の先覚津田、太田、田中3氏の経歴書と肖像画を作って保存するとともに石川県医学発達史を編さんすることになり、その執筆を金子次郎、庄田喜太郎、山本貞次郎、藤本純吉、不破鎖吉に委嘱した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月16日 社会・文化 「ホト﹅ギス」主幹高浜虚子来沢、茨木町の大谷繞石(四高教授)方に滞在。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月17日 社会・文化 (早朝、富山県東岩瀬駅構内で団体客の臨時旅客列車と貸物列車が衝突、死者24人、負傷者66人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月31日 社会・文化 香林坊大神宮下に金沢最初の活動写真常設館菊水倶楽部が開場した。観覧料は1等(2階)20銭、2等(1階いす席)10銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 10月31日 社会・文化 広坂通のヘルビー・ベラミー孤児院(英人ジョースト女史経営)が閉鎖した。(収容児が成長したため) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 11月30日 社会・文化 大日本武徳会石川県支部の演武場が広坂通に落成、記念演武大会が開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正二年(1913) 12月26日 社会・文化 京都帝大教授西田幾多郎(河北郡宇ノ気村出身)に文学博士、東京帝大助教授石川県農会名誉会員原凞(金沢市出身)に農学博士号が授与された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 1月8日 政治・経済 貿易品の製作奨励と販路拡張を目的とする金沢貿易協会の創立総会が市会議事堂で開かれた。会長は山森市長、総裁に坂知事、副総裁に横山商業会議所会頭が就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 2月2日 政治・経済 石川県農工銀行が石浦町に新築落成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 2月14日 政治・経済 第9師団の朝鮮守備派遣命令が正式に到達した。第8師団と交代、派遣期間2年。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 2月25日 政治・経済 石川電気鉄道株式会社が創立総会を開いた。金沢、鶴来間に電鉄を敷設するもので『資本金35万円、社長笹原辰太郎。(大正4年3月臨時総会で電車を汽車に変えることを決議した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 2月 政治・経済 冬期間の降雪がすくなかったため鮮魚輸送用の人造氷が10貫当り5円にもつき業界の問題になった。天然氷の場合の10倍にも当る。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 3月3日 政治・経済 金沢商業会議所は総会で金沢市に高等工業学校設置の請願をすることを決議、市当局と提携して実現運動に乗出すことになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 3月15日 政治・経済 渡鮮する第9師団の在金沢部隊は午前9時から出羽町練兵場で観兵式を挙行、引続き市民に告別のため市中行進をした。午後は官民合同送別会が各隊将校300余人を招いて兼六園で催され、また市は下士兵卒のため市内各劇場、寄席を開放した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 3月23日 政治・経済 第9師団渡鮮部隊の第一陣として騎兵第9連隊が金沢を出発、25日七尾港から乗船した。(最終の部隊は川村中将の師団司令部と共に4月14日金沢を離れた) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 4月6日 政治・経済 生糸羽二重倉庫精練会社設立調査委員会が県会議事堂で開かれ、計画実現の方針を確認した。知事の腹案発表以来賛否両論がたたかわされていたものである。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 4月11日 政治・経済 皇太后崩御(昭憲皇太后)。金沢市は12日から3日間、市会議事堂で市民の奉悼記帳を受付けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 4月27日 政治・経済 市内の巡査派出所中、兼六園内と博労町の2ヵ所が廃止された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 4月29日 政治・経済 知事坂仲輔が新潟県知事に転じ、後任に休職山梨県知事熊谷喜一郎(山口県出身)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 5月1日 政治・経済 金沢の市街電車は明治45年に敷設免許以来いまだに会社設立の運びに至らないので、市会は委員を選び1ヵ月以内に調査報告を提出させることを決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 5月8日 政治・経済 東洋拓殖会社主催の朝鮮人視察団63人が来沢した(2泊)。山森市長主催の歓迎会が金谷館で開かれ、知事、商業会議所会頭ら有力者多数が出席交歓した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 5月 政治・経済 加州銀行専務取締役に中司文次郎(高知県人)が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月4日 政治・経済 金沢市会が街鉄会社成立促進について市長の奮励努力を要請する意見書を議決した。山森市長は「今後は市会一致の協力を得て、本多設立委員長らと共に各方面に株式引受けを勧説して会社創立を促進する」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月29日 政治・経済 生糸羽二重の倉庫精練会社設立のため交渉中の石川、帝国両精練会社が買収に応ずることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月30日 政治・経済 松金電車鉄道会社から出願中の野町、松任間馬車鉄道を電車に改造する件が内務大臣から許可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 7月2日 政治・経済 倉庫精練会社の株式は横山隆俊(1,250株)横山章(1,000株)八日市屋清太郎(500株)以下全額発起人引受けにきまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 7月3日 政治・経済 金沢、金石間の馬車鉄道は電車敷設工事のため本日で馬車の運行をやめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 7月27日 政治・経済 早稲田大学校友会が大隈伯後援会を結成することになり、石川県の創立委員に横山俊二郎、松岡恒太郎、能沢栄太郎、篠原譲吉その他をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月10日 政治・経済 帝国精練、石川精練両会社合同による倉庫精練株式会社の創立総会が開かれ正式に会社が成立した。社長横山章、専務取締役渡瀬政礼。(9月1日業務開始) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月11日 政治・経済 金沢、金石間の電車軌道敷設が完工、営業運転を開始した。発車は15分間隔、運賃は片道10銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月23日 政治・経済 (日本、ドイツに宣戦布告。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月27日 政治・経済 大正博覧会の金沢市出品売上げは点数251点、金額4,839円、また付属金沢市売店の売上げは点数18,569点、金額10,099円であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月 政治・経済 世界大戦のぼっ発は金沢の羽二重機業に強く反応し、輸出ものの取引は一時中止にされるに至ったが、下旬ごろから北米向け取引が回復してきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月13日 政治・経済 市内の県社以下各神社で一斉に対独宣戦奉告の臨時大祭が執行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月17日 政治・経済 金沢商業会議所は列車の増発請願書を鉄道院に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月29日 政治・経済 犀川新橋詰めから野々市駅の間に馬車鉄道を敷設しようという金野馬車鉄道会社に工事施行が認可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 10月20日 政治・経済 日本銀行金沢支店長大三輪奈良太郎が明治銀行専務に就任のため退職、後任は本店検査役奥忠彦。大三輪は明治44年2月金沢主張所長として来任、ひきつづき初代支店長を勤めていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 10月27日 政治・経済 (内閣統計局調査による全国総人口と府県別人口が官報で発表された。全国総人口54,843,083人、石川県人口799,040人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 11月7日 政治・経済 (青島陥落。攻囲軍主力は久留米第18師団と第2艦隊、攻囲軍司令官は神尾光臣中将。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 11月27日 政治・経済 工兵第9大隊の約100人が25日から3日間卯辰山ふた割れ付近の回遊道路新設工事を実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 11月29日 政治・経済 大隈伯後援会の発起人会に出席のため尾崎法相、大隈信常らが来沢した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 12月31日 政治・経済 市調査による本年末現在の金沢市公簿人口は37,732世帯、128,660人(男63,520、女65,140人)である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 12月 政治・経済 輸出羽二重は北米や濠洲から需用がふえ、また印度方面からの広巾もの注文もあって一般に好況に向ってきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 1月4日 社会・文化 陶芸家藤岡岩花堂死去。86歳。西町居住。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 1月20日 社会・文化 並木町の尾山座で本日から日活特派員撮影の桜島大爆発(1月12日)の惨状、鹿児島市民避難光景等の実況活動写真の特別興業がおこなわれた。また菊水倶楽部、神明館でも弥満登会社等決死撮影の実写を番外で上映した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 2月2日 社会・文化 小野慈善院は、第9師団の渡鮮で残飯の払下げが受けられなくなって困り、公私の援助を要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 2月20日 社会・文化 県立金沢病院に小児科が設置され部長に金沢医専教授林篤が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 2月27日 社会・文化 卯辰山の松やカエデのうち150本を百間堀の路傍に植えることになり、本日から移植がはじまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 3月4日 社会・文化 (国幣小社白山比咩神社が国幣中社に昇格した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 3月5日 社会・文化 午前3時ごろ石川郡上金石町字通町の柴田病院から出火、全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 3月20日 社会・文化 元尾山病院の建物(1,500坪)がさきに水害をうけた富山県小川温泉の復興資材に向けられることになり、取りこわしがはじまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 3月22日 社会・文化 広坂通の佐野能楽舞台は建築15周年祝賀会を催した(21、22日)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 3月24日 社会・文化 大正博覧会美術工芸部門に、石川県から彫刻の吉田三郎、都賀田勇馬、陶磁器の中村秋塘、石野竜山、漆器の石垣昌訓らが入選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 3月30日 社会・文化 安江町呉服老舗能久平死去。78歳。小立野川西屋長左衛門の4男、先代能登屋平兵衛の養子となり、藩主の呉服御用を勤めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 4月1日 社会・文化 広坂通の師範学校女子部が独立して石川県女子師範学校となり、これに県立第二高等女学校を併置、開校した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 4月10日 社会・文化 金沢商業新聞は金沢毎夕新聞と改題した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 4月10日 社会・文化 医師の有志から結核予防上、小学児童の教室掃除を廃止するよう建言があったので、知事がこれを県医師会に諮問した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 4月25日 社会・文化 午前5時すぎ袋町から出火、袋町と桶町の15戸を全焼、5戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 4月 社会・文化 石川郡大野尋常小学校に高等科を併置、大野尋常高等小学校と改称した。(後の大徳小学校) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 5月5日 社会・文化 県当局調査による大正2年12月31日現在の金沢の医師数は291人で、医師1人に対する人口は363人となっている。医師291人の内訳は大学卒業17人、専門学校卒業198人、医師試験合格26人、従来開業のもの50人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 5月28日 社会・文化 旧派俳句の宗匠園亭萎文(渡辺太余文)越中町の自宅で死去。74歳。もと安江町で砂糖商を営み、金沢で最も古い洋行者の一人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 5月 社会・文化 犀川上流滝坂で発見されたラジウム鉱泉が浴場化され次第ににぎわってきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月3日 社会・文化 大塚志良死去。73歳。兄長谷川準也らと銅器会社や製糸会社を起すなど明治初期の金沢産業界に尽し、のち県職員としても幅ひろく活躍した。初期の石川県美術協会もその提唱で創設されたものである。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月10日 社会・文化 北陸線に本日からはじめて1等寝台車が連結された。連結の列車は姫路、新潟間の夜行列車で寝台料金は1個3円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月13日 社会・文化 松井須磨子の芸術座が10日から4日間第一福助座で開演、連日満員の人気。(観覧料は1円、80銭、50銭)島村抱月、中村吉蔵も同行来沢。「復活」で須磨子の歌うカチューシャの歌が評判になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月13日 社会・文化 十間町の米穀取引所付近に群がる空米師百余人が検挙された。(うち20人送局) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月13日 社会・文化 林賢徳東京で死去。78歳。旧加賀藩士、海軍士官から実業界に入り、日本鉄道株式会社を創立、また加越能の育英社の発展に尽した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月15日 社会・文化 勤王家駒井躋庵の碑が野田寺町浄安寺に建った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月25日 社会・文化 明治9年3月11日焼失した東本願寺金沢別院本堂(焼失後仮堂のまま)の再建起工式が挙行された。連枝大谷瑩亮が臨席し、別院付近の人出は約3万人に達した。改築は10年計画、募金は5年間で30万円の目標。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月26日 社会・文化 浅野川口最初の活動写真常設館「第二菊水倶楽部」が尾張町に落成、開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 6月28日 社会・文化 八坂松山寺住職山腰天鏡死去。64歳。福井県南条郡の生れ、明治23年から松山寺住職を勤めていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 7月3日 社会・文化 活動写真常設館スメル館が香林坊大神宮境内に落成、日活特約館として開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 7月14日 社会・文化 午前4時すぎ栄町から出火、9戸(うち旅館6軒)を全焼、5戸(うち旅館2軒)を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 7月 社会・文化 活動写真館がつぎつぎ建っているが、この月中にも下尾張町に北国電気館が起工、白菊町に金鵄館の建設が伝えられる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 7月 社会・文化 宗達の墓の発見を機縁に中川忠順、斯波淳六郎、宮崎豊次らの間に宗達会設立の話が進み、その発起人会がひらかれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 7月 社会・文化 男の高級娯楽として市内で流行していた撞球も次第に下火となり、現在市内の球技場は金谷館(西町)、第一大勝亭(片町)第二大勝亭、林亭(片町)、遊楽園(専売局前)二口球技場(松原町)、明技館(尻垂坂通)ほか小立野2軒の計9軒となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 7月 社会・文化 金沢の代表的料亭の一つ、子来町「山の尾」が店主太田多吉老齢のため、7月限り廃業した。多吉は旧藩時代料理研究のため単身江戸に行き、帰国して開店したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月7日 社会・文化 長町5番丁に建設中の聖霊病院(天主教会経営)が落成、開院式を挙行した。総経費16万円、病床数80余。院主ライネルス、院長医学士辻亮吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月11日 社会・文化 私立石川県教育会は私立の2字を削除し石川県教育会と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月12日 社会・文化 宗達会の発会式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月14日 社会・文化 (富山県下大水害。富山市7,000戸浸水、北陸線約1週間不通。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 8月29日 社会・文化 田丸町専光寺が千代尼の墓を建てた。(専光寺は千代女の生家福増屋の檀那寺) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月1日 社会・文化 地万歳の小石喜久松死去。48歳。早くから地万歳の家元として売込み、犀川新橋詰めで理髪店を営むかたわら、毎年正月の寄席に出演、さらに東京、大阪等へも招かれて人気が続いていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月9日 社会・文化 午前1時50分ごろ並木町から出火、14戸を全焼、3戸を半焼した。火元の家で老女1人焼死。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月12日 社会・文化 7月25日創設された市立菊川町尋常小学校の開校式が挙行された。新校舎の総工費は3万5,823円(うち建築費2万7,369円)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月15日 社会・文化 市長山森隆の私行問題から非政友派による市長排撃問題が起つているが、午後兼六園で開かれた市長問責演説会のあと、群衆の一団が九人橋通の山森邸に押しかけ門戸、へいをこわし投石するなど暴行を働き、余波は3新聞社の社屋にまで及んだ。(のち首謀者10人が起訴公判に付された) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月19日 社会・文化 9月1日創設された市立此花町尋常小学校の開校式が挙行された。新校舎の総工費は5万5,533円(うち建築費3万6,184円)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月21日 社会・文化 歌人高橋富兄味噌蔵町裏丁の自宅で死去。90歳。嘉永年間藩校明倫堂の国学講師をつとめ、のち第四高等学校教授に任ぜられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 9月28日 社会・文化 午後9時15分ごろ金沢駅構内にある鉄道工場から出火、工場2むねを焼失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 10月11日 社会・文化 明治2年金沢城内で暗殺された本多政均の銅像除幕式が大乗寺境内でおこなわれた。制作は東京美術学校教授渡辺長男。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 10月11日 社会・文化 元金沢区長加藤恒(松塢)碑が小立野天徳院に建った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 10月18日 社会・文化 小立野天徳院で弁天堂の起工式が挙行された。雨中、女の参会が多くにぎわいを呈した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 10月25日 社会・文化 下尾張町に活動写真常設館大手館が新築完成、日活特約館として開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 11月1日 社会・文化 値下げ競争で紛糾していた市内浴場の入浴料金は、湯屋組合で2銭5厘を2銭に統一(湯札は10銭に6枚)することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 11月3日 社会・文化 香林坊大神宮下犀川市場花屋敷前に新築中の寄席「喜久席」が完成、開場した。収容力500人ないし700人という。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 11月9日 社会・文化 青島陥落を祝し正午に「全市鳴」を挙行。夜は県、市、商業会議所主催のちょうちん行列が各学校、団体から約1万5,000人参加して盛大におこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 11月11日 社会・文化 元陸軍中将塩屋方圀東京で死去。68歳。金沢出身で県人として初めての陸軍中将だったが、のち日糖事件で失脚した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 11月20日 社会・文化 山森市長邸襲撃の騒じょう事件の被告横地正果、松田文彦、宮本友吉らの第一審が金沢地方裁判所でひらかれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 11月 社会・文化 文化年間金沢にきて春日山にきて窯を築き春日山焼を創始した陶工青木木米の窯跡は和田尚軒、高井済好(春日神社神職)らと東京帝大奥田誠一が調査の結果、小坂村字山ノ上の唐津山(春日山の一部)の一角と考証的に確認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 12月18日 社会・文化 午前2時すぎ落雷から上石引町で出火、5戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 12月25日 社会・文化 百坂尋常小学校の新築落成式がおこなわれた。前年2月老朽化で校舎が崩壊し問題になったものである。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正三年(1914) 12月30日 社会・文化 午前0時ごろ田丸町から出火、2戸を全焼、5戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 2月26日 政治・経済 市会は大正4年度市当初予算案の土木費中、浅野川昌永橋の架けかえを1年延期してその工費3,200円を削除する等の杉原幹男議員提出修正案を多数で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 3月18日 政治・経済 金沢市の衆議院議員選挙は中橋徳五郎と横山章が全国的に注目される激戦を展開中だが、首相大隈重信は横山の応援に来沢して尾山座で演説、また出発のとき金沢駅で車窓演説をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 3月27日 政治・経済 衆議院議員総選挙は25日おこなわれた。開票結果次の通り。[金沢市部]当選1,840票 横山章(隈伯後援会)次点 1,066票 中橋徳五郎(政友)[郡部]当選 4,341票 室木弥次郎(同志)同2,977票 関戸寅松(同志)同2,743票 田中喜太郎(同志)同2,682票 西村正則(政友)同2,622票 桜井兵五郎(同志)次点 2,510票 戸水寛人(政友)2,496票 浅野順平(同志) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 4月1日 政治・経済 知事熊谷喜一郎は依願免官となり、後任に福島県知事太田政弘(山形県人)が任命された。熊谷は県高等警察課長らが与党同志会候補のため悪質な選挙違反事件を起した責めを負ったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 4月5日 政治・経済 市収入役に由比勝之が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 4月6日 政治・経済 政友会は、金沢市堀俊明ら県下有権者5人の名をもって、選挙長たる石川県知事を被告として「石川県下の今次衆議院議員総選挙は全部無効である」との訴訟を名古屋控訴院に堤起した。県下で使用した投票用紙が、だれに投票したかを透見できる粗薄な用紙であったのは、「成規の用紙を用いざるもの」であるから選挙法違反であるとの理由である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 3月25日 政治・経済 金沢商業会議所は総会を開き会頭に横山章を再選した。副会頭には4月19日西永公平が選ばれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 6月22日 政治・経済 石川鉄道(鶴来―新野々市間7.1マイルの軽便鉄道)が完工、開業した。総事業費14万余円、旅客運賃並等片道18銭、特等28銭。同鉄道は最初、電鉄敷設の計画で昨年2月電鉄会社を設立、着工したが、本年3月臨時総会で電車から汽車に動力変更を決定し、名古屋から不用機関車と軌道を購入、完成したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 7月1日 政治・経済 報徳銀行金沢支店が上堤町に開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 7月13日 政治・経済 立憲同志会石川県支部の発会式が第一福助座で外相加藤高明らを迎えて挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 7月29日 政治・経済 山森市長は市会の決議により朝鮮駐とん第9師団将兵慰問のため出発した。市会は将兵に贈る慰問品代2,000円を可決。(8月22日帰沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 8月16日 政治・経済 市会は大典記念事業として卯辰山公園道路改修事業(経費1万5,000円、2ヵ年継続事業)を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 8月27日 政治・経済 中崎与四右衛門の死去で空席になった上金石町長に安宅又吉が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 9月25日 政治・経済 県会議員選挙が24日おこなわれた。金沢市の開票結果は次の通り。当選 米原於菟男(政友)餝谷与右衛門(政友)米村吉太郎(同志)辰村米吉(同志)篠原譲吉(国民)次点 西永公平(革新)清水兼之(中立) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 10月5日 政治・経済 加賀製糸株式会社が設立された。社長横山俊二郎、資本金10万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 10月14日 政治・経済 (県会議長に金沢市選出の辰村米吉、副議長に布施丑造が指名推薦された。) 0
    大正四年(1915) 10月23日 政治・経済 名古屋控訴院は3月の石川県衆議院議員選挙無効訴訟に対し「石川県下の選挙全部を無効とする」との判決(第1審)を下した。 0
    大正四年(1915) 10月25日 政治・経済 浅野川天神橋の架けかえ工事が完成、雨中盛大な渡橋式が挙行された。(3夫婦は橋場町呉服店友田家)橋はコンクリート塗装、鉄の欄干、工費4,800円で金沢第一の新橋。 0
    大正四年(1915) 11月15日 政治・経済 任期満了の金沢市長の選挙が市会でおこなわれ、山森隆が再選された。(12月15日裁可)なお選挙では第2候補者飯尾次郎三郎、第3候補者杉原幹男の順位であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 11月30日 政治・経済 石川県は大典記念事業として県立図書館拡張(3階建別館増築)と原蚕種製造所新設をきめ、両案とも県会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 12月17日 政治・経済 金沢専売支局は第2期工事の完成を機に、庁舎落成披露式を挙行した。同局の敷地面積は1万37坪、総建坪は2,634坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 12月31日 政治・経済 市調査による本年末現在の金沢市公簿人口は38,414世帯、137,047人(男68,959人、女68,088人)である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 1月5日 社会・文化 藤江永考朝鮮視察旅行中チフスで死去。51歳。金沢市出身、ドイツ人ワグネルに学んだ陶窯界の先覚で、京都陶磁器試験場場長だった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 2月25日 社会・文化 山森市長邸襲撃(騒じょう罪)事件被告10人に対し金沢地方裁判所で判決が言渡された。市議横地正果、宮本友吉が禁固1年2月の実刑、7人が禁固1年以下執行猶予3年、1人無罪。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 2月 社会・文化 石川県乃木会が創立された。創立委員長水島辰男、会員300余人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 3月25日 社会・文化 (鉄道院は北陸線信越線回りの上野、神戸間直通列車を本日から運行した。距離489マイル、運転時間52時間7分、3等運賃4円71銭でわが国鉄道開始以来の長時間運行列車である。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 4月22日 社会・文化 大正2年11月起工した西町の金沢市公会堂が完工、落成式が挙行された。建物総坪数189坪8合、階上広間の収容力は約1,200人、総工費3万9,571円。本館設計主任は河合工学士、付属一切の設計は市の松任技師、本館請負者直江竹次郎。なお1階陳列所は勧工場代用として市内各商店の即売品を陳列する。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 4月24日 社会・文化 午後8時ごろ柳町の酒造場から出火、酒造場(約100坪)を全焼、4戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 5月2日 社会・文化 蛤坂本長寺境内に芭蕉句碑が建てられ、建碑式が挙行された。「春もやゝ景色とゝなふ月と梅」 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 5月11日 社会・文化 金沢医学専門学校は創立25年記念式と校舎改築移転祝賀式を挙行した。(同校の大手町から小立野への移転は明治45年3月25日) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 5月15日 社会・文化 白菊町北国劇場の隣に活動写真常設館キシン館が新築完成、開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 5月20日 社会・文化 トマス・ウイン博士が来沢、旧知と交歓した。博士は明治初期数年間在沢してキリスト教の伝道に当る一方、北陸女学校の創立を後援するなどこの地方の開化に貢献した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 5月25日 社会・文化 金沢能楽会が創立15年(明治34年創立)の記念式をあげ、創立功労者などを表彰した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 5月30日 社会・文化 (能美郡苗代村字向本折小字出村で大火、住宅68むね全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 5月 社会・文化 6代目尾上菊五郎一座が1日から6日間、また市川左団次一座が19日から5日間いずれも第一福助座で開演、金沢では近年の大芝居とあって両一座とも連日大人気だった。料金は桟敷鶉新出1間が菊五郎は3円60銭、左団次は2円90銭、平坪1間が菊五郎2円80銭、左団次2円10銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 6月10日 社会・文化 漆芸家沢田宗沢(次作)死去。86歳。梅田三五郎に学び描金の肉揚法に新機軸を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 6月13日 社会・文化 北国新聞社主催第1回学生相撲大会が金石海浜で開催された。参加学校は金沢医専と県下中学校7校の計8校。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 6月18日 社会・文化 松井須磨子らの芸術座が本日から4日間第一福助座で開演した。金沢は2回目「サロメ」「其前夜」など。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 6月20日 社会・文化 香林坊大神宮境内で興業中の見世物小屋から長さ4間2尺の錦蛇が逃げ出したことを早朝発見、大騒ぎとなった。錦蛇は日銀支店の庭、山田医院裏庭、右衛門土橋下を通り、高岡町下藪ノ内の民家前の暗きょの中にひそんでいるのを午前11時ごろ発見、つかまえた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 6月21日 社会・文化 民間飛行家野島銀蔵の飛行大会(早鷹号)が野村練兵場で19、20、21の3日間開かれ、連日1万人以上の有料観覧者を集めた。飛行時間は1分間から最高11分間(市街上空訪問のとき)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 6月28日 社会・文化 尾山神社で2代藩主前田利長の300年祭が執行され、前田侯夫妻、母堂らも来沢参拝した。市内は獅子舞、祇園ばやし、弥彦婆、二輪加などがねり回り大にぎわいを呈した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 6月 社会・文化 欧州大戦の影響はさまざまにあらわれて来ているが、輸入薬品の暴騰で金沢病院でも薬価値上げを余儀なくされるようになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 7月2日 社会・文化 石川県師範学校男子部校舎が泉野に完成、落成式が挙行された。6ヵ年継続工事で総工費23万7,000余円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 7月4日 社会・文化 和田文次郎、瀬尾雅太郎、近藤磐雄ら主唱の加越能史談会が兼六園三芳庵で発会式をあげた。郷土史料の収集調査と発表、史跡の維持保存などが会の目的。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 7月9日 社会・文化 市は野町、菊川町、長土塀、此花町、馬場の各尋常小学校と味噌蔵町尋常高等小学校に特別学級を設置した。家計困難で昼間通勤できない学童に夜学をさずけるもの。修業年限4年。(大正9年度の児童数381人) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 8月5日 社会・文化 上金石町長中崎与四右衛門死去。62歳。明治37年から町長に2期就任、実業界でも金石銀行はじめ各会社の社長、取締役として活躍した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 8月18日 社会・文化 午後8時20分ごろ木ノ新保6番丁の民家から出火、3戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 9月10日 社会・文化 河北郡浅川村字小豆沢で火事、全戸数10戸のうち8戸焼失。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 9月16日 社会・文化 石川新聞(社長宮野直道)は横山家に買収され、高島伸二郎が経営担当者となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 10月12日 社会・文化 午後6時すぎ橋場町で通行中の婦人(58歳)が乗用自動車にはねられ重傷、自動車は逃走という金沢では珍しいひき逃げ事件発生。新町分署は犯人厳探中。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 10月17日 社会・文化 野田山にあった堀麦水の墓石遠山墳が菩提寺五宝町西勝寺に改葬された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 10月 社会・文化 野町の寄席神明館が廃業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 11月10日 社会・文化 天皇即位式。大隈首相の萬歳奉唱の午後3時30分全国民が萬歳を3唱したが、金沢市でも同時刻に卯辰山山上で号砲を打ちあげ、これを合図に市民が萬歳を唱和した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 11月10日 社会・文化 大典奉祝のため金沢市内の大通りは大国旗、まん幕等で飾られ、また市民は軒にしめなわや幕を張り、ちょうちん、国旗を出し、開市以来の美観とにぎわいを呈した。本日から18日までの間、各学校、団体、町内の各種行列や催し物で昼夜わき返った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 11月10日 社会・文化 (大典に当り能登の国幣中社気多神社の国幣大社昇格が発表された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 11月10日 社会・文化 大典に当り次の県人に贈位の発表があった。正5位・安達幸之助(勤王家)従5位・清水誠(わが国マッチ製造の元祖)同・関口開(県の西洋数学始祖) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 11月12日 社会・文化 動力機械製造の2代目津田米次郎死去。54歳。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 11月16日 社会・文化 市主催の金沢大礼奉祝会が出羽町練兵場で盛大に開かれた。参会者数約3,000人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 11月27日 社会・文化 中村吉右衛門一座が24日から8日間北国劇場に来演、連日大人気である。観覧料桟敷鶉新出1坪2円80銭、平坪2円10銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 11月30日 社会・文化 官民合同の兼六園保勝会が県会の決議を得て設立されることになった。会長は知事。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正四年(1915) 12月16日 社会・文化 石川県教育会が昨年9月来編さん中の金沢市教育史が脱稿した。同会の手で刊行予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 1月13日 政治・経済 市調査による昨年末における金沢市内の家屋数は2万1,224戸で前年末より907戸増加した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 1月15日 政治・経済 金沢、野々市間の馬車鉄道が開通した(社長横山俊二郎)。野町5丁目元村山吹屋跡の仮停車場と北陸線野々市駅間の料金は4銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 1月 政治・経済 箔の需要が伸び昨年1ヵ年に金箔500万枚、銀箔500万枚、洋箔1,000万枚、アルミ箔700万枚が輸出されて、このところ業界は活況を呈している。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 3月1日 政治・経済 松金電車鉄道会社の金沢、松任間軌道工事が完成した。施工は愛知県の加藤組。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 3月13日 政治・経済 松金電車鉄道会社の松任、金沢間電車が運転を開始した。松任、金沢間の料金は12銭(通行税とも)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 3月17日 政治・経済 石川県衆議院議員選挙無効訴訟について大審院は「名古屋控訴院の判決を破棄し、改めて大阪控訴院に移送する」との判決を下した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 3月24日 政治・経済 故川村第9師団長の後任に憲兵司令官橋本勝太郎中将が補せられた。(橋本は東京から直接任地の朝鮮竜山に29日着任した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 4月15日 政治・経済 石川県輸出麻真田同業組合が金沢商業会議所で設立総会をひらいた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 5月1日 政治・経済 朝鮮守備の任を終った第9師団は帰還を開始し、師団司令部と歩兵第35連隊が先頭部隊として金沢に帰着した。駅前には金沢市の歓迎門が建てられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 5月20日 政治・経済 東京早川千吉郎邸に本多、横山両男爵、和田豊治(日本紡績)らが集り、金沢に紡績会社設立計画を決定した。規模は初期、紡績機68台、撚糸機16台となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 5月27日 政治・経済 下堤町に日本生命保険会社金沢支店の社屋が新築落成、十間町から移転した。赤れんが2階建、工費7万円。北陸随一のモダン建物と評判になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 5月30日 政治・経済 4月13日火災にあった日本硬質陶器の応急復興工事がほぼ完成したので、会社は職工1,000人の募集をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 6月10日 政治・経済 県市共同主催の朝鮮帰還第9師団歓迎会が将校を招いて卯辰山公園で開かれた。参会者約2,000人。また下士卒には記念杯を贈り市内の劇場、活動常設館を開放した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 7月17日 政治・経済 金沢電気瓦斯会社は2,000馬力の発電計画を県に出願した。同社の直海谷発電所(1,800馬力)が明年春に送電開始になっても紡績(1,500馬力)電車(600馬力)の要求をみたすに不足という理由による。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 7月26日 政治・経済 大坂控訴院は石川県衆議院議員選挙無効訴訟の差しもどし裁判で選挙無効(知事の敗訴)の判決を言渡した。(9月5日知事は再度大審院に上告した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 9月1日 政治・経済 一部開通した金沢、野々市駅間の金野馬車鉄道は千日町(北国劇場付近)までの工事が完成、これで全部開通した。千日町、野々市駅間の料金は6銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 9月13日 政治・経済 酒類取扱商の間に金沢酒造株式会社(資本金5万円、製造高2,500石)設立の案がまとまり創立委員長に市村孫太郎を選んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 10月7日 政治・経済 9月末現在の金沢組合銀行は17行、うち本店銀行は加州、石川、金沢貯蓄、吉田の4行である。100万円以上の預金高あるものは次の通り。加州銀行245万5,110円、十二銀行159万5,440円、金沢貯蓄銀行124万8,371円、明治銀行120万444円、鴻池銀行118万5,361円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 10月14日 政治・経済 知事太田政弘が熊本県知事に転じ、後任に高知県知事土岐嘉平(和歌山県出身)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 10月15日 政治・経済 機業松田鳥文が廃業した。力織機150台、工員100余人の市内屈指の機業場だったが、同業組合内部の問題が原因。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 10月28日 政治・経済 加州銀行の加賀実業銀行合併が実現し合同総会がひらかれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 10月29日 政治・経済 金沢電気軌道株式会社の創立総会が市公会堂で開かれ、7年越しの懸案であった街鉄がいよいよ発足した。資本金150万円(3万株)、株主3,786人。取締役は本多政以、小曾根喜一郎、横山一平、小塚貞義、中泉三郎。(山森市長は11月1日、市の全吏員を公会堂に招き街鉄成立についての労苦を慰労した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 11月3日 政治・経済 尾張町森八菓子店が東京日本橋に支店を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 11月11日 政治・経済 5月に起工、10月完成した大典記念卯辰山記念道路の開通式が挙行された。延長394間(旧道は170間)、施工請負いは賢坂辻薄井久太、総事業費1万6,321円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 11月27日 政治・経済 久しく係争中だった大正4年3月の石川県衆議院議員選挙無効訴訟は、大審院で上告棄却の判決が下って石川県知事の敗訴に帰し、選挙の無効が確定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 12月1日 政治・経済 松金電車と石川鉄道は野々市交差点に野々市連絡駅を設け、客貨の連帯運輸をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 12月2日 政治・経済 石川県衆議院議員の再選挙は12月18日執行のむね告示された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 12月19日 政治・経済 石川県衆議院議員再選挙は18日執行された。開票は市部が19日、郡部が27日(能美郡の1村で事故のため)おこなわれた。〔金沢市〕当選1,275票 中橋徳五郎(政友)次点736票 横井伊佐美(憲政)〔郡部〕当選4,384票 戸水寛人(政友)同3,613票 浅野順平(憲政)同3,494票 桜井兵五郎(憲政)同3,474票 西村正則(政友)同3,227票 田中喜太郎(憲政)次点3,055票 米田穣(政友) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 12月25日 政治・経済 市会は金沢高等工業学校設置費の寄付金について承認した。設置費79万円は一般からの寄付にまつことになるが、寄付の不足分は市と県が負担することを決めたもの。なお横山章からはすでに10万円の寄付申出がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 12月31日 政治・経済 市調査による本年末現在の金沢市公簿人口は38,229世帯、136,492人(男67,908人、女68,584人)である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 1月11日 社会・文化 兼六園内金沢神社(社司守部齊)の保存会がうまれた。もと竹沢殿の鎮守で氏子がないためである。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 1月14日 社会・文化 金沢市における昨年中の死亡者は2,698人、死亡病名は肺結核が首位で229人(前年比21人増)、以下肺炎、脳出血、脳膜炎、気管支カタル、腎臓炎、胃ガン(72人)の順となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 1月15日 社会・文化 野村円平の「空翠雑話」が和田文次郎により観文堂(南町)から再刊された。円平は幕末加賀藩の町人、はじめ風雅、のち国粋論者。空翠雑話は藩から版木を没収され絶版になっていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 1月20日 社会・文化 午後7時すぎ殿町の民家から出火、1戸と隣接の元豊国神社境内の能舞台等を焼失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 2月22日 社会・文化 午後8時すぎ野町2丁目の民家から出火、2戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 2月27日 社会・文化 郵便物の雪中輸送にスキーを使用するため、高田市のスキー講習会に出席した松原白峰郵便局長ら2人が帰県し、さっそく大乗寺山でその習得してきたスキー技術を関係者に披露した。白峰局では3月から使用することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 3月10日 社会・文化 松本幸四郎、沢村宗十郎一座が北国劇場に来演した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 3月10日 社会・文化 金沢毎日新聞と石川新聞とが合併して石川毎日新聞と改題した。発行所は南町の石川新聞発行所。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 3月18日 社会・文化 第9師団長川村宗五郎中将金沢で死去。59歳。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 4月1日 社会・文化 小野慈善院内に私立小野臥龍小学校が開校した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 4月3日 社会・文化 改築中だった香林坊の第一福助座が嵐冠十郎一座で開場した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 4月 社会・文化 兼六園保勝会(会長知事)が保勝設計委託のため招いた農学博士原凞が「日本式庭園として保勝をはかるならば入園制限(有料制)もやむなし」と結論したことについて、有料制是非の問題が各方面で盛んに論議されている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 4月13日 社会・文化 横山隆興死去。69歳。尾小屋鉱山の経営に成功、また各種公共事業に多くの寄付をした。横山隆章の2男。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 4月13日 社会・文化 深夜、長町川岸の日本硬質陶器会社で窯が破裂して出火、工場倉庫など4むね約2,000坪を焼失した。損害約30万円。太田知事、山森市長らも現場にかけつけ消火の指揮にあたった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 5月4日 社会・文化 河北郡三谷村字柚木に大火、18戸焼失。市内から卯辰山の後方に火炎がながめられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 5月22日 社会・文化 来日中の米の鳥人アート・スミス(22歳)が野村練兵場で21、22両日宙返り飛行を演じた。新聞は有料入場者数を21日8万人、22日2万人と報じた。入場料の最低は小学生の5銭。福井、石動間に4本の臨時列車が運転された。金沢市の飯尾助役は2日目に市の感謝状と記念メダルをスミスに贈った。なおこの金沢の飛行大会主催者は井村徳三郎で、約1,000円の欠損だったという。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 5月 社会・文化 金沢市の撞球(ビリアード)熱は最近再興してきたが、現在市内の営業球技場は12軒、非営業の会社または個人の球技場は約10ヵ所である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 6月21日 社会・文化 元代議士杉村寛正死去。73歳。旧藩士、明治初期政治結社忠告社によって活躍し、衆議院選挙に第1回から3回まで連続当選、のち石川県勧業博物館長を勤めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 6月28日 社会・文化 市の編さんになる「稿本金沢市史・市街編第一」が刊行された。執筆者和田文次郎。(稿本金沢市史は昭和12年の政治編第二をもって一応打ち切られた。全14巻。この間執筆者は和田から八田健一に代った) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 8月1日 社会・文化 石川毎日新聞(社長西永公平)の経営が横山家から名古屋新聞社長小山松寿に譲渡された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 8月1日 社会・文化 馬場小学校(校長北川友三郎)が卯辰山上で本年から夏期保養団体生活(林間学校)をはじめた。参加生徒約120人、期間10日間、費用1人1円50銭で宿舎は忠魂堂と覚林寺。金沢で初めての林間学校である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 8月5日 社会・文化 四高主催第4回北陸関西連合野球大会(参加13校)で長野師範が金沢二中を13対1で破って優勝し、本年から大阪府豊中で開催される大阪朝日新聞社主催第1回全国中等学校優勝野球大会に北信越代表として出場権を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 8月8日 社会・文化 近く文部省が決定する高等工業学校の新施設は金沢のほか広島、横浜も候補地になっており、金沢設置は楽観を許さぬ情勢のため、市会(林議長ら5人)金沢商業会議所(横山会頭ら3人)の各代表は本日上京して、県会代表、県選出代議士と共に猛運動を始めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 8月11日 社会・文化 県立図書館の大典記念の増築が完工、落成式を挙げた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 8月16日 社会・文化 政府は金沢の高等工業学校を明後7年度から4ヵ年継続事業として創立に着手することに内定した。(広島、横浜は6年度から) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 8月17日 社会・文化 陸義猶東京で死去。74歳。政治結社忠告社創始者の一人、島田一良らのため大久保利通の斬奸状を起草して終身禁獄に処せられたが10年で特赦された。その後金沢監獄教戒師をつとめ最後に前田家編輯員をしていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 8月21日 社会・文化 四高教授八波則吉(其月)が文部図書官、文部督学官に転任した。八波は大学卒業後直ちに四高に来任し在沢16年、兼六園歌をはじめ多数校歌類の作詞を残した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 9月11日 社会・文化 兼六園保勝会評議員会が開かれ、原博士の案(禁園)を審議の結果、有料制による入園制限案は時期尚早とし、園内一部に立ち入り禁止個所を設ける折衷案をきめた。(案の実施はその後知事の更迭もあり立ち消えになった) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 9月16日 社会・文化 (富山、福井はじめ全国に流行中のコレラが石川県に侵入、鹿島郡田鶴浜村に真性コレラ患者が1人発生した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 9月16日 社会・文化 浮世絵師宮島常次郎(恒信)死去。66歳。新聞の読物等のさし絵を描き、また仏師(2代目左輔)としても有名だった。蛤坂居住。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 9月22日 社会・文化 山森市長は市民にコレラ予防の注意事項を列挙した論示を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 9月27日 社会・文化 河瀬貫一郎死去。68歳。旧村井家家臣、明治10年代から県会議員に出て議長をつとめるなど地方政界に活躍、晩年は石川県乃木会の理事として精神作興運動に尽した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 10月5日 社会・文化 コレラがついに金沢に侵入、彦三3番丁で1人発生した。患家付近数戸はナワを張って交通をしゃ断し、その住人を隔離所へ収容した。交通しゃ断線は巡査や消防組員が監視するなど当局の処置が厳重を極め、一部市民から不満の声が出たほどだった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 10月9日 社会・文化 市はコレラ患者の発生に備え市立桜木病院に仮病室を増築中のところ本日完成、直ちにコレラ患者2人を収容した。新築病室は収容力20人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 10月10日 社会・文化 金沢市内のコレラ続発、金沢魚商組合は5日間休業した。県はコレラ根源地を大根布と断定し、「市内の河川、河北潟と大野川一円、大野川河口の南北各10町と沖合10町以内の海面」における漁業遊泳等を禁止した。(10月27日解禁) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 11月3日 社会・文化 第1皇子裕仁親王の立太子式挙行。金沢では午前9時30分祝砲を合図に市民は萬歳を唱和した。市会は奉祝文を可決、山森市長が直ちに上京奉呈した。市内では昼は小学生の旗行列、夜は中学生以上約4,000人のちょうちん行列がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正五年(1916) 11月12日 社会・文化 波吉宮門の古稀祝賀能が東京九段の能楽堂で催された。宮門は加賀藩最後のお抱え能役者。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 1月6日 政治・経済 加州銀行が加能銀行(羽咋)と津幡銀行を吸収合併した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 1月 政治・経済 (県調査による県下の昨年中の麻真田生産高は330万反、価格110万円。製造戸数は83、就働者3,000人余。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 3月20日 政治・経済 大典記念事業の石川県原蚕種製造所が西御影町に落成、開所式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 3月27日 政治・経済 来月20日の衆議院議員総選挙に金沢市部は中橋徳五郎(政友)のひとり舞台と見られていたところ、早稲田大学教授永井柳太郎(憲政)が立候補を宣言し選挙は活気を呈してきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 4月22日 政治・経済 20日おこなわれた衆議院議員選挙の開票結果は次の通り。〔金沢市〕当選1,319票 中橋徳五郎(政友) 次点1,116票 永井柳太郎(憲政) 〔郡部〕当選3,415票 桜井兵五郎(憲政) 同2,986票 米田穣(政友) 同2,859票 浅野順平(憲政) 同2,843票 戸水寛人(政友) 同2,807票 西村正則(政友) 次点2,573票 乾亮(政友) 2,508票 大味久五郎(憲政) 1,540票 藻寄鉄五郎(政友) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 4月22日 政治・経済 永井柳太郎が兼六園で感謝演説会を開き「来たり、見たり、敗れたり」の名演説をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月7日 政治・経済 閑院宮載仁親王が特命検閲使として来沢、第9師団の当地諸部隊を検閲された(21日まで)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月20日 政治・経済 西町に財団法人金沢銀行集会所が完成、落成式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月28日 政治・経済 金沢紡績株式会社の創立総会が開かれた。資本金500万円。社長本多政以、専務取締役大脇康直。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月31日 政治・経済 金沢市医師会は総会の決議により上水道敷設調査機関設置の建議書を山森市長に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 6月23日 政治・経済 朝鮮硬質陶器株式会社(日本硬質陶器系)の発起人会がひらかれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 7月7日 政治・経済 金沢市選出県会議員の補欠選挙がおこなわれ、西永公平が当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 7月18日 政治・経済 金沢電気瓦斯会社は電力節約のためカーボン電球をやめてタングステン電球を使用することになった。なお市内各戸の電灯は8割5分が10燭以下で、5燭が3万7,000灯、10燭が2万3,000灯である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 7月28日 政治・経済 市助役に飯尾次郎三郎が再選された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 12月10日 政治・経済 金沢市会議員選挙は3級が4日、2級が7日、1級が10日におこなわれた。当選者の政派別は政友派19、非政友派17。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 12月17日 政治・経済 市会は正副議長選挙をおこない、議長に林直(政友)、副議長に乾亮(政友)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 12月28日 政治・経済 犀川大橋架けかえ用の鉄材は大阪で買入れることに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 12月31日 政治・経済 市調査による本年末現在の金沢市公簿人口は38,549世帯、140,024人(男71,551人、女68,473人)である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 12月 政治・経済 金沢の箔の産額は大戦の影響を受けて著しい発展を示し、大正は4年(50万円)に比べ5年は2倍、本年は約3倍に達している。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 1月14日 社会・文化 元四高校長吉村寅太郎東京で死去。70歳。旧但馬藩士、四高名誉教授の称号を受けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 1月15日 社会・文化 明治24年以来の大雪で3日から11日までの金沢の降雪量は計8尺4寸、4日には1日で2尺1寸9分も降った。本日までの金沢市の家屋全壊16戸、死者4人。(2月初め再度の大雪あり、全壊26戸に増加) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 1月17日 社会・文化 (県会は県立諸学校の授業料を4月から値上げすることを議決した。それぞれ20銭の増額である。中学校、高等女学校2円20銭、商業学校1円70銭、同予科1円40銭、工業学校1円40銭。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 1月20日 社会・文化 物価騰貴で市内の人力車料金も値上げされた。従来の5丁以内5銭を6銭に上げ、5丁以上1丁ごとに7厘増しとなった。また空気タイヤの大輪は2割増しときめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 1月26日 社会・文化 宮野直道死去。65歳。明治30年から市議県議に数回当選、市会議長、県会議長もした。硬質陶器、加能精練、石川新聞等の各社長をつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 2月11日 社会・文化 「稿本金沢市史・市街編第二」が市役所から刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 2月24日 社会・文化 石川郡富樫尋常高等小学校清瀬、坪野、倉ヶ獄の3分教場を併合して富樫尋常高等小学校坪野分教場と改称した。(後の富樫小学校坪野分校) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 3月7日 社会・文化 大乗寺住職堀麟童死去。84歳。鳳至郡出身、明治6年以来同寺住職の座にあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 3月9日 社会・文化 (宝生流16代家元宝生九郎死去。80歳。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 3月10日 社会・文化 尾張町の活動写真常設館大手館が金城館と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 3月14日 社会・文化 画家森春岳(京都在住)死去。84歳。金沢市出身。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 3月30日 社会・文化 文部省は金沢高等工業学校敷地買収費6万円を予算に計上した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 3月31日 社会・文化 物価高でこのところ学校の授業料や保育料もつぎつぎ値上げが発表されている。市立女子職業学校1円(旧80銭)、川上、白銀町、馬場各幼稚園30銭(旧15銭)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 4月1日 社会・文化 河北郡鈴見尋常小学校が下田上尋常高等小学校分教場になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 4月6日 社会・文化 (鳳至郡鵜川村に大火、全焼130戸、半焼5戸、焼死4人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 4月25日 社会・文化 選挙に敗れた永井柳太郎は午後7時5分金沢駅発列車で帰京したが、見送りの一団数百人が帰途、安江町新愛知新聞社金沢支局と南町北国新聞社に押しかけ一部のものは喚声をあげて投石した。17人が逮捕された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月5日 社会・文化 造営中の明治神宮神苑に金沢市からヒノキ150本、赤松53本、黒松34本献木することになり、本日汽車で発送した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月5日 社会・文化 北国劇場に中村吉右衛門、坂東三津五郎一座が来演した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月19日 社会・文化 書店主(横安江町)近八郎右衛門死去。81歳。俳諧を雪袋に学び、柳陰居素一と号し広い趣味の通人で、風俗稗史についての著作も多い。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月25日 社会・文化 卯辰山招魂社で北越戦役50年祭が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月27日 社会・文化 「稿本金沢市史・市街編第三」が市役所から刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 5月27日 社会・文化 金沢地方で著名の裁縫師匠中田里子(彦三居住)の頌徳碑が門人の手で卯辰山忠魂堂付近に建てられ、門人百数十人が参列して除幕式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 6月3日 社会・文化 前田利為夫妻が来沢、野田山で前田利家夫人芳春院の300年祭を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 6月10日 社会・文化 金沢で古い由緒をもつ八幡町の県社宇多須神社の1,200年式年祭が本日から3日間催され、浅野川以北地区は非常なにぎわいを呈した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 6月25日 社会・文化 4月25日の新聞社へ投石の騒じょう事件の判決が金沢地方裁判所で言渡された。禁固3人(1年~3月)罰金13人、無罪1人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 7月3日 社会・文化 昨夜来の豪雨で犀川(5尺8寸)浅野川(4尺)金腐川(5尺)が増水、全市の浸水1,000余戸、卯辰山下の常盤町、豊国町、観音町にがけくずれがあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 8月5日 社会・文化 帝国飛行協会の後藤正雄は協会のモーリス・ファルマン式飛行機で出羽町練兵場を離陸し、市内上空を約450メートルの高度で40数分間飛行、無事着陸した。市内の多くが屋根に登って見物した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 8月19日 社会・文化 加能史談会ははじめて市内の名所旧跡25ヵ所に、その由来を記載した標板をたてた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 8月25日 社会・文化 (東北帝国大学総長北条時敬が学習院院長に任ぜられた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 8月26日 社会・文化 金沢医学専門学校教頭で金沢病院長の山碕幹が勇退、医専在職20余年。後任教頭には下平用彩教授が昇格、病院長は高安校長の兼任となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 9月1日 社会・文化 (富山県下にまんえんのコレラは能登地方に侵入し飯田、宇出津等に続発している。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 9月6日 社会・文化 県はコレラ予防のため県令で、富山県から魚貝、果実野菜類の移入を禁止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 9月15日 社会・文化 画家竹久夢二(柿木畠藤屋に滞在中)の作品展覧会が15日、16両日金谷館で開かれ多くの入場者を集めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 9月30日 社会・文化 勤王家松平大弐の石碑が野田山に建った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 10月2日 社会・文化 30日来の暴風雨で県下に被害多く金沢でも各河川が増水、犀川大橋下流の堤防が決壊した。また能美郡尾小屋鉱山で沈澱池が決壊、鉱夫社宅が押し流され、27人死亡。(表日本へ襲来の台風は中央気象台創設以来の猛台風で、関西、関東地方は大被害を出した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 10月3日 社会・文化 金沢東別院の再建工事の入札がおこなわれ、5万3,800円で富山県井波町の松井角平が落札した。入札資格を18間四面の堂宇を経験ある業者に限ったため入札者は3人に過ぎなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 10月10日 社会・文化 粟崎木谷藤右衛門邸庭園の木石(千代藤右衛門が数百万円を投じたもの)の売立てが9、10両日おこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 10月20日 社会・文化 水登勇太郎死去。65歳。金沢商業会議所会頭に3回就任、市議、県議のほか明治36年代議士にも当選した。金沢で最初にキリスト教の洗礼を受けた一人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 10月21日 社会・文化 (早大教授永井柳太郎は早大騒動事件で大学を退き、南支南洋視察の途についた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 10月27日 社会・文化 能登地方のコレラは9月27日以来発生なく、県は終息と見て禁止していた内浦の漁業等を解禁した。初発以来57人、うち死亡39人。(富山県は患者累計446人) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 11月17日 社会・文化 大演習で滋賀県行幸を機に石川県関係の4人に贈位が発表された。(被贈位者総数44人)従3位 前田治脩(加賀11代藩主)正4位 前田利明(大聖寺2代藩主)従5位 堀四郎(旧藩士、勤王家)大野木克正(旧藩士、勤王家)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 11月 社会・文化 警察が芸妓の検黴を強行することになったので西廓20人余、東廓86人、主計町30人の芸妓が廃業するといきまき、このため検黴はされずおわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正六年(1917) 月日不詳 社会・文化 新潟県から転任してきた師範学校長中山文雄が、学校にスキー数台を備え生徒や付属小学校の児童に練習させた。当地方にスキーの普及しはじめたのはこの時からである。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 1月10日 政治・経済 街鉄会社は電車計画路線のうち中町、大手町を経て尻垂坂に出る路線を尾張町、枯木橋、味噌蔵町から裁判所前に出る路線に変更を主務省に更新中のところ認可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 1月29日 政治・経済 金沢米穀取引所は28、29両日立会を停止した。三重県津市の岡某が米の買占めをして三重県知事から戒告されたことに基因して、相場が不穏当な高低を示したことによるもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 2月7日 政治・経済 市内電車線敷説のため市が実施する道路拡築工事が県から認可された。道路拡築のために買収を必要とする家屋は672戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 2月15日 政治・経済 片町通り竪町角の勧工場は市区改正を機会に閉業することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 3月23日 政治・経済 かねて経済界から要望のあった県工業試験場設立がきまり、敷地も長土塀蚕業講習所跡に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 4月1日 政治・経済 市長ら3役の増俸が市会の決議を経て実施された。新年俸は市長3,300円、助役2,000円、収入役1,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 4月 政治・経済 金沢商業会議所調査による金沢の各種工賃は次の通り。大戦による物価高の影響で漸騰を示している。(カッコ内は昨年9月賃金)大工1円40銭(1円)左官1円20銭(90銭)石工1円30銭(1円10銭)瓦ふき1円30銭(1円10銭)れんが工1円70銭(1円50銭)建具職1円30銭(90銭)畳刺1円(90銭)人夫85銭(75銭) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 5月9日 政治・経済 材木町2丁目から突きあたりの旧木曽町道路を切り下げて、一直線に百々女木町に通ずる道路の開さく方を関係町民が山森市長に陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 5月29日 政治・経済 "加州銀行は金沢市を引きあげる鴻池銀行金沢支店(香林坊)を買収、銀行業務を継続すると発表した。鴻池銀行金沢支店の創設は明治34年5月。  ◇備考(米騒動など一連の米価暴騰関係事項は社会問題として「社会・文化」      欄にのせた。)" 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 6月8日 政治・経済 北陸地方視察中の渋沢栄一が第一国立銀行支店設置のとき以来33年ぶりに来沢した。金沢一中と市公会堂で講演。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 6月10日 政治・経済 石川県貴族院多額納税者議員互選がおこなわれ、横山章が13票で当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 7月10日 政治・経済 貴族院の男爵議員に、金沢市出身の横山隆俊(新)本多政以(再)斯波忠三郎(再)の3人が互選された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 7月24日 政治・経済 東久邇宮稔彦王が陸軍異動で歩兵第7連隊第1大隊長に任ぜられた。(8月19日着任、宿舎は成巽閣) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月22日 政治・経済 日本銀行金沢支店長奥忠彦が転出、後任に松方義輔(松方正義の9男)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 9月3日 政治・経済 第9師団の各歩兵連隊から1個ずつ計4個中隊が青島守備のため出発した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 9月29日 政治・経済 金沢出身の中橋徳五郎(55歳)が原内閣の文部大臣に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月2日 政治・経済 日本硬質陶器会社小黒安雄専務が職工の毎月1日、15日の定休日を毎月第1、第3日曜に変更することを提唱、金沢商業会議所もこの方が合理的だとして休日変更の実現に努力することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月17日 政治・経済 街鉄会社の市内電車レール敷設工事が開始された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 11月10日 政治・経済 (鉄道小浜線が開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 12月3日 政治・経済 県の屋上覆葺規則で金沢市の家屋は本年末までに屋根をカワラぶきに改めなければならぬことに決められていたが、市の特殊事情を認めて、10年間(大正17年末まで)ふき替えの延期を認める県令が公布された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 12月31日 政治・経済 金沢手形交換所における本年中の手形交換枚数は14万5,851枚、8,343万4,638円71銭で枚数金額とも開所以来の数字である。また不渡手形は42枚2万7,721円で金額は新記録である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 12月31日 政治・経済 市調査によると本年末現在の金沢市公簿人口は39,210世帯、156,279人(男78,596人、女77,683人)である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 1月3日 社会・文化 石川郡犀川村字倉谷で積雪のため家屋倒壊、一家7人が圧死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 1月13日 社会・文化 12月24日ごろからの降雪は金沢で数十年ぶりの大雪となり、市民は20日間に3度も雪おろしをし、市内道路は屋根より高くなった。野菜類(大根1本16銭)を筆頭に物価も高騰したが、ここ1両日来雪もようやくやみ汽車も開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 1月23日 社会・文化 日置謙の「石川県研究-神社篇」が石川県教育会から刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 1月 社会・文化 室生犀星が処女詩集「愛の詩集」を感情社から自費出版した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 2月1日 社会・文化 安江町の老舗能久呉服店は同町内の田守呉服店に店舗一切を譲渡し、田守呉服店として経営されることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 3月1日 社会・文化 午前9時すぎ河原町の八百物商から出火、2戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 3月7日 社会・文化 金沢高等工業学校敷地は小立野に決定、測量が開始された。(10月15日建築着工) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 3月9日 社会・文化 "県の調査による今冬の金沢市の大雪被害は次の通り。(カッコ内は全県の被害) 死者4人(59人)住家全壊2むね(54むね)同半壊56むね(104むね)非住家全壊18むね(137むね)同半壊20むね(54むね)" 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 3月25日 社会・文化 主計町の演舞場が落成、開場した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 4月1日 社会・文化 野町5丁目に野町第二尋常小学校が創設され女児を収容した。野町尋常小学校は男児を収容。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 4月1日 社会・文化 石川県立金沢商業学校を石川県立商業学校と改称した。(大正10年4月石川県立金沢商業学校の旧称に復帰) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 4月1日 社会・文化 市立学校の授業料が値上げになった。女子職業学校1円50銭、尋常小学校20銭、高等小学校60銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 4月4日 社会・文化 前田家財務理事羽野知顕死去。68歳。旧藩士岸精一の2男、判検事を歴任し、十五銀行、金沢紡績等の役員も勤めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 4月7日 社会・文化 石川県将校同志会の講習所が下本多町前田家所有地に落成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 4月16日 社会・文化 河北郡浅川村字若松小字谷口で大火、家屋11戸、納屋10むねを全焼。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 4月20日 社会・文化 金沢で白米1升31銭という空前の高値となった。新聞は「神武以来の高値」と報じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 5月4日 社会・文化 午後1時半ごろ石川郡野々市村字野々市で汽車の飛火から出火、11むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 5月15日 社会・文化 午後3時半ごろ大衆免片原町から出火、3戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 5月22日 社会・文化 有栖川宮慰子妃(前田慶寧の4女)が展墓のため48年ぶりで金沢入りされた。(6月8日まで滞沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 6月1日 社会・文化 米価は一時値下りしたが、また値上りしているので市は本日から外国米(ラングーン米)の販売を開始した。販売所は各連区1ヵ所(全市7ヵ所)で1升19銭、1人5升以下と制限した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 6月3日 社会・文化 市が売出した外国米は2日間で150石2斗を売った。市はさらに10車分を注文した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 6月9日 社会・文化 尾張町菓子舗森八の食堂(三階建)が来沢中の渋沢栄一らを迎えて開業式をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 6月27日 社会・文化 市が売出した外国米は1日30石以上売れ、26日までに1,000石を越した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 6月28日 社会・文化 「稿本金沢市史・学事編第一」が市役所から刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 7月21日 社会・文化 北陸旅行中の徳富蘆花夫妻が来沢、源円に投宿した。松任の千代尼墓や県物産陳列館へ行った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 7月22日 社会・文化 市の外国米販売数量は21日までに1,652石に達し、手持ち量を売り切ったので後続分の入荷まで販売所を一時閉鎖した。飯尾助役は阪神地方に出張し出荷を督促中。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 7月26日 社会・文化 市は市在籍者で7月31日現在内地米10石以上を所有するものに、所持数量を報告するよう要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 7月31日 社会・文化 陶工友田安清死去。57歳。池田九華らに画を、内海吉造、ワグネルらに顔料調合を学び、のち顔料の製造に新機軸を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月2日 社会・文化 (一時小康を保っていた米価は最近の出兵説、外鮮米の移入難が導火線となってまた暴騰、白米1升37,8銭から40銭台にせまった。大阪の堂島取引所が取引を禁止されたのを初めとして各地米穀取引所も政府の命令で取引を停止、深川正米は標準相場も発表されず国民生活は暗雲におおわれている。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月2日 社会・文化 長町小学校では、保健衛生上9月からの新学期から1、2年生のハカマの着用は儀式のほか廃止すると保護者に通知した。同校はさきに校内上バキも禁止しているが、こんどは父兄間に若干の反対意見も出ている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月5日 社会・文化 伍堂卓爾死去。74歳。旧藩士、明治2年藩の留学生として滞欧中、医学教師スロイス、英学教師ウォード、鉱山学教師デッケンと交渉し金沢招へいを契約した(3人は明治3年来藩)。金沢医学館教師から陸軍に出仕、二等軍医正になった。長男卓雄はのちの商工大臣。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月7日 社会・文化 石川毎日新聞と北陸新聞が合併して北陸毎日新聞と改題、発刊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月7日 社会・文化 (米価暴騰に生活難を訴えて、さる3日から富山県下の水橋、滑川、魚津、東岩瀬の各町で漁師の女房連を中心とする強訴の騒ぎが連続発生している。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月9日 社会・文化 市は購入した外国米420石を8日から1升20銭で(内地米の市中相場は1升43銭)売出したところ2日間で370石を売り残量50石となった。各連区の外米販売所は定刻前から市民が殺到し、小児や老女が気絶する騒ぎも発生、また市内の米商人で手を回して外米を買いあさる者がいるとの風評も流れ、情勢が次第に緊迫しているので市当局も苦慮している。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月10日 社会・文化 市が大阪の岩井商店に発注した外米は、農商務省の方針で米の最も不足している東京へ回送を命ぜられたので、市は農商務省に交渉のため飯尾助役を急ぎ上京させた。(交渉の結果、あとで半分だけ金沢市に返却してくれた) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月10日 社会・文化 (京都、大阪、神戸、名古屋など各地に米騒動がひろがっており、軍隊も出動。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月11日 社会・文化 もと消防組頭手下政五郎栄町の自宅で死去。75歳。会津戦争に藩から参戦の後、壮士生活を送り三つ星消防組頭となって「名火消し」をうたわれた。身内と称する者が全国に数千人いるという。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月11日 社会・文化 午前1時半ごろ巴新道の警鐘を乱打して「火元は十間町取引所」と絶叫する者が現れた。生活難の建具職人の行為とわかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月12日 社会・文化 市内卯辰、大衆免方面の市民3,000余人は夕刻八幡町宇多須神社に集り、気勢をあげたのち、土岐知事官舎、山森市長邸、横山男爵邸その他市内の富豪、米穀商、手持米所有者ら20余人の家に押しかけて、白米1升25銭で売却を要求するなど大々的な示威運動をおこなった。新町分署は翌日首謀者8人を召喚取調べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月13日 社会・文化 夕刻、卯辰、大衆免付近の市民数百人が再び宇多須神社に集ったが県警務課長の説諭で解散、また寺町台の約500人はハチ巻き、わらじ姿で菊川町小学校に集合したが警察の説諭で解散した。さらに兼六園、金沢署付近に集った群衆のうち、解散後の帰途、米商や手持米所有者の家に押しかけ、門戸をたたき応答しない家に投石した者もあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月13日 社会・文化 金沢米穀同業組合代表は県庁に河崎勧業課長を訪れ「この際米の県外移出を禁止するよう」要請した。県側は「米の大都会回送は政府の政策だから移出禁止は不可能」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月14日 社会・文化 (三井、岩崎両家は米価高救済のため100万円ずつの寄付を内務大臣に申出た。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月15日 社会・文化 市は緊急対策として富豪有志等のきょ金で内地米を購入し、16日から平均価格より10銭安で市民に売ることにした。市発行の廉売通帳を受領した者は2日間で1万3,248人に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月16日 社会・文化 市の内地米廉売第1日の購入者は8,049人、販売高は218石(1人3升以内、1升28銭)に達した。なお内地米購入にあてる義援金は市取扱いが9万2,000円、各新聞社扱いの分を加えるとすでに12万2,500円に達している。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月16日 社会・文化 (政府は緊急勅令で穀類収用令を公布した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月18日 社会・文化 石川県新聞記者団は、米騒動の新聞記事取締りについての政府の態度糾弾と言論擁護の決議をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月20日 社会・文化 米価高救済の御下賜金1万2,180円が県から金沢市へ配付された。また前田家は金沢市へ2万円、石川県、富山県、東京府へ各1万円を寄付した。市はこれらを白米購入費にあてた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月20日 社会・文化 前田家は金沢高等工業学校新設費へ20万円を寄付した。なお同校に対する県市負担は県22万円、市13万円で、ほかに横山章からも10万円寄付がきまっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月26日 社会・文化 市は白米廉価供給票(廉売通帳)の交付を本日で締切った。交付数は1万8,365冊で全市戸数の3分の2に達した。なお買いだめ防止のため廉売数量は家族1人1日4合以内に改めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月28日 社会・文化 金沢米穀取引所の米相場は穀物収用令による収用価格の発表とともに、取引所開設以来の高値がたちまち下落して26円90銭と実に200丁の大暴落を見せた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 8月29日 社会・文化 金沢市が注文した外国米は神戸、横浜から続々到着しているので市は本日から市内7ヵ所で売出した。1升17銭(ラングーン米)。従って市内各販売所の販売米は内地米と外国米の2本立となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 9月4日 社会・文化 市が8月29日から売出した第2回目の外国米は6日間で売切れた。続いて契約ずみの大阪岩井商店から500袋、神戸三井物産からの400袋が到着するまで一時販売所を閉じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 9月6日 社会・文化 県は内務省の指令によって施設改善の資料として県下特殊部落の調査をしたが、金沢市は部落数3、戸数426戸(県下837戸)となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 9月9日 社会・文化 (米騒動による検挙者は全国で1万人に達すると新聞は報じている。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 9月12日 社会・文化 8月12日、13日の夜発生した金沢の米騒動の首謀者として7人が騒じょう罪等で起訴、金沢地方裁判所の公判に回付された。(収監者に対し嘆願書を検事局に出す市民があった) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 9月16日 社会・文化 県農会と産業組合中央会石川支会の共同経営にかかる野菜類の廉価販売所が犀川方面(新竪町3丁目)と浅野川方面(中町)で本日から開店した。販売品目は当分は野菜とみそ、しょうゆ、木炭類。(12月25日閉所) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 9月24日 社会・文化 23日夜来の暴風雨で犀川は6尺、浅野川は5尺以上の増水、犀川大橋の仮橋、大桑橋、浅野川の鈴見橋、一文橋が流失、両川の沿岸各町で床上浸水100戸以上を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 9月25日 社会・文化 各地の暴風雨による米収穫減少予想のため金沢期米市場は一気に200~300丁方暴騰し、取引所は立会を休止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月2日 社会・文化 市は本日から市販売の内地米を1升につき3銭値上げ(1升33銭)、また外国米を1銭値上げ(ラングーン米は18銭、サイゴン米は17銭)した。市内の白米小売相場が1升46銭になったため。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月2日 社会・文化 加越能史談会会長に本多政以男爵が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月6日 社会・文化 卯辰山に建立された日蓮上人銅像の除幕式が雨中に村雲日栄尼公はじめ信徒数千人参列して盛大に挙行された。像は身長1丈6尺、重さ1,000貫、長土塀4番丁水野源六、郎父子の制作。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月11日 社会・文化 市は本日から市販売の内地米を1升につき2銭(1升35銭)外国米を1銭(1升19銭と18銭)値上げした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月20日 社会・文化 羽二重動力織機の発明者津田米次郎(2代)の銅像が卯辰山山腹に建てられ除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月29日 社会・文化 世界的に流行している悪性感冒「スペインかぜ」が金沢にも侵入し、小将町、石引町、森山町、松ヶ枝町各小学校ではそれぞれ数学級が1週間休校した。(その後全市学校にひろまる) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月30日 社会・文化 さる8月の金沢市内の米騒動事件で首謀者として起訴された7人に対し、金沢地方裁判所は騒じょう、恐かつ、家宅侵入罪として次の判決を言渡した。懲役1年1人。同10月1人、同6月1人、同6月2年間執行猶予2人、罰金30円2人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 10月31日 社会・文化 8月16日から始めた市の内地米廉売は救急対策として目的を達し、また米の供給も潤沢になったので本日で廃止、明日から外国米の販売だけ続けることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 11月6日 社会・文化 (悪性感冒流行のため売薬アスピリン暴騰。数ヶ月前に1ポンド1円20銭が本月1日に2円、2日に5円、4日に8円50銭となる。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 11月9日 社会・文化 金沢医学専門学校長高安右人の在職30年祝賀会が挙行され、学校前庭に建てられた寿像の除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 11月12日 社会・文化 流感による死亡が金沢市でも著増し、平常1日7、 8件に過ぎない火葬認可が昨今は24,5件と3倍以上の数字を示している。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 11月15日 社会・文化 市学務係の調査によると全市小学校児童1万5,300余人のうち流感にかかり欠席したものは1万2,183人(79%)に達した。なお児童の死亡は現在までに5人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 11月25日 社会・文化 流感はやや下火に向かっているが、県衛生課が22日に医師の届け出によって調査したところ金沢市の現在患者3,262人、肺炎に転移患者401人、死亡48人となっている。自宅治療者はこの3倍と推測される。(11月中の市の死亡者は昨年11月に比し307人増加している) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 11月28日 社会・文化 午前5時すぎ白銀町の履物問屋から出火、2戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 12月20日 社会・文化 香林坊の第一福助座は所有主が変り(富山市北陸活動写真株式会社)常設活動写真館「中央館」と改称、階下は土間腰かけ式に改められた。(8年1月1日開館) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 12月20日 社会・文化 国文学者武藤元信死去。65歳。旧藩士、明倫堂に学び明治14年から18年間師範学校に奉職、44年東京で出版した「枕草紙通釈」は名著の評が高い。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正七年(1918) 12月 社会・文化 政府の高等教育機関増設拡張計画で金沢医学専門学校は単科大学に昇格することになった。ただし金沢医専には附属病院がなく県立金沢病院を代用しているので、昇格の場合は同病院の寄付移管問題解決が必要である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 1月13日 政治・経済 市会は市収入役に吉田次太郎(41歳、元米穀組合長)を選任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 2月1日 政治・経済 街鉄の市内電車が部分開通し金沢市内にはじめて電車が走った。本日は午前午後を通じて招待者(各界有力者と50株以上の株主)の試乗運転で、営業運転は2日からおこなった。開通区間は金沢駅前から尾張町を経由上胡桃町車庫前間、運転車両は5台、電車賃は1区3銭、2区5銭、全線6銭。各停留場付近には巡査が出て、群がる見物人や線路に飛び出す子どもを整理制止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 2月18日 政治・経済 市が昨年来実施してきた外国米の廉売は本日限りで廃止した。政府が外国米管理を廃したので市は低廉な外国米の入手が困難となったため。(市の従来の販売価格は1升19銭、米屋の販売価格は37銭) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 3月30日 政治・経済 架けかえ工事中の犀川大橋が完成、渡橋式が雨中盛大におこなわれた。鉄筋コンクリート造り、アスファルト舗装、電車軌道併用で総経費8万6,935円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 4月1日 政治・経済 金沢市制実施30年記念式が市会議事堂でおこなわれ功労者表彰があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 5月1日 政治・経済 市長山森隆が辞表を飯尾助役に提出した(14日付で内務大臣から認可)。市長在職9年4ヵ月。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 5月1日 政治・経済 市は全国都市に率先して遊興税の賦課微収を本日から実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 5月4日 政治・経済 金沢商業会議所が西町に新築完成、官民300余人参列して落成式がおこなわれた。木骨2階建て、工費約5万3,000円、設計は工学士木子七郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 5月18日 政治・経済 陸軍省は上金石町付近の海辺に無線電信所を新設することになり、逓信省と協力して現地調査の結果、設置個所を上金石町字相生町通称三角台に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 5月21日 政治・経済 市会は市長候補者選挙をおこない、飯尾次郎三郎(助役)、清水兼之、杉原幹男の順に選出した。飯尾は30日市長に就任した。(28日裁可) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 6月2日 政治・経済 市会は助役に宮川米次郎(市第一課長)を選任した。また山森市長に慰労金2万円を贈ることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月1日 政治・経済 対独講和調印。平和克復を祝い官民祝賀会(兼六園)、各学校生徒2万5,000人の旗行列、第9師団観兵式など各種の祝賀行事が盛大に催された。また臨時招集の金沢市会も賀表奉呈を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月1日 政治・経済 金沢為替貯金支局が本日開局した。仮庁舎は長町5番丁元女子職業学校校舎。支局長早川了平、開局時の職員約40人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月2日 政治・経済 金沢市選出県会議員補欠選挙で松田潤次郎が当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月13日 政治・経済 市内電車の第1期線工事が完成、全線が開通した。新開通区間は武蔵ヶ辻―堤町―南町―片町―犀川大橋間と香林坊―百間堀―車庫前間。(15日市公会堂で完成式と祝賀会開催) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月25日 政治・経済 第9師団長橋本勝太郎が待命になり、後任に歩兵第34旅団長松浦寛威が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 8月28日 政治・経済 金沢電気軌道会社(街鉄)の本多政以社長が病気のため辞任、後任社長に専務小塚貞義が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 9月15日 政治・経済 岩根町から浅野町に通ずる浅野川昌永橋のかけ替えが完成、渡橋式が挙行された。長さ20間5尺、幅2間2尺、工費6,880円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 9月24日 政治・経済 県会議員選挙がおこなわれ金沢市では次の6人が当選した。宮本友吉(憲) 米原於菟男(政) 餝谷与右衛門(政) 乾亮(政) 高島伸二郎(中立) 坂野権次郎(憲) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 10月1日 政治・経済 青島守備に派遣されていた第9師団の4個中隊がそれぞれ原隊に帰還した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 11月24日 政治・経済 (県が新設しようとした土地増価税は県会で否決された。内務省が賦課不許可の方針を県に内示してきたため。) 0
    大正八年(1919) 11月25日 政治・経済 歩兵第7連隊第1大隊長少佐東久邇宮稔彦王は陸軍士官学校付に転補された。(金沢在任1年4ヵ月) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 11月28日 政治・経済 日本銀行金沢支店長松方義輔は大福海上保険会社へ転出のため退職、後任支店長に本店調査役関根善作が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 12月1日 政治・経済 飯尾市長は物価高による市費膨張を抑制するため市役所経費の節約を一般吏員に順示した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 12月5日 政治・経済 8月中旬起工した陸軍の金石無線電信所が完成し、本日から試験通信が開始された。 0
    大正八年(1919) 12月21日 政治・経済 加州銀行本店が下堤町に新築完成した。工費20万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 12月31日 政治・経済 市調査による本年末現在の金沢市公簿人口は39,882世帯、158,954人(男79,562人、女79,392人)である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 1月31日 社会・文化 「稿本金沢市史・学事編第二」が刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 2月23日 社会・文化 加越能史談会は農工銀行階上で例会をひらき、石川舜台、大西金陽らが講演した。同会は引きつづき月例的に会合して活発に活動している。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 2月25日 社会・文化 金沢警察署は署員約50人で金沢米穀取引所の8仲買店を手入れし悪質な仲買人、店員や円太張常習者等144人を検挙、うち48人を収監した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 3月5日 社会・文化 午前3時すぎ田丸町から出火、2戸全焼、3戸半焼、焼死者1人を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 3月13日 社会・文化 盲啞学校創立者上森捨次郎死去。60歳。元市会議員。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 3月 社会・文化 石川郡米丸尋常小学校に高等科を併置、米丸尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 4月1日 社会・文化 石川郡戸板尋常小学校に高等科を併置、戸板尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 4月1日 社会・文化 石川郡二塚尋常小学校に高等科を併置、二塚尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 4月 社会・文化 河北郡大浦尋常小学校と川北高等小学校を合併して大浦尋常高等小学校を創設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 4月4日 社会・文化 「近時少年のいわゆる豆本(注・立川庫本のこと)を耽読する弊滔々として決河の勢がある。為に細密検査の結果男児に3割3分、女児に1割2分の近視眼を発見して驚愕している県下小学校がある」と北国新聞が報じている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 4月20日 社会・文化 能楽家佐野吉之助、金沢能楽会の能舞台で松風を演能中倒れ死去。56歳。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 4月24日 社会・文化 石川県教育会金沢市支会編さんの「金沢市教育史稿」が刊行された。編さん委員は日置謙ら。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 4月29日 社会・文化 (能美郡鳥越村字下野で大火、部落58戸中41戸全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 4月 社会・文化 市電開通当時まで金沢駅構内に130台ほどあった人力車が電車に客をとられ、みるみる100台をはるかに割ってしまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 5月20日 社会・文化 県会議員篠原譲吉死去。44歳。市会議員、商業会議所議員も勤め国民党員として終始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 5月 社会・文化 木彫家村上九郎作死去。52歳。小松の生れでのち金沢に移り、欄間彫刻で一家をなした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 6月1日 社会・文化 金沢出身の島田清次郎が処女作「地上」の第1部(地にひそむもの)を生田長江の推薦で新潮社から出版。ものすごい売れゆきで、たちまちベストセラーになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 6月11日 社会・文化 東京府知事井上友一死去。49歳。金沢市東馬場生れ、石川県士族井上盛重の長男、法学博士。東京府会は弔慰金5万円を贈り東京府葬をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 6月12日 社会・文化 大谷派金沢別院再建費は最初30万円の予定であったが、諸物価騰貴のため予算を100万円にあらため、このための追加募金許可を県に申請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 6月13日 社会・文化 市姫神社は道路拡張を機に、拝殿を官幣大社大鳥神社(堺市)の大鳥造に改築することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 6月14日 社会・文化 尾山神社の封国祭は本年から市の総祭(市祭)として盛大に挙行され、能楽、地萬歳、寄合相撲などの余興でにぎわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 6月16日 社会・文化 加越能史談会は和田尚軒編「金沢墓誌」を刊行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 6月 社会・文化 全国を驚ろかせた米商鈴木弁蔵殺し(5万円を奪い、バラバラに切断した死体をトランクに詰め信濃川に流す)の犯人農商務省技師山田憲と共犯渡辺惣蔵が、ともに四高卒業生であることが伝えられ金沢市民に衝動を与えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月1日 社会・文化 口語歌歌人西出朝風は作歌専門の生活にはいるため北国新聞記者をやめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月3日 社会・文化 「金沢新報」が創刊された。発行所南町62番地、社長堀俊明。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月5日 社会・文化 島田清次郎の処女作「地上」の成功を祝う「地上の会」が知人たちにより兼六園内寄観亭で催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月6日 社会・文化 加賀地方に豪雨(金沢で約12時間に186ミリ)、犀川と浅野川が約7尺増水、市内に浸水家屋が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 7月17日 社会・文化 画家垣内雲嶙死去。74歳。右嶙の子で飛騨高山の生れ、金沢に12年住んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 8月8日 社会・文化 金沢米穀商同組合は市の通牒により米節約のため内地米7、外米3の割合の混合米を売出した。値段は白米より5,6銭安の1升49銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 8月23日 社会・文化 大阪、金沢間長距離走破のため、17日大阪中之島公会堂前を出発した金沢二中選手が帰校した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 8月 社会・文化 室生犀星の「幼年時代」が中央公論に発表された。犀星はこのあと「性に眼覚める頃」その他を盛んに書いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 8月 社会・文化 兼六園の日本武尊銅像が風致を害するとの世論がおこり、県は県市半額負担で卯辰山へ移転しようとの考えをもつまでになったが、これにもまた異論があり結局ウヤムヤにおわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 9月6日 社会・文化 小川直子東京で死去。80歳。金沢の旧藩士河島良左衛門の3女で、自刃した藩の勤王儒医小川幸三の妻。明治5年より金沢で教職につき金沢女子師範教諭から県外に出て竹田、北白川両宮妃の教育係もつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 9月 社会・文化 高等学校令改正の結果、四高生徒の帽子の白線4本が2本に改められた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 9月 社会・文化 財団法人小野慈善院院長渡瀬政礼が辞任し、市長飯尾次郎三郎が院長に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 10月20日 社会・文化 新竪町尋常小学校が創立50周年記念式を挙行した。(明治3年11月河原町の民家を校舎に、河原町小学所として創設されたものである) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 10月23日 社会・文化 馬場尋常小学校が創立50年記念式を挙行した。(明治3年小橋小学所として創設、のち現在地に移った) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 10月31日 社会・文化 上近江町に新築の金沢美術倶楽部が落成した。(創立は前年10月) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 11月3日 社会・文化 石浦町にカフェー・ブラジルが開店した。金沢最初のカフェー。(昭和6年12月レストラン仙宝閣となる) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 11月11日 社会・文化 文相中橋徳五郎の寄付による「中橋奨学資金」の設定が市会の議決を経てきまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 11月23日 社会・文化 午後8時すぎ彦三7番丁の製綿工場から出火、3戸と納屋2むねを全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 11月24日 社会・文化 市内の人力車賃が警察の許可を得て値上げされた。5丁以内は従来の8銭を10銭に、5丁以上は1丁増すごとに従来の1銭を1銭3厘に改正、雇い上げは半日1円10銭(従来90銭)1日2円(従来1円70銭)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 11月28日 社会・文化 葬祭、婚礼その他諸儀式を営業種目にする金沢典礼株式会社(資本金8万円)が創立された。社長西屋飛良来。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 12月5日 社会・文化 金沢市出身の京大教授文学博士松本文三郎が帝国学士院会員になった。印度哲学の権威。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 12月10日 社会・文化 県衛生課が内務省の紹介により調査した市内の芸妓数は514人、娼妓は128人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 12月18日 社会・文化 金沢商業会議所は農商務省の許可を得て職業紹介所を開設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正八年(1919) 12月25日 社会・文化 家禄賞典処分法の公布により旧藩時代の下級吏(仲間、小者等)にも士族を称する資格が認められたが、市内の該当者は44人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 1月9日 政治・経済 反対運動の起っていた河北潟埋立てが内務大臣から認可された。埋立て面積は905町歩、実施は1年以内に出願人らの新会社が実施設計をつくり、認可を得ておこなうろいうもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 1月14日 政治・経済 両砺銀行副支配人らの行金横領事件が発生したため尾張町の金沢支店が取付けにあい、支店の預金約20万円のうち5万円余が引き出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 1月18日 政治・経済 金沢大工業組合は大工工賃現在の1日2円を2円50銭に引き上げることを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 1月20日 政治・経済 明治銀行金沢支店(本店名古屋)が下堤町に新築完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 1月24日 政治・経済 吉田銀行(本店森下町)は個人経営から資本金200万円の株式会社に組織を変更することになり、大蔵省に認可申請した。発起人吉田外茂、石黒伝六、熊田源太郎ほか6人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 2月22日 政治・経済 市が実施した市内家屋調査の結果は次の通り。軒数21,757軒、戸数37,175戸、自己所有の家屋に居住するもの15,229戸、借家に居住する者21,946戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 3月11日 政治・経済 金沢、大阪間に直通電話線が開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 3月12日 政治・経済 (シベリアのニコライエフスクで、バルチザンと日本守備隊が交戦、この日から5月27日までの間に陸海軍将兵378人と石川県小松町出身の石田虎松副領事ら在留邦人約350人(計約730人)が殺された。=尼港虐殺事件) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 3月19日 政治・経済 1月完工した金石海岸の金沢陸軍無線電信所が開所式を挙行した。敷地2,400坪(金石町から寄付)、総工費10万円で所員は12人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 3月 政治・経済 市内の電話は創設20年に当るが現在加入者は2,500を超えた。(開設当初の加入者は183)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 4月1日 政治・経済 金沢警察署新町分署が独立署になり新町警察署となった。同署の独立に伴い警察署の管轄区域に変動があり、小坂村は新町署管内にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 4月1日 政治・経済 市役所内に無料調筆所(担当の筆生2人配置)が新設された。ただし紙代として1枚1銭をとった。(7月1日から紙代も無料にした) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 4月12日 政治・経済 金沢市の消防組11組(蒸気ポンプ4、普通組7)を17組に改組し、消防手は43人を増して450人にした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 4月16日 政治・経済 金沢電気軌道会社(街鉄)は臨時株主総会をを開き金野鉄道(馬鉄)の合併を決議、資本金を357万円に増資した。金野鉄道を買収し、犀川大橋-野々市駅間に電車を敷設、運行する計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 5月10日 政治・経済 金沢専売支局は賃上げ運動の代表者6人の首をきったので、男子工が報復怠業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 5月11日 政治・経済 衆議院議員総選挙が10日おこなわれ開票結果は次の通り。第1区(金沢市)当選3,305票 永井柳太郎(憲政) 次点1,955票 米原於菟男(政友) 第2区(石川)当選4,585票 西村正則 次点2,797票 角田他十郎 第3区(能美、江沼)当選3,709票 神田重義 次点3,706票 戸水寛人3,369票 関戸寅松 第4区(河北、羽咋、鹿島)当選5,715票 米田穣 同4,692票 浅野順平 次点1,904票 笹川嘉農 第5区(鳳至、珠洲)当選3,989票 益谷秀次 次点3,764票 生垣聞蔵 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 5月20日 政治・経済 福岡市で開催中の全国機械工業大博覧会に全国から出品の織機30余種のうち、金沢から出品の津田式が最優秀として金牌をうけた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 5月22日 政治・経済 市内電車の1月から5月20日に至る月別乗車人員は次の通りである。1月16,718人、2月18,215人、3月19,155人、4月21,287人、5月21,367人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 6月1日 政治・経済 上金石町が本日から金石町と改称した。町内各戸は昼間は国旗、夜はちょうちんをつるして町名改称を祝った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 6月1日 政治・経済 金沢市出身の桜井錠二、北条時敬、早川千吉郎、小池靖一が貴族院勅選議院に任命された(補充勅選議院数は10人)。なお早川は政治に専念するため三井合名の副理事長を辞任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 6月10日 政治・経済 金沢市は上水道敷設の急務を認め準備調査に着手することになった。飯尾市長は9日福井市へ出張の際、同市の水道新設計画について詳細な調査をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 6月29日 政治・経済 市は上水道敷設計画具体化の第一歩として水源調査のため、大井清一、比企忠両工学博士の来沢調査を依頼することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 7月7日 政治・経済 飯尾市長は市役所庁舎の新築問題を市会協議会に提出、協議した。市役所庁舎は50年前の建築で老朽のうえ市行政の膨張で狭くなったもの。市長は土地の買収は市費で行ない、建築費は有志の寄付に仰ぐ意向を示した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 7月22日 政治・経済 飯尾市長は金沢市多年の懸案である電気事業の市営問題を進めるため静岡、神戸両市の実施例を調査し市会協議会に報告した。市会協議会は会社との買収交渉の一切を市長に一任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 7月26日 政治・経済 金沢市選出県会議員補欠選挙がおこなわれ、山田謙次が無競争で当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 8月7日 政治・経済 水道水源地選定について市から調査を委嘱された大井清一博士、関谷新造(福井市水道技師)と比企忠博士は先日来相次いで来沢、調査した。犀川の河水引用、西念付近の地下さく井が検討されたが結論はまだ出ていない。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 8月15日 政治・経済 金沢の羽二重業者は不況のため休業を決めた。休業女工は2,200余人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 8月25日 政治・経済 市は市役所庁舎建設敷地の一部として広坂通りに面した民家を買収することになり、買収費2万8,476円を市会に提出、議決を得た。また庁舎設計費5万円も市会で可決された(設計者片岡安博士)。いずれも前年度繰越金から支出する。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 8月26日 政治・経済 金沢市設住宅貸与規程が市会で可決された。(入居資格者は中産階級以下の市民となっている) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 9月19日 政治・経済 小立野如来寺前の市営住宅6戸が完成、入居者を抽選できめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 9月21日 政治・経済 市は上水道敷設の専任技師として志谷百中を任命した。小樽、東京、横浜等の水道敷設にあたった人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 9月22日 政治・経済 市会は金沢逓信局の設置、北陸総合大学の設置、金沢―八尾ならびに金沢―勝山間鉄道速成の3件について意見書を関係当局に提出することを議決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 9月30日 政治・経済 市会は市庁舎建築を可決した。9、10両年度継続事業、総工費30万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 10月1日 政治・経済 第1回国勢調査が施行された。金沢市は師団当局、電気会社、社寺に交渉し午前0時に消灯、号砲発射、鐘太鼓等で市民の注意を喚起した。金沢市の調査結果は29,287世帯、人口129,265人(男62,842人、女66,423人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 10月5日 政治・経済 金沢市営職業紹介所が広坂通郵便局横に開設された。(金沢市職業紹介所規程公布)専任職員は当分2人、日曜祭日も無休。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 10月26日 政治・経済 野町金沢苗圃地跡に建築中の市営住宅35戸が完成した。(11月1日から入居) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 11月15日 政治・経済 市内電車の犀川大橋―野町5丁目間が開通し、松金電車との連絡ができた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 11月17日 政治・経済 金沢商業会議所は臨時総会を開き「金沢市に逓信局設置」の陳情書を野田逓相に、また「金沢―八尾間の鉄道敷設」の建議書を元田鉄相にそれぞれ提出して運動を開始することを決めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 11月28日 政治・経済 金沢商業会議所の役員会で商業使用人の週休制度採用の可否が討議された。小黒(硬質陶器専務)平尾(金商校長)らは積極論だったが、大勢は消極論でおわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 12月8日 政治・経済 地方産業の開発を目的とする石川県産業奨励会が発会式をあげた。会員は市会、県会、商業会議所の議員から成り、会長に米原県会議長、幹事に西永公平(会議所副会頭)林直(市会議長)が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 12月10日 政治・経済 石川郡三馬村泉と三馬村有松が三馬村から分離して金沢市に編入したいと知事、市長に請願書を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 12月13日 政治・経済 電気ガス事業市営のため、金沢市が金沢電気瓦斯株式会社を買収する交渉がほぼまとまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 12月15日 政治・経済 羽二重の市況悪化で在庫がふえたため、石川県輸出織物組合の決議により各工場が一斉休業にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 12月16日 政治・経済 金沢市の金沢電気瓦斯会社買収交渉の進展により、同社株式は一挙87円に高騰した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 12月23日 政治・経済 第1回入札が不調に終った新市庁舎の建築工事は、竪町越田利右衛門と市の間に20万2,950円で随意契約が成立した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 12月28日 政治・経済 金沢市に都市計画の施行が臨時市会で可決された。市は即日都市計画の指定を内務大臣に申請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 1月16日 社会・文化 小鼓の名手観世新三郎(湯浅勇吉)死去。71歳。材木町6丁目に居住、明治42年東京の前田邸に行幸の明治天皇の御前能にも出演した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 1月19日 社会・文化 加越能史談会が、上小川町竜国寺墓地で宮崎友禅斎の墓石を発見したと新聞に発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 2月6日 社会・文化 金沢市内理髪業組合が理髪料を値上げした。特等31銭ないし40銭、1等28銭ないし30銭、2等25銭ないし27銭、3等ないし24銭、4等20銭ないし21銭。(等級は店舗の階級) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 2月16日 社会・文化 スキー熱が次第にさかんになってきた。14日には第9師団の大尉日沢廉次郎をリーダーにした市民、学生ら10人余りが医王山踏破を企て、予定外の山中露営をしてきょう福光町に降りて来た。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 2月26日 社会・文化 欧州へ出張の侯爵前田利為と渼子夫人が竜田丸で神戸からフランスへ出発した。飯尾市長は市会の決議により神戸まで見送った。(4月7日マルセーユ着、8日パリにはいった) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 3月13日 社会・文化 (県は郡市町村長、学校長、警察署長に対し「従来学校や団体の儀式等で君が代を奉唱するとき、生徒児童以外の参列者は合唱しない風習があるが、今後は全員合唱するように」との依頼通牒を発した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 3月16日 社会・文化 午前11時ごろ大樋町の酒造業者の納屋から出火、4戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 3月21日 社会・文化 (河北郡倶利伽羅村字河内で大火、23むね焼失、焼死2人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 3月31日 社会・文化 昨年5月から小将町に新築中の市立女子職業学校が完成、落成式が挙行された(西町旧校舎からの移転は3月初旬完了)。敷地は2,548坪、木造2階建の校舎延べ坪1,477坪、総工費14万466円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 4月1日 社会・文化 味噌蔵町尋常小学校(女子)、材木町尋常小学校(男子)馬場尋常小学校の3校間に通学地域の変更がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 4月1日 社会・文化 石川郡三馬尋常小学校に高等科を併置、三馬尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 4月1日 社会・文化 石川郡額尋常小学校に高等科を併置、額尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 4月20日 社会・文化 午前2時ごろ上伝馬町の酒蔵から出火、29戸(上伝馬町2戸、下伝馬町7戸、裏伝馬町18戸、下川除町2戸)を全焼、11戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 4月30日 社会・文化 (能美郡尾口村字尾添で大火、人家66むね、小学校等を全焼。また河北郡井上村字川尻でも大火、人家42むね等を全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 5月19日 社会・文化 明治3年から7年まで医学館教師として金沢に在住したオランダ人スロイスの長男、オランダの南米インド艦隊司令官スロイス提督(金沢生れ)が艦隊の神戸入港を機に金沢を訪問した。関係方面では同提督を、金沢医学界の恩人の子として心から歓待した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 5月21日 社会・文化 高嶋伸二郎死去。61歳。金沢市選出県会議員、若くして政界に入り精義社で活躍、明治27年から30年10月まで金沢市助役をつとめた。のち横山鉱業部に入り、かたわら青年党を統率した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 6月4日 社会・文化 医学博士高橋順太郎死去。65歳。東京帝大教授、加賀藩御算用場役人高橋作善の長男、薬物学の権威で肺炎特効薬レミチンを創製した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 6月25日 社会・文化 「稿本金沢市史・市街編第四」が刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 6月26日 社会・文化 尼港虐殺事件金沢市民大会が兼六園長谷川邸跡で開催された。わが救援軍の尼港到着により事件の詳細がようやく明らかとなるに伴い、全国の世論は沸騰している。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 6月 社会・文化 石川郡上金石尋常高等小学校を金石尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 7月1日 社会・文化 県立金沢病院は本日から入院患者および付添人の自炊を禁止した。1等入院患者1日1円、2等80錢、3等60銭の賄料を徴収して病院から食事を提供する。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 7月1日 社会・文化 大日本労働総同盟友愛会金沢支部の大会が高岡町空地で開催された。会衆約2,000人、来沢の会長鈴木文治が演説した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 7月16日 社会・文化 料理店主鍔甚平死去。64歳。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 7月27日 社会・文化 前田利鬯(としか)死去。80歳。前田斉泰の7男で旧大聖寺藩主、子爵、貴族院議員、現に御歌所参候であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 7月27日 社会・文化 漢学者五香屋休哉(嘉兵衛)死去。58歳。戸板村北広岡に居住、三社の高島水翁について漢学を修め荘子の研究家として知られた。門人に細野燕台、小倉正恒がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 8月4日 社会・文化 金沢市地黄煎青年団員が白山で遭難し3人が凍死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 8月9日 社会・文化 (内務省警保局はコレラ患者の本年発生以来の累計を3,360人と発表した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 9月18日 社会・文化 全市の小学校下青年団を指導統督する目的で金沢市青年団が組織された。団長は飯尾市長、事務所は市役所内。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 9月24日 社会・文化 長町川岸の日本硬質陶器会社と倉庫精練会社のばい煙防止問題が再燃、長町川岸、高岡町、穴水町、宗叔町、松ヶ枝町、堤町等の町民500余人は連署の陳情書を作成し代表者が県保安課に赴き「会社がばい煙防止設備をするよう勧告してほしい」と陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 10月1日 社会・文化 一九席(下新町)が尾張町に新築完成し、東京落語三遊亭金馬一座によって新築披露興行がおこなわれた。(座主安江町中田義二) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 10月7日 社会・文化 最近金沢市内等で自動車事故がひんぴんと発生するので、県当局は事故の予防取締りのため、こんど自動車取締令、同取締規則、警察犯処罰令、街路取締規則等から必要条文を抜粋した「自動車運転手心得」を印刷して免許証と共に必ず携帯させることにした。なお自動車番号札の不正使用も事故ひん発の一因となっているので、発見次第厳罰にする方針。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 10月10日 社会・文化 「孝子市坊仁太三太兄弟および義人あめ屋小平」(巷説)の遺跡を記念するため十一屋の雑貨商松本松次郎が独力発起して建築中だった石碑が陸軍各部隊や市民有志の助力を得て歩35前路上に完工し、除幕式が盛大におこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 10月20日 社会・文化 午後7時ごろ石川郡犀川村字二又で大火、全焼20戸、半焼9戸、3戸を残して一部落ほとんど全滅した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 11月1日 社会・文化 明治神宮鎮座祭が執行され、金沢市では県市合同遥拝式が西町公会堂でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 11月10日 社会・文化 九州の大演習に参加中の陸軍省軍務局員砲兵大尉木村三郎(金沢出身)が、自己の架設した電線が通信不能となった責任感から割腹自殺した。木村は千田登文の3男。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 11月26日 社会・文化 明春開校の金沢高等工業学校校長に名古屋高等工業学校教授青戸信賢(島根県出身)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 12月7日 社会・文化 市会は明春開校する県立金沢第三中学校の仮校舎として長町5番丁金沢貯金支局庁舎の無償貸与をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正九年(1920) 12月18日 社会・文化 山原成太郎(号晩翠)死去。74歳。元金沢市収入役、県会および市会議員もつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 1月20日 政治・経済 金沢魚商組合が正月用の数の子で暴利をむさぼった、と市民の間から強い非難が起きた。市も公正価格維持のため公設市場設置を考えている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 1月28日 政治・経済 市は現在の市営住宅合計86戸(小立野、桃畠)のほかにさらに桃畠に25戸、木ノ新保常福寺跡に3戸を近く建設することになった。全部完成すれば合計114戸となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 3月31日 政治・経済 第9師団にシベリア出動の命令が下った。(高田第13師団と交代するもの) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 3月31日 政治・経済 金沢商業会議所議員の改選がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月1日 政治・経済 市営住宅の家賃が約2割値上げされた。(従来は一畳平均37銭だったが44銭に引上げ) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月5日 政治・経済 金沢市役所旧庁舎売却の入札がおこなわれ、3,819円で松井徳太郎に落札した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月7日 政治・経済 シベリア出動の第9師団将校約500人を招いて県市主催の送別大園遊会が横山家別邸で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月8日 政治・経済 歩兵第7連隊を第一陣として第9師団のシベリアへの輸送が開始された。(七尾港から乗船) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月11日 政治・経済 長土塀5番丁に建設した石川県工業試験場の開場式が挙行された。12、13両日一般県民に開放した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月16日 政治・経済 市は本日から市立職業紹介所で内職の紹介を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月20日 政治・経済 市役所庁舎の新築費にあてる寄付金(予定額約15万7,000円)の集りは現在のところ前田侯5万円、横山両家1万円、早川千吉郎5,000円など計約10万円程度のため、飯尾市長は近く上京、各方面に依頼する予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月25日 政治・経済 金沢商業会議所の役員改選がおこなわれ、会頭横山章が退任、新会頭に横山隆俊男、副会頭に西永公平が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 5月5日 政治・経済 金沢警察署を広坂警察署に、新町警察署を玉川警察署に改称した。(玉川警察署は15日玉川町の新庁舎に移転) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 5月27日 政治・経済 金沢市の電気市営問題は市と金沢電気瓦斯会社との間の買収交渉がまとまり、仮契約書を交換した(市の買収総価格982万円)。ガスの市営案と一括して近く市会に提出する。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 5月29日 政治・経済 金沢市の都市計画実施申請に関連して内務省から西大条技師が27日来沢、本日まで3日間にわたり現地調査をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 5月31日 政治・経済 金沢出身の早川千吉郎が満鉄社長に任ぜられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 6月3日 政治・経済 知事土岐嘉平が関東庁事務総長に転任、後任に佐賀県知事沢田牛麿が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 6月4日 政治・経済 市は社会政策事業として市営質屋の経営を計画し、調査を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 6月20日 政治・経済 電気ガス事業市営案が市会で正式に可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 6月24日 政治・経済 金石電鉄会社は大野町民多年の希望にこたえて電車線の大野まで延長を決定、金石終点から大野町字鍵町に至る1マイル12チェーンの単線軌道敷設工事認可申請書を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 7月10日 政治・経済 街鉄市内電車の第2期線の寺町線が開通した。延長1マイル。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 7月16日 政治・経済 市は職業紹介法の施行(7月1日)を機に、市庁舎内にある職業紹介所を労働者の集散する金沢駅付近木ノ新保常福寺跡の市営住宅に移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 7月22日 政治・経済 金沢市役所新庁舎の上棟式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 8月1日 政治・経済 石川鉄道株式会社の新野々市、鶴来間電車が開通した。従来の軽便鉄道から電車への転換工事を昨年9月着工、このほど完成したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 8月29日 政治・経済 浅野川大橋かけ替え工事は指名競争入札の結果、7万1,300円で高岡市の中越土木会社に落札した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 8月31日 政治・経済 市が電気ガス事業市営のため内務、大蔵両省はじめ関係各省に提出した事業譲受けおよび起債等に関する許可申請に対し、関係各大臣の正式許可指令が到着した。市はさっそく市営電気局設立の準備をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 9月16日 政治・経済 市は西町4番丁の元市立女子職業学校敷地915坪を売却した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 10月1日 政治・経済 市は下本多町6番丁11番地に金沢市電気局を設置、市営電気・ガス事業が正式に発足した。また「金沢市電気および瓦斯供給条例」が施行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 10月2日 政治・経済 犀川下菊橋のかけかえが完工、渡橋式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 10月6日 政治・経済 電気ガス市営のため市が金沢電気瓦斯会社に支払う買収総額は1,016万3,334円と決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 12月6日 政治・経済 金沢市会議員選挙は2級が4日、1級が6日おこなわれ、その結果非政友派23、政友派10、中立3の分野となった。(今回から選挙区が1級は大選挙区制に、2級は小選挙区制になった) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 12月14日 政治・経済 市会正副議長選挙で議長に坂野権次郎(非政友)、副議長に市川潔(非政友)が当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 12月23日 政治・経済 (能登鉄道株式会社が創立された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 12月24日 政治・経済 (能登産業銀行が営業を認可された。本店七尾。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 1月5日 社会・文化 今春開校する県立金沢第三中学校の敷地は小坂村談議所地内の児安神社後方の高地に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 1月14日 社会・文化 午前4時ごろ鍛治町の民家から出火、同町と象眼町の4戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 1月28日 社会・文化 宗規に触れ東本願寺から僧籍をはく奪されていた石川舜台(81歳)が処分を取消され、即日僧正に補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 1月30日 社会・文化 能楽家宝生嘉内東京で死去。68歳。金沢市出身、宝生流家元宝生九郎の父。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 2月2日 社会・文化 理学博士三宅恒方死去。42歳。加賀藩藩医三宅立軒の孫で三宅雪嶺の兄の子。コン虫学者として著名、東京帝大農学部講師であった。妻やす子は後年女流作家として有名。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 2月6日 社会・文化 金沢で初めてのスキー普及のための組織、金沢スキー会(会長飯尾市長)の発会式兼競技会が大乗寺山でおこなわれた。スキー会の中心指導者は金井県視学官、村井女師訓導、岡部師範、入江金商教諭ら。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 2月14日 社会・文化 午後9時40分ごろ野田寺町3丁目実成寺から出火、同寺を全焼した。出動の蒸気ポンプが犀川桜橋下から川水を寺町の高台へ吸い揚げて放水したので、郡衆は蒸気ポンプの偉力に驚いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 2月16日 社会・文化 午後10時ごろ尾張町43番地付近から出火し楽器店、仕立屋、新富席、森八工場など4戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 2月18日 社会・文化 (能美郡尾口村で大火、小学校舎1むねと21戸を全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 2月20日 社会・文化 「稿本金沢市史・学事編第三」が刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 2月24日 社会・文化 金沢市長町出身の建築家で第一銀行技師前田健二郎が、大阪市立美術館の建築設計懸賞募集の1等に入選した。(のち前田は妙本寺釈迦堂の建築と建築界につくした業績により昭和40年度の日本芸術院賞を受賞した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 3月31日 社会・文化 新庁舎建設のため市役所は隣接の市会議事堂と街鉄会社創設事務所跡を仮庁舎として引越しを完了した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月1日 社会・文化 石川郡湯涌谷尋常小学校に高等科を併置、湯涌谷尋常高等小学校と改称した。(後の湯涌小学校) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月2日 社会・文化 石川県は本年度から臨時県史編纂係を置き、日置謙を任命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月3日 社会・文化 新設の県立金沢第三中学校の開校式が長町5番丁の仮校舎でおこなわれた。生徒150人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月8日 社会・文化 金沢高等工業学校が開校し入学式がおこなわれた。学科は土木工学科、機械工学科、応用化学科。新入学生徒112人。(開校式は校舎完成後に挙行予定) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月11日 社会・文化 金沢市は各遊廓内の適齢児童に特別教授をするため、遊廓事務所に仮教室を設置した。収容児童は愛宕遊廓13人、東廓20人、西廓50人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月20日 社会・文化 通信事業創始50年を迎え、金沢郵便局、市内各三等局、貯金支局の各局員ら約800人が祝賀ちょうちん行列をおこなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 4月23日 社会・文化 明治12年学校教師兼宣教師として来沢し、金沢で初めてキリスト教の伝道をしたウイン博士(70歳)が、自分の創設した金沢日本基督教会(石浦町教会)の創立40年記念伝道のため旅順から来沢した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 5月12日 社会・文化 往年の実話小説家石井一蛙(俊郎)犀川川岸町6扇沢方で死去。加越能新聞記者の明治10年代に近藤忠之亟かたき討ち事件「復讎名誉高岡街」をはじめ、藩政から幕末時代にかけての郷土実話小説を多数発表、刊行して読者をうならせた。死亡の時は福井県の三国新聞主筆であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 5月13日 社会・文化 代議士尾崎行雄が来沢、北国劇場で軍備制限講演会を開いた。金沢で初めての有料講演会(入場料50銭)であったが1,500人を超える満員の聴衆を集めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 5月19日 社会・文化 金沢市医師会が市内開業医共通の半額施療券4,000枚を市に寄付した。市は中産以下の希望者に配布する。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 7月1日 社会・文化 金沢市は卯辰山公園頂上の旧善妙院広場に公設運動場を開設した。鉄棒、飛び台等の運動器具を設備しているが、継続事業として今後さらに完備したものにする。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 7月15日 社会・文化 加越能史談会は金沢市内の次の史跡に新しく標示板を建てた。松月寺の大桜、持明院の蓮花、高巌寺古道の老松、一柳監物手植えの桜、青木方斎の墓、生駒万子の墓、真成寺五十嵐道甫碑、中村歌右衛門の墓。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 7月16日 社会・文化 男爵本多政以死去。58歳。政均の長男で旧名資松、明治2年家禄5万石を相続した。金沢実業家を組織し、街鉄、金沢紡績等の社長として実業界に活躍、貴族院議員にも当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 7月20日 社会・文化 市は実費診療所を桜木病院と殿町病院2ヵ所に開設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 8月1日 社会・文化 市は市青年団協議会がかねて要望していた夏季夜間中学校を此花町小学校に開設した。試験的に一応8月の1ヵ月間だけとし、学科は英数国漢の4科目、授業は1日3時間。入学者は82人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 9月3日 社会・文化 皇太子、外遊から帰国。金沢市会は臨時市会を開き奉祝文を決議、打電した。また全市小学校の5年生以上約4,000人の旗行列、青年団員ら約1,000人のちょうちん行列がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 9月5日 社会・文化 香林坊の中央館が松竹キネマ直営となり松竹座と改名した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 9月20日 社会・文化 長谷川準也の15年祭が執行され、記念事業としてその伝記が刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 9月26日 社会・文化 早焼、秒速40メートルの台風襲来、市内各所で家屋が倒壊、兼六園の老松も倒れ、金石の金沢陸軍無線電信所の大ポール2本(高さ300尺)が折れた。(県下で死者6人、住家全壊27むね) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 10月5日 社会・文化 髹漆工鶴田和三郎(松斎)死去。79歳。髹漆は家業、研究を重ねて技法上種々の改良を加え、各種展覧会で最高賞を受けた。明治宮城御造営にも髹漆を拝命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 10月14日 社会・文化 鉄道創立50年を祝して金沢在勤の運輸、保線両事務所、鉄道工場の職員約1,200人がちょうちん行列をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 10月31日 社会・文化 画家中浜松香死去。65歳。祖父鶴汀、父龍淵もともに画家として知られた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 11月9日 社会・文化 第四高等学校長溝淵進馬が五高校長に転任、後任は二高校長武藤虎太。溝淵校長は明治45年以来在職10年余に及んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 11月30日 社会・文化 明治3年以来医学館として明治天皇も行幸された大手町の乃木会堂(津田玄蕃旧邸)は、兼六園内に移築されることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 12月2日 社会・文化 石川県第4区(河北、羽咋、鹿島)選出代議士米田穣死去。59歳。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 12月21日 社会・文化 北国新聞前社長林政通死去。74歳。長野県松本藩士、明治31年金沢に来て北国新聞経営に当り、大正9年5月社長を孫政武に譲った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十年(1921) 12月 社会・文化 前年あたりから近代詩熱がさかんになり、詩や短歌の同人誌時代を現出した。これは中央詩歌壇の活況にそそのかされたものだが、直接には室生犀星らのはなばなしい出現の影響でもあった。雑誌は心音、凶鳥、翁行燈その他無数といってよく、同人は20歳前後の人が多かった。この傾向は、昭和の初期までつづいた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 1月12日 政治・経済 シベリアからの第9師団帰還4年兵約700人が金沢駅に帰着、市民の盛んな歓迎を受けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 1月18日 政治・経済 第4区(河北、羽咋、鹿島)の衆議院議員補欠選挙がおこなわれ、米原於菟男(政友)が7,903票で当選した。次点は室木弥次郎6,147票。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 1月21日 政治・経済 明治31年創立の石川県農工銀行は日本勧業銀行に合併することに本日の株主総会で決定した。4月11日から日本勧業銀行金沢支店となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 1月27日 政治・経済 加州銀行頭取横山隆俊が辞任、新頭取に鴻池銀行専務加藤晴比古が就任した。同行の経営陣は従来横山家中心であったが、こんど鴻池銀行が経営の主体になったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 2月5日 政治・経済 全国普通デー。金沢では石川県普選断行同盟主催の普選断交大会が高岡町空地で開かれ、閉会後参加者が示威の旗行列をおこない市内を行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 2月11日 政治・経済 金沢市役所新庁舎の落成式がおこなわれた。11、12両日にわたり官民代表、寄付者ら850人を招き新庁舎階下会場で祝宴会を開き、13、14両日一般市民に内部の縦覧を許した。新庁舎は近世ルネッサンス式半石造、3階建、建坪544坪、片岡安博士の設計、金沢市越田利右衛門の工事請負い、工費20万2,950円(付属工事と土地買収費を加えると総額約30万円)である。新庁舎での執務は20日から。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 2月20日 政治・経済 浅野川常盤町の常盤橋(旧一文橋)は昨秋来、犀川下菊橋の古材料を用いてかけ替え工事中のところ完成した。(通行許可は4月27日から) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 2月28日 政治・経済 金沢電気軌道会社(街鉄)は定期株主総会で135万円の増資を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 4月6日 政治・経済 市長飯尾次郎三郎が辞表を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 4月16日 政治・経済 金沢市選出県会議員補欠選挙がおこなわれ、小森新太郎(憲政)が当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 5月3日 政治・経済 市長候補推薦の金沢市会で相良歩が全会一致で当選した。相良は元樺太庁内務部長、47歳。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 5月18日 政治・経済 シベリアへ派遣される第9師団初年兵の歩兵第7連隊700人、騎兵第9連隊150人、野砲兵第9連隊200人が七尾港から出発した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 5月26日 政治・経済 市長に選出された相良歩は23日付で裁可になり本日正式登庁した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 5月 政治・経済 金沢市は農商務省令統計報告規則にもとづき全市で50人の統計調査を嘱託した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 6月23日 政治・経済 シベリア撤兵が閣議で決定。金沢市中は第9師団の帰還近しとにわかに活気づいた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 6月28日 政治・経済 市助役宮川米次郎辞任、新助役に元北海道庁警視松本弥次郎(金沢出身、59歳)の就任を市会で決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 7月3日 政治・経済 河北郡浅川村で、村長選挙に関して村会議場に非役場派の村民約300人が乱入暴行し、村会議員に負傷者が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 7月13日 政治・経済 街鉄市内電車大樋線(浅野川大橋-小坂神社前)が開通した。浅野川大橋が未完工のため、車両2台を橋場町側から分解運搬し森下町の軌道上で組み立てた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 7月29日 政治・経済 市収入役吉田次太郎退職(7月17日)、後任収入役に市電気局総務部長河崎宇吉郎が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 7月 政治・経済 金石電鉄の大野戦延長が、金石側地主と買収価格で折り合わずこのところ行き悩んでいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月8日 政治・経済 水害復旧の応急策を審議する金沢市会が開かれ「両大橋は橋杭を用いない鉄橋とすること」などを織りこんだ意見書の起草を全員一致で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月15日 政治・経済 (軍備縮小に伴う第1回の兵員整備が実施された。減員数は将校1,800人、下士官3,000人、兵5万3,000人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月15日 政治・経済 第9師団の砲兵が野砲から山砲に変り、金沢の野砲兵第9連隊は山砲兵第9連隊になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月29日 政治・経済 市の水害復旧追加予算17万2,600円(ほかに電気局関係復旧費3万6,000円)が市会で可決された。このうち16万9,850円が桜橋ほか10橋の復旧架設費である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月 政治・経済 流失した犀川大橋の新架橋について「鉄筋コンクリート橋にするか鉄橋にするか」また「橋脚式か釣橋か」で各方面から盛んに意見が出ているが、県は結局、弧形釣橋式鉄橋とする方針にきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 9月6日 政治・経済 相良市長は市政刷新の第一着手として市吏員8人を整理、また処務規程を改正し従来の4課を10課にふやした(10月1日実施)。10課は内記、庶務、産業、社会、教育、土木、衛生、戸籍、税務、会計。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 9月8日 政治・経済 市は都市計画法の施行に備えて金沢市都市計画準備調査会を設置(9月2日市会で承認)、本日付で都市計画準備調査委員17人を委嘱した。委員は県議・市議10人、学識者5人、県高等官2人、市吏員2人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 9月8日 政治・経済 シベリア撤兵による第9師団の第1陣(騎兵連隊など)が金沢に帰還した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 10月8日 政治・経済 シベリア撤兵最終部隊として第9師団司令部が金沢に帰還した。師団(派遣、留守各部隊)の戦没者は108人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 10月13日 政治・経済 内務省公示で金沢市は結核予防法により明12年9月30日までに結核療養所の設置を義務づけられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 10月16日 政治・経済 知事沢田牛磨が福岡県知事へ転じ、後任に内務省都市計画局長山県治郎が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 11月1日 政治・経済 市は市役所産業課内に金沢市商工相談所を設置した。商工業者のため無料で各種の紹介、あっせん、相談に応じるもの。(10月30日商工相談所規程を告示) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 11月4日 政治・経済 流失した犀川大橋の架設工事費は23万8,000円と決定。うち6万2,000円は街鉄会社が負担し残額17万6,000円の半額8万8,000円は国庫補助ときまった。橋は無脚式鉄橋で幅60尺(中央8尺5寸は軌道)長さ252尺。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 11月24日 政治・経済 第9師団長松浦寛威中将が待命になり、陸軍省航空局長星野庄三郎中将が後任に補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 12月5日 政治・経済 積善銀行(東京)の取付けの余波から片町の京和銀行金沢支店が取付けにあい、支払いを停止した。支店の預金は約60万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 12月9日 政治・経済 石川県庁新築工事の地鎮祭がおこなわれた。工費120万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 12月14日 政治・経済 報徳銀行(東京)が取付けにあい、同行金沢支店も2週間の休業を発表した。支店の預金は約130万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 12月14日 政治・経済 浅野川大橋のかけ替えが完成、渡橋式が挙行された。昨年12月起工、橋脚は2本で長さ180尺。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 1月10日 社会・文化 午前9時半ごろ風速17メートルの強風中に長土塀通りの綿打工場から出火、全焼2むね、半焼3戸(いずれも商店)を出した。歩兵第7連隊からも1個小隊が消火に出動した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 1月22日 社会・文化 交通機関の整備により金沢市内の地価は昨年末来1~2割上り、香林坊が坪500円~550円、武蔵ヶ辻450円、尾張町第二菊水付近400円~450円、泉一帯の住宅地100円~130円と新聞は報じている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 2月3日 社会・文化 (午後8時すぎ北陸線親不知、青海間の勝山トンネル付近で旅客列車が大なだれに押しつぶされ、死者89人、重軽傷者35人を出した。糸魚川在住の歌人相馬御風が同町青年団長として救助作業に尽した理由で4月に鉄道省から表彰された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 2月8日 社会・文化 金沢出身の帝室技芸員諏訪蘇山京都で死去。72歳。青磁器作家としては最高技術者の一人で、明治20年から9年間石川県立工業学校の教師もつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 3月2日 社会・文化 並木町尾山座の経営者が坂下栄太郎から山森三九郎(松竹合名会社外交部長)にかわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 3月8日 社会・文化 兼六園が内務省告示49号をもって史蹟名勝天然記念物保存法第1条により「金沢公園」の名で「名勝」に指定された。(大正13年3月内務省告示で称呼を兼六園に復した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 4月1日 社会・文化 石川県立盲啞学校が長町5番丁の県立金沢三中仮校舎跡に開校した。生徒募集数は県立移管前より20人増の70人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 4月1日 社会・文化 金沢市立女子職業学校を金沢女子職業学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 4月1日 社会・文化 石川郡内川尋常小学校に高等科を併置、内川尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 4月1日 社会・文化 石川郡潟津尋常小学校に高等科を併置、潟津尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 4月1日 社会・文化 県立金沢病院が文部省に移管され金沢医学専門学校付属病院と改称された。明年度から金沢医科大学付属病院となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 4月4日 社会・文化 飯尾市長ほか市吏員一同がきょ出して市役所新庁舎完成記念に豆樫樹1本(価格115円)を購入、新庁舎前庭に植えこんだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 4月12日 社会・文化 再建工事中の金沢東別院の立柱式がおこなわれ、横安江町一帯は5万人の人出でにぎわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 5月1日 社会・文化 金沢市街を流れる用水で便器やオムツ等の汚物を洗ったものは科料に処するという県警察犯処罰令の新条項が本日から施行された。なお知事は兼六園の池水へ小立野台から汚水が流れこみ臭気を発するので、池に浄水を引く工事について県土木課に調査を指示した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 5月1日 社会・文化 金沢市診療所が広坂通元市会議事堂前別館に開設された。桜木病院と殿町病院の無料診療所は4月30日限りで閉鎖した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 5月8日 社会・文化 旧盈進社副社長、市参事会員横地正果死去。77歳。旧藩士、青年時代から盈進社で地方政界に活躍、明治22年金沢の第1回市議選以来ほとんど連続して当選(市会議長2回)、また県議にも当選5回(県会議長2回)、その間金沢新聞も創刊し、波乱にみちた生涯であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 5月17日 社会・文化 「稿本金沢市史・学事編第四」が刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 5月22日 社会・文化 能楽太鼓方辰巳孝太郎死去。65歳。観世流太鼓の地方における名手だった。上石引町で酒造業を営んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 6月14日 社会・文化 県立工業学校初代校長納富介次郎の胸像除幕式が同校校庭で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 6月22日 社会・文化 金沢箔業界の功労者向田武吉の銅像除幕式が市公会堂で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 7月9日 社会・文化 前金石町長中崎与四右衛門の銅像除幕式が金石町で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 7月22日 社会・文化 高峰譲吉ニューヨークで死去。68歳。金沢市梅本町生れ、工学博士、薬学博士、タカジアスターゼやアドレナリンを発明、創製した。妻キャロラインは米人。ニューヨークヘラルド紙は博士死去の報に博士の功績をたたえる記事をのせた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月3日 社会・文化 (舞鶴から七尾へ飛来の海軍飛行艇が豪雨中、邑知潟に墜落し2人が死亡、6人が重軽傷を負った。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月3日 社会・文化 金沢測候所開設以来の大雨で犀川浅野川が出水、金沢市内は大洪水。両川の橋は浅野川の天神橋を残して11橋ことごとく流失、堤防決壊は犀川60ヵ所、浅野川40ヵ所で延長3,000間。浸水家屋約4,000戸で被災市民約2万人(死者2人)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月4日 社会・文化 大水害に市は3日午後7時、市内8ヵ所に事務所を設置して被災者の救助に当った。市は夕方、歩兵第7連隊に依頼し炊き出し用に白米3石をたいてもらい、握りめしを作り4日午前3時ごろ被災者に配った。また飲料水は散水車12台を動かして配給した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月8日 社会・文化 犀川大橋の仮橋が他の流失橋にさきがけてできた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月9日 社会・文化 3代加賀藩主前田利常正室珠子(天徳夫人)の300年祭が野田山前田家墓地でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月10日 社会・文化 第9師団から、軍縮に伴い14日限り午砲(ドン)を廃止するむね県市当局に通知があった(全国一斉実施)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月15日 社会・文化 14日限りの午砲廃止について第9師団司令部から陸軍省に「金沢市が午砲に代る報時施設の準備を完了するまでしばらく従来通り軍の手で午砲を続けたい」と申請した結果、陸軍省から司令部に午砲の継続指令が到着、本日以降も軍の手で午砲が継続されることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月18日 社会・文化 中島徳太郎死去。57歳。家業の紙商のほか加賀製紙、石川県農業、樺太倉庫はじめ多くの会社の経営に当り金沢市会議員もした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月29日 社会・文化 軍縮で廃止の予定だった金沢の午砲は、市役所に電気サイレン取付けまでの暫定措置として、本日から市の手で発射を続けることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月30日 社会・文化 加越能育英社幹事長に北条時敬(貴族院議員)が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 8月30日 社会・文化 家伝薬「蜜丸」で知られる旧人持組多賀家(当主は直春)が上胡桃町から安江町94番地に移転した。「蜜丸」の販売はつづける。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 10月13日 社会・文化 満鉄社長早川千吉郎死去。60歳。石川県士族早川忠恕の長男で金沢市生れ。前田家顧問。三井銀行専務理事から貴族院勅選議員となり、その間金沢電気、硬質陶器、街鉄の創設を援助するなど金沢市実業界のために尽した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 10月24日 社会・文化 県市合同主催のシベリア帰還第9師団凱旋祝賀会が兼六園銅像前広場で開催された。被招待者は各部隊の将校約350人で、下士官兵卒には陶杯などの記念品を贈った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 11月10日 社会・文化 小坂村の篤農表与兵衛死去。72歳。明治17年河北郡吉原村ほか13ヵ村戸長となって治績をあげ、耕地整理の元祖であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 11月10日 社会・文化 金沢の輜重兵第9大隊183人が越中庄川上流の山地行軍中、上梨で釣橋が切れて人馬もろとも川に転落し、9人死亡(うち地方人2人)6人負傷した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 11月12日 社会・文化 孔子二千四百年祭が市公会堂で450余人が参列して執行された。主催は県下教育関係者らから成る金沢孔子祭典会。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 11月20日 社会・文化 田丸町専光寺本堂(13間四面)の再建起工式が挙行された。同本堂は300年前の建築、再建工費は20余万円、3ヵ年計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 11月25日 社会・文化 午前6時ごろ河原町の商店から出火、竪町通りの商店4戸を全焼、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十一年(1922) 12月9日 社会・文化 盈進社社長として自由民権を鼓吹した飯田秀魁、鳳至郡穴水町で死去。73歳。明治13年から官途にもつき、また一高、五高の舎監をつとめたこともあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 1月9日 政治・経済 休業中の報徳銀行金沢支店の預金者大会が市公会堂で開かれ、二百数十人の出席者中から上京委員8人を選び本店と交渉することを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 1月12日 政治・経済 国勢調査の結果県会議員定数31人が30人になり、金沢市の県議定員6人を5人に減らすむね県公報で告示された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 2月1日 政治・経済 藤本ビルブローカー銀行金沢出張所が上堤町に開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 2月1日 政治・経済 金沢商業会議所調べによる1月中の金沢の建築関係職人賃金は次の通り。大工、左官、石工、ペンキ工2円50銭、かわらふき2円80銭、れんが積工3円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 2月3日 政治・経済 金沢の七ツ屋町から浅野川に沿って洲崎に至る電鉄敷設を目的とする電鉄会社設立協議会が駅前平沢製材所で開催された。出席者33人は手続き一切を平沢嘉太郎に一任、早急に会社を設立することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 2月19日 政治・経済 石川県庁新庁舎建築工事請負入札が清水組、大林組、銭高組、日本土木会社、鴻池組の5社によっておこなわれ、日本土木(大倉組)が56万9,000円で落札した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 2月20日 政治・経済 市は市営公設市場を設置することになり、次の5ヵ所の設置箇所を決定した。六斗林広見、香林坊下、小立野波着寺前、並木町、巴町。(設置費4万円は簡易保険積立金から借入れ、3月30日起債許可) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 3月5日 政治・経済 金沢市堀川町から洲崎を経て向粟崎に至る間に電鉄を敷設する浅野川電気鉄道株式会社(資本金30万円)の設立許可申請が県を経て鉄道大臣に提出された。発起人は平沢嘉太郎(代表)、西村正則、辰村米吉、田守太平、中島徳太郎、西田儀三郎、小塚貞義ら25人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 3月5日 政治・経済 金沢電気軌道会社は百間堀線から右折して車庫前で小立野線に接続する連絡線と百間堀石川門下の複線設置の許可を県に申請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 3月8日 政治・経済 市が横山町に建設する市営住宅は、馬場崎町に接した横山町2番丁の水田650坪を買収して敷地とすることに決定した。5戸建4むね(20戸)、1戸の建坪16坪7合の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 5月1日 政治・経済 石川鉄道が金沢電気軌道会社に買収されて本日から同社の経営に移り、鶴来-金沢間の連絡が円滑になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 5月26日 政治・経済 出願中の浅野川電気軌道会社に鉄道大臣から免許がおりた。同区間の電鉄敷設には富山、石川両県人合同の金沢堀川電気軌道会社(資本金30万円)も競願していた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 6月10日 政治・経済 浅野川電鉄は発起人会を開き、起点を堀川から金沢駅前まで延長するため資本金を10万円ふやし40万円とすることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 7月1日 政治・経済 金沢市に都市計画法が施行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 8月1日 政治・経済 (北陸線加賀笠間駅が本日から開業した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 8月1日 政治・経済 浅野川の中ノ橋が完成、渡橋式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 8月15日 政治・経済 金沢市に鉄道局誘致のため県、市、商業会議所、市実業組合連合会が協力して運動を開始した。北陸で誘致に乗りだしている都市は金沢、富山、長岡、新潟の各市。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 8月22日 政治・経済 金石電鉄の大野延長線が本日から運転を開始した。(26日大野町伝泉寺境内で開通式挙行) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 8月23日 政治・経済 浅野川の小橋が完成、渡橋式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月1日 政治・経済 (関東大震災。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月8日 政治・経済 犀川大橋の橋体工事は大阪橋梁株式会社に17万1,877円で落札した。完工限は12月31日。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月10日 政治・経済 広坂署は金沢豆腐商組合が8月17日決定した豆腐の値上げを9月10日から実施に決めたので組合長を呼び出し、「この際(関東震災直後)の値上げ実行は言語道断」と戒めた。組合は値上げを延期した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月11日 政治・経済 暴利取締令違反の検挙が全国的におこなわれている折から、広坂署は金沢金物商組合でトタン板などの値上げをきめたことが判明したので、組合役員を召喚して署長から厳戒した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月13日 政治・経済 犀川の新橋が完成、渡橋式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月19日 政治・経済 金沢商業会議所は震災後の市内物価の変動を調査した。騰貴したものは亜鉛引波形30番鉄板100斤20円が24円になり、その後下落して22円66銭に、同平板18円50銭が26円66銭に、ブリキ板90封度物1箱14円80銭が27円50銭に、洋クギ1タル14円が17円に、セメント1タル7円50銭が8円になった。木材類は比較的変動がなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月19日 政治・経済 金沢米穀商同業組合長林栄作は、市が震災救援米として東京方面へ送った白米300石の価格や買上げ手続きに不審があると市長あての公開状を発した。(相良市長は新聞で弁明を発表した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月24日 政治・経済 県会議員選挙がおこなわれ、金沢市の当選者は次の通り。吉倉清久(政新)乾亮(政前)坂野権次郎(憲前)元正吉(憲新)市川潔(青新) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月26日 政治・経済 犀川の桜橋が完成、渡橋式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 10月13日 政治・経済 犀川大橋下流の泉用水堰堤の構造方式を不備とする片町、十三間町、古寺町、長町など関係町民は7月以来県に設計変更を要求して騒いでいたが、県は原案(両端木工、中央蛇籠)実施を明らかにして町民の要求を拒否した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 10月25日 政治・経済 知事山県治郎は広島県知事に転じ、後任に内務省土木局長長谷川久一が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 11月1日 政治・経済 片町の宮市洋物店が店舗を改築して宮市百貨店として開店した。金沢で初めての百貨店である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 11月10日 政治・経済 市所有の野田山墓地(約15万坪)のコッサ(落松葉)採集について、管理人の選定問題から野村の野田部落民(65戸)と長坂新部落民(47戸)の間で紛争が起こっていたが、市の調停で野田山総坪数の6分の1の新墓地区域の採集を長坂新側にやらせ、残りの全部は野田側にやらせることで解決した。昨年までは野田部落民が採集し、年間約3,000円の収入を得ていたという。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 1月25日 社会・文化 県立金沢商業学校3年生150余人は転出教諭の留任、1教諭の転任などを要求して同盟休校した。(26日解決) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 1月 社会・文化 不景気のため市内大通りの商家に貸家札の出ているのが随所に見られると新聞は報じている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 3月5日 社会・文化 木ノ新保持明院の妙蓮(一茎多頭蓮)史蹟名勝天然記念物保存法によって天然記念物として内務大臣から指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 3月13日 社会・文化 大手町の乃木会堂が兼六園内に移築されて県の会館となり、乃木会(総裁は知事)では移転祭を挙行した。(会館は4月1日から兼六会館と命名) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 3月18日 社会・文化 元金沢市長男爵奥村栄滋熊本市で死去。71歳。旧加賀藩八家の出身(1万7,000石)で明治8年尾山神社宮司、31年1月から35年4月まで金沢市長をつとめた。昨年来熊本の長女の家に老後を養っていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 3月25日 社会・文化 井口在屋死去。68歳。金沢市柿木畠出身、加賀藩の漢学者井口済の3男、工学博士、東京帝大教授をつとめ有名ないのくち式渦巻ポンプを発明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月1日 社会・文化 昨年8月から市の手で続けてきた午砲を廃止し、市役所屋上の電気報時機(サイレン)で正午の時報を開始した。同時に水害、火災の場合のサイレン信号方法もきめ市広報で告示した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月1日 社会・文化 卯辰山登り口(常磐町)に元市会議員田口秀弘が動物園を設置し有料公開した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月1日 社会・文化 市は市立第一商業補習学校(県立商業学校内)市立第二商業補習学校(新竪町尋常小学校内)市立女子商業補習学校(高岡町高等小学校内)の3実業補習学校を設置した。いずれも修業年限は前期、後期および高等補習各2ヵ年、生徒定員は第一が500人、第二および女子補習は各300人、授業料は月20銭。(4月12日授業開始) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月1日 社会・文化 金沢医学専門学校が昇格、金沢医科大学になった。大学に付属医学専門部、付属薬学専門部が設置された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月1日 社会・文化 県立金沢第一、第二両高等女学校が5年制になった。(従来4年制) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月11日 社会・文化 市は本年から前田利家入城の日6月14日に金沢市祭を尾山神社で執行に決定、祭式は14日だけとするが、前後の各1日を加えた3日間を祭典日として各種の催しをすることにきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月12日 社会・文化 午後1時40分ごろ小立野土取場の城端別院支院から出火、同寺院はじめ9戸を全焼、3むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月12日 社会・文化 西町大谷廟所内の金沢高等予備校(仏教青年会館教育部経営)内に私立夜間中学校が開校した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月13日 社会・文化 午砲廃止で不要になった砲(クルップ式9センチ砲)が師団から市へ無償譲渡されたので、市は市所有の報時鐘と共に紺屋坂上り口右側の広場にすえつけて報時の記念にすることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月14日 社会・文化 加賀の名優として明治初年から金沢市民に親しまれてきた嵐冠十郎の引退興行が本日から下新町福助座でおこなわれ、冠十郎は座付連を相手に「吃又」を演じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月17日 社会・文化 前田利為夫人渼子、肝臓炎のためパリで死去。37歳。前田家15代利嗣と郎子との間の一粒種で日本三美人の一人と称された。大正6年の来沢がお国入りの最後。大正9年欧洲出張夫君と渡仏、昨年末から旅舎で療養中だった。金沢では新聞が夫人の死去を報ずる号外を出し、また市会は議長名で弔電を送った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月17日 社会・文化 卯辰山公園改良のため市が視察を依頼した庭園協会の林学博士本多静六ら4人が16日来沢し、2日間にわたり卯辰山、兼六園、野口別荘(彦三1番丁)、横山家庭園を視察した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月18日 社会・文化 両横山家所蔵の美術品約200点の売立入札がおこなわれた。総上り高40余万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月24日 社会・文化 市は公設市場の建築をまず香林坊、浅野川並木町、巴町の3ヵ所に着工することにし、入居商店46人の募集をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月 社会・文化 金沢医大教授大里俊吾博士の「淋巴の研究」に対し日本内科学会から内科恩賜記念賞が授与された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 4月 社会・文化 文部省は中等教員不足の対策として第四高等学校内に物理化学科の第十臨時教員養成所を設置した。募集数は給費生30人私費生若干、入学試験は25日、26両日おこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 5月30日 社会・文化 金沢市祭を機に金沢市歌ができた。作詞は第四高等学校鴻巣盛広教授、作曲は市内小学校教員の唱歌研究会。(1)二つの流れ遠長く、霊沢澄んで湧くところ、甍の数の日に添ひて、おのづから成る大都会。(2)眺尽きせぬ兼六の、園には人の影絶えず、市人業をいそしめば、衢に生気溢れたり。(3)文化の潮早けれど、地の利人の和缺くるなく、ここ北陸の中心に、永久に栄えむ金沢市。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 5月30日 社会・文化 午後4時ごろ上野町から出火、2戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 6月2日 社会・文化 金沢高等工業学校の校舎が完成し開校式が挙行された。校歌「春日にめざめた若き吾れ・・・・・」が初めて歌われた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 6月5日 社会・文化 「稿本金沢市史・社寺編」が刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 6月14日 社会・文化 金沢全市の総祭としての第1回金沢市祭が13日から3日間盛大に挙行された。祭式は14日尾山神社で相良市長祭主となって執行、市政の状況を奉告した。祭の余興として手踊、能楽、花火大会、自転車競走、相撲、堀川町の大名行列はじめ各町の催し物、小学生の旗行列、ちょうちん行列などがあり市中はわき返った。旗行列には新市歌が初めて歌われた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 6月14日 社会・文化 市祭を記念して市主催の市自治展覧会が市庁舎2階で14、15の2日間、また加越能史談会主催の加賀藩遺物展覧会が市会議事堂で13、14、15の3日間それぞれ開催され、いずれも多数の参観者を集めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 6月17日 社会・文化 上小川町竜国寺境内に市内染物組合員と呉服商有志が建築中の友禅堂が落成したので、友禅斎の木像を安置して落成式が盛大におこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 5月28日 社会・文化 棋聖本因坊の300年忌が本多町本行寺で営まれた。本行寺は本因坊が本多家に招かれて金沢に滞在中その手で創建した寺である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 6月30日 社会・文化 パリで客死した前田漾子の遺骨がフランス汽船で夫君に抱かれ神戸に到着した。嗣子利建ほか前田家や郷土関係者多数が神戸まで出迎えた。旧藩関係者として小幡酉吉が上海まで出迎えた。(遺骨は30日東京着、7月7日東京日倉里の墓地に埋葬) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 7月9日 社会・文化 午後2時35分ごろ六斗林2丁目のゴム製造工場から出火、同工場(55坪余)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 7月10日 社会・文化 市の香林坊、浅野川、巴町3公設市場が開業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 7月11日 社会・文化 井上啞々(精一)東京で死去。46歳。加賀藩士井上如苞の長男、一高、東大独文科(中退)に学び、籾山書店、毎夕新聞などに勤務、毎夕時代永井荷風の雑誌「文明」「花月」の編集に当り中央ジャーナリズムの名物男だった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 7月14日 社会・文化 前田利為が九谷焼の進歩発達をはかるためにと滞欧中買いあつめた独墺両国の陶磁器191点を石川県に寄付した。(後年石川県美術館に陳列) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 7月15日 社会・文化 雨のため天神町2丁目3丁目でがけくずれがあり2戸大破した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 7月18日 社会・文化 15日の雨でがけくずれの被害を出した天神町の町民が、広坂署に押しかけて105人連署の請願書を出し、小立野丘地の土地所有者にがけくずれ防止工事を至急施すよう指示してほしいと要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 7月18日 社会・文化 夜来の雨で浅野川が増水し、昨年来の仮橋が全部流出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 7月22日 社会・文化 元金沢市長渡瀬政礼死去。72歳。県議、市議、市会議長として地方政界で活躍の後、日露戦争をはさむ明治35年6月から42年11月までの7年5ヵ月間市長をつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 8月24日 社会・文化 六斗林と白山町(小立野波着寺境内)の両公設市場が開業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 8月 社会・文化 宗達会(会長熊田源太郎)が俵屋宗達の墓所宝円寺に茶室対青軒を建てた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月1日 社会・文化 関東大震災。金沢でも相当の強震で市内人家では時計がとまり電灯は1、2尺もゆれ動き、師団の池水は水煙をあげて大波をおこした。地震直後金沢測侯所は「午後0時18秒に震度強き地震あり、発震より10秒を経て上下および水平両度ともに強度となり約2分30秒間は震度著明に経過し、その後弱震程度に入ったが当地方としては近年まれな強震だった」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月2日 社会・文化 関東大震災の詳報は2日に至って金沢の新聞社へ入電しはじめ、市内の新聞社は続々号外を発行した。2日中に金沢駅から警官10数人、憲兵11人、師団衛生部員数人、日赤支部看護婦10人等が途中の状況不明のまま東京へ出発した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月2日 社会・文化 大震災の情報が陸軍の金石無線電信と新聞号外のほか入手できないので、第9師団司令部と県は協議の結果、金石無線電信から船橋または銚子の無線局中継で東京中野の陸軍電信隊に対して震災の詳報を求めることにきめた。(午後、舞鶴海軍要港部から惨害の公電がきた) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月3日 社会・文化 埼玉県川口駅から乗車した東京の避難者第一陣が午前10時30分と午後2時18分金沢駅着列車で着いた。(金沢駅下車の避難者は7日までに906人) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月4日 社会・文化 緊急金沢市会は震災都市救援のため3万円の支出を可決、直ちに白米200石を東京市へ、50石を横浜市へ発送の手配をした。また市は吏員2人を状況視察のため3日上京させた。校下青年団では材木町ほか3団が代表を派遣した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月5日 社会・文化 震災地の治安維持のため第9師団に出動命令が下り、林智得歩兵第6旅団長指揮のもとに歩兵第7、第36連隊の将兵約2,500人が4日夜出発した。(第6旅団司令部は浦和県庁に置かれた) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月5日 社会・文化 石川県から東京地方へ送る救援物資として白米200石、塩8俵(80斤入り)梅ぼし500貫(23タル)が4日、貸車4両に積みこまれ米原経由名古屋へ発送された。名古屋港から5日または6日に汽船で品川へ送られることになったので、輸送指揮のため県から赤堀社会課長らが4日夜名古屋へ出発した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月6日 社会・文化 震災地でナベ、カマが不足しているので県は1,600個を調達、信越線経由で蕨駅まで急送した。(県中橋枝手同車) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月8日 社会・文化 金沢運輸事務所管内各駅から震災地へ発送した救援物資は8日までに90車両になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月11日 社会・文化 震災地から金沢郵便局に到着した無料電報の8日から9日朝までの分は1,692通、10日は1,790通に達した。(12日以後は料金受信人払いとなる) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 9月19日 社会・文化 震災地から避難してきて金沢市の小学校に転入学した児童は、18日現在男子24人、女子26人計50人で、ほかに未寄留児童は29人に達している。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 10月1日 社会・文化 金沢新聞(日刊、上堤町9番地)が創刊した。経営者瀬尾雅太郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 10月12日 社会・文化 金沢市内の震災避難者は現在554世帯、1,176人である。(県下全体では3,073世帯5,388人) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 10月28日 社会・文化 2代目金沢市長で市産業開発の先覚者長谷川準也の功績をたたえる記念碑が天徳院境内に建ち、除幕式が挙行された(建設委員長飯尾次郎三郎) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 10月29日 社会・文化 震災地警備のため9月5日出動した歩兵第6旅団(歩7、歩36連隊)が任務を終え帰隊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 10月 社会・文化 作家室生犀星が一家をあげて東京から金沢へ疎開してきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 11月15日 社会・文化 市調査によると震災避難者の金沢市内現住者は、本日現在で男1,098人女957人計2,055人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 11月23日 社会・文化 市公会堂で県市合同主催の国民精神作興に関する詔書の奉読式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十二年(1923) 12月24日 社会・文化 午前1時ごろ裏五十人町の製材工場から出火、工場、倉庫と民家など5むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月1日 政治・経済 石川郡野村字泉の桃畠市営住宅地が金沢市に編入されて、弥生町と名づけられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月14日 政治・経済 金沢は全国都市中金貸業の多いところであるが、金銭貸付業として課税されている業者は現在236人(うち会社15)で資本金合計額は334万円、税金は1万6,641円となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月19日 政治・経済 金沢市は皇太子成婚記念事業として市立の大運動場設置を計画、調査をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月23日 政治・経済 浅野川電気鉄道株式会社の創立総会が商業会議所で開かれ役員を選任した。総会後の役員会で「予期よりも創立が遅延したので全速力をもって土地買収等実際事業に当ること」を申合せた。取締役は平沢嘉太郎、辰村米吉、西村正則ほか5人、監査役は高桑勇次郎ほか3人、相談役として金沢市から10人、石川河北両郡から5人委嘱することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月23日 政治・経済 市会は皇太子成婚記念事業の市立大運動場設置を満場一致で可決した。予算は6万円、財源は3万円が前年度繰越金、3万円が一般寄付金。運動場は敷地1万坪、トラック1周400メートル、普通観覧席の収容人員1万人、特別観覧席1,000人の計画である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月26日 政治・経済 皇太子結婚式。金沢市会は賀表を可決、また市公会堂で官民1,200人が出席して祝賀会が開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月29日 政治・経済 市立運動場建設に対し早くも石川郡三馬村字泉と地黄煎町が誘致運動をはじめ、泉の方は市長に運動場設置の請願書を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 2月28日 政治・経済 都市計画石川地方委員が政府から任命された。委員は金沢市会議員6人、県会議員3人、金沢市助役、師団および各官庁代表5人のほか、学識者として高安右人、原凞、青戸信賢、横山隆俊、横山章、飯尾次郎三郎、片岡安の計22人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月2日 政治・経済 政友会石川県支部解散ならびに政友本党支部発会式が約2,000人出席して北国劇場でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月3日 政治・経済 今秋石川、富山両県下でおこなわれる陸軍特別大演習の参加部隊は金沢第9、高田第13、京都第16の各師団と予後備1個旅団、合計3個師団半と決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月3日 政治・経済 北陸冷蔵株式会社が白菊町の新社屋で創業披露をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月1日 政治・経済 金沢市公報の第1号が発行された。毎月1日と15日の2回発行で個人の購読も自由である。(一部9厘) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月1日 政治・経済 金沢商業会議所が議員総会で金沢鉄道局設置と金沢駅改善の陳情書を議決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月26日 政治・経済 市は卯辰山登山道のうち、小坂神社横から山上の俗称ふた割れに至る全長660間の急坂のこう配をゆるめ、幅を広くする改修計画を決定、関係地主2人から拡幅に必要な土地1万2,000坪寄付の内諾も得たので工兵第9大隊の援助を得て近く着工することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 5月11日 政治・経済 衆議院議員選挙が10日におこなわれ開票結果は次の通り。第1区(金沢市)当選3,458票 永井柳太郎(憲政)次点2,057票 曄道文芸(政本)第2区(石川)当選5,299票 堀喜幸(政本)次点2,474票 武谷甚太郎(憲政)第3区(能美、江沼)当選6,052票 米原於菟男(政本)次点5,530票 相川久太郎(政友)第4区(河北、羽咋、鹿島)当選7,307票 青山憲三(憲政)同6,459票 室木弥次郎(憲政)第5区(鳳至、珠洲)当選4,330票 佐藤実(憲政)次点3,758票 益谷秀次(政本) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 5月15日 政治・経済 芥川竜之介が室生犀星の招きで来沢、7日間兼六園内三芳庵別荘に滞在した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月8日 政治・経済 大正11年12月着工した石川県庁庁舎の落成式が挙行された。鉄筋3階建、一部4階、延べ2,599坪で総工費123万円。設計は工学博士矢橋賢吉。県は新庁舎で3日間県勢展覧会を開き、県民に庁舎を開放、また市電気局の寄贈送電で新庁舎を電飾した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月19日 政治・経済 犀川の上菊橋から野田寺町1丁目に出る坂の拡張工事が完成したので不老坂と命名、落成式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月20日 政治・経済 市の道路改良事業の一つ、大手町から味噌蔵町を横断し玄蕃町に出て天神橋に至る道路の大手町―味噌蔵町下中丁間の新設工事が完成、開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月22日 政治・経済 各方面から誘致運動がおこっている市の公設運動場は地黄煎町に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月23日 政治・経済 今秋石川、富山両県下で挙行の陸軍特別大演習に摂政宮が来県されるので、下検分に宮内省、侍従武官府、参謀本部から係官が来県、県庁で県、金沢市との合同打ち合せ会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月24日 政治・経済 知事長谷川久一が和歌山県へ転じ、後任に島根県知事長延連が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月1日 政治・経済 (石川郡野々市村が野々市町になった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月10日 政治・経済 一昨年8月流失し昨年5月起工した犀川大橋が完成、渡橋式がおこなわれ、両岸は約3万人の人出でにぎわった。長さ200フィート、総工費26万7,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月11日 政治・経済 石川郡野村は金沢市に編入方を県に対して陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月13日 政治・経済 市は上水道敷設のため大井博士を嘱託とし、石井主任技師以下吏員を準備調査にあたらせることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月15日 政治・経済 不況のため金沢箔同業組合の銀箔部はさる1日から1ヵ月間休業、洋箔部も本日から2ヵ月間休業を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月30日 政治・経済 県は下新町の旧新町警察署庁舎の売却を臨時県会に提案、議決を得た。同庁舎は警察署の移転後、金沢市消防組連合会事務所に無償貸与されていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 8月27日 政治・経済 金沢市の大演習関係予算8万4,000円が市会で可決された。(県の同予算は26万3,073円) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 9月19日 政治・経済 かねて休業中の大正昼夜銀行金沢支店(本店富山市)が預金者に整理案を示した。(支店の10円以上預金者は約120人) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 9月24日 政治・経済 金沢市都市計画事業の計画区域の調査が終り、県を通じて内務省に申請された。都市計画編入区域は浅川村を除く隣接8ヵ村で、村全体が区域にはいるのは崎浦、三馬、米丸、戸板、弓取の5ヵ村、村の一部がはいるのは野、富樫、小坂の3ヵ村。面積は1,345万4,788坪で現在の金沢市の約4倍半、人口は約15万人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 10月7日 政治・経済 11月2日からの摂政宮宿泊所は成巽閣にきまったので、東京前田家から係員が来沢して邸内の補修、避雷針5ヵ所の設置、飲料水用鉄管の敷設などを終り、また宮内省は邸内に判任官用仮食堂、洗面所などの設備をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 10月7日 政治・経済 工兵第9大隊の将校以下230人が卯辰山山上―小坂神社間の道路開さくに出動した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 10月14日 政治・経済 市は名所旧跡案内規程をきめ告示した。これは観光客誘引の方法として約20人以上の団体には、申込みにより市吏員をつけて金沢市内を案内することにしたもの。そのため社会課に案内委員を置いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月2日 政治・経済 摂政宮は陸軍特別大演習統裁のため名古屋から午後4時金沢駅着、大本営の成巽閣にはいられた。夜、学生生徒6,000余人のちょうちん行列がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月2日 政治・経済 大演習参加の各皇族は1日から2日に来沢、各宿舎にはいられた。久邇宮邦彦王は高岡町横山章邸、閑院大将宮は柿木畠横山男爵邸、梨本宮守正王は彦三1番丁野口吉次郎邸。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月3日 政治・経済 大演習開始。摂政宮は富山県埴生村で統裁、午後3時すぎ汽車で金沢に帰られた。大演習の甲軍司令官は町田経宇大将、乙軍司令官は田中義一大将。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月4日 政治・経済 摂政宮は風邪のため大演習第2日の戦線巡視を取りやめられた。夜、加藤高明首相が陪観のため来沢した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月4日 政治・経済 摂政宮は午前、成巽閣で退役歩兵中尉七五三亀吉(江沼病院副院長)の「金沢城の沿革」についての御前公園をお聞きになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月5日 政治・経済 大演習は午前11時石川平野の攻防戦で終了、摂政宮は大乗寺山で統裁された。同夜、参加部隊将兵のうち2万3,783人が金沢市内民家に宿泊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月5日 政治・経済 摂政宮は大演習講評場の石川師範学校で退役歩兵中尉角永敬次(野々市町三等郵便局長)の御前講演「富樫戦記」をお聞きになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月6日 政治・経済 大演習参加部隊に対する大閲兵式が金沢市中でおこなわれた。摂政宮は四高前から片町、寺町通りを経て野村練兵場まで左側路上と練兵場内に並ぶ約4万の将兵を乗馬で閲兵された。午後兼六園で官民3,500人に賜饌がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月7日 政治・経済 在郷軍人会金沢支部総会が会員1万5,000人参加のもとに総裁閑院宮を迎え出羽町練兵場でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月9日 政治・経済 摂政宮は県庁、師団司令部、裁判所、医大、二中(生徒奉迎式場)をまわられた。また小学生1万4,000人の旗行列があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月10日 政治・経済 全市小学校5、6年生男児と青年団員5,300余人のちょうちん行列がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月11日 政治・経済 摂政宮は午前10時金沢発の列車で帰京の途につかれた(同夜高田泊)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月20日 政治・経済 街鉄社長小塚貞義が辞任、後任社長に大株主の横山一平が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 12月4日 政治・経済 浅野川電鉄は3日までに堀川口から須崎終点までの軌道敷設を終った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 12月5日 政治・経済 浅野川電鉄は付帯事業として向粟崎に大遊園地を経営することになり、社長平沢嘉太郎の個人経営として準備に着手した。遊園地は土地6万坪を村から借り、資本10万円を投じる計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 12月5日 政治・経済 都市計画石川地方委員会の調査作成した金沢市の都市計画区域は、内務大臣の決裁を終り知事から関係市町村に諮問されることになった。(大正14年2月3日諮問) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 12月19日 政治・経済 大正13年度の市内清酒造石数は約2万5,850石で500石以上の酒造家は次の通り。4,254石中村栄助、3,397石福光松太郎、2,130石金沢酒造、1,778石京谷与三兵衛、1,469石石丸吉太郎、1,080石岡田久太郎、994石辰巳孝一郎、936石大桑実、823石越田喜三郎、827石渡辺正松、741石酒井四郎、731石金沢製氷、684石坂野権次郎、620石堀貫五三郎、569石岡重雄、504石高村藤三郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月9日 社会・文化 市内在住の青木外吉ら60余人の美術家で結成された金城絵画同人会が発会式をあげた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月13日 社会・文化 前四高校長溝淵進馬の胸像(吉田三郎作)が同校前庭に建ち、溝淵前校長(現熊本五高校長)はじめ約200人が参列して除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月19日 社会・文化 「地上」の作家島田清次郎(27歳)は失意の身で昨年末帰郷、市内小将町の借家で中から錠をかけ焦燥の日を送っていると新聞は報じている。(金沢出身の舟木海軍予備少将家の娘を誘惑したとする事件のあとである) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 1月20日 社会・文化 初代の一中校長富田輝象死去。71歳。旧藩士富田象直の長男、青年時代政治結社「忠告社」社員として地方政界に活躍し、官界入り後は鹿島、能美、石川各郡郡長も歴任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 2月10日 社会・文化 午前5時半ごろ安江町34番地付近から出火、2戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 2月11日 社会・文化 皇太子成婚記念の贈位で金沢の勤王家野村円平(通称次右衛門)が正5位を追贈された。円平は慶応元年82歳で死去、国体擁護を論じた空翠雑話などの著がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 2月16日 社会・文化 午後11時ごろ旧城本丸の9師団経理部酒保から出火、1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 2月23日 社会・文化 金沢医科大学付属病院長医学博士下平用彩死去。62歳。和歌山県人で四高、医専、医大在職27年。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 2月 社会・文化 金沢で初めての自動車学校が白銀町に開設されることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月1日 社会・文化 内務省は金沢公園(大正11年3月8日指定)の名松を「兼六園」の旧称に改めるむね告示した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月5日 社会・文化 七宝町で飼犬が狂犬になり3日から5日までの間に付近の子ども14人をかみ、県衛生課員に毒殺された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月7日 社会・文化 明治41年から17年間四高教授(英語)として金沢に住んだ大谷繞石(正信)が広島高校教授に転任し本日赴任した。繞石は松江市出身、夏目漱石の門下で小泉八雲の研究家、金沢の俳壇にも大きな足跡を残した。北間楼での送別句会で「梅咲けば梅に思はん雪の国」の一句を残した。(繞石は昭和8年11月17日広島で死去) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月10日 社会・文化 横山家の所蔵品入札が京都美術倶楽部でおこなわれた。総売上げ高は71万円に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月12日 社会・文化 金沢湯屋業者の協定入浴料金5銭に対し組合非加盟業者が3銭にしたことから値下げの競争がはじまり、3銭、2銭にまで値下げする湯屋も出てきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924※日にち間違いの可能性あり) 3月17日 社会・文化 金沢医大付属病院長に教授土肥章司が発令された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月13日 社会・文化 加越能史談会は金沢市内でさらに五枚町の豆腐座跡など史跡10ヵ所に標示板を立てた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月24日 社会・文化 県下で流行の兆がある狂犬病予防のため、県は本日から金沢市をも狂犬病警戒区域に指定するむね県令で告示し、畜犬の移出入を禁止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 3月24日 社会・文化 句空庵賢外宗匠今村東郊死去。86歳。大手町に住み、北陸俳壇の重鎮であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月1日 社会・文化 犀川を取水源とする金沢市の水道計画に対し、犀川流域の7用水管理者および町村長が県に反対を陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月1日 社会・文化 県立盲啞学校が廃止され、新たに県立盲学校と県立聾啞学校が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月1日 社会・文化 森山町尋常小学校に高等科を併置、森山町尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月1日 社会・文化 菊川町尋常小学校に高等科を併置、菊川町尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月1日 社会・文化 私立金城女学校が高等女学校令による高等女学校に昇格した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月2日 社会・文化 午前4時ごろ上近江町の民家から出火、7戸を全焼、5戸を半焼した。近くの取引所は運びこまれた家財道具や避難者で混雑したため本場立会を休止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月9日 社会・文化 金沢医大学長高安右人が辞任、教授須藤憲三が後任学長となった。高安は明治21年帝大卒業後第四高等中学校教諭となって以来37年間、医学教育に尽した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月10日 社会・文化 午前4時半ごろ此花町の民家から出火、3戸(6世帯)を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月15日 社会・文化 金沢市は従来市公会堂を政談演説の集会に使用させなかったのを改め、今後は政談集会に開放することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月25日 社会・文化 (県下の天然痘はまだやまず、本年にはいってからの発生数は15人に達し、現在の患者は江沼郡4人羽咋郡3人計7人である。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月26日 社会・文化 尾山神社遷座50年祭が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月30日 社会・文化 前代議士、実業家西村正則死去。59歳。石川郡出城村出身、北陸土木、朝鮮興農会社その他多くの会社の役員をし、現在石川郡から衆議院議員選挙に政友本党より立候補中。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 4月 社会・文化 実業補習学校令による金沢市立工科学校が開校した。修業年限は予科1年本科2年で土木、建築、電気、機械、応用化学の5科。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月6日 社会・文化 金城画壇展覧会の作品審査のため荒木十畝、中沢弘光が来沢した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月12日 社会・文化 県立金沢第三中学校の校舎落成式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月13日 社会・文化 市は野町広小路、香林坊、車庫前、枯木橋、武蔵ヶ辻の5ヵ所にそれぞれ500燭光2個、200燭光1個の街灯を鉄柱に取りつけ今夜から点灯した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月14日 社会・文化 横安江町東別院再建工事の上棟式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 6月 社会・文化 白銀町に北陸で初めての3階建貸ビル金沢万歳ビルディングができた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月1日 社会・文化 育英社幹事長柴野義広死去。80歳。加賀陸軍の先達で退役陸軍中将。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月5日 社会・文化 五宝町西別院内に初めての市営託児所が設置された。在籍児50人、保母2人で付近の労働者家庭から喜ばれている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月6日 社会・文化 西町大谷廟所前にできた仏教青年会館の開館式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月10日 社会・文化 不景気が深刻化し市内に貸家が非常にふえてきた。盛り場片町にも現在6軒に貸家札が出ていると新聞は報じている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月15日 社会・文化 市は野田山墓地内を整理するため無縁墓を集めて合葬すると発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月19日 社会・文化 市が内務省の指定により設置する結核療養所は、河北郡浅川村若松に問を購入して建設することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月23日 社会・文化 大阪心斎橋北詰めの貿易商和田栄太郎(金沢出身)が寄付した藩祖前田利家銅像(吉田三郎制作)の除幕式が公会堂階上でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 7月28日 社会・文化 市参事会員山田定吉(野町、米穀商)死去。53歳。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 8月1日 社会・文化 日蓮宗信徒によって味噌蔵町に立正閣が建設されることになり地鎮祭が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 8月13日 社会・文化 本月初めから降雨がなく市内各所で井戸がかれたので、市は飲料水として小将町の街鉄会社用水を4斗ダル約300本に入れて渇水のひどい地区に配給した。(降雨のあった21日まで配水を継続) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 8月23日 社会・文化 蓮如上人銅像建設会は蓮如上人の銅像を卯辰山料亭みがけ跡地に建立することになり、1,000坪の地ならし工事を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 9月5日 社会・文化 医師不破鎖吉死去。74歳。金沢医学界の先達の一人、明治17年田中信吾、藤本純吉と尾山病院を創設、大正2年閉因院して味噌蔵町で開業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 9月6日 社会・文化 昨年3月県下に狂犬病が初発してから8月末までの発生狂犬は55匹(うち金沢市30匹)、咬まれたもの172人(金沢市86人)、恐水病発病4人(金沢市なし)である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 9月9日 社会・文化 歩兵第7連隊で軍旗親授50年祭典が盛大におこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 9月13日 社会・文化 俳人高浜虚子が来沢、14日野田寺町高岸寺で句会が催された。参会者200余人。15日越前永平寺へ向った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 9月20日 社会・文化 金沢出身の貴族院議員河村善益死去。石川県士族河村輝朝の3男で東京控訴院長を退官後勅選議員になり、竹田宮宮務監督、前田家評議員を勤めていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 9月27日 社会・文化 県が募集した摂政宮奉迎歌は応募142編の中から四高3年生二宮竜雄の「尾山の岡辺秋たけて……」が首位に決定、発表された。作曲は師範学校大西嘱託が当り、奉迎旗行列とちょうちん行列に歌う。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 10月1日 社会・文化 香林坊の北国劇場が帝国座と改名した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月2日 社会・文化 茶道家野村寛死去。93歳。加賀藩の御作事奉行を勤め、廃藩後は尾崎神社の神官をしたこともあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月12日 社会・文化 金沢最初の代言人沢田宇三郎死去。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月30日 社会・文化 高さ100尺の鉄塔警鐘台が犀川と浅野川の両大橋詰めに建った。犀川は蛤坂と新道の分岐点、浅野川は森下町巡査派出所脇。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十三年(1924) 11月30日 社会・文化 金沢孔子会がつくられ、孔子祭を兼六会館で催した。祭主は武藤四高校長(孔子会会長)で吉田吉太二中教諭の論語講義、児島献吉郎文学博士の講演があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月15日 政治・経済 上水道敷設を時期尚早として反対する一部市民が市公会堂で水道反対市民大会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月20日 政治・経済 金沢市医師会が水道敷設促進の建議書を相良市長に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月23日 政治・経済 犀川流域の7用水主催の犀川水源地反対農民大会が帝国座で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月24日 政治・経済 金沢市から金沢の地下水調査を委嘱された京大比企忠博士の報告書が提出されたが、「金沢市の水道水源を地下水に求めることは不可能」と結論された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月27日 政治・経済 市水道事業(総事業費395万円4ヵ年継続事業)の調査費が市会で議決された。水道敷設に対し市会内部が賛否両派に分れているので市は予算の水道敷設準備費を撤回し、調査費に改めて提案したものである。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月27日 政治・経済 犀川を金沢市の水道の水源にすることに反対する流域農民大会の実行委員は市役所に松本助役、県庁に長知事、雨宮土木部長を訪れ、強硬に反対意見を述べ反対陳情書を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月28日 政治・経済 市会は金沢に高等師範学校設置の意見書を可決した。高師設置は県市一体の運動となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月2日 政治・経済 真田河北郡農会長ら河北潟沿岸民代表が沿岸耕地の水害防止のため、県に河北潟排水工事の施行を陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月3日 政治・経済 (能登鉄道羽咋、高浜間が開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月23日 政治・経済 白鳥堀と大手堀を小公園にするための払下げ(大蔵省から)問題について、市会と市長が協議の結果、5,000円ぐらいなら市は支出するがそれ以上なら断念することに意見一致した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月26日 政治・経済 日本硬質陶器株式会社の社長が更送、大正2年以来の社長松風嘉定が退き、釜山商業会議所会頭香椎源太郎が後任社長に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月27日 政治・経済 軍縮により富山歩兵第69連隊の廃止、金沢野村の歩兵第35連隊の富山移駐が発表された。これに伴い旧城内の歩兵第7連隊は野村の歩兵第35連隊兵舎へ移転することに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月1日 政治・経済 石川郡野村が金沢市に編入された。野村の戸数450戸、人口2,677人。編入にともない村立野尋常小学校を金沢市立十一屋町尋常小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月10日 政治・経済 石川郡弓取村が金沢市に編入された。弓取村の戸数295戸、人口1,515人、金沢市の人口は140,132人となった。編入にともない村立弓取高等小学校を金沢市立諸江町尋常高等小学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月19日 政治・経済 富山へ移駐する歩兵第35連隊の告別観兵式が金沢駐留全部隊が参加して野村練兵場でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月1日 政治・経済 第9師団長星野庄三郎は待命、後任に参謀本部第一部長伊丹松雄中将が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月10日 政治・経済 浅野川電気鉄道会社の第1期線七ツ屋-須崎間3.3マイルが完工、開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月10日 政治・経済 歩兵第7連隊の旧城内から野村(35連隊跡)への移転が終った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月14日 政治・経済 日本硬質陶器会社は臨時株主総会を開き、本社を金沢から工場所在地の朝鮮釜山府に移し支社を金沢に置くことを議決した。(朝鮮内に本社を置けば朝鮮総督府の補助金交付の対象となるため) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月29日 政治・経済 金沢都市計画区域決定の件が内務省から認可になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月29日 政治・経済 金沢市の公設運動場工事の入札がおこなわれ、入札人員33人中山田菊太郎が1万3,740円で落札した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 6月25日 政治・経済 県下無産党の先駆ともいえる政治研究会金沢支部の発会式が香林坊大神宮で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 7月9日 政治・経済 金沢市から賦課申請中の特別税「戸別税」条例が内務大蔵両大臣から許可された。これは市内で県税家屋税の賦課されぬ官舎、社宅、神社、寺院等の住人に賦課するもので市内で約540人、税額は約4,000円になる予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 7月16日 政治・経済 不況のため金沢銀箔業者は本日から無期限休業にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 8月15日 政治・経済 労農ロシア承認後石川県からはじめて渡航する石川県シベリア実業視察団は16人と決定した。金沢市からは坂野権次郎(酒造)指江長太郎(木材)本多政樹(機業)野村喜一郎(水産)東与三郎(機業)高林義一(魚網)が参加。(9月13日出発) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 8月31日 政治・経済 (能美電鉄の新寺井-新鶴来間電車が全通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 9月3日 政治・経済 市内6公設市場の売上高は不景気を如実に示して逐月減少の傾向にあり、8月中の売上高は合計1万6,610円で昨年同月より3,035円の減少、また前月より1,404円の減少である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 9月10日 政治・経済 石川県の貴族院多額納税者議員選挙は政友、政友本党、憲政会の三派協調により横山章が無競争で当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 9月29日 政治・経済 金沢市会議員の選挙区制が廃止され、全市1区の大選挙区制になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月1日 政治・経済 第2回国勢調査と初めての失業統計調査がおこなわれた。金沢市の国勢調査結果は32,455世帯、人口147,420人(男73,045人、女74,375人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月2日 政治・経済 油車および新竪町住民は鞍月用水使用料の不当を訴えて、市長に対し「市中を貫流する部分を金沢市の管理に移すよう」陳情し、市の善処を強く要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月4日 政治・経済 金沢市会議員選挙を前に、立憲労働党の発会式が市公会堂で200余人が出席しておこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月16日 政治・経済 金沢商業会議所会頭横山隆俊が辞任、後任会頭に副会頭辰村米吉、副会頭に市村孫太郎が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月23日 政治・経済 青草辻市場路面アスファルト工事落成記念開通式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 11月1日 政治・経済 片町から竪町への入口の三角地面(勧工場)取りひろめ問題は、地主辰村米吉が市の買収を承諾したので近く着工に決定した。三角地面は24坪4合9勺。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 12月1日 政治・経済 市設貯蓄機関の金沢市信用組合が事業を開始した。加入者360人、加入口数4,000口、組合長相良市長。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 12月3日 政治・経済 (10月1日の第2回国勢調査による石川県の人口は75万854人と発表された。なお内地総人口は5,973万6,704人、朝鮮、台湾、樺太を加えた全領土人口は8,345万4,347人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 12月7日 政治・経済 金沢市会議員選挙の2級議員選挙が4日、1級議員選挙が7日おこなわれ、立候補者62人から憲政会15、青年党6、政友本党10、実業同志会3、政友会1、中立1が当選し、市役所派である自治会派が21人、非市役所派が15人の色分けとなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 12月16日 政治・経済 市会は正副議長選挙をおこない議長に坂野権次郎(憲政)副議長に市川潔(青年)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 12月29日 政治・経済 米谷銀行と松任銀行との合併が決った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 1月4日 社会・文化 実業家横山隆一死去。63歳。横山男爵の分家で500石の旧藩士。神戸に本店、京城、台北、京都、奉天の各地に支店を置き洋家具類を手広く扱っていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 1月8日 社会・文化 震災後疎開していた作家室生犀星が東京に引き揚げた。3月には家族も引き移った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月3日 社会・文化 前田利為侯の結婚に当り、金沢在住の加越能出身現役退役の陸海軍将校団約300人はお祝いに青銅の大花びんを贈った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月4日 社会・文化 市は木ノ新保6番丁持明院妙蓮池の天然記念物「妙蓮」に対し、200円の補助金を交付することになり明年度予算に計上した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月7日 社会・文化 侯爵前田利為(41歳)と酒井菊子(22歳)の結婚式が東京本郷の前田邸で徳川家達、近衛文麿両夫妻の媒酌でおこなわれた。前田家の結婚総費用は10万円を超えそうだと新聞は報じている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月16日 社会・文化 金沢市に開設される簡易保険健康相談所の敷地は玄蕃町南側の空地(地主尾張町山田勝二)に決定、建物は地主が建てて(2階建67坪)保健局に賃貸することになった。完成は8月ごろの見込み。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月19日 社会・文化 加賀谷市会議員の調査によると金沢市内の共同井戸は231個、使用戸数は2,186戸である。衛生上危険な旧式ツルベを用いている共同井戸も相当あるという。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月24日 社会・文化 19日以来、幹部店員排斥を店主に迫って同盟罷業をしていた宮市百貨店店員30人(男16人女14人)は店員側が謝罪して解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月26日 社会・文化 県参事会は下新町の新町警察署跡の土地建物を日本赤十字社石川支部の産院開設用に払下げることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 2月28日 社会・文化 金沢西別院輪番石原堅正から設立認可申請中の金沢女学院が知事から認可された。(4月1日開校) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月1日 社会・文化 最近、金沢市と郡部を通じ電灯光力がひどく暗いので、県保安課は県下19の電気会社に警告を発した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月3日 社会・文化 県が昨年末現在で調査した県下の寺院数は1,244、うち金沢市は244であった。宗派別では大谷派が県下で3分の2を占めている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月5日 社会・文化 結婚披露と展墓のため1日から帰省中の前田利為、菊子夫妻を招いて官民合同歓迎会が市公会堂で開催された。参会者約500人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月10日 社会・文化 長惣右衛門死去。58歳。壮年時内国通運会社に入り、のち独立して土木建築請負業を経営して成功した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月10日 社会・文化 石川郡金石町町会は銭屋五兵衛の銅像建設費補助金1,000円を否決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月14日 社会・文化 (能美郡苗代村字向本折に大火、全焼32むね、納屋6むね、土蔵1むね。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月22日 社会・文化 東京芝浦の仮放送所でラジオ放送開始。北陸地方のラジオ放送局の設置認可申請は現在金沢から2件、高岡から1件あり、猛運動がおこなわれている。金沢の申請者は商業会議所系の実業人によるものと電気事業者によるもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月27日 社会・文化 金沢市高道新町浄土宗心蓮社所蔵の絹本着色阿弥陀三尊来迎之図が国宝に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 3月31日 社会・文化 高岡町尋常高等小学校の補習科が廃止された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月1日 社会・文化 金沢簡易保険健康相談所が仙石町に開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月3日 社会・文化 石川県各政党合同主催の普選通過祝賀会が、午後3時から兼六園長谷川邸跡で約3,000人が参集して開かれ、さらに午後7時からちょうちん行列がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月7日 社会・文化 第34回矯風会全国大会が本日から3日間市公会堂と兼六会館で開かれ、廃酒、廃娼、婦人参政権について協議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月9日 社会・文化 昨春立柱式をあげた田丸町専光寺の上棟式がおこなわれた。(再建費は50万円) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月15日 社会・文化 備中町慈船庵に建てられた元盈進社同人故斎藤知一の石碑除幕式がおこなわれた。題字は頭山満。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月28日 社会・文化 新内の新人岡本文弥一九席に来演。文弥は震災後来沢して「金沢情話」を新作、また金沢を題材にした竹久夢二の「秘薬紫雪」を新内化した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月29日 社会・文化 金野鉄道の西金沢駅が5月1日から白菊町駅と改称されることになったので、野々市町では「省線野々市駅が西金沢駅と改称される前提でないか」と改称阻止の町民大会を開き、野々市駅名存続を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月 社会・文化 金沢一中、二中、三中および金沢商業の寄宿舎が廃止された。(寄宿舎が少なく経費節減のため) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 4月 社会・文化 (石川県で初めて琵琶湖の稚アユ2万匹が大聖寺川に放流された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月3日 社会・文化 富山へ移駐する歩兵35連隊の小林連隊長以下740人は、軍旗を先頭に市中行進し午前8時55分金沢駅発列車で出発した。沿道および金沢駅には市内中小学校生徒、市民ら数千人が見送った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月10日 社会・文化 天皇皇后の銀婚式奉祝会が県市合同のもとに県会議事堂で挙行された。全市小学生や金沢魚商組合の奉祝旗行列がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月10日 社会・文化 石川県体育協会の財団法人組織が文部大臣から許可になり、協会が正式に設立された。会長は長知事。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月13日 社会・文化 正午すぎ木ノ新保3番丁から出火、4戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月13日 社会・文化 柿木畠横山男爵家の地所2,500坪と庭樹庭石約3,000点のせり売りがおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月15日 社会・文化 本日から3日間帝国座でラジオ放送の試聴会がひらかれ、JOAKの放送を受信した。金沢市内で一般が放送を聞いたはじめである。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月16日 社会・文化 本因坊算砂(棋聖本因坊の一世)の記念碑が本多町欠原町本行寺に建設され除幕式がおこなわれた。算砂は京都寂光寺日海上人で、藩臣本多政長に招かれ弟子本照坊日至と共に金沢に来て、囲碁を教授し本行寺を建てた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月17日 社会・文化 暮柳舎甫立の句碑が大衆免中通浄行寺内に建った。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月18日 社会・文化 金沢の指物業の指導者仙石町家具商越田外次郎の銅像が、同業組合員の手で大乗寺境内に建てられ除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月23日 社会・文化 但馬大震災。金沢地方も午前11時10分ごろかなりの地震があったが、時計の振子がとまった程度で被害はなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月25日 社会・文化 県参事会は柿木畠横山邸敷地の一部960坪を買収し、知事官舎を新築することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 5月27日 社会・文化 東京前田家の所蔵品売立てがおこなわれた。総売上高110万円、5,000円以上の落札品は42点に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 6月1日 社会・文化 金沢市役所に無料戸籍相談所が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 6月7日 社会・文化 多年石川師範、女子師範、第二高女の書道教員として名声のあった書家畠山擲山の鋳碑が、旧門人の手で野田寺町松月寺境内に建ち除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 6月25日 社会・文化 「稿本金沢市史・工芸編第一」が刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 6月28日 社会・文化 義太夫の豊竹呂昇が本日から5日間尾山座で引退披露興行をし、初日から満員の大人気だった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 7月4日 社会・文化 加越能史談会は創立10周年記念式と記念講演会を兼六会館で開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 7月5日 社会・文化 幕末金沢の勤王歌人大友粂満の歌集「蓬壺集」が発見(藤本純吉襲蔵)されたので、十一屋町烟硝倉跡の墓前で発見報告法要が営まれた。粂満は藩の御料理小頭で作歌5,300余首、明治2年53歳で没。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 7月7日 社会・文化 簡易保険局の低利資金と勧銀融資で建てる金沢市初の月賦売却住宅建設案が市会で議決された。上本多町、横山町、下中島町等に約90戸を15万余円で建て、入居者の当初月賦償還額は14円50銭、25年償還。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 7月14日 社会・文化 日本赤十字社石川支部経営の産院が新町(元新町警察署跡)に開設された。産院内に愛国婦人会石川支部、恩腸財団済生会経営の診療所も開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 7月19日 社会・文化 粟崎遊園が開場した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 7月31日 社会・文化 不景気、生活難で小野慈善院の収容者は今年になって70余人ふえ193人になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 9月6日 社会・文化 十一屋町小学校長夫妻(上本多町居住)と近くの知人2人計4人が、昆布で巻いたボラの刺身を食べ中毒死した。県衛生課で試験の結果ボラが腐っていたものと判明。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 9月23日 社会・文化 元代議士浅野順平南町の自宅で死去。71歳。明治23年石川県第3区から代議士に出て以来当選9回、憲政会の長老として県政界に重きをなしていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 9月29日 社会・文化 四高の外人教師用住宅2戸(木造2階建、建坪各40坪)が上鷹匠町に年内に建築されることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月1日 社会・文化 省線野々市駅が西金沢駅と改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月2日 社会・文化 県は県立金沢商業と盲、聾啞学校の新築敷地として天徳院裏手(崎浦村字上野新)の買収を地主と折衝中のところ交渉成立、近く買収手続きを終り着工する。商業学校敷地は9,232坪4万6,160円(地主横山章)盲、聾啞両校敷地は1,627坪9,619円(地主横山、上野、綿屋、佐々木)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月10日 社会・文化 書家畠山擲山(観成)死去。77歳。明治初期盈進社に対抗する正義社を創設して政治運動に従い、その後県吏員から北陸では初めての書道の中等教員検定をとって、今春まで26年余各学校に奉職した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月13日 社会・文化 卯辰山登り口付近で動物園を経営している田口秀弘は、動物園拡張と付帯事業経営を目的として資本金3万円の株式会社金沢動物園を設立のため、株式募集を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月25日 社会・文化 金石電鉄直営の遊園地濤々園が開場した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 10月31日 社会・文化 皇太子成婚記念金沢市設運動場の開場式が挙行された。広さ約1万坪、工費5万9,896円(うち土地買収費2万1,500円)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 11月1日 社会・文化 国文学者武藤元信の遺稿「むかしのおもかげ」が刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 11月3日 社会・文化 和田文次郎(尚軒)著の「金沢叢語」が加越能史談会から刊行された。巌如春のさし絵入り。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 11月10日 社会・文化 市の貧困児童就学奨励費(本年度予算4,500円)を受けている児童数は現在100人で、甲乙丙の3種に分類して食費、衣服、学用品、日用品等を補給し、金額は最低2円最高8円となっている。一方、特別学級には56人(夜学)遊廓特別学級には61人を収容しており、就学率は著しく向上した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 11月26日 社会・文化 午前2時40分ごろ此花町の機業工場から出火、同工場1むねと工場内の長屋3戸を全焼し、住家5むねと長屋1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 11月27日 社会・文化 加賀の歌舞伎名優嵐冠十郎宗叔町の自宅で死去。75歳。本名河合理之助、はじめ璃之助といった。地元福助座(座主太田七兵衛)の座付き役者として明治大正を通じ郷土人に親しまれた。当り芸は赤垣源蔵、仁木彈正、沼津平作、女形では板額、葛の葉など。大正12年4月引退した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 12月9日 社会・文化 金沢一中で同校生徒の組織大和倶楽部員と鎧袖倶楽部員との間に乱闘事件が起り重傷者数人を出した。(学校は17日首謀者5人を退学、10人を停学処分に付した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 12月15日 社会・文化 (石川郡河内村字久保で大火、22戸全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十四年(1925) 12月31日 社会・文化 本年中の市立桜木病院の入院患者総計は次の通り。入院患者数128人(うち全治者102人死亡者26人)、病名別入院患者数は腸チフス98人、パラチフス14人、赤痢11人、ジフテリア3人、ショウコウ熱1人、流行性脳炎1人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 1月4日 政治・経済 米谷銀行が七尾銀行、松任銀行を合併してできた新銀行名は加能合同銀行(資本金1,060万円)ときまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 1月10日 政治・経済 金沢商業会議所は金沢運輸事務所に「金沢、森本両駅中間にある小坂信号所を駅にしてほしい」との陳情書を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 1月12日 政治・経済 金沢市金属工芸同業組合の創立総会が開かれた。組合は貴金属工芸部と美術工芸部から成っている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 1月19日 政治・経済 金沢出身の桜井錠二が枢密顧問官に親任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月6日 政治・経済 金沢電気軌道会社が申請中だった市内電車の金沢駅から小坂神社前に至る直通電車路線の新設は鉄道、内務両大臣から認可の指令があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月9日 政治・経済 明治34年創立の石川銀行(資本金50万円)は福井銀行(資本金560万円)と合併することに決定した。支店はそのまま福井銀行支店となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月10日 政治・経済 犀川7用水関係者で組織する金沢市水道水源地反対期成同盟会は、関係村民約140人が出席して協議会を開き犀川水源地反対を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月16日 政治・経済 水道水源地反対期成同盟会の委員40余人は宮脇県内務部長に犀川を水源とする水道反対を陳情した。宮脇は「県は犀川水源の水道を許可する方針」と答えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月27日 政治・経済 市会は4月から市長俸給を現在の年額4,950円から6,500円に、また助役俸給を3,000円から3,500円に引上げることを可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月6日 政治・経済 市会は旧城内歩兵第7連隊跡(7連隊は前年旧野村の35連隊跡に移転)を市に無償払下げされたいとの内務大臣あて意見書を全会一致可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月6日 政治・経済 金沢市政の総合調査機関として金沢市是調査会の設置が市会で議決された。調査会に財源部、交通部、水道部を置き、委員23人は全部市会議員をあてた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月9日 政治・経済 歩兵第7連隊の旧城内復帰内定説が伝わり、利害関係のある地元野田寺町と大手町がそれぞれ復帰反対、賛成の猛運動をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月16日 政治・経済 中島町、横山町、馬場崎町、本多町に市が建てた月賦売却住宅の申込みは66戸に対し217人に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月20日 政治・経済 金沢市漆器同業組合主催の金沢漆器展覧会が本日から1週間商品陳列所階上で開催された。出品総数800点。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月22日 政治・経済 県が3月1日現在で調査した普通選挙による衆議院議員選挙有権者数(25歳以上の男子、住居制限1年以上等)は県下で17万9,849人、うち金沢市は4万5,400人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月29日 政治・経済 街鉄の市内電車賃均一制が市会で承認された。新料金は片道5銭、往復9銭、早朝割引は往復6銭。(昭和2年2月11日から実施された) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月30日 政治・経済 金沢市施療病院の敷地は野田寺町1丁目元横山章別邸跡(570坪)にきまった。市の買収価格は坪27円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月7日 政治・経済 河北電気鉄道株式会社(代表小塚貞義)が大正12年に出願した金沢市下大樋町から本津幡駅前に至る7マイルの電車敷設は鉄道省から不許可の指令があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月7日 政治・経済 金沢市における14年度の納税貯金組合は総数90組合に達した。加入人員は2,900人、納税額は47万4,868円余、市はこれに対し奨励金を交付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月7日 政治・経済 政府が明治45年6月28日金沢電気軌道会社(街鉄)に対し免許した街鉄第2期線中の野町5丁目-有松間、白銀町-長田町間、山ノ上町3丁目-下大樋町間の3線は、規定の期限内に工事の認可申請をしなかったため免許は無効となったむね、鉄道省と内務省から公告された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月9日 政治・経済 市是調査会水道部委員会は水道水源問題について、犀川の水源のほか地下水も再調査することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月11日 政治・経済 金石の陸軍金沢無線電信所が公衆電報の取扱いを開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月12日 政治・経済 加州銀行が鹿島銀行(本店七尾町、資本金30万円)を買収した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月12日 政治・経済 金沢市会の多数派自治会に対抗して、少数派の政友本党、実業同志会、政友会に所属する11議員が公同会を結成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月21日 政治・経済 金沢電気軌道株式会社(街鉄)の経営が放漫に流れているとして、金沢市会は同会社の財政調査をすることを全会一致で決めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月28日 政治・経済 金沢市の月賦売却住宅第2期分の泉野町14戸、北安江町8戸は近く完成するので申込みを受付けた。(申込者58人) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月30日 政治・経済 日本硬質陶器会社は経営不振のため、全職工400余人のうち102人を解雇した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月 政治・経済 金沢市が本年度から備えつけることになったゴミ運搬自動車は横浜フォード会社から購入、近く到着する。価格は付属品を合せ約2,200円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月6日 政治・経済 金沢市の招きで4日以来水道計画を調査中の内務省河口協介技師は、市是調査会水道部委員会で「金沢の地勢上から地下水を水源にすることは不可能だ」と報告し、これで水源地問題は犀川案が決定的になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月8日 政治・経済 柿木畠横山男爵邸跡に新築中の知事官舎が完成、長知事は森町の官舎から引越した。新官舎は土地購入費と建築費計約7万8,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月12日 政治・経済 相良歩市長の任期満了に伴う後任市長推薦市会が開かれ、相良が28対1で再選された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月12日 政治・経済 国粋会石川県本部の発表会が帝国座で挙行され、陸軍予備少将吉野文四郎が本部長、青山憲三が名誉会長に就任し、知事、市長、貴衆両院議員らを顧問に推薦した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月13日 政治・経済 市会少数派連合の公同会は市長選挙を契機に分裂した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月13日 政治・経済 北陸企業銀行が徳田銀行(鹿島郡)を買収合併した。新資本金330万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月15日 政治・経済 市は15年度救済民として215人を4月中に許可した。この救済金は3,747円で内訳は老衰82人、疾病68人、廃疾56人、白痴3人、啞者1人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月18日 政治・経済 浅野川電鉄の七ツ屋-金沢駅前間が開通、これで市内電車と連絡した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月25日 政治・経済 金沢米穀取引所新築工事入札が行なわれ2万3,560円で長惣右衛門が落札した。9月末完工の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月27日 政治・経済 かねて金沢市編入運動をつづけている河北郡小坂村の卯辰、乙丸、浅野、談議所、神宮寺、山上、大衆免、浅野中島の8字代表が相良市長に会見し編入希望を伝えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月28日 政治・経済 金沢魚商組合(組合長野村喜一郎)は県の食品市場規則制定を前に、卸売市場の金沢魚市場組合(組合長能沢栄太郎)に対し、市場の統一、せり売制度確立、問屋自己仕入禁止など魚市場対魚商組合の協定事項(大正12年協定)の履行を要求した。(両組合の対立は次第に激化の方向に向う形勢) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月11日 政治・経済 北国銀行(能美郡川北村)と能美産業銀行(根上村)は合併のためいったん解散して、新たに資本金138万円の北国銀行を新設することにきまった。現在の北国銀行鶴来支店を本店にして9月1日から開業する。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月13日 政治・経済 金沢市電気局の電灯器具陳列販売所が下堤町にできた。照明についての相談にも応ずる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月13日 政治・経済 金沢郵便局は集配人優遇策として日曜祭日の郵便集配回数の減少を本日から実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月16日 政治・経済 市会議員と水道技師らの一行が市水道水源のため医王山、戸室山方面に横穴式水源を求めて踏査したが、金沢市の水道水源に必要な水量は得られないことがわかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月24日 政治・経済 陸軍大臣から第9師団長に対し、旧野村の歩兵第7連隊を大手町の旧営舎に復帰させる命令がきた。大手町、中町、尾張町の有志は早くも歓迎準備の相談会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月24日 政治・経済 市会の決議により市が実施していた街鉄会社の財政調査が終り、市会で報告した。市は街鉄から提出の書類によって調査し、使途不明の借入金や疑点10数ヵ所についてはさらに立証書類の再提出を求めた。(しかし会社経営に不当の点があったとしても、市には追及する権能はないから不徹底のそしりは免れぬとの批判が出ている) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月26日 政治・経済 金沢市が購入した2台目の自動車ポンプが到着、玉川署に常設となった。(価格5,830円、放射水程150フィート)なおこれに伴い市の消防組織が一部改正された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月30日 政治・経済 歩兵第7連隊が野村兵営から1年と50日ぶりで大手町の旧営舎に復帰した。営門付近には地元民約300人が出迎えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月30日 政治・経済 本日限り郡役所が廃止された(明治11年12月創設以来49年になる)。石川県では珠洲支庁が飯田町に設置された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 7月1日 政治・経済 金沢市内で14ヵ所の青年訓練所が一斉に開所された。入所者は全市で2,480人。青訓終了者は在営年限短縮(歩兵で在営期限1年6ヵ月)の特典が付与される。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 7月1日 政治・経済 30日の金沢電気軌道会社総会で取締役に選出された中島徳太郎が就任拒絶を横山社長に通告した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 7月4日 政治・経済 政友会と政友本党の合同による新しい政友会石川県支部の発会式が、田中義一総裁、中橋徳五郎顧問らを迎えて市公会堂で開かれ、尾山座、帝国座で演説会が催された。県会の分野は両党の合同で政友派17人、憲政派13人となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 7月23日 政治・経済 市の委託により金沢商工協会が東京日本橋区南伝馬町第一相互ビルに設けた金沢物産販売所は本日開所した。出品は2,319点。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月2日 政治・経済 歩兵第7連隊の大手町復帰で打撃を受けた十一屋町、野田寺町1丁目、2丁目の商店などの代表30人が、連隊移転に伴う商工業の不振を理由として相良市長に減税を陳情し、町民150余人調印の減税嘆願書を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月12日 政治・経済 金沢市若松療養所(結核)が完成、開所式をあげた。所長寺本義一、敷地8,153坪、建物608坪、総工費12万4,839円、収容患者定員は当分30人(60人に拡張予定)。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月15日 政治・経済 市営談議所火葬場の改築が完成して開所、長田町火葬場は廃止になった。談議所火葬場は使用燃料が薪炭から重油にかわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月29日 政治・経済 市会は助役選任問題から坂野議長の不信任案を可決した。問題の助役には吉川一太郎を選任、収入役は河崎宇吉郎を再任した。(前助役松本弥次郎は任期満了で退任、昭和2年1月20日市会は慰労金5,000円を贈った) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 9月9日 政治・経済 県は金沢市会の議長不信任議決は違法であるとして取消しを通達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 9月11日 政治・経済 市会は鉄道局設置に関する意見書上申を満場一致で可決した。(18日内務大臣に上申) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 9月22日 政治・経済 鉄道局設置期成金沢市民大会(期成同盟会主催)が帝国座で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 9月29日 政治・経済 知事長延連が休職になり、後任に岐阜県知事白根竹介が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 9月 政治・経済 金沢市が都市計画委員会の依頼により、8月現在で調査した市内の工場数(職工5人以上)は総計274である。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 10月1日 政治・経済 金沢市に本日から市街地建築物法細則が実施された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 10月18日 政治・経済 金沢魚商組合と金沢魚市場組合の争議はその後ますます激化し、魚商は市場をボイコットして漁業家から共同購買することを宣言、また市場側は市場を市民にも開放し、一方対抗策として魚商組合員でない魚商人を募集することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 11月1日 政治・経済 金沢市第1回農産物品評会が市公会堂で開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 11月5日 政治・経済 普選法による金沢市内の市、県会議員選挙有権者数は2万5,324人(9月15日現在)と決定した。旧法の有権者より約1万人の増加。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 11月26日 政治・経済 (天皇御不例が発表された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月10日 政治・経済 7月23日開設した東京の金沢物産販売所の11月30日までの売上高は4,189円13銭に達した。商品別売上げは第1位が桐火ばち、以下陶磁器、金属器、染物、絹織物、漆器の順。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月15日 政治・経済 数ヶ月にわたった金沢の魚市場組合と魚商組合の争議は、市場問屋側が魚商組合の提案を承認してようやく解決した。内容は「魚市場の一般公開をやめ市場問屋は元通り魚商組合員のみと取引する、歩戻は従来の5分に5厘増額し魚商組合で積み立てる」など。妥結と同時に魚商組合経営にかかる金沢鮮魚問屋会社が創立、従来問屋と並んで開業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月16日 政治・経済 (天皇御容態急変が発表された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月21日 政治・経済 市会協議会は石川郡崎浦村の金沢市編入を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月25日 政治・経済 (午後1時25分天皇崩御。御年48歳。昭和と改元された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月25日 政治・経済 市会は奉悼文を議決し天皇、皇后、皇太子に打電した。金沢市は市広報号外をもって6日間の廃朝と弔旗掲揚についての告諭を告示した。また県は警保局長の通牒にもとづき、県民に廃朝中5日間歌舞音曲の停止を命じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 1月15日 社会・文化 午前6時ごろ出羽町5番丁の養鶏商から出火、1戸を全焼、鶏200羽を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 1月19日 社会・文化 軍事教育実施後はじめての四高、薬専両校生徒と歩兵第7連隊による軍隊学生連合演習が、豪雨の石川郡平野で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 1月22日 社会・文化 金沢市でも営業用乗用自動車の料金算出に、大都市のようなタクシーメーターを使う自動車が現れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 1月28日 社会・文化 大谷家限定相続に反対の金沢宗門擁護会に招かれた大谷光演(句仏)が来沢し、午後市公会堂の門末大会に臨み2,500人以上の聴衆に衷情を訴えた。東別院の奥田教務所長ら30余人は光演に講演取りやめの嘆願書を渡したが拒否された。(限定相続問題とは大谷派本願寺が200万円の借財をつくった光演法主を引退させ、その子光暢に限定相続させようとして反対派と争っている事件) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月1日 社会・文化 大谷光演を金沢に迎えて限定相続反対の気勢をあげた宗門擁護の青年僧団体二十一日会の主唱者四辻尤敬(恵光寺住職)と和田貢(超願寺住職)に対し、本山から僧籍ち奪処分の通知があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月6日 社会・文化 東本願寺は限定相続問題で句仏前法主派の重鎮石川舜台を僧籍ち奪処分に付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月17日 社会・文化 県山林会は県下の名木に対し補助金を交付することになったので、市では市内52本の名木を調査のうえ申請することにきめた。いずれも旧藩時代から由緒あるものばかり。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月18日 社会・文化 市は全市教員の身上調査を各学校長に命じた。調査項目は19項目。これにつき新聞は「一部教員間には、これは教員の人格を侮辱するものと非難の声がある」と報じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月21日 社会・文化 金沢弁護士界の長老相川久太郎死去。63歳。明治23年第1回衆議院議員選挙に27歳で当選したが年齢不足で失格、その後再び当選して活躍した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月26日 社会・文化 前田家が50万円を出資して財団法人前田育徳会を設立した。所蔵の古文書、古器物、絵画等を複製頒布して先人の遺風を顕彰するのが目的。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 2月28日 社会・文化 金沢合掌会が中心になって「丙午の迷信打破同盟」が設立され、横安江町真宗会館で第1回の講演会を開いた。市の調査によると丙午の娘(本年21歳)は市内に1,392人いる。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月10日 社会・文化 県保安課はかねて業者から出願中の金沢市内片道1円の円タク営業を許可した。待ち時間は5分ごとに10銭、1時間を1円とする。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月14日 社会・文化 加越能史談会は県に対し兼六園保勝の建議をするため13、14両日会員および一般有志に園内踏査をしてもらい、約30人から保勝改造に関する意見をきいた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月16日 社会・文化 金沢市郊外別所に産する孟宗竹から製紙用パルプを製造する研究が、金沢高工応用化学科上田教授によって成功した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月25日 社会・文化 金沢市に総合大学設置の建議案が県選出代議士らから衆議院に提出、可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月26日 社会・文化 前田家編纂方戸水信義死去。89歳。戸水寛人博士の父。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 3月27日 社会・文化 (能美郡安宅町に天然痘患者3人発生。) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月1日 社会・文化 円タクに対抗するため市内19の自動車業者は本日から値下げをした。(片道10町以内2円50銭、50町以内3円、50町以上5円を15町まで1円50銭、30町まで2円、30町以上2円50銭に引下げ) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月1日 社会・文化 野町、此花町両小学校に高等科が併置され、これにともない小学校児童の通学区域が全市にわたり変更された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月1日 社会・文化 金沢市は本年度から市内小学校の学校医2人を1人に減らし、代りに各学校に嘱託医を配属することに改めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月2日 社会・文化 かねて狭さが問題になっていた馬場小学校運動場は、校下からも1,500円の寄付を得て隣接地319.4坪を購入拡張することになった。買収費1万2,764円、地ならし費1,607円。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月9日 社会・文化 浅野川電気鉄道株式会社は河北潟で貸ボートと遊船を経営するため、県へ50年間水上使用の認可を申請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月15日 社会・文化 石浦町英薬局写真部の主唱で北日本写光会が結成された。加入申込みの写真愛好家は約150人。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月15日 社会・文化 タクシー料金の値下げ以来金沢市内の自動車利用客がふえ、平均1台1日10回(約15円)の客があり、1日1台10円余の増収になっている。近く市内の車数も現在の42台から60台余にふえるだろうと県保安課の話を新聞が報じている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月15日 社会・文化 本年度徴兵検査を前に師団当局は受検者の服装について華美にわたり、また礼儀を失することのないよう警告した。昨年の県下受検者の服装は羽織ハカマ160人、羽織のみ210人、ハカマのみ600人、着流し3,500人、軍服50人、洋服600人、ゆかたがけ100人だったという。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月17日 社会・文化 前田漾子夫人の3年祭が東京本郷の前田邸と日暮里の墓所でおこなわれ、加越能出身の旧藩士ら約300人も参拝した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 4月25日 社会・文化 町の発明家大野弁吉(明治3年70歳で死去)の追弔法会が大野町伝泉寺で営まれた。小池兵治の講演「弁吉と写真」のほか、町内諸家秘蔵の弁吉の作品約40点も陳列された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月1日 社会・文化 四高文科3年生2人が社会科学研究から実践運動に踏み出したとの理由で、さる29日退学を命ぜられた。これに対し在校生はもちろん、在京の卒業生も会合して学校に減罰を嘆願、卒業生代表も来沢して復校を交渉した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月5日 社会・文化 県は県立学校の運動選手の資格について、学業成績が全級生徒の10分の7以内のものという制限を設けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月11日 社会・文化 大正12年4月開設された金沢医科大学は、校舎が完成したので開学式を盛大に挙行した。文相代理はじめ来賓1,000余人が参列した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月13日 社会・文化 金沢医大は開学記念に12,13両日、校内と付属病院を市民に開放したが、観覧者は両日で5万人に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月22日 社会・文化 北陸絵画協会創立30年記念展が本日から5日間商品陳列所で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月25日 社会・文化 市内でラジオ聴取機をすえつけ当局の許可を得て名古屋、大阪の放送局から放送を聴取しているものは現在88人に達した。金沢郵便局は無許可聴取者の取締りを考究中。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 5月 社会・文化 「石川県における天然記念物調査報告・第二輯」が県から刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月9日 社会・文化 前田家から河北郡中条村潟端新の県社加賀神社に下記が奉納された。四書大全1部(万治版松雲公収集書)黒塗剣梅鉢蒔絵鞍1具。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月13日 社会・文化 尾山旧誼会と乃木会の主催で前田家累代真筆展覧会が、13日から3日間公園内兼六会館で催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月15日 社会・文化 加越能史談会主催の金沢古代風俗博覧会が、市祭の13日から3日間広坂通元市会議事堂で開かれた。出品約450点、3日間の有料入場者1万2,188人という人気だった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月21日 社会・文化 今春兼六園保勝のため実地踏査した加越能史談会は、調査結果をまとめた保勝意見を知事に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月21日 社会・文化 金沢市学務委員会は高等小学校令の改正に伴う高等小学校の新施設を決定した。内容は諸江校には農業科、小将町校には工業と普通科を設け商業科も付設する、菊川町と此花町校には男子商業科、高岡町、味噌蔵町、森山町校の女児には女子商業科を設ける。実施は女子は9月、男子は明年度の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 6月23日 社会・文化 石川県山林会総会に出席のため来沢した林学博士田村剛は、兼六園視察の感想として「くれぐれも近代の遊園的公園にしないように」と注意を述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 7月12日 社会・文化 実業家藤田子儀死去。60歳。宗叔町に居住、大阪商船から北陸企業銀行専務となり中村歌右衛門の財政顧問をしていた。蔵書家としても著名。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 7月15日 社会・文化 金沢箔同業組合では工部の金箔工料値上げ要求を商部がいれなかったので、工部の1,500人が同盟罷業にはいった。(21日解決) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 7月18日 社会・文化 金沢市在住の鮮人が精神的経済的向上をはかる目的で共栄会を結成した。(事務所は弓ノ町6) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 7月26日 社会・文化 仏教各派連合の金沢市仏教会の創立総会が兼六会館で開かれた。(市内の寺院総数は244) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 7月 社会・文化 市が本年度の新事業として準備中の児童歯科治療所が味噌蔵町、長町両小学校に開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月6日 社会・文化 豪雨で犀川8尺余増水、千日町一帯が床下浸水した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月9日 社会・文化 弁護士西永公平死去。63歳。金沢弁護士会長、県会議長、市会議員をつとめたほか米穀取引所理事、農工、加州、明治各銀行その他数会社の役員、相談役等についていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月14日 社会・文化 高岡町金城織物会社(従業員約150人)の女工寄宿舎で8日からパラチフスが集団発生、本日までに患者119人に達し、工場は9日から閉鎖した。病源は寄宿舎の賄夫とわかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月15日 社会・文化 北陸線に初めて食堂車が運行された。(神戸青森間急行列車) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月17日 社会・文化 兼六園内の金沢神社は氏子を持たず少数の崇敬者により維持されてきたが、社殿等の腐朽がはなはだしいので相良市長と崇敬者代表が長知事を訪問、その修繕と維持につき陳情した。知事は調査して善処したいと答えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 8月23日 社会・文化 午後2時20分ごろ兼六園内金城霊沢の裏手にある建築材料庫(12坪)から出火、1むね全焼した。場所がら大騒ぎだった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 9月1日 社会・文化 市立主馬町託児所が開所した。収容児は従来の方針を改め満4歳までとした。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 9月23日 社会・文化 国本社石川支部発会式が平沼会長、前田侯らを迎えて市公会堂でおこなわれた。石川支部長に茂見検事正が就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 9月 社会・文化 県は兼六園内を借用しているものに借地料の値上げを通告した。現在の借地料は大正7年の決定で、坪50銭から25銭まで4階級にわかれている。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 10月1日 社会・文化 金石電鉄が街鉄市内電車と金石電車駅間を連絡するため白銀町、中橋間に乗合自動車の運転をはじめた。運賃は片道3銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 10月7日 社会・文化 営業不振に陥っている金沢駅構内の人力車夫50余人が、共同出資で出願中の駅構内自動車営業が名古屋鉄道局から許可された。使用タクシーは2台。(11月1日開業した) 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 10月17日 社会・文化 下百々女木町に新築した免囚保護収容施設石川県更新会の落成式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 11月2日 社会・文化 明治時代の市政界の雄高田九八郎死去。68歳。小学校教員から明治24年県議、25年市議に当選、45年まで毎期市参事会員をつとめその間2回県会議長にもなり、加能派全盛時代その首領として活躍した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 11月5日 社会・文化 市会議員井野口貞次郎死去。53歳。憲政会所属、市都市計画委員、森下町で薬種業を経営。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月1日 社会・文化 11月末現在における金沢市在住の外国人数は欧米33人(男10人女23人)支那人約20人である。欧米人の国別はドイツ16、アメリカ9、英カナダ6、ラトビア、オーストリア各1。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月10日 社会・文化 午前11時20分ごろ横山町1番丁の民家から出火、1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月11日 社会・文化 石川県医師会長飯森益太郎死去。61歳。飯森病院長、明治45年以来県医師会長をつとめ大日本医師会や県知事から衛生功労者として表彰された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月17日 社会・文化 午前10時尾山神社で白根知事はじめ約300人参列して、官民合同の聖上平癒祈願式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月17日 社会・文化 旧加賀藩臣で幕末から維新当時、国事に活躍した安井顕比の「青軒遺稿」が岡田良顕の手により刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月19日 社会・文化 金沢市内の劇場、活動写真館、寄席等は天皇御容態悪化の15、6日以来観客が激減、閉館同様の状況である。料理屋も忘年会や宴会がほとんどないという。第3日曜の本日も市内盛り場は人出が少なく火の消えたようだった。 金沢の百年 大正・昭和編
    大正十五年・昭和元年(1926) 12月26日 社会・文化 金沢商業会議所で市内商店の年末年始売出しについて打合せ会が開かれ、「大喪中でも静粛な売出しは差しつかえない。初売りは例年のようなお祭り的装飾や催しを避け、また高い掛け声を出して荷を運ぶことは避ける」ことなどを申合せた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 1月18日 政治・経済 石川県無産団体協議会は普選を前に組織懇談会を開き、無産政党組織準備会を結成し、事務所を十三間町に置くことにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 1月20日 政治・経済 街鉄市内電車の乗車賃均一制が鉄道省から認可された。(2月11日実施) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 1月26日 政治・経済 日本銀行金沢支店長古川銀次郎は本店計算局長へ転じ、後任支店長に福島支店長阿部四郎が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 1月27日 政治・経済 市は水道敷設事業計画案の総予算を476万円、昭和2年度から5ヵ年継続事業と決定、市会に提出した。水源地は犀川村寺津用水取入れ口、第1期計画の給水人口は14万人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 1月29日 政治・経済 安江町の共栄貯蓄銀行金沢支店が本店(東京)の営業停止により、早朝から取付けにあった。金沢市内預金者の預金額は約33万円、預金者数は県下全部で2,450人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月11日 政治・経済 街鉄市内電車の乗車賃均一制が本日から実施された。新料金は片道5銭、往復9銭、早朝割引は往復6銭。(しかし電車は大雪で運転不能) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月19日 政治・経済 水道急設反対期成同盟会主催の市民大会が西町公会堂で開かれ、大会終了後代表重山徳好ら5人が、相良市長宅を訪問し大会の決議文を手交した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月28日 政治・経済 市水道敷設案(初年度事業費67万円)は市会本会議で賛成18票反対14票(政友会)で可決され、調査開始以来8年目に水道敷設が本ぎまりになった。この日、雪の広坂通街上は反対の農民が集り、また街頭演説をするものもあらわれるなど緊迫した空気がただよった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 3月20日 政治・経済 大正12年納税奨励の目的で設置された市の納税組合は現在105組合に達した。納税組合に納入される市税は全市税額の約6割。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 3月30日 政治・経済 市参事会は市公金取扱銀行の指定更新をおこない、一般公金は従来通り加州銀行(金沢市第一金庫)としたが、新設の水道会計取扱いは能登産業銀行(金沢市第二金庫)を指定した。担保は加州銀行22万円、能登産業銀行6万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 4月1日 政治・経済 水道事業の発足に伴い、金沢市水道事務所が設置された。工務部と事務部から成り、所長は吉川助役の兼任、工務部長には市水道技師石井一夫が就任した。(事務部長は遅れて樺太庁属高山勇蔵が任命された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 4月20日 政治・経済 田中義一内閣成立。金沢出身の中橋徳五郎が商工大臣として入閣した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 4月23日 政治・経済 (全国的に金融恐慌に、政府は緊急勅令で支払い猶予令を出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 5月18日 政治・経済 田中内閣の鈴木喜三郎内相によって17日地方官大異動がおこなわれ、知事白根竹介は富山県知事に転じ、福岡県知事大塚惟精が石川県知事に任命された。しかし大塚は党略人事を憤慨して即日辞表を提出、そのため政府は、翌18日休職中の元岡山県知事横山助成を石川県知事に復活、発令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 6月1日 政治・経済 都市計画石川地方委員会が31、1両日開かれ、横山知事が彦三大火焼失区域の街路計画とその地域案について諮問した。委員会は街路計画については「12間道路から小橋に出る長さ53間の4間道路は幅員を8間にする」との希望条件を付して可決、また地域案については「彦三の一部を商業地域に、旧弓取方面を工業地帯にして彦三の旧工場を移転させるよう」修正可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 6月12日 政治・経済 金沢政友倶楽部(政友会金沢支部)の発会式が、卯辰山公園で1,300余人出席して挙行され、乾亮が倶楽部長に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 7月2日 政治・経済 小坂神社前から卯辰山公園に至る新道(汐見坂)の開通式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 7月3日 政治・経済 立憲民政党石川県支部の発会式が党員約1,000人出席して帝国座で挙行された。支部長関戸寅松。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 7月3日 政治・経済 立憲青年党所属の市会議員沢野外茂次、松井啓、小坂政吉の3人は離党して民政党に入党した。市会の青年党は市川潔ら3人となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 7月23日 政治・経済 第9師団長伊丹松雄中将は待命となり後任に歩兵学校長永井来中将(山口県人)が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 7月29日 政治・経済 市は材木町3丁目から味噌蔵町に至る道路に新設の橋を梅ヶ枝橋と命名した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 8月7日 政治・経済 民政党金沢倶楽部の発会式が野町泉野神社境内で党員約1,000人出席して挙行された。倶楽部長は坂野権次郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 8月11日 政治・経済 市参事会は市第ニ金庫(水道会計取扱い)の能登産業銀行との市金庫契約を解除し、代りに加能合同銀行を指定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 8月12日 政治・経済 金沢市電気局の吉野第二発電所建設(3ヵ年継続事業、工費50万円)は逓信省から工事認可がきたので、近く着工することに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 9月3日 政治・経済 労働農民党石川県支部の結党式が旧市会議事堂でおこなわれた。執行委員長末友正喜、執行委員北川重吉ら5人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 9月9日 政治・経済 鉄道省は昭和3年度以降3ヵ年継続事業で金沢駅の改築拡張(予算137万5,000円)をおこない、同時に金沢鉄道工場を他に移転拡張(予算182万5,000円、7年度完成)することに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 9月25日 政治・経済 普選初の府県会議員選挙が24日を中心に全国で執行された。石川県は24日投票、25日開票。金沢市は有権者25,414人、定員6人に立候補12人。県下初めての無産党候補今村清(労働農民)は最下位(274票)で敗れた。金沢市当選者 武谷甚太郎(民政新)神保重吉(政友新)乾亮(政友前)沢野外茂次(民政新)村上初三郎(民政元)餝谷与右衛門(政友元) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 9月26日 政治・経済 北支那駐とん軍の交代部隊として、第9師団から歩兵3個中隊の天津派遣が下命された。(富山、鯖江、敦賀各連隊から各1個中隊が9月中に出発した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月5日 政治・経済 金沢都市計画事業道路新設拡築受益者負担に関する内務省令が、官報で公布された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月21日 政治・経済 彦三焼跡都市計画事業の予算79万円が市会で可決された。道路のため市が買収する土地は約7,000坪である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 11月6日 政治・経済 金沢市の電話が午前0時を期しハンドル式から一斉に共電式に切り替えられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 11月7日 政治・経済 知事横山助成が広島県知事に転じ、後任に茨城県知事中山佐之助が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 11月8日 政治・経済 市はこんど電気局市債の借替えをした。この借替えによる利ザヤは5厘で年額4万5,000円、昭和25年度までには総額100万円が浮く勘定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 11月21日 政治・経済 明春着工の金沢鉄道工場の移転に伴い、金沢市の市内引留め運動と松任町の誘致運動がせり合っていたが、鉄道省では松任町に移転を決定した。金沢市では6日の市協議会の決定により市会代表が上京し、最後の引留め運動をしたところであった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 12月24日 政治・経済 (9月執行の石川郡の県会議員=定数4人=選挙に行政裁判所で無効の判決が下された。この行政訴訟は投票時間の訂正をめぐり、選挙無効を主張する郡内の有権者から県参事会を相手取り提起されていたもの。再選挙は3年3月11日執行。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 12月27日 政治・経済 白鳥堀の遊歩道路化実現の第一段階として、陸軍側が白鳥堀一帯の土地の管理権を内務省に移すことを承諾するむね第9師団経理部から市へ通報があった。市は今後、直接内務省と交渉し計画実現に努力する。市はかねて白鳥堀の無償払下げを陸軍、大蔵両省と交渉中だったが、大蔵省は無償に反対していたのに対し、陸軍側は好意的に対処して了解を与えていたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 12月27日 政治・経済 市の水道敷設事業は2月に市会で成立以来、水源問題で犀川、浅野川両用水側との交渉が難航していたが、ようやく用水側との妥協が成立したので、中山知事は本日、認可申請書を市側の一件書類とともに内務省に申達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 1月 社会・文化 前年末における金沢市内の交通用車両の数(電車を除く)は乗用自動車53、貨物自動車41、オートバイ86、人力車283、自転車7,708である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月7日 社会・文化 大正天皇の大喪。金沢市では午後10時40分から、降る雪の中を兼六園長谷川邸跡の特設遥拝場で、市長以下市関係者と一般市民が遥拝式をおこなった。翌8日も午前6時から午後4時まで同所で市民多数の遥拝を受付けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月7日 社会・文化 昨年11月から改築中の並木町尾山座が大雪のため倒壊、大工人夫等3人が死亡、6人が重軽傷を負った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月10日 社会・文化 大雪のため市内各所で家屋倒壊続出、全市小学校は臨時休校、また市内電車、北陸線列車とも数日前から不通。米(上等41銭)野菜(大根一本10銭、ネギ1束4銭5厘)はじめ市中物価も値上りしている。金沢電気軌道会社の寺津発電所も本日倒壊、死傷3人を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月11日 社会・文化 市は市内の除雪作業に全市消防夫を出動させた。また軍隊も出動、全市一斉の除雪作業がおこなわれた。11日現在で金沢今冬の総降雪量は1丈9尺1寸に達し、大正7年、明治26年の両大雪記録を破り、金沢測候所開設以来の積雪量となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月12日 社会・文化 市は降雪注意書3万5,000枚を全市各戸に配付した。市はこの中で当分の間、毎日午後3時から翌日午前10時まで(平常は午後5時から午前7時まで)電灯用電力の送電をすると発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月25日 社会・文化 大雪で不通の北陸線が市振、直江津間の開通を最後に16日ぶりで全通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 2月26日 社会・文化 犀川沿岸の農民約700人が県庁と市役所に押しかけ白根知事、相良市長に金沢市水道の犀川から引水反対を陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 3月7日 社会・文化 金沢出身の北条時敬は蔵書1万冊を日本青年館、広島高師、石川県立図書館、四高図書館等に分割寄贈した。うち県内の両図書館へは2,000冊。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 3月7日 社会・文化 奥丹後地方に大震災(死者2,702人)。金沢地方では午後6時30分ごろ水平動が15分間続き、余震が3回あった。近来珍しい強震に市民は屋外に避難したが市内外に被害はなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 3月13日 社会・文化 石川県の編さんになる石川県史の第1編が刊行された。(日置謙の執筆で昭和8年3月30日刊行の第5編をもって完結した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 3月25日 社会・文化 元市会議長林直死去。68歳。加能汽船会社を設立したほか、県市会議員として活躍した。市会には明治34年初当選し、40年から大正10年まで3期間議長を勤めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 3月 社会・文化 金沢医科大学から第1回卒業生(医学士)17人が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 4月6日 社会・文化 春いわし豊漁、金沢市内の小売値は12匹10銭。  金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 4月7日 社会・文化 県は県下の老樹名木保護施設費(本年度分)として、金沢市上中島の黒松と福留町の黄孫樹に10円ずつ交付することにした。(県下全部で9ヵ所) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 4月14日 社会・文化 市は犀川と浅野川に初めて稚アユを放流した。琵琶湖から大聖寺まで汽車、大聖寺からトラックで金沢へ運び、犀川は大桑橋と上菊橋の2ヵ所で2万匹、浅野川は鈴見橋上流で5,000匹放流した。総経費は県費補助を含めて700円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 4月21日 社会・文化 午前3時半ごろ横安江町の雑貨商から出火、秒速15メートルの強風にたちまち燃えひろがり全焼733戸、焼失面積5万8,000坪、損害332万円という宝暦以来の大火となった。鎮火6時40分。町別の焼失戸数は、彦三1番丁109戸、同2番丁71戸、同3番丁23戸、同4番丁34戸、同5番丁174戸、同6番丁97戸、同7番丁76戸、同8番丁35戸、岩根町9戸、横安江町83戸、裏安江町9戸、東馬場13戸。おもな焼失建物は金沢商業学校、金城機業、赤座織物、小林撚糸、渡辺紙器印刷、中村漁網製造、上野製箔、谷口製材の各会社または工場、金城、上田両病院、旧野口邸等。(彦三大火) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 4月22日 社会・文化 相良市長は知事と協議のうえ、彦三大火の焼失地区の区画整理断行を決定、直ちに係員を上京させた。道路網は武蔵ヶ辻から浅野川に至る12間道路の新設と従来の各通りの拡張が中心となるものである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 4月22日 社会・文化 彦三の大火に皇室から救じゅつ金2,000円を下賜された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 5月8日 社会・文化 横山家では大手町の横山鉱業部事務所を福井市松宮孫右衛門に売却したので、事務所構内の横山隆平と横山隆興の両銅像を、菩提寺の八坂松山寺境内に移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 5月9日 社会・文化 (石川郡吉野谷村字市原に大火、全焼28むね、土蔵半焼15むね。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 5月19日 社会・文化 市の施寮病院「金沢市民病院」の第1期工事が野田寺町1丁目旧横山別邸跡で着工された。敷地568坪、建坪291坪、収容人員60人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 5月27日 社会・文化 加能合同銀行頭取米谷半平死去。77歳。安宅町出身、明治32年貴族院多額納税議員に当選。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 5月31日 社会・文化 午前9時50分ごろ金沢医科大学細菌学教室付属動物室から出火、同室(40坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 5月31日 社会・文化 改築中の並木町尾山倶楽部(旧尾山座)が落成、開場式がおこなわれた。(1日から実川延若一座により披露興行) 0
    昭和二年(1927) 6月2日 社会・文化 午前2時40分ごろ博労町から出火、4戸を全焼、7戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 6月13日 社会・文化 午前3時40分ごろ穴水町1番丁から出火、3戸(2むね)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 6月16日 社会・文化 女子師範付属小学校と幼稚園に5月下旬からショウコウ熱に似た熱病が流行、6月10日から1週間休校までしたが、金沢医大小児科泉仙助博士は熱病の病源と見られる新病菌を発見、目下培養中である。「2週間後には判明するであろうがおそらく学界の新発見となろう」と新聞は報じている。(泉熱の発見) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 7月1日 社会・文化 下新町福助座の改築工事が完成、大阪青年歌舞伎で舞台開きをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 7月8日 社会・文化 松任と金石が誘致運動をしていた石川県初めての水泳プール(50メートル)は松任町に設置と決定した。県体育協会から松任町への建設補助は本年度2,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 7月17日 社会・文化 県警察部長本間太郎茨木町官舎で死去。41歳。亡父六郎の四高教授時代、金沢市塩川町に生れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 7月 社会・文化 東京、大阪等ではやっている家政婦会が金沢でもはじめて、当局の認可を得て開業した(下柿木畠)。日給は最低60銭最高2円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 8月1日 社会・文化 豪雨のため鞍月、辰巳両用水はじめ各所の下水こうがはんらんして市内で280余戸の床上、床下浸水家屋を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 8月12日 社会・文化 金沢市内16の各種婦人団体が集って金沢婦人連合会が結成された。「夫人の知徳を進め文化生活の促進、社会の改善進歩を期する」のが目的。常務理事は瀬尾えい子、駒井依子、赤倉外世喜、江戸さい子、中村直子、岸薫子。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 9月10日 社会・文化 野町1丁目29番地の家屋横の空地に、機械をすえつけ自動車に揮発油を補給する営業(ガソリンスタンドのこと)を県へ出願したものがいるが、これに対し付近住民十数人が知事に、この営業を許可しないよう陳情書を提出した。理由は、この施設ができると付近に自動車が多数停留するので、付近住民が迷惑するというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月8日 社会・文化 横安江町の新天地に寄席稲穂座が開場した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月10日 社会・文化 小立野上弓ノ町に新築した県立盲聾啞学校の落成式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月10日 社会・文化 大衆免中通に市立浅野川託児所が開設された。収容定員50人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月12日 社会・文化 広坂警察署長村井利吉が部下巡査から選挙違反(署員に対する特定候補への投票勧誘)で告発された事件のため休職となり、同時に起訴、収監された。(3年8月10日名古屋控訴院で懲役3月、1年間執行猶予の判決があった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月14日 社会・文化 午後4時40分ごろ千日町の花火製造工場が爆発、工場主が死亡した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月23日 社会・文化 労働農民党石川県支部主催の広坂署事件糾弾市民大会が市公会堂で開かれ、知事と警察部長の免職要求を決議、内相に発送した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月25日 社会・文化 民政党石川県支部主催の広坂署事件に関する知事糾弾県民大会が帝国座で開催され、知事の処決を促す決議をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月26日 社会・文化 卯辰山山ろくに動物園を経営する元市会議員田口秀弘が、相良市長に「動物園は毎年約1,000円の赤字で個人経営が困難なので、動物を寄贈するから市の経営に移してほしい」との請願書を出した。同動物園は大正11年7月松任町某から田口が買収し、以来市からも奨励金を受けて経営してきたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 10月27日 社会・文化 西町山碕病院長山碕幹死去。66歳。愛知県生まれ、明治29年来沢して四高教授となり、のち金沢病院長を多年勤めて大正6年退官、開業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 11月8日 社会・文化 金沢市は市内各戸のゴミ集め回数を、特殊の場所を除いて全市均等に3日に1回ずつとすることに改めた。従来は全市各町を5等級にわけ、毎日回るところから、1週に1回しか集めないところまでに区分していた。市所有のゴミ集め車は現在自動車2台、荷車50台。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 11月9日 社会・文化 人気絶頂のテナー、藤原義江の独唱会が市公会堂で満員の聴衆を集めて開かれた。入場料は1円(学生80銭)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 11月10日 社会・文化 金沢東別院本堂が落成、大谷光暢法主を迎えて本日から3日間、盛大な遷仏式がおこなわれた。落成の本堂は大正5年起工したが一時工事が中絶していたもので、25間四面、600畳敷の広さ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二年(1927) 12月26日 社会・文化 明春4月開校する金沢市立工業学校の設立認可指令が文部省から出た。仮校舎は新竪町小学校の不要校舎(49坪)を小将町小学校庭に移転して使用する。学科は土木建築科と機械電気科とし、5年後の生徒定員は全学年10学級400人と専修科2学級60人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 1月1日 政治・経済 商工会議所法の施行に伴い、金沢商業会議所は金沢商工会議所と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 1月5日 政治・経済 市内長土塀から専売局前を経て西町と大手町を通り、卯辰山ろくの天神橋に至るいわゆる市の縦貫道路のうち、玄蕃町2番丁16番地から13番地にわたる間の幅員拡張工事が完成し、本日開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 2月22日 政治・経済 普通初の衆議院議員総選挙が20日おこなわれた。金沢市の有権者数27,398人、棄権22%。〔第一区〕当選22,809票 中橋徳五郎(政友元)同21,163票 永井柳太郎(民政前) 同8,002票 箸本太吉(政友新) 次点6,595票 中谷宇平(民政元)同 竹田儀一(民政新)同 寺田正男(実同新) [第2区]当選15,749票 桜井兵五郎(民政元)同14,665票 佐藤実(民政前)同14,143票 青山憲三(政友前)次点8,845票 米原於菟男(政友前)同 益谷秀次(政友元) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 2月29日 政治・経済 金沢市は財源難のため、昭和3年度から家屋税付加税の大幅増税(本税1円につき60銭増徴して2円62銭8厘にする)を実施することにしたところ、市会および市民側から強い反対を受けていたが、市会は家屋税増徴を本税1円につき22銭8厘軽減して2円40銭とするよう修正した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 3月1日 政治・経済 今秋行なわれる天皇即位式の大嘗祭庭積机代物として大礼使調度部長から「石川県特産の蓮根5本、くわい50個、干鯖50枚を10月末までに納入するよう」知事へ下命があった。蓮根は河北郡小坂村に下命されるものと村民は喜んでいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 3月15日 政治・経済 労働農民党石川県支部執行委員長ほか党員の検挙と、支部の家宅捜索がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 3月24日 政治・経済 金沢市内家屋の板屋根を不燃物(カワラもしくはトタン)にふき替える猶予期限は本年末であるが、板ぶき材料の供給者である金石、大野両町約300人の枇板業者は両町有力者を代表として、さらに実地延期を市長、市会議長、商工会議所副会頭に陳情した。なお市内で石ころの板屋根家屋はまだ全家屋の5割弱1万1,651むねある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 3月31日 政治・経済 遅廷を重ねていた金沢市の水道敷設が主務省からようやく認可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月1日 政治・経済 市は水道敷設が認可され着工期にはいったので水道事務所の処務規程を改正し、従来の事務、工務両部を廃して新たに所長、技師長の下に庶務、会計、工務、第一工事、第二工事の5係を置いた。所長兼技師長は石井技師。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月4日 政治・経済 香林坊道路拡張のため、市は加州銀行の12坪3合余を6,874円(建築移転補償費とも)で買収することに契約成立した。一坪当り550余円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月10日 政治・経済 労働農民党が内務大臣から解散を命ぜられ、同党金沢支部も解散された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月19日 政治・経済 山東出兵が閣議決定し、熊本第6師団に動員下令とともに、天津駐とん中の金沢第9師団の3個中隊にも出動命令が下った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月20日 政治・経済 旧労働農民党金沢支部員が長町で新党組織準備会を開催中、広坂署員が踏みこんで解散を命じ13人を検束した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月24日 政治・経済 金沢市は兼六園前から県庁、四高裏手を通り尾山神社裏宮守堀を経て西町憲兵隊本部前に至る、いわゆる旧城循環道路の開さくについて陸軍、内務両省の了解を得たので、正式移管手続きの内調査として市土木課の手で実地測量を開始した。(道路は幅員6間、長さ400間の計画) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 5月3日 政治・経済 (蔣介石北伐軍の済南占領で日支両軍が衝突した「済南事件」がおこり、交戦は5月中旬まで続いた。第9師団派遣の3個中隊からも死傷者が出た。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 5月27日 政治・経済 済南事件の第9師団派遣部隊戦没者の遺骨が金沢に到着した。(戦死者=歩35連隊2人、歩36連隊2人、病死者=歩19連隊1人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 5月29日 政治・経済 金沢市内家屋の板屋根を、本年末までに不燃物にふき替える問題を審議する県の屋上改葺委員会は、「資力乏しいものにはさらに10ヵ年の延期を認める」ことを決定した。延期希望者は9月末までに所轄警察署長の認可を受けることが必要。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 7月10日 政治・経済 金沢商工会議所は議員総会を開き、辰村会頭死去による後任会頭に市村孫太郎(副会頭)、副会頭に石黒伝六を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 7月25日 政治・経済 社会民衆党金沢支部の結党式が、本部から西尾末広代議士らを迎えて尾張町一九席で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月5日 政治・経済 市は上水道浄水場用地を犀川村字末地内に求めて交渉中であったが、ようやく地主側との買収交渉が妥結した。買収価格は田地が坪3円57銭、畑地と山林が坪1円87銭で面積は2万1,000余坪である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月1日 政治・経済 市の長田町塵芥焼却場が完成、本日から開場使用した。建坪700坪、総工費1万3,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月4日 政治・経済 金石町の町役場庁舎ならびに町公会堂の落成式が挙行された。総工費3万6,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月7日 政治・経済 金沢市都市計画事業の第一歩となる彦三大火焼跡復興道路開通式が挙行された。12間道路は彦三本通り、10間半道路は小橋通りと命令された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月11日 政治・経済 昨年10月北支に派遣され済南事件にも出動した第9師団の3個中隊は、9日神戸に帰還し、本日敦賀、鯖江、富山の原隊へ帰還した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月13日 政治・経済 野町広小路、白菊町間の新道路開通式が挙行された。幅4間、延長は拡築新設合せて130間で大正13年に起工したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 12月6日 政治・経済 北陸企業、北国、大野、共生の4銀行合併による新銀行「北陸企業銀行」(資本金700万円)の設立が大蔵省から認可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 12月8日 政治・経済 10月1日陪審法施行以来、北陸で最初の陪審裁判が7、8両日金沢地方裁判所で開かれた。事件は7月8日の味噌蔵町間ノ町の共謀放火容疑事件(2被告のうち1人は自供、1人は否認)で陪審員は12人。裁判長の「共謀なりや」の問書に対し陪審員は「然り」と答申した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 12月9日 政治・経済 さきに能登産業銀行が金沢市第二金庫(水道会計)に指定された問題にからむ疑獄事件発生、市議1人と能登産業銀行金沢支店長が金沢検事局から起訴された。また火葬場敷地買収(押野村太郎田)の不正容疑で市衛生課長事務取扱いほか2人が刑務所に収容された。(18日起訴された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 2月10日 社会・文化 午前3時半ごろ池田町3番丁の民家から出火、2戸(4世帯)を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 2月15日 社会・文化 長寛子死去。69歳。夫の男爵長成連に22歳で死別して以来仏門に入り、此花幼稚園を創設、また石川仏教婦人会長にもなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 2月20日 社会・文化 午前3時20分ごろ栄町の商店裏手から出火、6戸(4むね)を全焼、5戸(3むねを)半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 3月23日 社会・文化 午前0時半ごろ並木町静明寺前の商店から出火、備中町で全焼14むね(28世帯)半焼2むね(2世帯)、並木町で全焼7むね(11世帯)半焼1むね(2世帯)、合計全半焼24むねを出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 3月23日 社会・文化 4月開校の財団法人金沢中学校が文部省から設立を許可された。理事長河合常治(富山県人)校長直江俊三(小将町小学校前校長)新校舎敷地は石川郡三馬村の2,200坪、仮校舎は西町仏教青年会館。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 3月28日 社会・文化 本年初めから全国に流行中の天然痘が石川県にも侵入し、材木町3丁目で真性患者1人が発生した。市は一般市民に無料種痘をすることにした。(全国の患者数は13府県で283人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月1日 社会・文化 低所得階級を対象にした市立金沢市民病院が、野田寺町3丁目に開院した。総工費4万5,000余円、被扶助階級と月収25円未満の単身者等は診察費無料となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月1日 社会・文化 市は県の社会改良委員規程改正実施に伴い、校下方面委員事務所を新たに長土塀、瓢箪町両校下に設置することにした。市内で校下方面委員事務所がすでに設置されているのは野町、菊川町、石引町、此花町、材木町、馬場、森山町。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月3日 社会・文化 元金沢市助役堀俊明死去。70歳。盈進社の壮士出身、市会議員、実業界と波らんの生涯を送った。市助役は明治37年4月から大正2年7月までつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 4月19日 社会・文化 午前7時50分ごろ木ノ新保4番丁の製材所から出火、同町と此花町の工場3むね、住家10戸を全焼、住家7戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 5月1日 社会・文化 金沢市営住宅は最近不景気のため空家が続出するので弥生町、横山町、上鶴間町の各市営住宅の家賃を一斉に値下げした。値下げ額は28円のものは26円、24円のものは22円、16円70銭のものは15円50銭、15円70銭のものは14円50銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 5月15日 社会・文化 金沢市は近年、市祭について市民間に一部誤解もあるので6月14日の第6回市祭を前に、本日市広報で市民に訴えることばを発表した。すなわち「市祭は単に尾山神社だけの祭礼でもなく、市役所のお祭でもない。藩祖の恩恵を記念し、15万市民一致して全市の繁栄と発展を祈る祭札だから、全市にお祭気分をみなぎらせてほしい」というもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 5月16日 社会・文化 市は水道材料置場に郊外泉地内の5,700坪をきめ地主21人と借入れ契約をした。1坪年額40銭、4ヵ年契約。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 5月21日 社会・文化 懸賞募集中の金沢市吏員バッチの当選作品がきまった。円形の中に梅の花べんを5片描き、中央に5角形の「金」の文字を書いたもの。作者は石川県庁土木課太田謙二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 5月25日 社会・文化 金沢市立工業学校の開校式が小将町小学校内仮校舎でおこなわれた。初代校長は宮崎県立工業学校長から来任の中村速一。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 5月26日 社会・文化 中本多町の金城高等女学校の新築校舎落成式が挙行された。2階建、建坪200余坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 6月2日 社会・文化 千仙叟の墓所のある高道新町月心寺境内に、茶道愛好者の発起で茶室暁雲亭が建てられ、落成記念の茶会が催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 6月3日 社会・文化 関川輝幸(長町4番丁)蔵の古書数千点の売立会が開かれた。東京、京都、大阪の古書店も参会、盛会であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 6月6日 社会・文化 県土木課は初めての試みとして兼六園に河鹿を放流することにし、犀川から60匹を捕獲して園内の翠滝、千歳台の曲水および噴水の3ヵ所に放した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 6月9日 社会・文化 市祭(14日)のお祭気分盛りあげに努力している市は、各町総代を市役所に招致し、ことしから市祭には市内全戸にしめなわを張るよう要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 6月12日 社会・文化 第四高等学校文科3年生と2年生約340人は、北辰会応援団に不満を抱く生徒による新応援団結成問題のもつれから、長岡生徒監の辞職、生徒の処罰取消し、北辰会の自由獲得を要求して同盟休校にはいった。四高開校以来はじめての盟休である。盟休生の本部は野田寺町大円寺。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 6月18日 社会・文化 第四高等学校文科生の同盟休校は先輩と父兄等の調停により、盟休生徒から犠牲者を出さぬこと等の条件で解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 6月24日 社会・文化 永井柳太郎が北陸毎日新聞社長に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 6月29日 社会・文化 金沢市の小学校増築計画が市会で可決された。予算は3ヵ年分142万円、新築校舎のうち鉄筋コンクリート建築2校(高岡町校と三社方面の新築校)木造建築1校(十一屋町校)増築校は16校。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 7月1日 社会・文化 金沢商工会議所会頭辰村米吉死去。68歳。土木請負業を営み地方政界、実業界に活躍した。明治34年以来市議県議を各2期つとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 7月7日 社会・文化 金沢第一中学校の初代校長富田輝象の胸像が、卒業生の寄贈で同校玄関脇に建ち、除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 7月8日 社会・文化 午前1時ごろ味噌蔵町間ノ町の養鶏業者宅から出火、養鶏舎3むねを全焼、住家3むね(5世帯)を半焼、鷄200羽を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 7月20日 社会・文化 金沢市は80歳以上の高齢者のいる各戸に、梅花型に「寿」の字を書いた門標を配付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 7月20日 社会・文化 (富山高等学校長南日恒太郎が東岩瀬海岸で遊泳中、水死した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 8月18日 社会・文化 石川県初めての50メートルプールである松任町の町営松任プールの落成式が挙行され、引続き第1回全日本水泳競技大会が開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 8月20日 社会・文化 8月1日現在の調査による金沢市内の自動車数は乗用車115台(全県365台)、貸物自動車60台(全県199台)である。このほか無税の官庁用自動車が県6台、市3台、医大2台、裁判所、刑務所、専売局、高工各1台となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月2日 社会・文化 大典奉祝記念天理教北陸地方大会が、中山正善管長を迎えて兼六園長谷川邸跡で挙行された。参会者約7,000人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月4日 社会・文化 十間町紙商中島徳太郎は「大典奉祝の誠を致すため」相良市長に対し、閲覧室と講堂を兼ね備えた市立図書館建設のため8万円を寄付したいと寄付願を出した。(11日の市会で寄付採納) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月4日 社会・文化 市は中島徳太郎からの指定寄付8万円で大典記念事業として市立図書館を建設することを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月7日 社会・文化 長町7番丁黒本植(稼堂)は、市が建設する大礼記念金沢市立図書館に郷土史料などの蔵書3,785冊の寄贈を申出た。市立図書館への初めての図書寄贈である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月11日 社会・文化 市会は中島徳太郎の寄付金をもとに大礼記念金沢市立図書館を建設することを満場一致で可決した。議決に先だち市川潔議員が市民を代表し寄付者中島徳太郎に感謝の言葉を述べた。議決された図書館建設の財源は、指定寄付8万円のほか今上陛下恩賜金繰入金5,000円、昭和4年度市費繰入金5,000円計9万円。敷地は殿町の県有地370坪の払下げを受ける。本館と書庫は鉄筋コンクリート3階建とし、建築費予算は6万3,215円。郷土資料を中心に市民の親しみやすいものにする計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月12日 社会・文化 市は宮守堀の旧城循環道路と白鳥堀の遊歩道路の建設につき、陸軍当局との了解が成ったので、市長から知事あてに「宮守堀の2,497坪、白鳥堀の1,471坪計3,968坪を道路敷として陸軍省より内務省に移管されたい」旨正式に申請することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月18日 社会・文化 金沢放送局の設置計画が進み、放送所敷地(約3,000坪)は石川郡野々市町に決定、また演奏所と事務所は殿町の県有地200坪を坪55円で払下げを受け建設することになった。放送開始は明年6月ごろの予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月23日 社会・文化 午前1時半ごろ裏五十人町の材木商の大工小屋から出火、住宅1むね大工小屋など5むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 9月28日 社会・文化 陸軍大将大島久直京東で死去。81歳。子爵、秋田県人、日清戦争に歩兵7連隊長、日露戦争に第9師団長として郷土将兵を率いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 10月16日 社会・文化 市水道起工式が犀川村字末の浄水場敷地で各界代表ら280余人が参列して挙行された。一部通水開始は昭和5年4月の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月1日 社会・文化 金沢市は吏員徽章を制定し、本日の公報で佩用規程を公布した。徽章は七宝製直径13ミリ、輪郭18金、地色ブリュウ、文字は純白。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月3日 社会・文化 金沢医師会が大典記念事業として、北陸医学発祥地の大手町乃木会堂跡に建設した金沢市医師会堂の落成式が挙行された。敷地約250坪、2階建述べ127坪、工費2万6,481円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月3日 社会・文化 金沢の日蓮宗信徒有志により味噌蔵町片原に建設中の立正閣が完成、落成式があげられた。建坪64坪、木骨2階建の会館で工費2万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月4日 社会・文化 彦三大火で焼失後小立野に新築された県立金沢商業学校の落成式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月4日 社会・文化 県警察部高等課は内務省の方針にもとづき、金沢市内の旧労働農民党員5人を大典中(4日から25日ごろまで)広坂、玉川両署に禁足(留置)した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月9日 社会・文化 即位大典に際し石川県で次の3人に贈位があった。(正5位)大聖寺藩家老神谷内膳、(従5位)加賀の西洋天文暦学家遠藤是三(高璟)、富樫用水等治水功労者枝権兵衛。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月10日 社会・文化 天皇即位式。奉祝の金沢市会が開かれ、市内官庁学校は拝賀式を挙行した。田中首相が萬歳奉唱の午後3時、市役所のサイレン合図に金沢市民は萬歳を3唱した。市内商店街はまん幕、ちょうちんを掲げて休業、各戸も17日まで国旗を掲揚、ちょうちん行列、旗行列ほか催し物が連日にぎやかにおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月16日 社会・文化 石川県の地方賜饌は県庁広場で2,594人が招待されておこなわれた。また金沢市主催の市民奉祝会は兼六園長谷川邸跡広場で、一般市民約3,000人が参集して催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 11月28日 社会・文化 兼六園菊桜の天然記念物指定が、文部省の史跡名勝天然記念物保存調査会で決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 12月10日 社会・文化 約半年間もみ抜いた金沢市立工業学校の敷地は、市会で泉野町に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 12月21日 社会・文化 殿町に新築中の金沢逓信診療支所が完成、開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 12月22日 社会・文化 師範を除く金沢市内5男子中等学校は、明春4月から生徒対教師および生徒対生徒の礼は、現在の脱帽の頭礼を軍隊式挙手の礼に改めることを、校長の打合せ会できめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 12月27日 社会・文化 金沢の少壮弁護士8人により金沢自由法曹会が結成された。理事は重山徳好、豊島武夫。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三年(1928) 12月31日 社会・文化 午前7時50分ごろ広坂通(四高前)の書籍店から出火、2戸を全半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月4日 政治・経済 県は金沢市に対し、本日から約20日間の予定で事務監査を実施した。金沢市に対する事務監査は大正9年以来9年ぶりである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月5日 政治・経済 河北潟の名産公魚(あまさぎ)は乱獲のため近年次第に漁獲が減っているので、県は島根県宍道湖の公魚卵800万粒を購入してふ化放流することになり、同県へ発注した。(28日到着) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月6日 政治・経済 市第二金庫指定等にからまる疑獄事件の判決が金沢地方裁判所で下され、被告5人に最高懲役1年、最低罰金刑が言渡された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月14日 政治・経済 佐藤実代議士を金沢市長に推薦しようとして収賄事件を起した市議3人が、金沢検事局で取調べのうえ収容された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月16日 政治・経済 金沢市電気局はガス事業創業20周年記念として、本日からガス料金の値下げを実施した。値下げ率は1割1分5厘。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月17日 政治・経済 市会議員小坂政吉、諸橋伊右衛門、北村五三郎の3人が議員を辞任した。(佐藤実市長推薦にからむ収賄事件) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月20日 政治・経済 金沢市金箔工業会の会員約500人は工賃値上げ、合金統一を要求して味噌蔵町立正閣で金箔職工大会を開いたあと、市中を示威行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月22日 政治・経済 金沢市会は与党(民政党、青年党の自治会派)と野党(政友会、実業同志会、中立)の勢力伯仲し緊迫した情勢を続けていたが、本日ついに与野党は正面衝突し、議場内で双方院外団の乱闘騒ぎも起った。与党は野党退場後の議場で全議案を可決、また野党提出の市長不信任決議を1票差で否決した。野党連盟は与党の単独審議を「市制施行以来の暴挙」と声明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月24日 政治・経済 市会野党連盟主催の市政糾弾市民大会が市公会堂で開かれ、相良市長、坂野議長の辞職勧告などを決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 3月14日 政治・経済 4年間難航をかさねた泉火葬場の移転地は石川郡三馬村字西泉に決定、敷地買収が市会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 3月29日 政治・経済 金沢商工会議所一般議員28人の選挙がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 3月31日 政治・経済 相良市長は市吏員の人事刷新のため書記以下23人の退職を発令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月1日 政治・経済 石川県商品陳列所の図案部のうち工芸図案部が県工業試験場に移管された。(印刷広告図案部は従来通り商品陳列所に残る) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月8日 政治・経済 馬場小学校の復興建築費27万7,768円(うち起債22万5,000円)が市会で議決された。鉄筋コンクリート建て、2ヵ年継続事業。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月20日 政治・経済 県は並木町の市営浅野川公設市場に対し、護岸敷占用期限満了を機会に交通と風致保存の見地から、10月一杯で撤去方を市に通告した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 5月1日 政治・経済 金沢電気軌道会社(街鉄)は金沢市内バスの運行を本日付で相良市長へ承認方申請すると同時に、知事に対しても許可申請書を提出した。市内バス計画は電車の補助機関として比較的電車に不便な市内地区を運行しようというものである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 5月7日 政治・経済 鉄道省は金沢、森本駅間に中間駅の新設を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 5月10日 政治・経済 金沢商工会議所は議員総会を開き会頭に市村孫太郎、副会頭に石黒伝六を再選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 5月14日 政治・経済 昨年6月4日奉天で起った某重大事件(張作霖爆死事件)関係者の関東軍高級参謀歩兵大佐河本大作が第9師団司令部付に転補された。(河本は6月8日金沢に着任したが、7月1日停職処分に付され、続いて田中内閣は翌2日総辞職した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 5月15日 政治・経済 第9師団は野村の旧歩兵第35連隊兵営跡3万5,000坪を近距離講習場にすることになり、鉄条網や散兵ごう築造工事等を続けていたが、本日完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 6月7日 政治・経済 金石町観田次郎吉ほか827人より申請中の金石信用組合の設立が、知事から認可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 6月25日 政治・経済 市会の野党連盟が水道鉄管検査に疑惑ありとして、招集を請求した急施市会が開かれた。鉄管検査問題に関する野党側の意見書に対し、与党側は「当局は鉄管の検査、敷設について慎重細心の態度で当れ」との修正意見書を提出してこれを可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 7月5日 政治・経済 8年越しの難問題の金沢上水道水源と犀川かんがい用水補給問題は、中山知事が市と用水側の間を調停の結果、妥結して正式調印された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 7月5日 政治・経済 浜口内閣(内相安達謙蔵)の成立に伴い地方長官の大異動がおこなわれ、知事中山佐之助は休職、後任に元秋田県知事中野邦一が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 7月14日 政治・経済 浅野川電鉄の終点須崎から粟崎遊園および海水浴場ゆきの延長区間が開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 7月17日 政治・経済 新竪町1丁目から小立野新坂への貫通道路の開通式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 7月23日 政治・経済 内閣調査による昭和3年人口動態統計速報によると、死亡率では全国都市で金沢市が第1位、全国道府県で石川県が第一位とわかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 7月24日 政治・経済 市の「精神病者等監救護所」の建築敷地は卯辰山つづきの河北郡浅川村鈴見地内(966坪)にきまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 8月1日 政治・経済 市電気局は本日から電灯料値下げを実施した。内容は10燭光以上50燭光までを月5銭ずつ値下げする等である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 8月28日 政治・経済 市多年の懸案である仙人町の市営屠場の移転先は、石川郡押野村太郎田に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月2日 政治・経済 金沢箔同業組合は代議員会で、現在11ヵ所にわかれている合金所を1ヵ所に統一することに決定、多年の懸案であった金箔の合金統一問題も解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月12日 政治・経済 浜口内閣の緊縮政策に呼応し、公私経済緊縮石川県地方委員会(委員は県下各種団体代表、知名人ら77人)ができた。また県の指示で市町村実行員会が市町村ごとに設けられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月13日 政治・経済 中野知事は臨時県公報をもって県民一般に対し「公私経済を緊縮し金解禁の準備をせよ」との告論を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 10月10日 政治・経済 市は節約と事業繰延べ合せて34万5,972円の節減の実行予算を編成、県へ報告した。現計予算に対する節減率は一般会計が7.65%、特別会計が4.8%である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 10月22日 政治・経済 (政府は15日の閣議で年俸1,200円以上の官吏の減俸を決定したが、司法官を先頭とする猛反対にあい、つい撤回を声明した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 10月25日 政治・経済 大阪市西区立売堀北通2丁目鉄問屋石原善平が、県へ金沢市内の乗合自動車営業許可願を提出した。これで市内バスの出願は本年2月提出の金沢電気軌道会社の分と二つになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 11月2日 政治・経済 市会議員の日当制を歳費制にする条例が市会できまった。歳費は議長400円、副議長300円、議員250円。参事会員、学務委員を兼ねるものは別に年額50円を支給する内容。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 11月2日 政治・経済 本年度に新設が決定していた金沢、森本駅間の新駅設置は経費節約のため無期延期となった。 0
    昭和四年(1929) 11月10日 政治・経済 片倉製糸の系列に属する日東紡績は金沢市諸江町に分工場を新設することになり、工費40万円で着工した。5年3月第1期工事を終り5月から操業の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 11月10日 政治・経済 婦選獲得同盟金沢支部の発会式が金谷館で挙行された。参会者16人。米山久子が座長になり、幹事に芳賀富美、鈴木芳子、高田鈴子、駒井静子の4人が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 11月12日 政治・経済 日本放送協会の金沢放送局設置が逓信省から正式に許可された。呼出し符号JOJK、来春開局の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 11月15日 政治・経済 金沢商工会議所は議員総会を開き、市村会頭死去による後任会頭に中島徳太郎を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 11月27日 政治・経済 12月4日執行の普選第1回の金沢市会議員選挙の立候補届出が締切られた。定員36人に対する立候補者62人の党派別は民政党28(うち非公認4)政友会19(うち非公認1)青年党7、同志会1、社民党1、労農党1、中立5。また新前元の別では新39、前21、元2。有権者数は26,160人(全市1区)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 12月5日 政治・経済 普選初の金沢市会議員選挙は4日執行され、5日開票された。投票率88%。当選は民政党21人、政友会8人、青年党4人、中立3人。与野党別は市役所派26人、反市役所派10人。新前元の別は新17人、前17人、元2人。無産党候補は社民党の松岡松次郎が52位、労農党の寺西三郎が58位で共に落選、また民政党の古豪坂野権次郎、横井伊佐美も落選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 12月14日 政治・経済 市会は正副議長選挙をおこない、議長に沢野外茂次、副議長に吉田宗一を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 12月21日 政治・経済 各派有志議員提案の市勢振興調査会の設置が市会で満場一致可決された。市会議員のほか各界有力者を委員とし、党派を超越して市是確立のために根本的調査を行なおうとするものである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 1月7日 社会・文化 午前2時20分ごろ下松原町の撞球場から出火、8戸(9むね)を全焼、5戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 1月7日 社会・文化 午前7時35分ごろ粟崎遊園(経営者平沢嘉太郎)の余興場裏から出火し余興場、倉庫、旅館部、貸室23室計500坪と廊下を全焼した。本館は焼失を免れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 1月14日 社会・文化 午後2時20分ごろ片町の草花店から出火、同店を半焼、製菓場、そば屋のそれぞれ一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 1月22日 社会・文化 午前9時40分ごろ並木町静明寺前の八百物屋から出火、3戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 1月28日 社会・文化 (広海汽船会社社長広海二三郎大阪で死去。76歳。江沼郡瀬越村出身。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 2月25日 社会・文化 午前7時半ごろ馬場小学校屋内体操場から出火、全校舎(建坪754坪)を全焼、民家3戸も焼いた。損害約15万円。児童は27日から味噌蔵町、此花町、瓢箪町、森山町の4校にわけて分割授業をすることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 3月13日 社会・文化 (羽咋郡越路野村字千路で大火、198戸中127戸と隣接鹿島路村の2戸を焼失。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 3月16日 社会・文化 午前10時15分ごろ上石引町の薪炭商から出火、1戸を全焼、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月2日 社会・文化 兼六園内の成巽閣庭園(322坪)が文部省から史跡名勝天然記念物の名勝に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月5日 社会・文化 市立図書館建設工事は辰村米吉と5万4,250円で請負契約が成立した。9月末までに完成の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月7日 社会・文化 憲法学者上杉慎吉死去。52歳。東京帝大教授、法学博士。大聖寺の医師上杉寛の次男として金沢に生れ、金沢高等小学校を経て第四高等中学校に学んだ。憲法学に関する著書が多い。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月7日 社会・文化 藩祖前田利家の生誕地名古屋市南区荒子町の荒子城跡に「前田利家卿誕生之遺趾」ときざんだ碑が建てられ、除幕式がおこなわれた。前田利家卿発祥旧跡保存会が発起して昨年5月から工費7,000円で工事中であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月15日 社会・文化 午後11時ごろ馬場2番丁の麸製造工場から出火、4戸と工場1むねを全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月16日 社会・文化 (鳳至郡穴水町で大火、住宅の全焼146むね、半焼1むね、土蔵全焼34むね。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月16日 社会・文化 千田登文死去。83歳。歩兵第7連隊の最初の連隊旗手(明治8年)。越後戦争、西南の役、日清戦没等に従軍、陸軍歩兵少佐。西南の役で西郷隆盛の首級の発見者といわれる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月19日 社会・文化 午後1時半ごろ金石濤々園沖合に、石川県では非常に珍しい蜃気楼が現れたのを数人が目撃した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月23日 社会・文化 午後3時5分ごろ石川郡米丸村字増泉(西廓付近)から出火、1むね4戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月24日 社会・文化 午前2時ごろ殿町から出火、印刷工場など2戸(3むね)を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 4月27日 社会・文化 北条時敬死去。71歳。金沢市観音町の生れ、明治18年28歳の理学士として金沢専門学校の教師に就任、その後一高、山口高校の教授、校長を経て明治31年から35年まで四高校長に在任した。その間私立石川県教育会長となり、金沢能楽会創設者の1人ともなった。広島高師校長、東北帝大総長、学習院長を歴任して現に貴族院議員、宮中顧問官であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 5月5日 社会・文化 金沢で最初のメーデー示威運動が本日(第一日曜)おこなわれた。午後1時、会場の兼六園長谷川邸跡に金沢機械工組合、石川合同労働組合、金沢労働組合、金箔工業会、製材業従業員組合、全日本無産者芸術連盟、修養団等の約150人が組合旗をもって集合。正私服警官30数人の警戎のうちに宣言、決議、演説をおこない、広坂通、香林坊、武蔵ヶ辻、橋場町、車庫前、公園下を労働歌を歌って行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    #REF! #REF! #REF! #REF! #REF!
    昭和四年(1929) 5月5日 社会・文化 地方相撲道の奨励と相撲界の旧弊打破をめざして金沢相撲協会が設立され、尾山神社で発会式をあげた。会長広瀬嘉一。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 5月15日 社会・文化 「稿本金沢市史・風俗編第二」が市役所から刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 6月12日 社会・文化 市社会課が市内のあき家調査をした結果、家屋総数2万6,286軒に対しあき家は328軒(1.24%)と判明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 6月14日 社会・文化 彦三本通りと小橋通りの夜店が市長から許可された。許可期間は9月30日まで。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 6月25日 社会・文化 午後9時50分ごろ長町8番丁の機業場から出火、工場と住家2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 7月1日 社会・文化 高岡町に新築中の簡易保険健康相談所が完工、本日から移転開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 7月24日 社会・文化 玉川警察署長が収賄容疑で起訴予審に付され、刑務所に収容された(同日付で休職)。湯屋の営業許可規則改正にからむ収賄の容疑。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 8月15日 社会・文化 午後7時10分ごろ石川郡押野村字太郎田(西金沢駅前)加賀製紙株式会社から出火、工場など12むね(建坪691坪)を全焼、ワラ121万貫等も焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 8月27日 社会・文化 林屋製茶合名会社金沢支店の林屋亀次郎が武蔵ヶ辻の一角に、600坪の鉄筋5階建ビルを建築し東京三越百貨店の金沢支店開設を計画中。そのためすでに越中銀行支店の土地430坪を11万円で買収、さらに仁寿生命支店の所有地190坪の買収交渉を進めている、と新聞が報道した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 8月29日 社会・文化 彦三本通りの夏季露店は終了したが、彦三振興会では9月から毎月第1第3日曜と1、6の日に昼夜、百貸市場を開設することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 8月29日 社会・文化 不況で仕事不足に苦しむ市内の大工業組合が、市長に「市内学校の増改築木造工事は、市の直営工事として市内の大工を使用してほしい」との全組合員連署の嘆願書を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月2日 社会・文化 午前9時ごろ菊川町の民家から出火、1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月2日 社会・文化 電車と自動車に追われ収入減退の人力車夫の組合、石川県人力車組合では「県税雑種税の人力車税(年4円)をできる限り軽減してほしい」と知事に請願書を提出するとともに、組合代表が陳情した。金沢市内の人力車は大正初期800余台があったが現在は170台、県下全体では320余台になっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月4日 社会・文化 石川県教育会(会長横山隆俊)は8月3日の総会の決議にもとづき、知事に女子専門学校設立の建議書を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月6日 社会・文化 金沢建具業組合の竹村組合長ら役員10余人は、市の吉川助役以下関係課長に対し「不況と緊縮実施のため、市内建具職人312人のうち約5割7分が失業状態にある。市営建築工事は請負を全廃し、市直営として市内業者を使用するか、または請負の際に建具だけは組合へ別に請負わせてほしい」と陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月18日 社会・文化 市は不況と物価下落の情勢から、10月1日より市営貸付住宅214戸に対し家賃の一斉値下げを実施することにした。値下げ率は最高1割5分、最低2分4厘、平均1割6厘である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月20日 社会・文化 金沢市役所幹部の食堂会では政府の節約方針に基づき、1食13銭5厘の昼食を12銭に格下げした。また市役所全吏員の節約実行方法も食堂会できめられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月25日 社会・文化 鉄道省は夜行列車にマクラ付きの3等客車を連結することになり、北陸線でも4本の列車に、本日からマクラ付き座席の3等客車1~2両ずつを連結運転した。ひと晩の使用料30銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 9月30日 社会・文化 元金沢一中の名物教師安田太作死去。78歳。陸軍教導団出身で西南の役にも出征、74歳まで約30年、体操教師として「トリヤ先生」のあだ名で一中生徒に親しまれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 10月1日 社会・文化 公私経済緊縮県委員会の金沢市部幹事会が、市民の節約実行要目と運動方法をきめた。各町を運動組織の一単位とし、国民精神作興と消費節約の実行要目を印刷して各町代表を通じ全戸に配付する一方、7日から毎夜、小学校で文部省映画「国難打開」の映写と巡回講演会をおこなう。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 10月5日 社会・文化 金沢電気軌道会社(街鉄)は金沢、寺井間の乗合自動車営業を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 10月14日 社会・文化 金沢商工会議所会頭市村孫太郎死去。58歳。石川県酒造組合連合会長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 10月21日 社会・文化 前田侯爵家は市の要請により、近く開館の大礼記念金沢市立図書館の新刊図書購入費として5,000円を寄付した。また故市村孫太郎嗣子市村庄吉は1万円を寄付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 10月23日 社会・文化 公私経済緊縮石川県委員会の金沢市部幹事会がきめた緊縮節約運動に対し、市内五宝町町会では「国策の犠牲を無産大衆にのみ負わせるのは不合理だ」として節約拒否の決議をして、相良市長に申達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 10月23日 社会・文化 市参事会は金沢スキー協会に卯辰山スキー場建設のため、スキー場用地として3,013坪を、昭和14年3月末まで毎年冬季間貸付けることを可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 11月2日 社会・文化 林屋亀次郎が武蔵ヶ辻に新築計画中のデパートは、大林組と約40万円で工事請負契約が締結された。11月末着工、明年8月完成の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 11月10日 社会・文化 大橋上流の並木町を撤去した浅野川公設市場は静明寺前(天神橋上流)に移築開業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 12月1日 社会・文化 金沢市内1円均一のタクシーに対抗し、市内70銭均一タクシーの出願(出願者安江町武蔵タクシー)が認可され、本日から開業した。車体は従来の5人乗りフォードを4人乗りに改造したもの。(5年1月には金沢駅構内の3業者8台も70銭に値下げした) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 12月8日 社会・文化 上野射撃場内に、第9師団はじめ地方有志が協力して建設中の「明治天皇御野立所跡」の碑が完成、盛大な除幕式がおこなわれた。明治天皇が北陸巡幸の明治11年10月3日、この場所(上野練兵場)で軍隊の操練等をご覧になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四年(1929) 12月13日 社会・文化 元金沢市長山森隆死去。72歳。市会第2期から市議として市政に参与、また代議士にも当選した。市長として明治42年12月から大正8年5月まで9年5ヵ月在任、その間、街鉄会社の設立、百間堀埋立て等多くの事業を完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 1月4日 政治・経済 金沢市役所は最近戸籍謄抄本の請求が激増したので、従来の筆写の代りに本日からタイプライターを使用することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 1月10日 政治・経済 金沢市は旧城をめぐる白鳥堀と宮守堀の循環道路開さくについて陸軍、大蔵、内務各省の了解を得たので移管手続きを経て、まず裁判所裏白鳥堀を本年度内に雪解け次第着工することになった。尾山神社裏手の宮守堀は予算の関係上明5年度から3ヵ年継続で施工する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 1月11日 政治・経済 金輸出解禁。この日、日本銀行金沢支店で紙幣を金貨に兌換した人は93人、金額は3,700円であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 1月22日 政治・経済 日本銀行金沢支店長安倍四郎は本店調査局調査役に転じ、後任に松本支店長高橋臻が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 2月6日 政治・経済 20日執行の衆議院議員総選挙に、石川県第1区から在京の県出身作家徳田秋声(末雄)が社会民主党県支部の懇請に応じ、同党公認として立候補した。(9日に至り近親の反対のため立候補辞退届を提出) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 2月8日 政治・経済 白鳥堀遊歩道路の開さく工事は、市役所で入札の結果6,940円で竪町越田利右衛門に落札した。直ちに着工する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 2月22日 政治・経済 浜口内閣(民政党)のもとに20日おこなわれた衆議院議員総選挙の石川県開票結果は次の通り。〔第1区〕当選20,344票 武谷甚太郎(民政新) 同18,110票 中橋徳五郎(政友前) 同16,843票 永井柳太郎(民政前) 次点15,068票 箸本太吉(政友前) 〔第2区〕当選17,403票 戸部良裕(民政新) 同16,463票 桜井兵五郎(民政前) 同12,817票 青山憲三(政友前) 次点7.977票 佐藤実(政友前) 7,916票 益谷秀次(政友元) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 3月8日 政治・経済 園芸業の改善発展をはかることを目的とした金沢園芸協会が設立され、公会堂で会員約600人が出席して発会式をあげた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 3月15日 政治・経済 金沢市は市吏員任用規程をきめ、市広報で告示した。実施は4月1日。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 3月16日 政治・経済 社民党、労農党の各金沢支部、金沢機械工組合等の代表から成る金沢地方無産団体統一協議会が、戦線統一機関として金沢地方無産団体協議会を結成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 3月24日 政治・経済 林屋亀次郎が武蔵ヶ辻に建築中のビルディングに東京の三越が進出して金沢支店を設置するとの報に、金沢呉服商組合を中心として三越進出阻止運動が起こっているが、金沢実業連合会は商工会議所で幹事会を開き、三越進出食いとめの具体策を協議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 4月9日 政治・経済 金沢市の都市計画街路網を決定する都市計画石川地方委員会が県庁で開かれ、街路網43線の原案を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 4月24日 政治・経済 金沢一般労働組合の発会式が百姓町宝幢寺でおこなわれた。参加団体は箔工、自由労働、木材工、機械工等12団体である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月6日 政治・経済 大手町から裁判所裏を経て百間堀石川門下に通ずる白鳥堀遊歩道路が完成、近く開通することになったが、相良市長はこれを「白鳥路」と命名した。道路は幅4間、長さ130間で、市は公園と同じく車馬の通行を禁止する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月11日 政治・経済 白鳥路は本日から使用を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月16日 政治・経済 武谷甚太郎の衆議院議員当選に伴う金沢市選出県会議員補欠選挙が15日おこなわれ、坂野権次郎(民政)が当選した。次点塚本助次郎(政友)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月21日 政治・経済 金沢市役所に水道局が開設された。局長は吉川助役の兼任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月22日 政治・経済 市長相良歩が任期満了で退任した。大正11年5月から在職8年。(市会は8月9日慰労金3万5,000円を可決) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月31日 政治・経済 金石の金沢無線電信所は本月限りで廃止された。大正9年1月開所し第9師団の管理に属していたが、必要度の減少と経費節約から廃止となったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 6月1日 政治・経済 三社方面から錦華紡績工場裏手鉄道線路下を通り石川郡戸板村に至る新市道の開通祝賀式が、地元町村の主催でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 6月9日 政治・経済 市会は第8代市長に助役吉川一太郎(60歳)を満場一致で選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 6月11日 政治・経済 三越百貨店の金沢進出阻止を運動中の金沢呉服商組合等の代表者は、金沢商工会議所に阻止について援助を求めたが、会議所は議員協議会を開催して協議の結果、これを断った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 6月 政治・経済 押野村太郎田に移築工事中の金沢市屠場が完成、使用を開始した。用水下流の二塚村古保区民から屠殺血液の洗い汁放流反対の陳情があったので、市は新屠場に約30石入りのコンクリート製タンク2個を築造した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 7月7日 政治・経済 吉田銀行に良川銀行が合併し金沢商業銀行と改称する件が、大蔵省から認可された。石浦町の吉田銀行支店が新銀行の本店になる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 7月16日 政治・経済 市会は吉川市長が推薦した市会議員、立憲青年党総務市川潔の助役就任を満場一致で承認した。市川は市議を辞し、青年党を離籍した。市会の分野は民政党20、政友会7、青年党、中立各3となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 8月29日 政治・経済 市会入役に小竹芳朗が就任した。元長岡市助役、59歳、野々市町出身。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 8月29日 政治・経済 金沢市選出県会議員乾亮の辞任に伴う補欠選挙は石沢辰太郎(民政)の無投票当選となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 9月9日 政治・経済 市電気局が昭和2年から3ヵ年継続事業で手取川上流吉野谷に建設中の市営吉野谷発電所が完工、逓信省技師の完工検査がおこなわれた。総工費50万円、発電力1,000キロワット。この発電所の完成により、市は電力不足を補うため高岡電気会社から購入していた1,000キロワットのうち、300キロワット程度を解約する予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 9月15日 政治・経済 河北潟干拓事業が沿岸住民のため、はたして有利か否かを調査する河北潟調査委員会(会長知事)の第1回委員会が県庁で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 9月25日 政治・経済 金沢市勢振興調査会の委員30人と顧問6人が発表された。委員は市会議員12人、商工会議所議員7人、市民有力者11人。顧問は倉知誠夫、中川友次郎、堀内秀太郎、堀啓次郎、林安繁、野口遵。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月1日 政治・経済 第3回国勢調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は33,810世帯、人口157,311人(男78,145人、女79,166人)全国都市中第16位の人口であった。(6年6月30日内閣発表) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月3日 政治・経済 旧2連区川上方面と小立野方面との連絡道路「猿丸道路」の開通式が猿丸神社境内で挙行された。昭和2年6月着工、台所町から白山町を経て大学病院前に至るもので、長さ360間、幅4間。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月21日 政治・経済 河北潟調査委員会(会長知事)は満場一致で河北潟干拓事業の遂行を希望するとの決議をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月22日 政治・経済 金沢市勢振興調査会の第1回会議が市会議事堂で開催され、「大野築港および河北潟干拓事業の本市に及ぼす影響」「町界町名地番整理改正の可否」等7項目の調査案が市当局から提出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 11月3日 政治・経済 10月初旬から県土木課が工事中の横安江町の道路舗装が完成、完工祝賀会が催された。市内商店街で最初の舗装路である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月2日 政治・経済 街鉄市内電車の香林坊を広坂通から南町へ右折する連絡路線敷設工事が完成した。(これに伴い11日から電車の運転系統が変った) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月16日 政治・経済 金沢市の上水道が正式に通水を開始した。通水戸数は200余戸(水道取付け申込者は1,300余戸)。昭和3年3月31日工事認可以来2年9ヵ月目である。通水式は出羽町練兵場の式場で、飯尾、相良両元市長はじめ関係者600余人を招待、盛大に挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月22日 政治・経済 第9師団長永井来が待命になり、後任に支那駐屯軍司令官植田謙吉中将が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月23日 政治・経済 金沢市勢振興調査会の第3回会議が開かれ、金沢港湾築設に関する調査費を市予算に計上するよう市に要望することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月24日 政治・経済 加州銀行と十二銀行から破産申請されていた横山一門の横山鉱業部は、金沢区裁判所で破産決定の宣告を下された。(鉱業部と横山家は破産決定を不服として29日抗告) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月27日 政治・経済 金沢市の南端国道野町5丁目、有松間の道路拡築が、内務省の失業救済事業として明6年度に実施されることにきまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月 政治・経済 鉄道省金沢運輸事務所は金沢発展策としての金沢港湾の必要性につき独自の見地から調査中であるが、同事務所長潮田耕は論文「金沢港湾築設の急務」を20回に渡り北国新聞に寄稿するとともに、有力者に印刷配付し、各方面の注目をひいた。(潮田は3年10ヵ月在任して、6年11月名古屋運輸事務所長に転じた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 1月10日 社会・文化 午前11時15分ごろ石浦町の仙宝閣から出火、3階だけ焼いて鎮火したが場所がら混雑した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 1月22日 社会・文化 (羽咋郡邑知潟一帯に最近、ツルに似た赤色の鳥の一群が生息しているとの報告があったので、農林省の葛精一調査主任と県保安課岡部技手が現地調査の結果、世界でも珍しいトキ(朱鷲)と判明した。岡部は「邑知潟の上空を5,6羽の小群をなして飛んでいた」と語った。近く、鳥類学の権威内田清之助博士が天然記念物に指定のため調査に来県する。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 1月25日 社会・文化 殿町に建築された大礼記念金沢市立図書館の落成式が、各界代表約200人出席して3階ホールで挙行された。敷地369坪、建坪110坪、鉄筋3階建、収容人員は児童閲覧室48人、特別閲覧室8人、婦人閲覧室16人、普通閲覧室60人、新聞閲覧室26人、講堂(3階)264人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 1月29日 社会・文化 市会議員小坂政吉死去。45歳。民政党所属、大正12年12月から市議を3期つとめ現在市参事会員であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 1月 社会・文化 卯辰山ふた割れ東方に約3000坪の卯辰山スキー場が開場した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 2月8日 社会・文化 金沢市立城南図書館は蔵書を市立図書館に全部移し3月限り廃止することに決定した。城南図書館は旧野村を市に編入の際、村営のものを市が継承し十一屋小学校に付設経営しているもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 2月8日 社会・文化 1月初めから小立野台を中心に全市にチフスが流行、患者は計120人を越えたが、市の防疫対策が奏功し、ようやく終息に近づいた。伝染系統は初期の患者が辰巳用水上流に汚物を投じたのが因とみられる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 3月6日 社会・文化 (富山県庁全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 3月8日 社会・文化 郷土史家和田文次郎(尚軒)死去。66歳。明治大正昭和を通じ、郷土史の研究、著作に30数年従事し、先人未踏の部面を発掘展開、現に金沢市史編さん中であった。葬儀は加越能史談会葬で執行。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 3月19日 社会・文化 午後3時20分ごろ塩屋町の機業場から出火、塩屋町の大半を焼き、岩根町、彦三5番丁、五宝町へも延焼し、全焼52戸(45むね)半焼27戸(23むね)を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 3月27日 社会・文化 金沢市の隣接村から市内小学校への越境通学児童整理問題は、市が石川郡崎浦、米丸、戸坂の3村5字を通学委託区域として認め、徴収する委託料は児童1人年額17円とすることで解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 3月28日 社会・文化 (午前3時半ごろ能美郡小松町中町から出火、中町、京町、材木町、細工町、松任町、新町、殿町、泥町の524戸を全焼した。焼失工場20、寺院6。焼失面積は小松町の約4分の1。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 4月1日 社会・文化 国鉄主要駅の入場券が5銭から10銭に値上げされた。石川県では金沢駅だけ値上げ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 4月1日 社会・文化 (石川県理髪営業取締規則が施行され、理髪業者は試験制になった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 4月6日 社会・文化 全国で第1回消防デーが実施されたが、近年火災の多い石川県では中野知事が談話を発表し、とくに金沢市では盛大な防火宣伝の催しがおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 4月15日 社会・文化 金沢放送局(3キロ)の開局式が西町公会堂で挙行され、殿町の放送局からJOJKの本放送が開始された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 4月27日 社会・文化 大乗寺山上に建設された蓮如上人銅像の除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 4月29日 社会・文化 精神病と肺結核で東京市外巣鴨町庚申塚保養院に入院中の金沢出身作家島田清次郎死去。33歳。金沢から上京した実母みよ子が30日、遺骨を抱いて帰沢した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 4月29日 社会・文化 金沢市初代の助役大森孝次郎死去。86歳。明治22年6月から4年間初代の助役を勤め、のち金沢市実業界で活躍した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月1日 社会・文化 金沢における第2回メーデーは約500人が参加しておこなわれ、兼六園から市内を示威行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月11日 社会・文化 金沢放送局(JK)は四高グラウンドでおこなわれた四高対明治大学野球試合の実況を、金沢ではじめての野外中継ラジオ放送した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月15日 社会・文化 午後2時10分ごろ大衆免中通から出火、2戸を全焼し、土蔵等3むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月17日 社会・文化 加越能維新勤王家表彰会(委員長木越安綱男爵)が建設する加越能維新勤皇記念標の起工式が、兼六園長谷川邸跡東北隅の建設敷地で約50人が参列しておこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月17日 社会・文化 午後11時20分ごろ河北郡川北村字木越から出火、6戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月24日 社会・文化 (鹿島群中島村代本区で大火、全半焼73戸。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 5月27日 社会・文化 兼六園内金沢神社境内に建設された故北条時敬の頌徳碑の除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 6月1日 社会・文化 書店主宇都宮源平死去。71歳。小松から金沢市片町に進出し、近代的書籍店を経営して成功、地方文化に寄与した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 7月2日 社会・文化 長町川岸中村ガラス工場の職工(22人)は賃金引下げに反対し、ストライキにはいった。工場主は首謀者7人を解雇、職工側は労農党支部、金沢一般労働組合の支援を得て持久戦にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 7月10日 社会・文化 大礼記念金沢市立図書館の開館式が挙行された。式後記念講演会と珍書展覧会等が催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 7月11日 社会・文化 錦華紡績は糸価暴落による紡績業不振のため、8月から社員、工手2,000人に対し、社員は月給100円以下1割、100円以上2割、200円以上2割5分、工手は8分の減給を発表した。従業員に対し、外部から働きかけが行なわれたが、動揺はなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 7月17日 社会・文化 石川県教育会が仙石町に新築した教育会館の落成式がおこなわれた。総工費4万3,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 7月25日 社会・文化 午後11時15分ごろ高岡町赤座絹織物工場から出火、工場、寄宿舎各1むねと隣接住家3戸(2むね)を全焼し、4戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 7月28日 社会・文化 四高野球部は26、27両日甲子園球場で挙行された帝大野球連盟主催第7回全国高等専門学校優勝野球大会で長崎高商、横浜高工を破って初優勝し、本夜帰校した。金沢駅から自動車パレードして学校にはいったが、沿道には1万人以上の市民が歓呼して迎え、広坂通にはちょうちん行列がうずまいた。(30日市公会堂で官民有志の優勝祝賀会が開かれた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 8月1日 社会・文化 金沢市乳幼児健康相談所が浅野川、犀川両託児所に併設、開所した(専属の保健医1人、保健婦4人)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 8月12日 社会・文化 午前2時5分ごろ馬場1番丁から出火、8戸(5むね)を全焼、2戸(1むね)を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 9月1日 社会・文化 金沢市立工業学校は小将町の仮校舎から泉野の新校舎に移転、授業を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 9月8日 社会・文化 午前1時15分ごろ新竪町3丁目の医師宅から出火、3戸(2むね)を全焼、4戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 9月11日 社会・文化 米欧亜3大陸1万8,000キロの大飛行に成功し、郷土を訪問する東善作(羽咋郡一ノ宮村出身)は午前11時すぎ大阪から野村練兵場に着陸、市民の歓迎を受けた。午後は県会議事堂における官民合同歓迎会に臨み、材木町小学校で講演した。(12日一ノ宮へ帰郷、18日大阪へ飛び帰った) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 9月17日 社会・文化 市産業課が市勢振興調査会の資料として市内の恩給生活者、小金貸、めかけ等で全然遊んで暮らしている無職者の調査をしたところ、全戸数の1割9分9厘に達し、この数字は全国の類似都市10士の調査と比較して金沢が最高とわかった。なお、市内の恩給ならびに扶助料受給者は2,130人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 9月20日 社会・文化 市立浅野川会館の落成式がおこなわれた。公共の会合等に供用される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月1日 社会・文化 金沢市飲食店組合は本日から、うどん、そばを1銭値下げして1杯5銭にした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月7日 社会・文化 北陸4県神職会が4県神職養成所を尾山神社付属建物に開設、その開所式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月11日 社会・文化 金沢畜産組合幹部、市会議員等が発起の公認金沢競馬場の敷地は、米丸村字御供田と増泉糸田の境界約3万坪に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月15日 社会・文化 金沢スキー協会が昨年開設した卯辰山スキー場(3,000坪)が、工兵隊の手で8,000坪に拡張された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月17日 社会・文化 午前6時32分すぎ石川、福井県境を中心に激震があり、金沢市内は時計の振子がとまり、たなの上の物が落ち、市民はみな戸外に飛び出した。能美、江沼両郡では道路のキ裂、家屋の倒壊など相当な被害があった。震源地は大聖寺、三国沖合。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月25日 社会・文化 (さきに羽咋郡越路野村眉丈山に飛来した珍鳥トキが、9月にまた6、7羽飛来したのが確認されたので、農林省は県の申請により付近一帯を向う10年間禁猟区に指定した。なお眉丈山にトキが飛来したのは60余年ぶりといわれる。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月28日 社会・文化 大豊作と不景気が原因で米価は1升20銭以下に暴落しているが、ついに石川郡安原村の農家が、市内白銀町の街灯で「1升17銭5厘」の札を掲げて投げ売りした。しかし売れ行きはよくなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 10月31日 社会・文化 金沢放送局の聴取区域(北陸3県)の聴取者数が1万人に達した。金沢市の聴取者数は全世帯の9.3%である。(聴取料は月額1円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 11月15日 社会・文化 武蔵ヶ辻の金沢ビルディングに三越金沢支店が開店した。市民多数が押しかけ満員札止めをくり返した。(支店の店員300人のうち270人は金沢で採用) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 11月22日 社会・文化 金沢市内から人ぷん尿をくみ取る河北郡小坂、浅川、川北、森本、三谷、大場、八田、花園各村の村長は会合協議の結果、農家収入が激減しているので本年から、くみ取り謝礼米を従来の半分に減らすことを申合せた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月5日 社会・文化 石川県初めての理髪業者の免許試験が兼六会館でおこなわれた。受験者は男122人、女71人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月13日 社会・文化 西町尾崎神社が文部省国宝保存会総会で国宝に指定された。指定された建物は尾崎神社本殿、中門および透壁、拝殿および幣殿である。(正式告示は6年1月19日) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月14日 社会・文化 加越能維新勤王家表彰会が主唱し兼六園長谷川邸跡に建てた「加越能維新勤皇記念標」が完成、除幕式が挙行された。銅標に刻名表彰された勤皇家は33人、台上の前田慶寧銅像の制作者は吉田三郎。(この記念標は昭和19年の金属回収で銅像銅板とも献納され、台石も撤去された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月17日 社会・文化 金沢市はし尿くみ取りの市営について準備調査を開始した。内務省令汚物掃除法施行細則の改正により明年度から市営で実施しなければならなくなったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和五年(1930) 12月26日 社会・文化 県保安課は麻雀(マージャン)の営業を許可営業とすることになった。金沢市内には現在、麻雀の教授所または会員組織の名目で実質的に営業しているものが50ヵ所以上に達している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 1月18日 政治・経済 市は財源難打開の方策として戸数割賦課制度を採用する方針をきめた。相当資産をもちながら借家しているため家屋税を免れ、所得税付加税もきわめて少額に過ぎない市民も多く、負担の均衡をはかる要があるという理由。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 1月20日 政治・経済 知事中野邦一が岡山県知事に転じ、後任に滋賀県知事田寺俊信が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 1月23日 政治・経済 市勢振興調査会が提唱した明年度に金沢博覧会開催の運動は、各方面で賛成がふえているが、市内19商工団体の代表は本日吉川市長に会見、博覧会開催の請願をした。また各団体は博覧会期成同盟会を結成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 1月24日 政治・経済 金沢電気軌道株式会社(街鉄)は臨時株主総会で、新社長に常務取締役横山一平を選任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 2月2日 政治・経済 日本銀行金沢支店長高橋臻は本店特別融通整理部主事に転じ、後任に営業局調査役貞弘重進が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 2月7日 政治・経済 金沢博覧会の明春開催が、本問題についての3回目の市会協議会で決定した。開催費の市費支出は8万円、協賛会寄付金は10万円の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 2月21日 政治・経済 市会は明年の博覧会を機に金沢駅の改築をめざして「金沢駅改築促進意見書」を各派共同で提案し、満場一致可決した。(3月3日吉川市長、沢野議長が上京して鉄道大臣に意見書を提出した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 2月28日 政治・経済 特別市税戸数割の新設が予算市会で可決された。審議中の議場へ傍聴席から戸数割反対のビラ(金沢借家人同盟の名義)がまかれ大騒ぎになった。議場へのビラまきは金沢市会最初の出来事である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 2月28日 政治・経済 吉川市長ら市3役は市会の承認を得て、明年度から経費節減の意味で自発的に減俸することにした。減俸額は市長年額1,000円(現在6,500円) 助役500円(現在3,500円) 収入役200円(現在2,200円)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 3月8日 政治・経済 金沢市の発展のために大野築港の実現をめざす大野築港期成同盟会が地元大野町で結成され、発会式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 3月9日 政治・経済 金沢競馬土地株式会社の創立総会が開かれ、社長に沢野外茂次が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 3月24日 政治・経済 石川郡大野町会は金沢港湾の築港調査費1,000円を可決した。金沢市も1,000円の支出を決定しているので、両市町で近く調査開始の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 4月25日 政治・経済 明春開催の博覧会の名称は「産業と観光の大博覧会」、会期は4月12日から6月5日まで55日間と決定した。市の博覧会特別会計予算は総計65万5,000余円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 5月26日 政治・経済 市営公益質屋の設立が市会で決定、公益質屋条例が可決された。貸付金額は1口10円以内、1世帯50円まで、貸付利率は月1分2厘5毛で一般質屋の約半額となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 6月5日 政治・経済 片町の道路舗装が完成し、商店街は祝賀の催しをした。(舗装は総工費1万5,400円、うち地元負担は4分の1) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 6月6日 政治・経済 北支那駐屯軍として第9師団の歩兵7、歩兵35、歩兵19各連隊から1個中隊ずつ計3個中隊が派遣されることになり、歩兵第7連隊から派遣の第10中隊(竹内章雄大尉以下約150人)が金沢を出発した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 6月12日 政治・経済 犀川鉄橋南西の石川郡米丸村に完成した金沢競馬場(金沢競馬土地会社所有)で、初めての競馬が県畜産組合連合会主催で開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 6月 政治・経済 市会は新たに金沢市会議員章をつくった。新議員章は梅花を銀浮き彫りにし中央に「金」の文字を配したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 7月25日 政治・経済 市はさきに下水道専任技師を迎えて下水道築設の準備調査を進めていたが、近く下水道の本格的調査を開始することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 8月11日 政治・経済 金沢市水道局は市内の水道普及率が給水申込み数6,800戸(うち給水3,500戸)と依然少ないので、昨今の井戸渇水期を利して大宣伝に乗出し、水道行進曲の発表をはじめ、本日は自動車行列で工事費割引きの抽選券づき宣伝ビラ3万枚を市内に散布した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 8月11日 政治・経済 金沢電気軌道会社は市内電車の幹線軌道(幅員3間)の改修舗装を、40万円で本年度中に完成することに決定した。一方、県土木課も幹線道路の舗装(軌道幅3間を除く約5間幅の舗装)を近く着工する。総工費約10万9,000円で半額は県費、残り半額は市費と地元が折半負担。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 8月25日 政治・経済 市ならびに大野町の要望により、金沢築港問題調査のため帝国港湾協会から工学博士安芸杏一ほか7人が来沢、3日間にわたり実地視察と調査した。視察後安芸博士は「築港は技術的面からみて多少の欠点はあるが、さして困難なことではない」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 9月19日 政治・経済 市が今春来実施中の金沢市下水道の基本調査が終った。数十本の下水本線の放水口は浅野川、犀川に各9ヵ所設けることにし、両川の汚染による衛生的影響は市がさらに調査をおこなうことになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 9月25日 政治・経済 県会議員選挙は24日おこなわれ、25日開票された。金沢市の結果は次の通り。〔当選〕餝谷与右衛門(政友前)坂野権次郎(民政前)加賀谷源吾(青年新)辻本辰之助(政友新)能村仁太郎(民政新)金田一次(民政新)〔次点以下〕神保重吉(政友前)沢野外茂次(民政前)寺田直義(民政新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 9月26日 政治・経済 (県会議員選挙の結果石川県会の分野は政、民の地位が入れかわり民政派21、政友派11となった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 10月1日 政治・経済 市は本日から市税商品切手発行税の賦課を実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 10月16日 政治・経済 金沢市の上水道通水式が、出羽町練兵場配水池付近で600余人が参列して盛大に挙行された。市中は小学生の旗行列のほか多くの催し物でにぎわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 10月23日 政治・経済 (県会は正副議長選挙をおこない、議長に関戸寅松、副議長に谷内星七を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 10月23日 政治・経済 政民両党の対立でタナざらしになっていた月棒100円以上の県吏員の減棒が、県会で議決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 10月31日 政治・経済 金沢市水道事務所が閉所式をおこなった。事務所員86人のうち34人が解雇され54人が残務整理に当る。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月2日 政治・経済 加州銀行は横山家と同鉱業部に対する破産申請を取下げたので、金沢地方裁判所は昨年12月金沢区裁判所が下した破産決定宣告を取消した。破産取消しにより紛争中の尾小屋鉱山は、横山鉱業部から東京の宮川豊吉に44万8,500円で売却された。(新経営者宮川はその後従業員350人を整理し、残余者の賃金を2割引下げて12月25日操業を再開した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月10日 政治・経済 県会は県費節減のため県会議員歳費の5分引下げを決定した。新歳費は議長760円、副議長620円、議員475円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月12日 政治・経済 金沢市の幹線大通りの舗装完成祝賀会が、駅前より本町通り、白銀町、安江町上下堤町、南町、石浦町、広坂通、尾張町の沿道9ヵ町連合主催で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月13日 政治・経済 若槻内閣総辞職のあとをうけて犬養政友会内閣が成立し、県人中橋徳五郎(69歳)が内務大臣は就任した。また永井柳太郎は民政党幹事長に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月18日 政治・経済 犬養内閣初の地方長官大異動で、知事田寺俊信は休職となり、後任に元内務監察官平賀周が任命された。平賀は千葉県出身、代議士1回当選。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月26日 政治・経済 金沢電気軌道会社から鉄道省に営業免許申請中の金沢市内バスが免許された。明年3月から運行予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 1月9日 社会・文化 第四高等学校長武藤虎太は第五高等学校長に転じ、後任に水戸高等学校長小松倍一が任命された。小松は長野県人で四高出身、明治44年から大正2年まで金沢一中校長をつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 1月18日 社会・文化 午前1時40分ごろ栄町の米屋から出火、2戸を全焼、土蔵1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 2月6日 社会・文化 金沢市方面委員助成会の事業として昨年末新築された精神病者鈴見保護所が開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 2月8日 社会・文化 牧師米人T.C.ウイン石浦町日本キリスト教会で死去。81歳。明治12年来沢し、石川県中学師範学校教師のかたわら伝道に従事、同16年北陸英和女学校を創設した。明治31年大阪へ転じたが昨年再び金沢に来住、金沢を永住の地と定めていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 2月24日 社会・文化 市内法島町で石川県初めての牛の炭疸病が発生、乳牛2頭が死んだ。市は付近3ヵ町に家畜出入厳禁を掲示した。満州から移入の豆カスが感染源らしい。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 3月3日 社会・文化 久保田全死去。87歳。旧藩長氏の家臣、金沢区政時代からこれに参与し、明治22年第1期の市会議員に当選、以後県市会議員に数回当選した。のち実業界に入り明治38年金沢電気瓦斯会社専務となり市営移管まで在任した。長女は山崎延吉の妻。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 3月13日 社会・文化 午後7時50分ごろ中堀川町から出火、西堀川町にも延焼し、商店など全焼2戸半焼5戸を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 3月14日 社会・文化 昭和4年2月25日焼失した馬場小学校の再建築が完成、落成式ふが挙行され、生徒の旗行列など祝賀行事が催された。鉄筋コンクリート3階建、延べ坪数1,541坪、総工費22万1,954円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 3月26日 社会・文化 (県は小学校教員初任給の引下げを決定、本科男子の48円を45円に、女子の43円を40円に引下げると発表した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 4月1日 社会・文化 市は高岡町高等小学校の新校舎が完成したので、これに野町、森山町、味噌蔵町各女児高等小学校の高等科児童と此花町、諸江町両高等小学校の高等科女児を全部収容した。これで高岡町高等小学校の児童数は21学級928人となった。(野町、森山町、味噌蔵町の各校はそれぞれ尋常小学校と改称) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 4月7日 社会・文化 前夜から暴風雪となり市内の積雪13.7センチ、兼六園のチラホラ咲きの桜も大被害、花見時のこの降雪量は金沢測候所開設以来の新記録である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 4月11日 社会・文化 四高生徒の読書会を中心とする反帝同盟事件は金沢地方裁判所で予審終結し、四高生15人が治安維持法違反として公判に付された。被告らの容疑は共産党の指揮を受けて一般学生、労働者に働きかけ、昨年の海軍記念日に出羽町練兵場の模擬軍艦に不穏文書を張りつけ、また10月、錦華紡績の寄宿舎に侵入しアジビラを散布した等というもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 4月 社会・文化 今年度から実施を目標に調査準備を進めた金沢市のし尿くみ取り市営は、県から1年延期が認められた。金沢市の現状からここ1両年は実施困難の見込み。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 5月7日 社会・文化 (山中温泉で大火、全半焼738戸、重軽傷33人。山中町で焼け残りは269戸。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 6月1日 社会・文化 午前2時半ごろ金沢医大付属病院大里内科研究室から出火、木造2階建(83坪)の同室と山田内科研究室を全焼した。消防作業中の青年訓練所生徒1人と見舞客の1人が死亡、数人が負傷した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 6月5日 社会・文化 午前0時すぎ梅本町東横丁の菓子工場から出火、2戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 6月22日 社会・文化 元四高生ら15人にかかる反帝同盟事件の第1回公判が、金沢地方裁判所で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 6月27日 社会・文化 石川県連合婦人会の発会式が市公会堂でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 6月 社会・文化 衰退の一路をたどる人力車は、県保安課5月末現在の調査によると金沢市内に81台、県下全体で229台となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 7月8日 社会・文化 中町の中村兄弟印刷所従業員13人が、賃金引下げに反対してストライキにはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 7月9日 社会・文化 午前11時ごろから金沢地方に集中豪雨襲来、午後から犀川、浅野川が8尺以上増水、市内の浸水家屋は400戸を越え天神町ほか各所でがけくずれがあり、浅野川2ヵ所と金腐川で堤防が決壊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 7月13日 社会・文化 四高反帝同盟事件の元四高生ら15人に、金沢地方裁判所で禁固1年から2年いずれも執行猶予の判決が言渡された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 7月20日 社会・文化 森山町校下方面委員部が卯辰山汐見坂下に建設した東山寮の開所式がおこなわれた。校下のカード階級のために建てたもので、室数11。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 7月29日 社会・文化 (羽咋郡越路野村眉丈山付近のトキは四高市村塘教授、金沢三中安田作次郎教諭らの現地調査の結果、渡り鳥でなく眉丈山に定住しているものと判明した。この調査で市村教授らは成鳥3羽、ひな鳥2羽を確認した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 8月8日 社会・文化 米原於菟男死去。67歳。大正4年から昭和4年まで市議、県議、代議士に数回当選、政友会に所属し地方政界の重鎮であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 8月14日 社会・文化 県統計課の調査によると、昭和5年末現在の石川県内の自動車数は乗用車457台、トラック344台計801台で人口1万人につき1.1台となっている。(全国平均は11.5台、アメリカは2,079台) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 8月17日 社会・文化 県保安課は金沢市内の交通事故防止と交通取締りの徹底を期すため、広坂、玉川両署に専任交通巡査6人ずつを置き香林坊、武蔵ヶ辻両交差点で「ゴー・ストップ」の交通整理を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 8月31日 社会・文化 (尾小屋鉱山従業員1,250人は未払い賃金の支払いを要求してストライキにはいった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 9月16日 社会・文化 香林坊にカフェー大阪美人座(香林坊ホテル地下室)が11日開店、またカフェー大阪赤玉(万年館跡)が本日開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 9月16日 社会・文化 広坂署は大阪カフェーの進出を機にカフェー取締りに力を入れ、女給の街頭広告ビラまき、広告あんどんのサンドイッチマン、ジャズおよびジャズダンスの演奏、実演等を禁止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 11月9日 社会・文化 真館貞造死去。78歳。鹿島郡出身、明治年間能美郡で銅山を開発経営、また県会議員、代議士、北陸新報社長として明治の地方政界に活躍した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 11月11日 社会・文化 午後7時ごろ川岸町から出火、4戸(1むね)全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月10日 社会・文化 金沢最初のカフェー石浦町のカフェー「ブラジル」は、純レストラン「仙宝閣ブラジル」として改築、開店した。(3階建、延べ500坪) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月18日 社会・文化 午後11時20分ごろ高岡町上藪ノ内から出火、2むねを全焼した。この火事で俳人野代谷徳次郎(桃芽)宅の小春庵も類焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月28日 社会・文化 県特高課は今暁、県下の左翼分子53人を一斉検挙し、その新聞記事掲載を禁止した。(翌7年7月26日、新聞記事掲載禁止を解除し、検挙者中共産党員輪田一造ら3人を起訴、他は釈放したと発表した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和六年(1931) 12月31日 社会・文化 石川舜台長町道林寺で死去。91歳。川上新町永順寺に生れ、東本願寺の寺務総長を5回勤め、その学殖と政治的手腕をうたわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 2月2日 政治・経済 上海事変で第9師団へ応急動員が下令された。(7、8日両日歩兵第7連隊を先頭に金沢を出発、14日上海の呉淞に上陸した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 2月18日 政治・経済 市電気局は市内の要救護世帯全部(200世帯以上)に対し、5燭光電灯1個ずつを無料でつけることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 2月22日 政治・経済 犬養政友会内閣のもとで普選第3次衆議院議員総選挙が20日おこなわれ、次の結果となった。〔第1区〕当選23,289票 中橋徳五郎(政友前)同20,151票 永井柳太郎(民政前)同17,382票 箸本太吉(政友元)次点8,770票 武谷甚太郎(民政前)〔第2区〕無投票当選 桜井兵五郎(民政前)青山憲三(政友前)益谷秀次(政友元) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 2月24日 政治・経済 市会は第9師団上海出征将兵に対し感謝激励の決議をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月1日 政治・経済 歩兵第7連隊長林大八大佐が江湾鎮付近で戦死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月3日 政治・経済 満州上海事変のぼっ発による時局の重大化で、市主催産業と観光大博覧会を予定通り開催するか、中止するかの議論が市の内部にも出ているが、吉川市長は博覧会の内容を国防強調を加味したものにして、予定通り4月12日から開催することを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月16日 政治・経済 金沢築港問題をきめる帝国港湾協会委員会が、地元から吉川市長も出席して東京で開かれ、第1期工事として総工費600万円で商業港、工業港、木材港、漁港を重ねた金沢港を築設する調査基礎案を全会一致で認定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月28日 政治・経済 2月21日上海江湾鎮西北方の戦闘で重傷を負い、支那軍の捕虜になった歩兵第7連隊第2大隊長空閑昇少佐(佐賀県人、46歳)は、3月15日上海に送還されたが、本日江湾鎮の旧戦場でピストル自殺をとげた。(現地ならびに金沢では空閑少佐に対する同情が高まり、家族弔慰の寄金が続いた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月1日 政治・経済 金沢市は電気局(電気ガス事業)と水道局を合併し、金沢市電気水道局と改称した。局長には電気局長尾戸次作が就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月1日 政治・経済 (昨年12月横山家から宮川豊吉に売却された尾小屋鉱山は、宮川から日本鉱業株式会社の経営に移った。日本鉱業は尾小屋の従業員に対し、賃金引上げと労働時間の1時間短縮など待遇改善を実施した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月1日 政治・経済 金沢城循環道路として昨年11月から工費8,600円で工事中の宮守堀道路が完成、本日から一般の通行を許した。広坂通の赤十字社石川県支部横から県庁と四高裏を通り、師団司令部下から西町の金沢憲兵隊横に通ずる幅6間、延長約320間の道路で、多数の街灯を設け自動車道路としても、一般歩行道路としても利便が大きい。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月3日 政治・経済 金沢電気軌道会社の市内バスが運転を開始した。バスは10台で1台12人乗り。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月10日 政治・経済 木ノ新保の金沢市職業紹介所(市社会課所管)は業務の拡張をはかるため、広坂通の元金沢市信用組合跡を修築、本日移転開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月11日 政治・経済 昭和4年12月の金沢市会議員選挙無効訴訟(提訴者野口徳次ほか2人)に対し、行政裁判所は「末位当選者2人の当選を無効とする」判決を下し、諸橋伊右衛門(民政)西野三郎(中立)両議員が失格した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月12日 政治・経済 金沢市主催の「産業と観光の大博覧会」の開会式が出羽町練兵場の第1会場で県内外から約1,600人を迎えて盛大に挙行された。第2会場は旧城本丸跡。会期は6月5日までの55日間。博覧会予算は68万余円、入場料は40銭。出品物陳列館は本館、観光館、美術工芸館、学芸館、農産館、機械館の6館。特設館は国防館、満蒙館はじめ各植民地館、府県館など18館。博覧会名誉総裁は前田利為候爵。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月16日 政治・経済 西町市公会堂の増改築(工費5万円)が完成し、本日開催の全国新聞記者大会から使用された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月29日 政治・経済 上海新公園における天長節祝賀会場に爆弾が投げられ、川端民団会長死亡、白川軍司令官(5月26日死亡)植田第9師団長、野村第2艦隊司令長官、重光公使ら重傷。犯人は朝鮮人尹奉吉(25歳)。(尹は上海派遣軍軍事法会議で死刑の判決を受け、12月19日金沢市郊外三小牛陸軍作業場で銃殺刑を執行された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 5月18日 政治・経済 社会民衆党石川県第一(金沢)支部は中央における社民党の分列により、赤松克麿らの国家社会主義新党準備会を支持することをきめた。第二(七尾)支部は社民党にとどまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 5月22日 政治・経済 上海から第9師団の帰還第1陣として師団衛生隊が金沢に帰還した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 5月26日 政治・経済 斉藤実挙国一致内閣成立し、金沢出身の永井柳太郎が初めて入閣、拓務大臣に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 5月28日 政治・経済 昨年4月着工した金沢市南端国道が完成、完工報告祭が芦中町広場でおこなわれた。夜は地元各町で祝賀会が催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月5日 政治・経済 金沢市主催の産業と観光の大博覧会が閉会した。会期55日間の有料入場者は47万278人(ほかに無料入場者約10万人)、入場料収入は12万8,600余円で大体成功とみられている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月6日 政治・経済 小立野の百々女木町から材木町1丁目に至る木曽坂新道が完成、開通式がおこなわれた。昨年秋から工費1万円で開さくしたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月8日 政治・経済 第9師団最後の帰還部隊として歩兵第7連隊主力が金沢に帰還、市民の歓迎を受けた。(植田中将ら師団司令部は6月6日帰還)金沢市内では同夜、帰還祝賀のちょうちん行列が盛大に催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月13日 政治・経済 市会は27議員提出の「中央卸売市場設置促進の意見書」を全員一致可決した。意見書は「金沢の現在の市場は全国まれに見る無秩序極まる集合市場を形成し百害あって一利なく、保安衛生の設備もなく、警察の監督も有名無実である。市当局はすみやかに中央卸売市場設置のため、調査委員会をつくり調査を開始せよ」というもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月18日 政治・経済 上海事変における第9師団の戦死者452人の慰霊祭が、管下5県知事も参列して歩兵第7連隊営庭で盛大に執行された。なお歩兵第7連隊の戦死傷数は、戦死110人(将校12下士官兵98)戦傷236人(将校24士官兵212)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月18日 政治・経済 社会民衆党から分裂した日本国家社会党の金沢支部結党大会が、党務長赤松克磨らを迎え下新町福助座で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月26日 政治・経済 天津駐とん第9師団派遣隊の歩兵第3個中隊が内地に帰還、うち歩兵第7連隊から派遣の第10中隊が金沢に帰還した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月28日 政治・経済 斉藤内閣初の地方官大異動で知事平賀周は休職、後任に元山形県知事山口安憲が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月28日 政治・経済 金沢電気軌道会社の新社長に、取締役菅野伝右衛門が就任した。(横山一平辞任以来社長空席中) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月 政治・経済 市会は帰還の植田第9師団長と師団将兵に対し感謝状を贈った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 7月9日 政治・経済 金沢市会議員補欠選挙が8日おこなわれ9日開票の結果、民政5人と政友3人(立候補は民6政6青年1)が当選した。市会の新分野は民政23、政友8、青年党3、中立2となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 8月27日 政治・経済 (七尾線が穴水まで開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 9月1日 政治・経済 第9師団長植田謙吉中将は参謀本部付となり、後任に航空本部付荒蒔義勝中将が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 9月10日 政治・経済 石川県の貴族院多額納税者議員選挙が県庁でおこなわれ、入票数85票のうち男爵本多政樹が84票を得て当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月2日 政治・経済 (手取大橋が完成、渡橋式がおこなわれた。総工費45万円、2ヵ年余をかけて完成した北陸国道のモダン鉄橋である。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月8日 政治・経済 百貨店自制案により三越百貨店金沢支店は、本月から月3回(8の日)の定休日を設けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月9日 政治・経済 金沢港期成同盟会の発会式が市公会堂で挙行され、引続き金沢港期成市民大会が開かれた。期成同盟会は満州国承認を機に、対満貿易港としての金沢港の築設を促進しようとするもので、会長は相良歩。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月13日 政治・経済 金沢の中小商工業者救済を目的とする金沢商工連合同盟会は大会を開き、決議により代表朴木市議ら50余人が吉川市長に会見、「中小商工業者救済のため市はすみやかに中小業者の電気料をデパートなみに低減すること、すみやかにデパートおよび法人に対して独立税を新設徴収すること」などを要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月15日 政治・経済 市は失業救済事業として道路舗装を実施するが、尻垂坂は傾斜を研究の結果、御影石のブロックで舗装することになった。完成すれば全市舗装中最も完全なものになる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 11月2日 政治・経済 県が計画中の女給等にかける給仕人税に反対して、市内カフェーの女給が教育会館で女給税反対期成同盟会の発会式をあげ、大会後県庁に反対陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 11月29日 政治・経済 県会は金沢港築設に関する建議案を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 12月1日 政治・経済 市会は石川県知事に提出する金沢築港の意見書を可決した。また三土鉄道大臣に提出する金名鉄道(岐阜県樽見より福井県大野を経て金沢市に至る線)の建設促進に関する意見書も可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 12月20日 政治・経済 金沢に定期航空用の飛行場設置運動が、有志市会議員によって開始された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 12月28日 政治・経済 金沢都市計画区域内にある戸板、小坂、米丸、三馬、富樫、崎浦6ヵ村の一部に、明年1月17日から市街地建築物法を適用することになったむね内務省から告示された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 1月5日 社会・文化 広坂通の金沢能楽堂が落成、本日から3日間、宝生重英らを迎えた舞台開きがおこなわれた。建坪220坪、舞台は台湾阿里山のヒノキ造り。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 1月19日 社会・文化 石川郡金石町の6ロープ工場と下請工場の職工200余人は、工賃値上げを要求してストライキにはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 1月26日 社会・文化 先端職業ののメッセンジャー・ボーイが金沢に生れた。営業事務所は広坂通で、贈答品の配達や用事の使い歩きなどをするもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月14日 社会・文化 井村徳三郎死去。66歳。金沢市最初のデパート経営者、現在宮市大丸常任監査役であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月15日 社会・文化 郷土史資料の研究、郷土先輩の顕揚などを目的に金沢文化協会が市立図書館を中心に創設された。総裁前田侯爵、会長中島徳太郎。運営は発起人の日置謙、玉井敬泉、氏家栄太郎、大友佐一、毎田周太郎、藤沢熊吉らがあたる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月19日 社会・文化 一昨年2月から30万5,000円で増築中の高岡町高等小学校の鉄筋コンクリート3階建新校舎が完成、落成式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月20日 社会・文化 午後7時すぎ博労町の金沢郵便局前から出火、同町と十間町の民家3戸を全焼、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月26日 社会・文化 午後0時50分ごろ淵上町の民家から出火、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月26日 社会・文化 木越安綱東京で死去。79歳。金沢市三社出身で陸軍中将、男爵、貴族院議員、第3次桂内閣で陸相をつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 3月30日 社会・文化 午後8時半ごろ栄町から出火、商店等2戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月16日 社会・文化 上鶴間町に真性天然痘患者1人発生。(市内ではその後6月21日に1人発生したのみ。全国発生数は5月12日までに大阪府102人を筆頭に計159人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 4月18日 社会・文化 日本新聞協会第20回大会が総裁東久邇宮稔彦王はじめ、会員250余人出席して広坂通の県会議事堂で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 5月2日 社会・文化 午後10時45分ごろ田丸町の木箱製造工場から出火、同工場と納屋の2むねを全焼、自動車車庫など4むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 5月13日 社会・文化 午後11時ごろ野田町の農家の納屋から出火、住家1むねと納屋3むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 5月13日 社会・文化 四高名誉教授浦井鍠四郎死去。65歳。葬儀は四高北辰会葬でおこなわれた。明治25年四高教授となり、在職40年、その著「西洋史年表」は名著の評が高かった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 5月24日 社会・文化 午後1時10分ごろ野町尋常小学校旧校舎の便所付近から出火、540坪の旧校舎を理科室と手工室の一部だけ残してほぼ全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 5月30日 社会・文化 粟崎遊園大衆座演芸部長川上一郎(宮本美木)死去。62歳。大聖寺町の出身で少壮時政治にこり政談演説や壮士芝居に関係したりした。わが国新劇界の古顔で知られた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月1日 社会・文化 午前8時50分ごろ片町のきんとん商から出火、商店5戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月1日 社会・文化 材木商平沢嘉太郎死去。69歳。金沢の一木挽職から北陸一の材木商となり、浅野川電鉄を創設、粟崎遊園を建設した。明治41年金沢市議にもなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月4日 社会・文化 夜10時すぎ河北郡小坂村百坂の国道で、森下町の斎藤タクシーの運転手が乗客を装った強盗に絞殺された。犯人3人は6日までに逮捕された。金沢地方はじめての自動車強盗殺人事件である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月10日 社会・文化 横山一平死去。70歳。旧藩士横山隆三の次男、金沢電気軌道会社、東洋捕鯨会社の各社長をはじめ実業界に大きな足跡を残した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 6月16日 社会・文化 卯辰山招魂社移遷問題協議会で県、市、軍部の代表が協議の結果、新たに出羽町練兵場に新招魂社を造築することを決定した。約4,000坪の敷地の払下げを受け、2ヵ年計画総工費約15万円で造築の方針。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 7月10日 社会・文化 金沢市主催の金沢市在住日支事変出征将士凱旋歓迎会が、市公会堂で午後0時半から(下士官兵)と午後6時半から(准士官将校)の2回にわけて、盛大に挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 7月 社会・文化 卯辰山の小坂口山上の景勝地約2万坪(私有地)に墓地公園を新設したいと、田丸町専光寺壇家総代西田儀一郎から都市計画石川地方委員会に対して、可否の調査を依頼してきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 9月1日 社会・文化 北陸線に3等寝台車がはじめて連結運転された。連結列車は上野、金沢間601、602両急行列車。(9月15日から大阪、金沢間503、504両列車にも連結) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 9月4日 社会・文化 午後7時すぎ石川郡犀川村中戸で火事、住家4むねを全焼、3むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 9月5日 社会・文化 長田町に新設された市立長田町小学校の開校式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 9月7日 社会・文化 三浦環が、市公会堂で満員の聴衆を集め独唱会を開催した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 9月17日 社会・文化 金沢市最初の防空灯火管制演習が、午後8時半から約1時間にわたりおこなわれた。防衛司令部は武蔵ヶ辻の金沢三越屋上に置かれ、司令官は第9師団司令部平田少将。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月6日 社会・文化 金沢3庭園の一つといわれた山田屋小路元松岡家庭園は、庭石、樹木、茶亭を全部売却した。同庭園は旧藩時代前田土佐守の別荘だった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月13日 社会・文化 石川県婦人国防会の発会式が市公会堂で挙行された。県下各種婦人団体が加盟し、師団長と知事が顧問に就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月18日 社会・文化 舞踊家高田せい子(県立金沢第一高女出身)の独立第1回郷土公演が尾山倶楽部でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月22日 社会・文化 (午後1時ごろ小松町大文字町の活動写真館から出火、小松駅をはじめ竜助町、三日市町、八日市町、大文字町、寺町、土居原町、飴屋町、西町、東町、本折町と園村の1,188戸を全焼、12戸を半焼した。原因は活動写真館の盗電、館主は11月21日懲役6月に処せられた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 10月31日 社会・文化 午前2時ごろ中主馬町の箔工場から出火、工場住家等2むねを全焼、1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 11月4日 社会・文化 午後6時50分ごろ、秋季演習で留守中の歩兵第7連隊第3中隊東端あき兵舎から出火、1、2、3中隊兵舎(木造2階建)とあき兵舎1むね計約800坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 11月6日 社会・文化 金沢市内の27婦人団体で組織された金沢市連合婦人会の発会式が、市公会堂で挙行された。非常時に直面し相互の連絡提携、家庭教育の振興をはかり国運進展に資するのが目的。総裁吉川市長、会長市川助役、事務所は市社会課内。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 11月15日 社会・文化 帝国発明協会石川支部の発会式が挙行された。支部会員は129人、支部長は知事。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 11月25日 社会・文化 金沢野球協会が設立された。設立総会で市立金沢工業学校野球場に5,000人収容のスタンド寄贈を決めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 12月3日 社会・文化 石川県ダンスホール取締規則の制定により県内でダンスホールの開業ができることになり、並木町尾山倶楽部3階にダンスホールが開業した。ダンス教授が主で会員組織、経営は尾山倶楽部座主山森三九郎。これよりさき8月ごろすでに、下新町に水野朗が小規模な社交ダンスホールをひらいていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 12月16日 社会・文化 午前0時45分ごろ穴水町のあき家から出火、2むね(4戸)を半焼した。保険金詐取を目的の放火によるもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和七年(1932) 12月19日 社会・文化 金沢の興行主山森三九郎死去。59歳。明治33年ごろから金沢で芝居興業を手がけ、大正11年以来尾山倶楽部を経営、全国の興業界でも有力な存在だった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 1月7日 政治・経済 カフェー女給等を対象とした県税給仕人税(最高月額1人につき2円)は、女給等の反対運動を押切り4月から課税に決定したが、金沢市が賦課する給仕人税付加税は本税1円につき50銭にきまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 1月10日 政治・経済 (ソビエト通商代表部七尾支部が開設され、初代駐在員が着任した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 2月13日 政治・経済 (県参事会は本県最初の愛県公債137万円の発行を可決した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 3月25日 政治・経済 金沢の右翼系団体の国家社会党金沢支部、国家社会主義青年同盟金沢支部、国家社会主義学盟石川地方会、神武会石川連合支部、国民青年同盟金沢支部、大日本生産党準備会の6団体が国難打開連合協議会を結成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 3月29日 政治・経済 金沢商公会議所の議員改選がおこなわれ、28人が無競争で当選した。投票数890票。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 4月14日 政治・経済 (1月10日開設したソビエト通商代表部七尾支部は、代表部の内部事情との理由で駐在員が七尾を引揚げたため事実上閉鎖された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 4月18日 政治・経済 金沢商工会議所は改選後初の議員総会を開き、会頭に中島徳太郎、副会頭に石黒伝六を再選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 4月24日 政治・経済 長柄町公設市場が開設された。小立野白山町にあったものを移転したもので店舗は13店。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 4月28日 政治・経済 尻垂坂の御影石舗装工事が開始された。3寸立方の御影石約28万個を舗装面積700坪に並べる工事で、御影石舗装は北陸地方でこれが最初だけに毎日見物人が多い。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月1日 政治・経済 市の消防組織の変革がおこなわれ、従来の第1部を廃止して常備消防部が新設された。常備消防部の事務所と器具置場は今秋までに百間堀に新築し、自動車ポンプを4台にふやす。また従来の第2部は2分して第1部、第2部とし上中島町に第18部を新設し、腕力ポンプ10台を廃止して各部に上水道使用の水管車を配置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月1日 政治・経済 初めての金沢市営公益質屋が木ノ新保5番丁元職業紹介所跡に開設された。利子は月1分2厘5毛。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月3日 政治・経済 金沢商工会議所は次の6人を顧問に選定した。飯尾次郎三郎、本多政樹、餝谷与右衛門、青戸信賢、沢野外茂次、坂野権次郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月14日 政治・経済 満州国松花江流域に入植する武装農業移民の選抜試験が歩兵第7連隊でおこなわれ、石川県下から32人が決定した。うち金沢市居住者は4人。(7月7日神戸から出発した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月30日 政治・経済 金沢築港促進協議会が市と金石町、大野町、戸板村、大野村、粟崎村、鞍月村、潟津村の各隣接町村代表が集って開催され、第一段階として大野川改修を内務省と県へ請願して運動を進めることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 6月25日 政治・経済 金沢市と関係町村長連署の大野川改修請願書が20日県と内務省へ提出され、本日、陳情のため関係市町村代表が大挙上京した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 8月1日 政治・経済 北陸線小坂信号場は停車場に昇格、「東金沢駅」として開業した。金沢駅から2.6キロ、森本駅から2.9キロ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 8月4日 政治・経済 能村仁太郎の死去に伴う金沢市選出県会議員補欠選挙が3日行なわれ、市会議長沢野外茂次(民政)が当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 8月28日 政治・経済 金沢市は政府予算編成期を前に、懸案の北陸鉄道局設置運動を県、商工会議所、鉄道局設置期成同盟会と提携して進めることにし、市会全員協議会を開いて具体的運動方法を協議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 9月2日 政治・経済 鉄道局設置期成同盟会主催の北陸鉄道局設置市民大会が高岡町高等小学校で開催された。北陸鉄道局誘致に目下名乗りをあげている市は、金沢のほか新潟、富山、長野、長岡、新津、福井の各市である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 9月3日 政治・経済 北陸鉄道局設置運動のため吉川市長と市会議員7人が市の請願書、市民大会決議を携えて商工会議所、期成同盟会代表らと共に上京した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 9月3日 政治・経済 大豆田町錦華紡績工場前の鉄道線路下をくぐり戸板村南部に出る連絡道路が開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 9月27日 政治・経済 市会は鉄道省に建議する北陸鉄道局設置意見書を、全会一致可決した。市会代表の市議8人は、市民約4万人の署名簿を携えた期成同盟会および商工会議所代表らと共に同夜上京、競争市の新潟と対抗して最後の猛運動をおこなう。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 10月1日 政治・経済 北陸3県を区域とする農林省の米穀事務所が田丸町福徳生命ビル内に開所した。米穀統制法施行に伴い米穀買入れにあたるもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 10月3日 政治・経済 金沢市の隣接町村合併問題は、県から関係町村に対する瀬踏み的勧奨を一応終ったので、県は金沢市と次の12町村の代表を招き第1回の合併勧奨協議会を開いた。金石町、大野町、潟津、粟崎、鞍月、大野、戸板、米丸、三馬、崎浦、小坂、川北各村。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 10月23日 政治・経済 陸軍特別大演習が天皇統監のもとに福井県下と石川県一部で23日から3日間おこなわれた。参加師団は第9師団と善通寺第11師団。石川県は15日から福井市に出張所を設置した。大本営は福井県庁。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月1日 政治・経済 常備消防の本部、金沢市消防事務所が百間堀市有地に完成、落成式が挙行された。毎日交代で17人の常備消防士が待機する。常備の自動車ポンプは4台。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月5日 政治・経済 定数が40人に増員後初めての金沢市会議員選挙が4日執行され、本日開票の結果民政党21人、政友会10人、中立6人、青年党3人が当選した(立候補71人)。最高位当選は924票、最下位当選は314票。当選者次の通り。沢野外茂次、金田一次、高瀬与吉、田原太三郎、岡島友作、浅井嘉久治、中川外吉、寺田直義、小沢他喜三、常川兵次、桜町茂助、和田信一、朴木元次郎、内田徳義、蚊爪与一郎、吉田宗一、越野義久、武伊三郎、前川吉栄、森田伊三郎、勝田庄次郎(以上民政党) 森岡武吉、神保重吉、餝谷与右衛門、小林清吉、富木喜久男、安田一二、藤田藤七、松田三吉、重山徳好、和田源五郎(以上政友会) 林政武、西野十陛、松倉清次郎、加藤与吉郎、和田貢、横山登、(以上中立) 横越多三郎、吉川二三郎、加賀谷源吾(以上青年党) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月5日 政治・経済 金沢出身の住友総理事小倉正恒が貴族院勅選議員になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月8日 政治・経済 平沢嘉太郎が建設した粟崎遊園は、加能合同銀行と福井銀行が平沢家に対して有する債権処理のため競売に付された。この結果粟崎の仲介業者が2万9,050円で落札したが、資力不足のため12月8日再入札に付されて浅野川電軌会社の手に渡った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月17日 政治・経済 市会は正副議長選挙をおこない、議長に沢野外茂次(民)、副議長に吉田宗一(民)を再選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 1月7日 社会・文化 午前0時40分ごろ三社五十人町3丁目の津田式力織機製作所から出火、工場内発送所、木工部、鉄工部計70坪を全半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 1月10日 社会・文化 金沢税務署の調査によると、金沢市内の借家賃の最高は三越支店の年額7万6,00円、次位は宮市大丸の同2万2,000円である。その他魚半の月額250円、第一生命の200円、赤玉、美人座両カフェーの150円等がおもなものとなっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 1月29日 社会・文化 鶴来スキー場で開催された第4階近県スキー競技大会(県体育協会主催)の18キロ競走で、市立工業生2人、金沢二中生1人計3人が吹雪のため凍死した。(金沢弁護士会は遭難事件当面の責任者県体育協会主事を、2月6日業務上過失致死罪で告発、また体協会長も引責辞任した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 2月26日 社会・文化 午前2時40分ごろ尾張町の活動写真常設館第二次菊水倶楽部(沢田仁作所有)の2階から出火、同倶楽部を全焼、尾張町と上新町の商店住家6戸を半焼した。(第二菊水倶楽部は7月1日新築再開) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 2月28日 社会・文化 2年制の金沢市立商業学校の設立が市会で可決された。校舎に長田町小学校の一部をあて、募集人員は200人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 2月 社会・文化 がん具「ヨーヨー」が全国的に流行、金沢でも片町ねづやが1個7銭で売出したところ大量の注文が殺到した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 3月5日 社会・文化 金沢に伝わる古い郷土芸能「指人形浄瑠璃」の再興第1回公演が、尾張町石黒ファーマシー4階ホールでおこなわれた。主催は昨年7月家元の高道町吉田寛之助が、市内の愛好者10余人とつくった金沢人形浄瑠璃保存会。指人形浄瑠璃は明治年間には金沢市中の寺院などで興行されたが、大正時代にはいるとともに衰微し最近はほとんど知る人もなく、人形の操り方を知っているのは保存会員中の6人だけという。この指人形浄瑠璃は前口2間奥行9尺の舞台をつくり、3尺ごとに設備したすき間から、指に衣装を着せた人形を出してあやつる仕掛けになっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 3月10日 社会・文化 午前11時20分ごろ長町3番丁松尾産婦人科医院から出火、全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 3月12日 社会・文化 卯辰山常盤町の小野慈善院は舎屋の腐朽がひどくなったので、崎浦村三口新に新築移転することに決定した。総経費16万円、うち国庫から8万円、県から4万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 3月30日 社会・文化 石川県史第5編(風土誌)が刊行された。県史は石川県の委嘱で日置謙が執筆したもので、大正10年4月の事業開始から12年、この巻で完結した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 4月1日 社会・文化 市は此花町、菊川町両尋常高等小学校の男子高等科を廃止し、両校男子高等科生徒を小将町高等小学校に移した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 4月16日 社会・文化 田丸町専光寺が卯辰山公園隣接地の油木山2万坪の中に建立中の東山廟所が落成、納骨入仏式がおこなわれた。また同寺は廟所後方の松林中に墓地を造成中である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月1日 社会・文化 メーデー。金沢では昨年に引続き示威行進等の行事が一切おこなわれなかった。従来メーデー行事の中心になった社会民衆党支部の解散等がおもな原因。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月7日 社会・文化 昨年9月創設された長田町尋常小学校の落成式が挙行された。また同小学校を校舎として4月から授業を開始した金沢市立商業学校の開校式も挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月8日 社会・文化 午前11時50分ごろ西町市公会堂で喫煙の漏火から出火、内部の天井裏等を焼いた。損害約2万円。(6月2日の市会で復旧費が可決され、吉川市長は出火を陳謝した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月14日 社会・文化 午前9時半ごろ宗叔町3番丁から出火、6戸(1むね)を全焼、工場1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月23日 社会・文化 県特高課は県下極左分子の一斉検挙をおこない、57人を金沢検事局に送った。(その後の取調べで治安維持法違反で起訴6人、起訴猶予47人、起訴保留2人福井へ事件移送2人とし、翌9年6月24日新聞記事掲載を解禁した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月30日 社会・文化 卯辰山招魂社移転造営のため、県から内務陸軍両省に出願中の出羽町練兵場の一部2,656坪の無償払下げが決定、陸軍大臣から県へ通知があった。招魂社奉賛会ではさっそく造営の準備に着手した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 5月31日 社会・文化 県立金沢第一中学校の3、4、5年生は第1学期中間考査延期要求を学校から拒否されて24日盟休にはいったので、学校側は翌日5年生に登校停止を、3、4年生に自宅謹慎を命じたが、首謀者5人の退学、10数人の停学処分と父兄の陳謝で本日解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 6月7日 社会・文化 石川県殉職警官慰霊碑が卯辰山玉兎ヶ丘東方台地に建ち除幕式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 6月10日 社会・文化 県市会議員能村仁太郎死去。44歳。北国日日新聞を創設、その後名古屋新聞金沢支局長となり昭和4年12月市会議員、同6年県会議員に当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 6月28日 社会・文化 新設された文部省の重要美術品調査委員会は、金沢市石黒伝六所蔵の磁器古九谷色絵鳥文様手鉢を重要美術品に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 6月 社会・文化 野田寺町の市立金沢病院は一般市民に実費診療を実施して歓迎され、入院通院患者が激増、最近6ヵ月間の延べ受診人員は1万4,419人に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 7月14日 社会・文化 午前11時40分ごろ殿町の油商から出火、2戸(3むね)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 7月22日 社会・文化 (河北郡内灘村大根布小学校の女児11人が、大根布海岸で海水浴中おぼれ、7人が水死。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 7月25日 社会・文化 各地に銀行ギャング事件の続発から、日本銀行金沢支店に請願巡査1人の設置が県参事会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 7月26日 社会・文化 豪雨のため加賀一帯大水害。金沢市内は各河川用水がはんらんして床上床下浸水家屋は2,000戸を越え、各所でがけくずれが起った。金沢の雨量は25日午後5時から26日午前6時までに154ミリ、うち26日午前2時から6時までの4時間に92.7ミリ、大正11年8月以来の豪雨であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 7月28日 社会・文化 午前1時ごろ木ノ新保4番丁の鋳物工場から出火、住宅2むね工場3むねを全焼、住宅1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 9月5日 社会・文化 台風のため大野川の4尺増水をはじめ各河川に海水逆流し、大野川沿岸約100町歩が浸水、河北潟の魚類も多数死んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 9月7日 社会・文化 石川県所有の磁器九谷色絵布袋図皿が重要美術品に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 9月21日 社会・文化 午後0時15分ごろ金沢地方に地震。約3分間ゆれ、時計の振子が止り屋根がわらの落ちた家もあった。震源地は能登半島北北西約90キロの海底。能登地方とくに七尾付近の被害が大きく、七尾では死者3人負傷19人、建物損壊380むね等を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 10月1日 社会・文化 金沢観光協会の発会式が卯辰山でおこなわれた。会長は吉川市長、会員は600余人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 10月2日 社会・文化 南町中屋家の明治天皇行在所跡が「明治天皇金沢行在所」の名称で、文部大臣から史跡名勝天然記念物の史跡として正式指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 10月4日 社会・文化 県は婦人方面委員を設置することになり、まず金沢市で14人を任命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 10月30日 社会・文化 「稿本金沢市史・政治編第1」が刊行された。この編から執筆者は八田健一。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 11月16日 社会・文化 金石町濤々園前相生町の松林に建った銭屋五兵衞の銅像除幕式がおこなわれた。制作は都賀田勇馬。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 11月17日 社会・文化 元四高教授で俳人の大谷繞石(正信)広島で死去。58歳。松江市出身。大正13年四高から広島高校教授に転任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月8日 社会・文化 午前4時30分ごろ馬場2番丁から出火、2戸1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月19日 社会・文化 横山隆俊死去。58歳。男爵、石川県教育会長、貴族院議員(大正7年から2期)加州銀行頭取、商業会議所会頭等を歴任し郷土各方面にした寄付は数十万に上った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月23日 社会・文化 (皇太子誕生。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月29日 社会・文化 金沢市内学校生徒、青年団員ら約1万人による皇太子誕生奉祝の旗行列がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和八年(1933) 12月 社会・文化 長町の聖霊病院が付属愛児園を開設した。救護法により入院した幼児で、病気全快後も引き取り手のないものを収容する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 1月9日 政治・経済 出羽町練兵場は近代戦の演習場として不適当になったので、陸軍省から大蔵省に移管が内定した。金沢市は大蔵省から払下げを受け、招魂社を中心に公設野球場を設ける案を第1案として考慮しており、吉川市長は近く上京して大蔵省の意向をきくことになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 1月23日 政治・経済 (金沢出身の陸軍大将林銑十郎が荒木貞夫の辞任により陸軍大臣に就任した。これで斎藤内閣には永井柳太郎と合せて、金沢出身の大臣が2人になった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 2月10日 政治・経済 出羽町練兵場(3万2,000坪)の陸軍省から大蔵省への移管が正式決定した。市は市会の承認を得て大蔵省に、市への払下げ交渉を開始することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 4月1日 政治・経済 石川県は消防組員の定年制を実施した。定年は一般消防手50歳、小頭55歳、組頭65歳。現在の組員に対して明年3月末まで適用を延期する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 4月7日 政治・経済 知事山口安憲は財団法人三井報恩会にはいるため辞任、後任に鳥取県知事館哲二(富山県出身)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 4月23日 政治・経済 金石港と福浦港が内務省の地方指定港湾に編入されたむね官報で告示された。今後15年間に順次改修を実施するもので、金石港の指定区域は、犀川右岸導水堤基点を中心とする半径1.6キロの海面および河川水面である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 5月23日 政治・経済 北陸鉄道局の誘致問題は、大蔵省の鉄道局増設数縮減(2局)により各候補地の間で猛競争が再燃したので、金沢市側では市会、商工会議所、期成同盟会が一丸となって再び猛運動を開始することになり、吉川市長と市会議員9人をはじめ代表19人が上京した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 6月8日 政治・経済 市長吉川一太郎が任期満了で退任した。(市会は8月21日退職慰労金2万円を可決、吉川は金沢を去り東京市杉並区の自宅へ引揚げた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 6月13日 政治・経済 工学博士片岡安が沢野市会議長からの市長就任要請に対し、名誉市長としての就任を内諾した。片岡は旧加賀藩士細野直重の次男で片岡直温の養子、現在大阪商工会議所副会頭をつとめ関西財界の重鎮、現金沢市役所庁舎(本館)の設計者でもある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 6月20日 政治・経済 金沢、台湾間の無線電話が開通した。料金は1通話(3分間)6円、至急電話12円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月3日 政治・経済 片岡安の名誉市長就任内定のため、市会は名誉職市長条例の設定を満場一致可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月8日 政治・経済 金石港修築促進大会が同町公会堂で開催され、席上金石港修築期成同盟会が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月13日 政治・経済 金石市会は片岡安を満場一致で金沢市名誉市長に選挙した。片岡の就任内諾以来、市会多数派の自治会内部に名誉市長反対、専任市長実現を主張する議員の一派があり、同会幹部はこれが説得に約2旬を費やして6月29日市会全員協議会で決定にこぎつけたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月23日 政治・経済 市会は新助役に片岡市長推薦の元岩手県知事久保豊四郎(富山県出身、53歳)を決定した。(市会は8月21日前助役市川潔に対する慰労金6,000円を可決) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月23日 政治・経済 市会の多数派自治会が市長助役選任問題から分裂、5議員が脱退し、旧脱退組3議員と提携した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 8月1日 政治・経済 第9師団長荒蒔義勝中将が待命になり、後任に台湾守備隊司令官外山豊造中将が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 8月3日 政治・経済 金沢市防護団組織について市社会課の案ができたので、市側の助役以下関係課長と第9師団参謀部、連隊区司令部、在郷軍人分会長らが参集して金沢市防護団組織第1回準備会を開催した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 8月7日 政治・経済 日本銀行金沢支店長貞弘重進は本店特別整理部主事に転じ、後任には営業局調査役吉田忠郎が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 8月22日 政治・経済 市会は29日に任期満了の市収入役小竹芳朗の再任を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 8月23日 政治・経済 市会の政友会と自治会脱退派が合流、市政同志会を結成した。市会の分野は市政同志会18人、自治会16人、中立6人となり、12年間絶対多数を維持した自治会はついに第2党となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 9月20日 政治・経済 金沢電気軌道会社は、市の外郭を一巡するバスの循環新路線2本と有松、大樋線の運転を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 9月25日 政治・経済 金沢市内の重要路線を拡張する都市計画事業は長土塀線、中橋線、極楽橋線、橋場玄蕃町線の4線を工費300万円、3ヵ年ないし6ヵ年継続事業として明年度から着工に内定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 9月27日 政治・経済 金沢とフィリピン間の国際無線電話が開通した。1通話35円ないし45円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 9月 政治・経済 市の郊外地区で、農地から工場や住宅地に地目変更される土地が近年増加しているが、過去1年間に田畑から宅地に変更された坪数は、金沢税務署管内で合計1万4,000坪に達した。旧連区別では6連区が最も多く、1連区5連区がこれに次いでいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月1日 政治・経済 片岡市長は市役所に企画局を新設した。局長は前島次郎。建築、都市計画、調査の3課を置き、局舎は旧市会議事堂。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月5日 政治・経済 森岡武吉議員の失格による金沢市会議員1人の再選挙が4日おこなわれ、本日開票の結果武谷甚太郎(自治会)が乾健多朗(中立)を破って当選した。これで市会の分野は自治会17、市政同志会15、中立6、自治会派2となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月17日 政治・経済 市会は本多町の金沢一中の敷地校舎(11,447坪)を、金沢市が県から35万円で買収することを可決した。償還方法は10年度から10ヵ年は毎年3万円、以後2ヵ年は2万5,000円ずつとする。運動場敷地は電気水道局用地に、校舎敷地は学校その他に使用する計画。(富樫村方面に移転新築される金沢一中の新築費48万円は21日の県会で議決された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月20日 政治・経済 金沢市会は12月4日の市会議員再選挙における武谷甚太郎(自治会)の当選を無効とし、次点の乾健多朗(中立)を当選と決定した。市会投票調査委員会が弁護士村井清造から異議申立てにつき、両人の得票を再調査の結果、武谷の得票から無効205票、無効票中から乾に有効票5票が出て、結局さきに66票差で勝った武谷の当選が逆転して144票差で乾の当選となったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月23日 政治・経済 (昭和7年7月から工事中の石川、富山県境天田峠新国道の開通式がおこなわれた。総工費65万6,000円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月25日 政治・経済 金沢市北端国道の開通式が挙行された。新国道は延長1,160メートル幅19.10メートル、両側に3メートルずつの歩道があり、車道は舗装されていない。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月27日 政治・経済 市は市内の町名整理について調査審議する町名整理調査会を設置、委員を委嘱した。委員は41人で、市会議員(21人)、郵便局、税務署、裁判所、商工会議所の各代表と学識経験者9人から成っている。会長は市長、事務は企画局が担当。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 1月7日 社会・文化 前金沢医科大学学長須藤憲三死去。63歳。山形県人、大正13年から8年間学長をつとめた。同大学名誉教授、医化学の権威であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 1月17日 社会・文化 大日本国防婦人会金沢支部および金沢分会の発会式が兼六会館でおこなわれた。従来の石川県婦人国防会はこれに合流した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 1月30日 社会・文化 (大聖寺町県社江沼神社の長流亭が国宝に指定された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 2月5日 社会・文化 石川県教育会長に四高校長小松倍一が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 2月14日 社会・文化 午前2時20分ごろ河北郡内灘村字粟崎から出火、住家4むね納屋1むねを全焼し、焼死者3人を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 3月7日 社会・文化 午後5時50分ごろ荒町3丁目から出火、2戸を全焼、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 3月10日 社会・文化 石川郡戸板村は農村医療施設として、村営診療所を建設することに決定した。この決定を一般開業医は重大視しその対策を考究中であるが、吉田市会副議長(医師)は耕納村長に対して再考を求めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 3月21日 社会・文化 午後6時ごろ三小牛山陸軍用水道貯水池堤防が雪どけと暴風雨のため決壊、野田町で家屋半壊18戸、床上浸水8戸、床下浸水25戸の被害を出した。軍隊、消防、青年団等が市内から救護にかけつけた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 3月25日 社会・文化 中橋徳五郎東京で死去。71歳。旧加賀藩士斎藤宗一の5男、衆議院議員当選8回、原内閣の文部、田中内閣の商工、内務各大臣を歴任した。また大阪商船会社社長をはじめ実業界でも活躍し、中橋賞などを設けて県の育英事業にも貢献した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 3月29日 社会・文化 午前1時20分ごろ長町川岸の薬種商から出火、1戸を全焼、5戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 4月10日 社会・文化 漢学者三宅少太郎東京で死去。82歳。金沢市片町の茶商堂後屋の次男、岳父富川春塘および井口犀川に学び、明治36年広島高師校長北条時敬に招かれて同校で漢文科を担任、名声があがった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 4月22日 社会・文化 侯爵前田利為の長男利建(27歳)と黒田長令(侯爵黒田長成の弟)の長女政子(20歳)の結婚式が、東京駒場の前田邸で近衛文磨の媒酌により挙げられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 4月25日 社会・文化 尾山神社の社務所が新築された。前田家からの建設費1万円と建築材料として成巽閣一部の寄進を得て昨年10月着工したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 5月1日 社会・文化 メーデー。金沢では本年も行事は全くおこなわれなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 5月20日 社会・文化 崎浦村三口新に新築中の財団法人小野慈善院が完成、卯辰山(常盤町)の旧舎から移転したのでその落成祝賀式が挙行された。新舎は敷地約7,000坪、建坪約1,600坪、工費16万余円。なお現在被収容者は194人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 5月24日 社会・文化 兼六園の観光客案内業者30余人が兼六園観光案内組合を組織、創立総会を開いた。これまで観光客の争奪から国内茶屋と公園付近の九谷焼業者がにらみ合いを続け、観光客に不快感を与えていたのをやめるため大同団結したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 5月26日 社会・文化 加藤義一郎(尾張町)死去。59歳。大正10年から市会議員を3期つとめ、金沢漆器同業組合長として金沢漆器と金沢桐火ばちの名を全国にたかめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 6月25日 社会・文化 午後8時ごろ三馬村字泉野町金沢製陶所工場から出火、工場1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月11日 社会・文化 手取川大水害、死者行方不明112人。金沢市関係では手取川上流の市営吉野第二、福岡第一、第二発電所等が倒壊、100余万円の損害を出した。(県下の総被害は2,000万円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月16日 社会・文化 水害で12日から不通の北陸線寺井、小松間が復旧開通した。(24日に三日市、生地間も復旧して全線開通した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月19日 社会・文化 前夜来の豪雨で市内の用水と金腐川等がはんらんして230余戸が浸水、東御影町、天神町でがけくずれがあり、東御影町では母子3人が圧死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月24日 社会・文化 豪雨で天神町、常盤町、観音坂、桜坂にがけくずれがあり、また市内で床上浸水14戸、床下浸水230余戸が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 7月29日 社会・文化 金沢野球協会が市立工業学校野球場に建設中のスタンドが完成、記念野球大会がおこなわれた。スタンド観覧席の収容人員は2,000人で北陸最大のもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 8月8日 社会・文化 午前2時55分ごろ下中島町の箔工場から出火、工場1むねを全焼、1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 8月25日 社会・文化 午後3時ごろ大衆免中通から出火、2むねを全焼、1むねを半焼した。原因は放火と判明。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 9月1日 社会・文化 野町校下方面委員部は隣保事業の一つとして、金沢で最初の善隣館を建設するため、さる6月金沢市から無償貸与を受けた野町小学校跡の校地と校舎の一部を模様替え施工して、方面委員事務所を移し第一善館を開設した。資金は財団法人慶福会、県、市、市方面委員助成会、一般篤志家の寄金約4,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 9月9日 社会・文化 (江沼郡大聖寺町で大火。越前町、三ツ屋、西田町、馬場、中新道、中町、本町、京町、仲町、片原町、八間道で全焼355戸、半焼16戸を出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 9月21日 社会・文化 関西大風水害(室戸台風)。死者行方不明3,156人。石川県下では、正午ごろ秒速23メートルの台風が金沢付近を北進し、能登地方を中心に各地に被害を出した。金沢では樹木が倒れ屋根が飛び、犀川が7尺、浅野川が8尺増水、浅野川鈴見橋の橋脚が流出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 9月28日 社会・文化 金沢市方面委員事業助成会は卯辰山の小野慈善院跡を買収し、精神病者保護所を建築して現在の鈴見から移転することを決定した。明春から患者約100人を収容する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 10月1日 社会・文化 野町の第一善隣館に託児所が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 10月15日 社会・文化 財団法人ジャパン・ツーリスト・ビューロー(交通公社の前身)の案内所が金沢で初めて三越支店内に開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 11月2日 社会・文化 昭和7年5月24日焼失した野町尋常小学校の校舎が復旧完工、落成式がおこなわれた。工費9万余円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 11月8日 社会・文化 北陸地方最初のアマチュア無線局の設置が、石川郡戸板村字長田の四高生徒吉本正二に許可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月13日 社会・文化 市が金沢駅前に建設した金沢市観光会館が落成、開館式が挙行された。観光客の誘致サービス、市特産品の紹介等を目的とするもので木造3階建、建坪130坪、工費2万4,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月27日 社会・文化 午前5時ごろ上百々女木町の民家から出火、1戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和九年(1934) 12月28日 社会・文化 (羽咋郡眉丈山付近の「トキ」が「越の犬」とともに天然記念物に指定された。また七尾城址も史跡として同時に指定された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 1月9日 政治・経済 民政党金沢支部は、さきに市会の多数派自治会を脱退した市議6人を除名、6人側は逆に民政党脱党を声明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 1月15日 政治・経済 知事館哲二が内務省神社局長に転じ、後任に拓務省管理局長生駒高常が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 1月19日 政治・経済 (地方官官制の改正で石川県庁は経済部が新設され、総務、警察、学務の各部と合せて4部制となった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 1月20日 政治・経済 明倫会石川県支部の発会式が、仙石町教育会館で総裁田中国重大将らが出席して挙行された。石川県支部長は陸軍小将垣内豊楠、会員は県下在郷将校を中心に200余人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 2月12日 政治・経済 金沢市町名整理調査委員会の第1回委員会が開かれ、前島市企画局長から市当局案を説明した。市当局の手順は4月ごろから第7連区の整理案作成に着手し、11年末までに全市の整理案を作成、12年中に一切の帳簿類について変更の準備を終って、13年1月から町名整理を実施する予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 2月24日 政治・経済 野町5丁目に建築中の農林省金沢米穀事務所の落成式がおこなわれた。工費3万6,000円。(石川県が建築して農林省に寄付するもの) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 2月26日 政治・経済 市会は横山登ほか5議員提出の「第四高等学校郊外移転」の松田文相あて意見書を全会一致可決した。同校を郊外閑静の地に移転し、現在の敷地1万9,700坪を商業地域拡張のため使用することが、市の公益上緊要であるというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 2月26日 政治・経済 昨年水害、火災によって損壊した金沢市営の手取川5発電所は、108万5,000円で昭和10年度から4ヵ年継続事業として復旧することに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 3月29日 政治・経済 県参事会は昨年12月4日執行の金沢市会議員再選挙の当選者についての訴願に対し、県当局の裁決案通りさきの金沢市会の決定をくつがえして、56票の差で武谷甚太郎の当選を決定した。市会が昨年12月20日に、再選挙の結果(当選武谷、次点乾)を逆転させ、144票の差で次点の乾の当選を決定したことに対し、前川吉栄から県へ異議申し立てがなされていたものである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 3月30日 政治・経済 隣接12町村の金沢市編入問題をあっせんしてきた生駒知事は、町村側提出の希望条件に対し、市当局が具体的回答を避けて県一任の態度をとったことを不満として、あっせん打切りを正式に示達した。このため市は市会各派の協力を得て今後、町村側と直接交渉をして編入実現をはかることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 4月1日 政治・経済 北国新聞社は組合組織から株式会社に改組した。社長林政武、会長専務取締役飯尾次郎三郎、取締役嵯峨保二、林安繁、久保田可全。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 4月6日 政治・経済 沢野市会議長と5議員、久保助役らは市会で議決した「四高郊外移転」の意見書を文部省に提出し、松田文相以下文部首脳部に意見を求めた。これに対し文部省側は「財源上早急には困難が多い」むねを回答した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 4月13日 政治・経済 金沢市会議員の議員報酬が引上げられた。議員は年額250円を400円に、議長は400円を600円に、副議長は300円を500円に増額するもの。県は条例案の許可に当り「将来適当の時期に減額すべき」との条件を付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 5月1日 政治・経済 街角を削って小路の交通を便利にする金沢市の街角整理運動は、3月末までに約230ヵ所の街角土地所有者との間に了解が成立したので、市土木課はいよいよ街角拡張工事に着手した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 5月25日 政治・経済 第9師団が満州派遣を命ぜられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 5月31日 政治・経済 (県警察部の高等警察課が廃止された。高等警察課ができたのは明治44年である。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 6月1日 政治・経済 石川県選手粛正委員会が発足、委員29人が発令された。会長は知事、委員は県選出貴衆両院議員、県会議員と実業、教育、新聞、宗教の各界代表等。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 6月25日 政治・経済 満州派遣の第9師団(外山部隊)の師団司令部と在金沢の核部隊主力が、市民の盛大な歓送を受けて出発した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 6月30日 政治・経済 三越金沢支店は8月25日限りで東京に引揚げることを発表した。あとは金沢ビルディング会社が丸越百貨店(資本金50万円)として9月1日から営業を続ける。三越支店の開店は昭和5年11月15日であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 7月1日 政治・経済 市は水道の乱費防止のため放任給水を全廃して計量給水(メーター制)に改めた。このため7,300余戸に計量器を取りつけた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 7月5日 政治・経済 越野義久議員の失格に伴う金沢市会議員補欠選挙が4日おこなわれ、乾健多朗(中立)が市川潔(自治会)を破って当選した。市会の新分野は自治会20、市政同志会14、中立6。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 7月30日 政治・経済 (七尾線の穴水、輪島間が開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 8月8日 政治・経済 石川郡富樫村と潟津村の金沢市編入が隣接町村編入のトップを切ってまとまり、市会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 8月21日 政治・経済 金沢米穀取引所が一般正米取引の簡易化と市場振興のため、商工大臣に許可申請中の「銘柄取引」が許可された。現在の清算取引は単位100石期間3ヵ月だが、銘柄別取引では20石2ヵ月になる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 9月1日 政治・経済 8月25日限り引揚げた武蔵ヶ辻三越支店のあとに丸越百貨店が開店した。専務取締役林屋亀次郎、常務取締役芹沢春吉(前三越支店次長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 9月7日 政治・経済 石川郡大野町、米丸村、靴月村、粟崎村の金沢市編入が市会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 9月25日 政治・経済 県会議員選挙は24日おこなわれ、本日開票の結果民政党16人、政友会15人となった。金沢市の当選者は次の通り。武谷甚太郎(民政元)沢野外茂次(民政前)寺田直義(政友新)餝谷与右衛門(政友前)金田一次(民政前)吉川二三郎(民政新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 10月1日 政治・経済 第4回国勢調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は35,399世帯、人口163,733人(男79,897人、女83,836人)全国都市中第22位の人口であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 10月1日 政治・経済 (奥能登の穴水、飯田間に省営バスが開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 10月3日 政治・経済 省営バス金沢、福光線(29.4キロ)のうち石川県内分の金沢駅前、河北郡三谷村字古屋谷間9キロが開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 10月3日 政治・経済 金沢市の上水道は昭和7年以来、給水戸数1万戸を目標に毎年懸賞付き宣伝を続けてきたが、10月1日現在1万3,828に達したので明年度からは積極的宣伝は取りやめることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 10月22日 政治・経済 (県会は正副議長選挙をおこない、議長に武谷甚太郎、副議長に吉岡文吉=いずれも民政=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 10月28日 政治・経済 松任鉄道工場の開場式がおこなわれた。昭和4年11月着工、土地買収費19万円、建築費90万円、敷地19万8,000平方メートル、建築1万728平方メートル、全国20鉄道工場中最新式の工場である。(金沢旧工場は15日で作業を打切った) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 10月29日 政治・経済 石川郡崎浦村、三馬村、河北郡小坂村の金沢市編入が市会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 11月13日 政治・経済 広坂通に新築中の金沢市立金沢職業紹介所の落成式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 11月30日 政治・経済 金沢築港の前提となる大野川改修が、内務省の明11年度中小河川改修事業として予算閣議で決定した。改修案は7ヵ年継続事業、総工費110万円で負担区分は国庫補助40万円(うち11年度は4万)県費44万円、地元負担(金沢市と沿岸町村)26万円となっている。なお大野川改修の運動が開始されたのは昭和5年である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 12月2日 政治・経済 第9師団長外山豊造中将は参謀本部付に転じ、後任に陸軍省整備局長山岡重厚中将が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 12月16日 政治・経済 大野町と富樫、米丸、潟津、粟崎、鞍月の1町5村が本日正式に金沢市に編入された。編入により市の人口は174,658人となり全国で第22位から19位にあがった。編入の旧町村にはそれぞれ市の出張所が設置された。編入を祝う旗行列や多くの催し物で市中はにぎわった。編入町村の戸数人口は大野町373戸1,729人、富樫村295戸1,657人、米丸村574戸2,887人、潟津村238戸1,306人、粟崎村248戸1,255人、鞍月村385戸2,092人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 12月26日 政治・経済 金沢市の消防組は6町村の編入により、現在の18部制に15部を増加して33部制となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 12月31日 政治・経済 金沢市の土木課の調査によると、市内の国道、県道、市道の総面積33万9,695坪のうち、本年末までに舗装ずみ道路は4万7,000坪に達し、舗装率は14%となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 1月2日 社会・文化 午後5時半ごろ卯辰山山上(末広町)の飲食店鳥居亭から出火、1むねと納屋を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 1月15日 社会・文化 県立金沢一中の移転地は泉野出町と富樫村地黄煎の1万4,000坪に決定した。買収費は7万円(坪5円)、地主は約50人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 1月20日 社会・文化 戸水寛人死去。75歳。金沢市出身、法学博士、日露戦争前開戦論を唱えた帝大7博士の一人。明治41年帝大教授のまま金沢から代議士に当選、以後政友会に入り金沢市と能美郡から4回当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 2月11日 社会・文化 午後11時35分ごろ長町1番丁の材木工場から出火、工場と隣家の医院を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 2月14日 社会・文化 片岡市長、中島商工会議所会頭が主唱して金沢にロータリー倶楽部を創設することになり、創設準備会が仙宝閣で開かれた。各界有力者14人出席。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 2月25日 社会・文化 午前11時40分ごろ古道町1番丁の木箱製造工場から出火、5むねを全焼(うち納屋2むね)、3むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 2月26日 社会・文化 午前3時50分ごろ宗叔町2番丁の丸小人絹工場から出火、構内の工場2むね住宅1むねを全焼、寄宿舎土蔵等を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 3月10日 社会・文化 午前4時半ごろ元車町の民家から出火、同町の10戸と大豆田町浄住寺本堂を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 4月12日 社会・文化 午前4時50分ごろ金沢高等工業学校機械工学科鋳物室から出火、鋳物室、標本室、木型室、機械材料実験室、機械工学科事務室計2むね280坪を全焼した。(政府は6月8日復旧費17万6,000円の支出を決定した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 4月13日 社会・文化 旧出羽町練兵場に造営の第9師団官祭招魂社が落成、卯辰山の旧社殿から1万5,905柱の遷座祭がおこなわれた。新沼魂社は敷地2,656坪、総工費15万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 4月17日 社会・文化 金沢ロータリー倶楽部の発会式がおこなわれた。(10月17日国際ロータリー倶楽部3,841番に登録された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 5月1日 社会・文化 メーデー。金沢では行事は全くおこなわれなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 5月13日 社会・文化 金沢城石川門(表門左右太鼓塀、右門櫓付属左右太鼓塀)と尾山神社神門が国宝に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 5月25日 社会・文化 午後1時10分ごろ金石町字今町の製材工場から出火、製材工場1むね住家2むね浜納屋5むねを全焼、製材工場2むね住家3むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 5月25日 社会・文化 泉野町の金沢市立工業学校は、全校舎が完成したので校舎落成式を盛大に挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 6月1日 社会・文化 (県下の青年訓練所、補習学校が一斉に青年学校と改称、発足した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 6月2日 社会・文化 金沢市防護団の結団式が出羽町練兵所で挙行された。団員は16分団8,000余人、団長は片岡市長、顧問は知事、師団長ら。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 6月9日 社会・文化 卯辰山汐見坂高台に建てられ金沢箔中興の祖、安田屋孫兵衛の功碑除幕式がおこなわれた。建立者は金沢箔同業組合。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 6月12日 社会・文化 トーキー(発声映画)の進出で金沢松竹座が説明者3人、楽士4人を解雇したため、被解雇者側は解職予告手当等を要求して争議にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 6月23日 社会・文化 加藤茂男死去。68歳。金城高等女学校の創業者、昭和2年まで同校校長をつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 7月3日 社会・文化 日本画家大西金陽(久次郎)死去。81歳。奈良県五条の生れ、明治15年以来金沢に住み門下生200余人を育てるなど当地画壇に貢献するところ多かった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 8月11日 社会・文化 駒田好洋(万次郎)東京で死去。59歳。大阪出身、大正時代、毎年正月に金沢尾山座等で映画の興業をして金沢市民になじまれていた。日本最初の職業的映画説明者でもある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 8月 社会・文化 高岡町下藪ノ内宗林寺花山信勝が聖徳太子真筆法華義疎の研究で帝国学士院恩賜賞を受けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 9月11日 社会・文化 元第四高等学校長溝淵進馬京都で死去。69歳。高知県出身、明治44年から大正11年まで10年間四高校長をつとめ、大正13年卒業生たちの手で四高校庭に胸像がたてられた。現在三高校長在職中であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 9月20日 社会・文化 午後8時ごろ石川郡米丸村字下中から出火、住家、工場等4むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 10月25日 社会・文化 午後2時40分ごろ中堀川町の表具店から出火、商店3戸の2階を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 11月7日 社会・文化 貧困な精神病患者を収容する金沢市方面委員助成会経営の常磐町保護所が開所した(落成式は11年6月1日挙行)。助成会が卯辰山の旧小野慈善院敷地を1万4,500円で買収し、7,370円の工費で平屋建224坪の舎屋を建てたもの。病室は4むね18室で収容定員100人。(既設の鈴見保護所は定員25人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 11月17日 社会・文化 午前10時55分ごろ西側町の染色工場従業員住宅から出火、3戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 12月5日 社会・文化 金沢飛行場建設協会が結成された。会長は生駒知事、副会長は片岡市長、沢野市会議長と県会議長、県総務部長の4人。飛行場建設費は約30万円、うち半額国庫補助、半額地元寄付金で、所要敷地は約10万坪の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 12月15日 社会・文化 市は金沢国旗掲揚奉賛会の寄付で、卯辰山山上飛鳶台に国旗掲揚塔を建てた。鉄骨作りで高さ80尺、先端に照明灯がついた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 12月15日 社会・文化 午前1時50分ごろ石川郡大野町字藤江の機業工場から出火、工場5むねを全焼した。1人焼死。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十年(1935) 12月 社会・文化 加賀萬歳保存研究会が県市会議員有志、白梅会、金友会、八竜会等の発起後援で設立された。研究所は殿町65番地。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 1月22日 政治・経済 金沢都市計画街路事業が都市計画石川地方委員会で可決された。10年度から7ヵ年継続事業、総工費は310万円、施工区間は(10年度)六枚町、中橋踏切間(11年度)中橋踏切、深川町間および駅前、玉井町間(12年度)玉井町、長土塀6番丁間(13年度)長土塀6番丁、富本町間(14年度)富本町、長町小学校間(15年度)木ノ新保、極楽橋間および橋場町、玄蕃町2番丁間(16年度)長町小学校、片町間。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 2月22日 政治・経済 岡田啓介内閣のもとで衆議院議員総選挙が20日おこなわれ開票結果は次の通り。〔第1区〕当選29,951票 永井柳太郎(民政前)同17,383票 箸本太吉(政友前)同13,009票 神保重吉(政友新)次点11,152票 武谷甚太郎(民政元)〔第2区〕当選19,144票 桜井兵五郎(民政前)同13,738票 益谷秀次(政友前)同12,648票 喜多壮一郎(民政新)次点12,560票 青山憲三(民友前)3,921票 大森玉木(民政新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 4月1日 政治・経済 石川郡崎浦村、三馬村、河北郡小坂村が正式に金沢市に編入された。昨年12月16日の1町5ヵ村の編入と合せて1町8ヵ村の合併が成立した。市の新人口は186,905人、9ヵ町村編入前より23,172人の増加となり全国第17位となった。金沢市内では小学生の旗行列はじめ多くの祝賀行事が催された。編入町村の戸数人口は崎浦村566戸3,155人、三馬村658戸2,966人、小坂村1,229戸6,125人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 4月1日 政治・経済 金沢市内電話の通話料金が定額制から度数制になった。市内通話度数料は1回3銭。金沢郵便局の電話加入者数が5,100人に達し、電話規則の5級地(2,000人以上)から4級地(5,000人以上)に昇格したため、度数制になったものである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 4月11日 政治・経済 市は市役所の企画局を廃止した。同局に属していた調査課は解体し、都市計画課と建築課を独立課とした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 4月20日 政治・経済 片岡市長は市政の懸案一段落を機に、健康のすぐれないことを理由に辞表を久保助役に提出した。(市会は8月29日慰労金1万円贈呈を議決した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 4月21日 政治・経済 金沢築港、北陸鉄道局、金沢駅改修の実現をめざす金沢市民大会が市公会堂で開かれた。主催は金沢築港期成同盟会と金沢鉄道局期成同盟会。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 5月1日 政治・経済 市は新編入地域に町総代を置いた。その町に住む公民から市長が選任するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 5月25日 政治・経済 金沢市選出の県会議員餝谷与右衛門(政友)は選挙事務長の選挙違反事件から議員を辞職、このため昨年9月の選挙で次点の辻本辰之助(政友)が繰り上げ当選になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 6月1日 政治・経済 陸軍の編成改革により金沢の工兵第9大隊は工兵第9連隊に、輜重兵第9大隊は輜重兵第9連隊になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 6月3日 政治・経済 (北陸鉄道局は新潟に設置と決定した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 7月1日 政治・経済 県は大蔵省の銀行整理方針にもとづき、県下の本店銀行19行に対し整理合併の勧奨に乗出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 7月6日 政治・経済 飛行場建設協会は金沢飛行場建設費の寄付金16万円の募集を決定した。内訳は前田家から3万円、市内特別募集(法人関係)8万1,000円、市内一般募集1万9,000円(市民1戸平均50銭)、市外特別募集3万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 7月30日 政治・経済 市会は市長選挙を行ない、市会議長沢野外茂次(民政)が第10代金沢市長に当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 8月9日 政治・経済 金沢、七尾間の産業道路開設促進のため金沢、七尾間道路改良期成同盟会が結成された。会長は沢野金沢市長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 8月22日 政治・経済 金石港期成同盟会は金石町公会堂で金石港修築促進町民大会を開き、県に対し運動を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 8月23日 政治・経済 内務省の中小河川改修に編入された大野川改修事業案が臨時県会で可決され、昭和11年度から7ヵ年継続事業として施工されることになった。総工費は110万円、うち金沢市負担金は26万円、国庫補助40万円。工事は河口から機具橋間4,490メートルの両岸に築堤し、一部川幅を拡張するほか河口には右岸240メートル、左岸200メートルの突堤を出す計画。県の直営工事で11年度は11万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 9月5日 政治・経済 金沢郵便局電話課が金沢電話局に昇格した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 9月17日 政治・経済 金沢、大聖寺間国道改修期成同盟会が結成された。会長は沢野金沢市長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 9月19日 政治・経済 金沢市の第1期都市計画事業起工式が六枚町交番前広場で挙行され、閉式後市公会堂で関係者150余人が出席して祝賀会を催した。(事業は7ヵ年継続、総工費310万円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 10月7日 政治・経済 新竪町3丁目通りの道路拡張と舗装工事が完成、開通式が天狗広見でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 10月26日 政治・経済 大アジア協会金沢支部の発会式が、本部から松井石根大将らが出席して仙宝閣ホールで挙行された。知事、市長らが顧問に就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 11月11日 政治・経済 隣接町村編入により金沢市と石川、河北両郡の人口に異動が生じたので、県は市制ならびに町村制の規定により、金沢市と両郡の人口を11日付で次の通り告示した。金沢市184,286人、石川郡75,294人、河北郡60,558人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 11月16日 政治・経済 市会は正副議長選挙をおこない、議長に副議長吉田宗一(自治会)、副議長に松倉清次郎(中立)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 11月16日 政治・経済 市会は金沢駅改築(改築費15万円)に対する市の寄付金3万円の支出を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 11月20日 政治・経済 思想犯関係者の保護観察に当る金沢保護観察所が大桑町に開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 11月25日 政治・経済 政友、民政両党石川県支部は通常県会の開会に際し、県官僚陣との対決を意味する「両党連携して民意ちょう達にまい進する」との異例の共同声明を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 12月1日 政治・経済 第9師団長山岡重厚中将は参謀本部付に転じ、後任に金沢市出身の騎兵監蓮沼蕃中将が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 12月13日 政治・経済 社会大衆党金沢支部の結党大会が河上丈太郎、浅沼稲次郎両代議士らを迎えて西町仏教青年会館で開かれ、引続き時局批判大演説会が催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 12月25日 政治・経済 (予算県会は巡査15人増員を削除、機密費2,000円を削減して予算案を修正議決、閉会した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 12月25日 政治・経済 昨年6月渡満した第9師団将兵の現在までの戦死、戦病死者は計143人、負傷者は162人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 1月18日 社会・文化 午前11時25分ごろ高岡町上藪ノ内から出火、住家1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 1月28日 社会・文化 飯尾次郎三郎死去。67歳。明治37年から市会議員2期、大正2年から市助役2期、大正8年5月から3年間市長をつとめた。多数の会社の役員をつとめ北国新聞社会長でもあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 2月9日 社会・文化 午前5時45分ごろ下本多町6番丁の金沢市電気水道局2階会計課から出火、本館、営業所、会計課の3むねを全焼、技工だまり1むねを半焼した。焼失坪数450坪、損害約7万5,000円。(火災保険約4万5,000円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 2月13日 社会・文化 (大雪によるなだれのため、1月31日以来不通の福井県杉津駅付近がようやく復旧、北陸線は2週間ぶりに開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 2月16日 社会・文化 中野観象死去。63歳。元県立金沢商業学校長として実務教育の振興に尽した。退職後金沢商業会議所理事を10余年つとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 2月22日 社会・文化 午後6時5分ごろ木ノ新保の理髪店2階から出火、隣接5戸の2階を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 3月13日 社会・文化 (大本教が解散を命ぜられ、江沼郡月津村に建設中の北陸別院も取払われることになった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 4月1日 社会・文化 市の調査によると昨年12月16日の6ヵ町村、本日の3ヵ村の編入により金沢市の神社の数は118社になった。(旧市内は50社) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 4月13日 社会・文化 (羽咋郡河合谷村の禁酒10周年を記念して、全国禁酒大会が同村で盛大に挙行された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 4月28日 社会・文化 恩賜財団済生会金沢診療所が弓ノ町に新築落成、開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 4月 社会・文化 小野慈善院幼年部に農繁期託児所が併置された。春秋2期、付近農村幼児の保育をするもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 5月1日 社会・文化 メーデー。金沢では行事は全くおこなわれなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 5月10日 社会・文化 県体育協会の医王山青年宿舎の完成記念式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 5月20日 社会・文化 午後9時10分ごろ東馬場三浦製箔工場から出火、同工場(2階建38坪)を全焼、多量の金銀箔も焼失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 6月5日 社会・文化 午後3時25分ごろ約15分間にわたり金沢地方にかなりの地震があった。金沢測候所の観測では最大震幅東西1.3ミリ南北0.9ミリ、弱震の弱で震源地は金沢南東30キロ、石川、富山、岐阜3県境の笈岳付近。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 7月20日 社会・文化 香林坊のカフェー銀座会館が閉店した。昭和6年9月大阪赤玉支店として金沢に進出したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 7月27日 社会・文化 午後9時20分ごろ新竪町3丁目の飲食店から出火、1むねを全焼、1むねを半焼、2むねの一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 7月28日 社会・文化 武蔵ヶ辻呉服商田守太兵衛死去。56歳。金沢商工会議所議員を20年つとめ、金沢呉服商組合長などもした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 8月30日 社会・文化 県酒造組合連合会長坂野権次郎死去。63歳。市会議員3期、県会議員2期、市会議長も2期つとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 9月15日 社会・文化 市会の決議により派遣される在満第9師団将兵慰問団11議員が出発した。(10月4日帰沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 10月14日 社会・文化 (県統計課調査による本年3月末現在の県下の自動車数は、乗用車679台、貨物自動車483台、小型車294台である。人力車は114台。前年3月末に比べ自動車の増加数は約300台。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 10月16日 社会・文化 国宝尾崎神社の神門と玉垣の改築工事が完成、新築慶賀祭が盛大に挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 10月21日 社会・文化 ベルリン・オリンピックに出場した金沢出身の大島鎌吉(陸上)柴原恒男(水上)と小松出身の明文一(水上)3選手の県民歓迎会が兼六園長谷川邸跡で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 11月15日 社会・文化 漢学者黒本稼堂(植)死去。79歳。金石町銭屋与右衛門の子、のち二塚村農家八兵衛の養子となった。藤田容斎の門に入り「稼堂叢書」ほか数百の著述を残し、昭和4年蔵書約2,000を市立図書館に寄贈した(稼堂文庫)。有雲庵、衆白堂主人、化化道人などの号がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 11月15日 社会・文化 金沢で最初のアパート松山荘が有松町町端にできた。松任町吉田茂平が工費7万5,000円で建てたもので建坪400坪(延べ800坪)洋室36、和室27、和洋室12他に食堂、男女浴室、応接室、娯楽室、売店がある。室代は8円50銭から16円50銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 11月20日 社会・文化 金沢検事局は11月8日から県下政界人を主とする紳士賭博事件を摘発し、現在までに県議兼市議2人、県議5人、市議3人、消防組頭ら2人、県庁課長ら3人を検挙した。(最終的には全県市議のそれぞれ約3分の1が連座した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 11月21日 社会・文化 片町に映画常設館金沢劇場が落成、開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 12月1日 社会・文化 米村吉太郎死去。75歳。明治28年金沢市で医師開業、県市医師会長、県市会議員として活躍し、日本医師会より再三表彰された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 12月26日 社会・文化 石川県土木疑獄の予審が終結、県吏12人、請負業者7人計19人が起訴、公判に付された。事件は、兼六園の園樹伐採にからむ園丁と茶店との贈収賄発覚が端緒となり、本年6月30日検挙に着手したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十一年(1936) 12月28日 社会・文化 金沢検事局が摘発した県下知名人の紳士賭博の連座者40余人中、不拘束の20人(うち市議9人)が略式処分により罰金に処せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 2月2日 政治・経済 広田内閣総辞職、宇垣内閣流産のあとを受けて林銃十郎(金沢出身)内閣成立。陸相中村孝太郎、商相兼鉄相伍堂卓雄の両金沢出身者も入閣した。林に大命降下の翌30日、金沢市会は松倉副議長ら13議員をお祝いに上京させた。市、県、会議所共催の林内閣成立祝賀会が3日公会堂で約2,000人出席して開かれ、また同夜は市内各校下でちょうちん行列が行なわれた。(中村は2月9日腸チフスのため陸相を辞任) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 2月10日 政治・経済 林内閣成立後初の地方長官異動が行なわれ、知事生駒高常は退職して大日本連合青年団常務理事に就任、後任に秋田県知事児玉政介が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 2月11日 政治・経済 金沢飛行場は河北潟沿岸河北郡川北村東蚊爪の約12万坪(地主58人)に決定、土地買収契約が正式に成立した。総工費は35万円、半額は逓信省補助金、半額は金沢飛行場建設協会の寄付金により、金沢市の11、12両年度の継続事業として施工する(26日の市会で可決)。工事請負は大阪市佐伯組で4月着工。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 2月26日 政治・経済 金沢市農会の改組が終り会長に沢野市長が選任された。会員7,122人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 3月27日 政治・経済 石川郡野々市町の金沢市編入は市長、町長が11日編入協定に調印し、金沢市会は12日全員一致で編入を可決した。野々市町会は13日8対1で可決したが議事録に「全員一致可決」と記載して上申したため、県は町民反対派の編入反対運動の激化も考慮して、やり直し町会の招集を指示した。やり直し町会は18日開かれ7対3で編入を可決したが、全員一致を欠くので県は内務省に対する合併認可の申請を留保し、4月1日の町会議員改選後に処理を持ち越した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 3月29日 政治・経済 卯辰山一帯177.45ヘクタールを「卯辰山風致地区」に指定する件が都市計画石川地方委員会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 3月29日 政治・経済 金沢商工会議所議員の選挙がおこなわれ、無競争で32議員(再選22人、初当選10人)が決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 3月31日 政治・経済 日本銀行金沢支店長吉田忠郎は本店検査役に転じ、後任に本店秘書役鈴木享市が任命されました。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 4月1日 政治・経済 市は工場誘致策として金沢市工場開設奨励規程を施行した。市内に新設の建坪50坪以上、職工20人以上を使用する工事に対し、不動産取得税の市税付加税相当額と5年間、地租、家屋税、営業収益税の市税付加税相当額の奨励金を交付するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 4月1日 政治・経済 金沢市消防組は3部を廃して常備部のほか43部とし、消防手を約400人整理し約1,400人に改めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 4月2日 政治・経済 野々市町の町会議員選挙結果は金沢市編入賛成派と反対派が6対6となった。従って野々市町の金沢市編入は当分見込みがなくなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月1日 政治・経済 金沢地方海軍人事部が開庁した。仮庁舎は成巽閣、職員は13人、北陸3県の海軍兵の徴募、簡閲点呼等の事務を扱うもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月1日 政治・経済 街鉄の金沢市内バス料金が区間制から均一制に変り、8銭均一になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月2日 政治・経済 林内閣による解散で衆議院議員総選挙が4月30日おこなわれ、開票結果は次の通り。〔第1区〕当選22,400票 永井柳太郎(民政前) 同18,970票 長谷長次(中立新) 同14,232票 箸本太吉(政友前) 次点9,116票 関戸寅松(民政元)6,963票 神保重吉(政友前)〔第2区〕当選16,076票 桜井兵五郎(民政前) 同15,730票 青山憲三(政友元)同12,520票 喜多壮一郎(民政前)次点11,653票 益谷秀次(民政前)3,103票 東善作(中立新)1,864票 朝倉昇(中立新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月5日 政治・経済 内務省は金沢市の都市計画整理区画と風致地区を決定、告示した。都市計画整理区画=北安江町諸江町(23万5,500坪)金沢市風致地区=卯辰山および周辺地域(177.45ヘクタール)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月13日 政治・経済 在満2年の任を終って第9師団が内地帰還、その第一陣として師団司令部と歩兵第6旅団司令部が金沢に帰った。在満中の師団の戦死戦病者は180人(うち歩兵第7連隊30人)、戦傷者は191人(うち歩兵第7連隊34人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月25日 政治・経済 (羽咋郡邑知村村会議員に全国農民組合県支部から立候補した円山定盛が当選。県下初の無産党議員である。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 6月1日 政治・経済 市役所の戸籍課が戸籍兵事課になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 6月4日 政治・経済 林内閣総辞職(5月31日)のあとを受けて近衛内閣が成立し、永井柳太郎が逓信大臣として入閣。金沢市会から代表12議員がお祝いに上京した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 6月5日 政治・経済 林前首相の思想と信念を継承し祭政一致の国民的啓発運動をめざす「昭和一新会」の発会式が、三宅雪嶺らを迎え市公会堂で挙行された。同会は林内閣の末期、首相擁護の郷土団体として県下有志により設立準備中のものであった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 6月24日 政治・経済 金沢市会の市政同志会(8議員)が解体した。8議員は今後、中立として行動する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 6月29日 政治・経済 金沢港建築の基礎となる県営大野川改修事業の起工式が、河口右岸砂丘で盛大に挙行された。事業は7ヵ月継続、総工費110万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 7月4日 政治・経済 金沢飛行場の起工式が、敷地の川北村東蚊爪河北潟湖畔で永井逓相、前田利為ほか多数参列して挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 7月16日 政治・経済 7日以来の北支における日支の衝突が全面戦闘へ発展する情勢に、石川県下もようやく緊張とあわただしい空気がみなぎっている。金沢市会は本日全員協議会で政府の方針支持を決議し、ただちに近衛首相へ打電した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 7月29日 政治・経済 (農林省は8月7日から5年間、石川県下におけるタヌキ、キツネ捕獲禁止を指令した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 8月26日 政治・経済 第9師団長蓮沼蕃中将は中部防衛司令官に転じ、後任に近衛師団司令部付吉住良輔中将が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 8月20日 政治・経済 第109師団編成の動員が下令された。(師団は9月8日宇品を出発して北支に上陸。黄河作戦、河北かん定戦、山西粛清戦、北部山西作戦、寧武攻略戦、五台作戦、晋東作戦等に参加し、14年12月復員下令、15年1月復員解体した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月9日 政治・経済 第9師団に動員が下令された。(連隊長伊佐一男の率いる歩兵第7連隊は21日金沢を出発。師団は中支派遣軍の中核兵団として上海、南京、徐州、武漢の各作戦に参加し湖南省粤漢線付近の警備の後、14年6月8日復員下令、7月帰還して復員を完結) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月16日 政治・経済 金沢市は、出征軍人遺家族中生計困難なものに対して、市税を応召翌月から減免することに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月28日 政治・経済 国民精神総動員第1回石川地方委員会が県庁で開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月29日 政治・経済 卯辰山の散策道路帰厚坂と帰厚橋が完成した。帰厚坂は天神橋登り口から旧帰厚坂頂上に至る延長800メートル、幅2間半。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 10月12日 政治・経済 寺田直義議員の辞職による金沢市選出県会議員補欠選挙が11日おこなわれ、12日開票の結果乾健多朗(中立新)が村本惣太郎、宮本友吉を破って当選した。県会の新分野は民政15、政友14、中立2。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 10月24日 政治・経済 (石川県情報委員会が設置された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 11月10日 政治・経済 今春来工事中の卯辰山公園の給水工事(配水管、集水筒、水源タンク、モーター所)が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 11月15日 政治・経済 金沢市農会の総代総会は副会長に市助役久保豊四郎を選任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 12月5日 政治・経済 日支事変下の金沢市会議員選挙が4日執行され、本日開票の結果、民政党22人、政友会7人、青年党1人、中立10人が当選した(立候補70人)。無産党は社会大衆党、革新系中立とも落選。首位当選は772票、最下位当選は302票。当選者次の通り。村本惣太郎、金田一次、岡島友作、水野宗次郎、前川吉栄、山本利行、中川外吉、高瀬与吉、田原太三郎、赤崎治一、朴木元次郎、浅井嘉久治、武谷甚太郎、吉川二三郎、森田伊三郎、宮本友吉、荒木幸次郎、北山八郎、園谷音吉、尾本伊三郎、山崎助八、常川兵次(以上民政党)新谷喜一、小林清吉、吉田政次、江川為信、池田久太郎、上野利喜雄、重山徳好(以上政友会)加賀谷源吾(青年党)加藤与吉郎、見砂原国、乾健多朗、伊藤与三郎、桜町茂助、和田貢、森岡武吉、上野彦助、横山登、新田蒼(以上中立) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 12月15日 政治・経済 市会は正副議長選挙をおこない、議長に朴木元次郎(民政)副議長に前川吉栄(民政)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 12月16日 政治・経済 市会の中立および政友会議員14人が金沢市政革新同盟を結成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 12月24日 政治・経済 金の使用制限が実施されることになったので、金沢の産業では金箔を筆頭に九谷焼、蒔絵、象眼、金屏風がすべて打撃を受けることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 1月7日 社会・文化 商店法案制定資料として金沢商工会議所が政府の委嘱により、市内で50人以上の販売従業員を使用する商店を調査したところ、該当商店は丸越(297人)宮市大丸(184人)宇都宮書店(69人)の3店であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 3月9日 社会・文化 午後0時20分ごろ大工町の民家から出火、3戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 3月16日 社会・文化 午前6時20分ごろ竪町の食料品店から出火、同店2階を焼き、隣接の救世軍金沢小隊の一部も焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 4月1日 社会・文化 金沢市立商業学校は新学年から修業年限2年制を3年制に改めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 4月1日 社会・文化 金沢市立無料法律相談所が広坂通の職業紹介所に開設された。相談係は金沢弁護士会(27人)全員で担当し、毎週月、金の2日開く。所長は市社会課長の兼務。市営の法律相談所は全国最初という。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 4月4日 社会・文化 河北郡内灘村向粟崎から出火、12むねを全焼、3むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 4月28日 社会・文化 ひとのみち教団に結社禁止命令が下され、西町の金沢支部も閉鎖された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月4日 社会・文化 午後3時半ごろ高岡町のふろ屋から出火、7戸を全焼、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月12日 社会・文化 (江沼郡山代町で大火、全半焼122むね。原因は放火。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月13日 社会・文化 金沢市会議長吉田宗一死去。54歳。医師、大正10年から市会議員5期。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月18日 社会・文化 金沢市連合社会教育員会は、さきに生活改善実行事項の一つとして「香典はなるべく現金とし、蒸籠(セイロ)の積み重ねは廃止すること」等をきめた。これに対して金沢生菓子商組合(業者80余軒)は本日、商工会議所と県に善処方を陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 5月19日 社会・文化 県議、市議を中心とする紳士賭博事件に対する判決公判が金沢地方裁判所で開かれ、被告21人に対し最高1,000円から200円までの罰金刑が言渡された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 6月9日 社会・文化 三重苦のヘレン・ケラー女史が来沢、市公会堂で講演した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 7月25日 社会・文化 県立金沢第一中学校は本多町の旧校舎から富樫町の新校舎へ移転を終了、移転式を挙行した。(新築落成式は11月21日挙行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 8月5日 社会・文化 上松原町ホテル「源円」は土地家屋を某医師に4万9,000円で売却して閉業した。同ホテルは明治17年富山市富山ホテル源家の養女源円が創業したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 8月10日 社会・文化 第四高等学校長小松倍一が勇退し、松江高等学校長菰田万一郎が後任に任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月1日 社会・文化 市は野町第一善隣館、弓ノ町第二善隣館、小将町第三善隣館および職業紹介所階上の4ヵ所に金沢市軍事扶助相談所を開設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月5日 社会・文化 動員による応召軍人と見送り人等のため、昨今の金沢駅の乗降人員は平日の数倍に達し、また市内旅館は満員、一般民家のほか寺院等にも多数宿泊している。一方、市内人口急増のため市内の飯米が払底しているので、県は農林省に交渉の結果、米穀倉庫の11年産米を市内業者にどしどし供給することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月11日 社会・文化 「飲むと弾丸があたらない」というので知られる金沢市北郊(旧小坂村)福久区の「金戸の水」は石川、富山両県下からの人で連日大にぎわいである。(井戸は森本駅から徒歩で西へ約20分) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月12日 社会・文化 「稿本金沢市史・政治編第二」が刊行された。時局の関係もあって稿本金沢市史は本編で刊行が打ちきられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月13日 社会・文化 午後4時10分ごろ金石町字古川町のロープ工場から出火、民家5戸と4ロープ工場および材木小屋6むねを全焼、1製材工場を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 9月25日 社会・文化 県は支那事変出征部隊に初めて送る慰問袋2万8,500個の割当を各市町村長に通知した。慰問袋1個の価格は50銭見当として、現金応募も差しつかえないことにしている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 10月9日 社会・文化 金沢市は市出身戦死者の葬儀は町葬、校下葬を廃し全部市葬で行なうことを決定した。市葬費用は僧職の奉仕により1回約100円を見込んでいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 10月22日 社会・文化 金沢市の軍事扶助はついに1,000件を突破した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 10月28日 社会・文化 上海戦線大場鎮、江湾鎮陥落の報に金沢市は全市小学校5年生以上児童による上海戦勝祝賀ちょうちん行列を27日夜、また全市小学校女児による旗行列を28日昼挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 10月30日 社会・文化 金沢市教育会は「堅忍持久打勝つ国難」の標語を全市各戸に配布した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 11月10日 社会・文化 尾張町小鍛冶市左衛門死去。82歳。金物商、30数年間市会議員をつとめ昭和10年自治功労者として市から表彰された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 12月11日 社会・文化 南京陥落の報に金沢市中はわき立ち、招魂社で知事、市長ほか官民代表約300人が参列して戦勝奉告と武運長久祈願祭、また公会堂で官民代表約1,000人出席の祝賀会がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十二年(1937) 12月25日 社会・文化 金沢浴場組合は本日から朝ぶろを廃止した。燃料節約と時局がら朝ぶろを遠慮するものもふえて客足が減ったため。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 1月11日 政治・経済 知事児玉政介が新設の厚生省体力局長に転じ、後任に長野県知事近藤駿介が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 1月12日 政治・経済 民政党石川県支部長武谷甚太郎が支局長を辞任、後任は関戸寅松に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 1月21日 政治・経済 燃料節約のため金沢、福光間の金福バスは、本日から当分の間運転休止になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 1月22日 政治・経済 大蔵省は金沢金箔業者に対し、金地金使用制限を緩和して1ヵ月10貫目の金地金を配給することにした。(制限前は1ヵ月約30貫使用) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 2月8日 政治・経済 郷土出動部隊将兵慰問の石川県派遣慰問使として沢野金沢市長、武谷県会議長、山口県学務部長の3人が金沢を出発、中支へ向った。(沢野市長は2月22日帰沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 2月14日 政治・経済 燃料統制に対処して犀川の1連区方面自動車業者18軒が合同し、資本金20万円の犀川合同タクシーを設立した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 2月24日 政治・経済 昨日、支那機が日支事変発生後はじめて台湾を空襲したので日本内地も緊張、金沢市防護団ではさっそく防火と防空についての注意書を全戸に配った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 2月28日 政治・経済 日支事変後はじめて編成される昭和13年度金沢市予算案833万5,000余円(うち一般会計予算316万72円)が予算市会で無修正成立した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 3月1日 政治・経済 日本銀行金沢支店長鈴木享市は上海駐在参事に転じ、後任に本店検査役岩坪友至が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 3月7日 政治・経済 金地金の1ヵ月10貫目配給により、金沢金箔業者は昨年12月18日休業以来80日ぶりで操業を再開した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 3月8日 政治・経済 防空法の実施により金沢市防空委員会が設置された。委員は各界の代表20人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 3月19日 政治・経済 金沢市会の北支ならびに満鮮産業港湾視察団12人が出発した。(4月13日帰沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 3月29日 政治・経済 金沢市都市計画区域に石川郡金石町、野々市町、大野村、二塚村、押野村、河北郡川北村を追加する件が都市計画石川地方委員会で決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月11日 政治・経済 政友会石川県支部は、神田重義死亡後空席中の支部長に代議士箸本太吉を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月29日 政治・経済 市は自治制発布50周年記念式を挙行し、3期以上勤続の市会議員と15年以上勤続市吏員の表彰をおこなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 5月6日 政治・経済 市会議員山本利行が選挙違反で失格し、昨年の選挙で次点の西野十陛(中立)が繰上げ当選となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 6月1日 政治・経済 灯火管制規則の公布により金沢市の警戒管制は、甲管制区域から乙管制区域に変更され、警戒管制の程度が緩和された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 6月6日 政治・経済 金石港修築起工式が盛大に挙行された。総工費35万円、12年度から5ヵ年継続の県営修築事業として昨年夏着工されたが、いよいよ海上作業に移るのを機に挙行したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 6月14日 政治・経済 市は広坂通の市職業紹介所内に金沢市軍事援護相談所を開設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 6月16日 政治・経済 金沢市から湯涌、西赤尾村(富山県東砺波郡)を経て岐阜県鳩ヶ谷町に至る産業資源開発路線「金鳩道路」開さく問題を調査のため、材木市会議長ら市会と商工会議所の合同調査隊24人が高山市を出発、途中1泊して30里を踏査した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 6月27日 政治・経済 市会議員山崎助八が選挙違反で失格し、昨年の選挙で次点2位の石川助次郎(民政)が繰上げ当選となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 6月30日 政治・経済 金沢商工会議所交通部は、さきに踏査した産業開発道路金鳩線の開さく促進陳情書を、沢野市長と近藤知事に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月1日 政治・経済 綿製品の売買制限が6月29日突然おこなわれ、本日から綿製品配給統制規則が実施されて金沢市民の生活にも戦時経済色が次第に加わってきた。(商工省はひきつづき7月中旬までに連続的に人絹、羊毛、銅、鉄等30品目にわたり消費制限ないし禁止の省令を公布実施した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月1日 政治・経済 金沢市職業紹介所が国営に移管された。所長は東京市中央職業紹介所員辻助左衛門。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月1日 政治・経済 金沢電気軌道会社は大型木炭バスを購入、運転を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月5日 政治・経済 金沢箔同業組合は金箔のストックが200万枚に達したので、7月中休業することになった。またアルミ箔は原料入手不能のため製造を中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月5日 政治・経済 第1回石川県地方物価委員会が県庁で開かれ、県下の小売物価の標準最高価格(公定価格)を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月18日 政治・経済 市は昭和10年度から施行中の都市計画事業は、12年度分を最後にいったん打切ることに決定した。軍事費増大に伴う政府の地方債起債の不許可方針によるもの。市の都市計画は結局、六枚町ー長田町小学校前間が完成ずみ、駅前合同運送横ー六枚町交番が年内完成予定で、他の三ツ口、極楽橋、玄蕃町の3線は未着手のまま打切られるわけ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月22日 政治・経済 市助役久保豊四郎が任期満了で退職した。在職4年、東京に引揚げる。(市会は8月29日慰労金4,000円を議決した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月23日 政治・経済 石川県地方物価専門委員会は170品目の県下標準最高価格を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月30日 政治・経済 市会は市助役に市電気水道局長尾戸次作の就任を決定した。電気水道局長には同局技師長広瀬先一が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月2日 政治・経済 中部防衛司令部から中部防空管区内において、灯火管制の一部ならびに音響管制の実施が発令された。県は広告看板装飾灯類と特別屋外灯類を「秘匿すべき灯火」に指定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月16日 政治・経済 臨時地方財政補給金の一般補給金が人口5万以上の都市にも交付されることになり、金沢市へも初めて1万3,427円配分された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月17日 政治・経済 石川県の経済戦強調週間が実地された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月18日 政治・経済 浅野川天神橋が完工、渡橋式が挙行された。地元7町が橋両端で祝いのもちまきをするなど、戦時下には珍しいにぎわいであった。工費3万5,660円、鉄筋コンクリート造り、中央に6メートルの車道、両側に2.5メートルの歩道があり、延長47.6メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月18日 政治・経済 灯火管制の一部ならびに音響管制が解除され、金沢市内は半月ぶりにネオン、広告灯、屋外照明灯が点灯された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月19日 政治・経済 金沢と岐阜県鳩ヶ谷をつなぐ金鳩道路期成同盟会の発会式が、金沢商工会議所で挙行された。会長は朴木市会議長、副会長は前川市会副議長と辻商工会議所交通部長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月29日 政治・経済 市会議員宮本友吉が議員を辞職、昨年の選挙で次点3位の諸橋伊右衛門(民政)が繰上げ当選となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月29日 政治・経済 市会は任期満了の市収入役小竹芳朗を3選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 9月10日 政治・経済 (能登の本店銀行7銀行が合併、能和銀行が創設された。頭取西野勇喜知。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 9月13日 政治・経済 市会議員和田貢の死去に伴い、昨年の選挙で次点4位の西村与儀(中立)が繰上げ当選となった。市会の新分野は自治会24人、一二会(中立、政友の合同団体)14人、無所属2人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 10月1日 政治・経済 石川県金沢測候所は国立に移管(文部省所管)されて、中央気象台金沢支台と改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 10月11日 政治・経済 金沢市会は完成した金沢飛行場の国営移管(国家献納)を満場一致可決した。飛行場は河北郡川北村字東蚊爪地内12万1,366坪、総工費42万5,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 10月15日 政治・経済 金沢飛行場の完工式と国家献納式が、高岡町高等小学校講堂で永井逓相はじめ約1,000人が参列して挙行された。(雨のため飛行場では祭典のみ執行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 11月1日 政治・経済 金沢地方海軍人事部が本多町旧金沢一中敷地内600坪に完成、成巽閣の仮庁舎から移転した。鉄筋2階建、建坪145坪、工費8万4,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 11月4日 政治・経済 市は政府の方針にもとづき、昭和13年度一般会計予算で51万8,759円減額の実行予算を作成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 11月6日 政治・経済 社会大衆党石川県連合会が結成され、県連合会長に金沢支部長岡良一が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 11月14日 政治・経済 (手取川美川大橋の完工式がおこなわれた。延長393メートル、工費14万円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 12月10日 政治・経済 北陸線金沢、津幡間の複線工事が完成、開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 12月15日 政治・経済 2回も期限を延長され、本年末がふき替え期限になっていた金沢市の家屋屋根の不燃物ふき替えは、戦時下で資材高騰と入手難のため、無期限に実施を延長されることになった。県保安課の調査によると、金沢市内の石ころ屋根はまだ1,734戸もある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 1月28日 社会・文化 県は応召軍団家族の副業として、金沢の2善隣館はじめ県内15ヵ所に縫製作業場を設け、陸軍被服廠の夏シャツ縫製作業をさせることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 1月25日 社会・文化 市は銃後家庭に対する授産用にミシン30台を購入、市内善隣館その他に備えつけた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 2月3日 社会・文化 午前1時45分ごろ上弓ノ町金沢医大大里俊吾教授宅から出火、同家(70坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 2月25日 社会・文化 金沢で最後に残ったダンスホール下新町の水野ホールが廃業、閉鎖した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 3月1日 社会・文化 初めての石川県満蒙開拓青少年義勇軍513人(うち金沢市の応募者31人)が県会議事堂での壮行会の後、赤だすきで市中行進をして金沢駅を出発、茨城県内原訓練所に向った。約2ヵ月間訓練を受け渡満する。(義勇軍の年齢は15歳から20歳) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 3月3日 社会・文化 県水産界の長老野村喜一郎死去。71歳。明治43年から市会議員を2期勤め、金沢鮮魚問屋社長、魚商組合長等として水産界に活躍したほか、支那貿易にも関与した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 3月25日 社会・文化 午前1時50分ごろ小立野大音町から出火、1戸を全焼、1戸の一部焼失、火元の老人1人が焼死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 3月28日 社会・文化 午後9時30分ごろ小立野上鶴間町から出火、住家1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月1日 社会・文化 金沢市立実科高等女学校(高岡町校内、高小卒2年制)と市立商業学校第二本科(高小卒夜間2年制)同専修科(高小卒夜間1年以内)、市立工業学校第二本科(高小卒夜間2年制)が新設された。これに伴い市立女子実業青年学校と市立商科青年学校、市立工科青年学校が明年限りで廃止される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月1日 社会・文化 兼六園の小立野口と兼六会館横口に高さ2尺8寸の焼き杉木のサクを2尺7~8寸間隔に立て、その他の入口には「車馬止め」の制札を立てた。禁制を犯すものが絶えぬための措置である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月3日 社会・文化 金沢市設運動場が日本陸運本部から第3種公認運動場に指定された。北陸地方で最初の公認運動場である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月7日 社会・文化 尻垂坂通1丁目に完工した第三善隣館(材木町方面委員部経営)の落成式が挙行された。工費1万5,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月8日 社会・文化 再建共産党の全国的検挙に関連して、県特高課は新興仏教青年同盟石川県支部に対し、昨年11月16日、12月15日、本年2月17日の3回にわたり検挙を行ない計10人を逮捕、うち6人を治安維持法違反で本日起訴した。(14年8月11日1人に無罪、5人に懲役1年から2年、全員執行猶予の判決があった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月11日 社会・文化 第四高等学校は新学期から生徒の長髪を禁止、始業日の本日から全生徒がイガグリ頭で登校した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月14日 社会・文化 横浜章死去。65歳。横山隆興の長男、横山鉱業部社長はじめ各会社の経営に当り、地方財界の重鎮として活躍する一方、貴族院多額納税議員にも当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 4月17日 社会・文化 自治制発布50周年記念式典が東京二重橋前広場で挙行され、金沢市会議員を45年間勤めた餝谷与右衛門(71歳)が自治功労者として参列、表彰された。餝谷は明治26年8月から昭和12年12月まで連続市会議員に当選、また県会議員も7回と当選している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 5月8日 社会・文化 卯辰山振興会の発会式が会員300余人出席して料亭金閣でおこなわれた。会長は中宮茂吉、副会長は吉田太郎吉、津田猪平。振興会は当面、山上に約300人収容の雨晴らし休憩所2ヵ所の新設と児童遊戯場、小動物園の早急な実現を市に要望する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 5月15日 社会・文化 (能美郡鳥越村字相滝と杉森で68戸を全半焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 5月17日 社会・文化 元金沢市長吉川一太郎、東京で死去。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 6月12日 社会・文化 (東京石川県人会の発会式が1,370人出席して目黒雅叙園で挙行された。会長に三宅雪嶺、副会長に北島多一、尾佐竹猛が就任した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 6月29日 社会・文化 皮革製品制限でクツが暴騰したため、市は沢野市長名で市の全職員に「今後ゲタばき、ノーネクタイの登庁差しつかえなし」と示達した。市教育課もさきに全小学校長に児童のゲタばき奨励を通達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月4日 社会・文化 兼六園内の成巽閣が国宝に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 7月17日 社会・文化 石川県青少年勤労報国隊の結成式が野村練兵場で挙行された。県下の青少年勤労報国隊は944隊、隊員17万7,000人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月1日 社会・文化 学校の暑中休暇入りと共に市内小学校、中等学校等はそれぞれ勤労報国隊をつくり、卯辰山、金沢飛行場、市設運動場等で作業奉仕をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月2日 社会・文化 県警察部は風俗営業取締りを強化して、今後は貸座敷、待合、貸席、麻雀遊技場の新規営業を許可しないことにし、また喫茶店の酒類提供を禁じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 8月13日 社会・文化 金沢市役所吏員勤労報国隊は本日(土曜)から毎週土曜日に、隊員70人ずつが金沢飛行場の建設作業に奉仕することを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 9月8日 社会・文化 市会議員和田貢死去。44歳。自治会所属、昭和8年12月から当選2回、真宗大谷派超願寺住職。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 9月12日 社会・文化 午後9時40分ごろ高岡町の民家から出火、2戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 10月1日 社会・文化 県は愛国、国防両婦人会の援助のもとに、金沢市と3郡の各地から戦地へ送る梅ぼしを集める献納運動をはじめた。このため県学務部は、学校の日の丸弁当をシソとショウガだけの梅ぼし抜きにするようすすめている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 10月27日 社会・文化 武漢陥落を祝って、市その他の主催で昼間は児童の旗行列、夜は一般市民のちょうちん行列がおこなわれ、市中はわき返った。また28日には知事、市長、師団長らの発起で約1万5,000人が参加し、招魂社で戦勝記念大会が開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 11月13日 社会・文化 河北郡三谷村字岩出に建設された結核療養所県立医王園の落成式がおこなわれた。総工費25万3,000円、延べ建坪1,865坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十三年(1938) 12月5日 社会・文化 工費20万円で新築中だった小将町高等小学校が完工、本多町旧一中校舎の仮校舎から移転し、新校舎で授業をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 1月13日 政治・経済 内務省は金沢市都市計画区域に石川郡金石町、野々市町、大野村、二塚村、押野村、河北郡川北村を追加するむね告示した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 1月31日 政治・経済 前第8師団長侯爵前田利為中将が予備役に編入された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 2月2日 政治・経済 午後5時15分ごろ広坂通の県会議事堂小使室から出火、木造2階建296坪の同議事堂を全焼した。同議事堂は明治35年、総工費4万円で建築した当時としては珍しい新式洋館であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月1日 政治・経済 市は金沢市制実地50周年記念式を市会議事堂で挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月17日 政治・経済 知事近藤駿介は熊本県知事に転じ、後任に厚生省労働局成田一郎が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 5月1日 政治・経済 日本銀行金沢支店長岩坪友至は本店検査役に転じ、後任に松江支店長石橋義雄が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 5月15日 政治・経済 恩給金庫金沢出張所が尾張町石黒ビルに開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 6月28日 政治・経済 中支の第9師団に復員下令され、24日第一陣は宇品港に上陸したが、歩兵第7連隊(連隊長藤岡武雄)本部が本日、軍旗と共に市民の大歓迎を受けて金沢に帰還した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 7月15日 政治・経済 東京-長野-富山-金沢-大阪間定期航空が開始され、金沢飛行場で祝賀会が開かれた。大日本航空会社の金沢出張所が石浦町仙宝閣に開所した。旅客運賃は金沢-大阪13円、金沢-東京21円、所要時間は金沢-大阪1時間35分、使用機は中島フォッカー・スーパーユニバーサル6人乗り。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 7月20日 政治・経済 (七尾町と東湊、西湊、矢田郷、徳田、石崎、の各村および旧和倉町の和倉、奥原が合併して七尾市が誕生した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 8月1日 政治・経済 石川県授産場が下本多町金沢一中跡に開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 8月11日 政治・経済 本多政樹の辞任による石川県貴族院多額納税議員の補欠選挙が行なわれ、無競争で中島徳太郎が当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 8月22日 政治・経済 市会議員森田伊三郎(自治会)が刑事事件を起し議員を辞職した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 8月22日 政治・経済 金沢、鳩ヶ谷(岐阜県)間の金鳩道路の指定府県道編入陳情のため、沢野市長と同道路促進期成同盟会の朴木、前川市会正副議長、石黒商工会議所副会頭らが上京した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 8月30日 政治・経済 平沼内閣総辞職(28日)のあとを受けて阿部信行内閣成立、金沢出身の永井柳太郎が逓相兼鉄相に、同伍堂卓雄が商工相兼農相として入閣した。阿部は金沢市与力町の生れ。金沢出身の3大臣へお祝いに市長、市会代表11議員その他各団体代表等が上京、また3大臣関係の校下ではちょうちん行列等をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 9月1日 政治・経済 金沢、福光間の省営バスが全通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 9月2日 政治・経済 (初代七尾市長に清水豊吉就任。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 9月10日 政治・経済 石川県の貴族院多額納税議員選挙が行なわれ、現議員中島徳太郎が無競争で当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 9月25日 政治・経済 県会議員選挙が24日行なわれ本日開票の結果、民政党15人、政友会14人、社会大衆党1人、中立1人が当選した。金沢から2位で当選の岡は県会最初の無産党議員である。金沢市の当選者次の通り(立候補者14人)。金田一次(民政前)岡良一(社大新)水野宗次郎(民政新)前川吉栄(民政新)小林清吉(政友新)武谷甚太郎(民政前)上野利喜雄(政友新)村本惣太郎(民政新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 9月30日 政治・経済 古い伝統をもつ金沢米穀取引所は、米穀統制に伴い本日限り閉鎖した。明治8年資本金3万5,000円で出願、同10年2月内務卿から金沢米商会社の創立が許可され、同26年9月株式会社金沢米穀取引所と改称された。市場の建物は最初現在の尾崎神社奥殿の後方にあったが、明治18年6月十間町に移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 10月15日 政治・経済 金沢全市の全自動車業者を統合して金沢交通株式会社が創立された。資本金50万円、専務取締役鳥畠徳次郎、自動車170余台。市内営業所を6ヵ所、駐車場を15,6ヵ所設置した。本社は石浦町千代田ビル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 10月16日 政治・経済 金沢商工会議所会頭中島徳太郎は、貴族院多額納税議員に当選のため会頭を辞任した。商工会議所は議員総会を開き、会頭に石黒伝六(副会頭)、副会頭に中宮茂吉を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 10月21日 政治・経済 (県会は正副議長選挙をおこない、議長に吉国文吉、副議長に村田市太郎=いずれも民政=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 11月1日 政治・経済 中央気象台金沢支台が金沢地方気象台と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 12月1日 政治・経済 第9師団長吉住良輔中将が特命になり、後任に参謀本部付樋口季一郎中将が補せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 12月2日 政治・経済 9月解散した金沢米穀取引所のあとに、国策会社「日本米穀会社金沢米穀市場」が開場した。市場長河野綱作。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 12月6日 政治・経済 愛国金沢飛行場が金沢市から国営に正式移管された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 12月17日 政治・経済 北支の第109師団に復員下令され、師団長酒井鎬次中将ら第一陣が金沢に帰還、市民の大歓迎を受けた(川崎明徳大佐の率いる歩兵第107連隊は軍旗と共に1月3日金沢帰還)。師団長は編成時の山岡重厚から阿南惟幾を経て3人目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 1月3日 社会・文化 県立金沢一中の北側に建設中の金沢陸軍病院泉野分院が完成、開院した。完成した第一期工事は19病とう、3兵舎、1管理室。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 1月8日 社会・文化 午後6時半ごろ石川郡湯涌谷村の温泉旅館白雲楼本館(旧建物)から出火、1部3階建の1むね(延べ413坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 1月10日 社会・文化 金の使用制限から離職した金沢の金箔業者400余人のうち、現在までに230人が転就職した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 1月29日 社会・文化 医師山田謙次死去。82歳。元県市会議員、石浦町で私立病院を建立、金沢で初の私設産婆看護婦養成所をつくった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 3月4日 社会・文化 第四高等学校長菰田万一郎東京で死去。58歳。千葉県出身、文部省学生課長、督学官、松江高校長を経て昭和8年四高校長となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 3月10日 社会・文化 午後9時45分ごろ長町1番丁の看板店から出火、同店工場1むねを全焼、住家など3むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 3月11日 社会・文化 午後3時18分ごろ堀川角場の製菓工場から出火、同工場(平屋建230坪)と住家1戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 3月15日 社会・文化 午後1時40分ごろ香林坊(石浦町)の表具店付近から出火、大阪朝日新聞金沢通信局等3戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月1日 社会・文化 市立中村町尋常小学校と浅野町尋常小学校が開校した。これで市内の小学校は22校、高等小学校は2校、尋常高等併置校は10校となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月1日 社会・文化 出羽町の第9師管官祭招魂社が内務大臣指定の石川護国神社と改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月1日 社会・文化 市は新学年から小将町高等小学校に支那語教員を配置し、同校生徒に初歩支那語を教授することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月1日 社会・文化 (青年学校普通科義務制が実施された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月6日 社会・文化 消防組と防護団の合併による金沢第一、第二、第三各警防団の結成式が、団員2,000人参列して護国神社前で挙行された。第一警防団(広坂署管内)団長は井村徳二、第二警防団(玉川署管内)団長は津田米次郎、第三警防団(金石署管内)団長は加藤勘太郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月6日 社会・文化 午後7時50分ごろ木ノ新保6番丁の運送会社倉庫から出火、倉庫1むねを全焼、隣接会社倉庫の2むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月7日 社会・文化 三浦彦太郎死去。71歳。金沢箔業界の功労者で金沢箔同業組合長、金沢金箔会長等をつとめ、組合から銅像も贈られた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月25日 社会・文化 午後8時15分ごろ彦三大通りに面した袋町の商店から出火、2戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 4月26日 社会・文化 3月4日菰田前校長の死去以来空席中の第四高等学校長に、浦和高等学校長岡上梁が任命された。岡上は高知県人、明治39年から43年まで金沢一中に教頭として在職した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 5月1日 社会・文化 県は本日から金買入れ事務を開始した。取扱い所は県下130の銀行本支店と宮市大丸、丸越の両デパート。知事は、民間にあるすべての金を政府へ売却するよう、県民へ呼びかける声明を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 5月10日 社会・文化 野町泉野神社(通称神明宮)が県社に昇格した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 5月20日 社会・文化 油谷定吉死去。63歳。牧場経営、県連合畜産会長をつとめ県の畜産功労者、明治43年から市会議員に3回当選。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 5月25日 社会・文化 竪町酒造業山川庄太郎所蔵の野々村仁清作「色絵雉香炉」が国宝に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 5月25日 社会・文化 河北郡内灘村向粟崎の砂丘に移転工事中の石川県育成院が完成、「石川県立加能実修学校」と改称して落成式を挙行した。敷地1万2,786坪、総予算7万6,270円、延べ建坪720坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 6月2日 社会・文化 購買力抑制のための政府勧告に基づき、北陸4県の8百貨店代表が金沢で協議の結果、中元大売出しや宣伝等の取りやめを決めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 6月14日 社会・文化 金沢市内の中小学校教職員約900人は、紀元2,600年記念事業として倉ヶ岳大池の周囲2万坪に、明年秋までに松、杉、あてなど針葉樹1万8,000本を植林することになった。土地は地主中田岩次郎より無償提供されたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 6月21日 社会・文化 氏家栄太郎死去。77歳。加能越史談会理事、加能郷土史の生字引といわれ「昔の金沢」の著がある。本年、市立図書館へ蔵書600冊を寄贈。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 6月 社会・文化 "金沢医科大学に臨時付属専門部が設置された。修業年限4ヵ年、募集人員60人。 (全国で12校設置)" 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 8月14日 社会・文化 方面委員の活動が全国一といわれる金沢市では、善隣館が既設または計画中のもの合せて11ヵ所になった。この中には中主馬町の永井柳太郎住家跡に近く工費3万5,000円で設置する善隣館も含まれている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 9月1日 社会・文化 第1回の興亜奉公日(毎月1日)。金沢市内の各官庁、民間団体等でも護国神社参拝、勤労奉仕、徒歩励行、化粧廃止、日の丸弁当持参等まじめな銃後生活が実践された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 9月7日 社会・文化 作家泉鏡花、東京麹町6番丁の自宅で死去。67歳。本名鏡太郎、金沢市下新町金属彫工泉清次の次男、明治23年作家を志し上京、尾崎紅葉の門にはいった。代表作に「夜行巡査」「照葉狂言」「高野聖」「歌行燈」などがある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 9月16日 社会・文化 第1回金沢市町会長会(573町会)が市公会堂で開かれ、沢野市長から町会に隣保班の早急結成等を要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 10月6日 社会・文化 尻垂坂第三善隣館に設置した軍人遺家族乳幼児健康相談所は、市内5か所の善隣館で毎月1回、巡回相談会を開催することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 10月11日 社会・文化 60年の歴史を持つ市立勉致小学校が、今春開校の浅野町尋常小学校に併合のため解散式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 10月16日 社会・文化 全県下の美術家300余人を会員とする石川県美術協会の発会式が県正庁でおこなわれた。総裁前田利為、会長成田知事、副会長沢野市長、青戸高工校長、達林県学務部長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 10月17日 社会・文化 並木町に浅野川食堂街が開業した。場所は浅野川稲荷神社横から材木町7丁目へ通ずる貫通道路。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 11月3日 社会・文化 宝塚歌劇団が初めて来沢、護国神社参拝の後、尾張倶楽部で2、3両日講演した。天津乙女、草笛美子ら25人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 11月23日 社会・文化 餝谷与右衛門死去。72歳。明治26年から昭和12年まで連続11期44年間市会議員、明治40年から昭和11年まで7期県会議員を勤め、地方政界の元老であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 12月13日 社会・文化 北国新聞が金沢新報を併合した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 12月27日 社会・文化 並木町通りの松並木が県から天然記念物に指定、告示された。指定された並木老松は浅野川梅ノ橋から天神橋に至る間の12本で、いずれも樹齢300年以上。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十四年(1939) 12月28日 社会・文化 午後8時20分ごろ諸江町上町の三浦製作所から出火、旋盤工場1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 1月23日 政治・経済 昭和14年の石川県産米実収高は133万6,930石と発表された。県産米が130万石台に上ったのはこれが最初である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 1月29日 政治・経済 知事成田一郎は内務省土木局長に転じ、後任に山梨県知事土居章平が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 2月1日 政治・経済 第9師団に情報部が新設された。初代情報部長は安達十六少将。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 2月17日 政治・経済 市会議員、県会議員上野利喜雄は応召のため議員を失格した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 3月7日 政治・経済 金沢市は県会議員補充選挙会を開き、県議、市議上野利喜雄の応召失格により昨年9月の県議選挙で次点第1位の乾健多朗の繰上げ当選を決定した。(市議の繰上げ当選はおこなわず欠員のまま) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 3月8日 政治・経済 市は今冬の市内雪害を被害総額362万9,565円と算出、これを基礎に政府各省に対し雪害復旧補助を申請することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 3月14日 政治・経済 木炭配給の不円滑にかんがみ、県では大雪のため山中に積まれている木炭の搬出を促進することにし、9,389円の予算(県参事会議決)で全県的に搬出を開始した。現在山中の木炭は約6万9,000俵、1俵の搬出費24銭の半額12銭を県費で補助するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 3月15日 政治・経済 3月2日商工省令によってセメントの配給統制が決定したので、金沢市が都市計画事業用として買入れ契約していたセメント1,000袋が契約破棄となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 3月27日 政治・経済 石川県野々市町の全部と戸板、押野両村の一部が、内務大臣から市街地建築物法適用地域に指定された。金沢市に隣接して将来、工場住宅等の建設が予想されるため。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 4月1日 政治・経済 地方税制の改正により新年度から市税戸数割が廃止され、市民税が新設された。金沢市の場合、市民税は1戸平均5円、公費救助者を除く約4万1,000余世帯と法人約600に賦課される。(旧戸数割は所得300円未満のものが免税されたため、賦課戸数は約2万6,000世帯で1戸平均18円60銭であった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 4月4日 政治・経済 金沢市選出県市会議員小林清吉(政友)の死去により、県議に昨年9月の県議選挙で次点第2位の岡島友作(民政)の繰上げ当選が決定した。(市議の繰上げ当選はおこなわず欠員のまま) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 5月1日 政治・経済 市は社会教育課を新設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 5月21日 政治・経済 市は電気水道事業用、都市計画用、一般土木用(4月分)として初めてセメント2,100袋の配給申請をしたが、これに対し約4割の864袋が割当配給された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 6月24日 政治・経済 市は市庁舎100余坪(市長室、助役室等5室)の増築を決定、増築費5万4,900円が市会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 7月7日 政治・経済 ぜいたく品、不用不急品の製造販売制限規則(七・七禁止令)が公布、実施された。県下では織物、刺しゅう、銀箔、九谷焼等が影響を受け、県も転業対策を講じている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 7月10日 政治・経済 第9師団に改編下令。2個旅団編成を改廃して歩兵第6旅団を第9歩兵団とし、歩7、歩19、歩35の3個連隊がれい下にはいった。(歩兵第18旅団は改廃、鯖江の歩兵第36連隊は新京の第28師団に編入) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 7月22日 政治・経済 市会は沢野市長の7月29日任期満了を前に市長選挙をおこない、全員一致で沢野を再選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 7月25日 政治・経済 (民政党の永井柳太郎以下36代議士が民政党を脱党、新体制促進倶楽部を結成した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 8月1日 政治・経済 北部、中部、東部、西部の4軍管区の設置に伴い陸軍軍管区制が改正になり、「第9師団管区」の呼称が「金沢師団管区」と改称されて、明年4月から東部軍管区に編入されることになった。(旧城内の第9師団司令部は金沢師団司令部と改称) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 8月14日 政治・経済 政友会石川県支部が本部の解党に伴い解散した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 8月17日 政治・経済 金沢市で家庭用木炭の切符配給が実施された。(8、9両月は試験配給で、10月から本格的実施) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 8月28日 政治・経済 近衛首相が新体制の基本理念を声明し、県では土居知事が「新体制の実現に努めるよう」県民に呼びかけた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 9月1日 政治・経済 金沢市会の朴木、前川正副議長以下31議員は午前7時石川護国神社で、近衛新体制声明に対する祈誓式をあげた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 9月4日 政治・経済 大日本青年党(統領橋本欣五郎)石川県連合支部が結成され、支部長に前金沢師団情報部長安達十六小将が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 9月15日 政治・経済 民政党石川県支部が本部の解党に伴い解散した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 9月27日 政治・経済 第9師団に満州派遣が下令された。(金沢には留守第52師団新設) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 10月1日 政治・経済 第5回国勢調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は41,560世帯、人口186,297人(男89,150人、女97,147人)全国都市中第23位の人口であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 10月8日 政治・経済 金沢商工会議所議員倶楽部、金沢実業協会、結生会、金沢経済懇談会、金沢経済研究会、友交倶楽部、金商懇話会など市内の経済人の団体を一丸とした「金沢経済倶楽部」が結成され、発会式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 10月10日 政治・経済 金沢市で砂糖の切符配給制が実施された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 10月11日 政治・経済 第9師団は逐次七尾港を出発、満州牡丹江省に駐とんし、ソ満国境の警備についた。(師団司令部、歩兵団司令部、歩兵第7連隊は牡丹江省掖化) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 11月3日 政治・経済 大日本青年党が解党したので同党金沢支部も解散し、思想団体大日本赤誠会金沢支部に改組した。支部長は安達十六。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 11月9日 政治・経済 県は市長村の下部組織としての町内会、部落会の整備促進を知事訓令をもって市町村長に指示した。金沢市はすでに町内会は整備ずみ、隣保班もすでに全市で3,500班できている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 11月19日 政治・経済 大政翼賛会石川県支部常務委員11人が決定、近衛総裁から指名された。土居章平、石黒伝六、乾健多朗、河村栄太郎、谷内星七、古谷外美雄、安達十六、沢野外茂次、嵯峨保二、菊知順一、千田俔次郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 11月28日 政治・経済 市はさきに買収した本多町金沢一中跡1万1,377坪の約3分の1を、市会の承認を得て金沢地方人事部、金沢連隊区司令部、県警察官練習所、愛国婦人会県支部の軍人遺族母子寮に分譲することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 11月30日 政治・経済 大政翼賛会石川県支部の結成式が県正庁で挙行された。支部顧問23人、参与25人、理事8人と庶務部長村沢義二郎、組織部長吉田他吉が発令された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 12月1日 政治・経済 (小松町と能美郡安宅町、牧村、板津村、白江村、苗代村、御幸村、栗津村が合併して小松市が誕生した。人口は5万1,975人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 12月1日 政治・経済 (県会議長吉国文吉が辞任、後任議長に武谷甚太郎が当選した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 12月20日 政治・経済 金沢市営電気事業は、政府の配電国家管理案による配電国策会社に参加しなければならないので、市はこれに対処するため、臨時配電管理対策委員会を設置することにした。市長を会長とし、助役、電気局長と市会議員全員を委員に委嘱する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 12月28日 政治・経済 金沢市の大政翼賛運動の下部機構の中心となる市内各校下連合町会の正副会長が市長から任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 1月1日 社会・文化 香林坊帝国座が映画館に転身、開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 1月27日 社会・文化 大雪。市内の積雪量約2メートル。鉄道は北陸本線、七尾線とも不通。市内幹線道路の除雪作業に軍隊と四高生徒、各中等学校生徒らが出動した。県下の家屋倒損壊は計170むね。(全市小学校は29日に臨時休校) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 1月27日 社会・文化 石川郡犀川村字倉谷鉱山で、なだれのため7人が死んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 2月1日 社会・文化 市内に児童のゴム長ぐつ窃盗専門の学校荒しが横行、ゴムぐつ払底の折から警察当局では学校、家庭に防犯の注意を喚起した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 2月6日 社会・文化 市内幹線道路の除雪が完了し、1月24日以来13日ぶりでバスを除く乗物全部の運転、通行が許可、再開された。ふん尿攻めの市民各戸のくみ取り問題解決のため、市は新市域衛生組合長と連日協議を続けているが、新市域からのくみ取りソリが除雪された電車通りを通れぬため、対策が立てられず市は困却している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 2月7日 社会・文化 石川郡犀川村倉谷と二又の中間ヤナ谷の火葬場で、なだれのため14人が死亡した。1月27日のなだれによる死者の家族と区民が死者を火葬中の出来事である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 2月10日 社会・文化 正午ごろ長土塀1番丁から出火、住家4戸を全焼、5戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 2月26日 社会・文化 県下全中等学校で初めて学科試験のない入学考査(口頭試問と身体検査だけ)が本日から4日間実施された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 3月13日 社会・文化 (鳳至郡輪島町で大火、79戸150むね全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 3月26日 社会・文化 県、市会議員小林清吉死去。58歳。政友会所属、市議2回、県議1回当選、朝鮮興農会社専務取締役。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 3月30日 社会・文化 河北郡浅川村の袋小学校(平屋建176坪)が全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 4月7日 社会・文化 軍機保護法の改正で20メートル以上の高所から写真撮影が禁止(3年以下の懲役または1,000円以下の罰金)されたので、金沢憲兵隊は行楽でにぎわう卯辰山を取締り、1日で市民の違反者6人を摘発し、一般市民に注意を要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 5月7日 社会・文化 午後10時50分ごろ香林坊大神宮境内の映画常設館スメル館から出火、同館を全焼、隣接の住家と土蔵を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 5月21日 社会・文化 午後5時20分ごろ南町の硬質陶器販売所から出火、同所と隣接の無尽会社を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 5月23日 社会・文化 午前3時半ごろ石川郡湯涌谷村字曲の養蚕場から出火、農家8戸と八幡神社を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 5月24日 社会・文化 13日来、金沢地方に「フェーン現象」が続いているので金沢地方気象台、県警察部、警防団が火災注意の警告を出した。(フェーン現象の語が初めて県下の新聞に現われ、解説記事が掲載された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 5月29日 社会・文化 結核予防と節酒の見地から、県は土居知事の提唱に基づき「宴会等における酒杯の献酬を6月1日以降禁止するよう」県公報で一般に示達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 5月31日 社会・文化 午前3時ごろ南町の化粧品会社販売店付近から出火、商店等4戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 5月31日 社会・文化 (全国的に流行の天然痘が4月13日以来小松市に3人、羽咋郡志雄町に2人発生、うち1人が死亡したが、県内の天然痘はこれで終息した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 7月1日 社会・文化 北國新聞社と北陸毎日新聞社は言論統制強化の国策により合併し、本日から「北国毎日新聞」と改題、新発足した。社長林政武。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 7月1日 社会・文化 市は市青年学校学則改正を実施し、1週1日は昼間授業をすることに改めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 7月18日 社会・文化 午前1時20分ごろ石川郡大野村小学校から出火、同校(547坪)と隣接の民家4戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 8月14日 社会・文化 日満ロータリー倶楽部金沢支部(会長中島徳太郎)が、臨時総会で解散を決議した。国際ロータリーの金沢ロータリー倶楽部から昨年日満ロータリー金沢支部に改組したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 8月15日 社会・文化 県は県庁に勤務する女性職員(170人)に電髪(パーマネントウェーブ)禁止を示達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 9月10日 社会・文化 金沢市内の料理屋、旅館等の料理の最高価格が決められ、実施された。朝食80銭、昼食2円、夕食4円、一品料理80銭、すし1個7銭。(加賀の各温泉地も同一) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 9月20日 社会・文化 県山林会は政府から県へ供出割当てのドングリ10万貫を、中小学校生徒の総動員によって供出することに決めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 9月21日 社会・文化 マッチ軸木の代用品として黒松葉の大量注文が滋賀県から石川県にきたので、県山林会がまとめることになった。買入れ値は黒松葉1貫目25銭ないし30銭、石川県では無尽蔵という。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 10月4日 社会・文化 市は、さきに河北郡三谷村出身の橋本工作所所長橋本太四郎(大阪府佐野町)から育英資金として寄贈された3万円で橋本奨学資金を設け、利子で毎年2、3人の中学生に学資補助をすることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 10月13日 社会・文化 石川県、金沢市共催の大政翼賛・三国同盟締結祝賀石川県民大会が四高校庭で官民、各団体、学校生徒ら約2万人参加して開かれ、大会後参加者が市中を行進した。(全国各地でも開かれた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 10月15日 社会・文化 本日から県下の猟解禁。県は鳥類の公定価格をツグミ1羽25銭、カモ大2円、中1円10銭、小60銭ときめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 10月28日 社会・文化 (能美郡安宅の関址に建った弁慶、富樫の大陶像除幕式がおこなわれた。永井柳太郎の寄贈、制作は都賀田勇馬。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 11月1日 社会・文化 市は7人以上の子女を育てた金沢市内の多子家庭1,364人を表彰した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 11月10日 社会・文化 紀元2,600年式典。金沢市でも官庁、学校、各神社で挙式された。(午前11時25分が萬歳奉唱時刻) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 11月11日 社会・文化 前日の式典に引続き本日は国民奉祝日。金沢市では市公会堂で市主催の市民奉祝会が盛大に催され、市内は旗行列、ちょうちん行列その他の催しでにぎわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 12月24日 社会・文化 豪雨による増水のため犀川上流の大桑橋が落ちた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十五年(1940) 12月25日 社会・文化 宗教報国を旗じるしに県下の神道、仏教、キリスト教からなる石川県宗教団体連合会が結成式をあげた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 1月7日 政治・経済 知事土居章平が新潟県知事に転じ、後任に文部省社会教育局長田中重之が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 1月8日 政治・経済 大政翼賛会金沢市支部の理事10人が次の通り決定した。尾戸次作、岡野正策、新田蒼、小倉周六、浦上太吉郎、横山登、奥村謙二、油谷大、小森直夫、石地与一郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 1月13日 政治・経済 市会の全議員が自治会、一二会等の会派を解散して市会の翼賛団体「金沢市政奉公会」を結成した。結成式で「一切の私心を去り臣道実践職域奉公の実をあげ、市政振興に寄与する」との申合せをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 1月14日 政治・経済 (初代小松市長に山口又八が当選した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 2月11日 政治・経済 金沢市連合壮年団の結成大会が市公会堂でおこなわれた。団長沢野市長、副団長嵯峨保二、尾戸助役。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 2月12日 政治・経済 大政翼賛会金沢市支部結成式が国民協力会議議長末次信正大将を迎え、市公会堂で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 3月5日 政治・経済 県は商工業再編のため犠牲となる県下中小商工業者のため「転廃業の指針」というパンフレットをつくり、各組合を通じて配布した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 3月9日 政治・経済 市は15年度分の市都市計画事業は、起債許可額が14万円に削減されたので、金沢駅―二万堂線のうち、長土塀小学校角から富本町広場に至る230メートルの都計道路を設置することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 3月11日 政治・経済 飯米の通帳配給制が県下一斉に実施された(配給制を実施の予告発表は2月24日)。配給量は一般消費者の8歳から60歳までが1日2合8勺、4歳から7歳までと60歳以上が2合。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 3月29日 政治・経済 金沢商工会議所議員選挙が行なわれ、無競争で32人が当選した。新人は17人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 3月29日 政治・経済 金沢電気軌道会社と子会社の石川電気、手取川水力電気の各会社は臨時株主総会で、会社を解散して北陸3県下12会社の統合による北陸合同電気株式会社に参加することを決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月1日 政治・経済 陸軍師管区域の変更があり、長野県が金沢師管に編入されて金沢師管は金沢、富山、長野の3連隊区制となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月2日 政治・経済 金沢市大衆免出身の住友本社総理事小倉正恒が近衛内閣の国務大臣になった。金沢出身の6人目の大臣である。金沢市と母校馬場国民学校からお祝い品を贈った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月9日 政治・経済 金沢商工会議所の議員総会で会頭に石黒伝六(再選)、副会頭に新名弥三吉、久保田可全が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月11日 政治・経済 大政翼賛会石川県支部の協力会議議員31人が発令され、議長に千田俔次郎が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月23日 政治・経済 大日本赤誠会北陸地方本部の結成式が市公会堂でおこなわれ、安達十六が北陸地方本部長と石川県連合支部長に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月24日 政治・経済 大政翼賛の第1回金沢市協力会議(市営会)が常会員55人出席して市公会堂で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 5月1日 政治・経済 市は産業課を廃し、農協、経済両課を新設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 5月18日 政治・経済 政府は本月から市町村吏員に臨時手当を支給することになった。俸給月額165円以下の吏員に対し、俸給の1割5分の率で7円から15円までを支給するもの。金沢市の該当吏員は国庫支弁によるもの225人、市費支弁330人、同電気水道局員約500人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 5月18日 政治・経済 さる3月29日創立50周年を迎えた金沢商工会議所が、物故議員追悼会と祝賀会を開催した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 6月9日 政治・経済 市会全議員を委員とする市の臨時配電管理対策委員会が開かれ、市営電気事業の配電統合除外を推進することを決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 6月12日 政治・経済 (石川県は自発的に砂糖の切符配給制を実施していたが、政府から正式に砂糖の切符制地域に指定された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 6月14日 政治・経済 県下で家庭用クギの切符制が実施された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 7月7日 政治・経済 第9師団を主とする支那事変の第1回生存者論功行賞が発表された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 7月18日 政治・経済 第2次近衛内閣が総辞職し(16日)、第3次近衛内閣成立。金沢出身の小倉正恒が大蔵大臣として入閣した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 7月29日 政治・経済 北陸3県下の電気会社12社(石川県下は金沢電気軌道、手取川水力、石川電気、石川電力、小松電気、大聖寺川水電の各会社)を統合して設立する北陸合同電気株式会社の創立総会が富山市で開かれた。資本金8,800万円、社長山田昌作。本社は富山、支社は金沢、富山、高岡、鯖江。新会社は金沢電気軌道会社(街鉄)の電鉄事業を継承する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 7月29日 政治・経済 県市営電気事業の統制問題について、沢野市長ほか関係府県市代表を内務、逓信両省との会合が東京で開かれ、「統計の結果、地方財政に悪影響を及ぼさぬよう公納金制度を設け、配電会社からの配当金と税収入が従来の利益の95%未満の場合は、95%に達するまで10年間配電会社から公納金を納める」ことで解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 8月1日 政治・経済 金沢市で木炭の通帳配給制が実地された。世帯人員数、畳数とガス使用の有無により配給量をきめるもの。(従来は世帯単位の切符配給制) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 8月1日 政治・経済 金沢師団に兵務部が新設され、情報部が報道部と改称された。金沢師団の初代兵務部長は倉石忠一郎小将。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 8月9日 政治・経済 金沢市調査による本年6月16日現在の市内の生活用品小売物価指数は、支那事変当初の12年7月16日を100として202.8で、当時の約2倍に高騰していることがわかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 8月19日 政治・経済 配電統制案が本月2日国家総動員審議会で可決されたので、北陸地区配電会社の設立準備委員会が名古屋で開かれ、金沢市営電気を代表して沢野市長が設立委員になった。新配電会社に参加するのは、北陸合同電気のほか福井県下大半を配電区域とする京都電灯福井支社、富山県下の日本電力の3会社と金沢市の4者である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 8月27日 政治・経済 金沢では本日から飯米に1割程度の麦を加え配給した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月4日 政治・経済 沢野市長は金沢財界人による新街鉄会社の設立計画に対し、積極的支援方針を市の臨時配電管理対策委員会で発表、全市会議員の承認を得た。さきに金沢電気軌道会社(街鉄)等12社を統合発足した北陸合同電気会社が、北陸配電会社へ参加を決定したことに対し、政府当局から交通部門の切離しを命ぜられたので、金沢の財界有力者20余人を発起人とする街鉄事業買収の新会社(資本金500万円)設立準備が急速に具体化しているもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月9日 政治・経済 貯蓄債券と報国債券計9万円が初めて金沢市に割当てられたので、市社会教育課が各校下(全市534町内会)に割当て、購入をすすめることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月10日 政治・経済 北陸配電株式会社設立に関し、逓信大臣から沢野市長に対し、金沢市営電気事業の設備一切を配電会社に出資するよう正式命令書が到達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月30日 政治・経済 市会議長朴木元次郎が議長を辞職した。在職4年。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 10月20日 政治・経済 石川県で食肉と鮮魚の出荷配給統制が実施された。(料理屋等の大量需要者の産地直接買付けも禁止) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 10月28日 政治・経済 石川県は冬季青物の不足に備えて、次の野菜10品種の県外移出を禁止した。れんこん、里芋、にんじん、ごぼう、大根、ねぎ、白菜、かんらん、かぶら、つけな。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 11月1日 政治・経済 金沢市の住宅調査がおこなわれた。(厚生省が全国24都市で実施したもの) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 11月3日 政治・経済 金沢市内360余軒の青果物商が共同で、連区ごとに7ないし10ヵ所の野菜果実の共販配給所を設けることになり、1,2,4,7連区の共販配給所は本日開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 11月10日 政治・経済 金沢鮮魚介配給統制協会が設立された。出荷および消費関係12団体を構成分子とし、金沢市内へ配給される鮮魚の配給計画を樹立するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 11月15日 政治・経済 県下で統制会社の設立は、いま木材(資本金500万円)繊維製品(200万円)石油(30万円)みそ(3万円)しょうゆ(10万円)の5部門が準備中である。みそは13日創立総会を終り、石油は株式の7割を小売業者に割当て、従来の石川県石油共販会社を改組して新出発し11月下旬までに設立終了予定、他の部門も年内には全部完了する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 11月24日 政治・経済 飯米小売値が金沢で1升につき5厘引上げられ(金沢以外の県下は1銭)、14キロ4円30銭が4円35銭になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 12月1日 政治・経済 新聞の共同販売が全国一斉に実施された。石川県下の共同販売所は76、配給所は23。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 12月8日 政治・経済 (日本、米英に宣戦。大東亜戦争はじまる。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 12月13日 政治・経済 市会は聖旨奉体国難突破決議案を満場一致可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 12月21日 政治・経済 北陸配電会社設立委員会は金沢市営電気事業の出資評価額を1,430万円と決定した。(会社資産の総評価額は1憶701万5,000円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 1月25日 社会・文化 今夜から県下の商店、百貨店、歓楽街の一斉減灯節電が実施された。また料理屋、旅館、百貨店の暖房電熱器が停止された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 1月27日 社会・文化 金沢市山科の大桑層化石産地と甌穴が文部省から天然記念物に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 2月6日 社会・文化 午後11時35分ごろ東馬場のクリーニング店から出火、同店と商店2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 2月7日 社会・文化 午後1時ごろ石川郡内川村字堂の農家から出火、同字21戸のうち11戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 3月10日 社会・文化 島田庄兵衛横浜で死去。82歳。明治年間横安江町入口に小間物店「島庄」を経営、金沢における勧工場の草分の一人であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 3月24日 社会・文化 金沢在住最後のアメリカ人、在沢20年の北陸高等女学校付属幼稚園主事アイリン・ライザーが金沢を引揚げ、帰国した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 3月28日 社会・文化 金沢高等工業学校長青戸信賢が勇退し、後任に山梨高等工業学校教授森慶三郎が任命された。青戸は大正9年12月同校創立以来の校長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月1日 社会・文化 (小学校が国民学校と改称された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月1日 社会・文化 青年学校本科義務制の実施に伴い、小将町国民学校内に市立小将町青年学校(商科)、市立工業学校内に市立工業青年学校が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月2日 社会・文化 午前1時10分ごろ笠舞町の養鶏業者宅から出火、住宅と鶏舎を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月5日 社会・文化 石川県青少年団の結成式が市公会堂でおこなわれた。団長は田中知事。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月6日 社会・文化 琵琶湖畔で合宿練習中であった第四高等学校漕艇班員8人と先輩3人計11人が湖岸の今津と近江舞子間で遭難、全員死亡した。(最後の死体が引きあげられたのは6月10日) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月15日 社会・文化 市は紀元2,600年記念事業として、西町の金谷館(延べ340坪)を卯辰山運動場前の高台に移築して修練道場「卯辰山会館」とすることにした。金谷館跡の敷地1,300坪のうち、約1,000坪は尾山神社の神域拡張にあて、残り300坪は公会堂の自動車駐車場として市が使用する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月17日 社会・文化 市内の旧男女連合青年団、旧少年団、各単位青少年団を改組、結成した金沢市青少年団の結成式が市公会堂でおこなわれた。団長は沢野市長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 4月 社会・文化 犀川、浅野川両大橋詰めの警鐘台が電気サイレンに変り、市庁舎内のスイッチで市庁舎のサイレンと同時に鳴ることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 5月28日 社会・文化 午前4時40分ごろ五宝町のふろ屋から出火、3戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 6月24日 社会・文化 粟崎町の木谷吉次郎は、大野川沿いの自邸(宅地2,077坪、住家7むね延べ216坪)を金沢市に維持保存費1万円と共に寄付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 7月1日 社会・文化 河北潟沿岸4漁業組合が組織する河北潟沿岸漁業組合連合協会は、河北潟の釣人から年3円の入漁料を徴収することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 8月5日 社会・文化 午後8時40分ごろ森本駅前石川製作所の鋳物工場から出火、同工場1むね(80坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月9日 社会・文化 ガソリン使用禁止のため、タクシーの代燃車への改造申請が9月1日以降毎日10数件保安課に出ている。(改造のため発生炉取りつけには300円以内の補助金がある) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月10日 社会・文化 桐生悠々(政次)愛知県で死去。69歳。金沢市出身、四高時代、北國新聞紙上に小説「紅花染」などを書き、のち信濃毎日新聞主筆となったが、昭和8年8月「関東防空大演習を嗤う」の社説で失脚、名古屋で個人雑誌「他山の石」を発行し、最後まで軍国主義に熱烈な抵抗の文字を書き続けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月14日 社会・文化 大政翼賛会、石川県支部により石川県文化委員会が結成され、第1回委員会が開催された。委員は51人、委員長は嵯峨保二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月16日 社会・文化 金沢高工、県立一中、二中、第一高女、市立工業生徒の稲刈奉仕と旧市内国民学校児童6,000人の落穂ひろいが本日からはじまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月19日 社会・文化 在京の石川県出身文化関係者の間で創立準備が進められていた「石川県文化人連盟」の結成総会が、会員130余人出席して有楽町糖業会館で開催された。会長伍堂卓雄、副会長畠山一清、理事長笠間杲雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 9月27日 社会・文化 広坂通の第四高等学校校門の鉄とびら(150貫)が取りはずして献納された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 10月1日 社会・文化 金沢市仏教会は市内各宗派寺院一斉に、おときを廃止することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 10月20日 社会・文化 金沢市カフェー同業組合の女給160余人が勤労報国隊を結成し、市内工場で昼間の作業についた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 11月2日 社会・文化 新旧各派合体の石川県俳人協会の結成式が兼六会館で開かれた。会長小松砂丘。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 11月3日 社会・文化 (大学、専門学校、高等学校、大学予科の明後18年 3月卒業予定者は一斉に17年 9月末に卒業を繰上げることに決定した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 11月10日 社会・文化 北国毎日新聞が北国夕刊新聞を合併した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 12月10日 社会・文化 県、金沢市、翼賛会県支部主催の米英撃滅国民大会が冷雨ふる護国神社前で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 12月15日 社会・文化 金沢市翼賛壮年団の結成式が市公会堂で、全市30分団の団員約3,000人が参集して挙行された。団長中林貞治、副団長直山与二、小倉周六、理事長岡野正策。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 12月16日 社会・文化 石川県翼賛壮年団の結成式が市公会堂で挙行された。団長千代田俔次郎、副団長小倉周六、中島栄治。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 12月26日 社会・文化 金沢医大、同薬学専門部、金沢高工および県下実業学校14校の3ヵ月繰りあげ卒業による卒業式が一斉に挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十六年(1941) 12月 社会・文化 上柿木畠に遺家族の母子を収容する清和寮ができた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 1月1日 政治・経済 食塩が配給制になった。家庭用の配給量は年齢に関係なく1人1ヵ月200グラム。家庭用みそ、しょうゆをつくるため臨時に必要なときは、町会長でまとめて専売局に申請して切符の交付を受ける。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 1月13日 政治・経済 市会は金沢市営電気事業の設備一切を配電統制令に基づき、新設国策会社の北陸配電株式会社に譲渡し3月31日限り市営を廃止することを可決した。市の出資額1,430万円。北陸配電の資本金は1億3,800万円、金沢市以外の各社出資額は、今日と電灯(福井県内配電)1,175万6,000円、日本電力(富山県内一部配電)630万4,000円、北陸合同電気7,495万5,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 1月17日 政治・経済 北陸合同電気会社の配電会社参加と共に分離される街鉄事業を、市の財界有力者と金沢市が買収して、市民の手により新街鉄会社を設立する計画は、評価の点で北陸合同電気と金沢地元側の意見一致を見ず、交渉はついに不調に終った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 1月24日 政治・経済 北陸合同電気会社は新たに同社全株主をもって北陸鉄道株式会社(資本金500万円)を設立し、北陸鉄道はさきに合同電気が旧金沢電気軌道会社(街鉄)から買収した電車、バス等金沢市を中心とする交通事業一切を、617万円で譲受けて経営することを決定した。北陸鉄道の株式は、北陸合同電気の全額払込みずみ株式14株に対し1株の割りで株主に交付される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 1月26日 政治・経済 産業組合中央金庫金沢出張所が広坂通の石川県信連事務所階上に開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 2月1日 政治・経済 衣装全部に点数制による総合切符制が実施された。県下では金沢、小松、七尾3市は年間1人あたりの点数100点(乙地区)、3市以外は80点(甲地区)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 2月21日 政治・経済 市会は、新年度から市長の年俸6,000円を7,000円に、助役3,800円を4,300円に、収入役2,400円を2,700円に増額を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 3月1日 政治・経済 みそ、しょうゆの通帳配給制が実施された。金沢、小松、七尾3市の割当量はみそ1人1ヵ月100匁、しょうゆ1人1ヵ月5合。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 3月6日 政治・経済 大政翼賛会石川県支部役員の任期満了に伴う新役員が東条総裁から指名発令された。常務委員15人中新顔は3人である。(常務委員)乾健多朗、石黒伝六、河村栄太郎、玉置一、谷内星七、中林貞治、中島松雄、中島栄治、前川吉栄、沢野外茂次、嵯峨保二、菊知順一、千田俔次郎、吉田他吉、村沢義二郎。(県協力会議議長)武谷甚太郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 3月18日 政治・経済 (小松商工会議所が設立された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 3月23日 政治・経済 今次衆議院議員総選挙の候補者推薦母体となる翼賛政治体制協議会石川県支部の結成式が石川護国神社でおこなわれた。支部長千田俔次郎以下支部会員14人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 3月28日 政治・経済 北陸配電株式会社の創立総会が富山市で開催された。資本金1億3,800万円、本店は富山市、支店を富山、金沢、福井3市に置き3県下7市551町村にわたる配電事業を営むもの。社長は山田昌作、金沢支店長に常勤理事広瀬先一(金沢市電気水道局長)監事に久保田可全、相談役に沢野市長が就任。金沢市は今後毎年、出資(1,430万円)による配当金100万1,000円(年7分)と、10年間は別途の公納金30余万円を受ける。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 3月31日 政治・経済 市営電気事業の北陸配電株式会社への統合により金沢市電気水道局は本日付で廃止され、新たに市ガス水道事業部が設置された。部長は当分尾戸助役兼務。市営電気事業の発足以来20年6ヵ月である。市電気局員中約250人が北陸配電に移り、約150人がガス水道事業部に残った。(庁舎は当分北陸配電と同居) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 3月31日 政治・経済 大衆免公設市場が閉業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 4月1日 政治・経済 北陸配電株式会社石川支店が本多町の旧市電気水道局庁舎で営業を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 4月1日 政治・経済 北陸鉄道株式会社が発足した。資本金500万円、社長は石黒伝六、本社位置は北陸合同電気会社の時と同じ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 4月1日 政治・経済 県下で家庭用酒の切符制が実施された。金沢市は県酒類販売会社から各校下連合町会長に配給券を渡す。(4月分は1戸当り7~8合) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 4月18日 政治・経済 太平洋上の空母から発進した米軍機約10機が、日本本土を初空襲して支那大陸へ向った。被空襲地は東京、名古屋、神戸。石川県警防課は県民に改めて防空必勝の構えを要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 5月1日 政治・経済 日本銀行金沢支店長石橋義雄は本店検査部長に転じ、後任に秋田支店長斎藤良弼が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 5月2日 政治・経済 東条内閣下で翼賛選挙と銘打って、衆議院議員総選挙が満5年ぶりで4月30日おこなわれ、第1区第2区とも翼賛政治体制協議会推薦候補者各3人が全員当選した。〔第1区〕当選23,557票 永井柳太郎(前) 同9,752票 村沢義二郎(新) 同9,744票 箸本太吉(前)次点9,282票 長谷長次(前) 8,236票 江川為信(新) 6,037票 殿田孝次(新) 5,170票 安達十六(赤誠会新) 1,345票 林周盛(東方会新) 〔第2区〕当選17,667票 桜井兵五郎(前) 同11,545票 喜多壮一郎(前) 同11,325票 青山憲三(前) 次点8,362票 益谷秀次(元) 5,373票 富田喜作(新) 3,351票 重山徳好(新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 5月8日 政治・経済 6月8日に行なわれる金沢市会議員選挙の候補者推薦母体「金沢市翼賛選挙協議会」が結成された。会員は沢野市長から市内各界有力者24人と校下連合町会長30人、会長に中島徳太郎、副会長に安藤謙治と河野義雄が就任。事務所は上柿木畠元愛国婦人会県支部事務所。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 5月16日 政治・経済 去年11月から下本多町3番丁金沢一中跡に建設中の金沢連隊区司令部庁舎が一部完成したので、同司令部は旧城内から新庁舎に移転、執務を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 5月16日 政治・経済 金沢市翼賛選挙協議会は、市会議員候補者として各校下連合町会長から持ち寄られた158人の中から40人(現議員12人新人28人)の推薦を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 6月9日 政治・経済 4年半ぶりに改選の金沢市会議員選挙(定員40人)が8日おこなわれ、本日開票の結果、金沢市翼賛選挙協議会推薦候補40人、自由立候補31人計71人から翼協推薦候補29人、自由候補11人が当選した。新旧別では新人は翼協推薦に23人、自由候補に2人計25人、前議員は翼協推薦に6人、自由候補に9人計15人、また最高点当選は岡良一の997票、最下位当選は392票。当選者次の通り。岡島友作、井口清次、田守太兵衛、鳥畠徳次郎、青木正一、武谷甚太郎、中村栄俊、新田甚作、津田鉄喜知、中村外二、神谷文次郎、井村重雄、岡田清、吉田長久、徳田与吉郎、島田喜一、平野芳泰、石坂三郎、西原佐一、前川吉栄、荒木為久、武村慶一郎、河野信次郎、伊藤与三郎、綿谷小作、石見谷弘三、山田藤太郎、新田蒼、乾健太朗(以上翼協推薦)岡良一、金田一次、新谷喜一、中川外吉、水野宗次郎、高倉与三松、尾本伊三郎、森岡武吉、村本惣太郎、田原太三郎、西村与儀(以上自由立候補) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 6月17日 政治・経済 市会は正副議長選挙をおこない、議長に前川吉栄、副議長に水野宗次郎を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 6月24日 政治・経済 県は全国にさきがけて薪の配給統制を実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 7月1日 政治・経済 (県下8郡に地方事務所が開設された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 7月2日 政治・経済 市会議員全員(40人)が「金沢翼賛市政会」を組織、尾山神社で発表会をあげた。会長前川議長、副会長水野副議長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 7月3日 政治・経済 金沢と朝鮮間の電話が開通した。(金沢、京城間1通話3円90銭) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 7月21日 政治・経済 市会は7月30日任期満了の助役尾戸次作の再任を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 9月1日 政治・経済 市収入役小竹芳朗が8月28日任期満了退任、後任に副収入役九里次作が市会で選任され、同時に副収入役制が廃止された。小竹は昭和5年以来収入役在任12年。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 9月22日 政治・経済 大政翼賛会石川県支部事務局が設置され、事務局長に県翼賛壮年団長越生虎之助が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 10月1日 政治・経済 野町3丁目に普通局(旧2等局)の野町郵便局が開局した。敷地450余坪、総工費9万8,000円。集配区域は犀川以南の全市域と野々市郵便局の集配区域全部。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 10月1日 政治・経済 政府は官吏優遇策として戦時勤勉手当(棒給の1割)の支給と、家族手当月額1人当り3円を5円に引上げを決定、同時に民間会社に対しても家族手当の引上げを指示した。(地方吏員も実施) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 10月14日 政治・経済 市会議員尾本伊三郎の死去により、6月8日の市議選挙で次点の作田二三郎(翼協推薦)が繰上げ当選となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 10月17日 政治・経済 下本多町3番丁に新築完成した金沢連隊区司令部の落成式が挙行された。総工費9万8,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 11月1日 政治・経済 主食の総合配給にあたる石川県食糧営団が10月22日設立され、県下各郡市に11ヵ所の支所を置き本日から業務を開始した。営団の構成員は県米商連、小麦粉特約店商組、各郡米商組等18団体。営団の取扱う物資は米、麦、乾めん、パン、小麦。理事長は大島源太郎、営団事務所は十間町元米穀取引所に置くが、改装完成まで田丸町と玉井町に分れて執務。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 11月1日 政治・経済 (地方官官制の一部改正に伴い、石川県庁は知事官房を拡充して官房長を置き、総務、学務両部を内政部に統合し、従来の総務、学務、経済、警察4部が官房および内政、経済、警察の3部制となった。課も29課を24課に整理統合した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 11月3日 政治・経済 (江沼郡作見、塩津両村が合併して片山津町が発足した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 11月18日 政治・経済 宮市大丸、丸越両百貨店の金沢店は商工省の売場面積縮小方針に従って、宮市大丸は売場面積の20.4%604坪、丸越は16.4%209坪を縮小して公共団体等に供出することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 11月20日 政治・経済 下本多町金沢一中跡に県警察練習所が完成、落成式をあげた。敷地703坪、木造2階建、工費14万1,980円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 12月1日 政治・経済 市は中央ならびに県の行政事務簡素化に呼応して、市役所の部課を従来の1部13課から1部10課に統合整理した。新設課は、厚生課(社会、衛生両課を統合)配給課(経済課を廃止)工務課(土木、建築、都市計画の3課を統合)の3課。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 1月8日 社会・文化 第1回の大詔奉戴日。田中知事は県民に告論を発して県民の向うところを示した。市内各官公庁では大詔奉読式をし、職員がそろって石川護国神社に参拝、必勝を祈願した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 1月18日 社会・文化 大政翼賛会県支部文化委員のあっせんにより、石川県建築文化協会、石川県工芸文化協会、石川県美術文化協会が生れ、発会式が行なわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 2月9日 社会・文化 亜鉛鉄板が県に特配されたので、県統制課は非常用バケツ2,000個をつくり金沢、小松、七尾3市に特配することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 2月12日 社会・文化 午後10時40分ごろ八坂町日赤救護班寄宿舎から出火、同寄宿舎を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 2月18日 社会・文化 政府はシンガポール陥落を記念し、本日を戦勝第一次祝賀行事日と定めた。金沢市では昼間、雪の四高校庭で県、市、翼賛会県支部主催の祝賀大会、市役所その他の官庁、学校で祝賀式、学童の旗行列等、また夜は市立青年学校生徒と男女青年団員5,000余人の市中行進がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 3月7日 社会・文化 百々女木町の「百々女木の松」が石川県指定の天然記念物になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 3月31日 社会・文化 市は全市535町会の町会長を選任発令した。町会長の任期満了に伴い、各町会から推薦した候補3人のうちから市長名で選任したもので、再任が約8割。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 4月16日 社会・文化 午前3時ごろ河北郡花園村字利屋町の農家から出火、8戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 4月19日 社会・文化 午後1時25分ごろ玉川町のモーター店から出火、強風の中で11戸を全半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 4月19日 社会・文化 財団法人私立金沢中学校長兼理事長河合常治死去。50歳。同校の創設者。後任校長には実弟松井芳太郎が就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 5月6日 社会・文化 午後2時ごろ枝町から出火、1戸を全焼、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 6月4日 社会・文化 本多町金沢地方海軍人事部構内に新築された北陸海軍館の落成式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 6月18日 社会・文化 石川県翼賛壮年団長千田俔次郎はボルネオ西部州司政長官に転じ、後任団長に予備役陸軍中将越生虎之助が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 7月17日 社会・文化 愛国、国防両婦人会が合同して大日本婦人会発足。金沢では市内全家庭婦人を会員として大日本婦人会金沢支部ができ、結成式が市公会堂で挙行された。支部長沢野光(市長夫人)副支部長石黒雪子、赤倉外世喜。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 8月27日 社会・文化 午前2時半ごろ高岡町下藪の内の車両工場から出火、工場と物置2むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 9月5日 社会・文化 本年4月11日ボルネオ方面軍最高指揮官に任命された侯爵前田利為中将は、飛行機に搭乗して軍務遂行中、本日午前11時ごろ旧サラワクのビンツル北方海上で副官、飛行士と共に陣没した。58歳。搭乗機は数日後、香川県水産指導船寿丸が海中から発見、引揚げたもので、陣没は10月28日陸軍省から発表され、同日陸軍大将に昇進(9月5日付)正2位に叙せられた。利為は上州七日市の旧藩主前田利昭の5男、前田利嗣の養子となり明治33年家督を相続、襲爵した。家族は菊子夫人、嗣子利建のほか3女がある。沢野市長は発表と共に市民を代表して上京、前田家を弔問した。(陸軍葬は11月20日東京築地本願寺で執行され、遺骨は前夫人漾子も眠る京都大徳寺芳春院に埋葬) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 9月13日 社会・文化 県下の29文化団体を一丸とした石川県翼賛文化団体連盟の結成式が、尾山神社で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 10月5日 社会・文化 市会議員尾本伊三郎死去。61歳。金石町出身、市議2回当選。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 10月19日 社会・文化 (鶴来町舟岡山に、県が紀元2,600年記念事業として建設した石川県修練道場「白山塾」」の落成式が挙行された。敷地5,581坪、建築費14万5,700円を含め総経費21万8,000円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 12月1日 社会・文化 県、市合同主催の故前田利為大将慰霊祭が、高岡町国民学校講堂で菊子、利建らの遺族も参列して盛大に営まれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十七年(1942) 12月26日 社会・文化 金沢市内の撞球場は、撞球の健全娯楽化をめざす県撞球組合の決定により、本日から男女採点係の廃止と料金の時間制を実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 1月16日 政治・経済 県内全部の電鉄、バスを一丸として交通統合会社を設立するための設立準備委員会が、初めて北陸鉄道会社で開催された。統合対象の会社は北陸鉄道、能登鉄道、温泉電軌、金沢電鉄、浅野川電鉄、金石鉄道、北陸自動車、七尾交通自動車、門前自動車、トモエ自動車、湯涌自動車、金沢交通等28業者。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 2月1日 政治・経済 金沢市は商工省の方針に基づき、家庭用と不急産業方面に対してガスの割当量を削減、一般家庭は1戸2孔口までとし、平和産業と商業は孔口を半減した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 2月1日 政治・経済 北陸配電会社が3県下で大幅節電を開始した。規制量は電灯3割~5割、動力5割~8割。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 2月3日 政治・経済 泉本町の株式会社津田製作所は北陸航空工業株式会社と改称、川西航空の系列にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 2月17日 政治・経済 富山県の日本海産業会社所有の北陸鉄道会社の株式1万7,585株が、石川県当局のあっせんで石黒伝六、林屋亀次郎ら石川県財界人に譲渡された。これで北陸鉄道株は全部石川県内に移り、県内交通事業の統合がはかどることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 2月20日 政治・経済 市会は陸海軍に対する感謝決議案を可決し、また故林銑十郎大将に弔辞をおくることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 2月23日 政治・経済 沢野市長は市会で、昨年暮れから着工予定だった金沢駅拡築(工費70万円)は、鉄道省が全力を輸送力強化に充当する方針のため、戦争終了まで延期されることになったことを明らかにした。また中橋地下道の築設も資材関係で実現不可能と言明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 3月27日 政治・経済 大蔵省の1県1行方針により、加能合同、加州、能和3銀行の合併が決定した。新銀行名は北国銀行、本店は金沢市。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 3月30日 政治・経済 大政翼賛会石川県支部の役員更新が発令された。支部常務委員には再任13人のほか、次の5人が新任された。小倉周六、島田喜一、平沢三郎、谷口与平、大浜芳雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月1日 政治・経済 金沢市のガス、水道事業は従来同一特別会計に包含されていたが、本年度からガス事業と水道事業の別個の特別会計に分離された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月1日 政治・経済 市は農商課を廃止して農務、商工の両課を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 5月12日 政治・経済 夜、県下を含む中部地区に警戒警報が発せられたが、中部軍参謀長は「警戒は相当長期にわたる見込み」と発表した。(本日、アッツ島に米軍上陸) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 6月1日 政治・経済 (市制、町村制の改正法が実施された。改正法によると市長の選任は、内務大臣が市会をして市長候補者を推薦せしめ、その候補者につき勅裁を経て選任する。もし内務大臣の指定する期日までに候補者を推薦しないときは、内務大臣が勅裁を経て市長を選任することになった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 6月30日 政治・経済 県下交通事業の第一次統合として北陸鉄道、温泉電軌、金石電鉄、能登鉄道、金名鉄道、湯涌自動車、七尾交通の7会社の合併が県のあっせんにより決定、各会社は本日一斉に解散総会を開いた。新会社名は北陸鉄道株式会社、資本金1,029万9,700円。合併は10月。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月1日 政治・経済 都市、府県間行政の総合連絡調整をはかるため、政府は全国9地区に地方行政協議会を創設した。北陸地方協議会(新潟、富山、石川、福井、長野5県)は新潟に置き、会長の新潟県知事には前田多門を任命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月23日 政治・経済 石川郡戸板村の金沢市編入が市会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月23日 政治・経済 商工経済会法によって金沢、小松両商工会議所が解消し、県下各地の商工会を合併して、県を単位とする石川県商工経済会が設立されることになった。設立委員として石黒伝六、林屋亀次郎、東馬三郎、米谷半平、福田三次郎、春木藤兵衛が商工大臣から任命された。石川県商工経済会の構成員は5,018、うち金沢市内の法人312、個人1,445である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月23日 政治・経済 市は改正市制により、市長の相談役として市内における各種施設の重要事項につき審議を行なう「参与」を設置することになり、市参与設置条例制定を市会に提出、議決を得た。参与は8人以内、任期は2年。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月23日 政治・経済 県は県営大野川改修工事の本年度当初予算11万円のうち5万円を節減額として操りのべたので、金沢市は工事の昭和21年度完成を促進するため、5万円を一時立替えて予定工事を進めることにし、市会の議決を得た。これにより大野川河口の導流堤、防波堤が着工される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月27日 政治・経済 富山県下4銀行の合併による北陸銀行の創立総会が開かれた。資本金3,948万500円、頭取中田清兵衛、金沢市内の支店11、石川県内の支店と出張所29。(全国の支店131) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月30日 政治・経済 金沢市の増産計画雄進の総本部として、金沢市経済更生委員会が設置された。委員は産業組合長、出張所主任、市翼壮副団長ら24人、会長は沢野市長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 8月1日 政治・経済 市は改正市制により考査役を設置し、大島庶務課長を任命した。考査役は市営事業の管理、出納、その他市吏員の掌理に属する事務の執行を考査するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 8月1日 政治・経済 石川県青果物配給会社が開業した(7月10日創立総会)。本社は市内石屋小路、支店は小松、七尾両市、社長新保武二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 10月1日 政治・経済 石川郡戸板村が金沢市に正式編入された。戸板村は845戸4,416人、編入により金沢市の人口は194,964人になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 10月1日 政治・経済 石川県商工経済会が発足し、創設以来50年の金沢商工会議所と小松商工会議所が閉所した。県商工経済会の役員は会頭石黒伝六、理事長宮田治三郎、理事9人、監事3人、評議員35人、顧問12人で小松支部長は理事西田与作、七尾支部長は春木藤兵衛。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 10月11日 政治・経済 県下の電車、バス7会社の合併による北陸鉄道株式会社の創立総会が開かれた。資本金1,029万9,700円、本社は旧北陸鉄道会社、支社は羽咋町と山代町。社長林屋亀次郎(11月11日就任)、専務取締役松木幸一。新会社は19自動車業者も吸収する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 10月25日 政治・経済 金沢市内の百貨店、株式会社宮市大丸(資本金 250万円、社長井村徳二)と株式会社丸越(資本金 110万円、社長林屋亀次郎)が県のあっせんにより1対1で合同、株式会社「大和」として12月21日発足することにきまった。合併後も両社の本支店は当分そのまま存置する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 10月26日 政治・経済 金沢駅前の市立観光会館は、観光部面を廃して必需商品の販売本位に転換するため、「市立商工館」と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 11月15日 政治・経済 金沢地方気象台は文部省所管から運輸通信省所管となり、「金沢測候所」と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 11月23日 政治・経済 石川郡金石町、大野村、二塚村の金沢市編入が市会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 12月1日 政治・経済 石川郡金石町、大野村、二塚村が金沢市に正式編入された。編入人口と戸数は金石町1,289戸5,661人、大野村455戸2,415人、二塚村323戸1,839人。編入により金沢市の人口は204,879人(45,791戸)になった。市役所の金石支所、大徳(大野村)、二塚出張所が設けられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 12月6日 政治・経済 石川県農業会の創立総会が開かれた(発足は15日)。県下に8万農家に対する総括指導機関として農村の32指導団体を翼下に入れたもの。会長江川為信(県農会長)副会長中島栄治、金沢支部長新田蒼。事務所は金沢市、県下の支部は12。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 12月12日 政治・経済 県下の加能合同銀行、加州銀行、能和銀行の合同による北國銀行の創立総会が開かれた。資本金 2,000万円、頭取米谷半平、取締役会長泊宗一、専務取締役福井弘一、常務取締役山上喜之松、桜井久光、寺本松次郎。本店は現加能銀行本店、支店を県下16ヵ所と大阪に設置。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 12月18日 政治・経済 県下の木材統制機関として石川県地方木材株式会社が設立された。資本金 400万円、社長通善直次郎、副社長杉原亀十郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 12月20日 政治・経済 北陸銀行が金沢貯蓄銀行(資本金50万円)と富山合同貯蓄銀行(資本金50万円)を吸収合併した。北陸銀行の資本金は4,200万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 1月12日 社会・文化 安宅弥吉(金石町出身)の実業界引退記念として、安宅商会から石川県に奨学金100万円の寄付があり、県はこの100万円で特別会計「石川県育英資金」を設定した。育英資金の給与は4月から開始し、対象は県内に本籍と現住所を持つ男子で中等、高等、大学、陸軍幼年学校の学生生徒。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 1月25日 社会・文化 森下八左衛門死去。83歳。尾張町の菓子舗森八の元経営者、明治28年森八を改名して第12代八左衛門を襲名。明治30年中川長吉らと金沢電気会社を創設したのをはじめ多くの事業を手がけ、県下実業界の先駆者であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 1月27日 社会・文化 金沢市は全国最高位を占める市の乳幼児死亡率を減らすため、乳幼児保健特別指導地区として弥生町市営住宅と天神町1、2丁目を指定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 2月4日 社会・文化 元首相林銑十郎大将東京で死去。68歳。現在大日本興亜同盟総裁。旧加賀藩士族林孜々郎の長男。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 2月22日 社会・文化 宝円寺住職増田雪巖死去。76歳。福井県武生町の出身、曹洞宗大学に学び50余年間北陸仏教界につくした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 3月9日 社会・文化 午後10時50分ごろ中本多町の石川県立工業学校本館から出火、2階建本館(375坪)講堂(100坪)漆工科実習室、控え室等計705坪(全校舎の約34%)を焼失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 3月19日 社会・文化 市は紀元2,600年記念事業として、西町の金谷館を卯辰山山上に移築して市民修練道場「卯辰山会館」(仮称)をつくることにし、建設費8万8,580円を本日の市会に提出、議決を得た。(建築資材入手困難のため最後的決定が昨年来のびていたもの) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 3月30日 社会・文化 市は市有財産野田山の松杉2,000本(目回り3尺以上)を造船用材として供出することを決定した。同山の樹木1万数千本のうち、供木の規格に合う松杉は約4,000本である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 3月31日 社会・文化 県は県庁構内の赤松、杉、モミ、ケヤキ等7本(目回り5尺、長さ7間以上)を伐採供出することにきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月1日 社会・文化 金沢市立女子職業学校は金沢市立第一高等女学校に、金沢市立実科高等女学校(高岡町国民学校内)は金沢市立第二高等女学校に改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月1日 社会・文化 師範学校が専門学校に昇格し、予科3年本科3年の6年制(従来5年制)になった。石川師範学校長に清水暁昇、同男子部長に田沢次郎、同女子部長に清水敬治が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月1日 社会・文化 金沢高等工業学校に「付設工業教員養成所」が新設された。修業年限3年、募集人員40人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月1日 社会・文化 (富山県立富山高等学校が官立に移管された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月11日 社会・文化 文部省の新体練方針に沿って第四高等学校野球部が解散することになり、金沢野球倶楽部と記念試合をした。(金沢高等工業学校野球部も5月に解散) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月23日 社会・文化 金沢市翼賛壮年団長中林貞治が辞任、新団長に福島和吉郎予備役少将が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月29日 社会・文化 大日本体育会石川県支部の発会式が石浦町仙宝閣でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月29日 社会・文化 県土木課は石川、福井県境から倶利伽羅峠に至る国道の並木林と県道金石往還等の並木のうち、目まわり1尺5寸以上のもの1,700本(1万2,000石)を供出に決定した。代価は船材供出と県道補修にあてる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 4月 社会・文化 市は県結婚奨励要綱に基づき、市役所厚生課内に金沢市結婚相談所を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 5月2日 社会・文化 県下の少年文化団体を統合して石川県少国民文化協会が結成された。会長石黒伝六。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 5月15日 社会・文化 石川県資源回収協議会は金属非常回収の具体的方針を決定、6月中に県下各地の戦利品、記念保存物、橋の欄干、広告板、銅像等の回収を断行することにした。なお県下の銅像130余基のうち兼六園の日本武尊像は回収から除外する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 5月15日 社会・文化 大日本武徳会石川県支部の結成式が県会議事堂でおこなわれた。支部長田中知事。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 5月24日 社会・文化 大日本婦人会金沢市支部は「モンペ着用」の街頭運動を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 5月 社会・文化 県は中等学校、青年学校、国民学校生徒の県外修学旅行を禁止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 6月1日 社会・文化 金沢市立図書館は良書を多くの市民に読ませようと、本月から各校下に町会文庫を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月1日 社会・文化 北鉄の金沢市内電車に女性の補助車掌が乗務をはじめた。国民勤労報国協力令に規定する金沢市内の該当女子82人が、女子勤労報国隊を編成して服務するもので、年齢は17歳から25歳までのもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月6日 社会・文化 夏季の上衣なし運動が本県にもひろまり、県庁は「上衣なし登庁差しつかえなし」の通達を出した。また各学校も上衣なし通学を生徒に許した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 7月28日 社会・文化 食糧増産のため兼六園長谷川邸跡の慶寧公銅像前約750坪を、松任農学校内青年学校教員養成所生徒約50人と、県立金沢第一高女生徒約20人が開墾して第一高女の報国農園とし、ソバ約1斗8升をまいた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 8月24日 社会・文化 野田寺町松月寺の桜(大桜)と広坂通堂形のシイの木(県庁前)が文部省から天然記念物に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 9月1日 社会・文化 自動車に代って金沢市内はじめ県下各地に最近激増している客車付自転車(輪タク)の公定料金が県公報で告示、実施された。最初の1キロ以内は30銭、以後半キロを増すごとに10銭。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 9月15日 社会・文化 県下で金属非常回収運動が開始された。市内外の銅像では銭屋五兵衛(金石町)永井柳太郎(永井善隣館)本多政均(大乗寺)前田慶寧(兼六園)護国神社の軍馬像はじめ大半の銅像が供出される。(19年7月までに県下133基の銅像中129基が供出完了) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 9月18日 社会・文化 各学校の繰上げ卒業式が、本日の四高を最初につぎつぎに行なわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 9月26日 社会・文化 金沢市出身の木村栄死去。74歳。理学博士、前緯度観測所長、Z項を発見し世界の天文学界を驚かせた。明治44年第1回学土院恩賜賞の受賞者で、昭和12年第1回の文化勲章を受けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 9月30日 社会・文化 第四高等学校長岡上梁が勇退し、後任に東京外国語学校長石井忠純が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 10月6日 社会・文化 北国毎日新聞社社長林政武死去。50歳。新社長に副社長嵯峨保二が就任した(9日)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 10月14日 社会・文化 新竪町善隣館の落成式がおこなわれた。工費7万余円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 10月26日 社会・文化 兼六園霞ヶ池のコイを増殖用種コイにするため、県水産試験場員が地びき網で2,3尺の大コイ約200匹を生けどり、試験場加賀分場へ運んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 10月30日 社会・文化 金沢高等工業学校長森慶三郎が室蘭高等工業学校長に転じ、後任に横浜高等工業学校教授横山盛彰が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 11月13日 社会・文化 金沢医大、四高、高工、師範4校の入隊学徒を送る出陣学徒壮行大会(県教育会、北国毎日新聞主催)が四高校庭で盛大に挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 11月18日 社会・文化 徳田秋声(末雄)東京で死去。73歳。金沢出身、帝国芸術院会員、日本文学報国会小説部会長であった。一昨年母校の馬場国民学校で講演をした。長編「縮図」が最後の作品となった。代表作に「黴」「あらくれ」「仮想人物」など。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 12月1日 社会・文化 金沢市で豆腐、油揚げが配給制になった。(隣保班ごとに順番配給) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 12月3日 社会・文化 明年4月実施する県下商業学校の戦時転換が県で決定した。県立金沢商業は存置、金沢市立商業は金沢市立第二工業学校として機械、金属工業の2科を設置、小松商業は農業学校に、七尾商業は七尾工業学校に転換する。また県立工業は図案科を廃止し科名を改称する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 12月17日 社会・文化 金沢高等師範学校の明年4年設置が内定した。科は数学、物象、生物の3科120人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十八年(1943) 12月24日 社会・文化 明年4月から石川県立青年学校教員養成所の官立専門学校へ昇格が政府で決定した。修業年限男子3年、女子2年制。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 1月10日 政治・経済 県は航空機と木造船の増産を推進するため、石川県生産増強本部を設置した。本部長田中知事。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 1月14日 政治・経済 県は木炭不足を補う代用燃料4万2,602俵(棒炭、コーライトなど)を1月分木炭の代替として配給する。このうち金沢市への割当は2万9,812俵(木炭の俵に換算したもの)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 1月19日 政治・経済 本日から県下で不急不用品を買ったり、遊興飲食宿泊に一定額以上を支払うときは、貯蓄券をあわせて購入しなければならなくなった。添加される貯蓄券は、遊興飲食費が5円の場合1割、10円以上の場合は2割、20円以上の場合3割、宿泊費は1泊8円以上1割、15円以上2割。また演劇、映画、相撲などの入場料2円以上の場合も2割の貯蓄券が添加される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 1月25日 政治・経済 (県警察部に輸送課が設置された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 2月1日 政治・経済 県は金沢市内一般家庭の魚類入手難を緩和するため、現在旧市内276軒の魚屋の店舗を81ヵ所の配給所にまとめ、一方、入荷する魚類を軍需用、大工場用、冷凍用、加工用、業務用、家庭用に6大別して、家庭用は配給所の手を経て一般家庭へ4,5日に1回は必ず配給するという方法を実地することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 2月18日 政治・経済 県は調理用の電熱や営業用電気アイロンの使用を禁止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 2月22日 政治・経済 国勢調査に準ずる人口調査が全国一斉におこなわれた。金沢市の調査結果は47,875世帯、人口219,203人(男104,720人、女114,483人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 2月23日 政治・経済 北陸鉄道は(イ)輸送力増強のため市内電車小坂神社終点-東金沢駅間および六枚町-金沢駅前間(単線)に新線敷設(ロ)金石線と石川線西金沢駅-野町駅間を市内線に編入(ハ)市内線を10銭均一制に値上げの件、につき金沢市の承認を求めてきたので、市会協議会で審議の結果、値上げは新線着工と同時実地の条件づきでこれを承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月1日 政治・経済 県警防課は金沢市内の防空小区に対し、旧市域の防空小区や重要工場付近の各道路、空地には必ず公共待避所を増設すると共に、各隣保班でも屋外に地下式の防空待避所を急速につくるよう指令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月1日 政治・経済 官庁の常時執務体制実施で、今月から官庁の日曜休日は2週間に1回だけ交代で休むことになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月1日 政治・経済 石川貯蓄銀行(資本金50万円)が北国銀行に合併した。合同による北国銀行の資本金は2,050万円、預金は2憶5,862万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月2日 政治・経済 大都市から金沢への疎開者受入れあっせんのため、市役所庶務課に「金沢市疎開相談所」が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月20日 政治・経済 市は市役所の課の統合を実地、本庁は従来の11課が10課になった。〔新設〕市民課、産業課、軍事警防課、戸籍課〔統合または分割のため解消〕社会教育課、配給課、農務課、商工課、軍事戸籍課〔改称〕学務課を教学課に、庶務課を総務課に、会計課を経理課に。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月26日 政治・経済 県の印刷業者整備により金沢市内では95軒の印刷所が33軒に減ったが、県は25、26両日にわたり、これら廃業印刷所の活字類を堤町の厚生倉庫金沢出張所に集め、軍需工場へ発送した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月31日 政治・経済 昨年暮、宮市大丸と合併した旧丸越の大和武蔵野店は、時局工場へ転身のため百貨店を閉業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月31日 政治・経済 市は市営公益質屋を廃止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月1日 政治・経済 大政翼賛会石川県支部役員の任期満了による委嘱替えが発令されたが、常務委員は再任16人新任4人で、新任は生産部門からの林屋亀次郎(北鉄社長)二宮喜三(山中航空社長)直山与二(石川製作所長)中村哲男(磐城セメント工場長)。また金沢市支部の役員は全員再異属された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月1日 政治・経済 金沢市内の電話度数料が5銭(従来4銭)に引上げられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月28日 政治・経済 政府は勅令で市町村長の高等官待遇を発表、人口20万の金沢市長は高等官3等待遇(従来は4等待遇扱い)になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月1日 政治・経済 日本銀行金沢支店長斎藤良弼は本店計理局長に転じ、後任に福島支店長伊藤斉が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月16日 政治・経済 決戦非常措置要綱により、県下のバス115路線のうち金沢市内路線はじめ85路線が一斉に運転休止になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月28日 政治・経済 決戦下の輸送増強のため北陸貨物自動車、加賀貨物自動車運送、能登貨物自動車、鳳珠貨物自動車の4会社合併による北陸貨物自動車株式会社が創立された。資本金241万2,200円。社長鳥畠徳次郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月8日 政治・経済 市ガス水道事業部はガス用原料炭の割当が減少したので、本日からガス供給停止時間を延長し、従来の午前0時から午前4時までを午後10時から翌朝午前4時まで停止に強化した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月8日 政治・経済 幼児の主食増配が本日から全国一斉に実地されたが、石川県では従来数え年1~2歳の乳児を持つ母親に1日78グラム(5勺)の特配をしていたのをやめ、1~3歳の配給量を120グラム(8.4勺)4歳、5歳を162グラム(1合1.4勺)6歳~10歳を242グラム(1合7勺)と、いずれも42グラム(3勺)増配した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月15日 政治・経済 満洲牡丹江省の第9師団に沖縄へ転進命令が下った。(師団は7月12日沖縄上陸、首里市に師団司令部を置いたが、同年11月17日さらに台湾へ転進を命ぜられ、12月30日台湾上陸。新竹市に師団司令部を置き米軍の台湾上陸に備えたが、20年8月15日終戦、21年1月内地帰還) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月16日 政治・経済 敵機、北九州地方空襲。石川県下に15日夕刻警戒警報が発令された。県警察部は本日から当分の間、警戒警報発令中は映画、演芸等一切の興行物の中止を命じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月17日 政治・経済 鮮魚介の公正配給のため、県のあっせんで金沢合同魚市、小松魚市、大聖寺魚市の3会社が合同して石川県鮮魚介配給株式会社(資本金80万円)が創立された。取締役会長青山憲三、常務取締役二木幸次郎、北岡次郎吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月24日 政治・経済 金沢、小松、大聖寺、能登の4織物工業組合と県織物工業組合を統合して全県一丸の石川県織物統制組合が創設された。理事長本多政樹、副理事長中川幸平、西川外吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 7月8日 政治・経済 府県の経済部が経済第一部(食糧行政)と経済第二部(軍需生産)の2部制となり、官房長制度が廃止された。石川県庁では知事官房ができ、経済第二部に軍需課が新設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 7月14日 政治・経済 市会は7月30日任期満了になる市長沢野外茂次の3選推薦を可決した。市長の3選は金沢市政はじめて。(30日内務省から市長選任を発令) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 7月18日 政治・経済 大本営がサイパン島の玉砕を発表。田中知事は県民の奮起要請の談話発表、また県は全市町村にサイパン島憤激貯蓄(1戸5円以上)の実行を指令、金沢市内の各工場代表者500余人は19日石川護国神社で、サイパンの英霊感謝と増産必成祈願式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 8月12日 政治・経済 生活必需品取扱いの県下32団体を統合して、石川県生活必需品総合配給統制組合が設立された。理事長宮田治三郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月1日 政治・経済 金沢市内の4信用組合が合同して金沢信用組合が発足した。本店は南町、支所は金石町と胡桃町の2ヵ所。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月5日 政治・経済 金沢市選出の県会議員、市会議員岡良一が応召した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月9日 政治・経済 県は兼六園内石川県商品館に保管されている県有美術品を県庁構内に移し、商品館のあとを改修して、県庁構内にある各種団体事務所40余をここへ移すことを県参事会にかけて決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月11日 政治・経済 金沢市内各在郷軍人分会は一斉に防衛隊を編成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月15日 政治・経済 県は本日から1ヵ月間の予定で金、銀、白金、ダイヤモンド等の貴金属買上げ運動を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月22日 政治・経済 大日本赤誠会石川県支部恢弘塾が解散した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月30日 政治・経済 大本営がテニヤン・大宮島の玉砕を発表。平井知事は談話を発表、県下の映画館はじめ各興行場は同夜哀悼の意を表し休業。遊廓、料理店、遊戯場は2日までの3日間休業、また大衆食堂、温泉旅館等は3日間酒類不提供を申合せた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 10月3日 政治・経済 石川食糧営団は端境期10月分の主食に、金沢、小松、七尾3市にはサツマ芋6日分を配給すると発表した。これで10月の金沢市の代替食配給は精麦3日分、小麦粉または乾麺5日分、サツマ芋6日分計14日分。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 10月10日 政治・経済 石川県生活必需品総合配給統制組合理事長に就任のため、石川県商工経済会理事長を辞任した宮田治三郎の後任理事長に浅田啓次が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 10月11日 政治・経済 (北陸線動橋、大聖寺駅間に作見駅が新設された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 11月2日 政治・経済 内務省は市町村長優遇に関する勅令により、沢野金沢市長の勅任官待遇を発令した。(全国の勅任待遇市長は17人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 11月8日 政治・経済 県は61歳以上の老人の米配給量を、1日280グラム(1合9勺)から300グラム(2合1勺)に増量した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月2日 政治・経済 サツマ芋、ジャガ芋は石川県では従来、供出割当完納後は自由販売を許されていたが、本日から県令で供出後も生産者の自由販売を禁止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月7日 政治・経済 県は航空燃料として松根油の緊急増産運動を開始した。政府から県への供出割当量は明春3月末までに5,088石で、この割当量を消化するには250万貫の松根の掘り起しが必要。(県下の現状は12工場で年間生産量1,000石未満) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月14日 政治・経済 高橋金沢師団参謀長は「敵機はすでに長野県へも侵入、盲爆している。県民は就寝時の消灯励行、防空ごうの完備はじめ万全の態勢を確立されたい」と要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月25日 政治・経済 軍霊会社法による県下の指定軍需会社は現在次の7会社である。石川製作所、小松製作所、日本電気冶金会社、東京航空中島工場、大同工業会社、津田駒工業会社、大日特殊工作所。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 1月12日 社会・文化 兼六園長谷川邸跡の前田慶寧銅像の献納祭がおこなわれた。(14日撤去) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 2月1日 社会・文化 県は今春の中等学校入学考査で、金沢地方に初めて学区制を実地することにきめた。学区制は金沢市と石川、河北両郡を1学区として、学区内の志願児童は総合考査により県立金沢一中、二中、三中、県立金沢一高女、二高女、松任高女、津幡高女に収容するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 2月2日 社会・文化 市内三社川岸に真性天然痘患者が1人発生した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 2月10日 社会・文化 午前7時ごろ竪町の印刷製本工場から出火、竪町と片町の商店等7戸を全焼、4戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 2月24日 社会・文化 市は町会および町会連合会に、3月末までに配給部を設置することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 2月26日 社会・文化 市会は全員戦死が発表されたクェゼリン、ルオット両島日本軍の英霊に感謝敬弔の誠をささげるため、全議員の今期3ヵ月分の歳費4,000円を陸海軍へ2,000円ずつ国防献金することを決議し、直ちに議員代表が連隊区司令部と海軍人事部に行き寄託した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月4日 社会・文化 市は百間堀小運動場900坪のうち350坪を、市立第一高女と女子職業学校に開墾報国農場用として無償貸与することを決定した。(6日から耕作を開始した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月5日 社会・文化 政府は本日から高級料理店、芸妓置屋等の全国一斉休業を実地した。現在金沢市内の料理店は52軒、芸妓置屋は東廊と主計町47軒芸妓124人、西廊46軒158人計93軒282人。芸妓のうち相当数は鍔甚の日本夜光塗料の女工員に就職する。料理店等のうち、すでに建物の転身ずみは金城楼(県産報会館)主計町演舞場(海洋道場)東廓演舞場(三浦製作所工場)等。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月6日 社会・文化 新聞の夕刊が本日から全国一斉に発行休止、朝刊は4ページ建(月曜、木曜は2ページ)となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月25日 社会・文化 金沢市を中心とする県下の天然痘はまだ終息せず、本日現在で発生数は初発以来55人になった。55人中金沢市は46人で、うち金石町が23人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月25日 社会・文化 侯爵前田利建の家族が東京から金沢に疎開してきた。(4月初旬から古今亭に居住) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 3月29日 社会・文化 浅野川電鉄会社経営の粟崎遊園が閉鎖し、軍需工場に転換した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月1日 社会・文化 金沢高等師範学校が新設開校し、校長に前文部省教学官倉林源四郎が任命された。校舎は元中村町国民学校を使用し、理科第一部(数学)第二部(物象)第三部(生物)30人ずつ計90人を募集する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月1日 社会・文化 専門学校に昇格の石川青年師範学校長に、県立松任農学校長五坪茂雄が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月1日 社会・文化 金沢高等工業学校は金沢工業専門学校と改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月1日 社会・文化 旅客運送の制限が強化され、100キロ以上の旅行には警察署または所属官公庁等の証明が必要になった。また汽車の1等車、1、2等寝台車および食堂車が廃止された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月1日 社会・文化 馬場4番丁に私立金沢女子商業学校が創設された。(昭和7年創設の明正高等簿記学校の後身) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月7日 社会・文化 午前2時ごろ上柿木畠の民家から出火、1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月10日 社会・文化 市は旧市域青年学校男子部を小将町青年学校に統合した。これで市立青年学校は男子は小将町と新市域の14校に、女子は17校になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月12日 社会・文化 県の出版物整理方針により県下の出版物250誌が廃刊になった。存続を認められたのは県庁の統合機関誌「石川月報」連隊区司令部の「部報」傷痍軍人や産業報国会等の機関誌、専門学校以上の学術機関誌(1校1誌)など20余種。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月13日 社会・文化 県は映画館に対する新措置を決定、実施した。これは金沢市内映画館の1日2回上映制を3回にふやし、また大衆の金沢市内集中を避けるため、金沢市内の封切館を減らして地方にふやすもの。このため香林坊付近に集中していた封切館4館のうち、スメル館、帝劇と尾張町の昭和劇場の3館だけが新しい毎週封切館となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 4月21日 社会・文化 前田家は小立野天徳院の同家墓地5,000坪のうちの参道1,000坪を、石川師範女子部附属国民学校の報国農場に提供した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月3日 社会・文化 魚族と農作物保護のため、県は河北潟その他の湖潟と、潟から4,000メートル以内の地域ならびに大野川等における魚釣りを県令で禁止した。違反は50円以下の罰金。(11月22日禁令解除) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月4日 社会・文化 県の調査によると石川県への疎開者は4月末までに1,096世帯(4,126人)、うち金沢市への疎開は232世帯である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月5日 社会・文化 豊漁の刺し網イワシの適正配給確保のため、県経済保安課は金石、大野、粟崎等の海浜へ直接買出しにくる金沢市民たちを一斉に取締った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月6日 社会・文化 飲食店で提供する「雑炊」の規格について、玉川署管内飲食店組合は次の通りきめて新聞広告で市民に発表した。「どんぶりばちの縁スレスレ一杯に量をみたし、一見して満腹感を与えるようにする。米は平均4勺程度とし、濃度は中へハシを立てても倒れぬ程度にする。値段は1杯25銭。」 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月13日 社会・文化 タケノコの最盛期を迎え、広坂署は市内の窪、高尾両町付近へ買出しに繰り出す金沢の主婦たちを一斉に取締った。主婦たちの買出し価格は、配給小売価格の倍額の1貫目2円内外であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月19日 社会・文化 在郷軍人会金沢支部が国防思想普及のため、上柿木畠の丸内科医院跡に建設した石川国防会館の開館式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 5月25日 社会・文化 中央物資活用協会石川県支部のなべ、かま、バケツ巡回修理班が、全市域を5班にわけて巡回修理を開始した。このため市は修理券3万552枚を、町会の手を経て市民家庭に配付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月10日 社会・文化 空席中の大日本婦人会石川県支部長に、金沢に疎開した前田利建夫人政子が推されて就任した。副支部長は米山久子、沢野光、玉置広子。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月13日 社会・文化 辰巳用水を築いた板屋平四郎の表功碑、祠堂、案内標が兵四郎の霊所金沢市郊外浅川村字袋の恩善寺境内に建ち、落城除幕式がおこなわれた。建設者は片岡安ら有志の板屋平四郎顕彰保存会。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月17日 社会・文化 5月中の石川県への疎開者は1,321人(385世帯)で、うち金沢市へは456人であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月21日 社会・文化 小売書店の企業整備が行なわれ、金沢市内の残存書店は17店になった。新雑誌はこの17店で古本古雑誌と交換で販売される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月23日 社会・文化 女子勤労挺身隊強化要綱にもとづき、県は40歳までの未婚女子の動員計画をきめたが、その第1回分として金沢国民勤労動員署は市内の35歳までの未婚女子1,300人を選考のうえ、7月5日から1年間管内の重要7工場へ配置することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月26日 社会・文化 金沢市内に開設される「大衆食堂」は13ヵ所に決定した。給食人員は1日約1万500人、飲食物は雑炊、定食、どんぶり物、素うどん、酒類で7月初旬から開業する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 6月26日 社会・文化 午前0時半ごろ大音町のクリーニング店から出火、1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 7月3日 社会・文化 石川県教育会が大日本教育会石川県支部に改組された。支部長は知事、副支部長は県内政部長と三島理保。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 7月10日 社会・文化 北陸鉄道市内電車の新運賃が本日から実施、片道10銭均一となり、金石線と新西金沢-野町間が市内線に編入された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 7月21日 社会・文化 豪雨のため犀川、浅野川、金腐川が5尺ないし1丈増水、犀川大桑橋、新橋の支柱が沈下、蛤坂新道が一部くずれ、中町と尾張町で一部浸水した。(県下の土木被害約100万円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 7月25日 社会・文化 石川県へ大阪、神戸、尼崎3市から学童1万5,000人が集団疎開することに近畿地方行政協議会で決定。県は本日受入れ協議会を開いた結果、約1万人を山中、山代、片山津、粟津、和倉、湯涌、辰ノ口、深谷の8温泉宿に収容し、その他は鉄道沿線主要市町村およびその地域の寺院等に収容することを決め、準備に着手した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 8月1日 社会・文化 県は学童集団疎開本部を設け、疎開学童の市郡別割当てを決定した。金沢市の割当ては1,750人、近郊の犀川村、浅川村、川北村各100人。割当ては停車場から5キロ以内、市町村の防空上の条件、寺院の数、旅館の収容力、医師の分布状況等を考慮して決定したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 8月5日 社会・文化 愛知県派遣石川学徒隊680人(3中隊)が在校生の校歌に送られて金沢駅を出発した。学徒隊は金沢一中、二中、三中、金沢、輪島、小松、七尾、羽咋、大聖寺、飯田、の10中学校の最高学年生で、愛知県刈谷のトヨタ自動車工業、同自動織機、同製網の3工場で学年末まで勤労作業する。隊長は吉野勝太郎(金沢一中教頭)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 8月11日 社会・文化 県は県下男女中等学校の第3学年以上全生徒を、県下44工場に勤労動員することに決定した。期間は9月から明春3月まで。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 8月21日 社会・文化 応召、応徴の住職に代る女僧侶養成のため、金沢東別院に大谷派本願寺の「女子教師受験準備講習所が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月3日 社会・文化 政府の指示により官庁は本日の日曜から第1、第3日曜の休みを廃止した。金沢市役所もこれにならった。県内の銀行も両日曜は開店することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月6日 社会・文化 午前10時40分ごろ金沢医科大学構内の結核研究所2階研究室(56坪)から出火、同所を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月13日 社会・文化 県の調査によると、4月以来石川県への一般疎開者は8月末現在で1万3,951人(うち金沢市は2,487人)である。住宅関係は縁故先に同居が5割7分(7,915人)、間借りが1割8分、1戸を借りたものが1割などとなっている。また疎開者の年齢は10歳以下が4割6分、10歳から20歳が2割8分で大半はこどもと女性。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 9月16日 社会・文化 石川県への集団疎開学童の第一陣大阪市都島区内8国民学校の2,740人が臨時列車で来県、金沢駅には北都島校3年生以上の男女307人と教職員32人が到着した。駅前で金沢市関係者、学校関係者、学童らによる歓迎式の後、男女147人は西別院、男45人は八坂雲竜寺、女45人は金石大宝楼、男102人は大乗寺へ落ちついた。(18日受入れ各校で入校式を挙行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 10月1日 社会・文化 金沢市内電車のラッシュ時の混雑を緩和するため県警察部は北陸鉄道と協議、本日から市内停留所の廃止10ヵ所、整理統合3ヵ所、移転1ヵ所、運転台数9台増加、女学生の時差登校などを実施した。廃止停留所は安江町、下堤町、片町大和前、寺町2丁目、県庁前、尾張町、味噌蔵町、石引町、森下町。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 10月8日 社会・文化 貴族院議員堀啓次郎大阪府箕面町で死去。78歳。金沢市出身、中橋徳五郎のあとに大阪商船社長をつとめ、関西財界で活躍した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 10月20日 社会・文化 石川県ならびに軍人援護会県支部主催で、支那事変以来の県下戦没者をまつる大東亜戦争戦没者慰霊祭が、兼六園日本武尊銅像前広場で盛大に挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 10月 社会・文化 小野慈善院は戦災疎開者に対して、空室を貸与することを認可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 11月3日 社会・文化 舞鶴海軍工廠は石川県立金沢第一高女、同第二高女、私立藤花高女の3校を優良挺身隊として表彰した。3校挺身隊員は昨年12月繰上げ卒業して本年1月舞鶴へ出動したもので、各校25人ずつである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 11月7日 社会・文化 県下の少年兵諸学校の志願者受付けが締切られたが、連隊区司令部調査によると少年飛行兵志望が最も多く県下で3,145人、うち金沢市内の志願者は2,599人である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 11月20日 社会・文化 県下中等学校3年生と国民学校高等科生徒が県の勤労動員により、県下の軍需工場で勤労作業を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 11月27日 社会・文化 金沢郵便局はハガキの再使用方法について発表した。一度使用ずみのハガキの表と裏にあまり厚くない用紙を一面にはって、3銭切手をはればそのまま郵便ハガキとして取扱われるというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月4日 社会・文化 永井柳太郎東京で死去。64歳。金沢市主馬町出身、大正9年39歳で金沢市から代議士当選以来連続当選。拓相、逓相、鉄相等を歴任、現に大日本教育会長、大日本育英会長であった。(6日東京での葬儀後、10日金沢天徳院で盛大な告別式が執行された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月7日 社会・文化 午後1時36分ごろ金沢地方に弱震、震源地は遠州灘。金沢市郊外で建築中の工場1むねが倒壊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月10日 社会・文化 県防空本部および県警防課は石川県へ来る疎開者受入れ態勢強化のため、明年2月末までに住宅5,000戸の供出を促進することをきめた。金沢市内の供出割当ては広坂署管内95戸、玉川署90戸、金石署20戸。改造資材は県があっせんし、改造工費2,000円以上のものに対し1,200円の改修助成金を出す。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月12日 社会・文化 ビルマ国から前ビルマ方面最高軍政顧問桜井兵五郎を通じて贈られた仏舎利が、駐日ビルマ大使と桜井に奉持されて金沢に到着、石川郡湯涌谷村高尾山に建立の大東亜寺仮殿に安置された。(13日盛大な寄遷大法要が行なわれた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月13日 社会・文化 県特高課は明年2月から県下の映画館19館のうち8館の整備休業が決定したと発表した。金沢市では共栄館、昭和劇場、東宝館、文化劇場が休業、帝劇、スメル館、松竹座、金沢東宝劇場の4館が存続。休業4館のうち1館は健全娯楽の演芸場に転換する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和十九年(1944) 12月18日 社会・文化 京大名誉教授松本文三郎京都で死去。76歳。金沢市出身、かつて京都大学東方文化研究所長をつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 1月28日 政治・経済 政府はさきに石川県に対して銀の供出1,200貫を割当ててきたが、県は割当量を突破して供出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 1月28日 政治・経済 政府はさきに海軍機乗員の海上浮胴衣制作資材として「ススキの穂」450貫の供出を石川県に割当ててきたが、ススキの穂採集の時期はずれであったにもかかわらず、県下学童や婦人会の努力で283貫を集荷して供出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 2月1日 政治・経済 地方行政協議会の管轄区域が変更され、従来の新潟に本拠を置く北陸地方行政協議会は廃止し、石川、富山両県は新設の東海北陸地方行政協議会(会長愛知県知事吉野信次)に包轄されることになった。行政協議会の行政区域と軍管区の一体化が目的。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 2月11日 政治・経済 軍管区が従来の4管区から6管区になり、金沢師管区(金沢連隊区、富山連隊区)は中部軍管区から新設の東海軍管区に移った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 2月11日 政治・経済 軍需省は北陸軍需監理部(富山市)を廃止し、石川県庁内に東海軍需監理部石川支所を設置した。支所職員は約15人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 3月1日 政治・経済 県に「石川県疎開受入れ本部」が開設された。本部長は県内政部長青木重臣。市町村には疎開受入れ協議会が設けられる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 3月21日 政治・経済 衆議院議員と地方議員の1年間任期延長が決定した。道府県会議員は明年8月末まで、市町村会議員は明年9月20日まで任期が延長される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 3月27日 政治・経済 毎日午前10時、金沢駅に到着の大坂方面からの戦災疎開臨時列車は、第10回目の26日で打切りを予定のところ4月1日まで延長し、名古屋方面からの被災者も運ぶことに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 3月31日 政治・経済 本土決戦場化による国土防衛に備えて、陸軍は各連隊区司令官に郷土出身の師団長級元将官をあてる異動を発令、金沢連隊区司令官には越生虎之助中将が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月1日 政治・経済 軍制改編で金沢師団司令部は金沢師管区司令部となった。金沢師団長井関仞中将は東北軍管区兵務部長に転じ、金沢師管区司令官には藤田進中将(金沢出身)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月1日 政治・経済 金沢憲兵隊が金沢地区憲兵隊と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月6日 政治・経済 未明、B29の1機が福井方面から高度5~6,000メートルで初めて石川県に侵入、金沢市上空に達して偵察後、富山県へ向った。金沢師管区参謀は「石川県の空襲近し」と断言、県防空本部は防空への心構えを改めて県民に警告した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月7日 政治・経済 小磯内閣総辞職(5日)のあとを受けて鈴木貫太郎内閣成立、金沢市出身の広瀬豊作が大蔵大臣に、鳳至郡柳田村出身の桜井兵五郎が国務大臣に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月7日 政治・経済 運通省は新潟逓信局を廃止して北陸(金沢)信越(長野)福岡の3逓信管理部を設置した。北陸逓信管理部は石川、富山両県を管轄し、仮庁舎は金沢郵便局内、部員96人。初代部長山下豊。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月10日 政治・経済 県は5,000トンの自給製塩をめざし、石川県自給製塩指導実施要綱をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月13日 政治・経済 正午ごろ、B29の1機が高度9,000メートルで、海岸線から石川県上空に侵入、県外へ去った。県上空への侵入はこれで2回目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月16日 政治・経済 ヒマの種まき期にはいるとともに、石川県は昨年度の5倍、生産目標4,795石の確保を政府から要請された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月18日 政治・経済 早朝、B29の1機が高度約9,000メートルで金沢市上空に侵入して富山方面へ行き、間もなく反転して高度約6,000メートルで再び金沢市上空に現れ、福井方面に去った。県上空への侵入は3回目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月22日 政治・経済 早朝、B29の1機が高度約7,000メートルで金沢市上空に侵入、富山方面へ去った。県上空への侵入は4回目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月26日 政治・経済 午後1時すぎ、B29の1機が福井県から海岸線ぞいに高度約9,000メートルで石川県内に侵入、奥能登で反転して金沢市上空から岐阜方面へ去った。金沢市内の一部で初の待避命令が出た。県上空への侵入は5回目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月28日 政治・経済 平井知事が金沢周辺山地の松根油採取現場を回り増産を督励した。金沢市の20年度松根油生産割当量は16万3,703貫(県下割当量809万7,000貫)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月3日 政治・経済 本日から市の警報のサイレンが変った。警戒警報は1分間連続、空襲警報は8秒間をおいて4秒ずつ5回、空襲警報解除は1分間連続吹鳴。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月8日 政治・経済 正午ごろ、B29の1機が富山湾から石川県へ高度約8,000メートルで侵入、県外へ去った。県上空への侵入は6回目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月10日 政治・経済 金沢地方専売局が廃止され、名古屋地方専売局金沢支局になった。金沢支局の管轄は石川県下だけ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月12日 政治・経済 正午ごろ、B29の1機が岐阜方面から石川県へ高度約8,000メートルで侵入、県内西南地区で旋回ののち海上に去った。県上空への侵入は7回目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月15日 政治・経済 市は軍需省の指令に基づき、本日から民需ガスの供給を全面的に停止した。供給を継続されるのは軍用、軍需工場、生活必需品工業用、医療用、試験研究用と大衆食堂である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月19日 政治・経済 政府は国民義勇隊に全国民の活動力を集中するため、大政翼賛会、翼賛壮年団、大日本婦人会、大日本青少年団、商業報国会、農業報国会等の主要国民運動団体を6月10日限りで解散することに決定、石川県の各団体支部も政府の方針に従い、解散準備に着手した。翼賛会県支部は発足以来4年6ヵ月になる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月21日 政治・経済 建築物の間引き疎開の指定権が政府から知事に委任されたので、県は金沢、小松、七尾の3市と重要建築物、竪ろう建築物のある町村について調査を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月22日 政治・経済 石川県国民義勇隊本部結成式が護国神社で挙行された。本部長平井知事、副本部長嵯峨保二、総務部長吉田他吉、動員部長兵地栄一、訓練部長河野義雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月24日 政治・経済 金沢市国民義勇隊が結成された。隊長沢野市長、副隊長前川吉栄。各町会で小隊、各校下町会連合会で中隊を編成した。推定男女甲種隊員は5万5,000人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月24日 政治・経済 (B29約250機、東京を夜間大空襲。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月25日 政治・経済 午前1時すぎ、B29数機が富山方面から金沢、七尾方面上空を2時間余にわたり飛び、七尾港付近の海中と海岸付近の山中へ、落下さん付き磁気機雷数個を投下して去った。県上空への侵入は8回目。県防空本部は「本日の本格的初来襲に対する石川県民の防空活動はまだ不完全である」と警告を発した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月28日 政治・経済 北陸鉄道金沢市内線の金沢駅前-六枚町-白銀町の環状線(1.3キロ)が開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月1日 政治・経済 石川県は飯米の家庭配給量を改訂、従来の年齢別7段階を10段階にした。その結果、3歳から13歳の幼児は1日10グラムないし30グラムの増配となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月1日 政治・経済 (B29約400機、大阪を昼間大空襲。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月2日 政治・経済 早朝、B29の1機が岐阜県高山方面から白山上空を経て大聖寺、小松を旋回、さらに金沢、七尾上空を偵察して去った。県上空への侵入は9回目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月7日 政治・経済 (B29約250機、大阪地方を昼間空襲。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月9日 政治・経済 県の調査によると、石川県が疎開者の受入れを開始した昨19年3月から本年5月末までの県内転入者は約5万2,500人、1ヵ月平均3,500人であるが、本土空襲激化のさる4月、5月の転入数は1ヵ月5,000人にのぼった。府県別では東京都からが最も多く大阪、京都、神奈川、愛知が続いている。転入者のうち約1万1,000人が県内の軍需工場に就職中。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月10日 政治・経済 列車大削減がおこなわれ、北陸線は廃止4本短縮11本で、上野行は金沢始発が1本(従来2本)に減った。七尾線は上下3本が廃止。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月10日 政治・経済 政府は全国8地域に地方総監府を新設し、従来の地方行政協議会を廃止した。東海北陸地方総監(総監府は名古屋)は同行政協議会長であった小畑忠良。地方総監府には中央の権限を大幅委譲し、自戦自活の地方決戦行政態勢をとる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月10日 政治・経済 乗車券発売を合理化するため、全国主要駅に旅行統制官が配置され、石川県内では金沢(3人)七尾(1人)羽咋(1人)の3駅に置かれた。 0
    昭和二十年(1945) 6月14日 政治・経済 金沢市内の職域(50人以上)の国民義勇隊は159職域が結成を終った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月22日 政治・経済 午前0時すぎ、B29約10機が長野県中部、糸魚川付近から日本海に出て伏木、七尾付近に機雷を投下した。また同じころ、志摩半島から北上した少数機が金沢から富山湾を偵察して、機雷投下の主力と合流して飛び去った。県上空への侵入は10回目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月1日 政治・経済 早暁、B29の9機が1機ずつ長野、糸魚川を経て伏木、七尾付近に機雷を投下して南へ去った。県上空への侵入は11回目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月11日 政治・経済 政府は本日から端境期の10月まで、現在の主食配給量(基準配給量2合3勺)の1割削減を実地した。県は対策として芋、大豆、野菜の増量とくに都市家庭に家庭菜園を強く呼びかけている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月12日 政治・経済 県防空本部は金沢、七尾、小松3市の人員疎開方針を発表した。疎開対象は防空活動能力のない65歳以上の老人、国民学校児童と入学以前の幼児、妊産婦、不具廃疾者等。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月12日 政治・経済 県防空本部は金沢、小松、七尾の3市で4,000戸(うち金沢が9割を占める)の建物疎開を実施すると発表した。疎開建物の居住者は告示から10日以内に立ちのかねばらない。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月16日 政治・経済 大日本政治会石川県支部の発会式が尾山クラブで挙行された。支部長武谷甚太郎(総裁南次郎大将)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月17日 政治・経済 建物疎開の第1次分として、県は金沢市内の重要建物、竪ろう建物周辺の間引き疎開地区を告示し、第1次疎開対象566戸に対し疎開命令を発した。これによりできる疎開空地は25ヵ所2万9,920坪。交付補償金は建物1坪約150円、故材1坪約100円、移転費世帯員1人120円~150円、2人~4人240円~300円。疎開後の土地は1坪年5円で県が借りあげる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月19日 政治・経済 (午後11時10分ごろ、B29約120機が福井市を波状的に空襲、約3時間にわたり焼い弾と焼い爆弾を投下した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月20日 政治・経済 午前7時40分ごろ大型機2機が富山市東岩瀬地区に侵入、爆弾数個を投下した。金沢師管区司令部と石川県警察部は県民に共同談話を発表し、「敵機来襲は必至、即刻防空必勝の備えを点検せよ」と要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月24日 政治・経済 県と金沢市は市内建物疎開を27日から実地するため、県市の係官から成る石川県疎開実行司令部を設置した。司令は石井県経済第2部長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月31日 政治・経済 金沢市内の建物疎開の取りこわしは27日からはじまり、駅前、武蔵ヶ辻、中央通り、白菊町等の各地区で軍隊、国民義勇隊、中学生、専門職人ら数百人が出動して進められているが、30日までに約100戸が取りこわされた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月2日 政治・経済 (午前0時半ごろ、熊野灘方面から侵入したB29機約90機が富山市を波状空襲し、3時間にわたって焼い弾を投下した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月2日 政治・経済 県は建物疎開の第2次分として、金沢市内の主要路線6線の幅員を15~20メートルに拡張するための除去家屋764戸(897世帯)に対し、疎開命令を発した。移転完了は11日まで。12日から取りこわしを開始する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月4日 政治・経済 富山空襲の戦訓にかんがみ、金沢師管区司令部で軍官民の防空研究会議を開いた結果、人命と資材の損傷を最小限に食いとめるための民防空対策を決めた。金沢市民に対しては、空屋ができてもよいから老幼病人等の非戦闘員を速かに徹底的に疎開させるほか、市周辺の山地に決戦家屋を急造すること等をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月6日 政治・経済 福井、富山の空襲以来、金沢市民の不安は急に高まっているが、金沢検事局と県特高課は敗戦的デマを流すものは厳罰にするむね警告するとともに、各地で検挙を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月6日 政治・経済 (広島に原子爆弾投下。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月8日 政治・経済 県は建物疎開の第3次分として、超重要建物周辺の建物除去を本日告示し即日実施した。この第3次緊急疎開の対象は県庁舎および市役所、電話局の周辺で、まず県庁舎周辺から着手する。県庁舎周辺の除去範囲は、軍建物、四高、師範女子部、付属校、二高女の各一部、日赤支部、武徳殿の全部ならびに公園下から市役所までの民家全部で、四高と県有地内の建物は本日から取りこわしはじめ、民家は8月下旬に除去する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月9日 政治・経済 金沢医大は耐火建築防衛のため付属病院と校舎の1割を、四高は約7割の建物の自発的疎開をそれぞれ決定、取りこわしに着手した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月9日 政治・経済 (長崎に原子爆弾投下。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月13日 政治・経済 北陸逓信管理部は不要不急電話の緊急回収を決定、金沢電話局管内では2,000個(加入者の約半数)を明日から回収する。回収した電話器材は防衛通信、空襲被害復旧用や軍需工場等に回される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月15日 政治・経済 日本、ポツダム宣言を受諾し戦争終結。平井石川県知事は直ちに石川県告諭第1号を発し「県民は冷静沈着、万難を克服して戦後建設に当れ」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月15日 政治・経済 県下で実施中の家屋疎開は本日正午で中止された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月18日 政治・経済 県は戦後の食糧問題や県民生活の安定をはかるため、各界有力者を集めた石川県戦後建設顧問会議(12人)および参与会議(13人)を設置し、初会議を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月20日 政治・経済 今夜から灯火管制が解除された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月23日 政治・経済 北陸線に列車4本が増発、4本が区間を延長された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月28日 政治・経済 (米軍、厚木に進駐。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月30日 政治・経済 (マッカーサー元帥、厚木に到着。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月2日 政治・経済 (ミズリー号艦上で降伏文書調印式。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月3日 政治・経済 市長沢野外茂次が辞表を前川市会議長に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月6日 政治・経済 第1区選出衆議院議員村沢義二郎は議員を辞任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月9日 政治・経済 在郷軍人会金沢市連合分会は石川護国神社前で解散式を挙行し、各分会旗を焼却した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月14日 政治・経済 大日本政治会石川県支部が解散、新政党出現まで支部役員により石川県政治クラブを結成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月18日 政治・経済 市会は市長選考のため4回目の全員協議会を開いた結果、後任市長に県会議長武谷甚太郎(54歳)推薦を満場一致決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月27日 政治・経済 (天皇、マッカーサー元帥を初訪問。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月28日 政治・経済 市会は金沢市長候補に武谷甚太郎推薦を正式に決議した。また市会は「われわれ20余万市民は聖旨を奉体して猛省奮起する……」との聖旨奉戴決議案を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月29日 政治・経済 金沢地区憲兵隊が解散した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月3日 政治・経済 河北郡川北村は金沢飛行場38町1反9畝25歩の払下げを、県を経由運輸省に手続きした。県はとりあえず開墾可能の約20町歩を村民に耕作させることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月4日 政治・経済 石黒伝六死去に伴う石川県商工経済会会頭の後任は、同会選考委員会で北鉄社長林屋亀次郎に決定した。(8日商工大臣認可) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月5日 政治・経済 全政治犯の釈放が発表された。金沢刑務所の該当者は治安維持法違反の1人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月13日 政治・経済 連合国軍最高司令部の命により、特高課が廃止され、全国各都道府県警察部長と特高課長の休職が内務省から発令された。石川県では特高課の廃止に伴い、特高課員および各警察署特高係全員35人に対し休職を命じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月16日 政治・経済 日本銀行金沢支店長伊藤斉は仙台支店長に転じ、後任に高知支店長土手守吉が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月17日 政治・経済 米軍の金沢進駐打合せのため、調査隊の米将兵2班9人が金沢に到着した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月17日 政治・経済 約60万人に恩赦が発令された。金沢刑務所では23人が減刑、出所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月18日 政治・経済 武谷甚太郎が内務大臣から金沢市長に正式任命された。武谷は市役所吏員に対し「市吏員の頭の切替えと白紙再出発」を要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月20日 政治・経済 石川県への進駐米軍、第6軍第33師団第136連隊の先遣隊約30人が汽車で金沢に到着した。主力は27日到着予定で、司令部は旧城本丸の金沢師管区司令部に置く。県は「連合国民を迎える心得」を金沢、小松、七尾3市の町内会に配布した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月27日 政治・経済 金沢進駐の米軍本隊第33師団第136連隊第2大隊の350余人(指揮官ヘーコック中佐)が早朝、軍用列車で金沢に到着、250人は旧歩兵7連隊兵舎へ、100人は旧山砲兵連隊の兵舎へはいった。(小松市へは28日40人が到着した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月27日 政治・経済 県知事平井章は熊本県知事に転じ、後任に厚生省健民局長伊藤謹二が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月1日 政治・経済 国勢調査にかわる全国人口調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は48,831世帯、人口200,584人(男91,317人、女109,267人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月6日 政治・経済 石川県の本年第1回米予想収穫高は90万4,540石で、前5ヵ年平均実収高に比べ1割8分の大減収と発表された。県民の食糧不安はいよいよ深刻化し、米の増配要求の声が次第に大きくなりつつある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月13日 政治・経済 金沢市会は深刻な市民の食糧難に全員議会を開き「容易に実現せぬ3合増配を待つよりも、とりあえず米は2合1勺でもさつま芋を主食外として特配し、市民の飢餓を救うよう知事に要求すること」をきめた。また市会に食糧増配常設委員の設置を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月16日 政治・経済 婦人参政の実現を前に石川県婦人協会の結成式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月26日 政治・経済 金沢市内の連合町会長34人と町会長649人は、終戦にともない町会運営の責任を明らかにするため全員辞任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月1日 政治・経済 金沢連隊区司令部、金沢地方海軍人事部が廃止され、それぞれ第一復員省石川地方世話部、第二復員省金沢地方復員人事部となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月1日 政治・経済 北陸鉄道が浅野川電鉄を合併、浅野川線は市内線同様10銭均一になった。北陸鉄道の新資本金は1,179万4,700円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月1日 政治・経済 北鉄市内電車の鳴和町終点が東金沢駅まで延長された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月2日 政治・経済 連合国軍最高司令部は有力指導者層59人の逮捕命令を発した。うち石川県出身は桜井兵五郎、佐藤賢了の2人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月5日 政治・経済 日本自由党石川県支部の結成大会が尾山クラブでおこなわれた。支部長益谷秀次。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月16日 政治・経済 日本共産党石川地方委員会が結成された。常任党務には輪田一造、蓮村時男が当る。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月17日 政治・経済 日本社会党石川県支部連合会の結成式が市公会堂でおこなわれた。連合会長宮下太一。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月18日 政治・経済 衆議院が解散された。解散時の各派勢力は進歩党270、自由党46、社会党17、協同党28、無所属48、欠員57であった。満20歳以上の男女に選挙権が与えられた最初の総選挙には、石川県は全県1区定員6人、制限連記(2人)で投票がおこなわれる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月20日 政治・経済 旧翼賛壮年団の有志を中心に石川県公民党が結成された。執行委員長八十島敏雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月21日 政治・経済 農民自由党石川県支部の結成式が市公会堂でおこなわれた。支部長北村伊三郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月28日 政治・経済 金沢市参事会は前市長沢野外茂次に対し慰労金10万円、記念品代2万円の贈呈を議決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月30日 政治・経済 連合国軍最高司令部直属のアメリカ軍情報部(CIC)が、裁判所横元外人館の十四番館に開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 1月1日 社会・文化 第四高等学校名誉教授市村塘死去。75歳。明治30年から四高教授、薬用植物学者として著名、また県下の天然記念物調査委員もつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 1月5日 社会・文化 寒天下の食行列を解消するため金沢市内の大衆食堂で食券制が実施され、6人以上の家庭に1人当り1ヵ月4食ずつ4日間連続給食制がはじめられた。食は雑炊1本建てとし、食券は町内会長から交付する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 1月9日 社会・文化 戦局の激化で海軍は20年度「予科練」志願者募集に躍起だが、金沢市内各校の志願者数は次の通り。金沢一中45、金沢二中7、金沢三中80、金沢中60、県工39、金沢一工19、金沢二工1、金沢商業36。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 1月15日 社会・文化 科学戦に対処して文部省は国民学校児童および中等学校生徒のうち、とくに科学技術に高度の天分を持つものに対して、全国4高等師範学校で特別の科学教育を施すことに決定。金沢高師は4高師のトップを切って、金沢一中と石川師範付属国民学校推薦による32人の特別英才教育を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 1月22日 社会・文化 金沢高等工業学校初代校長青戸信賢金沢で死去。70歳。大正10年開校以来21年間校長をつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 1月25日 社会・文化 大乗寺にはいった大阪からの疎開児童100人は、寺町の宝集寺(六角堂)に移った。市長から木炭60俵、校下有志からアンカ30個の寄付があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 2月6日 社会・文化 午後4時10分ごろ河北郡浅川村の浅川製紙会社工場から出火、工場と事務室等を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 2月7日 社会・文化 県は県下国民学校に対し、「児童は教室でマント、オーバー着用差しつかえなし」と指示した。北陸地方の近年にない寒さ、暖房不足、窓ガラスの修理不能等のため。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 2月11日 社会・文化 財団法人「梅光会」の設立発会式が挙行された。理事長直山与二。戦没軍人、産業労働者の遺児約100人を収容し養育に当るもので、当初の基本金は19万円(うち直山の寄付10万円)。遺児収容施設には上鷹匠町の元金沢育児院を拡充してある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 2月15日 社会・文化 県防空本部は雪どけを待って防空ごうの増築補強を行なうことにし、金沢市内では既設公共待避ごう50の補強と、10人~20人収容の地下えんがい式公共ごう600、50人収容の横穴式40を新設することを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 2月22日 社会・文化 午前3時20分ごろ桶町の豆腐商から出火、商店3戸を全焼、1人焼死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 3月24日 社会・文化 北陸鉄道は金沢市内から郊外へ市民の衣類、家財類を運搬する疎開電車を本日から運転開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月1日 社会・文化 新聞非常措置に基づき、新聞は本日から東京都、大阪府、福岡県とその周辺を除き1県1紙となり、各県内で配布されている中央紙を当該地方紙に委託発行させることになった。石川県では朝日、毎日、読売3新聞が北国毎日新聞に持ち分合同し、北陸毎日新聞が3紙の題号を併記して発行することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月3日 社会・文化 大阪市の東都島、南都島、都島、中野、淀、高倉、桜宮の7国民学校の学童計1,231人が県内へ集団疎開して来た。大阪府守口の国民学校からも約800人が近く疎開してくる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月15日 社会・文化 石川県学徒義勇隊の結成式が四高校庭で挙行された。参加学徒は金沢の大学高専、男女中等学校、青年学校、能登、加賀の中等学校代表ら約1万人。義勇隊の幹部となる学生生徒は豊橋予備士官学校で2週間の訓練を受けるため同夜出発した。石川県国民義勇隊は学徒義勇隊のほか、一般義勇隊(地域、職域)と特殊義勇隊(土建、交通、医療等関係者)で近く編成される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月15日 社会・文化 石川県の第3次学徒勤労動員が決定、今月中に配置を完了する。今回の動員学徒は中、女学校2、3年生、工、商業学校2年生、2年制女学校1年生計7,800人および国民学校高等科1、2年生4,038人総計1万1,838人である。既動員学徒をあわせると県下勤労動員学徒総数は2万7,756人になる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月15日 社会・文化 県警察部は物品疎開のため自動車や馬車の貸切り使用を禁止、違反の家庭や輸送業者は厳罰に処すると発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月15日 社会・文化 市内戸水町で幼児の天然痘患者が発生した。(この患者を診察した古寺町の医師も5月5日発病した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月16日 社会・文化 午前11時ごろ彦三5番丁の薬種商から出火、住家と土蔵各1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月23日 社会・文化 石川県主催で野草料理講習会が高岡町校で開かれ、受講者70人は卯辰山へ出かけて材料の野草を採集した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 4月24日 社会・文化 午後1時40分ごろ長町4番丁の民家から出火、住家2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月5日 社会・文化 県戦時衛生対策委員会は金沢市内に救護病院5、救護所30ヵ所(医院)を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月10日 社会・文化 午後4時45分ごろ竪町の飯森病院長宅から出火、同家と病院を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月12日 社会・文化 午後11時40分ごろ福久町の農家から出火、1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月22日 社会・文化 戦時教育令が公布された。学徒隊が戦時教育の本体をなるものだが、石川県は既に結成ずみの学徒義勇隊がそのまま学徒隊に転移する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 5月29日 社会・文化 午後3時ごろ古道町北陸貨物自動車会社油倉庫から出火、同社倉庫3むねと隣接会社の寄宿舎、倉庫、住家各1むねを全焼、2鉄工所を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月7日 社会・文化 西田幾多郎鎌倉で死去。76歳。河北郡宇ノ気村出身、文学博士、京大名誉教授、学士院会員、昭和15年文化勲章を受けた。著書は「善の研究」をはじめ17冊、その業績は西田哲学として世界的地位を確立した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月11日 社会・文化 金石海浜(濤々園下)に市内国民学校児童が交代出勤して製塩場作りを開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月13日 社会・文化 兼六園内の松の大木から航空燃料用の松脂を採取する作業が、県森林組合連合会職員の手で開始された。採脂の対象に定められた松は第1次分53本。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月13日 社会・文化 石川県翼賛壮年団は、国民義勇隊の結成に伴い解散式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月22日 社会・文化 石川県青少年団は、国民義勇隊の結成に伴い解散式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月22日 社会・文化 広坂通の名物、県会議事堂の赤レンガのへいが、防空の見地から取りこわされた。門柱のレンガ約3,000枚は松根油の乾留窯に供用された。このへいは明治35年の建築で、当時裁判所や四高の赤門とともに新様式の建築として珍しがられたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月23日 社会・文化 金沢高等師範学校長倉林源四郎は病気のため退職、後任に文部省図書監修官塩野直道が任命された。(倉林は6月30日金沢で死去) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 6月30日 社会・文化 県下20余の大衆食堂が閉鎖した。近く外食券所持者だけの専用食堂が開設されるため。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月1日 社会・文化 昨年8月から、愛知県刈谷町に出動中であった県下10中学校の最高学年生から成る愛知県派遣石川学徒隊は、全員金沢駅着列車で帰県した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月12日 社会・文化 午前2時ごろ下新町の工場診療院から出火、1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月12日 社会・文化 県は金沢市内国民学校の学童集団疎開は行なわない方針を決定した。受入れの宿舎のないこと、疎開費用(国庫補助なし)の全額個人負担は父兄が困ることなどが理由。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月21日 社会・文化 県は金沢、小松、七尾3市の旧市域の全国民学校の授業を停止した。金沢市内の各校は父兄を集め、児童の縁故疎開を即時実施するよう要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 7月21日 社会・文化 外食券制度が実施され、金沢市内で11軒の外食券食堂が開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月1日 社会・文化 新聞発行不能、ラジオ不通という非常事態の際、メガホンで正しい情報を県民に伝えるため、北国毎日新聞社と各新聞社支局により石川県口伝報道隊が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月16日 社会・文化 出羽町4番丁臣29637部隊勤務薬剤士野田祐通(29歳)一家4人が敗戦を悲しみ自殺した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 8月25日 社会・文化 午後9時20分ごろ、河北郡森本村の石川製作所工場発送場から出火、倉庫、発送場など2むね(約600坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月8日 社会・文化 午後3時半ごろ河北郡浅川村字下田上の農家から出火、住家4むねを焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月10日 社会・文化 県の防空音響管制が撤廃され、金沢市役所の正午の時報サイレンが本日から復活した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月18日 社会・文化 九州、西日本を襲った台風が石川県を通過、能登半島から東北へ抜けた。金沢地方の風速25メートル、家屋、へい、樹木に相当の被害が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月21日 社会・文化 石川県商工経済会会頭石黒伝六死去。55歳。薬種業福久屋第18代の当主、北陸鉄道取締役会長はじめ多くの会社の役員をつとめ、地方財界の重鎮であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月25日 社会・文化 午後4時半ごろ下松原町の民家から出火、1戸を全焼、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月29日 社会・文化 渡満前に終戦を迎えた昭和20年度満蒙開拓青少年義勇軍石川隊270人の解散式が、県庁前で行なわれた。石川県は全国有数の義勇軍送出県で、現在までに約2,600人を送り出しており、その安否が気づかわれている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 9月30日 社会・文化 新聞非常措置の1県1紙の方針により、石川県では北国毎日新聞が4月から朝日、毎日、読売3紙の題号を併記して委託発行を続けていたが、本日で打切られ各紙はそれぞれ自由な単独発行にもどった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月1日 社会・文化 北陸鉄道は本日から粟崎へ海水運搬電車を運転、車庫前で塩不足に悩む市民に海水1升10銭で分配を始めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月6日 社会・文化 県警察部の調査によると、県下の9月中の犯罪件数は8月に比べ6割の激増で、野荒しと不良青少年の激増が目立っている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月10日 社会・文化 8日からの豪雨で県下全域に水害。金沢周辺でも犀川、浅野川の堤防決壊3ヵ所、浅野川下流500町歩、河北潟沿岸2,000町歩浸水等の被害が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月11日 社会・文化 (七尾における中国人労務者の暴動事件処理のため、米第33師団憲兵隊員将校2人、下士官兵16人が七尾市に着いた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月12日 社会・文化 (午後8時20分ごろ石川郡松任町の名古屋鉄道局松任工機部客車塗装工場から出火、木造の同工場と客車5両を全焼した。損害約80万円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月12日 社会・文化 財団法人石川県美術文化協会が設立を認可された。会長嵯峨保二、理事長高橋勇。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月12日 社会・文化 本多町の北陸海軍館が石川県美術館となり、北国毎日新聞社主催の第1回現代美術展覧会が開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月17日 社会・文化 午後3時50分ごろ浅野川上川除町の民家から出火、5むね8戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月27日 社会・文化 石川県在住の文化人が集って石川文化懇話会が結成された。会長は伊藤武雄。総務、文学、評論、研究の4部を置き、雑誌「文華」を発行する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 10月29日 社会・文化 終戦後、学校生徒の同盟休校事件が県下でも続発、金沢三中4年生の同盟早退(10月3日)、小松商業4年生の盟休(10月19日)、松任農学校最高学年生の盟休(10月22日)、津幡農学校3年生の盟休(10月25日)、七尾中学3年生の盟休(10月29日)が発生した。原因は物質配給の不鮮明追及と戦時教育の延長排撃など。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月1日 社会・文化 湯涌温泉の白雲楼(北陽産業株式会社経営)が北陸鉄道の北鉄興業会社の経営に移った。また湯涌高尾山ろくの瑞雲山大東亜寺は瑞雲山康楽寺と改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月5日 社会・文化 金沢高等師範学校は食糧難のため6日間の臨時休業を断行した。在学生の9割を占める寮生や下宿生が栄養不良に陥っているので、臨時休校して生徒を帰省させるため。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月12日 社会・文化 金沢進駐米軍の要求に基づき、県は石坂遊廓1ノ小路の15業者を米軍専門営業に指定し、日本人の同地区出入を一切禁止(Off Limit)した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月19日 社会・文化 金沢工業専門学校も食糧難から9日間の臨時休業にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月26日 社会・文化 三宅雪嶺(雄二郎)死去。86歳。加賀藩の儒医三宅立軒の2男として新竪町に生れた。文学博士、芸術院会員。哲学、評論の著書20冊余、昭和18年文化勲章を受けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 11月 社会・文化 彦三大通りと昭和通りの両側に屋台店がぼつぼつあらわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月14日 社会・文化 県下各中等学校は食糧難、燃料難、鉄道定期券の停止という3悪条件のため、冬休みを12月15日から1月31日まで1ヵ月半実施することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月23日 社会・文化 東京明星学園長、石川県出身赤井米吉(マッカーサー司令部教育顧問)は金沢市に女子専門学校を設立することになり、準備に着手した。基金300万円、4月開校の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月29日 社会・文化 武谷市長は市立美術専門学校の設置を計画、文部省がこれに対し全面的に賛意を表したので、同校の明年開設は決定的となった。校舎は出羽町旧陸軍兵器庫。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十年(1945) 12月29日 社会・文化 金沢市に北陸総合大学建設問題につき、伊藤知事が文部首脳部の意向打診の結果、校舎建築の問題さえ解決できれば極めて有望とわかったので、県としては旧兵舎を利用することにして本格的運動を始めることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 1月3日 政治・経済 連合国軍最高司令部直属のアメリカ軍政部が本多町海軍地方人事部跡に設置された。部員はバーカー少佐以下将校13人、下士官兵50人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 1月5日 政治・経済 日本進歩党石川県支部の結成式が兼六会館でおこなわれた。支部長沢野外茂次。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 1月28日 政治・経済 近く発足の石川地方労働委員会の初代15委員が決定した。中立委員は鴨居悠、今島廉蔵、曄道文芸、森河博、市川潔。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月1日 政治・経済 地方行政機構の改革が実施され、石川県は内政部が内務部にもどり、経済第1、第2部が統合されて経済部になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月2日 政治・経済 名古屋地方専売局金沢支局が金沢地方専売局に復活、昇格した。管轄は北陸3県。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月9日 政治・経済 金沢市に文化部が設置され、県教学課長津沢佐正が部長に任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月17日 政治・経済 政府はインフレ抑止のため通貨の新円切替え、預貯金の封鎖等を発表した。新円の引換えは25日から3月7日まで1人100円、また封鎖預貯金の払出しは毎月世帯主300円、家族1人につき100円が認められる(いわゆる500円生活)。16日の金沢市内各銀行には預貯金払戻しの行列が続き、払戻し額は平日の数倍に上った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月24日 政治・経済 日本社会党金沢市支部が結成された。支部長塩田親雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月28日 政治・経済 日本革新党石川支部が結成された。支部長西田信行。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月8日 政治・経済 北陸鉄道金沢市内電車賃の30銭に値上げ案につき、石川県民主戦線協議会は5日市民大会を開き値上げ反対を決議、本日会社側と会見の結果、「値上げは民主主義的方法できめる」ことになった。(結局、暫定的に15日から20銭に値上げを実施することに落着した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月9日 政治・経済 日本協同党石川県支部の結成大会が味噌蔵町立正閣でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月11日 政治・経済 戦後初の衆議院議員総選挙の期日は4月10日と告示され、石川県では告示日に早くも予想立候補者の半数18人が立候補を届出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月13日 政治・経済 県は敗戦後の新事態に処し、県勢の振興をはかるため石川県勢審議会を設置、各方面の学識経験者を委員に発令した。審議会は土木、食糧、商工、教化、厚生の5部にわかれている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月19日 政治・経済 北陸鉄道の林屋社長以下全役員は、同社経営の民主化推進のため総辞職した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月3日 政治・経済 衆議員議員総選挙の立候補届出が締切られた。石川県は全県1区で定員6人に対し立候補は34人。内訳は社会党4、自由党4、進歩党4、共産党2、協同党2、農民自由党1、日本革新党1、無所属16。県の有権者(男女20歳以上)は46万1,746人、投票は2人連記制。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月11日 政治・経済 戦後初の衆議院議員総選挙投票は10日おこなわれ、11日開票が終了した。全県1区、2人連記制で投票率は70.2%(男78.0%、女65.9%)であった。〔当選〕46,481票 米山久子(社会新)44,985票 五坪茂雄(無新)43,287票 益谷秀次(自由元)41,436票 江川為信(無新)39,812票 竹田儀一(自由元)35,140票 殿田孝次(自由新)〔次点以下〕33,261票 長谷長次(無)32,711票 大森玉木(進歩)29,405票 井村重雄(進歩)28,519票 釣谷武一郎(無)26,222票 中川幸平(自由)26,167票 東舜英(無)20,423票 大島新一(進歩)17,157票 中島松雄(無)15,786票 梶井重雄(協同)14,469票 神野亮二(無)13,685票 新谷秀春(社会)12,411票 荒川甚吾(社会)12,202票 梨木作次郎(共産)11,442票 兵地栄一(協同)10,655票 林文爾(無)10,345票 大桑孝雄(共産)8,946票 円山定盛(社会)7,285票 芳原政信(無)6,063票 山沢真竜(進歩)4,508票 北尾幸一(無)4,348票 西原常宣(無)4,306票 藤森政行(無)3,883票 西田信行(革新)3,821票 西 幹(無)3,585票 朝倉昇(農民自由)1,170票 越野清安(無)856票 安原亀次(無)632票 小泉卯太郎(無) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月15日 政治・経済 北陸鉄道の臨時株主総会は役員選出諮問委員会の成案通り、社長清水孝次以下の新役員を選出した。役員選出諮問委員会は旧役員側、株主側、従業員組合側各3人から成るもの。新社長清水は金沢市出身で清水登の実弟、もと北鮮拓殖鉄道社長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月17日 政治・経済 アメリカ第8軍司令官アイケルバーカー中将は幕僚を帯同し、金沢初視察のため京都から臨時列車で来沢した。占領軍休息所用に改装中の湯涌温泉白雲楼にも立寄り、同夜離沢した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月26日 政治・経済 全国人口調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は50,650世帯、人口207,287人(男95,201人、女112,086人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 5月23日 政治・経済 県産米17万石の県外移出を完遂した石川県へ、さらに神奈川県に対する救援米5,000石の供出命令が来た。石川県も8月から9月の端境期に欠配を予想されるので、救援米をめぐる論議が沸騰している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月5日 政治・経済 市は金沢駅前と武蔵ヶ辻の疎開跡を広場にするため、近く着工する。駅前は疎開跡を全部広場に、武蔵ヶ辻は北国銀行横の300坪を小公園化して樹木草花を植えて緑地帯とし、旧丸越横の元富国徴兵保険用地を広場にする。また市内の馬場、長田町、高岡町国民学校付近はじめ各疎開跡はいずれも道路拡張にあて、残余の土地は元の所有者に返還する。総工費170余万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月7日 政治・経済 知事伊藤謹二は厚生省引揚援護院次長に転じ、後任に内務省警務課長広岡謙二が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月12日 政治・経済 金沢実業会が結成された。理事長井口清次。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月27日 政治・経済 金沢少年審判所が下百々女木町財団法人石川更新会内に開設された。管轄は北陸3県。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 7月8日 政治・経済 社会大衆党県市会議員で応召中であった岡良一が7月2日帰還、本日から社会党議員として金沢市会に復帰した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 7月30日 政治・経済 市助役に尾戸次作が3選された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 7月30日 政治・経済 県選出無所属代議士江川為信は進歩党に入党した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 7月31日 政治・経済 犀川村につり橋の下辰巳橋が完成した。長さ17間、工費6万円、同村民が40年来待望の橋である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月1日 政治・経済 石川県商工経済会は、近く商工経済会法廃止法案の議会通過とともに廃止されて社団法人商工会議所が新設されるが、これに関し日本社会党石川県連は「あくまで県下中小商工業を中核とする純然たる民間経済団体として発足すべきである」との声明を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月8日 政治・経済 米軍放出のトウモロコシ250トンが6日西金沢駅に到着、本日から県食糧営団金沢支所の手で市内各配給所を通じ、市内および近郊の各家庭へ3日半分(大人で1キロ)配給された。武谷市長と前川市会議長は金沢軍政部を訪問、救援食糧放出に感謝の意を表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月10日 政治・経済 石川県商工経済会の解散に伴う新商工会議所の第1回設立準備委員会が、260人の委員が出席して開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月15日 政治・経済 連合軍からの援助食糧小麦、トウモロコシが再び石川県へ放出され、うち小麦150トンが原麦のまま本日から金沢市内に2日半分配給された。食糧事情窮迫の金沢市の8月にはいってからの主食欠配は、本日すでに7日半に達している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月20日 政治・経済 県選出無所属代議士五坪茂雄は進歩党に入党した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月31日 政治・経済 社会党石川県支部連合会の臨時大会が尾山クラブで開かれ、県連執行委員長に岡良一が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月3日 政治・経済 市会議員報酬の増額が臨時市会できまった。新報酬は年額議長3,200円、副議長2,600円、議員2,000円、参事会員400円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月13日 政治・経済 公職追放範囲が翼賛会市町村支部長、翼壮団長、郷軍分会長等にまで拡大されることになった。この結果、県下市町村の首脳部はじめ県政界自治体の旧指導層の総退陣は決定的となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月20日 政治・経済 日本進歩党金沢倶楽部が結成された。倶楽部長井村重雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月 政治・経済 特別議会で画期的な農地制度の改革が成立したが、現在金沢在住者で20町歩以上の地主は次の通り。佐野悦 55町歩、越村与吉 52町歩、西礼子 51町歩。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月1日 政治・経済 主食の増配が実施され、成年1人1日当りの配給量は2合5勺(現行2合1勺)になった。同時に米価も生産者価格1石550円(現行300円)、消費者価格同450円(現行250円)に引上げられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月3日 政治・経済 日本国憲法公布。金沢市では午前10時市公会堂で市主催合同祝賀式を挙行、旧市域18国民学校児童5,000人による旗行列が、シンガポール陥落以来5年ぶりに市中を行進、また仮装行列、獅子舞、おみこし等もくり出し、市内は慶祝行事でにぎわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月5日 政治・経済 軍国主義一掃、政教分離の線に沿って県は戦没者の公葬禁止、忠霊塔の撤去等を市町村に指令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月6日 政治・経済 金沢農地事務局が開設された。庁舎は泉町元金沢育産院、管轄は北陸4県。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月10日 政治・経済 日本自由党北信大会が、総裁吉田首相を迎えて市公会堂で開かれた。一方、社会党県連、総同盟県連の吉田内閣打倒勤労者大会が尾山神社拝殿で、産別労組石川地方会議結成大会が香林坊日活館で、北信5県朝鮮人生活擁護人民大会が高岡町校で時を同じくして開かれ、それぞれ吉田内閣退陣要求の決議を可決し、代表が決議文を携えて公会堂に押しかけてひと騒動をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月16日 政治・経済 名古屋財務局金沢地方部が設置された。事務所は北国銀行野町広小路支店階上。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月18日 政治・経済 地方行政機構の改革により、石川県に教育民生部と農地部が新設された。(県庁の部課は5部27課になった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月22日 政治・経済 協同民主党金沢支部が結成された。支部長上野彦助。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月3日 政治・経済 石川県商工経済会の解散式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月10日 政治・経済 社団法人金沢商工会議所の創立総会が開かれ、会頭に林屋亀次郎、副会頭に真柄要助、中村栄俊が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月16日 政治・経済 社団法人石川県商工会議所の創立総会が開かれ、会頭に林屋亀次郎、副会頭に西川外吉、春木藤兵衛が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月27日 政治・経済 石川県に土木部が新設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 1月3日 社会・文化 午後3時40分ごろ中本多町の石川県立工業学校階下応用化学室から出火、同室と普通教室4、事務室当直室など約200坪を全焼した。焼失建物は昭和18年3月9日の火災のとき焼け残った部分。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 1月11日 社会・文化 シラミと皮膚病駆除のため県衛生課は、伝染原とみられる金沢等3市のふろ屋に硫黄剤を特配して、硫黄ぶろをわかすことと、浴客の衣類はふろ敷に包みクギにかけるよう脱衣場の模様替えを、業者に至急行なわせることを決めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 1月20日 社会・文化 石川県労働組合連合会(県労連)の結成大会が市公会堂で挙行された。執行委員長荒木次男(金沢機関区)、加盟26組合、組合員約4万人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 1月24日 社会・文化 笠舞町の農民75人が組織する笠舞農民組合は、伊藤知事を訪問「旧上野射撃場3万坪が旧職業軍人に優先払下げられることになっているが、射撃場付近の土地なき耕作農民に払下げるべきである」と要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 1月28日 社会・文化 市内本町に真性天然痘1人発生、戦後金沢では初めて。(以後1月30日に1人、2月21日に2人発生) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 1月30日 社会・文化 金沢浴場組合は入浴料金を50銭に値上げの申請が認められぬため、一斉ストライキをおこなった。(2月1日、35銭に値上げで解決) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月1日 社会・文化 石川新聞創刊。社長竹山重勝、本社森下町。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月13日 社会・文化 大日本教育会石川県支部長に民間人の林安繁が就任した。金沢出身、元宇治電社長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月14日 社会・文化 石川県民主戦線協議会が結成された。議長松雄宝作。「国民生活の危機突破のため、超党派的立場から県下民主主義勢力を結集したものである」との声明を発表。参加団体は社会党県連、共産党石川地方委員会、県労組連、県農民団体協議会、県海外引揚者同盟、石川文化懇話会等。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月15日 社会・文化 金沢市内国民学校教員の労働組合、金沢市教員組合が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月17日 社会・文化 高級新たばこピース(10本入り7円)が、午前9時から金沢等県下3市で自由販売され、7,000個発売の片町大和百貨店では犀川大橋近くまで行列が並んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月18日 社会・文化 午前0時ごろ富樫町県立金沢第一中学校の事務室から出火、同室、校長室、会議室、物置等を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月18日 社会・文化 元金沢市東部第49部隊長陸軍大佐布施谷要作(58歳)が、上川除町の自宅で妻および3女と共に自殺した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月20日 社会・文化 金沢における戦後最初の労働争議として注目された北陸機械工業会社の争議が、3週間ぶりに妥結した。争議は2月1日会社側発表の機構人事に端を発し、6日から組合が怠業に入り、地方最初の生産管理も決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 2月27日 社会・文化 金沢地方(金沢、松任、津幡)中等学校教員組合の結成大会が金沢二中講堂で挙行された。組合長染村亀鶴。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月4日 社会・文化 午後0時半すぎ浅野町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月10日 社会・文化 金沢市内でメチルアルコール中毒事故が続出、9日から増泉町の露店商のメチルアルコール酒により3人死亡、2人重体の被害が出ている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月12日 社会・文化 石川県野球協会が結成された。理事長今島廉蔵。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月19日 社会・文化 石川県排球協会が結成された。理事長四井謙次。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 3月 社会・文化 小野慈善院は戦災者および引揚者に空室を貸与することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月1日 社会・文化 金沢市役所職員組合が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月1日 社会・文化 県下の発疹チフス発生数は、3月31日現在で50人(うち死亡4人)、また天然痘は34人に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月9日 社会・文化 従業員の休職問題から争議中の鳴和町日本電気冶金会社の労働組合(約1,000人)は、本日から生産管理下の操業にはいった。石川県下で初めて実施された従業員生産管理である。(4月23日争議解決と共に生産管理解除) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月12日 社会・文化 仏教の新指導者養成機関・北陸大谷学園が金沢東別院に創設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 4月14日 社会・文化 生山泰の経営する享誠塾が、平和町旧師団予備品庫を塾舎として開塾式をおこなった。同塾は、終戦直後戦災孤児や浮浪児等を保護養育するため、生山が独力で創設したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 5月1日 社会・文化 戦後初のメーデーが金沢、小松、七尾3市でおこなわれた。金沢地区大会は兼六園に86労働組合のほか農民、文化団体、社会党、共産党など約2万人が参加しておこなわれ、大会の後、市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 5月15日 社会・文化 私立金沢女子専門学園が開校した。赤井米吉(明星学園主)を中心に県、市の援助で、広坂上の元金沢師団兵器庫跡3,500余坪と木造2階建600坪の建物の貸与をうけ開校したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 5月19日 社会・文化 午前2時半ごろ出羽町の国立金沢病院出羽町分院(元金沢陸軍病院出羽町分院)の看護婦宿舎浴場から出火、職員宿舎1むね、看護婦宿舎2むね(計約500坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 5月19日 社会・文化 石川県民主戦線協議会は社共両党ほか県下各民主団体との共同主催で、吉田内閣即時打倒と民主人民政府樹立要求の人民大会を、県庁前広場で開催した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 5月31日 社会・文化 第四高等学校長に前京城帝国大学教授(東洋史)鳥山喜一が任命された。(前校長石井忠純は3月30日退職) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 5月 社会・文化 石川映画文化協会が結成された。映画の鑑賞力をたかめ映画文化の普及に資するという目的で、伊藤武雄、浜中志岐、吉田他吉らが発起。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月2日 社会・文化 石川県民主戦線協議会の議長に本多譲、副議長に北川重吉、田島善次が就任した。(前議長松尾宝作は辞任) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月2日 社会・文化 午前8時40分ごろ出羽町の国立金沢病院出羽町分院第18病とう(内科重症患者収容)から出火、3病とうと倉庫1むね計約800坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月3日 社会・文化 北陸総合大学設置期成同盟会の発会式が、県下各界代表100余人と富山、福井両県から知事代理が出席して県正庁で挙行された。会長に伊藤知事、副会長に武谷市長、林屋商経会会頭、増本県内務部長が就任、顧問に石川県33人、富山県3人、福井県5人を委嘱した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月3日 社会・文化 石川県出身の満州開拓団員(黒咀子開拓団)13人が、苦難の旅をつづけ金沢に帰着した。県出身の開拓団員は終戦時約1,500戸で、金沢に引揚げたのはこれが初めて。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月6日 社会・文化 郷土史家日置謙死去。74歳。石川県史5巻、加賀藩史料17巻、加能郷土辞彙はじめ多数の著書があり、その郷土史における業績は文政の富田景周、明治の森田柿園とならび称されている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月14日 社会・文化 金沢市祭が「尾山まつり」と改称されて、尾山奉賛会の主催で催された。奴行列や獅子舞などの余興も出て、市内は久しぶりににぎわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月20日 社会・文化 東別院で戦没将兵のために法要が行なわれた。県駐在アメリカ軍のコンデ大尉が「個人的見解」から追悼の辞をのべた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 6月22日 社会・文化 石川県官公職員労働組合協議会が結成された。会長は越島久米三(国鉄)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 7月3日 社会・文化 四高対八高の対抗各競技が3年ぶりで復活、四高グラウンド等で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 7月8日 社会・文化 金沢市立金沢美術工芸専門学校の設置費71万9,400円(うち第1期工費54万余円)が臨時金沢市会で議決された(7月15日文部省から設立認可)。校舎は出羽町の旧師団兵器庫の敷地1万600坪と兵器庫の建物延べ2,450坪をあて、陶磁科、漆工科、金工科、美術科の4科を置き予科1年本科3年。校長は美術評論家森田亀之助に内定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 7月9日 社会・文化 朝来の豪雨で県下各地に水害。金沢地方の雨量は午前7時から9時までの2時間に58.3ミリ、浅野川が小橋町で1ヵ所決壊、市内各町に床上床下浸水家屋が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 7月11日 社会・文化 石川県中等学校教員組合が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 7月20日 社会・文化 午前0時50分ごろ宗叔町4番丁の民家から出火、2戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月1日 社会・文化 駐とん米軍の指令にもとづき、石川県では本日から人は右・車は左の「右側通行」の新規則を実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月5日 社会・文化 昨年6月金属回収で供出された兼六園紺屋坂の旧加賀藩の報時鐘は、鋳つぶしを免れて富山の倉庫に残り、その後金沢の日通倉庫に移送されていたが、こんど金沢の真柄要助が、金沢市から譲り受け金沢西別院に寄進した。供出時の買上げ価格は1,785円34銭、市から真柄に譲渡し価格は2万5,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月12日 社会・文化 石川県職員労働組合が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月16日 社会・文化 珠洲郡小木町に真性コレラ患者4人発生、県は衛生課にコレラ防疫本部を設置した。(同町のコレラは患者26人、保菌者6人、死亡者10人を出して月末終息した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 8月28日 社会・文化 午後11時50分ごろ田丸町北陸貨物区間部金沢営業所事務室付近から出火、同事務室と倉庫各1むねを全焼、隣接の製材所と倉庫を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 9月4日 社会・文化 午前0時40分ごろ愛宕2番丁の民家から出火、4戸を全焼、5戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 9月5日 社会・文化 県選出代議士提出の北陸総合大学設置建議案が、衆議院建議委員会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 9月7日 社会・文化 湯涌温泉の旅館宿泊客から真性コレラ患者1人発生、県は同温泉街居住者の金沢方面への出入りをしゃ断、また鞍月、辰巳用水の使用を禁止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 9月12日 社会・文化 石川郡産の新米が本日から金沢市民に配給され、2ヵ月にわたる食糧危機もようやく解消した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 9月12日 社会・文化 午前7時40分ごろ北安江町山一化学工業会社工場から出火、松根油精製工場2むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月5日 社会・文化 市立金沢美術工芸専門学校の入学式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月5日 社会・文化 読売新聞争議の組合支援のための日本新聞通信放送労働組合のゼネスト指令により、金沢放送局労組(70人)がストライキを決行し、ラジオ電波がとまった。政府は6日日本放送協会の国家管理を指令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月10日 社会・文化 社会党石川県連は、スト中の金沢放送局労組に対し「県民の生産生活に緊要な必要最小限の放送を自主的にはじめること」を、また逓信大臣に対し「放送の国家管理を即時撤回すること」を要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月20日 社会・文化 県下の消費者代表が組織する食糧営団業務改善委員会の主催で、3合増配要望県民大会が兼六園銅像前広場で開かれた。参会者約500人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月21日 社会・文化 大日本体育会石川県支部は、県商工経済会で終戦後はじめての総会を開き、明年の第2回国民体育大会を金沢市で開催する件を正式にとりあげた。また民主的支部確立のため支部役員も民間人を選出した。支部長林屋亀次郎、幹事長宮崎正雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月23日 社会・文化 昭和16年3月金沢から最後の米国人として母国へ引揚げた元北陸女学校付属幼稚園主事アイリン・ライザー女史が5年半ぶりに金沢へ帰った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月24日 社会・文化 電産ストで19、20、21日の3日間午後6時から7時までの間金沢全市で電灯と併用動力線の5分間停電ストが、また24日午前中、県下工場の専用動力線(県下電力の40%)の3時間半停電ストがおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 10月26日 社会・文化 5日からの放送ストは25日妥結、金沢放送局の放送も平常に復帰した。(14日から局、課長の手で一部放送が実施されていた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月1日 社会・文化 第1回国民体育大会が、大日本体育会主催で本日から3日間京阪神地方で開催され、石川県からは陸上競技、相撲、卓球、軟式庭球、体操の選手が出場した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月1日 社会・文化 石川県教育組合協議会が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月1日 社会・文化 市は大和百貨店3階に「金沢市公設古着身回り品委託販売」を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月3日 社会・文化 市は憲法公布を記念して金沢市文化賞を制定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月3日 社会・文化 北国毎日新聞社が北国文化賞を創設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月7日 社会・文化 市立金沢美術工芸専門学校(校長森田亀之助)の開校式が、改装成った出羽町旧兵器庫の校舎で、武谷市長はじめ約300人が参列して挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月10日 社会・文化 来沢中の吉田首相は、平和町の引揚者寮と兼六園を視察した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月11日 社会・文化 明年の第2回国民体育大会開催地を金沢市へ誘致するため、県庁で広岡知事、武谷市長、増本県内務部長、宮崎体育官らが協議の結果、各種条件のそろった金沢へ誘致することに石川県の態度を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月12日 社会・文化 県立金沢商業学校生徒が、校長の退職を要求して同盟休校にはいった。(18日解決) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月19日 社会・文化 明年の第2回国民体育大会金沢誘致に各スポーツ団体も全面的協力を決定、体育会支部、県、市3者一体となっての誘致猛運動が開始された。国民体育大会の施設中最大問題の野球場は、体育会支部理事会が協議の結果、市の積極的応援のもとに予算300万円で永久的硬式球場を出羽町に建設することを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 11月29日 社会・文化 石川県民主戦線協議会主催の労農県民大会が、兼六園銅像前広場で1,000余人が参集して開かれ、閉会後代表50余人が決議文を持って県庁で広岡知事に面会、午後3時すぎから9時すぎまで押問答した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月4日 社会・文化 大日本体育会理事会は、明年の第2回国民体育大会はヨット、ボートの海洋競技を除く全種目を石川県で開催することを内定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月19日 社会・文化 (午前4時6分ごろ上野発金沢行準急列車が信越線田口、関山間で融雪に乗りあげ川に転落、死者11人、負傷者70余人を出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月21日 社会・文化 南海道大地震。金沢地方は弱震(午前4時19分)、時計がとまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月21日 社会・文化 北国銀行頭取米谷半平死去。55歳。米谷銀行、加能合同銀行各頭取を歴任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月25日 社会・文化 8月1日から実施された県下の右側通行が元の通り左側通行になった。府県により右側、左側まちまちのため内務省が総司令部の了解を得て全国を左側通行に統一したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十一年(1946) 12月28日 社会・文化 さる7月18日北陸機械工業会社が、労組幹部の大桑孝雄ら4人を争議にからんで生産阻害の理由で解雇し、4人が石川地方労働委員会に提訴した事件は、会社が4人の解雇を取消し、4人は自発的退職すること等で5ヵ月ぶりに解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 2月4日 政治・経済 知事広岡謙二が警視総監に転じ、後任に内務省地方局長郡祐一が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 2月18日 政治・経済 米谷半平死去後空席の北国銀行頭取に、日本銀行監事石橋義雄(元日銀金沢支店長)が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 2月20日 政治・経済 初めての県農地委員の選挙がおこなわれた。選挙区は加賀、能登の2区で2各区ごとに小作5人、自作2人、地主3人を選ぶもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 2月22日 政治・経済 公職追放令に該当する武谷市長は15日辞表を提出、本日の市会本会議で、同じく該当する前川議長とともに辞任のあいさつをした。市長の職務は市長公選まで尾戸助役が代行する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 2月28日 政治・経済 公職追放令に該当する県会議員の武谷甚太郎議長ら9議員が辞任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 3月31日 政治・経済 衆議員が解散された。総選挙は4月25日。公職選挙法改正(中選挙区単記制に復帰)の成立により、石川県は2選挙区制に復帰する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 3月 政治・経済 戦時中、金沢製箔有限会社をつくり製箔業の存続をはかってきた金沢の製箔業者が、石川県箔商工業協同組合を設立した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月1日 政治・経済 県は初めての婦人警官12人を採用、1ヵ月の訓練の後、本日から広坂、玉川両署に配置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月6日 政治・経済 知事、市町村長の初めての公選が5日におこなわれ、開票の結果、知事は民主党推薦無所属柴野和喜夫(前滋賀県知事)、金沢市長は民主党井村重雄が当選した。〔知事〕当選221,114票 柴野和喜夫(無所属)次点97,379票 重山徳好(自由)44,170票 梨木作次郎(共産)〔金沢市長〕当選49,279票 井村重雄(民主)次点16,668票 神保重吉(自由)15,729票 北川重吉(民主戦線) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月7日 政治・経済 市助役尾戸次作が退職した。在任8年9ヵ月。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月20日 政治・経済 日本銀行金沢支店長土手守吉は本店国際局長に転じ、後任に本店参事室小寺勝昌が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月21日 政治・経済 初めての参議院議員選挙が20日おこなわれ、開票の結果、石川県地方区は林屋亀次郎(6年議員)中川幸平(3年議員)が当選した。〔地方区〕当選115,026票 林屋亀次郎(民主)同79,703票 中川幸平(自由)次点67,233票 竹山重勝(社会)21,119票  永井泰蔵(共産) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月22日 政治・経済 "参議院全国区の開票結果、石川県内での5位までの得票順位は次の通り。 105,044票 青山正一 9,397票 伊藤保平 6,130票 梅原真隆 5,724票 吉松喬 5,064票 岳獅勇三郎" 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月26日 政治・経済 衆議院議員総選挙は25日投票がおこなわれ、開票結果は次の通り(2選挙区単記制に復帰)。〔第1区〕当選 34,963票 井村徳二(民主新)同 33,671票 竹田儀一(無前)同 33,637票 東舜英(民主新)次点 29,876票 森島守人(社会新)19,452票 梨木作次郎(共産新)15,735票 佐伯良治(社会新)14,142票 米山久(社会前)8,354票 上野利喜雄(自民新)3,897票 新谷秀春(社会新)〔第2区〕当選 40,793票 大森玉木(民主新)同39,855票 益谷秀次(自由前)同 25,454票 五坪茂雄(民主前)次点 15,104票 荒砥二郎(自由新)10,571票 山崎広(社会新)6,115票 山沢真竜(民主新)5,293票 酒井定治(無新)3,866票 大桑孝雄(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月1日 政治・経済 市議会議員選挙が30日おこなわれ、民主28人、自由8人、社会4人、国協1人、無所属3人が当選した。投票率81%。(定員44人、立候補108人)〔当選〕2,259票 増江幸二(社新)2,071票 茂藤豊治(無新)1,988票 寺井初太郎(民新)1,974票 清谷博文(民新)1,969票 前田喜太郎(社新)1,887票 加賀谷清(民新)1,768票 横江信秀(無新)1,724票 岡島友作(民前)1,713票 尾本勝二(民新)1,664票 中川奛(自新)1,639票 木谷助男(民新)1,622票 池田久男(民新)1,574票 中宮辰(民新)1,508票 黒川四三二(自新)1,475票 村本信明(民新)1,442票 玉作小一郎(自新)1,432票 本家三郎(自新)1,426票 山田外吉(無新)1,382票 山本利行(民新)1,381票 尾山徳二(民新)1,362票 中谷謙二(民新)1,360票 前田正二(自新)1,350票 徳田与吉郎(民前)1,341票 赤谷徳次(自新)1,332票 武村慶一郎(民前)1,318票 辰村総介(民新)1,310票 南部吉雄(国新)1,307票 新谷喜一(民前)1,296票 酒尾孝之(民新)1,253票 川島重男(無新)1,250票 高倉政雄(社新)1,241票 梶山秀男(自新)1,210票 小倉勝二(自新)1,192票 鳥畠徳次郎(民前)1,188票 新田甚作(民前)1,181票 水野宗次郎(民前)1,171票 上田孝三(社新) 1,170票 宗守徳太郎(民新) 1,145票 駒谷青雲(民新) 1,123票 中島外与次(自新)1,083票 石坂三郎(民前)1,072票 中川孝則(民新)1,070票 笹原清松(民新)1,066票 高倉与三松(民前)〔次点以下〕羽間政信、瀬尾豊治、吉田長久、島崎吉雄、本田利吉、西野十陛、堀田外茂、早川小太郎、金山陽三郎、須田安善、田原太三郎、南中三康、竹中角太郎、青木正一、坂下宗秀、池田久太郎、津田仁三郎、中川外吉、金田一次、樫田ミサヲ、浅田啓次、伊戸松為次、篠野安行、石見谷弘三、加藤小一、園谷音吉、高田要作、松本正次、田中一郎、西村与儀、中山国光、南安次、新田蒼、森岡武吉、新保善助、山辺三武郎、池上金次郎、福島啓、赤尾幹雄、吉田政次、今井友範、竹田重吉、山本良雄、新出辰雄、相本清次郎、福川久良、茶山与三吉、平山勇作、山崎秀一、奥野延、野村康雄、小坂定次郎、山崎不二、島伝吉、小沢他喜三、白淵工、森屋甚三郎、中山惣吉、田上幸吉、北竜霊瑞、仏田二郎、松岡松次郎、中村吉次郎 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月1日 政治・経済 県議会議員選挙が30日おこなわれ、金沢市の結果は次の通り。(金沢市の定員は10人)〔当選〕7,469票 金子順孝(民新)6,317票 岡島友作(民前)5,757票 宮下太一(社新)5,171票 清谷博文(民新)4,997票 越島久米三(社新)4,681票 浅田勝二(自新)4,355票 上久保守(社新)4,197票 新田甚作(民新)3,683票 鳥畠徳次郎(民新)3,623票 山本利行(民新)。県議会の政党別当選者は民主21人、自由15人、社会3人、国協2人、無所属2人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月1日 政治・経済 北陸逓信管理部が金沢逓信局に昇格した。管轄は新たに福井県を入れて3県となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月1日 政治・経済 農林省石川作物報告事務所が開設された。事務所は野町の石川食糧事務所内。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月2日 政治・経済 石川労働基準局が設置された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月3日 政治・経済 第1区から無所属で当選した竹田儀一代議士が、民主党に入党した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月3日 政治・経済 新憲法実施。金沢市内では兼六園での祝賀人民大会はじめ、花電車やかずかずの催し物でにぎわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月3日 政治・経済 河北郡三谷村字釣部が金沢市に編入された(昨年11月市会で可決)。釣部は21世帯125人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月3日 政治・経済 金沢地方簡易裁判所、金沢地方検察庁、金沢区検察庁、金沢司法事務局が開庁した。(石川県の簡易裁判所設置個所は金沢のほか、小松、七尾、羽咋、輪島、飯田) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月21日 政治・経済 出羽町の元偕行社を県で使用することが、連合軍総司令部から許可された。県は県庁部課の一部などを入れる計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月22日 政治・経済 市議会は正副議長選挙をおこない、議長に島畠徳次郎(民)副議長に徳田与吉郎(民)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月25日 政治・経済 金沢商工会議所の調査によると、4月分の市内主要22工場従業員の平均給料は男子職員1,408円、女子職員759円、男子工員1,246円、女子工員678円で、工員の最高は北陸配電従業員の平均1,665円であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月26日 政治・経済 (県議会は正副議長選挙をおこない、議長に岡島友作、副議長に吉野耕造=いずれも民主=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月29日 政治・経済 金沢市選挙管理委員会は、市議会議員高倉与三松の当選(最下位当選)に対する異議申立てを審議の結果、高倉の得票6票を無効と認定して高倉の当選を無効とし、1票差で次点第1位の羽間政信を当選と決定した。(高倉は決定を不服として6月17日県選挙管理委員会に訴願した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 6月1日 政治・経済 市は町内会廃止に伴い、本日から旧市内校下ごと事務所を開所した。校下事務所には市職員を置き、物資配給券の配付、転出入証明、金融通帳の交付、諸税令書の配布等を取扱う。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 6月16日 政治・経済 民間貿易の再開にそなえ、県下繊維関係の労使代表により、石川県繊維産業復興会議が結成された。委員は労使15人ずつ、議長西川外吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 6月22日 政治・経済 主食遅配に悩む石川県へ、6月下半期分として輸入穀類3,000トン(14日分)の放出許可があった。県は金沢市へ約20日分配給の予定。現在県下の遅配は平均7日、金沢は10日。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 6月28日 政治・経済 3年ぶりで、金沢発上越線回り上野行急行列車が復活した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月1日 政治・経済 市助役に県庶務課長吉田圭蔵が、市議会の同意を得て就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月1日 政治・経済 政府は飲食営業緊急措置令を公布し、食糧確保のため正当の配給によらぬ料理店、飲食店を5日から本年一杯閉鎖することをきめた。県下の休業業者は約1,700軒、従業員は約3,000人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月5日 政治・経済 料理、飲食店の休業は本日から実施されたが、県は喫茶店のうち金沢市内で74軒の営業を許可した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月5日 政治・経済 社会党金沢支部再建大会が開かれ、支部長に平野芳泰が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月13日 政治・経済 市議会は、議員に消費者代表を加えた供米墾請班39班を編成、12、13両日新市域各町へ出動し、金沢市民の食糧事情を訴え供米を懇請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月17日 政治・経済 県選挙管理委員会は、金沢市議会議員に最下位当選した高倉与三松が、金沢市選挙管理委員会の当選無効決定を不服として提訴した訴願を却下した。同委員会は得票を高倉与三松1,060票、次点の羽間政信1,063票と確認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月21日 政治・経済 石川県貿易会の発会式がおこなわれた。会長西川外吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 8月29日 政治・経済 石川県副知事に大阪市経済局長土井登が決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月29日 政治・経済 市議会は議員の薪炭出荷懇請班3班をつくり、珠洲、鳳至、能美3郡を回った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月1日 政治・経済 臨時国勢調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は55,945世帯、人口231,441人(男110,118人、女121,323人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月26日 政治・経済 北陸巡幸の天皇は福井県から午後1時30分大聖寺駅着、大同工業、橋立漁港、国立山中病院を視察の後、山中温泉「よしのや」に宿泊された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月27日 政治・経済 天皇は宿舎「よしのや」でご休養。県農業会長奥村忠次が「早場地帯の農村事情について」、金沢一中教諭鏑木勢岐が「石川県の郷土史中特に科学文化の発達について」お話申上げた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月28日 政治・経済 天皇は山中から自動車で今森絹織工場、稚松小学校の小松市奉迎場、九谷陶磁会社、松任小学校の松任町奉迎場に臨まれた後、金沢市に入り県庁、平和町平和住宅、金沢授産所第二作業場を視察、金沢駅から汽車で和倉着、奥原農業共同作業場、イソライト工業会社を視察、和倉温泉銀水閣に宿泊された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月29日 政治・経済 天皇は和倉から自動車で矢田新埠頭の七尾市奉迎場、羽咋中学校の羽咋町奉迎場、津幡小学校の津幡町奉迎場、石川繊維工業、赤座繊維工業、石川県工芸指導所、野町第一善隣館、金沢市役所、金沢工業専門学校、小野慈善院を回られて兼六園成巽閣に宿泊された。夜、宿舎で日置陸奥夫博士の「石川県の結核」岸加八郎の「加賀羽二重」の話をお聞きになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月30日 政治・経済 天皇は成巽閣から、市運動場の国民体育大会開会式場と兼六園球場に臨まれた後、正午金沢駅から富山県へ向われた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月5日 政治・経済 民主党石川県支部長に参議院議員林屋亀次郎が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月10日 政治・経済 林屋亀次郎は民主党県支部長就任のため、石川県商工会議所会頭ならびに金沢商工会議所会頭を辞任した。県商工会議所会頭には副会頭西川外吉が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月13日 政治・経済 民主党金沢クラブはクラブ長に鳥畠徳次郎、幹事長に武村慶一郎を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月17日 政治・経済 市は、市の事務機構を総務部、民生経済部、事業部の3部制とした。民生経済部長に中野亨、事業部長に鈴木邦彦を任命した。(総務部長には県公安課長松田正喜を12月5日任命した)総務部は庶務、人事、教学、税務、戸籍、会計の6課、民生経済部は民生、衛生、農林水産、商工物資の4課、事業部は土木、経理、ガス水道の3課。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月24日 政治・経済 空席の金沢商工会議所会頭は県商工会議所会頭西川外吉が兼任と決定、副会頭真柄要助は辞任し、吉田次作が副会頭に就任した。(真柄は27日、県商工会議所副会頭に就任) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月25日 政治・経済 金沢市消防団結成式と警防団の解散式が市運動場でおこなわれ、市内消防団所属の自動車ポンプ43台が市内行進をした。(改組発足した県下の消防団は計181団1万2,400人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月4日 政治・経済 片山内閣の閣僚補充で、石川県第1区選出の民主党幹事長竹田儀一が国務大臣として入閣した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月16日 政治・経済 市議会全員協議会は、金沢市議会電気事業復元委員会が電気事業都市移管連絡委員会に加盟することを決定した。同連絡委員会は全国11都市によって構成するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月17日 政治・経済 電産労組石川支部の組合員約150人が市長室に押しかけ、井村市長、鳥畠議長に電気事業市営移管反対の陳情をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月23日 政治・経済 新警察法により、明春3月8日までに石川県下で自治体警察が設置される市町(人口5,000人以上)は、金沢市はじめ15ヵ所と決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月26日 政治・経済 金沢商工会議所会頭西川外吉が辞任(県商工会議所専任となる)、後任会頭に副会頭中村栄俊、副会頭には越馬徳治が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月31日 政治・経済 県庁の機構改革が実施され、衛生部を新設、教育民生部が教育部と民生部にわかれた。これで8部41課となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 1月8日 社会・文化 大日本体育会は、理事会で本年の第2回国民体育大会の石川県開催を、6月に準備状況を再視察するとの条件づきで決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 1月11日 社会・文化 2月1日のゼネストを前に、石川県官公職員労働組合協議会スト態勢確立大会が、約3,000人参加して高岡町校で開かれ、閉会後教員組合員も加わりデモがおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 1月18日 社会・文化 午前1時ごろ白菊町の大東木工会社建具工場から出火、工場、事務所等3むね約250坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 1月22日 社会・文化 玉川署は高岡町下藪ノ内の爾宇教(教主爾光尊こと長岡良子)本部を経済違反、進駐軍指令違反等の容疑で捜索し、抵抗した双葉山ら3人を検束、爾光尊(43歳)を保護連行、米30袋、小麦粉20袋等を押収した。爾宇教は、昨年12月金沢市に来て双葉山、呉清原ら知名人を側近信者とし天変地異説を流布し、警察からの再三の出頭命令に応じなかったもの。(爾光尊らは5月28日神奈川県逗子町に移った) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 1月28日 社会・文化 官公労を中心とする2月1日のゼネストを支持する石川県労働戦線統一協議会主催の共同闘争大会が、市公会堂で開かれ、閉会後約5,000人が市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 1月29日 社会・文化 金沢地方の午前7時から8時の間の気温は零下8度2分、明治37年1月27日の零下9度7分につぐ44年ぶりの寒さであった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 2月5日 社会・文化 県教学課は石川軍政隊の依頼で、金沢市内の生徒児童園児についてシラミの保持者数を調べたところ、次の結果が出た。国民学校=児童数26,926人のうちシラミ保持者9,932人、中等学校=生徒数12,786人のうち2,224人、青年学校=生徒数4,882人のうち735人、幼稚園=園児数933人のうち40人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 2月9日 社会・文化 金沢市平和町主婦連盟が結成された。連盟長安井千代。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 2月17日 社会・文化 日本教育会県支部の改組による石川県教育会が設立された。会長染村亀鶴。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 2月21日 社会・文化 本月4日から降り出した県下の大雪は、本日現在金沢で積雪量188センチ。市内の倒壊家屋は6むね、県庁は20、21両日全庁員に半日ずつの雪おろし休暇を与えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 3月5日 社会・文化 金沢市内の入浴料金が大人1円50銭、7歳以下1円になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 3月11日 社会・文化 県警察部、金沢検事局、名鉄金沢管理部は本日から北陸本線と七尾線各列車に武装警官を配置、車内整理とヤミ米運搬の徹底的取締りを開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 3月14日 社会・文化 国民体育大会準備委員会が結成された。会長知事、副会長県議会議長、金沢市長、体育会県支部長の3人、総務57人、顧問28人、参与69人、幹事11人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 3月26日 社会・文化 午前4時半ごろ糸田町の民家から出火、1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月1日 社会・文化 6・3制の新学制実施により、金沢市内の国民学校は金沢市立小学校になり、旧市域では小将町、高岡町両中学校が生れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月4日 社会・文化 午前1時15分ごろ大和町の民家から出火、8戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月26日 社会・文化 金沢女子専門学園長に教頭上田忠雄が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 4月27日 社会・文化 (吉崎まいりの大聖寺、吉崎間の巡航船が江沼郡瀬越村の大聖寺川で転覆、19人が水死した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月1日 社会・文化 復活2回目のメーデーの金沢地区大会は、兼六園長谷川邸跡に200余組合約2万人が参加して開かれ、市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月1日 社会・文化 (石川県で初めての婦人校長ができた。鳳至郡柳田村合鹿小学校長桑名貞子=39歳。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月12日 社会・文化 県下の生産者、卸小売商、消費者等の約50団体が金沢商工会議所に集り、石川県物価引下げ運動協議会を結成した。全国的にまき起っている物価引下げ運動に呼応して、県下でも永続的な猛運動を開始しようというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月25日 社会・文化 金沢はじめ県下2,600余軒の露店商が、物価引下げ運動の音頭をとるため本日から1週間、第1回物価5分引き週間を実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 5月30日 社会・文化 国民体育大会延期期成同盟が結成された。参加者は文化連盟、婦人民主クラブ、引揚者同盟、市民会議、住宅対策連盟、借家人同盟、復員同盟、民戦協等の代表。本年開催に反対理由は、大会は県下の食糧欠乏を促進し、民需用復興資材の浪費になるというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 6月10日 社会・文化 石川県物価引下げ運動協議会は、本日から20日まで「第1回金沢市内商店街物価引下げ協力旬間」を実施した。引下げ運動に賛成の商店(露店も含む)は「物価引下げ協力店」の標示をして、その店に応ずる良品の値引きをするもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 6月18日 社会・文化 県下における日刊紙以外の新聞雑誌および書籍刊行者50余団体が、出版用紙割当て入手等のため石川県出版協会を結成した。会長尾山篤二郎(芸林)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 6月20日 社会・文化 旧金沢城は近く占領軍から石川県へ移管される模様なので、早くも各方面で城の奪い合いがはじまっている、と新聞は報じている。現在、城の敷地と建物に着眼しているものには東本願寺の宗教大学、国立北陸総合大学はじめ金沢学生連盟の「学生の町」建設計画、県観光協会等の本丸公園案、公会堂建設案等がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 6月21日 社会・文化 市内弓ノ町に労働会館が完成、開館祝賀式がおこなわれた。元の北毎ハウスを改装したもので、石川労働協会の会館運営委員会が経営に当る。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 6月23日 社会・文化 県連合民生委員会長安藤謙治死去。55歳。大正11年はじめて民生委員に任命され、野町第一善隣館を建設したほか、金沢市の方面隣保事業施設を全国一の地位に高めるのに尽した。県薬剤師会会長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月3日 社会・文化 大日本体育会は特に理事会を石川県庁で開き、第2回国民体育大会を石川県で開催することを正式に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月5日 社会・文化 午前0時15分ごろ橋場町の建築業者資材小屋から出火、同小屋と隣家土蔵の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月11日 社会・文化 石川県全労働組合会議準備会主催の片山内閣激励国民大会が、高岡町中学校講堂で約1,500人が参加して開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月17日 社会・文化 午前8時17分ごろ木ノ新保2番丁の民家から出火、1戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月21日 社会・文化 泉鏡花顕彰会が卯辰山帰厚坂中腹に建てた泉鏡花文学碑の除幕式がおこなわれた。参列者は尾山クラブの記念公演(滝の白糸)に来沢中の花柳章太郎、大矢市次郎ら一座と尾山篤二郎、武谷甚太郎ら70余人。碑は高さ9尺余の仙台石で、碑面は「はゝこひし夕山桜峰の松」の句。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 7月28日 社会・文化 早朝、金沢と津幡付近に集中豪雨があり、金沢市内で床上浸水58戸、床下浸水約600戸、金腐川はんらんのため小坂付近の被害が大きかった。午時6時から4時間の雨量は99.2ミリ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 8月10日 社会・文化 (小松製作所労組が24時間ストを実施。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 8月12日 社会・文化 午後4時20分ごろ上鶴間町の民家から出火、2戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 8月18日 社会・文化 真宗大谷派は、金沢城跡を金沢別院発祥の地として払下げを受け、鶴の丸、三の丸、新丸に蓮如上人400年記念事業として宗教を中心とする北国大学建設計画を発表、本日、東別院で真宗門末大会を開いて北国大学建設の実現を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 8月19日 社会・文化 石川県社会事業協力会の発会式が、県内の35団体100余人が出席して仙宝閣で挙行された。会長直山与二。協力会は県下ではじめての共同募金運動を展開して、社会事業に寄付する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 8月22日 社会・文化 第2回国民体育大会夏季競技水上大会が本日から3日間、松任プールで42道府県から1,200余人の選手が参加して開かれた。金沢商店街連盟は、19日から夜間営業を10時半まで延長して県外客を歓迎した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 8月22日 社会・文化 午前3時5分ごろ大豆田新町の大和紡績会社金沢工場第2精紡工場から出火、同工場1むね(659坪)と原綿、資材等を焼いた。損害公定価格で約1,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月1日 社会・文化 石川県全労働組合会議の結成大会が四高講堂でおこなわれた。加盟は国鉄、全逓、金沢市職組等25単産約5万人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月4日 社会・文化 午後5時10分ごろ泉野町国立金沢病院入浴場から出火、診療室、レントゲン室、外科室等3むね約500坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月5日 社会・文化 8月30日以来ストライキを続けていた長町川岸日本硬質陶器会社の争議が、県地方労働委員会のあっせんで妥結した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月6日 社会・文化 空席中の金沢高等師範学校長に元台北帝国大学教授理学博士庄司彦六が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月8日 社会・文化 北陸総合大学設置期成同盟会は、県議会教育民生部委員と在金沢直轄学校長との協議会を開催、旧城跡全部を大学敷地にあてることにし、今後県民の支持を得て城跡払下げ運動を展開することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月10日 社会・文化 北陸総合大学設置期成同盟会は、金沢城跡の大学建設計画に市議会の協力を得るため、市役所で同会と市議会との協議会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月19日 社会・文化 15日関東、東北地方を襲ったカスリーン台風の被害は死者だけでも1,800人を超えた。県では関東地方等水害救護石川県委員会を組織し、義援金品の募集を開始した。一方、岡島県議会議長は見舞金15万円を持って現地へ急行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月24日 社会・文化 午前2時半ごろ泉新町金沢醤油会社工場から出火、同工場と事務所等約600坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月25日 社会・文化 井村市長はダンスパーティーに市公会堂の使用を禁止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月25日 社会・文化 清水澄(とおる)熱海伊豆山沖で投身自殺。80歳。金沢市森下町出身、法学博士、学士院会員、行政裁判所長官、芸術院院長を歴任、わが国最後の枢密院議長をつとめ最近公職追放になった。天皇制護持を念願しての自殺。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 9月28日 社会・文化 金沢城跡を公園化して、県民レクリエーションの場所にしようとの運動が文化、体育団体方面で開始された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月2日 社会・文化 午前11時半ごろ大桑町の農家から出火、住家1戸と土蔵1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月3日 社会・文化 料飲停止の7・5禁令で生活に困る県下の接客業者2,000余人が尾山クラブに集り、県接客業者組合連合会(会長土屋茂吉)を結成し、引続き料飲禁止令緩和促進大会を開催、市内を県庁へデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月6日 社会・文化 横井伊佐美院長死去後空席中の財団法人小野慈善院の5代目院長に、沢野外茂次が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月7日 社会・文化 7年ぶりで金沢競馬が復活した。復活第1日目の入場者約2,000人、馬券売上げ85万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月17日 社会・文化 午後2時ごろ片町のカバン店から出火、同家2、3階と隣家の帽子店の3階を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月20日 社会・文化 石川県教育会は総会を開き、12月31日限り解散することを決議した。教育会が行なってきた事業は県教組が引継ぐ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月24日 社会・文化 金沢市設競技場が第1種公認競技場に認定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月25日 社会・文化 国民体育大会の開会を前に金沢市内の市設陸上競技場、出羽町の硬式野球場、市一工球場、県庁裏の硬式庭球場、高師と四高の球技場、出羽町のバレーコート等の各会場は全部完成、高岡町中学校講堂で県、市、体育関係、建設業者、学生ら約1,000人が参集して完成式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月26日 社会・文化 広坂通の四高敷地の一角に香林坊巡査派出所が完成した。工費25万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月28日 社会・文化 午後1時20分ごろ馬場崎町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 10月30日 社会・文化 第2回国民体育大会秋季大会は、本日から5日間、主会場金沢市運動場を中心に大聖寺、小松、七尾の24会場で全国都道府県から選手約1万2,000人が参加して挙行された。開会式は天皇を迎え、秋晴れの市運動場で午前9時20分からおこなわれ、選手入場式の後、金沢市内小学生約4,000人のマスゲームがくりひろげられた。本日の金沢市内の会場は15ヵ所、観衆は市運動場4万、兼六園球場3万、その他の会場1万。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月1日 社会・文化 県下はじめての共同募金運動が石川県社会事業協力会の手で、金沢市内はじめ各市町村ではじめられた。石川県の募金目標は750万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月3日 社会・文化 国民体育大会は、北陸地方まれに見る好天気のうちに5日間の幕を閉じた。観衆総計50万人に近く、地方開催の試金石の石川大会は成功した。金沢市内の人出は連日約8万人、落ちた金は商店街に1,000万円、旅館に600万円と見られる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月7日 社会・文化 午前3時半ごろ無量寺町の農家から出火、住家1むねを全焼、納屋1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 11月18日 社会・文化 徳田秋声文学碑建設会(会長武谷甚太郎)によって、卯辰山鳥居亭上に建てられた徳田秋声文学碑の除幕式がおこなわれた。東京から徳田一穂、広津和郎、川端康成、林芙美子、中山義秀らの作家、地元からは井村市長はじめ多数が参列した。碑の設計は金沢出身の谷口吉郎、4間幅の白壁のへいに秋声の肉筆模写の陶板がはめこまれている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月9日 社会・文化 県は、昭和24年度に金沢総合大学の設置が確実化し、金沢城跡が大学に開放されるとの見通しがついたので、さっそく城跡の実測を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月22日 社会・文化 金沢城跡は近く連合軍から日本政府に移管されることになったので、県は城跡に総合大学を中心とする諸施設をつくる計画と知事談話を発表、また石川軍政隊長も総合大学敷地として利用することを認める談話を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月22日 社会・文化 県は金沢城跡の利用計画で、大手門寄りの元兵舎2むねと雪中演習場は、金沢市内の新制中学校校舎として5ヵ年間貸与することを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月27日 社会・文化 南町に開設した県の労働図書館開館式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月28日 社会・文化 国民体育大会準備事務局は夏季、秋季両大会の決算を収入596万3,281円、支出577万8,488円、差引き18万4,793円の黒字と発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十二年(1947) 12月30日 社会・文化 金沢城跡の総合大学敷地決定に伴い、従来の大学設立準備委員会を改組、新委員に市から井村市長、鳥畠市議会議長、また一般県民代表として医師渡辺麗、二中校長山本外吉、県農業会長奥村忠次、西川外吉、堀田外茂子が委嘱された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 1月10日 政治・経済 金沢市公安委員に西川外吉、岡田良介、石原堅正が決定した。委員長菱川外吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 1月30日 政治・経済 北日本紡績会社(スフ紡約1万錘)の設立が認可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 1月31日 政治・経済 石川県公安委員に石橋義雄、鴨居悠、山田藤太郎が決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 2月11日 政治・経済 3月7日発足の金沢市警察局は庁舎が金沢公共職業安定所階上ときまり、警察長(局長)と次長の下に警備、総務、経済防犯、刑事の4課が置かれることになった。市警察局長は林敬三内事局長の推薦により、建設院事務官元栃木県特高課長大野健雄に22日決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 2月20日 政治・経済 食糧管理法の改正により食糧配給公団が設立され、同公団石川県支局(十間町)が発足した。石川県支局長北川豊市。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 2月20日 政治・経済 石川県経営者協会の発会式がおこなわれた。会長真柄要助。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 3月7日 政治・経済 県下の自治体警察1局17署と、国家地方警察石川県本部ならびに8国家地区警察の開庁式と任命式が、一斉におこなわれた。金沢市警察局では、西川公安委員長が市警視大野健雄を局長に任命、大野局長が次長以下4課長、3署長を任命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 3月10日 政治・経済 民主、社会、国協3党連合の芦田内閣が成立し、石川県第1区選出の竹田儀一が厚生大臣に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 3月22日 政治・経済 労働省婦人少年局石川職員室が石川労働基準局内に開設された。主任は女性事務官前田薫。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 4月10日 政治・経済 県は北陸大学設立準備費にあてるため、はじめての宝くじ・「教育宝くじ」を本日から売出した。総額1,500万円、1枚30円、特賞30万円、県の手取り額は628万8,380円の予定。(大学設立準備費予算は1,472万5,535円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月4日 政治・経済 市は文教部を新設、部長に織田信治を任命した。また統計課を新設、事業部のガス水道課をガス課と水道課に分離した。これで市役所の部課は4部16課になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月15日 政治・経済 名古屋高等裁判所金沢支部と同高等検察庁金沢支部が開庁した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月19日 政治・経済 石川県議会は「金沢大学内容充実に関する決議」「配電県営の決議」を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 6月12日 政治・経済 市議会議員高倉与三松が、さきに県選挙管理委員会から当選を取消され、次点羽間政信が繰上げ当選となった決定に対し、これを不服として名古屋高等裁判所金沢支部に提起中の訴訟は、同支部で審理の結果、「高倉、羽間両人の有効得票はともに1,060票の同点」と確認され、県選管の決定は破棄された。このため近く両人の抽選により当選者が決定する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 6月12日 政治・経済 北陸鉄道の市内電車賃が、国鉄新運賃決定まで暫定的に2円50銭(現行1円50銭)に値上げされた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 7月5日 政治・経済 金沢市選挙管理委員会は、さきに名古屋高等裁判所金沢支部で同点と決定した高倉与三松と羽間政信の当選人更正決定の抽選会を開き、「高倉を当選、羽間を次点」と決定した。ひきつづき、さる4月5日死去した中島外与次議員の議員補充選挙会を開き、羽間の繰上げ当選を決定、これで両人の当選争いは1年2ヵ月ぶりで解決した。(市議会の新分野は民31、民自6、社4、国協1、無所属1、中立1) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 7月10日 政治・経済 金沢市内の電話度数料が50銭から2円に引上げられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 7月16日 政治・経済 市役所に金沢市広報室が設置された。市民の市行政に対する理解を深め、行政運営の民主化をはかるためで、室長宮川靖五郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 7月 政治・経済 金沢市が石川県犀川村字寺津地内に建設を計画中の寺津ダム(仮称)の岩盤ボーリング検査が開始された。このダムは人口50万人の大金沢の水道水源、農業用水、発電、犀川の洪水調節を目的とする多目的ダムで、建設費はダムだけで12憶円、付随工事をあわせて総額22憶円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 8月1日 政治・経済 全国一斉に常住人口調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は56,096世帯、人口237,350人(男113,057人、女124,293人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 8月2日 政治・経済 市議会は河北郡川北村の金沢市編入を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 8月2日 政治・経済 殿町の県立金沢保健所が市に移管され、市立金沢保健所となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 8月2日 政治・経済 市が設立した独立市税の余裕住宅税と遊興飲食施設利用税が、市議会で可決された。余裕住宅税の賦課方法は、1戸の床面積から2坪を控除し、家族1人につき5坪を引いた残りの1坪につき年額50円を、10坪以上の分には1坪につき70円を賦課するもので、税収見込みは約300万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 8月12日 政治・経済 北陸鉄道の市内電車賃が5円に値上げされた。(現在は暫定料金で、2円50銭) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 8月18日 政治・経済 金沢市警察局は次長制を廃し、警務部(部長河崎太一)保安部(部長宗田市太郎)の2部制とした。警務部は警務、警備、主計の3課、保安部は保安、捜査、経済防犯の3課とした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 8月20日 政治・経済 市は衛生課を衛生部に昇格させ、医務、保健予防、清掃の3課を設けた。衛生部長は高島弥生。これで市役所の部課は5部18課1局となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 8月26日 政治・経済 金沢市消防条例が公布実施された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 9月24日 政治・経済 民主自由党石川県連合支部および金沢支部の結成式が、教育会館でおこなわれた。県連支部長に坂田英一(食糧品配給公団総裁)を推し、金沢支部長には殿田孝次が就任した、 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 9月30日 政治・経済 北日本紡績会社の創立総会が開かれた。資本金2,500万円、社長林屋亀次郎、副社長赤座吉郎。スフ紡1万錘計画のうち年末までに5,000錘の運転を予定、工場は泉本町元北陸航空工場跡。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 9月 政治・経済 石川証券業協会が設立された。理事長辻儀十郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 10月6日 政治・経済 初の石川県教育委員選挙は5日おこなわれ、6日開票の結果は次の通り。投票率65%。定員6人、立候補者16人。〔当選〕58,493票 宮本順二44,483票 中村清人37,347票 坂本三十次(以上任期4年)28,642票 岡田清27,973票 縄平祐25,303票 宮中庄太郎(以上任期2年)〔次点以下〕茶谷良、駒井しづ、宮崎栄、出雲路宏、永井泰蔵、北村伊三郎、脇本政行、油谷菊次郎、相神正二、塩路徳太 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 10月19日 政治・経済 第2次吉田茂内閣(民自党単独内閣)が成立し、石川県第2区選出益谷秀次が建設大臣に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 11月1日 政治・経済 県教育委員会が発足した。委員は選挙による6人と県議会選出の三島理保の7人。(同日、教育委員会が発足した県下市町は小松、七尾両市と輪島町) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 11月5日 政治・経済 金沢駅前ロータリーが完成した。運輸省金沢管理部、北陸鉄道、石川県、金沢市が共同で275万円を出し県が施行したもの。ロータリーの直径25メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 11月18日 政治・経済 今春来、市が構想を練っていた大金沢建設計画が成案を得たので、市政調査会を開き、井村市長からその計画を提示した。計画案によると、市域は現在の3割4分増、住宅の新築は1万戸、施設費は約81億円。35年後(市民50万人)を一応都市計画の完成年度としている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 11月24日 政治・経済 市の余裕住宅税の賦課額は、予定額300万円の2倍約600万円となった。市はその全額を本年度の住宅関係予算に繰入れる。1戸の最高税額は、課税坪数183坪1万2,610円である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 11月25日 政治・経済 金沢市消防本部事務局等設置規則が施行され、金沢市常備消防部が市消防署となり、市に消防本部が設置された。人員は消防司令長1(土田傳義)、同司令2、同司令補4、同士長6、消防士80、事務吏員4、技術吏員4。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 12月1日 政治・経済 北陸配電石川支店は冬季渇水を乗り切るため、本日から3月末まで家庭用電熱器の使用を禁止し、12月の検針日から4月の検針日まで、電気の割当量を1世帯1ヵ月灯数にかかわらず25キロワットにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 12月1日 政治・経済 金沢財務局が元偕行社を庁舎に開庁した。管轄は北陸3県。局長照田弘久。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 12月10日 政治・経済 任期満了の金沢商工会議所の正副会頭は、議員総会で会頭中村栄俊、副会頭吉田次作、越馬徳治が再選された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 12月11日 政治・経済 任期満了の石川県商工会議所の正副会頭は理事会で、会頭西川外吉、副会頭福田三次郎、春木藤兵衛が再任、石橋義雄が副会頭に新任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 1月16日 社会・文化 午前5時20分ごろ十三間町の民家から出火、1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 2月7日 社会・文化 日本自治団体労働組合連合会石川県地区連合会の結成大会が、県庁で開かれた。委員長杉本勇(県職組委員長)副委員長葛城勝男(金沢市職組委員長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 2月11日 社会・文化 第1回金沢市文化賞贈呈式が市議会議場でおこなわれた。〔功労賞〕伊藤武雄(文化指導)宮本三郎(絵画)北出塔次郎(陶芸)石川県児童文化協会、北陸新劇協会〔工芸賞〕佐治正(漆芸)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 2月14日 社会・文化 米軍石川軍政部は県下婦人団体代表100余人の参集を求め、生鮮食料品のヤミ不買運動を起すことの必要を強調した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 2月16日 社会・文化 午後3時半ごろ馬場5番丁の民家から出火、3戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 2月27日 社会・文化 金沢城跡に北国宗教大学を建設する東本願寺の計画は、城跡に総合大学の設立決定により取りやめられた。本願寺側では大学に代り、金沢に北陸文化運動の母体となる文化会館の建設計画を明らかにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 2月29日 社会・文化 (白山観光協会創立総会が鶴来町白山比咩神社で開催された。会長は矢田松太郎。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 3月1日 社会・文化 石川県体育協会が設立された。会長西川外吉。(24年9月30日財団法人となった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 3月3日 社会・文化 林安繁死去。73歳。金沢市本多町の生れ、宇治電社長、台湾電力社長、山陽電鉄会長等をつとめ関西財界で活躍、戦後教育会石川県支部長もした。大石直江の筆名で金沢の風物食物等についての随筆集など著書も多い。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 3月10日 社会・文化 全逓金沢郵便局支部が24時間ストをし、進駐軍関係を除く一切の郵便業務がとまった。(また全逓金沢電信局支部も12日に24時間ストをした) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 4月1日 社会・文化 新制高等学校が開校した。金沢市内の県、市立高校は6校。県立金沢一高(校舎は一中)、県立金沢二高(校舎は県一女と三中校舎の一部)、県立金沢三高(校舎は県二女)、県立工芸高校(校舎は県工)、県立金沢商業高校(校舎は金商)、市立金沢工業高校(校舎は市一工)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 4月1日 社会・文化 金沢市立新制中学校として紫錦台中学校(校舎は金沢二中)、兼六中学校(校舎は市立一女)、長田中学校(校舎は長田小学校の一部)、泉中学校(校舎は元北陸工業会社青年学校)が開校した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 4月2日 社会・文化 午後5時10分ごろ木ノ新保5番丁の能州屋旅館から出火、2階(55坪)を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 4月2日 社会・文化 (小松製作所労働組合は、会社が経営難を理由に提示した700人解雇を全員投票の結果、承認した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 4月3日 社会・文化 市議会議員中島外与次死去。48歳。自由党所属、尾張町の人形玩具店主、金沢地方野球界の世話役として戦前から活躍していた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 4月5日 社会・文化 県は私立金沢高校(金沢中)、同藤花高校(藤花高女)、同北陸学院高等学部(北陸高女)、同金城高校(金城高女)の私立4校を新制高等学校(男女別単独普通科)として、また私立尾山高校(尾山中)を定時制高校(男女共学、4年制)として認可した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 4月13日 社会・文化 午後3時20分ごろ三口新町財団法人小野慈善院男子第1寮から出火、同院の約半分の7むね830坪を焼失した(焼け残ったのは935坪)。同院には被保護者90人のほか戦災引揚者等165人が収容されていたが、死傷者はなかった。出火原因は収容精薄者の火の不始末。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 4月25日 社会・文化 金沢ではじめての職業野球公式試合・太陽ロビンス対急映フライヤーズ戦が、兼六園球場で開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月1日 社会・文化 戦後3回目のメーデー。五月晴れの金沢では約1万5,000人が参加、新作のメーデー歌「世界をつなげ花の輪」が歌われた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月2日 社会・文化 初めて夏季時間が全国で実施された。(9月11日まで) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月9日 社会・文化 北海道礼文島で皆既日食。金沢では午前11時29分すぎ、8割4分の部分食が観測された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月9日 社会・文化 ソ連地区引揚げ再開第1船で帰還の石川県人26人が金沢に着いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月11日 社会・文化 北陸大学設立準備委員会は、金沢に設置される大学名を文部省側の要望により「金沢大学」と決め、委員会を金沢大学設立準備委員会と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月13日 社会・文化 金沢大学設立準備委員会は委員10人から成る人事委員会(議長柴野知事)を設置、教授陣の選考に着手した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月17日 社会・文化 19日実施予定の北陸鉄道労働組合の24時間ストについて、金沢市議会は「市民のために早急解決を望む」との勧告書を労使双方に手交した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月19日 社会・文化 北陸鉄道労働組合が私鉄総連の指令で初めて24時間ストを実施、県下の電車、バス全線がとまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 5月21日 社会・文化 (羽咋郡西海村の大阪大学理学部能登臨海実験所が全焼した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 6月5日 社会・文化 金沢市連合青年団がエロ雑誌粛清運動を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 6月14日 社会・文化 金沢地方に、午後8時54分ごろ人体に感ずる程度の微震があった。震源地は直江津北西20キロ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 6月26日 社会・文化 授業料値上げ反対を含む教育復興闘争のため、全国大学高専自治連は本日全国一斉盟休を指令したが、石川県では四高だけが同調して少数学生を除きストを実施した。スト不参加の医大、薬専、工専、高師、青年師範、石川師範、女専の各校は師範女子部講堂で教育復興決起学生大会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 6月28日 社会・文化 福井大地震。石川県では大聖寺町を中心に大被害。石川県の被害は死者行方不明49人、負傷434人、家屋全壊574むね、半壊4,134むね、被災者11,986人、道路決壊101ヵ所。金沢地方は、午後5時14分39秒から初期微動7秒、金沢測候所の地震計は最大震幅を震波が猛烈なため測定できなかったが、震度は中震で震央は金沢南西60キロの九頭龍川下流と発表した。金沢市内の被害はわずかに道路決壊1ヵ所と煙突倒壊1ヵ所程度であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 6月28日 社会・文化 民主主義科学者協会石川支部の発会式がおこなわれた。幹事長(支部長)金沢医大教授秋元波留夫。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 7月2日 社会・文化 午前1時ごろ上石伐町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 7月4日 社会・文化 前田家から、同家所有の旧加賀藩時代の史料、蔵書類数万点を、金沢市へ寄贈するむね申し出があった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 7月25日 社会・文化 午前11時20分ごろ平和町暁寮第1号舎裏の元工兵隊調理所から出火、1むね26坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 8月22日 社会・文化 金沢市中央公民館(西町)が開館式をあげた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 9月1日 社会・文化 県下で県立定時制高校14校が開校した。金沢市内は金沢二高と金沢商高の2校。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 9月8日 社会・文化 井村市長と吉田助役は、金沢市民からの北陸地方震災義援金100万円を携え、県内の激震地大聖寺、三木、南郷、塩屋、瀬越の各町村を慰問し、被害程度に応じ慰問金を贈った。(金沢市の取扱い義援金は280万円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 9月16日 社会・文化 午後11時35分ごろ市立小将町中学校2年6組教室から出火、6教室247坪と便所2むね、元第2体育場約100坪等を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 9月18日 社会・文化 午前11時46分ごろ西町1番丁の民家から出火、1戸(約50坪)を全焼した。鎮火直後の午後1時50分すぎ、近くの尾山神社奥殿の屋根ひさし約1坪が飛び火で燃え出したが、すぐ消し止めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 9月20日 社会・文化 加賀藩時代に集録された貴重な文献、郷土史資料等3万冊以上が旧藩主前田家から金沢市へ寄贈され、このほど貨車2両で東京から金沢に到着、市立図書館で整理が開始された。(のち加能越文庫と命名) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 9月22日 社会・文化 ヘレン・ケラー女史が来沢、24日中央公民館の歓迎大会と講演会に臨み、25日離沢した。(湯涌温泉白雲楼で3泊) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 10月1日 社会・文化 県は明春から実施する新制高校の全面的男女共学の実験教室として、女子だけの金沢二高に男女各25人の1学級を設置した。男女25人は、男子だけの金沢一高の希望者の中から抽選で決定したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 10月16日 社会・文化 市は旧城大手門上り口左側に元衛兵所(約30坪)を移築して、児童図書館を開設した。書物は市立図書館児童室備え付けの約3,000冊。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 10月23日 社会・文化 午後6時50分ごろ大野町4丁目の同町火葬場から出火、全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 11月3日 社会・文化 第2回金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。岡本 肇(医学)佐野吉之助(能楽)高橋勇(金工)杉本藤太郎(スポーツ)木村雨山(染色)吉田楳堂(漆芸)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 11月15日 社会・文化 午後11時30分ごろ、兼六園内の県商品館階上農林省石川食糧事務所金沢支所から出火、同館の建物(544坪)を全焼し、16日午前1時5分ごろ鎮火した。ところが、1時35分に隣接の県立図書館が飛び火のため階上閲覧室の屋根から出火し、書庫と集会室を残して3時20分ようやく鎮火した。焼失した県商品館内には、石川県経済査察庁、県地労委はじめ官庁出先機関や経済文化団体等の事務所が13あった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 11月17日 社会・文化 午後9時すぎ岩根町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 12月1日 社会・文化 金沢貯金支局の新庁舎が西町金谷館跡(敷地1,200坪)に完成、新庁舎で執務を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 12月10日 社会・文化 午後9時50分ごろ、増泉町津田駒工業会社鋳物仕上工場から出火、同工場1むね(25坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十三年(1948) 12月21日 社会・文化 4月に、建物の約半分を焼失した三口新町財団法人小野慈善院は工費1,200万円で完成、「小野陽風園」と改称した。新築部分は710坪で、総建坪は1,750坪となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月6日 政治・経済 衆議院議員総選挙における初めての公営立会演説会が、野町小学校で開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月10日 政治・経済 共産党石川県委員中田喜久男ら9人が、地方自治法第76条第1項による金沢市議会解散請求書(リコール)を市選挙管理委員会に提出、解散請求書代表者証明書の交付を申請した。解散請求の理由は「県市民税の徴税基準が不合理不公平で世論が激化しているのに、市議会は市民の利益をかえりみず一方的に課税強行を決定、また市民が半強制的寄付で困っているのを市議会は黙認している」というもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月15日 政治・経済 市選挙管理委員会は中田喜久男ら9人に対し、金沢市議会解散請求代表者証明書を交付、告示した。中田らの解散請求実行委員会は直ちに署名運動を開始した。請求の成立に必要な署名数は、全市有権者の3分の1すなわち4万3,880人以上で、署名簿提出期間は30日以内。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月18日 政治・経済 金沢市議会は、市議会解散要求に対し「県市民税の賦課算定は、条例に従って市当局が至公至平の立場で算定したものである。今回のリコール要求は極めて不当な請求である」との声明書を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月22日 政治・経済 井村市長は、市議会リコール要求に対し「これは別の目的を蔵した恐るべき謀略行為である。市民は冷静に判断されたい」との声明書を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月24日 政治・経済 衆議院議員総選挙は23日おこなわれ、開票結果は次の通りで、本県から初めて共産党議員が当選した。〔第1区〕当選43,170票 坂田英一(民自新)同40,154票 岡良一(社会新)同37,449票 梨木作次郎(共産新)次点37,271票 井村徳二(民主前)30,764票 殿田孝次(民自元)14,428票 東舜英(民自前)8,981票 竹田儀一(民主前)2,310票 町野吉蔵(無新)〔第2区〕当選39,387票 益谷秀次(民自前)同32,151票 大森玉木(民主前)同31,976票 南好雄(民自新)次点27,216票 浜名勝治(無新)24,202票 五坪茂雄(民主前)13,830票 山崎広(社会新)6,229票 梅田兵一(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月31日 政治・経済 市は金石町の市営製塩場を廃止した。(22年12月から電力不足のため操業を休止していたもの) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月31日 政治・経済 民自党金沢支部市政革新対策委員代表渋谷庚子智ら4人は、井村市長と会見、「リコール問題の根本原因は民主党の市政ろう断にある」として市長の辞職を勧告、これに対し井村市長は即座に拒否した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 2月16日 政治・経済 第3次吉田内閣成立、石川県第2区選出の益谷秀次が第2次内閣にひきつづき建設大臣に再任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 2月18日 政治・経済 市選挙管理委員会は、15日に金沢市議会解散要求実行委員から受理した署名簿の審査、照合を開始した。提出署名簿数は45,988人。(リコール請求が成立するに必要な署名数は4,3880人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 2月22日 政治・経済 金沢市警察長(警察局長)大野健雄は国警仙台管区総務部長に転出、後任に国警広島県本部警務部長森岡秀雄(金沢市出身)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 3月19日 政治・経済 北陸鉄道の役員(2月23日総辞職)専任の臨時株主総会が開かれ、社長に井村徳二が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 3月23日 政治・経済 県議会は、河北郡川北村の金沢市編入を41対1で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 3月25日 政治・経済 尾山神社南側と四高運動場との間に都市計画道路が完成した。宮守堀と南町をつなぐもので工費150万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 3月30日 政治・経済 金沢市公安委員石原堅正が任期満了となり、後任に杉本藤太郎が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 4月13日 政治・経済 金沢市公安委員長に西川外吉が再選された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 4月18日 政治・経済 石川県信用保証協会の創立総会が開かれた。会長西川外吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 4月25日 政治・経済 金沢市制施行60周年記念式が市公会堂で、各界から約300人が出席して挙行された。ひきつづき社会公共事業、民生援護等に貢献した33人の模範市民表彰式がおこなわれた。また大和百貨店を会場に「市政60年展」が市と北国新聞社の共催でひらかれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 4月26日 政治・経済 (県議会は正副議長選挙をおこない、議長に山本利行、副議長に西田与作=いずれも民主=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月8日 政治・経済 北日本紡績会社社長に直山与二が就任、林屋社長は取締役会長になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月31日 政治・経済 金沢市が陶漆器、羽二重など金沢市の特産品を海外に紹介するため、神戸市栄町通りに設置した金沢特産品陳列所(経営は神戸市湊商会に委託)は、金沢市商工会議所内特産品出品協会が直営することになった。所長には市民生経済部長中野亨が転出就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月1日 政治・経済 河北郡川北村が正式に金沢市に編入された。川北村は701世帯3,902人。編入による市の面積120.86平方キロ、世帯数57,993、人口245,066人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月1日 政治・経済 (能美郡白峰、尾口、鳥越の3村が石川郡に編入された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月1日 政治・経済 郵政、電気通信両省の発足で、金沢逓信局は廃止され、金沢市に金沢郵政局、金沢郵政監察局、北陸電気通信局、北陸電波監理局が開庁した。また金沢貯金支局は金沢地方貯金局になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月1日 政治・経済 国税庁の新設に伴い、金沢財務局が金沢国税局になり、また財務局の徴税関係以外の事務を管掌する金沢財務部が新設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月10日 政治・経済 空席の金沢市民生経済部長事務取扱に市商工物資課長上田茂が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月10日 政治・経済 全日本農機博覧会が県主催、農林、商工両省協賛で、本日から金沢城跡で開催された。会期は1週間、本館のほか農業電化館、観光物産館なども設けられている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月29日 政治・経済 税制調査のアメリカ使節団長シャウプ博士一行10人が来沢、4班にわかれて検察庁、税務署、商工会議所、法人関係、農村等を視察した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月5日 政治・経済 市議会は全員協議会を開き、失業ならびに中小企業救済対策委員会の設置をきめた。行政整理者、中小企業倒産による離職者、引揚者等のため失業問題が重大化しているので、中央に地方の実情を訴えると共に、地方の各機関を動員して社会不安の除去にあたろうというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月11日 政治・経済 市選挙管理委員会は、2月15日金沢市議会解散請求実行委員会から提出された解散請求署名簿の最終照合を完了し、本日の委員会でその結果を確認、ただちに実行委員会に通告した。それによると署名数45,991人、無効10,775人(23.4%)、有効数35,216人で、解散請求のための必要署名数(全有権者数の3分の1)43,880人に対し8,664人の不足となり、解散請求は不成立と正式に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月28日 政治・経済 石川県経営者協会の総会で、新会長に直山与二が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月28日 政治・経済 市議会は失業ならびに中小企業救済対策特別委員会を条例で設置し、委員長石坂三郎ほか10委員を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月28日 政治・経済 市公安委員長西川外吉が辞任、後任委員に吉田次作が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 8月1日 政治・経済 市公安委員長に岡田良介委員が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 9月26日 政治・経済 選挙違反事件で、最高裁判所に上告中の県議会議員兼金沢市議会議員清谷博文(民主)は、判決を前に県、市議会議員を辞職した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 9月28日 政治・経済 市議会は、徳田議員提出の国旗掲揚強調運動展開の緊急動議を満場一致で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 10月1日 政治・経済 市に出納室と建築課が新設された。出納室長は収入役小森東朔の兼務。市役所の部課は5部19課1室1局となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 10月4日 政治・経済 金沢国税局は県と協力して、野田平和町旧兵舎の県営清明寮、平和寮、睦寮、暁寮等を順次取りはらって敷地を払下げ、10年計画で新住宅街を建設する方針をきめた。各寮には現在引揚者、戦災者900余世帯3,900余人が居住している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 10月25日 政治・経済 県は成巽閣内約1,000坪を前田家から買収し、県立美術館の建設をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月1日 政治・経済 政府出先き機関の整理に伴い、通産省の石川地方分室と運輸省の陸運局金沢分局が廃止になり、前者は石川県商工資材事務所、後者は石川県陸運事務所となって、ともに石川県庁の機構にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月14日 政治・経済 金子順孝の死亡、清谷博文の辞職に伴う金沢市選出の県議会議員補欠選挙が13日おこなわれ、14日開票された。この選挙で各投票記載所に毛筆に代り初めて鉛筆が置かれた。当選27,663票 油谷大(民主新)同13,486票 黒川四三二(民自新)次点12,010票 宮西隆(社会新)4,805票 中田喜久男(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月23日 政治・経済 県教育委員長に川口俊雄、副委員長に繩平祐が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月24日 政治・経済 名古屋通産局北陸鉱山事務所が勝尾町に開所した。管轄は石川、富山両県。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 12月1日 政治・経済 金沢市警察局は金沢市警察本部と改称、本部組織は警務、警ら、刑事の3部となった。定員は警察吏員518人、職員70人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 12月6日 政治・経済 北陸鉄道金名線一ノ宮-白山下間が、軽便鉄道から電車になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 12月10日 政治・経済 金沢市公益質屋が金沢市民金庫として、木ノ新保3番丁で再開業した。(戦時中から休業していたもの) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月1日 社会・文化 午前8時15分ごろ長町川岸のふろ屋から出火、同浴場と隣家を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月16日 社会・文化 木谷吉次郎粟崎の自宅で死去。92歳。明治年間、神戸で精米会社を経営して成功、広く社会事業と育英事業につくした。同人の学資援助を受けた人は全国各地に非常に多い。戦時中粟崎の邸宅を金沢市に寄付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 1月 社会・文化 21年秋、郷里金沢に移り作歌活動をつづけていた歌人尾山篤二郎は、金沢を去り横浜市(磯子区寺前町)に転居した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 2月4日 社会・文化 市は故木谷吉次郎が7年前に金沢市へ寄付していた粟崎の邸宅(120坪)と宅地(2,000坪)を、遺志にそって市制60周年記念事業の一つとして、憩の家と小公園にすることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 2月5日 社会・文化 安宅弥吉死去。77歳。金石町出身、貴族院議員、大阪商工会議所会頭として関西財界に重きをなし、県の育英事業にも寄与した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 2月10日 社会・文化 乾亮死去。81歳。弁護士、明治末期から大正年間、政友会の県、市会議員として活躍した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 2月11日 社会・文化 県立高校は24年度から総合学科制、男女共学、学区制を採用するが、金沢市内の県立学校は、全県1学区の工芸高校を除き4校ときまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 3月7日 社会・文化 午後11時40分ごろ野田町金沢高等師範学校(旧兵舎)の地鉱教官室から出火、同室と地鉱教室、工作室等3むね約200坪と学術標本類等を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 3月12日 社会・文化 金沢市内の県立高校4校の新校名が次の通り決定した(県教育委員会の指示により各校の教官が生徒の意見もきいてきめたもの)。金沢一高は金沢泉丘高校、金沢二高は金沢二水高校、金沢三高は金沢桜丘高校、金沢商業高校は金沢菫台高校。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 3月14日 社会・文化 午前4時50分ごろ主馬町広丁の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 3月16日 社会・文化 大学設置審議会で金沢医大、同付属薬専、金沢工専、四高、金沢高師、石川師範、石川青年師範を包含して金沢大学設立が正式に決定した。設置学部は法文、教育、医、理、薬、工の6学部。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 3月31日 社会・文化 午前9時55分ごろ河北郡森本村字南森本の石川製作所社宅(翠香園寮)から出火、6戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 4月1日 社会・文化 石川師範学校男子部付属小学校と女子部付属小学校は、1校に統合されて女子部校舎へ移り、男子部付属小学校校舎は金沢市が一時借用して、新たに野町小学校分校(12学級編成)として開校した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 4月1日 社会・文化 市立野田中学校が元騎兵連隊兵舎を校舎に開校した。通学区域は十一屋町、新竪町、菊川町、富樫の4小学校校下。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 4月15日 社会・文化 午後4時10分ごろ七ツ屋町の山一化学工業会社蒸りゅう工場から出火、同工場、事務所、倉庫3むねを全焼、工場2むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 4月19日 社会・文化 鴨居悠死去。59歳。北国毎日新聞前主筆、石川県公安委員、県地方労働委員会初代会長等をつとめ、戦前戦後を通じ進歩的な評論の筆をふるった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月1日 社会・文化 第20回統一メーデー。金沢では約1万人が参加して兼六園長谷川邸跡で大会の後、市中行進をした。(本年は行進にトラックの使用が禁止された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月3日 社会・文化 金沢市は憲法記念日の本日、初めての成人式を市公会堂で挙行した。出席者約750人、市長から記念品を贈った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月9日 社会・文化 文部省は、金沢大学を含む68国立新制大学の入学者選抜要領を発表した。金沢大学の入学試験は6月15日から。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月16日 社会・文化 大学法案に反対して、県学連(加盟学生は金沢医大、四高、工専、高師)の教育防衛大会が四高講堂で開かれた。また四高では、17日からクラスごとの波状ストをおこなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月23日 社会・文化 午後5時40分ごろ大藪小路の民家から出火、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月24日 社会・文化 (夜、小松市安宅海岸に密航朝鮮人110余人が上陸、大半は逮捕された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月25日 社会・文化 市は、さきに芸術院賞を受賞した金沢出身の歌人尾山篤二郎が来沢したので、受賞を記念して陶額(北出塔次郎作)を贈った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 5月30日 社会・文化 午後6時20分ごろ桜畠10番丁のふろ屋から出火、同浴場を全焼、向いの寺と隣家の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月2日 社会・文化 金沢大学は5月31日、国立学校設置法の公布で正式に発足し、学長事務取扱(学長候補戸田正三の資格審査未了のため)に第四高等学校長鳥山喜一が発令された。しかし鳥山は、地元準備委員会内の対立から直ちに辞任し、代って文部次官伊藤日出登が暫定的に学長事務取扱となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月4日 社会・文化 午後0時10分ごろ粟崎町オリオン油化工業会社第2工場から出火、同工場と隣家の納屋を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 6月11日 社会・文化 県農地部長古郡節夫が、農地委員会石川県協議会予算流用事件で逮捕された。(8月4日いったん起訴猶予になったが、11月1日金沢検察審査委員の勧告にもとづき業務上横領容疑で起訴され、昭和26年6月12日最高裁判所で懲役10月執行猶予3年の判決確定) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月1日 社会・文化 シベリアからの復員者を乗せた第1船高砂丸で帰国した石川県人27人が帰県した。各駅とも赤旗と労働歌の歓迎がうずまいた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月4日 社会・文化 国鉄は、定員法に基づく第1次解雇者3万人を全国一斉に発表。金沢管理部では291人の解雇者を発表、辞令受領拒否者が続出している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月8日 社会・文化 金沢市体育協会が設立された。委員長阿部壮次郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月16日 社会・文化 国鉄金沢管理部は13日に第2次解雇者484人、本日第3次解雇者185人を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月16日 社会・文化 金沢大学法文学部長兼第四高等学校長鳥山喜一が富山大学学長に転出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月20日 社会・文化 午後0時半ごろ上胡桃町の北陸鉄道車両車庫付近から出火、本社と変電所を除く車庫5むね、資材倉庫3むね、車両工場1むねのほか車庫内の電車15台を焼き、さらに隣接の小将町中学校に延焼して雨天体操場、工作室、工事中の4教室を残した全校舎約800坪を全焼、賢坂辻通りの山越徳次商店工場をも半焼して1時45分ごろ鎮火した。小将町中学校の損害は約3,350万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月21日 社会・文化 国鉄金沢管理部は今次整理の最終分として、解雇者28人を発表した。これで同管理部の被整理者は解雇1,015人、希望退職257人計1,272人。(全国鉄の整理も完了、被整理者9万4,312人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月25日 社会・文化 金沢大学の入学式(816人)が、学長事務取扱伊藤文部次官を迎えて大学講堂(四高講堂)でおこなわれた。各学部長は(工学部長)横山盛彰、(理学部長)庄司彦六、(教育学部長)清水暁昇、(医学部長)石坂伸吉、(薬学部長)鵜飼貞二、(法文学部長=28日決定)伊藤武雄、(一般教育部主事)小原度正。教授陣の定員は教授198、助教授143、講師58で職員1,229等を加えると旧7帝大に次ぐ機構、敷地は23万9,000坪、大学本部は旧師団司令部。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 7月28日 社会・文化 金沢市記念文化財を選奨指定する金沢市文化財保存選奨条例ができた。(市文化財保存選奨委員会は9月25日発足) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 8月12日 社会・文化 郵政、電通両省の行政整理実施。希望退職を除く第1次解雇者は金沢郵政局273人、北陸電気通信局250人、金沢貯金局4人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 8月20日 社会・文化 第1回石川県体育大会が県、金沢市、県体協、県教委の主催で20、21両日、金沢市を中心に10余の会場で挙行された。参加人員4,465人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 8月21日 社会・文化 元禄時代の加賀俳人小杉一笑(茶屋新七)をしのぶ一笑塚が俳人たちの手で蛤坂成学寺に建立、除幕式がおこなわれた。一笑は芭蕉門下、芭蕉が金沢に着いて一笑の死を知り「塚も動けわが泣く声は秋の風」の句をたむけたので有名。(一笑の菩提寺は野町願念寺) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 8月30日 社会・文化 東本願寺が金沢城内に、蓮如上人450回忌記念事業として建設を計画中の文化会館は、財政事情から設置を中止に決定、藤津宗務総長が県庁を訪問してその旨を申入れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 9月1日 社会・文化 金沢大学は本日から授業を開始した。一般教養部の教室は、改装した旧歩兵第7連隊第1大隊兵舎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 9月1日 社会・文化 キティ台風で県南地方に豪雨。犀川の示野大橋、二ツ寺橋が流失した。(県下の橋流失21、被害総額4億円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 9月10日 社会・文化 人は右、車は左の対面交通(右側通行)が11月1日から全国一斉に実施されるので、石川県では本日から訓練期間にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 9月13日 社会・文化 国鉄労組金沢支部に民同系の新執行部が生れ、従来の左派系執行部と激しく対立している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 9月21日 社会・文化 金沢大学学長に戸田正三(京都大学名誉教授、医学博士)が正式に発令され、即日東京から着任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 9月29日 社会・文化 午後11時半ごろ金石御舟町の民家納屋から出火、13戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 10月20日 社会・文化 昭和20年11月できた彦三と昭和通りの両露店市場(各160軒余)が、市からの立ちのき期限の到来で撤去され、4年ぶりで彦三12間道路と昭和通り10間半道路がきれいに立ちかえった。彦三露店は、尾山神社前と横安江町共栄館横空地の新築商店街へ移転する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 10月26日 社会・文化 第四高等学校最後の第62回開校記念祭が開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 10月 社会・文化 石引町の医師松原太郎が私宅を増改築し、松原愛育院を開設した。精神薄弱児特殊教育の実践指導を目的とするもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月1日 社会・文化 右側通行(対面交通)が全国一斉に実施された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月3日 社会・文化 第3回(昭和24年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。〔文化功労章〕蔵尚太郎(俳文学)金沢交響楽団〔科学賞〕久留勝(金大医学部教授)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月7日 社会・文化 金沢大学の開学記念式典が理学部講堂で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月8日 社会・文化 百間堀の小公園「白鳥路フラワー・ガーデン」が完成した。広さ650坪、工費60万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月10日 社会・文化 焼失した県立図書館が復旧、開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月15日 社会・文化 前田朗子兼六園成巽閣で死去。80歳。旧佐賀藩主鍋島直大の長女、明治15年、15歳で旧加賀藩主前田利嗣にとつぎ30歳で未亡人となり、大正12年一人娘の漾子にも先立たれた。前田利建の祖母。昭和19年東京から金沢に疎開し、そのまま侍女とともに住んでいた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月26日 社会・文化 宮地のおっさんこと宮地太次郎上川除町の自宅で死去。74歳。大正時代から、広坂通四高正門前で文具店を経営、熱烈な四高ファンとして四高生から親しまれ、金沢の名物男の一人であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 11月27日 社会・文化 午後7時半ごろ高柳町東金沢駅前の協和カーボン会社金沢工場の新電気炉工場から出火、同工場483坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 12月3日 社会・文化 北国銀行は従業員組合の前執行部14人のうち、前執行委員長ら10人を行務妨害、信用失墜の理由で本日懲戒解雇した。被解雇者は不当解雇として13日県地労委へ提訴した。県全労会議が中心となり、共同闘争委員会を設置し、不当解雇撤回要求闘争をはじめた。一方、北国銀行従業員組合は12日、全国銀行従業員組合連盟(全銀連)を脱退した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 12月12日 社会・文化 午後7時ごろ、白菊町の東木工場2階から出火、同工場約40坪を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十四年(1949) 12月29日 社会・文化 (小松製作所粟津工場9むね2,438坪が全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 1月5日 政治・経済 知事のブレーンとして、県政に民間各界専門家を参加させるための石川県企画委員に、本陣甚一、宮川精一、香村一が委嘱された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 1月15日 政治・経済 (穴水町長日吉宗能の解職賛否住民投票がおこなわれ、石川県最初の首長リコールが成立した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 2月20日 政治・経済 県土木部常任委員会は兼六園テニスコートの一角に、鉄骨かまぼこ型664坪のスポーツ・センター(屋内体育館)を建設し、近く開催の宗教平和博覧会本館に貸与することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月4日 政治・経済 社会党石川県連顧問直山与二が社会党を離党した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月26日 政治・経済 金沢市内電話の6,000番以上と、私設交換台のある約50の官庁、会社の電話がダイヤルの自動式になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月1日 政治・経済 金沢市は初めての人権擁護委員に、吉井政治、嵯峨保二、西田与作、伊藤武雄、北山八郎、大橋タカの6人が法務総裁から委嘱された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月8日 政治・経済 初代の市消防長に洞庭信夫が任命された。(発足以来、井村市長が兼任していた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月12日 政治・経済 石川県広報審議会が発足した。各官庁の広報宣伝のあり方を検討し、助言もしくは勧告するもので、事務所は県商工会議所内、会長杉本藤太郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月15日 政治・経済 (県議会議長山本利行が辞任、後任議長に鳥畠徳次郎が選出された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月20日 政治・経済 金沢市消防本部が、市役所内から市消防署に移った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月27日 政治・経済 市議会議長鳥畠徳次郎が県議会議長就任のため辞任、後任市議会議長に副議長徳田与吉郎(民主)、副議長に新谷喜一(民主)が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 5月3日 政治・経済 金沢財務部が北陸財務局になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月6日 政治・経済 参議院議員選挙が5日おこなわれ、石川県地方区の結果は次の通り。投票率72.9%。〔当選〕132,024票 中川幸平(自由前)次点130,616票 竹山重勝(民主新)86,890票 山崎広(社会新)15,606票 永井泰蔵(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月14日 政治・経済 国鉄は地方組織を改正、8月1日から金沢鉄道管理局を設置し、金沢に地方営業支配人を設置することに決定した。(全国の鉄道管理局数は27局となる) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月23日 政治・経済 東蚊爪町元金沢飛行場跡の国立湖南学院は、増築が完成し、瀬戸少年院分院湖南学院として開庁式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 7月3日 政治・経済 住宅金融公庫が発足、金沢では北国銀行本店が貸付申込み代理機関になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 8月1日 政治・経済 金沢鉄道管理局の開庁式がおこなわれた。局長石塚久司、同局の管内は従来の金沢、敦賀両管理部管下で、147駅はじめ現場機関を合せて職員数は約1万3,070人。金沢駅前には金沢市、県、商工会議所寄贈の祝賀大アーチが建てられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 8月1日 政治・経済 犀川大橋と桜橋間の右岸に幅6メートル延長750メートルの緑地帯兼遊歩道路の建設が着工された。工事は県が940万円で、付近住民の自家菜園となっている川の中洲を全部掘り取って右岸に土盛りし、市が110万円かけて整地、緑地化するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 8月4日 政治・経済 金沢駅改築問題は鉄道当局と地元の県、市、財界との調整が成り、鉄筋4階建の金沢鉄道総合ビルディング(仮称)を建設することにまとまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 8月7日 政治・経済 金沢駅改築準備委員会が県、市、民間、鉄道側の代表を委員として発足した。委員長井村市長、事務局は市役所内。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 9月1日 政治・経済 市は事業部を土木部とガス水道局に分離し、土木部管理課を新設、出納室を廃止、また徴税課を新設した。ガス水道局長は吉田助役の兼務、これで市役所の部課は5部1局19課になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 9月7日 政治・経済 市議会はジェーン台風による災害対策のため全員協議会を開き、復興資材の暴利取締り等について井村市長の善処を要請した。また社会党市議団から要求のあった臨時市議会は、招集の必要なしということに一致した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 9月27日 政治・経済 (ジェーン台風被害対策の県議会が開かれ、復旧費2億620万7,275円を議決した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 10月1日 政治・経済 第7回国勢調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は56,990世帯、人口252,017人(男120,525人、女131,492人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 10月1日 政治・経済 商工会議所法により、石川県商工会議所と金沢商工会議所が一本化のためそれぞれ解散して、新しい金沢商工会議所が発足した。会頭西川外吉、副会頭中村栄俊、吉田次作、麻生徳次。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 10月13日 政治・経済 政府は、公職資格訴願審査委員会の審査結果にもとづき、1万90人の追放を解除、石川県では江川為信、前川吉栄ら約200人が解除された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 10月21日 政治・経済 消防組織法第10条に基づく金沢市の「消防本部の設置、名称および組織に関する規則」が施行された。金沢市消防本部は従来通りで、本部に庶務課と消防課が設けられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 10月25日 政治・経済 市議会は電気事業再編成に関する決議を全員一致で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月1日 政治・経済 北鉄の金沢市内電車賃が片道6円(従来5円)に値上げされた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月9日 政治・経済 金沢駅改築の26年度から着工が、国鉄本社で正式に決定した。工事費は26年度国鉄側7,700万円、地元側5,800万円、27年度国鉄側4,800万円計1億8,300万円である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月10日 政治・経済 石川県教育委員選挙(半数改選)が10日おこなわれ、開票結果は次の通り。投票率43.9%(金沢市は35.7%)。〔当選〕76,808票 宮中庄太郎(無前)74,955票 染村亀鶴(無新)42,680票 縄平祐(無前)〔次点以下〕28,281票 水野左近(無新)8,856票 福田常吉(共新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月20日 政治・経済 県教育委員長に宮本順二が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 12月4日 政治・経済 警察予備隊が金沢に常駐することになり、駐留庁舎として野田町の金沢高師校舎(旧兵舎)が決定した。市は急施臨時市議会を開き、高師(文科生186人、付属中高生徒401人)を野田中学校校舎の半分に移し、野田中学校の1、2年生の一部16学級を小将町、高岡町、兼六、紫錦台4中学校に分散移転させることをきめ、改装費移転費等1,180万円の決議を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 12月15日 政治・経済 金沢に常駐する警察予備軍の第一陣が金沢に到着、旧高師校舎の庁舎にはいった。市は駅前と庁舎前に歓迎アーチをたてた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 12月16日 政治・経済 天狗橋事件責任追及のための、臨時県議会が、自由党県議団の請求で開会された。柴野知事不信任決議は22対18で否決。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 1月1日 社会・文化 北国毎日新聞が北国新聞と改題した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 1月21日 社会・文化 上鷹匠町梅光会で8日から21日までに赤痢患者21人が発生、国立金沢病院と桜木病院に分割収容された。現在同会には戦災孤児等120人が収容されている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 1月26日 社会・文化 金沢市内中、小学校の流感は、欠席児童が6,000人を越えたので市文教部は全学校に対し、被病生徒は発見次第帰宅させるよう指示した。(十一屋町小学校はまん延防止のため25日から29日まで休校中) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 2月16日 社会・文化 午後2時20分ごろ高岡町上藪ノ内の民家から出火、2戸の2階を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 2月27日 社会・文化 国府犀東(種徳)死去。79歳。金沢市池田町出身。役人、新聞雑誌界を経て宮内省御用掛となり、長年、勅語や典籍故実にちなむむずかしい皇室関係の文章の執筆に当った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月7日 社会・文化 県は25年度から「石川県史現代篇」の編さんをはじめることになった。石川県史は大正10年4月から昭和10年までに9巻が刊行されたが、今回編さんの現代篇は時点を大正初期から現在までに置くもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月8日 社会・文化 金沢ロータリークラブの発会式がおこなわれた。会長西川外吉 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月10日 社会・文化 進駐軍に接収されていた湯涌温泉白雲楼(日本観光株式会社所有)が2月一杯で接収を解除され、本日から営業を再開した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月12日 社会・文化 正午ごろ粟崎町の北国醤油有限会社工場から出火、工場など5むねを全焼、2むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月25日 社会・文化 第四高等学校最後の第62回卒業式が挙行され、同校63年の歴史を閉じた。最後の卒業生は367人、最後の校長は伊藤武雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月27日 社会・文化 午後3時半ごろ若宮町三善製紙会社二宮工場から出火、工場2むねを全焼した。この火事で出動した石川郡野々市消防団消防車が上有松町で転覆、10人が重軽傷を負った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月28日 社会・文化 旧陸軍用地として大蔵省が管理していた金沢城跡が、金沢大学に移管された。大蔵省は、初めは旧馬場および天守閣跡など約3,000坪を民間等に払下げ国庫収入とする方針であったが、約9万坪の敷地と建物全部を金沢大学に移管したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 3月31日 社会・文化 北国銀行従業員組合の前執行委員長ら10人の解雇事件は、県地労委の調停で、「銀行側は懲戒解雇を取消し、当分の間休職とすること、被解雇者側は一切の提訴を取下げること」で和解が成立した。昨年12月3日解雇発表以来、全銀連や経営者団体を含む労使の声明合戦が行なわれ、県地労委、地方裁判所の和解、示談あっせんも不調となって、この事件は地方経済界に深刻な波紋を投げていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月1日 社会・文化 金沢女子専門学園が金沢女子短期大学に昇格、開校した。学科は文学科と家政学科。学長兼園長上田忠雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月1日 社会・文化 金沢市下本多町6番丁に金沢市産院が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月3日 社会・文化 婦人子供博覧会(石川新聞社主催)が、金沢城跡本丸を会場に開会した。会期5月31日まで。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月5日 社会・文化 (終戦後ビルマから姿を消した辻政信元大佐が4日夕刻、江沼郡東谷奥村字今立の生家に現われ、一泊して立去った。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月5日 社会・文化 市立金沢美術工芸専門学校が市立金沢美術工芸短期大学になった。学長兼校長森田亀之助。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月5日 社会・文化 私立北陸学院に、北陸学院保育短期大学が設置された。学長アイリン・ライザー。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月8日 社会・文化 宗教平和博覧会(北国新聞社、県宗教連盟等主催)が、兼六園前の新設スポーツ・センターを主会場に13会場で開会された。会期5月22日まで。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月12日 社会・文化 午後3時10分ごろ山ノ上町4丁目の商店から出火、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月27日 社会・文化 初めての県営鉄筋アパート1むねが下本多町(元一中跡)に完成した。4階建6畳2室に台所、便所づきで家賃は月1,500円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 4月 社会・文化 戦後アメリカから日本に移入されたモルモン教(本拠アメリカ・ユタ州)の末日聖徒イエス・キリスト教会が、石川県で伝道をはじめた。(のち金沢市上胡桃町に教会開設) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 5月1日 社会・文化 第21回メーデー金沢地区大会は、約1万5,000人が参加して兼六園長谷川邸跡で開催、市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 5月22日 社会・文化 県土木部汚職事件で、前河港課長ら県土木部員16人が15日、22日の2回にわけて起訴された。土木部長山岡茂は不起訴となり、15日付で退職した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月1日 社会・文化 金沢市公安委員会は、石浦町北国新聞社前から犀川大橋までの石浦町、片町の道路約850メートルを本日から駐車、追越禁止、スピード制限区域に指定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月7日 社会・文化 午前0時半ごろ金石横町の大潮湯劇場から出火、同劇場、浴場など5むね(約400坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月9日 社会・文化 国宝石川門が大蔵省から金沢大学に移管されたので、本日から金沢大学の正門として開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月11日 社会・文化 午後8時40分ごろ南町日興証券金沢支店宿直室から出火、同室(8畳)を全焼した。香林坊、武蔵ヶ辻間の電車も一時不通となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月14日 社会・文化 並木町の浅野川川べりに、昭和22年春から立ち並んでいたバラック建の商店街50軒が、道路交通法により5月末までに撤去され、古寺町大和裏新天地商店街に移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月15日 社会・文化 (県立津幡高校の西教場16教室、講堂が全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月20日 社会・文化 法務府は金沢市愛宕4番丁の卯辰一家に暴力団体として解散を指令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月23日 社会・文化 午後3時半ごろ長土塀6番丁北崎機業場から出火、乾燥室、撚糸工場2むね等約70坪を全半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月27日 社会・文化 マッカーサー書簡によって、日本共産党機関紙アカハタが発行停止を命ぜられた。県下各警察は27日付アカハタ計1,470部を押収した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 6月29日 社会・文化 アカハタの下部機関紙に対する30日間発行停止命令により、日共石川県委員会内の石川民報(編集責任者松本一朗)も発行停止を命ぜられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 7月6日 社会・文化 金沢市内に赤痢が流行し、5日現在の入院患者は83人となり、市内各病院の隔離病床は満員となったので、市伝染病対策本部は、市立伝染病院の結核病床30床の転用や病室の収容人員増加、市内の小児科病院に幼児赤痢病床40床の指定等を実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 7月17日 社会・文化 法務府特審局と石川県はマッカーサー元帥書簡に基づき、金沢市内の共産党細胞、北陸配電石川支店の「トランス」と、金沢大学憬慎寮の「解放」を発行停止処分にした。(石川県下全部で10紙) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 7月18日 社会・文化 金沢市内の赤痢はますますひろがり、7月にはいって76人発生(1月以降240人)、市は本日から河川での洗たくを厳禁し、違反者は伝染病予防法により罰金刑に処すると発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 8月21日 社会・文化 加賀宝生、持明院妙蓮が金沢市記念文化財に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 8月22日 社会・文化 午前1時半ごろ堀川角場の桜谷木工製作所工場から出火、同工場11むね(約740坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 8月26日 社会・文化 マ元師指示による電産組合の共産党および同調者に対するレッド・パージ(赤追放)が実施された。北陸配電石川支店の被追放者は14人で、県下では最初のレッド・パージである。(電産組合の被追放者は全国で2,137人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 8月29日 社会・文化 文化財保護法により旧国宝の石川門、成巽閣、尾山神社神門、尾崎神社等が重要文化財に新しく指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 9月1日 社会・文化 労働協約改訂で紛争中の北陸鉄道労組は24時間ストにはいったが、正午妥結、ストを解除した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 9月3日 社会・文化 ジェーン台風が石川県を縦断。金沢市では午後6時37分には1分間の平均秒速44メートルに達し、金沢測候所開設以来の風速の記録をつくった。市内は家屋の全半壊60戸を越え、市中いたるところ板べい、樹木が倒れた。市施設の被害約1,200万円。(県下被害は死者行方不明8人、負傷54人、全半壊1,200余戸、破損8,467戸) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 9月20日 社会・文化 市が下本多町に建設した金沢婦人会館が完成、開館式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 10月24日 社会・文化 午前9時20分ごろ田中町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 10月27日 社会・文化 馬場4番丁の金沢女子商業学校が、実践商業高校(学校法人稲置学園経営)と改組改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月3日 社会・文化 第4回(昭和25年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。島田逸山(写真)都賀田勇馬(彫刻)小松芳光(蒔絵)江戸さい子(短歌)大沢衞(金大法文学部教授)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月3日 社会・文化 金沢出身の植物細胞学者藤井健次郎理学博士が文化勲章を受章した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月7日 社会・文化 金沢美術工芸短期大学開学式および金沢美術工芸専門学校開校4周年記念式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月9日 社会・文化 香林坊楽天地にできた「いなり橋」の渡橋式がおこなわれ、香林坊まつりが香林坊振興会主催で催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月11日 社会・文化 (手取川天狗橋が修理工事中に墜落して死者2人、重軽傷8人を出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月13日 社会・文化 午前9時半ごろ手木町の県立金沢補導所作業場倉庫から出火、同倉庫(建坪120坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月17日 社会・文化 天狗橋墜落事件は、ジェーン台風に便乗して国庫補助をとるための作為の破壊と判明、県土木出張所技師ら6人が逮捕された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 11月19日 社会・文化 天狗橋事件で県道路課長、金沢土木出張所長が逮捕された。事件は全国に衝動を与えている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 12月1日 社会・文化 8月からはじまった石川県下の赤追放は、官庁、民間12事業所から被追放者69人で一応終了した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 12月9日 社会・文化 金沢地方検察庁は天狗橋事件で、県道路課長ら7人を往来妨害致死傷害罪容疑で起訴した。県は起訴された道路課長、土木出張所長ら3人を諭旨退職にした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 12月13日 社会・文化 午後2時半ごろ石川郡犀川村熊走部落から出火、同部落31戸中住宅21戸、土蔵14むね、納屋16むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 12月17日 社会・文化 午後1時すぎ三社町の豆腐屋から出火、民家1戸と豆腐製造場を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 12月27日 社会・文化 午後0時50分ごろ大野町4丁目大野日吉神社裏海岸に漂着した機雷が爆発し、町内家屋のガラス数百枚がこわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十五年(1950) 12月31日 社会・文化 午前2時10分ごろ此花町片岸木工所作業場から出火、同木工所1むねを全焼、隣接の民家1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 1月5日 政治・経済 日本銀行金沢支店長小寺勝昌は本店国債局長に転じ、後任に前橋支店長高畠佳次が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 1月30日 政治・経済 金沢市警は大衆運動警備に出動する警官にヘルメットを着用させることになり第1回分170個を購入した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 2月15日 政治・経済 昭和6年ごろ一度計画されたが、戦争のため立ち消えになっていた金沢港の建設問題が最近になって再燃、金沢市と県の間で改めて、大野港と大野川を利用する総工費15億円(半額国費、半額県市負担)5ヵ年継続事業の建設計画を作成し、柴野知事が上京して運輸省と折衝を開始した。なお明26年度政府予算に大野港の船着場施設拡張工事として防波堤築造の新経費1,500万円のうち、半額750万円の国庫補助が計上されたことが判明、県市ではこれを金沢港建設の前提として歓迎している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 2月28日 政治・経済 金沢市警察本部長森岡秀雄は警察予備隊幹部に転出のため辞任、後任本部長には本部次長堀岡政義が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 3月19日 政治・経済 任期満了の金沢市公安委員会吉田次作の後任に、香村一が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 4月24日 政治・経済 市長選挙が23日おこなわれ、開票の結果井村重雄が再選された。投票率90.6%当選100,469票 井村重雄(民主前)次点16,516票 金田一次(無所属新)6,950票 北川重吉(無所属新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 4月24日 政治・経済 市議会議員選挙が23日おこなわれ、民主36人、社会5人、自由1、無所属2人が当選した。投票率90.6%。(定員44人、立候補76人)〔当選〕3,799票 田中富士夫(民新)3,080票 新谷喜一(民前)3,020票 北元喜雄(無新)2,985票 寺井初太郎(民前)2,947票 池田久男(民前)2,937票 岩本義男(民新)2,896票 赤丸長松(民新)2,879票 増江幸二(社前)2,549票 徳田与吉郎(民前)2,524票 須田太吉(民新)2,495票 羽間政信(民前)2,428票 喜多美由喜(民新)2,375票 川島重男(無前)2,310票 木谷助男(民前)2,203票 水野宗次郎(民前)2,194票 小間井与一(民新)2,113票 林茂(民新)2,061票 高倉政雄(社前)2,047票 前田喜太郎(社前)2,048票 高倉与三松(民前)2,034票 笹原清松(民前)2,018票 武村慶一郎(民前)1,963票 石見谷弘三(民元)1,985票 杉山義直(民新)1,915票 中宮辰(民前)1,833票 赤谷徳次(民前)1,886票 西江政常(民新)1,880票 中島勝太郎(民新)1,876票 幸田金次(民新)1,864票 越村堅一(民新)1,863票 中川奛(民前)1,856票 松島吉治(民新)1,849票 上田孝三(社前)1,823票 生山泰(民新)1,813票 酒尾孝之(民前)1,812票 新保仁次郎(民新)1,741票 中山国光(民新)1,737票 吉田栄作(民新)1,717票 尾山徳二(民前)1,680票 竹中角太郎(民新)1,646票 本田作次(民新)1,562票 中川成次(社新)1,557票 加賀谷清(民前)1,555票 小倉勝二(自前)〔次点以下〕駒谷青雲、吉川俊男、中川孝則、南安次、岡田寛、山崎秀一、梶山秀男、玉作小一郎、大森三八郎、甚野龍次、原俊道、谷口一郎、市村仁三郎、春田義正、水橋孝、藤田正作、宮谷甚太、組村五作、西村与儀、雨野外次郎、浅野良雄、南部吉雄、中川哲夫、前田正二、安達鈴、畑藤吉、坂下宗秀、今井友範、舛田熊五郎、北龍霊瑞、大西純一郎、加藤小一 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 5月1日 政治・経済 "知事選挙が30日おこなわれ、開票の結果、柴野和喜夫が再選された。投票率87.8%。 当選261,486票 柴野和喜夫(民主前)次点163,092票 鈴木雄市(自由新)21,447票 五坪茂雄(無所属新)10,759票 梅田兵一(共産新)" 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 5月1日 政治・経済 県議会議員選挙が30日おこなわれ、金沢市の開票結果は次の通り(金沢市の定員12人、立候補20人)。投票率87.8%。〔当選〕9,552票 鳥畠徳次郎(民前)8,929票 駒井しづ子(民新)8,450票 岡島友作(民前)8,312票 新田甚作(民前)7,598票 神保泰一(民新)7,585票 清谷博文(民元)7,197票 吉田長久(民新)7,185票 宮下太一(社前)7,037票 山本利行(無前)6,965票 宮西隆(社新)6,572票 越島久米三(社前)6,311票 上久保守(民前)。県議会の政党別当選者は民主25人、自由12人、社会4人、無所属4人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 5月1日 政治・経済 電力再編成に関する決定指令により、北陸配電が解散し、北陸電力株式会社が発足した。社長山田昌作。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 5月10日 政治・経済 市議会は正副議長選挙をおこない、議長に徳田与吉郎(民)副議長に武村慶一郎(民)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 5月10日 政治・経済 市助役吉田圭蔵、収入役小森東朔の再任が市議会で承認された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 5月11日 政治・経済 井村市長は、イギリスの行政視察のため金沢を出発した。(8月19日帰沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 5月21日 政治・経済 (県議会は正副議長選挙をおこない、議長に太田孝三、副議長に柴野良作=いずれも民主=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月13日 政治・経済 市議会は電気料金値上げ反対決議案を、全員一致で可決した。(県議会も15日可決) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月20日 政治・経済 追放解除の権限が首相に委譲され、第1次解除者6万9,000人が発表された。石川県の被解除者は1,111人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月24日 政治・経済 金沢市内電話②局の電話が自動式に切りかわり、これで市内9,197台の全部が自動式になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月1日 政治・経済 市は民生経済部を民生部と経済部に分離し、新たに母子課を設けた。民生部長に上田茂、経済部長心得に坂口盛男を任命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月4日 政治・経済 (吉田内閣の改造で益谷秀次が国務大臣として入閣した。3回目の大臣就任である。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月8日 政治・経済 金沢工業港建設期成同盟会の創立総会が、県正庁で県選出国会議員、県市財界関係者ら約100人が参集して開かれた。会長柴野知事、副会長井村市長、西川金沢商工会議所会頭、名誉会長益谷国務相のほか顧問17人、評議員209人、幹事6人の役員をきめた。県市の計画は第1期工事が工費2億6,000万円の5ヵ年計画で400トン級の船を収容、第2期工事は1,000トン級の船を目標に、工費6億4,000万円を見込んでいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月16日 政治・経済 (鳳至郡穴水町町議会が、財政上維持できないとの理由で同町自治警察の廃止を、県下のトップを切って議決した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月20日 政治・経済 市が総工費2,500万円で、上笠舞町と上鶴間町に建設中の初の市営鉄筋アパート2むねが近く完成するので、市は入居者46世帯の申込み受付けを開始した。1戸3室12坪、家賃月額1,200円。(申込み者994人のうち、入居適格者846人から抽選で入居者を決定した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月26日 政治・経済 金沢青年商工会議所が設立された(のち青年会議所と改称)。理事長寺尾正則。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 8月28日 政治・経済 金沢市民金庫(公益質屋)は資金枯渇のため、21日から本日まで開設以来初めての貸付中止を行なった。金詰りを反映して、6月から利用者が急増し貸付超過から運営不能に陥ったもの。現在の貸出しは4,458口、323万6,000円。貸出し制限額は、1口1,000円1世帯5,000円で月利3分となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 9月6日 政治・経済 松田正喜の退職以来空席中の金沢市総務部長に、石川地方経済調査庁第2部長三村武男が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 9月11日 政治・経済 サンフランシスコにおける講和条約調印完了に際して、徳田市議会議長が本会議で市議会の決意表明をおこない、「市民と共に国家民族百年の運命を切りひらくため、粉骨努力を誓う」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 9月14日 政治・経済 初めての金沢市公平委員に広瀬喜一、加藤二郎、井口清次が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月1日 政治・経済 金沢、小松、七尾3市の市警を除く県下12の町自治体警察が廃止され、国家地方警察に吸収された。これで県下の国警は8地区署が11地区署と7警部派出所になった。(12の自治体警察はいずれも町議会で廃止を議決し、住民投票で廃止を決定したもの) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月1日 政治・経済 市内割出町の96戸が、同町から分離して三浦町になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月10日 政治・経済 金沢市常設家畜市場が西金沢駅前に完成、落成式がおこなわれた。総工費207万円(市補助30万円)建坪167坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月15日 政治・経済 金石灯台を現在の不動灯式から、せん光式(点滅式)に改造し、灯台の上部に気象通報用の標識塔を新設することになったと、第9管区海上保安部から金沢市に連絡があった。(11月完工) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月16日 政治・経済 県議会議事堂起工式が県庁内旧議事堂跡で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月20日 政治・経済 北鉄市内電車賃が6円から8円に値上げされた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月28日 政治・経済 金沢をはじめ全国11都市の議会代表(金沢は徳田議長)が東京に集り、電気事業復元期成協議会を結成し、電気事業の市営復元運動を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 11月29日 政治・経済 新金沢駅建設の第1期工事が開始された。基礎工事を除き工事請負は清水組。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 12月24日 政治・経済 石川県で初めての民間放送・北陸文化放送株式会社の創立総会が開かれた。資本金1億円(払込み3,000万円)、取締役会長嵯峨保二、社長長郷衛二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 12月28日 政治・経済 (国務大臣益谷秀次は内閣改造で退任、自由党総務会長になった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 2月11日 社会・文化 桜井兵五郎死去。70歳。鳳至郡柳田村出身、代議士当選8回、戦時中国務大臣をつとめた。湯涌に康楽寺を建立、白雲楼ホテルの創設者でもあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 2月14日 社会・文化 午前0時15分ごろ石川郡野々市町東和織物会社工場から出火、工場1むね(約30坪)を全焼、2むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 2月22日 社会・文化 午前8時半ごろ長田本町の農家から出火、2戸を全焼、2戸を半焼した。また午前9時40分ごろ石川郡額村字額新保の農家から出火、24戸を全焼した。いずれもフェーン現象下強風中の出火であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 3月4日 社会・文化 午後6時15分ごろ上野町の民家から出火、1戸を全焼、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 3月17日 社会・文化 県立石川師範学校が閉校式を挙行した。創立以来77年間に約1万2,000人の教育者を送り出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 3月20日 社会・文化 石川郡野々市町の大北工業会社電熱工場から出火、同工場1むね(約180坪)を全焼、1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 4月 社会・文化 昭和2年金沢医大教授泉仙助が金沢地方に流行した小児熱病を研究し、報告した「泉熱」が日本伝染病学会で公認された。(学校伝染病第2類に加えられる) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーが約50労働組合、約1万5,000人が参加して挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月1日 社会・文化 又五郎町に完成した県立金沢母子寮と内職センターの開所式がおこなわれた。母子寮は木造2階建のアパート、1世帯2畳4畳半の2室で24世帯を収容、工費605万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月9日 社会・文化 竪町山川庄太郎所蔵の仁清作色絵雉香炉が国宝に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月15日 社会・文化 午後4時45分ごろ殿町の金沢郵政局長官舎車庫から出火、車庫と隣家を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月25日 社会・文化 午後8時ごろ中野町の養鶏業者の鶏舎から出火、1戸を全焼、4戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月28日 社会・文化 国策パルプ会社常務南喜一が、生地の上有松町に120万円で建築、寄贈した上有松町会館(木造2階建)の開館式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月30日 社会・文化 石川県下の県職員約3,000人を一丸とする石川県職員労働組合の結成大会がおこなわれた。支部は金沢市と8郡に各1。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 6月30日 社会・文化 金沢駅前ただ1台の営業人力車=車夫は堀川角場越村清次郎(60歳)=が本日限り廃業した。駅前に人力車が開業したのは、金沢駅開設の明治31年4月であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月22日 社会・文化 北陸鉄道労組が賃上げ要求で、第1波全線24時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月26日 社会・文化 北陸鉄道労組が第2波24時間ストを実施した。金沢市議会は徳田議長の談話を発表し、労使に早急解決を強く要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月26日 社会・文化 午前9時50分ごろ鳴和町の北陸電波監理局用務員室から出火、木造平屋建本館約200坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月27日 社会・文化 北鉄争議は、県地方労働委員会のあっせん案を労使がのんで妥結した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 7月30日 社会・文化 午後2時すぎ香林坊大神宮境内の飲食店3階から出火、同3階だけを全焼して鎮火したが、場所がら付近一帯は大混雑を呈した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 8月5日 社会・文化 石川県初の国際競技、日米陸上競技金沢大会が金沢市運動場で挙行された。出場は米の一流選手6人と日本代表選手20人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 8月31日 社会・文化 石川新聞社長に黒田重治が就任、竹山社長は取締役会長になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 9月15日 社会・文化 本年初めて9月15日を「老人の日」とし、市内でも敬老行事がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 9月19日 社会・文化 石川県労働組合評議会(県評)の結成大会が県労動会館で挙行された。評議会議長に宮西隆。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月3日 社会・文化 二宮金次郎の銅像が、芳斉町小学校に市内各学校のトップを切って復活、除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月9日 社会・文化 最高検察庁は今朝全国一斉に、日本共産党の非合法出版物配布ルートの手入れをした。金沢でも14ヵ所を捜索し、日共機関紙および細胞機関紙など52種約1,000部を押収した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月19日 社会・文化 石川護国神社の例大祭が、講和調印により6年ぶりで盛大に執行され、市長、知事、県市議会議長らが戦後初めて公式の資格で参拝した。同神社は標柱を戦後「石川神社」とかえていたが、再び石川護国神社にもどした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月24日 社会・文化 社会党が、講和条約に対する賛否から右派と左派に分裂した。右派は講和賛成安保反対、左派は講和安保両条約反対。社会党石川県連はいますぐには分裂の兆はない。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 10月31日 社会・文化 金沢市の高峰顕彰会(会長井村市長)へ、譲吉博士の子息ニューヨーク市エベン・高峰から奨学資金として300ドル(10万8,000円)が送られてきた。今後10年間300ドルずつ送ってくるもので、市は高峰奨学資金として市内高、中学生の成績優秀生徒を選び交付する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 11月3日 社会・文化 第5回(昭和26年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。〔功労賞〕中島徳太郎(元貴族院議員) 金浦彦太郎(狂言) 〔科学賞〕岩崎憲(金大医学部教授)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 11月14日 社会・文化 兼六園夕顔亭庭さきの竹化石について、来県中の東京大学理学部教授小倉謙博士が「これは竹ではなく、現在は死滅している南方産棕梠科の植物で、約1億3,000万年前のもの」と鑑定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 11月15日 社会・文化 万葉集研究の貴重な資料である春日懐紙(裏書のないもの)38枚が、梅本町前川吉栄の手元に保存されていることがわかった。昨年前田家から譲りうけたものだという。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 11月17日 社会・文化 午前1時ごろ田丸町のふろ屋から出火、同ふろ屋(140坪)を全焼、隣家2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 11月18日 社会・文化 県教育委員会は、金沢市に県立商業高校設立の方針を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 12月10日 社会・文化 12日の北鉄ストを前に、金沢市議会は北鉄労使双方に「市民に迷惑がかからないよう善処せよ」と強硬な申入れをした。(争議は11日妥結) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 12月17日 社会・文化 午後10時20分ごろ象眼町野上鉄工会社下中島工場から出火、工場1むね(約15坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 12月24日 社会・文化 午前4時ごろ中本多町4番丁平野化学工業会社構内の新生化学工業メッキ工場から出火、同工場と平野化学の工場2むね、倉庫、事務所等512坪を全焼、民家3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 12月25日 社会・文化 全国各地で公共建物の火災、盗難事件等が続発しているので、市は本日から1月15日までの間、市内学校施設の夜間使用を理由のいかんを問わず禁止した。公民館等の施設も同様。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 12月27日 社会・文化 26日夜から27日にかけて県下に強風が吹き荒れ、金沢では最大瞬間風速32メートル。市内で住宅の損壊、板べいの倒壊が続出、兼六園の老木も相当倒れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十六年(1951) 12月 社会・文化 県教育委員会が27年度に創設することにしている県立商業高校は、校舎に予定した金沢市立紫錦台中学校の返還が市との間にまとまらぬため、27年度は創設を見送ることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 1月14日 政治・経済 金沢工業港建設第1期工事費の27年度分として、2,000万円の国庫補助が政府予算案で承認された(要求は8,590万円)。なお26年度には同港建設の一環として、大野港左岸突堤36メートル(740万円)が施工された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 1月22日 政治・経済 市は市内中心街の交通緩和のため、27年度に二万堂線を完成して、金沢駅前から二万堂まで4,400メートル直線化を完成することにした。二万堂線は昭和11年着工、今までに駅前から増泉町まで2,800メートルを完成し、あと1,600メートルを残しているもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 1月22日 政治・経済 市は第1種、第2種市営住宅100戸の入居者を募集したが、申込み者は25倍の2,589人に達した。市営住宅建設地は藤棚町、品川町、粟崎町、西泉町、有松町。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 1月25日 政治・経済 金沢城跡の遊歩道路が完成した。コースは百閒堀の市消防本部横から登り、城の外側を兼六園コートの上から宮守堀通りの金沢大学裏口まで540メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 2月23日 政治・経済 社会党石川県支部連合会が左右両派に分裂した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月13日 政治・経済 改進党金沢支部が結成された。支部長鳥畠徳次郎。民主党支部は解党。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月18日 政治・経済 尾山神社前庭に戦後できた尾山商店街の土地払下げ問題は、北陸財務局との3年越しの交渉がまとまり、総額490万円から商店街建設費240万円を控除した250万円で、国から尾山商店街に払下げることにきまり、尾山神社石黒文吉宮司立会のうえ正式解決した。商店街は年50万円ずつ5年年賦で国庫に支払う。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月20日 政治・経済 市議会は、県が創設する道路補修特別税に対する反対意見書を全員一致で可決。直ちに知事と県議会議長に送付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月21日 政治・経済 改進党石川県支部連合会の結成大会が開かれた。県連会長井村徳二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月22日 政治・経済 電力会社が市に支払う公納金の有効期限延長法案が、20日衆議院を通過したと市議会へ連絡があった。この法案の関係都市は金沢市をふくむ全国12都市で、電力事業統合のとき公納金の支払いが10年間と限られ、本年3月31日で切れるので、それを延長するという法案である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月26日 政治・経済 県労働組合評議会は、道路補修特別税に賛成の金沢市選出改進党8県議のリコールを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月28日 政治・経済 4月から市長ら市3役と市議会議員の報酬引上げが市議会で議決された。市長は年額48万円を60万円、助役は42万円を54万円、収入役は30万円を42万円。議員報酬は議長年額18万円を20万4,000円、副議長15万円を17万4,000円、議員12万円を14万4,000円に引上げるもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月29日 政治・経済 市議会が反対意見書を出した県の新税、道路補修特別税は、県議会で臨時道路補修特別税と改称し、負税点を5万円から8万円に修正して可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月30日 政治・経済 市は小立野天徳院うしろの前田家墓地7,100坪を、前田家から無償払下げを受けることに前田家と正式契約が成立、同墓地を工費550万円で野田山に移転する(5月1日着工)。墓地跡には石引町小学校(鉄筋3階建)を建設の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月30日 政治・経済 市は4月1日から市営住宅の家賃を2割方値上げすることにきめた。市営住宅の家賃が民間貸家に比し低すぎるのが理由。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月1日 政治・経済 市は市役所の戸籍謄本複写に複写機を使いはじめた。(コピア複写機使用、1枚の複写所要時間3分) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月1日 政治・経済 金沢市工場設置奨励に関する条例が施工された。資本金3,000万円以上、従業員50人以上の工場設置に対し、3年間市民税と固定資産税の課税の範囲内で奨励金を交付するもの。(県も同様条例を施行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月15日 政治・経済 北鉄市内電車が8円から10円に値上げされた。北鉄は市に値上げ承認を申請と同時に、会社の市電路面改修3ヵ年計画(約9,000万円)を市へ提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月28日 政治・経済 講和発効、日本は独立国家となった。市では午前10時から、市議会議場に各公職者等300余人が集って記念式をあげたのち、卯辰山飛鳶台で市長、議長はじめ中学校、青年団、婦人会の各代表者の手で記念植樹をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月 政治・経済 県の失業救済事業として浅野川改良工事がはじめられた。施行区間は常盤橋から大橋に至る間。水流を川の中央に位置させるため川州を掘りさげてその土砂を両側に積み、他に運んで水たまりのないようにして蚊の発生も防ぐ。明年3月末完工の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月9日 政治・経済 (地方財政委員会は石川県から申請中の臨時道路補修特別税を、27年度限りの条件づきで許可した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月20日 政治・経済 市は、金沢ー富山を高速電車で結ぶ計画の加越能鉄道に、500万円を出資することを市議会議員全員協議会にはかり、承認を得た。(市は5月中に立替え出資し、6月18日の市会に追加予算として提出、多数で議決を得た)。市以外の出資額は石川、富山両県が各1,000万円、北陸鉄道1,500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月20日 政治・経済 新金沢駅の地下民衆施設計画が地元側で決定した。経営は県、市、商工会議所の共同出資による金沢駅地下ビル株式会社(仮称、資本金3,600万円)とし、売店の権利金1,000万円と会議所300万円、市1,500万円、県800万円の出資となる予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月24日 政治・経済 加越能鉄道に対する出資について、石川県側の柴野知事、井村金沢市長と富山県側の佐伯加越能鉄道社長との間で、共同出資の調印がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月1日 政治・経済 (県は県下8ヵ所の地方事務所を廃止し、新たに地方事務所所在地に財政事務所と福祉事務所を設置した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月1日 政治・経済 金沢ー富山を結ぶ高速電車計画は、加越能鉄道会社(本社高岡、社長佐伯宗義)に対し石川県が1,000万円、富山県が1,000万円、金沢市が500万円、北鉄が1,500万円出資して、予定資本金6,000万円を1億円として発足することになり、本日株主総会を開催、新役員を決めた。石川県側役員は副社長井村徳二、取締役北敏、益谷秀次、林屋亀次郎、太田孝三、土井登、吉田圭蔵、監査役野根長太郎、顧問柴野知事。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月8日 政治・経済 事実上の左派社会党石川県連結成大会である社会党県連再建大会が開かれた。委員長円山定盛。(右派の社会党石川県連会長は岡良一) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月15日 政治・経済 河北潟干拓期成同盟会の結成大会が津幡小学校で挙行された。会長益谷秀次。この干拓事業は河北潟水面の3分の2の1,600町歩を干拓しようというもので干拓調査費として国費200万円、県費50万円の支出が決定している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月18日 政治・経済 新金沢駅地下ビルに対する金沢市の出資1,500万円が市議会に提出され、多数で可決された。市は現金出資を行なわず北陸電力社債をこれにあてることにし、これを金沢商工会議所が預かって代位出資をする。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月18日 政治・経済 市議会は、金沢大学に大学院設置に関する意見書を全員一致可決した。近く文部大臣に提出する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月18日 政治・経済 市は市役所部課の統合廃止を実施した。総務部税務課を固定資産税課を市民税課に分離、民生部母子課を廃止して社会福祉事務所を独立、衛生部医務課と保健課を統合して公衆衛生課とし、農林水産課を農林課と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月18日 政治・経済 市収入役小森東朔が退職し、後任に民生部長上田茂が就任した。民生部長には民生課長新保義久が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月20日 政治・経済 金沢工業港起工式が運輸省黒田港湾局長らを迎え、地元側から徳田市議会議長柴野知事ら各界代表約200人が参列して大野河口と大野小学校で挙行され、5ヵ年計画、2億6,000万円の第1期工事のスタートを切った。工事費負担は国庫4割、県市各3割。第1期工事初年度の本年度は2,000万円で河口左岸200メートル、右岸100メートルの防波堤築建と護岸、砂止工事しゅんせつ等。なお隣接の工業地帯27万5,000坪の工場誘致も計画が進んでいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月23日 政治・経済 市議会は金沢市と富山県城端町を結ぶ県道の貫通運動を、両県の関係町村と協力して行なうことになり、市議会代表の4議員らが未開通の県境横谷峠を踏査した。(未開通部分は県境約7キロ) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月1日 政治・経済 (住民登録が全国一斉に実施された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月2日 政治・経済 水害緊急対策を協議する市議会全員協議会は、市長専決処分による応急費690万円の支出を認め、浅野川の小橋と鈴見橋に仮橋の架設をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月21日 政治・経済 市は東京都文京区表町にある明倫学館の再建補助金に50万円を支出した。同館には現在石川、富山両県の在京大学生53人がいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月22日 政治・経済 石川県経済界が誘致運動を続けていた金沢通産局の設置は、富山県側との話合いがつかず、ついに設置取りやめになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月31日 政治・経済 大和武蔵店が閉店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 8月1日 政治・経済 7月1日の水害による県下の土木復旧費は建設省査定で833ヵ所、6億9,829万円、うち金沢市は26ヵ所、4,194万円と決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 8月1日 政治・経済 行政管理庁石川地方監察局が発足した。石川地方経済調査局は廃止。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 8月23日 政治・経済 犀川の御影大橋が完工、渡橋式がおこなわれた。25年8月の起工で工費6,000万円。長さ105メートル、中央車道9メートル、左右歩道各2メートルのワーレン型橋。同橋の開通により産業道路二万堂線はほぼ8割完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 8月25日 政治・経済 市の新施設「市民相談所」が開設された。場所は市役所本庁舎表窓寄り、係員は男女2人、業務内容は市役所事務室の案内取次ぎと業務案内、軽易な相談、市公報等の閲覧。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 8月28日 政治・経済 市議会で水害復旧土木費4,552万円、同耕地費1,556万円等が可決された。土木復旧費のうち、橋の改修費は3,122万円(市単独分47万円)で、架けかえる橋は小橋(鉄筋)上菊橋、鈴見橋、梅ノ橋、中ノ橋、御所大橋(以上木橋)、一部改修は常盤橋。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月3日 政治・経済 (戦争で中断されていた北陸線倶利伽羅新トンネルの工事が再開された。昭和16年、全長2,400メートルのうち350メートルだけ施工したままで中止されたもの。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月4日 政治・経済 市は水害更正資金100万円を設定、被害市民に無利子で1世帯1万円までを貸付けることにした。返済は1年以内の分割払い。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月15日 政治・経済 下本多町の元アメリカ軍CIC跡建物(終戦時までの海軍人事部庁舎)が、北陸財務局から金沢市に払下げられた。金沢市警本部がここへ移転する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月18日 政治・経済 河北郡内灘村旧軍用地の砂丘地帯600町歩と海域400町歩の接収打合せのため、県開拓課長が上京した。同地接収は日米行政協定にもとづく在日米軍演習地用で砲弾試験射撃場にあてられるという見方が強い。接収地域は粟崎地内にも及ぶので、地元内灘と金沢から猛反対が予想される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月20日 政治・経済 内灘村砂丘地の米軍接収に対し、右派社会党県連は反対闘争の声明を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月22日 政治・経済 左派社会党石川県連、労農党石川地方本部、共産党石川県委員会はそれぞれ代表が柴野知事に会見、内灘砂丘接収反対の申入れ書を手渡した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月25日 政治・経済 初めて執行される金沢市教育委員会選挙の立候補届出締切りの結果、無競争で次の4人の当選が決定した。森直弘(無、県評)松身富子(無、婦連)福島源太郎(無、教組)細川栄松(無、教組) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月25日 政治・経済 内灘村村民大会は「内灘砂丘接収に対し、死力をつくして反対すること」を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月27日 政治・経済 金沢市粟崎町は粟崎善隣館で同町各団体主催の町民総決起大会を開き、内灘砂丘接収絶対反対を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月1日 政治・経済 警察予備隊の射撃場として大桑町1万5,381坪が決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月1日 政治・経済 金沢商工会議所議員総会で会頭に西川外吉(再)副会頭に吉田次作(再)麻生徳次(再)池田作松(新)が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月2日 政治・経済 "衆議院議員総選挙は1日おこなわれ、開票結果は次の通り。投票率82.4%。 〔第1区〕当選64,912票 辻政信(無新)同41,504票 坂田英一(自由前)同32,986票 武部英治(改進新)次点31,453票 岡良一(右社前)27,968票 前川吉栄(改進新)23.050票 武谷甚太郎(改進元)17,971票 森島守人(左社新)8,909票 梨木作次郎(共産前)2,658票 長谷長次(無元)〔第2区〕当選49,590票 益谷秀次(自由前)同39,636票 南好雄(自由前)同34,581票 大森玉木(改進前)次点31,669票 喜多壮一郎(改進元)17,368票 北尾幸一(無新)13,648票 富田喜作(無新)2,837票 梅田兵一(共産新)" 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月3日 政治・経済 西町に石川県繊維会館が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月6日 政治・経済 石川県教育委員の半数(3人)改選が5日おこなわれ開票結果は次の通り。投票率58.6%(うち金沢市39.5%)。〔当選〕83,978票 中村清人(無前)79,334票 宮本順二(無前)74,723票 鈴木紀(無新)〔次点〕66,510票 坂本三十次(無前) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月6日 政治・経済 武蔵デパートが武蔵ヶ辻の大和武蔵店跡に開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月10日 政治・経済 市は本日限り新地城の14支所、出張所を廃止、その職員62人の転出異動を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月15日 政治・経済 警察予備隊が保安隊となり、金沢駐とん部隊でも記念式典を行ない、井村市長らが激励の祝辞をおくった。金沢駐とん部隊は11月から普通科、建設、施設の3大隊編成(約3,000人)になる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月20日 政治・経済 市議会選出の市教育委員に羽間政信が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月29日 政治・経済 石浦町日本勧業銀行金沢支店の新行舎落成式がおこなわれた。建坪359坪、地上2階一部3階、工費5,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月30日 政治・経済 第4次吉田内閣成立。石川県選出参議院議員林屋亀次郎が無任所国務大臣に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月1日 政治・経済 金沢市教育委員会が発足した。教育委員長は互選で福島源太郎が就任、教育長に市文教部長織田信治を任命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月10日 政治・経済 皇太子成年式と立太子礼挙式。金沢市では市役所、各学校でそれぞれ式典を挙げた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月12日 政治・経済 市議会は、各派共同提案の「金沢市近郊の軍事施設用地調達に関する反対意見書」を可決した。内灘砂丘地ならびに粟崎海岸漁場を駐留軍試射場に供するがごときは、市民の生活安定と産業都市発展におよぼす影響がきわめて大きいから反対する、というもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月20日 政治・経済 内灘村村民約1,000人がムシロ旗を押したてて、県庁に接収絶対反対を陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月26日 政治・経済 金沢駅地下ビル会社の創立総会が市役所で開かれ、社長に井村市長、常務取締役に吉田助役と金沢商工会議所吉田次作副会頭、取締役に池田、麻生両副会頭、武村市議会副議長、監査役に徳田市議会議長、西川金沢商工会議所会頭を選任した。役員は無報酬。出費は市の代位出費1,500万円、県よりの借入金による市出資800万円、会議所300万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 12月2日 政治・経済 政府は閣議で内灘地区を米軍砲弾試射場として、明年1月から4月まで4ヵ月間一時使用することを正式決定した。補償は1億余円の見込み。接収面積は陸地625町歩、海面400町歩。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 12月4日 政治・経済 政府は内灘村に対し補償金とは別個に、各施設費として7,500万円の特別交付金支出を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 12月22日 政治・経済 従来年6回開いていた定例市議会は、地方自治法の改正で明年から2月5月8月11月の年4回になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 12月25日 政治・経済 市営住宅の旭町鉄筋2階建アパート2むね(16)戸と木造39戸ができ、入居申込み者(1,970人)の抽選がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 12月28日 政治・経済 金沢市警察本部は、下本多町米軍CIC跡(元海軍人事部庁舎)へ移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 1月11日 社会・文化 藤井健次郎死去。85歳。金沢市出羽町出身、文化勲章受章者、学士院会員理学博士、植物細胞学の権威で金沢駅前持明院の天然記念物妙蓮を研究、紹介した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 1月18日 社会・文化 石川県美術館建設促進同盟が結成された。会長嵯峨保二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 1月31日 社会・文化 午前2時5分ごろ並木町の民家から出火、1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 1月 社会・文化 笠舞町の畑地から、前期の縄文式土器数十点が発掘された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 2月2日 社会・文化 北陸鉄道が金沢駅前に建設中のバス・ターミナルが完成し、バスの発着に使用を開始した。工費400万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 2月16日 社会・文化 従業員170余人の整理通告をめぐる津田駒工業会社の争議が、県地方労働委員会のあっせんにより2週間ぶりで解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 2月18日 社会・文化 午前8時15分ごろ長町川岸金沢地方貯金局長町分室階上から出火、庁舎約90坪を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 2月24日 社会・文化 午後10時15分ごろ安江町越山甘清堂の製菓工場から出火、同工場(24坪)と3階住宅(40坪)を全焼、同店舗と隣家の倉庫を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 2月25日 社会・文化 市立泉中学校は金沢大会教育学部校舎(旧石川師範男子部校舎)へ移転した。同学校は23年から、元北陸機械の青年学校と寮を改造した仮校舎で授業していた。金大教育学部は近く旧城内の新校舎に移転する。市は26年度に3,000万円27年度に1,500万円の買収予納金を支払って教育学部校舎を買収し、泉中学校と弥生小学校の校舎にあてることにしたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 2月27日 社会・文化 第1回高峰賞の受賞者20人がきまった。受賞者は県下の高校生と中学生から選ばれたもので、20人中金沢市内の高、中生徒は16人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月7日 社会・文化 午後4時20分ごろ南加賀地区から福井県境にかけて地震があり、各地にかなりの損害があった。県下の建物損壊3,590むね、死者2、重傷4。震源地は美川沖。金沢では震度3の弱震、最大震幅27ミリ。(23年6月の福井地震のときの金沢での震度は4ないし5度、最大震幅約60ミリ) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月9日 社会・文化 金沢高等師範学校最後の卒業式と閉校式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月12日 社会・文化 午後2時50分ごろ米泉町西金沢駅前の運送店から出火、同店と馬小屋等35坪を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月15日 社会・文化 金沢美術工芸短期大学の第1回卒業式がおこなわれた。また同時に同大学付設美術工芸専門学校も最後の卒業式をおこない、3人が卒業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月15日 社会・文化 金沢で北陸新聞が創刊された。社長赤井米吉、顧問井村徳二、発行責任者辻豊次、本社長土塀6番丁。(35年10月27日中部日本新聞社に買収され、最終刊を出す) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月29日 社会・文化 (文化財保護委員会は、羽咋郡眉丈山付近に生息する天然記念物トキを特別天然記念物に指定した。指定告示は28年6月22日。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月29日 社会・文化 石川郡野々市町のジョンガラ節が、文化財保護委員会から芸能関係の選定文化財に指定された。(29年5月29日法律改正により指定解消) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月31日 社会・文化 昨年春、安村律義によって発見された北塚町二塚農協裏田んぼの中の住居跡を石川考古学会が各学校考古学研究班約30人の協力を得て、28日から3日間大がかりな調査をした。その結果、同住居跡は縄文式中期(3,500年以前)のもので竪穴、平地住居の折衷住居跡とみられ、北陸の気候に順応した全国でも珍しい様式のものとわかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 3月 社会・文化 石川郡犀川村樫見地内で林道を改修中、シジミ貝に似た数種の貝類の化石が発見され話題になった。場所は犀川支流の平沢川に沿う断がいの中腹で、同所は1,500万年前の第3紀新生代の地層。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月1日 社会・文化 県立金沢二水高校定時制課程と県立金沢菫台高校定時制課程とを合併して、定時制独立高の県立金沢中央高等学校が開設された。(校舎は金沢二水高校) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月1日 社会・文化 金沢女子短期大学に付属高校が開校した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月1日 社会・文化 市は本月から市内38全校下に公民館を設置した。(予算480余万円)。これまで公民館が設置されていたのは長田、瓢箪、石引、森山、金石、材木、三馬、米丸、長土塀の9館だけであった。館長には新年度に選出された公民教育委員長を委嘱した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月18日 社会・文化 賃上げ要求中の北陸鉄道労組は私鉄総連の指令により24時間ストを実施した。また破壊活動防止法案反対の第2波全国ストがおこなわれ、県下では各労組の約7,200人がそれぞれ職場大会、超過勤務拒否、定時退庁等をおこなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月25日 社会・文化 金沢全市の総合商業行事として、第1回の「加賀百万石まつり」が本日から3日間開催された。大名行列、広告行列、花電車、花火大会など。主催は金沢市、金沢商工会議所、金沢商店連盟、金沢観光協会。経費約200万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 4月28日 社会・文化 金沢市連合青年団(昭和21年結成)が解散、新たに金沢市地域青年団連絡協議会が結成された。委員長吉村敞。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月1日 社会・文化 独立後初の金沢地区のメーデーが、快晴下に約50労働組合1万5,000人が参加しておこなわれた。(東京では皇居前広場でデモ隊と警官隊が衝突したメーデー事件おこる) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月2日 社会・文化 県が戦後初めて主催して、支那事変以来の石川県戦没軍人軍属2万5,000人の霊を弔う石川県戦没者追悼式が、兼六園長谷邸跡でおこなわれた。高松宮はじめ知事、市長、公職者、遺族ら千数百人が参列した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月7日 社会・文化 午前8時40分ごろ高柳町の農家から出火、1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月8日 社会・文化 下本多町のスキャップ図書館が、講和発効で民間情報局から国務省の所管に移され、「アメリカ文化センター」として開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月10日 社会・文化 金沢の北陸文化放送(JOMR)が開局した。局舎は南町、放送所は野々市町。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月15日 社会・文化 午後9時40分ごろ十三間町の民家から出火、3戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月15日 社会・文化 市内38の公民館長が決定して金沢市公民館連絡協議会が結成された。会長浅井秀次。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月26日 社会・文化 午後6時35分ごろ石浦町香林坊の貸席2階付近から出火、同家と朝日新聞金沢支局を全焼、写真館、書店、茶舗等3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 5月31日 社会・文化 午前0時45分ごろ長土塀1番丁のクリーニング店付近から出火、3戸(2むね)を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月1日 社会・文化 野田平和町の財団法人金沢授産所が県営に移管された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 6月7日 社会・文化 県が初めて実施する県下戦没者遺児1,295人の靖国神社参拝団が金沢を出発した。うち金沢市の遺児は295人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月1日 社会・文化 30日からの豪雨で金沢市、河北郡を中心に県下大水害。浅野川の鈴見橋、小橋若松橋、中ノ橋、犀川の大桑橋、伏見川の窪大橋、金腐川の御所橋の7橋が流失。百坂小学校ががけくずれで校舎の3分の2が倒壊。金沢市内の被害は死者1、重傷2、全壊5戸、床上浸水1,649戸、床下浸水3,355戸、堤防決壊20。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月3日 社会・文化 酒密造で金沢刑務所に収容中の朝鮮人が6月29日変死した事件で、県内在住朝鮮人約150人が刑務所に押しかけ、代表が所長に会見抗議する一方、門前ではとびらの一部をこわしラムネ弾や石を所内に投げ入れ、正門に一時は北鮮旗を立てるなどしてデモを行なったが、警官隊の到着でようやく退散した。(14日金沢市警は首謀者10人を逮捕) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月8日 社会・文化 金沢刑務所における朝鮮人変死事件の真相糾明を要求して、朝鮮人約250人が金沢駅前等に終結、市内をデモ行進して地検前で警官隊と小ぜり合いを演じた。また野町派出所に県下で初めて火炎びんが投げこまれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月17日 社会・文化 京都大学川村多実二名誉教授は兼六園内の野鳥保護に関し、「園内からスズメを駆除し、やぶと水浴場、えさ場などを適当に設けてホトトギス科の野鳥を呼ぶようにすべきだ」と知事、県議会議長あてに意見書を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月18日 社会・文化 近畿地方に強震、近畿2府4県と三重県に被害、震源地は三重県の櫛田川流城(吉野地震と命名)。金沢地方も午前10時10分ごろ震度3の地震があり、戸外に飛び出した市民もあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月19日 社会・文化 ヘルシンキの第15回国際オリンピック大会開会。日本代表選手に石川県から金沢桜丘高校生徒宮本正美(水泳高飛込み)羽咋高校出身室矢芳隆(陸上中距離)が参加。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 7月23日 社会・文化 中村町の市営母子寮が完成、開所した。工費360万円、17世帯収容。これで金沢市内の母子寮は市営2、県営3、私営3となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 8月16日 社会・文化 「潜行三千里」の著者辻政信元大佐が、兼六園長谷川邸跡で野外時局講演会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 8月26日 社会・文化 警察予備隊に校舎を明け渡すため、旧野村練兵場内に新校舎を建築中の市立野田中学校の第1期工事が完成した。残存校舎の3年生が新校舎へ移り、市内3中学校に分散授業中の1年生がそのあとにもどってきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月4日 社会・文化 北陸学院高等学部の新校舎がアメリカの募金20万ドルで飛梅町に完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月5日 社会・文化 味噌蔵町小学校で給食による集団中毒発生、欠席者91人、発熱者234人(4日の給食児童数は829人)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 9月16日 社会・文化 十一屋町小学校で給食による集団中毒発生、発病生徒385人、職員16人(15日の給食者数は1,190人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月10日 社会・文化 十一屋町野田中学校新築校舎前に、市が建築中の「子供の家」が完成、開所式がおこなわれた。昼間、両親が勤めに出て留守になる家庭の子どもを預かるもので、敷地200坪は地元の寄付。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月15日 社会・文化 橋場町の北陸銀行橋場町支店前に「金沢郵便発祥之地」の記念碑が建てられた。明治5年4月金沢郵便取扱所がはじめて設けられた場所で、金沢郵便局創始80周年記念事業としての建碑。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 10月30日 社会・文化 石川新聞が廃刊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月1日 社会・文化 市社会福祉協議会は、金沢市に国民健康保険制度実施の可否について市民の世論調査を行なったところ、実施を希望68.4%、希望しない23.5%、わからない8.1%の結果が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月3日 社会・文化 第6回(昭和27年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。〔功労賞〕魚住安太郎(ドラ制作)玉井敬泉(文化財顕揚)上田嘉助(金大工学部教授)三浦孝次(金大薬学部教授)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月8日 社会・文化 石川護国神社で、戦後はじめての合祀大会が執行された。合祀5,288柱、仮合祀1万3,000柱。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月16日 社会・文化 石川県林業会は緑の羽根募金の一部で、吉野桜1,000本を金沢市に寄付した。(市は卯辰山の長峰付近そのほかに植えた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 11月28日 社会・文化 北陸文化放送株式会社は社名を北陸放送株式会社と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 12月1日 社会・文化 北陸鉄道労組は越年資金、労働協約改訂交渉の不調から、第1波24時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 12月1日 社会・文化 市議会運営委員会は北鉄ストの対策を協議した結果、駅前ー小立野間と駅前ー寺町間に非組合員の手でバスを運転するよう、井村北鉄社長に強硬な申入れをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 12月4日 社会・文化 北陸鉄道労組は3日始発から、第2波48時間ストを実施した。(妥結は8日) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十七年(1952) 12月6日 社会・文化 東長江町通称大滝谷地内で、約2メートルの獣類の骨が発見された。金大理学部早坂教授は人類発生以前の鯨の骨と鑑定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 1月1日 政治・経済 電話架設に、電話債券の引受けが必要になった。金沢の電話債券引受け額は4万円(2級局)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 1月13日 政治・経済 市は香林坊橋詰めの虎井印刷店を中心とする一角約60坪(宇都宮書店所有地)に対し、3年前から買収交渉をつづけていたところ、このほど買収成立し、市はこれを県に寄付した。県は、県営事業としてこの土地を道路拡張用地にあてた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 2月13日 政治・経済 市は「金沢市国民健康保険実施調査部」を設置、部長に吉田助役(兼任)を発令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 2月20日 政治・経済 県は本年、金沢市内に県営2階建鉄筋アパート7むねの建設を決定した。1むね10戸、総工費4,300万円(半額国庫負担)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 2月25日 政治・経済 県は道路補修特別税を27年度限りで廃止に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 2月28日 政治・経済 市議会は、政府が企図する自治体警察廃止案に反対して「警察法改正反対に関する意見書」を全員一致で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月7日 政治・経済 昨年7月の水害で流失した浅野川の鈴見橋が完成、渡橋式がおこなわれた。木造長さ24メートル、幅4メートル、工費240万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月12日 政治・経済 市議会は金沢市耐火建築物助成に関する条例を可決した。これはさきに市が指定した金沢駅通りから武蔵ヶ辻までの直線コース、武蔵ヶ辻から香林坊、武蔵ヶ辻から橋場町、香林坊から兼六園、香林坊から犀川大橋までの防火建築帯内で、耐火建築物を建てるものに市が補助金を交付して促進しようというもの。補助額は木造建築と耐火建築の差額の8分の1で、残り8分の3は国と県の補助、8分の4は建築主が負担する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月12日 政治・経済 市営住宅分譲処分に関する条例が市議会で可決された。市営住宅1,180戸のうち、昭和23年以前に建てたものを入居中のものに分譲し、売却金は将来市営住宅建築費にあてるもの。本年中に分譲するのは若草町110戸、粟崎10戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月18日 政治・経済 内灘試射場で、米軍が迫撃砲弾の試射を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月11日 政治・経済 政府は28年度暫定予算による金沢港の建設工事を、防波堤延長23メートルに決定した。工費は770万円(国庫補助4割)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月16日 政治・経済 県で最初の航空会社、北陸航空株式会社の創立総会が開かれた。資本金2億円社長園酉四郎、本社金沢市石浦町。差し当り調査、観光、宣伝飛行を営業。(30日小松飛行場で開業式を挙行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月20日 政治・経済 衆議院議員総選挙は19日おこなわれ、開票結果は次の通り。投票率81.7%。〔第1区〕当選54,593票 岡良一(右社元)同50,090票 辻政信(無前)同47,522票 坂田英一(自由前)次点45,167票 武谷甚太郎(改進元)36,797票 武部英治(改進前)23,704票 内山光雄(労働新)〔第2区〕当選46,188票 喜多壮一郎(改進元)45,703票 益谷秀次(自由前)39,095票 南好雄(自由前)次点38,309票 大森玉木(改進前)8,963票 奥村喜則(右社新)8,386票 富田喜作(無新)1,647票 梅田兵一(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月21日 政治・経済 大野町の大野灯台が完工、点灯式がおこなわれた。昨年10月起工、工費1,200万円、高さ25メートル、白色4角形のコンクリート造りで80万しょく光。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月25日 政治・経済 参議院議員選挙が24日おこなわれた。石川県地方区は現職の国務大臣林屋亀次郎と井村徳二が内灘問題を背景に激戦を展開し、井村が少差で当選した。投票率78.9%。〔当選〕210,435票 井村徳二(改進新)〔次点〕194,280票 林屋亀次郎(無前)12,444票 二木秀雄(無新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月30日 政治・経済 田中外務省第3課長ら外務、農林両省と調達庁の関係官が来県し、内灘村中山村長らに試射場使用延長の意向を申入れたが、内灘側は反対した。また、内灘村基地接収反対委員会代表団の改進、左右両社の県議と労農、共産両党委員が上京、政府に永久接収反対の申入れをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月 政治・経済 金沢市が桜町に建設中の教員アパートが完成した。木造2階建16戸、1戸は6畳、4畳半、2畳の3室。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月3日 政治・経済 参議員選挙地方区で、林屋候補を支持した民友クラブ全員(金沢市選出の県議4人、市議14人)が改進党を離党した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月7日 政治・経済 市は市議会の議決を得て、新築家屋の固定資産税軽減を実施した。軽減家屋は27年1月2日から30年1月1日までに建築した18坪未満の住宅で、建築後3年間税を半分にするもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月15日 政治・経済 改進党金沢市議会議員総会は、さきに離党届を出した民友クラブ市議14人に対する処置を協議の結果、5人を除名、8人は離党を認めることに決定、声明書を発表した(1人は離党届を撤回)。これで市議会の分野は改進党23人、野党21人となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月15日 政治・経済 金沢ー岐阜間と金沢ー七尾間道路の2級国道編入指定が、閣議で決定した。金沢ー岐阜間新国道は、金沢市を起点に鶴来町ー白峰村ー福井県勝山町ー同井ノ口ー同西勝原ー同朝日ー岐阜県白鳥町ー同小屋名を経由、岐阜市に至る延長200キロ。2級国道は幅7メートル以上で県工事の場合は半額国庫補助、国の直営工事の時は地元負担は3分の1。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月18日 政治・経済 市は工事誘致のため、商工課で「工事誘致奨励案内」を作成、全国各市の商工会議所、大工場へ発送した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月22日 政治・経済 県議会全員協議会は、内灘試射場の無期限使用反対を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月25日 政治・経済 市は国民健康保険の実施をめざして、対象3万4,543世帯について賛否調査を行なった結果、回答したのは85%の2万9,371世帯で、うち賛成は79.9%であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月2日 政治・経済 政府は内灘試射場の継続使用を閣議で決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月10日 政治・経済 内灘試射場再使用問題についての地元側に対する最後の説得役として、田中内閣官房副長官、伊関外務省国際協力局長、平川農林省農地局長が来沢(デモ隊を避けて石動駅に下車、自動車で県庁裏口から知事室にはいった)、県庁知事室で内灘、七塚、宇ノ気の地元町村長、同議長および柴野知事らと会見したが、地元側は政府の要請を拒否して会見は物別れとなった。県庁前では約1,300人のデモ隊と警官隊の乱闘が起り負傷者が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月13日 政治・経済 政府は内灘試射場を13日から使用再開、15日から試射再開と決定、地元へ伝達した。村民は試射場内に漁具小屋を急設、座りこみをはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月15日 政治・経済 内灘で試射が再開された。試射場内の民有地権現森には、各部落民学生等約600人が座りこみをした。本日、内灘を訪れた各地の労組員、学生等は約700人におよび、米軍キャンプ前でデモを行ない、座りこみの村民を激励した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月16日 政治・経済 内灘問題は、現地の反対闘争も次第に合法反対の持久戦に入り、上京委員の中央における交渉や、国会における内灘問題討議の推移を見守る形に移ってきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月20日 政治・経済 市議会は北陸航空株式会社に対する金沢市の出資500万円を、多数で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月24日 政治・経済 市は小坂地区の三池、高柳、田中の各町から付近工場のばい煙と汚水による被害を訴えられたため、市農林課で調査の結果、農作物30町歩の被害実情が判明したので、農民側と工場側の間にはいって解決をはかることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月28日 政治・経済 金沢市の下水道築造調査のため、社会法人水道協会副会長河口協介、同下水課長深谷宗吉が来沢、2日間にわたり調査した。調査後河口副課長は「工事費は25億円以上かかるが、町の美観と衛生上からぜひ完備させねばならぬ」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月1日 政治・経済 市は市行政運営の適正化をはかるため、市長の直属機関として市行政査察部を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月15日 政治・経済 犀川の下菊橋が完成した。木橋、工費446万円。老朽のところへ昨年7月1日の水害で損傷したので架けかえたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月16日 政治・経済 市議会革新議員団所属の6議員は、給与所得者に増税がかたよっていると労働組合等から問題にされている28年度市民税について、井村市長に対し「正確な資料によって再検討すべきである」との公開質問書を提出した。(市長は22日回答した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月19日 政治・経済 日教組主催の軍事基地反対国民大会が、兼六園長谷川邸跡で、全国から集った同組合員と県内各労組員ら約9,000人が参加して開かれた。市内デモ行進の解散後、約600人が内灘を訪れ、座りこみの村民たちを激励した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月20日 政治・経済 昨年7月の1日の水害で流失した浅野川の中ノ橋が完成した。木橋、工費204万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月2日 政治・経済 内灘村大根布部落は区民大会を開き、部落青年会館に泊っている内灘接収反対の学生数十人に即時退去を要求、学生たちは退去した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月25日 政治・経済 新金沢駅地下民衆施設で営業する業者の協同組合、金沢ステーション・デパートの創立総会が開かれた。理事長山田藤太郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月1日 政治・経済 市消防機構が改められた。これまでは金沢消防署のもとに玉川、金石両分署と野町、森山両出張所があったのを、広坂、玉川、金石の3消防署と広坂消防署野町出張所、玉川消防署森山出張所とした。市消防本部に専任消防課長も置いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月7日 政治・経済 金沢駅西口設置期成同盟会の代表6人が、井村市長に対し、金沢駅後方の工場地帯発展のため金沢駅西口駅の設置促進方を陳情した。市長はこれに対し県、市、商工会議所、北鉄および地元が一丸となって実現運動を起したい、と言明した。同盟会は金沢駅後方の会社、工場、町会代表ら29人が世話人となって設立したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月8日 政治・経済 内灘村村議会全員協議会は、試射場の再使用について条件次第で政府との交渉に応ずることを決定し、村長と全村議が上京した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月8日 政治・経済 市は25年度から実施した第1次都市計画事業5ヵ年計画が、明29年度で一応完成するので、新たに30年度から34年度までの第2次都市計画事業5ヵ年計画として8路線の実施案を決定、市議会および都市計画石川地方審議会に提出することにした。8路線は次の通り。広小路ー間明線、下堤町ー大豆田線、停車場通り線、金屋町ー神宮寺線、賢坂辻ー下田上線、停車場ー西念新線、仙石町ー富本町線、橋場町ー小立野線。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月13日 政治・経済 左派社会党石川県連は4月の衆参両院議員選挙で、候補者を立て得なかった責任から役員が総辞職したので、鈴木委員長を迎えて再建大会を開いた。県連執行委員長塩田親雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月14日 政治・経済 上京した内灘村村長と全村議は、3回目の対政府交渉でついに政府案を受諾、試射場再使用問題は妥結した。政府案は米軍使用は3年以内、その後は安保隊使用、補償問題は知事、県選出国会議員が政府代表と協議善処する等である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月16日 政治・経済 内灘村の権現森民有地(約3万坪、部落民46人の共有地)は、月3万1,500円で政府との間に賃貸契約が成立した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月19日 政治・経済 (県議会議長の改選がおこなわれ、改進の宮永盛雄が選出された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月28日 政治・経済 内灘試射場の全域試射が開始された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月29日 政治・経済 市議会革新議員団は市民税が給与所得者に重いとして、市税賦課徴収条例改正案を市議会に提出したが、委員会、本議会とも反対多数で否決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月13日 政治・経済 (内灘村村長中山又次郎辞任。11月10日中本長松が後任村長に当選就任。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月14日 政治・経済 金沢駅第2期工事が完成、新駅で業務が開始された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月15日 政治・経済 保安隊演習場に、三小牛山と周辺地帯25万坪ないし50万坪が内定、農林省は金沢農地事務局に買収調査を指令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月18日 政治・経済 新金沢駅地下のステーション・デパートが開店した。同デパートは総面積312坪、建設および施設費約7,500万円、店舗数38店。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月22日 政治・経済 金沢市工場設置審査委員会は、大和紡績と北日本紡績の増設工場に対して、市工場誘致条例を初適用することに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月25日 政治・経済 保全経済会が24日休業、金沢市南町の同会信越総支店には日曜にもかかわらず出資者が押しかけた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月29日 政治・経済 市は卯辰山の卯辰山会館(建坪174坪)を競売した。落札価格80万1,000円。同会館は西町の元金谷館で、戦時中卯辰山に移築し修練道場に使っていたもの。戦後は荒廃し市は持てあましていた。(会館の建物は、その後石川郡鳥越村上野にできた手取温泉のホテルに使用された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月14日 政治・経済 昨年7月1日流失した浅野川の小橋が完工、渡橋式がおこなわれた。ワーレン式鉄筋コンクリート橋、長さ35メートル、工費1,200万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月22日 政治・経済 金沢から城端町を経て岐阜県白鳥に至る中部山岳横断国鉄バス路線(約160キロ)が開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月22日 政治・経済 台風13号の土木復旧費現地査定額が決定、市内河川の工事個所と査定額は次の通りきまった。(県、市町村の工事費を含む)浅野川32個所9,267万7,000円、犀川9個所5,400万9,000円、金腐川5個所285万円、伏見川3個所138万3,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月24日 政治・経済 石川県商店街連盟の創立総会が開かれた。会長山田治男。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月25日 政治・経済 政府がさきに内灘接収条件として公約した金沢-内灘-宇ノ気産業道路の新設資金は、総額2憶400万円と内定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月25日 政治・経済 金沢-岐阜国道編入促進期成同盟会の創立総会が、富山県城端町で石川、富山、岐阜3県関係市町村長、議員らが出席して開かれ、会長に井村金沢市長が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月26日 政治・経済 新築の県議会議事堂の開場式がおこなわれた。旧議事堂は昭和14年2月2日焼失、その後県正庁を議場に使っていたが、26年10月1億560万円で着工したもの。鉄筋3階建、延べ1,006坪、設計は谷口吉郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 12月4日 政治・経済 本年度の市営住宅60戸の入居者抽選がおこなわれた。場所は木造が長坂町、諸江町、鉄筋アパートが長坂町。入居申込者2,360人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 12月20日 政治・経済 保全経済会に続いて、類似金融機関の勧業経済株式会社も出資者への支払いを停止、同社金沢支店(味噌蔵町下中丁)管内の出資者約150人が出資者大会を開いて対策を協議した。(県下の出資者は約600人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 1月24日 社会・文化 午前11時50分ごろ京町のハク商から出火、2階建1むね(2世帯)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 2月18日 社会・文化 午前11時半ごろ野町3丁目の民家から出火、2戸を全焼、2戸(3むね)を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 2月25日 社会・文化 午前5時20分ごろ、中村町7丁目の紙製品製造、印刷業吉田次作商店中村町工場鉛版工場から出火、製本工場3むね、印刷工場2むね、事務所、倉庫、図案写真、製版工場各1むねなど計25むね1,120坪を全焼した。(焼け残りは2むね180坪だけ) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月7日 社会・文化 午後5時5分ごろ千日町の民家から出火、5戸を全焼、3戸(5むね)を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月12日 社会・文化 金沢大学医学部教授岩崎憲が「アツォトメトリーの研究」で本年度学士院賞受賞に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月14日 社会・文化 文化財保護委員会は、重要文化財石川門やぐらを4ヵ年計画で解体修理することになり、起工式をおこなった。28年度修理予算は約530万円の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月23日 社会・文化 中共地区引揚げ第1船興安丸が舞鶴入港。同船で帰国の石川県人は23人。(27日帰県) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月25日 社会・文化 金沢で初めての角型ポストが広坂通の郵便局前にできた。郵便物の収容量は従来の丸型ポストの3倍。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 3月31日 社会・文化 古道2番丁の市営公衆浴場が閉鎖した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月26日 社会・文化 午前10時50分ごろ下川除町の貸席から出火、4戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月27日 社会・文化 正午ごろ石浦町仙宝閣から出火、3階ホールと4階屋上を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 4月30日 社会・文化 石川県高校教職員組合(約650人)が県教組から分離した。高教組が全国一本にまとまるための独立。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーが快晴下に約23労組1万5,000人が参加しておこなわれ、内灘砂丘地永久接収反対などを決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月1日 社会・文化 北陸栄養専門学院が柿木畠の北陸学院内に開校した。校長は北陸学院院長番匠鉄雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月7日 社会・文化 県が広岡町に建設した県立保育専門学園が開校した。敷地564坪、総工費964万円、第1期入所生は42人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月13日 社会・文化 午後3時15分ごろ横安江町のおもちゃ店から出火、商店2戸を全焼、2戸を半焼、幼児1人が焼死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 5月21日 社会・文化 市は昨年、金石、芳斎、材木、石引、長土塀、菊川6校下を第1次モデル衛生地区に指定し環境衛生の向上をはかったが、今年は第2次として馬場、此花、長田、松ヶ枝、味噌蔵、新竪の6校下を指定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月 社会・文化 このごろ、市内のあちこちに彫刻が飾られるようになった。石川門下フラワーガーデン噴水塔にエンゼル(畝村直久作)、本多町公園に飛魚と子供(長谷川八十作)、武蔵ヶ辻小公園にサル(同)、白鳥路大手町側入口に白鳥(金沢美大生合作)、並木町浅野川ベリに滝の白糸像(高井四郎作)などである。(滝の白糸は8月の洪水で流失) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月8日 社会・文化 豪雨による増水で犀川の上菊橋、大桑橋、下菊橋、浅野川の梅ノ橋の各仮橋が流失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月23日 社会・文化 午前1時20分ごろ木町1番丁の廃品問屋倉庫から出火、1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月25日 社会・文化 金沢大学学長の初改選がおこなわれ、前京都大学学長鳥養利三郎と現学長戸田正三が同点による再投票の結果、鳥養が当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月26日 社会・文化 石川県立中央病院が西御影町に完成、彦三の旧中央病院から移転開院した。鉄筋3階、建坪100坪、延べ700坪、50病床、工費8,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 6月30日 社会・文化 市議会は九州大水害被災地に、議員きょ出の見舞金5万円を贈ることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月10日 社会・文化 金沢大学評議会は学長就任を承諾しない鳥養利三郎に対する就任交渉打切りを決定、9月以降に学長再選挙を行なうことになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月19日 社会・文化 北陸鉄道労組は24時間ストを実施した。労使の重要争点は、夏季手当交渉で団体交渉委員に被解雇者を加えるか加えないかの問題。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月24日 社会・文化 北陸鉄道労組は第2波24時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月26日 社会・文化 金沢で皆既月食。(午後8時29分から1時間42分) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月25日 社会・文化 市議会運営委員会は、北鉄ストについて北鉄労使に抗議書、地労委に要請書を手交した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月25日 社会・文化 金沢商店街連盟(会長山田治男)は、くり返される北鉄に対処して、市営バスの緊急運行要望書を井村市長に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 7月26日 社会・文化 北陸鉄道労組は第3波48時間ストにはいったが、27日午前6時地労委のあっせん案を労使が受諾、ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月11日 社会・文化 昭和25年11月11日の天狗橋落下事件の判決公判が、金沢地方裁判所で開かれ、6人の全被告に懲役2年ないし2年6月(1人は執行猶予)の判決言渡しがあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月24日 社会・文化 午前8時半ごろ、医王山系を中心として金沢地方に約1時間、75ミリの集中豪雨が襲来、浅野川では田上、若松、鈴見、常盤、中ノ橋、小橋、昌永、中島、応化、磯部、松寺、北寺、蚊爪、鞍降などの15橋が流失、天神橋が半壊、残るは大橋と北陸線鉄橋だけとなった。犀川は橋の流失はなかった。死者は1人。市内の床上浸水4,158戸、がけくずれ19ヵ所。県は金沢市と河北郡浅川村、三谷村に災害救助法を発動した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月25日 社会・文化 市は浅野川水害対策のため部長会議を開き、橋などの応急復旧を協議した。流失した橋の復旧は全部鉄筋コンクリートの永久橋とし、交通量の少ない梅ノ橋中ノ橋等は再建しない方針をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月26日 社会・文化 市は市域内の流失、損壊した11橋のうち、鈴見橋、天神橋、昌永橋、磯部大橋北寺橋の5橋だけ仮橋をかけることに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月26日 社会・文化 金沢商工会議所は水害復興対策協議の臨時議員総会を開き、浅野川の徹底的改修を柴野知事に要望することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月29日 社会・文化 市議会全員協議会は、水害復旧費の市長専決予算1,450万4,000円を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月30日 社会・文化 医王山山頂(河北郡浅川村)に、同山開基の泰澄大師をまつる権現堂が完工、鎮座式があげられた。金沢市と浅川村の信徒の献金20万円を基金にして、建てられた3尺四方のコンクリート製のほこら。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 8月31日 社会・文化 午後2時20分ごろ高岡町の北国新聞社第2印刷工場から出火、同工場を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月5日 社会・文化 8月24日の水害に際し、危険をおかしながら被害の防止に努力した浅野川下流の北寺町、磯部町、大浦町、松寺町、東蚊爪町の5町民に対し、井村市長から感謝状が贈られた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月7日 社会・文化 阿部信行東京で死去。78歳。金沢市安藤町の生れ、石引町、新竪町小学校に学んだ。元陸軍大将、昭和11年予備役となり、昭和14年8月平沼内閣の後をうけて首相となり15年1月まで在任、その後翼賛政治会総裁、朝鮮総督等をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月11日 社会・文化 北陸電気通信局は尻垂坂通りにある金沢逓信病院を、下新町旧人持組二西尾隼人屋敷跡に移転することになり、着工した。鉄筋建築の総合病院で工費1億4,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月15日 社会・文化 鳥養利三郎の辞任に伴う金沢大学学長の再選挙がおこなわれ、戸田正三現学長が再選された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月16日 社会・文化 金沢市の防火建築帯内に、近く着工される二つの鉄筋コンクリート3階建の耐火健築ー石浦町英薬局、南町新薬局に対し、条例による県、市、国からの金沢初めての補助金交付が決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月23日 社会・文化 今田与三松(材木町5丁目理髪店主)死去。78歳。小野陽風園の老人や子どもたちに59年間も理髪奉仕を続け、園内すべての人から慕われていた。昨年藍綬褒章を受けた。小野陽風園は25日園葬をおこなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 9月26日 社会・文化 台風13号が県下に襲来、金沢市内の家屋全半壊9戸、床上浸水335戸、がけくずれ7カ所、浅野川と金腐川の11仮橋が流失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月8日 社会・文化 午前4時45分ごろ金石下越前町の民家から出火、4戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月8日 社会・文化 午後9時半ごろ談議所町の肥料製造工場から出火、倉庫2むね(40坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月17日 社会・文化 午後0時15分ごろ岩根町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 10月28日 社会・文化 金沢友の会(婦人の友読者を中心とする組織)が、上笠舞町に建設した「金沢友の家」の落成式があげられた。総工費85万円、木造30坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月1日 社会・文化 横枕町に新設の市立千坂小学校が開校した。生徒数266人。同校は、昨年7月1日山くずれで倒壊した百坂小学校と千木小学校を10月31日閉鎖、合併したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月3日 社会・文化 第7回(昭和28年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。〔功労賞〕高光一也(洋画)石川県美術文化協会〔科学賞〕泉仙助(金大医学部教授)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月3日 社会・文化 故高峰譲吉博士生誕百年祭記念式典が同博士顕彰会主催で、高峰博士の子息故エーベン・孝のキャサリン未亡人を招いて、金沢市中央公民館で盛大に挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月21日 社会・文化 歌人江戸さい子の歌碑が尾山神社境内に建った。古希の祝いに、主宰する彩雲会の会員がつくったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月29日 社会・文化 北陸鉄道労組は、越年資金交渉で始発から全線ストにはいったが、午前8時ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 11月29日 社会・文化 午後11時35分ごろ味噌蔵町間ノ町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 12月3日 社会・文化 午前10時ごろ浅野川上流常盤園下(通称岩ぶち)のがけが高さ12メートル、幅6メートルにわたり崩壊して、川幅の約3分の1を埋めた。9月26日の豪雨で地盤がゆるんでいたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 12月9日 社会・文化 午後6時45分ごろ長土塀1番丁の自動車塗料工場から出火、工場、事務室など3むね(133坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 12月10日 社会・文化 武蔵ヶ辻丸越デパートの改築が完成、エスカレーター(1階から2階まで)が金沢で初めてお目見得した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 12月11日 社会・文化 午前5時15分ごろ、石浦町、香林坊橋北詰めの高橋小三郎所有木筋3階建ビルの2階付近から出火、延べ90坪の同ビルを全焼、さらに隣接の中田精肉店など2むね95坪を焼いた。飲食店、商店、新聞店など12世帯が被災。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 12月17日 社会・文化 奥野他見男東京で死去。64歳。金沢市桜畠生れ。日本のユーモア小説作家の草分け。「大学出の兵隊さん」「学士様なら娘をやろか」等作品は40数冊にのぼっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 12月20日 社会・文化 金沢市公民館連絡協議会会長浅井秀次交通事故で死去。48歳。熱心な公民館運動家で、現職は北国信用金庫専務。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十八年(1953) 12月28日 社会・文化 午前9時15分ごろ金石古河町山岸反毛工場から出火、同工場1むね(140坪)を全焼、隣接の製材所(90坪)、大野湊神社の祭礼用品倉庫などを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 1月5日 政治・経済 北陸鉄道社長井村徳二が辞任(12月28日)、後任社長に取締役沢野外茂次が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 2月2日 政治・経済 隣接町村の金沢市編入問題につき、井村市長は市議会全員協議会で「石川郡では野々市町、押野、安原、額、富奥、犀川、内川、湯涌谷各村、河北郡では森本村、浅川村の一部、内灘村の向粟崎などは村内に反対なしに編入の希望があれば、誠意をもって受入れる用意がある」と市の方針を明示した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 2月2日 政治・経済 市議会全員協議会は自治体警察廃止案に対し、昨年2月28日の市議会の廃止反対決議を再確認し、今後も、廃止反対運動を強力に推進することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 2月8日 政治・経済 日本銀行金沢支店長高畠佳次は本店考査役に転じ、後任に本店融資あっせん部長中尾満寿夫が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 2月26日 政治・経済 金沢市と周辺町村の合併調査会第1回公式協議会が開かれ、石川郡安原、額、犀川、内川、湯涌谷の5ヵ村は、3月20日ごろまでに無条件で、一斉に金沢市編入を村議会で議決することに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月1日 政治・経済 金沢商工会議所は、4月1日から新商工会議所法により公益的性格の特殊法人として新発足するので、本日、組織変更の臨時議員総会を開き役員改選等をおこなった。正副会頭4人はいずれも再選。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月6日 政治・経済 東京で開かれた加越能鉄道会社の重役会に出席、帰庁した土井副知事は「富山―金沢間の高速電鉄は4月から実施測量にかかり、明30年度から建設に着手する見通しだ」と述べた。なお建設のため会社が調達を要する資金は45億円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月8日 政治・経済 市は29年度の都市計画事業費として、9,150万円(28年度に比し3,400万円の増)を予算に計上、継続中の次の重要都市計画道路7本および駅前広場の拡張工事を実施する。停車場-二万堂線、停車場-談議所線、小立野線、広坂-鱗町線、鱗町-芦中線、仙石町-富本町線、十一屋-米泉線。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月9日 政治・経済 内灘試射場継続使用に対する補償の一つ、大野港船だまり建設工事が着工された。工費約1,000万円(水門、護岸等も含め総工費5,994万円)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月22日 政治・経済 市議会は石川郡犀川、内川、湯涌谷、安原、額の5ヵ村の金沢市編入を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月22日 政治・経済 4月からの市特別職給与と議員報酬の引上げが市議会で可決された。市長は月額6万円を8万円に、助役は5万円を6万円に、収入役は4万円を4万5,000円に、また議長は月額1万7,000円を2万6,000円に、副議長は1万4,500円を2万2,000円に、議員は1万2,000円を1万8,000円に引上げる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月22日 政治・経済 任期満了の市公安委員香村一の後任に、松川藤右衛門が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月22日 政治・経済 市の国民健康保険条例が市議会で可決され、7月1日からの実施が決定した。対象は約3万4,000世帯、12万1,700人。保険料は1人平均年間589円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月24日 政治・経済 石川都市計画地方審議会が開かれ、15議案を原案通り承認した。金沢市関係議案は次の通り。横山町排水路建設(上川除町-九枚町)、都市計画街路香林坊-塩川町線を廃止、外濠公園着工、都市計画街路仙石町-富本町線を29、30、31年度各2割で施行、矢根川排水路建設(御歩町2番丁-鶯町)、金沢駅前広場の面積変更(従来の計画21,416平方メートルを17,800平方メートルに縮小)、天神町児童公園建設。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月24日 政治・経済 運輸審議会は、申請中の加越能鉄道の富山-金沢間と佐野-高岡間の地方鉄道敷設について、東京で公聴会を開いた。一般公述人として石川県から柴野知事が出席、「同鉄道の敷設は県勢発展のため必要」と陳述した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月31日 政治・経済 (6町村が合併して輪島市が発足した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 4月1日 政治・経済 市の道路占用料条例が市議会で可決、実施された。従来は、一方的に市の規則で定められていたのを条例化したもので、新占用料は鉄、コンクリート電柱1本1年間250円、同木柱200円、看板類1平方メートル1ヵ月30円など。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月1日 政治・経済 石川県労働金庫が開業した。出資金は72団体、360万円。理事長小林幸次(前県教組執行委員長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月1日 政治・経済 北陸鉄道役員会は北鉄の公益性にかんがみ、各界代表を招請して北鉄運営推進委員会を設置することをきめ、柴野知事、井村市長はじめ、10人を委員に委嘱した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月2日 政治・経済 自衛同盟石川県本部結成大会が開かれた。県下会員を2,500人と発表。県本部長辻政信。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月10日 政治・経済 加越能鉄道の富山-金沢間(60.71キロ)と佐野-高岡間(4.15キロ)の新線建設が、運輸省から正式免許された。免許申請は昨年2月27日。計画によれば総建設費29億9,500万円、30年から着工し33年4月完成の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月11日 政治・経済 臨時県議会は原水爆製造実験禁止を、全員一致で決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月29日 政治・経済 北陸鉄道株主総会で、取締役会長に野根長太郎、社長に市助役吉田圭蔵が選任された。吉田は市助役のまま社長を兼務するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月1日 政治・経済 犀川の上菊橋が完工、渡橋式が挙行された。一昨年の水害で流失し、昨年5月工費2,400万円で着工した。長さ148.40メートル、幅5.50メートル、市内最長の永久橋である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月1日 政治・経済 (河北郡大場、八田、花園、三谷、森本の5ヵ村が合併して森本町が発足した。人口1万3,997人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月8日 政治・経済 市助役吉田圭蔵の北鉄社長兼任は市議会内部にも反対意見があるので、市議会は本日、全員協議会を開き井村市長から「将来、北鉄を市営にすることを前提に、吉田助役を北鉄社長に就任させることにした」と将来の方針を表明して了解を求めた結果、全員一致で社長兼任を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月26日 政治・経済 金沢市編入は野々市ブロック合併か、で注目された石川郡押野村は臨時村会議を開き、「編入、合併両派に対する外部からの介入を排し、自主的に問題を解決するため、村議会議員から委員を選び、村の編入協議会と合併協議会に参加させて両者の条件を再審議したのち、村の態度をきめる」動議を全員一致で議決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月28日 政治・経済 新警察制度の発足に伴う新県公安委員に田中清次、久志井安平、平沢三郎が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月29日 政治・経済 市収入役上田茂が小野陽風園理事長に就任のため辞任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月30日 政治・経済 金沢市警察本部は閉庁式を挙行、昭和23年3月7日発足以来、6年3ヵ月の幕を閉じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月1日 政治・経済 石川郡犀川、内川、湯涌谷、額、安原の5ヵ村が正式に金沢市に編入された。編入により、市の地域は約2倍半に広がり305.78平方キロ、人口271,221人となった。編入の5ヵ村には市の出張所が設置され、村長が所長に就任。5ヵ村の人口は犀川村2,674人、内川村1,255人、湯涌谷村1,348人、額村1,822人、安原村2,355人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月1日 政治・経済 自治体警察廃止、新警察制度による石川県警察本部発足。本部は3部10課、県下の警察署は15署1,090人。金沢市内は、市警時代と同じ広坂、玉川、金石の3警察署制(広坂署の管轄に新しく河北郡浅川村が編入)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月1日 政治・経済 国民健康保険制度が、予定通り金沢市で実施された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月1日 政治・経済 市収入役に市民生部長新保義久が選任された。これに伴う異動で民生部長に市警本部長堀岡政義、空席中の経済部長に商工課長葛城勝男が任命された。また国民健康保険実施にともない民生部に保険課が新設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月1日 政治・経済 金沢市総合建設計画審議会が設置された。隣接町村の編入により市の面積人口が拡大したので、この際、大所高所から総合観察にもとづく新たな金沢市発展策を樹立しようというもの。審議会経費284万5,000円は30日の市議会で議決。委員に学識経験者16人を委嘱した。事務局長は吉田助役。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月1日 政治・経済 防衛庁と陸海空自衛隊発足。金沢の保安隊金沢駐とん地部隊は、「陸上自衛隊金沢駐とん部隊」と改称、営庭で第101建設大隊、301ダンプ中隊、管理中隊、業務隊など約600人が参加して記念式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月5日 政治・経済 第1回金沢市総合建設計画審議会が開かれた。金沢市将来の発展策のため、都市計画区域の変更、金沢駅後背地域を工業地帯にする等の用途地域の追加ならびに変更につき協議、大体の成案を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月15日 政治・経済 (珠洲郡の9ヵ町村が合併して珠洲市が発足した。県下5番目の市。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月17日 政治・経済 深刻な危機にある県下中小企業者を結集して、石川県中小企業者決起大会(県商工組合連合会主催)が市公会堂で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月27日 政治・経済 新金沢駅の落成式が挙行された。26年12月着工、総工費約3億4,000万円、地下1階、地上4階、延べ約3,000坪で、2階以上は金沢鉄道管理局庁舎となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 8月4日 政治・経済 市は市民病院および同伝染病院が老朽化したので、30年度から伝染病院敷地に市立総合病院を建設する計画をきめ、準備として寺町通りから伝染病院に通ずる道路新設の測量を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 8月13日 政治・経済 3年前から検討中の第9師団兵舎跡の平和町5万6,000坪に、住宅地と道路を建設する計画は、県、市、北陸財務局の3者間でようやく意見が一致し、正式に建設計画が決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 8月17日 政治・経済 石川県農業会議が設立された。会長和田伝四郎、副会長西外居、酒尾孝之。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 8月23日 政治・経済 市は総合建設計画立案の資料とするため、北陸航空、アジア航空測量の両会社に依頼して、初めて金沢市の航空写真を作成した。(経費180万円)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 8月30日 政治・経済 市は、石川郡押野村の清水村議会議長を市役所に招き、押野村の金沢市編入に対する市の基本的構想を文書で手交した。同村内の金沢市編入、野々市ブロック合併両派は依然、するどく対立情勢にある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月18日 政治・経済 昨年8月流失した県道金沢ー湯涌線の銚子口橋(浅野川)が完成、渡橋式がおこなわれた。長さ24.8メートル、橋脚なしのPSコンクリート橋、工費756万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月24日 政治・経済 金沢市営競馬の実施が自治庁から許可され、市議会で市営競馬特別会計予算5,142万4,000円が可決された。なお、井村市長は議員の「競輪を実施する考えはないか」との質問に対し、「市営競輪を実施する考えは全くない」と答えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月27日 政治・経済 市は29年度市営住宅の長坂町、御所町、金石町の第1種木造住宅44戸と長坂町の鉄筋アパート16戸の入居者を募集、本日締切った。申込み者2,215人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月5日 政治・経済 昨年8月流失した浅野川の応化橋が完成、渡橋式がおこなわれた。長さ36メートル、幅4メートルの木橋、総工費315万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月7日 政治・経済 市は、金沢工業港の本格的工事を前に元運輸省第一港湾建設局長山田三郎博士仲鉢同省富山湾工事事務所長を招き、現地を視察した両人の意見を市長以下市幹部が聴取した。両人は専門家の立場から「大野港は工業港として非常に有望で、今が工業地帯造成に着手の時期である」「第1期工事は1,000トン級、第2期工事は3,000トン級貨物船の出入を目標とすべきである」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月28日 政治・経済 石川郡押野村村議会は午前3時まえ、議員8人(定数16人)から提出の「金沢市へ編入」の緊急動議を、反対派議員退場後の議場で可決した。(しかし村長は議決の執行を拒否した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月28日 政治・経済 石川郡押野村の野々市ブロック合併派の部落民と、同派の村議会議員らは県庁に「分村しても野々市へ合併したい」と陳情した。(結局金沢と野々市いずれへ合併するにしても、または分村するにしても、全村円満に解決するよう県、県議会、村の3者で努力することになった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月28日 政治・経済 市教育委員会の正副委員長が改選され、委員長に細川栄松、副委員長に森直弘が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月29日 政治・経済 (県議会副議長の改選で川崎昇太郎が当選、また県議会からの県教育委員に駒井しづ子が選任された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月6日 政治・経済 市は下本多町の市ガス水道局を他に移し、その跡に懸案の市公会堂をつくる案の検討を開始した。建物の計画案は、鉄筋コンクリート3階建、工費2億5,000万円、5ヵ年計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月12日 政治・経済 市の都市計画道路富本町ー三口新町線の新道、横伝馬町ー片町間(293メートル)舗装が完成、開通式がおこなわれた。この新道は地元で「中央大通り」と名づけられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月25日 政治・経済 (県農協中央会会長田谷充実は、明春4月の知事選挙に出馬する、と県農協連役員会で正式に表明した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月25日 政治・経済 大手町金沢大学大手門わき(児童図書館跡)に、北陸電力の金沢中央変電所が完成、送電を開始した。敷地70坪、地下1階、地上2階、建設費施設費は計1億9,800万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月26日 政治・経済 日本民主党金沢支部の結成を目的とする保守各政治団体金沢支部代表者の会合が開かれ、新党支部結成について改進、自由両党金沢支部および民友クラブ金沢市議団、自衛同盟石川県連などが、一致団結して進むことを申合せた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月12日 政治・経済 (小松市出身の新木栄吉が日本銀行総裁に就任。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月15日 政治・経済 陸上自衛隊は、三小牛山旧陸軍演習場を、陸上自衛隊金沢駐とん部隊用の小演習場候補地に決定し、その買収交渉を金沢市に一任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月17日 政治・経済 市議会は、県および県議会あての「押野村編入促進の意見書」を満場一致で可決した。意見書には「市編入を望まぬものは分離、編入することもやむを得ない」と述べている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月22日 政治・経済 日本民主党金沢支部結成大会が午前に、同石川県連結成大会が午後、市公会堂で挙行された。金沢支部長徳田与吉郎、幹事長羽間政信。県連会長井村徳二、幹事長清谷博文。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月22日 政治・経済 日本民主党石川県連と同党金沢支部の発足により、県議会、金沢市議会の党派別議席数は次のようになった。〔県議会〕民主22、自由11、右社2、左社2、無所属5〔金沢市議会〕民主35、右社5、左社1、無所属2。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月23日 政治・経済 公営火災保険の金沢市火災共済生活協同組合の設立総会が開かれた。市内の各火災保険会社と全損保関係労働組合が、民業圧迫だとして反対していたが、市は他都市の実施状況を調査のうえ、民業を圧迫せずとして設立することになったもの。市は本年度内に1万戸の組合員獲得を目ざしている。1口の契約金額は5万円で1組合員4口まで。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月31日 政治・経済 市は昭和21年以来現在までに、建売住宅を除き1,012戸の公営住宅を建設した。21年度60戸、22年度20戸、23年度58戸、24年度211戸、25年度292戸、26年度175戸、27年度60戸、28年度76戸、29年度60戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 1月1日 社会・文化 午前9時20分ごろ西町の尾山商店街から出火、1戸を全焼、7戸を半焼、1人焼死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 2月21日 社会・文化 北陸鉄道が名古屋陸運局の依頼で、本月6日金沢市内の交通量調査をした結果がまとまった。調査地点は6ヵ所で、地点別の交通量は犀川大橋が首位であった。電車運行時間内(午前5時半から午後11時半まで)における犀川大橋の通行車両は15,670台(1分間に11台)、内訳はトラック等大型車5%、乗用車、スクーター等小型車25%、その他自転車等70%。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 2月22日 社会・文化 午後6時半ごろ石川郡押野村字太郎田(西金沢駅南側)の加賀製紙会社抄紙工場から出火、工場等5むねを全半焼した。焼失面積は同工場約1,400坪のうち約1,200坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 2月24日 社会・文化 (石川郡松任町で大火、26戸全半焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月12日 社会・文化 石川県下ただ1校の旧制学校として残っている金沢医科大学最後の卒業式が挙行された。卒業生85人。大学はあと昭和36年まで学位審査機関として名称だけ残る。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月16日 社会・文化 第五福竜丸(乗組員21人)が、3月1日ビキニ環礁で米国の水爆実験にあい、13日焼津に帰港したので国内騒然。金沢市でも、上近江町金沢魚市場に第五福竜丸の被爆サワラ4本が入荷しているのが発見され、市販前に押収隔離した。金大、県、市衛生部が調査の結果、サワラからは放射能が検出された。(被爆サワラは野田山市営墓地に埋めた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 3月26日 社会・文化 午前9時45分ごろ南町の油販売店から出火、同店1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 4月4日 社会・文化 午前3時12分ごろ田中町の撚糸工場から出火、工場2むねと工場内住宅1むね(計125坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 4月10日 社会・文化 下本多町(広坂)の元第9師団長官舎が、米駐留軍から日本側に正式返還された。払下げをめぐり石川県、北陸電通局、金沢家庭裁判所が競争しているが、払下げ先は未決定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 4月19日 社会・文化 沢野外茂次死去。65歳。大正10年市会議員に初当選し、市会議員2期、県会議員2期、昭和11年7月から20年9月まで市長を3期9年2ヵ月つとめ、戦時下の市勢振興に努力した。民政党に属し、永井柳太郎直系として県政界の長老格であった。戦後小野陽風園園長をつとめ、本年1月北鉄の5代目社長に就任した。(市は弔慰金10万円を贈った) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 4月25日 社会・文化 北陸鉄道労組は、賃金引上げ要求から第1波24時間ストを実施した。市議会、市商店街連盟は24日、労使双方にスト中止を強硬に申入れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 4月27日 社会・文化 北鉄の第2波ストを前に市議会は全員協議会を開き、電車市営の是非につき討議した結果、市営にすることを前提として、具体的に調査研究を進めることを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 4月28日 社会・文化 市の卯辰山公園総合計画委員会顧問東大教授北村徳太郎、建設省計画局施設課長佐藤昌は27日来沢、卯辰山公園を視察し、本日、西町繊維会館で開催の同公園総合計画委員会で、同公園の改良策について具体的見解を発表した。市はこれにもとづき具体的計画をたてる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 4月29日 社会・文化 北陸鉄道労組は第3波24時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーは、晴天下に約25労組1万5,000人が参加しておこなわれた。中共帰国者の人民帽姿も見られた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月4日 社会・文化 インドのネール首相から石川県民に贈られる仏舎利が、インド大菩提会バリシンハ書記長ら5人の使節団に護持されて金沢駅に到着、仏舎利奉迎奉賛会(総裁柴野知事)関係者ら約1,000人に迎えられ、東別院に仮安置された。(のち鶴来町獅子吼山上に安置) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月8日 社会・文化 北陸鉄道労組は始発から第3波ストにはいったが、午前7時半ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月15日 社会・文化 天神町4丁目に天神町児童公園が完成、開園式がおこなわれた。350坪。工費99万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月15日 社会・文化 社会福祉法人小野陽風園の理事長沢野外茂次の死去に伴う後任理事長に、井村重雄(市長)が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月26日 社会・文化 常盤町油谷牧場主油谷大から市に対し、「同牧場が牧場公園として整備中の約1万坪を、卯辰山公園総合施設の一つとして一般に開放したい」と申し出があった。市はこれを受入れ、連絡道路の整備を援助することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 5月30日 社会・文化 午前1時半ごろ香林坊(石浦町77)のタカラ写真材料店付近から出火、同店を全焼、隣接の平井洋装店と中小化粧店を半焼した。タカラ写真材料店で1人焼死、1人重傷。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月14日 社会・文化 石井忠純金沢で死去。68歳。文部省図書局長、東京外国語学校校長から昭和18年四高校長となり、21年退任後、金沢大学創設事務局次長を経て現在県史編集室主任であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月19日 社会・文化 午前10時20分ごろ下近江町暁科学工業会社塗装工場から出火、工場2むねと隣家2軒の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月19日 社会・文化 憲法擁護国民連合石川県支部主催の原水爆禁止石川県民大会が、市公会で開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月23日 社会・文化 午後9時半ごろ七ツ屋町の肥料倉庫から出火、同倉庫(18坪)と住宅1戸を全焼、隣接の鉄工所屋根の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 6月24日 社会・文化 午前3時15分ごろ木ノ新保4番丁のふろ屋から出火、同家を半焼、隣接旅館の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月13日 社会・文化 広坂の元師団長官舎は児童会館に使用したいとする県当局と、金沢家庭裁判所庁舎にしたいとする名古屋高等裁判所との間で、払下げをせり合っていたが、高等裁判所側が県へ譲る方針を決定した。同官舎の敷地は3,390坪、建物は12畳1室、10畳3室、8畳1室、6畳6室と応接室、ホール。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 7月16日 社会・文化 総理府が昨年実施した都市住宅の実態調査結果が発表されたが、石川県下3市の1人当り畳数は全国第1位、うち金沢市は1戸当り4,4室、25,5畳、1人当り4,8畳で人口15万以上の都市では全国最高である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 8月14日 社会・文化 午前11時20分ごろ大額町(旧額村大額)の農家から出火、2戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 8月23日 社会・文化 (国立公園審議会は自然公園候補地19ヵ所のうちから陸中海岸、屋久島、西海の3ヵ所を国立公園に選び、選にもれた白山ほか13ヵ所を国定公園候補地に決定した。-30年7月1日指定。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 8月27日 社会・文化 暁鳥敏死去。77歳。石川郡出城村北安田明達寺住職、東本願寺前宗務総長。明治、大正、昭和3代にわたり宗教、思想界に大きな足跡を残した。(その蔵書はのち暁鳥文庫として金沢大学に寄贈された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 8月29日 社会・文化 長土塀小学校に集団赤痢発生、重症2人を市伝染病院に、190人を仮隔離所にあてた長土塀校新校舎に収容した。同校は30日から9月9日まで休校をきめた(9月8日、さらに9月20日まで休校を延長した)。感染源は学校給食のヒヤムギ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月1日 社会・文化 尾山神社庭園が金沢市記念文化財に指定された。同庭園は金沢城金谷御殿の跡で総坪数2,447坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月9日 社会・文化 河北郡浅川村袋の河川災害復旧工事現場の豊蔵組飯場から、28人の集団赤痢患者が発生した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月16日 社会・文化 午前11時50分ごろ田丸町石川県米穀会社小森倉庫から出火、屋根の半分約80坪を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月21日 社会・文化 集団赤痢で、8月30日から休校中の長土塀小学校は授業を再開した。発生以来の患者ならびに保菌者は530人、死亡はなかった。(現在、校舎にはなお113人を隔離中) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月24日 社会・文化 市議会で井村市長は、長土塀小学校集団赤痢発生事件につき陳謝の意を表した。市議会では、感染源、給食対策等について質問が集中した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月26日 社会・文化 台風15号が午前11時ごろ、猛スピードで石川県沖を北東進し、金沢地方で、最大風速39メートルを記録した。金沢では、スポーツ・センターや片町連鎖店の屋根が飛び、金石町では倉庫の倒壊等も出た。県下の家屋被害約900戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 9月27日 社会・文化 加越能鉄道の石川県側17キロの建設測量が、森本町宮野部落から開始された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月1日 社会・文化 市内大桑町は犀川を中に二つの町に分離され、寺町台に近い区域が従来通り大桑町、小立野台に近い区域が大桑新町となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月6日 社会・文化 長土塀小学校の集団赤痢による隔離者が全部退院し、発生以来38日目で終息した。発生以来隔離されたもの530人の内訳は児童516人、教職員9人、用務員ら5人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月24日 社会・文化 午前0時15分ごろ高柳町の協和カーボン会社金沢工場から出火、研究所(147坪)と副工場(32坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月27日 社会・文化 北陸電力の労働組合は、従来の電産労組と北陸電力労組(19日結成、電労連加盟)に分裂し、北陸電力労組石川県支部の結成大会が挙行された。これで石川県下の両組合別組合員数は電産県支部組合員276人、北陸電力労組県支部組合員1,340人となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 10月28日 社会・文化 午後8時10分ごろ大河端町と河北郡森本町付近にタツ巻が発生、北鉄浅野川線大河端駅(2坪)、森本町石川製作所のメッキ工場、食堂等の屋根や窓が吹き飛び、森本中学校の玄関口が押しつぶされた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月2日 社会・文化 重要文化財西町尾崎神社の大修理が完成、落慶式がおこなわれ、慶賀祭が盛大に催された。修理は、昭和25年7月から総工費約2,200万円をかけたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月3日 社会・文化 第1回金沢市営競馬が開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月3日 社会・文化 第8回(昭和29年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。青山兵吉(短歌・金大工学部教授)鏑木勢岐(郷土史)嵯峨保二(文化運動)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月13日 社会・文化 午後6時ごろ金石松原町の民家鶏小屋付近から出火、住宅1戸と鶏小屋を全焼製材工場、織物工場、肥料小屋など3むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月13日 社会・文化 石門心学会金沢支部結成式が、高松宮を迎え金大理学部講堂で開かれた。支部長徳光八郎(金大教育学部長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月19日 社会・文化 金沢の郷土がん具「加賀起上り」が、昭和30年の年賀郵便切手意匠に選定された。これを記念して金沢市および郵便局、観光連盟等合同で記念大会を開催した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月21日 社会・文化 日本キリスト教団金沢教会が上柿木畠に完工、献堂式がおこなわれた。120坪、工費650万円、石浦町の旧教会の跡地には農林中金がはいり、旧教会の建物(ウイン記念館)は十一屋町に移され伝道教会となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月22日 社会・文化 小立野に新築中の国立金沢病院は、第1期工事が完了したので本日から新館で診療を始めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 11月28日 社会・文化 北陸鉄道労組は、年末手当交渉で始発から24時間ストにはいったが、午後2時40分ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月7日 社会・文化 午前0時50分ごろ長田本町昭和精工工場から出火、同工場3むね(120坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月21日 社会・文化 さる9月、市から文部省に申請した金沢美術工芸短期大学の明春4月から4年制大学昇格(金沢美術工芸大学新設)が、文部省大学設置審議会で決定した(正式認可は30年2月1日付)。設置学科は美術学科(募集40人)産業美術学科(60人)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月24日 社会・文化 千田俔次郎死去。71歳。歩兵7連隊初代連隊旗手千田登文の長男で元陸軍少将。軍人一家として知られていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月25日 社会・文化 香林坊の香林坊橋横に、35坪ばかりの小緑地帯が完成した。緑地帯の中央に置かれた彫刻は長谷川八十作。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和二十九年(1954) 12月 社会・文化 今夏、名古屋のJOCKテレビ放送が開始されてから、県下の温泉街や電気商にテレビ受像機(1台15,6万円)が相当すえつけられてきたが、現在のところ県下でなんとか映る場所は、金沢市金石町郊外と江沼郡大聖寺町だけである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 1月6日 政治・経済 三小牛山旧陸軍演習場一帯を、陸上自衛隊金沢駐とん部隊の演習場にする問題は、金沢市の仲介により民有地10万6,096坪について、地元民と自衛隊との間に買収契約がまとまった。新演習場は国有地2万6,000坪を加えて約13万2,000坪、演習場内に軽飛行機の発着場もできる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 1月19日 政治・経済 柴野知事は、2月20日施行の知事の繰上げ選挙に出馬するため、辞表を県議会議長に提出、急施臨時県議会は30対7で辞職を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 1月23日 政治・経済 石川県労働組合評議会(県評)は、知事選挙に田谷充実、金沢市長選挙に武谷甚太郎を推薦候補とすることを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 1月28日 政治・経済 市議会議長徳田与吉郎は、衆議院議員総選挙に第1区から出馬のため、議員の辞表を武村副議長に提出、市議会は全員協議会を開きこれを承認した。市議会は当分議長を選任せず、武村副議長が代行する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 2月21日 政治・経済 知事選挙が20日おこなわれ、開票の結果、自由、左右両社、労農、共産の野党各派の支持する田中充実(県農協中央会長、52歳)が民主党公認の柴野和喜夫(前知事)を破って当選した。投票率74.4%。当選227,944票 田中充実(無所属新)次点183,128票 柴野和喜夫(民主前) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 2月25日 政治・経済 県副知事土井登が辞任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 2月27日 政治・経済 井村市長は市長3選出馬を断念、市長選挙不出馬を声明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 2月28日 政治・経済 衆議院議員総選挙は27日おこなわれ、開票結果は次の通り。投票率81.5%。〔第1区〕当選83,696票 辻政信(民主前)同53,575票 岡良一(右社前)同51,901票 徳田与吉郎(民主新)次点42,468票 坂田英一(自由前)24,630票 内山光雄(労農新)4,917票 北尾幸一(左社新)〔第2区〕当選49,381票 益谷秀次(自由前)同45,199票 大森玉木(民主元)同42,045票 南好雄(自由前)次点34,765票 喜多壮一郎(民主前)11,611票 富田喜作(無新)7,111票 日吉宗能(左社新)1,439票 原由友(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月1日 政治・経済 金沢-能登飯田間160.7キロを直結する国鉄の夜間急行バスが、運行を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月12日 政治・経済 衆議員議員選挙の選挙違反容疑で、現在までに金沢市議会議員の被逮捕者は13人、うち収容取調べ中のものは11人に達している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月12日 政治・経済 定例市議会は議員欠員、副議長取調べ中のため「仮議長による議事運営が適法かどうか」の問題で混乱、開会1分間で休憩し、仮議長(水野宗次郎)の時間延長不宣言のため延会となり、16日再開することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月14日 政治・経済 市は、銀杏町の田畑909坪を分譲住宅地として買上げ、整地を完了したので分譲申込みの受付けを始めた。分譲宅地は19戸分、1戸当りの敷地は37坪ないし61坪、1坪当り約2,800円で、分譲を受けたものは1年以内に家を建てないと契約解除となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月16日 政治・経済 市議会は新議長に新谷喜一(民)を選任した。しかしその直後の休憩時間中、同議長が選挙違反容疑で金沢地検に逮捕されたので議会運営はまひしたが、仮議長を選んでようやく会議を再開した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月16日 政治・経済 再開後の市議会本会議で、革新議員団提出の議員総辞職決議案が上程されたが、24対7で否決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月17日 政治・経済 選挙違反容疑による民主党所属市議会議員の大量逮捕に対して、県評、両社、労農、共産の各党は市議会開会中の市役所前で約200人を集めて、民主党打倒市民大会を開き、市議会即時解散を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月18日 政治・経済 衆議院議長に第2区選出議員益谷秀次が選任された。石川県から衆議院議長を出したのは初めてである。地元各政党支部、県連も党派を超越して祝意を表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月22日 政治・経済 選挙違反容疑で逮捕された市議会議員14人のうち、4人が起訴された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月24日 政治・経済 金沢市火災共済生活協同組合に対する市の予算外義務負担3,000万円(3年間を限度)が市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月24日 政治・経済 市議会は議会の権威保持ならびに自粛に関する決議を、全員一致で可決した。内容は、市議会議員の中から選挙違反容疑者多数を出したことについて、議会の総意をもって市民に対し深く陳謝し、きたるべき議員選挙には議会の権威保持の決意を表明したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月25日 政治・経済 井村市長が衆議院議員選挙の選挙違反容疑で逮捕、金沢拘置所に収容された。(31日釈放、5月6日起訴) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月4日 政治・経済 前石川県副知事土井登は金沢市長選挙に出馬を声明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月8日 政治・経済 県選挙管理委員会は4月の県、市関係各選挙から金沢市の開票区を大幅に統合し、10開票区とすることに決定した(従来は39開票区)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月11日 政治・経済 金沢市中央保健所が下本多町に設置され、殿町の保健所は金沢市殿町保健所と改称された。下本多町に新築の中央保険所は鉄筋3階建、延べ建坪324坪、総工費2,068万3,000円(6月16日業務開始)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月11日 政治・経済 県道湯涌━金沢線の浅野川にかかる芝原橋が完工、渡橋式がおこなわれた。鉄筋コンクリートT型ケタ橋、幅5.5メートル、長さ37.9メートル、工費646万8,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月19日 政治・経済 金沢市火災共済生活協同組合が県から正式に設立を認可された(厚生省の認可は4月8日)。理事長井村市長、組合事務所は市消防本部内、最高契約限度額は20万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月19日 政治・経済 浅野川の天神橋が完工、渡橋式がおこなわれた。28年8月24日に流失し工費3,700万円で復旧したもので、県下で初めての鉄骨タイドアーチ式無脚永久橋、幅11メートル、長さ48メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月24日 政治・経済 県議会議員選挙が23日おこなわれ、金沢市の開票結果は次の通り(金沢市の定員12人、立候補19人)。金沢市の投票率80.4%。〔当選〕10,332票 宮下太一(右社前)10,166票 鳥畠徳次郎(民前)9,585票 岡島友作(民前)8,729票 越島久米三(左社前)8,657票 内田武雄(無新)8,290票 江川為信(自元)7,938票 神保泰一(民前)7,529票 駒井しづ子(民前)7,486票 浅田勝二(民元)6,960票 宮西隆(左社前)6,902票 清谷博文(民前)6,798票 小間井与一(民新)。県議会の政党別当選者は民主19人、自由12人、左社2人、右社2人、無所属10人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月28日 政治・経済 5月1日任期満了で退任する市長井村重雄の離任式が、市役所でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月1日 政治・経済 市長選挙が4月30日おこなわれ、民主党推薦の前副知事土井登が自由、左右両社、共産各党推薦の元市長武谷甚太郎を破って当選した。投票率86%。当選71,277票 土井登(無所属新)次点68,633票 武谷甚太郎(無所属元) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月1日 政治・経済 市議会議員選挙が4月30日おこなわれ、民主23人、右社7人、左社4人、無所属10人が当選した。投票率86%。(定員44人、立候補73人)〔当選〕3,544票 米沢外秋(民新)3,538票 田中忠(左社新)3,199票 増江幸二(右社前)3,175票 池田外作(民新)3,173票 岩本義男(民前)2,996票 石野初三郎(民新)2,930票 渡辺次雄(無新)2,774票 白沢実(左社新)2,736票 山本弘子(無新)2,725票 桑野与作(無新)2,653票 松島吉治(民前)2,642票 神田信義(民新)2,574票 喜多美由喜(民前)2,556票 油谷外郷(民新)2,548票 赤丸長松(民前)2,540票 新谷喜一(民前)2,433票 尾山徳二(民前)2,408票 酒尾孝之(民前)2,366票 吉田栄作(民前)2,321票 鴻野八郎(無新)2,214票 浅野仁吉(無新)2,213票 小市政男(民新)2,211票 水野宗次郎(民前)2,170票 梅田武一(左社新)2,164票 滝尾照士(無新)2,161票 前田喜太郎(右社前)2,155票 寺井初太郎(民前)2,146票 田辺喜栄(右社新)2,131票 藤野次吉(無新)2,087票 高倉与三松(無前)2,072票 勝田友雄(無新)2,067票 徳田保久(無新)2,064票 柚木尾義太郎(右社新)2,062票 高倉政雄(左社前)2,058票 羽間政信(民前)2,030票 中島勝太郎(民前)2,016票 笹原清松(民前)1,981票 竹中角太郎(民前)1,962票 幸田金次(民前)1,915票 川島重男(右社前)1,836票 中川成次(右社前)1,782票 杉山義直(民前)1,773票 新保仁次郎(民前)1,765票 松永敏(右社新)〔次点以下〕原俊道、北元喜雄、和田源五郎、西重松、林茂、上田孝三、中宮辰、梶山秀男、白沢浩、藤橋由雄、生山泰、中川孝則、坂田忠信、水橋孝、浅井茂人、甚野龍次、阿部壮次郎、越村堅一、芦田高子、寄島明、森屋武雄、中川哲夫、辰村総介、畑藤吉、堂田義久、新崎一正、東久盛、中田喜久男、林幸三 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月6日 政治・経済 市衛生部長高島弥生が辞任、後任に金沢大学医学部助教授大井成之が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月12日 政治・経済 浅野川の昌永橋が完成した。28年8月流失したもので、ボニー式ワーレン型鋼橋、幅4メートル、長さ38メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月18日 政治・経済 市議会は正副議長選挙をおこない、議長に尾山徳二(民)、副議長に寺井初太郎(民)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月20日 政治・経済 クリを食い荒すクリタマバチが、今年にはいって県下の山林に異常発生、金沢市周辺では浅川村に発生している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月24日 政治・経済 (県議会は正副議長選挙をおこない、議長に横田象三郎=自由=副議長に清谷博文=民主=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 6月2日 政治・経済 北陸鉄道役員会は、吉田圭蔵社長(金沢市助役)土井登取締役(金沢市長)の辞任申し出を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 6月4日 政治・経済 28年8月に流失した浅野川の中島大橋が完工、渡橋式がおこなわれ、地元小中学生の旗行列や町会の祝賀踊りなどが盛大に催された。幅13メートル、長さ37メートルのローゼ型鋼橋で総工費2,337万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 6月15日 政治・経済 金沢市中央、殿町両保健所の設置にともない市衛生部の公衆衛生課が廃止され、これによる人事異動が発令された。新発足の両保健所の職員は中央保健所67人、殿町保健所16人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 6月15日 政治・経済 加越能鉄道会社と出資者側の石川県、金沢市および県市議会関係者の懇談会が野田寺町つば甚で開かれた。佐伯社長は「富山━金沢間高速電鉄の進行が遅れているのは、路線の比較検討などに時日がかかるからだ。31年春から用地買収にかかり暮から着工、33年には必ず完成する。総工費約60億円のうち20億円は政府助成金、20億円は長期借入金、あと20億円は私が調達する」と説明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 6月22日 政治・経済 近代都市建設をめざし、市が一昨年から構想をねっていた金沢市中央卸売市場の新設計画案ができあがった。敷地は1万2,000坪、総工費3億2,000万円、候補地としては、北陸線から引込み線をつくれる地域の大豆田本町、北広岡町、神田町、野町、鳴和町、押野村などがあがっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 6月27日 政治・経済 石川郡押野村村会議は、金沢市編入を10対5で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 6月27日 政治・経済 村議会の金沢市編入議決を不満とする押野村の7部落民ら(全村は11部落)は野々市合併派の村議らとバス6台で県庁に押しかけ、田谷知事に村議会の議決をとりあげないよう要望、決議文を手交した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 6月30日 政治・経済 市議会は、石川郡押野村の金沢市編入を全会一致で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 6月30日 政治・経済 市議会は吉田圭蔵助役の再任(3選)を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 7月1日 政治・経済 市は民生部、衛生部を廃止し厚生部を設置した。これで市の部制は5部から総務、経済、土木、厚生の4部となった。また民生部民生課は福祉事務所に吸収され、福祉事務所には福祉課と民生課の2課がおかれた。厚生部長に大井成之(衛生部長)、土木部長に岡本忠幸(土木課長)、総合建設計画事務局次長に鈴木邦彦(土木部長)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 7月1日 政治・経済 市内談議所町は春日中丁と町名が変更になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 7月31日 政治・経済 県土木部が、昨年2月から行政協定費6,000万円で、金沢市無量寺町に工事中の大野船だまりが完成した。船だまりは面積2,400平方メートル、20トン級の漁船約200隻が一度にはいることができる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 8月10日 政治・経済 県総務部長に、自治庁税務部市町村税課長中西陽一が任命された。(前総務部長関盛吉雄は建設省入り) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 8月20日 政治・経済 民主党金沢支部長に井村重雄、幹事長に尾山徳二が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 8月22日 政治・経済 民主党石川県連は臨時大会で、県連会長に井村徳二、副会長に井村重雄、大森玉木、東舜英を選任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 8月23日 政治・経済 県副知事に県土木部長小林庄平が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 8月23日 政治・経済 県公安委員に直山与二が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 8月26日 政治・経済 市は円光寺町を金沢市今後の新住宅基地群とするため、県、市で1万4,000坪を共同購入、ここに市営住宅50戸、建売住宅80戸(県市各40戸)を建て、一方県も県営住宅74戸を建てることに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 8月29日 政治・経済 市は市顧問京大教授武居高四郎、建設省都計課技師奥田教朝、同総合計画課技師木村三郎の3人を招き、市会議室で都市計画に関する懇談会を開いた(出席者約100人)。3人は「金沢の特徴を生かす都市計画を」「北陸3県の中心という考え方で都市計画を」「大都市建設という既成の都市計画の考えを捨て、農村と一体化の都市計画を」とそれぞれ述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月1日 政治・経済 北陸線新倶利伽羅トンネルが開通した。新トンネルは長さ2,449メートル、工事着手以来通算14年目で総工費8億6,000余万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月7日 政治・経済 市議会交通事業調査特別委員会は、北鉄運賃値上げについて「市民感情からいま値上げをすることは適当ではない」との結論を出した。北鉄の値上げ案は市内電車賃10円を13円に、バス料金10円を15円にするもので、市議会革新議員団、県評等が反対同盟をつくり値上げ阻止運動を進めている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月12日 政治・経済 県公安委員長に直山与二が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月15日 政治・経済 北鉄市内電車賃値上げに対する市議会全員協議会が開かれ、革新議員団と市政刷新同志会(3人)は値上げ反対、民主党議員団は市長から議会に諮問あるまで態度保留を表明、結局、尾山議長は「各党各派で出した結論に従って行動するよりしかたがない」との全員協議会としての結論を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月20日 政治・経済 石川郡押野村の合併紛争は県の調停でまとまり、村議会全員協議会は「押野村は金沢市へ編入するが、編入後に分市を希望する地区があった場合は県と市が善処すること」を内容とする自主的解決の方針を全員一致で決定、昨年以来紛争を続けた金沢市編入問題を解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月29日 政治・経済 市議会は前市長井村重雄に対する特別退職金350万円を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月30日 政治・経済 県議会は、石川郡押野村の金沢市編入を「現在野々市町へ合併を希望しているといわれる4部落が、金沢市編入後もなお野々市町への合併を希望する場合は当該部落を分市することにつき市が誠意をもって善処するよう要望する」との付帯決議で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月1日 政治・経済 第8回国勢調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は61,348世帯、人口277,283人(男133,107人、女144,176人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月4日 政治・経済 金沢商工会議所議員総会は会頭に西川外吉、副会頭に吉田次作、麻生徳次を選任した。西川会頭は5期目。(議員改選は全員無競争で当選決定) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月6日 政治・経済 市議会は9月定例議会で金沢城跡の開放を決議、尾山議長は決議に基づき、城跡の開放要請書を戸田金沢大学学長に提出した。要請書は「城跡を広く一般大衆に開放し、その貴重な観光資源を活用することが金沢市の発展のために望ましい」との内容。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月10日 政治・経済 住宅地の造成と住宅の効率的建設を目的とする社団法人石川県住宅公社の設立総会が開かれた。市の出資額は25万円、会長小林副知事、副会長吉田市助役。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月12日 政治・経済 尾山市議会議長ほか2議員は金沢大学事務局を訪れ、城跡開放につき要請したが、大野事務局長(戸田学長不在)は「学園を一般の観光客の遊歩地にすることはできない」と要請をことわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月13日 政治・経済 (小松━小牧間の定期航空が開始された。運航は日本ヘリコプター会社、旅客業務は北陸航空会社が担当するもの。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月17日 政治・経済 政治問題化した北鉄金沢市内電車賃上げに関する運輸審議会の公聴会が運輸省で開かれ、市議会側から4議員のほか金大教授、地元労組関係者らが出席した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月1日 政治・経済 (鶴来町の手取川天狗橋が完工、渡橋式がおこなわれた。総工費7,800万円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月14日 政治・経済 松任━金沢間の北鉄松金線電車が廃止された。松金線は明治38年鉄道馬車開通がはじまりで、大正4年電車(松金電車会社)にかわったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月24日 政治・経済 北鉄は市内電車賃の値上げについて、11月9日に運輸省の許可を得、金沢市長に対し値上げの承認を求めてきたので、市議会は全員協議会を開き協議した。その結果、多数をもって(革新議員団反対)軌道補修の履行等の条件づきで、値上げを承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 12月1日 政治・経済 北鉄の市内電車賃とバス料金の値上げが実施され、電車は10円が13円に、バスは10円が15円になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 12月6日 政治・経済 市都市計画課は、新竪町小学校前から北陸電力石川支店前に至る直線道路をつくるため、同地区の家屋宅地16戸の買収を終り、工事に着手した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 12月13日 政治・経済 30年度の市営住宅(金石町と円光寺町85戸)入居者公募が締切られた。申込み者1,843人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 12月16日 政治・経済 内灘闘争の落し子、金沢七ツ屋町━河北郡宇ノ気町字大崎間の「内灘行政道路」が完工、完成式代りに関係者60余人による視察会がおこなわれた。道路は16キロ、うち県道を改良した区間は13キロで、七ツ屋━諸江間は幅9メートル、あとは6メートル、総工費2億4,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 12月18日 政治・経済 左右両派社会党石川県連の統一大会が県町村会館で開かれ、分裂以来満4年ぶりに統一が成立した。日本社会党石川県連の新会長は岡良一、書記長は北尾幸一。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 12月26日 政治・経済 民主、自由両党石川県連の合同による自由民主党石川県連の結成大会が市公会堂で開かれ、県下の保守合同が成立した。県連会長は益谷秀次、副会長は井村徳二、幹事長西田与作。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 12月28日 政治・経済 合併問題で2年間もみつづけた石川郡押野村が、1月1日の金沢市編入を前に閉村式を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 1月18日 社会・文化 13年前のガタルカナル島の敗戦にからむ著書と、これに対する反ばく声明に端を発した元参謀辻政信代議士(民主)と同島派遣川口支隊長川口清健元少将の公開対決会が、全国的な興味をあつめて広坂通の県町村会館ホールで開かれた。主催は国防懇話会と元東亜連盟有志、聴衆約1,500人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 2月3日 社会・文化 午前4時半ごろ竪町のパチンコ店から出火、同店を全焼、隣接の歯科医院と喫茶店の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 2月13日 社会・文化 午後11時50分ごろ彦三6番丁の民家から出火、1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 2月15日 社会・文化 ドラ作りの金沢市長町6番丁魚住安太郎(為楽)が、文化財保護委員会から重要無形文化財技術保持者に認定された。この認定は、文化財保護法の改正により発足した重要無形文化財の国家指定制度実施後、第1回の認定である。魚住と同時に認定された石川県関係者は、蒔絵の松田権六(金沢出身、東京在住)人形の堀柳女(大聖寺出身、東京在住)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 2月15日 社会・文化 午前4時ごろ額谷町の額谷青年クラブから出火、平屋建13坪の同クラブを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月23日 社会・文化 近く退任帰米する北陸学院保育短期大学学長アイリン・ライザー(64歳)に、勲5等瑞宝章が贈られた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月27日 社会・文化 午後7時45分ごろ下本多町5番丁の機業場から出火、工場1むね(延べ120坪)と住家2戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 3月29日 社会・文化 市は金沢美術工芸大学設置条例を施工した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月1日 社会・文化 金沢市民病院が、外科を中心として22病床に初めて完全看護制を実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月4日 社会・文化 友禅の金沢市横山町2番丁木村雨山(文二)が、第2回の重要無形文化財技術保持者に認定された。同時に認定された石川県関係者は沈金の前大峰(輪島市)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月4日 社会・文化 午前2時20分ごろ観音町3丁目の民家階下の縫製工場から出火、3戸を全焼、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月12日 社会・文化 石川県防犯協会が結成された。会長三浦孫二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月16日 社会・文化 4年制大学に昇格後、はじめての金沢美術工芸大学の入学式がおこなわれた。入学者は109人(うち女子10人)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月27日 社会・文化 香林坊の映画常設館スメル館が「金沢大映」と改称、大映直営館として新発足した。スメル館の館名は大正3年から続いていたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 4月27日 社会・文化 石引町の国立金沢病院に、ガン相談室が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーは小雨の中で約1万人が参加しておこなわれ、市内各所で労組の体育競技や文化行事も催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月6日 社会・文化 午後5時ごろ片町の松本みそ醤油店から出火、2階を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 5月8日 社会・文化 午後2時55分ごろ北石坂新町の民家から出火、1戸を半焼、2戸の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 7月1日 社会・文化 (白山が国定公園に指定された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 7月12日 社会・文化 午後11時50分ごろ石坂川岸1ノ小路の料亭付近から出火、質屋、料亭各1戸と民家2戸の計4戸を全焼、6戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 7月21日 社会・文化 午後6時6分ごろ鳴和町で、北鉄野町行の市内電車(300型鋼鉄車)が脱線転覆、乗客10人が重軽傷を負った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 7月29日 社会・文化 国立金沢病院が、厚生省から全国3番目のガン治療センターに指定された。ガン総合治療の開始は10月1日から。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 8月9日 社会・文化 中島徳太郎死去。75歳。戦前貴族院多額納税議員、金沢商工会議所会頭はじめ多数会社の役員をつとめ地方財界で活躍、戦後は公職を離れ、紙商中島商店会長、加賀製紙社長、北国銀行取締役など事業に専念してきた。昭和3年、大典記念の金沢市立図書館設立のため8万円を市へ寄贈した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 8月10日 社会・文化 金沢地方に豪雨、市内で床上浸水15戸、床下浸水512戸を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月2日 社会・文化 県下で初めての円筒型新校舎が金城高校に完成、落成式が加藤せむ校長の寿像除幕式とともに挙行された。完成した円筒校舎は3階建、建坪148.6坪、14教室で工費3,500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月2日 社会・文化 午前9時20分ごろ諸江町の石川繊維会社の炊事場から出火、炊事場、食堂計70坪を全焼、織物検査室などの1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月3日 社会・文化 市議会衛生常任委員会(代表滝尾照士委員)が大井市厚生部長に、し尿処理の市営化を要請した。市は現在、し尿処理について市民の世論調査を実施中で、その結果をまって将来の処理方法を検討することになっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月6日 社会・文化 県教育委員会は県立金沢二水高校の新築移転敷地として、長坂町旧練兵場跡の1万93坪をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月11日 社会・文化 金沢大学医学部裏手道路ぞいに、アシツキ(河水中の石に生ずる藻の一種)の繁殖しているのが発見され、金大正宗厳敬教授が確認した。この藻は、越中庄川(雄神川)にあるものが万葉の歌によまれて有名で、通常陸上では見られず珍希とされる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月11日 社会・文化 午後5時ごろ竪町の菓子店から出火、同店2階を全焼、隣接2戸の一部も焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月15日 社会・文化 (手取峡谷の景勝地、石川郡鳥越村字上野に北陸鉄道が建設した手取遊園地が開園した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月21日 社会・文化 尾山市議会議長、新保市議会文教常任委員長ほか4委員は田谷知事を訪ね「金沢二水高校敷地の県教委案・長坂町は、学校の集中、通学生の不便等の点から面白くない。現校舎近くに敷地を求められたい。藤江町方面に適地がある」と善処を要請した。また県教育長に議長名で意見書も提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月27日 社会・文化 宮田栄死去。51歳。金大医学部教授、県図書館協会長、県ユネスコ協会理事はじめ多くの文化団体の役員をつとめ、県下の文化活動の推進力として活躍した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 9月29日 社会・文化 兼六園内にある金城霊沢の井戸掘りが、40年ぶりにおこなわれた。2日間で約3メートル掘り下げられたが、投げこまれた銅貨、アルミ貨などが多量に出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月7日 社会・文化 緯度観測のZ項発見者故木村栄博士(泉野町出身)の胸像除幕式が、十一屋町小学校泉野分校でおこなわれた。同博士顕彰会(会長土井市長)が建設したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月14日 社会・文化 午前11時20分ごろ野田平和町の県営住宅睦寮2号舎(延べ250坪)から出火、西側半分を全焼、東側半分を半焼した。元工兵連隊兵舎を改造した建物で被災世帯は23世帯。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月15日 社会・文化 宮守堀通りの金沢大学薬草園跡に工事中の石川県スポーツ・センターの第4期工事が完成、国際ロータリー第62地区第1回年次大会の会場として初使用された。3年前に着工したもので工費約3,100万円、いす席1,400人分。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 10月16日 社会・文化 婚礼、開店祝いなどにまんじゅう、生菓子を入れて贈る金沢名物の一つ「セイロ」が復活、その宣伝隊が市中を練りまわった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月3日 社会・文化 第9回(昭和30年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。加藤せむ(金城高校校長)アイリン・ライザー(北陸保育短大学長)談議所栄二(染色工芸)谷友次(金大医学部教授━梅毒スピロヘータの研究)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月3日 社会・文化 金沢市文化賞を受けた北陸保育短大学長アイリン・ライザーは夜8時、知事、市長、一般市民、教え子らの盛んな見送りを受けて30余年間住んだ金沢を去り故郷アメリカのミシガン州カロライナ市へ帰った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月7日 社会・文化 夕日寺町の露谷━後谷間の「後谷トンネル」が完成、地元民によって盛大な完成式がおこなわれた。トンネルは長さ180メートル、幅3メートル、高さ3メートル、工費500万円。同町27戸180余人が総出の労力奉仕をして、1年半がかりで完成したもの。トンネルの完成で、町民は田畑への往復に山越えの労力が省けることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月9日 社会・文化 午前11時40分ごろ観音町3丁目で、長雨のため地盤がゆるんだ石がきがくずれ5戸が全半壊、付近10数戸が避難した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月9日 社会・文化 北陸学院保育短大学長に同大学教授ロック・ハドソン・ウィンが就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月15日 社会・文化 西御影町の石川県中央病院の完工式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月15日 社会・文化 南町の財団法人石川県労働会館に診療所が開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月21日 社会・文化 相良歩死去。80歳。大正11年5月から昭和5年5月までの2期、金沢市長をつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 11月25日 社会・文化 長田中学校裏の水田から壺、高杯、鉢、瓶など弥生式土器が出土した。約1,700年前のもので、古代民族の集落地であったことを語るものという。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 12月2日 社会・文化 午前1時40分ごろ博労町の北陸政経新報社から出火、事務室を全焼、隣家の一部も焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十年(1955) 12月10日 社会・文化 新住宅地の発展にともない急増の児童を収容するため、市が建設を急いでいた市立十一屋小学校泉野分校が完工、完成式が挙行された。木造2階建、普通教室14、特別教室2等。工費3,357万円、収容児童は約800人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 1月1日 政治・経済 石川郡押野村が金沢市に正式編入された。押野村は548世帯3,067人で、編入後の金沢市は面積311.9平方キロ、61,875世帯280,350人となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 1月20日 政治・経済 (県の行政機構改革実施。従来の本庁関係2局6部34課と県下出先機関149ヵ所が、1局6部29課と出先機関90ヵ所になった。廃止の出先機関は金沢司税署、各郡の財政、福祉、地区病虫害防除、農業改良、地方出納の各事務所、小松、七尾両労政事務所、県教委出張所など。また新設は金沢県税事務所、小松・七尾・輪島3県事務所と3地方教育事務所など。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 1月21日 政治・経済 自由民主党金沢支部が結成された。支部長井村重雄、副支部長浅田勝二、田中富士夫、東耕三、幹事長尾山徳二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 2月16日 政治・経済 石川県庶民質庫が、南町の石川県労働会館に開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 2月21日 政治・経済 横安江町商店街を中心とした浅野川筋の各商店街を、打って一丸とする浅野川振興会の結成総会が開かれた。加盟は20商店街、会長松平利吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 3月7日 政治・経済 中橋町、折違町180世帯で結成している金沢駅操車場移転促進期成同盟会の30余人が、吉田市助役、尾山市議会議長に「中橋踏切が立体交差になると、付近の商店街がさびれる」と反対陳情した。(中橋踏切の立体交差は32年着工予定で調査中) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 3月22日 政治・経済 市の学校建築費にあてるため、一般市民から公募する市債(金沢市建設一時公債)1億600万円の発行が、市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月1日 政治・経済 市は土木部の土木課を廃止して、失業対策事業課と道路課を設置、また商工課を商工観光課に、公民課を社会教育課に改称、市長書記室を秘書課とした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月1日 政治・経済 市役所は給仕(26人)の制度を廃止、傭人から雇員に引上げ事務員と事務補助員の名称で呼ぶことにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月1日 政治・経済 県は兼六園の荒れるのを防ぐために、兼六園管理条例を本日から実施した。条例は園内での禁止項目など11ヵ条からなり、禁止項目違反者の罰則として3.000円以下の過料処分を定めている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月11日 政治・経済 土井市長、市議会の尾山議長、幸田総務常任委員長ほか4委員は上京して、金沢市にテレビ放送の受信装置促進をNHK、電電公社、衆参両院議長、関係各省に陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月22日 政治・経済 日本社会党金沢支部が結成された。支部長越島久米三、書記長上田孝三。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月22日 政治・経済 調達庁代表から県庁で内灘村代表に対し、6月15日で使用期限の切れる内灘試射場の継続使用の申入れがおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月23日 政治・経済 湯涌町の簡易水道が完工、通水式がおこなわれた。同町上水道組合が29年に、工費500万円で着工したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月24日 政治・経済 調達庁の内灘試射場の継続使用申入れに対し、内灘村側は「内灘寄りの河北潟300町歩を政府で埋立てすること、3年前の政府との約束をすみやかに実現すること」等3条件を出し、政府の回答が出るまで、5月1日から1ヵ月半の暫定使用を一応認めることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 5月25日 政治・経済 富山-金沢間有料高速道路建設を提唱している富山県の岩川県議会議長と金厚副議長、総務・建設・経済各常任委員長、県土木部長らの一行は石川県側の協力を求めるため来県、県庁で県議会清谷副議長はじめ12議員、小林副知事、中西総務部長らに富山県側の構想を示した。これに対し石川県側は「加越能鉄道の高速電車計画との調整が先決である。またローカル高速鉄道では採算割れである」と批判的な意見を述べ、今後の研究課題とすることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 6月1日 政治・経済 市は、給与所得者の市民税を毎月の給与から源泉徴収することになり、本月より実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 6月14日 政治・経済 内灘試射場の継続使用について、11日から県庁で政府側(大石調達庁監察官)と内灘村側との間に交渉が続けられた結果、ようやく妥結した。妥結条件は、政府は12月末までに河北潟の埋め立てまたは干拓の調査を完了し、埋め立てまたは干拓を適当とする場合は、32年度政府予算に計上する、もし計上できない場合は1月31日限りで試射場を村に返すというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 6月18日 政治・経済 長田工業進興会と住吉工業会が中心となって、金沢市西部工業連合会を結成した。連合会の目的は、金沢市西部工業地帯の発展を阻害している中橋踏切の早急な改善促進運動をしようというもの。会長沢出万吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 6月26日 政治・経済 市議会は市議会委員会条例を改正して、現在の7常任委員会を総務、土木、経済、教育厚生の4常任委員会にすることを議決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 6月26日 政治・経済 材木町小学校の復旧費8,912万5,000円が市議会で可決された。鉄筋コンクリート3階建。(8月14日起工した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 6月26日 政治・経済 市公会堂建設を進めるための公会堂建設費積立金設置条例が、市議会で可決された。公会堂設置のために市民や各種団体から寄付の申し出があったときは、市予算関係の資金とは別に積立て、建設資金にあてるもの。公会堂の敷地は下本多町ガス水道局の3,500坪の予定で、総工費約3億円と見込んでいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 6月26日 政治・経済 金沢商工会議所会館建設費に対する市の補助1,443万円が、市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月6日 政治・経済 市教育委員会は委員長に細川栄松、委員長職務代理に森直弘、教育長職務代理に学務課長深美政一を選任した。新教育委員会法施行の10月1日から委員は市長の任命制となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月9日 政治・経済 参議院議員選挙が8日おこなわれ、石川県地方区の結果は次の通り。投票率72.5%。〔当選〕268,824票 林屋亀次郎(自民元)〔次点〕95,135票 塩田親雄(社会新)28,381票 梨木作次郎(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月10日 政治・経済 加越能鉄道会社の金沢―富山間高速電鉄建設について県、市、県市両議会、北陸鉄道、加越能鉄道の各代表が市役所で協議の結果、石川県乗入れコース案を決定、直ちに着工の促進を同会社代表に申入れた。決定した乗入れコース案は富山県津沢から河北郡旧三谷村を経て森本、金沢駅に達する南回りのコース。森本━金沢駅間は浅野本町回りか北安江町回りか未定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月11日 政治・経済 市は31年度から実施する都市計画事業の5ヵ年計画を発表した。本年度から都市計画税が創設されたので、今までの計画を修正して5ヵ年計画を樹立したもの。新計画では、とくに金沢駅裏の工場地帯造成に力を注ぎ、道路網を整備し、その上に生産都市の基礎を確立しようとしている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月13日 政治・経済 金沢駅前―二万堂線の伏見橋(西泉町橋地内)が完成、渡橋式がおこなわれた。長さ21.2メートル、幅16メートルのコンクリートと鋼の合成ケタ橋、総工費1,288万円。これで幹線都市計画道路二万堂線は貫通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月14日 政治・経済 都市計画道路の広坂通―鱗町線が完成した。延長710メートル、幅19.1メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月16日 政治・経済 金沢駅地下道が開通した。総工費3,400万円、地下ステーション・デパートから直接駅ホームに通ずる改札口が設けられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月21日 政治・経済 広坂通―鱗町線道路の完成式が石浦神社で挙行された。夜は、北陸電力支店横空地で祝賀演芸大会が催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月24日 政治・経済 (県議会は正副議長選挙をおこない、議長に西田与作、副議長に西川喜作=いずれも自民=を選出した)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月24日 政治・経済 市議会の市政革新議員団の3議員と無所属の1議員が、議会内交渉団体公政同志会を結成した。これにより市議会の分野は、自民党27、市政革新議員団13、公政同志会4となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月1日 政治・経済 自衛隊石川地方連絡部が兼六会館に開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月3日 政治・経済 地方税法の改正により、市は本年度から都市計画税を創設した。9月30日を第1期納期として、土地、家屋所有者から固定資産評価額の100分の0.15を徴収する。対象は4万2,000戸、税額は4,070万円の見込み。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月11日 政治・経済 日本銀行金沢支店長中尾満寿夫が札幌支店長へ転じ、後任に本店人事部次長高木良一が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月11日 政治・経済 市は市内を流れる8本の用水のはんらんを防ぎ、土砂のしゅんせつを行なうため、各用水にコンクリートの沈砂槽を設けることにした。今年はまず鞍月、大野庄、辰巳の3用水に5ヵ所の沈砂槽を近く着工する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月18日 政治・経済 田谷知事は、金沢市旧押野村一部の分市問題紛争調停のための調整委員として、三由信二(金大)松井順孝(弁護士)吉田歳幸(県議会)を任命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月20日 政治・経済 市議会は本年1月1日金沢市に編入した旧押野村のうち、野々市に合併を強く希望している押越、野代、御経塚3部落を金沢市から分市して野々市町に合併する決議案(3派共同提案)を、全員一致で可決した。(3部落の人口は414人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月23日 政治・経済 白鳥路のアスファルト舗装が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月28日 政治・経済 科学技術庁の総合開発調査団(11人)が来県、市役所で市側と懇談会を開き、市側から金沢港修築計画、工業用水の概況等を説明、「加賀地区を飛越地区にふくめて国土開発計画の地区に指定してほしい」と陳情した。これに対し調査団側は「金沢港は伏木港の補助港として生きよ」「国土開発計画の飛越地区には、はいらない」との意見を述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 9月25日 政治・経済 (町村合併促進法の有効期限の本月末を前に、県下各町村の合併が急進展を示し、本日の急施臨時県議会で、町野町の輪島市編入など5件の合併が決議された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 9月25日 政治・経済 県議会は任命制初の石川県教育委員に、吉田他吉、数馬伊平、沢田忠信、杉原亀十郎、酒井晶子の任命を多数で承認した。(正式任命は10月1日) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 9月26日 政治・経済 市議会は革新議員団、公政同志会協同提案の小市政男議員の辞職勧告決議案を、多数で否決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 9月27日 政治・経済 (能美郡国府村が、県下で最初の世界連邦都市を宣言した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 9月28日 政治・経済 市議会は任命制初の金沢市教育委員に、石原堅正(藤花学園校長)、越馬徳治(津田駒工業社長)、素都清朗(金沢市立工業高校長)、松井順孝(弁護士)、吉藤雅子(大谷婦人会金沢教区連合会長)の任命を全員一致で承認した。(正式任命は10月1日) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 9月30日 政治・経済 (町村合併促進法の有効期限最終日の本日、県下で11の合併新市町が発足し、県下の市町村数は5市34町16村に減った。未合併は17町村、また合併したが人口8,000人の適正規模に達しないものは8町村ある。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月1日 政治・経済 県教育委員会は、互選で教育委員長に吉田他吉を選任、また県教育長に中谷久弥の再任を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月1日 政治・経済 金沢市教育委員会は、互選で教育委員長に石原堅正、市教育長に素都清朗を選任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月15日 政治・経済 都市公園法が施行され、石川県では兼六園と小松市芦城公園が適用を受ける。新法では、公園内の建物は公園面積の2%以内に規制される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月16日 政治・経済 金沢市水道の新浄水場建設起工式が、出雲町・若宮町地内でおこなわれた。7ヵ年計画による工事で、工費4億8,000万円、完成すると現在の給水人口17万296人が22万5,800人になる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月17日 政治・経済 県町村合併調整委員会は、金沢市押野地区分市紛争問題に対する最終調停案を、金沢市と野々市町に提示した。調停案の内容は「市議会がすでに分市を議決した御経塚、野代、押越3町はそのまま分市し、また紛争解決の見込みがない押野町は二分して農村地域を野々市町に編入、工場地域を金沢市に残す」というもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月21日 政治・経済 市は本年度市営住宅85戸の入居者を募集した。申込み者は1,718人。円光寺町(耐火建築)34戸、金石町、粟崎町(木造)51戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月31日 政治・経済 金沢市押野地区の分市問題についての県町村合併調整委員会の最終調停案に対し、市議会全員協議会は「調停案は応諾すべき限りでない」との結論を出し、正式回答することを避け議会の意向だけを知事に伝えた。また市側も議会と同様、諾否回答の時期にあらずとし「客観情勢が好転するまで、急速な処置は留保するよう」文書で知事に伝えた。(野々市は条件づきで賛成回答) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 11月10日 政治・経済 北陸電気通信局が香林坊に建築中の金沢電電ビルが完成(地上5階建)、片町郵便局が香林坊郵便局と名を変えて同ビル1階に移った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 11月16日 政治・経済 西町の市公会堂と尾山神社間の旧金谷館庭園跡に建築中の金沢地方貯金局新館が完成、落成式がおこなわれた。地上4階、建坪950坪、工費約8,800万円、金沢の官庁としては珍しいエレベーターもある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月1日 政治・経済 片町大和デパートの増築が完成、新装開店した。地下1階、地上8階。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月5日 政治・経済 米軍内灘試射場隊長スタックハウス大尉は、田谷知事を訪ね「12月中に試射を終了する」と通告した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月15日 政治・経済 西町に新築中の金沢商工会議所が完成、落成式が挙行された。地上4階、地下1階、2階に会頭室ほか。ホールも設けられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月18日 政治・経済 市議会は、河北郡浅川村の金沢市編入を全員一致で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月18日 政治・経済 金沢市史編さん審議委員会が設置された(市条例第33号)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月19日 政治・経済 国連加盟の恩赦が実施され、本日付で大赦令が公布された。石川県では個別恩赦28人、大赦令を適用される公職選挙法違反の該当者は1,330余人で、現在名古屋高裁金沢支部で審理中の金沢市議会議員(9人)と井村前市長らも該当する。(32年1月免訴言渡し) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 1月8日 社会・文化 児童公園「平和町公園」が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 1月11日 社会・文化 1月7日からの降雪は金沢市内で積雪1メートルを越える大雪となり、市内の交通はほとんどマヒ、知事の要請により自衛隊338人が市内道路除雪に出動、全市幼稚園は当分休園した。(市内電車は14日全通) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 1月20日 社会・文化 午後4時45分ごろ中村町8丁目の金沢繊維工業会社の工員休憩室から出火、工員寮等を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 1月22日 社会・文化 午前1時半ごろ増泉町の東和産業会社工場から出火、工場1むね(約110坪)を全焼、民家2むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 1月24日 社会・文化 市は、小学校卒業生徒の学業操行優良者に贈っていた市長賞を廃止し、全卒業生に記念品を贈ることにした。(中学校卒業生には従来通り継続) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 2月26日 社会・文化 午前1時ごろ川岸町の洋家具製造工場から出火、同工場(約200坪)と民家1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 2月27日 社会・文化 金沢少年合唱団(中央公民館所属)が発会式をあげた。団員31人。指導は金大教育学部石本一雄助教授、県立金沢菫台高校中村外治教諭。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 2月29日 社会・文化 武蔵ヶ辻の株式会社田守呉服店(社長田守太兵衛)が、27日から3日間店じまい大売出しをして開店以来75年の店舗を閉じた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 2月 社会・文化 市立長田中学校が完成した。木造2階建、延べ1,279坪、工費4,644万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 2月 社会・文化 市立金石中学校校舎が完成した。木造2階建、延べ1,506坪、工費4,887万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 3月7日 社会・文化 県土木部が立案したことから、各方面で論議の対象になっている兼六園入園の有料化問題について、田谷知事は県議会で「有料化しない」と県の態度を正式に表明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 3月9日 社会・文化 賃上げ要求中の北陸鉄道労組は、午前0時から市内電車線の7時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月1日 社会・文化 金沢駅に、金沢観光協会の金沢市観光案内所が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月10日 社会・文化 汽車の3等寝台室が15年ぶりに復活、北陸線では大阪、上野間急行「ほくりく」に連結された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月14日 社会・文化 石川スポーツ・センターの開館記念スポーツ祭が挙行された。28年6月着工、総工費3,100万円で完成したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月17日 社会・文化 午前10時50分ごろ横山町2番丁の工務店から出火、同店を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月17日 社会・文化 自民党金沢支部は、市内のし尿くみ取り業者がくみ取ったし尿を手近かな市内の畑地等に捨てているので、伝染病シーズンを迎え厳重取締るよう、市衛生部長に要請した。(市内のくみ取り衛生社は現在13社) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月20日 社会・文化 午前9時10分ごろ泉野町の金沢市立工業高校の物置から出火、物置(4坪)を全焼し、実習工場の屋根約5坪を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月21日 社会・文化 県立金沢泉丘高校の前庭に、金沢一中初代校長富田輝象の碑と3代校長久田督の胸像(都賀田勇馬制作)が建てられ、一泉同窓会の手で除幕式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月24日 社会・文化 午後6時50分ごろ、材木町4丁目の材木町小学校の東側児童昇降口横のゴミ箱付近から出火、講堂だけを残して木造2階建の校舎約1,200坪(延べ2,400坪)を全焼した。同校は明治38年7月の建築、火災保険契約額は682万5,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 4月26日 社会・文化 焼失した材木町小学校の1、2、3年生は味噌蔵町小学校、4年生は馬場、瓢箪町両小学校、5年生は此花町小学校、6年生は松ヶ枝町小学校で分散授業を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーが、快晴下に110組合約1万2,000人が参加しておこなわれ各種の行事も盛大に催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 5月8日 社会・文化 金沢勤労者音楽協議会(金沢労音)が結成された。会長佐々木宣男(金大教育学部助教授)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 5月18日 社会・文化 午前4時55分ごろ北安江町の柿木鋳造会社から出火、工場と事務所など2むね(約130坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 6月11日 社会・文化 午後1時55分ごろ高儀町のとうふ屋から出火、2戸の2階を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 6月20日 社会・文化 金城高校、同中学校校長加藤せむが老齢のため辞任、教頭加藤二郎(せむ長男)が校長に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月16日 社会・文化 (奥能登地方、豪雨による大水害。輪島で15日夕方から16日夜9時までの雨量168.2ミリ。死者と行方不明9人、家屋全半壊53戸、床上浸水1,987戸、床下浸水2,852戸。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月18日 社会・文化 昨年2月の衆議院議員総選挙と、知事選挙における公職選挙法違反容疑で起訴された前市長井村重雄に対し、金沢地方裁判所で懲役8月、3年間執行猶予の判決が言渡された。(井村は直ちに控訴) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月19日 社会・文化 国文学者故藤岡作太郎(東圃)博士の記念碑除幕式が、早道町の同博士生家(李花亭)前でおこなわれた。博士の母校新竪町小学校児童が、1人10円ずつ出し合って作ったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月21日 社会・文化 昨年2月の衆議院議員総選挙における公職選挙法違反容疑で起訴された市議会議員10人に対し、金沢地方裁判所で、18日から3回に分けて判決が言渡された。内訳は無罪1人、罰金刑と公民権停止7人、同公民権不停止2人。(無罪と公民権不停止の1人は検事控訴、他は本人が控訴) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 7月22日 社会・文化 午前0時ごろ北安江町石川鋳造所から出火、同工場200坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月1日 社会・文化 昭和17年金沢文化協会から刊行され、久しく絶版となっていた郷土史家日置謙編さんの「加能郷土辞彙」の改訂増補版が、北国新聞社から刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月2日 社会・文化 十間町中島徳太郎は先代徳太郎の1周忌にあたり、先代の寄付で設立された市立図書館に図書購入費として30万円を寄贈した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月11日 社会・文化 天狗橋事件控訴審の判決が下った。元県道路課長だけ1年6月の実刑、他5人は懲役1年、3年間執行猶予。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月17日 社会・文化 金沢ライオンズ・クラブが結成された。会長土井登、全国で30番目のクラブ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月18日 社会・文化 台風9号能登沖を通過、県下は風速約20メートル。金沢市内では住家の破損7むね、非住家の損壊31むねなどのほか、中稲の倒伏と果樹の落果など農作物の被害が大きかった。(20日、市農林課は農作物被害を1億4,870万円と算出) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月20日 社会・文化 午前10時15分ごろ上小川町の農家から出火、1戸を全焼、1戸と地蔵堂を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月21日 社会・文化 金沢大学医学部付属病院の第1期新築工事が完成した。地下1階、地上6階、工費1億3,000万円、252床。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 8月29日 社会・文化 照明学会北陸支部が、8月8日から14日まで金沢市内家庭の電気利用の実態調査をおこなったところ、次の結果が出た。ラジオ107%(100戸につき107台)電気せんたく機9.8%、電気冷蔵庫0.3%、電気掃除機0.6%。調査方法は市立工業高校電気科3年生90人が泉旭町、泉昭和町、上本多町の285戸を訪問調査したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 9月10日 社会・文化 (富山県魚津市の大火、1,755戸焼失。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 9月17日 社会・文化 午後0時50分ごろ西泉町の倉庫精練会社西金沢工場から出火、乾燥室を全焼、手捺製工場と製品整理工場の半分、延べ300坪を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月5日 社会・文化 午前11時半ごろ長良町の民家から出火、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月8日 社会・文化 午前1時半ごろ河原町の電機店から出火、商店4戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月11日 社会・文化 北島多一死去。86歳。金沢市生れ、文化功労者。北里研究所長、日本医師会長、慶大医学部長等を歴任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月11日 社会・文化 兼六園を特別名勝指定にしようと、「兼六園をよくする会」が兼六園三芳庵で発会式をあげた。赤座吉郎、新蔵正、梶谷忠司らが世話役で、会員は知事、市長はじめ30余人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月14日 社会・文化 金沢商業高校設立促進全国大会が、金商同窓会が中心となって県町村会館で開かれ、「菫台高校校舎を転用して、明年4月に金沢商業高校を絶対開校すること」を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月21日 社会・文化 横安江町東別院の大門が完工、落慶法要が大谷光暢法主を迎えて盛大におこなわれた。大門は東別院が金沢市と石川、河北両郡の門信徒約2万2,000戸に呼びかけ、昭和26年から総工費4,000万円で施工したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 10月30日 社会・文化 午前1時5分ごろ松本町(菊川町小学校前)の民家から出火、8戸を全焼、5戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 11月3日 社会・文化 第10回(昭和31年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。八田健一(郷土史家)大橋タカ(社会教育家)越沢宗見(茶道宗匠)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 11月13日 社会・文化 午後4時半ごろ観音町3丁目観音院下のがけが3回目のがけくずれを起した。高さ20メートル、幅5メートル、厚さ1.8メートルの土砂が、道路を乗り越え向う側の家まで押しよせた。(観音院は6月に、約30メートル山手へ移動させた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 11月18日 社会・文化 加藤せむ死去。87歳。金城高校名誉校長。明治37年亡夫広吉と金城女学校を創設し、50余年間私学振興と女子教育に尽した。金沢市文化賞、藍綬褒賞を受賞している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 11月21日 社会・文化 メルボルンの第16回国際オリンピック大会開会。日本代表選手として、石川県から金沢市立工高出身馬淵良(水泳飛込み)、輪島高校出身山中毅(競泳)、羽咋高校出身室矢芳隆(陸上競技)が出場。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 11月26日 社会・文化 民生委員制度創始35年を記念して、宮守堀通りに社会福祉事業功労物故者顕彰碑が建てられた。工費64万円、小野太三郎ほか50人の名簿が埋められている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月1日 社会・文化 市が外濠公園の一部として、百間堀の消防本部と石川門の間の空地に造成中の沈床園(サンク・ガーデン)が完成した。総坪数1,465坪、フランス風の芝生のいこいの園。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月2日 社会・文化 午前5時半ごろ笠舞町の民家から出火、3戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月10日 社会・文化 午前1時50分ごろ入江町の農家から出火、2戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月13日 社会・文化 市立浅野川中学校の落成式がおこなわれた。木造2階建(室内体操場は鉄筋コンクリート)工費4,500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月15日 社会・文化 末町地内の犀川上流にかかっている天池橋(つり橋)が、オート三輪の重みで落下した。負傷者3人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月18日 社会・文化 県教育委員会は、県立金沢菫台高校(小立野)を転用して県立金沢商業高校を明年4月開設することを決定した。このため菫台高校は明年度の生徒募集を停止、また県立金沢泉丘、二水、桜丘の3高校の商業科も募集を停止する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月24日 社会・文化 県立金沢菫台高校の同窓会、PTAは、同校の金沢商業高校転用に反対を決議、反対運動を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十一年(1956) 12月24日 社会・文化 午前3時半ごろ東馬場の旅館五宝館から出火、3階建(延べ90坪)の同旅館を全焼、2戸を半焼、宿泊客3人が重軽傷を負った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 1月21日 政治・経済 市は経済部に土地改良課を新設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 1月23日 政治・経済 政府は内灘試射場の使用を1月末で打切り、地元に返還することを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 1月30日 政治・経済 労働省は、金沢市に国立総合職業補導所の設置を決めた。補導所には機械、木工、織布、自動車整備、溶接、塗装、板金の7科を設置する予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 2月12日 政治・経済 金沢市押野地区の分市問題について、県町村合併調整委員会の吉田、三由両委員が土井市長を訪れ、さきの調停案に対する市の回答を求めた。これに対し、市長は「市議会も押野部落を二分する調停案は受けられぬとしており、市長としても同様である。住民投票になってもやむを得ない」と答えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 2月19日 政治・経済 押野地区分市問題について、市議会の編入対策委員と市選出県議会議員約20人は田谷知事に会見、「もし押野地区分市問題を、住民投票によって解決することになった場合は、押野部落だけについて行なうべきである」と申入れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 2月25日 政治・経済 県の町村合併調整委員会は、土井市長と兵地野々市町長を招致し、「旧押野村のうち、押野部落の通称西金沢駅前地だけを金沢市に残して、賛否両論のある通称押野本村と丸木両地区についてのみ、住民投票を行ない金沢市に残るか、野々市町につくかの帰属を決する」との第2次調停案を示し、3月5日に回答を要求した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月4日 政治・経済 市議会は急施臨時議会を開き、さきに県の町村合併調整委員会が示した押野地区の通称押野本村と、丸木両地区の帰属を、住民投票できめる第2次調停案の受諾を、全会一致で議決した。(野々市編入決定のためには、分市賛成票が有効投票の3分の2を獲得しなければならない) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月20日 政治・経済 石川都市計画地方審議会は、中橋踏切の立体交差建設を原案通り決定した。同工事は、折違町1番地先から中橋町107番地先(金石街道線)までに、幅10メートル長さ280メートルの陸橋をかけ、鉄道線路と立体交差させるもの。工費は1億円、32年度は総工事の2割を実施し、33年度に残り8割を実施する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月21日 政治・経済 市議会議員水野宗次郎は、自民党全国大会で「党生活40年、政党政治につくした功労」により表彰を受けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月23日 政治・経済 市は犀川水系の組合開発をはかるため、犀川上流の見定町付近に多目的ダムを建設することになり、33年度施行を目標に32年度に129万円の調査費を計上、市議会の議決を得た。同ダムは発電、工業用水、農業用水、上水道の四つの経済効果を持つ多目的ダムで、えん堤は高さ90メートル、発電力2万1,000キロワット。(終戦後、寺津地区にダム建設計画を進めたことがあったが、具体化しなかった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月23日 政治・経済 市公会堂は、本多町ガス水道局の場所(2,600坪)に、総工費約4億円で建設することになり、建設設計費750万円が市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月23日 政治・経済 中橋踏切立体交差建設費の金沢市負担金625万円が、市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月23日 政治・経済 市が32年度に実施する水源林造成計画が、市議会で承認された。計画は犀川地区127町歩、内川地区45町歩、金城地区5町歩、富樫地区27町歩、額地区21町歩、湯涌地区27町歩、小坂地区55町歩、計250町歩に杉、赤松、アテを1町歩当り2,500本植えるもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月23日 政治・経済 4月から市議会議員の報酬引上げが可決された。新報酬月額は議長4万4,000円、副議長3万7,000円、議員3万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月26日 政治・経済 金沢市史編さん審議委員に次の7人が任命、あるいは委嘱された。任命・吉田圭蔵(市助役)織田信治(市嘱託)委嘱・鏑木勢岐(泉丘高校講師)八田健一(郷土史家)水上一久(金大法文学部助教授)長岡博男(日本民俗学会評議員)森義雄(桜丘高校長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月30日 政治・経済 内灘試射場の用地と各施設が、正式に米軍から返還された。国有地と物件の管理は北陸財務局の手に移った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月31日 政治・経済 金沢市押野地区の通称「本村」と「丸木」両地区が、分市して野々市町へ編入するか、現状通り金沢市にとどまるかの帰属をきめる県下初の住民投票が、金沢市選挙管理委員会の管理のもとに、押野小学校でおこなわれた。開票の結果は、有効投票385票(選挙人391人)のうち、野々市町へ編入(分市)賛成274票、金沢市にとどまるという分市反対111票で、賛成票が規定の3分の2を17票超過し、野々市町に編入が決定した。両地区の人口は136世帯678人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月4日 政治・経済 市は本年から3ヵ年計画で、押野地区上荒屋町2万坪に325戸の公営住宅を建設することになった。同地は旧市内からバス20分のところ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月5日 政治・経済 河北郡浅川村が金沢市に正式編入された。浅川村は1,107世帯、人口6,709人。編入により金沢市は面積396.78平方キロ、人口287,059人となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月10日 政治・経済 さきに市議会で分市を決議ずみの金沢市押野地区(旧石川郡押野村)の野代町、押越町、御経塚町ならびに住民投票で分市が決定した押野町のうち通称本村と丸木両地域が、正式に金沢市を離れ野々市町に編入された。分市した世帯人口は205世帯1,073人、面積2.01平方キロ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月12日 政治・経済 武蔵ヶ辻、丸越デパートの全館完成祝賀式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月20日 政治・経済 市は厚生部に衛生課、総務部に管財課を新設、また教委事務局の総務課を庶務課に、学務課を学校教育課と改めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月24日 政治・経済 内灘村砂丘地開墾完成報告祭がおこなわれた。砂丘地には、スプリンクラーによる人口雨かんがい施設が完成、開拓地約260町歩は、村民1戸当り約2反歩の予定で近く配分されるはず。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月6日 政治・経済 金沢市史編さん審議委員会の初会合が開かれ、委員長に委員の吉田助役を決定、明治22年市制施行以来の市史編さんについての方針をきめた。事務局の市史編さん室も資料収集を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月8日 政治・経済 金沢市殿町保健所は彦三5番丁に新築の庁舎に移り、彦三保健所と改称した。新保健所は延べ184坪の鉄筋ブロック2階建。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月10日 政治・経済 金沢市西蚊爪と東蚊爪をつなぐ県道須崎-森本線の鞍降橋(浅野川)が完成した。旧鞍降橋は28年の水害で流失したもので、新橋は長さ37.5メートル、幅3.4メートルのコンクリート橋、工費は610万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月28日 政治・経済 犀川上流のダム建設計画について、金沢市の招きで財団法人建設技術研究所理事長松野辰治博士、電源開発会社地質課長広田孝一、経済企画庁開発部技官青山正守が来沢、ダム建設予定地を視察した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月29日 政治・経済 犀川上流のダム建設予定地を視察した松野博士ら3人の視察結果に基づき、ダム建設関係団体の県、金沢農地事務局、北陸電力、金沢市の代表が金沢商工会議所で、犀川水系総合開発計画の策定打合せ会を開いた。その結果、松野博士らの視察で多目的ダム建設の計画は可能と判定し、この判定のもとに、農業用水については農地事務局、工業用水は県、発電は北陸電力、水道は市がそれぞれ細部計画を立て、市がこれらをまとめて犀川水系の総合開発計画を作成することになった。また、必要な資金約40億円についても市がじゅうぶんに研究することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月31日 政治・経済 (小松飛行場米軍基地が閉鎖し、10年4ヵ月ぶりに星条旗がおろされた。返還後は防衛庁が航空自衛隊のジェット航空団設置を計画中。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月1日 政治・経済 市議会の尾山議長と5電力委員は西川県議会副議長を訪れ、石川県の電力料金値上げ反対運動を、今後は県、市議会と商工会議所が一丸となって強力に進めることを申合せた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月3日 政治・経済 金沢経済同友会が設立された。代表幹事西川外吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月16日 政治・経済 北陸財務局が中心となって、金沢市内にある政府各省出先機関の合同庁舎を建設しようとの案が、「庁舎等の使用調整に関する法律」の成立によって表面化し、まず北陸財務局長から田谷知事に話が持ちこまれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月23日 政治・経済 市議会の尾山、寺井正副議長が辞任、議会は正副議長選挙をおこない、議長に羽間政信(自民)、副議長に赤丸長松(自民)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月24日 政治・経済 金沢市内にある政府出先機関の合同庁舎建設問題と、これに関して金沢城跡を開放する問題についての初の懇談会が、関係官庁、団体の代表が県庁に集って開かれた。出席者は出先機関、金大、刑務所、商工会議所、県、市および県市議会等の各代表。合同庁舎をつくることには全員が賛成、また金沢城跡開放の第1次計画として、刑務所を他へ移し、その跡へ金大理学部を移転すべきだとの意見が強かった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月26日 政治・経済 自民党市議会議員と同党の金沢市選出県議会議員は、金沢市将来の諸問題を常時協議し対策をたてるため、新金沢建設自民党協議会を結成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月6日 政治・経済 県土木部は、片町商店街がかねて要望している同商店街の都市計画と、約100軒にのぼる全商店の共同店舗を明年度から着工し、3ヵ年ぐらいで完成したいとの基本方針をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月8日 政治・経済 金沢実業会は、一般の世論となっている金沢城跡の開放促進の態度をとることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月23日 政治・経済 市は公営電気事業復元について、市役所に北陸電力石川支店の代表馬瀬次長を招き、市議会の電力委員会委員立会いのもとに「戦時中に北陸配電に統合した市営電気事業設備を、適正価格をもって譲り受ける交渉を開始したい」むねを正式に申入れた。市は同時に石川県から北電の役員になっている西川外吉、直山与二に対して、協力を要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 8月12日 政治・経済 (県議会の西田議長が辞任、県議会は空席の副議長と一括、正副議長選挙をおこない、議長に浜上耕三、副議長に宮本米吉=いずれも自民=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 8月12日 政治・経済 県教育委員に鈴木紀子が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 8月25日 政治・経済 市は懸案の下水道を、まず金沢駅裏の長田、北安江地区に昭和35年度から3億1,000万円5ヵ年計画で、敷設する方針をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 8月31日 政治・経済 石川県住宅公社は、円光寺住宅団地の完成式を同団地中央広場で挙行した。同団地は、30年11月建設に着手し、さる5月付属施設も含めて全部完成したもの。団地の面積は宅地1万7,000坪、道路4,100坪その他で合計2万2,000坪。現在までに建てられた住宅は公営住宅164戸、建売分譲住宅162戸、店舗併用住宅16戸、個人融資住宅20戸、公衆浴場1戸の合計363戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月1日 政治・経済 金沢測候所は、金沢地方気象台と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月25日 政治・経済 市は10月から58歳以上の職員に対する勧奨退職を実施することに決定、「職員退職手当支給に関する特例」の条例を市議会に提出したので、市職員組合は希望者以外の勧奨退職に反対して、市役所内庭で総決起大会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月26日 政治・経済 市議会は、金沢市の世界連邦平和都市宣言を全員一致で決議した。全国では37番目、石川県下では旧国府村に次いで2番目の平和都市宣言である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月27日 政治・経済 市議会は市職員の勧奨退職者に退職金を増額支給する条例「職員退職手当支給に関する特例」を可決した。各派議員団が数回にわたり協議、交渉の結果、強制力をともなわない方法で退職の措置をとるよう、市当局に要請することで条例承認にようやくまとまったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月28日 政治・経済 市役所の第1別館は近く取りこわし、その跡640坪に地上4階の新別館を建設することになったので、第1別館内にある福祉事務所の民生課、福祉課、教育委員会事務局の学校教育課、社会教育課、庶務課は中央公民館に移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 10月1日 政治・経済 金沢商工会議所は、議員改選後の議員総会で会頭に西川外吉、副会頭に吉田次作、麻生徳次、竹村重武を選出した。西川会頭は6期目。(議員改選は全員無競争で当選決定) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 10月1日 政治・経済 (北陸線米原-敦賀間の電化開通式が、木ノ本と敦賀で挙行された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 10月10日 政治・経済 市は本年度から2カ年計画で、長坂町(敷地3,400坪)に総合病院を建設することに決定、厚生年金積立金からの還元融資3,300万円が内定した。そのため本年度は3,300万円の厚生年金融資、伝染病舎に対する1,000万円の起債、国庫補助などを合せて約6,000万円で着工する。(総工費約2億5,000万円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 10月15日 政治・経済 市は、源太郎川(下百々女木町から木曾坂、材木町1丁目-7丁目を経て並木町から浅野川に出るもの)の改修を着工した。同川は大雨ごとにはんらんするので、地元住民から多年改修を要望されていたもの。改修は同川を材木町1丁目から分岐して、森町1番丁、銀杏町、桜町、馬場崎町を経て常盤橋から浅野川に放流する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 10月20日 政治・経済 土地区画整理法が昭和30年に施行されてから金沢市内で初めての区画整理組合が、笠舞町に結成された。約1万3,000坪の農地と宅地を整理して、約200戸の住宅団地を建設しようというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月14日 政治・経済 (敦賀─今庄間に新設する日本最長の北陸トンネルの起工式が挙行された。長さ13.85キロ。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月20日 政治・経済 寺町終点─野田町間の道路舗装が完成、この舗装を公共事業(全額国庫資金)として実現するために、手をたずさえて努力した地元十一屋校下の母親たち約1,000人も参列して、寺町終点映画館でなごやかな完成祝賀式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月28日 政治・経済 浅野川出水のとき大橋付近のはんらんを根絶するため、県は小橋用水および中島用水の取入れ用せきを取り払い、小橋下流にローラー式可動せきを建設することになり、着工した。本年度から3ヵ年計画、本年度工費は国庫補助を得て1,800万円、総工費は9,500万円。(付近民は、ようやく完成した舗装道路がまたこわされて、営業、交通の妨害になると公聴会では反対した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月7日 政治・経済 日ソ協会石川支部の創立総会が、県町村会館で開かれた。支部長嵯峨保二、理事長前川吉栄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月10日 政治・経済 市清掃課が糸田町に建設中の清掃基地が完成、従来の4基地を廃止して、従業員86人と清掃自動車全部(23台)が移転した。施設の総坪数1,241坪。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月16日 政治・経済 県議会は、世界連邦平和宣言を全員一致で決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月23日 政治・経済 市は9月市議会で決った退職勧奨についての条例にもとづき、58歳以上の職員147人を対象に退職を勧奨していたが、本日付でまず67人の退職を発令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 1月2日 社会・文化 午後10時5分ごろ玉川町の民家から出火、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 1月22日 社会・文化 公職選挙法違反事件で控訴中の井村前市長と市議会議員3人、前議員2人、県議会議員1人に対し、名古屋高等裁判所金沢支部で、国連加盟恩赦による免訴の言渡しがあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 1月24日 社会・文化 長町3番丁の淡中医院2階から出火、2階を半焼(約32坪)した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 1月29日 社会・文化 公職選挙法違反事件で控訴中の市議会議員4人らに対し、名古屋高等裁判所金沢支部で、国連加盟恩赦による免訴の言渡しがあった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 2月1日 社会・文化 日教組の第6次教育研究全国集会が、本日から4日間、金沢市内各会場で開催された。全国からの参加者約8,000人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 2月2日 社会・文化 午後10時ごろ間明町の農家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 2月6日 社会・文化 県は河北郡浅川村の国立若松療養所に、結核児童のための教室・若松学園(下田上小、中学校の分校)を設置、開校式をあげた。県下で初めての試みである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 2月18日 社会・文化 県は金沢商業高校に転用する金沢菫台高校を、4月から鉄筋に増改築することを決定した。予算は2,570万円(うち金沢商工会議所負担800万円)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 2月22日 社会・文化 午後3時50分ごろ山ノ上町5丁目の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月9日 社会・文化 午後11時18分ごろ大野町4丁目の農家から出火、2戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月10日 社会・文化 午前3時47分ごろ栄町の電気器具商倉庫から出火、土蔵倉庫2むねを全焼、住家2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月11日 社会・文化 総評の春季闘争第3波実力行使が、空前の規模で全国的に実施された。国鉄労組北陸地本、機関車労組金沢支部、全逓北陸地本、全電通北陸地本、全専売金沢支部、北陸国税、全司法県支部、全農林県協、石川県職組等はそれぞれ時間内職場大会の開催、休暇早退戦術などを実施した。民間労組では、北陸鉄道労組が始発から8時まで全線運休しただけでストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月11日 社会・文化 石川県評主催の春闘労働者総決起大会が薄暮の兼六園広場で開催され、参加者約4,000人が市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月11日 社会・文化 (国鉄労組の実力行使で、国鉄は空前の混乱をおこし、東海道線は一時マヒ状態に陥った。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月14日 社会・文化 長町校下民の手で、古寺町に「子供の家」ができ開所式をあげた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月19日 社会・文化 午後5時半ごろ七ッ屋町下丁の繊維くず原料工場から出火、同工場と隣接のでん粉工場および住宅2戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 3月23日 社会・文化 午後3時15分ごろ茶畠1ノ小路の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月1日 社会・文化 精神薄弱児の学級が長土塀、石引町、芳斎町の3小学校に開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月1日 社会・文化 (県は県下の88歳以上の高齢者に対し、1人年額1,800円を贈る敬老贈与金制を実施した。本年度の該当老人は617人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月3日 社会・文化 枯死寸前にある兼六園の塩竈桜のあとつぎとして、県は、宮城県塩釜市の塩竈神社から苗木1本(高さ約3尺)を譲り受け、老木の塩竈桜のかたわらに植えた。現在の塩竈桜は約200年前に塩竈神社から贈られたもの。こんど譲り受けた苗木は、同神社が苦心育成した3本のうちの1本である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月6日 社会・文化 四高ボート部11人の琵琶湖遭難事件(昭和16年4月6日)の17周年追悼法要が、旧四高ボート部員で結成している北溟会の主催で、当時の関係者100人余人が参列して、旧校庭遭難碑前で挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月9日 社会・文化 午前10時ごろ川岸町の印刷工場から出火、同工場(24坪)と民家1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月12日 社会・文化 売春防止法の4月1日施行(罰則規定の発効は明年4月から)にともない、石川県売春防止協議会が発足した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 4月21日 社会・文化 午後7時半ごろ柳町の金沢駅前中央市場の飲食店から出火、同市場3むね(130坪)のほとんどを焼いた。全焼店舗19、半焼店舗10。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーが雨空の下で約1万5,000人が参加しておこなわれた。仮装コンクールやプラカード展も催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月5日 社会・文化 午前5時50分ごろ金沢大学薬学部の薬学研究室から出火、木造2階建ての研究室(32室)1むね434坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月9日 社会・文化 (金沢鉄道管理局は春季闘争の責任者として、国鉄労組北陸地方本部と機関車労組金沢支部の22人に対し、停職4人を含む処分を通告した。また金沢郵政局は全逓北陸地本の2人を停職、1人を減給、北陸電通局でも3人を訓告処分にした。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月10日 社会・文化 尾山神社境内池の復旧工事が3年ぶりで完成した。同神社庭園が29年、金沢市記念文化財に指定されてから工費120万円で施工していたもので、辰巳用水から17年ぶりに水を引いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月11日 社会・文化 公労協9組合は春闘の処分反対闘争のため11、12両日全国一斉に実力行使を実施した。国鉄労組北陸地本は北陸線主要10駅で職場大会を強行、そのため貨物列車88本が運休、北陸線の貨物輸送遅れは3万6,300トンに達した。金沢商工会議所は「国鉄労組の闘争は産業界を破滅に導くものである」との会頭談話を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月11日 社会・文化 夕日寺小学校児童に風疹発生、全校187人のうち82人が欠席したので、本日から15日まで臨時休校をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月14日 社会・文化 金沢大学医学部教授岡本肇博士が「核酸による溶血性連鎖状球菌の溶血毒増産現象の発見」によって、本年度学士院賞を受賞した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月16日 社会・文化 英国が15日クリスマス島で初の水爆実験強行。これに抗議し、石川県下では午後5時を期し、各市町村、工場、学校で1分間サイレン、寺院協会は鐘、停車中の機関車は1分間警笛をそれぞれ吹鳴。北鉄の電車は15秒間停車、また大和百貨店は石川県原水協の要請でミュージック・サイレンで「原爆許すまじ」を放送、さらに県下多数の団体と労組が英国大使館に抗議電報を打ったほか、原水協の宣伝カーが金沢市内にくり出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 5月30日 社会・文化 午後8時20分ごろ、北陸線森本駅で青森発大阪行514列車に、貨車入れ替え中の機関車が側面衝突して旅客列車の一部が脱線転覆、30数人が重軽傷を負った。(現場の完全復旧は31日午前6時、この間の貨車運休40本) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月1日 社会・文化 鳴和町に私立北陸電波学校が創設された。校長嵯峨保二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月11日 社会・文化 市議会の革新議員団は、土井市長に「金沢城跡内にある金沢大学法文学部を小立野の金沢刑務所の位置に移して城跡を開放し、刑務所は山間地域に建設するよう関係方面と折衝にあたってほしい」と強く要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月16日 社会・文化 午前6時20分ごろ城力町(旧犀川村)の農家から出火、住家1戸と納屋を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月17日 社会・文化 午前7時40分ごろ鱗町の薬品店実験室から出火、同実験室と納屋、隣接の旅館(2階建45坪)を全焼した。また午前11時50分ごろ上石引町の美術道具店から出火、同家を全焼、隣接のふろ屋の2階と民家2戸の屋根を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月18日 社会・文化 金沢城三十間長屋が重要文化財に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 6月22日 社会・文化 長土塀小学校の落成式が挙行された。着工は昭和25年秋で、鉄筋3階建、延べ1,800坪、総工費1億1,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月2日 社会・文化 金沢大学の学長選挙で、現学長戸田正三が再選された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月2日 社会・文化 (金沢鉄道管理局は、国鉄労組北陸地本と機関車労組金沢支部が行った5月11、12日の処分反対闘争および6月13日の夏季闘争に対し、停職9人を含む2,118人の大量処分を発表した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月2日 社会・文化 午前1時ごろ入江町の綿打工場から出火、同工場を全焼、隣家の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月7日 社会・文化 兼六園日本武尊の銅像の右眼球(ガラス)が、抜けてなくなっているのが発見されたのは1年3か月前、最近、新しい眼球(県工芸指導所長作)が入れられたのを機に、兼六園をよくする会、県観光連盟、犀川振興会、兼六園観光協会の主催で、銅像建設77年の喜寿祝いを兼ねた開眼式が盛大におこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月10日 社会・文化 市議会議員田中忠死去。50歳。社会党所属、30年2月に左社から当選、電通労組出身。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月13日 社会・文化 卯辰山腹の西村五門所有の雑草地から、「卯辰山撫育所千五百六十二人群霊」と刻んだ石碑が鶯町安田博によって発見された。5代藩主前田綱紀時代、笠舞に建てた非人小屋が慶應3年卯辰山に移されて撫育所となったが、この碑は小屋創始以来の死亡者の慰霊碑と考えられる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月21日 社会・文化 午前5時半ごろ天神町3丁目でがけくずれがあり、3戸がなだれ込んだ土砂で傾いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 7月27日 社会・文化 金沢城跡開放問題が各方面で盛んな論議の対象となっているが、北陸放送(MRO)が「金沢城跡の開放をどう思うか」のラジオ討論会を北国講堂で開いた。開放賛成側のゲストは吉田市助役と山田金沢観光協会副会長、反対側のゲストは牧田金大教育学部講師と熊谷金沢地方裁判所長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 8月2日 社会・文化 世界連邦建設同盟石川県支部の結成式が、北国新聞社会議室で同盟理事長下中弥三郎らも出席して開かれ、県支部役員63人を決定した。県支部長嵯峨保二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 8月14日 社会・文化 (午後8時40分ごろ石川郡松任町水島町の中越印刷製紙会社石川工場から出火、全工場の5分の1の4むね650坪を全焼した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 8月20日 社会・文化 市は金沢市観光審議会を設置した。市の観光事業を総合的に計画審議して市長に答申する。委員・木村英夫(建設省計画局施設課長)矢山康夫(金鉄局長)戸谷英雄(県経済部長)吉田次作(金沢商工会議所副会頭)野根長太郎(北鉄社長)桜井芳忠(湯涌温泉観光協会長)吉田圭蔵(市助役)新保仁次郎(市議会経済委員長)喜多美由喜(市議会土木委員長) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月10日 社会・文化 三小牛は、金沢市の文化発祥の地として郷土史研究家の間で総合調査の必要が説かれていたが、市教育委員会は考古学の沼田啓太郎、玉井敬泉に依頼、本日現地調査をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月15日 社会・文化 市は金沢市内の情緒保護のため、浅野川風致地区、中央風致地区、犀川風致地区の指定を県と建設省へ申請手続きをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月15日 社会・文化 市教育委員会は市民に奨励するハイキングコース5本を決めた。倉ヶ岳コース(18キロ)医王山コース(24キロ)国見コース(22キロ)戸室山コース(16キロ)粟崎コース(16キロ)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月16日 社会・文化 公衆衛生の向上に尽した団体と個人に贈られる厚生省の第9回保健文化賞の団体の部で、金沢市が受賞、厚生大臣表彰状と第一生命賞(20万円)が贈られた。金沢市は29年に発足した国民健康保険がうまく運営され、市民の死亡率も著しく低くなったというのが受賞の理由。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 9月30日 社会・文化 石川都市計画地方審議会は、さきに金沢市が申請した市内3カ所に新風致地区を設置する建設大臣の諮問への答申を決定した(近く官報に告示され本ぎまりとなる)。新風致地区に含まれる町名は次の通り。[浅野川風致地区]常盤町、豊国町、御歩町1、2、4番丁、森下町、東馬場町、小橋町、川端町、桜町6番丁、浅野川川除町、並木町、橋場町、主計町、母衣町、彦三1番丁の各一部浅野川べり。〔中央風致地区〕大手町、仙石町、西町1、3番丁、広坂通、出羽町1、4番丁、下石引町、下本多町1、2、3、6番丁、尻垂坂通1、2、3丁目、上胡桃町、小尻谷町の各一部の城跡と兼六園をめぐる一帯の地域。〔犀川風致地区〕松本町、川岸町、中川除町、十三間町、上伝馬町、下川除町、新川除町、西御影町、仙人町、桜畠8、9、10番丁、下石伐町、上石伐町、野田寺町4、5丁目、蛤坂新道、蛤坂町、野町1丁目、西側町、千日町の各一部の御影大橋から上流上菊橋の犀川べり一帯。(金沢市内の風致地区は昭和12年5月指定の卯辰山風致地区と合せて4地区となった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 10月22日 社会・文化 郵政省はテレビ放送の予備免許をNHK7局、民放34社36局に与えた。北陸地方では北陸放送(金沢)、北日本放送(富山)、福井放送。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 10月25日 社会・文化 長土塀小学校で集団赤痢発生、25日現在の患者は1、2年生35人。(同校は29年8月にも集団発生) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月1日 社会・文化 (北陸観光開発会社が片山津新保地内に建設した片山津ゴルフ場が、アウトコース9ホールで開場した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月3日 社会・文化 第11回(昭和32年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。市川渡(金大理学部教授-珪藻土工業の発展に貢献)綱村基行(医師、歌人-地方歌道を開拓)福島よね(浄るり師匠-浄るり道の高揚)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月3日 社会・文化 (河北郡七塚町の株式会社西川機業場で2工場等約800坪全焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月9日 社会・文化 午後7時5分ごろ味噌蔵町東丁の民家の納屋から出火、2階建住家1むねと納屋2むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月14日 社会・文化 金沢市観光審議会の初会合が開かれた。金沢城跡の整備、兼六園と卯辰山の整備、医王山の開発、河北潟の水上公園等についての事務局案を中心に、各委員の意見が述べられた。会長には委員の吉田助役が就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月17日 社会・文化 金鵄勲章をもつ旧軍人の組織、石川県功友会が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月21日 社会・文化 市議会の最長老議員水野宗次郎死去。81歳。大正6年憲政会に入り、現在まで40年間に県議1回、市議5回当選、市議会議長と副議長を各1回つとめ、全国市議長会、金沢市議会から永年勤続議員として表彰を受けた。葬儀は金沢市議会としては最初の市議会葬として23日東別院で執行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月22日 社会・文化 卯辰山モミジ谷のドライブウエーぎわに、市が施行中の池が完成した。池の面積は840平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月22日 社会・文化 石川県公衆浴場組合連合会の入浴料金値上げ促進決起大会が、広坂通の石浦神社境内で開かれ、金沢浴場組合の93浴場は一斉臨時休業して参加した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月26日 社会・文化 市内の薬剤師でない薬種屋86人が、金沢薬業士会を結成した。薬事法で身分を確立させようというのが目的。   金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月28日 社会・文化 市清掃課は6月から11月にかけて市内の各戸別汚物排出調査をした結果、し尿については78%が市営くみ取りを希望していることがわかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月30日 社会・文化 金沢市公衆浴場組合は、値上げ促進のため1日からの一斉休業を断念し、その代り無期限営業時間短縮を決定、「毎日午後3時営業開始、朝ぶろ廃止」を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 11月 社会・文化 長土塀小学校の集団赤痢が終息した。隔離した保菌児童は計68人に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月5日 社会・文化 市立鳴和中学校の落成式がおこなわれた。着工は昭和24年、30年度に第1次建設計画を終え、さらに第2次計画として1むねを増設したもの。木造2階建、延べ2,355坪、総工費6,610万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月11日 社会・文化 市は12月1日市公会堂建設委員会を設置、本日同委員会の役員を委嘱した。役員は資金計画について各界の協力を求めるため、金沢商工会議所、県経営者協会、県市議会、婦人会、国会議員、報道機関などの広い範囲から委員64人、顧問14人、相談役56人計134人を委嘱、委員長に土井市長、事務局長に吉田助役が就任した。市の構想は総工費4億3,000万円、明年度から一部着工の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月15日 社会・文化 泉熱の発見者金沢大学医学部長泉仙助博士が、30年の研究をまとめた著書「泉熱」を診断と治療社から出版した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月16日 社会・文化 市議会議員高倉与三松死去。63歳。自民党所属、昭和17年から市議会議員を4期つとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月19日 社会・文化 2ヵ月間にわたりもめていた県下の入浴料金値上げ問題は、県厚生部長と高柳県公衆浴場組合連合会長との最後的話し合いの結果、明年3月31日までの冬季だけ、大中小人各1円を値上げすることで解決した(金沢市内の大人新料金は16円となる)。組合は営業開始時間を午後3時から1時にくりあげた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月23日 社会・文化 NHK金沢放送局が、裏日本で最初のテレビ放送を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月24日 社会・文化 午後11時半ごろ中堀川町の飲食店から出火、3戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月25日 社会・文化 金沢市公衆浴場組合は本日から朝ぶろを復活した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月25日 社会・文化 市議会副議長赤丸長松死去。52歳。市議在任2期。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月27日 社会・文化 (勤務評定阻止で、県教組と県教育委員会の団体交渉が初めて行われた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十二年(1957) 12月31日 社会・文化 神保重吉死去。76歳。弁護士、大正11年から市議2回、県議1回当選、昭和11年2月第1区から政友会に推され代議士に当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 1月1日 政治・経済 (山中町を除く江沼郡9ヵ町村が合併して加賀市が生れた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 1月24日 政治・経済 県下中小商工業者の政治団体として、日本中小企業政治連盟金沢支部の結成大会が市公会堂で開かれた。支部長麻生徳次。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 2月7日 政治・経済 市公会堂建設委員会の第1回委員会が市役所で開かれ、市は「資金総額3億円2ヵ年計画、初年度は1億5,000万円で、寄付金を主にして一般市費もあてる」と建設計画案を説明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 2月19日 政治・経済 (小松飛行場が米軍から日本政府へ正式に返還され、飛行場で返還式がおこなわれた。同飛行場の総面積は106万坪。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 2月22日 政治・経済 県は兼六園球場の改装を明年度から3ヵ年計画、総工費3,910万円で着工することをきめた。現在の木造13段のメーンスタンドも、鉄筋コンクリート25段に拡張する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月4日 政治・経済 浅野川の常盤橋が完成、渡橋式がおこなわれた。長さ51メートル、幅3.64メートルの基礎コンクリート、上部木造の橋で、工費324万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月8日 政治・経済 市議会は、赤丸副議長の死去に伴う後任副議長に吉田栄作(自民)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月10日 政治・経済 下堤町に新築の北国銀行本店が完成、開店した。旧本店は武蔵ヶ辻支店になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月16日 政治・経済 社会党石川県連の役員改選で会長に上田政次、副会長に宮西隆、書記長に川島重男が選任された。(前会長岡良一は県連顧問に就任) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月18日 政治・経済 市議会は土地公団設立に関する意見書を、全員一致で可決した。公共用地の買収を促進するため公団を設立し、公団が一括して土地を買収しようというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月18日 政治・経済 市は33年度に犀川第1ダム建設のための各種測量調査、ボーリングおよび物理探査を実施することになり、調査費2,500万円が市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月18日 政治・経済 33年度の市特別会計予算に計上した長坂町の市立病院建設費2億1,090万円、公会堂建設費初年度分1億5,000万円、青少年の家建設費1,498万円が市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月21日 政治・経済 石川県農民組合総連合が日農新農建派、主体性派、統一派の3派40組合の統一により結成された。さきに主体性派の42組合により、日農全連石川県連合会が結成されているので、県下の農民戦線は二分された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月25日 政治・経済 市は、新年度から本格的調査を開始する犀川第1ダムの建設推進のため、総合建設計画審議会事務局次長に山形県県営電気局土木課長青木治夫を起用、発令した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月29日 政治・経済 田井町地内県道金沢ー福光線浅野川の若松橋が完成、渡橋式がおこなわれた。長さ63メートル、幅4.5メートルのゲルバート式コンクリート永久橋で、工費1,270万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月1日 政治・経済 尻垂坂通1丁目、2丁目、3丁目の町名が兼六通1丁目、2丁目、3丁目に変更された。全町民106戸が陳情し、市議会が承認したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月19日 政治・経済 内灘試射場使用の補償事業として、28年12月に着工した内灘砂丘地の開墾建設事業が完成したので、県は大根布小学校で盛大な完成式を挙行した。事業は、内灘砂丘地407町8反歩を267町歩の畑地と付随した道路および防風林に造成したもの。総事業費2億4,260万円。畑地は1,100余戸の農家に、平均1戸当り2反5畝の割合で配分した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 5月7日 政治・経済 示野町地内の金沢-八田線県道犀川にかかる示野橋が完成、渡橋式がおこなわれた。長さ65メートル、幅6メートルの永久橋で、工費1,730万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 5月7日 政治・経済 瓢箪町小学校校舎の改築落成式が挙行された。木造校舎の一部を鉄筋コンクリート3階に改築したもの工費2,592万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 5月23日 政治・経済 衆議院議員選挙は22日おこなわれ、開票結果は次の通り。投票率79.9%。〔第1区〕当選53,033票 坂田英一(自民元)同49,342票 岡良一(社会前)同45,582票 辻政信(自民前)次点43,932票 徳田与吉郎(自民前)42,664票 井村重雄(自民新)27,910票 森正夫(社会新)11,703票 喜多壮一郎(無元)7,990票 梨木作次郎(共産元)  金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 5月26日 政治・経済 日本銀行金沢支店長高木良一は本店調査局長に転じ、後任に本店検査役氏原幸男が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 5月30日 政治・経済 (県総務部長中西陽一は自治庁会計課長に転出した。後任は自治庁調査官杉守義。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月3日 政治・経済 市内別所町の九万坊前から蓮花町内川の犀川線県道を結ぶ蓮花林道(3ヵ年継続事業)が完成した。幅3.6メートル、長さ1キロ、工費170万円。この林道の完成によって犀川内川方面をつなぐ循環道路ができて便利になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月10日 政治・経済 陸上自衛隊第10混成団(三重県久居町)が新設されて、東海北陸6県がその管轄にはいり、金沢には普通科1個連隊が配置されることになった。(第10混成団司令部は近く愛知県守山町に移駐) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月20日 政治・経済 下本多町に完工した石川県農業会館の完成式がおこなわれた。敷地530坪、5階建、建坪298坪、総工費1億5,835万円、県農協中央会、信連、経済連、共済連はじめ農業団体の大半が入居し、県下の農業センターとなる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月1日 政治・経済 (羽咋町が市制を施行、県下7番目の市となった。人口30,135人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月1日 政治・経済 片町商店街近代化のトップを切って、柳瀬たんす店、ねづやがん具店、三納室内装飾品店の共同ビルディングの建設がはじまった。建設中、3店は香林坊の鞍月用水わきの空地に、合同仮店を建て営業をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月1日 政治・経済 市収入役に新保義久が再任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月5日 政治・経済 金沢市公会堂建設委員会事務局は、公会堂の一部に観光施設を設けるこれまでの計画を変更し、起債獲得のため最初から金沢市国際観光会館として建設、付属施設に大ホールを設けるという計画案を早急につくり、年度内に着工する方針を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月6日 政治・経済 北鉄バス内川線(小原町━北鉄車庫前)が開通した。小原町は市内野田寺町まで9キロ、バスは1日4往復運転。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月10日 政治・経済 市が犀川下流の出雲町に建設中の新浄水場第1期工事が完成、送水を開始した。新浄水場は、犀川の伏流水をくみあげ1日6,000トン送水する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月18日 政治・経済 近く着工する中橋踏切の立体交差工事期間中(明春3月完成予定)地元商店の受ける営業損失に対する補償問題は、71商店に総額800万円を県が交付することで解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月30日 政治・経済 旧野村の野田町町民63人(代表中村政吉)が金沢市を相手取り、金沢地方裁判所に「現在、金沢市の所有となっている野田山墓地一帯(39町4反5畝)は、加賀藩時代より現在の野田町町民の共有する民有地であるから、所有権と入会権を確認してほしい」との訴訟を提起した。(野田山墓地所有権と入会権確認請求事件) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 8月2日 政治・経済 (水害対策の県議会が開かれ、土木、農林、厚生関係などの応急復旧費1億6,000万円の追加予算案、災害救助基金362万円の追加案等を可決した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 8月3日 政治・経済 中橋踏切の立体交差工事の起工式が知事、市長はじめ、約150人参列しておこなわれた。総工費1億1,050万円、うち1,400万円で国鉄が踏切部分を施工し、残りは県が工事をする。陸橋の長さ288メートル、幅は9.2メートル、一番高いところは6.5メートル、来年3月末完成をめざしている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 8月4日 政治・経済 市は市総合開発審議会事務局の打合せ会で、犀川総合開発事業計画の最終計画案をきめ、資金申請書とともに公営電気事業経営者会議に提出した。この計画案によると総工費は74億450万円、明年度から4ヵ年計画となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 8月6日 政治・経済 市が総合市庁舎建設計画の第1期工事として、現庁舎裏に建設中の新館が完成した。地下1階地上4階、延べ665坪で、総工費5,735万円。地下と1、2階にガス水道局、3階に厚生部長室、衛生課、保険課、建築課、4階に土木部長室、監理課、道路課、都計課、市教委社教課等がはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 8月11日 政治・経済 新県議会議事堂が完成した。26年11月から4期にわけて施行したもので、工事費は1億4,644万円。28年12月から完成部分だけ使用中であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 8月21日 政治・経済 (県議会は正副議長改選をおこない、議長に川崎昇太郎、副議長に神保泰一=いずれも自民=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月3日 政治・経済 広坂通(幅15メートル)の拡張計画は、県、市の話合いで、これまでの22メートル案から36メートルに計画を変更することに決定、市都市計画課から近く建設省に、都市計画路線の変更を申請することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月21日 政治・経済 日本共産党石川県党大会で、県委員長に伊藤進が決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月29日 政治・経済 犀川総合開発計画促進期成同盟会の結成総会が、商工会議所ホールで県、市、財界、農協、用水、地元関係者ら約70人が出席して開かれた。同盟会会長に羽間市議会議長就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月6日 政治・経済 御所町地内の金腐川にかかる御所大橋の架けかえが完成、渡橋式がおこなわれた。長さ12メートル、幅3.7メートルのコンクリート橋で工費80万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月22日 政治・経済 富山県の国民体育大会にご出席の天皇、皇后は、11年ぶりに石川県へこられた。県内の視察ご日程は4泊5日。両陛下は午後3時15分列車で七尾駅着、七尾港を視察されて和倉温泉加賀屋に宿泊された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月23日 政治・経済 天皇、皇后は穴水町、三井村、輪島市等をご視察、沈金彫り、海女の潜水、アスナロ林などをご覧になり、和倉温泉加賀屋で第2夜を過ごされた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月24日 政治・経済 天皇、皇后は正午金沢駅にご到着、県庁、倉庫精練西金沢工場、成巽閣、兼六園、石川護国神社、梅光会、金沢大学医学部を回られ、湯涌温泉白雲楼に宿泊された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月25日 政治・経済 天皇、皇后は湯涌温泉白雲楼でご休養、同楼で九谷焼と加賀友禅の工芸作業をご覧になった。作業は高橋県工芸指導所長の説明で利岡光仙、藤村豊秋、宮崎光星が九谷工程を、木村雨山、梶山伸、成竹登茂男、能川光陽が加賀友禅の工程をお見せした。また、金沢大学の熊野正雄、市川渡両教授は石川県の生物学、地質学についてお話した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月26日 政治・経済 天皇、皇后は午前10時20分金沢駅発の列車で富山に向われた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月27日 政治・経済 (大日川ダムの起工式が鶴来中学校で挙行された。総工費約100億円、7ヵ年計画。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月27日 政治・経済 (政府は、警察官職務執行法=警職法=改正案に関する政府声明を発表した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月29日 政治・経済 自民、社会両党石川県連主催の警職法立会演説会が県農業会館で開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月8日 政治・経済 憲法調査会が金沢市西町県繊維会館で大阪市に次ぐ全国2回目の憲法調査公聴会を開催した。傍聴者約100人、公述人は竹村重武、由雄又次郎、黒田義男、大橋タカ、受川茂則、相内俊雄、谷本与三次郎の7人。県評と全繊同盟県支部は、労働界からの代表推薦依頼を拒否した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月9日 政治・経済 博労町の金沢郵便局跡に新築中の、金沢郵政局総合ビルのうち金沢郵便局が完成し、長町川岸の仮局舎から移転、業務を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月10日 政治・経済 市が31年10月から東力町に建設中の金沢市汚物処理場が完成した。操業開始は本月下旬。敷地8,890平方メートル、し尿の処理能力は1日に10万人分の90立方メートル(500石)、総工費8,200万円(うち国庫補助1,600万円)、施工は日本衛生工業会社。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月22日 政治・経済 (警職法改正案は国会で審議未了となった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月23日 政治・経済 柳瀬タンス店、ねづやがん具店、三納室内装飾店からなる片町近代化第1号共同建築が完工、開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月25日 政治・経済 上辰巳町から相合谷町に通ずる市道の犀川、相合谷橋の架けかえが完工、渡橋式がおこなわれた。幅3メートル、長さ38.4メートルの木橋(橋脚は鉄筋コンクリート)、工費337万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月1日 政治・経済 市助役吉田圭蔵は、北陸鉄道専務取締役に就任のため辞任した。助役在任3期12年で任期は明年6月までだった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月1日 政治・経済 冬の高波季節を前に、金石町海岸に工事中の斜面護岸堤防約440メートルが完成した。国と県の予算3,500万円で5月着工したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月5日 政治・経済 33年度の市営住宅(上荒屋町、円光寺町)の入居者抽選がおこなわれた。96戸に対し申込み者972人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月8日 政治・経済 井村徳二の死去に伴う参議院議員石川地方区補欠選挙が7日おこなわれ、結果は次の通り。投票率43.0%〔当選〕136,052票 柴野和喜夫(無所属新)〔次点〕114,587票 神戸世志夫(社会新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月11日 政治・経済 浅野川の鈴見橋が完成、渡橋式がおこなわれた。28年夏の水害で流失、昨年11月旧橋の上流80メートルの場所に架設したもの。長さ47.1メートル、幅3.7メートルのコンクリート橋で、工費1,200万円。(28年の水害で流失した市内の犀川、浅野川の橋は、鈴見橋の完成で全部普及した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月19日 政治・経済 市議会は欠員中(1人)の金沢市教育委員に、元金大理学部教授寺田巽の任命を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月23日 政治・経済 市は、金沢市観光会館(公会堂)の建設問題について首脳会議の結果、これまでの構想を改め来年度から3ヵ年計画、総工費4億円で着工に決定、財源は起債1億円と市費、大口寄付等に依存する方針にきめた。公会堂建設は、すでに本年度当初予算に1億5,000万円を計上し、2ヵ年計画3億円で建設することにしていたが、予定した1億2,000万円の募金方法で難航していたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 1月3日 社会・文化 金石町海岸一帯に高さ3~4メートルの高波が打ち寄せ、海水浴場海岸を長さ約400メートルにわたって洗い去り、浜茶屋の建設資材が流失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 1月12日 社会・文化 県教組は臨時大会を開き、勤務評定実施は民主教育の危機を招くとして教育の非常事態宣言を行ない、今後の統一闘争方針を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 1月12日 社会・文化 大相撲のテレビ放送が金沢市内で初めて中継され、街頭テレビや喫茶店、飲食店などのテレビの前は人だかりができた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 1月14日 社会・文化 「昭和50年の金沢」展覧会が金沢市主催、市総合建設計画審議会事務局企画で本日から6日間、片町大和百貨店ホールで開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 1月18日 社会・文化 常設の労使話合いの場として、石川県労働問題懇談会が県に設置された。委員は労働、使用、公益の代表各5人、議長は田谷知事。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 1月25日 社会・文化 本田政樹死去。72歳。先代政以の長男、金沢電気ガス取締役を経て葵機業場を経営、その後県下各銀行会社の取締役をつとめ、昭和7年貴族院議員に当選した。同20年各事業の第一線を退き、倉庫製練会長だけについていた。                                                                                                                                                                                                                                                                                             金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 2月6日 社会・文化 石川県美術文化協会等16団体が、美術館建設の嘆願書を県に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 2月12日 社会・文化 午後3時13分ごろ下中島町河野金属箔粉会社の加工場から出火、同加工場と倉庫(計34坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 2月26日 社会・文化 午前9時ごろ西金沢町の日通西金沢営業所宿直室から出火、同室を全焼、倉庫3むねの屋根裏を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 2月28日 社会・文化 4月1日からの売春防止法の完全実施を前に、県下の赤線は本日で消滅した。県売春対策本部へ転業声明を出した赤線業者は約280軒、廃業届提出業者は21軒となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月4日 社会・文化 遊歩道路ができ、池の泥上げをした大手町の大手掘に、金沢市釣組合がこどもたちのため、子ブナ15貫(約1万匹)を放流した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月15日 社会・文化 3月に入って金沢市内に腸チフス、パラチフスが多発し、現在までの患者は78人、うち片町大和百貨店では従業員中から16人の腸チフス患者を出したので、本日ついに食料品売場と食堂を閉鎖した。市内患者の感染源はまだ不明。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月16日 社会・文化 市内のチフス患者は、前日より17人ふえて95人(パラチフス78人、腸チフス17人)となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月16日 社会・文化 市はチフス対策のため市厚生部に市伝染病対策実施本部を設置し、本部に総務、防疫、医療、調査、指導、検査の6班を設け活動を開始した。本部長は大井厚生部長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月18日 社会・文化 市はチフス予防のため、注射液25万人分を用意して全市民に呼びかけ、本日から各開業医を通じチフス予防注射を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月19日 社会・文化 北陸鉄道労組は、電車常務員の増員に関する団体交渉が決裂したので、午後6時から市内電車の全線ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月20日 社会・文化 県立美術館の建設が県議会で本ぎまりになった。33年度の予算は調査費約1,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月22日 社会・文化 市内のチフス患者の総計は、21日現在150人となった。感染経路はまだ不明。従業員から計33人の患者を出し15日から食堂と食品販売を中止していた大和百貨店は、4回にわたる全従業員の検便検血で保菌者皆無が確認されたので、本日から閉鎖部門を再開した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月22日 社会・文化 午後5時すぎ南町の日本タイプライター会社金沢支店から出火、同支店の2階を全焼、隣接の明治商事金沢出張所の階上を全焼、階下を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月23日 社会・文化 春闘の統一ストにより北陸鉄道労組は、22日(土)23日(日)両日にわたり市内電車、バスの48時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月25日 社会・文化 チフス患者収容で市内の3法定伝染病院が満員となったので、市では金石小学校を仮収容所に改造、市立伝染病院から約50人の患者を移した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 3月26日 社会・文化 午後5時25分ごろ彦三1番丁の大工小屋から出火、同小屋を全焼、住家2戸を半燃した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月1日 社会・文化 市は敬老年金制を実施した。88歳以上で金沢市内に引続き5年以上居住の高齢者に年額1,800円を贈るもの。(7月現在の受給資格者は111人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月1日 社会・文化 金沢大学は教官の定年制(65歳)を実施した。(初めて適用され退職するのは教授10人講師1人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月1日 社会・文化 本多町の県立工芸高校が県立工業高校と改称、新発足した。新過程は電気、機械、工業化学、産業意匠の4科。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月1日 社会・文化 私立金沢高等学校が女生徒を収容、男女共学制となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月1日 社会・文化 小坂町の私立北陸電波専門学校が学校法人として認可され、高等部のほか専門部が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月1日 社会・文化 (石川県飼犬取締り条例が実施された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月1日 社会・文化 百万石まつりは、本年の第7回から金沢市が主催者に加わり、金沢商工会議所と共同主催で、藩祖入国の6月14日を中心に13日から3日間、開催することに決定した(従来は5月初めの連休週間に挙行)。まつりの趣旨は「加賀百万石城下町の伝統を保持し、北陸の大産業文化都市として躍進する金沢市の前途を祝う大レクリエーション祭典とする」ことに決定、藩祖入国の姿を再現する百万石行列を中心に加賀とび行列、商工行列その他民謡大会、茶会、宝生能等をおこなう予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月9日 社会・文化 従業員の解雇をめぐり70日にわたって争議を続けている丸大撚糸織物会社(福富町)は、工場再建の見通しがつかなくなったとして、事業場閉鎖と161人の全従業員解雇を組合に通告した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月13日 社会・文化 午後1時ごろ木ノ新保7番丁(金沢駅前)の食堂から出火、同食堂(22坪)を全焼、隣接の白雲楼駅前案内所の1一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月14日 社会・文化 金沢市のチフスはまだ終息せず1月1日からの発生患者は4月11日現在で腸チフス47人、パラチフス223人計270人(県下全体の合計は329人)に達しているので、本日の県市合同対策協議会で、保菌者対策の強化とモデル町内会をつくり戸別訪問して予防接種することなどを決めた。(市民の接種ずみは3割強) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月15日 社会・文化 蓮の大賀一郎博士が駅前持明院の天然記念物妙蓮池の移植のため来沢した。博士は「持明院の妙蓮の発生地、滋賀県守山市の旧田中村にある文献によって、この妙蓮は200年前の移植でであることが初めて分った」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月16日 社会・文化 午前8時50分ごろ増泉町の北陸電気通信工作工場から出火、2階建250坪の同工場1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月19日 社会・文化 八丈島で今世紀最後の皆既日食。石川県下では午後1時12分最大83.7%の食率、好天気の金沢市内では学校などで観測がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月19日 社会・文化 午前7時3分ごろ十間町の茂利靖旅館から出火、2、3階と隣家の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月20日 社会・文化 旧四高の赤れんが校舎前(現金大理学部)に、卒業生らの手で建てられた四高記念碑の除幕式が、卒業生約300人参集しておこなわれた。四高生3人の像で台石に南下軍の歌がほってある。制作は吉田三郎、設計は谷口吉郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月23日 社会・文化 22日夜から県下に豪雨襲来。23日夕方までに金沢で雨量110ミリに達し、洪水注意報が発令された。常盤町では卯辰山のがけくずれのため1戸倒壊、5人が重軽傷を負うなど市内各所に浸水や道路損壊の被害が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月24日 社会・文化 尾山神社宮司石黒文吉が病気で辞任、後任宮司(第14代)に郷土史家鏑木勢岐が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 4月28日 社会・文化 (県教育委員会は県教組との交渉を打切り、臨時委員会を開いて勤務評定実施を決定した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーが、雨空の下で約1万7,000人が参加しておこなわれた。衆議員議員総選挙に、この日立候補した社共両党の3候補者も、デモの先頭を行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 5月14日 社会・文化 午前7時半ごろ馬場1番丁のハク工場から出火、同工場42坪を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 5月28日 社会・文化 下本多町の旧学舎跡に建てた北陸学院保育短期大学と付属幼稚園の新校舎が完成、飛梅町の仮校舎から移転した。鉄筋3階建、総工費、2,250万円(うちアメリカからの寄金1,500万円)。旧校舎は明治19年の木造建築で、日本のキリスト教幼稚園の草分けであった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 5月29日 社会・文化 高岡町上藪ノ内松本由が計画していた卯辰山ヘルスセンターの起工式が土井市長ら各界の代表者が参列しておこなわれた。鉄筋2階建(一部3階)延べ1,000坪、総工費1億円。明年初め浅野川天神橋から同ヘルスセンターまで約500メートルのロープウエーも着工の計画という。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月3日 社会・文化 午後4時すぎから金沢の北部より河北郡羽咋郡にかけて集中豪雨。金腐川で橋の流失3、堤防決壊7ヵ所、金腐川沿岸や森本町深谷鉱泉で床上浸水数十戸の被害を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月14日 社会・文化 百万石まつりが、金沢市と金沢商工会議所の共催で13日から3日間開催された。本年から金沢市が主催側に回り、期日を藩祖入国の6月14日を中心に繰り下げたもの。14日は初めての呼び物、藩祖入国を再現する百万石行列が快晴下の街頭にくりひろげられ、他の多くの催しと相まって、市中は10万人以上の人出でわき返った。尾山神社でも報国祭を執行、恒例の尾山まつりをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月19日 社会・文化 午前1時50分ごろ兼六園内山崎山のあずまや(山崎亭)から火が出て、4.5メートルに7.5メートルの同亭を全焼した。同亭は昔は藩公の休憩所で、約40年前に県が藩政期のものを模して作ったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月27日 社会・文化 市議会議員小市政男(無所属)が一身上の理由で議員を辞任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月29日 社会・文化 午前2時すぎ田丸町の紙くず回収店倉庫から出火、木造平屋の同倉庫(80坪)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月29日 社会・文化 医王山観光開発期成同盟会の発会式が、医王山周辺の地区代表ら約300人が集り、二俣町で挙行された。会長重山徳好。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 6月30日 社会・文化 下石引町国立病院の新築工事が完工した。昭和27年から7ヵ年継続事業で総工費7億3,325万円。規模では全国の国立病院中3番目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月6日 社会・文化 夏休みを利用して日本人の家庭生活を体験するアメリカ国際生活体験グループが、はじめて金沢へ来た。女子6人、男子3人と団長リリード大学教授レスリー・H・スクワィアの計10人。26日間の予定で、市内の受入れ10家庭に1人ずつはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月11日 社会・文化 県教組は勤務評定撤回を要求して、県下26ヵ所で一斉早退による勤評撤回措置要求大会を開いた。金沢市教組の要求大会は、午後3時40分から兼六園広場で約1,200人が集って開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月11日 社会・文化 本派本願寺金沢西別院輪番石原堅正が辞任、後任輪番に林英俊が任命された。石原は大正10年から同別院輪番在職38年、今後は学校経営に専任する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月15日 社会・文化 県教育委員会は勤務評定書の県試案を承認、勤務評定実施日を11月21日と決定した。校長の評定書提出日は11月末まで。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月21日 社会・文化 金沢駅前広場の拡張に伴い、ハス池など約100坪がけずられる木ノ新保6番丁持明院の移転新築(鉄筋2階建、75坪)が完成した。天然記念物の妙蓮で知られるハス池は、これまで同寺の裏にあったが、寺の移転とともに旧寺院跡に移し、金沢駅に面した入口からはいると、左右にハス池がながめられるようになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月22日 社会・文化 県は、昨年指定した金沢市内3風致地区の目ぼしい場所に、コンクリートの標柱をたてた。中央風致地区は県庁前、本多町、市立図書館前等に5本、犀川風致地区は犀川大橋、御影大橋付近等に3本、浅野川風致地区は天神橋付近等に2本計10本。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 7月26日 社会・文化 24日から26日にかけて集中豪雨が県下をおそい、死者5人、負傷10人、家屋全壊19戸、半壊37戸、流失13戸、床上浸水6,041戸、床下浸水8,202戸、橋流失280等の大被害を出した。珠洲、輪島、七尾、加賀の4市をはじめ10市町村に災害救助法が発動された。金沢市内は床下浸水約400戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 8月15日 社会・文化 犀川大橋南詰に、芭蕉の「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑ができ、完成披露式がおこなわれた。犀川振興会が25万円で建てたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 8月18日 社会・文化 金沢市連合町会長協議会の結成式が、武蔵ヶ辻三和銀行で開かれた。会長松平利吉。出席者は市内38連合町会長のうち25連合町会長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 8月30日 社会・文化 午後1時45分ごろ新竪町3丁目のてんぷら店から出火、1むね2戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月1日 社会・文化 県の風俗営業取締り条例が改正され、パチンコのモヤ替え(景品の買戻し)が禁止された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月11日 社会・文化 二俣町の郷土芸能、弥栄踊を保存するため、同町有志により弥栄踊保存会が結成された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月14日 社会・文化 (第13回国民体育大会夏季大会が富山県高岡市で開会された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月15日 社会・文化 日教組が勤務評定阻止の全国統一行動を実施。石川県教組は昨夜、組織の現状からみて統一行動中止を指令した。石川県評は午後5時半から金沢市役所前で、各労組員約600人を集めて教育防衛大会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月15日 社会・文化 手足不自由児の施設、石川整肢学園が野田町に完成、開園式をあげた。敷地1,314坪、建坪420坪、工費4,200万円。園長駒井しづ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月15日 社会・文化 片町銀座商業協同組合の市民市場(昭和21年4月開場、飲食店56軒)が、片町センター・ビルに生れかわるため閉鎖した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月16日 社会・文化 石川県教組の小路委員長以下執行部24人が、15日の全国統一行動に参加中止の責任をとって総辞職した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月17日 社会・文化 例年7月1日の金沢名物「氷室まんじゅう」の名称が、大阪で商標登録されていることがわかり、市内業界から特許庁に無効審判を申請していたが、商標権所有の長山健造が大阪から来沢、業界代表と話合いのすえ商標権を金沢菓子業協組にゆずることで円満解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月24日 社会・文化 午後11時20分ごろ西金沢町1丁目松山織機の鋳物工場から出火、平屋建200坪の同工場を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 9月29日 社会・文化 市役所職員組合に専従職員の設置を認める市条例が、市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月5日 社会・文化 県教組は臨時大会を開き、9月15日の勤評阻止全国統一行動不参加による執行部の引責辞任を多数で否決、小路委員長以下の留任を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月10日 社会・文化 長坂町に完工した県立金沢二水高校の落成式が挙行された。敷地3万3,058平方メートル、建坪6,612平方メートル、鉄筋4階建、工費約2億円、設計は東大吉武研究室。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月10日 社会・文化 馬場4番丁に建った私立金沢実践商業高校の新校舎落成式がおこなわれた。鉄筋4階建、延べ1,650平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月15日 社会・文化 金沢大学山岳部員9人のパーティ(リーダー新野隆太郎)が、白山山系奈良岳大笠山から流れ出る開津谷の奥にある処女壁、仙人岩の登頂に成功した。(垂直高200メートル、平均傾斜60度、その直下150メートルは傾斜45度の崩壊斜面) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月15日 社会・文化 野々村仁清作の国宝(昭和26年指定)色絵雉香炉が、石川県美術館の建設と天皇、皇后のご来県を機に、所有者の市内竪町酒造業山川庄太郎から県へ寄贈された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月18日 社会・文化 石川官公労協議会(組合員2万7,100人)が、官公労中央本部の解散にともない解散大会を挙行した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月18日 社会・文化 石川県ユース・ホステル協会の発会式が市役所会議室でおこなわれ、会長に土井市長が就任した。同協会は日本ユース・ホステル協会県支部を兼ねる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月19日 社会・文化 (第13回国民体育大会秋季大会が富山県下52会場で開会された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月21日 社会・文化 社共両党はじめ県下民主団体による石川県民大集会が、午後6時から兼六園広場で開かれ、警職法改悪反対、核武装禁止などを決議し、参加者約3,000人が久しぶりのちょうちんデモをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月23日 社会・文化 金沢観光協会は総会を開き金沢市観光協会と改称、役員陣容強化のため新たに西川外吉(金沢商工会議所会頭)、副会長に吉田次作(同会議所副会頭)と吉田市助役を選任し、重点目標として武家屋敷の保存など6項目の実現をはかることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月27日 社会・文化 井村徳二東京で死去。58歳。参議院議員、自民党県連副会長、大和社長。24年から29年まで北鉄社長をつとめるなど県経済界で活躍する一方、22年衆議院議員、28年参議院議員に当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 10月28日 社会・文化 日教組は勤評阻止の第2次全国統一行動を実施、石川県教組は各都市とも大体午後2時に授業を打切り、市町村ごとに勤評撤回措置要求大会を開いた。金沢市教組は午後2時50分から約1,300人が兼六園で大会を挙行した。県高教組も午後3時すぎ職場集会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月1日 社会・文化 市のモデル校舎として完成した材木町小学校の落成式が挙行された。鉄筋3階建、延べ5万3,000平方メートル、総工費1億2,000万円。31年4月焼失後、9月着工し32年4月に校舎のほとんどを完成して分散授業の児童を収容、その後、付属施設を施工中だったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月1日 社会・文化 卯辰山玉兎ヶ丘に建設中の金沢ヘルスセンター(経営者金沢市高岡町松本由)が完成、開館した。鉄筋2階建、延べ3,300平方メートル、200畳の広間ほか30余室と大浴場その他の娯楽施設がある。工費約1億円、入園料120円。来春、動物園とロープウエーをつくるという。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月3日 社会・文化 第12回(昭和33年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。戸田正三(金沢大学学長ー地方文化の高揚)長岡博男(医師、日本民俗学会理事、加能民俗の会主宰ー民俗学を通じての郷土文化の向上)加賀萬歳保存会。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月4日 社会・文化 警職法改正反対の石川県民総決起大会が、午後6時から兼六園広場で労働、文化、婦人団体等の各層代表約7,000人が集って開かれ、宣言決議の後、市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月5日 社会・文化 警職法改悪反対全国統一行動デー。石川県下でも、北鉄の始発から1時間全線ストをはじめ官公労、民間労組等約4万6,000人が時限ストあるいは職場大会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月7日 社会・文化 加賀藩3代藩主前田利常の300年祭が、野田山墓地と尾山神社で前田利建らが参列して執行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月13日 社会・文化 宮下太一死去。51歳。金沢市選出県議会議員、社会党県連書記長をつとめ、また県下労働運動界に活躍した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月16日 社会・文化 午後1時40分ごろ横谷町の農家から出火、1戸と納屋1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月21日 社会・文化 長田本町の長田菅原神社拝殿と二俣町に残る弥栄踊が、金沢市記念文化財に指定された。長田菅原神社拝殿は金沢城内にあった東照宮の護摩堂で、明治9年東照宮を現在の尾崎神社に移すとき護摩堂だけを同神社に払い下げたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月21日 社会・文化 金沢市民で日華事変以後の戦没者6,388柱をまつる金沢市合同慰霊法要が、金沢市主催、市援護連絡協議会、市遺族厚生会後援で、土井市長はじめ遺族ら約4,000人が参列して東別院でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月23日 社会・文化 勤評阻止のための石川県教組全員集会が金沢、七尾両市と穴水町で開かれ、兼六園の金沢会場は約3,500人が参加、市内をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月25日 社会・文化 午後7時50分ごろ白山町の加賀人形製造工場から出火、1むね(56平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月26日 社会・文化 年末闘争中の北陸鉄道労組は、午後8時から市内電車とバス全線のストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月27日 社会・文化 北陸鉄道労組は、第2波実力行使として始発からバス全線の半日スト、午後8時から市内電車の時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月28日 社会・文化 午後8時20分ごろ主馬町広丁の製菓店から出火、2階(86平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 11月30日 社会・文化 北陸鉄道労組は始発から全線24時間ストにはいったが、午前10時妥結、中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月1日 社会・文化 北陸放送テレビ(JOMR━TV・6チャンネル)が北陸地方初の民間テレビ放送局として、テレビ放送を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月2日 社会・文化 県教組は、勤務評定書提出拒否闘争態勢を解除した。(評定書は12月15日に県下全校が県教委への提出を終った) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月3日 社会・文化 午後11時20分ごろ長土塀通りの県立金沢乳児院から出火、2階建1むね(250平方メートル)を全焼した。収容乳児26人は全員救出。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月6日 社会・文化 十一屋町小学校泉野分校校舎の落成式が挙行された。敷地は1万8,300平方メートルで本校の約2倍、建物も延べ3,600平方メートルで本校より大きく、木造2階建4むねの校舎と体育館から成り、工費約8,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月10日 社会・文化 市議会議員中川成次死去。58歳。社会党所属、議員当選2回、市議会革新議員団会長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月14日 社会・文化 中川博道(剣道10段)東京で死去。89歳。加賀藩士中山源之亟の7男として金沢に生れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月16日 社会・文化 池田作松死去。58歳。一村産業、丸一紡績社長。石川県中小企業団体中央会会長はじめ県下多数の会社、繊維関係団体の役員をしていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月25日 社会・文化 金沢市観光協会は観光案内のしおりとして、市内に残存する武家屋敷(門構えや土べいが旧態を保存しているもの)45戸の一覧表をつくり、各方面に配付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十三年(1958) 12月25日 社会・文化 午前1時ごろ高岡町上藪ノ内日銀支店裏の旅館香林坊ホテルから出火、同ホテル(延べ132平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 2月1日 政治・経済 長距離電話自動即時化のトップとして、金沢━富山間電話が自動即時式になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 2月9日 政治・経済 知事選挙が8日おこなわれ、開票の結果、自社両党推薦の無所属田谷充実が再選された。投票率44.5%。当選237,886票 田谷充実(無所属前)次点20,161票 輪田一造(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 2月13日 政治・経済 自民党石川県連会長に益谷秀次(再選)、副会長に林屋亀次郎、幹事長に西田与作が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 2月19日 政治・経済 西田商事株式会社(社長西田儀一郎)は、金沢駅前拡張に伴って、現在の日通駅前倉庫敷地の譲渡を受け、西田所有地に加えて、地下1階地上5階の金沢ビル(仮称)の建設計画を発表した。同ビルにはホテルも設ける。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 2月24日 政治・経済 鞍月排水路が完成した。金沢市内の中心部を用水のはんらんから守るため、市が総工費3,300万円で31年に着工したもの。水路は香林坊大神宮裏の鞍月用水からはじまり、長町1番丁、長町小学校校庭、中央大通りの下を通って、犀川御影大橋下流の放水口に至る958メートルの暗きょ排水路。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月6日 政治・経済 (国有財産北陸地方審議委員会は、小松飛行場を民間航空と自衛隊ジェット機基地とに共同使用させることを承認した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月15日 政治・経済 金沢━東京間、金沢━大阪間の電話が即時通話になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月18日 政治・経済 北陸線松任━金沢間7.4キロの複線工事起工式が、犀川鉄橋堤防上でおこなわれた。犀川新鉄橋は現在の鉄橋の上流9メートルの地点にかけられ、長さ153メートル、総工費約6,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月19日 政治・経済 市は犀川ダムの建設準備のためのダムサイト地質調査費等1,461万円、および金沢港建設について権威者を顧問に委嘱調査費62万円を34年度当初予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    #REF! #REF! #REF! #REF! #REF!
    昭和三十四年(1959) 3月19日 政治・経済 市は金沢市観光会館建設費を明年度予算に計上、市議会の議決を得た。総工費3億5,762万円、3ヵ年計画で明34年度分は5,294万円。4階建、地下1階、延べ3,400坪。(会館の着工は結局35年度にくり延べられた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月19日 政治・経済 市議会は、前助役吉田圭蔵に対する退職慰労金450万円を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月20日 政治・経済 中橋町立体交差陸橋の歩行者用地下道だけが開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月1日 政治・経済 港域法の改正で、金石港は金沢港と港名が改称になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月6日 政治・経済 金沢市制70周年記念式が市公会堂で挙行された。市政功労者26人、一般功労者35人と市職員の25年以上勤続者51人が記念式で表彰された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月8日 政治・経済 広坂警察署が完工、落成式があげられた。鉄筋3階建、間口30メートル、奥行14メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月10日 政治・経済 (政府は皇太子結婚恩赦を実施した。石川県下の該当者は選挙違反、交通違反、食糧管理法違反など1,000人前後の見込み。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月20日 政治・経済 最新型の立体交差陸橋・中橋陸橋が完成、盛大な渡橋式がおこなわれた。長さ290メートル、県と国鉄が1億1,500万円の工費で昨年8月から工事を急いでいたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月24日 政治・経済 県議会議員選挙が23日おこなわれ、金沢市の開票結果は次の通り(金沢市の定員13人、立候補17人)。金沢市の投票率75.1%。〔当選〕11,658票 吉田長久(自元)11,191票 本家三郎(自新)11,127票 奥村 弘(社新)10,968票 米沢外秋(自新)9,723票 岡島友作(自前)8,845票 清水保治(社新)8,751票 駒井しづ子(自前)8,364票 神保泰一(自前)8,244票 小間井与一(自前)8,189票 清水博文(自前)8,166票 浅田勝二(自前)7,009票 大桑孝雄(共新)6,919票 越島久米三(社前)。県議会の政党別当選者は自民34人、社会5人、共産1人、無所属5人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月25日 政治・経済 兼六通の金沢地方裁判所隣に工事中の金沢家庭裁判所が完成、仮庁舎の広坂通元師団長官舎と兼六会館から移転した。鉄筋3階建、2,300平方メートル、工費は6,000万円。師団長官舎あとには懸案の石川県立児童会館が開設される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月30日 政治・経済 第1区選出衆議院議員辻政信(自民)は、岸首相攻撃演説から党紀びんらんのかどで自民党総務会で除名が決定、辻はこれと同時に衆議院議員の辞職届を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月1日 政治・経済 市長選挙が4月30日おこなわれ、土井登が再選された。投票率82.7%。当選110,781票 土井 登(無所属前)次点34,830票 西川外望(社会新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月1日 政治・経済 市議会議員選挙が4月30日おこなわれ、自民31人、社会9人、共産1人、無所属3人が当選した。投票率82.7%。(定員44人、立候補66人)〔当選〕4,332票 増江幸二(社前)3,877票 岩本義男(自前)3,762票 原 俊道(共新)3,515票 島村 隆(社新)3,301票 上田孝三(社元)3.117票 羽間政信(自前)3,093票 田中富士夫(自元)2,971票 喜多美由喜(自前)2,952票 尾山徳二(自前)2,917票 武村慶一郎(自元)2,893票 宮田一滋(自新)2,879票 新谷喜一(自前)2,866票 山田外吉(自元)2,859票 奥田勝治(自新)2,828票 吉田栄作(自前)2,803票 玉作小一郎(自元)2,746票 高倉政雄(社前)2,701票 蚊戸助吉(社新)2,589票 安江与吉(自新)2,565票 滝尾照士(無前)2,472票 神田信義(自前)2,433票 松永 敏(社前)2,419票 浅野仁吉(無前)2,414票 梅田武一(社前)2,406票 寺井初太郎(自前)2,395票 福村 洸(社新)2,394票 北川定次(自新)2,361票 油谷外郷(自前)2,359票 川島重男(社前)2,329票 松島吉治(自前)2,310票 池田外作(自前)2,301票 新保仁次郎(自前)2,300票 酒尾孝之(自前)2,274票 三輪次作(自新)2,263票 柳田清吉(自新)2,233票 黒川四三二(自元)2,223票 桑野与作(無前)2,211票 中島勝太郎(自前)2,210票 早川照平(自新)2,166票 北山友次(自新)2,165票 杉山義直(自前)2,147票 西 重松(自新)2,142票 笹原清松(自前)2,118票 徳田保久(自前) 〔次点以下〕竹中角太郎、渡辺次雄、柚木尾義太郎、邑井慶治、西野十陛、勝田友雄、鴻野八郎、中村外次、矢部僊吉、石野初三郎、高田作太郎、田辺善栄、本田作次、幸田金次、白沢 実、北川政雄、玉野与吉、中川孝則、蔵 タカ、奇島 明、村田武雄、畑 藤吉 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月13日 政治・経済 (県議会は正副議長選挙をおこない、議長に清谷博文、副議長に百万彥邦=いずれも自民=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月20日 政治・経済 市議会は正副議長選挙をおこない、議長に尾山徳二(自)副議長に岩本義男(自)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月29日 政治・経済 市は金沢工業港専任顧問として、港湾協会副会長工学博士鈴木雅次を委嘱した。(鈴木博士は6月2日から3日間現地調査をした) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月3日 政治・経済 参議院議員選挙が2日おこなわれ、石川県地方区の結果は次の通り。投票率74.4%。〔当選〕148,701票 鳥畠徳次郎(無新) 〔次点〕103,852票 柴野和喜夫(自民前)93,879票 神戸世志夫(社会新)83,160票 藤野公平(無新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月8日 政治・経済 英町通り英町商工会のアーケードが完成、田丸町専光寺で落成式を挙行した。県下で初めての本格的なアーケードで、総工費1,280万円、両側合せて長さ450メートル、積雪2メートルまでの重さに耐えるという。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月15日 政治・経済 (国鉄新建設線の穴水━飯田間の能登線62キロのうち、穴水━鵜川間22.9キロが開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月18日 政治・経済 (岸内閣の改造で、第2区選出益谷秀次が国務大臣、副総理、行政管理庁長官として入閣した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月19日 政治・経済 犀川ダム建設促進のため、市議会の尾山、岩本正副議長ほか8議員は清谷県議会議長らと上京、土井市長とともに参議院議員会館で県選出国会議員に対し、ダム建設計画を説明して協力を要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 7月1日 政治・経済 空席中の市助役に大河良一が選任された。大河は57歳で俳人。現在県絹人絹織物工業組合専務理事で、元金沢一高校長、県教育長、県経済部長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 7月30日 政治・経済 総評が輸入した中国配慮物資の漆20トンのうち、石川県への配分は3トンにきまった。うち金沢市内漆器業者へは364.6キロ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月12日 政治・経済 昨年1月から長坂町に建設中のモデル総合病院、金沢市立病院の落成式がおこなわれた。(診療開始は17日)。新病院は現在市内に分散している市民病院、同付属病院、伝染病院を統合した施設となるもの。敷地1万2,019平方メートル、本館は地下1階、地上5階の延べ6,008平方メートル(このほか昨年完成した伝染病舎など1,310平方メートル)。総工費2億9,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月21日 政治・経済 犀川総合開発計画の現地視察のため、佐藤蔵相、渡辺厚相、前田大蔵政務次官が昨夜来沢、本日午前、ジープで寺津町の北電犀川発電所横の逆調整ダム(犀川第2ダム)建設予定地を視察した。最初の予定地二又新町の第1ダム建設予定地までは、悪路に時間をとられたため行けなかったもの。(市は目下、建設省にダム建設の事業認可申請中で総工費は58億3,000万円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月24日 政治・経済 菅野経済企画庁長官が来沢、市役所を訪問し、岡代議士、徳田前代議士、尾山、岩本市議会正副議長、増江社会党市議員団会長らから、犀川ダム建設促進について陳情を受けた。同長官は建設に援助を約した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月28日 政治・経済 市が西金沢町に建設した金沢市屠蓄場の完成式がおこなわれた。敷地は旧屠畜場の敷地、鉄筋延べ1,213平方メートルで旧施設の約3倍、総工費6,130万円。1日の標準処理能力は100頭、貯蔵力200頭。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月29日 政治・経済 市は金沢市観光会館の建設計画をすすめるため技術者、学識経験者、各界代表から成る金沢市観光会館建設専門委員会を設け、谷口吉郎博士ら15人を委員に委嘱した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月31日 政治・経済 (奥能登水害と南加賀地方水害の応急対策を審議する臨時県議会が開かれた。県災害救助隊本部は、奥能登水害の被害額を97億6,651万5,000円と発表した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月24日 政治・経済 自民党金沢支部長に鳥畠徳次郎が選任された。(前支部長井村重雄は8月辞任) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月26日 政治・経済 金沢市観光会館建設専門委員会が初委員会を開催、大ホールをこれまでの構想より拡張して、固定席2,000、補助席300にふやすことをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月1日 政治・経済 大衆免片原町が片原町に、大衆免中通りが中通町に町名変更された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月1日 政治・経済 市は総務部のうち市民税課、固定資産税課、徴税課の3課を分離して税務部を新設した。部長異動で税務部長に秋田他啓知(社会福祉事務所長)土木部長に松田幸次郎(都計課長)ガス水道局長に岡本忠幸(土木部長)社会福祉事務所長に大井成之(厚生部長)が任命され、ガス水道局長辰野長太郎が辞任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月3日 政治・経済 金石海岸の護岸工事34年度分200メートルが完成、これで33年度分とあわせ、金石港防波堤から金石下新浜町までの679メートル全部が完成した。総工費は5,400万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月3日 政治・経済 市は公入札の適性をはかるため、金沢市工事請負業者選考委員会を設置した。委員長は大河助役、委員は総務、土木両部長ら市の部課長6人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月4日 政治・経済 社会党石川県連大会で空席の県連会長に西川外望、書記長に清水保治が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月5日 政治・経済 金沢商工会議所の役員選挙のための議員総会で、会頭に西川外吉、副会頭に吉田次作、麻生徳次、竹村重武が再選された。(議員は9月25日無競争で当選決定) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月12日 政治・経済 市議会全員協議会は焼失した泉中学校、弥生小学校に対する市長専決の応急対策費1,525万4,000円を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月29日 政治・経済 (国鉄氷羽線の着工式が、羽咋郡志雄町見砂の県境道路わきで挙行された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月2日 政治・経済 金沢市内の理想的な汚物処理方法を検討するため、市は金沢市汚物処理審議委員会をつくり、初会合を開いた。委員は市議会、民間、市当局側の13人、委員長は岩本市議会副議長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月4日 政治・経済 県住宅公社が昨年11月から工事中の内灘団地(内灘村向粟崎)の完工式がおこなわれた。面積9.4ヘクタール(2万8,000坪)、建売住宅80戸と在宅分譲160戸計240戸のうち、すでに約60戸が完成している。分譲宅地価格は3・3平方メートル当り3,700円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月27日 政治・経済 北陸鉄道社長に井村重雄が就任した。野根社長は会長に就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月7日 政治・経済 通産省は石川県からの申請にもとづき、金沢市に小売商調整特別措置法を適用して小売商調整特別地区に指定した。措置法はマーケットの乱立から小売商を守るのがねらいで、指定地区になると、マーケットを建設する場合は知事の許可が必要となり、また既設のマーケットから直径1,080メートル以内にはマーケットを設置できなくなる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月10日 政治・経済 犀川総合開発事業につき土井市長、尾山、岩本市議会正副議長、高倉、新保、島村3市議と市選出県議は、林屋参議院議員らと共に通産省で電源開発関係者と協議の結果、ダムの建設工事は、発電事業もふくめ金沢市が担当することにきまった。すなわち犀川総合開発事業は利水事業(発電、上水道、工業用水)は市事業として実施、公共事業(治水、農業用水)は県の委託を受けて市が実施する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月11日 政治・経済 石川都市計画地方審議会は、金沢市広坂通の拡張、出羽町公園の指定などを決定した。広坂通の拡張は、広坂署横から香林坊まで455メートルを現在の幅15メートルから36メートルにひろげるもの。辰巳用水と石がきの緑地帯はそのまま残す。また出羽町公園は、護国神社前から兼六園球場をふくめた地域を出羽町公園として、そのうち0.5ヘクタールの整備工事をするもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月11日 政治・経済 金沢市は、さきに通産省から小松市と共に工場適地調査地区に指定されたので、これにもとづき商工会議所で工場適地調査委員会を開き、工場適地として次のように市内8カ所をきめた。東金沢駅地区1カ所67万7,000平方メートル、金沢駅西口3カ所132万平方メートル、西金沢駅地区2カ所145万4,000平方メートル。業種は機械金属、精密機械、無機化学、食品雑品、紡織が適当。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月12日 政治・経済 金沢市青果卸売市場連合会は中央卸売市場建設の促進を、文書をもって知事に要請した。県がさきに中央卸売市場の建設について関係業者を招き意向を打診したのに対し、はじめて建設賛成の意思を県に表示したもの。(水産関係業者はまだ意見がまとまっていない) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月15日 政治・経済 金沢でテレックス(加入電信)が開通した。初めての加入者は県農協連、中小企業金融公庫など15カ所。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月16日 政治・経済 さきに焼失した泉中学校の復旧費3,400万円、弥生小学校の復旧費2,200万円(いずれも初年度分)が市議会で可決された。泉中学校は総工費1億4,020万円、鉄筋4階建、延べ、8,000平方メートル。弥生小学校は総工費9,080万円、鉄筋4階建、延べ5,400平方メートル。(12月27日起工式挙行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月11日 政治・経済 県議会は、自民党全議員提出の県営バス事業実施の決議案を29対8で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月24日 政治・経済 金沢市汚物処理審議委員会は、金沢市が参加出資して北国衛生社と市で、公社を設立する案を、市長に答申した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 1月15日 社会・文化 午後4時25分ごろ菊川町、犀川上菊橋北詰めの民家から出火、1むね3戸を半焼し、乳児1人焼死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 1月17日 社会・文化 雪のため北鉄金沢市内電車が、2年ぶりで全線不通となった。(19日幹線だけ開通、本日現在積雪約60センチ) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 1月20日 社会・文化 (山中温泉水無山のロープウェイが開通した。長さ667メートル。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 2月1日 社会・文化 (新木栄吉死去。67歳。小松出身、前日本銀行総裁、元駐米大使。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 2月26日 社会・文化 午後1時50分ごろ野町5丁目の酒類販売店から出火、商店2戸を全焼、2戸と離れ座敷1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 2月27日 社会・文化 石川県美術館の起工式が、建設敷地の出羽町成巽閣横でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月3日 社会・文化 午前3時26分ごろ京町の牛肉商の牛舎から出火、牛舎3むね(450平方メートル)を全焼、土木業者の倉庫を半焼、牛14頭が焼死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月6日 社会・文化 春闘で賃上げ等要求中の北陸鉄道労組は、5日午後9時から終発までと、6日午前10時から午後3時まで、金沢市内電車の時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月6日 社会・文化 午後2時20分ごろ涌波町の農家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月8日 社会・文化 北陸鉄道労組は電車、バスの24時間全線ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月11日 社会・文化 北陸鉄道労組は午前9時から金沢市内電車、バスの6時間時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月12日 社会・文化 北陸鉄道労組は春闘2回目の電車、バスの24時間全線ストを実施した。(争議は16日地労委職権あっせんで妥結) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月17日 社会・文化 午後10時20分ごろ下堤町日本通運金沢市店堤町営業所から出火、同営業所を全焼、隣接の島田時計店の2階と中栄草栄堂の3階を半焼、さらに2戸の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月25日 社会・文化 石川電気業会(会長北陸電力石川支店長)が卯辰山にモミジの苗木1,000本を寄贈した。市は真珠谷に600本、望湖台北側の谷に200本、紅葉谷に200本植えることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 3月31日 社会・文化 新学期から統合する予定になっていた金石町、大野町両小学校は、統合後の新校名問題について両校校下の意見がまとまらないため、臨時市教育委員会は「統合は教育上児童に悪影響を及ぼす」として、両校の統合を延期することにきめた。新校名について、金石町校下側は「金石相生町小学校」を、大野町校下側は「金石大野小学校」を主張して対立したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月1日 社会・文化 石引町、崎浦両小学校が合併、小立野小学校になった。校舎は従来の石引町小学校東分校。石引町小学校の本校(旧校舎)は小立野小学校石引分校となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月1日 社会・文化 十一屋町小学校泉野分校が泉野小学校として独立、十一屋町小学校は十一屋小学校と改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月1日 社会・文化 市は俵中学校(生徒数36人)を廃止、紫錦台中学校に編入した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月1日 社会・文化 市は大桑町葭島地区に建設中の仮称・笠舞中学校の校名を、当分の間「野田第二中学校」として開校した。通学区域は現在、野田中学校に通学している新堅町校下、菊川町校下の全部と紫錦台に通学している崎浦校下の一部。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月1日 社会・文化 金沢市立工業高校に電子工業過程が新設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月5日 社会・文化 午後2時50分から約3分間にわたり、金沢市をはじめ加賀地方一帯に、直径2~3センチのヒョウが降った。金沢市の水田地帯では稲の保温折衷苗代約20へクタールが全滅、額、富樫方面のリンゴ、戸板のナシ畑も被害が大きく、市内住家のガラスの被害も多かった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月8日 社会・文化 金沢城石川門の保存修理工事が完成、修理完成祝賀式が施工主体の文化財保護委員会と金沢大学の共催で挙行された。工事は28年1月から6年3ヵ月かかり工費は3,340万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月8日 社会・文化 私立北陸電波学校に高校設置が認可され、北陸電波高等学校が開校した。校長青山兵吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月9日 社会・文化 県は金沢市犀川振興会から皇太子結婚記念として「皇居お堀の白鳥ひとつがいを、兼六園に寄贈したい」との申入れを検討の結果、受入れることに決定。本日、生後1年の2羽が皇居外苑保存会からの譲渡書とともに到着し、犀川振興会代表と小林副知事の手で霞ヶ池に放し飼いされた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月10日 社会・文化 皇太子結婚式。金沢市内の商店街は美しく装飾され、官公庁、銀行等は休み。花電車、旗行列、吹奏楽行進、記念スポーツ大会や各所で記念植樹等がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月13日 社会・文化 石川県の東京在住学生を収容する財団法人石川県学生寮が文京区久堅町に完成した。78室、室代1,200円、食費3,000円(2食)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 4月25日 社会・文化 金沢山岳会が同会発足10周年記念として、医王山山頂(標高895,7メートル)に方位盤をすえつけた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーは、雨の中で約1万3,000人が参加しておこなわれた。兼六園広場の会場には、田谷知事や当選県議らも出席して祝辞を述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月 社会・文化 市教育委員会は次の個所に観光標識をたてた。徳田秋声生家跡(横山町)宮竹屋屋敷跡(片町)大槻伝蔵屋敷跡(金大理学部構内)卯辰山養成所跡(卯辰山)春日山焼窯跡(山ノ上町)勘兵衛塚(卯辰山)加賀藩家老奥村邸跡(国立金沢病院)松門跡(泉新町)木村塾跡(泉野町)長田菅原神社拝殿(長田本町)キリシタン獄舎跡(卯辰山) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月1日 社会・文化 北鉄は本日から、金沢市内の定期観光バスの運行をはじめた。Aコース(3時間半、大人200円)とBコース(1時間半、大人70円)の2種。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月15日 社会・文化 石川県歯科医師会館が大手町に完成した。木造2階建、132平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月17日 社会・文化 午前1時半ごろ高岡町の元旅館湖南荘から出火、旅館の建物3むね(延べ350平方メートル)を全焼、土蔵を半焼、さらに飛び火で隣接3戸の屋根裏も焼いた。(放火と判明) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月18日 社会・文化 石川県婦人団体協議会(県婦連)の役員改選で、会長在職12年の駒井しづ子が辞任、新会長に鈴木紀子(能美婦連会長)、副会長に喜多美由喜(金沢市婦連会長)が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月21日 社会・文化 金沢大学付属病院中央診療舎の完成式が挙行された。総工費1億200万円で32年9月着工したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月27日 社会・文化 午後11時5分ごろ穴水町2番丁の木工製作所から出火、工場と所内住宅1むねずつを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 5月29日 社会・文化 金沢大学に校歌ができ、本日、スポーツ・センターで挙行の開学10周年記念式典で発表された。作詞室生犀星、作曲信時潔。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月13日 社会・文化 世界連邦平和都市第6回全国大会が、南町北国講堂で開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月21日 社会・文化 北鉄鉄道労組は夏季手当要求で始発から24時間ストにはいったが、午前10時妥結、ストを解除した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月24日 社会・文化 広島まで歩く原水爆禁止の平和大行進(北陸コース)が倶利伽羅から金沢入りし、市内では約2,000人の大行進にふくれた。南町北国新聞社前で歓迎集会が開かれ、土井市長、田谷知事も歓迎のあいさつをした。(一行は25日金沢を出発。広島まで歩くものは5人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月25日 社会・文化 安保条約改定阻止代3次全国統一行動デー。県下の各労組も、午前中職場大会を開き「安保改定絶対反対」を決議した。県教組は午後4時から県下40ヵ所で大会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月26日 社会・文化 県が皇太子ご結婚記念事業の一つとして募集した「石川県民の歌」の入選作が決まった。作者は塩屋町梅木宗一(48歳)、「白山に朝日ははえて……」以下3節。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 6月30日 社会・文化 金沢大学の学長選挙がおこなわれ、現学長戸田正三が3選された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 7月11日 社会・文化 10日夜から11日朝にかけ金沢市内で80ミリの豪雨があり、市内でがけくずれ10ヵ所、床下浸水85戸を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 7月13日 社会・文化 兼六園入口紺屋坂下の水飲場の中央に、長谷川八十制作のブロンズ彫像(天使と3匹のイルカ)が建った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 7月22日 社会・文化 午後1時55分ごろ十三間町の民家から出火、1戸を全焼、納屋1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 7月24日 社会・文化 午後9時55分ごろ西泉町倉庫精練会社西金沢工場の樹脂加工工場から出火、屋根約70平方メートルを焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 7月25日 社会・文化 安保改定阻止第4次全国統一行動の日。石川県評と安保条約反対石川県民会議は、午後6時から兼六園広場で労組員、学生、婦人代表など約1,500人を集めて安保改定阻止県民総決起大会を開き、市内をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 7月29日 社会・文化 田上初雄死去。67歳。医学博士、石川県地方労働委員会会長、金沢ロータリークラブ会長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月1日 社会・文化 市が医王山山ろくキゴ山に建設した「青年の家」の開所式がおこなわれた。標高400メートル、敷地2万8,100平方メートル、建物は延べ549平方メートル、鉄筋2階建、ベッド72人分、工費1,300万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月14日 社会・文化 (台風7号の北上で加賀南部一帯に集中豪雨の被害、粟津温泉は全旅館床上浸水。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月15日 社会・文化 昨年9月着工した金沢総合運動公園の市営プールが完成、完成式と山中毅選手らが出場してのプール開きが挙行された。競泳プールは50メートル9コース。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月19日 社会・文化 北鮮帰還協定の成立にともない、県下在住朝鮮人の北鮮帰還業務にあたる「日赤臨時帰還業務石川県対策本部」が、県援護課と日赤県支部に設けられた。対策本部長は森上県厚生部長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月20日 社会・文化 (鶴来観光開発会社は、近くロープウエーを建設して観光施設をつくる後高山一帯を「獅子吼高原」と呼ぶことにきめた。後高山の後方にそびえる獅子吼平にちなんで名づけたもの。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月21日 社会・文化 金沢市内のタクシー会社7社を中心とする石川県旅客自動車協会は、今後、運転手は乗客からチップをいっさい受取らないことを申合せた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月23日 社会・文化 広坂通の金沢カトリック教会が新築落成、北陸3県から約600人が参列して献堂式がおこなわれた。鐘楼は地上22メートル、総工費2,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 8月26日 社会・文化 (奥能登に大水害、輪島の雨量3時間に130ミリ。死者37人、負傷990人、家屋流失56戸、全半壊979戸、被災世帯1万4,024。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月1日 社会・文化 下本多町の元師団長官舎に石川県児童会館が開設された。(10月1日開館式挙行)昭和23年5月に児童会館建設運動が起ってから10年ぶりに、ようやく実現したことになる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月2日 社会・文化 午前6時10分ごろ野田町陸上自衛隊金沢駐とん部隊の直轄隊舎2階付近から出火、同隊舎2階建2,043平方メートルと器材庫、洗面所、便所など3むね180平方メートルを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月8日 社会・文化 勤評撤回要求の石川県教組の統一行動が、県下39ヵ所でおこなわれた。金沢市教組の勤評撤回措置要求大会は、午後3時40分から兼六園広場で約1,000人の教員が参加して開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月14日 社会・文化 横安江町商店街にアーケードが完成した。長さ330メートル、総工費4,200万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月17日 社会・文化 出羽町の石川護国神社大鳥居わきにある旧陸軍の貯水そうが、県の手で取りこわされた。同貯水そうは、旧城内の旧歩兵第7連隊の上水道貯水池として大正11年につくられたもので、長さは12.6メートル、幅5メートル、高さ3.5メートルのコンクリートづくり。県は、撤去跡を含め大鳥居から兼六園球場までの3万3,000平方メートルを小公園にする。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月18日 社会・文化 午前4時ごろ二口町の材木店大工小屋から出火、台風14号による13メートルの強風下に、同小屋および隣接鉄工所の平屋建工場と住宅1むね(計230平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月22日 社会・文化 初の東海道線回りの東京、金沢間急行列車「能登」が運行を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月26日 社会・文化 台風15号の中部地方縦断で県下は午後8時ごろから風速20~25メートルの暴風雨となり、金沢市内では浅野川、金腐川の川沿い床上下浸水約1,000戸を出した。(伊勢湾台風) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月29日 社会・文化 午後1時50分ごろ弥生町の市立泉中学校の動力室付近から出火、同中学校の本館(木造2階建約5,500平方メートル)を全焼、屋内体育館を半焼、さらに隣接の弥生小学校の本館(木造2階建約4,630平方メートル)と体育館および民家2戸を全焼し、民家1戸と弥生公民館を半焼、金大北溟寮の一部と民家2戸の一部を焼いた。(泉中学校生徒は鳴和中学校と野田中学校南分校に、弥生小学校児童は野町、十一屋、泉野、長土塀の4校にわかれて分散授業を実施) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 9月30日 社会・文化 午後11時50分ごろ泉野町の新築中の住宅から出火、木造2階建(500平方メートル)1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月12日 社会・文化 兼六園成巽閣の隣接地に2月着工した石川県美術館が完成、開館式が挙行された。地下1階、地上2階の近代建築で設計は谷口吉郎、総工費7,625万円。開館記念として、県内古美術品を集めた名宝展が11月15日まで開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月12日 社会・文化 (水害のため8月26日以来不通になっていた国鉄七尾線輪島─能登市ノ瀬間が、48日ぶりに開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 10月22日 社会・文化 映画常設館、金沢東映(東映直営)が香林坊に完成、開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月3日 社会・文化 第13回(昭和34年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。石原堅正(藤花学園長─私学振興)宮崎寒雉(工芸家─茶の湯のかまづくり)棚田すみ子(藤舎流笛の名手)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月3日 社会・文化 市は次の6点を金沢市記念文化財に指定した。前田利家画像(金石味噌屋町中山一俊所蔵)奥村永福夫妻画像(八坂町永福寺所蔵)高山右近自筆書状(山ノ上町木島健雄所蔵)尾山神社神門原図(宗叙町津田米次郎所蔵)灑雪亭露地(小将町西田儀一郎所有)ジョンカラ節(東長江町ジョンカラ節保存会)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月4日 社会・文化 在日朝鮮人の北朝鮮帰還申請が、金沢市教育委員会の会議室に設けられた日赤の特設窓口ではじまった。この日の申請者は5家族20余人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月4日 社会・文化 午後8時50分ごろ兼六通金沢地方裁判所の守衛詰所から出火、同所と自動車運転手休憩室をそれぞれ半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月7日 社会・文化 国民年金法により11月から適用される福祉年金(無きょ出)の証書伝達式が、市役所でおこなわれた。金沢市の福祉年金受領予定者は8,730人、うち受付け数2,452人、証書伝達者380人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月13日 社会・文化 金沢生れの俳人桜井梅室の句碑が、卯辰山宝泉寺境内にたち、除幕式がおこなわれた。句は梅室が同寺境内でよんだ「屋の棟にそうて殖ける梅柳」。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月13日 社会・文化 安保条約改定反対の県民総決起大会が県下14地区で開かれた。兼六園広場の中央会場には約3,700人が参加、2隊にわかれて市内をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月16日 社会・文化 労働協約改訂、年末手当要求等を交渉中の北陸鉄道労組は、始発から午前8時半まで電車、バスの全線時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月17日 社会・文化 北陸鉄道労組は午後7時からバス全線、同8時から金沢市内電車の時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月18日 社会・文化 嵯峨保二死去。61歳。北国新聞社会長、北陸放送会長。戦後、石川県美術文化協会長をはじめ文化、教育、宗教、経済各団体の役員をつとめ、多彩な業績を残した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月21日 社会・文化 北陸鉄道労組は、電車、バス全線の24時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月25日 社会・文化 北陸鉄道労組は午後9時から終車まで金沢市内電車の時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月27日 社会・文化 午前10時半ごろ白銀町のオートバイ修理工場で、オートバイのガソリンが引火、同工場と隣接の倉庫、商店、民家など計5むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月27日 社会・文化 安保条約改定阻止第8次全国統一行動日。東京では国会構内に全学連デモ隊がなだれ込み、デモ隊と警察隊に負傷者670人。金沢市内では各官公庁、会社、工場で職場大会や街頭ビラまきなどがおこなわれ、金大学生約200人が市内をデモ行進した。また北陸鉄道労組は始発から午前8時まで全線の時限ストをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 11月29日 社会・文化 北陸鉄道争議は団体交渉が再開されぬまま、またも全線24時間ストが実施された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月2日 社会・文化 北陸鉄道労組は、第3波の全線24時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月3日 社会・文化 卯辰山常盤町の精神病院常盤園(社会福祉法人金沢市民生協会経営)の新病舎完成式がおこなわれた。鉄筋3階建、総工費1,500万円、ベッド数は50床、これで同病院のベッド数は旧病舎の130床と合わせて180床となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月5日 社会・文化 石川県青年学生共闘会議の安保条約改定阻止、デモ規制法粉砕決起大会が午後1時から北鉄本社車庫内で開かれ、大会後参加者約400人がデモをおこない、広坂通から香林坊、中央通りにかけて警官隊と約1時間にわたり激しくもみ合った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月5日 社会・文化 北陸鉄道労組は、始発から全線48時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月8日 社会・文化 増泉町津田駒工業社長越馬徳治は創業50周年記念に、金沢市立工業高校と金沢大学工学部へ研究設備資金として100万円ずつを寄付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月9日 社会・文化 北陸鉄道労組は8日始発から72時間全線ストにはいったが、今暁、労働協約改訂についての石川県地労委のあっせん案を労使が受諾、組合は午前5時ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月10日 社会・文化 安保条約改定阻止第9次全国統一行動日。金沢では県庁前で総決起大会や職場集会がおこなわれ、金沢大学では一部学生が授業放棄をし、街頭でビラまきをしたが、第8次に比べ盛りあがらなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月12日 社会・文化 北陸鉄道労組は年末手当、退職金増額要求で11日始発から48時間全線ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月16日 社会・文化 北陸鉄道労組は、全線24時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月18日 社会・文化 石川県からの北朝鮮帰国第1陣の10世帯49人が、帰還第2船に乗るため金沢を出発した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月19日 社会・文化 北鉄労使の年末手当交渉に対する県地労委あっせんが不調に終ったため、会社側の野根会長を除く井村社長ら社内8重役全員が、「経営の責任を持てない」として野根会長に辞表を提出した。組合は始発から全線ストにはいったが、午前10時ストを解除した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月21日 社会・文化 (鶴来町の獅子吼高原ロープウエーが開通した。工費7,500万円、空中距離1,016メートル。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十四年(1959) 12月23日 社会・文化 北陸鉄道の争議が38日ぶりに解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月6日 政治・経済 昨年12月17日の県議会の県営バス実施決議にもとづき、県議会に県営バス特別委員会が設置され、第1回委員会が開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月9日 政治・経済 (北陸線複線化工事の新倶利伽羅トンネル工事が、石川、富山両県側から同時に着工された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月14日 政治・経済 閣議決定の明年度政府予算案に、犀川総合開発事業実施計画費1,000万円、河北潟干拓の実施設計費500万円が計上された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月16日 政治・経済 (岸首相、藤山外相、石井自民党総務会長の新安保条約調印全権団が羽田空港を出発。出動警官隊3,000人、全学連の学生約700人空港にすわり込み、78人逮捕。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月18日 政治・経済 都市計画道路、談議所線(鳴和町ー金沢駅前)の笠市、鳴和町間1,910メートルの舗装完成祝賀会が挙行され、談議所線を東大通りと名づけることにした。新道路名は、舗装促進期成同盟会が沿道の中小学校3校の生徒から募って選定したもの。東大通りは市内を貫通する国道8号線のバイパスとなる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月20日 政治・経済 (日米新安保条約、新行政協定がワシントンで調印された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月26日 政治・経済 北陸地方開発促進協議会の設立総会が東京で開かれた。会長益谷秀次、副会長は石川、富山、福井3県知事、理事は各県6人で土井市長も就任。総会で、北陸地方開発促進と政府に対する要請を決議した。(協議会の事務局は石川県庁内に設置) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月28日 政治・経済 北陸鉄道の顧問、役員会は空席の同社社長に元東京鉄道管理局長白木竜夫の就任を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 2月1日 政治・経済 金石地区に建設中の市営住宅78戸の入居申込みが締切られた。申込み者916人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 2月6日 政治・経済 市は、市道のうち袋小路やゴミ捨て場になっている道など不要道路14ヵ所(353平方メートル)を廃道にした。赤字財政のおりから、隣接民家に払い下げ財源にあてる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 2月21日 政治・経済 空席の北鉄社長に1月末、南喜ー国策パルプ副社長と加賀山之雄参議院議員の推薦で元東鉄局長白木竜夫が擬せられ、白木は本月初め北鉄新首脳候補者の棚瀬松一、井戸垣浚らを同道来沢、北鉄の経営状況調査と地元関係筋の打診に当っていたが、本日、東京で白木らの北鉄入り辞退が南喜一から発表された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 2月27日 政治・経済 県は新宮ご誕生の記念植樹を決定、県と県山林協会が主催して、4月1日から12月末までに、県下で25万本の記念植樹を実施することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月7日 政治・経済 県議会は、県営バス特別委員会の「県はバス事業免許申請をすべきである」との結論を、32対8で可決した。(賛成は自民と民社) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月7日 政治・経済 (小松飛行場の航空自衛隊基地建設に伴う用地買収が、和田市長と防衛庁代表の間で調印された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月22日 政治・経済 市の工場設置奨励に関する条例改正が、市議会で可決された。(4月1日施行)従来の奨励金一本やりの制度のほかに、立地条件を整備するための便宜供与制度を設けて双方のいずれかを選択させるほか、対象工場を設備投資5,000万円以上(現行1,000万円)とするもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月22日 政治・経済 市は35年度市予算に、犀川総合開発の工事実施基礎調査費2,142万円を計上、市議会の議決を得た。犀川総合開発は全国初の市営施工が認められ、国の調査費1,000万円が35年度政府予算で決定している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月22日 政治・経済 金沢市鳴和学園設置条例が市議会で可決された。精神薄弱児の通園施設として、小坂町の小坂保育所を増改築して30人を収容するもの。予算600万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月22日 政治・経済 市は医王山山ろくキゴ山に、市営牧場を3ヵ年計画でつくることになり、35年度分事業費130万円が市議会で可決された。開墾面積は約40ヘクタールの予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月28日 政治・経済 市は市有地、茶畠一ノ小路の市伝染病院跡地のうち、19区画(2,900平方メートル)を競争入札によって一般市民に公売した。売れたのは10区画で、坪当り平均2万3,000円、坪当り最高価格は3万1,058円であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月30日 政治・経済 (自民、社会、民社3党共同提案の北陸地方開発促進決議案が、衆議院本会議で満場一致可決された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月31日 政治・経済 木ノ新保3番丁の金沢市民金庫(公益質屋)が廃止された。昭和8年5月金沢市公益質屋として発足、戦時中一時休業したが、戦後の24年12月から金沢市民金庫として再発足したもの。本日現在の貸付は785口87万5,000円。(貸付金回収の関係上、完全閉鎖時期は6ヵ月後となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月1日 政治・経済 市は犀川総合開発の最終計画をつくりあげるため、総合開発部(総務課と工事課の2課)を新設、部長に総合開発計画審議会事務局次長青木治夫を任命した。またガス水道局の4部8課制を、局長の下に本庁と同一職階の1次長(部長待遇)と5課制(経理、営業、建設、施設課とガス工場)とし、次長に山中巖(現経理部長)を任命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月1日 政治・経済 (七尾線列車が全部気動車になり、準急もできた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月11日 政治・経済 田谷知事は、県営バス事業の免許申請書を石川陸運事務所に提出した。申請書は同事務所から名古屋陸運局に送られ、聴問会の後、運輸大臣に申請、大臣は運輸審議会に諮問して免許、不免許を決定する。県営バス事業計画は、県に交通部を設け、営業所は県下5ヵ所、大型バス25台で金沢市内4路線と郊外6路線計10路線を運行するもので、バス開設のための事業費は1億2,855万円。料金は金沢市内は一律15円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月17日 政治・経済 (国鉄能登線の鵜川ー宇出津間9.87キロが開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月17日 政治・経済 民主社会党石川県連の結成大会が市公会堂で開かれた。会長吉田秀雄、副会長平川金治、徳山一郎、室田栄保、書記長内田武雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月30日 政治・経済 市は、新市域の地区連絡事務所のうち、金石地区連絡事務所を除く小坂、川北、二塚、富樫、戸板、米丸、鞍月、大徳の8事務所を廃止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月30日 政治・経済 社会党石川県連が2月23日から開始した「多衆運動に関する石川県条例」の廃止請求署名運動は、署名数が法定数の約2倍の2万2,636人に達したので、同県連は金沢市はじめ各市町村選挙管理委員会に署名簿を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月30日 政治・経済 普正寺町地内の犀川河口にかかる普正寺橋の架けかえ工事が完成した。長さ91メートル、幅4.5メートル、上部木造、下部鉄筋コンクリートの半永久橋で、工費648万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月11日 政治・経済 金沢市観光会館建設委員会は、同会館の最終設計を承認した。敷地は、下本多町市ガス水道局跡と現在の市婦人会館(向い側の市産院建物跡に移す)および県公舎をこわした跡の計9,120平方メートル。設計は谷口吉郎博士指導により日建設計工務会社が担当、地下1階、地上5階(観光部門は3階)大ホールの固定席2,006席、補助席300席、建て面積4,250平方メートル、延べ9,430平方メートル。2ヵ年計画、総工費4億4,000万円で、予定財源は市費1億3,200万円、起債1億5,000万円、県費補助5,000万円、寄付金1億800万円(財界寄付7,000万円、一般市民寄付3,800万円)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月18日 政治・経済 北日本観光会社(本社金沢市鳴和町)が運輸省へ申請中の、金沢と加賀温泉郷を結ぶ温泉急行バスの新路線(2路線1日6往復)が免許された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月28日 政治・経済 約5ヵ月間空席になっていた北陸鉄道の社長以下首脳陣が、本日開かれた株主総会と役員会で決定した。社長柴野和喜夫(前石川県知事)会長野根長太郎(再選)専務吉田寛(前副社長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月31日 政治・経済 社会党石川県連が、4月30日各市町村選挙管理委員会に提出した県多衆運動条例の廃止請求署名は審査を終了、有効署名は法定数を6,056人上回って廃止請求の成立が確定した。金沢市の分は署名数15,616、うち有効12,122、県は近く県議会に条例廃止案を提案、審議採決を求める。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月1日 政治・経済 金沢商工会議所は創立70周年記念式を挙行した。金沢商工会議所70年史も編さん刊行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月17日 政治・経済 市議会全員協議会は市、市議会が一致協力して金沢市観光会館の建設にあたることを決議、市議会全員が率先して50万円を寄付することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月25日 政治・経済 県は市内穴水町の二水高校跡地1万9,054平方メートルを、住宅団地として売却するため昨年一括競争入札にしたところ、予定価格に達しなかったので、こんど1戸当り165平方メートルから200平方メートルに分割、約60戸分を売却することにした。県は約1億円を見込んでいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月27日 政治・経済 北陸線複線工事の犀川新鉄橋が完成、開通した。長さ153.7メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月29日 政治・経済 市は一般家庭からゴミ集め料金を徴収する市清掃条例を市議会に提案、議会では社共両党が反対、また議会外では、県評を主体とする市ゴミ集め手数料徴収反対実行委員会の反対運動が進められたが、条例は多数で可決された。ゴミ集め料金は月額3人までの家庭20円、6人まで30円、7人以上40円。条例の施行期日は未定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月1日 政治・経済 大衆免亀淵町が市議会の議決を経て、亀淵町と町名変更された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月1日 政治・経済 さきに、法定署名数を得て県条例廃止請求が成立した県多衆運動条例の廃止案が県議会に提案され、採決の結果34対9(革新ク、民社、共産)で否決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月1日 政治・経済 (県議会の清谷、百万正副議長が辞任、正副議長選挙の結果、議長に宮本米吉、副議長に森田良が当選した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月8日 政治・経済 市が造園工事をすすめていた卯辰山の「紅葉谷」が完成した。総工費313万円、天神橋から卯辰山頂上に登る途中の谷間1万2,500平方メートルを造園したもので32年8月着工。金沢ライオンズ・クラブ等の寄付により、モミジ150本、ツツジ250本、ツバキ60本、その他吉野杉、シダレ柳などを植樹した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月11日 政治・経済 農林漁業金融公庫北陸支店が、下本多町石川県農業会館に開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月19日 政治・経済 (池田内閣成立、石川県第2区選出の南好雄が運輸大臣に、また益谷秀次が自民党幹事長に就任した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月1日 政治・経済 北日本観光自動車会社の金沢―加賀温泉間急行バスが運転を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月1日 政治・経済 鈴見山山ろくの市内鈴見、若松、田上の各町(旧浅川村)は市に対し「同地区に住宅地を造成するため、道路敷地を無償提供するから、早急に鈴見橋―田上橋間3.5キロに道路を新設してほしい」と申入れた。これに対し土井市長は、来年度から着工すると回答した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月10日 政治・経済 金沢市観光会館の起工式が、下本多町元市ガス水道局跡の敷地で、来賓約250人が参列しておこなわれた。総工費4億4,000万円のうち、主体工事は2億5,630万円で戸田組が施工、来秋完成の予定。主体工事は入札の結果、最低入札価格が市の予定価格を3,300万円上回ったため、市は入札を打ち切り最低入札者の戸田組との随意契約による施工としたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月16日 政治・経済 金沢商工会議所は臨時議員総会で県、市、金鉄局、北鉄、金大等に対する要望事項16件を決議、北鉄に対しては金沢市内電車撤去を要望することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月21日 政治・経済 民主社会党金沢支部が結成された。支部長林武夫、副支部長滝尾照士。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月28日 政治・経済 自民党石川県連大会が開かれ、空席となっていた県連会長に益谷秀次、副会長に林屋亀次郎、幹事長に西田与作を選任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月1日 政治・経済 全長4,824メートルの金石街道改良工事の完工式が、寺中町大野湊神社参道入り口でおこなわれた。都市計画事業の一環として、県が昭和23年着工し、総工費7,894万円で投じたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月2日 政治・経済 高道町(電車停留所)から旧油木山(山ノ上町5丁目)を経て、汐見坂へ連絡する卯辰山登山道が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月3日 政治・経済 広坂通の街路拡張工事が開始された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月6日 政治・経済 市議会の中央卸売市場設置調査特別委員会と青果業者代表との初の懇談会が開かれ、業者側は中央市場の移転に賛成し、新中央卸売市場建設の具体案を早く示すよう要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月18日 政治・経済 社会党金沢支部大会で、金沢支部長に増江幸二が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月21日 政治・経済 池田首相は遊説のため山崎自治、石田労働、中山厚生、橋本建設、鈴木郵政、南運輸の6大臣を同行して、午前8時すぎ金沢着の急行ほくりくで東京から来沢、約1,000人の出迎えを受けた。首相は兼六園広場で開催の新政策発表演説会(聴衆約2,000人)と市公会堂の自民党北信越大会に臨み、その間、整肢学園、小野陽風園等を視察、同夜帰京した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月27日 政治・経済 宮守堀通りの石川スポーツ・センターの敷地問題が、県と金沢大学間で解決した。大学所有の同センター敷地6,600平方メートルを県が大学から払下げを受け(評価は財務局)、代りに最高2,200万円の予算内で、金大内に県が体育館を建設して寄付するという条件。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月27日 政治・経済 県教育委員に池田寛一、県公安委員に加登周一が新任された。(教育委員沢田忠信、公安委員九志井安平任期満了) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月30日 政治・経済 市議会教育厚生委員会は、県評のゴミ集め料金の徴収を4月1日からにしてほしいとの請願を不採択にし、1月1日から徴収したいとの市当局案を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月1日 政治・経済 第9回国勢調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は73,608世帯、人口298,972人(男143,491、女155,481人)であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月1日 政治・経済 中部循環準急列車が運転を開始した。北陸と名古屋を結んで10時間半で一周する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月18日 政治・経済 博労町に完成した郵政総合ビルの落成式がおこなわれた。地上5階、地下1階、総工費3億円。金沢郵政局、金沢郵政監察局、郵政弘済会金沢地本、金沢郵便局の総合庁舎として昭和31年12月着工したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月18日 政治・経済 金沢市ゴミ焼却場の起工式が、東力町の敷地でおこなわれた。7,210平方メートルの敷地に、工費約5,800万円で来年6月までに完成する。煙突は高さ60メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月20日 政治・経済 金沢実業会は、結成15周年を迎え社団法人に改組した。理事長加藤義一郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月27日 政治・経済 金沢駅前広場に、大型ビル建設計画を進めている金沢ビル株式会社の第一回発起人会が開かれた。ビルの規模は地上7階、地下2階、発起人は西田儀一郎ら12人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月28日 政治・経済 (北陸線敦賀―富山間電化工事の着工式が、福井でおこなわれた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月1日 政治・経済 金沢商工会議所は、工業専科大学または工業短期大学を、金沢市に設置するよう文部省に陳情することにきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月12日 政治・経済 金沢市の財政再建計画案を審議する臨時市議会が開かれ、約2億7,000万円の赤字を本年度から4年間で解消する財政再建計画案を37対1で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月17日 政治・経済 金石本町に建設中の35年度市営住宅80戸の入居者抽選がおこなわれた。申し込み1,058人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月20日 政治・経済 金沢ビル株式会社の創立総会が開かれた。社長西田儀一郎、資本金1億円(授権資本4億円)。ビル建設費は8億5,000万円、土地買収費3億8,000万円、明年1月着工、37年3月完成の予定である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月21日 政治・経済 衆議院議員総選挙は20日おこなわれ、開票結果は次の通り。全県投票率79,25%〔第1区〕当選64,635票 井村重雄(自民新)同64,125票 坂田英一(自民前)同61,411票 岡良一(社会前)次点54,144票 吉田秀雄(民社新)22,229票 梨木作次郎(共産元)4,593票 佐竹弘造(無新)〔第2区〕当選53,906票 益谷秀次(自民前)同43,889票 南 好雄(自民前)同32,473票 大森玉木(自民前) 次点27,061票 坂本三十次(無新)26,178票 北尾幸一(社会新)13,868票 富田喜作(無新)1,268票 梅田兵一(共産新)613票 増宮乙吉(民社新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月29日 政治・経済 市議会中央卸売市場設置調査特別委員会は、市当局に対し「中央卸売市場の設置について最近鮮魚卸業者も賛成したので、すみやかに市場建設のため土地選定など具体案の作成にとりかかるよう」申入れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月1日 政治・経済 犀川上流にかかっている三つのつり橋のうち、水淵橋と下辰巳橋が、上部は木造、橋脚はコンクリート造りの半永久橋にかけかえを終った。水淵橋は長さ28.8メートル、幅2.7メートル、下辰巳橋は長さ30メートル、幅2.2メートルで大型消防車も通れる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月1日 政治・経済 北陸電通局が職員厚生施設として兼六園紺屋坂横に建てた北陸電電会館が完成した。鉄筋地下1階、地上2階、延べ500平方メートル、工費約2,500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月9日 政治・経済 石川都市計画地方審議会は、金沢市提出の用途地域の全面変更を可決、答申した。産業都市建設への基礎を固めるため、準工業地と工業地の面積をふやしたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月9日 政治・経済 市は次の4児童公園を新設することになり、石川都市計画地方審議会の承認を受けた。これが完成すると市内の児童公園は24になる。鳴和と山ノ上町中間の城北児童公園、鳴和児童公園、上野本町の菫児童公園、森丘児童公園。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月12日 政治・経済 市議会総務委員会は北陸電力増資にともない、市が新しく17万7,988株(7,119万5,200円)を引き受けることをきめた。この結果、市所有の北陸電力株は合計106万7,929株(5億3,396万4,500円)になる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月20日 政治・経済 金沢郵政局が職員厚生施設として袋町に建てた金沢郵政会館が完成した。鉄筋2階建、延べ670平方メートルのビル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月20日 政治・経済 (新道路交通法施行、県もこれに伴う県道路交通法施行細則を施工した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月21日 政治・経済 北陸地方開発促進法が参議院で可決、成立した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月10日 社会・文化 十一屋、泉野両校下の公民総合センター「城南公民会館」が完成、落成式があげられた。十一屋公民館が中心となって野田寺町1丁目の旧市民病院の払下げ(421万円)を受け、改装設備費に150万をかけたもので、資金は簡易保険料の集金手数料の積み立てなどをあてた。館内には結婚式場、ホール等もある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月11日 社会・文化 午前4時ごろ川上新町の民家から出火、2階を全焼、隣家2戸の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月11日 社会・文化 香林坊の金沢大神宮は社地を売却し、梅本町の高峰譲吉博士邸跡に新築移転することにきまった 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月14日 社会・文化 16日の安保調印全権団渡米を前に、安保条約改定阻止第11波全国統一行動が実施され、金沢では午後6時から安保改定阻止石川県民会議が雨の兼六園広場で、約2,000人を集めて安保改定阻止・春闘総決起大会を開催した。東京の総決起大会に参加の石川県代表団は、金大自治会学生26人を含めて計62人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月21日 社会・文化 午後5時54分ごろ横山町2番丁の睦染色会社乾燥工場から出火、同工場と事務所など(約530平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月22日 社会・文化 午前10時50分ごろ長土塀5番丁の民家から出火、2戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月23日 社会・文化 旧金沢第一高女同窓会の済美会が、創設60年記念事業に建設中の済美会館が穴水町2番丁に完成した。旧二水高の図書館を県から譲り受け、同窓生の手で改造したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 1月23日 社会・文化 (国鉄労組北陸地方本部からの脱退者が、第2組合の国鉄北陸地方労組を結成した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 2月7日 社会・文化 午後9時10分ごろ木ノ新保2番丁のオートバイ修理店から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 2月8日 社会・文化 宗教法人創価学会の金沢大会が、農業会館ホールで会員約1,500人が参加して開かれた。現在石川県下の会員世帯は約2,700世帯。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 2月11日 社会・文化 午後2時20分ごろ東御影町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 2月22日 社会・文化 金沢大学医学部教授会は、旧制度による医学博士の最後の学位論文審査を終了した。大正13年旧金沢医大では学位論文審査開始以来、37年間に金沢医大と金大医学部で生れた医学博士は1,899人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 2月25日 社会・文化 新安保条約批准阻止第12次全国統一行動が実施され、金沢では、教育会館と中央会館で官公庁労組や県職組等の代表が、批准反対と春闘要求貫徹の決起大会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月11日 社会・文化 午後0時半ごろ馬場3番丁のゲタ卸商のゲタ工場から出火、同工場と住宅(計44平方メートル)を全焼、1戸を半焼、2戸の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月16日 社会・文化 安保反対石川県民会議主催の安保条約国会批准反対と生活と権利を守る県民総合決起大会が、兼六園広場で約4,000人が参加して開かれ、閉会後市内をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月28日 社会・文化 荏原製作所社長畠山一清(東京石川県人会長)は亡妻13回忌法要のため来県し、県の社会事業に100万円と県美術館に重要美術品「沢庵禅師の自画像」1幅を寄付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 3月31日 社会・文化 市の敬老年金条例が34年度限りで廃止された。国の老齢福祉年金制度ができたため。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月1日 社会・文化 市は野田第二中学校の校名を城南中学校と改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月1日 社会・文化 (石川県青少年保護育成条例が施行された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月19日 社会・文化 賃金体系改定要求で、12日から組合がストを実施中の石川交通会社(タクシー業)の争議が妥結した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月20日 社会・文化 安保改定促進石川県民連合主催の安保批准促進県民大会が、雨中の尾山神社境内で開かれ、参加者約100人がバスで市中をパレードした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月23日 社会・文化 午前10時半ごろ上鷹匠町の民家から出火、1戸(延べ180平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月24日 社会・文化 (輪島市の商店街で36戸全半焼。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 4月26日 社会・文化 安保批准阻止第15次全国統一行動が実施され、東京では約5万人の国会請願デモがおこなわれ、全学連と警官隊が激突した。金沢では、昼間、金沢大学教養部学生が聴講を放棄して抗議集会を開き市中をデモ、また、官公、地方労代表約800人が市中央公民館で批准阻止とベースアップ獲得の決起大会を開いた。午後6時半からは兼六園で約4,000人参加して批准阻止、岸内閣打倒の総決起大会が開かれ、大会後市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーは、快晴下に約1万6,000人が参加しておこなわれた。プラカードは安保反対一色、家族連れの参加も多かった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月4日 社会・文化 県教育委員会は初めての石川県文化財16点を指定した。うち金沢市内の文化財は次の7点。玉泉園と灑雪亭露地(小将町西田儀一郎邸)伯陽図(尾張町植田忠平蔵)前田利家画像(金石味噌屋町中山一俊蔵)南蛮渡来図(二俣町本泉寺蔵)粉引き茶わん・銘楚白(高岡町西川外吉蔵)青井戸茶わん・銘宝樹庵(高岡町西川外吉蔵)大樋焼「鳥香炉」(堅町山川庄太郎蔵)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月9日 社会・文化 石川県交通安全会議の結成が決定した。結成の推進母体は県新生活運動協議会。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月18日 社会・文化 午前2時ごろ長田本町の北国製紙会社倉庫から出火、工場事務所など3むね(300平方メートル)と隣接の安島製罐会社工場(600平方メートル)を全焼し、民家1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月18日 社会・文化 午前0時50分ごろ北塚町(旧二塚村)の農家から出火、1戸(115平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月22日 社会・文化 午前1時50分ごろ高岡町の廃品卸商住宅から出火、1戸を全焼、3戸を半焼、火元の一家4人が逃げおくれて焼死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月26日 社会・文化 安保阻止第16次全国統一行動が実施され、金沢では夕方から兼六園広場で労組員、学生、婦人団体、文化人グループ数千人が参加して総決起大会が行なわれ、岸首相即時退陣、国会解散等を決議、市中をデモ行進した。また金沢大学学生約1,000人は午後1時から理学部講堂で抗議集会を開いたあと、繁華街ではげしいジグザグ行進デモをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 5月26日 社会・文化 (上京した安保改定阻止石川県民会議の代表約170人=団長荒川県評議長=はアメリカ大使館に行き、うち4人が2等書記官に面会、県民会議の要望書を手交した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月3日 社会・文化 安保反対石川県民会議主催の石川県民総決起大会が、午後6時20分から兼六園広場で開かれ、金沢大学教授グループ約120人はじめ宗教団体、国際親善団体などが初めて参加した(大会実行委発表は参加者1万2,000人)。大会後、教授グループを先頭に目抜き通りを静かにデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月4日 社会・文化 市内樫見町地内の大平沢川のほとりで地元の人たちが試堀中の犀川温泉(仮称)で、このほど地価140メートルから温度26.5度の温泉が噴出した。ゆう出量1日約36キロリットル(200石)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月4日 社会・文化 岸内閣退陣と国会解散を要求する総評、中立系労組のストが全国でおこなわれた(総評推定は参加560万人)。県下では、北陸鉄道労組が始発から1時間半の全線時限ストをしたのをはじめ、約140組合が職場大会等を開き、金沢郵便局では郵便物が約半日の遅れをみせた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月5日 社会・文化 岸加八郎死去。72歳。石川県織物業界の実力者で、石川県繊維協会理事長、日本絹人絹織物工業組合連合会理事長、岸商事会長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月4日 社会・文化 兼六園夕顔亭庭の竹根石(棕梠科椰子属化石)と同種のものが、浅野川上流でも発見された。金大理学部地質学教室が調査の結果、兼六園と同種のものと確認された。これで、医王山系の地下には棕梠科植物の大森林が存在したこともわかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月6日 社会・文化 県下130人の老人クラブ(会員約1万2,000人)をまとめて、石川県老人連合会ができた。会長米川長次郎(金沢市)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月7日 社会・文化 自民党石川県連決起大会が県町村会館で開かれ、新安保批准促進を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月10日 社会・文化 午後3時5分ごろ上笠舞町新谷アパート(木造2階建、26世帯)から出火、同アパートと隣接の明治乳業倉庫、牛舎など延べ1,400平方メートルを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月11日 社会・文化 (蚊戸金沢市議を団長とする安保阻止石川県民会議代表団260人は今朝着京、安保阻止第18次統一行動に参加した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月14日 社会・文化 安保反対石川県民会議主催の安保阻止県民総決起大会が午後6時から兼六園広場で開かれ、全繊同盟県支部、青年団、農民団体、高校生などが初めて参加した。(大会実行委発表は参加者18団体、約1万5,000人)。大会後、金大教授グループを先頭に、広坂通から彦三大通りまでデモ行進をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月15日 社会・文化 安保改定阻止第18次全国統一行動が実施され、総評、中立系労組のストを含む実力行使がおこなわれた(総評推定は参加580万人)。県下では、タクシー労連と北陸鉄道労組が始発から午前7時までの時限ストをしたのをはじめ、官公労は30分から1時間の職場集会を開いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月15日 社会・文化 14日の安保阻止県民総決起大会とデモに、高校生約40人が参加したことについて、県高校長会は「高校生の政治活動参加は許されない。処分しないが注意する」との意見を表明、また県教育委員会は、各高校へ今後適切な指導を行なうよう通知した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月16日 社会・文化 金沢大学学生は国会デモの東大女子学生死亡事件に対し、学内で約2,000人が参加して抗議集会を開き、市内をデモ行進した。デモには金沢美大学生約200人も合流した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月18日 社会・文化 金沢市商店街連盟が月2回の定休日制を実施、初めての定休日として横安江町など11商店街約550点が一斉休業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月22日 社会・文化 安保改定阻止第19次全国統一行動による総評の実力行使がおこなわれた。石川県下では金沢駅が重要拠点職場となり、午前1時すぎ国労北陸地本の労組員ら約5,000人が同駅ホームを占拠、北陸線の列車は約2時間にわたり寸断された。また北陸鉄道労組は始発から1時間の時限スト、官公労、公労協もそれぞれ決起大会を開き、電報、郵便物が遅れを出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 6月23日 社会・文化 金沢大学の安保阻止全学共闘会議は、14日から連続おこなってきた職講拒否ストを本日から解いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月1日 社会・文化 (北陸電力の北陸電力労組は、大会で全労加盟を決定した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月8日 社会・文化 副田松園死去。64歳。郷土史家、著書に「白山おろし」「加賀万歳」などがある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月9日 社会・文化 市は卯辰山の扇ヶ丘にある金沢刑務所墓地(国有地)を、野田山市有墓地に移すことを金沢刑務所に要望していたが、刑務所側も協力を約したので、近く法務省に墓地の敷地交換について認可を申請することになった。卯辰山の刑務所墓地は、1,888平方メートルの地域で、刑務所内で死亡して引取人のない265体が埋葬されている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月9日 社会・文化 (金沢鉄道管理局は、国労北陸地本が6月22日に金沢駅中心に実施した実力行使の処分を発表した。停職5人を含む83人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月22日 社会・文化 午前5時半ごろ水車町のでん粉工場から出火、同工場(約470平方メートル)を全焼、民家2戸の一部を焼いた。火元で中学生1人焼死。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 7月27日 社会・文化 富樫町の市総合運動公園に少年プールができた。工費720万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月4日 社会・文化 炎天が20日間も続いているため、寺町など市内の高台で水道の断水騒ぎがおこり、市ガス水道局では本日から計画給水にはいった。(8月10日に降雨、11日給水制限解除) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月5日 社会・文化 市議会議員宮田一滋死去。58歳。自民党所属、市畜産振興会長。34年5月市議に初当選。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月6日 社会・文化 石川県全労働組合会議(県全労会議)の結成大会が県町村会館で挙行された。加盟労組は46単産、組合員約1万3,000人。議長曾我嘉三(全繊同盟県支部長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月10日 社会・文化 県神社庁の神社会館が西町1番丁に完成した。木造2階建、延べ190平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月16日 社会・文化 午前3時ごろ長田町の民家から出火、2戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月17日 社会・文化 (本年の県下の小児マヒ発生は、すでに昨年の2倍に近い66人で全国第5位、人口比の発生率では第1位となっているので、県は厚生省に対し、小児マヒワクチン3,000人分の至急割当てを要請した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月25日 社会・文化 ローマの第17回国際オリンピック大会開会。日本代表選手として石川県の6選手(いずれも水泳)が出場。競泳・山中毅(早大=輪島高出身)大崎剛彦(早大=泉丘高出身)井筒賢造(早大=輪島高出身)飛込み・金戸俊介(日大=桜丘高出身)山野外嗣夫(北陸軽金属=桜丘、日大出身)馬淵良(長野電鉄=金沢市工出身) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 8月26日 社会・文化 卯辰山観光協会は北陸電力石川支店、金沢市、浅野川振興会の協力で、山上一帯に68基の水銀灯を約300万円の経費で完成、点灯式を行なった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月10日 社会・文化 富樫町の千日塚(市営グラウンド前バス停付近)が住宅地になろうとしているので、地元民や郷土史家の間に永久保存のため奉賛会がつくられることになった。三百数十年前、僧雄勢がつくったもので、千日町の地名起源となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月13日 社会・文化 下本多町の市婦人会館は観光会館の敷地になるため、近くの元金沢産院跡に移転、開館した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月24日 社会・文化 市ガス水道局の「ガス水道サービスセンター」が、片町の日新火災ビル1階に開業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月25日 社会・文化 昨夜11時から今暁2時までの3時間に、金沢地方で70ミリの集中豪雨があり、市内で床上3戸、床下646戸の浸水家屋とがけくずれ3ヵ所の被害が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月26日 社会・文化 弥生小学校の新校舎が完成、昨年9月の火災以来、長町、野町、泉野、十一屋の4小学校に分散していた1,120人の全生徒が新校舎に復帰、授業をはじめた。(10月21日落成式挙行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月26日 社会・文化 金沢市出身の天文学者故木村栄博士の胸像が下本多町児童会館庭園にでき、除幕式がおこなわれた。胸像寄付者は木村栄博士顕彰会(会長土井市長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月30日 社会・文化 午後6時45分ごろ母衣町の久世べローズ工業所工場から出火、同工場(264平方メートル)を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 9月30日 社会・文化 玉井敬泉(猪作)死去。71歳。金沢市出身、画家、白山観光協会副会長、白山を描きつづけ、生涯を白山の紹介とその観光開発のために傾注した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月3日 社会・文化 高校入学緩和のため金沢市内に県立高校をもう一校新設してほしいと、県立高校新設金沢市期成同盟会が結成された。会長西川外吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月20日 社会・文化 (山代温泉観光センターの温泉プール開きがおこなわれた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月21日 社会・文化 泉中学校が完成、昨年9月の火災以来、分散授業をつづけていた全生徒が新校舎に復帰、授業をはじめた。(10月26日落成式挙行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月24日 社会・文化 石川県交通安全会議の発会式が、県農業会館で県、県警はじめ会議の構成員となる50余の機関、団体の代表が出席して挙行された。会長田谷知事、副会長は県市長会長と県町村長会長、事務局は県庁の企画県民課内。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 10月30日 社会・文化 卯辰山の天台宗増山寺阿弥陀堂が落成、遷仏落慶大法要がおこなわれた。同寺は鉄筋コンクリート寺院として知られ、敷地約5万5,000平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月1日 社会・文化 中部日本新聞社(本社名古屋市)が北陸新聞社を買収して、金沢市南町に北陸中日新聞社(資本金2,000万円)を設立、「北陸中日新聞」を発刊した。(北陸新聞は10月28日付から北陸中日新聞に改題) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月2日 社会・文化 文化財保護委員会は文化財の保存、活用に貢献した181人、32団体を表彰、このうち金沢市からは鏑木勢岐、大友佐一、長岡博男、吉竹寛一の4人が表彰された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月3日 社会・文化 第14回(昭和35年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。森田亀之助(金沢美術工芸大学学長ー多年の美術教育)大樋長左衛門〔陶芸家ー郷土工芸の名声を高揚)杉原竹女(女流俳人)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月4日 社会・文化 市は次の3点を金沢市記念文化財に指定した。前田利家夫妻画像(野田町桃雲寺所蔵)氏子地図(下本多町石浦神社所蔵)じょうるり指人形(高道新町平野みか所蔵)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月11日 社会・文化 寺町中村栄俊所蔵の夢窓国師の墨跡1点が、重要文化財に指定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月18日 社会・文化 昭和33年1月31日のスト以来、工場再開を要求して労組が長期闘争を続けていた福富町丸大撚糸の争議が解決し、労組、前経営者、新経営者の3者間で協定書に調印がかわされた。(36年3月15日大成繊維として操業再開) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 11月30日 社会・文化 寺町台に赤痢続発、11月16日野田寺町1丁目柱岩寺保育所に13人、27日野田町養護施設亨誠塾に13人発生した。本年にはいってからの市内赤痢患者130人のうち、寺町台の発生数は52人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月14日 社会・文化 県が卯辰山小富士ヶ丘に8月24日起工した県営卯辰山相撲場の完成式がおこなわれた。相撲場の広さ8,227平方メートル、収容人員2万5,000人、総工費400万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月17日 社会・文化 午後8時20分ごろ北安江町中川製紙会社工場付近から出火、仕上げ工場など3むね延べ2,200平方メートルを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月30日 社会・文化 北信越一帯に猛ふぶきが続き、国鉄はマヒ状態、金鉄局は雪害対策本部を設置した。富山、新潟地方の積雪量は1.1~1.5メートル、金沢地方は45センチ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十五年(1960) 12月30日 社会・文化 午後11時45分ごろ木ノ新保4番丁マージャン荘から出火、同店を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月12日 政治・経済 日本銀行金沢支店長氏原幸男は本店考査役に転じ、後任に大阪支店次長下田謙治が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月13日 政治・経済 法務省が実施する36年度司法試験の第2次試験は、5月と7月に金沢市で実施することに決定した。第2次試験を金沢で実施することは、かねて県、市、金沢大学等の関係団体から運動していたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月18日 政治・経済 閣議決定の明年度政府予算案に犀川総合開発事業費2,000万円、河北潟干拓実施設計費800万円が計上された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月21日 政治・経済 県道金沢ー小原線の浅野川下田上橋が完成した。長さ42メートル、PS式コンクリートづくり永久橋で、工費1,278万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月25日 政治・経済 北陸地方開発促進協議会(会長益谷秀次)は、第2回総会を金沢市で開き、北陸本線の複線電化の早期完成、開発事業の高率補助、北陸縦貫高速道路の早期着工、対雪基本法の制定等を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月26日 政治・経済 北国銀行頭取石橋義雄が辞任、後任頭取に副頭取本陣甚一が就任した。石橋前頭取は会長に就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月1日 政治・経済 市は、昨年決定した市清掃条例にもとづく一般家庭からのゴミ集め料金(清掃手数料)の徴収を、本月から実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月1日 政治・経済 (小松に航空自衛隊臨時小松派遣隊が新設され、小松基地として発足した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月8日 政治・経済 金沢市選出の11県議会議員は、金沢商工会議所正副会頭以下経済界代表に対し、「金沢工業港を国の直轄事業として、36年度からの港湾整備5ヵ年計画にのせるよう」運動に協力を求めた。この結果、県政財界あげて運動を起すことを申合せた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月10日 政治・経済 県ならびに金沢市議会の各党代表議員と財界代表ら約20人は、田谷知事に会見、「金沢工業港造成を県営事業としてやってほしい。とくに本年からの運輸省港湾整備5ヵ年計画に組み込まれるためには、同港を重要港湾に指定してもらうことが必要だから、早急に中央に働きかけてほしい」と要望した。これに対し、知事は「金沢工業港は元来、金沢市が計画したものだが市が全面的に協力し、政財界一致の援助があるなら県も努力する」と約した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月10日 政治・経済 田谷知事は、政財界代表と会見後県土木部に対し、「金沢工業港が重要港湾として指定されるための計画と構想を具体化し、直ちに事務手続きをとるよう」指示した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月13日 政治・経済 金沢ヘルスセンター社長松本由が昭和34年、名古屋陸運局の施工許可を得た卯辰山ロープウエー建設計画(天神橋上ー玉兎ヶ丘間約700メートル)は、ロープウエー通貨路線下の一部地主の反対で、ついに建設を断念、「今後公的機関で同ロープウエーの建設計画を決める」ことを、松本社長と関係地主が原則的に了承した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月19日 政治・経済 金沢電話局の南分局が開局し、市内犀川以南の電話はすべて「金沢4局」に切り換えられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月11日 政治・経済 市議会は尾山議長死去と岩本副議長辞任による正副議長選挙をおこない、議長に武村慶一郎(自)、副議長に田中富士夫(自)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月15日 政治・経済 4月から市議会議員と市長など特別職の報酬、給与の引上げが、市議会で可決された。議長は6万円(従来4万4,000円)、副議長は5万3,000円(3万7,000円)、議員は4万5,000円(3万円)に、また市長は12万円(9万円)、助役は9万5,000円(7万5,000円)、収入役は7万円(5万円)になる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月24日 政治・経済 市は36年度から犀川総合開発事業のダム建設工事に着手することになり、事業費予算8,422万6,000円が市議会の議決を得た。36年度は、まず駒帰━日尾間の工事用道路7,000メートルのうち、約5,000メートルの拡幅改良に着手する。総合開発事業の総事業費は54億4,600万円、市政はじまって以来の大事業である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月24日 政治・経済 市は36年度予算に、兼六中学校校舎建設費(田井町)1億800万円を計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月1日 政治・経済 運輸省の36年度予算で、初めて金沢工業港調査費が50万円決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月1日 政治・経済 金沢市印鑑条例および同条例施行規則が改正された。印鑑登録の有効期限は、届け出の翌年1月1日から10年間となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月7日 政治・経済 大蔵省は庁舎等調整審議会にはかって、金沢を含む全国9都市に官庁の合同庁舎建設を決定した。金沢の合同庁舎案は、金大理学部または出羽町北陸財務局の場所に金沢農地事務局、金沢国税局、北陸財務局、北陸電波監理局、石川統計調査事務所のはいる庁舎を建設するもので、鉄筋地上4階、建物面積1万3,200平方メートル、総経費4億8,000万円の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月10日 政治・経済 市役所の機構改革が実施され、本庁の部課は1室7部27課となった。〔部、公室の新設〕民生部、市長公室 〔課の新設〕市長公室に企画課、民生部に国民年金課、総務部管財課を廃し総務課と改称 〔部の改称〕総合開発部を開発事業部に、厚生部を衛生部に改称。民生部長に秋田他啓知(税務部長)、衛生部長に大井成之(厚生部長)、税務部長に村田重行(財務課長)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月20日 政治・経済 広坂通に建設された石川県警本部庁舎の落成式がおこなわれた。地下1階、地上4階、建物面積4,106平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月1日 政治・経済 日本開発銀行金沢支店が、下堤町北国銀国本店ビルに開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月8日 政治・経済 県は金沢工業港調査を6月から開始することになり、本年度の調査費354万円(うち国の調査費50万円)の地元負担を市と折衝の結果、県と市が304万円を折半して負担することにまとまった。本年度の調査は地質調査と波高調査。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月15日 政治・経済 市は、理想的な中央卸売市場建設に資するため中央卸売市場建設協議会を設置し、初めての協議会を開催した。協議会委員は市が指名した業者、学識経験者、技術者、消費者など88人で協議会会長は大河助役。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月27日 政治・経済 市統計課は金沢市の人口が5月1日で30万人を突破、30万70人に達したと発表した。人口30万人以上の都市になったのは岐阜県に次いで22番目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月29日 政治・経済 さきに民営計画の放棄により、市が一応引きついだ卯辰山ロープウエー建設計画は、その後の調査で土地買収費等が高額のため採算がとれぬことが明らかになり、市としては計画見送りを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月30日 政治・経済 犀川ダムに建設する金沢市の上寺津発電所の発電事業が、第31回電源開発調整審議会で、全国30発電所の工事計画とともに正式に認可された。上寺津発電所の建設は、戦後全国で初めての市営発電事業である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月1日 政治・経済 (県副知事小林庄平が辞任、後任副知事に自治省会計課長、元県総務部長中西陽一が県議会の同意を経て発令された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月9日 政治・経済 金沢大学評議会は、理学部(仙石町)の旧城内移転を正式決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月10日 政治・経済 市議会は、笠舞町藤士盛治ら1,595人から提出された清掃手数料撤収の異議申立てと、一般市民から手数料を撤収する条例を改めるべきだという社会党議員団提出の清掃条例の一部改正案を否決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月10日 政治・経済 (小松飛行場の北陸エアターミナル・ビルの完成式がおこなわれた。総工費2,700万円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月11日 政治・経済 (航空自衛隊小松基地開庁式がおこなわれた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月26日 政治・経済 土井市長は明37年度から、市の第1期下水道工事に着工すると発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月30日 政治・経済 (県議会は正副議長の改選をおこない、議長に西川喜作、副議長に青山征二=いずれも自民=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 7月14日 政治・経済 石川県で初めての工場団地への集団移転として、市内長土塀地区の鉄工関係27工場が、金沢郊外の間明町に金沢城西団地(3万6,300平方メートル)を新設して移転することになり、県、名古屋通産局を通じて中小企業庁に正式申請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 7月24日 政治・経済 社団法人石川県鉄工協会の創立総会が開かれた。会長直山与二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月10日 政治・経済 北陸縦貫高速自動車道建設促進同盟会の創立総会が東京で開かれ、会長に田谷石川県知事、副会長に新潟、富山、福井、滋賀の4県知事を選任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月18日 政治・経済 建設省の広域都市建設計画(54地域)と、自治省の地方開発基幹都市(49地区)建設の調査対象地域が両省から発表され、金沢・小松が双方の調査対象地域にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月20日 政治・経済 民社党金沢支部長に滝尾照士が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月5日 政治・経済 県評、共産党県委員会などで組織している金沢市のゴミ集め手数料反対実行委員会は、浅井茂人ら10人を代表として金沢地方裁判所に、「ゴミ集め手数料の徴収は地方自治法222条に違反し、また市清掃条例も無効である」との訴訟を提起した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月7日 政治・経済 市議会は、米ソ核実験再開に関する抗議決議案を、共産党議員を除く多数で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月7日 政治・経済 土地の値上りを防ぎ工場団地の取得、あっせん、整備を目的とする財団法人石川県産業開発公社が設立された。理事長田谷知事、市町村側からの理事として、金沢市から土井市長、武村市議会議長、葛城経済部長が就任した。金沢市からの出資は500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月11日 政治・経済 市が昨年10月から東力町に建設中の新しいゴミ焼却場が完工、完成式がおこなわれた。工費6,500万円、建物は鉄筋延べ約1,300平方メートル、3基の焼却炉で1日100トンを焼却できる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月14日 政治・経済 市企画課は市議会の基幹都市建設特別委員会で、石川県地方開発基幹都市建設計画の金沢市第1次案を提示した。計画案は県総合開発課へ提出し、県は11月ごろ、これらをもとに第2次全体計画をまとめる。市の計画案は、昭和37年から46年までの10年間に、総額958億5,799万円の事業資金を投じ、土木、経済、教育、市民生活などあらゆる面を開発し、基幹都市計画の中核都市にふさわしい行政機能を確立しようというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月15日 政治・経済 土井市長、武村市議会議長は、19日から4日間アメリカ・オレゴン州ポートランド市で開かれる日米市長および商工会議所会頭会議に出席のため金沢を出発した。(10月17日帰沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月18日 政治・経済 市議会全員協議会は、第2室戸台風による市内公共施設の復旧費3,200万円を市長専決で支出することを承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月19日 政治・経済 県土木部は、第2室戸台風で決壊した犀川改修について、さし当り犀川大橋付近の決壊個所を工費150万円で復旧工事を行なうほか、犀川のすべての堤防パラピットの補強につとめることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月22日 政治・経済 第2室戸台風による県下の被害視察のため首相代理植木法相、自民党特派議員らが来県。大河市助役、井村、林屋両国会議員らから、犀川改修や復旧特別融資などを強く要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月25日 政治・経済 市は、第2室戸台風で被害のひどかった一般市民に対し、復旧資金の融資を決定、市議会全員協議会で承認を得た。貸付金額は最高5万円、返済は4ヵ月据置き、20ヵ月払い、利息5分5厘。このため、市は北国銀行、労働金庫へ500万円預託し、これを見返りに1,500万円の融資を受けるもの。一般市民への融資については、犀川沿岸16ヵ町が市に集団陳情するなど、市民から強い要望があった。 0
    昭和三十六年(1961) 10月1日 政治・経済 北陸線に初めての特急「白鳥」が本日から運転された。同特急は大阪-青森、上野間。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 10月6日 政治・経済 第2室戸台風で被害の大きかった犀川の根本的改修促進をめざす犀川改修期成同盟会に発会式が、西町繊維会館で金沢市議、金沢市選出の県議、沿岸住民代表、同用水代表らが集っておこなわれた。会長林屋亀次郎参議院議員。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 10月11日 政治・経済 北陸縦貫高速自動車道建設促進同盟会(会長田谷石川県知事)は、東京で第2回総会を開き、高速自動車道の建設法制定など同高速道路の早期実現を決議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 10月29日 政治・経済 金沢電話局の金沢6局(博労町)が開局した。金沢市内の電話は、金沢6局の開局で1万8,335台になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 10月31日 政治・経済 北陸縦貫自動車道を別表に加える国土開発縦貫自動車道建設法の一部改正案が、参議院で可決、成立した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月10日 政治・経済 市議会運輸対策委員会は北鉄市内電車撤去問題について、北鉄と片町近代化実行委員会の代表を招き、意見を聴取した。北鉄側は「市電撤去には路面舗装、バス切替えなどに約9億円の資金がいる。会社としては経営上、また交通政策の面からみると撤去しない方がよいとの結論だが、全市民が撤去を要望するなら、困難な条件を克服して要望にこたえたい」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月11日 政治・経済 建設省は、犀川の災害復旧事業費の査定額を5億2,543万4,000円と決定した。明年度から6ヵ月間にわけて支出するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月20日 政治・経済 政府は町名地番制度審議会の答申にもとづき、本年度から地名地番の改正に乗りだすので、金沢市でもこれに備えて市企画課が調査を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月24日 政治・経済 石浦町に新築の金沢信用金庫本店が完成、開店した。地上4階、延べ2,352平方メートル、総工費1億2,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月26日 政治・経済 犀川ダム建設用資材輸送道路の拡幅改良工事が着工され、市の犀川総合開発事業がいよいよ第1歩を踏み出した。道路は駒帰町から日尾町に至る約7キロのうち、約1,370メートルを1,150万円で施工するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月1日 政治・経済 金沢商工会議所副会頭に山本康二が補充選任された。副会頭は定数3人で1人欠員中。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月2日 政治・経済 自民党の後援団体、財団法人国民協会石川県支部の結成式が下本多町農業会館でおこなわれ、支部長に山田藤太郎(県中小企業団体中央会長)が就任した。国民協会石川県支部は法人、個人会員あわせて約2,000人、法人会員から毎月5,000円以上、個人会員から100円以上のきょ金を求めて自民党の政治資金にするもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月5日 政治・経済 日本通運金沢支店が増泉町に建設中の自動車便ターミナルが完成した。総工費1億3,000万円、総面積1万1,300平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月13日 政治・経済 金沢市と周辺6町村(津幡町、内灘村、森本町、野々市町、松任町、鶴来町)の総合開発計画を検討するための行政懇談会が発足、市議会会議室で第1回懇談会を開いた。金沢市から市長、助役、市議会正副議長、町村側から町村長、助役、町村議会議長らが出席。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月13日 政治・経済 日本貿易振興会(ジェトロ)金沢貿易相談所が、県繊維会館3階に開所した。所長新名健吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月15日 政治・経済 市土木部は市議会予算内示会で、来年度から着工する市の下水道事業の年次計画を提示した。総工費10億2,000万円、10ヵ年計画。工事区域は南北を犀川と浅野川で東西を国道8号線と北安江-西金沢線で結んだ人口密度の高い低地帯の336ヘクタール。(37年度)此花町、片町、(38年度)堀川町、(39年度)木ノ新保、(40年度)田丸町、古寺町、片町、(41年度)石浦町、下堤町、長土塀、田丸町、(42年度)長町、宗叔町、(43年度)七ツ屋町、(44年度)北安江町、広岡町、三社町、(45年度)彦三、五宝町、南安江町、池田町、宝船寺町、(46年度)向中町、北安江町、大豆田町。工事費10億2,000万円の内訳は国庫補助2億6,000万円、受益者負担2億400万円、起債4億5,600万円、市費1億円。下水道の使用開始は40年度から。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月15日 政治・経済 金沢━大阪間、金沢━名古屋間の急行バス路線の開設をめざして北陸急行バス会社が設立された。資本参加は北鉄、名古屋鉄道、京阪バス、京福電鉄、福井鉄道、福井県バスの6社。社長柴野和喜夫(北鉄社長)、資本金3,750万円、本社上胡桃町北鉄本社内。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月15日 政治・経済 金沢鉄道郵便局の新庁舎が田丸町に完成した。鉄筋2階建、延べ500平方メートル、工費1,600万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月20日 政治・経済 金沢駅構内に流雪溝が完成、通水式がおこなわれた。7月から3,500万円をかけて施行したもので、人夫400人分の除雪能力がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月28日 政治・経済 閣議決定の明年度政府予算案に犀川ダム建設費1億円、河北潟干拓実施設計費1,160万円、北陸縦貫高速自動車調査費1,000万円が計上された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月3日 社会・文化 年末から大雪のため大混乱した北陸線の列車がようやく動き出した。北陸線の立ち往生列車内で越年した乗客は約1万2,000人。金沢駅でも31日から2日にかけて待合室、地下道、列車内で乗客約2,000人が宿泊し、終戦直後さながらの混乱を呈した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月3日 社会・文化 午後3時45分ごろ宗叔町3番丁北陸電気工事会社金沢支店から出火、事務所、会議室、倉庫など3むね約660平方メートルと隣接のしょうゆ店倉庫を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月3日 社会・文化 江戸さい子死去。78歳。女流歌人。明治41年に福井から金沢に移り、市内各女学校の歌道教師として、また彩雲短歌会主宰として地方歌壇の発展に尽し、昭和25年金沢市文化賞を受けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月6日 社会・文化 北鉄市内電車は、除雪がすすみ6日ぶりに城回り単線だけが開通した。市内バスはほとんど開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月10日 社会・文化 昭和25年9月の天狗橋事件の2審判決(懲役1年6か月)を不服として上告中の元石川県土木部道路課長竹島清一に対し、最高裁判所は上告棄却の判決を言渡した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月23日 社会・文化 午後11時半ごろ増泉町の加賀メッキ製作所から出火、工作場を全焼、作業場を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 1月26日 社会・文化 午後11時40分ごろ金石古河町の民家から出火、住家3戸と納屋1むねを全焼、納屋1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月14日 社会・文化 金沢市内へ流感侵入、小将町中学校で1学級を4日間閉鎖。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月19日 社会・文化 制限医療の撤廃、医療費の単価引上げ等を要求する医療危機突破全国統一行動にもとづき、石川県医師会と歯科医師会は日曜のきょう「1日休診」を実施した。急患に備えて県医師会は県下で113人、歯科医師会は31人の当番医を置いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月22日 社会・文化 市内小中学校の集団カゼ(インフルエンザB型)はますます広がり、小将町中学校はついに25日まで休校、学級閉鎖は計9校17クラスになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月22日 社会・文化 午後4時10分ごろ下鶴間町の大成建設社員寮から出火、同寮1むね(約53平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月23日 社会・文化 市議会議長尾山徳二死去。60歳。昭和22年から市議4期、35年5月議長に就任した。金沢市農業委員会会長その他多くの公職についた。自民党金沢支部常任顧問。(25日市議会葬執行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月28日 社会・文化 NHK金沢放送局は新築完成した殿町の新放送局で、ラジオとテレビの放送を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 2月28日 社会・文化 金沢市内小中学校の流感はますます拡大、本日現在の休校は8校、学級閉鎖は23校96クラスとなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月3日 社会・文化 金沢市内小中学校の流感はいまが峠とみられ、本日現在の休校は12校、学級閉鎖は26校122クラス、流感にかかっている児童約7,500人となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月7日 社会・文化 県下初の個人加盟方式による労組「石川一般労組」が石川県評翼下に結成された。日ごろ労働運動に置き去りにされている零細事業場の労働者、商店員等の未組織労働者を加盟対象とするもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月10日 社会・文化 市は、これまで成績のよい一部中学校卒業生に贈っていた市長賞を廃止、小中学校全卒業生に市長からの記念品を贈ることにした。(小学校卒業生に対する市長賞はすでに廃止されている) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月18日 社会・文化 「諸物価値上げ反対減税石川県民会議」が県評、社共両党、生活を守る会、県評主婦会、平和団体関係者らにより結成された。会長伊藤武雄。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月20日 社会・文化 金沢市内小中学校にまんえんした流感は下火になり、学級閉鎖は皆無になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 3月28日 社会・文化 午後6時ごろ石坂与力町の共和塗装工業会社工場から出火、同工場(約40平方メートル)と隣接の住家6むね(12世帯)を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月1日 社会・文化 市は田上中学校を兼六中学校に統合した。田井町の兼六中学校校舎完成まで、現在の田上中学校は兼六中学校の分校として使用する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月6日 社会・文化 北陸学院が小学校を開設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月14日 社会・文化 市内のし尿くみ取りにあたる金沢市衛生公社が発足した。市民代表、議会代表、市代表の3者で構成のし尿処理委員会の勧告案にもとづき、従来の北国衛生社に市が350万円出貸して設立し、市の前課長2人を役員として送りこんだもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月16日 社会・文化 私鉄総連の賃上げ争議で、北陸鉄道労組は電車、バス24時間全線ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月18日 社会・文化 正午ごろ内灘村向粟崎の民家から出火、2戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月20日 社会・文化 県立工業高校の新校舎完工にともない、同校内に県下産業界の要請する中堅技術者養成機関、石川県機械工業専門学校が開設された。入学資格高校卒程度、夜間授業、修業年限1年。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月22日 社会・文化 午後4時半ごろ法島町の民家から出火、2戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月25日 社会・文化 昭和33年から3期にわけて新校舎を建設中の本多町石川県立工業高校の落成式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 4月26日 社会・文化 下近江町富士タクシー本社前で、全自交の労組員と富士タクシー労組を支持する石川全労の労組員が衝突、双方で負傷者11人を出した。争議中の同社労組は、11人を除く60人が全自交石川地連を脱退して石川全労に加盟、両者が鋭く対立していたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月1日 社会・文化 メーデー。県下では富士タクシー労組の乱闘事件から、全労系が不参加の分裂メーデーとなった地区が多く、金沢地区は県評、中立系労組の約100単産、2万人(メーデー実行委調べ)が参加しておこなわれた。全労の全繊系組合は、工場内でそれぞれ大会等を開いたものが多かった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月1日 社会・文化 全自交石川地連のタクシー労組(10社)は、第19波48時間ストを実施した。同労組は3,000円プラスアルファと8時間労働確立等の統一要求をかかげて、3月19日の第1波スト以来長期闘争を続けているもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月5日 社会・文化 本年はじめて金沢に試験場が設けられた司法試験の第2次試験が、金大法文学部でおこなわれ、石川、福井、富山、岐阜等から163人が受験した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月7日 社会・文化 タクシー争議は、県地労委のあっせん案(手取り2,500円増、8時間制など)を労使が受諾して解決、県旅客自動車協会と全自交石川地連が正式調印した。3月19日から22波スト308時間の長期争議であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月19日 社会・文化 第16回日本専門店会連盟全国大会が金沢市の石川スポーツ・センターで会員約3,000人が参加して開かれ、3日間にわたり金沢市内でパレード、民謡踊などの行事がにぎやかにくりひろげられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月24日 社会・文化 (参議院議員辻政信は東南アジア視察のため、4月4日東京を出発したが、バンコクで4月20日以後消息不明となったと、新聞に報道された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月26日 社会・文化 城南中学校の校舎落成式がおこなわれた。鉄筋3階建、建築面積6,831平方メートル、昭和33年9月から3期にわけての工事であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月28日 社会・文化 第45回高校相撲金沢大会が、本年から卯辰山山上に新設された県営卯辰山相撲場に会場を移して開催された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 5月29日 社会・文化 午前4時50分ごろ長田本町石川鋳物工場から出火、木造の同工場(160平方メートル)を全焼した。また午前6時20分ごろ、付近煙突の飛び火から中町の紙業吉田次作商店資材倉庫と両隣の看板広告店、薬局が2階をそれぞれ半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月4日 社会・文化 午前1時5分ごろ北安江町金沢産業株式会社の化学処理工場から出火、木造平屋建2むね(約1,000平方メートル)を全焼した、 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月20日 社会・文化 香林坊金沢大神宮の取りこわしがはじまった。大神宮は明治23年の建築、敷地約1,000平方メートルを売却し、梅本町(高峰譲吉生誕地)に移転新築するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月26日 社会・文化 午後3時55分ごろ下堤町の九谷焼窯元鏑木商舗から出火、同店約100平方メートルを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月27日 社会・文化 長町小学校の校舎改築落成式がおこなわれた。33年から3期にわけて施行したもの、鉄筋4階建、建築面積4,672平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 6月28日 社会・文化 戸田正三学長の任期満了(9月20日)に伴う金沢大学学長選挙がおこなわれ、上位得票者石橋雅義(京大名誉教授、理学博士)と中川善之助(東北大学名誉教授、法学博士)で決選投票の結果、石橋雅義が当選した。石橋167票、中川140票。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 7月1日 社会・文化 29日から県下各地に断続的に集中豪雨が襲来、床上下浸水が七尾市で1,900余戸、津幡町(30日)で730余戸、金沢市(1日朝)で25戸とがけくずれ7ヵ所が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 7月1日 社会・文化 石川県めん類環境衛生同業組合金沢支部(市内のうどん店約120店加盟)は28日の臨時総会で、出前1品につき出前料3円をとることを決議し、本日から実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 7月4日 社会・文化 金沢地方にまた豪雨、3日午前8時から4日午後6時までの雨量173ミリ。犀川桜橋が半分流失、新橋は橋脚沈下、伏見川堤防決壊、市内で床上浸水20戸、床下浸水487戸を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 7月13日 社会・文化 昨夜から今朝にかけて金沢地方にまた集中豪雨、午前6時までの雨量88ミリ。犀川新橋が流失、浅野川堤防2ヵ所決壊、湯涌街道はがけくずれで不通、市内で床上浸水14戸、床下浸水338戸を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 7月25日 社会・文化 箸本太吉死去。69歳。昭和3年の第一回普選から昭和17年まで石川県第1区から5回代議士に当選。終戦後政界を引退、実業界にはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月10日 社会・文化 午後9時3分32秒に石川県下全域に震度2~3の地震があり、金沢地方で震度2,輪島地方で震度3。金沢市内では、変電所の保安装置が働いて一部停電したが被害はなかった。震源地は七尾北東20キロの海底で、深さ約20キロの地層でおこった断層地震。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月11日 社会・文化 石川県母親大会代表が市役所に大河助役をたずね、母親大会の決定にもとづき高校生急増対策として、金沢市内に高等学校を新設してほしいと要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月19日 社会・文化 午後2時33分ごろ岐阜、福井、石川、愛知の各県から近畿一円に地震。福井、名古屋、津は震度4、金沢、大阪、京都は震度3。震央は福井、岐阜県境の山間部で震源の深さは約40キロ。石川県では白峰方面から白山を中心に岩石落下、道路決壊個所続出。白峰村で2人死亡、また白山登山者約120人のうち学生2人が死亡、重傷者は県下で4人。金沢市内でもW坂でがけくずれがあり女1人が負傷した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月20日 社会・文化 県は地震被害対策本部を県庁に設けた。気象庁はこの地震を「北美濃地震」と命名した。被害各県の死者合計8人、負傷者34人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月23日 社会・文化 県教育委員会は、茶の湯ガマ作りの宮崎寒雉(彦九郎、81歳、彦三1番丁)を県指定文化財に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月28日 社会・文化 午前5時45分ごろ安江町のおもちゃ問屋から出火、同店2,3階と隣接の電機会社倉庫2階をそれぞれ半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月28日 社会・文化 県はさきの北美濃地震による県下の被害統計を1億8,668万円と発表した。うち道路関係は道路損壊41ヵ所、橋の損壊3ヵ所計7,838万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 8月28日 社会・文化 国立工業高等専門学校誘致期成同盟会が、金沢商工会議所で発会式をあげた。会長は知事、副会長は金沢市長と金沢商工会議所会頭ら。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月1日 社会・文化 石川県母子福祉センターが市内穴水町の二水高校跡に完成、開所した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月1日 社会・文化 五坪茂雄郷里滋賀県湖北町で死去。71歳。松任農学校、石川青年師範の校長等長く石川県教育界につとめ、戦後本県第1区から代議士に当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月1日 社会・文化 金沢市内の入浴料金が1円値上げして大人17円になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月2日 社会・文化 午前2時50分ごろ白菊町から出火、松田メッキ会社、大東木材会社、出村木材会社の6むね(1,940平方メートル)を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月2日 社会・文化 県下約40の山岳会により、石川県山岳連盟の結成式が卯辰山ヘルスセンターでおこなわれた。会長松本由、理事長上田孝三。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月11日 社会・文化 午後4時5分ごろ広岡町のつくだに工場から出火、工場と事務所など3むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月13日 社会・文化 午前9時20分ごろ中石引町の福島印刷会社工場から出火、同工場と医院、民家など4むねを全焼、民家3むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月15日 社会・文化 俵町地内戸室山の中腹に与謝野晶子の歌碑ができ、除幕式がおこなわれた。歌は昭和8年の作「白山に天の雪あり医王山、次ぎて戸室にたけなはの秋」。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月16日 社会・文化 室戸岬に上陸した台風18号が、猛スピードで夕刻金沢から能登半島を横切り富山湾に抜けた。金沢で瞬間最大風速40メートル、加賀地方の山岳部は100~200ミリの豪雨で犀川、手取川の一部がはんらん、金沢市内で死者4人(県下合計8人)負傷者24人、家屋全壊35戸、半壊36戸、床上浸水1,017戸、床下浸水587戸を出した。犀川は大橋上流100メートルの地点で堤防20メートルが決壊して濁流があふれ、十三間町、池田町、大工町、竪町、河原町一帯が床上浸水、上鶴間町天徳院の総門も全壊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月17日 社会・文化 市は大河助役を中心に台風18号の被害対策幹部会を開き、緊急対策をきめた。その一つとして、本日から当分の間市役所前にテント張りの市民相談所を設置し、市役所各部員が出て市民の台風被害相談に応ずることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月18日 社会・文化 金沢市連合町会長協議会は台風被害対策を協議し、復旧資材の不当値上げを監視することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月19日 社会・文化 重要文化財成巽閣の修理工事完成式がおこなわれた。文化財保護委員会が、昨年11月から650万円で土台、屋根など根本的修理をしたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月22日 社会・文化 石川県水産試験場粟生養魚場は、犀川と浅野川上流へニジマス約1万匹(平均8センチのもの)を放流した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 9月24日 社会・文化 細野燕台鎌倉市で死去。90歳。本名申三、金沢市材木町1丁目の生れで、町の漢学者、書家として知られた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 10月10日 社会・文化 金沢市衛生公社はし尿くみ取り料金を、180ミリリットル当り160円に値上げした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 10月25日 社会・文化 (県の発表によると、昭和35年の全国46都道府県の死亡率中、石川県の死亡率は前年の第3位より4位さがって第7位になった。県の死亡率第7位にさがったのは戦後はじめての現象。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 10月26日 社会・文化 初の全国中学学力テストが、文部省と日教組の激しい対立のまま全国一斉に実施された。石川県下では国、公立中学校157校で平静におこなわれたが、金沢市内の金城、藤花、北陸の私立3校は実施しなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月3日 社会・文化 第15回(昭和36年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。矩幸成(金沢美術工芸大学教授ー彫刻家としての業績)古川平次郎(会社社長ー農機具の改良、発明を通じて農業発展に貢献)米村貞知(金沢市医師会長ー衛星都市発展への貢献)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月3日 社会・文化 市は次の2点を金沢市記念文化財に指定した。恭応運良画像(伝灯寺町伝灯寺所蔵)山王悪魔払(大野町日吉神社山王祭奉賛会の悪魔ばらいの踊り)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月4日 社会・文化 旧城内に建設中の金沢大学体育館の落成式がおこなわれた。金大と県との話し合いで、金大が県スポーツ・センターの敷地を県に寄付、その代りに県が約2,300万円で大学体育館を建設、寄付したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月7日 社会・文化 午後7時半ごろ藤棚町の大工小屋から出火、小屋と民家1むね(3世帯居住)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月10日 社会・文化 午前3時10分ごろ六斗林3丁目のふろ屋から出火、カマ場と隣接の商店、住家など5むねをそれぞれ半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月20日 社会・文化 戸田正三金大病院で死去。76歳。医学博士、日本学士院会員、京大ならびに金大名誉教授、新制大学発足の昭和24年9月から本年9月21日まで12年間、金沢大学学長として大学育成に功績を残した。(3日金沢大学葬執行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月20日 社会・文化 小倉正恒東京で死去。86歳。金沢市出身、住友本社総理事、戦時中近衛内閣の無任所相、蔵相を歴任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月26日 社会・文化 年間臨給を交渉中の北陸鉄道労組は、始発から24時間全線ストにはいったが、午前0時15分妥結、ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月28日 社会・文化 午前11時半ごろ長田本町の民家から、出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 11月30日 社会・文化 午前3時10分ごろ木ノ新保7番丁国鉄共済組合物資部金沢事業所金沢配給所の1階から出火、同配給所(約210平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月13日 社会・文化 矢田挿雲千葉県で死去。80歳。金沢市生れ、大衆文学作家で俳人、「太閤記」の作者。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月21日 社会・文化 泉野小学校に集団赤痢発生、児童14人を隔離した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十六年(1961) 12月22日 社会・文化 山川庄太郎死去。86歳。国宝仁清作色絵雉香炉を県美術館に寄付した。酒造業。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 1月1日 政治・経済 (河北郡内灘村に町制が施行された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 1月8日 政治・経済 37年度政府予算で、出先官庁の金沢地方合同庁舎建設調査費350万円が決定した。建設予定地は金沢大学理学部グラウンド。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 1月17日 政治・経済 金石本町に建設中の市営住宅66戸に対する入居者抽選がおこなわれた。入居申込み者1,145人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 1月18日 政治・経済 陸上自衛隊の改編で8個師団が発足。愛知県守山市に司令部を置く第10混成団(東海、北陸6県を管轄)は第10師団となって、金沢駐とん部隊は同師団の第14普通科連隊となった。新連隊の編成完結式が営庭で行なわれ新編成の連隊本部中隊と4個中隊、重迫撃砲中隊の計6個中隊に、新調の中隊旗が渡された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月9日 政治・経済 金沢市との合併準備を進めている河北郡森本町と同町議会の代表19人は、金沢市役所で土井市長、武村市議会議長らと正式会合を開き、さきに森本町側で作成した合併案大綱の最終確認をおこなった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月10日 政治・経済 森本町議会は午前の本会議で、金沢市への合併を混乱のうちに賛成多数で可決した。(町議会の勢力分野は早期合併賛成15、早期合併反対10) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月10日 政治・経済 市議会は午後の本会議で、森本町の金沢市編入を多数(反対1人)で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月15日 政治・経済 市議会は、金沢市の交通安全都市宣言を全員一致で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月17日 政治・経済 土井市長は、市議会で「加越能鉄道と北陸航空両会社に対する市の出資金各500万円を早く引き上げよ」との質問に対し、「関係者と話しあったうえ、早く解決するよう努力する」と答弁した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月20日 政治・経済 (県議会は、委員28人から成る県交通問題対策特別委員会を設置した。道路交通問題に関する総合的な施策を計画し調査するもの。同委員会の設置により、34年12月に設置した県営バス特別委員会は廃止された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月26日 政治・経済 (北陸縦貫高速自動車道建設促進同盟会は東京で総会を開き、北陸自動車道建設同盟会と改称した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月28日 政治・経済 市は37年度予算に、犀川ダム建設費4億1,807万円、中央卸売市場建設費初年度分9,830万円(以上特別会計)、下水道事業10ヵ年計画の初年度分3,430万円を計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月28日 政治・経済 市は市立工業高校を畝田町に移転新築することになり、総建設費1億1,773万円が市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月28日 政治・経済 市は卯辰山に少年の家を建設することになり、予算1,000万円を37年度予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月28日 政治・経済 市議会は、金沢城跡開放に関する意見書を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月29日 政治・経済 石川県観光審議会は金沢城跡開放を決議、北陸財務局、金沢大学へ開放を要請することにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月31日 政治・経済 県議会は金沢城跡の開放方要望に関する意見書(首相、蔵相、文相あて)を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月1日 政治・経済 市は地方税法改正にともない、本37年度から市民税の課税方式に本文方式を採用した。(12月市議会で議決) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月1日 政治・経済 市役所の部局長が更迭した。ガス水道局管理者へ三村武男(総務部長)総務部長へ村田重行(税務部長)税務部長へ山中巖(ガス水道局次長)ガス水道局長へ葛城勝男(経済部長)経済部長兼観光会館長へ秋田他啓知(民生部長)民生部長へ瀬戸一郎(ガス水道局経理課長)土木部長へ岡本忠幸(ガス水道局長) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月1日 政治・経済 (県議会議員と知事、副知事らの報酬、給与が引上げられた。議長6万5,000円が9万円に、副議長5万6,000円が8万円に、議員5万円が7万円に、知事10万円が13万円に、副知事8万5,000円が10万円に。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月9日 政治・経済 金沢城跡開放懇談会が、金沢商工会議所を中心に県経営者協会、金沢経済同友会、金沢実業会、金沢青年会議所、県観光連盟、金沢市観光協会ならびに県、市の各代表が集って商工会議所で開かれ、「城跡の風致を傷つけないように、本丸跡とその周辺を広く一般に提供して緑地化し、金大の整備計画を変更するよう大学当局へ申入れること」をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月17日 政治・経済 北陸自動車道の本年の調査計画が、県庁で開催の北陸自動車道建設促進同盟会の幹事会で決定した。5月から、全長550キロの4割強の航空写真測量と経済調査、地質調査などを実施するもので、総調査費は2,215万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月21日 政治・経済 金沢市商店街連盟は「金沢城跡の本丸とその周辺が、県民のいこいの場になるよう配慮してほしい」との要望書を、県と市へ提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月30日 政治・経済 弥生町の旧庁舎横に建設中の金沢地方気象台が完成、移転した。鉄筋2階建、工費1,500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月30日 政治・経済 金沢市観光会館運営委員会が設立された。委員は各界代表の18人、運営委員長大河助役、副委員長松平利吉(市連合町会長協議会会長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月2日 政治・経済 金沢青年会議所は4月14日から街頭で、金沢城跡開放署名運動をおこない、本日、高桑理事長らが石橋金大学長に2万814人の署名簿を渡した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月4日 政治・経済 金沢大学は大学評議会を開き、金沢城跡の開放問題につき検討の結果「現在は火災、盗難の危険があるためできないが、旧城内が鉄筋校舎に変る城内整備計画が完了したあと、授業ならびに研究に支障をきたさない範囲で、場内を一般に自由開放する」との大学の態度を決めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月10日 政治・経済 日本銀行金沢支店長下田譲治が本店計理局長に転じ、後任に本店考査役高松俊夫が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月12日 政治・経済 金沢市観光会館の開館式が挙行された。招待者は、市内903町の町会長はじめ各界代表など全国から2,300人。土井市長から一般寄付者、各町会代表、全国各地石川県人会に感謝状を贈り、10万円以上の多額寄付者の個人11人、法人39社に紺綬褒章を伝達した。同会館は総工費5億2,700余万円、着工以来1年9ヵ月で完成した。床面積は延べ9,470平方メートル、大ホール1,大集会室兼物産展示場1、集会室5、談話室3、郷土資料室1、展示ホール1、などがあり、大ホールは固定席2,002席、補助席330席。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月14日 政治・経済 県警察本部は、ママさんポリスの「婦人少年補導員」を初めて2人採用した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月15日 政治・経済 金沢市城西機器工場団地が、中小企業振興資金等助成法に基づく37年度の新規助成工場団地に、中小企業庁から指定された。城西機器工場団地(理事長浅田勝二)は、金沢市内26の鉄工関係工場が金沢西郊の間明町に集団移転するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月17日 政治・経済 国鉄森本駅の新築落成式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月28日 政治・経済 自由民主党金沢支部大会で、支部長に岡島友作、幹事長に羽間政信が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月29日 政治・経済 丸越百貨店に名鉄百貨店が経営参加し、千田名鉄会長と佐藤名鉄百貨店社長が取締役に就任、林屋亀次郎現会長が社長に就任した。同社540万株中、名鉄と名鉄百貨店は180万株を持ち、また丸越に融資している伊藤忠商事も45万株を持つことになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月29日 政治・経済 北陸鉄道の株主総会が開かれ、最近協力体制を固めてきた名古屋鉄道から土川元夫社長が経営陣に参加、取締役に就任した。(社長柴野和喜夫、会長野根長太郎再選) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月30日 政治・経済 市は金沢市観光会館の完成にともない、西町の中央公民館の建物(延べ1,976平方メートル)敷地(2,013平方メートル)を、市議会の承認を得て、金沢市鍛治町公認会計士森田一雄を代表者とする5人に4,460万円で売却した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月31日 政治・経済 (日本鉱業は小松市の尾小屋鉱業所はじめ同社の全国8鉱山を、9月30日限りで全面休止すると発表。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 6月1日 政治・経済 河北郡森本町が正式に金沢市へ編入された。森本町の人口は14,478人(5月1日現在)、編入により金沢市の面積は458平方キロ、世帯数は75,130世帯、人口は317,398人となり、人口順位は全国21位から20位になった。旧町の中学校1校、小学校14校が金沢市立となり、これで市立中学校は合計20校、小学校は合計59校になった。また町長ら3役と町吏員113人が市職員になり、市役所支所と玉川消防署森本出張所も設置された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 6月1日 政治・経済 玉川消防署西部出張所(北安江町)が設置された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 6月7日 政治・経済 県議会は石川県交通安全宣言を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 6月7日 政治・経済 (県議会は正副議長の改選をおこない、議長に百万彦邦、副議長に駒井しづ子=いずれも自民=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 6月7日 政治・経済 金沢青年会議所は発足10周年記念事業として、金沢市へ金沢城跡の開放整備基金15万円を指定寄付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 6月10日 政治・経済 (北陸線敦賀ー今庄間の北陸トンネルが開通、福井市で完成祝賀式がおこなわれた。トンネルの長さ13,869キロで日本最長、総工費約90億円、着工以来4年1ヵ月。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 6月13日 政治・経済 犀川ダムで水没する不又新町の19戸に対する市の移転補償は、1億400万円でまとまり、調印された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 6月14日 政治・経済 自治省は、住居表示法に基づき現行の町名地番を新しい住居表示制度に切替える住居表示整備都市に、金沢市を含む全国38都市を指定した。市は、本年度当初予算に調査費10万円を計上してあるので、これに政府の補助金40万円を加えて、年度内に第一次指定を目標として調査を開始する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月1日 政治・経済 参議院議員選挙がおこなわれ、石川県地方区の結果は次の通り。投票率70.16%〔当選〕222,535票 林屋亀次郎(自民前)〔次点〕104,150票 川島重男(社会新)45,637票 曾我嘉三(民社新)27,301票 鶴森広(無新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月4日 政治・経済 通産省金沢繊維製品検査所が、長土塀5番丁に完成した。鉄筋2階建、延べ608平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月7日 政治・経済 憲法調査会の北陸信越地区公聴会が金沢市観光会館で開かれた。石川県からの公述人は、由雄又次郎、曾我嘉三、杉原亀十郎、多川直次、村沢義二郎、上山南洋。会場前で、改憲と公聴会開催に反対する金沢大学などの学生約70人がデモをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月11日 政治・経済 市議会議員の報酬がそれぞれ月額1万円ずつ引上げられ、議長7万5,000円、副議長6万5,000円、議員5万5,000円となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月11日 政治・経済 任期満了の市収入役新保義久の後任に、ガス水道局管理者三村武男が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月17日 政治・経済 市が明38年度から、総工費7億6,800万円で建設する中央卸売市場の建設用地は同市場建設協議会で、西念町と二口町にまたがる金石街道に面した農地8万5,800平方メートルに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月23日 政治・経済 県、金沢市、河北郡の県議、町村関係者、河北潟沿岸民代表らによって河北潟総合開発促進協議会が設立された。会長田谷知事、副会長土井市長と森宇ノ気町長。農林省の河北潟干拓計画は総事業費71億円で明年度から7ヵ年計画で着工、内灘町大根布付近に幅100メートル長さ1,300メートルの放水路を築造、干拓面積は潟の面積2,300ヘクタールのうち1,400ヘクタール。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月26日 政治・経済 県が国土計画協会に依頼して人選中の石川県総合開発基本計画策定調査委員会の委員8人、参与3人、研究員10人が決定、東京で第1回総会を開いた。委員長平貞蔵、委員北村徳太郎、伊藤剛、佐藤弘、八十島義之助、磯部秀俊、山越道三、木村三郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月27日 政治・経済 総工費10億2,000万円、10ヵ年計画で完成をめざす金沢市の下水道工事がいよいよ六枚町、此花町、片町、石浦町の4ヵ所ではじまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 8月20日 政治・経済 石川都市計画地方審議会は、金沢市中央卸売市場を金沢市二口町(敷地10万6,341平方メートル)に建設することを承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 8月21日 政治・経済 市議会教育厚生常任委員会は小将町の旧兼六中学校の敷地(1万877平方メートル)と建物(5,161平方メートル)を、県へ無償譲渡することを承認した。県は同校舎に、38年度に開校する県立女子高校1年生と県立第二工業高校(旧森本町に校舎建設中)1年生を収容する計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 8月27日 政治・経済 土井市長は自由民主党に入党した。明春の県知事選挙に立候補の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月1日 政治・経済 尾小屋鉄道は、経営が日本鉱業から名古屋鉄道会社に移った。名鉄は全株式2,000万円を譲り受けた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月6日 政治・経済 北陸線旧倶利伽羅トンネル(946メートル)を、石川富山両県で有料自動車道路に活用しようと、両県県議会代表が石川県議会で、倶利伽羅トンネル有料道路建設促進懇談会を開き、実現を中央に働きかけることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月15日 政治・経済 (北陸線石川、富山県境の新倶利伽羅トンネルが開通した。長さ1,460メートル、総工費約10億円、着工以来2年8ヵ月。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月27日 政治・経済 戦時中北陸電力会社へ統合した金沢市営電気事業の復元問題は、北陸電力から市へ現金5,000万円、観光会館建設事業に5,000万円計1億円を支払うことで妥結、近く調印すると土井市長が市議会で明らかにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月27日 政治・経済 市は労働会館建設に1,200万円を補助することにし、うち627万円を追加予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月28日 政治・経済 日本長期信用銀行金沢支店が南町(北国銀行南町支店跡)に開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月1日 政治・経済 市の住居表示整備事業を推進するため、金沢市住居表示整備審議会が設置された。(審議会の委員、幹事32人は10月27日発令) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月1日 政治・経済 市は中央卸売市場開設準備事務局を設けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月1日 政治・経済 石川県政90周年記念月間がはじまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月8日 政治・経済 金沢商工会議所の役員選挙の議員総会で、会頭に西川外吉(8期連続)、副会頭に吉田次作、麻生徳次が再選された。また新たに名誉会員制を設けた。(議員は9月25日無競争で当選決定) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月10日 政治・経済 自民党石川県連の第3回知事選挙対策委員会は投票の結果、中西陽一(副知事)49票 土井登(金沢市長)38票で、中西の公認を決定した。(自民党本部は10月30日中西の公認を決定) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月17日 政治・経済 石川県政90周年記念式典が、金沢市観光会館で各界代表約2,000人出席して挙行された。県は同式典で、次の11人を県功労者として表彰した。益谷秀次、西川外吉、直山与二、北島五作、前大峰、木村雨山、魚住安太郎、畠山一清、安宅英一、石黒伝六、故山川庄太郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月26日 政治・経済 県副知事中西陽一が自由民主党に入党した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月27日 政治・経済 大和百貨店社長に宮太郎(専務)が就任、前社長井村徳二は取締役会長になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月29日 政治・経済 犀川ダム建設工事の資材輸送道路や送電線工事などが完成したので、市は建設予定地の二又新町で起工式を挙げた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月1日 政治・経済 (県は県庁周辺等整備事務局を新設した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月14日 政治・経済 アメリカ・ニューヨーク州バッファロー市長チェスター・コーワルはバッファロー市で、金沢市と姉妹都市の縁組みをするとの文書に正式に署名した。金沢市はかねて日本文化交流の一環として、アメリカの都市と姉妹縁組みを結ぶため、日米市長会、米国情報文化局等を通じ適当な都市を選択する一方、金沢の元アメリカ文化センター館長ロバート・フラーシャム(バッファロー出身・ニューヨーク在住)にあっせんを依頼、土井市長も昨年候補都市バッファローを視察し、バ市も金沢につき調査の結果、まとまったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月16日 政治・経済 金沢駅前の地下道工事が着工された。地下道は延長約130メートル。これを市が87.6メートル、金沢ビルが約28メートル、駅地下ビルが約14メートルをそれぞれ分担するもので、総工費1億7,000万円、うち市負担分7,060万円。本日着工したのは、市分担の公道分工事。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月22日 政治・経済 県下の繊維卸商社と縫製業者の福祉センター、石川県繊維福祉会館が穴水町2番丁に完成した。石川県繊維福祉協同組合が建設したもので、地上3階、延べ9,563平方メートル。同協組加盟の147社2,000人の共同給食もはじめる。総工費6,300万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月26日 政治・経済 タクシー業者の石川交通会社は名古屋鉄道の資本を導入、新社長に名鉄取締役神野三男が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月27日 政治・経済 昨年夏流失した犀川の新橋が完成、渡橋式がおこなわれた。長さ88メートル、幅6メートルの鉄筋永久橋、総工費3,446万円で市が施行したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月2日 政治・経済 社会党石川県連会長に現会長西川外望にかわり、北尾幸一が大会で選任された。書記長は清水保治が再選。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月7日 政治・経済 金沢市と北陸電力会社の間で成立した電力復元補償(1億円)の協定書に、土井市長と野村北陸電力常務取締役が正式調印した。協定内容は、会社は現金で5,000万円を寄付、残る5,000万円で市の起債を16年間で返済するというもの。市はこの補償金を市観光会館建設資金にあてる計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月18日 政治・経済 市議会は、金沢市がアメリカ・ニューヨーク州バッファロー市と姉妹都市提携をする議案(市長提案)を、賛成多数で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月21日 政治・経済 市は市長名でバッファロー市へ、姉妹都市の縁組み議決を通告する公式文書を発送した。また同時に縁組み実現に協力したR・G・フラーシャム(国務省情報局員)とN・A・バーレル(姉妹都市調査委員長)に礼状を発送した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月28日 政治・経済 (県は防災基本法にもとづき石川県防災会議を設置、委員42人、幹事15人を移嘱した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月29日 政治・経済 閣議決定の明年度政府予算案に、河北潟干拓新規事業費1億3,000万円が計上され、予算が成立すれば4月着工が確定した。総事業費は65億6,300万円、9ヶ年計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月30日 政治・経済 金沢中央ビルディング(社長西川外吉)が、西町金沢商工会議所横の旧城高台の下に完成した。地上5階、延べ2,970平方メートル、開銀金沢支店、県信用保証協会、中小企業金融公庫金沢支店などの金融機関が入居する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 1月24日 社会・文化 午前1時20分ごろ田上町の椿原神社(無人社、約130平方メートル)が、精神異常者の放火で全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 1月27日 社会・文化 金沢大学理学部の城内移転にともなう同大学城内整備計画が、明年度文部省予算に認められ、第1年度分として法文学部と理学部(2分の1)の年度内着工が正式に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 1月28日 社会・文化 午前7時40分ごろ馬場4番丁の民家から出火、1戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 1月31日 社会・文化 午前11時ごろ木ノ新保5番丁の研磨工場から出火、工場1むね(330平方メートル)を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 2月1日 社会・文化 金沢市内ふろ屋の入浴料金が大人19円に値上げされた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 2月12日 社会・文化 午後7時10分ごろ、大手町旧金沢城内の金沢大学一般教養部の2号館階下26番教室から出火、木造2階建の同校舎の半分延べ1,056平方メートルを焼いた。焼失した建物は旧歩兵第7連隊の第1,第2中隊兵舎で、昭和7年11月全焼し翌8年復旧、24年金大教養部として改築したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 2月13日 社会・文化 金沢市校下婦人会連絡協議会が、交通安全宣言をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 2月24日 社会・文化 午後2時40分ごろ浅野新町の製ハク工場から出火、工場等2むねと工場主住宅1むねを全焼、隣接の2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 2月28日 社会・文化 田井町の兼六中学校校舎が完成した。敷地1万6,255平方メートル、建物は4階建。新学期から兼六中学校と田上分校の全生徒、小将町、紫錦台両中学校の一部生徒を収容する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月9日 社会・文化 午前7時15分ごろ上石引町の美容院から出火、同店と隣接の呉服店を全焼、食品店の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月10日 社会・文化 金石相生町の出身と伝えられる初代中村歌右衛門の170回忌法要が、上小川町の日蓮宗真成寺で、6代目中村歌右衛門ほか一門の歌舞伎俳優が参列して催された。香林坊松竹座では、総勢65人により初代歌右衛門170回忌記念歌舞伎が上演された。(金石相生町の松林には、33年に建立された初代中村歌右衛門生誕地の碑がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月13日 社会・文化 午前9時ごろ戸水町加賀製綱会社の染工場から出火、同工場1むね(約60平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月16日 社会・文化 吉田三郎東京で死去。72歳。金沢市出身の彫刻家、芸術院会員、日展審査員。金沢にも県児童会館の高峰譲吉像、四高記念碑など多くの作品がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月17日 社会・文化 県体育協会会長西川外吉が同協会にスポーツ振興基金100万円を寄贈、協会は西川スポーツ賞を設定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月26日 社会・文化 室生犀星(照道)東京で死去。72歳。作家、詩人、芸術院会員。金沢市千日町生れ、大正7年(29歳)東京で処女詩集を発表、詩作600余編、小説は文壇におけるユニークな作家としての地位を築いていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 3月28日 社会・文化 賃上げ要求中の北陸鉄道労組は、始発から午前6時までの全線時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月1日 社会・文化 NHKの金沢教育テレビ局が開局、放送(8チャンネル)を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月1日 社会・文化 全日本空輸の大阪ー小松線が5年ぶりに再開された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月1日 社会・文化 小坂南町に実践第二高校(学校法人稲置学園経営)が創設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月6日 社会・文化 北陸鉄道労組は私鉄総連の春闘第5次統一行動により、始発から午前6時半までの全線時限ストを実施した。また全自交石川地連も午前9時から3時間の時限ストをおこない、金沢を中心に県下でタクシー約550台がとまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月8日 社会・文化 北陸鉄道労組は、始発から午前9時まで全線時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月10日 社会・文化 さきに文部省から設立認可になった全国4校の私立高専の一つ、私立金沢工業高等専門学校の開学式が、仮校舎の野々市町小学校で挙行された。5年制、設置学科は電気工学科135人、校長青山兵吉、経営は学校法人北国学園(理事長嵯峨逸平)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月10日 社会・文化 北陸鉄道労組は春闘第3波の私鉄総連統一ストにより、24時間全線ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月11日 社会・文化 午後5時20分ごろ新築中の下本多町金沢市観光会館の地下室で、溶接のガス火が冷暖房管の断熱材に燃え移り、火はパイプを伝い建物の全面にわたって黒煙を吹き出したが、約45分後に消しとめた。損害約1,100万円、5月12日の開館を前に市は困惑している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月16日 社会・文化 北陸鉄道労組は私鉄労組北陸地連の統一ストで、15日始発から48時間全線ストにはいったが、16日早朝妥結、午前5時40分ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月18日 社会・文化 金沢市交通安全都市推進協議会が結成された。会長土井市長、副会長武村市議会議長と中島徳太郎(明縦会会長)、 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月22日 社会・文化 石川県社会主義同志会の結成大会が開かれた。会長角谷正二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月23日 社会・文化 野田町の金沢大学附属高校校舎が完成、旧陸軍騎兵隊兵舎の旧校舎から引越し、授業をはじめた。35年7月着工、3階建、総工費約6,300万円。(完成式は広坂通の付属小中学校とともに5月15日挙行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 4月29日 社会・文化 午前9時50分ごろ野田寺町1丁目桂岩寺から出火、同寺を全焼してさらに同寺裏の民家2戸と納屋1むねを全焼、2戸を半焼した。桂岩寺の有名な木仏五百羅漢(文政8年完成)は、数体を持出しただけであとは焼失した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデ―は約2万3,000人(メーデー実行委調べ)が参加しておこなわれた。兼六園の大会場から県評系と全労系の2コースにわかれて、市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月1日 社会・文化 県は県立第二工業高校を、森本町吉原地内に建設することに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月2日 社会・文化 日本労働者住宅協会石川県支部による県下初の勤労者団地が上荒屋にでき、住宅10戸が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月11日 社会・文化 午前0時10分ごろ北陸3県に地震。震度は金沢市で2。金沢地方気象台は、震源地は金沢市金石海岸付近、深度10キロと発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月14日 社会・文化 「金沢を美しくする運動推進協議会、県、市など関係30数団体によって結成された。会長は土井市長。(市は毎月15日を美化デーにきめた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月18日 社会・文化 タクシー業の石川交通会社の賃上げ争議が80日ぶりに解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月20日 社会・文化 平和町会館が、野田町県営住宅団地の中に完成した。総工費480万円(地元負担100万円、あとは県市の補助)、ブロック造り2階建、会館は清明、大通り平和、睦、暁の5地区民の会合などに利用される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月28日 社会・文化 午後2時50分ごろ中村町10丁目裏の犀川堤防がけ下にある廃品回収業者宅(河川法違反建築物)から出火、1戸と物置を全焼、道路上の民家1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 5月30日 社会・文化 午後1時半ごろ石川郡野々市町本町東和織物会社分工場の織布工場から出火、平屋建工場5むね(2,456平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月22日 社会・文化 金沢のNHKと北陸放送がカラーテレビジョンの放送を開始した。市内13ヵ所に街頭受像機が設置された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月23日 社会・文化 文久3年(1,863年)以来という兼六園霞ヶ池の底ざらえがはじまった。施工の県計画課技師の調べでは、瓢池へ移した30センチ以上の大きなコイは約300匹だった。県は県政90周年記念事業として2,000万円で兼六園の整備に着手、霞ヶ池底ざらえもその一つ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月24日 社会・文化 午後10時10分ごろ、横安江町真宗大谷派金沢東別院の本堂と庫裏の渡り廊下付近から出火、本堂、納骨堂、金沢幼稚園、志納所など約6,700平方メートルを全焼し、さらに別院裏の象眼町、鍛治町の民家6戸を全焼、11戸を半焼、25人が負傷した(翌日1人死亡)。同別院は昭和2年の建築、工費は当時で約100万円、本堂は総ケヤキづくりの16間四方堂、高さ約30.30メートルのガランだった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 7月25日 社会・文化 東別院は門徒代表ら約40人と、京都からかけつけた東本願寺参務らで緊急対策会議を開き、復興委員会の早急設置と、1市2郡(石川、河北)の末寺350、門徒3万人の総力を結集して再建にあたることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 8月4日 社会・文化 金沢駅前の金沢ビル(地上7階地下2階)の1階名店街と、地下1階商店街の47店が開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 8月7日 社会・文化 石川県下から愛知県豊川市の豊川海軍工廠へ学徒動員され、昭和20年8月7日爆撃のため死んだ52人の県出身女子挺身隊員の霊を慰める殉難おとめの像(豊川殉難女子挺身隊平和祈願像)が、卯辰山山頂に完成、命日のきょう盛大な除幕式がおこなわれた。建設者は北陸中日新聞社、豊友会など。碑文は佐藤春夫碑のブロンズ像製作は矩幸成。(昭和41年5月28日に殉難の金沢出身、14人を含む46人の石川県出身豊川海軍工廠女子挺身隊員に対し、勲8等宝冠章の戦没者叙勲があった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 8月11日 社会・文化 香林坊交差点と片町大和百貨店前の交差点に、県下で初めての連動式交通信号機がついた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 8月11日 社会・文化 県、市、県住宅公社が、34年春から建設をはじめた金石町の金石あけぼの住宅団地の完工式がおこなわれた。住宅は391戸で、金沢市内では円光寺、上荒屋に次ぐ団地となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 8月22日 社会・文化 さる33年6月に、いたずら火で焼失した兼六園の山崎山頂上の小亭が、4年ぶりに復元された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月1日 社会・文化 (山代温泉に石川県農事試験場山代温泉熱利用研究所=山代植物園=が開館した。熱帯植物約800種、県下初めての施設。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月11日 社会・文化 (植田謙吉死去。87歳。元陸軍大将、昭和7年の上海事変に第9師団長として出征し、爆弾事件で左足首を切断した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月15日 社会・文化 金沢市交通安全都市推進協議会が中心となって、第1回金沢市交通安全日が実施された。(毎月15日を交通安全の日とすることに決定) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月19日 社会・文化 市はゴミ集め清掃車に、初めてオルゴール(曲は白鳥の湖と小さい魚やさん等)をつけた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月23日 社会・文化 (小松市、同商工会議所主催の小松博覧会が開かれた。会場は末広運動公園、小松空港、自衛隊小松基地など、会期45日間。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月29日 社会・文化 兼六園霞ヶ池の底ざらえ工事が終り、約2ヵ月ぶりで水がはいった。池の底はこれまでより60センチ深くし、ダンブカー1,200台分の泥をとり、そのあとに140台分のじゃりを敷きつめて平均1.2メートルの深さにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月29日 社会・文化 市は安原、二塚両小学校の統合校舎を新設することになり、初年度分新築費2,042万円が市議会の議決を得た。敷地は現在の両小学校の中間で鉄筋3階建。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月29日 社会・文化 県は県立中央病院に、約1億4,000万円でガンセンターを建設することになり、本年度分予算2,300万円が県議会の議決を得た。5階建150ベッド、2ヵ年計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 9月29日 社会・文化 県は金沢市内に、県下初めての軽費老人ホーム(70人収容)を設けることになり、建設費3,451万円が県議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月2日 社会・文化 畝田町に建設する金沢市立工業高校校舎の起工式がおこなわれた。4万7,850平方メートルの敷地に鉄筋4階、延べ9,617平方メートルの校舎、2,786平方メートルの実験工場や体育館などを建設する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月3日 社会・文化 金沢市職員健康保険組合が、職員の体育保養施設として上野本町の旧陸軍射撃場跡に建設中の「保健センター」が完成、開所式をおこなった。敷地1万4,100平方メートル、集会室は2階建、延べ590平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月9日 社会・文化 名古屋陸運局は金沢市内の29人に、戦後初の個人タクシーを免許した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月9日 社会・文化 石川県評(県労働組合評議会)大会で議長に角谷正二が選出された。退任の前議長荒川正は議長在任4期。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月18日 社会・文化 石川県政90周年記念の全国石川県人大会(第3回全国石川県人会連合会大会)が金沢市観光会館で開かれた。新しく全国石川県人会連合会名誉会長に前田利建、また、連合会長に畠山一清、副会長に南喜一、沖豊治、前田幸太郎(以上留任)長田甚次郎を選任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月19日 社会・文化 金沢市文化財保護選奨委員会は市内で保存されている次の8ヵ所の建物、句碑神木を市の指定史跡に登録し、標識板を立てることにした(戦前加越能史談会がした史跡表示を受けつぐもの)。南町中屋健吉宅、笠舞町猿丸神社の猿丸宮と神木、夕日寺の養老山夕日寺跡、材木町善福寺、上鶴間町宝円寺、長町川岸大宮愛子宅、蛤坂町成学寺にある芭蕉句碑、胡桃町柴野和喜夫宅の門。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月20日 社会・文化 佐野吉之助死去。74歳。金沢能楽会名誉会長、現在の金沢能楽堂を建設、金沢の能楽振興に尽した。昭和23年金沢市文化賞受賞。(23日金沢能楽会葬) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月28日 社会・文化 金沢出身の歌人尾山篤二郎の歌碑が、下本多町県児童会館の前庭に建ち除幕式がおこなわれた。歌は「月あかく屋の上の雪を照しをり影なきものは静かなるかも」。建設は歌碑建設委員会(委員長上山南洋)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 10月28日 社会・文化 午後11時8分ごろ、金沢駅前の金沢ビル地下1階の飲食店でガスボンベが爆発のれん街、同食品センターの28店が半焼あるいは一部破損した。被害面積2,200平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月3日 社会・文化 第16回(昭和37年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。浦上太吉郎(石川県社会福祉協議会副会長━社会福祉事業に献身40年)倉知与志(金大医学部教授━目の組織化学の権威、地方医療機関の充実と後進の養成につくした)長谷川八十(金沢美術工芸大学教授━彫刻家、郷土文化の向上に貢献)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月3日 社会・文化 市は次の3点を金沢市記念文化財に指定した。四季耕作図屏風6曲1双(小将町西田儀一郎所蔵)本興寺寺法書紙本墨書2幅(薬師町本興寺所蔵)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1963) 11月3日 社会・文化 金沢大学医学部創立百年祭記念式典が、金沢市観光会館で挙行された。全国からの同窓生はじめ教官、学生ら約2,000人が参列。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月7日 社会・文化 金沢駅前に建った金沢ビルの落成式がおこなわれた。総工費15億円、2、3、4階は貸し事務所、5、6、7階は金沢都ホテルで7階にホールもある。また地下1階に38店、地下2階には5店と映画館2館がある。ホテルの開業は来春の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月11日 社会・文化 3組合に分裂紛糾していた石川交通会社の労組は、第1組合の全自交石川地連加盟の石川交通労組に統一され、7か月ぶりで一本化された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月12日 社会・文化 (国定公園白山が国立公園に指定された。全国20番目の国立公園である。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月15日 社会・文化 金沢市連合町会長協議会は発足5周年を機に解散、新たに金沢市町会連合会を設立した。正副会長には町会長協議会会長の松平利吉、副会長の来馬与吉、作田勝治、浅田義明がそのまま選任された。金沢市内の町会数は現在987町会。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月18日 社会・文化 故山川庄太郎(竪町)の遺志で8月設立された財団法人山川美術財団から重要美術品3点を含む美術品131点が石川県美術館に移管された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月18日 社会・文化 京阪神地方にある29の石川県人会の連合体、関西連合石川県人会が設立された。会長神田外茂夫。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月18日 社会・文化 午後11時ごろ才田町の民家から出火、2戸と製ナワ工場1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月21日 社会・文化 午後8時半ごろ卯辰山、金沢ヘルスセンターのキリン舎屋から出火、同舎屋と大工小屋を全焼、動物は無事だった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 11月28日 社会・文化 午後3時45分ごろ東長江町の農家から出火、1戸を全焼、家人1人が焼死した(放火自殺と判明)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月2日 社会・文化 書家として知られた常福寺住職北方心泉(明治38年死)の書碑が、心泉上人顕彰会の手で、卯辰山横空台と小将町の常福寺に同時にできあがり、除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月12日 社会・文化 県教育委員会は生徒急増対策として、明年4月から金沢市に県立普通高校と県立第二工業高校、松任に普通高校、小松市に商業高校、珠洲市に実業高校の5高校を新設することを決定した。(金沢市に新設の普通高校名は県立金沢錦丘高校と決定) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月16日 社会・文化 兼六中学校の落成式が体育館完成を機におこなわれた。36年12月着工、4階建6,657平方メートルの校舎と1,046平方メートルの体育館、屋上に直径4メートルの天体観測ドームもある。総事業費1億6,721万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月19日 社会・文化 市議会は十一屋・泉野地区の町名地番改正案を可決した。市の住居表示整備事業による最初の改正である。(38年6月1日実施された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月20日 社会・文化 卯辰山扇丘に建設中の金沢市少年の家「山彦」が完成、小中学生代表も参列して落成式があげられた。市支出の建設費は1,013万円だが、金沢、金沢東両ライオンズクラブから50万円、在京の音申吉から40万円をはじめ市内小中学生から12万円の国旗掲揚塔と14万円のゴミ焼き機、市内5人の画家による壁画など多くの寄付が寄せられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月20日 社会・文化 10月9日に免許された金沢市の個人タクシー業者29人が、本日までに全部営業を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月23日 社会・文化 円光寺団地に円光寺文化センターが完成した。鉄筋平屋162平方メートル、総事業費500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月26日 社会・文化 野田寺町4丁目立像寺内すみれ保育園で、25、26両日に園児から28人の赤痢患者が出た。また19日に長田町小学校で10人発生した。(12月31日現在のすみれ保育園患者は園児37人、保母2人、園児家族4人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月27日 社会・文化 芝原中学校の新築落成式がおこなわれた。木造2階建1,040平方メートル、工費1,481万円。同校の生徒数は199人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十七年(1962) 12月30日 社会・文化 午後8時10分ごろ金石下寺町の折り箱製造工場から出火、工場1むね(約40平方メートル)を全焼し、両隣の民家の1部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月8日 政治・経済 市は金沢市防災会議を設置、委員22人を委嘱した。委員は市内各官庁代表と消防、新聞放送、日赤関係者ら。防災会議は水害、火災、雪害、地震などあらゆる災害の防災計画の立案や災害後の対策をたてる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月11日 政治・経済 市が通産省に申請していた犀川の金沢市営発電事業が認可された。犀川総合開発事業の一環として、犀川ダムの下流上寺津に市営発電所を19億3,000万円で建設し、北陸電力へ電力を売るもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月11日 政治・経済 (中西県副知事は、知事選挙に立候補のため辞任した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月12日 政治・経済 市は、玉鉾町に建設した第2ガス工場の公式運転を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月16日 政治・経済 土井市長は石川県知事選挙に立候補のため、市長の辞表を武村市議会議長に提出、市議会は賛成多数で辞任を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月21日 政治・経済 県選挙管理委員会は、金沢市長選挙の投票を2月10日の知事選挙と同時におこなうことをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月28日 政治・経済 市は姉妹都市バッファロー市に初めての特使として、生産性本部のアメリカ視察団員として31日渡米する金沢商工会議所江川昇専務理事に同市訪問を依頼、大河助役(市長職務代行者)からユーワル・バ市長にあてたメッセージと絹の壁かざりを託した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月10日 政治・経済 知事選挙がおこなわれ、即日開票の結果、自民党公認の前副知事中西陽一が、非公認の前金沢市長土井登と共産党県副委員長竹村香住を押えて当選した。しかし金沢市内の得票は、土井90,670票中西56,256票と土井が多かった。県下投票率74.54%。当選233,081票 中西陽一(自民新)次点205,160票土井登(無所属新)10,371票 竹村香住(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月10日 政治・経済 金沢市長選挙がおこなわれ、即日開票の結果、元衆議院議員、元市議会議長徳田与吉郎が、社会、民社、共産各党を中心とする革新勢力に推された金大名誉教授伊藤武雄と、元県議弁護士神保泰一を破って当選した。投票率75.25%。当選61,430票 徳田与吉郎(自民新)次点45,776票 伊藤武雄(無所属新)44,362票 神保泰一(自民新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月7日 政治・経済 犀川ダム建設で山林が水没するため、部落全戸が移転の倉谷町10戸に対する市の補償金は、2,140万円でまとまり、調印された。これで、犀川ダム建設に伴う住民補償は全部解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月16日 政治・経済 県議会議員選挙区定数条例の改正案が県議会で可決され、金沢市の県議定数は13人から14人にふえた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月22日 政治・経済 市議会は、人口30万人超過による議員定数の4人増加をおこなわず、現行通り44人とすることを議決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月22日 政治・経済 (政府は38.1豪雪を「激じん災害」に指定し、北陸4県を含む23府県の農林関係被害に対して、激じん災害特別財政援助法第8条に規定する「天災融資法による貸付けワク拡大の特別措置」適用のための政令をきめた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月23日 政治・経済 市は38年度特別会計予算に、着工中の犀川総合開発事業費7億6,701万円、中央卸売市場費3,512万円を計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月25日 政治・経済 石川県地域経済研究会(金大岡本信太郎教授を代表とし、教授助教授ら8人から成るもの)は、昨年5月知事から委託された河北潟、七尾湾周辺の開発構想についての調査結果を提出した。このうち、金沢港については「金沢港は商業港とし、3,000トン級の船が接岸できる港の建設から着手すべきである」と強調した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月26日 政治・経済 石川県総合開発基本計画策定調査委員会(国土計画協会の平貞蔵を委員長とし同協会から委員8人、参与3人、研究員10人を出して委員会を編成)は、昨年3月知事から委託された石川県総合開発についての調査結果を、東京で提出した。このうち、金沢港については「臨海工業港計画は無理で、木材港がよい。河北潟は貯水場として最適。木材港につくったあと、内陸性工業に対する商港としてもじゅうぶん活用できる」と述べている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月27日 政治・経済 県土木部は運輸省に、商港兼木材専用港としての金沢港建設計画の基本構想を提出し、港湾整備新10ヵ年計画への組み入れを要求した。構想は総事業費50億円、39年度着工45年度完成、5,000トン程度の貨物船寄港と、年間100万トンの木材輸入可能な施設整備等となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月17日 政治・経済 県議会議員選挙がおこなわれ、即日開票された。金沢市の結果は次の通り(金沢市の定員14人、立候補19人)。金沢市の投票率78.1%〔当選〕11,608票大桑孝雄(共前)11,328票 橋爪義守(無新)11,266票 岡島友作(自前)10,317票 羽間政信(自新)10,098票 西田与作(自前)9,396票 本家三郎(自前)9,320票 浅田勝二(自前)9,060票 米沢外秋(自前)8,542票 川島重男(社新)8,253票 今井源三(自前)8,235票 越島久米三(社前)7,911票 清谷博文(自前)7,475票 吉田長久(自前)7,456票 清水保治(社前)。県議会の政党別当選者は自民33人、社会6人、民社1人、共産1人、無所属4人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月20日 政治・経済 北陸線金沢━福井間の電化が完成、金沢電化開通式が金沢市観光会館でおこなわれた。金沢━大阪間の急行電車所要時間は4時間17分になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月22日 政治・経済 初の金沢市防災会議が開かれ、災害発生にそなえて、市条例にもとづき市水防本部、市災害対策本部、市災害救助隊本部(本部長はいずれも市長)の設置をきめた。市防災会議議長は徳田市長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月25日 政治・経済 広坂警察署が金沢中警察署に、玉川警察署が金沢東警察署と改称した。金沢東警察署は浅野本町の新庁舎に移った。新庁舎は4階建、1,560平方メートル、総工費8,367万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月30日 政治・経済 市議会議員選挙がおこなわれ、即日開票の結果、自民30人、社会8人、共産2人、民社1人、公政連1人、無所属2人が当選した。投票率81.0%。(定員44人、立候補59人)〔当選〕5,217票 岡本佐一(公政新)4,950票 河口健吾(自新)4,194票 岩本義男(自前)4,182票 増江幸二(社前)4,101票 上野勝正(自新)3,691票 北元喜雄(自元)3,635票 喜多美由喜(自前)3,540票 黒川四三二(自前)3,445票 島村隆(社前)3,338票 田中富士夫(自前)3,295票 福村洸(社前)3,265票 玉作小一郎(自前)3,232票 辻村安雄(自新)3,222票 室井光栄(自新)3,178票 原俊道(共前)3,157票 竹中角太郎(自元)3,095票 竹田顕義(自新)3,074票 油谷外郷(自前)3,068票 白沢実(社元)3,058票 梅田武一(社前)2,998票 蚊戸助吉(社前)2,980票 安江与吉(自前)2,973票 鈴木忠作(自新)2,965票 中村外次(自新)2,957票 山田外吉(自前)2,944票 桑野与作(無前)2,919票 松島吉次(自前)2,879票 上田孝三(社前)2,873票 徳田保久(自前)2,857票 村中博明(自新)2,854票 滝尾照士(民前)2,766票 神田信義(自前)2,761票 奥田勝治(自前)2,757票 新保仁次郎(自前)2,711票 高倉政雄(社前)2,688票 三輪次作(自前)2,686票 浅井茂人(共新)2,658票 吉田栄作(自前)2,623票 笹原清松(自前)2,590票 本野仁治(自新)2,585票 酒尾孝之(自前)2,569票 北山友次(自前)2,498票 池田外作(自前)2,472票 中川哲夫(無新) 〔次点以下〕松永敏、柳田清吉、米田正一、北川定次、西重松、中田忠二、大寺三郎、岩崎和夫、甚田寛一、杉山義直、森元義、寺井初太郎、木越定徳、本田作次、堂田義久 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月1日 政治・経済 北陸農政局が、彦三5番丁の旧金沢農地事務局庁舎に開局した。新潟、富山、石川、福井4県を管轄する農業指導機関で、総務、農政、計画、建設、構造改善の5部20課、職員285人、局長は任田新治。(地方農政局は全国7ブロックに設置) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月1日 政治・経済 (石川県迷惑防止条例が施行された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月8日 政治・経済 陸上自衛隊金沢駐とん部隊の新隊舎完成式がおこなわれた。隊舎は、明治30年建設の旧兵舎を取りこわして建てたもので、鉄筋3階建(600人収容)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月13日 政治・経済 建設省は北陸線旧倶利伽羅トンネルの利用工事を、国道8号線の直轄改良工事として施工の方針をきめ、今年度216万円の調査費を支出することになった。従って、富山県が中心となって運動を進めていた旧トンネル利用の有料道路の構想は解消した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月14日 政治・経済 建設省は金沢市森本町━小松市間に、国道8号線のバイパス建設のため調査費として、本年度176万円を支出すると県へ通知してきた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月14日 政治・経済 (県議会は正副議長選挙をおこない、議長に杉原杉善、副議長に矢田富雄=いずれも自民=を選出した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月16日 政治・経済 名古屋高等裁判所金沢支部、金沢地方裁判所、金沢簡易裁判所総合庁舎改築期成同盟の結成式が、県繊維会館でおこなわれた。会長益谷秀次。最高裁は38年度に調査費70万円を決定し、39年度から現庁舎とほぼ同じ大きさの合同庁舎を総工費2億2,700万円で着工の見通しであるが、同盟会としては現在の3倍以上の床面積の庁舎建設をめざしている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月18日 政治・経済 市議会は正副議長選挙をおこない、議長に田中富士夫(自)副議長に酒尾孝之(自)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月25日 政治・経済 本年から65億6,000万円、9ヵ年計画で着工される河北潟干拓事業の初めての打合せ会が、県、市、関係町村、北陸農政局の各代表が県庁に集って開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月29日 政治・経済 市議会は市助役に、金沢商工会議所専務理事江川昇の選任を可決した。(大河現助役の任期は7月1日まで) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月1日 政治・経済 金沢市最初の住居表示法にもとづく新住居表示が、寺町台一帯で実施され、44町が18町に統合された。新しい18町名は野田町、平和町1─3丁目、法島町、十一屋町、若草町、緑丘、寺町1─4丁目、泉野町1─6丁目で、対象は4,587戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月1日 政治・経済 市は市役所の機構改革を実施、農林部(農林課、土地改良課)と市長直属の企画室(企画課、住居表示課)を新設し、1室8部1局制とした。また副収入役を設けた。副収入役に村田重行(総務部長)企画室長に岡本忠幸(土木部長)総務部長に山中巖(税務部長)税務部長に津田全(財政課長)農林部長に酒井幸吉(農林課長)民生部長に松多清政(人事課長)土木部長に村瀬義正(ガス水道局次長)ガス水道局事務次長に瀬戸一郎(民生部長)同技術次長に上田貞夫(ガス水道局施設課長)が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月1日 政治・経済 市議会は、金沢港建設を推進するため総合開発特別委員会、また北鉄電車料金値上げ問題処理のため、運輸対策特別委員会を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月13日 政治・経済 北陸地方開発促進協議会が金沢市で理事会を開き、政府に要請する総額1,163億6,300万円の39年度北陸開発重点事業をきめた。うち最重点事業の北陸自動車道には500億5,000万円、また新金沢港建設に2億円を見込んでいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月14日 政治・経済 市と市議会は市選出県議13人を招き、新金沢港建設促進について協力を要請、徳田市長は「新金沢港建設以外に金沢市の発展はない」と強調した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月14日 政治・経済 県議会の総合開発特別委員会は県が努力している新金沢港の港湾整備新5ヵ年計画組み入れを、全面的に支援することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月15日 政治・経済 市議会は新金沢港建設に直接関連ある大徳、金石、粟崎、潟津、鞍月、大野、東蚊爪、大浦、木越など各地区の代表約50人の参集を求め、新金沢港建設に協力を要請した。これに対し地元側は全面的に賛成し、協力を約束した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月17日 政治・経済 金沢市町会連合会は次の6専門委員会をつくった。行財政研究委員会、組織対策委員会、町を美しくする運動推進委員会、青少年問題委員会、交通安全運動委員会、環境衛生問題委員会。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月18日 政治・経済 市議会の運輸対策特別委員会は北鉄市内電車賃値上げ案(13円を15円に)ついて公聴会を開き、市民各層の代表15人から意見をきいた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月27日 政治・経済 市議会総合開発委員会委員は杉原県議会議長、県の小川総務、七田土木部長をたずね、新金沢港建設促進を強く要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月27日 政治・経済 共産党県委員会は中西知事ならびに徳田市長に対し、新金沢港建設は地元負担金が住民を苦しめるとし、建設反対を基調とした公開質問状を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月30日 政治・経済 社会党石川県連は、臨時大会で「社会党石川県本部」と改組改称した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月1日 政治・経済 (美川町にある北陸線小舞子駅が常置駅となり、北陸線ではじめての民間委託駅として発足した。同駅が、夏季だけの臨時駅として開設されたのは明治36年。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月2日 政治・経済 市助役大河良一は任期満了により7月1日退職、さきに決定の公認助役江川昇の就任が発令された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月2日 政治・経済 県は38年度追加予算に新金沢港調査費630万円(うち金沢市負担300万円)を計上、県議会の議決を得た。(当初予算でも300万円既決) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月2日 政治・経済 一昨年の出水で橋脚が沈下した内川地区の山川橋の架けかえが完工、渡橋式がおこなわれた。コンクリート造りの永久橋で、工費453万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月4日 政治・経済 改選後初の市議会が開かれ、金沢港建設問題が論議の中心となったが、徳田市長は議員の質問に答え「金沢港建設は県が主体であるが、金沢市としても市の事業同様に努力する」と市の方針を述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月5日 政治・経済 市は、38年度追加予算の特別会計中央卸売市場建設費に1億2,434万円を計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月5日 政治・経済 市議会は、社会党ならびに共産党議員が別個に提出の「原潜およびF105の日本配置反対の意見書」を、いずれも多数で否決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月5日 政治・経済 市議会は、土井前市長の退職慰労金700万円を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月17日 政治・経済 (県、県漁連、民間漁業者の共同出資による株式会社石川県漁業公社の創立総会が開かれた。資本金4,800万円、取締役に金沢から金石漁業協同組合長本家三郎が就任。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月22日 政治・経済 石川都市計画地方審議会が開かれ、金石街道の長田本町から金石町まで4,853メートルの西側に、幅5.5メートルの歩道を38年度から42年度までの5ヵ年計画で新設する件などを決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月23日 政治・経済 経済企画庁は、北陸地方開発促進計画の第2次計画案を発表した。計画案によると、金沢市を中規模地方開発都市として、行政、文化、教育、通信、金融など流通中枢機能を積極的に整備強化し、北陸地方開発の中心センターにすべきことを述べている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月23日 政治・経済 名古屋陸運局石川陸運事務所は金沢市内の新規タクシー会社8社27台の営業を許可した。8社は兼六、光、英、城南、かもめ、みかげ、十二、金沢相互。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月24日 政治・経済 金沢港建設地元協力会が、市内の大徳、大野、大浦、粟崎、鞍月、潟津、金石、八田、才田、大場の10校下代表らにより結成された。会長村上治喜智(大徳校下)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月31日 政治・経済 石川県衛生研究所が勝尾町に完成した。地上3階、延べ1,085平方メートル、総工費3,600万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月1日 政治・経済 市はごみ集め、し尿くみとりについての苦情などをきくため、清掃課内に清掃相談所を設けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月1日 政治・経済 卯辰山と金沢湯涌国際ゴルフ場を結ぶ簡易舗装道路(長さ1,200メートル、幅8メートル)が開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月1日 政治・経済 (北陸農政局は本年から9ヵ年継続事業で着工する河北潟干拓事業のため、津幡町加賀爪の河北郡町村会館内に「河北潟干拓建設事業所」を開設した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月6日 政治・経済 新金沢港の港湾整備新5ヵ年計画組み入れが確実となったので、県は運輸省第1港湾建設局、京大防災研究所、港湾技術研究所などの港湾技術者と県、市関係者の出席を求めて、金沢港開発技術調査打合せ会を県建設会館で開催、新金沢港の防波堤、泊地、内港などの構想をまとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月9日 政治・経済 (防衛庁はロッキードF104戦闘機を航空自衛隊小松基地に配属するため、藤井小松市長に対し、小松基地の拡張に市当局の協力を要請した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月23日 政治・経済 俵町キゴ山山ろくの金沢市営牧場(20ヘクタール)が完成、牛の放牧を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月25日 政治・経済 注目をあびている金大理学部跡地(6万9,000平方メートル)利用について、県の方針がほぼきまった。金沢地方合同庁舎(1万1,600平方メートル)を除いた部分を、緑地(2万5,000平方メートル)と公営有料駐車場(4,800平方メートル)にし、広坂通や仙石町通りの拡張と道路新設に約8,300平方メートルを予定、また旧四高の本館は記念物として保存利用しようという計画である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月28日 政治・経済 (藤井小松市長は、F104戦闘機配置に伴う小松基地拡張には、補償に万全を期して防衛庁に協力することを表明した。-基地拡張反対運動も次第に激化。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月28日 政治・経済 市議会全員協議会は、北鉄市内電車賃値上げを条件づきで同意した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 9月14日 政治・経済 県住宅公社が本年度から市内額新保町に造成する額団地の基本設計が、県額住宅団地基本設計小委員会の高山委員長(東大教授)らの手でできあがった。同団地は、第1期計画として3ヵ年間に3億4,000万円で19万平方メートル、810戸分の宅地を造成、第2期はひきつづき41年から5ヵ年計画で100万平方メートルの宅地を造成し、45年度末には5,000戸の大団地とする計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 9月16日 政治・経済 金沢港の築港とともに工場団地造成の計画を進めるため、金沢木工センター協同組合が設立総会を開いた。市内の洋家具業者25社が加入。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 9月17日 政治・経済 犀川ダムの建設で、ほとんどが水没する金沢市倉谷町(10戸50人)の閉町式が同町日吉神社で徳田市長も参列しておこなわれた。倉谷町は部落ができてから370年の歴史をもち、旧藩時代には金銀の鉱山として栄えたこともある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 9月23日 政治・経済 徳田市長は、北鉄市内電車賃値上げに対する市議会の条件付き同意の答申を検討の結果、柴野北鉄社長に対し「市議会の条件、要望をどのように処理する考えか」との質問書を出した。市長は会社の回答をまって、値上げ同意についての市の正式態度を通告する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 9月25日 政治・経済 問屋団地「協同組合金沢問屋センター」の創立総会が開かれた。理事長高田甚造。この団地は中小企業近代化促進法にもとづいて、市南西部の23万平方メートルに、市内卸商の3分の1にあたる120社の問屋が移転しようというもの。総工費43億円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 9月28日 政治・経済 市議会は、第27回(昭和47年)国民体育大会誘致の決議案を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    (1963) 9月28日 政治・経済 市は金沢港建設促進費100万円を追加予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月1日 政治・経済 市は国民健康保険の7割給付(従来は5割給付)を実施した。(このため市は3,956万円を追加計上) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月1日 政治・経済 金沢駅前と武蔵ヶ辻間を直線の都市計画道路(長さ700メートル、幅27メートル)で結ぼうとの金沢駅前・武蔵ヶ辻間近代化促進期成同盟会の発会式が、都ホテルのホールで地元24町の代表らが出席して開かれた。会長林屋参議院議員。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月3日 政治・経済 金沢市中央卸売市場の起工式が、二口町の建設地で徳田市長、中西知事、業界代表ら約300人が出席しておこなわれた。敷地9万平方メートル、総事業費約9億円、完成は昭和41年3月の予定。本年度着工分は、仲買売り場と買い荷保管所および金石街道からの専用道路建設で、工費1億2,596万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月9日 政治・経済 犀川ダムの建設で、明年中に水没する金沢市二又新町(19戸100人)の閉町式と、犀川小中学校二又分校(生徒33人、明治10年開校)の閉校式が徳田市長らも参列しておこなわれた。同町の歴史は約500年、年間1万8,000俵の木炭を生産する木炭づくりの部落であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月11日 政治・経済 金沢西口駅設置期成同盟会の発会式が、金沢商工会議所で開かれた。会長加藤義一郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月12日 政治・経済 金沢港建設促進期成同盟会の発会式が、金沢商工会議所で各界代表ら約200人が出席して開かれた。会長西川外吉、副会長清谷博文、吉田次作、田中富士夫。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月28日 政治・経済 徳田市長は、北鉄市内電車賃値上げについて近く北鉄へ回答するに先だち、市役所に市民各層代表5人の参集を求め、「値上げは条件づきで12月1日から実施に同意する」意向を表明、了承を求めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月31日 政治・経済 協同組合金沢問屋センターと県が、通産省に指定を申請していた金沢問屋センター商業団地は、通産省の商業集団化事業として指定されることにきまった。38年度の事業費3億6,200万円に対して国の補助額は2,242万4,000円で、県も同額の助成を追加予算で計上する。問屋センター商業団地は割出町地内、総事業費は42億9,829万円、38年度から3年計画。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月6日 政治・経済 市が金沢駅前広場整備事業の一つとして昨年11月着工した金沢駅前地下道が完成、一般に開放された。総工費7,227万余円、駅と金沢ビル、北鉄バスターミナルを結ぶ延長89.2メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月6日 政治・経済 北陸経済調査会の創立総会が開かれた。北陸の経済開発の方向づけなど総合的経済調査研究の機関で、会員は県、市、金融機関、経済団体など27団体。会長中西知事、理事長西川金沢商工会議所会頭、金大から石橋学長以下20人が役員に参加。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月12日 政治・経済 金沢港建設の用地買収についての初めての話し合いが、県鉄工会館で県、市側と地元町会長ら35人との間におこなわれた。席上、当局側から、金沢港および臨港工業地帯用地として大野、粟崎、潟津、鞍月、大徳、大浦、八田、大場、才田の9校下にまたがる河北潟周辺1,000万平方メートルを予定する計画が示された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月15日 政治・経済 金沢港木材団地造成期成同盟会の発会式がおこなわれた。会長滝川菊次郎。会員は金沢木材協組の58人。金沢港に歩調をあわせて、河北潟の水面を利用した淡水貯水場とその周辺に製材、合板など木材工場の大団地をつくろうというもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月21日 政治・経済 衆議院議員総選挙がおこなわれ、全県即日開票された。全県投票率74.1%。〔第一区〕当選74,796票 坂田英一(自民前)同74,507票 岡良一(社会前)同65,961票 井村重雄(自民前)次点42,986票 梨木作次郎(共産元) 〔第2区〕当選44,191票 益谷秀次(自民前)同37,365票 南好雄(自民前)同34,874票 稲村左近四郎(無新)次点32,501票 坂本三十次(無新)27,086票 大森玉木(自民前)20,974票 北尾幸一(社会新)1,168票 輪田一造(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月2日 政治・経済 市営犀川ダムの定礎式がおこなわれた。徳田市長、中西知事が書いた「定礎」の2字をほり込んだ長方形の安山岩を、ダム底のコンクリートに埋めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月5日 政治・経済 北鉄市内電車賃の値上げが実施された。(13円から15円に) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月11日 政治・経済 36年7月流失した犀川の桜橋の架けかえが完成、渡橋式がおこなわれた。長さ89メートル、幅9.5メートルのコンクリート製弓型永久橋で、総工費約6,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月18日 政治・経済 市は市立金沢美術工芸大学の校地校舎(国有地2万8,550平方メートルと3むね)を、5ヵ年分割払いで国から買収することに決め、初年度分として総額1億6,000万円の4割6,400万円(全額起債)を追加予算に計上、市議会の議決を得た。(校地校舎の借り料は開校の昭和22年が年額4万2,000円、38年度は739万2,000円になっていた) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月29日 政治・経済 閣議決定の明年度政府予算案に、犀川ダム公共事業費3億円、河北潟干拓事業費5億8,000万円、北陸自動車道調査費3,000万円が計上された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月29日 政治・経済 新金沢港は大蔵省と自民党3役の政治折衝の結果、港湾整備5ヵ年計画とは別に重要港湾に指定し、明年度から着工に決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月30日 政治・経済 金沢港建設期成同盟会は中西知事、徳田市長を招いて役員会を開き、新金沢港の成否は土地問題にかかることを認め、各界一本となって用地確保のため、地元の協力を求めていく基本方針を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月2日 社会・文化 午前2時15分ごろ片町パリーくつ店のネオンの付近から出火、同店と隣接の小鍛冶金物店を全焼、両隣りの光学堂めがね店と大島運動具店の2階を焼いた。4店とも木造建物。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月8日 社会・文化 石川県婦人会館と赤十字救護センターの合同ビルが、広坂通日赤県支部跡に完成した。鉄筋3階建、総工費8,350万円。婦人会館は、県婦人団体協議会が県下の婦人会員8万人から200円ずつ集めた1,600万円をはじめ、県の補助1,700万円、金沢市補助500万円、その他の寄付1,600万円や融資で建設したもので、協議会が運営する。宿泊施設、結婚式場等もある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月12日 社会・文化 11日から降り出した雪は、12日正午現在金沢市内で積雪量60センチ。電車、バス、列車など交通機関も次第に乱れを見せており、金沢地方気象台は午前9時30分、今冬初の大雪注意報を発令、また金鉄局も雪害対策本部を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月15日 社会・文化 金沢地方気象台は午前10時40分、今冬2度目の大雪注意報を発令した。北鉄金沢市内電車は、午前11時から今冬初の全線運転中止をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月15日 社会・文化 午前11時40分ごろ観音堂町の県立職業訓練所職員住宅から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月16日 社会・文化 市は雪捨て場として犀川7ヵ所浅野川3ヵ所を指定、各町会、会社商店に対し指定個所以外に捨てないよう要望した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月16日 社会・文化 大雪のため市内小中学校で休校、授業短縮が相つぎ、本日現在の休校は小学校10校、中学校3校に達している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月17日 社会・文化 県警察本部の雪害警備対策本部は県下各署に対し、生鮮食料品値段の不当つり上げ行為は厳重取締ることを指示した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月17日 社会・文化 野田町亨誠塾に集団赤痢発生、小中学生8人を市立病院に隔離した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月17日 社会・文化 雪が中休み状態になったので、市内では電車通りの除雪や屋根雪おろしが一斉にはじまった。市消防本部は「消防車の通れるように除雪」を市民に呼びかけた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月17日 社会・文化 北陸線は今圧と直江津付近で、戦後最高の積雪(約3.5メートル)が続き、列車ダイヤの混乱は慢性化し、貨物列車の9割以上は運休。このため県下の織物業者は原糸不足、また緊急薬品、石油、重油等も底をつき、生鮮食料品の不足と相まって県下産業界はもちろん県民生活も、危機に見舞われている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月18日 社会・文化 市内電車路線の除雪がすすみ、各線が相次いで開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月18日 社会・文化 午後7時25分ごろ豊国町の民家から出火、1戸を全焼、1戸の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月21日 社会・文化 早暁から県下に強風が吹き荒れ、金沢地方では瞬間最大風速28.8メートル、このため高畠町の家具会社(650平方メートル)、三池町の新築中の縫製工場(700平方メートル)、上弓ノ町県立商業高校物置などが倒壊したのをはじめ、市内各所に被害が出た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月21日 社会・文化 金沢駐とん自衛隊が富山操車場の除雪に出動した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月21日 社会・文化 金鉄局は全国各鉄道管理局に対し、金沢駅あての小荷物発送を当分の間停止してほしいと通知した。配達ができずに金沢駅に滞貨となっている小荷物は、本日現在約2,400個。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月22日 社会・文化 金沢地方気象台は、午前10時45分さらに大雪注意報を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月22日 社会・文化 市は緊急部長会を開き、市内の道路除雪対策を協議の結果、建設省石川国道工事事務所、石川県金沢市土木出張所の協力を求め、本日からブルドーザーなど42台の除雪車(建設省20、県18、市4)を出動、幹線道路を機動力で除雪することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月23日 社会・文化 午前0時ごろ横安江町商店街のアーケードが約50メートルにわたり、積雪約1メートルの重みで倒壊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月23日 社会・文化 早暁から県下にまた大雪、金沢駅構内の積雪は150センチ。金鉄局は(1)自衛隊金沢駐とん部隊に金沢駅へ25日まで連日200人の出動要請(2)静岡、名古屋、岡崎などから国鉄職員を含む1日1万5,000人の除雪作業員の北陸線動員(3)東海道線と山陽線から貨車140両を回送してもらい雪捨て列車70本の編成、などをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月23日 社会・文化 22日午前9時から23日午前9時までの金沢地方の新雪は57センチ、市内における最深積雪は135センチとなり、1月中の積雪量としては明治15年金沢測候所の前身が開設されて以来、2番目の記録となった。(1月中の最高記録は昭和15年の180センチ) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月23日 社会・文化 金鉄局は「23日夜から24日昼ごろにかけて、北陸本線はじめ七尾線など全線にわたり旅客、貨物列車の運行を取りやめる」と発表。また国鉄本社は、全国各地から北陸線方面行きと北陸線経由の乗車券の発売を中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月23日 社会・文化 市は非常措置として、除雪した道路の雪を町内会ごとに、近くの各小中学校運動場へ捨てるよう町内会へ指示した。学校が雪捨て場所になったのは金沢市では初めてである。また市内のし尿くみ取りも全部停止した(25日から幹線道路だけくみ取り車出動)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月23日 社会・文化 金沢市内の公私立小、中、高校、大学合計73校が雪のため休校した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月23日 社会・文化 県下繊維、鉄工両業界は、豪雪による操業低下と原料不足、出荷の停滞などが深刻化してきたので、業界ごとに雪害対策会議を開いて緊急対策を協議した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月24日 社会・文化 北陸線一部運転再開。県議会は百万議長名で、県民に除雪の協力を要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月24日 社会・文化 金沢商工会議所は緊急雪害対策協議会を開き、政府自民党び対し、豪雪地帯対策特別措置法の発動と、国会議員中心の雪害調査団の緊急派遣などを強く要請することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月24日 社会・文化 市消防本部は「防火の生命線である用水への雪捨てを絶対にやめるよう」市民に要望、また警察署は「用水へ雪を捨てた場合は、軽犯罪法違反現行犯で検挙する」と警告した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月25日 社会・文化 市の大型ダンプカー8台が、市内のゴミ集めを再開した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月25日 社会・文化 県警察本部の雪害対策本部は、雪で交通連絡のとだえている県下の孤立部落は金沢市の54部落をはじめ合計86部落と発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月26日 社会・文化 午前3時40分ごろ大手町石川スポーツ・センター(総面積3,038平方メートル)の競技用フロア部分2,289平方メートルが積雪のため倒壊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月26日 社会・文化 政府は、北陸地方豪雪対策として至急調査団を派遣することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月26日 社会・文化 金沢市内の28私立幼稚園は、雪のため1月いっぱい臨時休園することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月27日 社会・文化 金沢市内の最深積雪量は、27日午前8時30分181センチとなり、昭和15年1月27日の記録を破った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月28日 社会・文化 防衛庁は石川県と金鉄局の要請により、第10師団(守山市)から400人を28日金沢に派遣、金沢部隊の740人とともに除雪作業に当らせることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月28日 社会・文化 金沢地方気象台は午前9時55分、石川県地方に発令中の大雪注意報を7日ぶりに解除した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月28日 社会・文化 金沢市は、屋根雪おろしを勧告する職員のパトロール隊を3人1組で5班編成して、市内を巡回させるとともに、雪による被害調査をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月28日 社会・文化 北陸線の除雪救援に派遣された陸上自衛隊第10師団の師団長野尻徳雄陸将は金沢に到着、金鉄局内に特設された第10師団災害派遣指揮所で指揮することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月28日 社会・文化 市は記録的な豪雨に対処して、災害対策本部に総務、土木、厚生、経済、調査消防の6部で構成する豪雪対策部を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月29日 社会・文化 政府は、北陸地方豪雪非常災害対策本部を設置した。本部長は、河野一郎建設相。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月29日 社会・文化 豪雪対策の急施臨時市議会が開かれ、道路除雪費などの応急対策費1,920万円の追加予算を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月29日 社会・文化 計画ダイヤによる列車運行が2週間ぶりにはじまり、金沢駅は旅客、貨物列車の発着でにぎわいを取りもどした。北鉄金石線も4日ぶりに全線開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月29日 社会・文化 市の豪雪対策部は、市内各所に建物の倒壊が続発しているので、市内の映画館浴場、私立学校、幼稚園保育所、旅館、工場など計759ヵ所に雪おろしを要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 1月31日 社会・文化 金沢市町連合会は30、31両日を市民除雪日ときめ、市内各町会ごとに総出の雪かきをした。市は、旧市内の全21校下に排雪トラック1台ずつを配置、また民間会社も車両を提供して町会の作業に協力した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月1日 社会・文化 政府の北陸地方豪雪非常対策本部長として河野建設相が、12人の国会、政府関係者とともに高山線経由で富山県から午前9時すぎ金沢到着。駅前金沢ビルホールで県各界代表約100人と会い、席上「幹線道路と鉄道の確保は建設省、自衛隊、県が協力して金はいくらかかっても最優先にやれ。2月いっぱいは国の出先機関と県に対し非常体制をとらせる」と指示した。(一行は午後帰京) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月1日 社会・文化 北陸線は米原ー直江津間が1週間ぶりで開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月2日 社会・文化 陸上自衛隊中部方面総監部(伊丹市)は、雪害救助に投入している管内諸部隊を指揮するため、金鉄局内に総監部直属の陸上自衛隊中部方面隊前進指揮所を設けた。2日現在、北陸各県への自衛隊投入数は5,400人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月2日 社会・文化 黒金内閣官房長官と志賀防衛庁長官が、雪害状況と自衛隊出動状況視察のため来沢した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月2日 社会・文化 市豪雪対策部は、金沢市内の豪雪による被害を商工、農林、水産など各産業の損失、住宅の損害、除排雪の費用をあわせ80億1,600万円とまとめた。(交通通信関係の損害は含まず) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月2日 社会・文化 北鉄石川総線野町ー鶴来間が12日ぶりに開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月4日 社会・文化 北陸地方の除雪救援のため増派を続けてきた自衛隊は、本日で出動配置を完了した。出動人員7,300人、ダンプ、ブルドーザー、ヘリコプターなど120台。うち、金沢駅と東金沢駅に238人と雪上車10台、ヘリコプター5機、ダンプカー14台等が配置されている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月4日 社会・文化 市内円光寺町は雪のため孤島化しているので、住民約4,000人を代表して円光寺地区雪害対策陳情団が、プラカードをかかげて市に『バスを通してほしい」と陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月4日 社会・文化 市内のゴミ集めとし尿くみ取りは、20日ぶりにゴミ集め車15台とくみ取り車30台が全部出動した。しかし幹線道路以外は車の動けぬところが多かった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月5日 社会・文化 県は航空自衛隊の協力を得て、県内の孤立部落に生活必需物資の空輸を開始した。現在、金沢市内の孤立部落は19部落、235戸、1,312人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月5日 社会・文化 (雪害対策に関する決議案が、それぞれ衆参両院本会議に緊急上程され、満場一致で可決された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月5日 社会・文化 県は金沢市の孤立部落18町(209戸)に、災害救助法を適用した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月7日 社会・文化 北鉄バス金沢市内線の金沢駅前ー寺町間が開通。これで市内バスの開通路線は、橋場町ー公園下ー香林坊間と、橋場町ー公園下ー香林坊ー金沢駅間とをあわせ3線。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月8日 社会・文化 金鉄局は、北陸線の各駅で米原ー直江津間通し切符の発売を開始した。こま切れ区間運転をはじめた1月25日以来15日ぶり。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月8日 社会・文化 1月23日以来全面運休を続けていた金沢市内電車が動き出し、まず公園下ー県庁前ー香林坊間で折返し運転をはじめた。また北鉄バスも次第に復旧、円光寺線、上荒屋線などの郊外線も開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月9日 社会・文化 市内の幹線道路35キロ(国道11キロ、県道9キロ、市道15キロ)は、2車線確保の完全除雪を終った。この除雪作業は、延べ430台のショベルドーザー、ダンプカーと自衛隊員の深夜作業で進められた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月10日 社会・文化 市総務課がまとめた2月10日現在の金沢市の豪雪被害額は、84億7,970万円に達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月11日 社会・文化 金沢から東京、大阪、名古屋への直通列車運転(急行2本、準急3本)が19日ぶりで再開された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月12日 社会・文化 気象庁は北陸、新潟地方を中心に襲った大雪を「昭和38年1月豪雪」(略称38.1豪雪)と呼ぶことにきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月13日 社会・文化 県は1月11日から2月8日までの豪雪による県下の被害を225億6,428万円(国鉄関係を除く)と発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月14日 社会・文化 陸上自衛隊は北陸、新潟地方に出動中の各部隊に対し、除雪を中心とする任務は一応終ったとして、駐とん地へ引揚げを指示した。金鉄局に設置された第10師団災害派遣指揮所も、16日に金沢駐とん第14普通科連隊へ移される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月15日 社会・文化 北陸線に夜間急行をふくめ急行3本準急6本が復活、普通旅客列車と貨物列車は100%運行をはじめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月17日 社会・文化 午後6時40分ごろ中村町8丁目の建具店から出火、同店の住宅と工場各1むね隣接の紙工会社の工場2むねと合金鋳造商の住宅作業場1むね計5むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月18日 社会・文化 北陸線は、26日ぶりに特急白鳥をはじめ全部の長距離列車が運転を再開、正常ダイヤにもどった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月19日 社会・文化 徳田市長は金沢市町会連合会理事会の席上、「さきに決定した3,000万円の排除雪費は2月中に各町会の実情に応じて配分する。し尿くみ取りは20日から完全なスケジュールで確実に集め、ゴミは28日までに全市の取り残し分を集める」 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月21日 社会・文化 午前9時17分ごろ野田町県営睦寮の1号舎から出火、旧兵舎を改造した木造2階建の同1号舎(1,386平方メートル)を全焼し、44世帯が被災した。火元の老女焼死。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月21日 社会・文化 昨年4月統合した安原・二塚小学校は、新校名を緑小学校ときめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月22日 社会・文化 金沢を中心とする除雪に活動した陸上自衛隊第10師団の野尻陸将以下420人の隊員が、午前0時5分金沢駅発列車で大河市助役ほか市民多数から感謝の見送りを受けて、守山の駐とん地へ引きあげた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月22日 社会・文化 金鉄局雪害復旧対策本部が解散した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月25日 社会・文化 午前9時5分ごろ桃畠町の民家から出火、2階を全焼、階下を半焼した(被災4世帯)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月26日 社会・文化 市議会総務常任委員会は、市長専決による豪雪対策予算専決案総額6,480万4,000円を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月27日 社会・文化 前知事田谷充実、金大附属病院で死去。60歳。能美郡辰口町出身。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 2月27日 社会・文化 市は、豪雪による家屋の修理費にこまる一般市民を対象に、低利融資をすることにした。1世帯3万円まで、日歩2銭5厘のうち市が1厘を利子補給、15ヵ月割賦償還、貸付けは県労働金庫を通じて行われる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月1日 社会・文化 市は、一般家庭の1,2月分の清掃手数料は徴収しないことにきめた。雪のためじゅうぶんゴミ集めができなかったため。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月2日 社会・文化 市は、さきに道路除雪委託費として市長専決した町会への除雪援助費3,000万円の配分をきめ、市吏員が各町会を訪れて配分した。配分基準は、市を住宅密集度によって4地区にわけ、道路や戸数を勘案したもので、旧市域では1町会平均4万2,000円、最高は8万2,000円となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月11日 社会・文化 市衛生部は、昨年末から寺町台を中心に続発している赤痢の根本対策を立てるため、金大、県市医師会、市関係者ら14人から成る金沢市防疫対策委員会を設置した。市内における本年1月から3月10日までの赤痢発生数は85人で、昨年同期の12倍。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月11日 社会・文化 金沢駅前金沢ビル5、6、7階の金沢都ホテル(社長岸本勇吉)が開業した。客室63。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月16日 社会・文化 (新潟県能生町に大山津波、北陸線能生ー筒石間は不通となった。=4月5日に21日ぶりで開通。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月17日 社会・文化 日本婦人会議の下部組織、石川県婦人会議が結成された。勤労婦人、労組家族会員、文化団体の婦人などが会員。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月20日 社会・文化 正午すぎ谷町の鍛造所から出火、作業場1むね(120平方メートル)を全焼、隣接の民家の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月21日 社会・文化 金沢地方気象台の標準観測地点における積雪が、春分の日の本日正午、ついに消えて「積雪ゼロ」になった。金沢地方の根雪は昨年12月31日からで、1月27日には181センチと同気象台開設以来の積雪記録をつくった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月24日 社会・文化 北陸鉄道労組は、平均5,000円賃上げを要求する私鉄総連の第1波実力行使にあわせて、始発から午前7時まで電車バスの全線時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月26日 社会・文化 北陸鉄道労組は始発から午前10時まで、電車バスの第2波時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月27日 社会・文化 午前6時35分ごろ中部から近畿、中国、四国の広範囲に地震があり、金沢は震度3。震源地は福井県越前岬沖約10キロで、敦賀と兵庫県豊岡では震度5。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月28日 社会・文化 枯死を心配されている兼六園菊桜の跡つぎにと、戸板校下自治会から寄贈した菊桜の移植が、兼六園菊桜のすぐ横でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 3月31日 社会・文化 北陸鉄道労組は、電車バスの全線24時間ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月1日 社会・文化 北陸学院保育短期大学は北陸学院短期大学と改称、保育科と栄養科を設置した。北陸栄養専門学院は生徒募集をとりやめ、2年後廃校とする。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月1日 社会・文化 石川県立工業高校に繊維工学科が設置された。県繊維業界が期成同盟をつくって、設置を県や県議会に働きかけていたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月5日 社会・文化 午前10時50分ごろ俵原町(旧森本町)の農家から出火、1戸を全焼、8歳と2歳の兄妹が焼死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月10日 社会・文化 北陸鉄道労組は始発から電車バス全線ストにはいったが、午前10時20分賃上げ交渉が妥結、ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 4月10日 社会・文化 百間堀通りに仮設歩道ができた。広坂署前から延長300メートル、兼六園側から1.8メートルの幅で安全サクを張りめぐらしたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデ―は雨の中を兼六園広場で、約1万5,000人(メーデー実行委調べ)が参加して大会を開いた。市中デモ行進は雨のため中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月11日 社会・文化 石川県善意銀行の発会式がおこなわれた。創立委員長は西町松村勝二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 5月12日 社会・文化 午後9時すぎ金沢市観光会館の大ホール舞台で出演中の歌手橋幸夫が暴漢に切りつけられ2週間のけがをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月4日 社会・文化 県下に集中豪雨。金沢地方の3日午後7時から4日午後7時までの雨量は170ミリに達し、市内の被害は床上下浸水約100戸、堤防決壊9ヵ所、小坂神社汐見坂登り口や常盤町その他でがけくずれ21ヵ所。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月4日 社会・文化 (午前5時すぎ津幡ー倶利伽羅間で、豪雨による土砂くずれに貨物列車が乗りあげ、北陸線は不通になった。=5日午前9時すぎ単線開通。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月5日 社会・文化 石川県科学教育振興会が設立された。会長越馬徳治。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月7日 社会・文化 畠山文化財団(理事長畠山一清)は、近く開所する石川県理科教育センターに天体望遠鏡購入費200万円を寄付、また畠山奨学金を年間145万円(昨年まで100万円)に増額した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月16日 社会・文化 石川県鉄工協会が長戸塀5番丁に建てた石川県鉄工会館が完成、開館式をあげた。3階建、2,092平方メートル、総工費1億5,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月18日 社会・文化 午後2時40分ごろ長田町の縫製業石川プレス工場から出火、工場1むね(約60平方メートル)を全焼、隣接の2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月20日 社会・文化 県営弓道場が石川護国神社の境内に完成した。射場と的場の距離27メートル、工費436万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月21日 社会・文化 新保千代子(里見町)が著書「室生犀星・ききがき抄」で第11回日本エッセイスト・クラブ賞を受けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月23日 社会・文化 尾山篤二郎横浜市の自宅で死去。73歳。歌人、文学博士、金沢市横安江町出身「野を歩みて」ほか多くの歌集がある。歌誌「芸林」主宰者。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 6月25日 社会・文化 県職員会館が茨木町に完成した。鉄筋3階建、延べ1,191平方メートル、総工費6,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月6日 社会・文化 市が総工費420万円で施行中の市営陸上競技場の改良整備が完工、日本陸上競技連盟検定員による第2種公認継続の検定がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月10日 社会・文化 財団法人石川県労働会館(理事長岡良一)が勝尾町に建設した県労働会館が完成、開館式がおこなわれた。5階建、総面積2,277平方メートル、総工費1億3,500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月14日 社会・文化 午前0時57分ごろ白菊町上田工業会社の木材乾燥工場から出火、事務所工場など約891平方メートルを全焼、さらに道をへだてた裏五十人町のむねつづきの民家5戸を全焼、1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7月27日 社会・文化 異常高温が続き金沢市の午後3時の気温は36.7度、金沢測候所開設以来2番目の暑さである。(1番は昭和17年7月26日の36.9度) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 7.- 社会・文化 万葉集研究の資料、春日懐紙40枚(元前田家蔵品、うち裏書のあるもの8枚)が金沢市内の故紙店から、上野町大鋸彦太郎により発見された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月1日 社会・文化 吉原町に建てる県立第二工業高校の起工式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月6日 社会・文化 午前4時半ごろ大桑町の農家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月8日 社会・文化 医王山観光協会(会長重山徳好、事務局金沢市味噌蔵町下中丁)が、本日から医王山の金沢市二俣町共有地の一部に立ち入る登山者に対して、入山料(一般100円、子供50円)徴収を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月9日 社会・文化 市ガス水道局は連日の猛暑に水道事情が悪化したので、計画給水を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月10日 社会・文化 卯辰山ヘルスセンター横に工事中の金沢水族館(経営者松本由)が開館した。鉄筋3階建、面積2,310平方メートル、魚類250種。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月12日 社会・文化 市は、さきに姉妹都市の縁を結んだバッファロー市(ニューヨーク州)との経済文化交流を促進するため、金沢・バッファロー都市提携委員会を設置、発会式をあげた。委員は市民各層からの24人、会長は田中市議会議長、会長代理は江川市助役と北陸日米文化協会副会長真柄要助。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月15日 社会・文化 政府主催の第1回全国戦没者追悼式が天皇皇后を迎えて日比谷公会堂で挙行された。石川県から遺族代表団17人が参列した。中西知事は県民に談話を発表、金沢市内の官庁は半旗をかかげ、正午には官庁学校はサイレンを鳴らし黙とうがおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月17日 社会・文化 土取場永町に改築された石引町公民館の落成式がおこなわれた。木造2階建、520平方メートル、総工費800万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月20日 社会・文化 小坂南町の実践第二高校が星稜高校と改称した。(40年4月1日稲置星稜学園と改称) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月21日 社会・文化 窪町に建てる県立金沢錦丘高校の起工式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月27日 社会・文化 東京オリンピック石川県対策会議(会長中西知事)は、石川県出身のオリンピック候補選手16人と県が選んだ強化対象選手7人をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月30日 社会・文化 石川全労会議(約2万人)が解散し、新国労金沢地方労組と全日本海員組合を加えて石川県全労働総同盟組合会議(略称石川県同盟会議)を結成した。加盟組合は産業別7組合2万3,230人、議長曽我嘉三。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 8月31日 社会・文化 県公安委員会は本日から県下の交通規制を一部改正、片町の日本勧業証券支店前から林屋茶舗前までの83メートルを、歩行者の横断禁止区間とした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 9月15日 社会・文化 兼六園金沢神社放生池前に建った仏教学者田中智学の「兼六碑除幕式」がおこなわれた。智学は大正13年来沢して兼六園賛美の講演会を開き、兼六園を精神的にみつめ直し「仁、孝、和、知、文、大」を兼ねると兼六園の美しさを解釈した。建立者は林屋亀次郎、鳥畠徳次郎、田谷前知事ら在京県人も含めて約20人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 9月23日 社会・文化 午前10時40分ごろ西念町の民家から出火、3戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 9月26日 社会・文化 午前9時33分ごろ十一屋町12番の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月4日 社会・文化 金沢青年会議所は、本日から金沢市観光会館で開かれる日本青年会議所第12回全国会員大会を記念して、同会館前に、時計塔(高さ8メートル、総経費180万円)を建設し市に寄付した。(同会館の建設基金第1号寄付者は金沢青年会議所であった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月8日 社会・文化 午前0時2分ごろ西念町の辻染色会社工場から出火、工場3むね、食堂など1むね(約600平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月12日 社会・文化 金沢一中・泉丘高校創立70周年記念式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月15日 社会・文化 窪町にできた初の県営有料老人ホーム「百々鶴園」が開所した。総工費4,380万円、コンクリート・ブロック建て、延べ1,420平方メートルの3むね。収容人員70人、夫婦室(8畳)15室、独身室(4畳半)40室。1ヵ月独身8,000円、夫婦1万5,000円で65歳以上の県民ならだれでも入所できる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月20日 社会・文化 鈴見山の金沢国際カントリークラブが9ホール完成、仮開場をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10月27日 社会・文化 北国新聞社長嵯峨喬死去。38歳。県美術文化協会会長、県水泳協会会長、金沢能楽会会長などをつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 10.- 社会・文化 県政90周年事業として県が施行した犀川右岸の緑地帯が完成した。犀川ぞい約400メートルに、幅6メートルから3メートルの遊歩道路を150万円でつくったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月3日 社会・文化 第17回(昭和38年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。田村きわ(私立木ノ花幼稚園長━明治43年以来幼児教育に献身)中田周三(県水泳協会役員━水泳飛込みの指導を通じ、後進の育成と郷土スポーツの振興に寄与)氷見晃堂(木工芸家━郷土美術工芸の振興につくした)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月3日 社会・文化 出羽町金沢女子短期大学の校舎落成記念パーティーが開かれた。新校舎の本館(4階建)は37年3月落成、別館(5階建)はさる9月末に完工、本別館あわせて約5,700平方メートル、総工費約2億1,500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月15日 社会・文化 昨年7月焼失した金沢東別院の仮本堂(約500平方メートル)と付属金沢幼稚園が完成、大谷光暢法主を迎えて落慶法要がおこなわれた。仮本堂等の完成は本年度から5ヵ年計画4億円をかける同別院全体の復興計画の一部をなすもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月15日 社会・文化 小立野小学校の落成式がおこなわれた。28年1月に天徳院墓地跡を敷地として着工、本年8月最後の屋内体育館が完成した。総工費2億384万円、校舎は鉄筋3階建、普通教室44特別教室7など。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月21日 社会・文化 橋場町の枯木橋詰めに、石川県里程元標(高さ約3メートル)が復元した。さる36年7月に付近の建設工事中こわされてなくなってしまい、市民から残念がられていたが、道路管理者の建設省石川国道工事事務所の手で元のままの姿に再建されたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月25日 社会・文化 午前9時ごろ川岸町の縫製工場から出火、工場1むね(132平方メートル)を全焼、隣接の住家を一部焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月27日 社会・文化 北国新聞社社長に宮下与吉(前会長)、取締役会長に嵯峨逸平(前監査役)が就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 11月28日 社会・文化 旧安原・二塚両小学校の統合校舎として、北塚町、豊穂町、上安原町の境界線に建築した緑小学校の落成式がおこなわれた。敷地4,770平方メートル、校舎は鉄筋3階建17教室、延べ3,100平方メートル、総工費7,800万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月3日 社会・文化 市教育委員会、市社会福祉協議会主催の初の老人学級「高砂大学校」が、市公民館で開設された。明年3月17日まで毎月2回開講する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月3日 社会・文化 午前10時45分ごろ木ノ新保4番丁大友楼金沢駅前弁当部から出火、木造2階建(198平方メートル)を全焼、隣接の旅館の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月17日 社会・文化 午前5時15分ごろ小坂町中の倉庫業西野商事の倉庫(モルタル塗り)から出火倉庫2むね(約200平方メートル)を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月19日 社会・文化 県は下本多町の県営アパートを含む県有地3,300平方メートルに、来春から3年計画で社会教育センターを建設することになり、本年度建設費6,500万円を追加予算に計上、県議会の議決を得た。建物は5,490平方メートルの4階建、兼六園の県中央図書館もセンターに収容する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十八年(1963) 12月27日 社会・文化 午前4時20分ごろ七曲町の農家から出火、1戸と納屋を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 1月21日 政治・経済 市は金沢市長期15ヵ年計画(昭和39年度━53年度)の試案を発表した。この長期計画は、徳田市長が新金沢港の建設を中心にする工業開発を機に、市勢の飛躍的発展を考え、それを長期にわたって見直し、市の未来像を明らかにしようと就任以来検討を続けていたもの。計画では市将来の都市像を性格的には「文化産業都市」機能的には「北陸地方における行政文化経済の中心都市」とし、昭和53年度末の人口40万人、市内工業生産額3,045億円を目標にしている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 1月23日 政治・経済 金沢市国民健康保険運営協議会は「4月1日からの市内国保保険料35%引上げはやむを得ない」と徳田市長に答申した。市内の国保被保険者数は12万670人、加入世帯数3万3,429世帯(38年12月1日現在)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 1月24日 政治・経済 東京で開いた北陸地方開発審議会(会長金井久兵衛)は、政府諮問の北陸地方開発促進計画案を原案通り承認、近く池田首相に答申する。計画案は経済企画庁が全国総合開発計画の一環として策定したもので、とくに開発の基本となる都市および産業の配置については、金沢市を中規模地方開発都市とし、行政、文化、教育、流通など北陸地方開発の主導的役割りをもたせている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 1月27日 政治・経済 金沢市と周辺の野々市町、松任町、鶴来町、津幡町、内灘町6市町の広域行政懇談会が開かれ、徳田市長から、金沢市の長期計画推進のために周辺5町の協力を要請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 1月28日 政治・経済 近く閣議決定される金沢市の中規模開発都市指定をひかえて、市議会内に広域行政調査委員会が設置された。委員長徳田保久、副委員長島村隆、委員8人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 1月31日 政治・経済 国有財産北陸地方審議会(会長直山与二)は、金沢美大の敷地と校舎を5年年賦で金沢市へ払下げることを、北陸財務局長に答申した。評価は3億2,000万円であるが、審議会の答申は、国有財産特別措置法で教育施設として約半額に減額されることを前提としている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 2月9日 政治・経済 民社党石川県連は定期大会で、昨年末吉田秀雄会長辞任以来、空席の役員陣は3役を空席とし、5人(東木作次、曽我嘉三、浅野仁吉、林武夫、中田忠二)の最高指導部で集団指導制をとることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 2月15日 政治・経済 金沢港の用地買収や工業用地造成などにあたる、社団法人金沢港開発公社の設立総会が開かれた。理事長は中西知事、理事は徳田市長、県、市議会議長、商工会議所会頭ら9人。出資金は県600万円、金沢市400万円で、4月から業務を開始する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 2月25日 政治・経済 政府は閣議で、さきに北陸地方開発審議会が答申した北陸地方開発促進計画を他の東北、中国、九州3地方の開発促進計画とともに正式決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 2月26日 政治・経済 北陸農政局は河北潟干拓に伴う河北潟沿岸漁業組合連合会(9漁協)に対する漁業補償3億2,940万円のうち、約90%にあたる2億9,500万円を4月中に払うと発表した。補償権利者は1,831人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月6日 政治・経済 金沢港建設に伴う沿岸13漁業協同組合に対する県の補償交渉は、総額1,195万円で妥結、調印した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月8日 政治・経済 社会党石川県本部は定期大会で、新委員長に増江幸二(金沢市議)を選出した。書記長は清水保治を再選。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月23日 政治・経済 市の39年度当初予算案が市議会で可決された。一般会計48億8,312万7,000円、9特別会計と3公営企業会計の合計は52億9,805万8,000円、総額101億8,118万5,000円で、初めて当初予算が100億円を越えた。予算には長期15ヵ年計画の第1年次事業が盛りこまれている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月23日 政治・経済 市議会で可決された明年度予算のうち、最大の事業は犀川総合開発事業費(特別会計)の16億3,121万6,000円で、明年度内にダム建設は71.5%、発電所建設は59%を完了する。また市中央卸売市場建設費(特別会計)は3億1,1450万4,000円で、年度内に建物の外観をほぼ完成する。金沢港建設の市負担金は2,000万円(一般会計)計上された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月23日 政治・経済 4月から市議会議員報酬の1万円引上げが市議会で可決された。引上げによる新報酬月額は議長8万5,000円、副議長7万,5000円、議員6万5,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月23日 政治・経済 政府は次官会議で港湾法施行令の一部を改正、金沢港など7港を国の重要港湾に追加指定することをきめた。金沢港の新年度配分事業費は1億3,000万円(うち国費6,650万円)で、県側負担金のうち県費3,000万円、金沢市費2,000万円はすでに県市議会で議決されている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月1日 政治・経済 小立野台地、旧金沢城周辺を中心にした住居表示改正が実施され、136町が25町に統合された。市の住居表示改正はこれが2回目。新しい25町名は丸の内、兼六町、小立野1-5丁目、石引町1-4丁目、笠舞1-3丁目、本多町1-3丁目、出羽町、宝町、城南1-2丁目、菊川1-2丁目、幸町、清川町。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月1日 政治・経済 旧森本町の市瀬町の一部を分離して水元町が設けられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月1日 政治・経済 市の人事異動で市消防長に松崎順一(広坂署長兼務)が就任、副収入役村田重行が退職した。(副収入役は会計課長の兼任となる) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月1日 政治・経済 市の東力町し尿処理場が「伏見川衛生処理場」に、東力ごみ焼却場が「伏見川焼却場」に、鳴和および金石ごみ焼却場がそれぞれ「鳴和焼却場」「金石焼却場」と改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月4日 政治・経済 金沢駅前-武蔵ヶ辻間近代化促進同盟会長林屋参議院議員は、徳田市長と共に中西知事をたずね、「今国会で成立した道路整備緊急措置法の改正で、都市改造事業費の補助率が2分の1から3分の2に引上げられたので、この際40年度着工をメドに駅前-武蔵ヶ辻間の直線道路建設を促進するよう」申入れた。これに対し知事、市長とも協力を約した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月20日 政治・経済 協同組合金沢木工センター(28業者加盟)が金沢港周辺に計画中の工場集団化事業が、中小企業庁から39年度新規助成事業に指定された。これは37年度の城西機器工場団地(間明町)38年度の金沢問屋センター(割出町)についで3番目の指定。木工センターの予定地は粟崎町の都計道路に沿う市有地16万5,000平方メートル、事業費は5億5,700万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月20日 政治・経済 石川県住宅公社が建設する額団地(金沢市額新保町)の起工式がおこなわれた。85万平方メートルの敷地に、6年間に3,450戸の住宅団地を造成するもの。総建設費約60億円、下水道、都計道路、公園、幼稚園などの公共施設も完備させる。今年度分は県営住宅88戸、市営住宅178戸、建売り住宅が県65戸、市81戸など。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月23日 政治・経済 河野建設相は中西知事、徳田市長らの上京陳情に対し「金沢─小松間のバイパスを39年度に着工する」と確約した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月25日 政治・経済 (第1回戦没者叙勲発表。石川県は181人。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月26日 政治・経済 金沢市内の電話の局番が2ケタになった。局番は21、31、41、52(新設局)、61、62(新設局)。(市内の電話数は現在2万8,281台であるが、局番の2ケタ化により35万台までふやせる) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月30日 政治・経済 徳田市長は中国人民外交学会の招待により、北村徳太郎(日ソ協会副会長)を団長とする中日友好使節団員として、中国訪問旅行に小松空港を出発した。(5月28日金沢に帰着) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月1日 政治・経済 金沢市は本日から「自動車の保管場所確保等に関する法律」の適用都市となり車庫がなければオート三輪以上の車は購入できなくなった。(同法第5条の青空駐車の禁止は8月1日から施行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月26日 政治・経済 北陸自動車道建設促進同盟会(会長中西石川県知事)総会が東京で開かれ、同自動車道の建設基本計画の樹立と早期着工を強く要望するとの決議をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月26日 政治・経済 北陸自動車道を予定路線に繰入れる「国土開発縦貫自動車道建設法一部改正法案」が、衆議院を通過した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月10日 政治・経済 共同組合金沢問屋センター(理事長山田藤太郎)の起工式が割出地内の建設用地でおこなわれた。割出町、直江町、三口町、諸江下丁の4町にまたがる水田23万平方メートルを埋め立てて建設し、各種問屋120店がはいる。総事業費31億円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月15日 政治・経済 金沢商工会議所の欠員中の副会頭(定数3人)に武田利作が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月15日 政治・経済 日本不動産銀行金沢支店が、金沢駅前金沢ビル2階に開店した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月25日 政治・経済 (富山県と中京地区を結ぶ東海北陸自動車道建設法案=議員提出=が衆参両院を通過、成立した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月2日 政治・経済 (県議会副議長矢田富雄が辞任、後任副議長に吉島四郎平=自民=が選出された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月4日 政治・経済 金沢市営上寺津発電所の定礎式が、徳田市長ら30余人が参列しておこなわれた。同発電所は犀川総合開発事業の一つとして、市が総工費19億6,000万円で着工するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月21日 政治・経済 政府派遣の北陸地方災害現地調査団の小山建設相らが来県、金沢市内の水害地を視察した。徳田市長は、金沢市の災害普復旧に対する陳情書を調査団に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月23日 政治・経済 市は7.8集中豪雨による災害復旧関係の一般会計補正予算案2,274万4,000円を市議会に提出、議決を得た。この中には、一部流失し使用不能になった犀川の下菊橋を永久橋にするための調査設計費80万円も含まれている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月23日 政治・経済 市議会副議長酒尾孝之が辞任、後任副議長に徳田保久(自民)が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月26日 政治・経済 金沢地方裁判所、簡易裁判所、名古屋高等裁判所金沢支部は、今秋から庁舎新築のため近く取りこわしになるので、その間の仮庁舎となる広坂通の旧金大理学部へ引越しを完了、執務をはじめた。取りこわされる兼六町の赤れんが庁舎は明治42年の建築。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月27日 政治・経済 県は7月豪雨による緊急災害復旧対策の知事専決補正予算を、2億9,790万円と発表した。このうち土木復旧費は浅野川の仮締めきり、道路復旧など1億6,700万円となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月1日 政治・経済 金沢市に本日から「自動車の保管場所確保等に関する法律」第5条が適用され道路を車庫がわりにしている青空駐車の禁止区域が指定された。禁止区域は市の中心部で、浅野川中島大橋ー金沢駅(東大通り)-犀川御影橋(二万堂線)-犀川右岸ー桜橋ー新竪町小学校前ー金沢中署ー北鉄車庫前ー味噌蔵町通りー浅野川大橋ー同左岸を経て中島大橋に至る線内。また本日から実施するこの区域内の全面駐車禁止個所は、片町ー新竪町ー竪町通り(1,510メートル)仙石町(300メートル)宮守堀通り(150メートル)市役所横通り(150メートル)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月1日 政治・経済 県は旧金大理学部グラウンドの合同庁舎横に県営有料駐車場を設置、本日から開業した。広さ3,300平方メートル、120台収容、工費800万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月1日 政治・経済 市が東力町の伏見川衛生処理場に37年度から2億9,000万円をかけて建設中の第2し尿処理場が完成、操業を開始した。1日の処理能力200キロリットル(20万人分)同所にある既設の第1処理場の1日135キロリットル(13万5,000人分)をあわせると、全市のし尿が処理可能となる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月17日 政治・経済 国営河北潟干拓事業の起工式が、津幡町津幡中学校で赤城農相ら約600を迎えて挙行された。総事業費65億6,300万円、9ヵ年計画(38━46年度)現在湖面2,248ヘクタールの約3分の2の1,416ヘクタールを干拓し、1,211ヘクタールの新農地を造成、沿岸の低湿田2,604ヘクタールの排水を改良する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月19日 政治・経済 自民党金沢支部大会で支部長に浅田勝二(新)副支部長に今井源三(再)酒尾孝之(新)来馬与吉(新)幹事長に田中富士夫(再)が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月20日 政治・経済 金沢駅前の北鉄バス発着ホームが完成、本日から3番ホームを除き使用を開始した。(25日から全面使用) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月3日 政治・経済 金沢港造成にともない、畝田町に移転新築した金沢木材共同組合市場の完成式がおこなわれた。用地は約6,000平方メートルで旧市場(増泉町)の2倍半。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月21日 政治・経済 (国鉄能登線の最終工事区間松波━蛸島間14.5キロが営業運転を開始、これで穴水━蛸島間61.1キロが全通した。総工費45億1,000万円を投じ、28年12月着工以来11年ぶりである。開通式と祝賀式が松浦運輸相を迎えて珠洲市で挙行された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月22日 政治・経済 (中西知事は、県土木部汚職事件に関連して監督上の責任をとるため、本間土木部長以下監理課長、同課長補佐、金沢土木事務所長の4人を減給の懲戒処分にし、知事自身も9月分の給与の一部を返上、自戒の意を表した。事件で土木部内の逮捕者は8人、うち1人起訴ずみ。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月26日 政治・経済 (県議会議長杉原杉善が辞任、後任議長に森田良=自民=が選出された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月26日 政治・経済 県教育委員吉田他吉、杉原亀十郎、池田寛一の任期満了に伴う新県教育委員に松尾宝作(金沢市、医師)浅倉敏介(小松市)三井三次(七尾市)が県議会の同意を得て決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月29日 政治・経済 市は7月水害の災害復旧関係費4億8,603万4,000円を一般会計補正予算に計上、市議会の議決を得た。内訳は土木関係1億9,637万4,000円、農林関係2億6,391万5,000円、病虫害防除の薬剤購入、災害救助、水防費などに1,737万4,000円、学校、保育所の復旧、清掃費などに844万1,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月29日 政治・経済 金沢市特別職報酬等審議会条例案が市議会で可決された。市長、助役、収入役の3役と市議会議員の給与、報酬の引上げに際し、あらかじめ審議会の意見を聞くもの。審議会委員は給与、報酬の引上げ問題がおきるつど、市長が任命し目的が終れば解任する。委員は10人以内。(県特別職報酬等審議会も設置された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月29日 政治・経済 市議会は、金沢大学法文学部および工学部の大学院設置等に関する意見書(玉作小一郎ら7議員提出)を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月29日 政治・経済 市教育委員吉藤雅子の任期満了に伴う新教育委員に、八田つる子が市議会の同意を得て決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月1日 政治・経済 北陸線金沢━富山間が電化開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月11日 政治・経済 民社党石川県連は臨時大会を開き、これまでの集団指導制を廃して会長に浅野仁吉、副会長に曽我嘉三、林武夫、書記長に東木作次を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月27日 政治・経済 日本銀行金沢支店長高松俊夫が本店国債局長に転じ、後任に本店考査役高橋三郎が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月4日 政治・経済 金沢市中央卸売市場開設審議会の初会合が開かれた。委員数22、会長吉田次作、副会長池田外作。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月10日 政治・経済 卯辰山記念道の天神橋詰めから山頂まで延長1,751メートルの舗装が完成した。36年から市が公共事業として、国の補助を受けて約2,190万円を投じ施行したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月12日 政治・経済 (小松基地にF104ジェット戦闘機が配置された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月18日 政治・経済 金沢駅前━武蔵ヶ辻近代化促進同盟会の代表12人は、県および金沢市に対し「地元負担金約35億円は原則的に了解したので、来年度から駅前━武蔵ヶ辻直線道路建設費を予算化するよう」陳情した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月25日 政治・経済 県金沢職業訓練所が観音堂町に完成、本多町の旧庁舎から移転した。敷地7,969平方メートル、鉄筋2階建の本館と訓練とう3、工費6,356万余円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月27日 政治・経済 (県は昭和35年に運輸省へ申請した県営バス路線の許可申請を取りさげることに決定、県議会交通問題特別対策委員会の承認を得た。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月1日 政治・経済 北陸と山陰を結ぶ初の直通急行「あさしお」の運転が開始された。金沢━出雲市間。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月4日 政治・経済 国有財産北陸地方審議会は、金大理学部跡地の一部と小将町兼六中学校跡地の土地交換を決定した。文部省は県庁に隣接した理学部跡地の一部約6,000平方メートルを石川県へ譲り(県は付属庁舎を建てる)、そのかわりに兼六中学跡地の約9,500平方メートルと、地価の差額4,300万円を県から受取るもの。金大は兼六中学校跡にプール、テニスコート等の施設と養護学校校舎をつくる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月10日 政治・経済 市は市民に直接関係ある民生、戸籍、福祉などの窓口を1ヵ所に集めるため窓口センターを建設することになり、市役所中庭の敷地で起工式をあげた。総工費約1億5,000万円(うち建物は9,650万円)地下1階地上4階、延べ4,183.20平方メートル、明年9月末完成の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月10日 政治・経済 電電公社北陸電通局の新局舎起工式が建設地の出羽町1番丁(金沢美大横)でおこなわれた。地上6階、延べ1万4,000平方メートル、総工費7億円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月20日 政治・経済 社会党石川県本部は定期大会で、委員長に増江幸二を再選、副委員長に清水保治(新)書記長に谷田信次(新)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月25日 政治・経済 富山-大阪間の特急電車「雷鳥」と、富山-名古屋間の同「しらさぎ」が運転を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月28日 政治・経済 閣議決定の明年度政府予算案で、犀川ダム建設事業費2億3,200万円、河北潟干拓事業費9億円、北陸自動車道の実施調査費3,000万円および事業費が5自動車道で合計20億円計上された。また東海・北陸自動車道(一宮市-砺波市)も調査費1,000万円が計上された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 1月19日 社会・文化 金沢地方は12月27日以来22日ぶりに降雪(約3センチ)、1月に18日まで降雪がなかったのは、金沢測侯所開設以来の新記録。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 1月28日 社会・文化 午後1時10分ごろ三浦町の民家から出火、4戸を全焼、2戸の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 2月1日 社会・文化 午後7時35分ごろ長田本町の燃料販売店事務所から出火、同事務所を全焼、隣接の民家1戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 2月9日 社会・文化 午前8時50分ごろ上野本町金沢大学工学部化学工学科の実験室から出火、同科と電気工学科の実験室7、研究室、教授室、資材室各1からなる木造平屋建ての校舎1むね(726平方メートル)を全焼、他の2むねの屋根裏の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 2月18日 社会・文化 釡師宮崎寒雉(彦九郎)死去。85歳。金沢生れ、大正4年12代寒雉を襲名、「寒雉ガマ」として茶道界に高く評価され、昭和34年金沢市文化賞受賞。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 2月21日 社会・文化 市は金沢市文化賞受賞者(市文化功労者)が死亡した場合、「あなたの功労をたたえ、名鑑に記載して、ながく保存する」と書いた景仰の証を贈ることをきめた。(4月1日市内の物故文化功労者11人の遺族に贈った) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月1日 社会・文化 北陸鉄道労組は安全輸送への施設改善の交渉がもつれ、始発から全線12時間ストにはいったが、午前7時30分妥結、ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月3日 社会・文化 片町の金劇ビルが1階北鉄ガイドセンターを含む全館完成、開館した。(劇場は1月3日開館ずみ) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月5日 社会・文化 午後1時48分ごろ上笠舞町の雑貨店から出火、同店と納屋を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月7日 社会・文化 午後10時40分ごろ上有松町の民家から出火、2階建1戸(118平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月9日 社会・文化 午前8時半ごろ下近江町繊維品卸売商蝶屋商店から出火、同店(190平方メートル)を全焼、隣接商店の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月19日 社会・文化 国立金沢病院長種村竜夫死去。62歳。昭和24年から同病院長として病院の改築、近代化を実現した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月21日 社会・文化 県計画課は兼六園曲水を豊かな清流にするため、園内山崎山裏に電気揚水ポンプをつくることにし、予算391万円が県議会の議決を得た。ポンプは直径12インチのパイプを地下約180メートル打ち込み、1日1,700トン揚水するもの。現在兼六園の用水は、辰巳用水を上野本町から天徳院横まで地下導入し(昭和36年8月完工)さらに電車通り下を暗きょで兼六園へ1日3,500トン引いている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月24日 社会・文化 金沢・バッファロー都市提携委員会は、金沢のシンボル「兼六園のことじ灯ろう」の複製とバッファロー(野牛)像の複製の交換などの事業計画をきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月24日 社会・文化 県下で初めてのボーリング場(金沢ボーリング・センター)が長町川岸日本硬質陶器跡に開業した。2,000平方メートル、20レーン、社長三谷進三。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月27日 社会・文化 全国一律最低賃金制法制化要求全国統一ストライキで-に呼応して、県下で全国金属を中心に私鉄(北鉄は午前6時までの時限スト)印刷、通運など約40労組7,000人が時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 3月31日 社会・文化 金沢美術工芸大学学長森田亀之助(81歳)が、高齢と健康上の理由で辞任した。昭和21年同大学の前身金沢美術工芸専門学校の初代校長に就任以来、校長学長として大学の発展に尽した。(後任決定まで江戸川助役が学長事務所取扱いとなった。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月1日 社会・文化 金沢市公園条例が施行された。条例が適応されるのは都市公園法に基づき市が設置した卯辰山、本多町、平和町、外濠の各公園、総合運動場、馬場、天神町、中村町、笠舞、御影、石引、すみれの各児童公園で、今後は公園内での行商、募金、出店、興業、写真撮影業などは市長の許可が必要になり、また広告、車馬の乗り入れなども禁止される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月1日 社会・文化 金沢市立病院に歯科が新設された。(12科となる) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月1日 社会・文化 県立第二工業高校(仮校舎旧兼六中学校)が県立金沢松陵工業高校と改称された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月7日 社会・文化 (石川郡白峰村で大火、全焼23むね、半焼4むね。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月7日 社会・文化 企業閉鎖をめぐり、昨年6月20日から長期争議を続けていた高岡町東京屋被服会社(社長高田庄平)と同労組は、企業再開の話合いがまとまり、10カ月ぶりに争議が解決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月12日 社会・文化 広瀬豊作東京で死去。72歳。金沢市田丸町出身、大蔵省主計局長、次官を歴任後、昭和20年鈴木内閣の大蔵大臣をつとめ、また長く前田育徳会理事長をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月22日 社会・文化 県健民運動推進協議会の設立総会が、県婦人会館で県内の各種92団体代表が参加して開かれた。会長中西知事、副会長徳田金沢市長、森県町村会長、寺西県出納長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月30日 社会・文化 旧城内に建設中の金沢大学理学部、一般教養部の合同校舎、付属実験室、小体育館が完成し完工式があげられた。総工費7億5,000万円。これで域内の整備は既成の法文学部(鉄筋4階建)とあわせて計画の60%が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 4月30日 社会・文化 北陸鉄道労組は人員増120人要求の団体交渉が決裂、始発から午前10時までの時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデ―は約3万人(メーデー実行委調べ)が参加して小雨模様の中でおこなわれ、兼六園の大会場から2コースにわかれて市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月6日 社会・文化 室生犀星文学碑が中川除町の犀川べりに完工、除幕式がおこなわれた。設計は谷口吉郎、あんずの詩を刻んだ陶板制作は北出塔次郎。建設は同文学碑建設委員会。詩は「あんずよ花着け 地ぞ早やに輝け あんずよ花着け あんずよ燃えよ」。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月7日 社会・文化 午後4時59分ごろ東北地方全域にかなり強い地震があり、金沢地方気象台は震度1を記録。震源地は男鹿半島の西北西約120キロの海底で、金沢地方気象台は午後5時半に津波情報第1報を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月12日 社会・文化 午前8時ごろ粟崎町粟崎海水浴場の浜茶屋(無人)から出火、1むね(約200平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月23日 社会・文化 午後7時5分ごろ丸越百貨店裏側の袋町の紙店倉庫と飲食店境界付近から出火。紙店倉庫(木造約130平方メートル)と飲食店(約200平方メートル)隣接のクツ店(約180平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月24日 社会・文化 北陸鉄道労組は増員要求で会社側と交渉決裂、始発から全線ストにはいったが会社側の「誠意をもって交渉に応じる」との回答に午後2時50分ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月26日 社会・文化 午前4時20分ごろ長町1番丁アパート長一荘から出火、木造2階建、延べ369平方メートルの同アパートを3分の2焼いた。被災世帯は12世帯。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 5月29日 社会・文化 泉野町2丁目にできた金沢大学新白梅寮(女子寮)の完成式がおこなわれた。工費7,300万円(国費)、鉄筋4階建、82室、収容人員164人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月4日 社会・文化 岡島友作死去。70歳。市選出県議会議員、県青果市場会社会長。昭和7年以来金沢市議に5回、県議6回当選、県議会議長、自民党金沢支部長もつとめ、地方自治功労者として昭和33年藍綬褒章を受けた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月9日 社会・文化 本多町に建つ石川県社会教育センターの起工式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月9日 社会・文化 市議会議員岩本義男死去。56歳。自民党所属、昭和26年以来市議を連続4期つとめ、34年から2年間副議長をした。昭和38年に民生委員20年以上勤続者として県から表彰された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月13日 社会・文化 金沢刑務所と金沢少年鑑別所に集団赤痢発生、真性110人。(15日患者総数215人に達した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月16日 社会・文化 午後1時2分新潟県を中心に激震。金沢は震度2の軽震、最大振幅20ミリの水平動。能登地方は震度3~4の中震で、午後2時すぎから4時ごろにかけ1メートルから2.5メートルの津波のため、穴水湾を主に穴水町、中島町、能都町、七尾市などに135戸の浸水家屋を出した。北陸線は泊以北が不通となった。気象庁は同日「新潟地震」と命名した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月17日 社会・文化 金沢市は新潟地震見舞いのため、ガス水道の技術者を含む16人の慰問隊を新潟市へ派遣した。第1陣は市長代理の岡本企画室長、松多民生部長と市議会代表の神田総務委員長ら4人で、見舞金を持ち午前ジープで出発。第2陣は上田ガス水道局技術次長ら技術者10人で、復旧資材を積んで午後出発、現地で新潟県災害対策本部の指揮下にはいり、1週間復旧奉仕する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月17日 社会・文化 午前0時5分ごろ東蚊爪町湖南学院の炊事場付近から出火、講堂、食堂、教室浴室などの1むね(木造平屋建340平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月18日 社会・文化 憲法を守る会石川県本部の結成大会が県労働会館に約200人が集って開かれ、代表委員に伊藤武雄ら5人を選んだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 6月20日 社会・文化 金沢市青年団協議会は、新潟で救援の奉仕作業をするため、役員ら7人を派遣した。(22日帰沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月9日 社会・文化 8日未明から金沢、津幡を中心に県南にかけ集中豪雨襲来、9日午後3時までの金沢の雨量は228ミリに達し、1回の雨量では金沢測候所開設以来の新記録をつくった。犀川の下菊橋は8日夕刻流失、市内の被害は浸水家屋86町で2,715戸(うち床上342戸)堤防決壊49ヵ所、用水路決壊94ヵ所、がけくずれ15ヵ所橋の決壊10橋。市は8日午前、水防本部を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月10日 社会・文化 市は今次水害による土木関係被害を1億3,738万9,000円、農林関係被害を2億444万5,000円、計3億4,183万4,000円と発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月15日 社会・文化 魚住安太郎金沢市立病院で死去。77歳。ドラの作家として昭和27年金沢市文化賞を受け、30年重要無形文化財技術保持者に認定された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月16日 社会・文化 (石川、富山県境に近い富山県氷見市胡桃地区で大地すべり発生、70余戸埋没。金沢から自衛隊が出動。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月18日 社会・文化 17日深夜から加賀と能登南部を中心にまた集中豪雨襲来、金沢地方気象台は午前6時10分大雨洪水警報を発令。17日午後9時から18日午後2時までの金沢の雨量は254ミリで、7月8日の記録を越した。市災害対策本部は午前、がけくずれの危険がある12町の約200戸に付近の小学校へ避難命令を出した。市内の被害は死者3人、床上浸水1,059戸、床下浸水4,524戸、がけくずれ249ヵ所、堤防決壊13ヵ所、道路決壊81ヵ所、道路流失9地区2,800メートル、家屋全壊24戸、同半壊24戸、小学校全壊1(旧森本町の竹又町竹又小学校が、山の土砂くずれで校舎倒壊、町民1人死亡、児童12人を含む16人負傷)、橋流失16、水田流埋没21.8ヘクタールなど。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月18日 社会・文化 県は午後10時半、徳田市長の要請にもとづき金沢市49校下のうちとくに被害の大きかった森本、川北、小坂、森山町、潟津、諸江町、浅野町、馬場、材木町、味噌蔵町、崎浦、浅川、押野、三馬、新竪町の15校下の2万4,603世帯(10万8,701人)に災害救助法を適用した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月19日 社会・文化 市は7.8水害と7.18水害のすみやかな復旧をはかるため、徳田市長を本部長とする「39.7災害復旧対策本部」を開設した。市災害対策本部は解散。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月20日 社会・文化 市が20日現在でまとめた農林関係被害は総額11億4,014万8,000円となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 7月24日 社会・文化 大谷派金沢東別院本堂と同朋会館再建のクワ入れ式が、焼失2周年の本日おこなわれた。本堂は地上2階、地下1階の「十九間四面堂」、同朋会館は地上3階地下1階でいずれも鉄筋コンクリート建て。総工費約4億円、4ヵ年で建設する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月8日 社会・文化 県健民運動推進協議会、県ユース・ホステル協会主催の第1回歩こう会が、午前5時半県庁前集合でおこなわれた。参加者約250人、コースは旧城周辺の約2キロ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月12日 社会・文化 卯辰山の金沢ヘルスセンターと金沢水族館の間(92メートル)にロープウエーが建設され、開通式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月18日 社会・文化 奥医王山頂(標高997メートル)に医王山大権現をまつる医王山赤坂平医王山寺の「奥の宮」が建てられ、完成式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月23日 社会・文化 昭和通り(長土塀1番丁)の名物「一本松」が市の手で伐採、取り除かれた。この一本松は、加賀藩士田丸家の屋敷にあった樹齢数百年の老松で、交通の邪魔になるので市道路課、地元保存会、警察3者の話合いで切り倒しにきまったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月26日 社会・文化 武蔵振興会が寄贈した武蔵ヶ辻の噴水池完成式がおこなわれた。池の直径6.5メートル、噴水口は10本、工費約50万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 8月28日 社会・文化 (県は、国立工業高等専門学校の石川県設立を文部省に申請することになり、40年度を目標に中央へ誘致運動を開始した。一方、県内の津幡町、七尾市、内灘町、小松市など各地からはすでに設置場所について、県へ誘致運動が進められている。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月1日 社会・文化 旧兼六中学校を仮校舎にしていた県立金沢松陵工業高校は、吉原町の新校舎に移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月6日 社会・文化 午前4時10分ごろ象眼町の間貸し業者宅から出火、3戸(5むね)と事務所1むねを全焼した。被災は8世帯31人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月7日 社会・文化 兼六園に流れ込む辰巳用水の水量不足の対策として、7月から兼六園山崎山裏で掘さく中の井戸(地下180メートル)が完成、揚水ポンプの通水式がおこなわれた。1日の揚水能力2,880トン、今後は辰巳用水からの水とあわせて適量を曲水に流す。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月7日 社会・文化 泉鏡花顕彰句碑が鏡花出生地(下新町23番地)前の久保市乙剣神社境内に、泉鏡花顕彰会の手で建てられ、除幕式がおこなわれた。碑面は鏡花筆跡の「うつくしや鶯あけの明星に」の句と、その下に鏑木清方筆の「泉鏡花出生の地」の文字。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月12日 社会・文化 菊川町小学校の校舎落成式がおこなわれた。昭和33年から5期にわけて施工したもの、鉄筋4階建、延べ約5,500平方メートル、総工費1億480万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月13日 社会・文化 午後9時50分ごろ高柳町協和カーボン会社の工場から出火、工場内部(鉄骨、100平方メートル)を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月26日 社会・文化 香林坊から梅本町に移転した金沢大神宮の新社殿が完成、遷座式典がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 9月30日 社会・文化 オリンピック聖火リレーの聖火が、午前11時35分快晴の牛ノ谷峠で福井県から石川県の第1走者に受けつがれ、午後5時11分、県内リレー第1日目の終着地金沢城跡石川門に到着、県庁知事室で一泊した。市内沿道の人出15万人、石川門前では約5万人の市民にかこまれて盛んな歓迎式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月1日 社会・文化 聖火県内リレー第2日目は、快晴下午前8時35分県庁前を出発、午前11時天田峠で聖火を富山県に引きついだ。県内のリレーは2日間を通じ57区間76.5キロ1区間の走者は正走者と2人の副走者、20人の随走者で、走者合計は1,311人であった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月1日 社会・文化 東京オリンピック日本選手団の結団式がおこなわれた。役員選手410人のうち石川県出身者は次の13人である。選手団長=大島鎌吉(金沢市出身)陸上・競歩=斎藤和夫(倉庫精練、津幡町出身)水泳・競泳=山中毅(大洋漁業、輪島市出身)飛込み=金戸俊介(リッカー、金沢市出身)山野外嗣夫(北陸軽金属、金沢市出身)大崎恵子(日体大、金沢市出身)体操=辻󠄀宏子(藤花高教諭、金沢市出身)自転車=辻󠄀昌憲(中京大1年、金沢市出身)山尾裕(中京大3年、金沢市出身)赤松俊郎(日大出、金沢市出身)缶範男(中京大3年、金沢市出身)ボート=芳野法一(早大3年、内浦町小木出身)カヌー=岩村俊一(自衛隊体育学校、加賀市出身) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月1日 社会・文化 県教育委員長に鈴木紀子が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月1日 社会・文化 金沢美術子芸大学の学長選考規定がきまった。学長の任期は4年、再任の場合は2年と定められ、学内選挙、または信任投票により当選した学長候補者に対する学長任命は、市長がおこなう。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月2日 社会・文化 兼六園内の兼六会館の改装工事が完成した。同会館は加賀藩人持組津田玄蕃正邦の屋敷で、武家屋敷の面影を残すよう県が昨年末から860万円で改装したもの。兼六園事務所が館内にはいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月14日 社会・文化 午後1時5分ごろ額新保町の木綿工業工場から出火、工場1むね(200平方メートル)を全焼、宿直室などを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月14日 社会・文化 金沢市がアメリカのバッファロー市へ姉妹都市提携記念として贈る兼六園ことじ灯の模造品が完成、寄付者の金沢ロータリークラブ、金沢東ロータリークラブから金沢市への贈呈式が石川門下の沈床園でおこなわれた。灯ろうは式後、船便でバッファロー市へ発送された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 10月23日 社会・文化 大和百貨店社長宮太郎は前社長井村徳二の7周忌記念に、井村家と大和の名で金沢市へ100万円を寄付した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月3日 社会・文化 鈴見山金沢国際カントリークラブのインコース9ホールが完成して18ホールとなり、仮開場式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月3日 社会・文化 第18回(昭和39年度)金沢市文化賞贈呈式がおこなわれた。大友佐一(号奎堂郷土史家ー観光と郷土史学界につくし郷土文化の向上に寄与)佐野安彦(能楽師ー加賀宝生の伝統を守り技能の保持につとめること60年)成竹登茂男(染芸作家、日展会員ー染色美術に50年、郷土美術工芸の振興に寄与)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月3日 社会・文化 市は寺町4丁目日蓮宗妙法寺所蔵の円智院妙浄大姉画像(本名不詳)紙本着色1幅を金沢市記念文化財に指定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月4日 社会・文化 市は武家屋敷、門、土べいなど城下町の面影を伝える地区として、地元の同意を得て長町2番丁一帯を保護区域とすることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月9日 社会・文化 (県は国立工専の誘致個所の第一候補地に津幡町をきめた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月12日 社会・文化 石川県平和委員会は午後6時から観光会館前で、約400人が集って原潜佐世保入港に対する抗議集会を開き、閉会後南町までデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月16日 社会・文化 金沢美術工芸大学は明年4月から、産業美術学科内に工芸繊維デザイン専攻コース(15人)を新設することになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月25日 社会・文化 総評系加盟か、同盟系加盟かが10年越しの問題となっていた北陸電力労組(組合人6,000人)は、金沢市で臨時大会を開き同盟移行を正式決定した。この結果、石川県下の同労組員1,600人は県評から県同盟に移行する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月25日 社会・文化 市はオリンピック東京大会開催を記念して、卯辰山運動場にオリンピック記念植樹(マサキの苗木20本)をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月27日 社会・文化 赤痢の集団発生があい次ぐ金沢市内で、また弥生町の弥生小学校に児童15人(ほかに給食調理人1人、家族4人)が赤痢にかかった。ことしになってから本日までの金沢市の赤痢患者は579人、うち寺町台地の発生が約30%を占めている。私立病院の伝染病とう(50床)は72人を収容して満員のため、市内の患者約30人が、松任町石川郡中央病院と津幡町河北郡中央病院に収容されている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月27日 社会・文化 市は徳田市長を本部長とする赤痢防疫対策本部を設置、徹底的な防疫活動にはいった。対策本部は、まず全市民に対し手洗いの励行など予防策の啓発に全力を注ぎ、中央、彦三両保健所での無料検便実施などをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月28日 社会・文化 才田町市立才田保育所で園児9人、家族2人の集団赤痢が発生した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月30日 社会・文化 県は石川県赤痢予防対策協議会(金沢市赤痢防疫対策本部を包含)を厚生部内に設置し、第1回対策協議会を開いた。席上金大医学部重松逸造教授は「金沢市の赤痢発生率は人口1,000人につき現在1.8人で日本一だ」と強調した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 11月30日 社会・文化 弥生小学校の集団赤痢患者は児童22人、家族4人、調理人1人の合計27人となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月1日 社会・文化 小立野4丁目私立天徳院幼稚園に園児14人、家族9人、計23人の集団赤痢が発生、幼稚園は休園した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月1日 社会・文化 午前5時40分ごろ彦三7番丁の電気商会から出火、住宅兼店舗を全焼、隣家を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月2日 社会・文化 金沢市内で赤痢患者がさらに12人発生、ことしになってからの市内発生数は635人となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月4日 社会・文化 田島善次死去。57歳。元石川県公報室長、元県民主戦線協議会事務局長。金沢市栄町生れ、昭和4年反帝事件で四高を退学、昭和21年石川県民主戦線協議会や産業民主連盟を結成し、県下の民主化運動と文化活動に多彩な足跡を残した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月5日 社会・文化 午後8時ごろ堀川間ノ町の民家から出火、6戸建て1むねのうち3世帯の2階90平方メートルを焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月7日 社会・文化 瓢箪町小学校でも集団赤痢が発生、7人が隔離された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月8日 社会・文化 犀川中学校の校舎隣接地に寄宿舎ができ、落成式がおこなわれた。木造2階建約150平方メートル、工費500万円。冬季間62人を収容できる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月12日 社会・文化 兼六園霞ヶ池わきの内橋亭(県有)が、雪と風で倒れたカシの大木の下敷になり、池に突き出している水亭(約15平方メートル)が倒壊した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月14日 社会・文化 午前1時40分ごろ香林坊(高岡町上藪ノ内)映画館松竹座から出火、同館と同一むねの飲食店、喫茶店など4店を全焼した。松竹座は大正7年に第一福助座として発足し、市内の映画館としては最も古い建物。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月14日 社会・文化 午前5時45分ごろ馬場1番丁ホテル「太陽」から出火、木造2階建2むね(200平方メートル)のうち130平方メートルを焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月23日 社会・文化 金沢駅前広場に、金沢兼六ライオンズクラブの手で杜若の能舞い姿の銅像が建てられ、除幕式がおこなわれた。原型は故吉田三郎の制作で矩幸成が完成させたもの。1.43メートルのブロンズ像で、土台は高さ4メートルのみかげ石。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月24日 社会・文化 金沢市観光会館運営委員会は「暴力団またはこれに類する組織のものの関係する興業には、今後いっさい同館を貸さない」ことをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月27日 社会・文化 金沢大学工学部に、大学院工学研究科(2年制修士コース)を明春から設置することが決定した。6学科31講座、定員62人。これで金大には6学部のうち、医学、理学、薬学の3学部についで理工系4学部に大学院が全部設置される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月27日 社会・文化 (文部省が明年4月新設する国立工専は大蔵省予算査定で7校となり、うち1校は石川県津幡町に設置と決定した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和三十九年(1964) 12月28日 社会・文化 日本ユースホステル協会が卯辰山神保ヶ丘に建設中の金沢ユースホステルが完成、開所式がおこなわれた。鉄筋2階建、延べ632平方メートル、総工費2,400万円、収容定員80人。日本ユースホステル協会直営のホステルは北陸3県でこれが最初、日本では9番目。1泊1人2食つき450円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月21日 政治・経済 来日中のILO対日実情調査調停委員会のドライヤー委員長、カーネギー本部職員および政府側広長外務省国連局社会課長、労組側目黒動労副委員長の第1班が20日来沢、21日県庁で「国労北陸地本の脱退者問題をめぐり金鉄局側に不当労働行為があった」という国労、勤労各北陸地本の提訴問題について、労使双方から事情調査をおこなった。労組側証人は福村国労北陸地本委員長、篠塚同前委員長、田平動労北陸地本委員長、当局側証人は伴野金鉄局長、森同局総務部長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月22日 政治・経済 国道8号線金沢ー小松間のバイパスは、建設省で金沢バイパスと正式名称がついた。中西知事は県議会総合開発特別委員会で、40年度から用地買収に着手すると言明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月23日 政治・経済 県管財課長が県議会総務委員会で、金大理学部跡地利用計画について「県と北陸財務局の折衝がまとまり、金沢合同庁舎敷地は1万6,000平方メートル、中央公園敷地は3万2,240平方メートル、県営駐車場敷地は3,865平方メートルに決定した」と発表した。金沢中央公園は40年度着工、43年度末に完成、2万人が集合できる約1万平方メートルの芝生広場もつくる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 2月12日 政治・経済 県が昭和38年から施工中の犀川右岸・大橋までの緑地帯を兼ねた護岸工事のうち、大橋詰めから室生犀星碑までの本年度工事(約3,000平方メートル)が完成した。引きつづき、40年度は桜橋まで施工するが、これで市内で河川敷の緑地帯は、犀川の下菊橋ー桜橋間川岸町寄り、御影橋下流の西御影町寄り、浅野川の天神橋ー大橋間とあわせて4ヵ所になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月14日 政治・経済 金沢駅前振興会の発会式が、金沢ビルでおこなわれ「関係37町の住民が結集して駅前の整備、近代化を促進する」ことを決議した。会長小森直夫。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月18日 政治・経済 金沢港開発公社が進めていた鞍月校下の近岡、御供田、戸水3町の用地買収交渉は、3.3平方メートル一律単価2,800円プラス調整費170円で、55万2,000平方メートルが妥結した。港湾用地の買収成立は今回がはじめて。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月19日 政治・経済 空席中の市収入役に素都清朗(市教育長、教育委員)、市教育委員に前田長宗(県立金沢錦丘高校長)の任命が市議会で承認された。(いずれも4月1日発令) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月24日 政治・経済 市は40年度で完成する二つの懸案事業・犀川総合開発事業費に14億4,739万余円、金沢市中央卸売市場建設事業費に3億1,776万余円、同開設準備費に670余万円のそれぞれ最終事業費を40年度予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月24日 政治・経済 市は金沢港負担金8,000万円を40年度予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月24日 政治・経済 市は、市と地区の連絡を密にするため、2ヵ町ないし3ヵ町単位で地区連絡員(非常勤嘱託)を置くことにし、地区連絡員設置費198万円(22人分)を40年度予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月24日 政治・経済 市は百間堀の市消防合同庁舎を、金大理学部跡に2ヵ年計画で移築するため、初年度分として3,091万円を40年度予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月24日 政治・経済 市3役の4月から給与引上げが、金沢市特別職報酬等審議会の決定を経て市議会で可決された。引上げによる月額新給与は市長16万(現在12万円)助役13万円(9万5,000円)収入役11万円(8万円)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月1日 政治・経済 市は10月の窓口センター発足を前に、各部局の事務系統を合理化するため機構改革を実施した。部課数は、従来の1室8部28課、4事務局、1事務所が、1室8部29課、3事務局1事務所になった。[企画室]統計課を調査統計課に。[税務部]固定資産税課を資産税課、徴税課を収税課と改称。[民生部]戸籍課を廃止、市民課を新設した。同課は戸籍、住民登録、就転学などの窓口事務を行なう。また保険年金課を新設し、国民年金課と衛生部の保険課を廃止した。社会福祉事務所は従来民生部長が所長を兼任していたが、これを独立させた。[衛生部]衛生課の権限を拡大し保健所専務を統括させた。[経済部]中央卸売市場を新設、場長を置き庶務課と業務課を置いた。[土木部]監理課を管理課、道路課を土木課と改称。[建設部]開発事業部を廃止して建設部を新設、開発第一課、同第二課(犀川ダム関係業務)都市計画課の3課を置いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月1日 政治・経済 市は、機構改革にともなう396人の大幅な人事異動を発令した。建設部長青木治夫(開発事業部長)土木部長事務取扱い江川昇(助役)中央卸売市場長堀岡清則(会計課長)社会福祉事務所長立田憲治(総務課長)観光会館長本森重雄(ガス水道局経理課長)消防本部次長下村孝之(前県警金沢中署長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月1日 政治・経済 金沢市駅前広場条例が施行された。条例は、駅前広場での行商、街頭写真屋、はり紙や広告、指定外個所の駐車等の行為を禁じ、またバス発着場、タクシー駐車場の使用料を定めている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月1日 政治・経済 市はさる1月の医療費9.5%引上げにともない、4月1日から、市民の国民健康保険料を平均8%引上げた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月12日 政治・経済 加越能鉄道(本社富山市、出資額石川県1,000万円、金沢市500万円)への出資金引揚げ問題に結論を出すため、県議会と市議会は、同鉄道の佐伯宗義会長、中崎規矩雄副社長を招き、県議会委員室で合同の総務委員会を開き、鉄道敷設の見通しなどにつき意見を聞いた。合同委員会は出資金引揚げについての結論は、県市当局の意向をただしたうえ出すことにし、この日は持ち越した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月24日 政治・経済 長土塀5番丁に建設された石川県水産会館の落成式がおこなわれた。鉄筋3階建。県漁業協組連合会、県漁業公社はじめ漁業関係団体が入居する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 5月7日 政治・経済 金沢地方合同庁舎の完成にともない移転する石引町4丁目の北陸財務局と、金沢国税局跡地の利用について、金沢商工会議所と金沢実業会は「金沢のもつ都市的文化性に即して公共的な利用をはかってほしい」むねの要望書を、北陸財務局など関係機関に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月1日 政治・経済 (昭和36年4月、ラオスの首都ビェンチャンから姿を消し生死不明になった参議院議員辻政信は、本日で参議院議員の任期切れとなり、議員の身分を喪失した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月3日 政治・経済 佐藤内閣改造で、第1区選出坂田英一代議士が農林大臣として入閣した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月9日 政治・経済 片町に北国ビルが完成、開業した。地下2階、地上9階、延べ約1万230平方メートル。経営は北国不動産会社(社長瞱道文芸)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月15日 政治・経済 窪町地内の伏見川にかかる窪大橋が完成、渡橋式がおこなわれた。旧大橋は昨年7月の豪雨で流失したもので、長さ16.2メートル、幅9.5メートル(旧橋の2倍以上)の永久橋、工費約1,000万円。施工は県。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月19日 政治・経済 (県議会吉島副議長が辞任、後任副議長に吉田長久が選出された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月21日 政治・経済 市は、予想される異常気象による本年の農業災害を未然に防止するため、金沢市異常気象農業対策本部を設置した。本部長徳田市長、副本部長酒尾孝之(市農業委員会長)山田安隆(市農協長協議会長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月21日 政治・経済 石川都市計画地方審議会で、金沢市の中央公園(金大理学部跡地)計画が最終的に決定した。敷地は3万2,800平方メートルで、三つの広場を設ける。広場は中心部に芝生公園、仙石町寄りに休憩所や運動のできる小広場、県庁側の東北部に催し物のできる休養広場。工事は前期を40年ー42年(3,500万円)、後期は45年に終了、利用開始は42年。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月26日 政治・経済 犀川ダムは全体の95%のコンクリート打ちを終り、本日から一部たん水を開始した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月29日 政治・経済 石川県宅地保全審議会は住宅をがけくずれから守るために、金沢市の卯辰山を中心に山ろく一帯の約43平方キロメートルを、宅地造成等規制法による県下初の指定区域にするよう、知事へ答申することをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月4日 政治・経済 参議院議員選挙がおこなわれ、石川県地方区の結果は次の通り。投票率69.07%当選175,397票 任田新治(自民新)〔次点〕145,683票 池田 健(社会新)56,650票 武谷甚太郎(無新)22,690票 永井泰蔵(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月8日 政治・経済 市議会田中、徳田正副議長が辞任、市議会は後任正副議長選挙をおこない、議長に酒尾孝之(自)副議長に油谷外郷(自)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月8日 政治・経済 大桑町地内にできた住宅団地を大桑町から分町、「つつじが丘」の新町を新設することが市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月16日 政治・経済 徳田市長は、日独青少年交歓実行委員会が派遣する訪独日本青少年代表団団長として、団員100人を引率、羽田を出発した。(8月13日帰国) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月26日 政治・経済 金沢港の建設全体計画が、東京で開かれた港湾審議会で県の原案通り可決され、本ぎまりとなった。全体計画は総事業費240億円で、44年度までに第1期工事として5,000トン級岸壁3バースを建設、50年度までに1万5,000トン級岸壁4バースの港湾施設を完成するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月27日 政治・経済 金石電報電話局の電話がダイヤル自動式に切りかわった。局番は67局。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月5日 政治・経済 二ツ寺町地内の犀川にかかる二ツ寺橋の架けかえが完工、渡橋式がおこなわれた。長さ83.4メートル、幅6メートルのコンクリート永久橋、工費約3,400万円。施工は県。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月10日 政治・経済 (中西知事、ソ連の招待により訪ソ旅行に出発。9月7日帰沢。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月26日 政治・経済 庁舎等調整審議会の北陸幹事会(出席18人)が金沢市観光会館で開かれ、大手町の金沢税務署を彦三5番丁北陸農政局跡地に移転する北陸財務局原案を承認した。税務署の土地と木造庁舎は売却する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月1日 政治・経済 市中心部のうち、南町電車通りを境に西側一帯の松ヶ枝、此花、長土塀校下などの144町を24町に統合する住居表示改正が、本日から実施された。市の住居表示改正はこれが3回目。新町名は彦三町1、2丁目、瓢箪町、笠市町、堀川町、此花町、本町1、2丁目、安江町、玉川町、芳斉1、2丁目、昭和町、三社町、高岡町、香林坊2丁目、長町1-3丁目、長土塀1-3丁目、中央通町、片町2丁目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月15日 政治・経済 国営河北潟干拓事業のかなめとなる、大根布放水路の防潮水門工事が着工された。工費1億6,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月19日 政治・経済 岡島友作、本家三郎両県議の死去に伴う金沢市の県議会議員補欠選挙がおこなわれ、即日開票の結果は次の通り。投票率34.0%。県議会の新分野は自民34、社会7、民社1、共産1、無1、欠員1となった。〔当選〕27,886票 小間井与一(自元)25,078票 瀬川英助(社新)〔次点以下〕12,231票 浅野仁吉(民新)7,891票 杉浦常男(共新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月25日 政治・経済 区画整理により神田町5丁目、三口新町1丁目、2丁目、花里町の新町設置と、疋田町の一部を宮保町とし、田上町の一部を田上新町とすることが市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月26日 政治・経済 昭和40年度第4回国政に関する公聴会(一日内閣)が、午前9時から石川県体育館で開かれた。出席閣僚は佐藤首相、藤山経済企画庁長官、三木通産相、中村文相、永山自治相、坂田農相、瀬戸山建設相、鈴木厚相、安井総務長官の9人。公述人は北陸4県の14人で、うち石川県は武田利作(会社経営)米田民雄(農業)遠田千鶴子(主婦)正司政昭(団体役員)の4人。傍聴者は約2,000人。(佐藤首相は25日午後6時45分東海道回りで金沢着、金茶寮に一泊し、26日午後4時30分小松から空路帰京した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月30日 政治・経済 (県議会議長森田良が辞任、後任議長に浅田勝二が選出された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月1日 政治・経済 第10回国勢調査がおこなわれた。金沢市の調査結果は85,028世帯、人口335,828人(男162,106人、女173,722人)であった。人口では全国都市の第23位。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月1日 政治・経済 市教育委員越馬徳治が任期満了、新教育委員に中島徳太郎が選任された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月1日 政治・経済 国鉄ダイヤの改正で特急「白鳥」は大阪─青森間単独運行(従来は大阪始発、直江津で青森行と上野行に分離)となり、金沢─上野間には特急「はくたか」が新設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月1日 政治・経済 (北陸線の富山─糸魚川間が電化された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月1日 政治・経済 金沢の市内電話局番63局と42局が新設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月5日 政治・経済 金沢商工会議所の議員総会で、会頭に西川外吉、副会頭に吉田次作、麻生徳次、武田利作が再選された。(議員は9月30日の改選で無競争当選) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月8日 政治・経済 金沢大学理学部(旧四高)跡地に県が建設する県中央公園の造園工事がはじまった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月11日 政治・経済 市役所の窓口センターがほぼ完成したので、本日の保険年金課をトップに開所した。25日には入居の全課がそろう。1階窓口は市民課、保険年金課、ガス水道局受付、2階は収税課、市民税課、資産税課。戸籍、住民登録、食糧配給、印鑑登録、国保、国民年金、転入学、選挙人登録、自動車臨時運行許可、など一般市民とつながりのある事務は全部ここに集中された。窓口センターの庁舎は地下1階地上4階、延べ面積4,183平方メートル、工費約1億9,000万円で、3、4階は年内に完成予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月18日 政治・経済 政府は国土開発縦貫自動車建設審議会を開き、北陸自動車道など5縦貫自動車道の建設基本計画を建設省原案どおり承認、首相に答申した。北陸自動車道の建設基本計画区間は富山―米原間240キロ、インターチェンジは13ヵ所で、うち金沢市付近2ヵ所となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月20日 政治・経済 市が35年からキゴ山山ろくの小豆沢町地内に建設していた市営放牧場は、全施設がほぼ完成した。総事業費5,000万円、30ヘクタールの放牧地に育成牛舎3むね、農具格納庫、飼料貯蔵所、管理事務所など。来春から120頭(今冬は25頭)を放牧する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月29日 政治・経済 中小企業庁は、40年度の中小企業近代化助成法の指定団地(全国3ヵ所)として、金沢原糸織物商業共同組合(理事長彼島桂二)の集団化を正式決定した。産元商社28社が本年度から3年計画、事業費11億4,200万円で団地化を完成するもので、団地は野々市町稲荷町地内6万2,800平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月1日 政治・経済 中西知事は「金沢バイパスの路線は、金沢市柳橋から松任町宮丸町までの17キロに建設省で決定した。来年10月に起工する」と発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月4日 政治・経済 (10月1日の国勢調査の結果、石川県人口は98万540人で前回より0.7%、7.122人ふえたことがわかった。ふえたのは北陸3県では石川県だけ。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月6日 政治・経済 金沢合同庁舎の完成式があげられた。38年着工、地上7階、総工費6億8,000万円。入居する中央官庁出先機関は北陸財務局、財務研究所北陸支所、北陸電波監理局、石川労働基準局、労働省石川婦人少年室、北陸農政局、農林省石川統計調査事務所、石川地方行政監察局、金沢国税局、税務大学校金沢研修所の10機関。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月8日 政治・経済 市が37年度から建設中の玉鉾ガス工場(玉鉾町)が完成した。総工費5億7,900万円、ガス製造能力は1日4万8,000立方メートル、貯蔵能力は2万7,500立方メートルで古道工場の分をあわせて、市のガス製造能力、貯蔵能力とも倍増した。玉鉾工場のガス製造原料はナフサ、従業員はわずか21人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月15日 政治・経済 市と内川農業協同組合が、内川地区の農業構造改善事業の一つとして建設した別所町のタケノコ加工場(550平方メートル)が完成した。同地区の農業構造改善事業の完成により、タケノコ生産量は年間1,400トンと40%ふえ、生産量の30~40%がかん詰加工できることになった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月24日 政治・経済 本多町3丁目旧警察学校跡に、県が建てる石川県社会福祉総合センターの起工式がおこなわれた。完成は来年秋の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月24日 政治・経済 市は本年から、山間地帯に14ヵ年計画で市営造林をおこなうことになり、その最初の植林作業が菱池町で、徳田市長も参加して実施された。事業費8億3,500万円で2,200ヘクタールを直接投資により造林、また2,300ヘクタールを補助造林にする。市営造林事業は全国で初めてである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月26日 政治・経済 北陸鉄道は徳田市長に対し、東金沢-鳴和間の市内電車線を廃止し、バスで代行することに同意を求める要請書を提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月1日 政治・経済 金沢駅地下改集札口と駅前地下道を直結する地下道工事が完成開通、また地下の金沢ステーション・デパートの増改築も完成、開店した。総工費1億1,900万円、これで金沢駅前広場整備計画は14年ぶりに完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月1日 政治・経済 市は本年度から設置する地区連絡員の第1次分として、寺町地区の連絡員7人を任命した。(1人が2町ないし4町を担任) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月11日 政治・経済 完成した犀川ダムの満水式がおこなわれた。満水時の貯水量は1,430万トン。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月15日 政治・経済 額新保町の額住宅団地に、北陸地方では初めての団地電話が開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月17日 政治・経済 昨年夏の出水で橋脚が傾いた犀川の下菊橋の架けかえが市の手で着工された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月18日 政治・経済 市議会運輸対策委員会は北鉄市内電車線鳴和-東金沢間の撤去を、条件づきで承認することを可決した。条件のうち、撤去後の定期券利用者については「1年間現行の電車定期料金で、東金沢-鳴和間のバス利用を認めること」を要求している。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月20日 政治・経済 石川県住宅供給公社が設立された。勤労者に積立て分割払いで、安い住宅を分譲しようというもの。理事長中西知事、専務理事本間県土木部長。徳田市長も理事に就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月21日 政治・経済 金沢市の都市計画の大幅改正が、石川都市計画地方審議会で金沢市原案通り承認された。近く建設省から告示された本ぎまりとなる。市内の交通ラッシュと市勢発展に即して改定したもの。街路網は、国道バイパスを主軸に、北陸線をまたいで、駅西地区と市街地を結ぶ2本の環状路線を設定、これまでの放射線状路線を大幅に変更した。また用途地域の変更は、(イ)金沢港周辺に工業、準工業、住居、商業の各用途地域を新設(ロ)住宅専用地区の拡大(ハ)小売店舗地区の設定(二)工業専用地区の設定(ホ)北陸線沿線の改変一をおこなう。(建設省告示は41年2月4日) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月21日 政治・経済 西町金沢商工会議所横に建設された中小企業会館の完成式がおこなわれた。総工費2億6,000万円、地上5階、延べ3,820平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月21日 政治・経済 市内のタクシーが、本日から2月末まで昼間2割増し、深夜早朝3割増しの冬季割増し運賃制を実施した。従来は、冬季降積雪時だけ割増しにしていたが、本年から期間割り増し制にするため、北陸3県の旅客自動車協会が名古屋陸運局の実施認可を得たもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月27日 政治・経済 北陸鉄道は金沢市内電車線の全面撤去の基本方針を取締役会で決定、同社労組に提示し、また顧問会に報告して県政財界の支持を求めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月27日 政治・経済 (明年1月1日から県議会議員報酬の2万円引上げが、石川県特別職報酬等審議会の決定を経て県議会で可決された(野党反対)。引上げによる月額新報酬は、議長13万円、副議長12万円、議員11万円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月 1900/1/0 市が38年から3ヵ年計画で着手した次の5地区の第一次農業構造改善事業は、いずれも順調な進行を見せ、ほぼ完成した。打木(野菜)内川(タケノコ)福畠(たばこ)八田(水田)森本(肉牛)改善事業費計2億9,772万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月1日 社会・文化 石川県は「イヌワシ」を県鳥に指定した。38年石川野鳥の会が県鳥の指定を県に陳情し、39年10月、県鳥獣審議会がイヌワシを答申していた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月8日 社会・文化 小坂小学校の新校舎が体育館を除き完成、本日から新校舎で授業を開始した。工事は3期に分割施工したもので、鉄筋4階建、総建て面積3,280平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月10日 社会・文化 冷害の北海道から児童19人が、フレンズ国際労働キャンプ(FIC)に金沢委員会の金沢大学生らの世話で、金沢市民の善意の里親に招かれて金沢に到着した。19人は、北海道広尾郡大樹町光地園小中学校の14人と、士別市の小中学校5校の5人で、金沢市内15人の里親の家庭で3学期をすごす。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月12日 社会・文化 金沢地方は雪がふりやまず、13日午前0時現在の積雪は約60センチ、午後4時半大雪警報が出た。市内電車は始発から、バスは夕方から全面運休となった。市は午後、除雪対策本部(本部長徳田市長)を設置、除雪車を総動員して幹線道路の除雪作業にあたった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月13日 社会・文化 金沢地方気象台は午前10時、大雪警報を大雪注意報に切り替えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月14日 社会・文化 市収入役三村武男死去。60歳。市総務部長もつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月18日 社会・文化 金沢市除雪対策本部は、市内の除雪が一応終ったので解散した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月22日 社会・文化 全日本労働総同盟会石川地方同盟(略称石川同盟)の結成大会が開かれた。会長東木作次、加盟組合は10単産140組合2万6,300人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月25日 社会・文化 午前0時5分ごろ七ツ屋町山口木工所から出火、乾燥室(70平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月28日 社会・文化 昨春森田初代学長の辞任以来、空席(学長事務取扱いは江川助役)となっていた金沢美術工芸大学の学長選挙がおこなわれ、学内予選会で推薦された東京在住の同大学非常勤講師秋山光夫(76歳)が、対立候補がないため信任投票で当選した。秋山は静岡県出身、東京帝室博物館学芸課長、文部省重要美術品等調査委員などを歴任、美術史家として知られる人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月28日 社会・文化 長町小学校旧校舎の一部に、長町児童館が完成した。モルタル塗り2階建約430平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 1月30日 社会・文化 物価値上げを阻止しようと、石川県消費者団体連絡会の結成大会が開かれた。昨年7月から県母親連絡協議会、県生協連、県評などの間で設立準備が進められていたもの。会長浜和子(県母親連絡会長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 2月1日 社会・文化 学校法人金沢工業大学(理事長益谷秀次)が文部省に設立を申請していた金沢工業大学(4年生)が正式認可された。大学は野々市町扇丘の新校舎で4月15日開校する。学科は機械工学科と電気工学科。大学発足と同時に、北陸電波高校は金沢工業大学付属高校と改称、工業課程のほか普通課程を設ける。私立金沢工業高専(37年設立)はそのまま存続する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 2月13日 社会・文化 午後8時半ごろ三口新町花里団地の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 2月15日 社会・文化 金沢美術工芸大学学長に内定していた秋山光夫が着任、学長就任が市から正式発令された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 2月20日 社会・文化 森山町小学校の校舎新築の第8期工事が完成、校舎落成式が挙行された。鉄筋3階建(1部4階)延べ6,242平方メートル、総工費1億2,928万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月2日 社会・文化 西町の元中央公民館跡に、金沢で二つの目のボーリング場が開場した。経営は金沢スターレーン永宝株式会社(社長森田一雄)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月5日 社会・文化 午前3時10分ごろ藺田町の民家から出火、1戸(400平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月13日 社会・文化 金沢市内の里親の家で3学期をすごした北海道凶作地の子ども19人が離沢、帰道した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月15日 社会・文化 金沢大学泉学寮が泉本町に落成した。建て面積1,386平方メートル、鉄筋4階建、収容定員194人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月20日 社会・文化 緑小学校(北塚町)の校舎落成式がおこなわれた。37年12月着工、敷地1万3,454平方メートル、鉄筋3階建、延べ3,600平方メートル、総工費1億2,300万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月30日 社会・文化 石川県庶民生活協同組合(理事長奥村弘)の庶民質庫が桶町に新築、落成した。4月上旬開業。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月31日 社会・文化 市立田上小学校の鈴見分校が廃止された。同分校の5年生20人と1年から4年(複式学級)までの41人は、材木町小学校と小立野小学校へ編入された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 3月31日 社会・文化 金沢美術工芸大学は教授、講師など教官の定年制(満65歳)を実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月1日 社会・文化 市教育委員会は、教育長に前田長宗委員(県立金沢錦丘高校長)を任命した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月1日 社会・文化 (県教育委員会三輪教育長が辞任、後任は県立金沢二水高校長中野巳之吉。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月11日 社会・文化 県が丸の内石川スポーツセンター(豪雪で倒壊)跡に建設した石川県体育館の完成式がおこなわれた。敷地8,295平方メートル、建て面積延べ4,892平方メートル(他に既設の武道館1,839平方メートル)、鉄筋3階建、工費約1億8,700万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月12日 社会・文化 城下町の姿を残す保護区域に指定した長町2番丁で、市が施工中の旧武家屋敷の土べい修復工事39年度分が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月15日 社会・文化 私立金沢工業大学(学長青山兵吉)の開学式が、石川郡野々市町の同大学講堂でおこなわれた。新入生は機械工学科53人、電気工学科78人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月16日 社会・文化 金沢大学の図書館が完成した。鉄筋3階建、建て面積延べ2,362平方メートル。これまで重要文化財の三十間長屋に保管されていた書籍も新しい書庫に移された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月17日 社会・文化 県庁前の大通り「広坂通」が完成、地元広坂通振興会、片町と香林坊両商店街振興組合の共催で、完成式がにぎやかに挙行された。新広坂通は兼六園前から仙石町に至る延長450メートル、幅は県下で初の36メートルの都計道路である。36メートルの内訳は緑地帯6メートル、車道9メートル、歩道4メートル、旧来の電車通り17メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月20日 社会・文化 7,000円の賃上げを要求している全電通労組は午前8時から正午まで全国一斉に半日ストを実施、石川県では金沢電話局、北陸電通局など9ヵ所で1,600人がストにはいった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月23日 社会・文化 国鉄労組を除く公労協8組合が、全国一斉ストを実施。金沢市内では全電通の金沢電報局、金沢無線統制中継所がストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月24日 社会・文化 国立石川工業高等専門学校の開校式が、仮校舎の旧市立工業高校でおこなわれた。校長永井時一(金大工学部教授)。学科は機械工学、土木工学、電気工学の3学科、入学者121人。新校舎は河北郡津幡町北中条地内に、3ヵ年計画で建設する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月27日 社会・文化 午後7時45分ごろ鍛治町新和醸造会社酒蔵のびん詰め作業場から出火、酒蔵約100平方メートルを焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 4月28日 社会・文化 北陸鉄道労組が私鉄総連の統一ストで、電車バスの24時間全線ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデ―は快晴のもとで、新記録の約3万5,000人(メーデー実行委調べ)が参加しておこなわれ、物価高からの生活防衛などを決議した。大会後、兼六園広場から二手にわかれて市内をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 5月18日 社会・文化 午前5時5分ごろ示野町の土建業今村組飯場から出火、同飯場と物置、付近の日昇食品工場、日伸畳工業工場、亀田旋盤製作所と住宅1戸計6むねを全焼し、工場2むねと住宅(2戸)の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 5月18日 社会・文化 午前11時40分ごろ二俣町、通称角原の医王山中腹にある石川県警友造林から出火、同造林の杉4へクタールと民有地の雑木林3ヘクタール計7ヘクタールを焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 5月29日 社会・文化 金沢市の姉妹都市アメリカ・バッファロー市では、さきに金沢市が贈ったことじ灯ろうの建立式を挙行した。建立地は同市内のウェアー公園。金沢からは、徳田市長と両都市提携委員会の田中富士夫会長が喜びのメッセージを送った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月1日 社会・文化 北鉄バス料金が2割値上げされ、金沢市内バスは15円から20円になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月5日 社会・文化 北陸電気通信局は、4月20日23日の公労協半日ストに参加した全電通北陸地本の中川委員長、坪川書記長の解雇をはじめ、停職28人を含む闘争参加全組合員5,568人の処分を発表、また金鉄局も23日30日の半日ストに参加した動力車労組北陸地本の組合員7人に対し、減給以下の処分を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月7日 社会・文化 金沢郵政局は、3月17日4月23日の公労協スト等に参加した全逓労組北陸地本の組合員232人に対し、停職10人、減給15人を含む処分を発表した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月8日 社会・文化 午後2時15分ごろ、横山町2番丁商店街裏手の民家から出火、4戸(6世帯)を全焼、3戸(5世帯)を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月22日 社会・文化 金沢市防災会議が開かれ、市内の災害危険区域として水害危険地区15ヵ所、がけくずれ等の予想される区域13ヵ所、なだれ発生の危険区域10ヵ所、大火発生の危険区域2ヵ所などを指定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月22日 社会・文化 金沢の歴史、建物の変遷などを研究のためアメリカ・オレゴン大学の金沢研究調査団13人が来沢した。(8月中旬まで滞沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月24日 社会・文化 窪町に建った県立金沢錦丘高校の校舎完成式がおこなわれた。3万6,912平方メートルの敷地に、昭和38年から3期にわけて施行したもの。教室舎は鉄筋4階建。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月24日 社会・文化 午後3時49分ごろ上胡桃町公園下交差点で、小立野発野町行の北鉄市内電車が、手動ブレーキの故障から兼六坂を暴走して脱線転覆、乗客の学校帰りの紫錦台中学3年生男子1人が死亡、22人と乗務員2人の計24人が重軽傷を負った。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月25日 社会・文化 市議会運輸対策特別委員会は北鉄電車の事故について緊急委員会を開き、議長名で電車整備の徹底と、運転者の根本的再教育を強く要請する勧告文を会社に手交した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月25日 社会・文化 江川市助役は北鉄電車事故について上京中の徳田市長と連絡をとり、北鉄本社で山口専務、平田労組書記長と会見、「今回の事故は極めて遺憾であった。市民の不安一掃のために適切な処置をとり、事故の再発防止をはかられたい」と申し入れた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月25日 社会・文化 北陸鉄道労組は、今回の事故について県民にわびる声明を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 6月27日 社会・文化 午前1時55分ごろ田丸町のキャバレー「ハル」から出火、同キャバレーを全焼、隣接商店の一部を焼いた。 0
    昭和四十年(1965) 7月7日 社会・文化 金沢大学学長選挙がおこなわれ、石橋現学長と倉知医学部長との間で決選投票の結果、石橋現学長が再選された。(現学長の任期満了は本年9月21日) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月10日 社会・文化 金沢市内の入浴料金が、県公衆浴場入浴料金審議会の答申を経て値上げされた。新料金は大人28円(旧22円)中人17円(旧14円)小人10円(旧8円)など。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月10日 社会・文化 長町5番丁金沢聖霊病院の増築第1期工事の完成式があげられた。鉄筋5階建、210病床。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月13日 社会・文化 12日夜来の雨は午前9時現在金沢地方で104.1ミリに達し、金沢地方気象台は県内に大雨洪水注意報を発した。金沢市は午前9時、水防本部を設置し警戒態勢についたが、被害は道路損壊25ヵ所、河川護岸損壊7ヵ所など(被害総額530万円)ですんだ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月13日 社会・文化 市は市職員の交通安全運動指導のため、全職員を隊員とする「金沢市交通安全推進隊」を設置した。隊長素都収入役、毎月1日15日の朝夕の通勤時に、隊員が広坂通で交通整理に当る。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月18日 社会・文化 (17日から奥能登と津幡、高松、羽咋地方に集中豪雨。土木被害約5億9,000万円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月28日 社会・文化 午前9時5分ごろ諸江町上丁石川繊維会社の第3工場から出火、同工場と第2精紡工場の2むね4,500平方メートルを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月28日 社会・文化 押野、額、安原の3中学校を統合して新設された西南部中学校の新校舎起工式が、建設地の新保本町でおこなわれた。敷地1万5,500平方メートル、校舎は鉄筋4階建、延べ2,700平方メートル、普通特別教室各5、管理室11などで、第1期工事は41年6月完成予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 7月31日 社会・文化 本家三郎死去。57歳。金沢市選出県議会議員、昭和34年から県議2期、市議2期。自民党県連総務、金沢漁業協同組合長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月1日 社会・文化 日露戦争当時、金沢で死亡したロシア兵捕虜10人の日ソ合同慰霊祭が、日ソ協会石川県連の主催でロザノフ駐日ソ連代理大使らを迎えて、野田山のロシア人墓地でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月8日 社会・文化 午後0時8分ごろ大桑町の農家から出火、1戸を全焼、2戸の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月11日 社会・文化 財団法人中村記念館(美術館)の設立が県教育委員会から認可された。元車町中村酒造会社社長中村栄俊が所蔵する古美術品120点(うち重要文化財2点、重要美術品4点)を提供して美術館を設立するもので、中村家の木造2階建の建物を、市の提供する市有地に移して記念館にすることになっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月15日 社会・文化 岡田清死去。76歳。石川県児童文化協会長、金沢市議、県教育委員長などをつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月17日 社会・文化 正午ごろ浅野本町石川ディーゼル自動車会社の修理工場から出火、同工場と倉庫、準備室を全焼、隣接の石川重量運輸会社の従業員控え室を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月27日 社会・文化 午後4時ごろ白銀町の塗料店倉庫から出火、同倉庫(木造3階建)店舗、住宅および隣接の民家2戸を全焼、1戸と土蔵を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 8月27日 社会・文化 加藤二郎死去。61歳。金城高校長。昭和6年から母のせむ校長を助けて学校経営に当り、31年校長に就任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月1日 社会・文化 午後2時33分ごろ本馬町の食料品店倉庫から出火、同倉庫と住宅、製菓工場1むね、隣接の商店民家各1戸計4むねを全焼、3むねを半焼、3むねの一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月4日 社会・文化 昨年7月の水害で倒壊した東原町の竹又小学校校舎新築起工式がおこなわれた。建設地は旧校舎から約500メートル離れた富山県寄りで、木造2階建、延べ690平方メートル、工費2,250万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月6日 社会・文化 昨年12月、強風で倒れた大木のため全壊した兼六園霞ヶ池池畔「内橋亭」の復元工事が、県の手で完成した。建材は能代杉、6畳1室、工費70万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月9日 社会・文化 午後10時10分ごろ八田町庚の農家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月10日 社会・文化 10日朝高知県、安芸市に上陸した台風23号は、若狭湾から時速70キロで午後2時すぎ金石沖20キロの海上を北東に進み、午後4時ごろ輪島の北から佐渡方面に去った。金沢では瞬間最大風速38メートル(午後3時15分)、これは昭和25年のジェーン台風の42.8メートルに次ぐもの。金沢市内は全市が停電、中心部の1万戸が断水、交通機関が全面運休した。市内の被害は死者1、負傷者10、家屋全壊3戸、半壊29戸、一部倒壊239戸、板べいや屋根がわらの被害家屋は無数。市内小学校77校のうち、75校が被害を受けた。兼六園、卯辰山では樹木がたくさん倒れた。市は午前11時すぎ、23号台風対策本部を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月11日 社会・文化 市集計による台風23号の農林被害は、1億8,363万余円、教育施設の被害は970万円に達した。風台風のため橋や道路の公共土木施設の被害はなかった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月11日 社会・文化 午後5時19分ごろ諸江町上丁の農家から出火、1戸を全焼、また午後10時45分ごろ松寺町丑の農家から出火、1戸を全焼し隣家の土蔵の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月12日 社会・文化 日本で初めてマッチを製造した清水誠(金沢市出身、明治32年死去)の顕彰碑が、卯辰山中腹飛鳶台に清水誠顕彰会の手で建設され、除幕式があげられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月14日 社会・文化 (1,000ミリを越す集中豪雨で福井県大野、勝山を中心とする奥越地方大水害。金沢からも自衛隊出動。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月18日 社会・文化 志摩半島に上陸、東海道を縦断した台風24号の影響で、県下一帯に暴風雨。金沢地方の瞬間最大風速は19メートル(18日午前0時10分)、雨量は17日午前9時から18日午前0時までに123.2ミリ、とくに17日午後6時からの6時間に68.6ミリを記録した。市内の被害は蚊爪町から1,500メートル下流の浅野川左岸が約50メートルにわたり決壊、また金腐川、伏見川や下水のはんらんで北安江町、京町、梅沢町などで70余戸が床下浸水。市は17日午後5時災害対策本部を設置した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月18日 社会・文化 台風24号で北陸線は福井、富山、新潟県の5ヵ所で寸断されたが、18日泊─米原間がようやく開通。糸魚川─直江津間は桑取鉄橋沈下のため復旧見込みはたたない。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月21日 社会・文化 (県は本月10日の台風23号による県内の被害総額を34億2,300万円と発表した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月23日 社会・文化 鈴見山の金沢国際カントリー倶楽部(金沢観光開発会社経営)が正式開場した。18ホール5,907ヤード。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月24日 社会・文化 市電暴走転覆事故を起し死傷者27人を出した北陸鉄道会社に対し、運輸、建設両省は県土木部長を通じ文書で、事故再発防止のため11項目にわたって改善勧告をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月24日 社会・文化 金沢大学医学部校舎改築の第1期工事起工式がおこなわれた。総工費2億5,200万円、地上6階、地下1階、延べ面積6,670平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 9月29日 社会・文化 台風24号で17日から不通となっていた北陸線有間川─谷浜間の桑取鉄橋(糸魚川市)が復旧、北陸線は13日ぶりに開通した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月3日 社会・文化 関西修学旅行中の金沢市金城中学校女生徒を乗せた北日本観光バスが、京都府山城町の国道で畑に転落、死亡1人、重軽傷49人を出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月7日 社会・文化 午前1時55分ごろ石引3丁目の市立紫錦台中学校職員室から出火、木造平屋建約160平方メートルの同職員室を全焼、わたり廊下と保健室の1部を焼いた。(埼玉県からの家出少年の放火と判明) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月27日 社会・文化 午前11時20分ごろ二宮町の市立長田中学校の木造2階建校舎の図書室付近から出火、図書室と普通教室3室を全焼、1室を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 10月28日 社会・文化 加賀獅子保存協会が市観光協会や郷土史家らによって設立された。加賀獅子についての調査研究や獅子舞い演技の伝承にあたる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月3日 社会・文化 第19回(昭和40年度)金沢市文化賞と本年から新設の第1回金沢市産業功労賞の贈呈式がおこなわれた。〔文化賞〕石橋雅義(金沢大学学長-地方文化の啓発に貢献)荒崎良道(金沢市社会福祉協議会長-市の社会福祉事業に35年、児童施設林鐘園経営)住駒政次(小鼓師-育成した弟子全国で数百人)〔産業功労賞〕直山与二(石川県経営者協会社長)西川外吉(金沢商工会議所会頭)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月3日 社会・文化 市は「加賀獅子」を金沢市記念文化財に指定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月3日 社会・文化 育英事業に生涯をささげた粟崎町の実業家故木谷吉次郎の顕彰碑が、大野川河畔の木谷公園に木谷吉次郎顕彰会の手で建てられ、除幕式がおこなわれた。工費約300万円、胸像製作は金沢美大長谷川八十、碑文執筆は徳田市長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月4日 社会・文化 午後10時40分ごろ西念町のメッキ工場から出火、同工場(鉄骨平屋建約100平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月7日 社会・文化 県内の16戦友団体が合同して第2次大戦までの戦没者5万余柱を慰霊する、初めての石川県戦友諸団体合同招魂祭が、石川護国神社でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月9日 社会・文化 社共両党系の各団体による日韓条約粉砕国民統一行動日。金沢市では夕刻から兼六園広場に約4,000人が集り、日韓条約粉砕、ベトナム戦争反対県民大集会を開き、雨中の市内をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月10日 社会・文化 窪町の県立ろう学校の校舎落成式がおこなわれた。37年度から総工費1億3,000万円で建設したもので、敷地1万7,800平方メートル、建物は延べ4,700平方メートル、鉄筋3階と2階各1むねに寄宿舎(80人収容)と体育館がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月11日 社会・文化 石川県反戦青年委員会の第3波日韓条約批准阻止、ベトナム反戦総決起集会が、夕刻から約400人が参加して兼六園広場で開かれ、金大生を先頭にする激しい街頭デモを展開、学生1人が検挙された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月15日 社会・文化 37年7月焼失した横安江町東別院本堂の再建復興工事起工式が、門信徒ら約2,000人参列しておこなわれた。本堂は鉄筋コンクリート入り母屋重層建築(延べ1,200平方メートル)総工費3億9,000万円、地下1階、地上2階。3期工事で完成は44年いっぱいの予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月16日 社会・文化 午前11時20分ごろ東力町のくず鉄業大和商店のくず鉄処理工場から出火、木造の同工場と倉庫(計約600平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月18日 社会・文化 午後1時45分ごろ常盤町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月22日 社会・文化 市は、金沢総合運動公園の建設工事を着工した。富樫町の市営陸上競技場南側3万8,000平方メートルにサブグラウンド(サッカー、ラグビーもできる)幼児用プール、芝生広場、野外ステージ、子どもの遊び場、駐車場などをつくるもので、完成は44年3月末の予定。総工費5,000万円(うち国庫補助約1,700万円)。用地は昨年中に約3万1,600平方メートルを買収ずみ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 11月30日 社会・文化 村沢義二郎死去。58歳。弁護士、金沢出身、昭和17年大政翼賛会に推されて第1区から衆議院議員に当選した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月2日 社会・文化 吉原町に建設した県立金沢松陵工業高校の完工式があげられた。鉄筋3階建、総工費2億5,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月8日 社会・文化 城下町の伝統を保存するため、市が昨年度から着手した長町1丁目の土べい修復工事の本年度分が完成した。総工費99万円で、44.2メートルの土べいを新築し、24.7メートルを補修したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月16日 社会・文化 午後11時19分ごろ笹下町2の小路の常栄寺から出火、本堂、庫裏など1むね約300平方メートルと同寺の平屋建住宅(約70平方メートル)を全焼、隣家の一部を焼いた。住職夫婦5女(高校1年)の一家3人が焼死した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月17日 社会・文化 中西知事は県議会で「旧四高の赤レンガ校舎は明年北陸財務局から払下げを受け郷土資料館にする」と言明した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月22日 社会・文化 工場閉鎖をめぐり、長期紛争を続けていた高岡町東京屋被服会社の労使は、県地労委のあっせん案を受諾、争議は解決した。あっせん案は「会社は組合(72人)に解決金680万円を支払い、組合員は諸請求を取下げ退社する」というもの。同社は38年4月工場閉鎖から争議に入り、39年4月妥結して工場を再開したが、10月以降再び不振から工場閉鎖同様となったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月23日 社会・文化 市は金沢美術工芸大学に、創立20周年記念事業として図書館と実験研究とうを建設することにし、建設費5,380万円を補正予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月25日 社会・文化 昨年12月14日焼失した香林坊金沢松竹座跡に松竹会館(経営石谷興業会社)が完成した。地下2階、地上4階、延べ約4,300平方メートル、映画劇場は2階から4階まで。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十年(1965) 12月25日 社会・文化 上有松町居住の元馬場小学校長戸沢勇次郎(86歳)が、700万円を教え子の徳田市長を通じて市の教育事業に寄付した。市は戸沢教育基金をつくり、利子で年1回市内小企業の青少年従業員5,60人を国内研修旅行させることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月14日 政治・経済 閣議決定の明年度政府予算案で石川県関係の次の各事業費が計上された。金沢港建設費7億円、金沢バイパス建設費5億5,400万円、北陸自動車道を含む5自動車道建設費に90億円と債務負担100億円、ほかに5道分調査費9億円と建設省分の北陸道調査費3,000万円、河北潟干拓事業費(38年度着工46年度完成)13億6,800万円、中部経済圏整備計画調査費1,500万円、金沢城三十間長屋修復費1,050万円(41年度から3ヵ年計画)など。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月14日 政治・経済 北陸自動車道建設のため設置された日本道路公団の金沢高速道路調査義務所が、金沢商工会議所会館に開所した。所員は所長以下5人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月15日 政治・経済 北陸鉄道は赤字の石川総線の経営合理化のため、本日から白菊町駅は朝夕のラッシュ時だけ発着し、他の時間の電車は野町駅で打ち切ることにした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月17日 政治・経済 北鉄市内電車線鳴和─東金沢間の撤去について、徳田市長は「市議会運輸対策委員会の意見を尊重することを条件に賛成する」と柴野北鉄社長に通告した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月28日 政治・経済 金沢市がゴミ清掃手数料を一方的に徴収するのは不当であるとして、共産党市議浅井茂人ら9人が昭和36年9月、市を相手取り提起した「清掃手数料賦課処分取消し請求訴訟」の判決公判が金沢地方裁判所民事部で開かれ、牧野裁判長は「市の手数料徴収は違法でない」として原告の請求を棄却、市側の勝訴を言渡した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月30日 政治・経済 犀川ダムの市営上寺津発電所が営業発電を開始した。市営発電所としては全国初の営業発電。最高出力は1万6,200キロワット、北陸電力へ1キロワットあたり3円57銭で年間6,700万キロワットを売り、市の年間収入は2億4,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月31日 政治・経済 北陸3県の広域運営を自主的に協議する北陸地方行政連絡会議が結成され、金沢市尾山町中小企業会館で第1回連絡会議を開いた。参加機関、団体は3県と国の出先機関など30機関5団体。議長に吉田富山県知事、副議長に中西石川、北福井両県知事、木下北陸財務局長を選び、北陸自動車道の建設推進、中部圏開発整備法の制定促進の2提案を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月1日 政治・経済 味噌蔵町、材木町両校下の大部分と広坂通、香林坊、西町などを含む南町電車通りの東側区域の96町を17町に統合する住居表示改正が本日から実施された。市の住居表示改正はこれが4回目。新町名は天神町1、2丁目、桜町、暁町、扇町、東兼六町、小将町、兼六元町、横山町、材木町、橋場町、大手町、尾山町、香林坊1丁目、片町1丁目、広坂1、2丁目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月8日 政治・経済 (国鉄は、北陸線の旧倶利伽羅トンネル=延長945メートル=を国道8号線のバイパスとして利用するため、北陸地方建設局に有償譲渡することに決定した。譲渡価額は1,708万円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月20日 政治・経済 社会党県本部大会で、社会党石川県本部執行委員長に清水保治、書記長に岡本茂が選出された(いずれも新任)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月25日 政治・経済 市役所新館の3、4階(1、2階は窓口センター)が完成し、教育委員会、農林部、建設部がはいった。3、4階の広さは1,880平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月26日 政治・経済 社団法人実践倫理宏正会(会長上広哲彦)が、野田山山頂の長坂、山科町地内の9万平方メートルを買収し、青年修養施設を建設することになり、市役所で上広会長が徳田市長と覚書を交換、また敷地の地主とも買収契約に調印した。市は山頂への取りつけ道路と水道敷設を担当する予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月26日 政治・経済 協同組合金沢問屋センターが割出町に建設する問屋団地の起工式があげられた。第1期工事として建設するのは23店舗。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月28日 政治・経済 北鉄市内電車線の東金沢─鳴和間が、本日限りで廃止された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月28日 政治・経済 金沢市を中心とした金沢、津幡、内灘、野々市、鶴来、松任6市町の広域行政推進のための行政懇談会が金沢市観光会館で開かれ、金沢市側から徳田市長、市議会酒尾、油谷正副議長、徳田広域行政委員長ら全委員が出席、さしあたり消防と道路行政で共同歩調をとろうと申合せた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月10日 政治・経済 金沢バイパスのセンターラインが建設省金沢工事事務所長から県に、県から市に提示された。バイパスは基点の金沢市神谷内町の国道8号線から、市の北側の疋田、磯部、藤江、示野、松島等の各町を通過して南折し、石川郡野々市町にはいり、終点の松任町宮丸町に至る18キロである。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月10日 政治・経済 丸の内の自衛隊石川地方連絡部は、本多町3丁目の金沢県税事務所跡の新庁舎へ引越した。旧庁舎跡は外濠公園の一部にする。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月11日 政治・経済 金沢西口駅開設と金沢市の都市計画推進のため、中西知事、徳田市長、西川商工会議所会頭、直山県経営者協会会長ほか県経済界首脳数人が上京、県選出自民党国会議員に経過を説明して協力を要請した。その結果、国会議員側はあらためて西口駅開設運動に協力し、非戦災都市開発法の立法化に努力することを約束した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月18日 政治・経済 金沢バイパスの測量と最初のクイ打ちが、市内森戸町地内でおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月19日 政治・経済 (知事給与などの引上げが、県特別職報酬等審議会の決定を経て県議会で可決された。新給与は知事月額現行13万円が18万5,000円、副知事10万円が14万円、出納長8万5,000円が約11万円になる。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月19日 政治・経済 県計画課は、金沢市増泉町北辰物産会社が申請した卯辰山公園風致地区内での住宅団地造成を許可した。団地造成の場所は、浅野川天神橋を渡った正面の台地。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月22日 政治・経済 市は金沢バイパスの建設を促進するため市役所に「金沢バイパス建設協力本部」を設置した。本部長は江川助役、副本部長は山中総務、青木建設各部長、岡本企画室長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月24日 政治・経済 市議会は、4月からのゴミ清掃手数料の廃止案を可決した。廃止決定とともに、浅井議員(共)らから名古屋高裁金沢支部に控訴中の「清掃手数料賦課処分取消し請求」の訴訟は、同議員らから取り下げることに決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月24日 政治・経済 市は41年度から富樫小学校と三馬小学校の新築に着手することになり、富樫小4,068万2,000円、三馬小4,456万3,000円を41年度予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月24日 政治・経済 市は41年度の金沢港建設総事業費7億円に対する地元負担金1億4,000万円を市予算に計上、市議会の議決を得た。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月24日 政治・経済 市議会は、全議員提出の「北陸電力の電気料金値上げ抑制に関する意見書」を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月26日 政治・経済 金沢市中央卸売市場の青果物関係荷受け会社(1社制)の丸果石川中央青果株式会社の設立総会が開かれた。払込み資本金8,000万円、市内の問屋8社が合同したもので、社長塩原弥吉郎。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月 政治・経済 昭和38年から3ヵ年計画で着手した額団地の第1期工事、分譲住宅236戸、公営住宅450戸の建設が完成した。このうち金沢市の建設分は公営住宅244戸、分譲住宅114戸で建設費4億9,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月1日 政治・経済 昭和36年2月から徴収していた金沢市のゴミ清掃手数料が廃止された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月1日 政治・経済 市は工場設置奨励に関する条例を改正、条例の対象となる工場の工場施設に対する投資額を5,000万円から1億円に引上げた。奨励処置は従来通り、投資額の100分の2にあたる限度で道路、用排水路、その他工場立地条件の改善整備をおこなう。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月1日 政治・経済 徳田市長は市役所部長会を開き、昭和41年度における市政の3重点目標を指示した。①金沢駅の客貨車分離と西口駅の開設 ②都市計画の大幅促進のための非戦災都市特別法の制定 ③金沢港の用地買収のうち最後に残った五郎島地区の早期買収。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月1日 政治・経済 市の部長異動がおこなわれた。経済部長立田憲治(社会福祉事務所長)民生部長秋田他啓知(経済部長)土木部長青木治夫(建設部長)建設部長心得中村秀一(開発第二課長)企画室長尾戸嘉博(企画課長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月1日 政治・経済 (県教育長中野巳之吉が退任、後任は任田秀雄。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月1日 政治・経済 (大聖寺川の県営新我谷発電所が営業発電開始。建設費10億3,300万円。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月2日 政治・経済 片町・香林坊商店街の近代化工事完成祝賀式が、金劇ビルで盛大に挙行された。昭和32年から資金50億円で、道路拡張にあわせ商店街の鉄筋ビル化を完成したもの。3階建以上のビルが78、近代化商店街の床面積は6万6,400平方メートル、店舗数128、最高のビルは40.5メートル、道路は15メートルから22メートルになり、両側に歩道とアーケードがつくられた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月5日 政治・経済 (県庁に石川県北陸自動車道建設対策本部が設置された。本部長は中西知事。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月6日 政治・経済 市が長土塀小学校前の昭和通りに建設した市内で初めての横断陸橋が完成、渡りぞめがおこなわれた。工費288万円、長さ21.5メートル、高さ5メートル、幅1.5メートル、電熱式の融雪装置もある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月6日 政治・経済 ソ連との貿易促進をはかる窓口機関として、石川県沿岸貿易振興協会が設立された。参加は45会社、会長彼島桂二。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月19日 政治・経済 北鉄市内電車線撤去問題を審議する第1回の金沢市議会運輸対策委員会が開かれた。席上、柴野北鉄社長は「本年中に全線を一挙に撤去したい」と述べた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月21日 政治・経済 金沢港建設用地のうち、金沢市東蚊爪町大割地区26万7,000平方メートルの買収調印がおこなわれた。(買収単価3.3平方メートルあたり2,250円)。これで金沢港用地は全体の82%が買収を終り、まだ買収ができないのは五郎島地区の45平方メートルだけ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月28日 政治・経済 (旧倶利伽羅トンネルを利用する国道8号線・倶利伽羅バイパスの着工式が、富山県側小矢部市の取りつけ口でおこなわれた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月11日 政治・経済 市は下水道の終末処理場建設予定地を、浅野川右岸の浅野本町地内の49万平方メートルに決めた。近く地主30人と買収交渉を終り、42年度から処理場の建設に着手、43年度から一部の処理作業を開始の予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月18日 政治・経済 市は41年度の都市計画事業として、賢坂辻通りの拡幅に着手することになり、石川都市計画地方審議会で正式決定した。賢坂辻通り(都市計画街路小将町-旭町線)のうち、車庫前-北国銀行賢坂辻支店間447.8メートルを5ヵ年計画3億3,000万円で幅19.1メートルにひろげるもので、本年度は600万円で一部の用地買収だけおこなう。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月19日 政治・経済 市は自宅から学校までの距離が6キロ以上ある遠距離中学生に、4月にさかのぼって通学費補助制度を実施にきめた。支給基準額は、1キロあたり124円で、徒歩以外の自転車、電車、バスなどの通学者。支給される人数は263人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月23日 政治・経済 犀川ダム、市営上寺津発電所、上寺津取水用ダムの完工を記念する犀川総合開発事業完成式が、午前9時半から二又新町のダムサイトで挙行され、同11時から中小企業会館で三木通産相、坂田農相らも出席して盛大な祝賀式が催された。犀川多目的ダムは金沢市が上水道、工業用水道、発電事業を、県が工業事業としての治水、農業用水事業を実施した共同作業で、県事業の分を金沢市が施工委託を受けて実施したもの。36年着工、総事業費61億7,500万円。〔犀川ダム〕高さ72メートル、長さ165メートルの重力式コンクリートダム。総貯水容量1,430万立方メートル〔上寺津発電所〕最大発電力1万6,200KW、常時2,700KW 〔上寺津ダム〕上水道の取水用ダム。高さ19.5メートル、長さ65メートル、計画給水人口35万5,000人、計画給水量1日当り13万5,000立方メートル〔工業用水〕計画給水量1日当り3万立方メートル 〔洪水調節〕年平均被害減少額5,628万円 〔かんがい〕用水補給水田1,758ヘクタール、年平均効果額1,534万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月24日 政治・経済 市調査統計課がまとめた5月1日現在の金沢市人口は34万969人となり、はじめて34万人を超えた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月27日 政治・経済 世界連邦都市宣言世界本部創立記念の世界連邦日本大会が、27、28両日金沢市の石川県社会教育会館で開かれた。出席者は世界連邦宣言をした全国1都2府18県の268市町村の代表約500人。大会の主催は世界連邦都市宣言世界本部と石川県、金沢市。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月27日 政治・経済 金沢市中央卸売市場で水産物の荷受けを一手に扱う石川中央魚市会社(通称名丸魚石川中央魚市)の設立総会が開かれた。金沢の水産問屋10社が合同したもので、社長二木幸次郎、資本金3億円(払込み8,000万円) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月28日 政治・経済 北陸鉄道株主総会は、金沢市内電車撤去の会社の方針を承認した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月11日 政治・経済 市と金鉄局は、金沢駅前広場で金沢駅前広場整備、東大通り、二万堂線造成工事の完成式をあげた。工事は29年に総工費10億4,000万円(うち国鉄負担2,300万円)で着工したもので、内訳は駅前広場整備4億4,000万円、東大通り4億円、二万堂線2億円。駅前広場の面積は1万6,320平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月15日 政治・経済 北鉄金沢市内電車廃止問題を審議していた市議会運輸対策委員会は、池田外作委員長提案の「通学通勤定期券利用者の既得権保護」などを含む条件づき廃止賛成案を、賛成6(自民)反対4(社3共1)で可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月20日 政治・経済 徳田市長は、ハバロフスク日本沿岸見本市の経済観察団石川県副団長として訪ソする金沢市選出川島重男県議に、イルクーツク市のサラトスキー市長にあてた「イルクーツク市と金沢市の友好親善を深めたい」との趣旨の親書を託した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月22日 政治・経済 市の本年度分下水道建設工事が、城西幹線の本町2丁目地内で着工された。本年度は本町2丁目地内のほか7月から堀川町─七ツ屋間で、道路築造工事に先行して約600メートルの下水道管を施設する。(市の下水道整備第1期事業は37年度から24億8,000万円、10ヵ年計画で着工し、中島大橋─金沢ビル裏─本町2丁目間で幹線1,123メートル、石浦町─片町間など枝線3,080メートルの敷設が完成ずみ) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月26日 政治・経済 社会党政権の政策を訴える国民議会が、金沢市観光会館で佐々木委員長ら党幹部13人、石川県民から選んだ議員100人のほか傍聴者ら約2,000人が参加して開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月28日 政治・経済 総理府公正取引委員会は、金沢市中央卸売市場に入場する荷受け会社(卸売人)の1社制について独占禁止法にふれる疑いがあるとして、青果部門の丸果石川中央青果会社に対し審判開始を通告した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月29日 政治・経済 徳田市長は金沢市中央卸売市場に入場する青果、水産両部門荷受け会社の丸果石川中央青果と丸魚石川中央魚市の両会社に対し、農林大臣の営業許可書を伝達した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月30日 政治・経済 明42年4月からの市営ガス、水道料金値上げ案が、市議会で可決された。ガスは1立方メートル当り26%引上げの平均22円43銭、水道は56%の引上げの平均26円4銭になる。(ガスの引上げ率は実践時に24.69%に訂正された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月30日 政治・経済 7月から市議会議員報酬の一律2万円引上げが、金沢市特別職報酬等審議会の決定を経て、市議会で可決された。引上げによる月額新報酬は議長10万5,000円、副議長9万5,000円、議員8万5,000円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月30日 政治・経済 市議会は「青少年を守り非行化を防止する決議」を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月30日 政治・経済 油谷外郷市議会副議長が辞任、新副議長に池田外作(自民)が選出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月30日 政治・経済 (吉田県議会副議長が辞任、新副議長に金沢市選出今井源三が選出された。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月1日 政治・経済 市は金沢市中央卸売市場運営審議会委員14人を委嘱、初の審議会を開いた。審議会委員は学識経験者代表2人、生産者代表4人、販売者代表2人、消費者代表2人、県、市代表者各2人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月1日 政治・経済 (中部圏開発整備法施行。総理府に中部圏開発整備本部も発足、本部長官は瀬戸山建設相。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月10日 政治・経済 金沢市中央卸売市場の完成式が、坂田農相はじめ約500人が参列して挙行された。中央卸売市場としては全国24番目。総工費9億8,233万円、38年10月着工、敷地7万5,250平方メートル、1,000台収容の駐車場もある。入場会社は青果部門が8社統合による丸果石川中央青果会社、水産部門が10社統合による丸魚石川中央魚市会社。仲買人は水産が29社、青果が32社。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月11日 政治・経済 普正寺町の犀川橋が完成した。長さ94メートル、幅7メートルの鉄筋コンクリート永久橋で工費約5,900万円。旧橋は昭和9年の架橋で、重量車両の通行が危険になっていた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月14日 政治・経済 県土木部は、3年計画の交通安全施設整備事業の初年度分として建設省から9,090万円を認証されたので、県下の施工個所を決定した。金沢市内では出羽町、百間堀、十一屋町、御影橋(橋下の横断歩道)などの歩道新設と横断歩道橋1ヵ所。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月15日 政治・経済 藩政時代からの歴史をもつ近江町(魚)住吉(青果)両卸売市場が、金沢市中央卸売市場の18日開場を前に閉業した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月16日 政治・経済 市は金沢市中央卸売市場の買出し人(小売商と大口消費者)の売買参加権について小売商の希望をいれ、青果水産とも市内で営業している小売商全員と、市外で営業しているもので取引き量の多い業者あわせて770人の売買参加を許可した。許可期限は11月末(その後、明42年3月末まで延長)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月18日 政治・経済 金沢市中央卸売市場が開場した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月21日 政治・経済 自民党金沢支部は定期大会を開き、新支部長に清谷博文、幹事長に田中富士夫(再)を選出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月25日 政治・経済 政府は北陸自動車道など5縦貫自動車道の整備計画を、国土開発縦貫自動車道建設審議会の答申を得て正式決定し、建設大臣から日本道路公団に工事の施工命令が出された。この整備計画に盛りこまれた北陸自動車道の策定区間は、富山ー武生間150キロ、事業費598億円で、金沢市内のインターチェンジは2ヵ所。さしあたり2車線の完成で使用開始し、交通量の増加に応じ残りの2車線を完成する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月25日 政治・経済 金沢南郵便局が泉野町6丁目に完成、開業した。金沢野町郵便局が新築移転して局名を改めたもの。鉄筋2階建、延べ2,322平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月1日 政治・経済 北陸自動車道の早期完成をめざして、石川県北陸自動車道建設促進協力会の設立総会が県庁で開かれ、同自動車道が通過する金沢市はじめ3市5町に協力会支部(支部長は市町長)を設けて、用地買収に全力をあげることを申合せた。協力会会長は中西知事。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月4日 政治・経済 市は金沢市中央卸売市場運営審議会幹事28人を委嘱した。同市場運営審議会の補佐機関として、市場正常化のため実際に監視、調査などにあたるもの。幹事は生産者から8人、販売者から8人、県から4人、市から5人、消費者団体から3人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月6日 政治・経済 市が本年度から着手する武蔵ヶ辻の市街地改造事業の工事区域が決定、現況調査が開始された。同事業は5ヵ年計画、工費17億円、1万2,000平方メートルに地下1階地上4階のビル街をつくるもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月8日 政治・経済 総理府公正取引委員会は、金沢市中央卸売市場の水産部門荷受け会社の石川中央魚市会社に対し、荷受け会社の1社制は独占禁止法違反の疑いがあるとして審判開始を決定、通告した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月9日 政治・経済 北陸電力の電気料金値上げが実施された。値上げ率は電灯平均5.77%、電力平均6.6%。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月12日 政治・経済 自民党選挙対策委員会は明年1月の石川県知事選挙に、中西陽一現知事の公認を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月15日 政治・経済 徳田市長は柴野北鉄社長を招き、市内電車の廃止について条件、要望をそれぞれ6項目付して廃止を承認するむねを正式に伝えた。条件は(1)7月15日現在市電定期券利用の通学通勤者のバス定期券は、1年目は現在の電車運賃を据置き、2年目は現行バス運賃(20円)を基礎として現行電車割引率を適用すること (2)廃止認可の日から2年以内に軌道を完全撤去し、道路を舗装すること (3)代替バスの始発終発を繰上げ繰下げて営業時間を延長すること (4)代替バスの運行計画台数48両を60両以上にふやすこと (5)代替バスの運行区間を延長すること (6)市内バス営業で市民の利害に大きな影響ある変更については、あらかじめ市にはかること。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月20日 政治・経済 総理府公正取引委員会は、金沢市中央卸売市場青果部門荷受け機関(1社制)丸果石川中央青果会社の独占禁止法違反容疑事件の第1回審判を東京で開いた。被審人・丸果石川中央青果側の法廷代理人は、松井順孝弁護士(金沢)ほか東京弁護士会の3弁護士。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月26日 政治・経済 金沢港建設工事の資材運搬のため、大野町大野川の大野港橋すぐ下流に、運輸省第1港湾建設局が建設中の「みなと橋」が完成、渡橋式をおこなった。荷重20トンに耐える県下では第1級の永久橋で、幅は5.5メートル。総工費2,500万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月26日 政治・経済 市選挙管理委員会が初めて作成した永久選挙人名簿が完成、本日から9月9日まで、市役所窓口センター1階で市民の閲覧に供した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月31日 政治・経済 県警察本部調べによると、8月末現在の金沢市内の自動車数(小型車以上)は3万4,607台で、2.3世帯に1台の割合である。39年末にくらべ約40%の増。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月 政治・経済 犀川御影橋(二万堂線)下の横断歩道が完成した。犀川の低水位護岸を利用して県が長さ68メートル、幅1.5メートルの道路をつくったもの、工費104万円。国の「交通安全施設等整備事業に関する緊急措置法」にそって、県が本年から施工する安全施設設置事業のトップを切って完成したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月1日 政治・経済 浅野川以北地区と金石街道以南北陸線以西地区の馬場、森山、浅野町校下の大部分と長田町校下の半分、材木町、戸板、小坂校下の一部の住居表示改正が実施され、114町が24町に整理統合された。市の住居表示改正はこれが5回目。新町名は東山1-3丁目、山の上町、春日町、大樋町、鳴和1、2丁目、神宮寺1、2丁目、小金町、元町1丁目、森山1、2丁目、小橋町、昌永町、浅野本町1、2丁目、京町、大和町、元菊町、中橋町、長田1、2丁目。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月1日 政治・経済 金沢市開発公社(社団法人)が知事から設立認可され発足した。遅れている金沢市の都市開発を促進するため、用地取得や造成を先行投資で行なおうというもので、出資金は市と県信用農協連が各1,000万円ずつ出資の2,000万円。理事長徳田市長、専務理事江川助役、理事10人(うち市議会代表3人、市の部室長3人)。41年度は2億円で、都市計画街路三口新線と賢坂辻線および下水道終末処理場の用地を先行買収する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月5日 政治・経済 県道野町ー菊水線の堂地内にかかる堂大橋(内川)の架けかえが完工、渡橋式がおこなわれた。架橋個所は旧大橋の200メートル下流、鉄筋コンクリートの永久橋で長さ30メートル、幅4メートル、総工費約900万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月8日 政治・経済 国有財産北陸地方審議会は、石引町の元北陸財務局および元金沢国税局(旧陸軍偕行社)跡9,286平方メートルを1億8,000万円で石川県へ売渡すことと、仙石町の元金沢大学理学部跡のうち、約半分にあたる3万2,267平方メートル(中央公園計画地)を無償で石川県へ貸付けることをきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月13日 政治・経済 政府は中部圏開発整備審議会委員33人を任命した。石川県関係は中西知事と西川金沢商工会議所会頭。会長は徳川宗敬。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月16日 政治・経済 「6月の市議会で可決し7月から実施された金沢市議会正副議長、議員の報酬引上げ(一律2万円)を元通りの金額に引下げよ」との地方自治法第74条にもとづく直接請求運動を開始するため、弁護士豊田誠ら3人が、徳田市長に対して条例(金沢市非常勤職員の報酬および費用弁償に関する条例)改正の請求代表者証明書の交付を申請した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月16日 政治・経済 (北陸線手取川鉄橋下り新線が開通した。明治35年から64年間使用した旧鉄橋は、42年度中に撤去される。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月20日 政治・経済 16日に豊田誠ら3人から市長に申請した金沢市議会正副議長、議員の報酬引上げ反対(市条例の改正)の直接請求運動代表者証明書が市長から交付、告示され、同運動実行委員会(委員長豊田誠)による署名運動が即日開始された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月27日 政治・経済 出羽町に完成した北陸電気通信局の新庁舎「北陸電電ビル」の落成式がおこなわれた。39年12月に着工、地下2階、地上6階、延べ1万5,283平方メートル、総工費約7億円。北陸電気通信局のほか、現場機関の石川電気通信部、金沢搬送通信部、金沢無線通信部がはいる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月27日 政治・経済 金沢市開発公社の理事会は、都市計画街路事業の賢坂辻線7ヵ所511平方メートル、三口新線4ヵ所1,047平方メートル、入江ー野田町2ヵ所512平方メートルの用地の先行買収を決定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月29日 政治・経済 (北陸本線の石川県内の全線複線化が完成、最後の作見ー動橋間が開通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月29日 政治・経済 昭和33年7月市内野田町町民から金沢市を相手取り提訴した「野田山墓地所有権と入会権確認請求事件」は、その後双方和解に歩み寄りの気運が出たので、第1回調停が金沢地方裁判所で開かれ、牧野裁判長から和解勧告が出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月30日 政治・経済 (県議会議長浅田勝二が辞任し、後任議長に西川喜作が選出させた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月30日 政治・経済 国勢調査による人口増加にともない、金沢市の県議会議員の定数を14人から15人に改める条例改正が、県議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月30日 政治・経済 市議会は国鉄金八線(金沢─富山県福光町─同八尾町)敷設促進決議案を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月3日 政治・経済 金沢市東京事務所が東京都千代田区商工会館から千代田区平河町2丁目全国都市会館305号室に移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月5日 政治・経済 市の貨物駅新設要望に対して、山口金鉄局長はさきに4条件を市に提示してきたが、市は本日、4件中3件は国鉄の要望通り受け入れると文書で回答した。受け入れの意思表示をしたのは(1)利用債19億円の地元引受け(2)貨物駅用地の立替え買収(3)貨物駅に併設する石油配分基地利用に協力─の3件。回答留保の1件は「西口駅舎建設費の全額地元負担」。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月11日 政治・経済 (石川県の県産米政府売渡し量は、時期別格差第2期末の本日で15万1,697トン=101万1,317石=に達し、県の供米史上はじめて100万石を突破した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月21日 政治・経済 日本道路公団は、日本道路公団高速道路金沢建設所を金沢ビル内に開設した。公団本社直属の機関で、その下に富山、金沢、福井の3工事事務所が設けられる。また現在の公団名古屋支社金沢高速道路調査事務所は廃止し、関係業務は新設の金沢建設所と3工事事務所へ引きつがれる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月25日 政治・経済 石川都市計画地方審議会は(イ)金沢市武蔵ヶ辻第1地区市街地改造事業 (ロ)若宮ー涌波線(片町1丁目ー菊川2丁目間1,206メートル)の道路建設事業 (ハ)外濠公園と中央公園の区域変更など10件を原案通り承認した。(イ)は電車通り横安江町入口から交差点までの95メートルを6.5メートル広くし、歩道を新設して地下1階地上4階のビルを建てる近代化計画。事業は41年度6%、42年度73%、43年度21%の配分。また(ロ)は今年度から5年間に幅20メートルの道路を建設するもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月25日 政治・経済 金沢市議会議員報酬の元通り引下げ要求署名運動の実行委員会代表弁護士豊田誠らは、署名簿を市選挙管理委員会に提出した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月25日 政治・経済 石川郡野々市町から上水道の分水要請を受けていた金沢市は、市議会経済常任委員会にはかった結果、これを原則的に了承することにした。飲料水不足に悩む野々市町は6,000人分1日最高2,310トンの分水を申入れていたもので、市は分水するだけの余裕があるかどうかを検討した結果、分水に応じることになったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月25日 政治・経済 北陸鉄道会社は9月期の決算で、8年ぶりに黒字(5,770万円)を出した。ただし累積赤字は6億6,790万円。 0
    昭和四十一年(1966) 10月27日 政治・経済 国の重要港湾として昭和39年度に着工した金沢港の起工式が、大野川河口の現場と金石小学校で盛大に挙行された。同工事は昭和50年完成を目標に総事業費241億5,360万円(うち直轄事業99億2,260万円)、着工以来現在までに11億8,000万円を投じ西防波堤555.1メートルと船だまり防波堤210メートルが完成、明年度から本格的な掘り込み工事をはじめ、昭和45年には5,000トン級2隻の同時係留が可能になる。必要用地の買収進行率は現在83%。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月31日 政治・経済 (能登半島北端の折戸ー高屋間4.5キロの道路が完成、これで能登半島一周のラケット道路が全通した。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月1日 政治・経済 3月から彦三町1丁目北陸農政局跡に建築中の金沢税務署庁舎が完成、大手町の旧庁舎から移転した。敷地3,816平方メートル、本館は鉄筋3階建、延べ2,008平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月2日 政治・経済 中部圏開発整備法に基づく中部圏開発地方協議会が発足した(事務局は愛知県庁)。協議会委員は中部9県の知事、県議会議長と市町村長、議会代表および学識経験者10人の計34人。学識経験者には石川県から北陸経済会常任理事八田恒平が就任。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月7日 政治・経済 百間堀の広坂寄りから石川門下まで200メートルの兼六園側と、石引3丁目国立金沢病院前の80メートルにアスファルト舗装の歩道(幅1.5メートル)が完成した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月9日 政治・経済 県は本年度を初年度に毎年1万本植樹運動を実施することになり、金沢市に対する苗木贈呈を兼ねた植樹式を、上荒屋団地広場でおこなった。式場で中西知事から徳田市長に桜、プラタナスなどの苗木530本の目録が贈られた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月12日 政治・経済 市営住宅102戸の入居申込み者627人に対する抽選がおこなわれた。102戸の内訳は額団地64戸、松寺団地34戸、上荒屋団地4戸。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月15日 政治・経済 市選挙管理委員会はさきに豊田誠らから提出された市議会議員報酬引下げ要求の署名簿の審査を終了し、署名数3万2,526人、うち有効2万7,278人と告示した。(直接請求に必要な署名数は有権者数の50分の1で4,380人) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月18日 政治・経済 金沢港建設用地のうち最後まで難航した金沢市五郎島地区(71戸)の買収交渉が、ようやく妥結した。同地区の買収用地は37万3,200平方メートル、買収価格は坪あたり畑地4,108円、田地3,145円で、代替地として買収面積の72%を粟崎、直江両地区で提供する。五郎島地区の買収決定で金沢港建設用地は97.5%の買収が確定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月19日 政治・経済 昨年12月市が着工した犀川の下菊橋の架けかえが完成、渡橋式がおこなわれた。5本のコンクリート橋台に鋼板げた、長さ149.1メートル、幅15.5メートルで両側に歩道づき。市内で一番長い橋で、橋げたも20トンの荷重に耐えられる。総工費約1億100万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月22日 政治・経済 石川県内の本年度米政府売渡し量が100万石を突破したのを記念する「41年産米百万石売渡し達成記念大会」が、金沢市観光会館で開催された。県産米の売渡し高は11月10日現在15万9,443トン(106万2,900石)となっている。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月24日 政治・経済 市選挙管理委員会は、市議会議員報酬引下げ要求の署名簿の効力について、規定の縦覧期間内(11月15日―21日)に異議申出がなかったので、有効署名数は2万7,278人に確定のむね告示した。代表豊田誠らは徳田市長に会見、署名簿と直接請求書を正式に提出した。市は地方自治法の規定に従い、20日以内に市議会を開き審議する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月25日 政治・経済 昭和33年7月、野田町町民が金沢市を相手取り提訴した「野田山墓地所有権と入会権確認請求事件」は、金沢地方裁判所牧野裁判長の3回目の調停で和解に達し、8年4ヵ月ぶりにで解決した。和解の条項は(1)野田山墓地の土地は市の所有と認める(2)市は紛争解決金180万円を住民に支払う(3)市は住民に落ち葉、下草、果実、キノコ等の採取と枯損木伐採を認める。ただし枯損木伐採は公共のものに使用することを条件とし、市側の立会いのもとで伐採する。(4)市は住民が墓石所有者との契約にもとづいて、市の条例の許す範囲で墓所の清掃、管理を代行することに異議を述べない(5)市は墓地にさくを設け、住民はこのさく以外のところからはいることはできない(6)市が将来野田山に墓地公園や公共施設をつくり、そのため入会権の収益が減っても住民は一切補償などの要求はしない。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月25日 政治・経済 (北陸自動車道センターラインのクイ打ち式が能美郡根上町でおこなわれた。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月1日 政治・経済 丸の内の旧金沢地方裁判所跡に建設中の名古屋高等裁判所金沢支部、金沢地方裁判所、金沢簡易裁判所の合同庁舎が完成、落成式が挙行された。鉄筋一部3階建、延べ5,775平方メートル、敷地1万5,700メートル、総工費2億7,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月1日 政治・経済 中部山岳地帯を越えて金沢―名古屋間を結ぶ国鉄、名鉄両バス路線名金線(266.4キロ、所要時間9時間半)が運行を開始した。同路線は、これまで金沢駅前から福光、城端両町経由で岐阜県美濃白鳥まで運行していた国鉄バスを名古屋まで延長する一方、名古屋から郡上八幡経由で美濃白鳥まで運行していた名鉄バスを、金沢まで直通させるという相互乗入れで実現したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月6日 政治・経済 県選挙管理委員会は明春の知事選挙と金沢市長選挙を1月29日に同時に行なうことを決めた。告示は知事選挙は1月4日、金沢市長選挙は1月19日。現職者の任期満了は知事が2月19日、金沢市長が2月9日。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月8日 政治・経済 卯辰山記念道路舗装完成式が挙行された。舗装工事は昭和36年着工、39年に天神橋―頂上間が完成、引続き同年から頂上―小坂神社を経て国道8号線までの舗装を進め、さる11月最終工区の山の上町5丁目―頂上間を完成したもの。延長3,347メートル、総工費4,650万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月9日 政治・経済 県公安委員は明年1月1日から、金沢市内における「自動車の保存場所の確保に関する法律」の適用区域を拡大することを決定した。現在の適用区域は浅野川大橋―中島大橋―桜橋―御影大橋を結ぶ約3.07平方キロであるが、これに小立野、笠舞、寺町、二万堂、円光寺、馬場、森山、材木、味噌蔵、金沢駅裏などの各地区を加え、約11倍の34.01平方キロに拡大するもの。区域内では車庫の確保が義務付けられ、青空駐車が禁止される。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月9日 政治・経済 自動車の激増による都市機能まひなどの問題を総合的に研究する都市交通問題協議会が石川県、金沢市、金沢商工会議所の3者により結成された。会長西川商工会議所会頭、委員加藤義一郎(委員長)ら13人、専門調査委員金沢大学教授9人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月10日 政治・経済 額団地に額新保町郵便局が開設された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月13日 政治・経済 市は、金沢市議会議員報酬引下げ直接請求実行委員会の請求により「金沢市非常勤職員の報酬および費用弁償に関する条例の一部改正案」を市議会に提出、市議会は本議会で採決の結果、反対37(自民、社会、公明)賛成2(共産)でこれを否決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月13日 政治・経済 浅野川の洪水調節のため県が施行したショートカット工事の新水路が完成、通水式がおこなわれた。新水路は河口から約2,000メートルの地点で、長さ550メートル、幅74メートル、河北潟へ放流する。これにより加賀爪町付近での洪水位は約50センチ低下する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月15日 政治・経済 市ガス水道局がガス需要の増大に備えるため、玉鉾工場に建設中のナフサ方式のガス製造プラントが完成、運転を開始した。同プラントの1日のガス製造能力は4万立方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月17日 政治・経済 公営企業法の改正にともない、市は1月1日からガス水道局を企業局と改称、ガス、水道事業のほか電気事業(上寺津発電所)を含めた金沢市の公営事業を総括する部局とし、特別職の管理者を置くことに決定し、関係条例が市議会で可決された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月17日 政治・経済 市教育委員寺田巽が任期満了、後任に北陸学院院長番匠鉄雄の任命が市議会で承認された。(20日就任) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月17日 政治・経済 市は中村町交差点に横断地下道を建設することになり、予算1,100万円を市議会に提出、議決を得た。(42年4月5日完成開通) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月17日 政治・経済 市議会は、たばこ値上げ反対に関する意見書を可決した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月18日 政治・経済 金沢果樹振興協会の設立総会が開かれた。市内のリンゴ、ブドウ、ナシの3果樹生産者が、果樹栽培の振興発展と市場出荷価格安定をはかるため結成したもの。会長酒尾孝之。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月19日 政治・経済 北陸鉄道金沢市内電車線の廃止が運輸、建設両大臣から許可された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月20日 政治・経済 市内浅野町小学校前の東大通りに建設中の学童用の横断陸橋が完成した。高さ4.8メートル、長さ16メートル、幅1.5メートルで工費366万円。市内では二つ目の横断陸橋である。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月20日 政治・経済 市教育委員会は、新委員長に番匠鉄雄委員を選任した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月25日 政治・経済 北鉄金沢市内電車線全面廃止の第一段階として、橋場町ー鳴和町間(約2キロ)が本日限りで廃止された。26日から代行バス循環寺町線が運行を始める。(残りの全線約10キロは42年2月10日限りで廃止された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月25日 政治・経済 金沢市消防本部、広坂消防署の合同庁舎が県庁裏(広坂2丁目1番5号)に完工、落成式が挙行された。地上4階地下1階、延べ約2,430.5平方メートル、工費9,800万円。1階消防車格納庫の収容能力は12台。金沢市連合消防団本部も新庁舎に移転した。(百間堀の旧庁舎は昭和8年12月から33年間使用された) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月26日 政治・経済 日本道路公団金沢建設所は県議会総合開発特別委員会で、北陸自動車道の金沢市内の通過コースと金沢東、西両インターチェンジの位置を発表した。通過コースは、金沢市千木・横枕両町地区から宮保町ー田中町ー松寺・磯部両町ー諸江町ー藤江町ー桜田町ー示野中町ー古府町ー松島町ー神野・矢木両町地区に至る全長約9.2キロで、金沢バイパスとコース併用(幅65メートルで、中央部25メートルが北陸自動車道、左右各12.5メートルがバイパス)。また金沢東インターチェンジは千木・横枕地区に、金沢西インターチェンジは神野・矢木地区に設置する。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月28日 政治・経済 1月1日から新発足する金沢市企業局の初代管理者に、市ガス水道局長葛城勝男が任命された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12.- 政治・経済 昭和41年中における石川県内の交通事故による死者は129人で、昨年より32人減、前年比減少率は19.9%で、全国都道府県中第1位の減少率となった。 0
    昭和四十一年(1966) 1月1日 社会・文化 午後7時50分ごろ米泉町の民家から出火、1戸を全焼、隣家の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月13日 社会・文化 39年7月の集中豪雨で倒壊した竹又小学校(児童71人)の新校舎が完成、4キロも離れた三谷小学校へ通学していた全校生徒が新校舎へ引越した。校舎は木造2階建、建て面積700平方メートル、総工費2,250万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月14日 社会・文化 新学年から金沢大学薬学部に製薬化学科(40人)、教育学部にろう学校教員養成課程(15人)の新設が決定した。また医学部に脳神経外科講座が設けられる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月19日 社会・文化 午後2時50分ごろ下小川町の木箱製造作業場から出火、同作業場と住宅の一部を全焼、隣家の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月20日 社会・文化 19日夜来のふぶきで市内電車はレール凍結のため全面運休した。市内の積雪は約20センチ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月21日 社会・文化 金沢市の南の玄関口、西泉町の市道二万堂線に市営としては初の水洗式公衆便所ができた。主として観光バスの乗客用で工費115万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月22日 社会・文化 市内電車は3日ぶりに一部運行をはじめた。市内の積雪量は40センチ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月22日 社会・文化 市は午前8時半、除雪対策本部を設置、深夜までアングルドーザー2台、ショベルドーザー1台、グレーダー2台などの除雪車を出動させ、主要9路線や駅前広場などを除雪した。(県も同朝、除雪対策本部を設置) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 1月24日 社会・文化 金沢美術工芸大学創立20周年記念事業の一つとして建設する同大学図書館と実験研究とうの起工式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月1日 社会・文化 午前8時40分ごろ粟崎町の撚糸工場から出火、ボイラー室など約130平方メートルを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月3日 社会・文化 午後9時35分ごろ進和町能登内燃機関製作所の従業員寄宿舎付近から出火、鉄骨スレートぶきの1むねにある寄宿舎、工場、社長宅など416平方メートルを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月21日 社会・文化 森田亀之助死去。83歳。前金沢美術工芸大学学長、昭和21年金沢美専校長に就任以来、金沢美術工芸短大、金沢美術工芸大学の学長として17年余在任して39年3月退任、ひきつづき金沢に住んでいた。美術評論家としても知られ、石川県の美術工芸界の向上に尽した。昭和35年金沢市文化賞を受賞。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月22日 社会・文化 午前7時45分ごろ小立野3丁目の宮村アパートから出火、木造モルタル塗りの2階3室を全焼、4世帯が焼け出された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月27日 社会・文化 午前2時40分ごろ泉本町の菓子卸問屋第一商事の倉庫から出火、鉄筋2階建の2階約120平方メートルを焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 2月27日 社会・文化 石川県春闘共闘会議主催の物価メーデー・「物価値上げ反対、生活危機突破大会」の県中央大会が、兼六園広場で労組員や家族約5,000人(主催者調べ)参加して開かれ、大会後市中をデモ行進した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月6日 社会・文化 午後3時40分ごろ小立野4丁目の民家から出火、1戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月16日 社会・文化 午後5時50分ごろ木綿町の民家納屋から出火、同納屋と住宅2戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月24日 社会・文化 北陸学院は同学院の短期大学を、徳田市長のあっせんで金沢市郊外三子牛山の6万6,000平方メートルに移転することになった。広坂2丁目の現校舎は売却して建築資金の一部にあてる予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月25日 社会・文化 県警察本部は金沢市の小立野、長町、此花3校下と金石地区を少年非行化防止モデル地区(県下で合計19地区)に指定、また毎月10日、20日を「こどもを守る日」にきめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月26日 社会・文化 文化財保護委員会は、金沢市大乗寺にある「羅漢供養講式稿本断簡・道元筆一巻」を重要文化財に指定した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月29日 社会・文化 北陸鉄道労組は最低賃金制確立要求全国統一行動の統一実力行使で、始発から午前6時半まで全線の時限ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 3月31日 社会・文化 午後5時10分ごろ長土塀3丁目の福居自動車整備工場から出火、木造2階建の同工場(約70平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月1日 社会・文化 県立金沢女子高校が泉野町1丁目の市工跡を校舎として創設された。同校は県立中央高校(二水高校内)昼間部の家政科から分離、独立したもの。なお県下の県立高校数は4月からの全日制2校、定時制1校の新設により、全日制は34校と2分校、独立定時制は4校となった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月1日 社会・文化 市は市立保育所の管理強化のため、15の市立保育所のうち児童数の多い双葉、金石、森山の3保育所に専任所長を置いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月1日 社会・文化 河北郡津幡町に建設中の国立石川工業高等専門学校の第1期工事の新校舎が完成、市内泉野町の仮校舎から移転した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月5日 社会・文化 市が、急増する郊外の児童対策に新築した新保本町の市立西南部中学校の新校舎第1期工事が完成、統合した押野、安原、額の3中学校からの引越しが終り、入学式がおこなわれた。新校舎は鉄筋4階建、普通教室12、特別教室5、管理室11など。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月11日 社会・文化 身体障害児の教育訓練施設として、石川郡野々市町大平寺に県が建設中の県立養護学校(昨年4月石川整肢学園を仮校舎に開校)の第2期工事が完成、入校式がおこなわれた。敷地1万3,000平方メートル、新校舎は鉄筋2階建、延べ4,500平方メートルで総工費1億5,000万円。定員は小中学各学年20人合計180人。(全施設完成の完成式は11月2日挙行) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月19日 社会・文化 前川吉栄死去。64歳。元県議、金沢市議、昭和17年6月から22年2月まで市会議長、また金沢市弁護士会長、日ソ協会県支部長もつとめた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月19日 社会・文化 瀬川英助死去。54歳。金沢市選出県議会議員(社会党)、自治労県本部委員長、昨年県議補欠選挙で初当選。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月20日 社会・文化 午後7時50分ごろ長田町の民家から出火、1戸を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月21日 社会・文化 午後10時40分ごろ芳斎1丁目の工場住宅密集地区から出火、金沢車輛工業の木造工場と倉庫、吉田木造、本保わら工店、泉シャットルの各木造倉庫等5むねを全焼、住家等4むねを半焼した(焼失面積約1,000平方メートル)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月23日 社会・文化 午後3時20分ごろ木揚場の釜石鉄工所鋳物工場から出火、木造2階建の工場を半焼(約100平方メートル)した。近くに市のガスタンクがあるので付近民は一時は肝をひやした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月26日 社会・文化 公労協の全国統一スト。金沢では全逓労組の金沢郵便局だけが実施、午前9時半まで業務放棄をした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月26日 社会・文化 アメリカ・バッファロー市から、姉妹都市提携記念の野牛ブロンズ像が金沢市へ送られてきたので、市は観光会館前に据えつけて除幕式をおこなった。この像は、昨年金沢市がバ市に贈った兼六園ことじ灯ろう模造品の返礼にバ市民が募金して作ったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 4月30日 社会・文化 春闘の私鉄総連ストで、北陸鉄道労組は始発から午後1時半まで全線ストを実施した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月1日 社会・文化 金沢地区のメーデーは快晴下に約4万6,000人(メーデー実行委調べ)が参加して挙行され、記念駅伝競走や各種コンクール等もにぎやかにおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月1日 社会・文化 本多町3丁目に完成した石川県社会教育会館が開館した。同会館には社会教育センターと県立図書館がはいった。地下1階、地上4階、延べ6,382平方メートル、総工費3億円。(兼六園内の旧県立図書館は6月中に取りこわす) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月3日 社会・文化 北陸鉄道労組は始発から全線第2波24時間ストにはいったが、午前11時妥結、ストを中止した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月5日 社会・文化 中村栄俊所蔵の古美術コレクションを公開するための財団法人・中村記念館(理事長徳田与吉郎)が本多公園に完成、開館した。本館(約241平方メートル)は元車町の旧中村邸を移築したヒノキづくり2階建で、財団への中村の寄付金2,000万円で建設したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月6日 社会・文化 午前0時13分ごろ金沢市を中心に震度2(軽震)の地震があった。震源地は市の南東約20キロの医王山付近。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月9日 社会・文化 午後0時25分ごろ橋場町5番の民家物置小屋付近から出火、2階建の同小屋などを全焼、隣接商店2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月11日 社会・文化 北陸地方の私鉄、バス労働者の福祉センター「北陸会館」(経営者財団法人北陸私鉄バス労働会館)が兼六元町の北鉄車庫前に完成した。鉄筋6階建、延べ1,200平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月12日 社会・文化 午後5時40分ごろ山の上町5丁目の運送店従業員宿舎から出火、2階建宿舎と車庫2むねを全焼、店主の住宅を半焼した。重軽傷3人。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月22日 社会・文化 犀川ダムのダムサイトに、犀川総合開発事業で殉職した作業員12人の慰霊碑がたてられ、除幕式がおこなわれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 5月31日 社会・文化 午前1時40分ごろ北安江町の印刷工場付近から出火、同工場138平方メートルと隣接の塗装店を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月5日 社会・文化 市立芳斎児童館兼公民館が完成、開館式をあげた。鉄筋2階建、延べ478平方メートル、総工費1,400万円。市内では長町児童館についで2番目の児童館。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月16日 社会・文化 富樫小学校の新校舎起工式がおこなわれた。5ヵ年計画総工費1億5,000万円、4階建、延べ5,224平方メートル、うち第1期工事は1,280平方メートル(普通教室10、特別教室1、管理室1)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 6月27日 社会・文化 市は末町のゴミ埋め立て場(37年11月使用開始)がいっぱいになったので、新しく浅野川田上橋の上流4キロの谷間(6万6,000平方メートル)を借りあげて、田上町ゴミ埋め立て場を開設した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月1日 社会・文化 石川県遺族会館が石川護国神社境内に完成した。鉄筋2階建、約100人の宿泊施設がある。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月6日 社会・文化 金沢市衛生公社のくみとり料値上げ問題を審議中の市し尿処理審議委員会は、現行料金の24%値上げ(180リットルあたり198円)を決定した。(20日から実施した) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月12日 社会・文化 鈴木大拙(本名貞太郎)死去。95歳。金沢市本多町で本多家侍医の4男として生れた。世界的仏教哲学者、著書に代表的労作を集大成した「鈴木大拙選集」26巻のほか英文著書20数冊がある。文学博士、日本学士院会員、文化勲章受章者。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月12日 社会・文化 (奥能登地方に水害。雨量は輪島200ミリ、穴水217ミリ。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月17日 社会・文化 音楽愛好の市民がつくった金沢市民オーケストラの結成式が県婦人会館で開かれた。楽団員約60人、理事長鞍信一、楽団長浅地修、指揮者上野禎洋。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月26日 社会・文化 午前3時50分ごろ昭和町(金沢駅貨物ホーム隣接)の北陸冷蔵会社工場の機械室から出火、むね続き木造の同室、製氷室、貯氷室など440平方メートル半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月26日 社会・文化 八田健一死去。85歳。郷土史家、金沢市史編さん審議委員。著書に稿本金沢市史政治編や史話集「百万石遠鏡」「百万石紙芝居」等がある。昭和31年金沢市文化賞を受賞。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月29日 社会・文化 三馬小学校の新校舎起工式がおこなわれた。4ヵ年計画、総工費1億3,500万円、4階建、延べ5,105平方メートルで、うち本年度の1期工事は2,216万円、1,067平方メートル(普通教室8)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 7月31日 社会・文化 1,300年近い歴史を持つ寺中町の大野湊神社(もと県社)が、神社庁から「別表神社」に昇格されたので、昇格慶賀祭が知事、市長はじめ関係者約300人が参列、同神社で盛大に執行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月7日 社会・文化 明治、大正、昭和時代を通じて地方文化の発展に足跡を残した郷土の物故文人100余人をしのび、その霊を慰める第1回文人祭が、中央通り養智院でおこなわれた。主催者の郷土在住文化人約60人が参列した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月10日 社会・文化 金沢大学シベリア学術交流視察団(団長岩名義文工学部長ら7人)が金沢を出発した。学術関係者のみの訪ソ視察団は石川県としてはじめて。(9月2日帰沢) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月11日 社会・文化 (曄道文芸死去。81歳。能美郡川北村出身。法学博士、京都大学助教授を経て実業界に入り、戦前は愛国生命社長、東京貯蓄銀行副頭取などをし、現在、北国不動産社長、北国銀行取締役などをつとめ、戦後、県仏教会会長もした。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月13日 社会・文化 午後8時13分ごろ、金沢市を中心に震度2(軽震)の地震があった。震源地は市の南東約20キロ、医王山南の富山県境付近。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月15日 社会・文化 民間の手で県内に精薄者施設の建設をめざし資金活動を続けている財団法人・希望が丘建設を促進する会(理事長宮下与吉)は、施設の建設地を金沢市小池町地内通称トヤノ山の約13万2,000平方メートルに決定した。敷地は小池町から無償提供を受けるもので、43年度中に第1期工事を完成させる予定。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 8月17日 社会・文化 午後9時半ごろ金川町の農家から出火、1戸(150平方メートル)を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月2日 社会・文化 午後4時半ごろ西側町の飲食店物置から出火、同店を全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月5日 社会・文化 金沢美術工芸大学の図書館と実験研究とうの完成式がおこなわれた。工費4,200万円。図書館は鉄筋2階建、延べ807平方メートル、84人収容の閲覧室と2万5,000冊収蔵の書庫がある。実験研究とうは木造鉄骨2階建、延べ574平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月10日 社会・文化 石川県健民運動推進協議会の総合運動委員会は、石川県の木を「アテ」とすることを決定した。同協議会が県木の選定を県民投票で募ったところ、投票総数5,218票のうちアテが4,477票を占めた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月10日 社会・文化 石川県校長教頭組合の結成大会が開かれた。ILO87号条約発効によって、校長教頭などの管理職は県教組から脱退し13日までに登録しなければならないので、県教組が現在の組織を守るため校長教頭に呼びかけて、一般職員組合とは別に組合をつくったもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月13日 社会・文化 午後4時半ごろ東長江町の養鶏業者の飼料倉庫から出火、木造2階建の倉庫1むねを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月23日 社会・文化 42年秋の執行予定の卯辰山天満宮百年祭奉賛会が結成され、その奉告祭がおこなわれた。奉賛会は百年祭記念事業として社殿境内の修理整備、記念出版などを決定した。総裁前田利建、会長徳田与吉郎、理事長油谷大。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月23日 社会・文化 (野々市町末松廃寺の発掘クワ入れ式がおこなわれた。昭和12年以来30年ぶりの調査で、奈良国立文化財研究所技官の指導で石川考古学研究会員が発掘にあたる。調査団長鏑木勢岐。) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 9月27日 社会・文化 金沢市旅館協同組合は、組合創立100周年記念式を石浦町仙宝閣で挙行した。加州金沢旅人宿講結成から100周年を迎えたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月1日 社会・文化 石川県福祉総合相談所が発足した。同相談所は10月6日開館する県社会福祉会館に置き、従来の身体障害者更生相談所、中央児童相談所、精神薄弱者更正相談所、婦人相談所の4相談所を集中統合し、庶務、相談、保護、判定の4課制。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月6日 社会・文化 石川県社会福祉会館が本多町2丁目に完成、開館式をあげた。鉄筋地上4階、延べ3,269平方メートル。県と県社会福祉協議会が1億7,700万円かけて建設したもの。県福祉総合相談所のほか石川県と金沢市両社会福祉協議会、精神衛生センター、共同募金会、少年補導センターなどが入居、民官一体の社会福祉センターとなる。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月10日 社会・文化 午後4時55分ごろ尾山町の藤花高校体育館から出火、木造平屋建モルタル塗り約1,000平方メートルの同館を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月15日 社会・文化 市は働く青少年いこいの場として、本多町3丁目の中央公民館跡に勤労青少年ホームを建設することになり、起工式をあげた。来春完成予定で鉄筋地上3階建、延べ1,328平方メートル、工費4,955万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月19日 社会・文化 石川護国神社境内に慰霊平和祈念碑が完成、除幕式がおこなわれた。建設者は太平洋戦争戦没者慰霊平和祈念碑建設委員会。遺骨収集団に参加した遺族が大戦の激戦地から持ち帰った土や石を安置し、沖縄のトラバースチン石の台座に平和を祈る人のブロンズ像がすえられている。設計は野口嘉光。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月21日 社会・文化 総評はベトナム反戦、公務員給与の人事院勧告実施要求などで全国一斉の第3次統一行動を実施した。石川県では中心になる自治労の県職組、7市3町の市町村職組が30分の遅刻スト等をした(職場集会は金沢市職組だけ)。県教組は半日休暇を中止、公労協関係は時間外集会だけ。民間労組では北鉄が始発から午前5時半までの時限スト、全国金属石川地本約30組合が午後1時間ストをした。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月21日 社会・文化 小坂小学校の校舎落成式が挙行された。昭和34年着工したもので鉄筋4階建、3,954平方メートル、総工費9,800万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月22日 社会・文化 旧四高創立80周年記念同窓会全国大会が全国から卒業生約1,000人が参加して金沢大学体育館で開かれ、寮歌を高唱して香林坊付近を更新した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月29日 社会・文化 津田式動力絹布織機を発明した津田米次郎の芳斉1丁目の工場跡(現在住家)が市の史跡になり、標示板が立てられた。(市指定の史跡はこれで22ヵ所になった) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 10月31日 社会・文化 市議会議員三輪次作死去。61歳。自民党所属、昭和34年から市議2期、県理容環境衛生同業組合理事長。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月1日 社会・文化 金沢駅西の工場地帯広岡町に「石川青少年の家・長田ホーム」が開所した。木造2階建、380平方メートル、約2,248平方メートルの小運動場もある。さる4月、青少年の余暇利用の場として開所した石川県青少年の家丸の内ホームが、利用者が多くて狭くなったため増設したもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月2日 社会・文化 佐野巖死去。68歳。金沢出身で東京に居住、宝生会理事で宝生流シテ方として活躍、昭和40年無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定。佐野吉之助の3男。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月3日 社会・文化 第20回(昭和41年度)金沢市文化賞と第2回金沢市産業功労賞の贈呈式がおこなわれた。〔文化賞〕大場勝雄(漆芸家ー地元工芸界の発展につくし、現在は中尊寺金色堂保存修理の漆芸技術主任)柿下正道(金大名誉教授ー金沢市民の結核追放に長年つくした)後藤為次(野町公民館長ー市の社会教育功労者)〔産業功労賞〕山田藤太郎(石繊株式会社社長ー県内の繊維業振興と中小企業の指導育成につくした)。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月3日 社会・文化 「幕末から明治までの加賀洋学展」が、金沢市立図書館で本日から1週間にわたり開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月3日 社会・文化 午前9時半ごろ石引2丁目の民家から出火、1戸を全焼、2戸を半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月4日 社会・文化 北陸学院短期大学の新校舎起工式が、三小牛町の建設地でおこなわれた。北陸学院ではさらに高校、中学部、小学部、幼稚園も10年計画でここに集める。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月7日 社会・文化 金沢美術工芸大学創立20周年記念式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月8日 社会・文化 十一屋小学校創立90周年記念式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月13日 社会・文化 青少年育成石川県民会議の結成大会が、金沢市観光会館で開かれた。参加団体は青少年団体21、青少年育成団体50、同関係団体73、マスコミ関係団体12。会長中西知事、議長吉田他吉。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月16日 社会・文化 金沢大学医学部付属病院本館(中央、外来両診療舎)の新築が完工、完成式がおこなわれた。鉄筋地下1階地上3階、一部6階、延べ2万627平方メートル、総工費は約7億円(うち備品費約3億7,000万円)。また医学部第1期工事も完成した。地上6階6,887平方メートル。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月16日 社会・文化 味噌蔵町小学校創立60周年記念式が挙行された。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月19日 社会・文化 午後0時半ごろ藤江町の木工所から出火、作業場を全焼、隣接会社事務所の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月25日 社会・文化 青少年育成石川県民会議は、毎月第3日曜日を「家庭の日」ときめた。(12月18日の日曜日から実施) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 11月30日 社会・文化 市が施行したすみれ児童公園(小立野2丁目)と城北児童公園(山の上町5丁目)が完成した。市内の児童公園はこれで12ヵ所になった。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月13日 社会・文化 石川県機械工業専門学校(県立工業高校内に併設)の振興協議会は、41年度限りで同校を廃止することを決定した。同校は昭和36年、県下機械工業関係事業所に勤務する人たちの技術向上を目的に設置したもの(高校卒、1年間、夜間授業)であるが、入学者の減少と業界の情勢変化のため廃止にきめたもの。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月15日 社会・文化 金沢城内石川門横の金沢大学構内に、3月から施工中の同大学本部が完工、完成式がおこなわれた。鉄筋3階建、延べ3,310平方メートル、工費1億1,896万円。これで37年から着手した大学整備計画は法文学部、理学部、教養部、教育学部、図書館、学生会館と本部の完工で一応完了した。総事業費は14億7,000万円。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月17日 社会・文化 大学設置審議会と私立大学審議会は、金沢経済大学(設立申請者稲置星稜学園・稲置繁男理事長)の42年度開設の認可を文相に答申した。文相の正式認可は明年1月下旬の予定。同大学は経済学部経済学科(200人)だけの単科大学で、明春4月開校、校舎(4階建)は市内御所町に完成ずみ。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月18日 社会・文化 午前9時50分ごろ小坂町の北陸コニ-会社自動車整備工場から出火、2階建工場兼住宅約230平方メートルを全焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月20日 社会・文化 午後9時半ごろ諸江上丁の赤座繊維工業会社鉄工所付近から出火、同工場1むね(木造、82.5平方メートル)を全焼、隣接の研究室と資材倉庫各1むねを半焼した。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月26日 社会・文化 旧四高の赤レンガ校舎を、県立郷土資料館(仮称)とするための第1回設立準備委員会が開かれた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十一年(1966) 12月31日 社会・文化 午前0時45分ごろ十一屋町3番の天ぷら屋から出火、同店と隣接の食堂、タクシー会社の3戸約460平方メートルを全焼、1戸の一部を焼いた。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十二年(1967) 1月29日 政治・経済 衆議員議員総選挙がおこなわれ、即日開票の結果は次の通り。投票率81.47%。〔第1区〕 当選65,123票 坂田英一(自民前)同55,842票 井村重雄(自民前)同43,954票 桂木鉄夫(無新)次点41,136票 岡良一(社会前)37,375票 北井外治(社会新)25,427票 梨木作次郎(共産元)25,413票 竹山重勝(民社新)21,805票 佐竹弘造(無新) 〔第2区〕当選55,680票 坂本三十次(自民新)同52,242票 益谷秀次(自民前)同40,653票 稲村左近四郎(自民前)次点28,815票 浅井正弘(社会新)2,321票 梅田兵一(共産新)1,386票 酒井定治(無新) 全国党派別当選者は自民277,社会140,民社30,公明25,共産5,無所属9。 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十二年(1967) 1月29日 政治・経済 知事選挙がおこなわれ、即日開票の結果中西陽一が再選された。投票率81.41%。当選427,477票 中西陽一(自民前)次点48,821票 竹村香住(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編
    昭和四十二年(1967) 1月29日 政治・経済 金沢市長選挙がおこなわれ、即日開票の結果徳田与吉郎が再選された。投票率79.15%。当選134,901票 徳田与吉郎(自民前)次点24,912票 森昭(共産新) 金沢の百年 大正・昭和編